サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第21話

夜明け。海の匂いが薄く漂い、船体をかすめる水音が規則正しく続いている。

 ルナはゆっくり上体を起こした。体の芯に残っていただるさは、潮の満ち引きといっしょに遠のいている。喉は少し渇いていたが、手足は軽い。――もう大丈夫。そう自分に頷いて、寝室の薄い毛布をそっと畳む。

 

 通路へ出ると、船内はまだ青白い朝の光に沈んでいた。操縦室の方へ歩きかけたとき、入り口の扉が目に入る。――べこん、と内側へ押し潰れたような跡。拳のかたちに似た歪み。ルナは思わず首を傾げ、指先でその凹みの縁をなぞった。乾いた鉄の匂いに混じって、鉄錆のような、生臭い匂い――指に、茶色く滲んだ小さな血の跡が付いた。

 

「なんで……?」

 

「それ、リュウジの仕業や」

 

 操縦室の扉の隙間から、チャコが顔だけひょこっと出す。いつもの勝ち気な目元だが、声は妙にやわらかい。

 

「ウチが止めるヒマもあらへんかった。『ルナを海に落としたのは俺のミスや』言うてな、思いっきり殴っとったわ。――いやぁ、扉が可哀想やで、ほんま」

 

「……リュウジ、が」

 

 ルナはもう一度、凹みの縁を指でなぞった。堅い鋼板の冷たさ。そこに残る小さな血の斑点。胸の奥がじんと熱くなる。

 

 操縦席から振り向いたメノリが、静かな声で言った。

 

「それだけじゃない。あいつ、ずっと寝なかった。交代を申し出ても『いい』の一言で、操縦桿を握り続けた。食事もろくに口をつけなかったはずだ」

 

「起きたら礼、言うんやで。……あの顔は、ほんま“命がけ”の顔やった」

 

 チャコがからかう調子でケラケラ笑う。けれど、その瞳の奥には安堵が灯っている。ルナは小さく「うん」と頷いた。

 

「ありがとう、チャコ。メノリも」

 

 短く礼を言って、ルナは踵を返した。足音をできるだけ殺して、寝室へ戻る。

 薄闇の中、寝台の一つに彼はいた。仰向けに眠るリュウジの胸が、規則正しく上下している。額のあたり、濡らした布の跡がうっすら残り、頬には乾きかけた擦り傷。包帯の端から覗く拳は、皮が裂けて赤く、ところどころ血がにじんで固まっていた。

 

 ルナはそっと膝をつき、彼の枕元に身を寄せる。

 ――あの夜、見張り台から見えた黒い壁みたいな雲。怒る海。落ちる瞬間の冷たさ。

 そして、甲板の上で震える仲間たち。泣きじゃくる声。

 間にあるすべてのざわめきが、今は遠い。ここにはただ、荒くれた夜を越えた一人の呼吸だけがある。

 

「……ごめんね。心配、かけたね」

 

 囁きは自分でも驚くくらい小さくて、頼りない。それでも、胸の奥が少し軽くなる。

 そっと彼の手を取る。熱がまだわずかに残る掌。固く、節くれだった指。包帯の上から、指先でやさしく撫でる。触れた瞬間、ルナの喉がきゅっと詰まった。

 

「ありがとう、リュウジ」

 

 言葉は海の泡のように、静かに溶けた。

 彼のまぶたが微かに震えた気がして、ルナは焦って手を放しかける。けれど、眠りは深いまま。安堵し、もう一度、指を絡める。今度は少しだけ、しっかりと。

 

「私、ちゃんと戻ったよ。みんなのところに。――あなたが、繋ぎ止めてくれたんだね」

 

 枕元に顔を寄せると、潮と金属の匂い、その奥に、かすかな煙の匂いがした。

 ルナはカーテンの隙間から差し込む朝の光に目を細める。柔らかな金色が、二人の影を薄く重ね、世界の輪郭をやわらげていく。

 

「起きたらね、ちゃんとお礼を言うからね。……私も、がんばるから」

 

 くすりと笑って、彼の拳に頬を寄せる。

 小さく、心の中で同じ言葉をもう一度繰り返した。

 

――ありがとう。

 

 そしてルナは、指をほどき、毛布をそっと肩まで引き上げた。

 扉の前で一度だけ振り返る。寝息は穏やかで、夜の傷は朝の光に溶け始めている。

 

 外へ出ると、甲板の向こうで波が柔らかく砕けた。

 今日という一日の始まりに、ルナは短く息を吸い、前を向いた。

 “みんなのために”。けれどもう一つ――“彼のためにも”。

 その小さな決意が、静かな朝の船内に、確かな音を立てて降りた。

 

⬜︎

 

青く広がる海原の上、穏やかな風が甲板を撫でていく。

 陽射しは柔らかく、嵐の名残などまるでなかった。

 

 ルナ、シャアラ、ハワード、アダム、カオルの五人は、甲板に敷いた簡易シートの上で昼食を取っていた。

 ルナが作ってくれた温かいスープの香りが、潮の匂いと混じって心地よく漂う。

 

 「やっぱり海の上で食べるごはんは最高ね」

 シャアラがスプーンを口に運びながら、穏やかに笑った。

 

 「うん、なんか、地面で食べるよりずっと気持ちいい」

 アダムもにこやかに答えた。

 

 「僕はもうちょっと肉が欲しいけどなぁ」

 ハワードがいつもの調子でぼやくと、すかさずカオルが苦笑する。

 「お前、よくそんなこと言えるな。これだけの材料をよくここまで仕上げたもんだ」

 

 「文句があるなら、食べなくてもいいのよ、ハワード」

 ルナが笑いながら返すと、空気が一層和らいだ。

 

 そのとき――。

 

 甲板の階段から、寝ぼけ眼のリュウジが姿を見せた。

 大きな欠伸をしながら髪をかき上げ、少し伸びた前髪の下から眠たげな目を覗かせる。

 

 「……ふぁあ」

 

 リュウジの欠伸に、全員が一瞬だけ目を丸くしたあと、ハワードが吹き出した。

 「出たな、寝起きの伝説男!」

 

 リュウジは無言のままハワードの前に立ち、無造作に手を出した。

 「水」

 

 「……はいはい、どうぞ」

 ハワードが水筒を渡すと、リュウジはそれを一気に飲み干した。喉が鳴る音が静かな甲板に響く。

 

 「ぷはっ……」

 息をついたリュウジは、すぐ傍にいたアダムの頭に手を伸ばし、軽く撫でた。

 「もう大丈夫か?」

 

 アダムは驚いたように顔を上げ、すぐに微笑んだ。

 「うん、みんなが元気になって、うれしい」

 

 「そうか」

 それだけ言うと、リュウジは空を一瞥し、見張り台へと向かって歩き始めた。

 足取りはまだ少し重い。それでも――その背中には確かな力が戻っていた。

 

 「だ、大丈夫かしら……」

 ルナが心配そうにその背を見つめる。

 

 カオルが短く答えた。

 「問題ないさ。操縦ってのは神経を擦り減らす。二日も徹夜で操縦してたんだ、無理もない」

 

 「ふふ、あんな一面もあるなんて、ちょっと意外かも」

 シャアラが口元を押さえて微笑む。

 

 「ほんとだよな」

 ハワードが頬杖をつきながら笑った。

 「ルナを探してるときなんて、鬼みたいな顔してたのにな」

 

 「それを言うなら、まさかメノリに頭を下げるところを見られるとは思わなかったけどね」

 突然背後から声がして、皆が振り返る。

 階段を上ってきたシンゴが、スパナを腰に差しながら笑っていた。

 

 「シンゴ。姿勢制御ユニットはもういいのか?」

 カオルが尋ねる。

 

 「うん、大丈夫! 今はチャコが細かいメンテ中だよ」

 そう言いながら、シンゴはスープの皿を手にして輪に加わる。

 

 ルナは首を傾げながら、少し身を乗り出した。

 「ねぇ、シンゴ。さっき言ってた“メノリに頭を下げた”って、どういうこと?」

 

 シンゴは「あー」と苦笑して、頭を掻いた。

 「それ、知らなかったの? 昨日さ、メノリがルナを探すのを止めるって言ったとき……リュウジ、真っ先に『頼む』って言って、頭を下げたんだ」

 

 「えっ……」

 ルナの瞳が見開かれる。

 

 「僕、あんなリュウジ見たの初めてだったよ」

 シンゴの声が少し柔らかくなる。

 「いつも強気で、誰にも頭なんか下げないのかなって思ったけど……あの時だけは違った。必死だった」

 

 カオルは腕を組みながら、ゆっくりと頷いた。

 「あいつの“必死”は、昔から不器用なんだよ」

 

 ルナは静かに笑った。

 その笑顔は、どこか切なく、そして温かかった。

 「……リュウジらしいね」

 

 空の青さが、甲板を照らしている。

 仲間たちの笑い声が小さく響く中、

 ルナの心には、少しだけ胸が痛むような、

 けれど確かな温もりが宿っていた。

 

⬜︎

 

昼食を終え、それぞれが自分の作業へと戻っていった。

 メノリとシンゴは船内の点検、チャコは機械室でオイルの調整、ハワードとベルは甲板の清掃をしていた。

 穏やかな風が吹き、潮の香りがやわらかく漂う午後。

 嵐の名残もすっかり消え、空はどこまでも高く青かった。

 

 ルナは両手に温め直したスープの入った容器を持ち、マストに取り付けられた見張り台へと登っていった。

 途中で吹く風が髪を揺らし、ほんのりと潮の味が頬に触れる。

 

 「……少し交代するね、リュウジ」

 

 見張り台の縁から顔を出し、声をかけた。

 しかし返事はない。

 

 首をかしげ、そっと覗き込む。

 リュウジは背を壁に預け、腕を組んだまま、深く眠っていた。

 潮風に髪が少し乱れ、頬にはわずかな日焼け。

 呼吸は穏やかで、長く張り詰めていた気配が、ようやくほどけたようだった。

 

 ルナは小さく息を吐き、見張り台の隅に腰を下ろした。

 手の中の容器から、まだ温かいスープの香りがふわりと広がる。

 

 「……寝ちゃってるんだ」

 

 呆れたように呟きながらも、口元には優しい笑みが浮かんでいた。

 嵐の夜、彼がどれほど眠らずに仲間たちを守ってくれたか――

 その話を、みんなから聞いたばかりだった。

 

 ルナは容器をそっと足元に置き、風で揺れる髪を耳にかける。

 眠るリュウジの横顔を見つめながら、胸の奥が静かに温かくなる。

 強くて、冷たく見えるのに、誰よりも人の痛みに敏感で。

 そんな彼の優しさを、ルナは少しずつ理解し始めていた。

 

 「……私の為にありがとう、リュウジ」

 

 小さな声でそう呟くと、彼が少しだけ眉を動かした気がして、ルナは慌てて息を止めた。

 けれど、彼は起きない。

 相変わらず穏やかな寝息を立てたまま、静かに夢の中にいるようだった。

 

 ルナはそっと立ち上がり、彼の肩に掛けられていた上着を少し整えた。

 そして、マストから広がる水平線を見上げる。

 どこまでも続く海の先に、まだ見ぬ大陸がある。

 ――その先に、きっと希望がある。

 

 吹き抜ける風が、ルナの髪を揺らした。

 その音に合わせて、リュウジの寝息も微かに揺れ、見張り台には穏やかな時間が流れていた。

 

⬜︎

 

潮風が、ゆるやかに髪を揺らした。

 青空の下、世界はどこまでも穏やかに広がっている。

 甲板でのざわめきはもう遠く、見張り台の上には、ルナと――深い眠りに沈むリュウジだけ。

 

 ルナは手すりに寄りかかり、海を見つめた。

 柔らかな波のきらめきが、まるで昼の星のように瞬いている。

 ――あの嵐の夜が嘘みたい。

 ルナは小さく息を吐いた。

 

 視線を戻すと、隣で眠るリュウジの顔が見える。

 いつもは鋭い目つきが、今は穏やかに閉じられ、唇はわずかに緩んでいた。

 その表情を見ていると、胸の奥が温かく、そして少し苦しくなる。

 

 「……リュウジって、ほんと不器用なんだから」

 

 小さな声が、風に紛れて消える。

 「何でも一人で背負おうとして、誰にも頼らなくて。

  でも、本当は優しい人なんだよね。……誰よりも、誰かを守ろうとしてる」

 

 ルナは両手を膝に重ね、指先をぎゅっと握った。

 「あの時、私が海に落ちた時……きっと、どんな気持ちだったんだろう。

  怖かっただろうな。怒ってたのかも。自分を責めて」

 

 頬を撫でる風が、彼の前髪を少し揺らす。

 ルナは思わず手を伸ばして、それをそっと整えた。

 指先に伝わる微かな体温が、心臓の鼓動を速める。

 

 「私ね、前は“リーダー”だからって、みんなの前で平気なふりばかりしてた。

  でも、あの嵐の時――あなたが操縦してる姿を見て思ったの。

  本当に強い人って、誰かを守るために怖くても前に進める人なんだって」

 

 ルナは笑った。

 その笑みには、少しの照れと、深い敬意が混じっていた。

 

 「だから、ありがとう。……私、あなたに救われてばかりだね」

 

 リュウジの胸が静かに上下する。

 その規則正しい呼吸の音が、まるで波のように耳に届く。

 

 ルナは空を見上げた。

 雲一つない青が、どこまでも続いている。

 「ねえ、リュウジ。あなたはいつも、遠くを見てる。

  でも、たまには足を止めて……ちゃんと休んでね」

 

 優しく笑って、ルナは見張り台の床に背を預けた。

 風が頬を撫で、二人の影がゆっくりと重なっていく。

 

 「次は、私の番だよ。

  あなたが守ってくれた分、今度は私が支える」

 

 穏やかな声が、空に溶けていった。

 見張り台の上には、潮の香りと、微睡みのような静寂。

 それは、嵐を越えた仲間たちに訪れた、束の間の安らぎだった。

 

⬜︎

 

見張り台から降りると、甲板を渡る風が頬をくすぐった。

 陽射しは少し傾き始め、海面は黄金色にきらめいている。

 ルナはそっと手を伸ばして、マストのロープを伝いながら下りた。

 腕の中のスープの容器は、まだ少し温かい。

 

 甲板に降り立つと、チャコとメノリが座り込んで工具箱を広げていた。

 どうやら、姿勢制御ユニットの接続部の確認をしているらしい。

 チャコが細い配線をつまみながら、ルナに気づいて顔を上げた。

 

 「おかえり、ルナ。交代したんやろ?」

 

 「うん……というか、交代っていうより……寝かせてきた、かな」

 

 ルナが小さく笑うと、チャコが首をかしげた。

 「寝かせた?」

 

 「リュウジ、ぐっすり寝てたの。声かけても全然起きなくて」

 

 その言葉を聞いたメノリが、思わず吹き出した。

 「あのリュウジが? 信じられないな」

 

 チャコも笑いながら肩をすくめる。

 「そらまぁ、二日も寝んと操縦してたんやし、しゃーないやろ」

 

 「寝顔、ちょっと可愛かったよ」

 

 ルナがぽつりと口にした瞬間、チャコとメノリが同時に振り返った。

 「え?」「えぇっ?」

 

 「な、なんでもない!」

 慌ててルナは容器を胸に抱え、視線を逸らした。

 

 メノリは苦笑を浮かべながら、工具を片付ける。

 「……まぁ、嵐の後だし。少しくらい休ませてあげてもいいだろう」

 

 「ウチもそう思うで。寝とるときくらい、静かにしとかなあかんな」

 チャコが頷きながら言うと、わざとらしく甲板を見上げた。

 「けど、あの高さやと、風通しがええから気持ちよさそうやなぁ~」

 

 「そうだな。……でも、ちょっと羨ましいな」

 メノリも笑みをこぼす。

 

 その時、風が甲板を抜け、三人の髪を軽く揺らした。

 波の音が、まるで笑い声に混ざるように優しく響く。

 

 ルナは小さく息を吐き、空を見上げた。

 「……もうすぐ、この海の向こうに大陸が見えるのかな」

 

 メノリが手を額にかざし、遠くの水平線を見つめる。

 「きっと、もうすぐだ。みんなで乗り越えてきたんだ」

 

 チャコが工具箱を閉じ、立ち上がった。

 「せやな。そろそろ“次の一歩”や」

 

 ルナは頷いた。

 潮風が背中を押すように吹き抜ける。

 見張り台の上では、相変わらずリュウジが静かに眠っている。

 その姿を想い浮かべながら、ルナは小さく微笑んだ。

 

 「……少し休んだら、またみんなで頑張ろう」

 

 柔らかな声が風に溶け、

 オリオン号の甲板に、穏やかな午後の陽射しが降り注いでいた。

 

⬜︎

 

夜の風は昼よりも冷たく、海の匂いが濃く漂っていた。

 甲板の灯りがゆらゆらと揺れ、波の反射が船体を淡く照らしている。

 見張り台の上は静まり返っていて、潮騒の音だけが遠くから響いていた。

 

 ルナは両手に夕食の入ったトレイを持って、ゆっくりと梯子を登っていく。

 上に着くと、風がふわりと髪を揺らした。

 

 「……リュウジ、夕食持ってきたよ」

 

 呼びかけた声は、海の音に溶けていった。

 しかし返事はない。

 

 見張り台の隅に目をやると、昼と同じ姿勢でリュウジが座っていた。

 背を壁に預け、腕を組んで眠っている。

 月明かりに照らされた横顔は、穏やかで、まるで少年のようにも見えた。

 

 「……また寝ちゃってる」

 

 小さく笑って、ルナは持ってきたトレイを見張り台の木の床に置いた。

 スープの湯気が夜気に混じり、やわらかく漂う。

 

 ルナはリュウジの隣に腰を下ろし、静かに夜の海を見つめた。

 波の音が心地よく、空には満天の星が広がっている。

 遠くに見える光は、ゆらゆらと瞬いていた。

 

 「……あんなに必死で探してくれたのに、私、何もできなかったな」

 

 呟きは風にかき消された。

 胸の奥に、言葉にならない思いが残る。

 

 ――自分のせいで、彼をまた苦しませてしまったのかもしれない。

 そう思うと、心が痛んだ。

 

 ルナは膝を抱え、少しうつむいた。

 「ねえ、リュウジ。あなたはどうして、いつもそんなに無茶するの……?」

 

 彼の眠る横顔を見つめながら、寂しげに微笑む。

 「もうちょっと、自分のことも大事にしてよ」

 

 その時だった。

 背後から、低く穏やかな声が聞こえた。

 

 「……何かあったのか?」

 

 ルナは驚いて振り向いた。

 そこには、眠気の残る目でこちらを見ているリュウジの姿があった。

 どうやら、いつの間にか目を覚ましていたらしい。

 

 「やっと起きたのね」

 ルナは安堵したように微笑んだ。

 

 リュウジは片手で後頭部をかきながら、ゆっくりと立ち上がる。

 「少し寝ただけだ」

 

 「少しって……もう夜よ」

 

 ルナの呆れ混じりの言葉に、リュウジは小さく笑った。

 「そうか。じゃあ、ずいぶんよく寝たな」

 

 その穏やかな笑みを見た瞬間、ルナの胸が少し締め付けられた。

 ――こんな風に笑うリュウジを見るのは、いつぶりだろう。

 

 彼はトレイの上に置かれた夕食に気づくと、

 「……ありがとう。わざわざ運んでくれたのか」と言い、腰を下ろした。

 

 「うん。温め直したから、まだ少し温かいはず」

 

 リュウジはスプーンを取り、ひと口すくって口に運ぶ。

 「……うまい」

 

 その一言に、ルナの表情がふわりと和らいだ。

 「よかった」

 

 二人の間を、穏やかな夜風が通り抜けていく。

 月明かりが二人の影を重ね、波の音が優しく響く。

 

⬜︎

 

リュウジはトレイの上のスープを飲み終え、空を仰いでいた。

 その横顔はどこか穏やかで、少し疲れの色を残している。

 ルナは彼の隣に座ったまま、何も言わず同じ空を見上げた。

 

 しばらくの沈黙。

 けれど、その沈黙がなぜか心地よかった。

 

 「……やっぱり、綺麗ね」

 ルナがぽつりと呟く。

 

 リュウジは目を細めて、夜空を見つめたまま答えた。

 「ああ。嵐のあとの空は、やけに澄んでる」

 

 ルナはその横顔を見つめながら、小さく笑った。

 「リュウジ、あの時……ありがとう」

 

 リュウジは少し驚いたように彼女の方を見た。

 「急にどうした」

 

 ルナは両手を膝の上で組みながら、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。

 「私、海に落ちた時……もうダメかもしれないって思った。

  でもね、目を開けた時、あなたがいて。

  あなたの声が聞こえた気がしたの」

 

 風が、ルナの髪を揺らした。

 リュウジは少し視線を落とし、手すりに腕を預ける。

 

 「……気のせいだ」

 

 短く答えるその声には、いつもの冷たさではなく、どこか照れ隠しの響きが混じっていた。

 ルナはくすりと笑う。

 

 「気のせいでもいい。

  でも、あなたが私たちを必死に探してくれたって、みんな聞いた。

  扉を殴ってまで悔しがってたって……チャコが言ってたよ」

 

 その言葉に、リュウジは一瞬だけ目を細め、そして静かにため息をついた。

 「……余計なことを言うやつだ」

 

 「ふふっ。そういうところもチャコらしいでしょ」

 

 ルナの微笑みに、リュウジは視線を外した。

 夜風が二人の間をすり抜けていく。

 

 「……別に、礼なんていらない」

 「ううん。言わせて。

  あの時、あなたがあきらめなかったから、今こうしてここにいられるの。

  本当に……ありがとう」

 

 ルナの声は静かだったが、その言葉には強い想いがこもっていた。

 リュウジは少しの間、黙っていたが――やがて、わずかに口元を緩めた。

 

 「……お前は、ほんと人のことばっかり気にするな」

 

 ルナは小さく笑いながら、星空を見上げた。

 「それが、私だから」

 

 その答えに、リュウジはほんの一瞬だけ、優しい眼差しを向けた。

 月明かりが彼の横顔を照らし、海面に反射してきらめく。

 

 「……ルナ」

 「ん?」

 「二度と、海には落ちるな」

 

 「ふふっ……気をつけるわ」

 

 二人の笑みが重なる。

 潮風がゆるやかに吹き抜け、夜の静けさを運んでいく。

 

 見張り台の上――

 そこには嵐を越えた二人の、穏やかな時間だけが流れていた。

 

⬜︎

 

月が少し傾き、波の反射が穏やかに揺れていた。

 ルナとリュウジの間には、言葉の途切れた静寂が流れている。

 けれど、どこかまだ――言いかけたままの何かが残っていた。

 

 リュウジは、ふと目を細めてルナの横顔を見つめた。

 その表情には、どこか遠くを見ているような影があった。

 

 「……それで」

 低く落ち着いた声が夜気を割る。

 「――あの島で、何かあったんだろ?」

 

 ルナは驚いたように顔を上げた。

 「え……?」

 

 リュウジは視線を逸らさずに続ける。

 「お前の顔、ずっと気になってた。何か隠してる時の顔だ」

 

 その一言に、ルナは小さく笑って、俯いた。

 「……よく分かるのね」

 

 作ったような笑顔。

 それはどこか無理をしているようで、夜の光に少し儚く映った。

 

 「話してみろ」

 リュウジの声音は穏やかだったが、命令のようにまっすぐだった。

 

 ルナは膝の上で両手を組み、少しだけ息を整えた。

 「……あの無人島でね。火を起こす時、マメができたの。

  それと、魚を捕まえた時に……噛まれて、小さな傷ができたの」

 

 「うん」

 リュウジは黙って聞いている。

 

 「でも、その夜にはもう……消えてたの。

  血マメのあとも、切り傷も……何もなかったの」

 

 彼女の声が風に震えた。

 ルナは笑おうとしたが、唇がかすかに揺れている。

 

 「でも……きっと、勘違い。

  もしかしたら、傷がそこまで深くなかったのかもしれない」

 

 リュウジはしばらく黙っていたが――やがて、ぼそりと呟いた。

 「切り傷に血マメ、か……」

 

 「……そんな顔、しないで」

 ルナは小さく微笑んだ。

 その笑顔は、見ている方が痛くなるほど、作り物のようだった。

 

 風が吹き抜け、二人の間の空気を攫っていく。

 夜の海は穏やかだが、心の奥には静かな波が立っていた。

 

 「……ナノマシンのせいかもしれないな」

 リュウジが呟いた。

 

 「ナノマシン……?」

 

 「訓練学校にいた頃、聞いたことがある。

  体内にナノマシンを注入して、細胞の修復を早める実験が行われいるらしい。

  傷でも、火傷でも、数時間で治る……そんな話だった」

 

 ルナの表情が一瞬固まる。

 月の光が彼女の頬を照らし、その影が揺れた。

 

 「でも、そんな……私」

 

 「分かってる。だが、もしそれが……事故で体内に入ってたとしたら?」

 リュウジは、淡々と現実を口にした。

 

 

 ルナは黙り込み、両手を握りしめる。

 「……じゃあ、私……人間じゃないの?」

 

 その声は震えていた。

 けれど、リュウジは静かに首を振った。

 

 「そんなこと言うな。

  誰がどう言おうと、お前はお前だ」

 

 リュウジのその言葉に、ルナは小さく息を呑んだ。

 けれど、そのまま視線を落とし――かすかに、うん、とだけ答えた。

 

 リュウジは手すりに寄りかかりながら、海の方を見つめた。

 「明日、チャコに診てもらえ。

  何か分かるかもしれない」

 

 「……うん」

 ルナの声は小さく、どこか落ち込んだ響きを帯びていた。

 

 二人の間に、また静かな夜が戻る。

 波の音が遠くで打ち寄せ、風が船を包み込む。

 その音だけが、互いの胸の奥に残る不安を、かすかに和らげていた。

 

⬜︎

 

朝の光が海面を照らし、波のきらめきがオリオン号の甲板を揺らしていた。

 風は穏やかで、昨夜の静けさをそのまま引き継いでいる。

 けれど、甲板に集まった仲間たちの表情は、どこか緊張していた。

 

 チャコはセンサーを両目の前に持ち上げ、耳のアンテナをピクリと動かした。

 ルナは皆の視線を浴びながら、少しだけ不安げに立っている。

 

 「よし……ルナ、動かんといてな。今、スキャン中や」

 

 チャコの電子音が鳴る。

 ルナの身体の前に淡い光が走り、目に見えない線が輪郭をなぞる。

 波の音しか聞こえない数秒――。

 

 やがて、チャコの目の奥が淡く光り、分析結果が出たようだった。

 

 「……せやな。間違いあらへん。

  ルナの身体には――ナノマシンが入っとるわ」

 

 その瞬間、甲板に小さなざわめきが広がった。

 風の音が一段と強くなった気がした。

 

 「ナノマシン……本当に……?」

 ルナは呟き、胸のあたりをそっと押さえる。

 その表情には怯えが混じっていた。

 

 「やはり……傷が一日で治ったのも、そのせいか」

 メノリが低い声で言った。

 

 「リュウジの言ったとおりや。ナノマシンの自己修復機能のおかげかもしれへんな」

 チャコは淡々と答える。

 

 ルナは俯き、自分の両腕を抱きしめた。

 「そう……やっぱり……私の身体の中に……ナノマシンが……」

 

 その小さな声には、驚きよりも戸惑いがあった。

 

 「でも、どうしてそんなもんがルナの身体に?」

 ベルが眉を寄せて尋ねた。

 

 チャコは両手を腰に当てて首を振る。

 「それは分からへん。自然に入ったんか、それとも……誰かが何かの目的で入れたんかもしれへん」

 

 「ナノプラントみたいなもんなん?」とシンゴが顔を上げる。

 

 チャコはうなずきながら答えた。

 「ナノプラントっちゅうよりは、もっと細かい。

  ウイルスみたいに全身に散らばっとる。血液の中にもあるわ」

 

 ハワードが身体を震わせた。

 「ひ、ひぃっ……それって感染るとかじゃないよな!?」

 

 「ハワード、落ち着いて!」とシャアラが慌てて彼の腕を掴む。

 

 「この際や、皆んなも調べとこうや。もしかしたら他にもおるかもしれん」

 チャコはセンサーを構え、次々と仲間の身体をスキャンしていく。

 

 電子音が何度も鳴り、みんなが固唾を呑む。

 やがて、チャコがゆっくりと口を開いた。

 

 「……反応があったのは、アダムとルナだけや」

 

 「なるほどな」

 カオルが腕を組みながら呟く。

 「だからルナとアダムは通じ合えるのか」

 

 「もしかしたら、遺跡の声が聞こえたのも、そのせいかもしれない」

 リュウジが低く言った。

 

 「遺跡の扉を開いたのも、全部ナノマシンの働きってことか……」

 メノリが苦い表情を浮かべる。

 

 「アダムのため、ってことか」

 ハワードが小さく呟く。

 

 アダムは何も言わず、ただ申し訳なさそうに目を伏せた。

 チャコは肩をすくめて言う。

 「まぁ、アダムらの星じゃ普通のことなんやろな」

 

 「ルナ、大丈夫なの?」とシャアラが不安げに声をかけた。

 

 「それはウチにも分からへん。

  ただ、今のところ身体に害はなさそうや。数値も安定しとる」

 

 「ルナ……」

 アダムが小さく彼女の名を呼んだ。

 

 ルナは一瞬だけ視線を落としたが、すぐに顔を上げた。

 「大丈夫よ、アダム。

  みんなもそんな顔しないで。チャコが言ったじゃない、害はないって」

 

 彼女はそう言って立ち上がると、笑顔を見せた。

 その笑顔は明るく、けれど少し無理をしているようにも見えた。

 

 「それに――素敵じゃない?

  怪我を勝手に治してくれるナノマシンが身体の中にあるなんて。

  スッキリしたわ。こんなことなら、もっと早く調べてもらえばよかった」

 

 そう言ってルナは小さく笑い、振り返った。

 「さぁ、みんな。持ち場について、今日も頑張りましょう!」

 

 その声はいつも通りに明るかった。

 ルナは軽く手を振りながら室内へと歩き出す。

 

 「今日の私の当番は食事だわね!

  びっくりするほど美味しい料理を作るから、楽しみにしてて!」

 

 その笑顔を背に、彼女の姿が扉の向こうに消える。

 しかし――残された仲間たちは、誰も言葉を発せなかった。

 

 ルナの強がる背中を見て、全員が感じていた。

 ――あの笑顔は、痛みを隠すためのものだ、と。

 

⬜︎

 

翌日。

 オリオン号の上には、少し霞んだ陽光が差し込んでいた。

 波は穏やかで、空気にはどこか重い静けさが漂っている。

 

 ルナはその朝から寝室に籠もっていた。

 食事の時間以外は顔を出さず、当番を終えるとすぐにベッドに戻る。

 仲間たちは心配していたが、誰もどう声をかければいいか分からなかった。

 

 ナノマシン。

 自分の身体に“何か別のもの”が宿っている――その事実は、ルナの心に影を落としていた。

 

 操縦室では、チャコが操縦席に腰を下ろしていた。

 いつもは軽快な声が響く空間に、今日は静寂だけが満ちている。

 

 「……ルナの様子は?」

 背後からかけられた声に、チャコは少し肩を跳ねさせた。

 

 「リュウジか……」

 振り向くと、操縦席の横にリュウジが立っていた。

 彼の目には、珍しく疲れと迷いが滲んでいた。

 

 「どうもあかんな。塞ぎこんどるわ」

 チャコは深いため息をつく。

 「昨日からほとんど喋っとらん。ご飯は食べてるけど、目ぇが虚ろでな……」

 

 「……そうか」

 リュウジは腕を組み、少しだけ視線を落とした。

 

 数秒の沈黙。

 やがて、リュウジが低く呟いた。

 

 「悪かったな。皆んなの前で診断なんてさせて」

 

 その言葉にチャコは思わず目を丸くした。

 「ほぇ〜、珍しいこともあるもんやな。リュウジが反省とは」

 

 「お前な……」

 リュウジは苦笑を浮かべるが、すぐに真面目な表情に戻った。

 「……あいつ、皆んなの前じゃ弱音を吐かないだろ。

  一度、皆んなの前で吐けた方が、次も吐きやすくなると思ったんだ」

 

 チャコはその言葉に目を瞬かせ、やがて口の端を上げた。

 「なんや、そこまで考えとったんか。

  ほんま……あんたらしいようで、らしくないな」

 

 リュウジは何も言わず、操縦盤のランプをぼんやり見つめた。

 

 「何やかんや言うても、ルナのこと心配なんやな」

 チャコがニヤリと笑みを浮かべる。

 

 「当たり前だろ」

 即答。しかも淡々と。

 

 その返しに、チャコは吹き出した。

 「ほぉ〜、ストレートに言うたな! これは珍しいわ!」

 

 リュウジは小さく息を吐き、椅子の背にもたれかかった。

 「……お前」

 

 「せやけどなぁ、ウチええ方法知っとるで?」

 チャコの顔が再びニヤリと歪む。

 

 「やめておく」

 リュウジが制する前に、チャコはケラケラ笑いながら言った。

 

 「ルナに添い寝でもしてやったら、一発で元気出るんちゃう?」

 

 リュウジは深いため息をこぼす。

 「……本気で言ってるのか」

 

 「半分本気や。あんたの顔見たら、ルナも笑う思うで」

 そう言いつつも、チャコの笑顔の奥にはほんの少しの優しさが見えた。

 

 リュウジは呆れたように苦笑する。

 「まったく、お前ってやつは……」

 

 「せやけどな」

 チャコが真剣な声に戻る。

 「何とかしてルナを元気にしたい。それはウチも同じや」

 

 リュウジはその言葉に少し視線を落とし、静かに頷いた。

 「……だったら、パーティでも開いたらどうだ?」

 

 「パーティ?」

 チャコが首を傾げる。

 

 「そうだ。

  あいつ、皆んなで騒ぐのが好きだろ。

  食って、笑って、話して……それが一番の薬だ」

 

 チャコの目がぱっと輝いた。

 「せやな! 船上パーティーっちゅうのも悪くないやん!」

 

 「任せる。準備はお前に任せた」

 

 「おっしゃ、了解!」

 チャコは操縦席から飛び降り、尻尾のようにコードを揺らして走り出した。

 

 残されたリュウジは、ふっと笑みを漏らした。

 「……全く、騒がしいやつだ」

 

 だがその声には、どこか救われたような柔らかさが混じっていた。

 彼の目にはもう、あの冷たさはなかった。

 

 ――ルナの笑顔を、もう一度取り戻すために。

 オリオン号に、少しずつ温かな風が吹き始めていた。

 

⬜︎

 

 昼過ぎのオリオン号。

 青い空と白い雲が穏やかに流れ、海風が甲板を包んでいた。

 

 チャコの「船上パーティーを開こうや!」という一言に、みんなの顔がぱっと明るくなる。

 ルナが寝室に籠もってから、どこか沈んでいた船内の空気が、一気に動き出した。

 

 「いいじゃない! それ!」

 シャアラが嬉しそうに声を上げる。

 「ルナが笑えるなら、それが一番だもの」

 

 「せやろ? たまには賑やかにせんとあかん」

 チャコが尻尾のようにコードを揺らして笑う。

 

 「なら、僕は会場設営を手伝うよ!」とシンゴが勢いよく手を上げた。

 「ベルとカオルも手伝ってよら!」

 

 「うん、分かった!」とベルが力強く答える。

 「こういう作業は体力勝負だ!」

 

 カオルは少し呆れた顔をしながらも、道具箱を肩に担ぐ。

 「ロープを張るのは俺がやる。マストと甲板を繋ぐ。

  その途中にロウソクを吊るして……夜になったら灯りにする」

 

 「ロマンチックやなぁ〜」とチャコが茶化すと、カオルは苦笑しながらも作業に取り掛かった。

 

 ベルは重い木箱を抱え、甲板の中央に運び込む。

 「こっちはテーブル代わりに使えそうだ!」

 

 「ほな、ウチは照明の配線をやっとくわ」

 チャコは器用にコードをまとめ、シンゴに渡す。

 「ロウソクやと危ないし、ここは安全な発光ユニットにしとくで」

 

 「了解! じゃあ僕が固定しておく!」

 シンゴが身軽にマストを登り、ロープを結びつけていく。

 

 海風に揺れる布と光が、少しずつパーティー会場の形を作り始めていた。

 

 

 一方そのころ、厨房では別のチームが奮闘していた。

 

 「メノリ、こっちのスープはどう?」

 「大丈夫。火は弱めにしてる。焦がすなよ、アダム」

 

 「うん、気をつける!」

 アダムは真剣な顔で果物を切っている。小さな手つきだが、どこか丁寧だった。

 

 「シャアラ、デザートの準備は?」

 「うん! 果物のゼリーを作ってる。

  ルナ、甘いの好きだから喜ぶと思うの」

 

 「さすがだ、よく見てるな」

 メノリは微笑み、アダムの頭を軽く撫でた。

 「彼女に食べてもらえるなら、どんな手間も惜しくないわね」

 

 

 そして、デッキの端ではハワードが釣り竿を構えていた。

 「こういう時は、やっぱり主役は僕でしょ!」

 彼は自信満々に笑いながら釣り糸を垂らす。

 

 「何を釣る気なんや?」とチャコが後ろから声をかけると、

 ハワードはキラリと目を輝かせた。

 「大物だよ! このパーティーの目玉は“僕の魚料理”に決まってるじゃないか!」

 

 「ふん、期待しとくわ」とチャコは肩をすくめて去っていく。

 

 その背中を見送りながら、ハワードは鼻歌交じりに竿を揺らした。

 しかし、海はそう簡単には応えてくれず――竿がピクリとも動かない。

 

 「……おかしいなぁ。あいつらが仕掛けたロープよりも、僕の方が役立つのに」

 ぼやきながらも、ハワードの目は本気だった。

 その姿に、アダムが甲板の隙間から顔を出し、くすりと笑う。

 「ハワード、頑張って!」

 

 「任せなさい!」

 ハワードは威勢よく叫び、再び竿を海に振り下ろした。

 

⬜︎

 

午後の陽射しが甲板を金色に染めていた。

 海は鏡のように静かで、風も穏やか。そんな中、デッキの端ではハワードがいつになく真剣な表情で釣り糸を垂らしていた。

 

 「……ダメだ! いくら僕の腕がよくても、魚がいないんじゃ釣れるわけないだろ!」

 焦れた声が響く。彼の額にはうっすら汗が滲んでいた。

 

 「はぁ? 腕がええ言うてるわりに、もう一時間は経っとるで」

 チャコが船縁にもたれ、尻尾のようにケーブルを揺らしながら呆れ顔。

 「やっぱりハワードに任せたんが間違いやったんちゃうか?」

 

 「うるさいな! これも作戦のうちなんだよ! 魚ってのは気配を読むんだ、忍耐が勝負なんだ!」

 ハワードが胸を張って言い返すが、チャコはあくび混じりに返した。

 「せやせや、忍耐の結果、釣果ゼロやな」

 

 「くっ……」

 唇を噛んだハワードの手に、突然、ぐいっと強烈な引きが走った。

 「うおおっ!? き、来た! きたきたきたぁ!! これは大物だ!!」

 

 「マジかいな! しっかりせえ、ハワード!」

 チャコが身を乗り出す。

 

 釣り竿は弓なりにしなり、リールは悲鳴を上げて回転した。ハワードは全身で竿を引き、足を踏ん張る。汗が飛び散り、腕が震える。

 「ほら見ろ! 僕を信じてなかっただろ!? これぞ“ハワードの奇跡”だ!!」

 

 「はいはい、早よ上げんかい!」

 チャコが急かすと、ハワードは渾身の力でリールを巻いた。

 海面がぱしゃりと跳ね、銀色の光が一瞬だけ閃いた。

 

 ――釣れたのは、手のひらサイズの小さな魚。

 

 「……は?」

 「……なんやそれぇぇぇぇ!」

 

 チャコは船をばしばし叩いて腹を抱えて笑い転げた。

 「大物(スモール)やないかい! まさかのミニチュアサイズ!」

 

 「う、うるさいっ! 今のは前座だ! 次こそ本命が――」

 ハワードが言いかけた瞬間、海面の下が不気味に揺れた。

 どす黒い影が、静かに、水の奥から浮かび上がってくる。

 

 「……おい、なんかおるで」

 チャコが顔をしかめる。

 

 次の瞬間、海面が爆ぜた。

 轟音とともに、巨大な影が跳ね上がる――ハワードが釣った小魚を一瞬で飲み込んだのだ。

 

 「うわあああああっ!!?」

 「なんやこれぇぇ!!!」

 

 チャコとハワードが同時に叫ぶ。その声に、船内で作業していた仲間たちが一斉に甲板へと飛び出してきた。

 「何があったんだ!?」とカオルが叫び、ベルとシンゴも後に続く。

 

 「何やっとんねん! ハワード、竿を離さんかい!」

 チャコが叫ぶが、ハワードは意地になって叫び返す。

 「逃すもんかぁぁぁ! せっかくの大物を――!」

 

 しかし、巨大魚の力は人間の比ではなかった。

 バチン!と竿がしなった瞬間、ハワードの身体が宙に浮いた。

 「わああああああああ!!」

 そのまま、海に引きずり込まれる。

 

 「ハワード!!!」

 チャコが叫ぶ。メノリが即座に無線機を握った。

 「リュウジ、船を止めろ! 緊急事態だ!!」

 

 操縦室で無線を受けたリュウジは即座に反応した。

 「了解」

 重力制御ユニットの出力を落とし、姿勢制御ユニットにエネルギーを切り替える。

 オリオン号は唸りをあげながら海面に降下し、静かに停止した。

 リュウジはすぐさま操縦席を立ち、甲板へ駆け出す。

 

 

 海面は荒れ狂っていた。

 ハワードが必死に水を掻き、顔を出して叫ぶ。

 「た、助けてくれぇぇぇぇっ!」

 後ろでは、怪物のような魚が背びれを切り裂くように海面を進んでくる。

 

 「ベル、ロープ!」

 カオルが短く叫ぶ。ベルは反射的に係留ロープを放り、カオルがそれを掴んだ。

 「チャコ、距離は!?」

 「三時方向、八メートル半や! やばい、魚が迫っとる!」

 

 リュウジは無言で腰の黒曜石のナイフを抜いた。

 海風が吹き、刃先に光が走る。

 

 ハワードの悲鳴が響いた瞬間、巨大魚が水面を割って跳ね上がる――その動きに呼応するように、リュウジの腕が閃いた。

 空を裂くように黒曜石のナイフが飛ぶ。

 正確に、迷いなく。

 

 刃は巨大魚の頭蓋を貫いた。

 次の瞬間、海面が真っ赤に染まり、轟音と共に巨体が崩れ落ちた。

 

 「今だ、引け!」

 カオルが叫ぶ。ベル、シンゴ、シャアラ、メノリ、アダム――全員がロープを引いた。

 波しぶきの向こうで、ハワードがかろうじて浮かぶ。

 リュウジが身を乗り出して手を伸ばし、ハワードの襟首を掴む。

 

 「うぶっ、げほっ、げほっ……!」

 甲板に引き上げられたハワードは、肺の中の海水を吐き出し、ぜいぜいと息をする。

 

 「まったく……命知らずな奴だ」

 リュウジは短く呟き、濡れた前髪をかきあげた。

 

 「ハワード!」

 メノリが駆け寄り、心配そうに肩を押さえる。

 「無茶をするな! わかったか?」

 

 「……はい……」

 ハワードは小さくうなずく。

 

 「まったく、ようやるわ」

 チャコは腰に手を当ててため息をつき、言い放った。

 

 ベルが大きなタオルを持ってきてハワードの背を拭う。

 「もう大丈夫だね?」

 その声にハワードは、照れくさそうに笑った。

 「へへ……これで“主役の魚料理”も完成だろ?」

 

 「何が完成や、もう少しでお前がメインディッシュやったわ」

 チャコが呆れたように言いながらも、目尻には笑いが浮かんでいた。

 

 やがて海は静けさを取り戻し、波間には沈みゆく巨魚の影が見えた。

 その赤い血が薄れていくのを見つめながら、リュウジは小さく息をついた。

 「……騒がしい午後だったな」

 

 「でも、これで食材には困らへんな」

 チャコが笑い、シンゴとアダムが顔を見合わせて頷く。

 

 ルナのいない船の中で、わずかに取り戻した笑い声。

 それは束の間の安堵であり、仲間の絆を再び繋ぐ音でもあった。

 

⬜︎

 

甲板で、巨大魚を引き上げたリュウジは、肩越しにカオルへ短く声を投げた。

「カオル、操縦交代だ」

「・・・ああ。針路そのまま、速度は現状維持でいいな?」

「ああ。波は落ち着いてる。無理はするな」

 カオルが「了解」と短く返し、操縦室に向かう。リュウジは濡れた袖口を絞りながら踵を返した。

 

「あと――魚料理は俺がやる」

 去り際にそれだけ言い置くと、シャアラが目を丸くする。

「シェフ・リュウジ再びだね? 台所まわりを整えとくわ」

 

 甲板の風は、さっきの“騒ぎ”の名残をほんのりと残している。潮の匂いに混じる鉄っぽい香り――巨大魚の血だ。リュウジは歩きながら濡れた上着の前ボタンを外し、冷えた布地が肌から離れる感覚に、小さく息を吐いた。

 

 寝室の扉を静かに開ける。光は落としてあり、窓から差す淡い昼の光が、ベッドの輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。

 リュウジは足音を殺して入り、濡れた上着をフックに掛ける。冷気が肌を撫で、ぞくりと背筋が粟立つ。

 

 そのとき。

「……リュウジ?」

 シーツがもぞりと動き、ルナが顔だけをベッドから覗かせた。まだ寝起きの、少し掠れた声。

「どうしたの? 濡れてるようだけど……大丈夫?」

 

 リュウジは振り返り、ほんの一瞬だけ目を細める。心配を押し隠し切れない瞳。

「なんでもない。ハワードと釣りしてただけだ」

 淡々と答え、タオルで髪を拭きながらシャツに腕を通す。相変わらず無駄がない。

 

「それに……船、止まってるみたいだけど?」

 ルナは眉を寄せ、身体を半分起こして耳を澄ます。確かに、船体を流れる振動が弱い。

「心配するな」

 短い言葉に、ふっと口角だけを上げる――安心させる、抑えた笑顔。だが、いつもより息が少し荒いことに、ルナは気づいていた。

 

「…………怪しい」

 じとっとした視線。疑いの色を隠さない“ジド目”。

 リュウジは歩み寄って上体を少し屈める。

「おやすみ」

 冗談めかして囁くと、ルナの額に軽くデコピン。

「いった……」

「今日のお前の当番は夜からだろ。もう少し休んでおけ」

 

 ルナは唇を尖らせかけ、けれど観念したように息をついた。

「……ほんとに、なんでもないのね」

「“なんでもない”の定義によるが――問題はない」

 からかうように肩をすくめ、扉へ向き直る。手が開閉ボタンに触れたところで、ふと思い出したように振り返った。

「そうだ。腹が減ったら無線機で呼べ。何か持ってくる」

 

 ぱたん、と扉が閉まる。

 

 残された寝室に、海の遠い呼吸と船体の軋みだけが戻ってくる。

 ルナは額をそっと撫で、くすりと笑った。

「……もう」

 苦笑の奥に、安堵が滲む。彼の指先の温度と、いつも通りの不器用な優しさ――それだけで、胸の奥の強張りが少し解ける。

 

 ベッドに横たわり直すと、まぶたが自然と落ちた。

 ――大丈夫。リュウジがいる。

 そう言い聞かせるように、ルナは静かに息を整え、再び浅い眠りへと落ちていった。

 

⬜︎

 

夕陽が甲板を赤く染める中、リュウジは焚き火の前にしゃがみ込み、巨大魚の下処理をしていた。

 海の匂いと塩の香りが混ざり、風に流れていく。

 

 「……見事な魚だな」

 魚の腹に手を入れ、丁寧に内臓を取り除く。

 周りで見ていたチャコが感心したように呟いた。

 「さっすがやなぁ。手つきがまるで板前や」

 

 リュウジは無言で手を動かしながら、果物と少しの肉を用意する。

 この星で採れた南国系の果実――オレンジに似た香りを放つ黄色い果肉を薄く切り、脂身の多い肉を小さく刻む。

 

 「果物と肉を……魚の腹に詰めるのか?」とメノリが近づいてきて尋ねる。

 「酸味と脂で臭みを消す。あとは、火加減だ」

 リュウジは淡々と答え、魚の腹を指先で閉じる。

 

 シンゴが覗き込む。

 「これ、どうやって焼くの? グリルもオーブンもないのに……」

 リュウジは塩袋を開け、粗塩を両手で掴み取った。

 「……焼かない。蒸すんだ、塩で」

 

 桶に水を注ぎ、塩を混ぜる。

 ざらざらとした音が耳に心地よく響く。

 水を吸った塩はしっとりとまとまり、まるで湿った砂のようになった。

 それをリュウジは魚の表面に何層にも塗りつけていく。

 

 「まるで土偶みたいやな」

 チャコが笑う。

 「……これでいい」

 リュウジはそう言って立ち上がり、焚き火の中心を見やった。

 「炭が落ち着いた頃だな。灰の温度が丁度いい」

 

 魚を慎重に火の中へ置き、灰を被せる。

 ぱちぱちと音が鳴り、塩の表面が少しずつ乾いていく。

 空気に漂うのは、焦げる脂と果実の甘い香り。

 

 「おお~、ええ匂いや!」

 チャコが尻尾をぶんぶん揺らしながら叫ぶ。

 「……まだ早い」

 リュウジは灰の温度を確かめるように棒でつつき、火を調整した。

 「四十分。塩の殻が硬くなったら叩き割る」

 

 仲間たちは少し離れた場所に腰を下ろし、火の明かりを見つめる。

 メノリはヴァイオリンの弦を軽く爪弾き、静かに旋律を奏でた。

 その音が焚き火の音と混ざり、どこか懐かしい空気が流れる。

 

 リュウジは立ち上がり、腕を組んで火を見つめ続けた。

 無表情に見えるその横顔には、どこか穏やかな気配が宿っている。

 ――ルナがこの光景を見たら、何と言うだろう。

 そんな考えが一瞬、胸をよぎる。

 

 

 やがて、時間が経った。

 塩の表面は白く固まり、まるで石のように硬い。

 リュウジは鉄棒を持ち上げ、塩の殻を軽く叩く。

 

 「――割るぞ」

 「お、おうっ」

 ハワードが身を乗り出す。

 

 カンッ、と小気味いい音とともに、塩の殻が崩れた。

 中から立ち上る蒸気が、夜の空気の中にふわりと溶けていく。

 炭火に照らされ、黄金色の魚が姿を現した。

 

 「うわぁ……!」

 シャアラが目を丸くし、アダムが思わず歓声を上げる。

 香ばしい香りが一気に広がり、果物と肉の甘みが混ざり合う。

 

 リュウジは箸代わりの木枝で身を裂き、断面を確認する。

 白く、しっとりとした身がふっくらと湯気を立てている。

 「……いい火加減だ」

 

⬜︎

 

夜の海は静かだった。

 船体を撫でる波の音が、まるで呼吸のように穏やかに響いている。

 甲板では、メノリとアダムとシャアラが吊るしたロウソクの灯をひとつひとつ点けて回っていた。

 その光はやがて風に揺れ、無数の星が降るような幻想的な空間を作り出していく。

 

 「……そろそろルナを起こそうか」

 チャコが尻尾をゆらりと揺らし、寝室へと向かった。

 「シャアラ、カオルも呼んできてくれ」

 「わかったわ」

 ヴァイオリンを抱えていたシャアラが、穏やかな笑みを浮かべて操縦室の方へと駆けていく。

 

 

 寝室の中は薄暗く、海の揺れが小さく布団を揺らしていた。

 チャコは静かにドアを開け、ルナのベッドのそばに歩み寄る。

 「ルナ、起きとるか?」

 「……チャコ?」

 ルナがゆっくりと目を開ける。寝起きの声は少し掠れていた。

 「そろそろ交代の時間や」

 「え……そうなの?」

 まだ半分眠たげなルナが、欠伸をかみ殺しながら立ち上がる。

 「うんうん、早よ来ぃ。みんな待っとるで」

 「みんな?」

 「まあ、見てのお楽しみや」

 チャコの目が悪戯っぽく細められた。

 

 

 ルナが甲板に上がると、潮風がそっと頬を撫でた。

 次の瞬間――目の前に広がる光景に、思わず足を止めた。

 

 マストから甲板へとかけられたロープに、無数のキャンドルが並んでいる。

 風に揺られながら淡い光を放ち、その下には焚き火の温かな橙が重なっていた。

 まるで海の上に浮かぶ星空。

 空と海の境目さえ分からないほど、美しい光の世界がそこに広がっていた。

 

 「……なに、これ……」

 ルナは思わず呟く。

 その声に気づいた仲間たちが、一斉にこちらを振り向いた。

 

 「お、来た来た!」とシンゴが両手を広げる。

 「ようやく主役の登場やな!」とチャコが笑う。

 

 メノリがゆっくりと立ち上がり、焚き火の明かりに照らされた微笑を見せる。

 「いつもリーダーとして頑張ってるからね。少しはこういうのも悪くないだろう」

 「そうよ、ルナ」

 シャアラが優しい声で続けた。

 「たまには、こういうのもいいでしょう?」

 

 ハワードが腕を組み、満面の笑みを浮かべる。

 「今日の主賓はお前だ、ルナ!」

 「……え?」

 「このパーティー、全部ルナのためなんや!」とチャコが尻尾を立てて言った。

 

 

 ルナは目を見開いたまま、仲間たちの顔をゆっくり見回した。

 シンゴは得意げに笑顔を浮かべ、アダムは小さく手を振っている。

 ベルは照れくさそうに笑い、メノリとシャアラは穏やかな目でルナを見守っていた。

 向こうでは、リュウジとカオルが静かにこちらを見ている。

 

 「……みんな……私のために……?」

 「そうやで。いつも頑張っとるルナへの、ご褒美や」

 チャコの声はどこか誇らしげだった。

 

 ルナの瞳に光が宿る。

 「ありがとう……みんな、本当にありがとう」

 その声は夜の海に溶け、ロウソクの灯が小さく揺れた。

 

⬜︎

 

 星空の下、甲板には柔らかな光が揺れていた。

 ロウソクの炎が風にゆらめき、キャンドルの灯が波間に反射して小さな光の川を作っている。

 焚き火の炎が木材をぱちぱちと弾かせ、その音が夜の静けさをほんの少しだけ温かく染めていた。

 

 「ルナ!」

 小さな声が聞こえた。振り向くと、アダムが両手を広げて立っていた。

 彼の金色の瞳が嬉しそうに輝いている。

 「こっちだよ! ルナ、早く!」

 

 「アダム……」

 ルナは自然と微笑み、アダムの差し出した手を取った。

 その手は小さいけれど、確かに温かい。

 アダムに導かれるままに甲板の中央へと進むと、そこには――

 

 白い木板を並べて作った即席のテーブル。

 その上には、リュウジが作った巨大魚の塩釜焼きが鎮座していた。

 香ばしい香りが潮風に乗り、甲板全体を包み込んでいる。

 

 「す、すごい魚ね……!」

 ルナは目を丸くして声を上げた。

 「これ、全部一匹?」

 「そうや!」とチャコが胸を張る。

 「ハワードが釣って、リュウジが調理したんや。ウチら、見とるだけで腹いっぱいになったわ!」

 

 「いや、あれは釣り上げたというより、ほとんど引きずり込まれたんだがな……」

 リュウジがぼそっと呟くと、ハワードがすかさず声を上げた。

 「結果的に釣れたんだからいいだろ! あの時の僕の勇姿、みんな見たはずだ!」

 「見たっちゅうより、叫び声しか聞こえへんかったけどな!」

 チャコがケラケラと笑い、皆も堪えきれず吹き出した。

 

 

 「さぁ、食べよう!」

 メノリの声が静かに響く。彼女は穏やかな笑みを浮かべ、木の器に魚の身を丁寧に取り分けていた。

 「ルナ、これ。リュウジが一番いいところだそうだ」

 「えっ……ありがとう」

 皿を受け取ると、ふわりと立ち上る湯気の中に果物の甘い香りが混じっている。

 焼き上がった魚の身は、ほんのり黄金色。柔らかく、見るだけで食欲をそそる。

 

 「ルナ、どう?」とシャアラが覗き込む。

 ルナは一口食べて、思わず目を細めた。

 「……おいしい! 信じられない……!」

 その笑顔に、みんなの顔も自然と綻ぶ。

 

 「果物と肉の香りがすごく合ってるわね」

 「でしょー? リュウジが“香り付けのためだ”って言ってたんだよ」

 「へぇ……そんなことまで考えてたんだ」

 「見た目は無骨やけど、料理は一流やな」

 チャコが尻尾を揺らしてニヤリと笑う。

 

 

 「やっぱり、こうして皆で食べるのが一番だね」

 アダムが木皿を抱えたまま、嬉しそうに言った。

 「魚って、すごく大きかったのに、もう半分もないよ!」

 「ハワードが食べすぎなんだよ!」とシンゴが笑うと、

 「エネルギー消費が激しいのさ、僕は!」とハワードが胸を張り、再び笑いが広がる。

 

 ベルは隣で静かに食べながら、ぽつりと呟いた。

 「……こうして笑える時間が、また戻ってきてよかったな」

 その言葉に、一瞬、場がしんと静まる。

 焚き火の音が遠くで鳴り、潮の香りが鼻を抜けた。

 

 ルナはゆっくりと顔を上げた。

 「うん……本当に、ありがとう。

  みんながいてくれて、嬉しい。

  この船に乗ってからいろんなことがあったけど――

  こうして、また一緒に笑えるのが、何より幸せ」

 

 その言葉に、メノリが穏やかに頷いた。

 「リーダーのルナが笑ってくれるなら、それだけで十分だ」

 「せや、ルナの笑顔があれば、百人力や!」とチャコが尻尾をピンと立てる。

 「次の大陸に着くまでの間くらい、思いっきり食って、笑っとけ」

 リュウジが静かに言うと、ルナは笑顔で頷いた。

 

 

 テーブルの上には、食べかけの魚、果物の皮、笑い声。

 マストから吊るしたキャンドルの光が、ゆっくりと揺れるたびに、

 みんなの顔が少しずつ照らされては、また影に隠れていく。

 

 「ねぇ、チャコ。これ、また作れる?」

 「んー……次は塩が足らんかもしれんな」

 「じゃあ、また塩集めからね!」とシンゴが笑う。

 「えぇー! あの作業きっついんだよなー!」とハワードが頭を抱える。

 

 ルナはその賑やかな光景を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 彼女の瞳に映る炎が、どこまでも優しく、静かに揺れていた。

 

 

 夜風が吹き、船が小さく揺れた。

 皆んなが笑い合っているリュウジがそれを見ながら、静かに呟いた。

 「……こういう夜も、悪くないな」

 

 ルナはその言葉に気づき、微笑んで頷いた。

 「うん。悪くないわね」

 

 星空の下、波音と笑い声が混じり合い、

 オリオン号はゆっくりと、穏やかな夜の海を進んでいった。

 

⬜︎

 

魚料理の皿が次々と空になり、潮風がほのかに塩と香ばしい香りを運んでくる。

 甲板の上には、ロウソクの炎が静かに揺れ、波音が遠くで囁いていた。

 

 ルナが微笑みながら器を重ねようとした時、

 「――まだまだこれからだよ!」

 元気いっぱいの声が響いた。シンゴだ。

 「え?」とルナが目を丸くすると、隣でチャコがウインクをしてみせる。

 「こっからが見せ場やで〜!」

 

 その瞬間、船内の明かりがふっと落ち、甲板を照らす灯りが一斉に消えた。

 代わりに、チャコが持っていた小さな発光ランプがパッと点き、光の輪が彼女を中心に浮かび上がる。

 

 「それでは本日のメインイベント!」

 チャコが声を張り上げ、尻尾をピンと立てた。

 「シャアラ作、チャコ演出! お花の園の妖精の始まりやで〜!」

 

 「お花の園の妖精?」

 ルナが首を傾げ、隣のアダムに小声で尋ねる。

 アダムはわくわくした表情で「ふふ、見てて!」と笑った。

 

 

 やがて、甲板の中央に照らされた光の輪の中に、シャアラが登場した。

 彼女は柔らかい声で語り始める。

 「昔、昔――あるところに、お花が大好きな少女が住んでいました」

 

 その語りとともに、舞台の幕代わりに広げられた布には、

 手描きの花が色とりどりに描かれていた。

 

 そこに現れたのは――

 長いスカートに花飾りのついた帽子、顔には薄く紅をさした、女装したハワードだった。

 

 「ま、まさか……ハワード!?」

 ルナが思わず声を上げた瞬間、

 背後で「ブッ!!」と音がした。

 

 見るとリュウジが飲んでいた水を盛大に吹き出していた。

 「うわっ、冷たっ!!」とシンゴが慌てて袖で顔を拭く。

 「……悪い、悪い」

 リュウジは口元を押さえながら苦笑いし、カオルは顔を引き攣らせながら頭を抱えた。

 

 

 ハワードは、ひらひらとスカートを摘まみながら花の舞台を歩き回る。

 「あっちにも、こっちにも……あら、なんて綺麗なのかしら〜」

 その仕草はどこかぎこちないが、本人は真剣だ。

 

 「なかなか決まっとるやろ!」

 チャコが得意げに胸を張る。

 「え、ええ……とても、独創的ね……」

 ルナは苦笑いを浮かべた。

 

 シャアラの語りが続く。

 「ところが――少女は、いつしか不思議なお花の園に迷い込んでしまいました」

 

 「あれ? ここはどこなのかしら……」

 ハワードが困ったように周囲を見回す。

 すると、低く響く声が甲板に響いた。

 

 「ガハハハハ! 何がお花の園だ! こんなもの、めちゃくちゃにしてやるわ!」

 

 冬の時に作った厚手の上着をマント代わりに羽織り、

 目の下には赤い線、腰には木の剣を提げたベルが登場する。

 彼の迫真の悪役ぶりに、思わずアダムが「うわぁ……本格的!」と声を漏らした。

 

 

 「やめてぇ! お花さんが! 誰か、お花さんを助けてぇ!」

 ハワードが花を抱えて床に座り込む。

 その時――

 

 「やめろぉぉぉぉぉ!」

 

 メノリの声が響き、上空から一本のロープが垂れ下がる。

 ロウソクの光を背に、メノリがターザンのように宙を舞い、舞台に着地した。

 見事な着地に、観客から歓声が上がる。

 

 「あなたは一体?」

 「僕は――花の精だ! 君の声に呼ばれてやってきた!」

 

 その台詞に合わせて、チャコが「照明アップ!」と小声で指示を出す。

 メノリの姿を照らす光が少し強まり、舞台が幻想的な輝きを放つ。

 

 「後は僕に任せて。いざ勝負!」

 メノリが腰の木剣を抜き、ベルと対峙する。

 

 「おもしろい! 相手になってやる!」

 ベルも木剣を構え、互いに斬り合いを始めた。

 剣と剣がぶつかるたびに、**カンッ!**という音が甲板に響く。

 

 「いけー! メノリ!」とシンゴが声を上げ、

 「頑張れベル!」とアダムも叫ぶ。

 歓声と笑い声が混じり合い、夜の海に溶けていった。

 

 

 メノリはベルの猛攻を受け止め、そして一瞬の隙を突く。

 「そこだぁ!」

 木剣がベルの腹に突き刺さるように見せる演技――ベルは大袈裟に剣を落とし、

 「やられたぁ〜!」とその場に倒れ込んだ。

 

 「決まった!」とチャコが拍手を打つ。

 ルナ、シンゴ、アダム、そしてハワードまでもが大きな拍手を送った。

 

 「ありがとう、花の精!」

 「礼を言うのは僕の方だ。お花の園の危機を知らせてくれてありがとう」

 メノリは剣を腰に戻し、ハワードの前に立つ。

 「そのお礼に――君の願いを一つ、叶えてあげよう」

 

 

 「さあ、これからが見せ場やで!」

 チャコが小声で言い、ルナが「え?」と聞き返す。

 

 ハワードは両手を胸の前で組み、瞳を潤ませながら言った。

 「わ、わたし……一度でいいから、空からこのお花畑を見てみたいの……!」

 

 「ブッ!!!」

 またもや、リュウジが水を吹き出した。

 「ちょっと、大丈夫?」

 ルナが呆れたように振り向くと、リュウジは口元を押さえて肩を震わせている。

 「だ、大丈夫……だ」

 カオルも腕を組んだまま、笑いをこらえて俯いていた。

 

 舞台のメノリも顔が引き攣りながら、必死に台詞を続ける。

 「そ、そんなのは――簡単さ! 僕に、捕まって!」

 

 ハワードは嬉しそうに「はい!」と手を取り、立ち上がった。

 

 「さあ、行こう! 大空へ!」

 

 その瞬間――

 「それっ!」とシンゴとアダムが同時にロープを引く。

 船のマストに張り巡らせた帆が一気に開き、

 そこには色とりどりの花の絵がびっしりと描かれていた。

 

 帆が風を受け、ゆっくりと広がっていく。

 ロウソクの灯りが帆の花々を照らし、甲板全体が幻想的な光景に包まれた。

 

 「と、飛んでる! 私、飛んでるわぁ〜!」

 ハワードが両手を広げて叫ぶ。

 「おぉ〜!」とアダムとシンゴが跳ね回り、ルナも思わず手を叩いた。

 その光景は、誰もが息を呑むほど美しかった。

 

 

 「こうして――お花の園は、無事護られたのでした」

 シャアラの語りが締めくくられる。

 

 照明がゆっくり落ち、メノリ、ハワード、ベル、シンゴ、アダム、チャコ、シャアラが

 一列に並んで深々とお辞儀をする。

 

 「みんな……ありがとう……」

 ルナは胸に手を当て、言葉を詰まらせながら笑った。

 

 その肩に、そっとリュウジが手を置く。

 「……よかったな」

 ルナはその瞳を見上げ、頷いた。

 

 「ありがとう、みんな……私、負けない。何があっても!」

 その声に、チャコが力強く頷く。

 「せやせや! それでこそうちらのルナや! ナノマシンなんて関係あらへん!」

 

 「私たちは、いつも一緒よ」

 シャアラの柔らかな声に、皆が頷いた。

 

 ――その夜、甲板の上に笑顔と光が満ちた。

 波音が遠くで響き、星が海面にきらめく。

 オリオン号の船上に、再び“仲間”の絆が灯っていた。

 

⬜︎

 

楽しい舞台が終わり、拍手と笑い声がいつまでも甲板に響いていた。

 シャアラの語りも終わり、チャコの照明が消えると、

 みんなはそれぞれ椅子を引き寄せ、焚き火の明かりのもとへ戻ってきた。

 

 まだ残っていた果物をハワードがつまみながら、にやりと笑う。

 「なぁ、リュウジとカオルは何かやらないのか?」

 

 その言葉に、場が一瞬静まる。

 リュウジはコップの水を口に含み、面倒そうに眉をひそめた。

 「俺は魚料理を作っただろう」

 「俺だって会場の設営と操縦をしただろう」カオルも続く。

 

 しかし――。

 

 「それはみんなやったよ」

 アダムが無邪気に言い放った。

 

 「そうだな。二人だけ何もなしって、不公平だろう?」

 珍しくメノリがハワードの味方をする。

 

 「何でもいいんじゃないかな〜」

 ベルまでもが穏やかに笑いながら言った。

 

 リュウジとカオルは、同時に顔を見合わせる。

 「……おい、なんだこの流れ」

 「知らん」カオルも呆れたようにため息をつく。

 

 「二人とも、ルナのために何かしてあげようって思わないの?」

 シャアラの一言が、追い打ちをかけた。

 

 チャコが口角を上げる。

 「グゥの音も出んとはこのことやなぁ。

  ルナのこと、大切に思っとるんなら、なんかできるやろ?」

 

 その言葉に、二人は肩を落としながら同時にため息を吐いた。

 仲間たちは笑いながら、二人の反応を楽しんでいる。

 

 

 「……わかった」

 リュウジが静かに立ち上がる。

 「おいおい、マジか」とハワードが目を輝かせた。

 

 ルナは慌てて椅子から立ち上がる。

 「二人とも、私はもう充分楽しんだから、無理しなくても大丈夫だよ」

 

 だが、リュウジは一歩前に進み、笑みを浮かべた。

 「お前に“格闘技”を見せてやる」

 

 その言葉と同時に、彼は上着を脱ぎ、ルナの前に差し出す。

 「持ってろ」

 「あ……う、うん」ルナは戸惑いながら上着を受け取った。

 

 続いて、カオルも無言で上着を脱ぐ。

 「……俺もやる」

 「え、ちょ、ちょっと本気なの!?」

 ルナが目を丸くするが、二人とも振り返らずに甲板の中央へ進んでいった。

 

 

 潮風が吹き抜ける。

 ロウソクの火が小さく揺れ、二人の影が甲板に長く伸びる。

 

 リュウジが腕を回し、軽く肩をほぐした。

 「お前……俺に勝ったこと、あったか?」

 挑発するように笑みを浮かべる。

 

 カオルは微かに口元を上げる。

 「負けたと思ったことは、一度もない」

 その低い声に、波音が重なった。

 

 仲間たちは息を呑む。

 チャコが「ほぉ〜、こりゃ本気やな」と尻尾を揺らす。

 ハワードは興奮を隠せず、身を乗り出した。

 

 「始まる……」シャアラが小さく呟く。

 

 

 二人の視線が交差する。

 一瞬の静寂――

 

 その直後、

 **ドンッ!**と床を蹴る音が響き、二人は同時に駆け出した。

 

 リュウジの鋭い踏み込みに、カオルが正面から突っ込む。

 リュウジの拳が風を裂くように繰り出され、

 カオルはその腕を受け流しながら、すれ違いざまに肘を打ち込んだ。

 

 リュウジが体を捻り、肘を避けて後方に跳ぶ。

 その動きはまるで訓練生時代に戻ったかのようだ。

 

 「す、すご……!」

 アダムが目を輝かせる。

 

 「二人とも本気やな……!」チャコが感嘆の声を漏らす。

 

 

 床を蹴り合う音、風を切る音、そしてぶつかり合う衝撃音。

 どれも夜の海に響き、波音と混じり合っていく。

 

 ルナは両手で上着を抱きしめながら、その場から動けなかった。

 リュウジも、カオルも――

 その目には、互いへの尊敬と、揺るぎない信頼があった。

 

 リュウジの拳が再び突き出される。

 カオルはそれを受け止め、腕を掴み返した。

 二人の足元がきしむ。

 どちらも譲らず、腕と腕がぶつかり合い、

 その力が伝わってロウソクの炎がふっと揺れる。

 

 「……どうした、カオル。昔より鈍ってんじゃねぇのか」

 「言ってろ。お前だって呼吸が荒いぞ」

 

 リュウジが口角を上げ、カオルも笑みを浮かべた。

 次の瞬間、二人は同時に踏み込み、再び拳をぶつけ合う――。

 

 

 仲間たちは息を詰めて見守っていた。

 ルナの胸の奥では、不思議な温かさが広がっていた。

 

 ――争いではない。

 これは、想いのぶつけ合い。

 

 互いの過去を背負い、信頼し合う二人だからこそできる、

 “生きている証”のような戦いだった。

 

⬜︎

 

夜の海風が甲板を駆け抜けた。

 ロウソクの炎がかすかに揺らぎ、二人の影が床に伸びる。

 リュウジとカオル――その視線が、真正面でぶつかり合う。

 

 周囲では、仲間たちが固唾をのんで見守っていた。

 ルナはリュウジから預かった上着を胸に抱きしめたまま、

 一歩も動けずに二人を見つめている。

 

 

 先に動いたのはリュウジだった。

 低い姿勢から一気に踏み込み、鋭い右のストレートを繰り出す。

 その拳が空を裂く――だが、カオルはそれを読んでいた。

 わずかに体を傾け、肘で軌道を弾き返す。

 

 「……っ」

 リュウジはバランスを崩しかけながらも、すぐに逆の足で踏み直し、

 回し蹴りを繋げた。

 風が唸る。

 カオルは上体を沈め、髪の先を掠めるように蹴りをかわす。

 

 そして――そのままリュウジの軸足を狙い、すかさず踏み込む。

 リュウジの身体がわずかに浮き、体勢を崩す。

 

 「おっと……!」

 足元を取られたリュウジは後ろへ転がるように距離を取った。

 

 

 「どうした、リュウジ。いつもの切れがないぞ」

 カオルの声が低く響く。

 彼の目には余裕があった。

 

 「……ちっ、やるじゃねぇか」

 リュウジは口元の血を拭いながら笑う。

 その笑みには焦りよりも、むしろ愉しげな色が浮かんでいた。

 

 ――そう、カオルはずっと見てきた。

 訓練学校時代から、彼の戦い方、呼吸、踏み込みの癖、

 肩の揺れ方、目線の先――すべて、頭に刻み込んでいる。

 

 だからこそ、リュウジの動きが見える。

 次の一手も、その後の構えも。

 今、この瞬間、リュウジが何を考えているのか――ほとんど読める。

 

 

 リュウジは再び構え直す。

 両足の間隔を狭め、重心を低く。

 拳を前に出すその姿に、ほんの少し“焦り”が混じっていた。

 

 「……なるほどな」

 カオルは息を整え、地面を蹴った。

 

 爆発のような加速。

 リュウジが防御を構えるより早く、

 カオルの拳が腹部を捉える。

 

 「ぐっ……!」

 衝撃が走り、リュウジの身体がわずかに浮いた。

 続けざまに右足が脇腹を蹴り上げ、

 鈍い音が甲板に響く。

 

 ルナが息を呑む。

 「リュウジ!」

 

 その声に、リュウジの瞳が一瞬だけルナを捕えた。

 彼女は心配そうに眉を寄せている。

 その表情が胸に刺さる。

 

 ――そんな顔をするな。

 

 リュウジは唇をかすかに上げた。

 《俺が勝つ。心配するな》

 言葉には出さず、心の中で呟く。

 

 

 再び拳を構える。

 呼吸が荒い。

 汗が首筋を流れ、拳に伝う。

 それでも、その目は揺るがない。

 

 「来いよ、カオル」

 挑発するように言い放つと、リュウジは拳を軽く叩いた。

 

 「望むところだ」

 カオルが足を踏み出した瞬間――

 リュウジの姿がふっと掻き消える。

 

 「……!」

 次の瞬間、リュウジの拳がカオルの左頬を掠めた。

 風圧が髪を舞わせる。

 カオルの目がわずかに見開かれる。

 

 「動きが、速く……っ!」

 

 リュウジの拳が続けざまに襲う。

 連撃。

 拳、肘、膝。

 全てが一点を狙い、寸分の狂いもなく打ち込まれる。

 

 カオルは受け止め、弾き、時に躱す。

 だが、一撃ごとに腕に痺れが残る。

 “速い”。

 ――以前よりも、確実に。

 

 

 「っ……やるな、リュウジ」

 カオルが後退しながら笑う。

 しかしリュウジの目は笑っていなかった。

 その奥に宿るのは、ただ一つの信念。

 

 “俺はもう、誰も失わない”

 

 その想いが、拳に宿っている。

 だから強い。

 だから止まらない。

 

 ルナがその視線を見て、胸を押さえる。

 ――あの目。あの時と同じ。

 自分を救い出してくれた夜、

 血まみれの中でも諦めず、

 彼が見せた、あの“生き抜こうとする光”。

 

 

 だが、カオルも負けてはいない。

 リュウジの渾身の右拳を受け流し、その腕を掴んで引き寄せた。

 「悪いな、ここからは――俺のターンだ!」

 

 カオルが膝でリュウジの腹を突き上げる。

 息が詰まり、体勢が崩れる。

 そのまま床に叩きつけようとするが――リュウジが左手で踏ん張る。

 

 力と力。

 視線と視線。

 互いの呼吸が荒く交錯し、汗が甲板に落ちていく。

 

 どちらも譲らない。

 どちらも倒れない。

 

 観客の誰もが息をすることを忘れていた。

 

⬜︎

 

息を呑むような数合の攻防が続いた。

 リュウジの拳が唸り、カオルの足が風を切る。

 互いの呼吸が荒く、汗が光を反射する。

 

 ロウソクの灯りが二人の影を揺らし、

 波音と拳の衝突音だけが甲板に響いていた。

 

 「はぁ……はぁ……お前……やっぱり強ぇな」

 カオルが口元を拭い、苦笑する。

 「お前もな」リュウジが息を吐き、低く返す。

 

 それでも、どちらも一歩も退かない。

 互いにもう限界に近いことを悟っていた。

 だが、最後に立つのはどちらか。

 その一瞬の読み合いが、張りつめた空気をさらに鋭くする。

 

 

 カオルが動いた。

 素早い低い姿勢――右の拳を繰り出し、リュウジの懐に潜り込む。

 リュウジはそれを捉えようと腕を伸ばす。

 だが――それこそがカオルの狙い。

 

 そのまま、体重を乗せてリュウジの足を払う。

 リュウジの身体がふっと浮く。

 

 「もらった――!」

 

 その声と同時に、カオルの左肘がリュウジの腹を狙って振り上げられる。

 だが――その瞬間、リュウジの口元が微かに笑った。

 

 「……遅ぇよ」

 

 カオルが気づいた時にはもう遅かった。

 リュウジの両腕が彼の腰を掴み、体を引き寄せる。

 重心を落とし、背中を支点にして――

 

 「はぁっ!」

 

 リュウジの体が回転し、

 カオルの身体が宙を舞った。

 ――巴投げ。

 

 カオルの視界が一瞬で天地を失う。

 甲板の木目が逆さに流れ、月光が線のように伸びていく。

 気づけば、背中が床に叩きつけられた。

 

 「ぐっ……!」

 

 そのままリュウジはカオルの上に乗り、

 右の拳を振り上げ――

 カオルの顔すれすれで、ぴたりと止めた。

 

 わずかに拳の風圧がカオルの頬を撫でる。

 リュウジの眼差しは真剣そのもの。

 だが、すぐに息を整え、拳を下ろした。

 

 「……ここまでだ」

 

 静寂。

 

 次の瞬間、仲間たちの間から一斉に拍手が湧き上がった。

 「うわぁぁぁ!」「すっごい!」「リュウジ、かっこいい!」

 アダムが跳ね、シンゴが手を叩き、シャアラが笑いながら涙をぬぐった。

 

 ルナは胸に手を当て、ほっとしたように微笑む。

 「もう……本気すぎなんだから……」

 

 カオルは苦笑しながら、倒れたまま手を上げた。

 「……まいったよ」

 リュウジは立ち上がり、カオルに手を差し伸べる。

 「悪いな。つい本気になっちまった」

 「全く……昔からそうだ」

 カオルがその手を掴み、立ち上がる。

 

 そして――二人は顔を見合わせ、同時に笑った。

 

 

 拍手が再び広がる。

 チャコが両手を叩きながら叫んだ。

 「いや〜、こりゃ見応えあったでぇ! 二人ともようやった!」

 

ハワードが果物を片手に立ち上がり、

 「いや〜、あっぱれあっぱれ! この目で見るとやっぱ迫力が違うねぇ!」と笑う。

 

 「リュウジ、最初から負ける気なかったようだね」とベルがニヤリとリュウジに声をかける。

 

 「ほんとに……映画みたいだった……」

 シャアラが胸に手を当て、うっとりと呟く。

 

 「リュウジ、すごいよ! あんな技、どこで覚えたの!?」

 アダムが目を輝かせると、リュウジは少し照れたように肩を竦めた。

 「昔、訓練でな。実戦で使うのは初めてだ」

 

 「けど、あの一投……あれはカッコよかった」

 ベルが感心したように腕を組むと、

 「おぉ、あれは映画の決め技級だな!」とハワードが肩を叩いた。

 

 「なるほどな……巴投げか」

 カオルが首を回しながら、肩を叩く。

 「次は負けねぇ」

 「上等だ。次は本気で行くぞ」

 二人は拳を軽く突き合わせた。

 

 

 その光景に、ルナはそっと笑みを浮かべた。

 リュウジの上着を胸に抱いたまま、

 「……やっぱり、あなたたちってすごい」と呟く。

 

 メノリが頷き、チャコがからかうように笑う。

 「せやろ? ウチらの男子チーム、最強や!」

 

 「まったく……今日という日は、忘れられそうにないな」

 メノリが柔らかく笑うと、みんなも笑い声を上げた。

 

 緊張の糸がほどけ、波の音が優しく戻ってくる。

 潮風が通り抜け、ロウソクの火が穏やかに揺れた。

 その小さな光の中、オリオン号には久しぶりに“笑い”が満ちていた。

 

 

 ルナは星空を見上げながら、小さく呟く。

 「……ありがとう、みんな」

 

 その声は静かに風に溶け、

 甲板に広がる笑顔とともに、夜空の星々がやさしく瞬いていた

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