大型モニターに表示された文字を前に。
スペースホープのフロアは、息をすることさえ忘れたように静まり返っていた。
――第3位。
発表されたのは。
スペースホープではなかった。
「あ……」
ミドリの口から、小さな声が漏れた。
ホーネットも、先ほどまでの勢いが嘘のように黙る。
総務と広報の二人は、互いに顔を見合わせた。
だが。
まだ二位がある。
一位もある。
TOP10へのランクイン通知が来ている。
なら。
まだ。
そう思うしかなかった。
「……次」
ナツキが小さく呟く。
「二位……」
クミコが胸元で両手を握る。
サリーも画面を見つめたまま動かない。
アズサ。
マユ。
ハズキ。
ユウコ。
ミドリ。
そしてミラ、ラン、シルヴィア。
全員が。
同じ画面を見ていた。
普段なら、誰か一人くらい何かを言う。
ホーネットなら、なおさらだ。
だが。
誰も声を出さなかった。
アナウンスが流れる。
『それでは、第2位を発表いたします』
一瞬。
誰かが息を飲んだ。
画面が切り替わる。
会社のロゴ。
旅行船の映像。
そして。
別の旅行会社の名前。
「……違う」
アズサが呟いた。
ミドリが、ゆっくりとクミコを見る。
クミコも。
何も言えない。
残るのは。
一位。
そこまで来てしまった。
先ほどまでなら。
TOP10へ載るだけでも夢だと思っていた。
十位でもいい。
名前が出れば。
それだけで、全員で叫ぶつもりだった。
なのに。
十位。
九位。
八位。
七位。
六位。
五位。
四位。
三位。
二位。
どこにもスペースホープの名前はなかった。
もし。
本当にランクインしているのなら。
残る席は。
一つしかない。
さすがに。
エリンも黙っていた。
先ほどまで。
「うちよ?」
「スペースホープよ?」
などと言っていた。
だが。
ここまで来れば。
何かがおかしいと思う方が自然だった。
「……まさか」
ホーネットが。
珍しく小さな声を出した。
「一位?」
「ホーネット」
シルヴィアが呼ぶ。
「分かってる」
ホーネットは答える。
今度は茶化さない。
画面だけを見る。
『そして――』
司会者の声。
『本年度、旅行会社TOP10、第1位』
フロア全員の身体が強張る。
クミコがサリーの手を握った。
サリーも握り返す。
マユとハズキ。
ミドリとアズサ。
ユウコとナツキ。
それぞれが、無意識に隣の人間へ近づく。
ミラも。
ランも。
シルヴィアも。
静かに画面を見つめていた。
エリンは。
腕を組むでもなく。
祈るでもなく。
ただ立っていた。
画面が。
切り替わる。
大きく。
一社の名前が表示された。
それは。
スペースホープではなかった。
「…………」
誰も。
すぐには反応出来なかった。
拍手もない。
声もない。
ただ。
画面の向こうでは。
今年のTOP10第一位に選ばれた大手旅行会社の映像が流れている。
最新鋭の旅行船。
長い運航実績。
豪華な客室。
乗務員達。
受賞歴。
司会者が、その会社の優れた点を紹介していく。
けれど。
スペースホープのフロアでは。
もう。
その内容を聞いている者はほとんどいなかった。
「……ない」
ミドリが呟いた。
「名前……なかった……」
アズサも、目を瞬かせる。
「じゃあ……」
サリーが。
総務担当を見る。
「さっきの通知は……?」
「でも」
総務担当は端末を見る。
「本当に公式なんです」
「確認もしました」
広報担当も続ける。
「認証も、発信元も……」
ホーネットが。
ゆっくりエリンを見る。
「エリン」
「何?」
「ないじゃん」
「そうね」
「TOP10」
「載ってないわね」
「……」
ホーネットの肩が。
目に見えて落ちた。
「期待したのに……」
先ほどまで。
誰よりも大騒ぎしていたからこそ。
落胆も大きい。
クミコも。
サリーも。
ミドリも。
明らかに残念そうだった。
ランが小さく息を吐く。
「まあ……」
最初から。
ランクインは夢のまた夢だと言っていた。
ミラもそうだった。
エリン自身も。
それでも。
一度「入っている」と聞いてしまえば。
少しくらい期待してしまう。
人間なのだから。
エリンは。
フロアの皆を見た。
若い乗務員達の顔。
広報。
総務。
ホーネット。
シルヴィア。
ミラ。
ラン。
あまりに分かりやすく空気が沈んでいる。
だから。
エリンは。
少しだけ笑った。
「まあ」
皆が見る。
「何かの手違いだったのよ」
「手違い……」
クミコが繰り返す。
「ええ」
エリンは、なるべく何でもないことのように言った。
「総務と広報が悪いわけじゃないわ。公式通知だったなら、向こうの配信設定か何かでしょう」
総務担当が少し申し訳なさそうにする。
「すみません……」
「謝らなくていいわよ」
「でも、皆さんに期待させてしまって……」
「貴方達だって一緒に期待してたでしょう?」
「……はい」
「なら同じよ」
エリンは穏やかに言う。
「そもそも、朝から話してたじゃない」
一人ずつ見る。
「スペースホープは、まだようやく軌道に乗りかけたばかり」
ミラが。
少し気まずそうに笑った。
「私が言いました」
「正しかったわね」
「今言われると、あまり嬉しくないです」
「でしょうね」
少しだけ。
笑いが漏れた。
大きくはない。
でも。
沈んだ空気に、小さな穴が開いた。
エリンはその隙を逃さなかった。
「それに」
訓練端末を持ち上げる。
「ちょうどいいじゃない」
「何がですか?」
ミドリが聞く。
「シュミレーションの振り返り」
「……今ですか?」
ミドリの顔が。
露骨に曇る。
「今よ」
「切り替え早すぎません?」
ナツキが苦笑する。
「結果が変わるまで画面見てても仕方ないでしょう?」
「それはそうですけど……」
エリンは手元の記録を開いた。
「はい。それじゃあ、シュミレーションの振り返りを始めましょうか」
「えぇ……」
ホーネットが一番不満そうな声を出す。
「何?」
「もうちょっと落ち込む時間くらいくれてもよくない?」
「落ち込んだら順位が変わるの?」
「変わらないけど」
「なら仕事」
「鬼」
「聞こえてるわよ」
「聞こえるように言った」
「ホーネット」
シルヴィアが低く呼ぶ。
「はいはい」
ホーネットは渋々といった顔で戻る。
それでも。
ちゃんと戻る。
クミコ達も。
少しずつ気持ちを切り替え始めた。
エリンは端末を見る。
「まず全体として――」
その時。
『以上をもちまして、本年度旅行会社TOP10の発表を終了いたします』
モニターから。
まだ放送が続いていた。
誰も切っていなかったのだ。
「ほら、終わった」
エリンが言う。
「今度こそ振り返り――」
『続きまして』
アナウンス。
エリンの声と重なった。
「……」
エリンがモニターを見る。
他の皆も。
何となく見る。
『今年度より、TOP10選出企業に加え、今後さらなる成長が期待される旅行会社をご紹介いたします』
「え?」
ミドリが顔を上げる。
広報担当も。
慌てて端末を見る。
『その名も――』
画面上に。
新しいタイトルが浮かび上がった。
――WILD FLIGHT AWARD.
『ワイルドフライト賞』
ホーネットが。
「ワイルド?」
と呟く。
『ワイルドフライト賞は、現時点ではTOP10選出企業には及ばないものの、各評価項目において極めて高い成長性と独自性を示し、限りなくTOP10に近い位置へ到達した企業を選出する特別賞です』
フロアが。
再び静かになる。
『将来的に業界を牽引する可能性。既存の評価軸にとどまらない取り組み、急速なサービス品質向上、安全性、乗務員育成、利用者から寄せられた評価。それらを総合し』
司会者が続ける。
『来年度以降、TOP10へ名を連ねる可能性が特に高い企業を紹介します』
クミコが。
ゆっくり総務担当を見る。
「……もしかして」
総務担当も。
目を見開いている。
「だから通知が……?」
広報担当が。
「ランクイン企業じゃなくて」
一度言葉を切る。
「……受賞企業通知?」
エリンの表情が。
僅かに変わった。
TOP10ではない。
確かに。
通知の解釈を間違えていた。
だが。
それなら。
◇
『本年度、ワイルドフライト賞』
画面が暗転した。
一本の映像が始まる。
最初。
古い宇宙船。
人気のないロビー。
営業を停止していた旅行事業部。
画面隅に。
会社名。
そして。
過去の不祥事についての短い説明。
役員の横領。
信頼失墜。
業績悪化。
離職。
予約減少。
エリンは。
その映像を見た瞬間。
息を止めた。
これは。
知っている。
自分が初めて来た頃の。
スペースホープだ。
『一度、大きく信頼を失った旅行会社があります』
司会者の声。
『運航停止。社員の離職。利用者離れ』
映像が。
切り替わる。
訓練フロア。
まだ立ち方さえぎこちなかった若い乗務員達。
実地訓練。
最初の定期便。
少人数での接客。
空港ロビー。
少しずつ戻ってくる利用客。
『その企業は、急激な広告展開でも、過剰な値引きでもなく、一便ずつ、一人ずつ』
エリンの目が。
ほんの僅かに大きくなる。
『乗客と向き合うことで、信頼を取り戻す道を選びました』
「……」
誰も。
もう声を出せなかった。
モニターに映る。
ミラ。
ラン。
若い乗務員達。
実際のフライトで。
緊張しながらも客へ頭を下げるクミコ。
荷物を支えるサリー。
通路の先を見るマユ。
笑顔で案内するミドリ。
高齢者へゆっくり声を掛けるハズキ。
アズサ。
ユウコ。
ナツキ。
そして。
シルヴィア。
ホーネット。
「ちょっと」
ホーネットが目を丸くする。
「私も映ってる」
「本当だ……」
クミコが言う。
エリンも。
映った。
前に立つ場面ではない。
乗務員の後ろ。
少し離れたところから。
全体を見ている。
その映像。
『人材を育て、現場で任せ、失敗を修正し、再び任せる。短期間で、その運航品質を大きく向上させたこと』
ミラが。
口元を押さえた。
ランは何も言わない。
ただ。
その目が。
少しだけ潤んでいた。
『特に、経験者個人へ依存するのではなく、若い乗務員達が自ら判断し、チームとして安全を維持する運航体制への移行』
シルヴィアが。
静かにエリンを見る。
さっきのシュミレーション。
エリンが抜けても。
自分達だけで最後まで終えた。
まさに。
今言われていることだった。
『そして』
画面。
大きく。
スペースホープのロゴ。
『失った信頼を、日々の運航によって取り戻しつつある点を高く評価し――』
一拍。
『本年度ワイルドフライト賞、スペースホープ』
表示された。
◇
「…………」
一秒。
二秒。
誰も動かない。
理解が。
感情へ追いつくまで。
ほんの僅かな時間が必要だった。
最初に。
声を上げたのは。
「きゃあああああああっ!!」
ミドリだった。
そこから。
全部が弾けた。
「やったぁぁぁぁぁっ!!」
「スペースホープ!」
「うそ!」
「本当に!?」
「載ってる!」
「名前出てる!」
「受賞してる!!」
クミコが。
サリーの両手を握る。
「サリー!」
「うん!」
二人が。
飛び跳ねる。
アズサがマユへ抱きつく。
「やったぁ!」
「ちょ、アズサ!」
ハズキも。
いつもの静かな顔を崩して笑っている。
ユウコとナツキは。
顔を見合わせ。
次の瞬間には笑い出した。
「すごい……」
「本当に……」
ランは。
大きく息を吐いた。
ミラも。
目元を少し押さえる。
「TOP10じゃなかったけど……」
ランが言う。
「うん」
ミラが答える。
「でも」
一度。
モニターを見る。
「ここまで来たんだ」
シルヴィアも。
静かに笑った。
「ええ」
「十分すぎるくらいです」
その横で。
ホーネットは。
しばらく画面を見つめていた。
そして。
「ねぇ」
エリンを見る。
「何?」
「これ」
ホーネットの目が。
子どものように輝いている。
「すごくない?」
「すごいわね」
「もっと喜んでよ!」
「喜んでるわよ」
「全然見えない!」
「見えてなくても喜んでる」
「そういうところだよ!」
ホーネットは。
完全に興奮していた。
◇
だが。
その中心で。
エリンは。
一度だけ大きく息を吸った。
そして。
広報と総務を見る。
「二人とも」
「はい!」
返事が。
さっきまでとは全然違う。
「まず正式文書を確認して」
「はい!」
「賞の正式名称」
「はい」
「評価理由」
「はい」
「ロゴの使用条件」
「はい!」
「広報発表出来る時間も確認」
「分かりました!」
エリンは。
次々に指示を出す。
「会社のホームページ」
「はい」
「公式SNS」
「はい」
「予約サイトにも、受賞表示を載せられるか確認して」
「分かりました!」
「ただし」
広報担当が姿勢を正す。
「大げさな宣伝はしない」
「……はい」
「〝TOP10に匹敵する〟とか」
「書きません」
「〝宇宙最高峰〟とか」
「書きません」
「〝来年TOP10確実〟とか」
「絶対書きません」
「よろしい」
総務担当が尋ねる。
「社内通知は?」
「出して」
「全社員へ?」
「全社員」
「はい!」
「旅行事業部だけで取った賞じゃないでしょう」
エリンは言う。
「整備、総務、広報、予約・予算担当、パイロット、皆が今のスペースホープを作ってる」
二人が。
少し表情を変えた。
「全社員へ」
エリンは繰り返す。
「受賞したことと」
一拍。
「ありがとうって伝えて」
「はい」
今度の返事は。
少し静かだった。
「それから社長へ正式報告」
「もう役員フロアも大騒ぎになってると思います」
「でしょうね」
エリンは苦笑する。
「じゃあ報告済みかもしれないけど、広報対応案は上げて」
「分かりました」
「あと」
エリンが。
少しだけ考える。
「予約窓口へ応援を出せるよう準備して」
「予約?」
総務担当が首を傾げる。
「この賞」
エリンはモニターを見る。
「思ってるより影響あるかもしれないわよ」
「あ」
「TOP10じゃなくても、来年の候補として紹介されたんでしょう?」
「はい」
「今、放送見た人が予約ページを見る可能性がある」
広報担当の顔色が変わる。
「アクセス状況、確認します!」
端末を操作する。
数秒。
そして。
「……エリンさん」
「何?」
「アクセス数」
「うん」
「通常時の……」
一度数字を見直す。
「十二倍です」
「ほら」
エリンは即座に総務を見る。
「予約窓口に人を回して」
「はい!」
「システム側へ負荷監視もお願い」
「分かりました!」
二人は。
今度は喜びだけではなく。
仕事の顔になった。
「行ってきます!」
「お願い」
総務と広報が。
再び走り出しかける。
「走らない!」
エリンの声。
二人が急停止。
「廊下は歩く」
「はい!」
早歩きで去っていく。
ホーネットが笑った。
「こういう時でもそこ言うんだ」
「転んだらどうするの」
「確かに」
◇
エリンは。
二人の背中を見送って。
ようやく。
大きく息を吐いた。
「……さて」
端末を持ち直す。
その瞬間。
「エリンさん!」
「え?」
振り返る。
クミコ。
そしてサリー。
二人が。
ものすごい勢いでこちらへ来る。
「ちょっと――」
言い終わる前に。
「ありがとうございますっ!」
「エリンさん!」
二人が。
左右から。
エリンへ抱きついた。
「えっ」
エリンの身体が僅かに揺れる。
「クミコ?」
「やりました!」
「サリー?」
「本当に……!」
サリーは。
言葉の最後が少し震えていた。
「私達……賞、取れたんですね」
「ええ」
エリンは。
二人の顔を見る。
「取れたみたいね」
「エリンさんのおかげです!」
クミコが言う。
「違うわよ」
すぐに否定する。
「皆で取ったの」
「でも」
「皆でよ」
エリンははっきり言った。
「私は一人でフライト出来ないもの」
クミコの目が。
少し潤む。
サリーも。
黙って頷いた。
エリンは困ったように笑う。
「それより」
「はい」
「そろそろ離してもらえる?」
「あっ」
二人が。
慌てて離れる。
「すみません!」
「ご、ごめんなさい!」
「別に怒ってないわよ」
そう言った直後。
「じゃあ次、私!」
「え?」
ホーネット。
来た。
「ちょっと待っ――」
ぎゅっ。
「エリン!」
「苦しい」
「やったじゃん!」
「分かったから!」
「ワイルドフライト!」
「分かってる!」
ホーネットは完全に遠慮がない。
エリンの背中を。
ばしばし叩く。
「ちょっとホーネット、痛い!」
「ごめんごめん!」
「全然ごめんって思ってないでしょう」
「思ってる!」
シルヴィアが額を押さえる。
「ホーネット……」
「いいじゃん、今日くらい」
「限度というものがあるでしょう」
しかし。
シルヴィア自身も。
笑っている。
ホーネットが離れた。
次。
「エリンさん」
ミドリ。
「え?」
「私もいいですか?」
「聞くの?」
「はい」
「聞かれると断りにくいでしょう」
「じゃあいいってことですね!」
「そういう意味じゃ――」
抱きつかれた。
「ありがとうございます!」
「ミドリ……」
その後。
アズサ。
「エリンさん!」
「はいはい」
マユ。
「ありがとうございました」
「だから皆で取った賞よ」
ハズキ。
控えめに。
それでも。
「エリンさん」
「うん」
一瞬だけ抱きしめる。
ユウコ。
「本当に嬉しいです」
「私もよ」
ナツキ。
「エリンさん、今日は普通に喜んでください」
「喜んでるって言ってるでしょう?」
「まだ足りません」
「何よそれ」
ランも。
少し照れたように。
「エリンさん」
「ランまで?」
「今日くらいは」
抱きしめる。
「ありがとうございます」
「だから」
エリンは。
今度は否定しかけ。
やめた。
「……うん」
短く答える。
ミラが。
その様子を見て笑った。
「エリンさん、大人気ですね」
「見てないで助けて」
「嫌です」
「ミラ?」
ミラも近づく。
「私も、ありがとうございました」
「貴方まで……」
抱きしめられる。
ミラは。
若い子達より落ち着いていた。
それでも。
エリンには分かった。
力が少し強い。
ここまで来るのに。
色々あった。
任せられない。
まだ早い。
自分達では足りない。
そんな不安を。
何度も乗り越えてきた。
「エリンさん」
ミラが。
小さく言った。
「私達、ちゃんと進めてたんですね」
エリンの表情が。
柔らかくなる。
「ええ」
「進んでたわよ」
ミラが離れる。
最後に。
シルヴィア。
少しだけ迷い。
「私までやったら、収拾つかなくなりそうですね」
「もう十分ついてないわ」
エリンが言う。
シルヴィアが。
くすっと笑う。
「では」
一歩近づき。
「おめでとうございます、エリンさん」
「貴方もよ」
「はい」
静かに抱きしめた。
エリンも。
今度は。
僅かに背中へ手を添えた。
◇
「よし!」
その声を聞いた瞬間。
エリンは。
嫌な予感がした。
ホーネットだった。
「何?」
「次!」
「もうないわよ」
「ある!」
「何が?」
ホーネットが。
満面の笑みで。
宣言した。
「エリンを胴上げだ!」
「は?」
エリンが。
完全に固まった。
一秒後。
「ちょっと待って」
「賛成!」
ミドリ。
「えっ!?」
「やりたいです!」
クミコ。
「待って、クミコ」
「私も!」
アズサ。
「アズサまで!?」
ナツキが笑う。
「これは止められないですね」
「止めてよ!」
エリンが本気で言う。
ユウコが。
「エリンさん」
「何?」
「今日くらいは」
「その言葉、万能じゃないのよ!」
ランが笑いを堪えている。
ミラも。
完全に傍観者の顔。
「ミラ!」
「はい?」
「止めなさい!」
「皆、怪我だけはしないように」
「そっち!?」
シルヴィアまで。
「足元には気をつけてください」
「シルヴィア!」
誰も。
止める気がない。
「待って!」
エリンが一歩下がる。
「本当に駄目!」
ホーネットが追う。
「大丈夫だって!」
「何が大丈夫なのよ!」
「皆いるし!」
「人数の問題じゃない!」
「エリン軽そうだし」
「そういう問題でもない!」
「はい、囲んで!」
「ちょっと!」
クミコ。
サリー。
ユウコ。
ナツキ。
ミドリ。
アズサ。
マユ。
ハズキ。
そしてホーネット。
何人もが。
エリンの周囲へ集まる。
「待ちなさい!」
エリンが。
珍しく。
本気で焦った顔をした。
「スカート!」
「今日パンツスタイルですよ!」
クミコが答える。
「そういう確認いらない!」
「じゃあ問題なし!」
「あるわよ!」
「エリン」
ホーネットが笑う。
「おめでとう!」
「ありがとう! だから普通に言葉だけで――」
「せーの!」
「待って!」
身体が。
持ち上がった。
「きゃっ!」
エリンの声が。
いつもの落ち着いた声ではなく。
完全に素の声になる。
「一回!」
宙へ。
上がる。
「ちょっとぉ!」
落ちて。
受け止められる。
「二回!」
「待ちなさいって!」
再び。
宙へ。
「三回!」
「ホーネット!」
「はーい!」
「返事しながら上げないで!」
四回。
天井が。
一瞬。
近くなる。
フロア全体が。
笑い声に包まれる。
「あと一回!」
「もう十分!」
「最後!」
「最後って何よ!」
「五回!」
エリンが。
五度目。
宙へ舞った。
普段。
どれだけ忙しくても。
どんな緊急時でも。
乗務員の前では。
ほとんど崩れることのないエリンが。
「きゃあっ!」
両手をばたつかせ。
完全に狼狽えていた。
そして。
最後。
全員の手で。
無事に降ろされる。
◇
「…………」
エリンは。
立ったまま。
無言だった。
髪が。
少し乱れている。
服も。
ほんの少しだけずれた。
何より。
顔が。
赤い。
ホーネットが。
にやにやしながら見る。
「エリン」
「……何?」
「顔赤いよ」
「誰のせいよ」
「嬉しい?」
「怒ってる」
「でも嬉しい?」
「怒ってる」
「嬉しいんだ」
「話聞いてる?」
フロアに。
また笑いが起きる。
クミコが。
笑いながらも少し申し訳なさそうに言う。
「エリンさん、ごめんなさい」
「本当にね」
「でも」
「何?」
「すごく楽しかったです」
「クミコ」
「すみません!」
サリーも。
笑っている。
「エリンさん、髪……」
「乱れてる?」
「少し」
エリンは。
額へ手を当てる。
「もう……」
だが。
怒っているような声なのに。
口元だけは。
抑え切れていなかった。
笑っていた。
ミラが。
その顔を見て。
静かに言う。
「エリンさん」
「何?」
「おめでとうございます」
ランも。
「おめでとうございます」
シルヴィア。
「おめでとうございます」
ユウコ。
ナツキ。
クミコ。
サリー。
アズサ。
マユ。
ハズキ。
ミドリ。
そして。
ホーネット。
「おめでとう、エリン!」
一斉に。
言葉が重なった。
エリンは。
しばらく。
何も言えなかった。
TOP10ではない。
そこには。
まだ届かなかった。
朝。
自分で言った。
夢のまた夢。
その通りだった。
けれど。
夢のまた夢だと思っていた場所から。
来年。
そこへ届くかもしれない会社として。
名前を呼ばれた。
立て直しの途中。
そう説明してきた会社が。
業界から。
これから伸びる会社として見てもらえた。
それは。
完成したという評価ではない。
むしろ逆。
まだ途中。
まだ足りない。
でも。
進んでいる。
そのことを。
自分達以外の誰かが見てくれていた。
エリンは。
皆の顔を見る。
若い頃から完成していた子なんていない。
歩き方。
立ち方。
声の掛け方。
通路の見方。
安全確認。
接客。
全部。
一つずつだった。
失敗して。
直して。
また失敗して。
また直す。
ミラやラン。
シルヴィアのように。
人へ任せられる人も育った。
ホーネットのような。
どこまでも自由で。
でも。
必要な時には誰より早く動く人間も加わった。
その全部が。
今のスペースホープだった。
「……ありがとう」
エリンが言った。
ほんの少しだけ。
声が柔らかい。
「皆、おめでとう」
クミコの目が。
また潤む。
「エリンさん……」
「でも」
エリンが。
すぐに端末を持ち上げた。
全員。
嫌な予感。
「シュミレーションの振り返りはやるわよ」
「えぇぇぇぇぇぇっ!」
フロア中から。
大きな声。
「当たり前でしょう?」
エリンは。
いつもの顔へ戻る。
「受賞したからって、さっきのアズサの初動が速くなるわけじゃないもの」
「そこ覚えてたんですか!?」
「覚えてるわよ」
「今日くらい忘れてください!」
「嫌よ」
「エリンさん!」
「クミコも」
「私ですか!?」
「医療対応の機材を取りに行く時、最初の一歩が速すぎた」
「……はい」
「サリーは良かった」
「本当ですか?」
「でも、その後に周りを見て止まったでしょう」
「はい」
「そこは一歩早く声を出して」
「分かりました」
次々に。
振り返りが始まる。
「ミドリ」
「はい!」
「声が大きい」
「受賞したからです!」
「シュミレーションの話」
「あっ」
「返事も大きい」
「はい……」
笑いが起きる。
エリンは。
皆を見ながら。
少しだけ笑った。
「いい?」
声の温度が。
少し変わる。
「今日の賞は嬉しい」
皆が静かになる。
「本当に嬉しいわ」
さっきまで。
喜んでいるのか分からないと言われていた人が。
今は。
はっきり言った。
「でも」
「明日乗ってくださるお客様にとって」
一拍。
「ワイルドフライト賞なんて関係ないの」
若い乗務員達が。
エリンを見る。
「その人にとって大事なのは、自分が乗った一便が安全だったか、楽しかったか、また乗りたいと思えたか、それだけ」
エリンは言う。
「賞を取った会社だから安心してください、じゃない。私達が安心出来るフライトを作るの」
ミラが。
静かに頷く。
ランも。
シルヴィアも。
「だから」
エリンは。
大型モニターへ一度だけ視線を向けた。
そこには。
まだ。
スペースホープの名前。
ワイルドフライト賞。
来年度のTOP10候補。
その文字が表示されている。
「今日は喜びましょう」
ホーネットの顔が。
ぱっと明るくなる。
「じゃあ飲みに――」
「でもその前に振り返り」
「エリン!」
「何?」
「そこは明日でいいじゃん!」
「駄目」
「さっき胴上げされた人とは思えない!」
「胴上げされたから仕事がなくなるの?」
「なくならないけど!」
「ならやる」
ホーネットは。
頭を抱えた。
「ほんっと真面目!」
エリンが。
少しだけ首を傾げる。
「それで賞を取れたんじゃない?」
一瞬。
ホーネットが黙る。
「……それ言われたら何も言えない」
再び。
笑い声が響いた。
TOP10には。
届かなかった。
けれど。
そのすぐ下。
まだ完成していないからこそ。
未来を期待される場所。
ワイルドフライト。
そこに。
スペースホープの名前が刻まれた。
一度。
信頼を失った会社。
予約がなかった会社。
乗務員達が、自分達に出来ることさえ分からなかった会社。
そこから。
一便ずつ。
一人ずつ。
ここまで来た。
そして。
その日。
スペースホープのフロアでは。
記念すべき受賞直後にもかかわらず。
「じゃあアズサ、さっきのクレーム対応から」
「はい!」
いつも通り。
エリンによるシュミレーションの振り返りが始まった。
ただ一つ違うのは。
いつものフロアより。
全員の顔が。
どうしようもないくらい。
嬉しそうだったことだけだった。
――――
ワイルドフライト賞の発表から、およそ一時間後。
スペースホープの旅行事業部では。
「アズサ」
「はい」
「さっきのクレーム対応。最初にお客様から強く言われた時、一瞬だけ声が小さくなったでしょう?」
「……はい」
「悪いことではないわ」
「え?」
「怖いものは怖いもの」
エリンは訓練記録を確認しながら言った。
「ただ、そのまま縮こまらなかったのは良かった」
「はい」
「二回目の返答では、何が起きているか、どうするのか、きちんと説明出来ていた」
アズサの表情が少し明るくなる。
「そこは良かったわよ」
「ありがとうございます!」
「でも、最初から出来ればもっといい」
「はい!」
その隣。
クミコ。
「クミコ」
「はい」
「医療対応用の機材を取りに行く時」
「はい」
「速い」
「やっぱりですか……」
「急ぐことと、走ることは別よ」
「はい」
「途中でサリーを追い越したでしょう?」
「……はい」
「機内であれをやったら、二人でぶつかる可能性がある」
「すみません」
「謝るより覚えて」
「はい」
エリンは次。
「サリー」
「はい」
「クミコが前へ出た時、一度止まったでしょう?」
「はい」
「良かったわ」
サリーが目を瞬く。
「良かったんですか?」
「そのまま張り合って二人で進まなかったから」
「……はい」
「ただ」
「はい」
「止まったなら、次に何をするか声に出す」
「分かりました」
その横で。
ホーネットは。
机へ頬杖をついたまま。
「エリン」
「何?」
「まだやるの?」
「やるわよ」
「賞取ったのに?」
「賞と関係ないでしょう」
「もう一時間やってるよ」
「まだ一時間」
「〝まだ〟なんだ」
ホーネットが天井を仰ぐ。
シルヴィアが隣で苦笑する。
「ホーネット。エリンさんが途中で振り返りを止めると思ってたの?」
「今日くらい止めるかなって」
「甘い」
「シルヴィアまで言う?」
「実際甘かったでしょう?」
「まあね」
ホーネットは素直に認める。
ミラとランも少し離れたところで笑っていた。
それでも。
誰一人、本気で嫌がってはいなかった。
むしろ。
今日のシュミレーションは。
いつもより少しだけ。
皆の顔が明るかった。
ワイルドフライト賞。
自分達の努力を。
外から。
きちんと見てもらえた。
その実感が。
まだ消えていない。
だから。
注意されても。
次はもっと出来るようになりたいと思える。
エリンも。
それを分かっていた。
「ユウコ」
「はい」
「初めて宇宙旅行へ行くお客様への説明」
「はい」
「良かったわ」
ユウコが少し驚く。
「本当ですか?」
「前だったら〝大丈夫です〟を先に言ってたでしょう?」
「あ……」
「今日は、これから何が起きるのかを先に説明出来てた」
「はい」
「お客様は〝怖がっちゃ駄目〟と言われたいわけじゃないの」
エリンは続ける。
「何が起こるか分かれば、それだけで不安は減る」
ユウコが頷く。
「ありがとうございます」
「ナツキも良かった」
「私ですか?」
「ええ」
ナツキの顔が少し明るくなる。
「途中、ユウコが別対応へ入った後も、自分の区画だけじゃなくて前方全体を見てたでしょう?」
「はい」
「それでいいの」
「ありがとうございます」
褒められた。
それだけで。
二人とも嬉しそうだった。
そして。
その様子を見たホーネットが。
「ねぇ」
「何?」
「私も褒めて」
「順番」
「最後まで待つの?」
「待ちなさい」
「はいはい」
◇
全員分の振り返りが終わった頃。
窓の向こうに広がる火星コロニーの人工空は、すっかり夜の色へ変わっていた。
エリンが端末を閉じる。
「以上」
一瞬。
誰も動かない。
「終わりよ」
その言葉を理解した瞬間。
「終わったぁ!」
ミドリが両手を上げる。
「今日は長かった……」
アズサが机へ突っ伏しそうになる。
「でも」
クミコはまだ嬉しそうだった。
「賞、取ったんですよね」
「取ったね」
サリーが笑う。
「まだちょっと信じられないです」
マユも画面に保存していた受賞ページを見る。
「本当にスペースホープって書いてあります」
「何回確認するのよ」
ハズキが笑う。
「だって……」
「気持ちは分かるけど」
そんな声が飛び交う中。
ホーネットが。
突然。
両手を机へついた。
「よし!」
嫌な予感。
エリンが見る。
「何?」
ホーネットは満面の笑みだった。
「飲みに行こう!」
一秒。
フロアが静かになる。
そして。
「行きたいです!」
クミコ。
「私も!」
アズサ。
「行きましょう!」
ミドリ。
「今日はいいんじゃないですか?」
ナツキ。
「私も賛成です」
ユウコ。
サリーも笑って頷く。
マユ。
ハズキ。
全員。
完全に乗り気だった。
「ちょっと」
エリンが周囲を見る。
「皆、明日は?」
「非番です!」
ミドリが即答。
「全員が?」
「旅行事業部、明日はフライト編成が少ないので、今日の訓練組は午後からです」
ミラが答える。
エリンが時計を見る。
「でも」
「エリン」
ホーネットが食い下がる。
「何?」
「今日だよ?」
「知ってる」
「ワイルドフライト賞だよ?」
「知ってるわよ」
「胴上げまでしたんだよ?」
「それは忘れたい」
「忘れないで」
ホーネットが笑う。
「今日行かないでいつ行くの?」
シルヴィアも。
珍しく。
「私も、今日はいいと思います」
エリンが見る。
「シルヴィアまで?」
「はい」
ミラも笑う。
「私も賛成です」
「ランは?」
「……私も」
「全員?」
「全員です」
エリンは。
ゆっくり息を吐いた。
「分かったわよ」
一瞬。
「やった!」
また歓声。
「ただし」
全員が止まる。
「明日の仕事に影響させない」
「はい!」
「無理して飲まない」
「はい!」
「酔った人を一人で帰さない」
「はい!」
「何か壊したら本人が弁償」
「それホーネット向け?」
ホーネットが聞く。
「皆向け」
「絶対私向けじゃん」
「心当たりあるの?」
「ない」
「ならいいでしょう?」
「はいはい」
◇
皆が店を探し始めた頃。
エリンだけは、自席へ戻った。
端末を開く。
受賞。
嬉しい。
確かに嬉しい。
でも。
今日ここへ名前が出たことを。
今ここにいる人間だけのものにしたくなかった。
スペースホープが。
本当にどうしようもない状態だった頃。
助けてくれた人達がいる。
教えてくれた人達がいる。
見ていてくれた人達がいる。
エリンは。
メール作成画面を開いた。
最初。
ハワード財閥旅行会社。
自分自身。
ドルトムントの後に身を置いた会社。
そして。
スペースホープの再建にも。
何度も力を貸してくれた会社。
少し考えて。
文章を打つ。
――本日、スペースホープは旅行会社評価において「ワイルドフライト賞」を受賞しました。
――TOP10への選出ではありませんが、今後の成長が期待される企業として評価いただいたとのことです。
――スペースホープがここまで来ることが出来たのは、再建当初から多くの面でお力添えいただいた皆様のおかげです。
――乗務員教育、運航面、現場での協力を含め、改めて御礼申し上げます。
――まだ発展途上ではありますが、一便一便を大切に、これからも取り組んでまいります。
送信。
次。
ガーネット。
エリンは少しだけ文章を柔らかくする。
――今日、スペースホープがワイルドフライト賞を受賞したわ。
――最初の頃、若い子達を何度も見てもらったでしょう。
――あの時、ガーネットが基礎を一つずつ丁寧に教えてくれたことが、今もちゃんと残ってる。
――本当にありがとう。
――皆、ずいぶん頼もしくなったわよ。
少しだけ笑って。
送信。
マユミ。
宇宙連邦連盟。
再建初期。
外から会社を見て。
制度や人員配置。
組織として何が足りないか。
遠慮なく言ってくれた。
――マユミ。
――今日、スペースホープがワイルドフライト賞を受賞しました。
――最初の頃、外から見た問題点を遠慮なく言ってくれてありがとう。
――あの時は耳が痛いことも多かったけれど、今思えば必要なことばかりだったわ。
――まだ完成した会社じゃないけれど、少しずつ前へ進めてる。
送信。
次。
フレデリック。
記者。
必要な時。
スペースホープが何をしている会社なのか。
社会へ伝える手助けをしてくれた。
ただ持ち上げるのではなく。
聞くべきことを聞いて。
書くべきことを書く。
だからこそ。
彼の記事には意味があった。
――フレデリック。
――今日、スペースホープがワイルドフライト賞を受賞しました。
――再建の途中から、会社の良いところだけではなく、課題も含めてきちんと取材してくれてありがとうございます。
――貴方の記事を見て、もう一度スペースホープを知ってくれた人もたくさんいたと思います。
――今度は、私達の仕事そのもので期待に応えられるように頑張ります。
送信。
フレイ。
エリンは少し手を止めた。
フレイには。
何度。
助けられたか分からない。
誰かが勢いだけで進みそうになれば止める。
資料が足りなければ揃える。
現場の感情とは別に。
必要な仕事を。
必要な順番で処理する。
――フレイさん。
――今日、スペースホープがワイルドフライト賞を受賞しました。
――再建当初、何度も実務面を整えてくれてありがとうございました。
――皆が前だけを見ている時に、足元を整えてくれる人がいることがどれだけ大切か、今になって余計に分かります。
――また何かあったら頼ると思いますけど、その時はよろしくお願いします。
少し考えて。
最後。
――ペルシアのことも引き続きお願いします。
書いて。
「……これは余計かしら」
数秒考え。
そのまま送った。
次。
ペルシア。
こちらは。
悩まなかった。
――ワイルドフライト賞を取ったわ。
――貴方があの時、面倒なくらい人を連れてきてくれたおかげ。
――ありがとう。
――ちなみに今日は会社のみんなと飲みに行くから、貴方はリュウジをちゃんと見てて。
――隕石群に入らせないでよ。
送信。
少しして。
エリンは自分で笑った。
「受賞報告より最後の方が長くなりそうだったわね」
次。
リュウジ。
一度。
画面を見つめる。
リュウジも。
スペースホープへ来て。
若いパイロット達へ。
操縦だけではないことを教えた。
便は飛べばいいんじゃない。
出発前の空気。
客室。
乗客の不安。
全部含めて便。
あの言葉を。
エリンは覚えている。
――リュウジ。
――今日、スペースホープがワイルドフライト賞を受賞したわ。
――若いパイロット達を見てくれたこと、今でも皆の中に残ってる。
――貴方が言っていた「便は飛べばいいんじゃない」という意味も、少しずつ会社全体に根づいてきたと思う。
――ありがとう。
そこで。
指を止める。
そして。
付け加える。
――だから、受賞祝いを台無しにしないように、絶対に無茶しないこと。
送信。
「よし」
次。
最後。
サラ先生。
エリンは。
しばらく入力出来なかった。
誰よりも。
簡単に褒めてくれなかった人。
出来ないものは出来ない。
足りないものは足りない。
危険なものは危険。
何度も。
自分の甘さを。
目の前へ置かれた。
それでも。
最後には。
――今の貴方なら、できます。
そう言ってくれた。
エリンは。
一度。
息を吐く。
そして。
丁寧に入力した。
――サラ先生。
――本日、スペースホープが旅行会社評価の「ワイルドフライト賞」を受賞しました。
――TOP10には届きませんでしたが、今後成長する可能性が高い会社として評価いただきました。
――先生に「今の貴方なら、できます」と言っていただいた日から、まだそれほど時間は経っていません。
――それでも今日、少しだけ、その言葉に近づけたような気がしています。
――私一人ではなく、ミラ、ラン、シルヴィアをはじめ、若い乗務員達が自分達で判断し、フライトを支えられるようになってきました。
――先生に教えていただいたことを、今度は私が次の人達へ渡していけるように頑張ります。
――本当にありがとうございます。
少しだけ。
目元が熱くなる。
エリンは。
そのまま。
送信を押した。
◇
「エリン!」
「何?」
顔を上げる。
ホーネットが。
すでに上着を着ていた。
「まだ?」
「今終わった」
「誰にメール?」
「色々」
「仕事?」
「半分」
「受賞報告?」
「ええ」
「真面目だねぇ」
「今日くらいは言っておきたかったの」
ホーネットは一瞬だけ。
少し柔らかい顔をした。
「そっか」
でも。
すぐに。
「じゃあ行こう!」
元通り。
「はいはい」
◇
店は。
会社から歩いて十分ほどの場所にあった。
火星コロニー中央区画から少しだけ外れた。
昔ながらの居酒屋。
木目を基調にした店内。
暖簾。
少し暗めの照明。
厨房からは。
焼き物の香ばしい匂い。
出汁。
揚げ物。
醤油。
様々な匂いが混ざっている。
「ここ!」
ホーネットが言う。
「予約したの?」
「した!」
「いつの間に?」
「エリンが振り返りしてる間」
「仕事が早いわね」
「褒めた?」
「そこは褒める」
「やった」
店の奥。
大人数用の座敷。
そこへ。
スペースホープの面々が。
次々と座る。
エリン。
ミラ。
ラン。
シルヴィア。
ホーネット。
ユウコ。
ナツキ。
クミコ。
アズサ。
サリー。
マユ。
ミドリ。
ハズキ。
普段。
訓練フロアでは。
どうしても上下関係がある。
経験。
役割。
判断。
しかし。
今夜だけは。
少しだけ。
その境目が薄かった。
「何飲みます?」
クミコがメニューを見る。
「私は最初ビール!」
ホーネットが即答。
「早い」
「エリンは?」
「私は軽いの」
「何それ」
「明日もあるもの」
「午後からって言ったじゃん」
「午後からでも仕事は仕事」
「じゃあ一杯だけ」
「最初から一杯のつもりよ」
「三杯にしよう」
「増やさないで」
シルヴィアが笑う。
「ホーネット。エリンさんへ絡む前に、自分の量を気にしなさい」
「私強いよ?」
「そういう人ほど危ないの」
「大丈夫だって」
「信用してない」
「ひどい」
注文が進む。
飲み物。
刺身。
焼き魚。
唐揚げ。
出汁巻き卵。
串焼き。
サラダ。
揚げ出し豆腐。
ポテト。
若い子達の注文だけ。
少し揚げ物が多い。
エリンがメニューを見る。
「野菜も頼みなさい」
「ありますよ」
ミドリが答える。
「枝豆」
「それだけ?」
「ポテト」
「野菜として数えない」
「芋です」
「そういう問題じゃない」
笑いが起きる。
やがて。
全員の飲み物が揃った。
ホーネットが。
当然のように立ち上がる。
「じゃあ!」
「何で貴方が仕切るの?」
エリンが聞く。
「言い出した人だから!」
「好きにして」
「はい!」
ホーネットはグラスを掲げる。
「スペースホープ!」
皆がグラスを上げる。
「ワイルドフライト賞!」
空気が。
一気に明るくなる。
「おめでとう!」
「おめでとうございます!」
「やったー!」
「乾杯!」
「乾杯!」
グラスが。
一斉に触れ合った。
◇
最初の三十分。
まだ皆。
普通だった。
「今日の映像、私映ってましたよね?」
クミコ。
「映ってたわよ」
エリンが答える。
「私、変な顔してませんでした?」
「そこ?」
「だって全国で流れてるかもしれないんですよ?」
「接客してる顔だったから大丈夫」
「本当ですか?」
「ええ」
「よかったぁ……」
サリーが笑う。
「クミコ、そこばっかり気にしてる」
「サリーだって映ってたよ」
「私は別に」
「エリンさん、サリーどうでした?」
「ちゃんとしてたわよ」
サリーが。
少しだけ顔を赤くする。
「ありがとうございます」
「今日のシュミレーションも良かった」
「えっ」
「周りを見て止まれたでしょう?」
「……はい」
「昔なら、クミコについて行ってたと思う」
サリーは少し考え。
「そうかもしれません」
「成長してるわよ」
「……ありがとうございます」
その一言。
サリーには。
思った以上に響いたようだった。
少し。
目を伏せる。
嬉しそうに。
◇
一時間後。
席の空気は。
かなり緩んでいた。
「エリンさぁん」
アズサが。
もう少し声が柔らかくなっている。
「何?」
「私、今日ちゃんと出来てましたぁ?」
「さっき振り返ったでしょう?」
「もう一回聞きたいです」
「酔ってる?」
「ちょっとだけ」
「なら水飲みなさい」
「はーい」
言いながら。
アズサは素直に水を飲む。
「でも」
「何?」
「怖かったんですよ」
「クレーム?」
「はい」
アズサの目が。
少し真面目になる。
「前だったら」
一度。
グラスを見る。
「誰か来てって思ってたと思います」
「うん」
「でも今日は」
「うん」
「自分でちゃんと話さなきゃって」
エリンは。
最後まで遮らず聞く。
「出来てたわよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「途中でハズキが見てくれてたから、落ち着けたんだと思う」
ハズキが。
隣で目を丸くする。
「私?」
「うん」
「何もしてないよ」
「見てた」
「……見てただけ」
「それで良かったの」
エリンが言う。
二人が見る。
「何でも助けに入ればいいわけじゃない」
「本人が出来るなら、任せる」
「でも危なそうなら、すぐ入れる位置にいる」
ハズキが。
ゆっくり頷く。
「今日の貴方は、それが出来てた」
「ありがとうございます」
「アズサも」
「はい」
「助けを借りながらでも、自分で最後まで出来た」
アズサの顔が。
ふにゃっと緩む。
「嬉しい……」
「飲みすぎないでよ」
「はい」
◇
少し離れた席。
「エリンさん」
今度はユウコ。
「何?」
「私」
「うん」
「もっと出来るようになります」
突然。
真っ直ぐだった。
「急にどうしたの?」
「だって」
ユウコは。
少し酔っている。
普段より。
言葉が素直だった。
「今日、評価されたじゃないですか」
「会社がね」
「でも」
「うん」
「私達の映像も出た」
「出たわね」
「嬉しかったです」
横。
ナツキも。
少しだけ頷いている。
「私もです」
「うん」
エリンは。
急かさない。
「最初の頃って」
ユウコが続ける。
「エリンさんが全部見えてて」
「うん」
「私達、全然追いつけなくて」
「そんなことないわよ」
「ありました」
「言い切るのね」
「だって本当です」
ナツキが笑う。
「最初、エリンさんの視線がどこ向いてるのか分からなかったです」
「今は?」
「少し分かります」
「少し?」
「少しです」
エリンも笑う。
「十分よ」
「え?」
「最初から全部分かったら怖いわよ」
ユウコが吹き出す。
「確かに」
「一つずつでいいの」
エリンは。
二人のグラスの間へ。
水のボトルを置く。
「出来るようになったことは、自分でちゃんと認めなさい」
「はい」
「でも出来ないことは誤魔化さない」
「はい」
「それでいい」
二人とも。
素直に頷いた。
◇
ミドリは。
賞について。
ずっと喋っていた。
「エリンさん! 来年、本当にTOP10入れると思います?」
「分からないわよ」
「可能性は?」
「あるんじゃない?」
「本当ですか!?」
「ワイルドフライト賞がそういう賞なんでしょう?」
「じゃあ!」
「でも」
「はい」
「来年入るために仕事するんじゃない」
「あ……」
朝と。
同じ話。
ミドリが。
自分で気づいて笑う。
「また言われちゃった」
「何回でも言うわよ」
「はい」
「でも」
エリンは。
少しだけ微笑む。
「入れたら嬉しいわね」
ミドリが。
目を丸くする。
「今の録音したい」
「何で?」
「エリンさんが賞に興味あるって言った!」
「興味がないとは言ってないでしょう?」
「朝、意味がないって」
「賞を目標にする意味がないって言ったの」
「じゃあ、取れたら嬉しい?」
「嬉しいわよ」
「やった!」
「何が?」
ミドリは笑う。
エリンも。
つられて笑った。
◇
酒が進むにつれ。
いつもは。
ミラやランへ遠慮していた若手も。
少しずつ話しかけるようになった。
「ミラさんって最初から何でも出来たんですか?」
「出来ないわよ」
「嘘です」
「本当よ」
ミラは苦笑する。
「ランと二人で、何回エリンさんに止められたか」
「数えたくないね」
ランも笑う。
「えっ、本当に?」
クミコが食いつく。
「本当に」
「ミラさんでも?」
「貴方達、私を何だと思ってるの?」
そのやり取りを。
エリンは。
少し離れたところから聞いていた。
いい。
こういう話は。
自分が言うより。
先輩から聞いた方が伝わる。
出来る人にも。
出来なかった時期がある。
失敗して。
注意されて。
悔しくて。
でも。
続けて。
今がある。
それを知るだけで。
若い子達は。
少し楽になる。
エリンは。
誰かが話し始めれば。
ちゃんと聞いた。
サリーが。
「今日は緊張した」
と言えば。
「それでも落ち着いてたわよ」
と返す。
マユが。
「判断が遅かった気がする」
と言えば。
「遅いんじゃなくて、確認してたでしょう。確認が必要な場面なら悪くない」
と返す。
ハズキが。
「もっと声を出した方がよかったですか?」
と聞けば。
「貴方は声量よりタイミング。今日のタイミングは良かった」
と。
一人ずつ。
具体的に。
ちゃんと見ていたことを伝える。
褒めるだけではない。
何が良かったのか。
どこが成長したのか。
それを。
一つずつ。
言葉にする。
その度。
皆の表情が。
少しずつ柔らかくなる。
◇
店へ入って。
二時間ほど経った頃。
エリンの隣の席が。
空いた。
先ほどまでミラが座っていたが。
ランに呼ばれて。
少し向こうへ移った。
そこへ。
静かに。
誰かが座った。
「……」
エリンは。
横を見る。
ホーネットだった。
「何?」
「別に」
「珍しいわね」
「何が?」
「静か」
「私だって静かな時あるよ」
「初めて見たかも」
「ひどい」
そう言った。
でも。
いつものように。
笑いながら言い返してこない。
ホーネットは。
手元のグラスを見る。
中身はもう。
ほとんど減っていなかった。
「飲みすぎた?」
「そうでもない」
「気分悪い?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……」
エリンは。
待った。
無理に聞かない。
ホーネットは。
言いたい時。
大体。
自分から言う。
言えない時は。
変に急かすと。
余計な言葉で誤魔化す。
少しして。
「エリン」
「うん」
「私さ」
珍しく。
言葉が遅い。
「いつも迷惑かけてるよね」
エリンは。
一瞬。
目を瞬いた。
「急にどうしたの?」
「今日くらい言っとこうかなって」
「受賞したから?」
「それもある」
ホーネットは。
少し笑う。
でも。
すぐに。
目を伏せた。
「最初」
「うん」
「勝負しろとか言ったし」
「言ったわね」
「訳分かんない絡み方して」
「したわね」
「何かあるたびエリンに言うし」
「うん」
「余計なことも言うし」
「それは今もね」
「今、真面目な話してる」
「ごめん」
エリンが。
少し笑う。
ホーネットも。
ほんの少しだけ笑った。
「スペンサー辞めて」
「うん」
「こっち来て」
「うん」
「何か」
一度。
言葉を探す。
「私だけ、最初から場違いだったかなって思う時あった」
エリンは。
黙って聞く。
「ミラとランはずっとやってきてるし」
「うん」
「シルヴィアは真面目だし」
「聞こえたら怒るわよ」
「分かってる」
「若い子達も、ちゃんとエリンの言うこと聞くし」
「ホーネットも聞いてるでしょう?」
「半分くらい」
「自覚あるのね」
「あるよ」
ホーネットは。
グラスを指で回す。
「私」
「うん」
「空気壊すこと多いし」
「うん」
「否定しないんだ」
「今は最後まで聞こうと思って」
「そっか」
少し。
沈黙。
店の向こうでは。
クミコとミドリが。
何かで笑っている。
ナツキとユウコも。
いつものように。
少し言い合っている。
ランが。
飲みすぎそうなアズサから。
さりげなくグラスを遠ざけている。
ミラが。
それを見て笑っている。
シルヴィアは。
皆が頼みすぎた料理を整理している。
ホーネットは。
その光景を見る。
「でも」
小さく言う。
「今日」
「うん」
「受賞映像で」
「うん」
「皆が映ってたじゃん」
「そうね」
「私もいた」
「いたわよ」
「……それが」
声が。
少しだけ小さくなる。
「嬉しかった」
エリンは。
横顔を見る。
「ここにいていいんだって」
その言葉は。
とても。
ホーネットらしくなかった。
いや。
もしかしたら。
今まで見せなかっただけで。
これも。
ホーネットなのだろう。
「だから」
一度。
息を吸う。
「いつも迷惑かけて、ごめん」
エリンは。
すぐには答えなかった。
そして。
少しだけ。
身体をホーネットの方へ向ける。
「ホーネット」
「何?」
「貴方が素直に話をしてくれるから」
ホーネットが。
少しだけ目を上げる。
「皆、気持ちが楽になるのよ」
「……え?」
「貴方、言うでしょう?」
「何を?」
「疲れた」
「言う」
「面倒」
「言う」
「怖い」
「……言う」
「嬉しい」
「言うね」
「嫌だ」
「それも言う」
「それ」
エリンは。
優しく笑った。
「皆、同じこと思ってても、言えない時があるの」
ホーネットは黙る。
「先輩が頑張ってるから、周りが真面目だから、自分だけ弱音を吐いたら駄目だと思って、飲み込む」
エリンは。
遠くで笑う若い子達を見る。
「でも貴方が先に」
少し笑う。
「〝疲れた!〟とか」
「言うね」
「〝無理!〟とか」
「言う」
「〝怖い!〟って言うでしょう?」
「言ってる」
「すると」
「うん」
「皆も、言っていいんだって思えるのよ」
ホーネットの表情が。
少しずつ変わる。
「それに」
エリンが続ける。
「楽しい時も」
「うん」
「一番先に笑うでしょう?」
「まあ」
「今日も」
「うん」
「誰より先に飲みに行こうって言った」
「だって行きたかったし」
「そういうところ」
エリンは。
穏やかに言う。
「場の空気を軽くしてくれてる」
ホーネットは。
しばらく。
何も言わなかった。
「もちろん」
「……何?」
「余計なことも多い」
「台無し!」
「そこは本当だから」
「今いい話だったじゃん!」
いつもの声。
エリンが笑う。
「でも」
また。
少しだけ柔らかい声。
「迷惑だと思ってたら」
一拍。
「今ここにいないわよ」
ホーネットが。
エリンを見る。
「スペースホープに?」
「そう」
「……そっか」
「ええ」
「じゃあ」
「何?」
「いていい?」
「今さら?」
「ちゃんと言って」
エリンは。
少し呆れたように笑い。
「いていいわよ」
そして。
「これからもよろしくね」
ホーネットは。
ほんの一瞬。
泣きそうな顔をした。
でも。
すぐに。
笑った。
「うん」
いつもの。
明るい声ではなく。
静かな。
素直な。
「よろしく、エリン」
◇
「何話してるんですかー!」
そこへ。
クミコ。
かなり楽しそうにやってきた。
「ホーネットさんだけエリンさん独占してずるいです!」
「独占してないよ」
「してます!」
サリーも。
後ろから来る。
「エリンさん」
「何?」
「こっちにも来てください」
「今行くわよ」
ホーネットが。
いつもの調子へ戻る。
「エリン人気者だね」
「今日だけよ」
「いや、普段から」
「そう?」
「自覚ないんだ」
「何の?」
「そういうとこ」
ホーネットは笑う。
そして。
少しだけ。
エリンの肩へ自分の肩をぶつけた。
「ありがと」
小さな声。
周囲の笑い声に紛れるくらい。
エリンも。
大げさには返さなかった。
「どういたしまして」
それだけ。
◇
夜は。
さらに穏やかに続いた。
誰かが。
今日の賞の話をして。
誰かが。
昔の失敗を笑って。
誰かが。
次のフライトでやりたいことを話す。
「今度、私が先輩側に入る時は」
ユウコ。
「もっとちゃんと周り見ます」
「今も見られてるわよ」
エリン。
「もっとです」
「なら頑張りなさい」
「はい」
「私は」
ナツキ。
「医療対応をもう少し勉強したいです」
「いいんじゃない?」
「エリンさん、今度見てください」
「もちろん」
「私も!」
クミコ。
「何を?」
「全部です!」
「広すぎる」
笑い。
「エリンさん」
ミラが。
少し離れた席から呼ぶ。
「何?」
「今日は」
一度。
周囲を見る。
「いい夜ですね」
エリンも。
同じように。
皆を見る。
酔って。
少し声が大きくなっている子。
顔が赤い子。
水を飲みながら。
楽しそうに話を聞いている子。
いつもより笑っているラン。
若い子達に昔の失敗を暴露されそうになって困っているシルヴィア。
そして。
少し前まで。
珍しく静かな顔で。
自分の本音を話していたホーネット。
「そうね」
エリンは。
ゆっくり頷いた。
「いい夜ね」
◇
端末が。
小さく震えた。
メールの返信。
一件。
また一件。
ハワード財閥旅行会社。
ガーネット。
マユミ。
フレデリック。
フレイ。
ペルシア。
リュウジ。
そして。
サラ先生。
今すぐ読む必要はない。
エリンは。
一度だけ画面を見る。
それから。
端末を伏せた。
「読まないの?」
ホーネットが聞く。
「後で読む」
「珍しい」
「何が?」
「エリン、仕事の連絡すぐ見るじゃん」
「今日は」
一度。
皆を見る。
「こっちが先」
ホーネットが。
少し目を丸くする。
そして。
嬉しそうに笑った。
「じゃあ」
グラスを持ち上げる。
「もう一回!」
「何?」
「乾杯!」
「まだするの?」
「最後の!」
「さっきも最後って聞いた気がする」
「細かいこと言わない!」
皆が。
また。
グラスを上げ始める。
エリンは。
困ったように笑いながら。
自分のグラスも。
少しだけ持ち上げた。
「それじゃあ」
ホーネットが言う。
「スペースホープに!」
「乾杯!」
グラスが触れ合う。
暖かい音。
笑い声。
料理の匂い。
店のざわめき。
ほんの少し前まで。
TOP10に入れなかったと。
皆で落胆していた。
でも。
今は。
それよりずっと大事なものが。
この場にはあった。
スペースホープは。
まだ完成していない。
足りないものもある。
失敗もする。
来年。
本当にTOP10へ入れるのか。
誰にも分からない。
それでも。
今日。
ここまで進んできたことを。
皆で喜べる。
互いの成長を。
言葉にして伝えられる。
弱音を吐いても。
笑って受け止めてもらえる。
そして。
明日になれば。
また。
一便ずつ。
一人ずつ。
目の前のお客様へ向き合っていく。
エリンは。
その輪の中で。
静かに笑っていた。
自分が作った会社ではない。
自分一人で立て直した会社でもない。
色々な人から。
少しずつ力を借り。
今ここにいる皆が。
それぞれのやり方で支えてきた会社。
だから。
この賞も。
きっと。
誰か一人のものではない。
「エリン」
「何?」
「今日くらいは、仕事のこと忘れなよ」
ホーネット。
エリンは。
少しだけ考え。
「そうね」
今夜だけ。
本当に。
そうすることにした。
「今日くらいはね」
そして。
スペースホープの受賞祝いは。
遅い時間まで。
暖かい笑い声に包まれて続いていった。