夜風が甲板を撫でる。
ロウソクの火が消え、代わりに月光が静かに照らしていた。
先ほどまで笑い声に包まれていた空間は、今は潮の匂いと波音だけが支配している。
ルナはまだ少し名残惜しそうに、甲板の中央に残る足跡と汗の跡を見つめていた。
その横には、二人の戦いの余韻がまだ漂っているようだった。
ふと、見張り台の階段の影から人影が現れる。
「……まだ起きてたのか」
リュウジだった。
髪が少し乱れ、袖口には包帯の隙間から血が滲んでいる。
「……やっぱり、怪我してる」
ルナが眉を寄せて近寄る。
「たいしたことない」
いつもの調子でリュウジは肩をすくめようとした。
しかし、ルナの手がそれを止める。
「ダメ。放っておくと化膿するかもしれない」
ルナの声は柔らかいが、有無を言わせない強さがあった。
彼女はしゃがみこみ、リュウジの腕を取る。
細い指が袖をまくり上げ、擦り傷の赤みが露わになる。
⸻
「……ちょっと、しみるかも」
ルナが濡らした布を優しく当てると、リュウジは顔をしかめた。
「いてっ……」
「ほら、言ったでしょ?」
ルナがくすっと笑う。
その笑みは、少しだけ昔のルナに戻ったようで――
リュウジは、思わずその横顔を見つめていた。
「どうかした?」
「いや……お前、やっぱり強いなって思って」
「え?」
「みんなの前であんなことがあっても、ちゃんと笑って、みんなを支えて。……たいしたもんだ」
ルナは手を止め、少し俯いた。
「……私、強くなんかないよ」
「強いさ」リュウジは即答した。
「怖くても、迷っても前に立つ奴が、本当に強いんだ」
その言葉に、ルナの胸が少し熱くなった。
夜風の冷たさが、逆にそれを際立たせるように感じる。
⸻
ルナの笑みが、少しだけ苦い。
「私が落ちたとき、リュウジ……自分を責めたんだよね」
リュウジは目を逸らし、海の黒へ視線を投げた。
波が割れて、月が砕ける。
「……ああ。操縦桿を握ってたのは俺だ。言い訳はしたくない」
ルナは小さく首を振る。
「誰か一人に全部の責任を背負わせたら、結局、あの時と同じ。リュウジが一番それを知ってるでしょ」
リュウジがのぞき込む。
ルナは一瞬ためらい、胸の底の重石に触れるように言った。
「……ナノマシンのこと、怖いよ。自分の身体なのに、自分じゃないみたいで。明るく言ったけど、ほんとは、震えてる」
「怖いと言えるうちは、まだ大丈夫だ」
「どうして?」
「恐怖を認めて握れるやつは、制御できる。訓練で教わった」
「それは宇宙飛行士の話でしょう」
「そうだがな。……それに、お前は一人じゃない」
不器用な掌が、ためらいがちに髪の上に乗った。
ポン、ポン。
脱獄囚の時に言ったのと同じ調子で、でも今夜のほうが、ほんの少しだけ優しい。
「よく頑張ったな」
「……ずるい」
ルナは笑いながら、目尻を指でぬぐった。いつの間にか、にじむものがあった。
「ねえ、リュウジ」
「ん」
「今日、みんなが劇をやってくれたでしょ。リュウジとカオルは模擬戦を。私、途中でね、怖いのが少し消えたの。ああ、私、本当に守られてるって。……だから言わせて」
ルナはまっすぐ彼を見た。
「ありがとう。私、あなたに助けられてばかりだ。――でも、これからは私も、あなたを支える。勝手に前に出てぜんぶ背負おうとしたら、止めるから」
「頼もしいな」
「でしょ?」
二人で、同じ星の群れを見上げる。
海面に散った光が、呼吸に合わせてかすかに揺れた。
「あ、扉、また殴ったらダメだからね」
「気をつける」
「約束」
「……ああ。約束だ」
リュウジが立ち上がる。肩の痛みでわずかに顔をゆがめるのを、ルナは見逃さない。
「もう少しだけ座ってて」
ルナは自分の上着を脱ぎ、そっと彼の肩にかけた。
「夜は冷えるよ」
「お前のほうが寒いだろ」
「私は平気。ほら、ナノマシンがあるから」
冗談めかして、でも声はふわりとやわらかい。
リュウジが息で笑う。短く、けれど確かに。
甲板の端、波音が少し強まる。
遠くでハワードのいびきが途切れ、また規則正しく始まった。
見張り台には淡く光の輪がかかり、ロープが月明かりを吸う。
「明日も、穏やかに進むといいね」
「進ませる。――俺が」
「頼りにしてる」
「……お前もな」
沈黙が落ちる。けれどそれは、気まずさではなく、安心の重みだった。
言葉にしなくても通じるものが、たしかにそこにあった。
「おやすみ、リュウジ」
「おやすみ、ルナ」
ルナが立ち去る足音が、板目に吸いこまれていく。
リュウジは肩の上の上着を握り、包帯の結び目を指先で確かめた。
夜風が一度だけ強く吹いて、やがて静まる。
星は変わらず、その場にあった。
オリオン号は、ごくわずかに軋みながら、まっすぐに大陸の方角へ滑っていく。
二人の約束を、甲板が、海が、空が聴いていた。
⬜︎
カモメの声が遠くで響いた。
夜の終わりを告げるように、東の空が少しずつ群青から橙へと色を変えていく。
静寂の中、甲板に響く軽快な音――コン、コン、コン――。
「おい! 起きろって!」
ハワードの叫びが見張り台から降ってきた。
寝室で丸まっていたシンゴが目を擦りながら顔を出す。
「なんだよ、朝っぱらから……」
「いいから、早く来いって! みんな! 早く!!」
その声に、寝ぼけ眼のシャアラやアダム、ベル、メノリまでもが次々と甲板に出てくる。
「どうしたんだ?」とカオルが声を上げると、
ハワードは見張り台の上で、涙を浮かべたまま、震える指で前方を指した。
「……前を、見ろよ!」
その言葉に、全員が視線を前へ向けた。
⸻
目の前に広がるのは、果てしない海――
……ではなかった。
朝陽を受けて金色に輝く陸地。
岩肌が、森が、砂浜が、陽に照らされてまぶしく光る。
見慣れた無人島の風景とは違う、はるかに広大な――「大陸」。
「う、うそ……」とシャアラが呟いた。
「ほんとに……陸だ!」
シンゴが声を上げ、アダムがぱっと両手を広げた。
「やったぁぁぁぁ!!!」
ベルが拳を握りしめ、感極まった声で言った。
「見てみろよ……ずっと向こうまで続いてる! 本物の大陸だ!」
ルナは両手を胸に当て、震える声で呟いた。
「やっと……辿り着いたんだね……」
その言葉をきっかけに、みんなの頬に涙が浮かんだ。
この旅路で失ったもの、乗り越えた夜、嵐、そして希望。
それら全てがいま、報われた瞬間だった。
⸻
一方、操縦室。
リュウジとチャコも同じ景色を見つめていた。
操縦席の窓から差し込む朝陽が、計器のパネルを黄金色に染めていく。
チャコはモニターに映る地形データを見て、目を丸くした。
「間違いない、この先、陸地や!」
「……やっとか」
リュウジの口元に、微かに笑みが浮かぶ。
チャコはその表情を見て、ふっと尾を揺らした。
「長かったなぁ。よくまぁ、ここまでたどり着いたもんや」
「お前がいてくれたからな」
「お、おう? いきなり何やねん、照れるやんか」
「それと……みんなも、よく頑張った」
リュウジの声は穏やかだった。
あの冷たい口調ではなく、柔らかい風のような響き。
チャコは笑いながら、モニター越しに前方を見つめた。
「ほんまやな……これが、新しい世界か」
「そうだ。ここからが本当のサバイバルだ」
リュウジが操縦桿を静かに押し、オリオン号は大陸の海岸線へと向かって滑っていく。
外では、仲間たちの歓声が響き続けていた。
その声を聞きながら、リュウジは小さく呟いた。
「――よくやったな、みんな」
⸻
無線では、ルナの声が聞こえてくる。
「見て、リュウジ! 本当に着いたよ!」
リュウジは思わず窓の外を見上げ、
柔らかな笑みを浮かべた。
潮風が帆を揺らし、オリオン号は静かに砂浜へと近づいていく。
誰もが言葉を失い、ただその景色を見つめていた。
――ここが、新しい旅の始まり。
⬜︎
陽はすでに高く昇り、海面が黄金色に輝いていた。
波は穏やかに、オリオン号の船首を撫でるように寄せては返している。
操縦室では、リュウジが真剣な眼差しで前方を見つめていた。
大陸は、ただの平地ではなかった。海岸線のすぐ奥には巨大な断崖が連なり、
まるで壁のように彼らの前に立ちはだかっていたのだ。
「……すごいな。まるで要塞みたいだ」
リュウジが低く呟く。
隣でチャコがモニターを覗き込みながら、口笛を吹いた。
「ほんまやな。あんな崖、登るんはちょっと骨が折れそうや」
「どこか、入り口になりそうな場所を探す」
リュウジが操縦桿を少し倒し、船の進路を南に取る。
チャコは頭を傾け、船外カメラの映像を切り替えた。
「……ん? あそこ見てみ。北のほうに川が流れとる。あれなら、内陸に繋がっとるかもしれん」
「川、か……なるほどな」
リュウジの声にわずかに希望が混じる。
その時、背後から軽い足音が響いた。
振り返ると、ルナが息を弾ませて立っていた。
「ねえ、見た? すごいね! 本当に、陸がある!」
目を輝かせるルナに、チャコはニヤリと口元を上げた。
「おっ、ルナ。まるで遠足前の子どもみたいやな。なぁリュウジ?」
「……おい、からかうな」
リュウジは苦笑しながら操縦桿に目を戻す。
「いいじゃない、チャコ。こんな気持ち、久しぶりなんだもん」
ルナはガラス越しに広がる大陸を見つめていた。
海の向こうに見えるその断崖は、まるで新しい冒険への門のようだった。
「なぁ、リュウジ。さっき言うた川、北のほうにある。あそこを上れば、中に入れると思うで」
チャコが操作盤を指でなぞり、地図データを表示する。
「確かに……潮の流れも穏やかだ。いけるな」
「じゃあ決まりね!」
ルナが勢いよく言うと、リュウジとチャコは顔を見合わせた。
「ほんま、ルナは迷いがないなぁ」
「それが、あいつの強さだ」
「なんや、ちょっと照れくさい言い方やん?」
チャコの茶化しに、リュウジは鼻で笑いながら操縦桿を前に押した。
「よし、北に進路を取る。川沿いに入って、上陸地点を探すぞ」
オリオン号のエンジンが再び低く唸りを上げる。
海風が帆を膨らませ、船体がゆっくりと旋回していく。
朝陽に照らされた船影が波に伸び、
彼らの新しい旅路を指し示すように、まっすぐ北の大地へと進んでいった。
⬜︎
オリオン号は北の川沿いをゆっくりと進み、やがて水流が途切れた先に、岩場の広がる岸辺が見えてきた。
ごつごつとした黒い岩が、波に打たれて白く泡立つ。海風が強く、塩の香りが鼻を刺した。
操縦席の中、チャコがモニターを見ながら口を開く。
「リュウジ、この辺りがええんちゃうか? 水深も浅いし、岩は多いけど、上陸はできそうや」
「……ああ、ここならいける」
リュウジが頷くと、操縦桿を慎重に操作し、重力制御ユニットを微調整する。
オリオン号の底部が水面に触れ、金属のきしむ音が響く。
波が船体を押し上げ、軽く揺れながら静かに岩の上へと乗り上げていった。
「よし……停止完了」
チャコがモニターを確認しながら言う。
「オリオン号、ついに大陸上陸や!」
リュウジはゆっくりと息を吐き、操縦席から立ち上がった。
⸻
甲板に出ると、ルナがすでにそこにいた。
潮風が髪を揺らし、目の前に広がる岩の大地を見つめている。
「すごい……これが、大陸……」
その声は震えていたが、確かな実感がこもっていた。
「ずっと遠くから見てただけなのに、こうして立つと本当に……現実なんだね」
リュウジは無言で頷き、岩場を見渡す。
「足場は悪いが、安定はしてるな。少し奥に入れば平地もありそうだ」
「なら、あっち側に拠点を置くのがええな」
チャコが尾を揺らしながら指を差す。
「……リュウジ」
ルナが小さく呼ぶ。
「ん?」
「ねえ、ありがとう。ここまで……連れてきてくれて」
リュウジは少しだけ笑みを浮かべ、視線を空へ向けた。
「礼を言うのはまだ早い。これからが本番だ」
「硬いこといいなさんな。ほらルナ、せっかくリュウジが頑張って操縦したんやから、もうちょい褒めてええと思うで?」
チャコがからかうように言う。
ルナは頬を赤らめ、目を逸らした。
「……もちろん、リュウジ。すごく頼りになったよ」
「なんや、言わせてるみたいやな」
「うるさいぞ、チャコ」
そう言ってリュウジが軽く頭を小突くと、チャコが「いたたた!」と声を上げる。
その様子に、ルナの笑顔が少しだけ戻った。
⬜︎
オリオン号は岩場に静かに身を預けていた。
波が岩肌を叩き、乾いた潮の香りが風に混ざる。
空は澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れていた。
甲板に全員が集まっていた。
ルナが前に立ち、振り返って仲間たちに目を向ける。
その表情には、緊張と期待が入り混じっていた。
「……行こう。これが、私たちの新しい一歩だよ」
ルナがそう言うと、チャコが甲板の手すりから身を乗り出して笑った。
「気ぃつけてや、岩場はツルツルやで。滑ったら海の中まっしぐらや!」
「チャコ……脅かさないでよ」とシャアラが苦笑する。
その声に少し場の空気が和らいだ。
ルナが先に縄梯子を掴み、慎重に岩へと降りていく。
波しぶきが頬に当たり、少し冷たい。
両足で岩を踏みしめた瞬間――ルナの胸の奥に熱いものが込み上げた。
「ついに……着いたんだ……」
その声を聞き、次に降りてきたリュウジが静かに頷いた。
「この岩……長い年月、風と潮に削られてるな。人の足跡はない」
「つまり、ここは……誰も踏み入れたことのない地ってことか」
メノリが眼鏡の奥から岩肌を見つめる。
科学者のような瞳の奥にも、確かな感動があった。
ハワードが岩に降り立ち、両腕を広げて叫んだ。
「うぉぉぉ! 俺たち、やったんだな!!」
「ハワード、うるさいって!」とチャコが笑う。
「いいじゃない、たまには素直に喜んだって!」
ルナが笑いながら言うと、みんなも自然と笑みを浮かべた。
⸻
ベルが岩を叩いて「しっかりしてるな」と呟き、
アダムは裸足で岩に立ち、潮の音に耳を傾けていた。
「この音……なんだか懐かしいね」
「そうだね、アダム。海の音は、どんな星でも同じなのかもしれんな」
ベルが優しい声で答える。
その隣では、シンゴが岩に膝をつき、サンプルを採取していた。
「塩分濃度が高いな……でも、このあたりなら真水も近くにあるかも!」
「さすがやな、シンゴ。調べるんも早いわ」とチャコが感心したように言う。
シャアラは岩の隙間に小さな花の芽を見つけ、そっと指を伸ばした。
「見て……生きてる……ちゃんと、ここにも命があるのね」
ルナはその小さな芽を見つめ、微笑んだ。
「そうだね……生きてる。この星の中で、また新しい世界が始まるんだね」
ルナが空を見上げる。
朝の光が岩肌を照らし、海の向こうには小さくオリオン号の帆が光っていた。
「さあ、行こう。
ここから――私たちの新しい冒険が始まるんだから」
風が彼女の髪を揺らし、みんなの背中を押すように吹き抜けていった。
その先に広がるのは、未知の大陸。
そして、希望に満ちた、新たな物語の幕開けだった。
⬜︎
岩場を越えた先には、茶色の大地が広がっていた。
乾いた風が吹き抜け、遠くには奇妙な形をした植物群が点在している。
空には鳥のような影が二、三羽舞い、海からの潮風と土の匂いが混じっていた。
ルナは深呼吸をして、その大地の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……この星の匂い、少し懐かしいね」
「そうね、どこか温かい感じがする」
隣に立つシャアラが、微笑んだ。
⸻
「ここなら潮の流れも悪くない。魚も寄ってくるだろう」
カオルとベルが岩場に座り、釣り糸を垂らす。
リュウジは隣で仕掛けを整えながら、ちらりとカオルの手元を見た。
「ずいぶん慣れたな」
「何ヶ月サバイバルをやってると思ってるんだ」
「まあな」
ふたりの間に流れる沈黙は、以前のような緊張感ではなかった。
海風に混じる塩の香りと、リールの音だけが心地よく響く。
「……ルナ、少し元気戻ってきたみたいだな」
リュウジの言葉に、カオルは釣竿を揺らしながら頷く。
「お前が言った船上パーティ、悪くなかった。いい判断だった」
「そう思うなら、今度はお前が笑わせてやれ」
「俺はそういうタイプじゃない」
リュウジが苦笑し、カオルも口元を緩めた。
その瞬間、釣竿が大きくしなった。
「来たぞ!」
リュウジが声を上げ、カオルが一気に竿を引き上げる。
海面から銀色の魚が飛び出し、太陽の光を反射してきらめいた。
「でかいな……!」
「みんなが喜びそうだな」
ベルの言葉に、カオルは一瞬だけ視線を彼に向け、黙って笑った。
⸻
ルナとシャアラは、岩場を離れて少し内陸に進んでいた。
足元は乾いた砂と細かな石が混じり、遠くにはトゲトゲしい植物が並んでいる。
「ねぇ、あれ見て。サボテンみたい」
ルナが指さす先には、丸く膨らんだ緑色の植物が太陽に照らされて輝いていた。
「ほんとだ……でも、触ると危ないかも」
「大丈夫。トゲが柔らかい。……これなら、食べられるかも」
ルナはナイフで慎重に表面を削り、内部の透明な果肉を取り出した。
「わぁ……みずみずしい!」
「少し味見してみるね」
シャアラが指先で少し掬って口に含む。
「……少し酸っぱいけど、食べられそう」
「よし! これを刻んで、果物と混ぜたらサラダにできるかも!」
ルナは嬉しそうにリュックから容器を取り出し、
採取した果肉を詰めていく。
その表情は、まるでかつての元気なルナそのものだった。
「ねぇ、シャアラ」
「なに?」
「きっと、ここでもちゃんと生きていけるね」
「うん……ルナがいれば、大丈夫だと思う」
シャアラの言葉に、ルナは少し照れたように笑い、
またサボテンの果肉をひとつ摘み取った。
⸻
その頃、メノリとハワードは岩の隙間を抜け、平らな地形を進んでいた。
風が強く、服の裾をはためかせる。
「しかし……なんという場所だ」
メノリが果てしなく広がる大地に眉をひそめる。
「まるでこの大陸自体が、生きてるみたいだな」
「生きてる?」
「ほら、見ろよ。地面が脈を打ってる……って言ったら信じるか?」
「ハワード、冗談を言う暇があるなら食料を探せ」
「冗談じゃないって! なんで僕が――」
ハワードがダチョウのような動物を遠くに見つけた。
「……あれ、食べられるかもしれない」こりゃ、面白くなってきたな」
「ハワード、勝手に動くな!」
「わーってるって!」
そう言いながらも、ハワードはどこか楽しそうに笑っていた。
⸻
船の近くでは、アダムがパネルの内部を覗き込み、何かを繋いでいた。
「チャコ、ここエネルギーの流れが不安定だよ!」
「わかっとる! そこを左に、ちょいと押さえてみ!」
「こう?」
「そうや!」
ピッ――と音がして、計器の光が安定した。
「よし、これで電力は戻ったね!」
シンゴが声を上げる。
「ふぅ……これで、ルナたちが帰ってきても照明が使える」
「アダム、偉いで!」
チャコが頭を撫でると、アダムは嬉しそうに笑った。
「ボク、がんばった!」
⬜︎
昼の陽射しが、乾いた岩の表面を白く照らしていた。
一度、皆んなはオリオン号に戻っていた。
照り返す熱気に、ルナは思わず手のひらで額の汗を拭う。
「うーん、今日は暑いね……」
「このあたり、風が通らないからな」
リュウジの言葉に、ルナも頷いた。
「あれ?カオルとベルは?」
一緒に釣りに行ったのに、今ここにいるのはリュウジだけという事にルナは首を傾げた。
リュウジは軽く笑みを浮かべて、自分が歩いてきた道のりに視線を向けた。
「あの二人なら、もう少し魚を釣ってくるそうだ」
そのときだった。
ハワードが突然、小声で呼びかけた。
「おい、みんな。ちょっとこっち来てみろよ!」
彼は岩の窪みにしゃがみ込み、指で「静かに」と合図する。
ルナたちは不思議そうに顔を見合わせながら近寄った。
「何? 何か見つけたの?」
ルナが囁くと、ハワードは口元に笑みを浮かべ、岩の陰をそっと指さした。
「いいから見てみなって……驚くぞ」
ハワードの呼びかけで、集まったルナとメノリ、チャコ、シャアラ、リュウジ、アダム、シンゴ。みんなが岩陰から顔を出す。
――そこには、二羽の大きな鳥のような生き物がいた。
体高は人間の背丈ほどもあり、長い脚と首。羽は淡い橙色で、どこか優しい印象を与える。
地面には、ふわふわした小さな雛が三羽。親鳥がくちばしで雛の羽を整え、雛たちは甘えるように鳴き声を上げていた。
その光景は、まるで地球の草原で見る家族のようだった。
「……すごい。あれ、ダチョウに似てるけど、この星の生き物なんだね」
ルナの声は驚きと感動に満ちていた。
「せやけど、なんかええ光景やなぁ。おかんが雛を守っとるんやで」
チャコが目を細める。
「本当だね……愛情って、どんな星でも同じなんだ」
シャアラも穏やかに微笑んだ。
そのとき、ハワードが小声で笑う。
「なあ……あのサイズなら、肉もたっぷり取れそうだろ? 最初は狙おうと思ったんだけど」
みんなが同時にハワードを睨む。
「ちょっと! そんなこと言わないでよ!」
ルナが眉をひそめる。
ハワードは両手を上げて降参のポーズを取った。
「話を最後まで聞けよ!……ああいう親子を見たら、流石の僕も狙うのをやめたよ」
その声には、少しの優しさがにじんでいた。
「僕、ほしい」
アダムがぽつりと呟いた。
「え?」
「僕、あの子たち……かわいい。いっしょに暮らしたい」
その無垢な言葉に、みんなが少し笑う。
「アダム、ペットじゃないんだ。あの子たちはこの星の自然の中で生きてる」
メノリが穏やかに言う。
ルナはそんなやりとりを聞きながら、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。
あの親子が寄り添う姿――自分にはもうない「家族」の記憶が、ほんの一瞬、頭をよぎったのだ。
その瞳が、ほんの少し寂しげに光る。
そんな静かな時間を破ったのは、ハワード自身だった。
「っと、うわっ!」
足を滑らせた彼が、岩肌に手をついた拍子に小石が転がり落ちる。
カラン……と乾いた音が響いた瞬間、親鳥の首がぐるりとこちらを向いた。
大きな黒い瞳が、鋭く光る。
「バカ!!」
メノリの叫びが響く。
「わ、わ、やばいぞ……!」
「逃げるわよ!」
ルナが叫ぶと同時に、全員が一斉に走り出した。
「ちょ、待て待て! 本気で追ってきてるって!!」
ハワードが悲鳴を上げる。背後では「ドドドドッ」と地面を蹴る音。
親鳥が驚くほどの速さで追いかけてきていた。
「うっそやろ!? ウチ、こんなん聞いてへん!!」
チャコが全力で走りながら叫ぶ。
「ハワード! あんたのせいや!」
「僕のせい!? いや、まあ、そうなんだけど!」
「文句は後にしろ! 今は逃げるぞ!!」
メノリの声が風に乗る。
砂煙の中を、みんなが必死に駆け抜ける。
だが次の瞬間――。
「うわっ!」
アダムが足を取られ、地面に倒れた。
「アダム!!」
ルナが叫んで振り向いた。
その時、リュウジがすでに動いていた。
迷うことなくアダムの腕を取り、軽々と抱き上げる。
「逃げるぞ!」
短く言い放ち、ルナの横を駆け抜けた。
風が唸り、砂が舞う。
リュウジの腕の中でアダムが驚いた顔をしていたが、恐怖よりも安心の色が濃かった。
ルナは必死で並走しながら叫ぶ。
「もう少し! あの丘を越えたら!」
しばらく走り続け、やがて足音が途絶える。
振り返ると、親鳥たちは巣の方へ戻っていくところだった。
「……ふぅ、やっと諦めたみたいだな」
リュウジが息を整えながら言う。
彼はそっとアダムを降ろし、目線を合わせた。
「怪我は大丈夫か?」
「う、うん……ちょっと転んだだけ」
アダムはそう言ったが、手のひらには赤く擦り傷が広がっていた。
「これは結構いたそうやなぁ……」
チャコが覗き込みながら言う。
ルナも膝をついてアダムの手を包んだ。
「痛くない?」
「だいじょうぶ……僕、平気だよ」
アダムは笑顔を作るが、目にうっすら涙が浮かんでいる。
リュウジが静かにその手を見つめ、短く言った。
「戻ったら、消毒してやる」
「はーい!」
アダムが少し照れくさそうに笑うと、ルナも安堵の笑みを浮かべた。
「まったく、誰かさんが騒ぐからこうなるんだ」
メノリがジト目でハワードを見る。
「仕方ないだろう! でもさ、結果的にいい運動になったろ?」
「運動ちゃうわボケ!」
チャコが即座にツッコミを入れる。
シンゴが苦笑しながら言った。
「まあでも、こうして無事でよかったよね。あの鳥、意外と速かったなぁ……」
シャアラも頷く。
「でも……なんだかあの親鳥、怒ってたというより、雛を守ろうとしてたように見えたわ」
ルナはその言葉に小さく頷き、遠くの空を見つめた。
「……そうだね。親って、どんな星でも強いんだね」
静かな風が、岩の間を抜けていった。
その音は、まるでさっきの親鳥の鳴き声のように、優しく響いていた。
⬜︎
西の空が赤く染まり、薄暗い大陸の影が静かに伸びていく。
昼の騒動のあと、仲間たちは拠点へ戻り、それぞれの役割をこなしながら夕食の準備を進めていた。
焚き火の上では、チャコが木の杓文字を手にして鍋をかき混ぜている。
風に乗って、香ばしい香りが漂った。
「ふっふ~ん♪ 今日のスープは“サボテンの実と魚の絶妙ブレンド”や!」
チャコの鼻歌交じりの声が、周囲の空気を和ませる。
「昨日も似たようなこと言ってた気がするけどな」
カオルが呆れたように笑いながら腰を下ろした。
「そりゃあ、昨日のは“やや失敗作”やったんや。今日はリベンジや!」
「“やや”どころじゃなかったけどね」
ハワードが頬を引きつらせながらぼそっと呟く。
「なにか言ったか?」
「な、なんでもないよ!」
「そやろな!」
チャコの目が細くなり、ハワードは慌ててスプーンを手に取った。
その隣で、ベルが静かに笑っていた。
「ふふ……賑やかだね。こうしてみんなで食卓を囲めるの、悪くないな」
彼は手慣れた手つきで魚の串焼きを裏返しながら言う。
「ベル、それ焦げてるぞ」
カオルが指摘すると、ベルは肩をすくめて答えた。
「焦げ目がいいんだよ、カオル。香ばしさが増すんだ」
「……理屈はわかるが、加減ってものがあるだろ」
そのやり取りに、シンゴが笑いながら割って入る。
「でもベルの焼いた魚、おいしいんだよ! 前に食べたときも外カリッで中ふっくらだったし!」
「お、わかってるね、シンゴ」
「おだてても追加の魚は出さないからな」
カオルが冷静に釘を刺すと、焚き火の周囲に笑い声が広がった。
⸻
一方その少し離れた場所では、ルナがアダムの手に包帯を巻き終えたところだった。
消毒の匂いがほんのり漂い、リュウジが横で確認するように覗き込む。
「よし……これでいい。もう動かすなよ」
「うん、ありがとう」
アダムは嬉しそうに微笑んだ。
「えらかったね、アダム」
ルナが頭を撫でると、アダムは少し照れくさそうに笑う。
リュウジは黙って立ち上がり、包帯を片付けるルナをちらりと見た。
「……ルナ、手当て上手いな」
「え? あ、ありがと。昔お父さんに教わったの。旅に出るとき、ケガの手当てくらいはできるようにって」
「……そうか」
短い会話だったが、どこか穏やかな間が流れた。
ルナはリュウジの横顔を見つめながら、小さく笑う。
(前よりずっと、優しい表情をしてる……)
外からチャコの声が響いた。
「ルナ~! リュウジ~! アダム〜!スープできたでぇ~!」
「うん、今行く!」
ルナが返事をして立ち上がる。アダムもそのあとを小走りで追った。
⸻
焚き火のそばでは、みんながすでに輪になって座っていた。
スープの湯気が立ち上り、橙色の光に包まれている。
シャアラは膝にノートを広げ、今日の植物観察の記録を書き込んでいた。
「この大陸の植物、まだまだ未知のものが多いわね。根に水分を蓄えるタイプが多いみたい」
「乾燥地帯やからやろな。ウチも成分分析してみよか?」
「お願い。できればサンプルを明日の朝もう少し採りたいわ」
「任せとき!」
メノリは地図を広げながら、明日の行動計画を確認していた。
「明日は北側の崖を越えた先まで調べてみたい。あの辺り、平原が続いているのが見えたからな」
「あそこは風が強い。滑落の危険もある」
カオルが慎重に言うと、メノリは頷く。
「分かっている。リュウジとカオル、二人が先行して地形を確認してくれないか?」
「了解。無理はしない」
「ああ」
リュウジの短い言葉に、メノリは小さく笑った。
「ええ、頼りにしてる」
そんな話を聞きながら、ハワードが魚を口に運ぶ。
「いやぁ、しかし今日はいろいろあったな。まさかダチョウみたいな奴らに追いかけられるとはな!」
「ハワードのせいやろ!」
チャコが即座にツッコミを入れる。
「まぁまぁ」
ベルが穏やかに笑って言うと、メノリが頷いた。
リュウジはその言葉に目を伏せ、焚き火の炎を見つめた。
ルナはそんな彼の横顔を見つめ、胸の奥で何かを感じ取った。
そのとき、アダムが明るい声で言った。
「でも、みんなで逃げたの、ちょっと楽しかったね!」
「アダム、転んでたじゃん!」
シンゴが笑いながら突っ込み、チャコが続ける。
「せやけど、リュウジがかっこよかったで~。映画のヒーローみたいやったわ!」
「変なこと言うな」
リュウジが苦笑し、ルナの顔が少し赤くなった。
「ふふ……ほんと、頼もしかったけどね」
彼女の言葉に、火の粉が一つ、夜空へ舞い上がる。
⬜︎
夜の大地は、昼の熱をすっかり失っていた。
砂と岩の間を通る風は冷たく、オリオン号の外壁を静かに撫でていく。
その夜、仲間たちは疲れ切って寝静まっていた。
機体の中からは穏やかな寝息が聞こえ、唯一、外で焚き火がぱちぱちと音を立てている。
その前に座っていたのは、リュウジだった。
炎の光が彼の横顔を照らし、影がゆらめいている。
瞳の奥では、燃える炎を映したまま、何かを遠くに見ているようだった。
「……リュウジ?」
静かな声が、夜気を揺らした。
振り向くと、ルナがオリオン号の陰から現れた。
薄手の上着を羽織り、髪が月明かりに透けている。
「何してるの? 眠れないの?」
リュウジは小さく笑って首を横に振った。
「ただ……座ってただけだ。大地の匂いを嗅ぐのが、久しぶりだからな」
そう言って焚き火の棒を突きながら、炎の揺らめきを見つめる。
ルナはその隣にゆっくり腰を下ろした。
焚き火が二人の間に光の輪を描く。
「……今日のダチョウの雛、かわいかったね」
ルナが柔らかく笑う。
「あの小さいの、親の足の間で丸くなって……」
言いながら、彼女の表情はどこか遠くを見つめていた。
「家族って、いいものだね」
その一言に、リュウジが少しだけ目を細めた。
風が吹き、焚き火の火の粉が宙に舞う。
「……今じゃ、みんなが家族みたいなもんだろ」
小さく、だが確かな声でリュウジが言った。
ルナは一瞬、驚いたように彼を見つめた。
焚き火の赤い光が、彼の瞳を優しく照らしている。
やがて、ルナの口元に穏やかな笑みが浮かぶ。
「……うん」
その笑顔は、炎の揺らめきよりも温かかった。
少しの沈黙のあと、ルナが小さく口を開いた。
「ねえ、リュウジのご両親って、どんな人だったの?」
彼は一度、炎を見つめたまま黙り込む。
やがて、穏やかな声で答えた。
「さあな。物心ついた時には、もう二人とも死んでたから」
焚き火の音だけが響く。
ルナはハッとして、すぐに小さく頭を下げた。
「……ごめん、そんなつもりじゃ……」
「気にするな。別に、悲しい話でもない」
リュウジは静かに笑った。
その笑顔は、どこか懐かしさを帯びていて、ルナの胸が少し締めつけられる。
そして――ルナは無意識に、心の奥からこぼれるように言葉を口にした。
「……もし、また誰かと家族になれるなら……きっと、リュウジみたいな人がいいな」
その言葉が夜気を震わせる。
ルナ自身、何を言ったのかに気づいた瞬間、頬が熱くなった。
リュウジがわずかに目を見開く。
だが、何も言わず、ただ静かに火を見つめていた。
彼の唇が、何か言おうとしてわずかに動いたその時――。
「ルナ! リュウジ!」
甲板の方からシャアラの声が響いた。
ルナは弾かれたように立ち上がる。
「どうしたの!?」
「アダムが……! アダムがすごい熱なの! 早く来て!」
シャアラの声は切羽詰まっていた。
リュウジとルナは顔を見合わせ、すぐに頷いた。
「行こう」
「ええ!」
二人は焚き火のそばから駆け出し、オリオン号の中へと走り込む。
炎の灯りが背後で揺れ、夜風に消えていく。
静かな夜の大地に、再び緊張が走ろうとしていた。
⬜︎
夜の静寂を裂くように、オリオン号の内部には小さな息遣いが響いていた。
外では風が砂を運び、壁面をさらさらと撫でる。
しかし機体の中は、重たい熱気と焦りに包まれていた。
簡易ベッドの上、アダムの顔は赤く染まり、額には汗が滲んでいる。
ルナはその傍らにしゃがみ込み、濡らした布を彼の額に当てながら必死に声をかけていた。
「アダム……大丈夫? わたしの声、聞こえる?」
だが、アダムは荒い呼吸を繰り返すだけで、目を開ける気配はない。
彼の胸が上下するたびに、小さな呻きが漏れた。
「アカン……! こら、ヤバいで!」
チャコがセンサーをかざし、測定値を見て目を見開いた。
「熱が四十度あるで!!」
「よ、四十度!?」
メノリが思わず声を上げる。
「そんなに……」
シャアラは顔を覆い、ルナの隣にひざまずいた。
「アダム、大丈夫よ……もう少し頑張って」
その手は震えていた。
その横で、シンゴが工具を抱えたまま立ち尽くしている。
彼の視線は機体の計器盤とアダムを交互に行き来していた。
「どうすれば……何か、冷やす方法は……」
「シンゴ落ち着け」
リュウジの冷静な声が響いた。
それでも彼の表情は硬い。
その背後で――。
ひとり、ハワードは寝袋にくるまったまま、「……も、もう食べられない……」と寝言を漏らしていた。
「ハワード、今だけはほんま静かに寝といてや……」
チャコが呆れながらも小声で呟く。
メノリが小さく息をつきながら呟いた。
「薬草か……何か自然の薬があればいいんだが……」
「しかし、この辺りは岩場だ。植物なんてほとんど見かけなかった」
カオルが低く呟いた声が、重たい空気の中に沈む。
「……アダム、大丈夫よ。みんながいるから」
シャアラがそっとアダムの手を握りしめた。
その小さな指が微かに震える。
リュウジが振り返り、短く命じた。
「シンゴ。オリオン号のメンテナンスは終わってるか?」
「い、一応、点検は全部済ませたけど……」
「よし」
リュウジはすぐに決断した。
「進路を変更して、近くのテラフォーミングマシンまで移動しよう」
「テラフォーミングマシンに……?」
ルナが驚いたように顔を上げる。
リュウジは力強く頷いた。
「ああ。あそこなら、まだ作動してる医療機器や薬品の残骸があるかもしれない」
「薬でもあれば十分だ」
ベルも静かに同意する。
ルナは目を細めて考え、すぐにチャコを見た。
「チャコ!」
「せやな、ウチが計算するわ!」
チャコの瞳が青く光り、計算を始める。
「すぐにでも行きましょう!」
シャアラが勢いよく立ち上がった。
だがルナが手を伸ばして彼女を制した。
「シャアラ、落ち着いて。焦っても、暗闇の中じゃ危険だわ」
「でも、アダムがこのままじゃ……!」
「わかってる。でも今出たら、私たちまで危険に巻き込まれる」
メノリが静かに頷きながら言った。
「ルナの言う通りだ。もう夜だし、この暗闇を進むのは無謀だ。地形もわからない」
「せやせや。あの島やったら足場も覚えとったけど、この大陸は何が出てくるかわからへん」
チャコが補足する。
リュウジは一同を見回し、低くしかしはっきりと言った。
「……明日の夜明けと同時に出発しよう」
その声音には、揺るぎない決意があった。
ルナはアダムの髪を撫でながら、静かに頷いた。
「そうしましょう。夜明けまで、私たちがついてるから」
彼女の声は柔らかく、それでいて芯が強かった。
焚き火の灯りが、眠れぬ仲間たちの顔を静かに照らし続けていた。
◇◇◇
夜のオリオン号は静まり返っていた。
外の風の音すら薄れ、船体の金属が冷える小さなきしみが聞こえるだけ。
みんなが寝静まる中、操縦室だけがほのかに光を灯していた。
計器のランプが静かに瞬き、冷たい青が壁を染めている。
リュウジはそこに立っていた。
焚き火の残り香がまだ外の空気に漂う中、彼は操縦席の前で腕を組み、じっとモニターを見つめていた。
ドアが小さく開く音。
チャコがひょこっと顔を出した。
「呼んだか?」
「ああ、来てくれ」
リュウジは短く言って、椅子を指さす。
チャコはその上に軽く飛び乗り、足をぶらぶらさせながら首を傾げた。
「で、どうしたんや? 夜中にこっそり呼び出すなんて珍しいな」
「アダムのことだ」
その一言で、チャコの表情が引き締まる。
「……やっぱりな。ウチも気になっとったんや」
リュウジは頷き、モニターに映る体温データを指差した。
「ナノマシンがアダムにもあるのに、高熱を出すのはおかしいと思わないか?」
「せやねん……。ウチも最初からそれ、引っかかってたんや」
チャコは腕を組み、しっぽをゆらゆら揺らす。
「もしかしたら――ナノマシンに異常があるのかもしれない」
リュウジの声は低く、焚き火の残り火のように静かに揺れていた。
「……悪性ナノ、ちゅーうわけか?」
「可能性はある」
チャコはため息をついた。
「もう一度、しっかり見ぃひんと分からんな……」
リュウジは少し間を置いて言った。
「今日、アダムは手に怪我をしただろう」
「せやな……。あの岩場で転んだときのやつやろ?」
「ああ。あのとき、異物が体内に入った可能性は高い」
「つまり――そのときに“感染”したってことやな」
「その線が濃いな」
チャコは目を丸くした。
「もしかして……あんた、最初から気づいとったんか?」
リュウジは短く息を吐いた。
「アダムが高熱を出した時点で、“悪性ナノ”の可能性は頭にあった。
だからこそ、今も稼働しているであろうテラフォーミングマシンに向かおうと思ったんだ」
彼の声は冷静だったが、その奥には焦りを隠した熱があった。
チャコはしばらく黙ってリュウジを見つめ、やがて小さく笑った。
「ほんま、流石やなぁ。ウチのセンサーより人間の勘の方が鋭いかもしれんで」
「褒められても嬉しくないな」
「そらそうやろな」
チャコが肩をすくめるように笑う。
「それで、テラフォーミングマシンの場所はわかったか?」
「おう、さっき再計算したで。……ここから北に百二十キロや」
「百二十か……。明日の出発は早めにした方がいいな」
リュウジは腕を組んで小さく頷いた。
「操縦の準備は俺がやっておく」
「了解や。ウチはアダムの様子をもう一回見てくるわ」
チャコが立ち上がろうとしたその時、リュウジが低く言った。
「……チャコ。ルナには気づかれるなよ」
「……なんでや?」
「余計な心配はかけたくない。あいつはアダムのことを一番気にしてるからな」
「……なるほどな」
チャコはニヤリと笑う。
「ほんま、優しいやっちゃな。……てか、それ、本人に言うたらええのに」
「……何をだ」
「“心配かけたくない”やて。それ聞いたら、ルナ泣いて喜ぶで?」
「……早く行け」
「はいはい。ほんま、不器用なやっちゃなぁ」
チャコは笑いながら操縦室の扉を開けた。
だが――その扉の向こうに、ひとりの影があった。
ルナだった。
薄暗い廊下で立ち尽くし、彼女はそっと鼻に指を当てて「シィー」とジェスチャーした。
チャコは一瞬目を丸くしたが、すぐに口元をニヤリと歪めた。
「……ほぉ。あとは若いもんに任せるとしよか」
小声でつぶやくと、チャコは肩をすくめて笑い、そっとルナの横を通り抜けていった。
その背中を見送りながら、ルナは胸の前で手を握る。
リュウジが隠してまで守ろうとした“想い”――
その意味を、静かに噛みしめるように。
◇◇◇
夜明け前の空は、群青色に沈んでいた。
大地の端から、わずかに光が滲み始めている。
冷たい風がオリオン号の船体を撫で、金属の表面にうっすらと夜露を残していた。
まだ誰も目を覚ましていない船内――その中で、ただ一人、ルナだけが起きていた。
アダムの寝台のそばに座り、ルナは静かに彼の額に手を当てる。
昨夜よりも熱は少し引いたように感じたが、それでも心配には変わりなかった。
「アダム……もう少しの辛抱だからね」
優しく囁く声は、ほとんど息に溶けるほど静かだった。
その指先が小さく震えているのは、冷たさのせいではなく――胸の中でまだ消えない不安のせいだった。
ふと、昨夜の光景が脳裏に浮かんだ。
――操縦室の中で話していたリュウジとチャコの声。
「余計な心配をかけたくないんだ。あいつには……」
彼のあの言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。
ルナは胸の前で手を組み、目を伏せた。
(……リュウジ。どうして、そんなふうに……)
彼が自分たちの誰よりも冷静で、誰よりも優しいことを、彼女は今になってようやく気づいていた。
その優しさは、いつも無言で、そして誰にも見せようとしない。
だからこそ、余計に胸が熱くなる。
窓の外を見ると、東の空が少しずつ赤みを帯びてきていた。
ルナは立ち上がり、深呼吸をする。
「……もうすぐ夜明け。みんなを起こさなきゃ」
―――
やがて、船内に小さな音が響く。
チャコがブリッジに入り、電子パネルを起動した。
「よっしゃ、システムチェック完了っと。航路設定は北120km、座標一致」
軽快な電子音が続き、エンジンの補助電力が少しずつ温まっていく。
そこへ、リュウジが入ってきた。
「準備はどうだ?」
「バッチリや」
「よし。出発は予定通りだ」
リュウジは計器を確認しながら、表情を変えずに答えた。
だが、その横顔を見て、チャコは小さくニヤリとする。
(まったく……“あいつには心配かけたくない”とか言いながら、もう顔に出とるやん)
心の中でつぶやきながら、チャコは作業を続けた。
―――
その頃、寝室では、シンゴが欠伸をしながら起き上がっていた。
「ふあぁ……夜明けか。早いなぁ」
「眠い~……」
ハワードが寝袋から顔を出して呻く。
「文句言わんと起きぃや、坊っちゃん」
チャコが声を張ると、ハワードは慌てて立ち上がった。
メノリは髪を結びながら、ルナのそばに来る。
「アダムは?」
「まだ熱は高いままだわ」
「……このまま何もなければいいが」
「ええ。……でも、きっと大丈夫。リュウジたちがいるから」
ルナは微笑んで言った。その表情は疲れを見せず、どこか穏やかだった。
―――
カオルが装備チェックを終えて声をかける。
「リュウジ、燃料の残量は?」
「この天気だ問題ない。風も吹けば、テラフォーミングマシンまで行けるはずだ」
「了解」
ベルが頷き、工具を肩に担ぐ。
「俺は外装を一通り見てくる。砂が入り込んでないか確認しとかないとな」
「頼む」
リュウジが短く返す。
そんなやり取りの中、ルナは静かに操縦室へと入った。
リュウジがコンソールを操作している背中が見える。
彼の肩越しに朝の光が差し込み、髪が金色に縁取られていた。
ルナは少し迷いながら、声をかける。
「……リュウジ」
「どうした?」
「……昨日の判断、早かったね」
リュウジは手を止め、少しだけ振り向く。
「当たり前だ。……あいつはまだ子どもだからな」
そう言いながら、わずかに目を細める。
その表情は厳しくも、どこか優しかった。
ルナは小さく息をのんだ。
(……やっぱり、あの夜の言葉、本当だったんだ)
胸の奥で、静かに何かが温かく広がっていく。
やがて、チャコの声が船内スピーカーに響いた。
「全員集合~! オリオン号、テラフォーミングマシンへ向けて出発準備完了や!」
それぞれの足音が集まり、船体がゆっくりと振動を始める。
窓の外では、太陽が顔を出し、薄い光が大地を照らしていった。
ルナは最後にもう一度、アダムの寝顔を見つめる。
「大丈夫。みんなで助けるからね」
そう囁いてから、彼女は操縦席の隣――リュウジの横へと歩み寄った。
「出発するぞ」
「うん……!」
エンジンが唸りを上げ、オリオン号の影が朝の光の中でゆっくりと浮かび上がる。
大陸の地平線の向こう――未知の希望と危険が待つ場所へ、彼らの旅が再び動き出した。
◇◇◇
朝の光が大地を照らし、砂と岩の間を風が駆け抜けていく。
夜の冷気がまだ残る空気の中、オリオン号の機体がゆっくりと唸りを上げた。
操縦席に座るリュウジが、モニターに並ぶ緑のランプを確認する。
「……ソーラーシステム起動」
リュウジの指がボタンを押すと、甲高い電子音が響き、艦内の照明が一斉に明るくなる。
船体のソーラーパネルが展開し、朝の光を受けて銀色に輝いた。
「重力制御ユニット、起動」
彼の低い声が響き、オリオン号の床がわずかに振動する。
浮遊ユニットが作動し、重力の抵抗が消えていく感覚が広がった。
「全帰還接続、完了! システム・オールグリーン!」
隣でルナがモニターを見ながら明るく声を上げた。
その声には緊張と高揚が混じり、船内に少しだけ希望の色を灯す。
「よし……オリオン号、発進!」
リュウジは操縦桿を握りしめ、力強く言い放つ。
「目標、北――9時の方向!」
操縦桿を倒すと、機体が低くうなり、砂を巻き上げながら浮上した。
外の風が急に強く吹き抜け、地面の砂が白く舞い上がる。
オリオン号はそれを突き抜け、風を切って上昇していった。
薄明るい空の下、機体が太陽光を反射してまばゆく光る。
「いい風や! この調子なら昼前には着くで!」
チャコがルナの膝の上に乗り、尾を揺らしながら嬉しそうに呟く。
「頼むよ、チャコ」
「任せとき!」
船内ではベルが機体の安定を確認し、カオルが窓の外を警戒していた。
シャアラはアダムの容体を確認しながら、小さく祈るように手を組む。
―――
数時間後。
太陽は高く昇り、オリオン号は乾いた大地を越えて滑るように進んでいた。
その時、上部デッキから無線が入る。
『おい、みんな! 森が見えたぞ!』
その声に、船内の空気が一気に弾む。
「森?」
ルナがモニターを確認する。緑の塊が画面の端に広がっていた。
「ああ、こっちでも確認した」
リュウジが短く答える。
窓の外、広大な荒野の先に、濃い緑が広がっているのが見えた。
大陸に来て以来、初めて目にする豊かな自然だった。
やがて森を抜けたとき、視界の先に――
巨大な門のような構造物が姿を現した。
それは、地球にかつて存在した凱旋門を思わせる形をしていた。
崩れかけた外壁には苔が生え、しかしその中に不思議な荘厳さが残っている。
「……なんやこれ……」
チャコが思わず声を漏らす。
「まるで……昔の文明の遺跡みたい」
ルナが息を呑んだ。
オリオン号はゆっくりとその門をくぐるように進んでいく。
中へ入ると、そこには――
古びた建物が整然と立ち並んでいた。
瓦礫や崩れた塔、風に揺れる蔦の隙間から、かすかに光が差し込んでいる。
「この星にも……文明があったんやなぁ」
チャコが呟いた。
「もしかしたら……アダムの仲間なのかもしれない」
シンゴの言葉に、誰もが息をのむ。
「アダムは別の惑星から来たのではないのか?」
メノリが首を傾げた。
「分からない……けど、何かが残ってる気がする」
ルナの言葉は、どこか直感めいていた。
リュウジが静かに操縦桿を握り直す。
「だったら探索してみよう。……恐らくここは“街”だ」
「そうね。病院があるかもしれないわ」
ルナが頷くと、リュウジは短く返した。
「よし――」
その時、カオルが前方を指さした。
「あの大きい建物が怪しい。中心にある、あれだ」
リュウジが視線を向ける。
確かに、立ち並ぶ建物の中でひときわ大きな構造物があった。
半球状の屋根とガラスの破片――まるでかつての都市の中央施設のようだ。
「行ってみよう」
リュウジは静かに頷き、操縦桿を倒した。
オリオン号が傾き、廃墟の街の上空を滑るように進んでいく。
太陽の光が古びた街路に差し込み、砂塵がきらめいた。
そして――アダムを救うための新たな希望へ、彼らは翼を向けた。
◇◇◇
オリオン号を降りると、彼らの目の前には古びた建物がそびえていた。
ひび割れた外壁には蔦が絡みつき、入り口のガラス扉は半ば崩れ落ちている。
かつての病院のような構造。
風が吹くたび、石の破片がカラン……と乾いた音を立てた。
「ここが……医療施設?」
ルナが呟く。
「多分な。設備さえ残ってれば、何か手がかりがあるはずだ」
リュウジは腰に差したナイフを軽く抜き、視線を前に向けた。
「へぇ~……ずいぶん雰囲気あるじゃん。お化けでも出そうだな」
軽い足取りで先に進むハワードが笑いながら言う。
「ちょ、ちょっと待って」
ルナが声を上げた。
「……一応、用心して進んだ方がいいと思うの」
その声に、ハワードは肩をすくめる。
「なにビビってんだよ、どうせただの廃墟だろ?」
リュウジはハワードの横を通り抜けながら言った。
「“ただの廃墟”が、今まで何度あった?」
短く言い残し、ナイフを構え直す。
「……あの遺跡の時みたいに、何かあるかもしれない」
その言葉にベルが頷き、持っていた槍を握り直した。
「俺もそう思う」
そしてメノリが周囲を見回しながら言う。
「これだけの文明が残ってるんだ。……誰か、まだ“生きてる”可能性もある」
「可能性はあるな」
カオルも静かに頷いた。
「よ、よし! それなら……ぼ、僕は最後尾でみんなを護るよ!」
ハワードが急に声を張り上げた。
「先行は……チャコに任せる!」
「ビビったからって、なんでウチに命令しとるんや!」
チャコが眉を吊り上げる。
「な、なんだと!? 俺はリーダーシップを――」
「どの口が言うとんねん!」
二人が言い合いを始めたところで、リュウジが小さくため息をつく。
「……行こう」
呆れ混じりの声とともに、彼は先陣を切って建物の中へと足を踏み入れた。
―――
中は静まり返っていた。
長い時間が経ったせいか、床一面に砂が積もっており、踏みしめるたびにザリ……と音がする。
壁の塗装は剥げ落ち、機器は錆びついて形を失っている。
どの部屋も空っぽで、使えそうなものは見当たらない。
「……何もないな」
「ほんまに廃墟やな……」
チャコが呟いた瞬間――。
「うわぁあああああ!!」
突然、甲高い悲鳴が響き渡った。
全員が振り向く。
「ハワード!?」
リュウジが声を上げ、駆け出す。
ルナとベル、カオルもすぐに後を追った。
暗い通路の奥で、ハワードが床に押し倒されていた。
その上にのしかかっていたのは、……人体模型だった。
「ぎゃあああ! 離れろぉぉぉ!!」
「ちょ、落ち着けって!!」
リュウジが模型を引き剥がし、ため息をつく。
「……お前な」
「な、なんでこんなもんが倒れてくるんだよ!」
「そりゃ、お前が触ったからやろ!」
チャコのツッコミに、場の空気が少しだけ和らいだ。
だがリュウジは模型の倒れた方向を見て、眉をひそめる。
床に、いくつもの容器が転がっていた。
ガラス製の薬瓶のようだが、中身はどれも濁っており、文字も擦れて読めない。
チャコが一つを拾い、センサーで確認する。
「中身は変色してる……。成分崩壊。使い物にならへんわ」
「……せっかく医療施設なのに」
ルナが悔しそうに呟いたその時、ハワードがひとつの瓶を拾い上げた。
「……おい、これ」
瓶の表面を指でこすり、光にかざす。
そこには見覚えのある文字が刻まれていた。
「この文字……! あの遺跡にあったのと同じだ!」
「ということは……やっぱりここも、アダムの仲間が建てた施設なのか」
メノリが真剣な表情で言う。
「アダム……」
ルナは無意識にその名を呟いた。
その時だった。
建物の奥――暗闇の向こうから、「コツ、コツ……」と何かの足音が聞こえた。
全員が一斉に身構える。
リュウジがナイフを抜き、先頭に立つ。
カオルとベルも槍を構え、すぐ背後につく。
メノリ、ルナ、シンゴは壁際に下がり、チャコがライトを向けた。
足音がだんだん近づいてくる。
ひとつ、またひとつ――そして、止まった。
静寂が広がり、全員が息を呑む。
――その直後。
「みんな……!」
聞き慣れた声が響いた瞬間、ルナが顔を上げた。
「シャアラ!?」
光の中に立っていたのは、息を切らしたシャアラだった。
「どうした!?」
リュウジがナイフを下ろしながら尋ねる。
シャアラは涙目で言葉を紡いだ。
「アダムが……苦しそうで……見てられなくて……」
その声には震えが混じっていた。
ルナは一瞬息を呑み、すぐに立ち上がる。
「……もう、時間がないわ」
振り返り、仲間たちを見渡す。
「急ぎましょう。テラフォーミングマシンへ!」
リュウジが頷き、すぐにナイフを収めた。
「よし、全員戻る。オリオン号を出すぞ!」
その言葉に、全員が動き出す。
廃墟の光が彼らの背を照らし、舞い上がる砂塵の中を、仲間たちは駆け抜けていった。