グレートフォックスの扉が閉鎖される。
外部と船内を隔てる重い金属音が響き、続いて気密確認を知らせる電子音が流れた。
『全区画の気密を確認しました』
人工知能ナウスの平坦な声が、船内スピーカーから響く。
『貨物区画固定具、異常なし。生命維持装置、正常。航法系統、正常。地球環境調査用機材、全機接続を確認しました』
中央区画に設けられた固定席では、ステファン財閥グループの建設チームが安全ベルトを締めていた。
現場責任者。
地質調査担当。
測量担当。
電源・通信設備担当。
ボーリング機材の操作担当。
補助作業員。
全員がそれぞれの端末や機材を確認しながら、静かに発進を待っている。
ルナも父の形見のリュックを足元に固定し、座席へ深く身体を預けた。
胸の中には、まだリュウジの言葉が残っていた。
――いつも通りでいい。
全部を一人で決めなくてもいい。
誰かが困っていれば声を掛ける。
意見が違えば、それぞれが何を守ろうとしているのかを聞く。
必要な時には、自分から最初の一歩を踏み出す。
それが、サヴァイヴでルナがしてきたことだった。
『発進許可を確認』
ナウスが告げる。
前方の操縦室から、フォックスの低い声が続いた。
「グレートフォックス、発進する」
床の奥から低い振動が伝わってくる。
貨物区画の固定装置が微かに軋み、船体がゆっくりと宇宙港を離れた。
窓の外で、発着場の照明が少しずつ遠ざかっていく。
船体が進行方向へ向きを変えた。
推進器の出力が上昇する。
身体が座席へ押しつけられ、建設チームの何人かが無意識に息を止めた。
ルナも胸の前で手を握る。
怖いわけではない。
宇宙船での移動には慣れている。
それでも今日は、いつもと違う緊張があった。
この船に積まれているのは、ただの調査機材ではない。
地球再生計画を、夢から現実へ変えるための最初の道具だった。
やがて加速が落ち着き、身体を押していた力が緩む。
『通常航行へ移行しました。固定席からの移動を許可します』
ナウスの案内と同時に、安全ベルトが外されていく。
建設チームの技術者達はすぐに端末を開き、それぞれの作業へ戻り始めた。
「到着後の機材展開順を再確認します」
「ボーリング調査地点は、予定どおり六か所でいいですね?」
「地中レーダーは三系統同時に動かすのか?」
「その前に仮設電源を設置しないと駄目だ」
「地表測量の基準点を置く場所が決まっていない」
「通信中継器の配置は?」
あちこちから声が上がる。
誰も遊んでいるわけではない。
全員が真剣に、自分の担当を進めようとしている。
だが、それぞれの会話が別々の場所で始まり、少しずつ重なっていた。
地質担当は掘削地点を優先する。
測量担当は基準点の設置を急ぐ。
電源担当は、機材を動かす前に仮設設備を展開したい。
通信担当は、まずグレートフォックスとの回線を安定させたい。
どれも間違っていない。
しかし、全員が自分の担当だけを先に進めれば、現地で動きがぶつかる。
ルナは席を立ち、中央区画を見渡した。
すぐに口を挟むことはしなかった。
誰が何を話しているのか。
どこで意見が重なっているのか。
誰が声を出せずにいるのか。
一度、全体を見る。
端末を持った若い測量技術者が、何か言いたそうに周囲を見ている。
けれど、経験のある技術者達の会話へ入ることが出来ず、口を閉じていた。
ルナはその姿を見てから、操縦室の方へ歩いた。
前方ではフォックスが航路を確認し、スリッピーが複数の観測画面を切り替えている。
「フォックスさん」
「何だ」
「到着前に、一度全員で作業の順番を確認してもよろしいですか?」
フォックスは前方を見たまま尋ねる。
「必要だと思った理由は?」
「それぞれの担当で確認は進んでいます。でも、現地で何を最初にするのか、全員の考えがまだ一つになっていません」
「責任者はいる」
「はい」
ルナは頷いた。
「ただ、責任者の方が全て決める前に、各担当の人が何を危険だと思っているのかを共有した方がいいと思います」
フォックスが僅かに視線を動かす。
ルナは続けた。
「地質の人が止めたい状況と、通信の人が止めたい状況は違います。今のうちに全員が知っておけば、地球で判断が遅れないと思います」
数秒の沈黙。
「必要だと思うならやれ」
「ありがとうございます」
フォックスの許可を得て、ルナは隣のスリッピーを見る。
「スリッピーさん、中央の大型画面を使わせていただけますか?」
「いいよ。調査地点の地形図を出せばいい?」
「はい。それから、機材の一覧と一日目の予定も一緒に表示出来ますか?」
「出来るよ」
スリッピーは軽く答え、すぐに指を動かした。
「少し待って。地形図、機材配置、作業予定……三つに分けるより、一枚にまとめた方が見やすいかな」
「お願いします」
「了解」
返事は軽い。
だが、手元の動きは速かった。
複数の端末に分かれていた情報が、中央区画の大型画面へ集約されていく。
フランスの地形図。
小高い丘と、その上に広がる平地。
前回の簡易測定地点。
予定している地表測量範囲。
地中レーダーの走査線。
ボーリング調査の候補地点。
仮設電源と通信中継器の設置候補。
貨物区画から機材を出す順番。
別々に見ていた情報が一枚へ重なったことで、全体の関係が見え始める。
「出来たよ」
「ありがとうございます、スリッピーさん」
ルナは中央区画へ戻り、建設チームへ声を掛けた。
「皆さん、少しだけよろしいですか?」
それぞれの会話が止まり、視線がルナへ集まる。
「到着後の作業について、一度全員で確認したいです」
現場責任者が腕時計型の端末を見る。
「予定の確認なら、出発前にも行いましたが」
「はい」
ルナは否定せずに頷いた。
「予定そのものではなくて、皆さんが何を一番危険だと考えているのかを教えていただきたいです」
「危険?」
「はい」
ルナは大型画面の横に立つ。
「予定どおり進められる時は、決めた順番で動けばいいと思います。でも、地球では予定にないことが起こるかもしれません」
全員が静かに聞いている。
「その時、何を優先するのかが担当ごとに違っていたら、判断が遅れると思うんです」
地質担当者が少し考えるように腕を組んだ。
「つまり、中止条件を共有したいということですか?」
「はい。それから、最初に確認しないと自分の作業へ進めない条件もです」
現場責任者はルナを見たあと、画面へ視線を移した。
「分かりました。やってみましょう」
ルナは笑顔で頷く。
「ありがとうございます」
最初に口を開いたのは、地質調査担当者だった。
「地質側で一番警戒しているのは、地下空洞です」
画面に表示された平地を指し示す。
「表面が平らでも、地下に旧施設や配管、交通網が残っている可能性があります。空洞の上へ重機を置けば、荷重で崩落する危険がある」
「つまり、大型機材を降ろす前に地下の簡易確認が必要なんですね」
ルナが聞く。
「そうです。少なくとも、荷下ろし地点と移動経路だけは先に確認したい」
ルナは画面へ項目を加える。
――大型機材展開前、地下空洞の簡易確認。
「測量担当の方は、どうですか?」
声を掛けられた年配の測量担当者が答える。
「地表の視界ですね。粉塵や濃霧で基準点が確認出来なければ、正確な測量は出来ません」
「視界が悪い場合は?」
「作業を縮小するか、飛行ドローンの観測へ切り替えます」
ルナが記録する。
その隣で、若い測量技術者が小さく手を上げた。
「あの……」
「はい」
ルナはすぐに顔を向ける。
「地表が見えていても、風で粉塵が動いている時は、測った基準点が短時間で埋まる可能性があります」
年配の担当者が若い技術者を見る。
若い技術者は少し緊張しながらも続けた。
「基準点を地面へ直接置くより、最初は重り付きの高い標識を使った方がいいと思います」
短い沈黙。
年配の担当者が頷いた。
「確かに、その方が再確認しやすい」
若い技術者の顔が少しだけ明るくなる。
「予備標識はありますか?」
ルナが尋ねる。
「あります。貨物区画の奥ですが」
「では、取り出し順を少し前へ移した方がいいですね」
現場責任者がすぐに端末へ記録する。
ルナは若い技術者へ微笑んだ。
「教えてくださってありがとうございます」
「い、いえ」
声はまだ硬かったが、先ほどより視線は上がっていた。
次に電源担当者が話す。
「電源側としては、機材を動かす前に仮設電源を安定させたいです。地球の磁気状態次第では、グレートフォックスから引く電力線へノイズが入る可能性があります」
「通信側は?」
「同じです。地上班と船内の通信が不安定な状態で、チームを分散させるべきではありません」
「それなら、地質調査より先に電源と通信設備を全部設置した方がいいのでは?」
別の技術者が言う。
地質担当者が首を横に振る。
「全部は危険です。地面を確認する前に大型電源を置けない」
「しかし電源がなければ地中レーダーを長時間動かせない」
「だから簡易確認を先に――」
声が少しずつ強くなる。
ルナは止めるために声を張らなかった。
まず、二人の言葉を最後まで聞いた。
それから尋ねる。
「地中レーダーの簡易確認だけなら、小型電源で出来ますか?」
電源担当者が答える。
「一号機だけなら出来ます」
「通信も最低限の中継器一基なら、小型電源で動かせますか?」
「可能です」
「では最初に、小型電源と通信中継器一基、それから地中レーダー一号機を一緒に降ろすのはどうでしょうか」
地質担当者と電源担当者が画面を見る。
「最初の荷下ろし場所だけ簡易探査を行う」
「安全が確認出来たら、大型電源と残りの機材を展開する」
「それなら問題ありません」
二人の声が、今度は同じ方向へ揃う。
ルナはそこで初めて笑顔を見せた。
「よかったです」
スリッピーが後方の端末から声を掛ける。
「それなら貨物の出し方も変えた方がいいね。小型電源と中継器を同じ区画に移しておくよ」
ルナは振り返る。
「お願いしてもよろしいですか、スリッピーさん?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
『貨物配置変更による重量バランスへの影響を演算します』
ナウスの声が続く。
『小型電源、通信中継器、地中レーダー一号機を貨物区画前方へ移動した場合、船体重心への影響は許容範囲内です』
「ナウス、取り出し時間は?」
スリッピーが尋ねる。
『現在の配置と比較し、地上展開時間を十一分短縮可能です』
「十一分か。悪くないね」
現場責任者も頷く。
「その配置で進めましょう」
ルナは画面に、初動の流れを書き込んだ。
最初に地上の大気と地表状態を確認。
小型電源、通信中継器、地中レーダー一号機を展開。
荷下ろし地点と主要移動経路の地下を簡易確認。
安全確認後、大型電源と残りの機材を展開。
本格的な地表測量と地中探査へ移行。
「これで最初の動きは決まりました」
ルナは全員を見る。
「でも、これは絶対に守らなければいけない順番ではありません」
現場責任者が少し眉を上げる。
「どういう意味ですか?」
「現地の状態が予定と違ったら、変えます」
ルナは真剣な表情で言う。
「決めた順番を守ることより、安全に調査を続けられることの方が大事です」
「予定が遅れた場合は?」
「遅れた分を、急いで取り戻そうとしない方がいいと思います」
ルナの答えは早かった。
「今回の調査期間は一週間あります。でも、一週間で全部終わらせることが目的ではありません」
リュウジから言われた言葉を思い出す。
建設することが目的ではない。
建設へ進んでいいかを確かめるための調査だ。
「安全に建設出来るかを確かめることが目的です。確認出来なかったことがあれば、次の調査へ残せばいいと思います」
技術者の一人が尋ねる。
「成果が不足していても、ですか?」
「無理に出した成果より、確認出来なかったと正直に残した記録の方が、次に役立つと思います」
ルナは迷わず答えた。
「分からないものを、分かったことにして進める方が危険です」
船内が静かになる。
若い測量技術者だけでなく、経験のある技術者達もルナを見ていた。
現場責任者は、しばらく画面を見たあと、ゆっくり頷いた。
「その方針で統一しましょう」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
現場責任者は僅かに笑う。
「出発前より、現地での動きが見えました」
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
それぞれが勝手に話していた時には、全員が違う方向を向いているように見えた。
けれど、話を聞いてみれば、皆が守ろうとしていたものは同じだった。
調査員の安全。
機材の安全。
正確な調査結果。
次の段階へつながる記録。
言葉や担当が違っていただけだった。
「あと、もう一つだけいいですか?」
ルナが言う。
「何でしょう」
「現地では、何か気づいた時に、担当外だからと黙らないでください」
ルナは全員を見回す。
「地質担当の方が機材の異常に気づくかもしれません。測量担当の方が誰かの体調変化に気づくかもしれません」
若い技術者が静かに頷いている。
「自分の担当ではなくても、気づいたことは声に出してください。小さなことでも、後で大きな危険になるかもしれないので」
「分かりました」
「それから、無理をしている人がいたら止めましょう」
ルナは明るい声へ戻す。
「自分で大丈夫だと言っていても、周りから見て大丈夫じゃなかったら休んでもらいます」
何人かが苦笑する。
「それはルナさん自身もですか?」
若い測量技術者が尋ねた。
ルナは一瞬だけ言葉に詰まった。
出発前、フォックスやリュウジから言われたことを思い出す。
自分も無理をするな。
止められたら従え。
「……はい」
少しだけ照れながら頷く。
「私もです」
「記録しました」
現場責任者が真面目な顔で言う。
「えっ?」
「ルナさんが無理をしていた場合も、止めていいということですね」
「はい」
船内に小さな笑いが起きた。
ルナも困ったように笑う。
操縦室からその様子を見ていたフォックスが、前方へ視線を戻した。
隣で作業していたスリッピーが小さく笑う。
「もうまとまったみたいだね」
「そうだな」
「フォックスが全員に細かく指示するより早かったんじゃない?」
「余計なことを言うな」
「でも本当でしょ」
フォックスは答えなかった。
否定もしなかった。
◇
全体確認が終わったあと、船内の空気は明らかに変わった。
それぞれが端末へ戻ったが、今度は別の担当へ確認する声が自然に増えていた。
「この測量基準点、地中レーダーの走査線と重なりますか?」
「重なります。少し東へずらした方がいいですね」
「通信中継器をここへ置く場合、ボーリング装置の移動経路を塞ぎませんか?」
「一度、全体図で確認しましょう」
「予備標識を貨物前方へ移します。重量一覧へ反映してください」
「了解しました」
個別の仕事は変わっていない。
だが、自分の仕事が他の誰かへどう影響するかを考えるようになっていた。
ルナは中央区画の端に座り、その様子を静かに見ていた。
自分が全員をまとめたという感覚はなかった。
ただ、皆が話せる場所を作っただけだ。
それでも、リュウジが言っていた意味が少しだけ分かった気がした。
全員の答えを自分が持つ必要はない。
答えを持っている人同士が話せるようにすればいい。
「ルナ」
スリッピーが端末を抱えて近づいてくる。
「はい、スリッピーさん」
「少し休んだ方がいいよ」
「私はまだ大丈夫です」
「さっき自分も止めてもらうって言ってたよね」
「まだ無理はしていません」
「そう言う人が一番危ないんだよ」
スリッピーは笑いながら、栄養飲料の容器をルナへ差し出した。
「はい」
「ありがとうございます」
ルナは素直に受け取る。
「スリッピーさんは休まなくて大丈夫ですか?」
「僕は今、ナウスに貨物配置の再計算をやってもらってるから休憩中」
『訂正します』
船内のスピーカーからナウスが割り込む。
『スリッピーは休憩中ではありません。演算処理を私へ移行し、自身の作業を中断している状態です』
「それを休憩って言うんだよ」
『休憩としての登録はされていません』
「細かいなぁ」
ルナが小さく笑う。
「ナウス、先ほどの確認内容は記録出来ていますか?」
『記録済みです』
大型画面へ、整理された一覧が表示される。
『全体確認前と比較し、担当間の未確認項目は十八件から四件へ減少しました』
「そんなにあったんですか?」
『はい。また、同一作業の重複予定が三件解消されました』
スリッピーがルナを見る。
「すごいじゃん」
「私は皆さんに聞いただけです」
『その行為によって情報共有が促進されました』
ナウスが淡々と答える。
『肯定的な評価が妥当です』
「ナウスに褒められたね」
「褒めていただいたんでしょうか?」
『肯定しました』
「だって」
スリッピーは楽しそうに笑う。
ルナも飲料容器を持ったまま、少しだけ笑った。
「ありがとうございます、ナウス」
『感謝は不要です』
「でも、言いたかったので」
『了解しました』
ルナは飲み物を一口飲む。
少し甘い味が、緊張していた身体へ広がっていく。
気づかないうちに、喉が渇いていた。
「リュウジに何か言われた?」
スリッピーが何気なく尋ねた。
ルナは僅かに目を丸くする。
「どうして分かったんですか?」
「乗り込んだ時と、今で顔が違うから」
「そんなに分かりやすいですか?」
「ルナは分かりやすいよ」
スリッピーは笑う。
「出発前は、頑張らなきゃって顔だった。今は、みんなでやろうって顔になってる」
ルナは手の中の容器を見る。
「いつも通りでいいって言われました」
「リュウジに?」
「はい」
「なるほどね」
「サヴァイヴにいた時みたいに、皆さんの話を聞いて、必要な時に自分から動けばいいって」
「そのとおりだと思うよ」
スリッピーは迷わず言った。
「ルナは、前に立って命令するタイプじゃないけど、気づいたらみんなが同じ方向を見てるんだよね」
「そんなに立派なことはしていません」
「自分で気づいてないのも、ルナらしいけど」
スリッピーは中央区画を見る。
先ほどまで別々に話していた建設チームが、今は一枚の地形図を囲んでいる。
「少なくとも、さっきまでより現地へ着く準備は出来たよ」
ルナも同じ光景を見る。
「はい」
「少し安心した?」
「少しだけです」
「少しだけなんだ」
「まだ地球へ着いていませんから」
ルナは笑う。
「本番はこれからです」
「それくらいがちょうどいいよ」
スリッピーはそう言って、再び自分の作業席へ戻っていった。
◇
航行が進むにつれ、船内には一定の生活リズムが生まれていった。
機材確認。
地形データの照合。
食事。
休憩。
現地活動の確認。
作業区分は異なっていても、全員が同じ時間に一度集まり、情報を共有する。
ルナが強制したわけではない。
最初の全体確認が有効だったため、現場責任者が定期的な短時間打ち合わせを提案したのだ。
誰かが新しい情報を持っていれば共有する。
予定が変われば、関係する担当だけでなく全員へ伝える。
分からないことは、分からないまま記録する。
少しずつ、建設チームとグレートフォックス側の間にも連携が生まれていた。
だが、全員が順調に馴染んだわけではない。
食事の時間になっても、若い測量技術者は一人で端末を見続けていた。
ルナは食事を受け取ったあと、その姿に気づく。
近くの席には誰もいない。
画面には、候補地周辺の過去データが何枚も開かれていた。
ルナは自分の食事を持ったまま近づく。
「隣、よろしいですか?」
「あっ、はい」
若い技術者は慌てて端末を少しずらした。
ルナは向かいではなく、同じ画面を見られる隣へ座る。
「何を確認しているんですか?」
「風向きの過去記録です」
「粉塵の動きですか?」
「はい」
若い技術者は地形図を指す。
「丘の西側から風が入った場合、平地の中央へ粉塵が溜まる可能性があります。前回の観測データだけでは、どの程度視界が落ちるか分からなくて」
「それで、ずっと調べていたんですね」
「現地で自分が失敗したら、全体の測量が遅れるので」
ルナは端末ではなく、若い技術者の顔を見る。
目の下に、少し疲れが見えた。
「食事はしましたか?」
「あとで食べます」
「今、食べましょう」
「でも、もう少しで――」
「現地で集中出来なくなる方が困ります」
ルナは穏やかだが、はっきりと言った。
「調査は一週間あります。一人で今全部を確認しなくても大丈夫です」
「でも、自分は経験が少ないので」
「経験が少ないから、他の人に聞けることもあると思います」
若い技術者が少し顔を上げる。
「さっきの標識の話、皆さんの役に立っていました」
「あれは、たまたま思いついただけです」
「その思いつきを言ってくださったから、準備を変えられました」
ルナは笑顔を向ける。
「経験が多い人だけで全部分かるなら、最初からこんなに大勢で行く必要はありません」
若い技術者は端末を見る。
「……ルナさんは、怖くないんですか?」
「怖いです」
ルナは隠さず答えた。
「前に地球へ行った時も、怖かったです」
「それでも、また行くんですね」
「はい」
「どうしてですか?」
ルナは少し考える。
地球を見た時の気持ち。
崩れた街。
濁った空。
残された建物。
それでも、完全には失われていなかった大地。
「怖いから諦めるんじゃなくて、怖いものが何なのかを調べたいからです」
ルナは静かに言った。
「分からないままだと、ずっと近づけません。でも、調べれば、出来ることと出来ないことを分けられます」
若い技術者は黙って聞いている。
「今回も同じです。地球をすぐ元に戻せるとは思っていません」
ルナは端末に映る平地を見る。
「でも、この場所が使えるのか。それとも使えないのか。それを一つ確かめられたら、前へ進めます」
「使えなかった場合でも?」
「はい」
ルナは迷わず頷いた。
「そこには建てない方がいいと分かりますから」
若い技術者が、少しだけ笑った。
「前向きですね」
「よく言われます」
ルナも笑う。
「でも、何でも上手くいくと思っているわけじゃありません」
「違うんですか?」
「上手くいかなかったら、次に出来ることを考えます」
それは、サヴァイヴで身につけた考え方だった。
食料が見つからなければ、別の場所を探す。
道が崩れていれば、別の道を作る。
誰かが動けなければ、役割を変える。
困難がなくなることを待っていては、生き延びられなかった。
「だから、まず食事をしましょう」
ルナが言う。
「食べたあとで、一緒にその風向きの資料を見ませんか?」
「ルナさんも?」
「私だけでは分からないので、地質担当の方とスリッピーさんにも聞きましょう」
若い技術者はようやく端末を閉じた。
「分かりました」
「はい」
二人は並んで食事を始める。
しばらくすると、他の技術者も同じテーブルへ集まってきた。
最初は仕事の話だった。
だが、やがて出身コロニーの話になり、過去の現場で起きた失敗の話になった。
大型掘削機を逆向きに固定した話。
測量用ドローンが作業員の昼食を持って飛んでいった話。
仮設施設の扉を付け忘れ、完成後に壁を切った話。
真面目な技術者達の口から次々と失敗談が出て、テーブルに笑いが広がる。
ルナも声を上げて笑った。
その笑顔につられるように、周囲にいた者達も少しずつ会話へ加わっていく。
船内の空気は、出発直後とはまるで違っていた。
緊張が消えたわけではない。
だが、一人ずつ別々に抱えていた緊張を、言葉に出来る空気が生まれていた。
◇
『地球圏まで、予定航路上の最終区間へ入りました』
ナウスの声が船内へ響いた。
その案内を聞いた瞬間、中央区画の空気が変わる。
端末へ向かっていた技術者達が顔を上げる。
ルナも反射的に窓の方を見た。
まだ地球は見えない。
だが、胸の鼓動が少しずつ速くなっていく。
「ルナ」
操縦室からフォックスが呼ぶ。
「はい、フォックスさん」
「前へ来い」
ルナは座席を立ち、父の形見のリュックを背負って前方へ向かう。
操縦室へ入ると、正面の大型モニターには地球近傍の航路が表示されていた。
フォックスが操縦席。
スリッピーが観測・機関系統の席に座っている。
中央の補助画面では、ナウスが大気や磁気のデータを解析していた。
「地球の映像、出すよ」
スリッピーが言う。
「お願いします、スリッピーさん」
画面が切り替わる。
暗い宇宙の中に、一つの星が浮かび上がった。
ルナは息を呑む。
前回も見た。
資料でも何度も確認した。
それでも、実際に見る地球は、どの映像とも違っていた。
かつてのような鮮やかな青ではない。
白い雲の中には、灰色や茶色の濁った帯が混じっている。
地表の一部には、大きな傷のような色の違いが見えた。
海も空も、昔の映像ほど澄んではいない。
けれど。
地球は、まだそこにあった。
「……地球」
ルナの声が小さく漏れる。
中央区画にいた建設チームも、別の画面を通して同じ景色を見ていた。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
人類の故郷。
自分達が生まれる前に捨てられた星。
歴史や映像の中にしかなかった場所が、今は窓の向こうにある。
ルナは前回よりも落ち着いていた。
胸の奥が熱くなる。
泣きそうになるほど、色々な感情がこみ上げる。
それでも、ただ見つめるだけでは終わらなかった。
「スリッピーさん、大気の状態は前回と比べてどうですか?」
スリッピーが少し笑う。
「ちゃんと最初にそれを聞けるようになったね」
「感動して終わらないようにと言われましたから」
「誰に?」
「フォックスさんにも、前回たくさん言われました」
フォックスが前方を見たまま言う。
「まだ足りない」
「はい」
ルナは素直に返す。
スリッピーが大気データを拡大した。
「地球全体では大きな変化はないよ。局地的な気象変動はあるけど、前回より悪化してるとは言えない」
「フランスの候補地周辺は?」
「今出すね」
ヨーロッパ一帯の地図が表示される。
フランスの候補地へ向けた進入航路。
風向き。
大気成分。
磁気変動。
地表温度。
その中の一部が黄色く点滅した。
「……少し嫌だな」
スリッピーの声から、先ほどまでの軽さが消える。
「どうしましたか?」
「候補地の西側に粉塵を含んだ気流がある。今の進路で入ると、到着する頃に重なるかもしれない」
フォックスが画面を見る。
「規模は?」
『観測範囲内では中規模です』
ナウスが答える。
『ただし、地表付近の観測データが不足しています。視界低下率は正確に算出出来ません』
スリッピーが計算を続ける。
「北から回り込めば避けられる。ただ、到着が少し遅れるよ」
フォックスは迷わなかった。
「北へ回る」
「了解」
スリッピーが航路を変更する。
中央区画では、現場責任者達が予定表を確認していた。
「到着が遅れる場合、一日目の調査時間が短くなります」
「仮設拠点の展開まで終えられない可能性がある」
「夜間作業へ延長しますか?」
そんな声が聞こえてきた。
ルナは操縦室から中央区画へ戻る。
「夜間まで延長するのはやめましょう」
全員がルナを見る。
現場責任者が尋ねる。
「しかし、一日目の予定が遅れます」
「遅れたままでいいと思います」
「ですが――」
「地球へ着く前に決めましたよね」
ルナは穏やかだが、はっきりと言った。
「予定の遅れを、無理に取り戻さないと」
現場責任者は黙る。
「初日は、地上へ安全に降りて、通信と簡易探査まで出来れば十分です」
ルナは画面に表示された気流を見る。
「予定より遅れて到着したのに、そこから急いで機材を広げたら、確認が雑になります」
「翌日以降への影響は?」
「一日目の結果を見てから考えましょう」
「その場で?」
「はい」
ルナは頷く。
「今、地球へ着いてもいないのに、取り戻し方まで決める必要はないと思います」
地質担当者が静かに同意する。
「現地の地盤状態が分からない以上、確かに今決めても意味がありません」
電源担当者も頷いた。
「小型設備だけ展開し、残りは船内へ残すことも出来ます」
「そうしましょう」
ルナは現場責任者を見る。
「まず、全員で安全に到着することを優先してもいいですか?」
現場責任者は数秒考えたあと、頷いた。
「分かりました。一日目の達成目標を変更します」
端末へ新しい内容が入力される。
一日目。
地表・大気安全確認。
地上班の短時間展開。
通信中継器設置。
荷下ろし地点の簡易地下探査。
状況により、そこで終了。
「これなら、暗くなる前に撤収出来ます」
若い測量技術者が言う。
「基準点の本設置は、二日目へ回せます」
「はい」
ルナは笑顔を向ける。
「安全に明日へつなげましょう」
不満を口にする者はいなかった。
予定を減らした。
それでも、後退したようには感じなかった。
全員が同じ理由で変更を受け入れていたからだ。
無理をしない。
確認出来ないことを、確認したことにしない。
次の日へつなげる。
それは、ルナが一人で決めた方針ではない。
船内で全員が話し合い、共有してきた考えだった。
『北側迂回航路への移行を完了しました』
ナウスの声が流れる。
『地球大気圏への進入まで、最終確認を開始します』
船内の照明が、通常航行用から進入用へ切り替わる。
白い照明が少し落とされ、各所の固定表示が点灯する。
「全員、固定席へ」
フォックスの声が船内へ響いた。
建設チームが動き出す。
端末を閉じる。
機材を固定する。
安全ベルトを締める。
ルナも自分の座席へ戻ろうとした。
その途中、若い測量技術者の手が僅かに震えていることに気づく。
「大丈夫ですか?」
ルナが声を掛ける。
「はい」
反射的な返事だった。
ルナは隣の席へ腰を下ろす。
「私も、最初に地球へ入った時は緊張しました」
「ルナさんも?」
「はい」
「今は平気そうに見えます」
「今も緊張しています」
ルナは自分の胸元へ手を当てる。
「でも、緊張していることを隠さなくてもいいと思うようになりました」
若い技術者は、少しだけ呼吸を整える。
「怖くなったら言ってください」
「でも、仕事中に――」
「仕事中だからです」
ルナは微笑む。
「怖いのに平気なふりをして、確認を飛ばす方が危険です」
「……分かりました」
「私も何か見落としていたら、教えてください」
「はい」
二人は安全ベルトを締める。
『大気圏進入まで、十秒』
ナウスがカウントを始める。
『九、八、七――』
船体の振動が少しずつ強くなる。
正面モニターに映る地球が、画面いっぱいへ広がっていく。
『三、二、一』
次の瞬間、グレートフォックスの外側を淡い光が包んだ。
大気との摩擦。
船体が低く唸り、固定席の背が小刻みに震える。
貨物区画から、固定装置の軋む音が響いた。
誰かが息を呑む。
だが、悲鳴は上がらない。
『船体表面温度、許容範囲内』
ナウスの声は変わらない。
『姿勢制御、正常。進入角度、正常』
「スリッピー」
フォックスの声が飛ぶ。
「大気密度、予測より三パーセント高い!」
「補正出来るか」
「出来るよ。右舷側出力を少し落として」
「了解」
船体が僅かに傾き、すぐに安定する。
ルナは座席の肘掛けを握りながら、前方の画面を見ていた。
濁った雲の層が近づく。
視界が灰色に包まれる。
一瞬、外が何も見えなくなった。
船体を叩く細かな音。
粉塵か、小さな氷の粒か。
窓の外を無数の影が流れていく。
「……大丈夫」
隣から小さな声が聞こえた。
若い測量技術者が、自分へ言い聞かせるように呟いている。
ルナはその手元を見る。
震えは、さっきより小さくなっていた。
「はい」
ルナも同じように答えた。
「大丈夫です」
それは根拠のない励ましではない。
フォックスが操縦している。
スリッピーが機体と大気を見ている。
ナウスが全体を計算している。
建設チームは、全員が決められた席で状況を待っている。
それぞれが、自分の役割を果たしている。
だから、大丈夫だと言えた。
やがて、灰色の雲が途切れた。
正面モニターの向こうへ、地表が現れる。
茶色と灰色が混じった大地。
崩れた都市の影。
ところどころに残る水面。
傷つきながらも続いている山並み。
「地球……」
誰かが呟いた。
今度は、画面の中の星ではない。
地表が見える。
人類がかつて立ち、歩き、暮らしていた大地が、すぐ下にある。
グレートフォックスは高度を保ちながら、ヨーロッパ上空へ進んだ。
ナウスが地形を照合する。
『フランス領域へ進入しました』
ルナは窓の外を見つめる。
前回見た崩壊した建造物が、遠くに小さく見えた。
原形を失った街。
折れた塔。
大地へ沈んだ道路。
そして、その先。
『候補地を確認』
大型画面へ、緑色の枠が表示される。
小高い丘。
その上に広がる平地。
周囲より大規模な崩落が少なく、前回、短時間の着地と簡易確認を行った場所。
ルナは思わず身を乗り出した。
「あそこです」
声が弾みそうになる。
だが、すぐに呼吸を整えた。
「スリッピーさん、地表の状態はどうですか?」
「前回の記録と比べてる」
スリッピーが画面を拡大する。
「大きな形状変化はない。地表温度も許容範囲。風は少し強いけど、西側の粉塵帯は避けられたよ」
「着陸地点は?」
「前回と同じ外縁部なら、簡易走査では異常なし」
『ただし、前回の着地記録は短時間です』
ナウスが補足する。
『長時間の機体荷重に対する安全性は保証されません』
フォックスが言う。
「機体は最低限の接地にする。荷下ろし後、地盤確認が終わるまで重量を集中させない」
「分かった」
スリッピーが着陸用の出力調整へ入る。
ルナは中央区画の全員を見る。
「到着後は、変更した予定どおりです」
自然と全員の視線が集まる。
「最初に地表と大気の安全を確認します。そのあと、小型電源、通信中継器、地中レーダー一号機だけを降ろします」
現場責任者が頷く。
「大型機材は、安全確認が終わるまで船内待機」
「はい」
「異常があれば、すぐ撤収」
「はい」
ルナは一度、全員を見回した。
出発直後とは表情が違う。
緊張はある。
だが、自分だけで抱えている者はいない。
誰が何をするのか。
何が起きたら止まるのか。
何を守るのか。
全員が同じものを共有している。
「一週間、よろしくお願いします」
ルナは笑顔で言った。
「急がず、一つずつ確認していきましょう」
「了解しました」
返事が一つ。
続いて、別の場所からも声が上がる。
「了解」
「分かりました」
「よろしくお願いします」
声が重なり、船内に広がっていく。
誰かに命じられた返事ではない。
全員が自分の意思で、同じ方向を向いた声だった。
フォックスが操縦桿を握り、候補地へ向けて高度を下げる。
「着陸する。全員、衝撃に備えろ」
グレートフォックスがゆっくりと丘の上へ近づいていく。
粉塵が舞い上がる。
船体下部の噴射を受け、灰色の土が波のように外側へ広がった。
地表が近づく。
機体の影が平地を覆う。
『高度十メートル』
ナウスが告げる。
『八、六、四――』
ルナは父のリュックへ触れる。
胸の中で、出発前に交わした言葉を思い出す。
いつも通りでいい。
誰かを置いていかない。
誰か一人に背負わせない。
皆の話を聞く。
必要な時には、自分から動く。
『接地』
低い衝撃が船内を揺らした。
固定装置が軋み、やがて振動がゆっくりと収まっていく。
『グレートフォックス、着陸を確認しました』
ナウスの声が響く。
『目的地、フランス地質調査候補区域』
船内が静かになる。
窓の外には、灰色の空と、荒れた大地。
かつての地球。
これから再び、人間が生きる場所にしようとしている星。
ルナは静かに息を吸った。
不安は残っている。
何が地中にあるのかは、まだ分からない。
この土地にテラフォーミングマシンを建設出来る保証もない。
けれど、ルナはもう一人ではなかった。
フォックスがいる。
スリッピーがいる。
ナウスがいる。
そして、同じ目的のために集まった建設チームがいる。
「着きましたね」
ルナが小さく言う。
隣の若い技術者が、今度は震えずに頷いた。
「はい」
ルナは窓の向こうに広がる平地を見つめる。
夢の場所ではない。
調べるべき現場だ。
希望だけを見る場所でもない。
危険と可能性を、一つずつ切り分ける場所だ。
それでも、胸の奥に灯る思いは変わらなかった。
「ここから始めましょう」
ルナの声は明るく、まっすぐだった。
グレートフォックスは、地球へ到着した。
一週間にわたる本格的な地質調査が、今、始まろうとしていた。