グレートフォックスが地表へ接地してからも、誰一人としてすぐには席を立たなかった。
着陸時の低い振動が船体の奥へ消えていく。
外では、姿勢制御用の噴射によって巻き上げられた灰色の粉塵が、巨大な船体の周囲を覆っていた。
窓の向こうは白く濁り、数メートル先の景色さえ見えない。
『船体姿勢、安定』
ナウスの声が船内へ響く。
『全脚部の接地圧を確認。右後方脚部の荷重が基準値より三・二パーセント高い状態です』
フォックスは操縦席から動かなかった。
「沈下は?」
『現時点では検出されていません。ただし、地表粉塵の影響により外部光学センサーの精度が低下しています』
「スリッピー」
「今、下を見てる」
スリッピーは複数の画面を切り替え、グレートフォックスの脚部周辺へ地中走査をかけていた。
ルナは固定席に座ったまま、前方のやり取りを聞いている。
着いた。
目の前には、前回見つけた小高い丘の平地がある。
早く外へ出たい。
もう一度、自分の足であの土地に立ちたい。
そう思う気持ちは強かった。
けれど、ルナは安全ベルトへ手を伸ばさなかった。
前回の視察で、見た目だけでは何も判断出来ないことを学んでいる。
平らに見える地面。
残っている建物。
使えそうに見える地下施設。
実際に触れ、測り、確かめてみれば、外から抱いた期待とはまるで違うことがあった。
「まだ動かないでください」
ルナは建設チームへ声を掛けた。
「フォックスさん達の確認が終わるまで、そのままでお願いします」
「了解しました」
現場責任者が答える。
他の技術者達も頷いた。
出発直後であれば、誰かが自分の担当機材を確かめようと立ち上がっていたかもしれない。
だが今は、全員が同じ理由で待っている。
急がない。
見えていないものを、見えていることにしない。
船内で共有した方針が、すでに行動へ表れていた。
「フォックス、脚部直下は大丈夫そう」
スリッピーが言う。
「少なくとも、すぐ下に大きな空洞はないよ。右後方の荷重が高いのは、地表の傾斜と表層の硬さが少し違うからだと思う」
「長時間置けるか?」
「それはまだ分からない。簡易走査だと、深さ三メートルくらいまでは大きな異常なし。でも、その下はノイズが多い」
『グレートフォックスの機体重量を考慮した場合、現在地での長時間待機は推奨出来ません』
ナウスが補足する。
「時間は?」
『安全側に評価した場合、四時間以内に機体を再浮上させることを推奨します』
フォックスは短く頷いた。
「十分だ」
ルナは操縦室へ顔を向ける。
「フォックスさん、地上へ出ても大丈夫ですか?」
「まだだ」
「はい」
即座に返事をする。
フォックスは正面画面を見たまま続けた。
「先に無人機を出す」
スリッピーが格納庫側の端末を操作した。
「観測ドローン二機、起動するよ」
「お願いします、スリッピーさん」
「任せて」
後方格納庫から、小型飛行ドローンが二機切り離される。
船外扉が僅かに開き、細い隙間から粉塵が流れ込もうとしたが、気圧制御フィールドによって押し戻された。
一機目はグレートフォックスの周囲を低空で旋回する。
二機目は高度を上げ、丘全体を見渡せる位置へ向かった。
大型画面に、外の映像が表示される。
灰色の粉塵。
乾いた地面。
ところどころに走る細い亀裂。
丘の斜面には、枯れた植物のような黒い影がまばらに残っていた。
空は薄暗い。
雲の切れ間から弱い光が落ちているものの、地表を明るく照らすほどではない。
それでも前回より、周囲の地形を落ち着いて見ることが出来た。
「あそこです」
ルナが画面を指す。
丘の中央より少し東側。
周囲に大きな瓦礫がなく、前回、短時間だけ地表を確認した場所だった。
「前回降りたのは、あの辺りです」
「記録と一致してるよ」
スリッピーが映像へ座標を重ねる。
「大きな変化はなさそう。でも、前回より亀裂が一本増えてる」
画面が拡大される。
地表を斜めに走る細い亀裂。
幅は数センチ程度。
だが、前回の記録映像には存在していなかった。
「地殻が動いたんでしょうか」
ルナが尋ねる。
「それだけじゃ判断出来ないよ」
スリッピーは軽い口調のまま、視線をデータから外さない。
「乾燥で表面だけ割れたかもしれないし、地下の沈下かもしれない。地表温度の変化でも割れるからね」
『亀裂周辺に局地的な熱異常は確認されません』
ナウスが言う。
『ただし、亀裂直下の反射波に軽微な乱れがあります』
建設チームの地質担当者が身を乗り出した。
「最初の走査地点に加えましょう」
「お願いします」
ルナは答えた。
亀裂を見つけたことは、不安材料だ。
だが、ルナの表情は暗くならなかった。
見つけられた。
大型機材を運び込む前に、調べるべき場所が分かった。
それは失敗ではない。
これから調査する意味そのものだった。
『地表粉塵の濃度が低下しています』
ナウスの報告とともに、窓の外が少しずつ見え始める。
船体の下を流れていた灰色の煙が薄くなり、小高い丘の平地が姿を現した。
フォックスは外部画面を確認する。
「大気は?」
『防護装備なしでの活動は不可能です。有害粒子濃度は前回観測値の範囲内。風速は毎秒六・八メートル。西側から弱い上昇傾向があります』
「活動可能時間は?」
『現在の予測では二時間十四分後から風速上昇。三時間後には、屋外での精密作業が困難になる可能性があります』
「二時間で切る」
フォックスが決める。
現場責任者が反応した。
「二時間ですか。通信設備と簡易探査だけでも、予定では二時間半を見込んでいます」
「予定を削る」
「しかし――」
「フォックスさんの判断で進めましょう」
ルナが穏やかに言葉を挟んだ。
現場責任者がルナを見る。
「最初の日です。今日、全部始めなくても大丈夫です」
「地上へ降りられる時間は限られています」
「だからこそ、最初に安全を確かめたいです」
ルナは画面に映る亀裂へ目を向ける。
「通信中継器を設置して、荷下ろし地点と亀裂周辺を調べる。今日はそこまでにしませんか?」
「仮設拠点は?」
「明日でも出来ます」
「明日、天候が悪化した場合は遅れが広がります」
現場責任者の声には焦りというより、計画を預かる責任感があった。
ルナはそれを否定しなかった。
「そうなったら、また予定を考えましょう」
「ですが、一週間という期限は変わりません」
「はい」
ルナは真っ直ぐ頷いた。
「でも、一週間で何かを建てるわけではありません。安全に建てられるかを調べるために来ています」
現場責任者は黙る。
「今日、無理に仮設拠点まで広げて、地盤の異常を見落としたら、その方が計画全体を遅らせます」
強い口調ではない。
命令でもない。
けれど、ルナの言葉はぶれなかった。
「確認出来たことだけを持ち帰りましょう。出来なかったことは、出来なかったと記録します」
現場責任者は画面と予定表を見比べる。
やがて、小さく息を吐いた。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「本日の目標を、通信中継器一基の設置、荷下ろし地点の安全確認、亀裂周辺の簡易地中探査へ変更します」
「お願いします」
フォックスは二人のやり取りを聞いたあと、短く言った。
「決まりだ」
◇
船外活動用の準備区画には、防護服を装着する機械音が響いていた。
ルナは厚い外套型の防護服へ腕を通し、首元の密閉環を固定する。
背中には小型酸素ユニット。
腰には通信端末。
胸部には大気・放射線・体温を測る個人センサー。
父の形見のリュックは船内に残す。
地球へ降りる時はいつも持っていたい気持ちもある。
だが今回は調査作業だ。
防護服の動きを妨げる物を持ち込むべきではない。
ルナはリュックへ一度だけ触れた。
「行ってくるね」
小さく呟いてから、格納棚の固定具を閉じる。
「ルナ」
フォックスが背後から呼んだ。
「はい、フォックスさん」
「前回と同じ感覚で動くな」
「分かっています」
「前回は少人数だった。今回は技術者がいる。お前が一人で先へ行く必要はない」
「はい」
「それから、何か見つけても勝手に触るな」
ルナは少しだけ頬を膨らませる。
「そこまでしません」
「前回、崩れかけた地下施設へ入りたがった」
「入りたがっただけで、入りませんでした」
「同じだ」
「違います」
すぐ隣で装備を確認していたスリッピーが笑った。
「フォックス、出る前から言いすぎじゃない?」
「言っておかないと動く」
「ルナなら大丈夫だよ」
ルナはスリッピーへ向き直る。
「ありがとうございます、スリッピーさん」
「でも、何か面白そうなものを見つけても、一人で走っていかないでね」
「スリッピーさんまで……」
「ほらな」
フォックスが言う。
「二人とも心配しすぎです」
ルナはそう返しながらも、どこか嬉しそうだった。
心配されることを、窮屈だとは思わない。
自分を止めるためではなく、全員で帰るために言ってくれていると分かっているからだ。
『船外活動班の装備接続を確認します』
ナウスの声が各自の通信機へ入る。
『ルナ、生命維持装置正常。フォックス、正常。地質調査班三名、正常。通信設備班二名、正常』
「スリッピーは?」
ルナが尋ねる。
『スリッピーは船内支援担当です』
「今日は外へ出ないんですか?」
スリッピーが自分の胸を指した。
「僕はここで全員のデータを見るよ。観測ドローンと地中レーダーの解析もあるから」
「分かりました」
「外から変な数字を送ってこないでね」
「変な数字って何ですか?」
「壊れたセンサーとか、自分で拾ったよく分からない機械とか」
「拾いません」
「前回の地球で、古い設備を見つけるたびに近づこうとしてたって聞いたけど」
「誰からですか?」
「チャコ」
ルナは一瞬、言葉に詰まった。
「……チャコ」
「ちゃんと情報共有されてるよ」
「そういう情報は共有しなくていいです」
スリッピーが楽しそうに笑う。
フォックスは船外扉の前に立った。
「話は終わりだ」
全員の表情が引き締まる。
「外へ出る。地上では俺の指示を優先しろ。異常を感じたら、担当に関係なく声を出せ」
「了解しました」
技術者達が答える。
ルナも頷いた。
「はい」
『減圧を開始します』
室内の空気が少しずつ抜かれていく。
防護服の内側で、自分の呼吸音が大きく聞こえ始める。
外扉のロックが解除された。
重い扉が、ゆっくりと横へ開く。
灰色の光。
乾いた風。
粉塵が地表を薄く流れている。
目の前に、地球が広がっていた。
◇
最初に外へ出たのはフォックスだった。
片足を地面へ下ろし、体重を少しずつ移す。
防護服の靴底が、灰色の地表を数センチ沈ませた。
フォックスは足元を確認し、周囲へ視線を走らせる。
「表層は乾いてる。踏み抜きはない」
『フォックス、現在位置の接地反応を記録しました』
ナウスが答える。
「次」
地質調査担当者が地表へ降りる。
続いて通信設備担当。
ルナは四人目だった。
船外用ランプを一歩ずつ下る。
防護服越しでも、地球の重力が身体へ掛かる感覚がはっきり分かった。
最後の段差を降りる。
靴底が地面へ触れた。
「……戻ってきた」
思わず言葉が漏れた。
前回とは違う。
ただ見に来たのではない。
この土地を調べるために来た。
人が再び活動出来る場所にするための、最初の正式な作業だった。
『ルナ、感傷に割く時間は活動時間へ含まれます』
ナウスが淡々と告げる。
「分かっています」
ルナは少しだけ笑う。
「でも、今の一言くらいはいいでしょう?」
『作業への影響は軽微です』
「なら問題ないね」
『問題ありません』
地質担当者が地表へ簡易センサーを置く。
「表層硬度を測ります」
細い針状の機器が地面へ突き刺さる。
表示値が上昇し、一定のところで止まった。
「表層は予想より硬いです」
「大型機材を置けますか?」
ルナが尋ねる。
「まだ分かりません」
担当者はすぐに答えた。
「硬いのは表面から二十センチ程度です。その下がどうなっているかを見ないと」
「そうですよね」
ルナは素直に頷く。
期待する答えを先に求めない。
良い結果であってほしい。
それでも、希望に合わせて数字を解釈してはいけない。
「通信設備、ここへ設置します」
担当者二人が小型中継器を運ぶ。
高さ一メートルほどの支柱を立て、四方向へ固定ワイヤーを伸ばす。
若い測量技術者が地面へアンカーを打ち込もうとして、手を止めた。
「どうしました?」
ルナが近づく。
「アンカーが入りません」
地表へ打ち込まれた固定杭は、途中で硬いものに当たり、それ以上進まなくなっていた。
「岩ですか?」
「分かりません。反応が少し不自然です」
「無理に打たないでください」
ルナはすぐに言った。
「一度抜きましょう」
「でも、中継器の設置が――」
「原因が分からないまま押し込む方が危険です」
若い技術者は頷き、アンカーを引き抜いた。
先端には、灰色の土に混じって黒い粉が付着していた。
「これは……」
地質担当者が近づき、採取器で黒い粉を取る。
『成分分析を開始します』
ナウスが告げる。
スリッピーの声も通信へ入った。
『今の位置、地中レーダーで見てみるね。少し下がって』
「全員、二メートル離れてください」
ルナが声を掛ける。
近くにいた者達が素早く距離を取る。
グレートフォックスから飛んできた小型ドローンが、問題の地点の上空で停止した。
地表へ向けて走査波を照射する。
画面上では見えないが、各自の腕端末へ簡易解析図が送られてきた。
『あれ?』
スリッピーの声が変わる。
「何かありましたか、スリッピーさん?」
『岩じゃない。平らな反射がある』
「人工物ですか?」
『その可能性が高い。深さ五十センチくらい。幅は……まだ分からないけど、少なくとも三メートル以上』
地質担当者が端末を見る。
「旧施設の天井でしょうか」
『それにしては浅すぎる』
スリッピーが答える。
『舗装路か、大型の基礎板かもしれない』
『分析結果を報告します』
ナウスの声が重なる。
『アンカー先端に付着した物質は、劣化した炭素系複合材と推定されます。自然由来の岩石ではありません』
全員の視線が地面へ落ちる。
何もない平地に見えていた。
だが、そのすぐ下に人工物が埋まっている。
ルナは胸の奥が少しだけ高鳴るのを感じた。
過去の施設。
人類が地球で暮らしていた時代の何か。
地盤として再利用出来る可能性。
反対に、中が空洞であれば大きな危険になる。
「掘って確認しますか?」
若い技術者が尋ねる。
ルナはすぐには答えなかった。
自分も見たい。
何が埋まっているのか確かめたい。
だが、今日の目的は通信設備と簡易探査だ。
掘削は予定にない。
風が強くなるまでの時間も限られている。
「フォックスさん」
ルナは自分で決めつけず、フォックスを見る。
「どうしますか?」
「掘らない」
フォックスは即答した。
「今日は範囲だけ取る」
「はい」
ルナも迷わず従う。
若い技術者が少し残念そうな表情を見せた。
ルナはそれに気づき、明るく言った。
「明日以降に、ちゃんと調べましょう」
「明日、掘れるでしょうか」
「今日、位置と範囲を正確に残せば、必要な機材を選べます」
「……そうですね」
「急いで壊してしまったら、何だったのか分からなくなるかもしれません」
若い技術者は頷いた。
「記録します」
「お願いします」
ルナは見つかった人工物の周辺へ、立入禁止を示す簡易標識を設置した。
そこへアンカーを打てないため、重り付きの標識を四隅へ置く。
出発前、若い技術者が提案していたものだった。
「持ってきてよかったですね」
ルナが言う。
「はい」
若い技術者は少し嬉しそうに答えた。
「自分の提案が、こんなに早く必要になるとは思いませんでした」
「言ってくださったから使えました」
ルナは笑う。
「やっぱり、気づいたことは声に出した方がいいですね」
「はい」
返事は、出発前よりもはっきりしていた。
◇
通信中継器の設置地点は、人工物の反応がない場所へ二十メートル移された。
今度はアンカーが問題なく地面へ入る。
「固定完了」
「電源接続します」
「通信回線を開きます」
担当者達の声が続く。
『地上中継器からの信号を受信』
ナウスが報告する。
『グレートフォックスとの通信遅延、〇・〇八秒。許容範囲内です』
『こっちも綺麗に入ってるよ』
スリッピーの声が、先ほどより明瞭に聞こえた。
「ありがとうございます、スリッピーさん」
『どういたしまして。次は地中レーダーだね』
地質担当者達が小型地中レーダーを降ろす。
四輪の台車に載った機器を押し、荷下ろし予定地点の周辺を格子状に走査していく。
ルナは機器へ触らない。
専門の作業は専門家に任せる。
代わりに、周囲を見る。
機器の移動経路。
地表の亀裂。
風の向き。
作業員の歩き方。
誰かの呼吸が乱れていないか。
防護服の警告灯が点いていないか。
自分の担当ではない。
だから見なくていい、ではない。
全員が作業へ集中している時に、全体を見る人が必要だった。
「右側、少し避けてください」
ルナが声を上げる。
レーダーを押していた技術者が足を止めた。
「何かありますか?」
「あそこ、表面の色が違います」
ルナが数メートル先を指す。
灰色の地面の中に、僅かに黒ずんだ帯が走っている。
地質担当者が近づこうとする。
「待ってください」
ルナは先に観測ドローンを呼んだ。
「ナウス、あの場所を確認出来る?」
『座標を指定してください』
ルナが腕端末で位置を示す。
ドローンが黒い帯の上へ移動し、地表を走査する。
『局地的な水分量の上昇を確認しました』
「地下水ですか?」
『原因は不明です。周辺より地表温度が一・七度低下しています』
地質担当者が慎重に近づき、長い棒状の測定器を地面へ触れさせる。
表層が僅かに沈んだ。
「柔らかい」
さらに力を掛けると、灰色の表面が割れ、その下から黒く湿った土が現れた。
「このまま通っていたら、台車が沈んでいました」
技術者が呟く。
ルナは胸を撫で下ろした。
「気づけてよかったです」
フォックスが黒い帯の周囲を見る。
「範囲を取れ」
地質担当者が複数の測定棒を使い、軟弱な地面の範囲を確認する。
帯は幅二メートルほどで、丘の斜面へ向かって長く続いていた。
「自然な水の流れでしょうか」
「旧排水設備の跡かもしれません」
「地下の人工物と繋がってる可能性もある」
技術者達が意見を出す。
ルナは遮らずに聞いた。
「今、分かっていることは何ですか?」
地質担当者が答える。
「表面下に水分を含んだ軟弱層があります」
「原因は?」
「まだ分かりません」
「機材は通せますか?」
「このままでは無理です」
「迂回すれば?」
測量担当者が地形図を確認する。
「北側へ十二メートル回れば、硬い地表を通れそうです」
通信担当者が続ける。
「ただし、中継器からの電源ケーブルが遠くなります」
「延長出来ますか?」
「予備ケーブルを使えば可能です」
ルナは頷いた。
「では、今日は北側の迂回路だけ確認しましょう」
地質担当者が尋ねる。
「軟弱層の調査は?」
「位置と範囲を記録します」
「採取だけでもしておきたいです」
ルナはフォックスを見る。
フォックスは時計を確認した。
「十分だけだ」
「ありがとうございます、フォックスさん」
「礼はいい。時間を守れ」
「はい」
地質担当者が土壌採取器を使い、黒い土を少量だけ密閉容器へ入れる。
ルナはその様子を見ながら、腕端末へ記録を残した。
最初に見つかった人工構造物。
軟弱な湿潤帯。
安定しているように見えた平地にも、異なる性質の場所が混在している。
簡単ではない。
だが、前回見た他の土地とは違う。
最初から全面的に使えないわけではない。
避けるべき場所と、使える可能性がある場所を分けられる。
調べる価値がある。
ルナの中で、その感覚が少しずつ確かなものになっていった。
◇
『西側の風速が上昇しています』
ナウスが警告する。
『現在、毎秒九・四メートル。十五分以内に毎秒十二メートルを超える可能性があります』
視界の向こうで、丘の斜面から灰色の粉塵が薄く立ち上がり始めていた。
スリッピーの声も入る。
『ルナ、フォックス。西から粉塵帯が来てる。まだ距離はあるけど、早めに戻った方がいい』
フォックスは即座に言った。
「撤収する」
誰も異論を挟まなかった。
「地中レーダーを戻します!」
「土壌試料、密閉確認!」
「通信中継器は?」
通信担当者がフォックスを見る。
「残す」
「風速が上がった場合、転倒する可能性があります」
「固定は?」
「基準値を満たしています。ただ、想定以上の突風が来れば分かりません」
現場責任者が迷う。
「今回収すると、明日また設置から始めることになります」
ルナは中継器を見る。
今日、皆で設置した最初の設備。
出来ることなら残したい。
明日の作業を、少しでも先へ進めたい。
しかし、判断の基準はそこではない。
「回収しましょう」
ルナが言った。
通信担当者が驚く。
「よろしいんですか?」
「壊れたら、明日は設置すら出来なくなります」
「ですが、固定を信頼して残す選択もあります」
「今日の観測では、この場所の風をまだ十分に分かっていません」
ルナは中継器へ近づき、固定ワイヤーの一本へ手を添える。
「分からない状態で、都合のいい方に賭けたくありません」
現場責任者が頷いた。
「回収します」
「お願いします」
撤収作業が始まる。
ルナも機材を運ぼうとするが、フォックスに止められた。
「お前は全体を見ろ」
「でも、人手が――」
「足りてる」
フォックスは短く言う。
「今、誰が何を持ってるか確認しろ」
ルナは一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「分かりました」
自分も手を動かす方が、働いているように感じる。
だが、全体を見る役を手放してしまえば、誰かが取り残されるかもしれない。
ルナは周囲を確認する。
「地中レーダー、二名で運搬中」
「土壌試料、回収済み」
「立入禁止標識は?」
「人工物の位置を示す四基は残します」
「風で飛ばされませんか?」
「重りを追加しました」
「若い測量担当の方は?」
返事がない。
ルナは周囲を見渡した。
さっきまで近くにいた若い技術者の姿が見えない。
「一人足りません」
ルナの声が変わった。
フォックスが即座に振り返る。
「誰だ」
「測量担当の方です」
『個人センサーを検索します』
ナウスが答える。
『グレートフォックス北東方向、距離六十四メートル』
「どうしてそんな所に?」
ルナは腕端末の位置表示を見る。
北東方向。
迂回路候補を確認していた場所の先だった。
通信へ呼び掛ける。
「聞こえますか?」
『……聞こえます!』
返事はある。
「今どこにいますか?」
『標識を一つ置き忘れて……回収に来ました』
ルナの胸に焦りが走る。
標識一つのために、撤収中の隊列から離れた。
出発前に、気づいたことは声に出してほしいと伝えた。
だが彼は、迷惑を掛けたくない気持ちから、一人で取りに戻ったのだろう。
「その場から動かないでください」
『でも、もう戻れます』
「動かないでください」
ルナは今度は、はっきり繰り返した。
『……はい』
「私が行きます」
ルナが踏み出そうとした瞬間、フォックスが腕を掴んだ。
「お前は行くな」
「でも――」
「俺が行く」
「フォックスさん一人では駄目です」
ルナは反射的に返した。
「見つかった人を迎えに行くのに、また一人で行ったら同じです」
フォックスの目が僅かに細くなる。
ルナは続ける。
「二人で行きましょう」
「風が来る」
「だから二人です」
フォックスは数秒だけルナを見た。
「離れるな」
「はい」
二人は北東方向へ走り出す。
防護服の重さ。
地球の重力。
足元の不安定な地表。
思うように速度が出ない。
粉塵が風に乗り、身体へ当たり始める。
『ルナ、フォックス、風速十一メートルを超えたよ』
スリッピーの声が聞こえる。
「あと何分ですか?」
『粉塵帯の先端まで五分くらい。でも局地的な突風は先に来るかも』
「分かりました」
「走ることに集中しろ」
フォックスが前を向いたまま言う。
「はい」
丘の北東側へ進むと、灰色の地表に立つ人影が見えた。
若い技術者だ。
手には回収した標識を持っている。
ルナ達を見つけると、自分から走り出そうとした。
「動かないでください!」
ルナが叫ぶ。
その直後だった。
若い技術者の足元が崩れた。
「えっ――」
片足が地面へ沈む。
深さは膝ほど。
身体が前へ傾いた。
フォックスが一気に距離を詰め、腕を掴む。
「力を抜け」
「す、すみません!」
「暴れるな。余計に崩れる」
ルナも反対側から身体を支える。
足元を見ると、薄い表層の下に空洞のような隙間があった。
大きな穴ではない。
だが一人で無理に引き抜こうとすれば、周囲まで崩れる可能性がある。
「ナウス、足元を確認して」
『個人センサーと周辺映像から解析します』
『ルナ、右側の地面の方が硬いよ』
スリッピーが先に言う。
『フォックスの後ろ側。そこへ重心を移して』
「聞こえましたか?」
「はい」
若い技術者が震える声で答える。
「ゆっくり身体をフォックスさんの方へ預けてください」
「でも、足が――」
「私達が支えています」
ルナは相手の顔を見た。
防護マスク越しでも、恐怖が伝わってくる。
「大丈夫です。一緒に戻りましょう」
若い技術者の呼吸が少し落ち着く。
「はい」
「一、二、三で引きます」
フォックスが低く言う。
「一、二、三」
三人が同時に動く。
埋まっていた足が地面から抜けた。
周囲の表層が崩れ、黒い隙間が露出する。
フォックスはその場から二人を引き離した。
「怪我は?」
「ありません」
『右脚部の防護服に損傷なし。脈拍は上昇していますが、歩行可能です』
ナウスが報告する。
「戻るぞ」
フォックスが言う。
若い技術者は俯いた。
「すみません。標識くらい、自分で取って戻れると思って……」
ルナは怒鳴らなかった。
責める前に、まず船へ戻る。
「話は中で聞きます」
「……はい」
「今は、私とフォックスさんの間を歩いてください」
三人はグレートフォックスへ向かう。
背後で、風が低く唸り始めていた。
『粉塵帯、到達まで三分』
スリッピーが伝える。
「間に合いますか?」
『今の速度なら大丈夫。でも急ぎすぎないで。足元を優先して』
「はい、スリッピーさん」
ルナは若い技術者の歩調へ合わせる。
走れば早い。
だが、転べば遅くなる。
怖がっている人を置いて先へ行けば、全員で帰るという方針そのものが崩れる。
グレートフォックスの船外ランプが見えてくる。
他の技術者達が入口で待っていた。
「急げ!」
「あと少しです!」
声が届く。
三人がランプへ到着し、船内へ入る。
フォックスが最後に振り返り、地上に残った者がいないことを確認した。
「全員いるか」
「地上班、全員帰還!」
現場責任者が答える。
「扉を閉めろ」
『船外扉を閉鎖します』
重い扉が閉まる。
直後、外から大量の粉塵が船体を叩く音が響いた。
砂を何千粒も投げつけられているような音。
あと数分遅れていれば、視界の中での帰還は難しくなっていた。
『加圧を開始します』
防護服の外側から聞こえていた風の音が、少しずつ遠ざかっていく。
ルナはようやく息を吐いた。
全員、戻った。
◇
防護服を脱いだ若い測量技術者は、医療確認を終えたあと、中央区画の端に立っていた。
怪我はない。
足首にも問題はなかった。
だが、表情は暗い。
「本当に申し訳ありませんでした」
全員が集まる前で、深く頭を下げる。
「自分のせいで、ルナさんとフォックスさんまで危険な場所へ……」
現場責任者の表情は厳しかった。
「撤収時に単独行動を取るなと、事前に確認したはずです」
「はい」
「標識一基と人命のどちらが重要か、判断出来なかったのですか」
「……すみません」
若い技術者の肩が小さくなる。
正しい指摘だった。
だが、このまま責め続ければ、次から失敗を隠すかもしれない。
ルナは二人の間へ入った。
「どうして、一人で戻ったんですか?」
若い技術者は顔を上げる。
「標識を置き忘れたのは自分だったので」
「それを言ったら、怒られると思いましたか?」
「怒られるというか……皆さんが撤収している時に、余計な作業を増やしたくなくて」
「だから、自分で取りに行ったんですね」
「はい」
ルナは一度頷いた。
「置き忘れたことに気づいた時点で、言ってほしかったです」
「……はい」
「取りに戻るか、残すかは、皆で決められます」
「はい」
「でも、黙っていなくなったら、何が起きたのか誰にも分かりません」
若い技術者は唇を噛む。
「自分の失敗だから、自分で何とかしないといけないと思いました」
ルナはその言葉に、少しだけ目を細めた。
サヴァイヴでも、同じようなことが何度もあった。
心配を掛けたくない。
迷惑を掛けたくない。
自分の失敗だから、自分だけで取り返したい。
その気持ちは優しさから生まれる。
けれど、危険な場所では、その優しさが全員を危険に巻き込むこともある。
「一人で全部直そうとしなくていいんです」
ルナは静かに言った。
「今日、標識を置き忘れたことより、何も言わずに一人で戻ったことの方が危険でした」
「はい」
「次からは、失敗した時こそ声を出してください」
「……出来るでしょうか」
「出来ます」
ルナは迷わず答えた。
「今日、ちゃんと戻ってこられました。次に同じことをしなければいいんです」
若い技術者の目に、僅かに驚きが浮かぶ。
「怒らないんですか?」
「怒ってます」
ルナは少しだけ頬を膨らませた。
「すごく心配しました」
「す、すみません」
「だから、もう一人でいなくならないでください」
「はい」
今度の返事は、先ほどより強かった。
「約束出来ますか?」
「約束します」
「では、次からお願いします」
ルナは柔らかく笑った。
現場責任者は二人のやり取りを見たあと、深く息を吐く。
「今回の件は、手順上の問題として全員で検証します」
「はい」
若い技術者が答える。
「個人の注意だけで終わらせない」
現場責任者は端末を開く。
「撤収時の人数確認が、全員が船内へ戻った後にしか設定されていませんでした。今後は、撤収開始時、機材回収完了時、船内帰還時の三段階で確認します」
ルナは頷いた。
「それがいいと思います」
「さらに、単独で列を離れた場合は個人センサーが警告するよう設定します」
『設定可能です』
ナウスが答える。
『基準距離を二十メートルとした場合、隊列から離れた時点で本人と指揮担当者へ通知します』
「お願いします」
「了解しました」
若い技術者は周囲を見る。
自分の失敗から、手順が改善されていく。
責められて終わるのではない。
次に誰も同じ危険へ陥らない形へ変わっている。
「……ありがとうございます」
小さく呟く。
ルナが首を傾げる。
「何がですか?」
「自分の失敗を、次のために使ってくださって」
ルナは少し考えてから笑った。
「サヴァイヴでは、そうしないと生きていけなかったので」
「サヴァイヴで?」
「はい」
ルナは遠い記憶を思い出す。
「失敗するたびに、次はどうするかを皆で考えていました。失敗した人を一人で責めても、食料は増えないし、壊れた物も直りませんから」
若い技術者は、少しだけ笑った。
「ルナさんらしいですね」
「そうですか?」
「はい」
◇
外では粉塵帯がグレートフォックスの船体を覆っていた。
船内の窓は灰色に染まり、外の景色は見えない。
フォックスは操縦室で脚部の荷重を確認している。
スリッピーは回収したデータの整理。
建設チームは、今日得られた情報を一枚の地形図へ重ねていた。
人工構造物の反応。
湿潤した軟弱層。
北側の迂回候補。
若い技術者が足を取られた、小規模な表層空洞。
たった二時間。
調査出来た範囲も、丘全体の一部にすぎない。
仮設拠点も作れなかった。
通信中継器も回収した。
予定表だけを見れば、進捗は少ない。
それでも、画面に並ぶ記録は、前回の視察では得られなかったものばかりだった。
「人工構造物の反応は、少なくとも南北に十八メートル続いています」
地質担当者が報告する。
「形状から見て、旧道路の基礎か、建造物の床版である可能性が高いです」
「内部に空洞は?」
「現時点では判断出来ません。明日、反射波の角度を変えて再走査します」
「軟弱層は?」
「丘の西側へ水分が流れている可能性があります。自然な地下水脈か、破損した旧配管かは不明です」
「使える場所はありましたか?」
ルナが尋ねる。
地質担当者は地形図を拡大する。
「北側の一部です」
緑色の範囲が表示される。
「今日調べた中では、ここが比較的安定しています。表層下二メートルまで大きな異常はありません」
「テラフォーミングマシンを置けますか?」
「まだ、そこまでは言えません」
「はい」
ルナは落胆を見せずに頷く。
「でも、調べる価値はありますか?」
「あります」
その答えは明確だった。
「少なくとも、今日の時点で候補地から外す理由はありません」
ルナの表情が少しだけ明るくなる。
「よかった……」
小さく漏れた声には、隠しきれない安堵があった。
建設出来ると決まったわけではない。
それでも、最初の日で否定されなかった。
次の日も調べられる。
次へ進める。
「ただし」
地質担当者が続ける。
「今日見つかった異常箇所を考えると、丘全体を均一な地盤として扱うことは出来ません」
「場所ごとに分ける必要があるんですね」
「はい。テラフォーミングマシン本体、電源設備、資材置場、輸送路。それぞれ別の地盤条件を設定する必要があります」
「分かりました」
ルナは画面を見る。
前回は、丘の平地全体を一つの場所として見ていた。
使えるか。
使えないか。
二つのどちらかだと思っていた。
だが実際には違う。
同じ丘の上でも、硬い場所と柔らかい場所がある。
人工物が埋まっている場所。
水分を含む場所。
安定している可能性がある場所。
一つずつ分け、役割を決めなければならない。
「面白いです」
ルナが呟いた。
現場責任者が少し驚く。
「面白い、ですか?」
「はい」
「問題がいくつも見つかりましたが」
「だからです」
ルナは画面を見つめたまま答える。
「前回は、ここなら出来るかもしれないって思っただけでした。でも今は、どこなら何が出来るかを考えられます」
人工構造物。
軟弱層。
安定域。
それぞれに意味がある。
「何も分からなかった場所が、少しずつ形になってきています」
ルナの声は明るかった。
問題を軽く見ているのではない。
問題が見えたから、対策を考えられる。
それを心から前進だと思っていた。
現場責任者は、しばらくルナを見たあと、僅かに笑った。
「確かに、調査とはそういうものですね」
「はい」
若い測量技術者も画面を見る。
「明日は、今日足を取られた場所も調べたいです」
「大丈夫ですか?」
ルナが尋ねる。
「怖くないわけではありません」
若い技術者は正直に答えた。
「でも、今度は一人で行きません」
「はい」
「全員に報告して、必要な装備を揃えてから調べます」
ルナは笑顔で頷いた。
「一緒に調べましょう」
◇
操縦室では、フォックスが地上待機時間を確認していた。
『推奨待機時間まで、残り一時間十二分です』
ナウスが告げる。
「粉塵帯は?」
「あと二十分くらいで抜けると思う」
スリッピーが答える。
「抜けたら上がる?」
「そうだな」
フォックスは短く返した。
地表へ長時間、機体重量を掛け続けることは避ける。
今日の夜は、地球低軌道上で待機する予定だった。
安全な地上拠点が完成するまでは、グレートフォックスそのものが全員の生活拠点になる。
「フォックスさん」
ルナが操縦室へ入ってくる。
「何だ」
「今日の簡易報告がまとまりました」
「結果は?」
「候補地として、明日も調査を続けられます」
「そうか」
フォックスの返事は短い。
だが、ルナはそれだけで少し嬉しそうに笑った。
「はい」
「問題は?」
「人工構造物と軟弱層、それから小さな表層空洞が見つかりました」
「十分多いな」
「でも、安定している可能性がある場所も見つかりました」
フォックスはルナを見る。
問題を隠していない。
良い結果だけを選んでもいない。
それでも、前を向いている。
「明日はどうする」
「最初に人工構造物の範囲を調べます。その後、北側の安定域を広く走査します」
「今日の空洞は?」
「単独では近づきません」
「当たり前だ」
「分かっています」
「今日の件を忘れるな」
「忘れません」
ルナは真剣に答えた。
「でも、あの人だけを責めるつもりもありません」
「責める必要はない」
フォックスは前を向く。
「次に同じことをしなければいい」
ルナは少しだけ目を丸くする。
「リュウジと同じことを言うんですね」
「何が」
「失敗した時に、次を考えればいいって」
「普通だろ」
「二人とも、その普通を言う時の顔が似ています」
「似てない」
即答だった。
後ろで聞いていたスリッピーが吹き出した。
「似てるかも」
「スリッピー」
「考え方は似てるよ。言葉が短すぎるところも」
「余計なことを言うな」
ルナが笑う。
「ありがとうございます、フォックスさん」
「何の礼だ」
「今日、止めてくださったことです」
「俺は必要な判断をしただけだ」
「それでもです」
ルナは言葉を続ける。
「人工物を見つけた時、本当はすぐに掘ってみたかったです」
「知ってる」
「分かっていたんですか?」
「顔に出てた」
スリッピーも頷く。
「すごく出てたよ」
「そんなにですか?」
「うん。今すぐ地面を掘りそうな顔だった」
「しません」
「フォックスがいなかったら?」
「……皆さんに相談します」
「少し迷ったね」
「迷ってません」
ルナは困ったように笑った。
チャコがいない。
いつも隣で「無茶すんな」と言ってくれる声は、今回は聞こえない。
それでも、フォックスとスリッピーがいる。
建設チームがいる。
ナウスがいる。
自分一人で判断しなくていい。
チャコをリュウジへ送り出しても、自分の側が空っぽになったわけではなかった。
「スリッピーさん」
「何?」
「今日、ずっと船内から見てくださってありがとうございました」
「仕事だからね」
「それでも、助かりました」
「明日はもっと忙しくなるよ」
「お願いします」
「任せて」
『私への謝意はありませんか』
ナウスが突然言った。
ルナは目を瞬かせる。
「ナウスも、ありがとうございました」
『受領しました』
スリッピーが笑う。
「ナウス、自分からお礼を要求するようになったの?」
『作業貢献に対する評価の偏りを指摘しただけです』
「それを要求って言うんだよ」
『表現の相違です』
ルナは二人のやり取りを聞きながら笑った。
外では、粉塵帯が少しずつ通り過ぎていた。
灰色に覆われていた窓の向こうへ、弱い光が戻り始める。
地表には、今日置いた立入禁止標識が四つ残っている。
その中央には、まだ正体の分からない人工構造物が眠っていた。
丘の北側には、安定している可能性がある地盤。
西側には、湿潤した軟弱層。
東側には、表層空洞。
何もない平地ではなかった。
簡単に設備を置ける場所でもない。
だが、何も出来ない土地だと決まったわけでもなかった。
「始まったんですね」
ルナが窓の外を見ながら言う。
「何が」
フォックスが尋ねる。
「地球での活動です」
「着いた時から始まってる」
「そうなんですけど」
ルナは胸の前で手を握る。
「今日、初めて地面の下が少し分かったでしょう?」
「ああ」
「前回は、ここなら始められるかもしれないって思いました」
丘の向こうへ、薄い光が差している。
「今日は、本当に始めるために何を調べればいいのかが見えました」
期待だけではない。
問題も見えた。
危険もあった。
予定どおりに進まなかった。
それでも、ルナの声には確かな明るさがあった。
「明日も頑張りましょう」
スリッピーが笑う。
「ルナは元気だね」
「疲れていないわけではありません」
「ちゃんと休む?」
「休みます」
「本当に?」
「本当です」
フォックスが低く言う。
「休ませる」
「自分で休めます」
「信用がない」
「どうしてですか?」
「今日、地上へ出てから一度も自分から休憩を言わなかった」
ルナは黙る。
スリッピーが笑いをこらえている。
「……明日は言います」
「今日も休め」
「はい」
素直に返事をして、ルナは操縦室を出ようとする。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「フォックスさん、スリッピーさん」
二人がルナを見る。
「一緒に来てくださって、ありがとうございます」
フォックスは一瞬だけ黙る。
「まだ初日だ」
「はい」
「礼は全部終わってからにしろ」
ルナは笑顔で頷いた。
「分かりました」
スリッピーが手を振る。
「じゃあ、最後の日にたくさん言ってね」
「はい。たくさん言います」
「今から予約しておくよ」
「スリッピー」
「はいはい」
ルナは笑いながら中央区画へ戻っていった。
その背中には、朝まで抱えていた不安が完全になくなったわけではない。
調査はまだ始まったばかり。
地盤が建設に耐えられるかは分からない。
人工構造物が危険な空洞か、利用出来る基礎なのかも分からない。
明日、別の問題が見つかる可能性もある。
それでも今のルナは、その不確かさを恐れるだけではなかった。
分からないなら調べる。
問題があれば皆で考える。
誰かが失敗すれば、次に同じことが起きない形を作る。
そして、一人では進まない。
サヴァイヴで仲間達をまとめてきた時と同じように。
自分から前を向き、その明るさを周囲へ渡していく。
その日の調査で、テラフォーミングマシンを建てられるという結論は出なかった。
けれど。
丘の北側に、次の日も調べる価値のある地盤が見つかった。
地下に、人間が残した何かが眠っていると分かった。
そして何より、地球へ集まった全員が、自分達は同じ目的のためにここへ来たのだと実感し始めていた。
それが、最初の一歩だった。