サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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ネフェリスの中枢部で、チャコが端末へ向かって指を走らせている頃。

 

 宇宙管理局本部の上層区画では、ペルシアが一人で早足に廊下を渡っていた。

 

 統括官室を出た時点で、彼女の頭の中ではすでに順番が組まれている。

 

 ファルコとクリスタル。

 これは通った。

 

 チャコ。

 これもルナの判断で動く方向へ傾いた。

 

 ネフェリス側の中枢見直し。

 これが始まった。

 

 ここまで来たなら、次に必要なのは“気持ちの強さ”ではない。

 局長側の整理。

 本部運用。

 オペレーションルーム。

 支援線の再配置。

 誰がどこまで見て、どこで止めるのか。

 

 東の未探索領域は、勢いだけで向かう場所じゃない。

 勢いで向かった船が、どこへ消えたかも分からないまま終わる場所だ。

 

「……ほんと、面倒」

 誰に聞かせるでもなく、ペルシアは小さく呟いた。

 

 でも、その口元にはほんの少しだけ熱があった。

 

 面倒だ。

 だからこそ、やる意味がある。

 

 中途半端な計画なら、最初から潰せばいい。

 でも今は違う。

 

 リュウジが“一人で飛べばいい”を捨てた。

 エリンが“全部駄目”だけでは切らなかった。

 ルナが、自分の地球活動の負荷を理解した上でチャコを送り出した。

 チャコも、ネフェリスを東仕様へ変える前提で動き始めた。

 

 そこまで来ているなら、今度は自分が統括官として形へ落とす番だ。

 

 ペルシアは端末を開き、短いメッセージを二件送る。

 

 フレイ。

 局長秘書ライン。

 

 ――五分後、局長の前空いてる?

 ――東の件。今なら説明が“夢物語”で終わらない段階まで来た。

 

 送信してすぐ、フレイから既読がつく。

 返答は三秒もかからなかった。

 

 ――十七分後なら局長の時間を取れます。資料化は?

 ――要点だけでも先にください。

 

「さすが」

 ペルシアは小さく鼻で笑う。

「仕事が早い」

 

 そう言いながら、歩きながら端末へ簡潔に打ち込む。

 

 東の未探索領域外縁調査案。

 単独調査案から修正。

 操縦:リュウジ。

 同乗支援:ペルシア。

 システムエンジニア:チャコ候補。

 外周護衛:ファルコ、クリスタル内諾。

 地球活動側はフォックス・スリッピー固定。

 ネフェリス中枢改修項目洗い出し中。

 本部運用再編が必要。

 

 送信。

 

 すぐに、フレイからもう一件。

 

 ――確認しました。

 ――“感情論ではなく、支援線を含めた再構成案”として整理しておきます。

 ――局長には私から先に枠だけ入れます。

 

「優秀」

 ペルシアは、今度は少しだけ本気で呟いた。

 

 こういう時、フレイは本当に頼れる。

 淡々としている。

 融通はそこまで利かない。

 でも、必要な時に必要な線を一番早く引くのはこの女だ。

 

 

 局長室前に着いた頃には、廊下の空気は少しだけ変わっていた。

 

 フレイが先に出てきて、いつもの無表情に近い顔で一礼する。

 

「時間、取れました」

 短く言う。

 

「ありがとう」

 ペルシアが言う。

 

「感謝は結構です」

 フレイは淡々と返した。

「ただし、局長は“形がない話”は嫌います。そこは分かっていますね」

 

「もちろん」

 ペルシアは即答した。

「今日の私は、そのために動いてるの」

 

「なら結構です」

 フレイは扉へ手を添えた。

「どうぞ」

 

 ペルシアは一度だけ呼吸を整えてから、中へ入った。

 

 局長室は、何度入っても静かだ。

 

 広すぎない。

 だが狭くもない。

 無駄に豪奢ではない。

 その代わり、置かれているもの全部に“判断する場所”としての緊張感がある。

 

 机の向こうで局長が顔を上げた。

 いつも通りの、どこか柔らかく、でも曖昧ではない目だった。

 

「来たか」

 局長が言う。

「フレイから、珍しく“今なら話せる段階まで来た”と聞いた。その言い方をするなら、少しは組めたんだろう」

 

 ペルシアは、その言葉に少しだけ口元を上げた。

 

「ええ。だから来た」

 

「座りなさい」

 局長が顎で椅子を示す。

 

 ペルシアは腰を下ろし、端末を机へ置いた。

 

「東の未探索領域の件」

 局長が先に言う。

「前に持ってきた時は、“本音は分かるが、そのままでは危なすぎる”という段階だった。今日は違うのか?」

 

「違うわ」

 ペルシアは即答した。

「まだ許可を出していい段階じゃない。でも、“無茶を言ってる人間が一人いるだけ”ではなくなった」

 

 局長は何も言わず、続きを待った。

 

「まず」

 ペルシアは言う。

「リュウジ自身が、“一人で行く話じゃ駄目だ”ってところまで来た。そこは大きい。それからエリン、まだ簡単に認める気はないけど、“条件を詰めるなら話は変わる”段階までは来てる」

 

 局長の眉が、ほんの少しだけ動いた。

 

「エリンがそこまで来たのか」

 

「ええ」

 ペルシアは頷く。

「ここが一番大きいかもしれない。だから、私は今“反対を押し切るため”じゃなく、“組めるかを見極めるため”に動いてる」

 

 局長は小さく息を吐いた。

 

「で、支援線は?」

 

 そこだ。

 ペルシアは少しだけ顎を上げる。

 

「外周護衛はファルコとクリスタルで内諾済み。アーウィン二機で行う予定。フォックスとスリッピーはルナちゃんの地球活動側に固定。ネフェリスのシステムエンジニアはチャコ候補。もう船側の見直しに入ってる」

 

「……チャコまで動かせたか」

 局長が低く言う。

 

「ルナちゃんが了承した」

 ペルシアは答える。

「地球側は今、地質調査中心。負担は増えるけど、今しか組めないなら東を優先するって判断」

 

 局長は、そこでほんの少しだけ目を閉じた。

 

 考えている。

 役割の重さを、一つずつ秤に乗せている。

 

「本部運用は?」

 やがて問う。

 

「そこが次」

 ペルシアは端末を開き、簡易な人員図を映した。

「本部に常駐で動かせるのは、今はフレイ、シャオメイ、ジェームズ、イーナ。マリとナミは今すぐ戻せない。ローズはソーラ・デッラ・ルーナから呼び戻す余地あり。だから、オペレーションルームは一時的に再編成する必要がある」

 

 局長は静かに聞いている。

 

「メイン監視線をフレイとジェームズで固める」

 ペルシアは続ける。

「イーナに補助系統と対外整理。シャオメイを通信補完。ローズが戻れれば、状況統合と記録整理を持たせる。私は現地同乗の可能性が高いから、本部側に“私の代わりに止められる人間”を置く必要がある」

 

 局長は、そこで少しだけ口元を動かした。

 

「お前、自分で“止められる人間”って言うようになったな」

 

「最近ね」

 ペルシアは肩をすくめる。

「周りがそういう話ばっかりするから」

 

「悪い傾向じゃない」

 局長は言う。

「で、引き返し条件は?」

 

「まだリュウジとエリンで擦り合わせ中」

 ペルシアは答えた。

「でも、そこを曖昧にしたまま出す気はない。東で怖いのは、“まだ行ける”の一歩先だもの」

 

「その通りだ」

 局長は頷く。

 

 数秒、室内に静かな沈黙が落ちる。

 

 局長の視線は端末の簡易図へ向いていた。

 支援線。

 人員再配置。

 ネフェリス改修。

 地球活動側の穴。

 そして現地同乗の意味。

 

 やがて局長は、低く言った。

 

「……前に言ったことを覚えているか」

 

「役員や宇宙連邦連盟に聞かれたら、無理にでも調査をしろと言いかねないって話?」

 ペルシアが返す。

 

「そうだ」

 局長は言う。

「東の未探索領域は、それだけ象徴性が強い。“誰も帰ってこない場所”であり、同時に“誰かが踏み込めば一気に周囲が騒ぐ場所”でもある。だから、半端な形で外へ漏れれば、計画の主導権を奪われる。そこは絶対に避けろ」

 

「分かってる」

 ペルシアは短く言う。

「だから今、まだごく少人数でしか組んでない。正式な言葉を使うのも、外に出すのも、全部もう少し後。今はまだ、“可能性が見え始めた”段階に留める」

 

「よろしい」

 局長は頷いた。

「なら、宇宙管理局としての基本線はこうだ」

 一拍置く。

「現段階では、計画の具体化を認める。ただし、出発許可ではない。ネフェリスの見直し、本部運用再編、地球活動側の再配置、引き返し条件、その四つが揃うまで前へ出すな。そこまで揃った時点で、もう一度持ってこい」

 

 ペルシアの目が、少しだけ細くなる。

 

「……いいの?」

 

 問い方は率直だった。

 局長相手でも、そこは変わらない。

 

 局長は、ほんの少しだけ柔らかい顔をした。

 

「反対は反対だ」

 静かに言う。

「だが、お前達が“感情を通すための無茶”ではなく、“帰ってくる形を作るための運用”へ変えたなら、こちらもその前提で見る。前に進める価値があるかどうかは、そこで判断する」

 

 その言葉に、ペルシアは小さく息を吐いた。

 

 予想より前向きだった。

 もちろん、“行ってこい”ではない。

 でも、“それなら考える”と局長が言ったのは大きい。

 

「了解」

 ペルシアは頷いた。

「じゃあ、私は本部側を組み直す」

 

「やれ」

 局長は言う。

「ただし、一人で抱えるな。それを今回散々言われてきたんだろう」

 

 ペルシアは、そこで少しだけ目を逸らした。

 

「……ほんと、みんなして同じこと言うのよね」

 

「正しいからだ」

 局長は淡々と言う。

 

 その一言に、ペルシアは思わず苦笑した。

 

 

 局長室を出たあと、ペルシアの動きはさらに早くなった。

 

 統括官室へ戻るなり、フレイへ短く言う。

 

「ブリーフィングルーム、一時間押さえて、本部運用、東仕様で仮組みする」

 

「局長は?」

 フレイが聞く。

 

「具体化までは認める。出発許可ではない。だから、ここからは“組みの精度”で詰める」

 

「了解です」

 フレイは即答した。

 

「シャオメイとジェームズ、イーナを呼んで、ローズには私から投げる」

 

「今すぐですか」

 

「今すぐ」

 ペルシアは言う。

「こういうのは熱いうちに組んだ方が早いの」

 

「非効率な熱意に見えますが」

 フレイは淡々と言う。

 

「うるさい」

 ペルシアは返す。

「でも今日は、その熱意が正解」

 

 フレイは一瞬だけ無言になったが、すぐに端末を操作し始めた。

 

 シャオメイ。

 ジェームズ。

 イーナ。

 本部に今いる、動かせる人間達。

 

 そしてペルシアは、自分の端末からローズへ連絡を入れる。

 

 ――ソーラ・デッラ・ルーナ、今どこまで切り上げられる?

 ――東の件、本部側でお前の頭が欲しい。

 

 数秒後、返信が来る。

 

 ――面倒そうだな。

 ――でも、東なら行く。

 ――最短で戻るルートを取る。三時間後には本部へ顔を出せる。

 

「頼もしい」

 ペルシアは小さく呟く。

 

 その頃には、シャオメイが最初に部屋へ飛び込んできていた。

 

「統括官、呼ばれました!」

 

 若い。

 明るい。

 でも仕事モードへ入る切り替えは速い。

 

「ええ」

 ペルシアが言う。

「今日は少し濃いわよ」

 

「濃いんですか」

 シャオメイが目を丸くする。

 

「東の未探索領域仕様、本部側仮組み」

 フレイが横から淡々と言う。

 

「うわ、濃い」

 シャオメイが即座に言った。

 

 その反応に、ペルシアが少しだけ笑う。

 

 ジェームズも、イーナもやってくる。

 やがてフレイが扉を閉め、即席の本部運用会議が始まった。

 

 ペルシアは、まず局長の判断を共有する。

 

「現段階では“具体化を進める”ところまで、出発許可じゃない。だから、こっちは“行く時に回る本部”を作る」

 

 モニターに簡易図を出す。

 

 現地。

 ネフェリス。

 外周護衛。

 本部オペレーション。

 地球活動側。

 対外秘匿。

 

 全員の顔が締まる。

 

「私が現地に乗る可能性が高い」

 ペルシアが言う。

「だから本部側には、“私がいなくても止められる人間”が必要。フレイ、そこは持てる?」

 

「持ちます」

 フレイは迷わず答える。

 

「ジェームズ、監視と運用判断の基礎線、取れる?」

 

「取れる」

 ジェームズが低く言う。

「ただし情報が散ると遅れる。ローズが戻るなら、統合はそっちが速い」

 

「うん」

 ペルシアは頷く。

「だからローズは戻す」

 

「イーナ」

 次に視線を向ける。

「対外整理と連盟側のノイズ遮断、お願いできる?」

 

「ええ」

 イーナが答える。

「まだ正式計画ではない以上、“聞かれても言わない”線を固めます。表向きは調査準備の技術検討で十分でしょう」

 

「そう」

 ペルシアが言う。

「その表現で統一」

 

「シャオメイ、通信補完、主に現地と本部の中継整理。東仕様で組める?」

 

「やります!」

 シャオメイは勢いよく頷いた。

「ただ、通常の中継補完だとノイズに飲まれるかもしれないので、ネフェリス側の優先信号設定と合わせて見たいです」

 

「さすが」

 ペルシアが言う。

「そこ、チャコと繋ぎなさい。ネフェリス側の“何を先に上げるか”と本部側の“何を先に受けるか”はセット」

 

「了解です!」

 

 会議は、そこから一気に実務へ降りた。

 

 通信の優先順位。

 現地から本部へ上げる情報。

 本部から現地へ返す指示の粒度。

 止める権限の所在。

 想定される最悪ケース。

 護衛機との干渉。

 現地でペルシアが同乗している場合と、そうでない場合。

 中継断絶時の自律判断。

 

 フレイが要点を潰し、ジェームズが現実性を測り、イーナが外への漏れ方を消し、シャオメイが技術的な補完案を出していく。

 

 ペルシアは、その中心で全体を回していた。

 

 軽く見える時もある。

 雑談へ流れる時もある。

 でも、必要な時のこの女は本当に強い。

 

 混乱を切り分ける。

 優先順位を並べる。

 必要なところだけを決めていく。

 

 緊急時に強い。

 ガーネットがそう言ったことを、エリンが認めたことを、今なら誰だって理解できるだろう。

 

 やがて、最初の一時間で、おおまかな骨格が見え始めた。

 

 完璧ではない。

 でも、もう“夢”ではない。

 

 ネフェリス側の改修。

 現地護衛。

 本部支援。

 地球活動側の再配置。

 それらが、それぞれ別々の線ではなく、ひとつの形へ寄り始めていた。

 

「……よし」

 ペルシアが、小さく息を吐いた。

「まだ粗いけど、骨は出たわね」

 

「ええ」

 フレイが言う。

「ここから先は、各担当の詰めで密度を上げられます」

 

「局長へ再報告するラインも見えました」

 イーナが続く。

 

「通信仕様はチャコ側の見直し待ちですね」

 シャオメイが端末へ視線を落としながら言う。

 

 ペルシアは、その声を一通り聞き終えてから、少しだけ背もたれへ身体を預けた。

 

 疲れた。

 でも、今はいい疲れだ。

 

 ここまで来れば、ようやく言える。

 

 まだ決まってはいない。

 でも、形が見え始めた、と。

 

 

 夕方に少し差しかかった頃。

 

 ブリーフィングルームの熱がようやく一段落したところで、ペルシアは端末を手に取った。

 

 迷う相手ではない。

 

 エリン。

 

 連絡を入れると決めた瞬間、胸の奥に少しだけ別の熱が入る。

 あの子は、今どんな顔をしているだろう。

 

 午前便の初チーフパーサーを受け取り、午後便へ流し、フロアを回し、それでも頭のどこかでは東の話を考えているはずだ。

 

 呼び出し音は、一度で繋がった。

 

「もしもし」

 エリンの声だった。

 少しだけ仕事の温度を残した、でも張りつめすぎてはいない声。

 

「もしもし、エリン?」

 ペルシアは、わざと少し軽めに言う。

「今、大丈夫?」

 

「大丈夫」

 エリンが答える。

「どうしたの?」

 そして一拍置いて、

「……何かあった?」

 

 やっぱり鋭い。

 

「ええ」

 ペルシアは言う。

「何かあったから、だから連絡したの」

 

 電話の向こうで、エリンが少しだけ黙る。

 その沈黙が、彼女が今ちゃんと姿勢を正したことを伝えてきた。

 

「……話して」

 エリンが静かに言う。

 

 ペルシアは、そこでほんの少しだけ息を整えた。

 

 そして、まっすぐ言う。

 

「形が見え始めた」

 

 短い言葉だった。

 でも、その一言に今日一日の重さが全部乗っていた。

 

 エリンの呼吸が、電話越しにわずかに止まる。

 

「……本当に?」

 

「本当に」

 ペルシアは答える。

「まだ出発許可じゃない。でも、“感情だけの話”からは完全に抜けた。局長は、四つ揃うなら具体化を認めるって、ファルコとクリスタルはアーウィン護衛で内諾。チャコはネフェリスの見直しに入った。本部運用も、今こっちで東仕様の仮組みが終わった」

 

 電話の向こうで、エリンが小さく息を吸う音がした。

 

「……そこまで」

 低く言う。

「もう、行ったのね」

 

「ええ」

 ペルシアは頷く。

「行ったわ。しかもルナちゃんが、チャコを送り出した。地球側の負担を分かった上で、“今しか組めないなら東を優先する”って」

 

 エリンは、そこで数秒言葉を失った。

 

 ルナ。

 あの子がそこまで言った。

 

 それは、軽く受け取れる話ではない。

 

「で」

 ペルシアが続ける。

「今はまだ“行ける”じゃない。でも、“行ける形にするための骨”が出た。そこまで来た」

 

 エリンは、しばらく何も言わなかった。

 

 その沈黙を、ペルシアは急かさない。

 こういう時のエリンは、黙ることで頭の中を並べる。

 

「……ありがとう」

 やがて、エリンがぽつりと言う。

 

「何に対して?」

 ペルシアが少しだけ笑って聞く。

 

「そこまで持っていったことに」

 エリンが答える。

「私に、“ちゃんと考える材料”を持ってきたことに」

 

 その言葉に、ペルシアは少しだけ目を細めた。

 

「それはこっちも同じよ」

 静かに言う。

「エリンが“一人で行く話じゃない”って切ったから、ここまで来た。だから、今回の骨は私だけの仕事じゃない」

 

 電話の向こうで、エリンが小さく息を吐いた。

 

「……そうね」

 

「でしょ」

 ペルシアは言う。

「だから、ここから先はあんたの番。リュウジと、もう一回ちゃんと詰めなさい。必要な役割、引き返し条件、コックピットの空気、全部。“反対か賛成か”じゃなく、“どこまでなら現実に乗るか”で」

 

 エリンは、その言葉を静かに受け取った。

 

「分かった」

 短く言う。

「もう逃げない」

 

 その一言に、ペルシアは小さく笑った。

 

「うん、知ってる」

 

 ブリーフィングルームの向こうでは、フレイ達がまだ細かな調整を続けている。

 シャオメイの声。

 ジェームズの低い相槌。

 フレイが資料をめくる音。

 

 だが、今この瞬間だけは、ペルシアの意識は電話の向こうにあった。

 

「エリン」

 少しだけ声を落として言う。

 

「何?」

 

「怖いのは変わらないわよ」

 ペルシアが言う。

「東の未探索領域だもの。でも、“怖いから全部駄目”だけで終わらないところまで来た。そこは、ちゃんと前進よ」

 

 電話の向こうで、エリンは少しだけ黙ったあと、小さく答えた。

 

「……うん」

 

 それは、短いのに深かった。

 

 ペルシアは、その声を聞いてほんの少しだけ肩の力を抜く。

 

「じゃあ、今日はそれだけ伝えたかった。また動いたら連絡する」

 

「ええ」

 エリンが言う。

「私も、こっちで詰める。リュウジとも、もう一回話す」

 

「そうしなさい」

 ペルシアが言う。

「あと」

 

「何?」

 

「今度、唐揚げ作る時は見つからないようにしなさい」

 

 数秒の沈黙。

 

 それから、電話の向こうでエリンの低い声が返ってきた。

 

「……切るわよ」

 

 ペルシアはそこで、ようやく声を上げて笑った。

 

「冗談よ、冗談。でも、今度は本当にフロア全体がひっくり返るわよ?」

 

「もう十分ひっくり返ったわ」

 エリンが疲れた声で言う。

 

「それもそうね」

 ペルシアは笑いながら返す。

「じゃ、また連絡する」

 

「ええ」

 エリンは少しだけ柔らかい声で言った。

「ありがとう、ペルシア」

 

「どういたしまして」

 ペルシアは言う。

「じゃあね」

 

 通話が切れる。

 

 ペルシアは、しばらく端末を見下ろしたまま立っていた。

 

 形が見え始めた。

 まだ骨だ。

 まだ粗い。

 でも、もう“誰か一人の無茶”ではない。

 

 そのことが、少しだけ嬉しかった。

 

「統括官」

 背後からフレイの声が飛ぶ。

「戻ってきてください。まだ終わっていません」

 

「分かってるわよ」

 ペルシアは振り向かずに返す。

「今行く」

 

「あと」

 フレイが続ける。

「嬉しそうです」

 

 ペルシアはそこで振り返った。

 

「何それ。嫌味?」

 

「事実です」

 フレイは真顔だった。

 

 ペルシアは、小さく鼻を鳴らす。

 

「……そりゃね。ここまで来たら、少しくらいは」

 

 そう言ってから、端末を机へ戻し、再びブリーフィングルームの中心へ戻っていく。

 

 まだ終わっていない。

 ここから先、もっと詰める。

 もっと現実へ落とす。

 

 でも少なくとも、今は言える。

 

 形が見え始めた。

 

 その一言が、感情ではなく運用の言葉として言えるところまで来たのだと、ペルシアは静かに実感していた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

ペルシアからの連絡を切ったあと、エリンはしばらく端末を机の上に伏せたまま動かなかった。

 

 宇宙事業部のフロアには、夜の静けさが落ちていた。昼間の喧騒が嘘みたいだった。午前のフライト、午後の便、その間の振り返り、若い乗務員たちの確認、ホーネットの軽口、ユウコとナツキの明るさ、シルヴィアの緊張、ミラとランの張りつめた責任感。そういうものが全部一度通り過ぎて、今は空調の低い音と、待機状態の端末がかすかに発する電子音だけが残っている。昼間は人の気配で埋まっていた机の列も、今は整然としすぎていて、かえって広く見えた。

 

「……形が見え始めた、か」

 

 小さく口にする。ペルシアの声がまだ耳の奥に残っている。あの人がああいう言い方をする時は、単に気持ちが前に出ている時ではない。本当に、人と役割と運用と危険度を並べて、それでもなお「前に進めるだけの骨が出た」と判断した時だ。つまり、それはもう、感情だけでは引き戻せないところまで話が進み始めているということでもある。

 

 エリンは背もたれに深く身体を預け、天井を見上げた。白く均一な照明が視界に入る。いつもなら、こんなふうに何もしない時間が出来れば、明日の便、乗務員の配置、補充教育、機内サービスの見直し、受付との連携、予約状況、そういう現実的なことへ頭が流れていく。だが今夜は違った。思考はどうしても、東の未探索領域へ戻ってしまう。

 

 ファルコとクリスタルがアーウィンで護衛に回る。チャコがネフェリスの見直しに入る。ルナが、自分の地球活動の負荷を理解したうえで、チャコをそちらへ送る判断をした。ペルシアが同乗を前提に本部運用を組み替え始め、局長も「具体化を進めるところまでは認める」と言った。そこまで来たのだ。まだ許可ではない。まだ出発ではない。けれど、もう「危ないから駄目」だけでは足りないところまで来てしまった。

 

 エリンは目を閉じた。瞼の裏に、いくつもの顔が浮かぶ。リュウジ。ペルシア。ルナ。チャコ。ファルコ。クリスタル。ミラ。ラン。サラ。タツヤ班長。皆それぞれ違う場所から、結局同じ方向を見始めているような気がした。一人で抱えない形。一人で行かない形。前に立つ者を後ろから支え、戻ってきた時に受け止める形。それは今日、ミラの初めてのチーフパーサー便を受け取った時、自分の中に少しだけ確かなものとして落ちた考えでもあった。

 

 預けること。あの言葉を、今日自分はちゃんと使えた気がする。ミラに対しても、ランに対しても、シルヴィアたちに対しても。今まではどうしても「私ならこうしていた」が先に来た。もちろん、それは基準を示すために必要な時もある。だが、そればかりでは相手は育たない。今日のミラは粗かった。前で抱えすぎたし、説明の一件を自分一人で片づけようと寄った。でも、それでも崩れ切らずに戻ってきた。そこを見て、「まだ早かった」と切らずに、「次にどうするか」で返せた。そのことが、自分でも少し嬉しかった。

 

 そこまで考えて、エリンはゆっくりと目を開けた。

 

 だったら、リュウジにはどうする。

 

 自分は、彼に対しても同じことが出来るのか。

 

 危ないから駄目。怖いから嫌だ。帰ってこないかもしれないから認めない。そこまでは、もう何度も言った。あの夜、自分でも珍しいくらい感情的になって、だから何、生きて帰って来られる確証にはならないでしょう、とまで言った。あれは本音だったし、今も間違っているとは思っていない。サヴァイヴが彼にとってどれほど大切な場所でも、そこでようやく自分を許せたとしても、それで東の未探索領域へ行っていい理由にはならない。それは今も変わらない。

 

 でも、それだけではもう足りない。

 

 ペルシアは、感情ではなく運用に落とした。チャコは、東仕様のネフェリスを作るための見直し項目を洗い出し始めた。ルナは、行きたい気持ちと今自分が居るべき場所を切り分けた。自分だけがまだ、「怖い」だけで立ち止まっているわけにはいかない。怖いままでいい。怖くなくなる必要はない。けれど、怖いままで、どこまでなら現実に乗るのかを考えなければいけない段階に来ている。

 

「……厄介ね」

 

 また同じ言葉が出る。けれど、前に呟いた時より、少しだけ温度が違った。前はただ、胸の奥のもやもやに名前をつけていただけだった。今は、その厄介さを引き受ける覚悟が少し混じっている。

 

 エリンは立ち上がり、フロアをゆっくりと歩いた。ミラの机。ランの席。シルヴィアがいつもメモを整える場所。ユウコとナツキがよく立ったまま話し込む一角。ホーネットがよく椅子を斜めに引いて座る位置。クミコたちの集まる後方寄りのスペース。どこを見ても、今日一日がまだ残っている。誰かが飲みかけた水の跡、端末の位置、手書きの小さなメモ、椅子のわずかな角度。人が頑張った痕跡というのは、案外こういうところに残る。

 

 昼間、ミラが言った。「今日、私、初めて“チーフパーサーになりたい”じゃなくて、“チーフパーサーとして立ちたい”って思いました」と。あの一言は重かった。役職への憧れではなく、役割を引き受ける覚悟としての言葉。エリンはその重さを嬉しく思ったし、同時に、自分もまた何かを言葉にしなければいけないところまで来ているのだと感じた。

 

 リュウジはどうだろう。

 

 彼もきっと、似たところにいる。行きたい。サヴァイヴへ続く道かもしれない場所を切り拓きたい。あの星を、なかったことにしたくない。悲劇のフライトで壊れた自分が、サヴァイヴでようやく自分を許した、その意味を無にしたくない。そこまではもう聞いた。知っている。だが、今の彼はそれだけではなく、「一人では駄目だ」というところまで来た。必要な人間がいて、必要な役割がある、その上でようやく行ける場所だと認め始めている。そこが大きい。

 

 エリンは、窓際まで歩き、火星コロニーの夜景を見下ろした。人工の光が規則正しく並び、遠くに輸送ラインの淡い流れが見える。こんなふうに整った光景の中で、誰かは未探索領域のことを考え、誰かは地球再生のことを考え、誰かは明日の定期便のことを考えている。世界は同時に進んでいる。自分だけが一つの感情に留まっていていいはずがない。

 

 ふと、唐揚げの匂いを思い出した。

 

 昨夜、キッチンで油の音を聞きながら、何も考えずに鶏肉へ下味を揉み込んでいた自分。リュウジが大好きだから作った。ただそれだけだった。長い付き合いなのだから、好きなものを覚えているのは当然。そう思っていた。けれど、朝のフロアで皆が騒いだのは、たぶん唐揚げそのものではなく、その当然みたいな親しさの方だったのだろう。誰かを家に呼んで、好きなものを作って、落ち着いて話す。それが自分に出来るのだと周りが知って、安心したと言った。ミラも、シルヴィアも、ユウコたちも。自分が思っている以上に、皆は自分を「一人で立つ人」と見ていたのかもしれない。

 

「……そんなに、一人で立ってたつもりはないのだけど」

 

 誰もいないフロアに向かって言う。返事はもちろんない。だが、ペルシアならきっと「そういう自覚がないから厄介なのよ」と返すだろうし、サラなら「見られ方もまた技術です」と言いそうだった。タツヤ班長なら「でも、そう見えるってことは、それだけずっと前で立ってきたってことだろうねぇ」と笑いながら言うかもしれない。

 

 窓ガラスへうっすら映った自分の顔を見る。疲れている。けれど、前よりは少しましだ。少なくとも、ただ反発していた時の顔ではない。考えている顔だ。怖がりながらも、考えることをやめていない顔。

 

 エリンは、そこでふと西の未探索領域へ向かった頃のことを思い出した。あの時だって、危険は危険だった。簡単に「全部上手くいく」と言うなと自分は彼に言った。上手くいく保証なんてない。でも、それでも行くなら、願うべきは「全部上手くいく」ことじゃなく、「崩れた時に戻れること」「止まるべき時に止まれること」だと、あの頃の自分は感覚的に知っていたのだと思う。だったら今だって、同じなのかもしれない。東の未探索領域はもっと怖い。もっと分からない。だが、分からないからこそ、役割と引き際と支えを形にしなければいけない。

 

「……会わないと」

 

 言葉が、ふっと口から落ちた。

 

 リュウジと、もう一度会わなければいけない。電話では足りない。メッセージではもっと足りない。ペルシアが「形が見え始めた」と言った今、こちらも逃げずに、自分の見えているものを言葉にしなければいけない。どこまでなら現実に乗るのか。何が足りないのか。何を条件にするのか。そこまで話すには、ちゃんと顔を見て話すしかない。

 

 エリンは机へ戻り、端末を手に取った。

 

 画面を開く。

 連絡先。

 リュウジの名前。

 

 指先が一瞬だけ止まる。

 

 今、呼んでいいのか。

 もう遅い時間だ。

 でも、彼はきっとまだ起きている。いや、起きているどころか、また無茶なトレーニングでもしていそうだと、ふと思ってしまう。クリスタルに怒られる顔まで簡単に想像できて、エリンは小さく息を吐いた。

 

「……本当に、手がかかる」

 

 けれど、その言い方には、もう昨日までの苛立ちだけは乗っていなかった。

 

 呼び出しを押そうとして、やめる。メッセージにするか、一瞬だけ迷う。今来て、と書くのは少し違う気がした。会いたい、という言い方も違う。未探索領域の話をしたい、とだけ送るのも固すぎる。数秒だけ考えて、エリンはようやく短い文を打ち始めた。

 

 ――今夜、少し時間ある?

 ――話したいことがあるの。

 

 そこで、また指が止まる。

 

 これでは足りない。

 いや、足りないというより、曖昧すぎる。

 彼はきっと、何の話かをすぐに察するだろう。だが、こちらが逃げた書き方をしたくなかった。

 

 エリンは一行削除して、打ち直した。

 

 ――東の未探索領域のこと、もう一度ちゃんと話したい。

 ――時間があるなら、来て。

 

 そこまで打って、しばらく画面を見つめる。

 

 来て。

 結局、そういう書き方になる。

 部屋に呼ぶのか。

 また朝に何か言われるかもしれない。

 でも、今それを気にしても仕方がない。

 

 エリンは小さく首を振った。

 

「……いいわよ、もう」

 

 朝に唐揚げであれだけ騒がれたのだ。今さら少し話す場所を選んだところで、ユウコとナツキが見れば結局何か言う。だったら、気にして形を歪める方が馬鹿らしい。

 

 送信。

 

 メッセージは、静かに飛んでいった。

 

 途端に、胸の奥が少しだけ忙しくなる。

 呼び出したのは自分だ。

 考えて、決めて、送った。

 それなのに、返事を待つこの時間は妙に落ち着かない。

 

 エリンは端末を机に置き、すぐにまた手に取った。

 既読は、まだつかない。

 数秒。

 十秒。

 三十秒。

 

「遅い」

 

 思わずそう呟いた瞬間、既読がついた。

 

 そして、ほとんど間を置かずに返信が返ってくる。

 

 ――あります。

 ――今から向かってもいいですか。

 

 その文面を見た瞬間、エリンは小さく息を吐いた。

 

 この人はこういう時、迷わない。

 そしてこういう時だけ、妙に素直だ。

 

 少しだけ口元が緩みそうになって、慌てて元へ戻す。誰も見ていないのに、そういうところだけ変に気を使う自分が少し可笑しかった。

 

 エリンは短く打ち返す。

 

 ――ええ。

 ――待ってる。

 

 送信してから、背もたれへ身体を預けた。

 

 呼んだ。

 もう一度、ちゃんと話すために。

 今度は「認めない」で終わるためじゃない。怖いまま、嫌なまま、それでもどこまでなら現実に乗るかを見るために。

 

 フロアの静けさは、もう少しだけ続く。

 だが、その静けさはさっきまでのものとは違っていた。

 

 待つための静けさ。

 向き合うための静けさ。

 

 エリンは端末を手元に置き、机の上を軽く整えた。資料を一つにまとめ、ペンを揃え、必要のない画面を閉じる。こういう時、手を動かしていないと落ち着かないのは昔から変わらない。仕事の癖でもあり、気持ちを整えるための癖でもある。

 

 窓の外を見る。火星コロニーの夜景は相変わらず淡く整っていて、その光の下を、今頃リュウジがこちらへ向かっているのだと思うと、胸の奥で何かが静かに鳴る。

 

 怖い。

 今でも、やっぱり怖い。

 でも、その怖さを持ったまま話す。

 それが今の自分に出来る、たぶん一番正しいことなのだろう。

 

「……逃げない」

 

 小さく、でもはっきりと呟く。

 

 その声は、誰にも聞かれない。

 けれど、今夜の自分にはそれで十分だった。

 

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