ルナが地球の大地で最初の一歩を踏み出していた頃。
宇宙でもまた、新たな動きが始まっていた。
通常の輸送船が行き交う木星圏の航路を離れ、東側の未探索領域へ向かって進む三つの機影。
中央を飛ぶのはネフェリス。
流線形の船体には、これまで幾度も修復されてきた痕跡が残っていた。
外装は整えられている。
航行性能にも問題はない。
それでも、全てを新品同様に戻したわけではなかった。
過去の調査。
救助活動。
二重遭難。
そこで負った傷を塞ぐための補強装甲が、船体の各所に残されている。
それは損傷ではない。
ネフェリスが生き残ってきた証だった。
その左右を、二機のアーウィンが一定の距離を保って飛行している。
左前方を飛ぶのはファルコ。
ネフェリスより僅かに前へ出て、進行方向に異常がないかを先行して確認していた。
右後方を飛ぶのはクリスタル。
ネフェリスの船体全体と、その背後に残る航跡を見渡せる位置を維持している。
二機は、ただ護衛対象の隣を飛んでいるわけではない。
前方から近づく物体。
側面から入り込む不規則な反応。
背後で生じる空間の乱れ。
どこから異変が現れても、どちらか一機が先に捉えられるよう、互いの死角を補う隊列だった。
その中央。
ネフェリスの操縦室では、リュウジが操縦席に座っていた。
右手は操縦桿。
左手は推力と重力制御の調整盤。
余計な力は入っていない。
正面には進行航路。
左右の画面には、二機のアーウィンとの相対位置。
さらにその奥には、未探索領域の境界までの距離が表示されている。
まだ危険区域へ入ったわけではない。
それでもリュウジの目は、すでに通常航行の時とは違っていた。
船体の僅かな振動。
エンジン音の変化。
計器に現れる前の重力場の揺らぎ。
その全てを、操縦桿を通じて確かめている。
副操縦席にはタツヤ班長。
かつてドルトムント財閥旅行会社で、リュウジと数え切れないほどのフライトを共にした人物だった。
ネフェリスの操作系統を把握するための訓練も重ねてきた。
以前の感覚を取り戻すだけではない。
今回のために、新たに機体の癖を覚えてきた。
それでもタツヤ班長は、昔のように単にリュウジの横へ座っているわけではなかった。
航路補正。
燃料消費。
帰還可能距離。
アーウィンとの位置関係。
そして、万が一リュウジが操縦を続けられなくなった場合に備え、全ての数値を自分でも追っていた。
後方のシステム席にはチャコ。
小さな猫型の身体を専用座席へ固定し、前脚を複数の操作盤へ伸ばしている。
ネフェリスの中枢応答。
姿勢制御。
重力制御ユニット。
通信線。
神経応答制御と操縦系統の接続状態。
チャコの前には、通常のシステム担当者では一度に追い切れない量の情報が流れていた。
だがチャコは、表示される数字だけを見ているわけではない。
「右側の姿勢制御、〇・〇二遅れとるな」
誰に言うでもなく呟き、補正値を入力する。
表示上では正常範囲。
警告も出ていない。
それでもチャコには分かった。
ネフェリスが右へ姿勢を変えた時だけ、反応がほんの僅かに重い。
「リュウジ。次、軽く右へ振ってみ」
「分かった」
リュウジが操縦桿へ僅かに力を加える。
ネフェリスの船首が、ほんの数度だけ右へ向いた。
チャコの画面上で、複数の数値が一斉に変化する。
「やっぱりや。右舷側の補助スラスターやない。姿勢制御から中枢へ返る信号が、一拍だけ鈍い」
「直せるか」
「今のうちならな。未探索領域へ入ってノイズを被ったら、原因の切り分けが面倒になる」
「頼む」
「任しとき」
チャコの前脚が素早く動く。
船の中枢を単なる機械として扱うのではない。
調子を崩す前の生き物を診るように、ネフェリスの反応の癖を一つずつ拾っていく。
通信席にはペルシア。
耳元には大型のヘッドセット。
正面の画面には、ネフェリス内部の通信系統だけでなく、ファルコ、クリスタル、宇宙管理局本部、帰還用中継地点との回線が並んでいた。
現在のペルシアは宇宙管理局の統括官。
本来であれば、誰かに通信席を任せ、自分は後方から全体を管理する立場でもある。
それでも今回は、自らネフェリスへ乗り込んだ。
進む先は未探索領域。
何が起きるか分からない場所では、機械が単なる雑音として切り捨てる僅かな音が、生死を分ける可能性もある。
だからペルシアは、自分の耳で聞く。
必要なら、自分の言葉で指示を出す。
そして、進むべきでないと判断した時には、自分で止める。
四人がそれぞれの席で作業を続ける中、操縦室には低い機械音だけが流れていた。
張り詰めてはいる。
だが、息苦しい緊張ではない。
長い準備を終え、ようやく動き始めた者達の集中だった。
そんな空気の中で、タツヤ班長がふと副操縦席の背へ身体を預けた。
目の前にはリュウジ。
後方にはペルシア。
さらにシステム席では、チャコがネフェリスの応答を読み続けている。
タツヤ班長は、操縦室をゆっくりと見渡した。
「いやぁ~」
力の抜けた声が、操縦室へ流れる。
「こうしてリュウジとペルシアと、また同じ宇宙船に乗る日が来るなんてね。懐かしいなぁ~」
リュウジは前を向いたまま、僅かに目を動かした。
ペルシアも通信画面から顔を上げる。
「そうかしら?」
少しだけ首を傾げる。
ドルトムント時代を懐かしむ気持ちがないわけではない。
けれど、今は任務中だ。
わざわざ口に出すほど特別なことだとは思っていないような顔だった。
「そうだよ」
タツヤ班長は笑いながら答えた。
「ペルシアがドルトムントを辞めてから、もう二度と同じ宇宙船へ乗ることはないと思ってたからね」
「まるで、私が悪いみたいじゃない」
ペルシアが少し眉を寄せる。
「そんなことは言ってないよ」
「言い方がそう聞こえるのよ」
「気のせいじゃない?」
「絶対違うわ」
ペルシアが即座に返す。
タツヤ班長は笑って受け流した。
ペルシアがドルトムントを辞めると告げた日のことを、タツヤ班長は今も覚えている。
辞めてほしくなかった。
班長としては、引き止めたかった。
だが、ペルシアが宇宙管理局でやりたいことを見つけ、前を向いていることも分かっていた。
だから最後には送り出した。
あの日は、これが最後だと思っていた。
リュウジとペルシアが同じ操縦室にいる光景も。
自分がその間で、二人のやり取りを聞くことも。
もう戻らない、昔の景色になるのだと思っていた。
それが今、形を変えて戻ってきている。
リュウジはスペースホープのパイロット。
ペルシアは宇宙管理局の統括官。
タツヤ班長も、かつての十四班班長という立場だけで座っているのではない。
所属も役割も変わった。
それでも、同じ操縦室にいる。
タツヤ班長にとって、それは十分に懐かしいことだった。
チャコがシステム画面から顔を上げる。
「なぁ、タツヤ班長」
「何?」
「リュウジと同じ宇宙船が懐かしいんは分かるけど、ペルシアと乗るんも懐かしいんか?」
チャコは純粋に疑問を抱いたようだった。
リュウジは操縦士。
タツヤ班長もパイロット。
二人が同じ操縦室にいたことは自然に想像出来る。
だがペルシアは、ドルトムント時代には客室乗務員だった。
操縦室の正式な乗員ではない。
「まぁね」
タツヤ班長は、何でもないことのように答えた。
「操縦席では、何度も見た光景だよ」
「どういうことや?」
チャコが首を傾げる。
「ペルシアは、よく操縦室に遊びに来てたんだ」
リュウジが前を向いたまま言った。
「ちょっと」
ペルシアがすぐに反応する。
「遊びになんて来てないわよ。仕事よ、仕事」
「よく言うよ」
タツヤ班長が笑った。
「だいたい遊びに来てたじゃない」
「違うわ」
「違わないよ」
「客室状況の報告とか、操縦席との情報共有とか、ちゃんと理由があったの」
「最初の五分くらいはね」
「最後まで仕事だったわ」
ペルシアは胸を張る。
だが、リュウジとタツヤ班長の反応は薄かった。
信じていない顔だった。
「フライトに余裕がある時は、だいたい操縦室へ来てたじゃない」
タツヤ班長が続ける。
「それに、フライトへ遅刻した日もね」
ペルシアの表情が僅かに止まった。
「……そんなこともあったかしら?」
「急に記憶なくした?」
「昔のことだもの」
「よく覚えてるよ」
タツヤ班長は楽しそうに言う。
「そうでしたね」
リュウジも小さく頷いた。
ペルシアがリュウジを見る。
「リュウジまで覚えてるの?」
「覚えてる」
「忘れなさいよ」
「無理だろ」
返答は早かった。
タツヤ班長は昔を思い出すように、少し遠くを見る。
「遅刻して操縦室へ入ってきて、最初に言うことがいつも同じだったんだよね」
ペルシアが嫌な予感を覚えたように、目を細める。
「タツヤ班長」
「何?」
「余計なことは言わなくていいわよ」
だが、タツヤ班長は止まらない。
「『エリンに怒られるから、タツヤ班長、私を呼び出したことにして!』って」
「そこまで正確に再現しなくてもいいじゃない」
「何度も聞いたから覚えちゃったよ」
タツヤ班長は悪びれない。
ペルシアは通信席の背へ身体を預け、額を押さえた。
チャコが目を丸くする。
「そういえば、そんなこと前にも言っとったな」
「前にも?」
「救助の時や。ペルシアが、フライトに遅刻してもタツヤ班長がエリンに黙っとってくれたから、タツヤ班長はペルシア派や言うとった」
「あれは事実よ」
ペルシアは顔を上げ、涼しい表情へ戻る。
「タツヤ班長は、私の味方だったもの」
「味方というか」
タツヤ班長は少し困ったように笑った。
「話を大きくすると、その後が面倒だっただけなんだけどね」
「ほら、味方じゃないか」
リュウジがぼそりと言う。
「リュウジ」
「何だ」
「昔から、こういう時だけエリンの味方をするわよね」
「事実を言っただけだ」
「エリン派筆頭」
「勝手に派閥を作るな」
チャコが笑いを堪えるように口元を押さえた。
「それで、本当にエリンにバレとらんかったんか?」
「バレてないから、セーフよ」
ペルシアは迷いなく言い切った。
タツヤ班長とリュウジが、同時に僅かな沈黙を置く。
その沈黙が何を意味するのか、ペルシアは気づいていない。
あるいは、気づかないふりをしている。
「一回も直接言われなかったもの」
ペルシアはさらに続けた。
「だから、エリンは知らなかったのよ」
『あら』
突然、通信席のスピーカーから声が響いた。
『あれで、バレていないと思っていたの?』
操縦室の空気が止まった。
ペルシアの身体が固まる。
タツヤ班長は目を閉じ、笑いを堪えるように口元を押さえた。
リュウジは前を向いたままだったが、僅かに口元が動いた。
チャコは完全に面白がっていた。
「……エリン?」
ペルシアが恐る恐る通信画面を見る。
宇宙管理局本部との常時接続回線。
そこには、エリンの通信表示が出ていた。
地球活動側の状況。
ネフェリスの航行状態。
未探索領域へ入るまでの時間。
複数の任務を本部側でつなぐため、エリンは少し前から回線に入っていた。
ただし、作業中の四人が気づいていなかっただけだった。
『聞こえているわよ』
エリンの声は穏やかだった。
怒鳴っていない。
だからこそ、ペルシアには余計に怖かった。
「いつから聞いてたの?」
『タツヤ班長が、懐かしいと言い始めた辺りから』
「ほとんど最初からじゃない」
『ええ』
「どうして黙ってたのよ」
『皆が楽しそうだったから』
声だけなら、優しい。
だがペルシアは知っている。
エリンがこういう言い方をする時は、大抵すでに全てを把握している。
「エリン」
『何?』
「念のため聞くけど」
『ええ』
「本当に、遅刻のことを知ってたの?」
『もちろん』
即答だった。
ペルシアの肩が落ちる。
チャコが声を上げて笑った。
「やっぱりバレとったやないか!」
「何で言わなかったのよ!」
ペルシアが通信スピーカーへ詰め寄る。
『皆の手前もあったからよ』
エリンは淡々と答えた。
『それに、ペルシアは遅刻した時ほど真面目に仕事をしていたでしょう?』
「……そうだったかしら」
『そうよ』
エリンの声には、長年一緒に働いてきた者にしか出せない確信があった。
『普段は、隙があれば客室でククルやエマと話をして、サービスが落ち着けば操縦室へ行こうとしていたけれど』
「ちゃんと仕事はしてたわよ」
『遅刻した日は、必要以上に仕事をしていたわ』
「必要以上って何よ」
『自分から客室を二往復して、備品を全部確認して、誰にも頼まれていないのに翌便の準備まで始めていたでしょう?』
ペルシアは目を泳がせる。
覚えがあった。
遅刻した罪悪感を、仕事量で帳消しにしようとしていた。
誰かに言われたわけでもない。
けれど、普段より働けば、何となく許されるような気がしていたのだ。
『それに』
エリンが続ける。
『遅刻した時ほど、服装はきっちりしていたわよね』
「それは、客室乗務員として当然でしょ」
『お化粧もしっかりしていたわ』
「それも当然よ」
『髪も、いつもより綺麗に整えていたわ』
「……何が言いたいの?」
『起きてから出社するまでの時間がないはずなのに、どうして身支度だけは普段より完璧なのかしらと思っていたの』
操縦室に、短い沈黙が落ちた。
タツヤ班長が耐え切れずに笑い始める。
「確かに、そうだったね」
「タツヤ班長まで何を言ってるの」
「本当に見た目だけは完璧だったよ」
「見た目だけって言わないで」
リュウジも小さく頷く。
「息は切れてるのに、髪は乱れてなかった」
「リュウジまで細かいところを覚えすぎよ」
「操縦室へ入ってきたら分かるだろ」
「分からなくていいの」
『ヒールの音も、普段より速かったわね』
エリンがさらに追い打ちを掛ける。
「エリン、もしかして全部見てたの?」
『チーフパーサーだったもの』
その一言で終わった。
乗務員の表情。
歩き方。
呼吸。
服装。
普段との僅かな違い。
エリンが見落とすはずはなかった。
『でも、遅刻した日は誰より真面目に動いていたから、あえて何も言わなかったのよ』
「優しさだったの?」
『違うわ』
エリンは静かに否定した。
『言わなくても、十分反省しているのが分かったから』
「……そう」
『それに、直接注意したら、ペルシアは言い訳を始めるでしょう?』
「しないわよ」
返答が早すぎた。
タツヤ班長が笑う。
「するね」
「するな」
リュウジも続く。
「するやろ」
チャコまで加わる。
「三対一じゃない」
『四対一よ』
エリンが淡々と訂正する。
ペルシアは通信席で頭を抱えた。
「私、統括官なのに」
『統括官になる前の話でしょう?』
「今、部下達がこの通信を聞いていたらどうするのよ」
『本部側では、私の個人回線に落としてあるから大丈夫よ』
エリンは準備がよかった。
「そこまで出来るなら、最初から止めてよ」
『貴重な証言だったから』
「何のための証言よ」
『ペルシアが昔から変わっていないことを確認するため』
「変わったわよ」
『そうね』
エリンの声が少しだけ柔らかくなる。
『立場は変わったわ』
宇宙管理局の統括官。
多くの部署を動かし、現場を止める責任を持つ人間。
ドルトムント時代のように、ただ操縦室へ遊びに来る客室乗務員ではない。
今のペルシアは、自分の判断でネフェリスへ乗り込んでいる。
『でも、遅刻を誤魔化そうとするところは変わっていなかったのね』
「もう遅刻なんてしてないわよ」
『フレイさんから、会議に三分遅れたと報告を受けたことがあるけれど』
「フレイまで報告してるの?」
『当然でしょう』
「私の周り、真面目な人ばっかり」
『あなたが不真面目な分、ちょうどいいのよ』
ペルシアは大きく息を吐いた。
だが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
言われている内容は、ほとんど悪口に近い。
それでも嫌ではなかった。
エリンが覚えている。
タツヤ班長も覚えている。
リュウジも覚えている。
自分がドルトムントを辞めてから、時間も立場も大きく変わった。
それでも、かつて一緒に働いていた時の何気ない出来事が、皆の中に残っている。
「でも、本当に懐かしいね」
タツヤ班長が改めて言った。
今度の声は、先ほどより少しだけ静かだった。
「リュウジが操縦して、俺が横にいて、後ろでペルシアがエリンに怒られそうになってる」
「怒られてないわ」
「今も似たようなものだよ」
「違うわよ」
ペルシアは言い返す。
そのやり取りを聞きながら、リュウジは正面に広がる宇宙を見ていた。
懐かしい。
確かに、そうなのかもしれない。
ドルトムント時代。
タツヤ班長が隣にいる。
ペルシアが理由をつけて操縦室へ入ってくる。
客室からエリンの連絡が来る。
何でもない会話をしながら、船は目的地へ向かって進む。
あの頃は、それが続くものだと思っていた。
だが、続かなかった。
ペルシアは宇宙管理局へ移った。
エリンは十四班を支え続けた。
リュウジも別の道へ進んだ。
タツヤ班長も、以前とは違う立場になった。
それでも今。
また同じ船に乗っている。
過去へ戻ったわけではない。
それぞれが別の道を歩いた末に、必要があって同じ場所へ集まった。
だからこそ、ただ懐かしいだけではなかった。
以前よりも、それぞれが背負うものは重い。
その分だけ、この光景には意味があった。
リュウジが静かに口を開く。
「タツヤ班長」
「何?」
「前方の航路、予定位置まであと十分です」
タツヤ班長の表情が変わる。
先ほどまでの柔らかさを残しながらも、目が計器へ戻る。
「了解。帰還用航路との分岐点を確認するよ」
ペルシアも通信画面へ向き直った。
「ファルコ、クリスタル。聞こえる?」
『聞こえてるぜ』
左側を飛ぶファルコがすぐに答える。
『こちらも問題ないわ』
クリスタルの落ち着いた声も続いた。
「間もなく、事前に設定した警戒区域へ入るわ。ここから隊列を少し詰める」
『了解。俺はそのまま前を取る』
ファルコが答える。
『私は右後方を維持するわ。ネフェリスとの距離は少し縮める』
「お願い」
ペルシアは通信回線を確認する。
「本部、こちらネフェリス。予定どおり警戒区域へ移行する」
『こちら本部。確認しました』
エリンの声も、完全に仕事のものへ戻っていた。
『ネフェリス、アーウィン二機ともに通信状態は正常です。地球活動側からも、初日の調査を継続中との報告が入っています』
ルナ達も動いている。
その言葉を聞き、チャコの耳が僅かに動いた。
「ルナは大丈夫そうか?」
『現時点では問題ないわ。フォックスさんとスリッピーさんが側にいる。ルナも無理に作業を進めず、全体を見ながら判断しているそうよ』
「そうか」
チャコはそれだけ答え、再びシステム画面へ目を戻した。
心配していないわけではない。
だが今は、自分にも役割がある。
ネフェリスを生きて帰す。
リュウジ達を守る。
それが、ルナからチャコを託された意味だった。
『リュウジ』
エリンが呼ぶ。
「はい」
『こちらでも航路と帰還限界点を見ています。何か一つでも予定値から外れたら、必ず共有して』
「分かっています」
『一人で判断を抱えないこと』
「はい」
『タツヤ班長も、お願いします』
「了解。ちゃんと止めるよ」
『よろしくお願いします』
エリンの声には、タツヤ班長への信頼が込められていた。
命令ではない。
昔から何度も自分達を見守ってきた班長へ、リュウジを任せる言葉だった。
『ペルシアも』
「分かってるわよ」
『本当に?』
「どうして私だけ確認が強いのよ」
『さっきの話を聞いた後だから』
「遅刻と未探索領域は関係ないでしょ」
『時間を守れない人が、撤退時刻を守れるのかしら』
「守るわよ!」
ファルコの笑い声が通信へ混じる。
『お前、昔からそんな感じだったのかよ』
「ファルコ、通信を切るわよ」
『統括官の職権乱用だろ、それ』
『くだらない話は、そこまでにしなさい』
クリスタルの冷静な声が入る。
『前方の空間に、僅かな磁気変動があるわ』
操縦室の空気が、一瞬で引き締まった。
笑いが消える。
ペルシアの指が通信出力を調整する。
「位置は?」
『ネフェリス進行方向、約二万。ファルコの現在位置からなら、もう少し近い』
『こっちでも拾った』
ファルコの声も低くなる。
『見た目には何もない。ただ、計器が少し揺れてる』
「チャコ」
リュウジが呼ぶ。
「見とる」
チャコの画面には、通常の航路データとは異なる細い波形が現れていた。
「磁気だけやない。重力制御の基準値も、ほんのちょっと引っ張られとる」
「未探索領域の影響か」
「まだ境界前や。せやけど、向こうから何か漏れてきとる可能性はある」
タツヤ班長が航路を拡大する。
「進行方向を五度だけ外そう。正面から入る必要はない」
リュウジは頷いた。
「分かりました」
操縦桿を僅かに動かす。
ネフェリスが静かに進路を変える。
左右のアーウィンも即座に追従した。
「ファルコは前方を維持。深追いはしないで」
『分かってる』
「クリスタルはネフェリスへ寄って。今の反応が外から来ているのか、船側の異常なのかを見て」
『了解』
ペルシアは通信回線を整理しながら、一つずつ指示を出していく。
先ほどまで遅刻の話で追い詰められていた人物とは思えないほど、声は冷静だった。
聞こえる音を分ける。
必要な情報だけを拾う。
誰が何を見ているのかを整理する。
その姿は、もうドルトムント時代に操縦室へ遊びに来ていたペルシアではない。
統括官として、多くの現場を見てきたペルシアだった。
『磁気変動、少し弱くなったわ』
クリスタルが報告する。
『進路を変えたことで離れている。船内起因ではなさそうね』
「記録する」
ペルシアは座標と波形を保存する。
「本部、今の反応を送るわ」
『受信したわ』
エリンが答える。
『こちらでも照合する。現時点では、進入中止基準には達していないわ』
「了解」
ペルシアは画面を見つめたまま返す。
操縦室には、再び機械音だけが残った。
だが、先ほどまでとは違う。
目の前の宇宙は、もうただの航路ではない。
人間が十分な情報を持っていない領域が、すぐそこまで近づいている。
タツヤ班長が静かに息を吐いた。
「懐かしいだけじゃ、終わらなさそうだね」
「当然です」
リュウジは前を見据えたまま答えた。
「今回は、旅行フライトではありませんから」
「そうだね」
タツヤ班長は、正面に表示された境界線を見る。
その線の向こうに何があるのか。
まだ誰にも分からない。
それでも、隣にはリュウジがいる。
後ろにはチャコとペルシアがいる。
外にはファルコとクリスタル。
さらに遠くでは、エリンが全体を見ている。
昔と同じではない。
昔よりも、ずっと強い形だった。
ペルシアは通信席から前方を見た。
「リュウジ」
「何だ」
「この先、少しでも変だと思ったら言いなさい」
「分かってる」
「自分なら行ける、は理由にならないわよ」
「お前もな」
「私は冷静よ」
「さっきまで遅刻を誤魔化してただろ」
「それとこれは別よ」
チャコが小さく笑う。
「まだ言うとる」
「チャコはシステムを見て」
「見とるわ」
エリンの声が、通信から穏やかに入る。
『皆』
操縦室の全員が耳を傾ける。
『警戒区域への進入まで、あと三分』
笑いの余韻が静かに消える。
それぞれの視線が、自分の担当へ戻る。
リュウジが操縦桿を握り直す。
タツヤ班長が帰還航路と燃料限界を重ねる。
チャコがネフェリスの中枢応答を再確認する。
ペルシアが全通信回線を一本ずつ確かめる。
外では、二機のアーウィンがネフェリスとの距離を縮めた。
『ファルコ、配置完了』
『クリスタル、配置完了』
「ネフェリス、システム問題なしや」
「通信線、全回線正常」
ペルシアが報告する。
タツヤ班長も頷く。
「副操縦席、準備完了」
リュウジは正面を見た。
目の前には、星の光さえ僅かに歪んで見える空間が広がっている。
「了解」
低く、静かな声だった。
「ネフェリス、東側未探索領域の調査を開始する」
中央のネフェリス。
その左右を守る二機のアーウィン。
三つの機影は隊列を崩すことなく、人類がまだ十分に知らない宇宙へ向かって進んでいった。