サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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基礎

それから数日後。魔のゾーンに関する午前中の打ち合わせが予定より早く一区切りついたため、エリンは久しぶりにスペースホープの新人訓練へ顔を出すことにした。

 

 このところ宇宙管理局とスペースホープを行き来する日が続き、旅行事業部に戻っても予約状況や人員配置、雑誌撮影に関する確認などで時間を取られていた。新人五人についてもミラやランから報告は受けていたが、実際の訓練を自分の目で見るのは入社初日以来だった。

 

 ルド、エア、スズカ、ナリタ、シャワー。五人とも吸収が非常に早く、クミコとマユが一度指摘したことを次の訓練ではほぼ修正してくるという。最近では、教育係の二人が「自分達の指導が本当に必要なのか」と悩むほどだったらしい。

 

 それでもエリンは、すぐに口を挟むつもりはなかった。新人を育てているのはクミコとマユだ。自分が顔を出すたびに横から答えを与えてしまえば、二人を教育係にした意味がなくなる。何か問題があったとしても、まずは二人が何を見て、何を考え、どう判断しているのかを見る必要がある。

 

 エリンはそう考えながら、シュミレーションルームへ向かった。

 

 ◇

 

 扉を開けると、すでに訓練は始まっていた。エリンは声を掛けず、そのまま観察スペース側へ入る。

 

 室内は実際の旅客船客室を模した状態に切り替えられていた。座席、収納部、通路、客室照明、案内表示。天井からは低い航行音が流れ、床にはわずかな振動まで再現されている。乗客役にはアズサ、サリー、ミドリ、ハズキらが入り、中央ではクミコとマユが訓練を管理していた。その中を、新人五人が乗務員として動いている。

 

 しばらく見ただけで、エリンにも変化は分かった。入社初日とは違う。

 

 ルドはもともと持っていた統率力を、以前よりも上手く周囲へ分散させるようになっていた。何でも自分で確認しようとせず、必要な仕事を必要な相手へ渡している。

 

「ナリタ、後方の状況をお願い。私は前方を見ます。エア、こちらの乗客対応を任せてもいい?」

 

「大丈夫です。スズカ、シャワーを一度こっちへお願いします」

 

「分かりました。シャワー、こちらへ来て」

 

「はい」

 

 指示は短いが、五人の間で情報が止まらない。

 

 エアも変わった。判断の速さや言い切る強さは以前のままだが、一度決めた方針へ固執することが減っている。状況が変われば、必要に応じてすぐに配置を変えた。

 

 スズカは、以前より一歩前へ出るようになった。乗客の不安へ気づくだけでなく、自分から声を掛け、「ここはこちらで見ます」と他の乗務員へ伝えられる。

 

 ナリタの報告も良くなっていた。

 

「後方収納部、異常ありません。一時的なロック表示の誤作動です。再点検済みなので、現時点では運用継続可能です」

 

 入社直後なら、「異常なし」で終わっていたかもしれない。今は結論だけではなく、理由と次の判断材料まで一緒に伝えている。

 

 シャワーも、まだ緊張することはあるようだったが、以前のように想定外の質問で完全に止まることはなくなっていた。

 

「順番に確認いたします。先にお身体の状態を確認させてください。その後、到着時刻についてご案内します」

 

 エリンは腕を組みながら、その様子を黙って見ていた。五人はちゃんと変わっている。そして、その変化の中にはクミコとマユが教えてきたものがはっきりと見えた。

 

 そこまでは、よかった。

 

 ◇

 

 しばらくして、ルドが客室後方から前方へ移動する途中、何気なく観察側へ視線を向けた。そしてエリンを見つけた。

 

 その瞬間、ルドの姿勢がわずかに変わる。それまで姿勢が悪かったわけではない。むしろ十分綺麗だった。だが肩の位置、顎の角度、足の運びが一段整った。

 

 続いてエアも気づき、目つきが変わる。スズカもエリンの存在を確認し、ナリタもほんの少し背筋を伸ばした。最後にシャワーが気づいた瞬間だけ、「……っ」と小さく息を呑んだが、それでも動きを止めることはなかった。

 

 エリンはその反応に、ほんの少しだけ口元を緩めた。分かりやすい。自分が見ていると分かった途端、全員がさらに真剣になる。

 

 ただ、それ以上にエリンが気になったことがあった。

 

 訓練内容だった。

 

 乗客の体調不良。設備異常。複数の問い合わせ。配置変更。状況判断。どう見ても、基礎訓練だけではない。

 

 初日にシュミレーションを行ったのは、五人が入社時点でどれほどの力を持っているかを見るためだった。その後は一ヵ月、基礎訓練を行う。エリンはそう伝えた。

 

 なのに今、目の前で行われているのは、明らかに実践想定へ踏み込んだ内容だった。

 

 エリンの表情から、少しずつ笑みが消えた。

 

 ◇

 

 二十分ほどして、シュミレーションが終わった。

 

「訓練終了します」

 

 マユが端末を操作すると、客室を再現していた照明と表示が通常状態へ戻る。環境音が止まり、室内に現実の静けさが戻った。

 

 五人からわずかに緊張が抜けたが、誰もその場を離れなかった。エリンがいるからだ。

 

 クミコは評価端末を閉じ、マユもその横へ立つ。そして特に誰かが号令を掛けたわけでもないのに、自然と七人がエリンの前へ並んだ。

 

 クミコ、マユ、ルド、エア、スズカ、ナリタ、シャワー。

 

 新人五人の姿勢は、さっきまでより明らかに整っている。シャワーだけは緊張が表情に出ていた。

 

 エリンは七人を一度見渡した。新人の動きについて褒めたい点はいくらでもある。クミコとマユについても、数週間前より教育係らしい動きが出来ている。

 

 しかし今は、それより先に確認しなければならないことがあった。

 

「クミコ、マユ」

 

「はい」

 

 二人の返事が揃う。

 

 エリンはシュミレーション設備へ目を向けた後、二人へ視線を戻した。

 

「どういうこと?」

 

 クミコが目を瞬く。

 

「……何がですか?」

 

「どうしてシュミレーション回してるの?」

 

 室内の空気が一気に張った。声を荒げているわけではない。むしろエリンは落ち着いている。だからこそ、クミコとマユには余計に答えづらかった。

 

「最初の一ヵ月は基礎訓練って、私言わなかった?」

 

「……言いました」

 

 クミコが小さく答える。

 

「言ったわよね?」

 

「はい」

 

 今度はマユが答えた。

 

「初日にシュミレーションをやったのは、五人が現時点でどこまで出来るかを見るためだったでしょう? あれをそのまま教育課程の中心にするとは言ってないわよね」

 

「はい……」

 

「じゃあ、どうして?」

 

 エリンはそこで黙った。理由を聞いている。言い訳を止めるつもりもない。

 

 クミコは少し迷った後、正直に話した。

 

「新人達が、すごく出来たので……基礎もほとんど出来てるように見えて。それなら同じことをずっとやるより、色々な状況を経験した方がいいんじゃないかって思いました」

 

「それで予定を変えたの?」

 

「……はい」

 

 エリンは次にマユを見る。

 

「マユも同じ考え?」

 

「はい」

 

「二人で決めた?」

 

「はい」

 

「ミラには?」

 

「相談はしました。でも、訓練内容は私達で決めました」

 

「そう」

 

 エリンはそれ以上、すぐには何も言わなかった。

 

 ◇

 

 するとルドが静かに口を開いた。

 

「エリンさん、私達からも実践的な訓練を増やしてほしいとお願いしました」

 

 エリンがルドを見る。

 

「どうして?」

 

「基礎訓練の中には学校で繰り返してきた内容も多く、出来るのであれば、より実践に近い訓練へ進みたいと思ったからです」

 

 エアも続いた。

 

「クミコさんとマユさんだけの判断ではありません。私達も希望しました」

 

「分かった」

 

 エリンは二人の言葉を否定しなかった。

 

 スズカが少し心配そうに口を開く。

 

「私達がお願いしたことで、予定を変えさせてしまったのであれば……」

 

「今は誰が悪いかを決めてるんじゃないから、大丈夫」

 

「……はい」

 

 エリンは再びクミコとマユへ向き直った。

 

「二人とも。新人から『もっと先へ進みたい』って言われた時、何を基準に進めていいと思ったの?」

 

 二人ともすぐには答えられなかった。

 

 五人が出来る。吸収が早い。それだけだった。

 

 エリンはそこを確認すると、今度は新人達へ目を向けた。

 

「貴方達が実践的な訓練をやりたいと思うのは悪いことじゃない。むしろ向上心があるのはいいと思う。でも、首席でも次席でも、今は新人。それは変わらないわ」

 

 ルドが頷いた。

 

「はい」

 

「基礎が出来ているように見えることと、基礎訓練を終えていいことは別。そこは教育側が判断することだから」

 

「分かりました」

 

 エアも素直に頷いた。

 

 ◇

 

 エリンは少し間を置いてから、ルドを見た。

 

「ルド」

 

「はい」

 

「さっき後方から前方まで歩いたでしょう?」

 

「はい」

 

「右足、何回外へ流れたか分かる?」

 

 ルドが初めて答えに詰まる。

 

「分かりません」

 

「エア」

 

「はい」

 

「体調不良の乗客役へしゃがんだ時、どっちの足を前に出した?」

 

「……右だったと思います」

 

「思います?」

 

「正確には覚えていません」

 

「スズカ。通路で乗客役を避けた時、後ろにいたナリタとの距離は?」

 

「覚えていません」

 

「ナリタ。報告している間、シャワーが前方で何をしていたか見えてた?」

 

「見ていませんでした」

 

「シャワー。二人から同時に話しかけられた時、最初にどちらの目を見た?」

 

「……分かりません」

 

 室内が静かになった。

 

 エリンはそれ以上説明しなかった。新人五人には、自分達が「出来ている」と思っていた部分にも、まだ見えていないものがある。それだけ伝われば十分だった。

 

「クミコ」

 

「はい」

 

「明日から基礎訓練に戻して」

 

「はい」

 

「シュミレーションを使うなとは言わない。確認のために使うのはいい。でも今月の中心は予定どおり基礎」

 

「分かりました」

 

「マユも」

 

「はい」

 

 そこで終わった。

 

 なぜ一ヵ月なのか。エリンは説明しなかった。

 

 学校ごとに違う癖を揃えるため。考えなくても身体が動くところまで基礎を染み込ませるため。判断に使う思考の余力を残すため。そして何より、新人五人だけではなく、クミコとマユ自身に「基礎を見る目」を育てるため。

 

 エリンには、いくつもの理由があった。

 

 しかし、それを今ここで全部教えるつもりはなかった。

 

 答えを渡してしまえば、クミコとマユはその答えに沿って訓練を組むだけになる。自分達で新人を見て、何が必要なのか考えて、なぜ基礎を繰り返すのか、自分達で気づいてほしい。

 

 だから説明しない。

 

 ◇

 

「今日はここまでですか?」

 

 ルドが尋ねた。

 

 エリンは少しだけ考えた後、首を横に振った。

 

「いいえ。せっかく久しぶりに来たから、一つだけ見る」

 

 シャワーの顔に、少し緊張が戻った。エリンはそれに気づいたが何も言わない。

 

「ルド。前に出て」

 

「はい」

 

 ルドが一歩進む。

 

「そこから向こうまで普通に歩いて」

 

「分かりました」

 

 ルドが歩き始める。

 

 数歩。

 

「止まって」

 

 すぐにエリンの声が飛ぶ。

 

 ルドが停止する。

 

「右足」

 

「はい?」

 

「少し外向いてる」

 

 ルドが自分の足を見る。ほんの僅かな角度だった。

 

「直して。もう一回」

 

「はい」

 

 戻る。再び歩く。今度は最後まで何も言われない。

 

「次、エア」

 

「はい」

 

「歩いて。途中で呼ぶから、その時振り向いて」

 

「分かりました」

 

 エアが進む。

 

「エア」

 

 呼ばれた瞬間、エアが振り向く。

 

「止まって」

 

 エアが動きを止めた。

 

「今、上半身から先に向きを変えたでしょう?」

 

「……はい」

 

「もう一回」

 

 それだけだった。

 

 なぜ駄目なのか。エリンは説明しない。

 

 次はスズカ。その次はナリタ。最後にシャワー。

 

 歩く。止まる。振り返る。しゃがむ。立つ。物を持つ。

 

 驚くほど単純な動作ばかりだった。

 

 なのにエリンは何度も止めた。

 

「もう一回」

 

「今の違う」

 

「足を見ない」

 

「肩に力入りすぎ」

 

「急がなくていい」

 

 指摘は短い。答えも理由も、ほとんど教えない。

 

 新人達の表情は徐々に変わっていった。

 

 最初は「出来る」と思っていた。ところが、やればやるほど、自分達が普段どれだけ無意識に身体を動かしているのか分かってくる。

 

 クミコとマユも、その様子を後ろから見ていた。

 

 クミコは何か言いかけたが、やめた。

 

 エリンは何を見ているのだろう。なぜ今さら歩き方なのだろう。

 

 聞けば、たぶん答えてくれる。

 

 でも、何となく今は聞くべきではないような気がした。

 

 マユも同じだった。

 

 だから二人は黙って見る。

 

 ◇

 

 最後にシャワーが元の位置へ戻ると、エリンは端末を閉じた。

 

「今日は終わり」

 

「はい」

 

 五人の返事が揃った。

 

 エリンは次にクミコとマユを見る。

 

「明日からどうする?」

 

 クミコは少し考えた。

 

「基礎訓練に戻します」

 

「うん」

 

「でも……前と同じやり方じゃなくて、もう少し細かく見てみます。五人とも出来るので、その『出来る』の中を見るようにします」

 

 エリンは表情を変えなかった。

 

 マユも続ける。

 

「私も、五人全員に同じことをさせるだけじゃなくて、それぞれ違うところを見ます」

 

「そう」

 

 短い返事。

 

 良いとも、悪いとも言わない。

 

 クミコは少しだけ不安そうだった。

 

「……それでいいですか?」

 

 エリンはすぐには答えなかった。

 

「やってみたら?」

 

「……はい」

 

「違ったらまた考えればいいでしょう?」

 

「はい」

 

 それだけだった。

 

 ◇

 

 クミコとマユは、少し拍子抜けしたような顔をしていた。

 

 もっと教えてもらえると思っていた。

 

 新人達のどこを見ればいいのか。何を基準にするのか。基礎訓練をどう組み直すのか。それをエリンが教えてくれるのではないか。

 

 でも、何も教えてくれない。

 

 ただ、「基礎に戻して」。

 

 それだけ。

 

 クミコは小さく息を吐いた。

 

「……難しいです」

 

 エリンが聞き返す。

 

「何が?」

 

「教育係」

 

「そう?」

 

「そうですよ」

 

「じゃあ考えて」

 

「エリンさん……」

 

 エリンは少しだけ笑った。

 

「貴方達が教育係でしょう?」

 

「……はい」

 

「なら、私に全部聞かない」

 

 クミコは口を閉じた。マユも黙る。

 

 少し厳しい。

 

 でも、任されている。

 

 その意味も、以前より少し分かるようになっていた。

 

 ◇

 

 新人五人は、そのやり取りを静かに見ていた。

 

 ルドはクミコとマユを見る。エアも、スズカも、ナリタも、シャワーも。

 

 自分達は教わる側だから、教育係が正解を知っているのだと思っていた。

 

 でも、そうではないらしい。

 

 クミコもマユも考えている。迷っている。その上で自分達を見ている。

 

 そしてエリンは、その二人にさえ簡単には答えを渡さない。

 

 五人にとって、それもまたスペースホープへ入って初めて見る教育の形だった。

 

 エリンは時計を見る。

 

「じゃあ私、戻るから」

 

 クミコが驚く。

 

「もう行くんですか?」

 

「仕事あるもの」

 

「……はい」

 

「明日の訓練内容、今日中に二人で考えて」

 

「はい」

 

「私には送らなくていいから」

 

「え?」

 

「二人で決めて」

 

 今度こそ、エリンはそれだけ言うとシュミレーションルームを出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 しばらく誰も動かない。

 

 クミコが長く息を吐く。

 

「……どうしよう」

 

 マユが横を見る。

 

「考えるしかないね」

 

「うん」

 

 二人は新人五人を見る。新人達も二人を見る。

 

 まだ一ヵ月は終わっていない。

 

 そして、エリンが何を考えているのか、まだ誰も知らない。

 

 それでよかった。

 

 クミコとマユに必要なのは、答えを教わることではなく、目の前の五人を見ながら自分達で答えを探すことだった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

新人訓練を見終えたエリンは、シュミレーションルームを出るとそのまま旅行事業部の自席へ戻った。

 

 机の上には、宇宙管理局へ提出する確認資料と、午後の予約案件、それから来週以降の乗務員編成表が重ねられている。新人達のことだけを考えているわけにはいかない。魔のゾーンの調査も進んでいるし、ワイルドフライト賞以降に増えた案件もまだ落ち着いてはいなかった。

 

 それでもエリンは、端末を開いてすぐ仕事へ戻ることはしなかった。

 

 椅子へ腰を下ろし、ほんの少しだけ考える。

 

 クミコとマユ。

 

 二人とも思っていた以上に、きちんと新人を見ていた。

 

 ルドが仕事を抱え込むところ。

 

 エアが判断を変える時に僅かに硬くなるところ。

 

 スズカが前へ出るべき場面でも一歩引こうとするところ。

 

 ナリタの報告が短すぎるところ。

 

 シャワーが複数の判断を一度に求められると一瞬止まるところ。

 

 あれだけ見つけられているなら、教育係として何も出来ていないわけではない。

 

 問題は、本人達がそれを評価出来ていないことだった。

 

 新人達の出来が良すぎるため、自分達が「教えている」感覚を持てない。

 

 だから難しいことをさせる。

 

 難しい訓練をすれば、自分達にも指摘出来る部分が増える。

 

 そしてその指摘を通して、自分達が教育係として役に立っていることを確かめたくなる。

 

 気持ちは分からなくもない。

 

 ただし。

 

 それを理由に教育計画を変えることは、別の話だった。

 

「……」

 

 エリンが一度小さく息を吐いた時、机の横から控えめな声がした。

 

「エリンさん」

 

 顔を上げる。

 

 ミラが立っていた。

 

「何?」

 

「少し、お時間いいですか?」

 

「いいわよ」

 

 ミラは一瞬だけ迷った後、エリンの机の前まで来た。

 

「さっきの新人訓練のことなんですけど……すみませんでした」

 

 エリンは少し目を瞬いた。

 

「何が?」

 

「クミコとマユがシュミレーションを増やしていたことです。私も相談を受けていたのに、きちんと内容まで確認していませんでした。新人教育は二人に任せているからって、少し任せすぎました」

 

 ミラは言い訳をしなかった。

 

 教育係はクミコとマユでも、今のスペースホープでその上に立つ側の一人は自分だと思っているのだろう。

 

 エリンはそんなミラをしばらく見てから、表情を柔らかくした。

 

「いいのよ」

 

「でも……」

 

「本当にいいの。勝手に予定を変えたことは二人に言ったし、明日から戻すって本人達も分かってる。それで十分」

 

「私からも話した方がいいですか?」

 

「ううん」

 

 エリンは首を横へ振った。

 

「クミコとマユに任せましょう」

 

 ミラが少し意外そうな顔をする。

 

「……任せるんですか?」

 

「教育係なんだから」

 

「そうですけど、今ちょっと二人とも迷ってますよ」

 

「知ってる」

 

「だったら……」

 

「だからよ」

 

 エリンは短く答えた。

 

 ミラはそれ以上すぐには言わなかった。

 

 ◇

 

「厳しいね、エリン」

 

 少し離れたところから声が飛んできた。

 

 振り返らなくても誰か分かる。

 

 ホーネットだった。

 

 いつから聞いていたのか、飲み物を片手にそのまま二人のところまで歩いてくる。

 

「聞いてたの?」

 

「途中から。でも聞こえるところで話してたじゃん」

 

「まあ、そうだけど」

 

 ホーネットはミラの横へ立つと、エリンを見た。

 

「私だったらもうちょっと教えてあげるけどな。クミコとマユ、かなり焦ってるよ?」

 

「そうね」

 

「分かってるの?」

 

「分かってるわよ」

 

「じゃあ余計に厳しくない?」

 

 ホーネットは遠慮なく続けた。

 

「二人とも初めての教育係なんだよ? しかも相手があの新人五人。普通の新人じゃないじゃん。入った時点で基礎は出来てるし、何か言えばすぐ直すし、ルドとエアなんて最初から人をまとめられる。ナリタは頭の回転速いし、スズカは接客上手いし、シャワーだってもうかなり慣れてる」

 

「うん」

 

「そりゃ不安になるよ」

 

 ホーネットは少し声を落とした。

 

「自分達がちゃんと教えられてるのか。新人達から『この先輩達、大したことないな』って思われてないか。エリンが教育係に選んでくれたのに、その期待に応えられてるのか。たぶん二人とも、ずっとそれ考えてる」

 

 ミラも静かに頷いた。

 

「私もそう思います。二人とも最近、新人達の出来がいいほど自信をなくしてる感じがあります」

 

 エリンは二人の話を黙って聞いていた。

 

 ホーネットの言うことは、おそらくかなり正確だった。

 

「だから難しいシュミレーションやったんだと思うよ」

 

「でしょうね」

 

「そこまで分かってて、何で何も教えないの?」

 

 ホーネットが尋ねる。

 

 エリンは少しだけ椅子へ背を預けた。

 

「教えたくないから」

 

「……意地悪?」

 

「違うわよ」

 

 さすがにエリンが笑った。

 

 ◇

 

「私が最初の一ヵ月を基礎訓練にした理由、いくつかあるの」

 

 その言葉に、ミラとホーネットの表情が変わった。

 

 クミコとマユには説明しなかったことだ。

 

「まず、あの五人は出身校が三つに分かれてるでしょう? アフロディ、テレジア、イマジン。それぞれ教育水準は高いし、首席や次席まで取ってる。でも、学校が違えば教わってきた型も少しずつ違う」

 

 ミラが頷く。

 

「はい」

 

「歩き方一つでも、重心の置き方や方向転換の教え方が違うことがある。報告もそう。接客用語も、安全確認の順番も少しずつ違う。全部間違いじゃない。でも同じ船に乗るなら、最低限の共通基準は必要なの」

 

「スペースホープの基準へ一度揃える?」

 

「そう。でも、型を完全に同じにしたいわけじゃないわ。ルドにはルドのいいところがあるし、エアにもスズカにもナリタにもシャワーにも、それぞれ学校で身につけてきたものがある。それを潰す気はない」

 

 エリンは机の上のペンを取り、指先で軽く転がした。

 

「共通部分だけは、誰と組んでも同じように動けるようにする。そのための一ヵ月」

 

「それだけ?」

 

 ホーネットが聞く。

 

「それだけなら、あの五人だったらもっと早く終わりそうじゃん」

 

「そうね」

 

 エリンはあっさり認めた。

 

「基準を覚えるだけなら、多分一週間でも出来る」

 

「じゃあ何で一ヵ月?」

 

「覚えるのと、身体に入るのは違うから」

 

 ◇

 

 ホーネットが少し首を傾げる。

 

 エリンは続けた。

 

「シュミレーションをやると、皆どうしても『何が起こったか』に意識を持っていかれるでしょう? 急病人が出た、設備異常が出た、乗客が怒った。そういう判断は目立つし、出来れば自分でも成長した気がする」

 

「うん」

 

「でも本番で一番怖いのは、その判断をしてる間に基礎が崩れることなの」

 

 ミラがエリンを見る。

 

「歩き方や姿勢ですか?」

 

「それも。乗客を見る視線、立つ位置、物を渡す手、報告する時にどこまで周囲を見るか。全部よ。普段は出来るのに、忙しくなった瞬間だけ崩れる人っているでしょう?」

 

「います」

 

「疲れた時もね」

 

 ミラには思い当たることが多かった。

 

 エリン自身、これまで何度も訓練中に止めてきた。

 

 半歩ずれた。

 

 声掛けの順番が違う。

 

 一人で抱え込んだ。

 

 報告が曖昧だった。

 

 そんな一見小さなことを、何度も。

 

「基礎って、難しいことを出来るようにするための前段階じゃないの」

 

 エリンの声は穏やかだった。

 

「難しいことが起きても崩れないようにするためのものよ」

 

 ホーネットが少しだけ目を細めた。

 

「なるほどね」

 

「だから、あの五人が優秀だからこそ一ヵ月やりたいの。出来ないから基礎をやらせるんじゃない。出来るなら、もっと高い精度まで入れられるでしょう?」

 

「……それ、クミコとマユに言えばいいじゃん」

 

「言わない」

 

 即答だった。

 

「そこなんだよ」

 

 ホーネットが苦笑する。

 

 ◇

 

 ミラも少し困ったように笑った。

 

「私もちょっとだけ、教えてあげてもいい気がします」

 

「今は駄目」

 

「何でですか?」

 

 エリンは少し考えてから答えた。

 

「二人が教育係だから」

 

「……」

 

「私が『一ヵ月の基礎訓練にはこういう意図があります。だからここを見てください』って全部説明したら、明日から二人はそこだけ見るでしょう?」

 

 ミラは反論しなかった。

 

 その通りだった。

 

「ルドの右足を見る。エアの方向転換を見る。スズカが前へ出るかを見る。ナリタの視線を見る。シャワーの緊張を見る。全部、私が言った答えに沿って確認するようになる」

 

「それじゃ駄目?」

 

 ホーネット。

 

「それだと、私の訓練を代わりにやってるだけになる」

 

 エリンは静かに言った。

 

「私はクミコとマユに、新人教育を任せたの。私の指示書を実行する係にしたんじゃない」

 

 その言葉に、ミラの表情が少し変わった。

 

「……ああ」

 

「二人にも新人達を見て、自分達で気づいてほしいの。『出来るから次へ進む』じゃなくて、『出来ているなら、その出来ている中の何を見るか』を考えてほしい」

 

 ホーネットが飲み物へ口をつけながら、少し笑った。

 

「やっぱり厳しいね」

 

「そう?」

 

「うん。でも、さっきよりは納得した」

 

 ◇

 

 エリンはさらに少しだけ視線を落とした。

 

「それに、一ヵ月は新人達だけの訓練期間じゃないのよ」

 

 ミラが聞き返す。

 

「どういう意味ですか?」

 

「クミコとマユの教育係としての基礎期間でもあるってこと」

 

 二人が黙る。

 

「新人が出来ない子達だったら、二人は教えやすかったと思う。姿勢を直して、接客を教えて、出来るようになったら褒める。それなら成果も分かりやすい」

 

「でも今回は違う」

 

「そう。最初から出来る子達が来た」

 

 エリンは少しだけ笑った。

 

「教育係としては、むしろ難しい相手よ」

 

 ミラもようやく、その意味を理解し始めた。

 

「新人達より、クミコとマユの方が試されてる部分もあるんですね」

 

「試験をしてるつもりはないけどね。ただ、良い機会だとは思ってる」

 

 ホーネットが呆れたように笑う。

 

「本人達が聞いたら泣くかもよ」

 

「だから言わないの」

 

「それが厳しいんだって」

 

「でも、助けを求めてきたら助けるわよ」

 

 エリンはそこをはっきり言った。

 

「放っておくつもりじゃない。でも、考えられるところまで私が先回りして答えを渡すのは違うと思ってる」

 

 ミラはゆっくり頷いた。

 

「分かりました。私も二人には余計なことを言わないようにします」

 

「うん。ただ、行き詰まってたら話は聞いてあげて」

 

「はい」

 

 ◇

 

 ホーネットはしばらく考えていたが、やがて別の角度から尋ねた。

 

「でもさ、クミコとマユが『新人達に見下されてるかも』って思ってるところはどうするの?」

 

「それね」

 

「実際どうなのか、私達も分かんないじゃん。今のところ態度は全然悪くないけど」

 

「そうなのよね」

 

 エリンは机の上の端末へ軽く指を置いた。

 

 新人達は、クミコとマユの指示によく従っている。

 

 質問もする。

 

 改善もする。

 

 表面的には何の問題もない。

 

 ただ。

 

 クミコとマユ自身が「どう思われているか」を不安に感じている以上、そこをエリン達が勝手に「大丈夫」と決めても意味がない。

 

「……ルドに聞いてみようかしら」

 

 ミラが顔を上げる。

 

「ルドにですか?」

 

「うん」

 

「新人全員じゃなくて?」

 

「最初はルドでいいと思う」

 

 エリンは少し考えながら言った。

 

「五人の中で一番全体を見てるし、他の四人も自然にルドへ意見を言ってるでしょう? 代表者って決めたわけじゃないけど、皆の空気は一番掴んでると思う」

 

 ホーネットが少し面白そうに笑う。

 

「『クミコとマユのこと、どう思ってる?』って聞くの?」

 

「そんな聞き方しないわよ」

 

「じゃあ?」

 

「一ヵ月近く教わってみてどうだったか。分かりやすかったこと、分かりにくかったこと、もっと教えてほしいこと。それから、クミコとマユに言いにくくて言えてないことがないか」

 

「結構ちゃんと聞くね」

 

「聞くならちゃんと聞くわよ」

 

 ◇

 

 ミラは少し考え込んだ。

 

「もしルドが『クミコさんとマユさんでは物足りないです』って言ったら?」

 

 エリンは特に表情を変えなかった。

 

「それなら理由を聞く」

 

「怒らないんですか?」

 

「何で怒るの?」

 

「……まあ、そうですけど」

 

「新人側にも教育を受けてる立場として感じることはあるでしょう? そこを言わせない方が困るわ」

 

 ホーネットも頷く。

 

「それはそうだね」

 

「逆に『すごく教えてもらってます』って言われても、そのまま安心はしない。具体的に何が残ってるのか聞く」

 

「エリンらしい」

 

「何よ」

 

「いや、褒めても逃がさないなって」

 

「評価するなら具体的に聞くのは普通でしょう?」

 

「ほら、それ」

 

 ホーネットが笑う。

 

 ◇

 

 エリンは机の端に置いていた新人訓練表を開いた。

 

 今日の予定を見る。

 

 ルド達は、この後記録整理と座学。

 

 まだ帰る時間ではない。

 

「ルド、今どこ?」

 

 ミラが端末を見る。

 

「新人用の記録スペースだと思います。さっきの訓練記録をまとめてるはずです」

 

「そう」

 

 エリンは立ち上がった。

 

「ちょっと話してくる」

 

「今?」

 

 ホーネットが聞く。

 

「今いるんだから今でいいでしょう?」

 

「その辺は早いよね、エリン」

 

「仕事溜まってるのよ」

 

 ミラも立ち上がる。

 

「私も行きますか?」

 

「ううん。一人でいい」

 

「分かりました」

 

「ミラ」

 

「はい?」

 

「さっきのこと、本当に気にしなくていいからね」

 

 エリンの声は、先ほどより少し柔らかかった。

 

「クミコとマユが自分達で考えて決めたことなら、失敗も二人の経験になる。危ないことだけ止めればいいの」

 

 ミラは少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……はい」

 

「任せましょう」

 

「はい」

 

 今度は素直に答えられた。

 

 ◇

 

 エリンはそのまま新人達が記録を行っているスペースへ向かった。

 

 残されたホーネットが、エリンの背中を見送りながら小さく息を吐く。

 

「やっぱ厳しいわ」

 

 ミラが少し笑う。

 

「でも、エリンさんなりに二人のこと信じてるんだと思う」

 

「それは分かる」

 

「クミコとマユが知ったらどう思うかな」

 

「たぶん最初は『先に言ってくださいよ!』って言う」

 

「クミコは言いそう」

 

「マユは横で頷きそう」

 

 二人は思わず笑った。

 

 その頃、何も知らないクミコとマユは、明日からの基礎訓練をどう組み直すか、二人で必死に考えている。

 

 そしてエリンは、その答えを教える代わりに。

 

 もう一つ。

 

 別の方向から確かめようとしていた。

 

 教育する側がどう思っているかだけではなく。

 

 教わっている側は。

 

 クミコとマユを。

 

 どう見ているのか。

 

 その答えを一番よく知っていそうなルドのもとへ、エリンは静かに向かっていった。

 

 

ーーーー

 

 

新人用の記録スペースでは、ルド達五人が午前中の訓練記録を整理していた。壁際の大型端末にはシュミレーション中の映像がいくつか並び、エアとナリタが自分達の動きを確認している。少し離れた机ではスズカが記録をまとめ、シャワーがその横で何度も映像を止めては自分の動きを見直していた。

 

 エリンが入口に姿を見せると、最初に気づいたのはスズカだった。

 

「エリンさん」

 

 その声で全員が顔を上げた。午前中の訓練で突然現れた時と同じように、五人の姿勢が自然と整う。

 

「そのままでいいわよ。ルド、少し時間ある?」

 

「はい。大丈夫です」

 

「ちょっと話したいんだけど」

 

「分かりました」

 

 ルドは端末を閉じて立ち上がった。

 

 エアが何となく二人を見比べる。

 

「私達も一緒ですか?」

 

「今日はルドだけでいいわ。別に怒る話じゃないから安心して」

 

 最後の一言は、明らかにシャワーへ向けられていた。

 

「……顔に出てましたか?」

 

「出てた」

 

「すみません……」

 

「謝ることじゃないでしょう」

 

 周囲に小さな笑いが生まれたところで、エリンはルドを連れて近くの小会議室へ入った。

 

 ◇

 

 向かい合って座ると、エリンはすぐ本題に入った。

 

「そんなに構えなくていいわよ。本当に確認したいことがあるだけだから」

 

「はい」

 

「もう入社して数週間経ったでしょう?」

 

「はい。まだ短いですけど、かなり慣れてきたと思います」

 

「そうね。見てても分かる」

 

 ルドの表情が少しだけ和らぐ。

 

「ありがとうございます」

 

「それで聞きたいんだけど、一ヵ月近くクミコとマユから教わってみて、どう?」

 

 ルドはすぐには答えなかった。

 

 質問の意図を測っているというより、適当に褒めて終わらせないために言葉を選んでいるようだった。

 

 エリンは急かさない。

 

 しばらくして、ルドが静かに口を開いた。

 

「率直に言ってもいいですか?」

 

「そのために呼んだのよ」

 

「分かりました」

 

 ルドは一度だけ息を整えた。

 

「最初は、納得していませんでした」

 

 エリンの表情は変わらなかった。

 

「クミコとマユが教育係だったこと?」

 

「はい」

 

「そう」

 

 責める声ではない。

 

 むしろ、続きを促すような穏やかな反応だった。

 

 ルドはそのまま話を続けた。

 

「私達五人、実は就職先を決める前に、声を掛けていただいた会社の船には全部乗ったんです」

 

「全部?」

 

「はい。正式なフライトに乗務したわけではありません。会社説明や見学、研修用の体験乗船も含みます。でも、可能な限り実際の宇宙船に乗って、その会社の乗務員がどう働いているかを自分達で見ました」

 

 アフロディ首席のルド。

 

 テレジア首席と次席のエア、スズカ。

 

 イマジン首席と次席のナリタ、シャワー。

 

 五人ほどの成績であれば、声を掛けてくる会社は一つや二つではなかったはずだ。

 

「待遇だけでは決めたくなかったんです。どこで働けば一番成長出来るか、それを見たかったので」

 

「それでスペースホープ?」

 

「はい」

 

 ルドは迷わず答えた。

 

「正確には、エリンさんです」

 

「……私?」

 

「はい」

 

 エリンが僅かに目を瞬く。

 

 ルドは少しだけ笑った。

 

「五人とも、エリンさんの実力に惹かれました」

 

「ちょっと待って。五人とも?」

 

「はい」

 

「誰か一人くらい別の理由ないの?」

 

「もちろんスペースホープそのものにも魅力はありました。でも、最終的な決め手は全員ほぼ同じでした」

 

 ルドの口調は柔らかいが、言い切るところには迷いがない。

 

「この人の下で教わりたいと思ったんです」

 

 ◇

 

 エリンは少し困ったように息を吐いた。

 

「……それ、かなり期待の置き方間違えてると思うんだけど」

 

「そうでしょうか?」

 

「私、毎日新人だけ教えてるわけじゃないもの」

 

「それは分かっています。でも、見学した時のエリンさんの動きが他の会社と違ったんです」

 

「何が?」

 

「一人で目立とうとしていなかったことです」

 

 エリンが黙る。

 

「他の会社にもすごい乗務員はいました。技術だけなら、本当に素晴らしい方もいました。でもエリンさんは、誰かが遅れた時だけ自然に入って、戻ったらまたその人へ仕事を返していました。乗客対応もそうですし、乗務員への指示もそうでした」

 

 ルドは当時を思い出すように続ける。

 

「何より、エリンさんが動くと周りの乗務員まで動きが良くなっていくように見えたんです」

 

「……」

 

「それを見て、この人から教わりたいと思いました」

 

 エリンは少し目を伏せた。

 

 五人がどうしてスペースホープへ来たのか。

 

 社内でも何度も話題になった。

 

 ワイルドフライト賞。

 

 会社の成長性。

 

 注目度。

 

 そうしたものが理由だろうと思っていた。

 

 まさか自分自身が、そこまで大きな理由になっていたとは思っていなかった。

 

「だから」

 

 ルドの声が少し変わる。

 

「入社して教育係がクミコさんとマユさんだと聞いた時は、正直、納得出来ませんでした」

 

 エリンが顔を上げる。

 

「うん」

 

「失礼な話だと思います。でも、その時はそう思いました」

 

「いいわよ。続けて」

 

「私達はエリンさんに教わりたくてここへ来たのに、どうして別の人なんだろうって」

 

 ルドは誤魔化さなかった。

 

「クミコさんとマユさんが悪いと思ったわけではありません。ただ、最初は二人のことを何も知りませんでした。役職があるわけでもない。私達と年齢も大きく離れているわけではない。スペースホープでの経験も、エリンさんやミラさん達ほど長いわけではない」

 

「そうね」

 

「だから、どうしてこの二人なんだろうと思いました」

 

 ◇

 

 エリンは何も挟まず、続きを待った。

 

 ルドは少し笑った。

 

「でも、今は違います」

 

「どう違うの?」

 

「クミコさんとマユさんは、ちゃんと鍛えられている乗務員なんだって分かりました」

 

 今度はエリンの目が少し柔らかくなる。

 

「何を見てそう思ったの?」

 

「最初に感じたのは、教科書の答えだけを言わないことです」

 

「……」

 

「私達が何か間違えた時、すぐ『違う』とは言うんです。でも、そのあと必ず私達自身に理由を聞きます。どうしてそうしたのか。何を見てそう判断したのか。そこを聞いてから指摘してくれる」

 

 ルドは指を一つ折った。

 

「クミコさんは特にそうです。自分が失敗した経験を隠しません。『私も最初これやったよ』って普通に言います」

 

 エリンは少し笑った。

 

「クミコらしいわね」

 

「はい。それがすごく分かりやすいんです。出来なかった人が、どうやって出来るようになったのかを教えてくれるので」

 

 もう一つ。

 

「マユさんは、私達が言葉にしていないところを見ています」

 

「例えば?」

 

「私が一度、自分で仕事を抱えすぎた時です。私は失敗したとは思っていませんでした。実際、全部処理出来ましたから」

 

「でもマユは何か言った?」

 

「はい。『出来たかどうかじゃなくて、次も同じ量を一人で持つつもり?』って」

 

 エリンの口元が僅かに上がる。

 

「それもマユらしい」

 

「その時、初めて気づきました。処理出来たから正解だと思っていたけど、チームとしては違うんだって」

 

 ◇

 

 ルドは少し考えてから続けた。

 

「エアも同じです。最初はクミコさんの指摘に対して、自分の判断理由をかなり細かく説明していました」

 

「想像出来るわ」

 

「クミコさんは全部聞いたあとで、『理由は分かった。でも客室では、その理由を説明してる時間ないよ』って言ったんです」

 

「……ふふ」

 

 エリンが思わず笑う。

 

「それでエアは?」

 

「かなり考えてました」

 

「怒らなかった?」

 

「怒りませんでした。むしろ次の日から、判断を短く伝える練習を始めました」

 

「そう」

 

「スズカも、クミコさんから何度も『優しいだけじゃ守れないよ』って言われています」

 

 エリンの表情が少しだけ変わる。

 

 良い言葉だった。

 

「ナリタはマユさんから、短く話すこと自体は悪くないけれど、相手が理解出来たか確認するように言われています。シャワーは……」

 

 ルドがそこで少し笑う。

 

「二人のおかげで、かなり変わりました」

 

「それは見れば分かるわね」

 

「はい。シャワーは最初、間違えたくない気持ちが強すぎました。でもクミコさんが『訓練なんだから間違えていい。分からないのに進む方が怖い』って何度も言ってくれたので」

 

 エリンは黙って聞いていた。

 

 自分が直接教えていたら。

 

 同じ言葉を使ったか。

 

 分からない。

 

 でも。

 

 クミコとマユは。

 

 自分達の言葉で。

 

 きちんと。

 

 五人へ伝えている。

 

 ◇

 

「だから今は」

 

 ルドが姿勢を少し正した。

 

「全員が、クミコさんとマユさんを信じて訓練に臨んでいます」

 

 エリンはすぐには何も言わなかった。

 

「全員?」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「エアも?」

 

「もちろんです」

 

「ナリタも?」

 

「はい」

 

「本人、ほとんど喋らないけど」

 

「ナリタは信頼していない人に質問しません」

 

「なるほど」

 

「最近はマユさんに結構質問しています」

 

「それは分かりやすいわね」

 

 ルドが小さく笑った。

 

「シャワーなんて、何かあると最初にクミコさんかマユさんを探します」

 

「それも分かりやすい」

 

「スズカも、自分から相談しています」

 

「そう」

 

 エリンの返事は短かった。

 

 けれど。

 

 内心では。

 

 かなり安心していた。

 

 ホーネットが言っていた。

 

 クミコとマユは、新人達に見下されていないか不安なのだと。

 

 実際は。

 

 正反対だった。

 

 ◇

 

「一つだけ」

 

 ルドが言う。

 

「何?」

 

「たぶんクミコさんとマユさんは、そのことを分かっていません」

 

「……でしょうね」

 

「最近、二人とも少し変です」

 

 エリンは少し笑った。

 

「気づいてた?」

 

「はい。私達の出来がいいと喜んでくれるんですけど、そのあと少し落ち込んでいるように見えます」

 

「よく見てるわね」

 

「教わっている側ですから」

 

 その言葉に、エリンは少しだけ目を細めた。

 

 ルドは続ける。

 

「もしかして、今日シュミレーションのことで注意されていたのも、それが理由ですか?」

 

「……まあ、少しはね」

 

「私達が急ぎすぎたことも原因だと思います」

 

「それはもういいわ」

 

「でも」

 

「ルド」

 

「はい」

 

「さっきも言ったでしょう? 訓練計画を決めるのは教育側。新人が先へ進みたいって言うのは普通よ。それを止めるか進めるか考えるのも教育の一部だから」

 

「分かりました」

 

 ルドは素直に引いた。

 

 ◇

 

「ただ」

 

 エリンが少し考える。

 

「聞けてよかった」

 

「クミコさんとマユさんに伝えますか?」

 

「……どうしようかしらね」

 

「伝えないんですか?」

 

「すぐには」

 

 ルドが少し意外そうな顔をする。

 

「二人は今、自分達で考えてるところだから」

 

「でも、私達が信頼していることを知れば安心すると思います」

 

「そうね」

 

「なら……」

 

「安心させることが、必ずしも今一番必要とは限らないでしょう?」

 

 ルドはそこで口を閉じた。

 

 エリンの言葉は冷たくない。

 

 むしろ穏やかだった。

 

「二人が自分達の教え方を見直して、自分達なりのやり方を探してる。それ自体は悪いことじゃない。『新人達はちゃんと信頼してるから大丈夫』って私が先に答えを渡したら、そこで安心して止まるかもしれない」

 

「……」

 

「だから、もう少しだけ見たいの」

 

 ルドはしばらく考えた後、ゆっくり頷いた。

 

「分かりました」

 

「ただし」

 

 エリンが少し笑う。

 

「二人が本当に潰れそうなら言うわよ」

 

「それなら安心しました」

 

「私、そこまで意地悪じゃないから」

 

「……」

 

「何、その間」

 

「いえ」

 

「ルド」

 

「本当に何でもありません」

 

 柔らかい口調のままだが、少しだけ笑っている。

 

「今、絶対何か考えたでしょう?」

 

「考えてません」

 

「エアより強情かもしれないわね」

 

「それはないと思います」

 

「そこは即答なのね」

 

 ◇

 

 会話が少し和らいだところで、エリンはもう一つだけ尋ねた。

 

「最後に一つ。今でも私から直接教わりたい?」

 

 ルドはその問いに少し驚いた。

 

 入社初日。

 

 自分は尋ねた。

 

 エリンさんの指導は受けられないのですか。

 

 あの時は本当にそう思っていた。

 

 少し考えてから、ルドは答えた。

 

「はい。教わりたいです」

 

「正直ね」

 

「でも、意味が変わりました」

 

「どういう意味?」

 

「最初は、クミコさんとマユさんではなく、エリンさんに教わりたいと思っていました」

 

「うん」

 

「今は、クミコさんとマユさんから教わった上で、いつかエリンさんにも見てもらいたいです」

 

 エリンは何も言わず、ルドの続きを待つ。

 

「二人から教えてもらったものが、エリンさんから見てどこまで通用するのか。自分達がどこまでスペースホープの乗務員になれているのか。それを見てもらいたいです」

 

「……そう」

 

 エリンの声が少し柔らかくなった。

 

「それなら、そのうち嫌っていうほど見るわよ」

 

「覚悟しておきます」

 

「今のうちに言っておくけど、私は細かいわよ」

 

「今日分かりました」

 

「まだあれで少ししか見てないけど」

 

「……」

 

 今度はルドが止まった。

 

「冗談ですよね?」

 

「どうかしら」

 

「エリンさん」

 

「ふふ」

 

 ◇

 

 小会議室を出ると、エア達四人がまだ記録作業を続けていた。

 

 シャワーが一番最初に顔を上げる。

 

「ルド、大丈夫だった?」

 

「大丈夫」

 

「怒られた?」

 

「怒られてないよ」

 

 エアが少し笑う。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫でしょう」

 

「でもエリンさんに一人で呼ばれたら緊張するよ……」

 

 ルドは席へ戻る前に、一度だけ振り返った。

 

 エリンはすでに廊下へ出ようとしている。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「今日はありがとうございました」

 

「こっちこそ。聞けてよかった」

 

 ルドが頭を下げる。

 

 エリンは軽く手を上げ、そのまま旅行事業部へ戻っていった。

 

 ◇

 

 廊下を歩きながら、エリンは先ほどの言葉を思い返していた。

 

 ――最初は納得していませんでした。

 

 そこは。

 

 やはりそうだったかと思う。

 

 あれだけの学校成績を持ち、自分の指導を期待して入ってきた五人だ。クミコとマユを見て、最初から何の疑問も持たない方が不自然だった。

 

 でも。

 

 ――今では全員がクミコさんとマユさんを信じて訓練に臨んでいます。

 

 そこまで。

 

 二人は自分達で持っていった。

 

 エリンが新人達へ「二人を信じなさい」と命じたわけではない。

 

 クミコとマユが、自分達の仕事で得た信頼だった。

 

「……ちゃんと届いてるじゃない」

 

 小さく呟く。

 

 もちろん。

 

 本人達には。

 

 まだ言わない。

 

 もう少し。

 

 悩んで。

 

 考えて。

 

 目の前の新人を見て。

 

 自分達なりの答えを出してもらう。

 

 それからでいい。

 

 ただ。

 

 エリンの中では。

 

 教育係にクミコとマユを選んだ判断が間違っていなかったことだけは。

 

 もう、かなりはっきりしていた。

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