木星圏内、宇宙管理局本部。
大きな会議室の中央には、地球の立体映像が浮かび上がっていた。
青い海と白い雲に覆われていたかつての姿とは異なり、現在の地球には広範囲にわたる荒廃した大地が広がっている。かつて人類が築いた都市の多くは崩壊し、大気にも有害物質や粉塵が残っていた。
その地球を前に、ルナは朝から何度目になるか分からない打ち合わせを続けていた。
会議室には、宇宙管理局のフォックスとスリッピー。
ステファン財閥グループから派遣された建設技術者たち。
そして、宇宙管理局の環境調査担当者たちが集まっている。
議題は、二回目となる地球での活動計画だった。
「それでは、前回の視察で候補地となった場所を、もう一度確認させてください」
ルナが端末を操作すると、立体映像が拡大された。
表示されたのは、かつてフランスと呼ばれていた地域。
崩壊した旧都市圏の一角だった。
エッフェル塔と凱旋門の残骸が残る周辺には、比較的開けた土地が広がっている。
前回の地球視察で、ルナたちがようやく見つけた場所だった。
「この場所を、将来的な活動拠点の候補地として考えています。ただ、前回は時間も限られていたので、地盤や地下構造の詳細な調査まではできていません」
ルナはそう説明した。
すると、ステファン財閥グループの建設技術者が頷いた。
「確認しました。衛星画像と前回の観測資料を見る限り、地表の起伏は比較的少ないですね。ただし、地表が平らだからといって、建設に適しているとは限りません」
「はい」
「特に地下空洞の有無と、かつての都市基盤の残存状況が気になります。既存構造物の上に施設を設置してしまうと、後から地盤沈下が発生する可能性がありますので」
その説明に、フォックスが腕を組んだ。
「前回の調査でも、西側に地下空洞の反応があった。今回はそこを優先して調べるべきだな」
スリッピーも頷く。
「うん。それに、地表硬度の数値もまだ暫定値なんだ。広い範囲を測ったわけじゃないから、実際に機材を降ろす場所は慎重に選ばないとね」
ルナは端末に内容を記録した。
「分かりました。では、最初の調査項目に地盤と地下構造の確認を入れます」
◇
「それと、もう一つ」
今度は宇宙管理局の環境調査担当者が口を開いた。
「大気の状態についてですが、前回の測定結果を見る限り、防護服なしでの活動は認められません」
ルナが頷く。
「はい。そこは前回も確認しています」
「特に問題なのは粉塵と有害ガスです。濃度自体は場所によって異なりますが、短時間の観測結果だけで安全性を判断するのは危険です」
担当者は画面を切り替えた。
大気成分の分析結果が表示される。
「今回は地表付近の空気を採取して、時間帯や風向による変化も確認したいと思います。また、土壌にも有害物質が残留している可能性がありますので、サンプルを採取して分析する必要があります」
「……なるほど」
ルナは真剣な表情で画面を見つめた。
前回の地球視察では、活動拠点として使えそうな場所を見つけることが最大の目的だった。
だが、今回は違う。
実際にそこへ人や機材を送り込み、継続的な活動が可能なのかを調べなければならない。
見つけることと、使えること。
その間には、まだ大きな隔たりがあった。
「ルナ」
フォックスが静かに口を開いた。
「今回は建設工事じゃない。あくまで建設できるかどうかを判断するための調査だ。そこは間違えるなよ」
「はい。分かっています」
ルナはしっかりと頷いた。
「焦って施設を建てても、安全に活動できなければ意味がありませんから」
「そういうことだ」
フォックスは短く答えた。
その隣でスリッピーが、少しだけ嬉しそうに笑った。
「でも、いい感じじゃない? 前回は『どこで始めるか』を探してたけど、今回は『そこで何ができるか』を調べる段階まで来たんだから」
「……そうですね」
ルナの表情が少しだけ和らいだ。
「ようやく、ここまで来られました」
その言葉には、静かな実感が込められていた。
◇
午後になっても、打ち合わせは続いた。
今度の議題は、機材の輸送と現地での活動体制だった。
「建設資材を大量に持ち込む必要はありませんが、今回は地質調査用の機材が増えます」
建設技術者が資料を提示する。
「地盤測定装置、地中探査装置、土壌採取用の機材。それから、仮設の作業スペースを設ける場合には、最低限の防護設備も必要になります」
「それについては、輸送能力を確認しておこう」
フォックスが答えた。
「前回と違って、現地で使う機材も多い。輸送方法と荷下ろしの手順まで決めておく必要があるな」
スリッピーが立体映像を操作する。
「それなら、先に機材の重量と電源容量を一覧にしてもらえる? 船側で使える余裕を確認してから積載計画を組みたいんだ」
「承知しました」
技術者が頷く。
ルナは、そのやり取りを聞きながら資料へ目を落とした。
以前の自分なら、必要な機材を揃えることばかり考えていたかもしれない。
だが、今は違う。
何を持っていくべきか。
何を持っていかないべきか。
現地で何が起こったら作業を中止するのか。
そして、どうやって全員が安全に帰還するのか。
そうしたことまで含めて、一つの計画なのだと理解していた。
「……あの、一つ提案してもいいですか?」
ルナが手を挙げた。
会議室の視線が集まる。
「今回は、作業を段階的に進めたいと思っています。最初に地盤と大気の安全性を確認して、それから必要な場所に機材を降ろすようにしたいんです」
ルナは立体映像の一角を指した。
「前回、比較的状態が良かった場所はここです。でも、まだ十分に調査できていません。最初から全部の機材を設置するより、安全を確認してから作業範囲を広げる方がいいと思います」
フォックスはしばらく映像を見つめていた。
「……悪くない」
短い返事だった。
けれど、ルナには十分だった。
スリッピーも頷く。
「うん。調査の順番としても合理的だね。最初の測定結果次第で、後半の作業内容を変更できるようにしておけばいいと思う」
環境調査担当者も賛成した。
その後も意見交換が続き、調査項目と必要な人員、機材の構成が一つずつ整理されていった。
◇
夕方。
何度目かの打ち合わせを終えた頃、ようやく二回目の地球活動に向けた計画の目途が立った。
もっとも、出発が正式に決まったわけではない。
これから詳細な工程表と安全管理計画を整え、必要な承認を受けることになる。
それでも、参加する技術者たちの役割分担や、現地で行う調査内容はおおむね固まっていた。
「……よし。今日のところは、ここまでだな」
フォックスが端末を閉じた。
「残っているのは機材の最終確認と、現地での撤退条件の整理か」
「うん。あと、環境調査班から詳細な測定項目をもらえれば、僕の方で観測装置の設定をまとめられるよ」
スリッピーが答えた。
ルナは、二人へ深く頭を下げた。
「フォックスさん、スリッピーさん。今日もありがとうございました」
「まだ礼を言うのは早いぞ」
フォックスが言う。
「本番はこれからだ」
「……はい!」
ルナは笑顔で頷いた。
スリッピーが少しだけ肩をすくめる。
「でも、今日は結構進んだと思うよ。ステファン財閥の技術者たちも、かなり具体的な意見を出してくれたしね」
「そうですね。本当に助かりました」
ルナは、会議室を出ていく技術者たちの背中を見送った。
ステファン・レヴィン。
あの人物が支援を決めてくれなければ、ここまで具体的な計画にはならなかっただろう。
資金面だけではない。
建設技術者の派遣や、グループ各社の協力。
その一つひとつが、今のルナにとって大きな支えになっていた。
だからこそ、結果を出したかった。
地球で、できることを少しずつ増やしていく。
その最初の一歩を、確かなものにしたかった。
◇
会議室を出たルナは、宇宙管理局本部のラウンジへ向かった。
大きな窓の向こうには、木星の巨大な姿が広がっている。
その周囲を、小さな宇宙船がゆっくりと行き交っていた。
「……はぁ」
ルナは空いているソファへ腰を下ろし、小さく息を吐いた。
朝から資料の確認と打ち合わせを繰り返していたため、さすがに少し疲れていた。
けれど、気分は悪くない。
むしろ、心地よい疲労だった。
手元の端末を開く。
そこには、今日まとめた地球活動計画の概要が表示されていた。
調査対象地域。
予定する測定項目。
必要な機材。
参加予定の技術者。
そして、現地での安全管理。
まだ空欄は残っている。
しかし、以前に比べれば、ずっと具体的になっていた。
「……やっと、ここまで来たんだ」
ルナは小さく呟いた。
以前、ステファン財閥を訪ねた日のことを思い出す。
あの時は、自分の計画が本当に実現できるのか、不安で仕方がなかった。
企業や銀行を何社も回り、何度も計画を見直してきた。
それでも諦めずに続けてきた結果、ようやく実地調査の段階まで進むことができた。
サヴァイヴで見た自然。
太陽の温かさ。
風の匂い。
大地の感触。
そうしたものを、いつか地球でも取り戻したい。
その願いは、今も変わっていなかった。
ルナは窓の向こうの木星を眺めながら、静かに微笑んだ。
その時だった。
ピロン。
携帯端末が、軽い着信音を鳴らした。
「……あれ?」
ルナが画面へ視線を落とす。
表示された名前は──。
ハワード。
「……ハワード?」
思わず声が漏れた。
こんな時間に珍しい。
ルナは少し不思議に思いながら、通信を接続した。
「もしもし、ハワード?」
『ルナ!!』
「……わっ!」
突然の大声に、ルナは思わず端末を耳から離した。
「ちょっと、ハワード! 声が大きいよ!」
『あっ、ごめん! いや、でも聞いてよ! 凄いことになったんだよ!』
通信画面には、興奮した様子のハワードが映っていた。
普段から明るい性格ではある。
しかし、今日の彼はいつにも増して落ち着きがなかった。
「……どうしたの?」
ルナが首を傾げる。
『決まったんだよ!』
「……何が?」
『舞台! 僕が主演する舞台の公演が決まったんだ!!』
「…………えっ?」
ルナの動きが止まった。
そして、数秒後。
「……ええっ!?」
思わずソファから立ち上がりかけた。
「ハワードが主演!?」
『そう! 主演! 僕が!』
「……本当に!?」
『本当だって! さっき正式に話が決まったんだ!』
ハワードは興奮した様子で続けた。
『いやぁ、もう凄いんだよ! 今日、稽古のあとに呼ばれてさ。最初は何か注意されるのかと思ったんだけど、次の公演について話があるって言われて!』
ルナは、思わず笑顔になった。
「……凄いじゃない! ハワード、おめでとう!」
『ありがとう!!』
画面の向こうで、ハワードが大きく笑った。
◇
「でも、主演なんて本当に凄いね!」
ルナは嬉しそうに言った。
「前にも舞台に出ていたのは知ってるけど、今度は本格的な公演で主演なんでしょう?」
『そうなんだよ! 学生の頃に主演をやったことはあるけど、役者として活動を始めてから、ちゃんとした公演で主演を任されるのは初めてなんだ!』
ハワードは少しだけ照れくさそうに笑った。
『この前の舞台も頑張ったんだけどさ、やっぱり主演じゃなかったからね。でも、あれを見てくれた人たちから評価してもらえたみたいで』
「……そうだったんだ」
ルナは、静かに頷いた。
ハワードが役者を目指すと決めた頃のことを思い出す。
ハワード財閥の後継者という立場。
周囲から期待される将来。
それでも彼は、自分が本当にやりたいことを選んだ。
俳優になる。
舞台に立つ。
自分の演技で、誰かの心を動かしたい。
その夢を、彼はずっと大切にしていた。
最初から順調だったわけではない。
慣れない稽古で苦労したこともあっただろう。
思うような演技ができず、悔しい思いをしたこともあったはずだ。
それでも続けてきた。
そして今、主演という大きな役を任されることになったのだ。
「……よかったね、ハワード」
ルナの声が、少しだけ柔らかくなった。
『……うん』
ハワードも、ほんの少しだけ落ち着いた。
『本当に、よかった』
そして、照れ隠しのように笑った。
『まあ、まだ公演が成功したわけじゃないけどね! むしろ、ここからが大変なんだけど!』
「ふふっ。それはそうだね」
『主演って、思ってた以上に責任があるからさ。今から稽古のこと考えるだけで、ちょっと緊張してるんだよ』
「……ハワードでも緊張するんだ?」
『するよ! 僕を何だと思ってるの!?』
その返事に、ルナは思わず笑い出した。
◇
『そういえば、ルナは今どこにいるの?』
ハワードが尋ねた。
「宇宙管理局だよ」
『管理局? またリュウジの件?』
「ううん。今日は私の地球活動の打ち合わせ」
『ああ! そっちか!』
ハワードが頷いた。
『どう? 順調?』
「うん。二回目の地球での活動について、ようやく目途が立ってきたところなの」
『おおっ! いいじゃない!』
ハワードの顔が明るくなった。
ルナは嬉しそうに続ける。
「フォックスさんやスリッピーさん、それからステファン財閥グループの建設技術者の方々と、ずっと打ち合わせしてたんだ。環境調査の方々にも協力してもらって、今度は地盤や大気の状態を詳しく調べる予定なの」
『へえ! もうそんなに進んでるんだ!』
「まだ調査の段階だけどね。前回見つけたフランスの候補地が、本当に活動拠点として使えるのか確認しないといけないから」
『……そっか』
ハワードは少しだけ表情を和らげた。
『でもさ、ルナも本当に凄いよね』
「……え?」
『だって、最初は企業に何度も断られてたんでしょ? それでも諦めないで、今はちゃんと建設技術者まで集まってるんだから』
ルナは、少しだけ照れたように笑った。
「……みんなのおかげだよ」
『それでも、最初にやりたいって言い出したのはルナじゃない』
「……そうだけど」
『だから、もっと喜んでいいと思うよ!』
ハワードは明るく笑った。
『僕が主演に決まったのと同じくらい、ルナの方だって大きな一歩なんだから!』
その言葉に、ルナは少しだけ目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう、ハワード」
『どういたしまして!』
◇
「……でも、本当に嬉しいな」
ルナは、少しだけ懐かしそうに呟いた。
『何が?』
「みんなが、それぞれ自分の夢に向かって進んでること」
ハワードは黙って聞いていた。
「カオルは宇宙飛行士で頑張ってるし、メノリも秘書業として頑張ってる。ベルは惑星開拓技師、シャアラは小説家として頑張ってる。シンゴはメカニックとして働いてるでしょう? ハワードも役者になって、今度は主演まで決まった」
『……うん』
「私も地球での活動を進めてるし……何だか、みんな本当に大人になったんだなって思う」
通信画面の向こうで、ハワードが少しだけ笑った。
『……ルナ、それはさすがにお母さんみたいな言い方じゃない?』
「ええっ!? そんなことないよ!」
『いや、今の完全にそうだったよ! 「みんな大きくなったわねぇ」って感じだった!』
「もう、ハワード!」
二人は声を上げて笑った。
その笑い声は、サヴァイヴで過ごしていた頃とほとんど変わらなかった。
あの頃は、明日の食べ物や飲み水の心配をしていた。
自分たちが無事に帰れるのかさえ分からなかった。
将来の夢を語ることはできても、それを実現できる保証など、どこにもなかった。
けれど今。
彼らは、それぞれの場所で自分の未来を築こうとしている。
そのことが、ルナには何より嬉しかった。
◇
『……あっ、そうだ!』
ハワードが突然声を上げた。
「どうしたの?」
『リュウジにも言っておいてくれない?』
「……リュウジに?」
『そう! 僕が主演になったって!』
ルナは少しだけ笑った。
「自分で連絡しないの?」
『もちろん後で連絡するつもりだけどさ! ルナ、今ちょうど宇宙管理局にいるんでしょ? リュウジも近くにいるかもしれないじゃない』
「……まあ、そうだね」
『それに、リュウジには絶対知らせたいんだよ』
ハワードは、少しだけ真面目な表情になった。
『僕が役者になるって決めた時も、色々話を聞いてくれたからさ』
ルナは静かに頷いた。
リュウジ。
かつてサヴァイヴで、仲間たちを守り続けていた人物。
そして帰還後も、それぞれの人生を歩み始めた仲間たちと、変わらず関わり続けている人物だった。
ハワードにとっても、彼の存在は大きかったのだろう。
『それにさ』
ハワードは少しだけ笑った。
『いつか僕が大きな舞台に立つ時は、リュウジにも見に来てもらいたいって思ってたんだ』
「……うん」
『まあ、あいつ今は色々忙しいだろうし、無理にとは言わないけどね。でも、主演が決まったことくらいは知ってほしいんだよ』
その声は、いつもより少しだけ穏やかだった。
ルナも優しく微笑んだ。
「……分かった。ちゃんと伝えておくね」
『頼んだよ!』
ハワードが嬉しそうに笑う。
そして、突然思い出したように続けた。
『あっ、あとさ! ルナも絶対見に来てよ!』
「もちろん!」
『本当!?』
「うん! 予定が合えば絶対行くよ!」
『よーし! じゃあ、特等席を用意しておかないとね!』
「ふふっ。まだ席も決まってないんじゃない?」
『そこは主演の力で何とかする!』
「……ハワード、あんまり無理言わないでね?」
『分かってるって!』
その返事が、あまりにもいつものハワードらしくて、ルナはまた笑ってしまった。
◇
通話が終わったあと。
ルナはしばらく画面を見つめていた。
主演。
舞台。
ハワードが、自分の夢に向かってまた一歩進んだ。
それが嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。
「……本当に、よかったね」
小さく呟いた時だった。
「何がよかったんだい?」
隣から声がした。
振り返ると、スリッピーが飲み物のカップを二つ持って立っていた。
「あっ、スリッピーさん」
「会議室に戻ったらいなかったからさ。休憩してるのかと思って」
スリッピーは片方のカップを差し出した。
「はい、これ」
「ありがとうございます!」
ルナは笑顔で受け取った。
スリッピーは隣のソファへ腰を下ろした。
「それで、何かいいことでもあった?」
「はい! 友達から嬉しい連絡があったんです!」
「へえ!」
スリッピーが興味深そうに顔を向ける。
「どんな?」
「ハワードっていう友達なんですけど、俳優を目指していて……今度、初めて本格的な舞台で主演することが決まったんです!」
「おおっ! それは凄いね!」
スリッピーが目を輝かせた。
「主演ってことは、舞台の中心になるんでしょ?」
「はい!」
「いやぁ、凄いなぁ。ルナちゃんの周りって、本当に色々なことをしてる人がいるんだね」
ルナは少しだけ照れくさそうに笑った。
「……そうですね」
そして、窓の外へ視線を向けた。
「みんな、それぞれ頑張ってるんです」
その言葉に、スリッピーは小さく頷いた。
「……いいことだね」
◇
少しして、ルナは端末を取り出した。
「……そうだ」
ハワードから頼まれたことを思い出す。
リュウジにも伝えておいてほしい。
その言葉を思い返しながら、ルナはメッセージ画面を開いた。
宛先は、リュウジ。
指先を動かし、短い文章を打ち込む。
──リュウジ、今ちょっといい?
──ハワードから連絡があったんだけど、初めて本格的な舞台で主演することが決まったんだって!
──リュウジにも伝えてほしいって言ってたよ。
送信。
ルナは端末を置き、温かい飲み物を一口飲んだ。
しばらくすると、画面が小さく光った。
返信だった。
──そうか。よかったな。
──ハワードに、おめでとうと伝えてくれ。
それだけの短い文章。
けれど、ルナには十分だった。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれる。
いかにもリュウジらしい返事だった。
ルナはすぐに返信する。
──うん! ちゃんと伝えるね!
そして、もう一言付け加えた。
──リュウジも、時間が合えば一緒に舞台を見に行こうね。
送信すると、ルナは端末を閉じた。
返事は急がなくてもいい。
リュウジには、今も東の未探索領域に関する重要な計画がある。
それでも、いつか仲間たちと一緒にハワードの舞台を見られたら。
きっと楽しいだろう。
そんなことを考えていると、自然と心が温かくなった。
◇
「……ルナ」
少し離れた場所から、フォックスの声が聞こえた。
ルナが顔を上げる。
「あっ、フォックスさん」
「明日の打ち合わせ用の資料、確認しておいてくれ。今日出た修正点を反映したものだ」
「はい!」
ルナは立ち上がり、端末を受け取った。
そこには、二回目の地球活動に向けた新しい工程表が表示されていた。
調査班の配置。
機材の輸送計画。
環境調査の実施順序。
建設技術者たちが確認する項目。
そして、現地での安全管理体制。
まだ正式な出発決定には至っていない。
けれど、少しずつ形になっている。
「……ありがとうございます」
ルナは資料を確認しながら言った。
フォックスは短く頷いた。
「焦るなよ。今日は進んだが、まだ確認することは多い」
「はい。分かっています」
「ならいい」
フォックスはそう答え、再び会議室へ戻っていった。
スリッピーも立ち上がる。
「さて、僕も残りの解析を片づけてこようかな」
「お疲れ様です、スリッピーさん」
「ルナちゃんも無理しないでね」
「はい!」
スリッピーを見送ったあと、ルナは再び窓の外へ顔を向けた。
巨大な木星。
その向こうに広がる宇宙。
そして、遥か遠くにある地球。
自分がこれから活動しようとしている場所は、まだ人が安心して暮らせる環境ではない。
大気も、土地も、かつての文明が残した傷も、簡単に元へ戻るものではなかった。
それでも、できることはある。
少しずつでも、前へ進むことはできる。
それは、今までの経験が教えてくれたことだった。
◇
その頃。
ハワードは、稽古場の片隅で台本を眺めていた。
先ほどまでルナと話していた時の興奮は、まだ冷めていない。
けれど、手元の台本を開くと、不思議と気持ちが引き締まった。
主演。
その言葉には、想像していた以上の重みがあった。
舞台の中心に立つ。
多くの出演者とスタッフが、一つの作品を成功させるために動く。
その中で、自分は重要な役割を担うことになる。
嬉しい。
もちろん嬉しい。
けれど、嬉しいだけでは済まされない。
「……よし」
ハワードは小さく呟いた。
そして、台本を開き直す。
「絶対、いい舞台にしてみせるぞ」
その顔には、いつもの明るさとは少し違う、俳優としての真剣さが宿っていた。
ハワード財閥の後継者としてではなく。
誰かの名前や立場に頼るのでもなく。
自分自身の演技で評価される役者として。
彼は、初めての本格的な主演舞台へ向かって歩き始めていた。
◇
一方、宇宙管理局。
ルナはもう一度、地球活動の工程表へ目を落とした。
明日も打ち合わせがある。
確認しなければならないことも、修正しなければならない資料も、まだ山ほど残っていた。
それでも、不思議と疲れは軽くなっていた。
ハワードから届いた、嬉しい知らせ。
それは、今のルナにとって何よりの励みになっていた。
「……私も頑張らなきゃ」
ルナは小さく微笑んだ。
かつてサヴァイヴで、同じ空を見上げていた仲間たち。
今はそれぞれが違う場所で、自分の未来へ向かって進んでいる。
ハワードは舞台へ。
シンゴは宇宙船の整備へ。
リュウジは未知の宇宙への挑戦へ。
そして、自分は地球へ。
進む道は違っても、あの星で共に過ごした時間が消えることはない。
ルナは端末を胸元に抱え、窓の向こうに広がる宇宙を見つめた。
そして、静かに笑った。
「……みんな、凄いなぁ」
けれど、すぐに首を横へ振る。
自分だって、負けてはいられない。
今の自分には、やりたいことがある。
地球で、もう一度、人が自然と向き合える場所をつくること。
その夢を、少しずつでも現実にしていくこと。
ルナは端末を開き、翌日の打ち合わせ資料を確認し始めた。
その表情は、朝よりもずっと明るかった。
別々の場所で歩き始めた、かつてのサヴァイヴの仲間たち。
彼らの夢は、もう遠い未来の話ではなかった。
少しずつ、確かに、現実になり始めていた。
――――――
木星圏、宇宙管理局本部。
東の未探索領域に関する計画は、ここ数日で少しずつ形を変え始めていた。
ネフェリスを使った有人調査を実施する前に、まずは無人探査機を送り込み、重力異常や通信障害の発生状況を確認する。
現在は、そのための運用計画を詰めている段階だった。
リュウジ自身も必要な資料の確認には参加していたが、少なくとも無人探査機の運用が進んでいる間、彼が直接操縦桿を握る機会はない。
そんな日の午後だった。
宇宙管理局の執務スペースで航行記録を確認していたリュウジの端末に、一件の通知が届いた。
「……ん?」
差出人はハワード。
先日、初めて本格的な舞台で主演を務めることが決まったと、ルナを通じて報告してきたばかりだった。
リュウジが通信を開くと、明るい文面が表示された。
『リュウジ! 主演舞台の電子チケットを送るよ! せっかくだから何枚か用意しておいた! みんな誘って観に来てくれよ!』
その下には、公演案内と複数枚の電子チケットが添付されていた。
開催場所は、木星圏の文化区画にある劇場。
以前ハワードが出演した舞台とは別の公演で、今回は彼の名前が主演として大きく掲載されていた。
「……随分、張り切ってるな」
リュウジは小さく笑った。
ハワードらしい。
何か嬉しいことがあれば、まず仲間に知らせたくなる。
しかも、ただ知らせるだけではなく、こうして複数枚のチケットまで送ってくるのだから。
リュウジは公演日を確認した。
自分の勤務予定と照らし合わせる。
「……空いてるな」
珍しく、その日に外せない任務は入っていなかった。
東の未探索領域に関する計画も、当面は無人探査機の準備と事前解析が中心だ。
もちろん、計画が変更される可能性はある。
それでも、現段階で自分が拘束される予定はなかった。
リュウジは少し考え、ハワードへ返信した。
『チケット、受け取った。ありがとう。予定を確認して、誰か誘ってみる』
すると、すぐに返信が届いた。
『よし! 絶対観に来てくれよ! 今回は本当に自信あるんだ!』
その勢いに、リュウジは思わず口元を緩めた。
「……主演か」
ハワードが、自分の夢に向かって着実に進んでいる。
そのことを、リュウジは素直に嬉しく思った。
◇
最初に連絡したのは、ルナだった。
少し前にハワードから主演決定の連絡を受けていた彼女なら、今回の公演にも興味があるだろうと思ったからだ。
通信を接続すると、しばらくしてルナが画面に現れた。
『あっ、リュウジ!』
「ルナ。今、少しいいか?」
『うん。ちょうど休憩してたところ。どうしたの?』
「ハワードから舞台のチケットが届いた。何枚か送ってきたから、一緒に行かないかと思ってな」
『……ああ! 主演の舞台だよね!』
ルナの表情が明るくなった。
しかし、すぐに少し残念そうな顔になる。
『……実はね、私も行きたかったんだけど』
「何かあるのか?」
『うん。ちょうど地球活動の打ち合わせと被っちゃったの』
「……そうか」
『ステファン財閥グループの建設技術者さんたちと、次の調査に向けた最終確認があるんだ。フォックスさんとスリッピーさんも一緒だから、さすがに私だけ抜けるわけにはいかなくて』
ルナは困ったように笑った。
『ハワードには申し訳ないんだけどね』
「気にするな。今は地球の活動を優先した方がいい」
『……うん。ありがとう』
ルナは少しだけ表情を和らげた。
前回の地球視察で見つけた活動拠点の候補地。
その地盤や大気、地下構造を詳しく調査するため、彼女は連日打ち合わせを重ねている。
簡単に日程を動かせるものではないことを、リュウジも理解していた。
『あっ、でもね』
ルナが何かを思い出したように顔を上げた。
「ん?」
『シャアラとメノリは行くみたいよ』
「……あの二人もか」
『うん! ハワードが出演するって聞いて、二人とも予定を空けたみたい』
リュウジは、少しだけ意外そうな顔をした。
「メノリはともかく、シャアラも行くんだな」
『ふふっ。シャアラも舞台に興味があるみたい。それに、ハワードが主演するなら応援したいって』
「……そうか」
『メノリなんて、前の公演も観に行ってたでしょう? 今回も楽しみにしてると思うよ』
ルナは嬉しそうに笑った。
『リュウジも、ぜひ観に行ってあげてね。ハワード、きっと喜ぶから』
「ああ。そのつもりだ」
『……でも、珍しいね』
「何がだ?」
『リュウジから誰かを誘うなんて』
リュウジは一瞬だけ黙った。
「……チケットが余ってるからな」
『ふふっ。そういうことにしておくね』
「……何だ、その反応は」
『何でもないよ!』
ルナは楽しそうに笑った。
◇
次にリュウジが向かったのは、ネフェリスの整備ドックだった。
船体の中枢系統の見直しを進めているチャコなら、管理局にいるはずだった。
予想どおり、チャコは機械室で端末に向かっていた。
周囲には制御系統の立体図が幾つも表示され、複数の配線経路が色分けされている。
「チャコ」
「ん? 何や、リュウジ」
チャコは端末から顔を上げずに答えた。
「今、少しいいか?」
「手ぇ動かしながらでええならな。何や?」
「ハワードの舞台のチケットが届いた。何枚かあるんだが、一緒に行かないか?」
その瞬間。
チャコの指が止まった。
「…………は?」
ゆっくりとリュウジへ顔を向ける。
「……舞台?」
「ああ。今度、主演をやるらしい」
「そら知っとるけど……」
チャコは、周囲の端末を順番に指差した。
「リュウジ。これ見てみぃ」
「……何だ?」
「ネフェリスの中枢系統、重力制御、通信補完、予備電源。まだ見直し終わっとらんところが山ほどあるんやで?」
「ああ」
「そこへ何や? 舞台を観に行かへんか、やて?」
チャコは呆れたように両手を広げた。
「そんな暇あらへん!」
「……そうか」
「そうか、やないわ!」
チャコは再び端末へ向き直った。
「こっちは今、無人探査機の観測結果を使ってネフェリス側の補正条件を見直す準備もしとるんや。中枢の検証が途中で止まったら、後で面倒なことになるやろ」
「分かった。無理には誘わない」
「当たり前や!」
そう言いながらも、チャコは少しだけ表情を緩めた。
「……まあ、ハワードにはおめでとうって伝えといてくれ。主演なんて、よう頑張ったやないか」
「ああ。伝えておく」
「それと、リュウジ」
「何だ?」
「お前は行ってこい」
リュウジが少しだけ眉を上げた。
チャコは端末の画面を切り替えながら続ける。
「今は無人機を先に出す計画になっとるんやろ? その間、お前がずっとここに張りついとっても仕方ないやん」
「……必要になれば動く」
「必要になったら呼ぶわ。せやから、たまには休んでこい」
チャコは軽く手を振った。
「ハワードの舞台なんて、そう何回も初主演があるわけちゃうんやからな」
リュウジは、しばらくチャコを見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……そうだな」
◇
整備ドックを出たリュウジは、今度はシンゴへ通信を入れた。
数回の呼び出し音のあと、明るい声が返ってくる。
『あっ、リュウジ! どうしたの?』
「シンゴ。仕事中だったか?」
『うん。でも少しなら大丈夫だよ!』
通信の向こうから、工具の音と誰かの話し声が聞こえた。
どうやら恒星間輸送船の整備現場にいるらしい。
「ハワードの主演舞台のチケットがあるんだ。一緒に行かないか?」
『ええっ!? ハワードの舞台!?』
シンゴの声が一気に明るくなった。
『凄いじゃない! 主演が決まったって話は聞いたけど、もう公演の日程が決まったんだね!』
「ああ。チケットも届いた」
『行きたいなぁ! ……あっ、でも』
シンゴの声が少しだけ小さくなった。
『ちょっと待って。日程っていつ?』
リュウジが公演日を伝える。
すると、通信の向こうで端末を操作する音が聞こえた。
『……あーっ!』
「どうした?」
『駄目だぁ……。その日、ちょうど忙しいんだよね』
「整備か?」
『うん。今担当してる恒星間輸送船の点検があってさ。しかも、ちょうど大事な工程なんだ。僕も担当から外れられなくて』
シンゴは残念そうに続けた。
『せっかくハワードの主演舞台なのになぁ……』
「仕事なら仕方ない。気にするな」
『うん。でも、ハワードにはおめでとうって伝えておいて! それから、ナイスファイトだねって!』
「……舞台はまだ始まってないぞ」
『あははっ! そうだった!』
シンゴの明るい笑い声が返ってくる。
『じゃあ、絶対いい舞台にしてねって伝えて!』
「ああ。分かった」
『それと、リュウジ!』
「何だ?」
『僕の分まで楽しんできてよ!』
その言葉に、リュウジは少しだけ笑った。
「……ああ」
◇
チャコも駄目。
シンゴも駄目。
ルナは地球活動の打ち合わせがあり、シャアラとメノリはすでに行く予定らしい。
リュウジは端末に表示された電子チケットを眺めた。
「……さて、どうするか」
ハワードは気を利かせて複数枚送ってくれたのだろうが、思っていた以上に皆の予定が合わなかった。
そこで、一人の顔が浮かぶ。
ペルシア。
宇宙管理局の仕事をしている彼女なら、少なくとも今の調査計画については事情を理解している。
もっとも、忙しいことも十分承知していた。
リュウジは端末を操作し、ペルシアへ通信を入れた。
『……はいはい、ペルシアよ』
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってきた。
「ペルシア。今、少しいいか?」
『何よ、リュウジ。今度はネフェリスの件?』
「いや、違う」
『……あら?』
ペルシアの声が、少しだけ意外そうになる。
『珍しいわね。じゃあ何?』
「ハワードの主演舞台のチケットが届いたんだ。何枚かあるんだが、一緒に行かないか?」
数秒の沈黙。
そして。
『……舞台?』
「ああ」
『ハワードの?』
「そうだ」
『へえ! あの子、もう主演を任されたのね!』
ペルシアは嬉しそうに声を上げた。
『凄いじゃない! 前の公演も頑張ってたものねぇ』
「それで、どうだ?」
リュウジが尋ねる。
すると、ペルシアは即答した。
『無理無理!』
「……即答だな」
『だって、その日は朝からアルビオンに行かなきゃいけないのよ』
「アルビオン?」
『そう。外せない仕事が入ってるの。しかも朝からだから、舞台どころじゃないわ』
「……そうか」
『残念だけど、今回は無理ね。ハワードにはよろしく伝えておいて』
「ああ。分かった」
リュウジが通信を切ろうとした時だった。
『……ちょっと待ちなさいよ』
「何だ?」
『あんた、もしかして今、舞台を観に行く相手を探してるの?』
「……そうだが」
ペルシアは、少しだけ笑った。
『誰を誘ったの?』
「ルナとチャコ、それからシンゴだな」
『……で?』
「全員予定が合わなかった」
『あははっ! そういうことね!』
ペルシアの楽しそうな笑い声が響く。
リュウジは少しだけ眉を寄せた。
「……そんなに面白いか?」
『面白いわよ。あんたが舞台のチケットを持って、誰を誘おうか考えてるなんて、昔じゃ想像できなかったもの』
「……そうか?」
『そうよ!』
ペルシアは、なおも楽しそうに笑っていた。
◇
『……ねえ、リュウジ』
しばらくして、ペルシアが口を開いた。
「何だ?」
『私を誘うぐらいなら、エリンを誘ったら?』
「…………」
リュウジは一瞬だけ黙った。
『何よ、その沈黙』
「……エリンさんか」
『そう。エリン』
ペルシアは、当然のように続けた。
『あの子、以前もハワードの舞台を観に行ってるでしょう? それに、ちゃんと演技を見る目もあると思うわよ』
「……そうだったな」
リュウジは、以前エリンがハワードの舞台を観に行ったことを思い出した。
あの時、エリンはただの観客としてではなく、ハワードの話を聞くためにも劇場へ足を運んでいた。
彼の演技についても、きちんと評価していたはずだ。
『それに、エリン以外にも舞台が好きな子はいると思うわよ』
ペルシアは続ける。
『スペースホープには乗務員がたくさんいるんだから。何枚もあるなら、声をかけてみたらいいじゃない』
「……なるほど」
『ミラやランだっているし、ホーネットやシルヴィアもいるでしょう? ユウコやナツキたちも、興味があれば喜ぶかもしれないわね』
リュウジは静かに頷いた。
スペースホープ。
そこなら、ハワードの舞台に興味を持つ者もいるかもしれない。
何より、エリンとは最近も何度か顔を合わせていた。
東の未探索領域に関する計画では、彼女から厳しい条件を示され、全員で帰還するための約束まで交わしている。
だからこそ、仕事とは関係のない話で会いに行くのは、少しだけ不思議な気がした。
「……分かった。エリンさんに聞いてみる」
『うん。それがいいと思うわ』
ペルシアは満足そうに答えた。
しかし、すぐに別の話題を持ち出した。
『……それから、リュウジ』
「何だ?」
『あんた、しばらく休んだら?』
「……休む?」
『そう』
ペルシアは、少しだけ真面目な声音になった。
『ちょうど今は、無人探査機を飛ばす計画でしょう? あんたが直接操縦するわけじゃないんだから、今の段階では出番もないじゃない』
「……解析には参加できる」
『それは分かってるわよ。でも、だからって毎日管理局に来る必要がある?』
リュウジは答えなかった。
ペルシアは続ける。
『無人機の運用は担当班が進めるし、ネフェリスの改修はチャコとサツキが中心になってる。今、あんたがずっと横で見てても作業が早くなるわけじゃないでしょう?』
「……まあ、そうだな」
『なら、少し休みなさいよ』
その言い方は、軽いようでいて妙にきっぱりとしていた。
『ここしばらく、あんたは東の未探索領域のことで頭がいっぱいだったでしょう? サヴァイヴを探したい気持ちは分かるけど、四六時中そのことばかり考えてたら疲れちゃうわよ』
「……疲れてはいない」
『はいはい。そう言うと思った』
ペルシアは呆れたように笑った。
『あんたの「疲れてない」は信用してないのよ』
「……ひどい言い方だな」
『事実でしょう?』
リュウジは小さく息を吐いた。
ペルシアは、そこで少しだけ声を和らげた。
『ねえ、リュウジ。ハワードの舞台を観に行くくらい、いいじゃない。別に遊んだら任務に戻れなくなるわけじゃないんだから』
「……それは分かってる」
『それに、エリンだってきっと喜ぶと思うわよ』
「……どうしてだ?」
『何よ。分からないの?』
「……?」
通信の向こうで、ペルシアが深いため息をついた。
『……本当に、あんたってそういうところ鈍いわねぇ』
「何の話だ?」
『もういいわ』
ペルシアは笑った。
『とにかく、たまには普通に休日を過ごしなさい。エリンを誘って、ハワードの舞台を観に行く。それでいいじゃない』
「……そうだな」
『うん。それでよし』
彼女の声が明るくなる。
『じゃあ、私は仕事に戻るわよ。アルビオンへ行く準備もしなきゃいけないんだから』
「ああ。忙しいところ悪かった」
『いいのよ。ハワードにはおめでとうって伝えておいてね』
「分かった」
『それじゃあ、エリンにもよろしく!』
そこで通信が切れた。
◇
リュウジは端末を下ろし、しばらく画面を見つめていた。
ハワードから届いた電子チケット。
複数枚の招待券が、まだそのまま残っている。
「……エリンさん、か」
小さく呟く。
最近、エリンとは仕事の話ばかりしていた。
東の未探索領域。
ネフェリス。
護衛機の運用。
そして、全員で帰還するための条件。
あの夜、スペースホープの会議室で話し合った内容は、今でも鮮明に覚えている。
エリンは、ただ危険だから行くなとは言わなかった。
行くのであれば、全員が帰ってこられる計画にすること。
誰か一人の自己犠牲を前提にしないこと。
そして、リュウジ自身も帰還すること。
その条件を、一つひとつ真剣に示してくれた。
リュウジにとって、それは大きな出来事だった。
サヴァイヴを探したいという自分の願いに、エリンが現実的な形で向き合ってくれたからだ。
しかし。
今から彼女にしようとしている話は、まったく違う。
舞台を観に行かないか。
それだけだった。
命に関わる判断でもなければ、宇宙管理局の承認が必要な話でもない。
ただの誘い。
リュウジは、思わず小さく笑った。
「……妙な感じだな」
それでも、悪い気はしなかった。
◇
リュウジは端末を開き、スペースホープの勤務状況を確認しようとして、ふと手を止めた。
エリンもチーフパーサーとして働いている。
突然訪ねれば、仕事の邪魔になるかもしれない。
先に連絡を入れるべきだろう。
そう考えたところで、ペルシアの言葉が浮かんだ。
──私を誘うぐらいなら、エリンを誘ったら?
──たまには普通に休日を過ごしなさい。
「……そうだな」
リュウジは立ち上がった。
今日、スペースホープへ行くこと自体は難しくない。
以前から何度も足を運んでいる場所だ。
仕事の都合で会えなければ、また改めて連絡すればいい。
それに、チケットのことを直接説明した方が話も早い。
リュウジは机の上に残っていた資料を整理し、担当者へ必要な連絡を入れた。
無人探査機の運用計画に大きな変更はない。
自分がすぐに対応しなければならない作業も、今のところ残っていなかった。
上着を羽織り、端末をポケットへ収める。
そして、宇宙管理局の執務スペースを後にした。
◇
数時間後。
スペースホープ本社。
旅行事業部のある建物の前に、リュウジの姿があった。
ガラス張りのエントランスからは、社員たちが行き交う様子が見える。
以前訪れた時と比べても、建物の中は随分と活気づいていた。
旅行商品の案内を確認する社員。
フライトの運航状況を報告する担当者。
乗務員用の制服を着て、資料を片手に足早に歩く女性たち。
スペースホープが少しずつ事業を拡大し、組織として成長していることが、その光景からも伝わってきた。
リュウジは入口の前で足を止め、建物を見上げた。
「……相変わらず忙しそうだな」
小さく呟く。
エリンがこの会社へ出向してから、スペースホープは大きく変わった。
乗務員の教育体制。
現場の運用。
そして、新しいフライトへの挑戦。
ワイルドフライト賞を受賞したことも、リュウジは聞いていた。
もっとも、エリン自身はその成果を一人のものだとは考えていないだろう。
彼女なら、きっと乗務員全員で積み重ねてきた結果だと言うはずだった。
そんなことを考えていると、自然と口元が緩んだ。
リュウジはもう一度、端末を確認した。
画面には、ハワードから届いた電子チケットが表示されている。
主演として記された、ハワードの名前。
そして、公演日。
何枚もあるチケットのうち、果たして何枚を使うことになるのか。
まだ分からない。
ただ、一つだけ決めていることがあった。
まずはエリンに声をかけてみよう。
それだけだ。
リュウジは端末を閉じ、エントランスへ足を踏み入れた。
自動扉が静かに開く。
受付の女性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。スペースホープへようこそ」
リュウジは軽く会釈した。
「こんにちは。少し、お伺いしたいことがあるんですが」
受付の女性が、丁寧に微笑む。
「はい。どのようなご用件でしょうか?」
リュウジは、一度だけ端末に視線を落とした。
そして、顔を上げる。
「旅行事業部のエリンさんはいらっしゃいますか?」
仕事の相談ではない。
危険な任務の説明でも、帰還条件の確認でもない。
今日はただ、昔からの仲間が初めて主演する舞台へ、彼女を誘うために来たのだった。
宇宙管理局では、いつも危険な任務や難しい判断に向き合っているリュウジ。
だが、こうして誰かを舞台に誘うために会社を訪ねるのは、彼にとって随分と久しぶりのことだった。
受付の女性が来訪者用の端末を操作する。
その間、リュウジは静かに待っていた。
──さて。
エリンさんは、何と言うだろうか。
そんなことを考えながら。
スペースホープでの、いつもとは少し違う訪問が始まろうとしていた。