サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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地球の夜

 

 地球での活動は、その後も順調に続いていた。

 

 もちろん、「問題が起きなくなった」という意味ではない。

 

 四日目には、東側斜面の一部で予想以上に表層が薄い区域が見つかった。

 

 五日目には、支持層として期待されていた岩盤が一部で大きく割れており、テラフォーミングマシン本体の基礎位置を数メートルずらす必要が出た。

 

 モンサンミッシェルと推定される地下構造物の周辺では、地下水の流れとみられる反応も確認された。

 

 そのたびに作業は止まる。

 

 測る。

 

 話し合う。

 

 予定を変える。

 

 そして、また進む。

 

 初日のように、予定変更のたびに船内へ緊張が走ることは少なくなっていた。

 

「地中反射、昨日より弱いです」

 

「なら、もう一度角度を変えて測りましょう」

 

「今日中に終わらないぞ」

 

「今日中に終わらなくてもいいです」

 

 そんなやり取りが、もう自然になっていた。

 

 ルナが毎回言わなくても、誰かが同じ言葉を口にする。

 

 急がない。

 

 分からないものは、分からないままにしない。

 

 危険なら止まる。

 

 そして全員で戻る。

 

 それが、この調査チームの当たり前になり始めていた。

 

 ◇

 

 ただし。

 

 地上活動そのものが楽になったわけではない。

 

 グレートフォックスの船外扉が開けば、その先は人間がそのまま生活出来る環境ではない。

 

 全員が防護服を着用する。

 

 生命維持装置を背負う。

 

 外気は直接吸わず、背部ユニットから供給される酸素を使う。

 

 作業時間中は、酸素残量だけでなく、防護服内部の二酸化炭素濃度、体温、脈拍、放射線量までナウスが監視していた。

 

『地上班、酸素残量を確認してください』

 

 ナウスの声が各自の通信機へ入る。

 

『平均残量六十七パーセント。現時点で問題ありません』

 

「地質二班、問題なし」

 

「測量班も問題ありません」

 

「ボーリング班、こちらも大丈夫です」

 

 ルナも胸部表示を見る。

 

「ルナ、問題ありません」

 

『確認しました』

 

 防護服は外気から身体を守る。

 

 だが、軽いわけではない。

 

 生命維持装置。

 

 通信機器。

 

 保護層。

 

 工具。

 

 サンプル容器。

 

 それらを身につけ、重力のある地表で何時間も歩く。

 

 さらに地球の地面は、必ずしも平らではない。

 

 一歩ごとに足元を確かめる必要がある。

 

 少し深く沈む地面。

 

 細かな瓦礫。

 

 亀裂。

 

 地表からは分からない空洞。

 

 単に歩くだけでも、船内を歩くよりずっと体力を使った。

 

「一度止まりましょう」

 

 ルナが声を掛ける。

 

 ボーリング班の作業員が振り返った。

 

「まだ大丈夫ですよ」

 

「さっきから歩幅が少し小さくなっています」

 

「え?」

 

 本人は気づいていなかった。

 

 ルナは腕端末を見る。

 

「脈拍も、最初より上がっています」

 

『ルナの指摘は正確です』

 

 ナウスが補足する。

 

『対象作業員の心拍数は、二十分前と比較し十八パーセント上昇しています』

 

「ナウスまで……」

 

 作業員が苦笑する。

 

「五分だけ休みましょう」

 

 ルナは笑顔で言う。

 

「装備を着たまま無理をすると、自分では気づかないうちに疲れてしまいますから」

 

「分かりました」

 

 初日なら、休憩を申し出た人が「作業を止めてしまった」という顔をしていた。

 

 今は違う。

 

「じゃあ、その間にこっちもサンプル整理するか」

 

「測量班も基準点を確認します」

 

「俺も水分補給しとこう」

 

 一人が休めば、周囲も自分の状態を確認する。

 

 それが普通になっていた。

 

 フォックスは少し離れた場所から、その様子を見ている。

 

「ちゃんと止められるようになったな」

 

 通信越しに低い声が入った。

 

「はい」

 

 ルナは素直に答える。

 

「私も止めてもらっていますから」

 

「それを忘れるな」

 

「分かっています」

 

『昨日も休憩へ追い出されてたけどね』

 

 船内からスリッピーが割り込む。

 

「追い出されてはいません」

 

『端末取り上げられてたよね?』

 

「……少しだけです」

 

『それを追い出されたって言うんだよ』

 

「スリッピーさん」

 

 地上班の何人かが笑う。

 

 初日にはほとんど聞かなかった笑い声だった。

 

 ◇

 

 地上作業が終われば、まず船内へ戻る。

 

 だが、すぐに食堂へ行けるわけではない。

 

 船外活動区画で人数確認。

 

『地上班十四名。十四名全員の帰還を確認しました』

 

 次に、防護服表面へ付着した粉塵を除去する。

 

 強い気流。

 

 吸引装置。

 

 細かな粒子を船内居住区へ持ち込まないため、防護服の表面を何度も処理する。

 

 ルナ達は密閉された区画で立ったまま、それが終わるのを待つ。

 

「今日も結構ついてるな」

 

 一人の作業員が自分の腕を見る。

 

 白かった防護服の表面が、薄い灰色に染まっている。

 

「斜面の方、風ありましたからね」

 

「昨日よりましですよ」

 

「昨日は顔の前まで真っ白だったな」

 

 初日は、皆ほとんど口を開かなかった時間だ。

 

 疲れていた。

 

 緊張していた。

 

 早く装備を脱ぎたかった。

 

 今では、この除去作業中にその日の出来事を話す余裕まで生まれている。

 

「ルナさん」

 

「はい?」

 

「今日、また土持って帰ろうとしてませんでした?」

 

「持って帰ろうとしたんじゃありません」

 

「サンプル容器、じっと見てましたよね」

 

「気になっただけです」

 

「また始まった」

 

 別の作業員が笑う。

 

「スリッピーさんに言いつけますよ」

 

「どうしてですか?」

 

『もう聞こえてるよ』

 

 通信機からスリッピーの声。

 

「スリッピーさん……」

 

『変なものを勝手に持ち込まないでね』

 

「持ち込みません」

 

『本当に?』

 

「本当です」

 

 防護服越しに笑いが広がった。

 

 除染処理。

 

 装備の取り外し。

 

 健康確認。

 

 それらが終わって、ようやく自分達の身体へ戻ったような感覚になる。

 

 防護服の内側は、生命維持装置で温度管理されている。

 

 それでも何時間も動けば、汗をかく。

 

 髪は湿る。

 

 肩には装備の重さが残る。

 

 首筋には、密閉環の感触がいつまでも残っている。

 

 作業員達は交代でシャワーへ向かった。

 

 温かい水が身体へ当たる。

 

 ただ、それだけのことが気持ちよかった。

 

 地球の外では、飲むことも出来ない大気の中を歩いている。

 

 防護服を一枚隔てなければ、地面にも自由に触れられない。

 

 その後で浴びる船内のシャワーは、単なる身体を洗う時間ではなかった。

 

 安全な場所へ戻ったことを、身体が理解する時間だった。

 

 ◇

 

 調査初日の夜。

 

 夕食を終えた作業員達は、ほとんど会話もせず休憩区画へ消えていった。

 

 二日目も似たようなものだった。

 

 食べる。

 

 翌日の確認をする。

 

 眠る。

 

 それだけだった。

 

 外で何時間も防護服を着て動いた身体は、本人が思っている以上に消耗している。

 

 寝床へ入れば、すぐに眠りに落ちる。

 

 だが、四日。

 

 五日と過ぎる頃には、それも少しずつ変わった。

 

 身体が防護服の重さへ慣れる。

 

 作業の流れを覚える。

 

 どこで休めばいいのか分かる。

 

 どれくらい酸素を消費するのか、自分でも感覚が掴めてくる。

 

 何より。

 

 隣にいる人間が、どう動くのか分かるようになってきた。

 

 夕食後。

 

 すぐに席を立つ者が減った。

 

「今日は少し余裕あるな」

 

「昨日の方が疲れた」

 

「昨日は斜面だったからな」

 

「ボーリング班は今日の方がきつかったぞ」

 

「でも岩盤きれいに取れたじゃないですか」

 

「あれはよかったな」

 

 そんな会話が、自然に続く。

 

 ルナもテーブルの一角に座り、温かいスープを飲んでいた。

 

 髪はシャワーを浴びたばかりで、まだ少し湿っている。

 

 作業中は後ろでまとめていた髪も、今は下ろしていた。

 

 目の前には夕食。

 

 温かいスープ。

 

 肉と野菜。

 

 パン。

 

 特別な料理ではない。

 

 それでも、地上活動を終えた後の身体には十分だった。

 

「……おいしい」

 

 ルナが小さく呟く。

 

 向かいに座っていた若い測量技術者が笑う。

 

「毎日言ってますね」

 

「だって、おいしいですから」

 

「初日も同じもの食べてましたよ」

 

「初日は味わう余裕がなかったんです」

 

「それは確かに」

 

 周囲の作業員達も笑う。

 

 そこで一人の年配技術者が、ふとルナを見る。

 

「ルナさん」

 

「はい」

 

「前から聞こうと思ってたんですが」

 

 何となく、周囲の会話が静かになる。

 

「サヴァイヴに漂流した時って、本当に今みたいな生活だったんですか?」

 

 ルナのスプーンが止まった。

 

「今みたい?」

 

「知らない惑星へ降りて、外で調査して、みんなで暮らして」

 

 別の作業員が加わる。

 

「ルナさん、まだ学生だったんですよね?」

 

「はい」

 

「その頃から、地質調査とかしてたんですか?」

 

「そんな立派なものじゃないですよ」

 

 ルナは笑った。

 

「今みたいな機材もありませんでしたし」

 

「じゃあ何してたんです?」

 

「最初は……」

 

 ルナは少し考える。

 

 遠い昔のようにも思える。

 

 でも、目を閉じればすぐに思い出せる。

 

 土の匂い。

 

 森の湿気。

 

 夜の音。

 

 焚き火。

 

「生きるだけで精一杯でした」

 

 テーブルが静かになる。

 

「食べられるものを探して、水を探して」

 

「食料は?」

 

「最初は、その日の食べ物を見つけるのがやっとでした。でも食料を見つけてくれると皆、喜んでくれて」

 

 ルナは少し困ったように笑った。

 

「でも見つけた果実を食べたんですけど」

 

「おいしかった?」

 

「はい」

 

 即答だった。

 

「でも、その果物だけでずっと?」

 

「最初の頃は大変でした。でも、少しずつ食べられるものが増えて」

 

 ルナの声が、自然と柔らかくなる。

 

「果物を見つけたり、魚を取ったりしてくれました」

 

「魚?」

 

「はい。魚が取れた日は、すごく嬉しかったです」

 

 あの匂いまで思い出せる。

 

 火の上で魚が焼ける音。

 

 脂が落ちて、炎が一瞬だけ強くなる。

 

 それまで十分な食事を取れない日があったからこそ、焼けた魚の匂いだけで皆の顔が明るくなった。

 

「保存するために、干物も作ったんです」

 

「学生だけで?」

 

「必要だったので」

 

「すごいな……」

 

 作業員の一人が感心する。

 

 ルナは首を横に振った。

 

「その時は、すごいことをしてるとは思っていませんでした」

 

「でも、魚を取って保存してたんですよね?」

 

「明日食べるものがなくなったら困るでしょう?」

 

「ああ……」

 

「だからです」

 

 特別な技術ではなく。

 

 必要だから覚える。

 

 必要だから作る。

 

 必要だから皆で分担する。

 

 それが、サヴァイヴでの生活だった。

 

「誰が料理してたんですか?」

 

 若い作業員が尋ねる。

 

「その時によって違いました」

 

「ルナさんも?」

 

「しましたよ」

 

「得意?」

 

「普通です」

 

 スリッピーが横から言う。

 

「その答え、一番怪しいやつだよ」

 

「普通です」

 

「今度作ってもらおう」

 

「どうしてそうなるんですか」

 

「一週間の調査が終わったら」

 

「船の調理設備を勝手に使わないでください」

 

「フォックスに聞けばいいよ」

 

 皆がフォックスを見る。

 

 フォックスは食事を続けたまま言った。

 

「俺を見るな」

 

 さらに笑いが起きた。

 

 ◇

 

「でも」

 

 別の作業員が尋ねる。

 

「ずっと外で寝てたんですか?」

 

「ずっとではありません」

 

 ルナは答える。

 

「最初は、避難シャトルの中でしたけど、本当に夜を越すだけでも怖かったです」

 

 森の夜。

 

 虫の音。

 

 獣の声。

 

 枝が折れる音。

 

 知らない惑星では、何の音なのかさえ分からない。

 

「夜は、昼より怖かったです」

 

「ルナさんでも?」

 

「もちろんです」

 

 ルナは笑う。

 

「暗いし、何がいるか分からないし」

 

 一度、ほんの少し目を伏せる。

 

「見張りをしてくれる人がいなかったら、眠れなかったと思います」

 

 最初の頃。

 

 焚き火が小さくなる中。

 

 皆が疲れているから休めと言い、自分だけ起きて見張っていた仲間がいた。

 

 だがルナは、その名前を強調しなかった。

 

 今は誰か一人の英雄譚を話したいわけではない。

 

「そのあと、皆で家を作ったんです」

 

「家?」

 

「はい」

 

「学生だけで家まで?」

 

「皆でです」

 

 ルナの表情が明るくなる。

 

「材料を集める人がいて、加工する人がいて、運ぶ人がいて。得意なことを分けました」

 

「今と同じですね」

 

 作業員が言う。

 

 ルナは一瞬だけ驚き、それから笑った。

 

「……本当ですね」

 

 地質を調べる人。

 

 測量する人。

 

 電源を見る人。

 

 機材を動かす人。

 

 通信を見る人。

 

 今の地球調査と同じだ。

 

 一人で全部は出来ない。

 

「家が完成した日は、すごく嬉しかったです」

 

 ルナは両手でカップを包む。

 

「屋根があるんです」

 

「屋根?」

 

「はい」

 

 あまりに当たり前の言葉なので、作業員が首を傾げる。

 

「屋根があるだけで?」

 

「その時は、それがものすごく嬉しかったんです」

 

 雨に濡れない。

 

 夜に安心して眠れる。

 

 皆が戻ってくる場所がある。

 

「最初は拠点だと思っていました。でも、完成した時に……これはもう、家なんだって思いました」

 

 ルナの声は静かだった。

 

「自分達で作ったから?」

 

「それもあります」

 

 少し考える。

 

「でも、一番は、皆が帰ってくる場所になったからだと思います」

 

 夕食を食べる。

 

 作業の話をする。

 

 言い合いをする。

 

 笑う。

 

 眠る。

 

 次の朝、また同じ場所から出ていく。

 

「建物だから家なんじゃなくて、皆が帰ってくるから家になるんだと思います」

 

 誰もすぐには返事をしなかった。

 

 グレートフォックスの食堂。

 

 金属の壁。

 

 人工照明。

 

 規則正しく流れる空調音。

 

 窓の外には、人が呼吸出来ない地球。

 

 そこは本来、移動のための宇宙船だった。

 

 けれど、この数日。

 

 朝、同じ場所から地上へ降りる。

 

 夜、同じ場所へ帰ってくる。

 

 シャワーを浴びる。

 

 夕食を食べる。

 

 今日あったことを話す。

 

 そして眠る。

 

 一人の作業員が、何気なく周囲を見回した。

 

「じゃあ今は、この船が家みたいなものですかね」

 

 ルナも食堂を見回した。

 

 グレートフォックス。

 

 フォックス。

 

 スリッピー。

 

 ナウス。

 

 建設チーム。

 

「……そうですね」

 

 ゆっくり笑う。

 

「今は、ここが地球での家なのかもしれません」

 

 ◇

 

 そこから、夕食はいつの間にかサヴァイヴの話になった。

 

「一番喧嘩した人は?」

 

「えっ?」

 

「学生八人もいたら、絶対揉めるでしょう」

 

「それは……」

 

 ルナが視線を泳がせる。

 

「いました」

 

「誰?」

 

「名前まで言わないと駄目ですか?」

 

「知りたいです」

 

「本人に怒られます」

 

「ここにいないでしょう」

 

「帰ったら会いますから」

 

「じゃあ、性格だけ」

 

「性格だけって……」

 

 ルナは困りながらも笑う。

 

「皆、全然違ったんです」

 

 真面目で、決まりを大事にするメノリ。

 

 おとなしいけれど、優しく人を見ていたシャアラ。

 

 機械を見つけるとすぐ触りたくなるシンゴ。

 

 大げさなことを言っては皆を呆れさせるハワード。

 

 不器用だけれど力仕事を引き受けるベル。

 

 あまり喋らなくても、必要な時にはちゃんと動くカオル。

 

 そして。

 

 自分のことより、先に危険へ向かってしまう人。

 

「まとまらなさそうですね」

 

 一人が言った。

 

「最初は全然まとまっていませんでした」

 

 ルナは笑って認めた。

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「ルナさんが最初からリーダーだったんじゃないんですか?」

 

「違いますよ」

 

 返事はすぐだった。

 

「私だって、何をしたらいいか分かりませんでした」

 

「でも皆をまとめたんでしょう?」

 

「まとめたっていうより……」

 

 ルナは少し考えた。

 

「誰かが出来ることを見つけたら、お願いしていたんだと思います」

 

「お願い?」

 

「私より詳しい人がいるなら、その人に任せる。誰かが疲れていたら別の人が代わる。意見が違ったら、どうしてそう思うのか聞く」

 

 今の地球調査で、自分がしていることと同じだった。

 

「自分が何でも出来たわけじゃありません」

 

「じゃあ、今も同じ?」

 

 若い測量技術者が尋ねる。

 

 ルナは少し驚いてから頷いた。

 

「たぶん」

 

「やっぱりサヴァイヴで覚えたんですね」

 

「そうなのかもしれません」

 

 自分では、その時ただ必死だった。

 

 生き延びたい。

 

 皆に無事でいてほしい。

 

 帰りたい。

 

 そのために動いただけだった。

 

 けれど、あの時覚えたことが、今も自分の中に残っている。

 

「一番大変だったことは?」

 

 今度は地質担当者が聞いた。

 

 ルナの笑顔が少しだけ静かになる。

 

「一番……」

 

 たくさんありすぎる。

 

 食料。

 

 寒さ。

 

 事故。

 

 サヴァイヴ。

 

 重力嵐。

 

 仲間を失うかもしれない恐怖。

 

 自分自身が消えるかもしれない選択。

 

 ルナはすぐには答えなかった。

 

 皆も急かさなかった。

 

「誰かが帰ってこない時間」

 

 やがて、ルナが言った。

 

「それが一番嫌でした」

 

 食堂の空気が少し変わる。

 

「食べ物が少ないのも怖かったし、夜も怖かったです。でも……」

 

 ルナはカップを見つめる。

 

「誰かが外へ出て、予定の時間を過ぎても帰ってこない。それが一番怖かった」

 

 待つしかない時間。

 

 何も出来ない時間。

 

 帰ってくる保証がない時間。

 

 今でも、宇宙船の遭難ニュースを見れば、あの感覚が胸の奥から戻ってくる。

 

「だから今、人数確認を何回もやるんですか?」

 

 若い技術者が尋ねた。

 

 ルナは顔を上げる。

 

「……そうですね」

 

 撤収開始。

 

 機材回収。

 

 船内帰還。

 

 何度も確認する。

 

 一人がいなくなれば、すぐ分かるようにする。

 

「もう、誰かがいないことに後から気づくのは嫌なので」

 

 若い技術者は、初日に自分が一人で隊列を離れたことを思い出したのだろう。

 

 少しだけ顔を伏せた。

 

 ルナはそれに気づく。

 

「でも」

 

 すぐに続けた。

 

「今は、ちゃんと仕組みにしました」

 

「仕組み?」

 

「一人だけが覚えておくんじゃなくて、皆で確認するでしょう?」

 

「はい」

 

「それなら私が見落としても、誰かが気づいてくれます」

 

 若い技術者がゆっくり頷く。

 

「サヴァイヴの時は、そこまで出来なかったから」

 

 ルナは笑った。

 

「今の方が、少し進歩してます」

 

 ◇

 

 重くなりかけた空気を変えたのは、別の作業員だった。

 

「じゃあ、一番おいしかった食事は?」

 

「急に食べ物ですか?」

 

「大事ですよ」

 

「それなら魚かな」

 

 ルナはすぐに表情を戻した。

 

「やっぱり魚?」

 

「はい。久しぶりにちゃんと焼いたものを食べられた時は、本当においしかったです」

 

「味付けは?」

 

「そんなに立派なものはなかったです」

 

「塩は?」

 

「塩はありましたけど、今より自由に使えませんでした」

 

「じゃあ、この夕食の方が豪華ですね」

 

「比べものになりません」

 

 ルナが笑う。

 

「このスープだけでも、あの時だったら皆大喜びです」

 

「じゃあ今日の夕食、サヴァイヴ基準だと?」

 

「大ごちそうです」

 

「最高評価?」

 

「はい」

 

 食堂に笑いが広がる。

 

 作業員の一人がパンを持ち上げた。

 

「聞いたか。このパン、大ごちそうらしいぞ」

 

「明日からありがたく食べろよ」

 

「残したらルナさんに怒られるぞ」

 

「怒りません」

 

 ルナはすぐに否定する。

 

「でも、食べられる分だけ取ってください」

 

「それは怒ってる人の言い方です」

 

「違います」

 

 笑い声が続いた。

 

 初日の夜にはなかった空気だった。

 

 疲労はある。

 

 明日も防護服を着る。

 

 酸素残量を確認しながら、灰色の大地を歩く。

 

 地盤を測る。

 

 土を採る。

 

 モンサンミッシェルを傷つけないよう慎重に周辺を調べる。

 

 楽な仕事ではない。

 

 それでも。

 

 夕食の時間になると、誰かが今日の話をする。

 

 失敗したことを笑う。

 

 分からないことを皆で考える。

 

 そして今夜は、ルナの昔話を聞いている。

 

 それだけで、グレートフォックスの船内は少し違って見えた。

 

 ◇

 

「ルナ」

 

 フォックスが席を立つ。

 

「はい、フォックスさん」

 

「話すのはいいが、明日も地上活動だ」

 

「分かっています」

 

「もう休め」

 

 周囲から小さな笑いが漏れる。

 

「まだ食べ終わったばかりですよ」

 

「食べ終わったなら休めるだろ」

 

「少しくらい皆さんと話しても」

 

「明日話せ」

 

 スリッピーも笑いながら加わる。

 

「フォックスの言うとおりだよ。今日のルナ、地上で結構歩いてるから」

 

「スリッピーさんまで」

 

「昔の話は逃げないからね」

 

 ルナは二人を見る。

 

 それから周囲の作業員達を見た。

 

「……では、今日はここまでにします」

 

「ええー」

 

 誰かが声を上げる。

 

「続きは明日です」

 

「明日は何の話?」

 

「まだ決まっていません」

 

「家を作った時の話」

 

「宇宙船を作った話も聞きたい」

 

「ハワードって人の話」

 

「何でハワード?」

 

「一番面白そうだから」

 

 ルナは思わず笑う。

 

「本人が聞いたら喜びますよ」

 

「じゃあ決まりですね」

 

「決まっていません」

 

 そう言いながら、ルナも楽しそうだった。

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみなさい、ルナさん」

 

「また明日」

 

「明日もよろしくお願いします」

 

 以前なら、食事が終われば疲れた身体を引きずるように寝床へ向かっていた者達が、今は笑いながら席を立っていく。

 

 今日の作業の疲れは消えていない。

 

 シャワーを浴びても、肩にはまだ防護服の重さが残っている。

 

 足には地球の地面を歩いた感覚が残っている。

 

 それでも、その日の最後に笑えた。

 

 ルナは食堂に残った食器を見ながら、ふと思う。

 

 サヴァイヴでもそうだった。

 

 生き延びるだけだった毎日が。

 

 少しずつ。

 

 食事を楽しむ時間になった。

 

 焚き火の前で話す時間になった。

 

 皆が帰ってくる家が出来た。

 

 その時初めて、「生き残る」だけではなく「暮らしている」と感じられるようになった。

 

 今の地球調査も、少し似ている。

 

 最初は全員が任務だけを見ていた。

 

 酸素。

 

 作業時間。

 

 地盤。

 

 機材。

 

 安全。

 

 それだけで精一杯だった。

 

 けれど日数を重ねるうちに。

 

 誰が甘い物を好きなのか。

 

 誰が朝に弱いのか。

 

 誰が防護服を脱いだあと必ず水を二杯飲むのか。

 

 誰が疲れると無口になるのか。

 

 そんなことまで、少しずつ分かるようになった。

 

 調査チームが、ただ同じ場所で働く人達ではなくなってきている。

 

「皆が帰ってくるから、家になる……か」

 

 ルナが小さく呟いた。

 

『発言を記録する必要がありますか』

 

 突然、ナウスが反応した。

 

「え?」

 

『独語を検出しました』

 

「記録しなくていいです」

 

『了解しました』

 

「ナウスって、こういう時だけ反応が早いですよね」

 

『通常通りです』

 

 ルナは小さく笑った。

 

 食堂の入口で、スリッピーが振り返る。

 

「ルナ、置いてくよ」

 

「今行きます、スリッピーさん」

 

 ルナは立ち上がる。

 

 窓の向こうには地球があった。

 

 まだ人間が普通に暮らせる星ではない。

 

 外へ出るには防護服が必要。

 

 酸素も必要。

 

 作業を終えれば、身体を洗い、疲労を回復させ、眠らなければ次の日は動けない。

 

 地球再生は、華やかな仕事ではなかった。

 

 ほとんどは測定と確認。

 

 小さな判断。

 

 そして地道な繰り返しだった。

 

 けれど。

 

 そんな毎日の中にも。

 

 温かい食事があり。

 

 笑い声があり。

 

 今日あったことを話す時間がある。

 

 ルナはそれを知っている。

 

 こういう時間こそが、長い活動を続ける力になることを。

 

 サヴァイヴで、一度経験しているから。

 

「明日も頑張ろう」

 

 ルナは地球を見ながら小さく言った。

 

 今度の言葉には、出発前のような張り詰めた決意はなかった。

 

 もっと自然で。

 

 もっと穏やかで。

 

 明日も皆と一緒に仕事をすることを、当たり前のように信じている声だった。

 

 地球での活動は。

 

 調査だけではなく。

 

 少しずつ、そこで働く人達の時間にもなり始めていた。

 

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