こうして、リュウジが希望した東の未探索領域調査は、少しずつ現実の形を取り始めていた。
ネフェリスの改修。
タツヤ班長の副操縦士復帰訓練。
チャコによる観測システムの調整。
護衛として同行するファルコとクリスタルとの連携確認。
現地でペルシアが担当する判断範囲と、本部に残るエリンが管理する帰還条件の整理。
誰か一人の勢いだけで進んでいた計画は、今では複数の部署と人間の手によって、慎重に組み上げられている。
だが、宇宙の東側へ向かう準備が進んでいる一方で、もう一つの計画もまた、着実に前へ進んでいた。
地球。
人類がかつて暮らしながら、地殻変動と環境崩壊によって捨てざるを得なかった故郷。
そして今、ルナがもう一度、人の暮らせる星へ戻そうとしている場所だった。
◇
木星圏宇宙管理局本部。
地球環境再生計画用に割り当てられた会議室の中央には、フランス一帯の立体地形図が広げられていた。
その中心に表示されているのは、以前の視察で発見した、小高い丘の上に広がる平地だった。
周辺には崩壊した旧市街。
遠方には、原形を失いながらも残るエッフェル塔と凱旋門の残骸。
その間にある丘陵地の一角だけが、周辺と比較して大規模な陥没や崩落を免れている。
ルナは立体映像の前に立ち、何度も確認してきた地形を見つめていた。
「ここが、今回の調査地点です」
会議室には、フォックスとスリッピー。
ステファン財閥グループから派遣された建設技術者達。
宇宙管理局の環境調査担当者。
そして、室内のスピーカーを通じて人工知能ナウスが参加していた。
ルナは表示範囲を拡大する。
「前回の視察では、地表の大きな崩落や沈み込みが、他の地域と比べて少ないことを確認しました。周囲に大型の建物が密集していないので、資材の搬入経路も作りやすいと思います」
映像の中で、平地の縁から麓へ下る仮設ルートが表示される。
「ただし、前回は短時間の目視と簡易計測しか出来ませんでした」
ルナは続ける。
「地表が安定して見えても、その下に空洞や断層がある可能性があります。地下水が残っているかもしれませんし、過去の建造物や配管が埋まっている可能性もあります」
建設チームの現場責任者が頷いた。
「そのため、今回は実際に複数地点で掘削調査を行います。地盤支持力、地下構造、土壌成分、地下水位、それから地中に残る人工物の有無を確認します」
「はい」
ルナは頷いた。
「最終的には、テラフォーミングマシン本体と、その周辺設備を設置出来るかを判断したいです」
テラフォーミングマシン。
ただ地表へ置けば動く装置ではない。
本体の重量を支える基礎。
長期間稼働させるための電源設備。
大気や土壌の状態を読み取る観測機器。
機器を保守するための施設。
資材を置く仮設ヤード。
作業員が安全に活動するための前進拠点。
建設するとなれば、装置一台を運び込むだけでは済まない。
「今回の調査結果で問題がなければ、次は基礎構造の設計へ進みます」
現場責任者が地形図を指し示した。
「ただし、表層だけが安定していて、その下が脆い場合は、大型設備を直接置くことは出来ません。杭を打つにしても、どの深さまで支持層があるかを確かめる必要があります」
「地震の影響も、まだ残っていますよね」
ルナが尋ねる。
「残っているというより、現在も地殻が完全に安定しているとは言えません」
環境調査担当者が答える。
「地球全体で大規模な変動は落ち着いていますが、局地的な微動や地盤の変形は続いています。特に旧都市部では、地下施設の崩壊が時間差で発生する危険があります」
ルナは、立体地図の上に表示された赤い線を見る。
過去に確認された地割れ。
推定される断層。
崩壊した地下交通網。
前回その場所へ立った時には、昨日まで見てきた土地よりもずっと良いと感じた。
少なくとも、立った瞬間に無理だとは思わなかった。
だが、使えるように見えることと、実際に何十年も設備を置けることは違う。
「だからこそ、今回は一週間です」
フォックスが腕を組んだまま言った。
「短時間で結論を出さない。地上の計測だけでなく、周辺の上空観測も継続する」
「地盤調査中に天候が崩れる可能性もあるからね」
スリッピーが端末を操作する。
「グレートフォックス側で大気の流れと重力変動をずっと見ておくよ。地上班が作業してる時に急な磁気異常や地殻反応が出たら、すぐ知らせる」
『補足します』
室内へ、ナウスの落ち着いた合成音声が流れた。
『今回の予定滞在期間は、地球到着後約七日間です。ただし、これは最大活動期間ではありません』
ルナがスピーカーを見る。
「どういうこと?」
『危険度が撤退基準を超えた場合、調査日数に関係なく活動を終了します』
会議室の大型画面へ、新しい項目が表示される。
大気成分の急変。
局地的な重力異常。
一定値以上の地殻振動。
宇宙船の帰還機能に影響する磁気変動。
作業員の健康状態。
防護装備の損傷。
どれか一つでも基準を超えた場合、調査は中断される。
「相変わらず、はっきり言うね」
スリッピーが苦笑する。
『曖昧な撤退条件は、判断の遅れを発生させます』
「間違ってない」
フォックスが短く言った。
ルナも頷く。
「うん。今回は、調査を終わらせることより、全員で帰ることの方が大事だから」
『記録しました』
ナウスが答える。
それを聞いて、建設チームの何人かが少しだけ表情を引き締めた。
ステファン財閥グループから派遣された技術者達は、宇宙建築やコロニー外壁工事の経験を持つ者達だった。
真空や低重力下での工事には慣れている。
だが、今の地球は単純な無人惑星ではない。
かつて人類が暮らした都市の残骸。
破壊された地下構造。
不安定な大気。
完全には収束していない地殻変動。
そして、どの機器にも記録されていない危険。
過去の文明が残っているからこそ、何もない土地より予測が難しかった。
「調査は、大きく四つに分けます」
現場責任者が説明を続けた。
「一つ目は地表測量。候補地の高低差と傾斜、亀裂の分布を測ります」
地形図へ青い格子が重なる。
「二つ目は地下探査。地中レーダーと振動探査を使って、空洞、地下構造物、断層を確認します」
次に、黄色い探査線が表示される。
「三つ目はボーリング調査。候補地点を数か所掘り、土質と支持層を直接確認します」
赤い点が平地の各所へ置かれる。
「四つ目が環境調査です。土壌、大気、水分、それから放射性物質や有害成分の有無を測定します」
ルナは表示された点を見つめた。
「テラフォーミングマシンの設置場所は、一か所だけ調べればいいわけじゃないんですね」
「ええ」
現場責任者が答える。
「本体を設置する場所だけが安定していても、周辺設備が置けなければ意味がありません。資材搬入路、発電設備、制御施設、作業員の待機所まで含めて確認します」
「最初の活動拠点にもする予定です」
ルナは言った。
「最初から大きな町を作るつもりはありません。でも、地球で活動を続けるための拠点にはしたいです」
「その考えで正しいと思います」
現場責任者は頷いた。
「最初は設備を絞るべきです。テラフォーミングマシンを動かすための施設と、安全に滞在するための最低限の区画。そこから地球の変化を見て、段階的に広げる」
「はい」
ルナは真剣に答えた。
以前なら、もっと早く、もっと多くの設備を置きたいと思っていたかもしれない。
一日でも早く地球を戻したい。
一つでも多くテラフォーミングマシンを動かしたい。
その思いは今も変わらない。
だが、焦って失敗すれば、次に続かなくなる。
資金も、人材も、設備も限られている。
最初の一歩を失敗すれば、地球再生計画そのものが、無謀な夢として見られる可能性もある。
「一週間で全部決められるとは思っていません」
ルナは会議室の全員を見る。
「でも、次へ進めるかどうかは確認したいです」
フォックスが小さく頷く。
「それでいい」
スリッピーも笑った。
「今回は建てるための調査だもんね。建てること自体が目的じゃない」
『正確には、建設可能性を判定するための基礎情報収集です』
ナウスが訂正する。
「そうそう、それ」
スリッピーは気にした様子もなく返した。
◇
出発当日。
宇宙管理局の宇宙港には、以前の視察時よりも明らかに多くの機材が並んでいた。
大型地中レーダー。
小型ボーリング装置。
地表振動を測るセンサー。
土壌採取用の密閉容器。
大気成分分析機。
地形測量用の飛行ドローン。
仮設の通信中継器。
防護服の予備。
非常用酸素。
簡易除染設備。
一週間分の食料と水。
資材は管理番号ごとに分けられ、グレートフォックスの貨物区画へ順番に運び込まれていく。
その隣では、ステファン財閥グループの建設チームが機材の最終確認を続けていた。
作業用の外骨格を点検する者。
ボーリング装置の固定具を確認する者。
採取容器の密閉状態を一つずつ見る者。
調査だけとはいえ、現地で小さな不具合が起きれば、代わりの部品をすぐ取りに戻ることは出来ない。
ルナはその間を歩きながら、自分の端末に表示された一覧と、積み込まれていく機材を照合していた。
「地中レーダー、一号機と二号機、積み込み完了」
作業員の報告を聞き、確認欄へ印をつける。
「ボーリング装置の予備掘削ヘッドは?」
「三種類、各二本です」
「固定用アンカーは?」
「貨物区画二番へ積み込みました」
「分かりました」
ルナは答え、次の項目へ目を移す。
以前、初めて地球へ向かった時のルナは、胸の中にある期待を抑えきれずにいた。
地球を見る。
地球へ降りる。
それだけで、身体の奥が熱くなっていた。
今も楽しみではある。
だが、今回は違う。
自分の判断が、建設チーム全員の一週間に影響する。
調査結果によって、ステファン財閥グループが本格的な設計へ進むかどうかも決まる。
夢を見るだけの訪問ではない。
費用も、人も、時間も動いている。
「ルナ」
背後からフォックスに呼ばれ、ルナは振り返った。
「はい」
「貨物の確認は建設チームに任せろ。お前が全部見る必要はない」
「でも、私も内容を把握しておきたいので」
「把握と、全部自分で確認するのは違う」
フォックスは落ち着いた声で言った。
「現地へ着く前に疲れるぞ」
ルナは少しだけ言葉に詰まる。
「……そんなに疲れて見えますか?」
「朝から三回、同じ一覧を見直してる」
「三回も?」
『正確には四回です』
近くの貨物端末からナウスの声が流れた。
ルナが思わずそちらを見る。
「ナウス、数えてたの?」
『作業記録として保存しています』
「保存しなくてもいい記録じゃないかな」
『作業の重複は、疲労状態を判断する情報になります』
スリッピーが貨物区画の奥から顔を出した。
「ナウスに誤魔化しは通じないよ」
「誤魔化してないですよ」
「じゃあ、心配しすぎ」
スリッピーは端末を抱えたまま近づいてくる。
「こっちは全部積み込み終わったよ。地中レーダーも、ドローンも、予備電源も固定済み。グレートフォックスの電力系統にも問題なし」
「ありがとう、スリッピーさん」
「どういたしまして」
フォックスは宇宙港の時計を見る。
「出発まで二十分。ルナは一度中へ入って休め」
「まだ建設チームの――」
「休め」
短い言葉だった。
だが、強く怒鳴るわけではない。
議論を終わらせるような、はっきりした声だった。
ルナは少しだけ頬を膨らませそうになったが、すぐに息を吐いた。
「分かりました」
「素直でよろしい」
スリッピーが笑う。
「スリッピーも最終確認が終わったなら休め」
「僕も?」
「お前は昨日から機体の調整を続けてるだろ」
「あと少しだけ――」
「休め」
「分かったよ」
ルナとスリッピーは並んでグレートフォックスのタラップへ向かった。
その後ろから、フォックスが小さく息を吐く。
『フォックス』
通信端末からナウスが呼ぶ。
「何だ」
『あなたも昨日の睡眠時間が基準を下回っています』
「俺はいい」
『却下します』
「ナウス」
『指揮担当者の疲労は、地上班全体の危険度を上昇させます』
少し前を歩いていたスリッピーが振り返り、楽しそうに笑った。
「フォックスも休めって」
「聞こえてる」
「一緒に休もうよ」
「お前と一緒にするな」
そう返しながらも、フォックスは貨物区画へ戻らず、そのままタラップへ向かった。
◇
グレートフォックスの船内は、前回と変わらず実用性を優先した構造だった。
前方に操縦室。
中央に小規模なラウンジと作戦区画。
後方には広い格納庫と貨物区画。
長期間の豪華な旅行を想定した船ではない。
必要な人員と設備を、必要な場所へ確実に運ぶための母艦だった。
今回は、中央区画の一部が建設チーム用の作業スペースに変更されている。
壁面には地質データを表示する大型画面。
机には採取地点の予定図。
床には、地上へ降ろす機材が固定されていた。
ルナは窓際の席へ座り、端末を膝の上へ置く。
その画面には、一週間の予定が表示されている。
第一日。
現地到着。
グレートフォックスによる上空観測。
建設チームの地上展開。
仮設拠点と通信機器の設置。
第二日。
候補地全体の地表測量。
亀裂と傾斜の記録。
第三日。
地中レーダーによる地下構造調査。
第四日から第五日。
ボーリング調査。
土壌と地下水の採取。
第六日。
追加調査と設置候補位置の比較。
第七日。
機材回収。
現地での一次評価。
帰還準備。
予定どおり進んだ場合の計画だ。
天候や地殻変動によっては、順番を入れ替える。
危険があれば中断する。
必要なデータが取れなければ、無理に結論を出さず再調査とする。
「一週間か……」
ルナが小さく呟く。
「長い?」
向かい側の席で端末を開いていたスリッピーが尋ねた。
「ううん」
ルナは首を横に振る。
「前回は二泊三日だったから、それに比べたら長いけど」
「今回は見るだけじゃないからね」
「うん」
ルナは予定表へ視線を戻した。
「一週間で、本当に分かるかな」
『すべてを把握することは不可能です』
天井のスピーカーからナウスが答える。
「ナウス」
『ただし、建設へ進むために必要な基礎情報を得ることは可能です』
「……そっか」
『今回必要なのは、地球全体の安全を証明することではありません。指定された候補地が、第一段階の施設建設に適しているかを判定することです』
「全部を一度に決めようとしなくていいってこと?」
『その認識で問題ありません』
ルナは少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう、ナウス」
『感謝は不要です』
その答えに、スリッピーが笑う。
「相変わらずだね」
『任務遂行に愛想は不要です』
「誰かに似てるよね」
スリッピーが操縦室の方を見る。
『比較対象はフォックスですか』
「僕は何も言ってないよ」
『視線方向と発言内容から推定しました』
「本当に誤魔化せないなぁ」
ルナも小さく笑った。
その時、操縦室からフォックスが姿を見せる。
「出発準備が整った」
ラウンジ内にいた建設チームの全員が顔を上げた。
「五分後に出る。各自、固定席へ移動してくれ」
技術者達が端末を閉じ、順番に席へ向かう。
ルナも立ち上がろうとしたが、フォックスが先に彼女を見る。
「ルナ」
「はい」
「今回は前回より長い。地球へ着いてからも、毎日地上へ降りることになる」
「はい」
「疲れていても、無理に出ようとするな」
「しません」
「本当か?」
「本当です」
フォックスは数秒、ルナの顔を見た。
前回の地球視察。
日本、中国、アメリカ、ロシア。
崩れた都市や、変わり果てた土地を見るたび、ルナの表情は少しずつ重くなっていた。
それでも最後にフランスで候補地を見つけた時、ようやく前を向いた。
今回、ルナはその場所へ希望を持って戻ろうとしている。
だからこそ、期待が強すぎれば、自分の疲労や危険を後回しにする可能性があった。
「約束します」
ルナは今度は、はっきりと言った。
「自分で大丈夫だと思っても、フォックスさんや建設チームが止めたら従います」
「ナウスの警告にも従え」
「はい」
『記録しました』
「記録が早いね」
『発言の撤回を防止するためです』
「撤回しないよ」
ルナは困ったように笑う。
フォックスも僅かに目を細めた。
「ならいい」
そう言って操縦室へ戻ろうとする。
「フォックスさん」
ルナが呼び止める。
「何だ」
「今回も、よろしくお願いします」
フォックスは立ち止まり、振り返った。
「俺達は、そのために来た」
短く答え、そのまま操縦室へ入っていく。
スリッピーも席を立った。
「じゃあ、僕も行くね。今回は機材が多いから、出力配分をずっと見てないと」
「よろしくお願いします。スリッピーさん」
「任せて」
スリッピーは明るく答え、フォックスの後を追った。
ルナは自分の固定席へ座る。
窓の外では、宇宙港の作業員達がグレートフォックスから離れていく。
貨物扉が閉鎖される。
タラップが収納される。
船体と宇宙港を繋いでいた固定アームが、一つずつ外れていく。
『全区画、気密確認』
ナウスの声が船内へ流れた。
『貨物固定状態、正常。生命維持装置、正常。推進系統、正常。地球降下用装備、接続確認』
建設チームの技術者達も、静かに前を向いている。
これは視察ではない。
地球へ遊びに行く旅でもない。
人類の故郷へ、もう一度設備を建てるための調査。
その最初の本格的な現地作業だった。
『発進準備完了』
操縦室からフォックスの声が響く。
「グレートフォックス、発進する」
低い振動が床から伝わる。
船体がゆっくりと宇宙港を離れた。
巨大な窓の向こうで、木星の光が少しずつ遠ざかっていく。
ルナは胸元へ手を当てた。
不安はある。
地盤が使えない可能性もある。
一週間調べても、建設に進めないかもしれない。
予想していなかった危険が見つかるかもしれない。
それでも。
前回は、始められるかもしれない場所を見つけた。
今回は、それを確かめに行く。
夢だったものを、測り、調べ、数字に変える。
そして、現実の計画へ変えていく。
「行ってきます」
ルナは、窓の向こうに見えなくなりつつある宇宙管理局へ、小さく呟いた。
グレートフォックスは進路を変える。
目指すのは、青さを失った地球。
その中に残された、フランスの小高い丘。
一週間の地質調査が、静かに始まろうとしていた。
―――――
出発して少し経った頃、ルナは今日の朝のことを思い出していた。
ルナは、いつもより少し早く目を覚ました。
室内の照明はまだ夜間設定のままで、天井から落ちる光は薄い。窓の外に広がる木星圏の景色も、人工照明の帯が遠くに見えるだけだった。
ベッドの横には、父の形見のリュックが置かれている。
地球へ持っていく荷物の確認は、前日のうちに終わらせていた。
防護服。
着替え。
携帯食。
個人用端末。
調査資料。
緊急用の医療キット。
そして、父のリュック。
何度も確認した。
忘れ物はない。
準備に問題もない。
それでも、ルナはベッドから起き上がったまま、しばらく動けずにいた。
部屋が、いつもより広く感じる。
理由は分かっていた。
「……静かだな」
いつもなら、目を覚ました頃には聞こえてくる声がない。
『ルナ、起きたんか?』
『朝ごはん、ちゃんと食べや』
『忘れ物してへんやろな』
そんなチャコの声が、今日は聞こえない。
チャコは今、ルナの家にはいなかった。
リュウジが向かう東の未探索領域調査に備え、ネフェリスのシステム調整へ入っている。
今回、チャコをリュウジへ貸すと決めたのは、ルナ自身だった。
地球の調査には、フォックスとスリッピーがいる。
グレートフォックスには人工知能ナウスもいる。
建設チームにも、それぞれの専門分野に精通した技術者が揃っていた。
一方で、ネフェリスの中枢システムを理解し、機体の変化を操縦士へ直接伝えられる存在は限られている。
だから、チャコはリュウジの側にいた方がいい。
そう判断した。
間違っているとは思っていない。
それでも、チャコのいない朝は、少しだけ心細かった。
ルナはベッドを降り、父のリュックへ手を伸ばす。
古びた生地に触れる。
長い年月を経ても、この感触だけは変わらない。
「大丈夫」
自分へ言い聞かせるように呟く。
「今回は調査だけ。フォックスさんもスリッピーさんもいる。ナウスもいるし、建設チームの人達もいる」
言葉にすれば、何も問題はないように思える。
だが、胸の奥にある重さは消えなかった。
今回は、以前の地球視察とは違う。
候補地を見るだけではない。
自分が見つけた場所へ、専門家達を連れていく。
地盤を調査する。
テラフォーミングマシンを建設出来るかを判断する。
その結果によって、地球再生計画の次の段階が決まる。
もし、地盤が使えなかったら。
もし、自分が見つけた場所が間違っていたら。
もし、建設チームの人達を危険な目に遭わせたら。
考えないようにしても、次々と不安が浮かんでくる。
ルナはリュックを抱えるようにして、窓際の椅子へ座った。
その時だった。
机の上に置いていた通信端末が、短い電子音を鳴らした。
画面に表示された名前を見て、ルナは目を瞬かせる。
「リュウジ?」
こんな朝早くに、リュウジから連絡が来るとは思っていなかった。
ルナは慌てて端末を手に取り、通話をつなぐ。
「もしもし?」
『起きてたか』
聞き慣れた、低く落ち着いた声だった。
「うん。今、準備してたところ」
『そうか』
短い返事。
相変わらず、用件の前置きが長い人ではない。
だが、すぐには次の言葉が続かなかった。
「どうしたの?」
『……いや』
「何かあった?」
『問題はない』
「じゃあ、何?」
ルナが少しだけ笑いながら聞くと、通信の向こうでリュウジが息を吐く音がした。
『チャコのことだ』
ルナの表情が少しだけ柔らかくなる。
「チャコ?」
『ああ』
リュウジは、ほんの僅かに言葉を選ぶような間を置いた。
『貸してくれて、ありがとう』
それは、リュウジにしては随分と素直な言葉だった。
ルナは思わず目を丸くする。
「急にどうしたの?」
『礼を言ってなかった』
「言ってくれなくても分かってるよ」
『それでも、言うべきだと思った』
ルナは、端末を持つ手へ少しだけ力を込めた。
以前のリュウジなら、きっと言わなかった。
必要だから借りる。
任務だから協力する。
そういう言葉だけで終わらせていたかもしれない。
だが今は、チャコを送り出したルナの気持ちまで考えて、連絡をくれた。
「チャコ、ちゃんと役に立ってる?」
『ああ』
返答は早かった。
『ネフェリスの中枢制御と観測系統の調整を進めてる。俺では気づけなかった細かい遅延も、いくつか見つけた』
「そっか」
『相変わらず、うるさいけどな』
「それは仕方ないよ」
ルナは笑う。
「チャコだもの」
『分かってる』
その時、通信の向こうから、遠くにチャコの声が聞こえた。
『誰がうるさいねん! 聞こえとるで!』
ルナは思わず吹き出した。
「チャコ、近くにいるの?」
『隣の区画にいる』
『隣やない! すぐ後ろや!』
『作業に戻れ』
『なんやと! こっちは朝からネフェリスの機嫌取っとるんやぞ!』
『だから任せてる』
『もっと感謝せぇ!』
いつものやり取りだった。
チャコの声を聞いた瞬間、静かだった部屋に少しだけいつもの空気が戻ってきたような気がした。
「元気そうでよかった」
『元気すぎる』
『ルナ! こいつな、昨日から無茶な調整案ばっかり出しよるんや!』
「リュウジ、無茶してるの?」
『してない』
『しとる!』
「リュウジ」
『……必要な範囲だ』
その返事を聞いて、ルナは少しだけ眉を下げた。
「チャコの言うこと、ちゃんと聞いてね」
『分かってる』
『分かってへんから言うとるんや!』
「リュウジ」
『聞く』
今度は少しだけ諦めたような返事だった。
ルナはくすりと笑う。
「お願いします」
『ああ』
そこで一度、会話が途切れた。
通信を切るには少し早い。
けれど、何を話せばいいのか分からない。
ルナは端末の画面へ映るリュウジの顔を見る。
リュウジは作業着姿だった。
背後にはネフェリスの機体データが表示され、いくつもの調整項目が並んでいる。
恐らく、朝からずっと作業を続けているのだろう。
目の下には薄く疲労の色がある。
それでも、表情は以前より落ち着いていた。
『お前は今日、出発だったな』
「うん」
『何時だ』
「あと二時間くらい」
『準備は終わってるのか』
「終わってるよ」
『なら、少し休んでおけ』
「フォックスさんにも同じこと言われそう」
『言われる前に休め』
「リュウジまで言うの?」
『お前は準備が終わってても、何度も確認するからな』
ルナは少しだけ驚いた。
「どうして分かるの?」
『昔からそうだった』
「昔から?」
『サヴァイヴでも、出発前は全員の荷物を確認して、自分の分を最後に確認してただろ』
ルナは、思い返す。
大いなる木を出て探索へ向かう朝。
食料を確認する。
水を確認する。
シャアラの荷物が重すぎないかを見る。
ベルの装備が外れていないかを見る。
シンゴが余計な機械を持っていこうとしていないか見る。
ハワードが必要なものを忘れていないか確認する。
メノリの予定と照らし合わせる。
カオルやリュウジが勝手に先へ行かないよう声を掛ける。
そして最後に、自分の荷物を持つ。
確かに、いつもそうだった。
「よく覚えてるね」
『忘れるわけないだろ』
リュウジは何でもないことのように答えた。
だが、その一言がルナの胸に静かに残った。
「……ねえ、リュウジ」
『何だ』
「私、ちゃんと出来るかな」
口に出した瞬間、自分でも驚いた。
本当は、誰にも言わないつもりだった。
フォックスに言えば、必要以上に気を遣わせてしまうかもしれない。
スリッピーに言えば、きっと明るく励ましてくれる。
建設チームの人達には、計画を進める側の自分が弱気に見えてはいけないと思っていた。
だから、胸の中にしまっておくつもりだった。
けれど、リュウジの声を聞いたら、自然に言葉が出ていた。
『何がだ』
「地球の調査」
『地質調査のことか』
「うん」
ルナは、膝の上で父のリュックを抱き締めた。
「前回は、私達が行って見つけただけだったでしょう?」
『ああ』
「でも今回は、ステファン財閥グループの建設チームも一緒に行く。みんな、私達が見つけた場所を調べるために来てくれる」
『そうだな』
「もし、使えない場所だったらどうしようって思って」
リュウジは黙って聞いている。
「地盤が弱かったり、地下に大きな空洞があったり、テラフォーミングマシンなんて置けない場所だったら……」
『その可能性はある』
リュウジは、無責任に否定しなかった。
大丈夫だと、根拠なく慰めることもしない。
その答えは少し厳しい。
けれど、ルナはその方が安心した。
「うん」
『調査するのは、その可能性を確かめるためだろ』
「そうだけど……」
『使えないと分かったなら、それも結果だ』
「でも、それだとみんなの時間が無駄になる」
『無駄にはならない』
リュウジの声が少しだけ強くなる。
『使えない土地を、使えると思い込んだまま建設へ進む方が問題だ。今回の一週間で危険が分かるなら、それは十分な成果になる』
ルナは黙って聞く。
『それに、場所が駄目だったとしても、お前が間違えたことにはならない』
「どうして?」
『前回のお前達がやったのは、候補地を見つけることだ』
リュウジは落ち着いた声で続ける。
『今回やるのは、その候補が本当に使えるか、専門家が調べることだ。役割が違う』
「役割……」
『お前は地質の専門家じゃない。地下空洞の位置も、支持層の深さも、見ただけじゃ分からない』
「うん」
『だから、分かる人間を連れていくんだろ』
その言葉に、ルナは少しだけ顔を上げた。
『全部、自分で出来る必要はない』
リュウジの声は低い。
だが、以前のような突き放す冷たさはない。
『お前の役目は、自分が知らないことまで知ってるふりをすることじゃない』
「じゃあ、私は何をすればいいの?」
『いつも通りでいい』
迷いのない答えだった。
「いつも通り?」
『ああ』
「でも今回は、サヴァイヴにいた時とは違うよ。みんな大人だし、専門家だし、私よりずっと経験がある人ばかりで……」
『それがどうした』
リュウジは即座に返した。
『年齢も、専門も関係ない』
「でも――」
『ルナ』
名前を呼ばれ、ルナは言葉を止めた。
『サヴァイヴにいた時、お前は何をしてた』
「何って……」
『誰かに命令されるまで待ってたか』
「ううん」
『危険な場所へ行く時、自分だけ安全な所に残ってたか』
「残ってない」
『仲間の意見がぶつかった時、誰か一人の言うことだけ聞いてたか』
「……聞いてない」
『だったら、同じだ』
リュウジの言葉が、ゆっくりと胸の中へ入ってくる。
『お前は、皆のために必要だと思ったことを、誰より先にやってた』
サヴァイヴでの日々が蘇る。
食料が足りなければ、自分から探しに行った。
誰かが体調を崩せば、すぐに側へ行った。
意見がぶつかれば、話を聞いた。
危険な場所へ向かう時は、役割を分けた。
誰か一人へ負担が偏らないように考えた。
怖くないわけではなかった。
自信があったわけでもない。
ただ、何もしないでいる方が嫌だった。
『メノリみたいに全部を決めるわけでもない』
リュウジが続ける。
『カオルみたいに先頭で危険を潰すわけでもない』
「うん」
『シンゴやチャコみたいに、機械を直せるわけでもない』
「そうだね」
『それでも、お前がいたから全員が同じ方向を向けた』
ルナの指が、リュックの生地を強く握る。
『誰かが遅れたら待つ。誰かが間違えたら責める前に話を聞く。誰かが怖がってたら、無理に引っ張らず隣に立つ』
リュウジは淡々と話している。
だが、一つ一つの言葉は、長い間ずっとルナを見てきた人間にしか言えないものだった。
『必要な時は自分から動く。でも、自分の考えだけを押し通さない』
「……私、そんなに出来てたかな」
『出来てた』
「失敗もいっぱいしたよ」
『失敗しない人間がリーダーになるわけじゃない』
リュウジは言う。
『失敗した時に、誰かのせいにせず、次を考えられる人間が前に立つんだ』
ルナは息を止めた。
『お前は、サヴァイヴでずっとそうしてた』
「リュウジ……」
『だから、今回も同じでいい』
画面の向こうで、リュウジが僅かに目を細める。
『建設チームの話を聞け。フォックスとスリッピーの判断も聞け。ナウスの警告も無視するな』
「うん」
『その上で、誰かが見落としてる人間がいたら、お前が気づけ』
「見落としてる人間?」
『緊張してる奴。無理してる奴。意見を言えずに黙ってる奴』
ルナは、出発前の会議を思い返す。
経験豊富そうな現場責任者。
落ち着いた地質技術者。
若い測量担当者。
機材管理をしていた技術者。
皆、仕事の話はしていた。
だが、自分が彼ら一人一人の表情まで見ていたかと問われると、自信がなかった。
『専門家同士でも、話が噛み合わないことはある』
リュウジは続ける。
『それぞれが自分の担当を優先すれば、全体が見えなくなる』
「その時に、私がまとめるの?」
『最初からまとめようとしなくていい』
「え?」
『お前は、命令して人を動かすタイプじゃないだろ』
ルナは少し考え、頷いた。
「うん」
『だったら、いつも通り聞けばいい』
「聞く?」
『何が心配なのか。何を優先したいのか。何が足りないのか』
リュウジの言葉は、簡潔だった。
『全員の話を聞いて、それから一緒に考える。それがお前のやり方だ』
ルナの胸の中にあった不安が、少しずつ形を変えていく。
失敗したらどうしよう。
自分が正しく判断出来なかったらどうしよう。
そうではない。
自分一人で正解を出す必要はない。
皆の持つ正しさを集め、同じ方向へ向ける。
それなら、これまでもやってきた。
「私が全部決めなくてもいいんだね」
『当たり前だ』
「でも、逃げても駄目」
『そうだ』
「自分から話を聞いて、必要なことがあれば動く」
『ああ』
「誰かが困ってたら、声を掛ける」
『そうしろ』
「みんなが別々の方向を見てたら、何のための調査か思い出してもらう」
『それでいい』
ルナは、少しずつ笑顔を取り戻していく。
「地球にテラフォーミングマシンを置くための調査」
『違う』
突然否定され、ルナは目を瞬かせた。
「え?」
『安全に置けるかを確かめるための調査だ』
「あ……」
『建てることが目的になると、無理をする』
リュウジの声が少し低くなる。
『危険な結果が出た時に、それを認められなくなる』
「そうだね」
『今回の目的は、建設を進めることじゃない。進めていいかを確かめることだ』
「うん」
ルナは強く頷いた。
「忘れない」
『なら問題ない』
リュウジは短く言った。
その言い方は、どこかサヴァイヴにいた頃を思い出させた。
危険な探索へ向かう前。
ルナが不安を隠しながら皆へ役割を伝えた時。
少し離れた場所にいたリュウジは、いつも多くを語らなかった。
けれど、最後には必ず短く頷いていた。
あの頃のリュウジは、ルナを褒めることなどほとんどなかった。
それでも、必要な時には黙って彼女の判断へ従っていた。
今になって、その理由を言葉にしてくれている。
「リュウジは、私のことをちゃんと見てくれてたんだね」
『見てなきゃ、あの惑星で生き残れなかっただろ』
「そういう言い方するんだ」
『事実だ』
ルナは笑う。
さっきまで胸にあった重さが、少しだけ軽くなっていた。
「ありがとう」
『俺は何もしてない』
「してるよ」
『電話しただけだ』
「それで十分」
リュウジは何も返さなかった。
ただ、僅かに視線を逸らした。
照れているのだろうか。
ルナはそう思ったが、口には出さなかった。
代わりに少しだけ声を柔らかくする。
「リュウジも、ちゃんと帰ってきてね」
『ああ』
「チャコも」
『連れて帰る』
『当たり前や! 誰が置いていかれるか!』
再びチャコの声が入り、ルナは笑った。
「チャコ」
『なんや、ルナ』
「リュウジのこと、お願いね」
『任しとき。こいつが無茶しようとしたら、ウチが止めたる』
『余計なことを言うな』
『余計やない。最重要事項や』
「チャコ自身も無茶しちゃ駄目だよ」
『分かっとる』
「本当に?」
『リュウジと一緒にすんなや』
『お前も大概だろ』
『なんやと?』
また言い合いが始まる。
ルナは端末を見ながら、声を上げて笑った。
チャコがいないことへの寂しさは、まだある。
だが、チャコは必要な場所にいる。
リュウジの側で、ネフェリスを守っている。
そして自分も、自分がいるべき場所へ向かう。
「じゃあ、そろそろ準備するね」
『ああ』
「電話してくれてありがとう」
『……気をつけて行ってこい』
「うん」
ルナは笑顔で頷く。
「行ってきます」
『行ってこい』
通話が切れる。
画面が暗くなり、部屋に再び静けさが戻る。
けれど、さっきまでの静けさとは違った。
ルナは父のリュックを肩に掛ける。
胸の前でベルトを整える。
鏡の中の自分を見る。
不安が完全になくなったわけではない。
それでいいのだと思えた。
不安があるから、確認する。
怖いから、皆の話を聞く。
自信がないから、一人で決めようとしない。
それでも、必要な時には最初の一歩を踏み出す。
「いつも通り」
ルナは鏡の中の自分へ言った。
「私らしくやればいい」
◇
宇宙管理局の宇宙港には、すでにグレートフォックスが待機していた。
巨大な船体の周囲で、ステファン財閥グループの建設チームが機材の積み込みを進めている。
フォックスは貨物区画の入口で搬入状況を確認し、スリッピーは機体側の端末へ接続して電力配分を調整していた。
人工知能ナウスの声が、作業区域全体へ流れている。
『地中レーダー二号機、固定圧が基準値を下回っています』
「二号機、締め直します!」
『ボーリング装置の予備電源は、貨物区画三番へ移動してください。現在の配置では、緊急時の取り出しに時間を要します』
「了解!」
作業員達は忙しく動いている。
ルナは宇宙港の入口で一度立ち止まり、その光景を見渡した。
以前なら、すぐに機材表を開き、自分も確認へ加わっていたかもしれない。
だが今日は、少しだけ違った。
機材より先に、人を見る。
現場責任者は落ち着いている。
年配の地質技術者は、搬入リストと貨物の位置を照らし合わせている。
若い測量担当者は、機材ケースを抱えながら何度も周囲を見ていた。
動きが少し硬い。
表情にも緊張がある。
ルナはその人物へ歩み寄る。
「おはようございます」
「あっ、おはようございます!」
若い技術者は、慌てて背筋を伸ばした。
「今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
声が少し上ずっている。
ルナはすぐに仕事の話へ入らず、柔らかく尋ねた。
「地球は初めてですか?」
「はい」
若い技術者は正直に頷いた。
「映像では何度も見ていますが、実際に行くのは初めてです」
「私も、最初はすごく緊張しました」
「ルナさんでもですか?」
「もちろんです」
ルナは笑う。
「初めて地球を見た時は、嬉しいのか怖いのか、自分でも分かりませんでした」
若い技術者の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「今回も少し不安です」
ルナは隠さずに言った。
「え?」
「ちゃんと調査出来るかなとか、候補地が使えなかったらどうしようとか」
「でも、ルナさんが不安だと……」
「不安でも、準備は出来ます」
ルナは穏やかに答えた。
「分からないことがあれば、皆さんに聞けます。危険だと思ったら、止まれます」
その言葉に、若い技術者は少しだけ考えるように目を伏せた。
「……自分も、分からないことを言っていいんでしょうか」
「もちろんです」
「現場責任者や先輩達は経験があるので、自分が変なことを言ったら邪魔になるかなって」
ルナは、リュウジに言われた言葉を思い出す。
意見を言えずに黙っている人。
まさに、目の前にいる。
「変なことかどうかは、言ってみないと分かりません」
ルナは言った。
「今回の調査は、誰か一人の経験だけで進めるものじゃないと思います」
「……はい」
「測量をしている人にしか見えないこともあるでしょう?」
「あります」
「だったら、気づいたことは教えてください」
ルナは微笑む。
「私にも、フォックスさんにも、現場責任者さんにも」
若い技術者は、少しだけ緊張を残しながらも、はっきりと頷いた。
「分かりました」
「一週間、一緒に頑張りましょう」
「はい!」
その声は、さっきより少しだけ明るかった。
ルナが離れようとした時、別の場所から言い争うような声が聞こえた。
「だから、地中レーダーは先に降ろした方がいいと言ってるでしょう」
「先に仮設電源を出さなければ、レーダーを動かせない」
「電源はグレートフォックスから引けます」
「ケーブル長が足りない可能性がある」
二人の技術者が、貨物配置を前に意見をぶつけていた。
どちらも間違っているようには聞こえない。
ルナは少しだけ立ち止まる。
以前なら、どちらが正しいのかを急いで決めようとしたかもしれない。
だが今は、リュウジの言葉が頭にあった。
何が心配なのか。
何を優先したいのか。
何が足りないのか。
ルナは二人の間へ近づいた。
「どうしました?」
一人が地中レーダーを指す。
「現地へ着いたら、最初に地下の簡易確認をしたいんです。だからレーダーを手前へ積んでおきたいんですが」
もう一人が仮設電源装置を指した。
「通信機器と照明、それから簡易拠点の電源を先に確保すべきです。作業開始前の安全確認にも必要です」
ルナは、すぐに答えを出さなかった。
「レーダーを先に出したい理由は、調査時間を短縮するためですか?」
「それもありますが、地上展開前に周辺の地下構造を簡易確認したいんです。大型機材を降ろす場所に空洞があれば危険ですから」
「仮設電源を先に出したい理由は?」
「地上班が降りた直後から通信を安定させるためです。現地の大気や磁気状態によっては、携帯電源だけでは不安があります」
ルナは頷く。
どちらも安全のためだった。
「二人とも、安全を先に確認したいんですね」
言い争っていた二人が、一瞬黙る。
「……そうです」
「はい」
「じゃあ、どちらかを後回しにするんじゃなくて、最初に必要な分だけ両方を出せないでしょうか」
「両方?」
「仮設電源を全部降ろす前に、通信とレーダーを動かせる最低限の電源だけ先に出すんです」
二人は貨物配置を見る。
「小型補助電源なら、レーダー一号機と一緒に出せるかもしれません」
「通信中継器一基なら、それで動かせます」
「それから周辺の簡易探査が終わったら、本格的な仮設拠点を展開する」
「……それならいけます」
「配置を少し変えれば、取り出し順も問題ありません」
さっきまでぶつかっていた二人が、今度は同じ端末を覗き込む。
ルナは、何も命令していない。
どちらかを否定したわけでもない。
ただ、二人が何を守ろうとしているのかを聞いただけだった。
「ルナ」
いつの間にか、少し離れた場所にフォックスが立っていた。
「フォックスさん」
「準備は出来たか」
「はい」
「荷物は?」
「確認しました」
「四回も?」
ルナは一瞬、言葉に詰まる。
「今日は一回です」
フォックスが僅かに眉を上げた。
「珍しいな」
「今日は、機材より人を見ることにしました」
「人?」
「はい」
ルナは、若い技術者と、貨物配置を相談している二人を見る。
「みんなが安心して調査出来るようにしたいので」
フォックスも同じ方向を見る。
若い技術者は、先輩へ何か質問していた。
先ほど意見をぶつけていた二人は、協力して積載順を変更している。
「そうか」
フォックスは短く答えた。
その横から、スリッピーが明るい声を掛ける。
「もう何人かと仲良くなったの?」
「仲良くなったっていうか、少し話しただけですよ」
「それを仲良くなったって言うんだよ」
「まだ名前を聞いてない人もいるますよ」
「じゃあ、船の中で聞けばいいよ」
スリッピーは笑いながら言う。
「一週間もあるんだから」
「はい」
ルナも笑う。
グレートフォックスの周囲では、まだ出発準備が続いていた。
緊張は消えていない。
不安もある。
調査が上手くいく保証もない。
だが、ルナが一人へ声を掛けたことで、一人が話し始めた。
二人の意見を聞いたことで、別々だった考えが一つにつながった。
ほんの小さな変化だった。
それでも、こうした小さな変化を積み重ねて、ルナはサヴァイヴでも皆をまとめてきた。
強い言葉で従わせたわけではない。
自分だけが正しいと主張したわけでもない。
まず自分から動く。
困っている人の側へ行く。
相手の話を聞く。
誰かの正しさを、別の誰かの正しさとつなぐ。
そして、皆が立ち止まりそうになった時には、自分が最初に前を向く。
「ルナ」
フォックスが呼ぶ。
「そろそろ搭乗するぞ」
「はい!」
ルナは元気よく答える。
父のリュックを背負い直し、グレートフォックスへ向かって歩き出す。
数歩進んだところで、ふと立ち止まった。
振り返り、建設チームの全員へ声を掛ける。
「皆さん!」
作業を終えた技術者達が顔を上げる。
「一週間、よろしくお願いします!」
明るく、まっすぐな声だった。
「安全を一番にして、分からないことはみんなで話して、ちゃんと全員で帰ってきましょう!」
一瞬の静けさ。
それから、現場責任者が笑って頷いた。
「よろしくお願いします」
年配の技術者も手を上げる。
「全員で帰りましょう」
若い測量担当者が、先ほどよりずっと大きな声で答えた。
「はい!」
その声につられ、他の技術者達からも返事が上がる。
ルナは笑顔で頷き、今度こそタラップへ向かう。
フォックスはその背中を見ながら、小さく息を吐いた。
「相変わらずだな」
「何が?」
スリッピーが尋ねる。
「まだ出発もしてないのに、もう全員を同じ方向へ向けた」
スリッピーは楽しそうに笑った。
「ルナだからね」
グレートフォックスの船内へ入りながら、ルナは胸元へ手を当てた。
リュウジの言葉が、まだそこに残っている。
いつも通りでいい。
サヴァイヴで、皆のために率先して動いた時のように。
誰かを置いていかず、誰か一人に背負わせず、全員の声を聞きながら前へ進む。
それが、自分のやり方だった。
「よし」
ルナは小さく拳を握る。
「頑張ろう」
不安はある。
けれど、不安よりも先に動くことは出来る。
怖くても、笑顔で声を掛けることは出来る。
一人で正解を出せなくても、皆と一緒に考えることは出来る。
グレートフォックスの扉が閉じていく。
ルナは、その向こうに広がる宇宙を見つめた。
地球へ向かう一週間の調査。
その始まりに立つ彼女の表情には、もう迷いだけはなかった。