サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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リリア

 翌朝。

 

 宇宙管理局本部の統括官室には、始業前の静けさがまだ僅かに残っていた。

 

 廊下を行き交う職員は少なく、隣接するオペレーションルームでも、夜勤担当者が朝番へ引き継ぐ声が低く交わされているだけだった。壁面モニターには、木星圏内の航路状況、未登録船の照会、各コロニーから届いた定時報告が順番に表示されている。大きな警告はない。普段の業務だけを見れば、穏やかな朝だった。

 

 しかし、ペルシアの机の上に広げられた資料は、穏やかという言葉から最も遠い場所にあった。

 

 東の未探索領域外縁調査案。

 

 ネフェリス改修項目。

 

 アーウィン二機を含めた護衛編成。

 

 本部オペレーションルームの仮配置。

 

 その一番上には、昨夜遅くにエリンから送られてきたメッセージが表示されていた。

 

 ペルシアは椅子へ浅く腰掛けたまま、七つの条件を最初から読み返していた。

 

 調査目的を、サヴァイヴ到達ではなく航行可能性と帰還経路の確認に限定すること。

 

 撤退基準を出発前に数値化し、現地で危険側へ緩めないこと。

 

 予定外の調査や編隊分離を、リュウジ一人の判断で行わないこと。

 

 ネフェリスの改修と、通信断絶や乗員欠員を含めた検証を完了すること。

 

 リュウジ自身に身体・精神状態の最終判断をさせず、ペルシアとクリスタルへ停止権限を渡すこと。

 

 本部指揮系統を固定し、参加者全員へ任務の本当の目的と危険を伝え、辞退する権利を認めること。

 

 そして、全員で帰還することを任務成功の最上位条件とすること。

 

 ペルシアは最後の一文まで目を通すと、端末を机へ置き、背もたれへ深く身体を預けた。

 

 正面では、フレイが朝の定時報告を抱えたまま立っている。

 

 ペルシアが読み終えるまで、フレイは急かさなかった。ただ、視線だけは端末とペルシアの表情を行き来している。

 

 数秒の沈黙の後、ペルシアは深く息を吐いた。

 

「エリン、厳しい」

 

「妥当です」

 

 ペルシアは眉を寄せた。

 

「早いわね、返事が」

 

「撤退基準を現地で緩和しないこと、及び全員帰還を成功条件の最上位へ置くことは必要です。リュウジさんの操縦技量を安全率へ含めないという判断も適切かと」

 

「私、厳しいって言っただけで、間違ってるとは言ってないわよ」

 

「存じています」

 

「……朝から本当に可愛くない」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてない」

 

 ペルシアはもう一度、エリンの報告へ視線を落とした。

 

 どの条件も、言葉だけなら正論だ。

 

 だが、実際の計画へ入れれば、リュウジにとっては身動きを大きく制限される内容ばかりだった。特に、サヴァイヴへ繋がる反応を目の前で捉えても、事前に決めた限界を越えるなら追跡しないという条件は重い。

 

 それでもリュウジは受け入れた。

 

 ペルシアが止めれば引く。

 

 チャコが船として限界だと言えば引く。

 

 ファルコかクリスタルが編隊を維持出来ないと判断しても引く。

 

 本部が中止を命じれば、それにも従う。

 

 以前のリュウジなら、最後には自分の操縦で何とかすると答えていたかもしれない。

 

「本当に、全部飲んだのよね」

 

 フレイは端末を確認しながら答えた。

 

「エリンさんの報告では、そのようです」

 

「サヴァイヴの反応が出ても、条件の外なら帰るって?」

 

「はい」

 

「私が止めても?」

 

「従うと明言しています」

 

「チャコが限界だと言っても?」

 

「同様です」

 

「本部の命令にも?」

 

「従います」

 

 ペルシアは腕を組み、僅かに目を細めた。

 

「……あのリュウジがねぇ」

 

「大きな変化だと思います」

 

「大きいどころじゃないわよ。ネフェリスに関しては、自分が操縦するのが一番安全だって本気で思ってるもの」

 

「技量だけを見れば、間違いではありません」

 

「間違いじゃないから厄介なの。制御が一つ壊れても、自分が操縦で補えばいい。誰かが倒れたら、自分がその仕事まで持てばいい。最後に誰か一人残らなければならないなら、自分が残ればいい。あの子の中では、全部合理的なのよ」

 

「今回は、それを明確に禁止された」

 

「エリンにね」

 

 ペルシアは少しだけ笑った。

 

「自己犠牲を前提とする判断を認めない、か。本当に厳しい。でも、あの子にしか言えない条件かもしれないわ」

 

 フレイは机の端へ、本部側の仮配置表を置いた。

 

「その条件を一つも削らずに反映する場合、昨日の編成では不足します」

 

「分かってる」

 

「分かっている方の表情には見えません」

 

「失礼ね」

 

 その時、統括官室の扉が叩かれた。

 

 ペルシアが「どうぞ」と返すと、シャオメイ、イーナ、ジェームズの三人が入ってきた。

 

 三人とも始業時間より早い。

 

 シャオメイは通信系統の仮設計を抱え、イーナは本部内の報告経路と記録手順をまとめた端末を持っている。ジェームズは既に整備区画から上がってきたらしく、作業用ジャケットの袖を捲っていた。

 

 シャオメイが「おはようございます、統括官」と挨拶し、イーナも「おはようございます」と続く。

 

 ジェームズだけは軽く片手を上げるに留めた。

 

「おはよう。三人とも早いわね」

 

 イーナが少し表情を引き締めた。

 

「確認したいことがあります」

 

「何?」

 

 ジェームズが真っ先に口を開いた。

 

「本当に、これだけのメンバーでオペレーションルームを回すのか?」

 

 ペルシアはすぐには答えず、三人の顔を順番に見た。

 

 シャオメイが通信配置を表示する。

 

「昨日は、私が現地通信を一括して持つ前提でした。ネフェリスとの主回線、非常回線、ファルコさんとクリスタルさんの個別回線、アーウィン間の相互通信までは持てます」

 

「問題は、その先ね」

 

「はい。周辺船からの目撃報告、微弱な救難信号、各コロニーから届く異常観測、宇宙警察からの照会まで同じ卓へ入ってきた場合、回線維持と一次情報の受付を同時には出来ません」

 

 イーナも自分の資料を開いた。

 

「私はフレイさんの補助として、本部内の時系列整理、確認事項の記録、局長側へ上げる資料の整形を担う予定です。ただ、外部機関から届く情報の初期確認や、発信元への聞き返しまで兼務すると、本部内部の情報整理が遅れます」

 

 ジェームズが続ける。

 

「俺はネフェリスの技術監視と撤退基準の評価を持つ。現地で制御系統の異常が二つ三つ重なれば、それだけで手が塞がる。座標も時刻も確認されていない通報を、そのままこっちへ投げられても判断出来ない」

 

 フレイが仮配置表を指した。

 

「現在の編成では、オペレーションルームへ最初に入ってくる情報を受け、その情報が誰から、どこで、いつ、どの手段によって得られたものかを確認する席がありません」

 

 ペルシアは画面へ視線を向けた。

 

 フレイは全体の指示系統と判断補佐。

 

 イーナは本部内部の情報整理と記録、局長側への報告準備。

 

 シャオメイは現地通信そのものを維持する。

 

 ジェームズは技術判断。

 

 しかし、最初の入口がない。

 

 事故なのか事件なのかも分からない通報。

 

 途中で途切れた救難信号。

 

 混乱した声。

 

 怒鳴りながら入ってくる報告。

 

 観測機器も明らかでないまま、「何かが見えた」とだけ伝えてくる周辺船。

 

 そうした一次情報を受け、必要な質問を返し、確度を整え、必要であれば宇宙警察や救難機関、各コロニーへ確認を取る役割。

 

 それを今の四人へ分散すれば、全員の本来の仕事が止まる。

 

 シャオメイが慎重に言った。

 

「せめて、ナミかマリを呼び戻せませんか?」

 

 ペルシアの返事は早かった。

 

「それは無理」

 

「即答ですね……」

 

「ナミを戻したら、今あの子が担当してる管制運用に穴が空く。マリも現場記録から外せない。東の未探索領域が重要だからって、別の現場を止めるわけにはいかない」

 

 イーナが言葉を重ねようとしたが、ペルシアが先に口を開いた。

 

「リュウジがあれだけ厳しい条件を飲んでるのに、私達が根を上げないの」

 

 室内の空気が、一瞬だけ止まった。

 

 シャオメイは口を閉じた。

 

 ジェームズの眉が僅かに寄る。

 

 イーナも静かにペルシアを見る。

 

 フレイの表情は変わらなかった。

 

 ペルシア自身、言葉にした直後には分かっていた。

 

 三人は仕事を嫌がっているわけではない。

 

 能力が足りないと言っているのでもない。

 

 エリンが条件として示した、「誰か一人が欠けても帰還支援を止めない形」になっていないと指摘しているのだ。

 

 ここを根性論で押し切れば、エリンの条件を計画へ書き写しただけで終わる。

 

「……と、言いたいところなんだけど」

 

 ペルシアは頬杖をついた。

 

「三人の指摘はごもっともなのよね」

 

 シャオメイが目を瞬かせた。

 

「認めるんですか?」

 

「認めるわよ。正しい指摘まで勢いで潰すほど馬鹿じゃない。それに、そんなことしたらエリンに本気で怒られるもの」

 

 ジェームズが腕を組んだ。

 

「なら、どうする」

 

「考えてる」

 

「今からか?」

 

「昨日から考えて、まだ答えが出てないの」

 

「それは考えていないのと同じだ」

 

「うるさいわね」

 

 ペルシアは配置表を拡大した。

 

 一次情報受付。

 

 発信元の確認。

 

 必要事項の聞き返し。

 

 宇宙警察、救難機関、各コロニーとの初期調整。

 

 内容を整理したうえで、通信ならシャオメイ、技術ならジェームズ、本部判断ならフレイとイーナへ渡す。

 

 その役割を、以前誰が持っていたか。

 

 ここにいる全員が分かっていた。

 

 最初に口にしたのは、イーナだった。

 

「リリアさんがいらっしゃれば……」

 

 シャオメイも静かに頷く。

 

「私も考えていました」

 

 ジェームズは低く息を吐いた。

 

「あいつなら、必要な情報が揃うまで聞き返す。中途半端な報告を、そのままこっちへ流したりはしない」

 

 フレイも否定しなかった。

 

「リリアさんは休暇へ入るまで、一次情報の受付から外部機関との初期調整を担当していました」

 

 ペルシアは嫌そうに顔をしかめた。

 

「分かってる。でも結婚して、出産して、今は子どもを育ててるのよ。簡単に呼べるわけないでしょう」

 

「呼ぶとは申し上げていません」

 

「フレイは顔に書いてあるのよ」

 

「統括官ほどではありません」

 

「何よ、それ」

 

 その時だった。

 

 統括官室の外から、低い男性の声が聞こえてきた。

 

「だから、私は反対だと言っている」

 

 続いて、女性の声が返る。

 

「お父さんは、さっきから反対しか言ってないでしょう」

 

「当然だ。まだ子どもは三歳だぞ」

 

「現地へ行くとは言っていません」

 

「オペレーションルームも危険任務の一部だ」

 

 室内にいた全員が、一斉に扉へ顔を向けた。

 

 シャオメイが目を見開く。

 

「……リリアさん?」

 

 イーナも驚いたように姿勢を正す。

 

 ジェームズは扉を見たまま、と呟いた。

 

「噂をすれば、か」

 

 フレイだけはすぐに端末を閉じ、来客を迎える姿勢へ移った。

 

 ペルシアは数秒間、完全に固まっていた。

 

「嘘でしょ」

 

 扉が叩かれる。

 

 ペルシアが「どうぞ」と返すと、静かに扉が開いた。

 

 最初に姿を見せたのは、長い髪を後ろで柔らかくまとめた女性だった。

 

 宇宙管理局の制服ではなく、落ち着いた色合いの私服姿。

 

 休暇へ入る前よりも表情は柔らかくなっていた。

 

 だが、室内へ入った瞬間に、机上の配置図、開かれている通信系統、そこにいるメンバーの顔を一度で確認する視線は変わっていない。

 

 リリアだった。

 

 彼女のすぐ横には、まだ三歳の小さな男の子がいる。

 

 その子の手を握っている大柄な男性は、宇宙警察本部長グレイ。

 

 リリアの父親であり、少年にとっては祖父に当たる。

 

 リリアが口を開くより先に、シャオメイが立ち上がった。

 

「リリアさん!」

 

 リリアは柔らかく微笑み、丁寧に頭を下げた。

 

「シャオメイさん、お久しぶりです」

 

 イーナもすぐに立ち上がる。

 

「本当にお久しぶりです。お元気でしたか?」

 

「はい。イーナさんも、お元気そうで安心しました」

 

 ジェームズは席を立たず、腕を組んだままリリアを見る。

 

「随分長い休暇だったな」

 

 リリアはその言い方にも慣れているように、少しだけ笑った。

 

「ジェームズさんも、お変わりありませんね」

 

「変わる必要がない」

 

「そういうところです」

 

 フレイと視線が合う。

 

 リリアは改めて頭を下げた。

 

「フレイさん、ご無沙汰しております。休暇中は何度かご連絡をいただいていたのに、きちんとお返事出来ず、申し訳ありませんでした」

 

「問題ありません。育児中であることは承知していました」

 

「ありがとうございます」

 

 やり取りに初対面の固さはない。

 

 久しぶりではある。

 

 だが、互いがどのように仕事をし、どのタイミングで何を確認する人間なのかを知っている者達の空気だった。

 

 リリアは室内を見回し、少しだけ寂しそうに言った。

 

「ナミさんとマリさんは、いらっしゃらないんですね」

 

 ペルシアが答える。

 

「二人とも別の場所で仕事中。戻したくても戻せないのよ」

 

「そうですか。お二人にも久しぶりにお会いしたかったのですが」

 

「ナミもマリも、リリアが来たって知ったら驚くでしょうね」

 

「後でご連絡してもよろしいでしょうか」

 

「好きにしなさい。たぶん二人とも、仕事の話から始めるわよ」

 

「それも変わっていないのですね」

 

 リリアは僅かに笑った。

 

 ペルシアは腕を組み、改めて三人を見る。

 

「それで、どうしてここにいるの? しかもグレイまで」

 

 グレイが不機嫌そうに答えた。

 

「リリアが宇宙管理局へ行くと言い出したから、止めに来た」

 

「止める人が、ここまで連れてきたの?」

 

「途中で考え直すと思っていた」

 

「考え直してないじゃない」

 

「だから困っている」

 

 リリアは父親の言葉を聞き流すように、ペルシアへ向き直った。

 

「今回の未探索領域調査について、宇宙警察側でも救難連携の準備が始まっていると聞きました」

 

「グレイが話したの?」

 

「詳細は聞いていません。ただ、お父さんは何かを隠そうとすると、必要以上に話さなくなるので」

 

「私は何も隠していない」

 

「夕食中、ずっと黙っていたでしょう」

 

「疲れていただけだ」

 

「普段は疲れていても、もっと文句を言います」

 

 グレイが言葉を失う。

 

 ペルシアは思わず笑いそうになった。

 

 以前からそうだった。

 

 宇宙警察本部長としては隙のないグレイも、娘の前では隠し事が下手になる。

 

 リリアはペルシアの机に表示された配置表へ視線を移した。

 

「本部側の人員が足りないのですね」

 

「まだ説明してないんだけど」

 

「フレイさんが全体判断と指揮系統を担当され、ジェームズさんが技術監視、シャオメイさんが現地通信、イーナさんが本部内の情報整理と記録を担当される配置ですね」

 

「ええ」

 

「一次情報を受ける席と、外部機関へ初期確認を行う席がありません」

 

 ジェームズが僅かに口元を上げた。

 

「見ただけで分かるのか」

 

「以前、私が担当していた場所ですから」

 

 リリアは静かに続けた。

 

「オペレーションルームへ入る最初の通報を受け、発信元、座標、時刻、観測方法、現在の危険を確認します。情報が不足していれば、その場で聞き返します。宇宙警察、救難機関、各コロニーへの確認が必要な場合は、私が初期調整を行います」

 

 シャオメイが安堵したように息を吐いた。

 

「そうしていただければ、私はネフェリスとアーウィンの回線維持へ集中出来ます」

 

 イーナも頷いた。

 

「私はリリアさんが確認された情報を基に、本部内の時系列整理と、局長側への報告準備を進められます」

 

 ジェームズも同意する。

 

「必要事項が揃った状態で来るなら、技術判断は速くなる」

 

 リリアは三人へ順番に頭を下げた。

 

「それでしたら、私にも協力させてください」

 

 グレイが即座に言った。

 

「駄目だ」

 

 あまりにも早い否定に、シャオメイが僅かに肩を揺らした。

 

 リリアは父親へ振り返る。

 

「まだ条件も聞いていないでしょう」

 

「聞く必要はない」

 

「私は現地へ行くとは言っていません」

 

「本部でも長時間拘束される。通信が途絶えれば、夜通し席を離れられなくなる。三歳の子どもがいる人間にやらせる仕事ではない」

 

「毎日勤務へ戻るとは言っていません。調査日程に合わせた限定的な支援です」

 

「同じだ」

 

「同じではありません」

 

 グレイの声が低くなる。

 

「お前は一度席に座ったら、途中で仕事を放り出さない」

 

「それは必要な仕事だからです」

 

「だから反対している」

 

 その時、小さな男の子がグレイの指を強く握った。

 

 大人達の言い争いの意味までは分からない。

 

 それでも、祖父の声が強くなったことは分かる。

 

 ペルシアはすぐにその変化へ気づいた。

 

 机の横を回り込み、子どもの前で膝を曲げる。

 

「こんにちは」

 

 声をかけると、男の子はリリアへ一度視線を向けてから、小さく「こんにちは」と返した。

 

「私、ペルシア。ママのお友達よ」

 

 グレイが横から口を挟む。

 

「上司だ」

 

「友達でもあるわよ」

 

「公私を混同するな」

 

「朝から細かいわね」

 

 ペルシアはグレイを無視し、男の子へ笑いかけた。

 

「ねえ、ママを少し借りてもいい?」

 

「ペルシア」

 

 グレイが止める。

 

「子どもに判断させるな」

 

 男の子はペルシアとリリアを交互に見た。

 

 母親が困っている様子はない。

 

 ペルシアも怖そうには見えない。

 

 少し考えた後、小さく頷いた。

 

「うん」

 

「いいの?」

 

「うん」

 

「そっか。ありがとう」

 

 ペルシアはそのまま両手を伸ばし、男の子をゆっくりと抱き上げた。

 

 身体が一瞬だけ固くなったが、ペルシアがしっかり支えると、すぐに力が抜ける。

 

「ペルシア!」

 

 グレイの声が響いた。

 

 男の子の肩が僅かに揺れる。

 

 ペルシアは子どもを抱いたまま、わざと眉を下げた。

 

「じぃじが怖いねぇ」

 

 男の子はグレイを見る。

 

 そして、小さな手を前へ伸ばした。

 

「じぃじ、め!」

 

 室内が完全に止まった。

 

 シャオメイは両手で口元を押さえた。

 

 イーナは笑いを堪えるため、そっと視線を下へ落とした。

 

 ジェームズは横を向いて咳払いをする。

 

 フレイだけは表情を崩さなかったが、肩がほんの僅かに動いた。

 

 リリアは耐えきれず、口元を押さえて笑っている。

 

 宇宙警察本部長グレイだけが、孫に指を差されたまま固まっていた。

 

「私は心配しているだけだ」

 

「じぃじ、め」

 

「二度言うな」

 

「子どもに言い返さないの」

 

「お前が言わせたんだろう」

 

「私は、じぃじが怖いって事実を教えただけよ」

 

 男の子はグレイの顔を改めて見て、もう一言付け加えた。

 

「こわい」

 

 グレイは完全に黙った。

 

 シャオメイがとうとう小さく笑い声を漏らし、慌てて「申し訳ありません」と頭を下げる。

 

「笑うな」

 

「すみません……ですが……」

 

「続けなくていい」

 

 張りつめていた統括官室の空気が、一気に緩んだ。

 

 ペルシアは男の子を抱いたまま、リリアを見る。

 

「本気なの?」

 

「はい。本気です」

 

「現行の受付端末は、リリアが休暇へ入る前からかなり変わってる」

 

「再訓練を受けます」

 

「宇宙警察と救難機関の照会手順も、昔と同じじゃない」

 

「グレイ本部長から、現在の連携体制をご教示いただきます」

 

 娘から急に役職名で呼ばれたグレイが眉を寄せる。

 

「私は協力すると言っていない」

 

 リリアは父親へ視線を向けた。

 

「ですが、現場の安全に必要な情報を隠す方ではないでしょう」

 

「……」

 

「ペルシアさんへ必要な資料を提供していただけますね?」

 

「私はまだ認めていない」

 

「資料を提供しないとは仰っていません」

 

 ペルシアは男の子を揺らしながら笑った。

 

「強いわねぇ。じぃじ、完全に逃げ道塞がれてるわよ」

 

「ペルシア、黙っていろ」

 

「じぃじ、め」

 

 グレイはもう反論しなかった。

 

 リリアはチームのメンバーへ向き直った。

 

「以前と同様、現地、周辺船舶、宇宙警察、救難機関、各コロニーから入る一次情報を私が受けます。必要事項を確認し、通信障害であればシャオメイさん、技術情報であればジェームズさん、本部内での判断と記録が必要であればフレイさんとイーナさんへお渡しします」

 

 シャオメイはすぐに頷いた。

 

「よろしくお願いします。リリアさんが受付を持ってくだされば、かなり助かります」

 

 イーナも続ける。

 

「私からもお願いいたします」

 

 ジェームズは腕を組んだまま、答えた。

 

「情報が揃っているなら文句はない」

 

 リリアはそれぞれへ丁寧に頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 ペルシアは少しだけ考えた後、統括官としての顔へ戻った。

 

「条件がある」

 

「はい」

 

「通常勤務への正式復帰とは分ける。今回の調査に限定した支援」

 

「承知しました」

 

「現地には出ない」

 

「はい」

 

「連続勤務時間の上限を決める。夜勤を連続させない」

 

「承知しました」

 

「子どもの予定を優先する」

 

「はい」

 

「途中で無理だと思ったら、理由を問わず外れる。私やフレイに遠慮しない」

 

「約束します」

 

「それから、外部調整はリリア一人で全部背負わない。宇宙警察や救難機関への初期確認は持っても、正式な協議や権限確認はフレイとイーナへ必ず渡す」

 

「承知しました」

 

「昔みたいに、相手が混乱してるからって最後まで自分で受け続けるのは禁止」

 

 リリアは少しだけ目を細めた。

 

「ペルシアさんも、以前の私のことをよく覚えていらっしゃいますね」

 

「忘れるわけないでしょう。泣いてる通報者を落ち着かせるために、三十分回線を切らなかったのは誰よ」

 

「必要な確認が残っていましたので」

 

「そういうところ」

 

 フレイが静かに口を挟む。

 

「勤務時間及び回線対応時間には上限を設定します。交代手順も事前に作成します」

 

「ありがとうございます、フレイさん」

 

「リリアさんの育児予定も勤務表へ反映します」

 

「よろしくお願いいたします」

 

 ペルシアは男の子へ視線を落とした。

 

「ママ、お仕事してもいい?」

 

 男の子はリリアを見た。

 

「ママ、がんばる?」

 

 リリアの表情が一瞬で母親のものへ戻る。

 

「うん。少しだけ頑張るよ」

 

「かえってくる?」

 

 その問いに、室内の空気が僅かに変わった。

 

 昨夜、エリンが最後の条件として置いた言葉。

 

 全員で帰ること。

 

 それは現地へ出る者だけの話ではない。

 

 本部で支える者にも、仕事を終えて戻る場所がある。

 

 リリアはペルシアの腕の中にいる息子の頬へ触れた。

 

「帰ってくるよ」

 

「ほんと?」

 

「本当」

 

「やくそく?」

 

「約束」

 

 男の子は安心したように頷いた。

 

 ペルシアはリリアの顔を見た。

 

「エリンの条件、ここにも必要ね」

 

「全員で帰ること、ですか?」

 

「ええ。現地も本部も同じ。仕事だからって、限界を越えて残るのは禁止」

 

「承知しました」

 

 グレイはしばらく娘と孫を見つめていた。

 

 やがて、重い声で口を開く。

 

「……条件がある」

 

 ペルシアが振り返る。

 

「今度は何?」

 

「リリアは現地へ出さない。夜間勤務を続けさせない。体調に異常が出た場合は即座に外す。子どもの予定を優先させる。夫とも正式に勤務時間を調整する。そして」

 

 グレイはペルシアをまっすぐ見た。

 

「お前が無理をさせないことだ」

 

 ペルシアは冗談で返そうとして、やめた。

 

 今の言葉は、宇宙警察本部長としてではない。

 

 娘を心配する父親としてのものだった。

 

「分かった。無理はさせない」

 

「口約束では駄目だ。勤務計画へ入れろ」

 

「エリンみたいなこと言うわね」

 

「誰だ、それは」

 

「帰すためなら、嫌われるような条件でも平気で並べる人」

 

「なら、その者の方が信用出来る」

 

「今度紹介してあげる」

 

「遠慮する」

 

 ペルシアは男の子をゆっくりと床へ下ろした。

 

 男の子はすぐにリリアの足元へ寄り、服の裾を掴んだ。

 

 フレイが仮配置表を更新する。

 

 フレイ――本部指揮補佐及び現地判断不能時の指揮代行。

 

 イーナ――本部内の情報整理、時系列記録、局長側への報告準備。

 

 ジェームズ――ネフェリス技術監視、異常解析、撤退基準の技術評価。

 

 シャオメイ――ネフェリス及びアーウィンとの通信維持、非常回線管理。

 

 リリア――現地、周辺船舶、宇宙警察、救難機関、各コロニーから入る一次情報の受付。発信元、座標、時刻、観測手段、危険度の初期確認。必要な外部機関への照会及び初期調整。確認後、各担当へ情報を振り分ける。

 

 そこへ新しい役割が生まれたのではない。

 

 以前のチームペルシアに存在していた入口が、戻ってきたのだ。

 

 リリアが一次情報を受ける。

 

 シャオメイが回線を守る。

 

 ジェームズが技術的な意味を判断する。

 

 イーナが本部内で時系列と報告を整える。

 

 フレイが全体を見て、指揮判断へ繋ぐ。

 

 今ここにいないナミとマリも、同じチームの中でその流れを知っている。

 

 ナミは言葉や手順の中に潜む危険を拾い、マリは記録の背景にある違和感を見つけていた。

 

 リリアが休暇へ入る前まで、全員で回していた流れだった。

 

 フレイが端末を操作しながら言う。

 

「シャオメイさん、リリアさんへ現在の通信経路を共有してください。操作方法より、情報がどこから入り、どこへ渡るかを優先して」

 

「承知しました」

 

「イーナさんは本部内の報告経路と、リリアさんから情報を受け取る際の様式を整理してください」

 

「承知しました」

 

「ジェームズさんは、一次受付時に必要となる技術確認項目を一覧化してください」

 

「座標、時刻、観測機器、継続時間、再現性、周辺異常の有無」

 

 ジェームズが即座に答える。

 

 ペルシアが眉を上げた。

 

「すぐ出るじゃない。それをリリアが使える形にして」

 

「分かった」

 

 リリアは三人へ丁寧に頭を下げた。

 

「よろしくお願いいたします」

 

 シャオメイが少し嬉しそうに笑う。

 

「こちらこそ、よろしくお願いします。久しぶりに一緒に働けるの、嬉しいです」

 

「私もです」

 

 イーナも静かに微笑んだ。

 

「ナミさんとマリさんにも、後で報告しておきましょう」

 

「はい。お二人とも、驚かれるでしょうね」

 

 ジェームズは言った。

 

「ナミは細かいところを確認して、マリは復帰訓練の記録を見せろと言うだろうな」

 

 ペルシアが笑う。

 

「容易に想像出来るわね」

 

 男の子が、机の上に置かれたペルシアの制帽を見つめていた。

 

 その視線に気づき、ペルシアは帽子を手に取る。

 

「被ってみる?」

 

「うん」

 

 男の子の頭へ乗せると、大きすぎる制帽が目元まで落ちた。

 

「みえない」

 

「大きいわねぇ」

 

 グレイが低い声で注意する。

 

「遊ぶための物ではない」

 

 男の子は制帽の下からグレイを見た。

 

「じぃじ、め」

 

 今度こそ、統括官室全体に笑いが広がった。

 

 グレイは目を閉じ、深く息を吐いた。

 

 ペルシアも笑いながら、自分の端末を開く。

 

 エリンへのメッセージを作る。

 

 ――七つの条件、確認した。厳しい。

 ――でも正しい。

 ――本部側の穴も見つかった。

 ――一次情報受付と外部調整に、リリアが限定復帰する。

 ――フレイ、ジェームズ、イーナ、シャオメイとは元から同じチームだから、連携も一からではない。

 ――ナミとマリには後で連絡する。

 ――全員で帰る形、本気で作るわ。

 

 送信。

 

 ペルシアは端末を閉じ、室内を見回した。

 

 フレイは勤務表の修正へ入っている。

 

 シャオメイはリリアへ現在の回線図を見せ始めた。

 

 イーナは一次情報を受け取った後の本部内処理を整理している。

 

 ジェームズは不満そうな顔をしながらも、受付用の技術確認項目を書き始めていた。

 

 リリアは息子の手を握りながら、全員の説明を聞き逃していない。

 

 グレイは不満を隠していないが、もう帰れとは言わなかった。

 

 ペルシアは両手を机へつく。

 

「よし。本部運用、最初から組み直すわよ」

 

 全員の視線が集まる。

 

「エリンの条件は一つも削らない。それから、さっき私が言ったことも訂正する」

 

 シャオメイが首を傾げた。

 

「リュウジが厳しい条件を飲んだんだから、私達も根性で回す――じゃない」

 

 ペルシアは配置表を指した。

 

「足りないものは足りないと認める。役割を一人へ集めない。誰かが席を外しても、現地を帰す機能を止めない。その上で、全部回る形を作る」

 

 フレイが答える。

 

「承知しました」

 

 シャオメイとイーナも頷いた。

 

 ジェームズは短く言う。

 

「分かった」

 

 リリアは、以前と同じ落ち着いた声で、けれどチームの全員へ変わらない敬意を込めて答えた。

 

「承知しました。よろしくお願いいたします」

 

 その返事を聞き、ペルシアは僅かに目を細めた。

 

 チームペルシアの仲間が戻ってきた。

 

 新しい人材が加わったのではない。

 

 フレイも、ジェームズも、イーナも、シャオメイも、ナミも、マリも知っている声が、もう一度オペレーションルームの入口へ立とうとしている。

 

 ただし、以前と全く同じではない。

 

 リリアには今、帰りを待つ小さな手がある。

 

 だからこそ、一次情報の向こう側にいる誰かにも、同じように帰りを待つ者がいることを、以前よりも深く知っている。

 

 東の未探索領域へ向かう者達を帰すためのオペレーションルームは、その朝、ようやく失っていた入口を取り戻した。

 

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