人工的に調整された気温。一定の間隔で並ぶ街灯。遠くを走る輸送車両の光。空には星が見えているが、それさえも巨大な居住区画の外壁越しに見る、整えられた景色だった。
リュウジはスペースホープの建物の前で足を止めた。
正面玄関の照明だけが点いている。昼間であれば、乗務員や整備担当、受付、旅行事業側の職員が絶えず行き交う場所だが、今は人影がない。自動扉の向こうには、夜間警備用に落とされた薄い照明が続いていた。
端末を確認する。
エリンから届いたメッセージは短かった。
――東の未探索領域のこと、もう一度ちゃんと話したい。時間があるなら、来て。
何を言われるのかは分からない。
ペルシアから、局長側と本部運用の整理が始まったことは聞いている。ファルコとクリスタルはアーウィンによる護衛を受け入れ、チャコはネフェリスの中枢系統の洗い出しに入った。ルナも、地球での地質調査をフォックスとスリッピーと進めることを選び、チャコを送り出してくれた。
計画は、確かに形を持ち始めた。
しかし、エリンがそれを認めたわけではない。
前に話した時、彼女ははっきりと言った。サヴァイヴが自分にとってどれほど大切な場所であっても、それは生きて帰れる確証にはならないと。
あの言葉は、今も残っている。
リュウジは端末へ短く入力した。
――到着しました。
送信してから一分も経たないうちに、建物の内側を人影が横切った。
奥から歩いてきたのはエリンだった。
仕事用のジャケットは脱いでいるが、制服姿のままだった。長い緑色の髪は昼間と変わらず整えられている。ただ、わずかに疲れが見える。朝からフロアに立ち、ミラがチーフパーサーを務めた便を送り出し、帰ってきた乗務員達の振り返りまで行ったのだから当然だった。
自動扉が開く。
エリンはリュウジを上から下まで一度見て、少しだけ眉を寄せた。
「その格好、トレーニングの途中だったの?」
リュウジは自分の上着へ視線を落とした。
「終わった後です。連絡をもらった時には、もう着替えていました」
「本当に?」
エリンは疑うように目を細めた。
「本当です」
「クリスタルに止められるまでやってたんじゃないでしょうね」
「今日は止められていません」
「今日は、って言ったわね」
「言い方を間違えました」
リュウジが訂正すると、エリンは小さく息を吐いた。
そのやり取りだけで、張り詰めていたものが僅かに緩んだ。
けれど、エリンの表情はすぐに真剣なものへ戻った。
「入って。外で話せる内容じゃないから」
リュウジへ背を向ける。
「遅い時間にすみません」
「呼んだのは私よ。謝らなくていい」
二人は無人のエントランスを抜けた。
夜間用の照明は、昼間よりも影を濃くする。壁面に掲げられたスペースホープのロゴも、今はどこか違うものに見えた。
エレベーターへ乗る。
扉が閉まると、狭い箱の中に二人だけが残った。
リュウジは正面の階数表示を見ていた。エリンも隣に立ち、同じ方向を見ている。
どちらも、すぐには口を開かなかった。
前回、二人が未探索領域の話をしたのはエリンの自宅だった。唐揚げの匂いが残る部屋で、リュウジは自分がなぜサヴァイヴを探したいのかを話した。
悲劇のフライトの後、自分は生き残るべきではなかったと思っていたこと。
最後に操縦桿を握っていたのは自分で、救えなかった命をすべて自分の責任だと思っていたこと。
サヴァイヴで、初めて自分も被害者だったと言われたこと。
あの星で、自分が自分を許すことが出来たこと。
だから、あの場所を過去として消したくないこと。
エリンは最後まで聞いた。
その上で、認めなかった。
あれは間違っていない。今でもリュウジはそう思っている。
エレベーターが到着する直前、エリンが小さく口を開いた。
「ペルシアから、今日のことは聞いた」
「どこまでですか」
「ファルコとクリスタルのこと。チャコがネフェリスを見始めたこと。ルナがチャコを送り出したこと。本部側も仮組みが始まったこと。局長が、具体化を進めるところまでは認めたこと」
「そうですか」
「それから、貴方がペルシアに一緒に来てほしいって頼んだことも聞いた」
「はい」
扉が開いた。
エリンは先にフロアへ入りながら、「前の貴方なら、言わなかったでしょうね」と続けた。
夜のスペースホープは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
並んだ机。落とされた端末。片づけられた資料。明日の便に備えて整えられた備品。人はいないが、つい数時間前まで誰かがそこにいた痕跡が残っている。
ミラの席には、今日の便の振り返り用紙が置かれていた。ランの机には、後方動線を修正した簡易図。シルヴィアが使っていた席には、機内温度と乗客の様子を記録したメモ。ホーネットの席だけ、椅子が少し斜めを向いていた。
エリンは、その椅子を通りすがりに真っ直ぐへ戻した。
リュウジがフロアを見回しながら、
「誰もいないと、広く見えますね」
「昼間は人数が多いからね」
「ミラが初めてチーフパーサーとして前に立ったの」
「聞きました」
「ペルシアから?」
「はい。無事に戻ってきたと」
「無事っていう言い方だと、何か事故があったみたいでしょう」
「違うんですか」
「小さな問題はあった。でも、皆で回した。私が乗っていなくても、ちゃんと戻ってきた」
「それは、良かったですね」
「ええ」
エリンの声が少しだけ柔らかくなった。
すぐに、それを隠すように会議室の扉を開く。
「ここで話すわ」
小規模な打ち合わせに使う部屋だった。中央に細長い机があり、壁面にはモニターが設置されている。机の一方にはエリンが用意した端末と資料が並べられていた。
東の未探索領域の観測記録。過去に消失した船舶の一覧。既知航路と異常重力場の推定図。ネフェリスの基礎仕様。チャコから送られてきた暫定的な改修項目。アーウィン二機を含めた編隊案。
リュウジは資料を見て、僅かに目を細めた。
「ここまで調べたんですか」
エリンは自分の椅子へ座りながら
「ペルシアから資料を送ってもらった。全部じゃないけど」
リュウジが向かいに座る。
机を挟み、二人が正面から向き合った。
エリンはすぐには話し始めなかった。
端末の画面を確認し、資料の順番を揃える。その動きは、普段のブリーフィングと変わらない。無駄がなく、何をどの順番で伝えるかが決まっている。
けれど、指先には僅かに力が入っていた。
リュウジはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
やがてエリンが顔を上げた。
その瞳には、前回のような怒りはない。
不安も恐怖も消えてはいない。だが、それらを押し殺しているのではなく、きちんと自分の中で位置づけたうえで、言葉にしようとしていた。
「最初に言っておくわ。今日は感情で話すつもりはない」
リュウジは静かに頷いた。
「はい」
「前に話した時は、感情で話した。貴方の理由を聞いても、それで帰ってこられる確証にはならないって言った。今も、その考えは変わってない。サヴァイヴが貴方にとってどれだけ大事でも、それだけで危険がなくなるわけじゃない。私が怖いことも変わらない」
「分かっています」
「でも、怖いから全部駄目って言い続けるだけなら、話し合う意味がない。貴方も、ペルシアも、ルナも、チャコも、もうそこから先へ進み始めてる。だったら私も、止めるだけじゃなくて、何が必要なのかを考える」
リュウジはエリンを見たまま、少しも動かなかった。
その言葉が、彼にとってどれだけ大きいものかを、エリンも分かっていた。
「ただし、これは、行ってもいいっていう話じゃない。今から出す条件を、実際の計画として成立させられるかどうか。その確認をするための話よ」
「分かりました」
「返事が早いわね」
「聞く前に拒否するつもりはありません」
「全部、貴方にとって都合のいい条件とは限らない」
「それでも聞きます」
「途中で、そんな条件なら行けないと思ったら、そう言って」
「はい」
「出来ないことを、出来るって言わないで。今この場で私を納得させることが目的じゃないの」
「分かっています」
エリンは数秒、リュウジを見つめた。
言葉の温度を確かめるように。
エリンは、相手の声を聞く。表情を見る。返事の早さだけでは判断しない。客室で乗客へ安心を渡す時も、部下の状態を読む時も、言葉の下にある呼吸を見てきた。
今のリュウジは、押し切ろうとしていない。
少なくとも、以前のように「俺が飛べばいい」という顔ではなかった。
「貴方は、この計画を一人では出来ないって思ってる?」
エリンが聞いた。
「はい」
「本当に?」
「ペルシアが必要です。チャコも、護衛も、本部の支援も必要です。俺一人では、東の未探索領域を調査して帰還する形にはなりません」
「俺一人では出来ないって、前の貴方なら言わなかったでしょうね」
「そうかもしれません」
「どうして変わったの」
リュウジは一度、机の上に並ぶ資料へ目を落とした。
「エリンさんに、一人で行く話は駄目だと言われたからです。最初は、人数を増やせばいいという意味だと思いました。でも、違いました。人を乗せることではなく、判断を一人に集めないことだと考え直しました」
エリンの指先から、僅かに力が抜けた。
「そこまで分かってるなら、話は進められる」
エリンは端末を操作した。
モニターに、七つの番号が表示される。
「条件は七つ。今日は一つずつ確認する」
「七つですか」
「今の段階ではね。チャコの見直しと本部のシミュレーション次第では増える」
「減る可能性は?」
「期待しないで」
リュウジの口元がほんの少しだけ動いた。
エリンはそれを見たが、指摘しなかった。
「始めるわ」
会議室の照明が少しだけ落ち、モニターの光が二人の顔を照らした。
東の未探索領域へ向かうための話が、ここから初めて、願いでも反対でもなく、計画として始まった。
モニターの一番目が開かれた。
そこには、エリンが短くまとめた言葉が表示されている。
――調査目的の限定。
リュウジは表示を見たあと、エリンへ視線を戻した。
「第一条件。今回の目的を、サヴァイヴの発見にしないこと」
リュウジの表情が変わった。
大きく動いたわけではない。だが、目の奥に明確な反応が出た。
「それでは、行く意味がありません」
「最後まで聞いて」
「……はい」
「貴方が最終的にサヴァイヴを見つけたいことは分かってる。でも、最初の調査から目的を“サヴァイヴへ到達すること”にしたら、見つかるまで終われなくなる。反応がなければ、もう少し先へ進もうとする。痕跡らしいものが出たら、それを追う。サヴァイヴへ続く可能性があると言われたら、帰還条件を越えても進もうとする」
「必ずそうするとは限りません」
「するわ」
エリンは迷わず言った。
「貴方は、見つけるために行くんでしょう。目の前に手がかりがあって、予定した距離まで来たから帰りますって、簡単に背を向けられる?」
リュウジは答えなかった。
否定出来ない沈黙だった。
「だから目的を限定する。今回の調査は、東の未探索領域の外縁へ入り、生還可能な航行経路が存在するかを確認すること。重力場の変化。隕石群の流れ。通信が維持出来る範囲。ネフェリスとアーウィン二機で編隊を保てる距離。帰還に必要なエネルギーの減り方。それを記録して持ち帰る」
「サヴァイヴの反応があった場合は?」
「記録して持ち帰る」
「明確な座標が出ても?」
「設定した調査範囲の外なら、追わない」
「すぐ近くでも?」
「距離の問題じゃない。帰還条件の問題よ」
リュウジの眉間に浅い皺が寄った。
「目の前にサヴァイヴがあるかもしれないのに、引き返せと?」
「そうよ」
「次に同じ反応が出る保証はありません」
「追ったら帰れる保証もない」
「ですが――」
「リュウジ」
エリンの声は大きくなかった。
それでも、会話を止める力があった。
「貴方がサヴァイヴを探すことを否定してるんじゃない。最初の調査で、全部を手に入れようとしないでって言ってるの」
リュウジは口を閉じた。
「サヴァイヴに繋がる情報を見つけて、それを持ち帰る。分析して、次の計画を作る。それも前進でしょう。そこで追いかけて全員帰ってこなかったら、何も残らない」
「……データは自動送信出来ます」
「そういう意味じゃない」
エリンの声が少しだけ低くなった。
「人が帰るの。貴方達が帰って、見たものを話すの。次に必要なことを考えるの。機械から届いた記録だけで、“調査は成功しました”なんて私は認めない」
リュウジは、モニターに映る空白地帯を見つめた。
そこにサヴァイヴがあるかもしれない。
自分を許すことが出来た場所。
あの星で生きた仲間達との時間は、すべて今の自分を形作っている。見つけられる可能性があるなら、追いたい。
だが、そのためにペルシアやチャコ、ファルコ、クリスタルを連れていく。
一人ではない。
一人ではないなら、自分の願いだけで限界を変えることは出来ない。
「……分かりました」
エリンはすぐには確認の印を入れなかった。
「何を分かったの?」
「今回の第一目的は、サヴァイヴの発見ではなく、東の未探索領域における航行可能性と帰還経路の確認。サヴァイヴに繋がる反応を発見しても、事前に定めた調査範囲と帰還条件を越えて追跡しません。記録を持ち帰り、次の調査へ繋げます」
「目の前にあっても?」
リュウジは僅かに間を置いた。
「‥‥はい」
「その間は何?」
「簡単な約束ではないので」
「そうね」
「ですが、約束します」
エリンはようやく第一条件へ確認の印を入れた。
「無理に即答されるより、その方が信用出来る」
「ありがとうございます」
「褒めてないわよ」
「分かっています」
モニターが二番目へ切り替わる。
――撤退条件の事前設定。
「第二条件。引き返す条件を、出発前に数値で決める」
「現地の状況は、数値だけでは判断出来ません」
「数値だけで決めるとは言ってない。でも、最低限の線は数字にする。船体の損傷率、エネルギー残量、通信強度、重力制御ユニットの負荷、姿勢制御の遅延、チャコの接続負荷、アーウィン二機の燃料と損傷、乗員の身体状態。どれか一つでも限界値へ達したら帰還へ移る」
「一つでもですか」
「一つでも」
「複数の問題が同時に起きた場合なら分かります。しかし、東の未探索領域では、軽微な異常が常に出る可能性があります」
「だから“異常が出たら帰る”とは言ってない。軽微な異常と、帰還能力を失い始める異常を分ける。どこまでが観察継続で、どこからが撤退かを事前に決める」
「操縦で補える範囲もあります」
「その言葉を条件から外すの」
「エリンさん」
「悲劇のフライトの時、貴方は通常なら成立しない状況から船を戻した」
リュウジの表情が止まった。
エリンは目を逸らさなかった。
「重力制御も姿勢制御も壊れて、燃料も足りなくて、隕石群まで来た。それでも手動で避けて、最後はエアポートへ突入するように着陸させた。貴方の判断で救われた人がいる。それを否定するつもりはない」
「……はい」
「でも、あれは計画じゃない」
エリンの声は静かだった。
「ほかに方法がなくなった後、残った可能性を選んだの。非常事態の最後の選択よ。最初から“リュウジなら制御が壊れても操縦で補える”なんて安全計画に入れるものじゃない」
リュウジの手が、机の下で僅かに動いた。
「あの時の俺の判断が間違いだったと?」
「違うって言ってるでしょう」
エリンは少しだけ語気を強めた。
「あの時の判断と、今回の計画を一緒にしないで。貴方が最後の最後まで救う選択を続けたから、生き残れた人がいる。でも、再現性のない奇跡を最初から計画の安全率に入れたら、それは計画じゃない」
部屋に沈黙が落ちる。
リュウジは悲劇のフライトの後、何度も同じことを考えた。
もっと別の方法があったのではないか。
自分が別の操作をしていれば、全員を救えたのではないか。
最後に操縦桿を握っていたのは自分だった。
その事実だけで、自分がすべてを殺したと思っていた。
サヴァイヴでルナ達から、救った命を見ろと言われても、失われた命の重さが消えたわけではない。
だからこそ、同じような状況になれば、また限界まで操縦するだろう。
今度こそ、一人も失わないために。
エリンは、それを見抜いている。
「貴方は、前より上手く出来ると思ってるでしょう」
「……何をですか」
「同じように制御系が落ちても、今の自分ならもっと長く持たせられる。ネフェリスなら、チャコがいれば、護衛がいれば、前より何とか出来る。そう思ってる」
リュウジは否定しなかった。
「思っています」
「それが怖いの」
「能力が上がったことがですか」
「出来ることが増えた分だけ、引く場所が遠くなることが」
その言葉に、リュウジは何も返せなかった。
エリンは第二条件の詳細を開いた。
「限界値はチャコとジェームズさんに出してもらう。身体状態はクリスタル編隊維持はファルコとクリスタル。通信はシャオメイ。本部の総合判断はフレイ達。現地ではペルシアが最終判断を持つ」
「俺の判断は?」
「意見は言っていい。でも、撤退条件を越えたら最終決定権はない」
「操縦士に最終決定権がないのは危険です」
「操縦そのものの緊急判断は貴方。でも、“まだ調査を続けるか”は別。自分が操縦で補えるから進めるという判断を、貴方一人に持たせない」
「ペルシアが撤退を命じたら、無条件で従えと?」
「そう」
「チャコが機体として限界だと言った場合も?」
「従う」
「ファルコかクリスタルが編隊を保てないと判断した場合も?」
「従う」
「本部が中止を命じた場合も?」
「従う」
リュウジは少し考え、「通信データに遅延がある場合、本部の判断が現地より古い可能性があります」と指摘した。
「そこは時間差を含めてルールにする。通信が何秒遅れたら現地判断へ移すのか。通信が何分切れたら自動的に撤退へ入るのか。先に決める」
「通信が切れた直後に、前方だけが安全になった場合は?」
「帰る」
「調査を継続出来る状況でも?」
「本部と連絡が切れた状態で、どうして安全だと言えるの」
「センサーと現地観測で」
「帰還途中に通信まで失う可能性を考えて。進めることと、戻れることは違う」
リュウジは再び黙った。
エリンは言葉を続ける。
「それから、撤退条件を現地で緩めることは禁止。エネルギー残量四十パーセントで帰ると決めたなら、反応が出たから三十五まで、もう少し行けそうだから三十まで、って変えない」
「状況に合わせた修正は必要です」
「安全側への修正は認める。四十で帰る予定を五十にするのはいい。三十へ下げるのは駄目」
「厳しいですね」
「東の未探索領域でしょう」
エリンは少しも譲らなかった。
「この条件を守れる?」
リュウジは長く息を吐いた。
「守ります」
「“出来る限り”は要らない」
「撤退条件を事前に設定し、条件へ達した場合は現地責任者、本部、機体担当、護衛の判断に従います。操縦で補えることを、調査継続の理由にはしません。現地で安全側以外へ条件を変更しません」
「分かった」
エリンは二つ目へ印を入れた。
第三条件が表示される。
――単独判断による予定変更の禁止。
「第三条件。予定外の行動を、貴方一人で決めない」
「緊急時には、操縦士の即時判断が必要です」
「それは分かってる。隕石を避ける。衝突を回避する。護衛機との距離を取る。そういう秒単位の操縦判断まで止めない」
「では、何を禁止するんですか」
「調査範囲の変更。ネフェリスだけの先行。護衛機との分離。予定外の機体外作業。未知の反応の追跡。別船の救助を理由にした長時間の残留。そういう、任務そのものを変える判断」
「救助を見送れと?」
「見送れとは言ってない」
エリンはまっすぐに答えた。
「目の前に救助を必要とする人がいたら、助けるべきよ。でも、その時も無言で一人で決めない。何をするのか、誰に何を頼むのか、帰還条件がどう変わるのかを言葉にして」
「一刻を争う場合もあります」
「一言なら言えるでしょう。“ファルコ、右を押さえろ”“チャコ、帰還エネルギーを再計算してくれ”“ペルシア、救助へ移る”。貴方はサヴァイヴでも、それをやっていた」
重力嵐へ向かった時。
リュウジはカオルへ操縦を渡した。メノリへ航路計算を頼み、ルナへスラスターを任せ、シンゴやチャコへシステムを預けた。
一人ですべてを行ったわけではない。
「サヴァイヴへ戻りたいなら、サヴァイヴで覚えたことを使って」
「サヴァイヴで覚えたこと?」
「一人で生き残った場所じゃないでしょう」
エリンの声が少しだけ柔らかくなる。
「皆で生き抜いた場所でしょう」
リュウジの目が僅かに揺れた。
「……はい」
「それに、貴方は自分で言った。仲間は道具じゃないって」
「言いました」
「なら、勝手に役割を変えないで。ファルコとクリスタルは、貴方が先に行くための盾じゃない。チャコは、壊れた船を最後まで動かすための部品じゃない。ペルシアは、貴方が無茶をした後に止めるためだけに乗るんじゃない」
エリンは、はっきりと言った。
「全員が、自分で判断する人間なの。その人達へ言葉を渡さずに、貴方一人で任務の形を変えないで」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「だったら、予定変更には複数の承認を必要とする。現地ではペルシアを含む二名以上。本部と通信出来る場合は本部の承認も取る。通信がないなら、事前計画にない調査はしない」
「救助だけは例外ですね」
「緊急の人命救助は例外。ただし、救助へ移ることを全員へ伝える。誰か一人が残る形にはしない」
「俺が残るのが最も安全な場合でも?」
エリンの目が鋭くなった。
「今、その話はしない」
「しかし、状況としてはあり得ます」
「だから条件を作ってるの。最初から“最後は俺が残ればいい”って逃げ道を作らないで」
「逃げ道ではありません」
「貴方にとっては責任かもしれない。でも、残される側から見れば同じよ」
リュウジは言葉を失った。
エリンの声は震えていなかった。
それでも、その言葉の奥にある感情は分かった。
リュウジが自分の命を最後に置くたび、残される人間がいる。
悲劇のフライトの後も、サヴァイヴでも、その後の救助任務でも。
彼は誰かを守るために、自分が燃え尽きても構わないという顔をする。
「一人で決めないで。貴方が残ると言ったら、ペルシアも残る。チャコも帰らない。ファルコもクリスタルも、貴方だけ置いて引き返すような人達じゃない。貴方が自分一人を犠牲にするつもりでも、実際には全員を巻き込む」
「……そうですね」
「だから、自分だけの命だと思わないで」
「はい」
「第三条件を守れる?」
リュウジは、今度は迷わず答えた。
「守ります。予定外の任務変更は単独で決めません。緊急の操縦判断を除き、現地責任者と必要な担当者へ説明し、承認を取ります。救助へ移る場合も、一人で役割を抱えません」
エリンは三つ目へ印を入れた。
三つの条件が並んだ。
リュウジは、それを黙って見つめている。
「ここまでで、嫌になった?」
「いいえ」
「行くのを止めようとは思わない?」
「思いません」
「頑固ね」
「エリンさんに言われたくありません」
エリンは眉を上げた。
「私のどこが頑固なの」
「今の三条件を見れば分かります」
「必要な条件よ」
「分かっています。だから受け入れています」
「なら余計なこと言わないで」
「はい」
会議室の空気が、ほんの僅かに緩んだ。
しかし、条件はまだ半分にも達していない。
エリンは一度席を立った。
会議室の隅に置かれた給水器から水を二つ取り、一つをリュウジの前へ置く。
「飲んで」
「ありがとうございます」
リュウジは受け取った。
エリンも自分の水を一口飲む。
ここから先は、個人の判断だけではなく、船と組織の話になる。
第四条件が表示された。
――ネフェリスの改修完了および事前検証。
「第四条件。チャコが見直し項目を全部洗い出して、必要な改修と試験を終えるまで出発しない」
「当然です」
「その“当然”の範囲を確認するの」
エリンはチャコから共有された暫定資料を開いた。
「現時点で大きいのは三つ。通信補完の自律切り替えが遅いこと。規則性のない重力変化への補正が操縦感覚より遅れる可能性があること。中枢から操縦席へ返す情報が多すぎて、東では必要な警告が埋もれる可能性があること」
「聞いています」
「それだけじゃない。非常通信。主系統と副系統の切り替え。自動帰還機能。アーウィンとの相互位置情報。チャコが接続出来なくなった時の最低限の操作。全部、実機で確認する」
「自動帰還は、東では機能しない可能性が高いです」
「完全な帰還じゃなくていい。機首を帰還方向へ向ける。通信可能圏へ移動する。救難信号を出し続ける。人間の判断を補助する最低限の機能は必要でしょう」
「ネフェリスの自動中枢へ複雑な判断をさせるのは危険です」
「複雑な判断をさせない。出来ることを限定して、確実に動く形にする」
「チャコと相談します」
「相談じゃなくて、設計に入れて」
「分かりました」
エリンは次の資料を表示した。
そこには、ネフェリスが過去の救助任務で受けた損傷が並んでいた。
姿勢制御ユニットのブラックアウト。重力制御ユニットの出力停止。通信封鎖。船体フレームへの負荷。牽引時の不安定化。神経応答制御の過熱。
「それから、神経応答制御を貴方へ直結することを、最初から計画へ入れるのは禁止」
リュウジの表情が僅かに固くなる。
「最初から使う予定はありません」
「最後の手段として考えてるでしょう」
「帰還のために必要なら使います」
「それを禁止条件にする」
「エリンさん」
「過去に、チャコが焼けると言っても、貴方は構わないと言った」
「ほかに方法がありませんでした」
「その場ではね。でも今回は、そうならないために準備するの」
「準備をしても、想定外は起きます」
「起きる。だから最後の手段を全部消せとは言わない」
エリンは少しだけ言葉を選んだ。
「でも、“最後は神経応答制御を自分へ繋げれば何とかなる”という前提で、機体の余裕を削ることは認めない。接続しなければ帰れない状態へ入った時点で、計画は失敗よ」
「接続することで全員が帰れる場合は?」
「その判断を貴方一人ではしない。チャコ、ペルシア、本部の承認を取る。通信がないなら、最低でもチャコとペルシアの両方が必要だと判断した時だけ」
「一秒を争う場合は間に合いません」
「それなら、どういう状況で接続を許可するかを先に決める。手順を作る。判断に必要な確認事項を三つか四つに絞る。貴方が勝手に“構わない”と言って繋ぐ余地をなくす」
リュウジは水の容器へ視線を落とした。
「エリンさんは、あの時のことをよく覚えていますね」
「忘れると思う?」
「……いいえ」
ネフェリスの機械室。
焼けた配線。
片腕を使えず、片目の視界だけで操縦桿を握り続けるリュウジ。
限界だと叫ぶチャコに、神経応答制御を繋げと命じた声。
エリンは、その場で船を直すために動いていた。自分の肋骨の痛みを無視し、サツキと配線を繋ぎ直した。
全員が、生きて帰るために必死だった。
結果として帰れた。
だからこそ、同じことをもう一度やればいいとは思えない。
「あの時、全員が限界を越えてた。貴方も、チャコも、私も、サツキも。マリも。クリスタルも。帰れたから笑って話せる。でも、同じやり方を最初から当てにするのは違う」
「はい」
「通常航路での実機試験。人工的な通信断絶。重力制御と姿勢制御の一部停止。アーウィン一機が離脱した場合。チャコが中枢へ接続出来なくなった場合。ペルシアが判断出来なくなった場合。本部との通信が切れた場合。全部、訓練する」
「すべて行えば、かなりの時間が必要です」
「時間をかけて」
「サヴァイヴの位置が変わる可能性があります」
「だからって準備を削らない」
エリンはきっぱりと言った。
「時間が経って見失うことと、急いで全員を失うことを同じ秤に乗せないで」
リュウジは反論しなかった。
「分かりました。チャコの見直し完了後、通常航路とシミュレーターの両方で検証します。護衛機と本部を含む統合訓練を行い、神経応答制御の直接接続は事前に定めた緊急条件以外では使いません」
「チャコ以外にも、最低限の帰還操作を理解する人を作って」
「ネフェリスの中枢をチャコと同じ精度で扱える人間はいません」
「同じ精度は求めてない。チャコが動けなくなった瞬間に、船が何も出来なくなる形を止めるの」
「ジェームズとシャオメイに手順を共有し、本部から補助出来る形を検討します」
「現地側にも一人は必要」
「ペルシアへ覚えてもらいます」
エリンは少しだけ目を丸くした。
「あの子、嫌がるわよ」
「必要ならやります」
「貴方が言うの?」
「はい」
「喧嘩になるわね」
「いつものことです」
「確かに」
第四条件に印が入った。
第五条件が表示される。
――コックピットコンディションと操縦継続時間の管理。
「第五条件。貴方の状態を、貴方自身の判断だけに任せない」
「ペルシアへ任せるつもりです」
「どこまで?」
「コックピットコンディション全体です」
「曖昧ね」
エリンは資料へ項目を追加した。
「連続操縦時間。睡眠時間。水分と食事。視覚、反応速度、手の震え。判断の偏り。サヴァイヴに関係する反応が出た時の精神状態。全部、ペルシアとクリスタルが確認する」
「クリスタルは護衛機です」
「定期的に情報を共有する。医療判断はクリスタル。コックピット全体の判断はペルシア」
「はい」
「ペルシアが操縦席から降りろと言ったら、降りる」
「航行中は無理です」
「だから交代手段を用意する」
「ネフェリスを東の未探索領域で操縦出来る人間は、簡単には見つかりません」
「完全に代わる必要はない。帰還航路へ乗せる。一定時間、姿勢を維持する。貴方が二時間でも三時間でも休める。それが出来る人か機能を用意する」
「自動操縦とチャコの補助で対応出来る可能性があります」
「チャコに仕事を重ねないで。システムエンジニアが、操縦補助と中枢管理と故障対応を全部持ったら、チャコ一人に依存する形になる」
リュウジは小さく頷いた。
「別のパイロットを乗せることも検討します」
「人選は?」
「まだ決められません」
「それでいい。今ここで名前を出す必要はない。でも、貴方一人しか操縦出来ない状態のまま出発しないこと」
「分かりました」
「それから、精神状態も本当にペルシアへ渡して」
「渡しています」
「サヴァイヴの反応が出た時に、冷静でいられると思う?」
「いられるよう努めます」
「そういう答えが駄目なの」
エリンはリュウジを見据えた。
「貴方は取り乱さない。苦しい時ほど静かになる。悲劇のフライトの後も、周りから見れば普通に動いていた。自分が死んでもいいと思っていたのに」
リュウジの目が僅かに伏せられた。
「だから、表面上冷静に見えることを判断材料にしない。ペルシアは声で分かる。普段と違う呼吸も、短い返事も、たぶん私より早く拾う」
「エリンさんも分かると思います」
「今は私の話じゃない」
「はい」
「ペルシアが、貴方の判断がサヴァイヴに引っ張られていると言ったら、操縦を交代する。反論はしてもいい。でも、最後は従う」
「反論してもいいんですか」
「意見まで禁止したら、ただの命令でしょう。必要な情報は言って。でも最終判断は渡す」
「分かりました」
「ペルシアは、貴方と一緒に死ぬために乗るんじゃない」
「分かっています」
「あの子は、貴方を帰すために乗る。チャコも、ファルコも、クリスタルも帰す。それが役割よ」
「はい」
「そして、ペルシアも帰すの。止める側だからって、あの子が最後まで残っていい理由にはならない」
「もちろんです」
エリンは第五条件へ印を入れた。
第六条件が表示される。
――本部運用、情報共有および参加者の選択権。
「第六条件。本部の指揮系統を一本にする」
「ペルシアが整理しています」
「聞いてる。フレイ、ジェームズ、シャオメイ、イーナ。ローズも戻せるか調整中。でも、名前を並べるだけじゃ駄目」
エリンは本部運用図を開いた。
「誰が現地情報を統合するのか。誰が撤退命令を出すのか。誰が通信を維持するのか。誰が宇宙連邦連盟や役員側を抑えるのか。誰が乗員の状態を見るのか。全部、重ならないようにする」
「現地情報の統合はフレイかローズ。技術判断はジェームズ。通信はシャオメイ。対外調整はイーナになると思います」
「最終責任者は?」
「局長です」
「局長が常にオペレーションルームにいられるとは限らない」
「フレイに権限を委任します」
「その委任を文書にする。途中で役員が口を出しても、指揮系統を変えない」
「そこまで必要ですか」
「必要よ」
エリンは淡々と答えた。
「東の未探索領域へ入ったと公表されたら、途中から目的を変えろと言う人が出る。もっとデータを取れ、サヴァイヴの可能性があるなら進め、今帰れば機会を失う。現場を見ていない人ほど、そういうことを言う」
「局長も同じ懸念を持っています」
「なら、最初から遮断する。現地へ指示出来るのは決めた人だけ。外からの要望はイーナが受けて、本部の正式な判断に変わらない限り現地へ流さない」
「分かりました」
「定時連絡も決める。通信が正常でも、決めた時間に報告がなければ本部から確認。一定時間応答がなければ帰還命令。微弱な点滅だけを追って救助するような事態を、最初から通常運用にしない」
ペルシアが、微弱な通信反応を見つけた時のこと。
消えたり点いたりする白い点を、まるで脈拍のように見守り続けた。あの執念がなければ、ネフェリスは発見されなかったかもしれない。
だが、同じ救助を再び当てにすることは出来ない。
「非常通信は複数にする。ネフェリスの非常系統。アーウィン経由。自動救難信号。本部へ届かなくても、周辺の船が拾える方式。通信が一つ壊れたら全部終わり、は認めない」
「チャコとシャオメイへ伝えます」
「それから、参加者全員に計画の本当の目的と危険を話して」
「危険性は説明しています」
「貴方の理由も?」
リュウジは黙った。
「サヴァイヴが、自分を許すことが出来た場所だということ。だから探したいこと。反応が出れば判断が引っ張られる可能性があること。全部、貴方の口から話す」
「そこまで話す必要がありますか」
「ある」
「個人的な事情です」
「その個人的な事情が任務の中心にあるからよ」
エリンの言葉に、リュウジは反論出来なかった。
「ファルコもクリスタルも、ただ東の調査に付き合うわけじゃない。チャコだって、ルナちゃんの仕事から離れる。ペルシアは統括官としての立場まで調整して乗る。全員、貴方がなぜそこまで行きたいのかを知った上で決める権利がある」
「ペルシアとチャコは知っています」
「改めて話す。計画の参加者として」
「ファルコにも?」
「全員よ」
「……分かりました」
「それから、途中で辞退する権利を認める」
「任務直前でもですか」
「理由を問わない」
「直前に護衛が一人抜ければ、計画が成立しません」
「成立しないなら延期する」
「長期間の準備が無駄になります」
「人を無理に乗せて、現地で判断が崩れるよりいい」
エリンは少しだけ身を乗り出した。
「貴方は、仲間を道具だと思わないんでしょう」
「思っていません」
「なら、貴方の夢のために乗ることを義務にしないで。準備してから怖くなる人もいる。家族を優先したくなる人もいる。別の任務を選ぶ人もいる。それを裏切りだと言わない」
「言いません」
「代わりがいなければ?」
「延期します」
「本当に?」
「はい」
「リュウジ」
「本当に延期します」
エリンはその声を聞き、ようやく頷いた。
「この条件には、私も入る」
「エリンさんが?」
「本部の正式な指揮系統に入るかどうかは、これからペルシアと局長に相談する。でも、少なくとも計画の確認には関わる」
「何を見るんですか」
「人と役割」
エリンは迷わず答えた。
「誰か一人に仕事が寄りすぎていないか。情報が届かない場所がないか。異常が起きた時、誰が声を出して、誰が受け取るのか。負傷者が出た時、残りの人間で回るのか。そういうところを見る」
「チーフパーサーとして?」
「そう」
リュウジは一瞬だけ考えた。
「操縦やシステムの専門ではなくても?」
「専門じゃないから見えることもある」
エリンの声に、チーフパーサーとしての芯が戻る。
「危険管理は、危険が起きた後に強い人を置くことじゃない。危険が起きる前に、空気と情報の流れを整えることよ」
リュウジは黙って聞いている。
「客室で一人が体調を崩した時、その人だけを見ればいいわけじゃない。周りの乗客が不安になる。教員が立ち上がる。通路が詰まる。別の乗務員が自分の持ち場を離れる。小さな一件が、客室全体の事故へ変わることがある」
以前の旅行フライト。
具合を悪くした生徒へユウコが最初にかけた言葉は、驚きでも叱責でもなかった。
服が汚れていないか。
本人が最も恥ずかしく思っていることを守り、安心を渡した。その一言で、周囲が慌てる前に空気を落ち着かせた。
「接客は礼儀じゃない。相手から必要な情報を引き出して、状況を安定させて、事故を防ぐ技術なの。東の未探索領域でも同じよ」
「コックピットでも、ですか」
「コックピットほど必要でしょう」
エリンは言った。
「警告が一度に鳴る。通信が途切れる。護衛機から別々の報告が入る。チャコはシステムを見て、ペルシアは全体を見て、貴方は操縦してる。その時、誰かが必要な第一声を出さなければ、全員が別の危険を見る」
「第一声」
「何が起きたか。誰に何をしてほしいか。何を優先するか。短く、曖昧にしない。それだけで事故は減らせる」
リュウジは、エリンがなぜこの計画へ関わると言ったのかを理解し始めた。
彼女は客室の人間だから、操縦の外にいるのではない。
船内の人間がどう動けば、危険を広げずに済むかを知っている。
「だから、本部と現地の通信手順も、専門用語だけで終わらせない。危険度を共通の言葉にする。誰が聞いても、今が継続なのか、警戒なのか、撤退なのか分かるようにする」
「色や段階で統一する方法があります」
「それを作って。アーウィン側も同じものを使う」
「分かりました」
「第六条件、受け入れる?」
「はい。本部の指揮系統と権限を事前に固定し、外部からの要望で現地の任務を変更しません。通信手段を複数化し、定時連絡と通信断絶時の手順を決めます。全参加者へ目的、危険、俺の個人的な理由を説明し、辞退する権利を認めます。エリンさんにも、役割と情報の流れを確認してもらいます」
「最後だけ、勝手に決定事項にしたわね」
「協力してくれると言いました」
「確認には関わるって言ったの。正式に本部へ入るかはまだ決まってない」
「ペルシアなら入れると思います」
「何であの子が決める前提なのよ」
「既に考えていると思います」
エリンは少しだけ嫌そうな顔をした。
「……あり得るのが腹立つわね」
リュウジの口元が僅かに緩む。
第六条件に印が入った。
モニターに六つの条件が並ぶ。
残る番号は一つ。
七。
エリンの指が、端末の上で止まった。
最後の項目は、まだ画面に表示されていなかった。
リュウジは黙って待っている。
エリンは、ここまでの六条件を見直した。
調査目的の限定。
撤退条件。
単独判断の禁止。
ネフェリスの改修と検証。
コックピットコンディション。
本部運用と参加者の選択権。
どれも必要だ。
どれも、計画として言葉に出来る。
だが、最後の条件だけは少し違う。
数値には出来ない。
役割表にも置けない。
それでも、これを言わなければ、自分がここへリュウジを呼んだ意味がない。
「最後の条件」
「はい」
エリンは端末を操作しなかった。
画面は六つの条件を表示したままだった。
「全員で帰ってくること」
リュウジは、僅かに目を細めた。
「それは、最初からそのつもりです」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか」
「全員で帰ることを、任務の成功条件にする」
「帰還は当然、成功条件に含まれます」
「含める、じゃない。一番上に置くの」
エリンは一語ずつ置くように話した。
「サヴァイヴの手がかりを見つけても、全員で帰れなければ失敗。東の未探索領域のデータを集めても、誰かが残れば失敗。ネフェリスだけ戻っても、アーウィンが一機帰らなければ失敗。機体が壊れても、全員が帰れば調査としては成功。そう定義する」
「機体を失えば、次の調査が出来ません」
「人を失ったら、次の調査をする意味がなくなる」
「状況によっては、一人が残ることでほかの全員を救える場合があります」
「また、その話?」
「可能性として無視出来ません」
「無視はしない。でも、最初から選択肢に入れない」
「非常時には、誰かが決断しなければならないこともあります」
「一人で決断しないって、さっき約束したでしょう」
「時間がない場合もあります」
「その時でも、誰かへ言葉を渡して」
「言葉を渡しても、結果が変わらないことがあります」
リュウジの声は静かだった。
反抗しているわけではない。
現実として、宇宙では誰かが残らなければならない場面がある。
リュウジはそれを知っている。
エリンも知っている。
「絶対に誰も死なないなんて、私は言ってない」
リュウジが顔を上げる。
「危険な任務よ。何が起きるか分からない。どれだけ準備しても、全員が無事だと保証することは出来ない」
「では――」
「でも、誰かが死ぬことを前提にした計画にはしない」
エリンの声が、はっきりと会議室へ響いた。
「最後はリュウジが残ればいい。ネフェリスを捨てればいい。護衛機の一機が盾になればいい。そういう逃げ道を、計画の中に作らない」
「逃げ道ではありません」
「貴方にとっては責任なんでしょうね」
エリンは苦しそうに、けれど目を逸らさずに続けた。
「悲劇のフライトの時、貴方は最後まで救う選択をした。自分が燃え尽きても構わないって顔で、残った可能性を全部使った。サヴァイヴでも、その後の任務でも同じ。誰かを守るためなら、自分を最後にする」
「それで助かる命があるなら、選びます」
「それを一人で選ばないでって言ってるの」
「ですが――」
「私が怖いのは、東の未探索領域だけじゃない」
エリンの言葉が、リュウジを止めた。
「一番怖いのは、貴方がそこで昔の自分へ戻ること」
「昔の自分?」
「自分は死んでもいいと思っていた貴方」
室内が静まり返る。
「悲劇のフライトの後、生きている意味が分からなかった。自分が死ねばよかったって思ってた。サヴァイヴで自分を許せたって言ったけど、貴方の中には今でも、自分を最後にする癖が残ってる」
リュウジは否定出来なかった。
「誰かを救うためなら、それでいいと思ってる。任務を成功させるためなら、自分だけ戻らなくてもいいって、どこかで思ってる」
「今は、死んでもいいとは思っていません」
「本当に?」
「はい」
「だったら、自分を帰還人数に入れて」
エリンの声が僅かに震えた。
「ペルシア、チャコ、ファルコ、クリスタルを帰す。それだけじゃない。貴方も帰るの」
「帰るつもりです」
「つもりじゃ足りない」
「何を言えば、信じてもらえますか」
その問いに、エリンは一度口を閉じた。
言葉を探す。
何を言われても、危険が消えるわけではない。
約束は保証ではない。
リュウジ自身、約束だけで生きて帰れるわけではないと知っている。
それでも。
「私との約束を、判断の中に入れて」
「エリンさんとの約束?」
「帰ってくるって約束」
「それは今も――」
「違う。任務の途中で、“自分が残るしかない”と思った時に思い出す約束。自分一人なら残るけど、約束があるから別の方法を探す。そういう約束」
「約束があれば、状況が変わるとは限りません」
「分かってる」
「ほかに方法がない場合もあります」
「それでも、最初から諦めない理由にはなる」
エリンは机の上で両手を組んだ。
「貴方は、理屈に合わなくても僅かな可能性へ賭けるんでしょう」
「はい」
「だったら、帰る可能性にも最後まで賭けて」
リュウジの目が、僅かに見開かれた。
悲劇のフライト。
制御を失った船。
尽きかけた燃料。
正面に迫る隕石群。
計算上は生存不可能だった。
それでもリュウジは、残った僅かな可能性を選んだ。
人間は誰かを守るためなら、理屈に合わないことを選ぶ。
自分がかつて、サヴァイヴへそう語った言葉だった。
「誰かを救うために、自分が燃え尽きる可能性だけを選ばないで、自分も一緒に帰る可能性を探して。貴方なら出来るって言ってるんじゃない。出来ないかもしれなくても、最後まで探してって言ってるの」
リュウジは、長い間答えなかった。
エリンも急かさなかった。
会議室の外では、空調の低い音が続いている。
誰もいないフロア。
昼間、ミラ達が自分の役割を持って動いていた場所。
エリンは今日、自分が乗っていない便を送り出した。
怖かった。
けれど、ミラもランもシルヴィアも、皆で支え合って帰ってきた。
信頼することは、何も起きないと思い込むことではない。
どこまでを任せ、どこからは止めるのかを決めること。
サラから言われた言葉が、今になってさらに深く分かる。
「……俺は」
声は低く、静かだった。
「悲劇のフライトの後、本当にいつ死んでもいいと思っていました」
エリンは何も言わない。
「サヴァイヴでルナ達と生きて、自分も被害者だったと言われて、少しずつ考えが変わりました。それでも、危険な場面になれば、自分を最後にする方が簡単でした。自分が残ればほかの人が帰れるなら、それでいいと思うことは今もあります」
「……うん」
「でも、今は帰りたいと思っています」
リュウジはエリンを見た。
「サヴァイヴを探したい。それと同じくらい、帰ってきたい」
エリンの胸が強く鳴った。
「ペルシア達と帰りたい。ルナ達へ報告したい。タツヤ班長にも、見つけたものを話したい。スペースホープの皆にも」
リュウジは一度、言葉を止めた。
「それから、エリンさんのところへ帰りたいです」
エリンは、指先へ力を入れた。
視線を外したくなったが、外さなかった。
「……私のところ?」
「はい」
「ここ、スペースホープに?」
「場所はどこでも構いません」
「そういう言い方、ずるいわね」
「すみません」
「謝らないで」
エリンは小さく息を吐いた。
「帰ってきたら、もう一度ここで報告して」
「はい」
「何を見たか。何が怖かったか。どこまで行けたか。全部、貴方の口から聞く」
「分かりました」
「それから」
エリンは一瞬だけ迷った。
これを言えば、またペルシアにからかわれるかもしれない。
ユウコとナツキに知られれば、朝の唐揚げ騒ぎどころでは済まない。
それでも、帰った後の具体的な約束が必要だと思った。
「また唐揚げを作る」
リュウジの表情が、珍しく明確に崩れた。
「唐揚げですか」
「何よ」
「最後の条件が唐揚げだと思わなかったので」
「最後の条件は全員で帰ること。唐揚げは、帰ってきた後の約束」
「前と同じ味ですか」
「そこ、今確認する?」
「重要なので」
「醤油と生姜。前と同じ」
「食べたいです」
「なら帰ってきて」
「はい」
「ペルシアに全部取られないうちに」
「ペルシアはポキを食べていればいいです」
「また喧嘩になるわよ」
「負けません」
「何と戦ってるのよ」
二人の間に、短い笑いが落ちた。
東の未探索領域を話しているとは思えないほど、日常的な会話だった。
だが、エリンにはそれが必要だった。
帰還後に食べるもの。
戻る場所。
待っている人。
英雄になるためでも、任務を成功させるためだけでもない。そんな小さな約束が、人を限界の向こうから引き戻すこともある。
「リュウジ」
「はい」
「約束出来る?」
リュウジの顔から、僅かな笑みが消えた。
真剣な表情へ戻る。
「全員で帰ります」
「貴方も」
「俺も帰ります」
「自分が残ればいいって、一人で決めない」
「決めません」
「ほかの方法がないと思っても、最後まで帰る方法を探す」
「探します」
「私との約束を、判断の中に入れる」
「入れます」
エリンは数秒、彼の目を見つめた。
その声に嘘がないか。
ただ自分を納得させるための返事ではないか。
ペルシアほど声色に敏感ではない。それでも、長く客室で人を見てきた。危険な時ほど平静を装う人も、安心させるためだけに大丈夫と言う人も知っている。
今のリュウジの声は、軽くなかった。
「分かった」
エリンは端末を操作した。
七番目の項目が、初めて画面へ表示される。
――任務成功条件:全員帰還。
その下へ、短い一文を加えた。
――自己犠牲を前提とする判断を認めない。
確認の印を入れる。
七つの条件がすべて並んだ。
リュウジは最初から順番に読み返した。
しばらくして、「厳しい条件です」と言った。
「嫌?」
「いいえ」
「全部成立させるのは簡単じゃない」
「分かっています」
「副操縦の問題も残ってる。ネフェリスの改修が成立しないかもしれない。本部の指揮系統を固定出来ない可能性もある。シミュレーションで帰還確率が足りなければ、私は止める」
「はい」
「誰かが辞退して代わりが見つからなければ、延期する」
「はい」
「サヴァイヴの反応があっても、条件の外なら帰る」
リュウジは一度だけ息を吸った。
「はい」
エリンは、その返事を受け取った。
ここまで来ても、怖さは消えない。
むしろ計画が具体的になるほど、危険の輪郭もはっきりする。
ファルコとクリスタルが護衛につく。
チャコがネフェリスの中枢を担う。
ペルシアが隣に座る。
本部ではフレイ達が支える。
それでも、帰れない可能性はある。
だが、今までとは違う。
リュウジ一人の能力と覚悟だけに、すべてを預ける計画ではない。
「エリンさん」とリュウジが言った。
「何?」
「この条件を、ペルシア達へ持ち帰ります」
「ええ」
「全員で詰めます」
「削らないでね」
「削りません」
「ペルシアが、“これは現場では回らないから少し軽くしよう”って言っても?」
「エリンさんに連絡します」
「そこは自分で止めなさいよ」
「二人で話してもらった方が早いと思います」
「私に押しつけないで」
「ですが、ペルシアはエリンさんの言うことなら聞きます」
「聞かないわよ」
「俺の言うことよりは聞きます」
「それは貴方達の普段の態度の問題でしょう」
リュウジは僅かに笑った。
「それから、エリンさんにも正式に計画へ入ってほしいです」
「まだ決まってないって言ったでしょう」
「俺からペルシアと局長へ頼みます」
「どういう立場で入れるつもり?」
「帰還運用と乗員コンディションの外部確認」
「名前だけ立派ね」
「必要な役割です」
「……役割が明確なら、考える」
「ありがとうございます」
「まだ受けてない」
「考えてくれるだけで十分です」
リュウジは深く頭を下げた。
エリンはそれを見て、少しだけ困ったように眉を寄せる。
「礼はまだ早いわよ。私は条件を出しただけ」
「それでもです」
「何がそんなに嬉しいの」
「エリンさんが、反対して終わるのではなく、帰る方法を一緒に考えてくれたことがです」
エリンは答えられなかった。
自分がしたことは、優しいことではない。
リュウジの望みを制限し、行動を縛り、場合によっては計画そのものを止める条件を並べた。
それでも彼には、一緒に考えたこととして届いている。
「……変なところで素直ね」
「そうですか」
「そうよ」
エリンは七つの条件が並ぶモニターを見た。
そして、ゆっくりとリュウジへ視線を戻した。
「ここまで全部出来たら」
リュウジが姿勢を正す。
エリンは、一度も目を逸らさずに言った。
「私は認める」
会議室の空気が止まった。
「東の未探索領域へ向かうことを?」
「そうよ」
「……本当に?」
「何度も言わせないで」
「すみません」
「ただし、一つでも形だけなら認めない。書類に条件を書いただけ。訓練で一度成功しただけ。誰かが納得していないのに無理に参加している。そういうのは全部駄目」
「分かっています」
「全部を、実際に機能する形にすること。誰か一人が欠けても帰れる。誰か一人が無茶をしなくても帰れる。サヴァイヴを見つけられなくても、次へ繋げられる。そこまで出来たら」
エリンははっきりと言い切った。
「私は認める」
リュウジはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございます」
「だから、礼は帰ってきてから」
「それでも、ありがとうございます」
「頑固ね」
「エリンさんに言われたくありません」
「また言ったわね」
エリンは呆れたように息を吐いたが、その口元は少しだけ緩んでいた。
会議が終わった時には、日付が変わろうとしていた。
二人は資料を閉じ、会議室を出た。
誰もいないフロアは、来た時と変わらず静かだった。
しかし、エリンには少しだけ違って見えた。
机の一つひとつに、そこで働く人の役割がある。
誰か一人がすべてを抱えるのではなく、全員が自分の持ち場を持つ。
それはスペースホープの客室も、東の未探索領域へ向かう船も同じなのかもしれない。
エレベーターへ向かう途中、リュウジが足を止めた。「エリンさん」と呼ばれ、エリンも振り返る。「何?」と聞くと、リュウジは静かに言った。「必ず、条件を形にします」
「ええ」
「全員で帰る計画にします」
「そうして」
「帰ってきたら、報告に来ます」
「待ってる」
「唐揚げも」
「それが一番なの?」
「重要です」
「はいはい」
二人は並んで歩き出した。
その夜、東の未探索領域へ向かう計画は、初めて正式な成功条件を得た。
どこまで進めたかではない。
何を見つけたかでもない。
全員で帰ること。
その条件を中心に置き、翌日からペルシア、チャコ、ファルコ、クリスタル、そして宇宙管理局本部を交えた作戦計画の再構築が始まる。
リュウジは、もう一人で向かおうとしていなかった。
エリンも、ただ止めようとはしていなかった。
二人はそれぞれの場所から、同じ帰還地点を見始めていた。