機体は離陸を終え、宇宙港周辺の管制空域から指定航路へ移りつつあった。
操縦席ではリュウジが前方表示を見つめ、隣ではタツヤ班長が航法情報を確認している。後方の補助席にはナッシュがいた。出発前に念を押された通り、ナッシュは操縦系統へ触れてはいない。ただ、リュウジの手元だけは先ほどからじっと見ていた。
あまりにも操作が少ない。
離陸からここまで、リュウジはほとんど操縦桿を大きく動かしていなかった。推進出力も必要な瞬間に必要な分だけ変える。姿勢制御も、一度入れた補正が次の補正を必要としないところまで正確だった。
「……ずいぶん楽に飛ばすんだな」
ナッシュが呟く。
リュウジは前を見たまま答えた。
「まだ航路に乗せてる途中だからな」
「でも、ほとんど操作してないだろ」
「必要がない」
淡々とした返事だった。
ナッシュは少し面白くなさそうに前方画面へ視線を戻した。S級と聞いて想像していたものとは違う。もっと派手に操縦するものだと思っていた。機体性能の限界を引き出し、普通の操縦士では真似できない操作を次々に行う。少なくとも、見ている者に「違う」と分からせるようなものを想像していた。
ところが実際には、その逆だった。
何も起こらない。
揺れない。遅れない。必要以上に加速もしない。操縦室の計器に異常な数値が並ぶこともない。
リュウジは一度航法画面を確認すると、わずかに操縦桿を動かした。その瞬間、航路線からほんの少し外れかけていた機首が滑らかに戻る。ナッシュには、なぜ今だったのか分からなかった。警報は鳴っていない。航法システムも補正を要求していなかった。
「今、何で動かした?」
「粒子流が来る」
「は?」
ナッシュが前方画面を見る。表示上、まだ大きな変化はない。
その数秒後だった。
外部センサーの数値がわずかに変わり、側方からの粒子流が航路を横切った。
それでも機体は揺れなかった。
すでにリュウジが角度を合わせていたからだ。
ナッシュの表情が変わる。
「……先に分かったのか?」
「数値が出てただろ」
「警報は出てなかった」
「警報が出てから動いてたら遅い時もある」
それだけ答えると、リュウジは再び前を見る。
タツヤ班長は何も言わなかった。ただ、口元にはほんの少しだけ笑みがあった。
しばらくして管制から航路変更の指示が入った。混雑回避のため、通常よりやや狭い移行区域を通ることになる。
「了解。航路変更を受領しました」
タツヤ班長が復唱し、リュウジへデータを送る。
「来たよ」
「確認しました」
リュウジが航路表示を見る。
そして、ふと肩を回した。
「久しぶりだからな」
ナッシュが顔を上げる。
リュウジは操縦桿へ手を置いたまま、前を見ていた。
「今日は周りに気を遣わないからな」
「……何?」
ナッシュが聞き返そうとした。
だが、その言葉が最後まで出る前だった。
操縦室の空気が変わった。
「……っ」
ナッシュが息を止める。
何かが起きたわけではない。
警報も鳴っていない。機体も揺れていない。リュウジが声を荒らげたわけでもなければ、睨んだわけでもない。
ただ、リュウジから放たれるものが変わった。
先ほどまで普通に会話していた男が、突然そこから消えたような感覚だった。
視線が鋭い。
呼吸が一定になる。
周囲の音が遠ざかったように感じるほど、操縦席を中心とした空気が張り詰めていく。
威圧感。
そう表現するしかなかった。
ナッシュがこれまで会ったどんな上官とも、機長とも違う。相手を怖がらせようとして出しているものではない。だからこそ余計に重い。
目の前の男は、こちらなど見ていない。
自分を威圧しようともしていない。
ただ、操縦へ集中しただけ。
それなのに。
近づいてはいけない。
邪魔をしてはいけない。
本能的にそう思わされる。
タツヤ班長は隣で、少しだけ笑った。
「……本気で飛んでるね」
ナッシュがタツヤ班長を見る。
「これが?」
「うん。久しぶりだから、自分の感覚を全部戻したいんだろうね。だから今日は、見てる人間に分かりやすくとか、説明しながらとか、そういう余計なことをする気がない」
「周りに気を遣わないって、そういう意味か」
「そういう意味。乗客への配慮をやめるって意味じゃないよ。むしろ逆」
その間にも機体は新しい航路へ入っていく。
リュウジの指が動いた。
一度。
もう一度。
それだけだった。
機首がわずかに沈み、推進出力が下がる。次の瞬間には側方推進が入り、狭い移行区域へ機体が滑り込んだ。
ナッシュは思わず身体を前へ出した。
速い。
しかし、加速度をほとんど感じない。
操縦画面を見ると、機体はかなり大きく進行方向を変えている。それなのに客室へ伝わる負荷は最小限だった。
「……何だ、これ」
ナッシュが小さく呟く。
リュウジは答えない。
さらに航路が曲がる。
普通なら一度姿勢を戻し、次の旋回へ備えるところを、リュウジは完全には戻さなかった。残った回転を次の進路変更へ利用する。
余計な操作が一つ減る。
推進剤の消費も減る。
機体への構造負荷も小さくなる。
そして何より、乗客にはほとんど何も感じさせない。
タツヤ班長は計器を見ながら、小さく息を吐いた。
「相変わらずだなぁ」
「何がです?」
リュウジが初めて口を開く。
「いや、独り言」
「そうですか」
また集中へ戻る。
ナッシュはその横顔を見る。
先ほどまで感じていた威圧感は、まだ消えていない。
だが不思議だった。
操縦そのものは乱暴ではない。
むしろ異常なほど静かだ。
それなのに、操縦室だけが戦場のように張り詰めている。
数分後、機体は指定航路の中央へ完全に収まった。速度も姿勢も安定し、自動航行システムが通常巡航へ移行可能であることを表示する。
リュウジは数値を一つずつ確認した。
推進。
航法。
姿勢制御。
生命維持。
通信。
全て正常。
そこでようやく、操縦室を覆っていた張り詰めた空気が少しだけ薄くなった。
リュウジが息を吐く。
「タツヤ班長」
「ん?」
「後は任せてもいいですか?」
タツヤ班長が横を見る。
「いいけど、どうした?」
「客室を見てきます」
「体調悪い?」
「違います」
即答だった。
「久しぶりなので、客室側の感覚も確認しておきたいです。操縦室だけ見てても分からないので」
タツヤ班長は少しだけ目を細めた。
いかにもリュウジらしい理由だった。
「了解。こっちは任せて」
「ありがとうございます」
リュウジは自動航行状態と引き継ぎ項目を確認し、タツヤ班長へ現在の航路情報を簡潔に伝えた。
「現在、指定航路中央。速度一定。次の航路修正まで十八分。粒子流は後方へ抜けています。左舷推進器の温度が基準より少し高いですが、許容内です」
「確認した。操縦、引き継ぐよ」
「お願いします」
正式に操縦責任を引き継いでから、リュウジはシートを立った。
後方を通る際、ナッシュを見る。
「触るなよ」
短い一言だった。
「分かってる」
「ならいい」
それだけ言うと、リュウジは操縦室を出ていった。
扉が閉まる。
そして。
ナッシュはようやく、大きく息を吐いた。
「……何なんだ、あいつ」
タツヤ班長が笑う。
「怖かった?」
「別に」
「そう?」
「ただ……空気が変だった」
「まあね」
タツヤ班長は操縦を引き継ぎながら、前方画面を見る。
ナッシュは少し黙った後、先ほどまでリュウジが座っていた席を見る。
「でも、思ったより普通だった」
「何が?」
「操縦だよ。もっと凄いことするのかと思った。速度を上げるとか、普通じゃ通れないところを通るとか」
タツヤ班長の表情が少し変わった。
「……ああ」
納得したように頷く。
「そこが分かってないんだね」
ナッシュの眉が寄る。
「何だよ」
「今のが凄かったんだよ」
「どこが?」
タツヤ班長はしばらく答えなかった。
前方の航路を確認し、自動航行の状態を見る。それからようやく、いつもの穏やかな声で話し始めた。
「ナッシュ。さっきの航路変更、何回操作したか見てた?」
「……細かくは数えてない」
「ほとんど触ってないんだよ」
「だから自動制御が――」
「違う」
珍しく、タツヤ班長が途中で遮った。
「自動制御に任せられる状態を、先に作ってるんだ」
ナッシュが黙る。
「普通の操縦士は、ずれたら直す。揺れたら抑える。出力が足りなかったら足す。それ自体は間違いじゃない。でもリュウジは、ずれる前に動く。揺れる前に角度を作る。出力を足す必要があるなら、その前の操作から必要な速度を残しておく」
タツヤ班長は、自分の前に表示されている操縦ログを出した。
「ほら」
入力履歴。
ナッシュが画面を見る。
少ない。
先ほどの航路変更を考えれば、異常なほど少ない。
「これだけ?」
「これだけ」
「でも、あれだけ方向変えてたぞ」
「だから凄いんだよ」
タツヤ班長は画面を指す。
「一回の操作が一個の仕事しかしてないわけじゃない。最初の姿勢変更が、次の航路修正まで繋がってる。残った慣性を消さずに次へ使う。普通なら怖くて止めるところを、必要な分だけ残すんだ」
「……」
「昔、初めてリュウジのシミュレーションを見た時、俺も驚いたよ。入力が少なすぎて、最初は何やってるのか分かりにくかった」
ナッシュがタツヤ班長を見る。
「班長でも?」
「もちろん。俺はA級だけど、あいつはS級だからね」
さらりと言った。
負け惜しみも、誇張もない。
「でもS級だから速いとか、S級だから無茶ができるとか、そういう話じゃない。リュウジが凄いのは、無茶をしなくても普通の操縦士より先へ行けることなんだよ」
ナッシュの目が少し動く。
タツヤ班長は続けた。
「さっきの粒子流もそう。警報が出る前に数値の変化を拾ってた。航路変更も、船を一回まっすぐに戻してから曲げ直すんじゃなくて、残ってる回転をそのまま使った。だから機体へ余計な力がかからないし、客室も揺れない」
「でも、本気ならもっと速く飛べるんだろ?」
「飛べるよ」
「じゃあ、何でやらない?」
タツヤ班長は少しだけ笑った。
「必要ないから」
さっきリュウジが言った言葉と同じだった。
「旅客船だからね。目的は最速で着くことじゃない。乗客を安全に、できるだけ負担なく目的地へ運ぶこと。リュウジはそこを間違えない」
ナッシュは黙って前方を見る。
「S級っていうのは、派手なことができる資格じゃないよ。派手なことをしなきゃいけない状況でも、壊さず帰してくる。そのために、普段は誰より余計なことをしない」
タツヤ班長の声は穏やかだった。
だからこそ、ナッシュには重く聞こえた。
「さっきリュウジが『周りに気を遣わない』って言ったでしょ?」
「ああ」
「あれは君に見せるために分かりやすく飛ばさないって意味だよ。普通、後ろに訓練中の人間がいたら、操作を少しゆっくりやったり、説明したりする。でも今日はしなかった。久しぶりだから、自分の感覚を戻すことを優先した」
「……あれが普段の操縦なのか?」
「かなりね」
タツヤ班長はそこで少し笑った。
「もっと酷い状況になると、俺でも何でその操作を選んだのか後からログ見ないと分からない時があるよ」
「……そんなに違うのか」
「違う」
即答だった。
「だから、真似しようとしない方がいい」
ナッシュの目が鋭くなる。
「できないって言いたいのか?」
「今はね」
タツヤ班長は逃げなかった。
「操作だけ真似しても駄目なんだよ。リュウジが何を見て、その操作を選んだのかが分からなきゃ意味がない。あいつが一回しか動かしてないところを、君が同じように一回だけ動かしたら、たぶん修正が足りなくなる」
「……」
「技術って、操縦桿をどう動かすかだけじゃないから」
ナッシュは何も言わなかった。
目の前には、安定した航路。
客室側から異常報告もない。
何も起きていない。
だがタツヤ班長の話を聞いた後では、その「何も起きていない」という結果そのものが、先ほどまでとは違って見えた。
「それにさ」
タツヤ班長が少し声を柔らかくする。
「今のリュウジ、操縦室から出ていったでしょ?」
「ああ。客室を見るって」
「そこも覚えておいた方がいい」
「何が?」
「操縦士は、操縦室の中だけ見てればいいわけじゃない」
ナッシュが眉を寄せる。
「機体が安定してるから、自分が飛ばした船で客室がどう感じてるのか確認しに行ったんだよ。揺れはなかったか。乗客は普通に過ごせてるか。客室乗務員に余計な負担が出てないか」
「操縦ログ見れば分かるだろ」
「全部は分からないよ」
タツヤ班長は静かに答えた。
「数字では正常でも、人は怖いと感じることがある。逆に少し数値が動いてても、客室には何も感じないこともある。リュウジはそれを自分で見に行った」
ナッシュは再び、閉じた操縦室の扉を見る。
「……」
「前の便で、君は『結果的に何も起きなかった』って考えた。でも客室では乗務員が必死に動いてた。子どもを支えて、トレーを押さえて、乗客を座らせた。怪我人が出なかったのは、何も起きなかったからじゃない」
タツヤ班長の声から、笑みが消えた。
「誰かが守ったからだ」
ナッシュの表情が固まる。
タツヤ班長はそれ以上責めなかった。
「リュウジは、それを知ってる。だから客室を見に行く」
操縦室には、しばらく機械音だけが残った。
◇
その頃、客室。
エリンは前方区画で乗務状況を確認していた。
乗客は落ち着いている。シートベルトサインも消え、ククルとエマが飲み物の準備を始めていた。ミラとランもそれぞれの担当区画を回っている。
その時、操縦室側の扉が開いた。
エリンが顔を上げる。
そして、少し目を見開いた。
「……リュウジ?」
制服姿のリュウジが客室へ出てくる。
「エリンさん」
「どうしたの? 何かあった?」
「いえ」
リュウジは周囲を一度見渡した。
「客室を見に来ました」
エリンは数秒、リュウジを見る。
それから操縦室の方へ視線を向けた。
「操縦は?」
「タツヤ班長に任せました」
「体調は?」
「問題ありません」
いつもの答えだった。
エリンの目が細くなる。
「……本当に?」
「本当にです」
「ならいいけど」
リュウジは少しだけ周囲を見る。
「揺れ、どうでした?」
その問いに、エリンの表情が少し変わる。
ようやく理由が分かった。
「ほとんど感じなかったわ。ククルなんて、離陸したの気づいてた?ってエマに言われてたくらい」
「そうですか」
リュウジの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
エリンはそれを見逃さなかった。
「それを確認しに来たの?」
「はい。久しぶりだったので」
「……そう」
エリンは少しだけ笑った。
「エリンさん。少し客室を見て回ります」
「構わないけど、無理しないでね。体調が変だと思ったらすぐ言うのよ」
「分かってます」
「本当に?」
「本当にです」
エリンはまだ少し疑っているようだったが、それ以上は言わなかった。
リュウジは客室の通路へ視線を移した。
カイエはいない。
それは一目で分かる。以前なら、エリンが前方を見ている間に中間区画の状況を拾い、ククルやエマが迷えば自然に情報を渡していた。目立たないが、十四班の客室側をつなぐ役割をしていた人間だった。
そのカイエがいなくなった。
にもかかわらず、客室は乱れていなかった。
ククルは飲み物のサービスを進めながら乗客の様子も見ている。以前なら目の前の仕事に集中しすぎることもあったが、今は通路の先まで確認してからワゴンを動かしていた。少し離れたところではエマが乗客からの問い合わせへ対応しながら、ククルの動線と重ならないよう自然に位置を変えている。
さらに後方ではミラとランが担当区画を回っていた。ミラは高齢の乗客が荷物棚を気にしていることに気づき、自分から声をかけている。ランも隣の列で子どものシートベルトを確認しながら、親へ短く説明をしていた。
ガーネットは少し離れたところから全体を見ている。誰かが困るまで待つのではなく、動きが重くなりそうな区画へ先に入っていた。
リュウジはしばらく黙って見ていた。
悪くない。
いや。
かなりいい。
カイエがいないからといって、その仕事を誰か一人へ押しつけてはいない。それぞれが以前より少しだけ広く周囲を見るようになっている。
そして、その中心にいるのがエリンだった。
エリン自身が全部を動かしているわけではない。むしろ逆だ。全員が自分で動けるようにしている。
リュウジは小さく息を吐いた。
「……エリンさんのおかげか」
「何が?」
すぐ近くまで来ていたエリンが聞き返した。
「いえ。客室側、かなりいいですね」
エリンの目が少しだけ変わった。
「そう?」
「はい。カイエがいなくなった分を、誰か一人が無理に埋めてない。全員が少しずつ動く範囲を広げてる」
エリンは一度、客室を見渡した。
「私だけじゃないわ。皆が頑張ってるのよ」
「それをできるようにしたのはエリンさんでしょう」
「……そういうこと、急に言うのやめてくれない?」
「何でですか?」
「何でもない」
エリンは少しだけ視線を逸らした。
リュウジは特に気にせず、客室の奥へ歩いていった。
最初に近づいてきたのはククルだった。
「あ、リュウジさん!」
反射的に少し大きな声が出たが、すぐに自分で口元を押さえる。
「……すみません。声」
「前より自分で気づくようになったな」
「え?」
「前ならエリンさんかカイエに言われてただろ」
ククルは一瞬黙った。
カイエの名前。
以前なら少し表情を曇らせていたかもしれない。
だが今日は、小さく笑った。
「……そうですね。カイエにもよく言われてました」
「今は?」
「なるべく自分で気をつけてます。ミラ達に教える時も、エリンさんから声が大きいって言われるので」
「成長したな」
リュウジが自然に言う。
「えっ?」
ククルの顔が一気に明るくなる。
「今のもう一回言ってもらっていいですか?」
「言わない」
「何でですか!」
「聞いただろ」
「記録したいです!」
「仕事しろ」
「はい……」
肩を落としながらも、ククルは明らかに嬉しそうだった。
少し先でそのやり取りを聞いていたエマが、小さく笑う。
「ククル、今日はしばらく機嫌いいですね」
リュウジがエマを見る。
「エマも忙しそうだな」
「カイエがいなくなってから、確認するものは少し増えました。でも慣れました」
「無理してないか?」
「してないです。前より見る範囲が広くなっただけです」
「そうか」
「はい。それよりリュウジさんの方が、無理してないですか?」
「してない」
即答すると、エマは少しだけ目を細めた。
「エリンさんと同じ質問してもいいですか?」
「しなくていい」
「分かりました」
エマはあっさり引いたが、その表情には少しだけ笑いがあった。
リュウジはそのまま後方へ進む。
「リュウジさん」
ミラが先に気づいた。
「どうした?」
「いえ、その……客室まで来られると思っていなかったので」
「様子を見に来ただけだ」
「体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
少し間を置き、リュウジはミラが持っている端末を見る。
「さっき、高齢の乗客に自分から声をかけてただろ」
「見てたんですか?」
「ああ」
「荷物棚を何度か見ていらしたので、取り出したいものがあるのかと思って」
「いい判断だと思う」
ミラは一瞬目を丸くし、その後少しだけ頬を緩めた。
「ありがとうございます」
その隣からランも近づいてくる。
「リュウジさん、私も今日はちゃんと周り見てますよ」
「自分で言うのか?」
「あ……」
ランが止まる。
ミラが小さく笑う。
「ラン、そういうところ」
「だって、せっかくリュウジさんが見に来たから……」
リュウジは少しだけ口元を緩めた。
「さっき子どものシートベルト確認してただろ。あれでいい」
「本当ですか?」
「ああ。ただ声は少し抑えろ」
「はい!」
返事そのものが大きかった。
ミラがすぐに横を見る。
「ラン」
「あっ……すみません」
リュウジは何も言わず、少しだけ笑った。
最後にガーネットのいる区画へ向かう。
ガーネットは乗客への案内を終えたところだった。リュウジに気づくと、姿勢を少し正す。
「リュウジさん。客室まで来られたのですね」
「ああ。少し見に来た」
「操縦は大丈夫なのですか?」
「タツヤ班長に任せてる」
「そうでしたか」
リュウジはガーネットの担当区画を見る。
「全体を見るようになったな」
ガーネットが少しだけ目を動かす。
「カイエがいなくなりましたから」
率直な言葉だった。
「以前は、気づけばカイエが先に動いていることがありました。今はそれを期待することができませんので」
「大変か?」
「はい」
迷わず答えた。
「ですが、必要なことだと思っています。誰か一人がいなければ動けない班では、困りますから」
リュウジは静かに頷いた。
「そうだな」
そして少しだけ間を置く。
「でも、全部背負う必要もない」
ガーネットは一瞬黙った後、穏やかに答えた。
「はい。エリンさんからも同じようなことを言われています」
「やっぱりエリンさんか」
「はい」
ガーネットがほんの少し笑った。
リュウジはもう一度、客室全体を見る。
ククルが乗客へ飲み物を渡し、エマが次の列へ進む。ミラは高齢者の荷物を確認し、ランは今度こそ声量を抑えて子どもへ話しかけている。ガーネットは通路の先を見ながら次に必要になる動きを考えている。
そしてエリンは、その全員を見ていた。
リュウジが客室へ出てきてからも、自分の仕事を止めてはいない。ただ時々こちらへ視線を送っている。
体調確認だろう。
リュウジは気づいていたが、あえて言わなかった。
その時だった。
「すみません」
近くの座席から声をかけられた。
リュウジが振り向く。
中年ほどの男性客が、こちらを見上げている。
「はい?」
「もしかして、操縦士の方ですか?」
「はい」
「さっきまで操縦されていたんですか?」
「そうです」
男性は少し驚いたように笑った。
「いや、ずいぶん静かな離陸だったので。宇宙船は何度も乗ってますけど、今日はほとんど揺れなかったですね」
「ありがとうございます」
「やっぱり操縦の違いってあるものなんですか?」
リュウジが一瞬考える。
「機体や航路の条件もあるので――」
「こちらの者が何かございましたか?」
自然に横から入ったのはエリンだった。
「いやいや、苦情じゃないですよ。操縦がすごく静かだったから、少し聞いてみただけです」
「ありがとうございます。本日は航路状況にも恵まれておりますので、快適にお過ごしいただけているようでしたら何よりです」
エリンは柔らかく笑った。
「この人が機長なんですよね?」
「はい。本日の操縦責任者です」
「若いのにすごいねぇ」
男性が感心したようにリュウジを見る。
「ありがとうございます」
「普段からこの便を?」
「本日は久しぶりの乗務でして」
リュウジが普通に答える。
その瞬間、エリンが僅かにこちらを見た。
「久しぶり?」
当然、乗客が聞き返す。
「ええ。少し休――」
「一定期間、別業務に入っておりました。本日から通常運航へ戻っておりますので、ご心配には及びません」
エリンが綺麗に引き取った。
リュウジが横を見る。
エリンは笑顔のまま。
乗客には完璧な表情。
「そうだったんですか。いや、変なこと聞いてすみませんね」
「いえ。ありがとうございます。引き続きごゆっくりお過ごしください」
「ありがとう。帰りもよろしくお願いします」
「はい」
会話が終わり、二人は少し離れた。
数歩歩いたところでエリンが低い声で言う。
「リュウジ」
「はい?」
「乗客に『一週間入院してました』とか言おうとしてないでしょうね?」
「そこまでは言いません」
「今、『少し休んでました』って言おうとしたでしょう」
「事実なので」
「乗客を不安にさせる情報をわざわざ増やさないの」
「でも医師から許可は出てます」
「そういう問題じゃないの」
リュウジは少し黙った。
「……エリンさんがいて助かりました」
「分かればいいの」
「客室対応は任せます」
「最初からそうして」
エリンは呆れたように言いながらも、少しだけ笑っていた。
リュウジはもう一度客室を見渡した。
「いいですね」
「何が?」
「十四班」
エリンがリュウジを見る。
「カイエがいなくなって、もっと崩れてるかと思ってました」
「……そう」
「でも皆、動けてる」
「うん」
「エリンさんのおかげですね」
今度は、エリンもすぐには否定しなかった。
少しだけ客室を見てから答える。
「皆のおかげよ。でも……私も、少しくらいは頑張ったと思ってる」
「それでいいと思います」
「何、その上からみたいな言い方」
「そんなつもりはありません」
「本当に?」
「はい」
エリンは小さく笑った。
「そろそろ戻った方がいいんじゃない?」
「そうですね」
「タツヤ班長に全部任せて長居すると、今度はあなたが怒られるわよ」
「タツヤ班長は怒らないでしょう」
「帰ってから私が怒る」
「それなら戻ります」
「そこなの?」
リュウジは少しだけ口元を緩めた。
「では、戻ります。エリンさん、客室お願いします」
「ええ。任せて」
リュウジはククル達へ軽く手を上げ、操縦室へ向かった。ククルが遠くから嬉しそうに手を振りかけ、エマに小さく腕を押さえられている。ミラとランは会釈し、ガーネットも静かに頭を下げた。
操縦室の扉の前まで来たところで、リュウジは一度だけ客室を振り返った。
カイエはいない。
寂しさがなくなったわけではない。空いた場所も、完全には埋まっていない。
それでも十四班は止まっていなかった。
以前と同じではない。
だからこそ、今の形で動けている。
リュウジはそれを確認すると、操縦室の認証を通した。
扉が開く。
「戻りました」
タツヤ班長が前を向いたまま答える。
「おかえり。客室どうだった?」
「問題ありません。かなり良かったです」
「そっか」
後方ではナッシュがこちらを見ている。
リュウジは自分の席へ戻りながら言った。
「タツヤ班長、ありがとうございました。交代します」
「了解」
再び、リュウジの手が操縦桿へ戻る。
そしてナッシュは、先ほどタツヤ班長から聞かされた言葉を思い出していた。
操縦士は、操縦室の中だけを見ていればいいわけではない。
リュウジは本当に、自分の足で客室まで見に行き、戻ってきた。
それがS級だからできることなのか。
それとも。
S級になるような人間だから、そういうことをするのか。
ナッシュには、まだ分からなかった。