スペースホープ本社。
旅行事業部の受付でエリンへの面会を申し出たリュウジは、受付担当者から少し申し訳なさそうな表情を向けられていた。
「申し訳ございません。エリンは現在、乗務員のシミュレーション訓練を担当しております」
「……そうですか」
リュウジは小さく頷いた。
「どのくらいで終わるか分かりますか?」
「本日の訓練は複数の班に分かれて実施しておりますので、終了時刻が多少前後するかもしれません。お急ぎのご用件でしょうか?」
「いえ、急ぎではありません。少し話があっただけなので」
リュウジは穏やかに答えた。
ハワードから送られてきた舞台の電子チケット。
その件でエリンを誘おうと訪ねてきたものの、仕事の邪魔をするつもりはなかった。
シミュレーション訓練の途中でチーフパーサーを呼び出す必要もない。
「それなら、ロビーで待たせてもらいます」
「かしこまりました。エリンへ来訪された旨をお伝えいたします」
「ありがとうございます」
リュウジは軽く会釈すると、受付から少し離れた待合スペースへ向かった。
ロビーには、旅行商品の案内映像が流れている。
以前訪れた時には見かけなかった新しい案内も増えていた。
航路の紹介。
旅行プランの案内。
利用者向けのサービス情報。
そして、壁の一角にはワイルドフライト賞の受賞を知らせる掲示があった。
将来的に宇宙旅行業界のTOP10入りが期待される企業として評価された、スペースホープの新しい実績。
リュウジは、その掲示をしばらく眺めていた。
「……随分、変わったな」
小さく呟く。
以前、エリンに頼まれて若いパイロットたちを指導した頃。
スペースホープは、まだ立て直しの途中だった。
乗務員の訓練も、社内の業務体制も、改善しなければならないことが山ほどあった。
あの時の慌ただしい雰囲気を思い出すと、今の活気あるロビーは随分と違って見える。
そんなことを考えながらソファへ向かおうとした、その時だった。
「……あれ?」
背後から、聞き覚えのある女性の声がした。
「もしかして……リュウジさん?」
振り返る。
そこには、二人の女性が立っていた。
ミラとシルヴィアだった。
◇
「……ミラ、シルヴィア」
リュウジが二人へ顔を向ける。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです!」
ミラが嬉しそうに笑った。
シルヴィアも、丁寧に頭を下げる。
「お久しぶりです、リュウジさん。今日はどうされたんですか?」
「エリンさんに少し用事があって来たんだが、今は訓練中らしいな」
「ああ、そうなんです」
ミラは納得したように頷いた。
「エリンさん、今日は朝からシミュレーションルームに入りっぱなしなんですよ」
「……そんなに忙しいのか?」
リュウジが尋ねる。
すると、ミラは少し困ったように笑った。
「ワイルドフライト賞の影響もありますし、新人も入ってきて、毎日大忙しですよ」
「……そうなのか」
「はい。ありがたいことに、以前よりお仕事のお話も増えていますし、乗務員の教育も進めなければいけませんから」
ミラはそう言って、少しだけ肩をすくめた。
「最近なんて、訓練が終わったと思ったら次の打ち合わせが始まって、そのあとにまた別の班の指導が入ったりするんです」
シルヴィアも頷いた。
「新しく入社された五人の教育もありますし、既存の乗務員も定期的に訓練を受けています。エリンさんだけでなく、ミラさんやランさんもお忙しいんですよ」
「……そうなんです」
ミラが苦笑する。
「でも、嬉しい忙しさですよ。以前は仕事が少なくて、訓練ばかりしていた時期もありましたから」
その言葉に、リュウジは静かに頷いた。
スペースホープが苦しい時期を経験していたことは、彼も知っている。
特に、ミラとランは会社が厳しい状況に陥った後も残り、乗務員たちを支えてきた。
だからこそ、今の忙しさには特別な意味があるのだろう。
「……順調そうで何よりだ」
リュウジが言うと、ミラは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
そして、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、リュウジさん。エリンさんとは何かお約束をされていたんですか?」
「いや、今日は特に約束してなかった」
「そうなんですね」
「急ぎの用事でもないから、ロビーで待たせてもらおうと思ってたんだ」
その言葉を聞いたミラが、少し驚いたように瞬きをした。
「……えっ? ロビーでですか?」
「ああ」
「そんな、こちらに来てください!」
「……?」
リュウジが首を傾げる。
ミラは旅行事業部のある方へ手を向けた。
「事務所で待っていてください。 ここでずっとお待たせするのも申し訳ないですから」
シルヴィアも微笑んだ。
「そうですよ。皆さんもリュウジさんがお見えになったら、きっと喜ぶと思います」
「……仕事の邪魔にならないか?」
「大丈夫です。皆さん、自分のお仕事をされていますし、今は事務所にいる人もそれほど多くありませんから」
ミラはそう答えると、明るく笑った。
「それに、以前パイロットの皆さんを指導してくださったでしょう? 久しぶりにお会いできたら、きっと嬉しいと思います」
リュウジは少し考えた。
以前、スペースホープのパイロットたちを指導した時のことを思い出す。
あの頃は、随分厳しいことも言った。
彼らにとって、自分はあまり会いたい相手ではないかもしれない。
しかし、ミラはそんなことを考えている様子もなく、嬉しそうに待っている。
「……分かった。少しお邪魔する」
「はい!」
ミラは満足そうに頷いた。
◇
三人はエレベーターに乗り、旅行事業部のフロアへ向かった。
エレベーターの中でも、ミラは最近の仕事について話していた。
「新人五人も、少しずつ会社に慣れてきたんですよ」
「この前入った子たちか?」
「はい。ルド、エア、スズカ、ナリタ、シャワーの五人です」
リュウジが小さく頷く。
「もう訓練に入ってるのか?」
「もちろんです。最初は基本的な接遇や保安業務からですけど、みんな一生懸命ですよ」
「……そうか」
シルヴィアが微笑む。
「皆さん、覚えることが多くて大変そうですけど、先輩たちにも積極的に質問されています」
「それに、クミコとマユも頑張ってるんですよ」
ミラが続けた。
「今度は自分たちが教える立場になったので、最初は随分緊張していたみたいですけど」
「……なるほど」
リュウジは少しだけ笑った。
以前、クミコたちが初めて実際のフライトを経験した頃。
彼女たちはまだ緊張で身体を固くしていた。
その姿を知っているだけに、今は後輩の指導を任されているという話が少し不思議だった。
「……みんな成長してるんだな」
リュウジが呟く。
ミラは嬉しそうに頷いた。
「はい。エリンさんも、そこは本当に喜んでいらっしゃいます」
そして、少しだけ笑みを深めた。
「もっとも、その分、指導も厳しくなってますけどね」
「……想像できる」
リュウジが小さく笑う。
シルヴィアも苦笑した。
「エリンさん、良くなったところはきちんと褒めてくださるんですけど、改善しなければいけないところは絶対に見逃されませんから」
「そういう人だからな」
リュウジは頷いた。
エリンの仕事に対する姿勢は、昔から変わらない。
安全に関わることには一切妥協しない。
その一方で、誰かが成長した時には、自分のことのように喜ぶ。
そんな彼女だからこそ、多くの乗務員たちが信頼を寄せているのだろう。
◇
やがて、エレベーターが目的の階へ到着した。
扉が開く。
旅行事業部のフロアには、以前訪れた時とは違う活気があった。
電話対応をする社員。
フライトの予定表を確認する乗務員。
訓練記録を整理する者。
端末を片手に相談し合っている若い社員たち。
それぞれが自分の仕事を理解し、忙しく動いている。
誰かが指示を出さなければ何も進まない、という雰囲気ではなかった。
「……随分、活気があるな」
リュウジが呟く。
ミラは嬉しそうに笑った。
「そうでしょう?」
そして、事務所の扉を開いた。
「お疲れ様です!」
ミラの声に、室内から何人もの返事が返ってきた。
「お疲れ様です!」
「お帰りなさい!」
その直後だった。
「……あっ!」
机に向かっていた一人の女性が、顔を上げた。
サリーだった。
「……リュウジさん!?」
驚いたように立ち上がる。
その声につられて、近くにいたナツキも顔を向けた。
「……えっ?」
そして、リュウジの姿を認める。
「あっ! リュウジさん!」
二人はすぐに近づいてきた。
「お久しぶりです!」
ナツキが明るく頭を下げる。
サリーも、少し緊張した様子で続けた。
「お、お久しぶりです。今日はどうされたんですか?」
「久しぶりだな、二人とも」
リュウジは穏やかに答えた。
「エリンさんに用事があって来たんだが、今は訓練中らしいから、少し待たせてもらうことになった」
「……そうだったんですね」
ナツキは納得したように頷いた。
「エリンさんなら、今は新人のシミュレーションを見ていらっしゃいますよ。今日は少し時間がかかっているみたいです」
「そうか」
「でも、もう少ししたら一度戻られると思います」
その説明を聞き、リュウジは小さく頷いた。
「分かった。ありがとう」
すると、サリーが控えめに口を開いた。
「あの……リュウジさん」
「ん?」
「お飲み物、何かお持ちしましょうか?」
「……いや、そこまで気を遣わなくても大丈夫だ」
「でも、せっかく来ていただいたので……」
サリーは少しだけ困ったように笑った。
その様子を見たナツキが、くすりと笑う。
「サリー、リュウジさんが困っちゃうでしょ」
「……あっ、ごめんなさい」
サリーが慌てて頭を下げる。
リュウジは少しだけ笑った。
「いや、ありがとう。じゃあ、水を一杯もらえるか?」
「はい!」
サリーの表情がぱっと明るくなった。
彼女はすぐに給湯スペースへ向かった。
その後ろ姿を見ながら、リュウジは少しだけ目を細めた。
以前のサリーは、周囲に気を配りすぎるあまり、自分がどこで動くべきか迷ってしまうところがあった。
しかし、今は違う。
相手を気遣う優しさはそのままに、必要な時には自分から動こうとしている。
それは小さな変化だったが、確かな成長だった。
「……サリーも随分変わったな」
リュウジが呟く。
ナツキは嬉しそうに笑った。
「そうなんですよ。最近はフライトでも、自分から判断して動けることが増えてきたんです」
少し離れた場所にいたミラも頷く。
「サリーは、もともと周囲の様子を見るのが上手でしたから。その良さが少しずつ仕事に活かせるようになってきたんですよ」
「……そうか」
リュウジは静かに頷いた。
◇
その時だった。
「……あれ?」
事務所の奥から、男性の声がした。
リュウジが顔を向ける。
そこには、パイロット用の制服を着た若い男性が立っていた。
彼はリュウジの姿を認めた瞬間、驚いたように目を見開いた。
「……リュウジさん!?」
その声に、近くにいた別の若いパイロットたちも一斉に顔を上げた。
「えっ?」
「……本当だ!」
「リュウジさん!?」
次の瞬間。
三人ほどの若いパイロットが、慌てて姿勢を正した。
「お久しぶりです!」
「ご無沙汰しております!」
揃って頭を下げる。
リュウジは、少しだけ驚いたように瞬きをした。
「……久しぶりだな」
そして、彼らの顔を順番に見渡した。
「元気にしてたか?」
「はい!」
一人が勢いよく答える。
その様子に、リュウジは少しだけ笑った。
見覚えのある顔ぶれだった。
以前、エリンの依頼でスペースホープの若手パイロットを指導した時の教え子たち。
あの頃は、まだC級ライセンスを持つ若いパイロットが中心だった。
操縦技術に対する自信はあった。
しかし、旅客便を運航することの意味については、十分に理解していない者もいた。
リュウジが最初に伝えたのは、操縦技術のことではなかった。
乗客を乗せて飛ぶという責任。
客室乗務員との連携。
そして、操縦席の外で何が起こっているのかを理解することの重要性だった。
「……随分、しっかりした顔になったな」
リュウジが言うと、若いパイロットの一人が少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとうございます」
そして、少しだけ真面目な表情になる。
「リュウジさんに教えていただいたこと、今でも忘れていません」
「……そうか」
「特に、最初に言われた言葉は……」
そこで、彼は少しだけ苦笑した。
「今でも思い出します」
リュウジが首を傾げる。
「何を言った?」
若いパイロットは、一瞬だけ躊躇した。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……『パイロットは操縦だけできればいいと思ってるなら辞めろ』って」
「…………」
周囲が静かになった。
ナツキが思わず目を丸くする。
「……そんなこと言われたんですか?」
「……はい」
若いパイロットは苦笑した。
「最初の訓練で、いきなり言われました」
ミラは、思わず小さく笑ってしまった。
「……リュウジさんらしいですね」
シルヴィアも、少しだけ口元を緩めた。
リュウジ本人は、特に気にした様子もなかった。
「……間違ったことは言ってないだろう?」
「はい。今なら分かります」
若いパイロットは真剣な表情で頷いた。
「当時は、操縦技術さえあれば十分だと思っていたところがありました。でも、実際に旅客便へ乗るようになってから、考え方が変わりました」
彼は少しだけ視線を落とした。
「乗客の方々がどんな状態なのか、客室乗務員が何を必要としているのか。そういうことを知らないまま飛んでいたら、いいパイロットにはなれないんだって」
その言葉に、リュウジは静かに頷いた。
「……そうだな」
そして、少しだけ表情を和らげる。
「そこが分かっているなら、十分成長してる」
「……ありがとうございます!」
若いパイロットは嬉しそうに頭を下げた。
◇
「……そういえば、リュウジさん」
別のパイロットが口を開いた。
「何だ?」
「以前、ご一緒させていただいた学生さんたちのフライト、覚えていらっしゃいますか?」
「ああ。高等部の生徒たちを乗せた便だな」
「はい!」
彼は嬉しそうに頷いた。
「あの時、客室で体調を崩された生徒さんがいらっしゃったでしょう?」
「……ああ」
リュウジは、その時のことを思い出した。
初めて宇宙船へ乗る生徒たち。
慣れない環境。
体調を崩す者が出れば、その不安が周囲の乗客にも広がる可能性があった。
あの時は、エリンをはじめとする客室乗務員たちが落ち着いて対応していた。
リュウジも、若いパイロットと一緒に客室の状況を確認したはずだった。
「……あの時は、勉強になりました」
若いパイロットが言う。
「操縦席の中にいるだけじゃ、客室で何が起きているのか分からないこともありますから」
リュウジは頷いた。
「そうだな。だからこそ、客室側との連携が必要になる」
「はい」
「ただし、飛行中に何でも客室へ見に行けばいいわけじゃない。操縦席を守る責任もある。状況に合わせて判断しろ」
「分かりました!」
その返事は、以前よりもずっと落ち着いていた。
リュウジは少しだけ満足そうに目を細めた。
彼らは確かに成長している。
以前は技術を覚えることで精一杯だった若者たちが、今では旅客便を運航する一員として、自分の責任を理解し始めていた。
◇
「……何だか懐かしいですね」
ナツキが、少しだけ笑いながら言った。
「リュウジさんが講師として来られていた頃、事務所全体が凄い緊張感でしたから」
ミラも笑う。
「そうですね。パイロットの皆さん、毎日随分厳しく指導されてましたから」
若いパイロットたちは、揃って苦笑した。
「……あの頃は本当に大変でした」
「毎日、訓練が終わるとぐったりでしたからね」
すると、リュウジが静かに口を開いた。
「……そんなに厳しくしたつもりはないんだが」
「…………」
一瞬、全員が黙った。
そして。
「……えっ?」
ミラが思わず声を漏らす。
ナツキも、目を丸くした。
若いパイロットたちは顔を見合わせた。
「……リュウジさん」
一人が遠慮がちに口を開く。
「何だ?」
「……あれで、厳しくされていなかったんですか?」
「ああ」
リュウジは当然のように頷いた。
「必要なことを教えただけだ」
「…………」
再び沈黙。
そして、ミラがとうとう吹き出した。
「……ふふっ!」
ナツキも笑い始める。
「やっぱり、リュウジさんって凄いですね……!」
シルヴィアは、少し困ったように笑った。
「きっと、皆さんにとっては相当大変だったと思いますよ」
リュウジは小さく肩をすくめた。
「……そうか」
その返事があまりにも自然で、今度こそ事務所に笑い声が広がった。
◇
その時、サリーが水の入ったグラスを持って戻ってきた。
「リュウジさん、お待たせしました」
「ありがとう」
リュウジが受け取る。
サリーは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「どうぞ、ごゆっくりしてください」
「ああ。ありがとう」
サリーは軽く頭を下げると、自分の席へ戻っていった。
その姿を見送りながら、リュウジは事務所の中を見渡した。
以前より、明らかに雰囲気が明るい。
必要な連絡が自然に交わされ、社員たちが互いに声をかけながら仕事を進めている。
それでいて、騒がしいだけではない。
それぞれが自分の役割を理解し、必要な時には集中する。
そんな空気が、事務所全体に根づき始めていた。
「……いい会社になってきたな」
リュウジが静かに呟いた。
ミラが顔を向ける。
「……えっ?」
「前に来た時より、随分雰囲気がいい」
その言葉に、ミラは一瞬だけ目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
少しだけ照れくさそうに続ける。
「まだまだ改善しなければいけないことはありますけど、みんな頑張ってますから」
シルヴィアも頷いた。
「ワイルドフライト賞をいただけたことも、自信につながっていると思います。ただ、それで満足してはいけないとエリンさんもおっしゃっています」
「……だろうな」
リュウジは小さく笑った。
いかにもエリンらしい。
評価されたことを喜びながらも、それを最終的な成果だとは考えない。
次に何を改善するべきか。
どんな乗務員を育てるべきか。
どのような会社を目指すのか。
きっと彼女は、今もそんなことを考えているのだろう。
◇
「……ところで、リュウジさん」
ミラが、ふと思い出したように口を開いた。
「何だ?」
「今日は、エリンさんにどのようなご用件だったんですか?」
リュウジは手元の端末へ視線を落とした。
画面には、ハワードから送られてきた電子チケットが保存されている。
「……ああ。ちょっとした誘いだ」
「……誘い?」
ミラが首を傾げる。
隣にいたシルヴィアも、少しだけ興味深そうに顔を向けた。
「どこかへお出かけされるんですか?」
「まあ、そんなところだな」
リュウジはそう答えた。
しかし、それ以上は何も言わない。
ミラとシルヴィアは顔を見合わせた。
「……そうなんですね」
ミラは小さく頷いた。
そして、少しだけ笑った。
「でしたら、エリンさんが戻られるまで、ゆっくりしていってくださいね」
「ああ。ありがとう」
リュウジはグラスを持ち上げ、水を一口飲んだ。
その間にも、事務所では何人もの社員が忙しく行き交っている。
サリーは訓練記録を整理し、ナツキはフライトの予定表を確認していた。
若いパイロットたちも、リュウジへの挨拶を終えると、それぞれの仕事へ戻っていった。
ただ、時折こちらへ視線を向けては、何かを相談するように小声で話している。
どうやら、久しぶりに訪れた元教官の存在が気になるらしい。
そんな様子を見て、リュウジは少しだけ笑った。
──本当に、変わったな。
スペースホープ。
かつては会社の立て直しに苦しんでいた場所が、今は若い乗務員やパイロットたちの成長する場所になっている。
その中心には、エリンがいる。
そして、彼女が育てた仲間たちがいる。
リュウジは、事務所の奥にある扉へ視線を向けた。
その先には、シミュレーションルームへ続く通路がある。
エリンは、まだ訓練を続けているのだろう。
今日の用件は、いつものような危険な任務の相談ではない。
まして、仕事を依頼しに来たわけでもなかった。
ハワードが初めて主演する舞台。
その公演へ、彼女を誘いたい。
ただ、それだけだった。
リュウジは端末をポケットへ戻すと、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
──たまには、こういう用事で来るのも悪くないな。
そんなことを考えながら、エリンが戻ってくるのを静かに待っていた。
ーーーー
## 第○話 思いがけない訪問者
スペースホープ本社、旅行事業部。
午後の事務所には、社員たちが端末を操作する音や、フライトに関する打ち合わせの声が絶え間なく響いていた。
ワイルドフライト賞の受賞以来、スペースホープへの注目は以前にも増して高まっている。
将来的に宇宙旅行業界のTOP10入りが期待される企業として評価されたことは、社員たちにとって大きな励みになっていた。
さらに、新しい乗務員五人が入社したことで、旅行事業部は連日のように訓練と業務に追われている。
そんな事務所の一角に、リュウジの姿があった。
エリンに用事があって訪ねてきたものの、彼女はシミュレーション訓練の真っ最中。
ロビーで待とうとしていたところをミラとシルヴィアに見つかり、こうして事務所へ案内されたのだった。
「……しかし、本当に忙しそうだな」
リュウジが周囲を見渡しながら呟く。
隣にいたミラが嬉しそうに笑った。
「そうなんですよ。ワイルドフライト賞の影響もありますし、新人も入ってきて、毎日大忙しです」
「新人五人だったか?」
「はい。ルド、エア、スズカ、ナリタ、シャワーの五人です。今日はエリンさんが中心になって、クミコとマユも一緒にシミュレーションを担当しているんですよ」
「……クミコとマユも、教える側になったんだな」
リュウジが少し感心したように言う。
シルヴィアも微笑んだ。
「そうなんです。まだ経験は浅いですけど、お二人とも後輩の教育を一生懸命されています。エリンさんも、少しずつ指導を任せるようになっていらっしゃいますよ」
「……そうか」
リュウジは小さく頷いた。
かつて、スペースホープの乗務員たちが必死に訓練を重ねていた頃を思い出す。
あの時のクミコやマユは、自分の仕事を覚えることで精一杯だった。
それが今では、後輩の指導を任される立場になっている。
会社の成長とは、こういうことなのだろう。
「……いいことだな」
リュウジが呟くと、ミラは嬉しそうに頷いた。
「はい。本当にそう思います」
◇
一方、その頃。
事務所から少し離れたシミュレーションルームでは、最後の訓練が終了しようとしていた。
『訓練終了。全システムを通常状態へ復帰します』
電子音声とともに、模擬客室の照明が明るくなる。
先ほどまで再現されていた緊急事態の映像が消え、客室内に静けさが戻った。
「……はい。今日はここまでにしましょう」
エリンの落ち着いた声が響いた。
緑色の長い髪を背中へ流し、手元の端末を閉じる。
その前には、ルド、エア、スズカ、ナリタ、シャワーの新人五人が並んでいた。
「お疲れ様でした!」
五人が揃って頭を下げる。
しかし、その表情には疲労が滲んでいた。
「……はぁ、緊張したぁ」
エアが小さく息を吐く。
隣にいたルドも苦笑した。
「最後の想定、難しかったね」
「うん。お客様への対応に集中してたら、後方の状況確認が遅れちゃった」
スズカが悔しそうに呟く。
そんな五人へ、エリンが静かに口を開いた。
「みんな、お疲れ様。今日の訓練、最初よりは随分よくなっていたわよ」
その言葉に、五人の表情が少しだけ明るくなる。
「……ただし」
エリンが続けると、全員の背筋が伸びた。
「まだ改善しなければならないところは多いわ。特に、目の前のお客様への対応と、客室全体の状況確認を両立させることね」
「……はい」
「ルドは最初の声かけがよかったわ。エアもお客様に安心してもらおうとする気持ちは伝わっていた。ただ、二人とも少し判断を抱え込みすぎね。困ったら、周りの乗務員に伝えること」
「はい!」
「スズカは周囲の状況をよく見ていたわ。ナリタは手順が正確だったし、シャワーも落ち着いて対応できていた。でも、その情報を他の乗務員へ伝えるのが少し遅かったわね」
三人が真剣な表情で頷く。
「……分かりました」
エリンは微笑んだ。
「大切なのは、一人で全部できるようになることじゃないの。客室乗務員はチームで仕事をするんだから」
その言葉に、クミコが一歩前へ出た。
「エリンさん、私からも少しお話ししていいですか?」
「ええ。お願い」
クミコは新人五人へ顔を向けた。
「みんな、今日の訓練は最初よりずっとよくなってたと思うよ。でも、全部自分で何とかしようとしなくてもいいんだよ。私も新人の頃、同じことを何度も注意されたから」
マユも頷いた。
「そうそう。自分がちゃんとできているかばかり気にしていると、周りが見えなくなっちゃうんだよね。だから、困った時は先輩にも遠慮なく伝えてね」
ルドが頷く。
「ありがとうございます、クミコさん、マユさん」
その様子を見ていたエリンは、少しだけ目を細めた。
かつては、何をするにも自分へ確認していた二人。
その二人が今、後輩たちに自分の経験を伝えている。
「……いいわね、二人とも」
クミコとマユが振り返った。
「……え?」
「今の説明、分かりやすかったわよ。ちゃんと自分たちの経験を言葉にできるようになったのね」
クミコは少し照れたように笑った。
「ありがとうございます、エリンさん」
マユも嬉しそうに頭を下げる。
「まだまだですけど、頑張ります」
「ええ。その調子よ」
エリンは満足そうに頷いた。
「それじゃあ、事務所へ戻りましょう。今日の反省点は、あとで記録にまとめて提出してね」
「はい!」
◇
数分後。
旅行事業部の事務所。
リュウジが以前指導した若いパイロットたちと話していた時だった。
奥の通路から、何人もの足音が近づいてきた。
「……だから、次はもう少し早く周りへ伝えてみて。自分一人で判断しようとしなくてもいいんだから」
「はい。分かりました!」
聞き覚えのある声。
リュウジが顔を上げる。
事務所の扉が開いた。
「お疲れ様。みんな、戻ったわよ」
先頭に立っていたのは、エリンだった。
その後ろにはクミコとマユ。
さらに、ルド、エア、スズカ、ナリタ、シャワーの五人が続いている。
「お疲れ様です!」
ナツキが顔を上げて声をかけた。
「お疲れ様。ナツキ、次の便の資料はもう届いてる?」
「はい。先ほど共有されました。確認が必要なところはまとめてあります」
「ありがとう。あとで確認するわね」
エリンはそう答え、手元の端末へ視線を落とした。
すると、ミラが席を立った。
「エリンさん、お疲れ様です」
「あら、ミラ。どうしたの?」
「実は、お客様がいらっしゃってるんです」
「……お客様?」
エリンが顔を上げる。
「ええ。エリンさんにご用事があるそうで」
ミラは少し嬉しそうに笑った。
「こちらです」
その視線の先。
事務所の一角にいたリュウジが、ゆっくりと立ち上がった。
「……お疲れ様です、エリンさん」
「…………え?」
エリンの動きが止まった。
そして、少し驚いたように目を丸くする。
「……リュウジ?」
「お久しぶりです」
「……どうしたの? 来るなんて聞いてなかったけど」
エリンは驚いた表情のまま、リュウジへ歩み寄った。
「ペルシアから何か頼まれたの?」
「いえ、今日は仕事の話ではないんです」
「……仕事じゃない?」
エリンが首を傾げる。
リュウジは小さく笑った。
「はい。少しお話があって来たんです。訓練中だと伺ったので、待たせてもらっていました」
「……そうだったの。それなら、先に連絡してくれればよかったのに」
「すみません。急ぎの用事ではありませんでしたから」
「……もう」
エリンは小さく息を吐いた。
しかし、その表情には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「まあ、せっかく来てくれたんだもの。ゆっくりしていって」
「ありがとうございます」
◇
「……あっ!」
その時、エリンの後ろにいたクミコが声を上げた。
「リュウジさん!」
マユも顔を向ける。
「……えっ!? 本当だ!」
二人は慌てて姿勢を正した。
「お久しぶりです!」
クミコが笑顔で頭を下げる。
マユも続いた。
「お久しぶりです、リュウジさん!」
「久しぶりだな。二人とも元気そうだ」
リュウジは穏やかに答えた。
「はい!」
クミコは嬉しそうに頷いた。
「最近は新しい乗務員の教育も任せていただいているんです」
「さっきミラから聞いた。二人とも教える側になったんだな」
「……はい。でも、まだエリンさんに教えていただくことばかりで」
マユが少し照れたように笑う。
すると、エリンが横から口を開いた。
「そんなことないでしょう? 今日だって、二人ともちゃんと指導できてたじゃない」
「……エリンさん」
「自信を持ちなさい。もちろん、まだ勉強することはあるけどね」
エリンが微笑む。
その言葉に、クミコとマユは嬉しそうに頷いた。
リュウジは、そんな三人を見つめながら小さく笑った。
「……随分、頼もしくなったな」
「ありがとうございます!」
クミコが嬉しそうに頭を下げる。
その表情には、以前よりも確かな自信があった。
◇
「……あの」
控えめな声が聞こえた。
リュウジが顔を向ける。
そこには、新人五人が少し緊張した様子で立っていた。
先頭のルドが、恐る恐る口を開く。
「……もしかして、リュウジさんですか?」
「ああ。そうだが」
その返事を聞いた瞬間、五人の表情が変わった。
「……えっ!?」
エアが思わず声を上げる。
「ほ、本当に!?」
スズカも驚いたように目を丸くした。
「S級宇宙飛行士の……?」
「ああ」
リュウジは小さく頷いた。
その瞬間。
「……えええっ!?」
エアの声が事務所に響き渡った。
近くにいたナツキが思わず吹き出す。
「……ふふっ。驚くよね」
新人たちは慌てて背筋を伸ばした。
「は、初めまして!」
ルドが頭を下げる。
「初めまして!」
他の四人も続いた。
リュウジは、その様子を見て少しだけ困ったように笑った。
「……そんなに緊張しなくてもいいぞ」
しかし、ナリタは真剣な表情だった。
「あの、私たち、リュウジさんのお話は何度も伺っていたので……」
「話?」
「はい。以前、こちらのパイロットの皆さんをご指導されたと聞いています」
シャワーも頷いた。
「S級宇宙飛行士の方に、直接お会いできるとは思っていませんでした」
リュウジは少しだけ眉を上げた。
そして、近くにいた若いパイロットたちへ視線を向ける。
「……お前たち、何を話したんだ?」
「……えっ?」
若いパイロットの一人が固まった。
「い、いえ! 特に変なことは話してません!」
「……そうか?」
「はい!」
その返事を聞いて、エリンが小さく笑った。
「ふふっ。リュウジ、あなたが以前ここでどんな訓練をしていたのか、新人たちの間でも結構有名なのよ」
「……そうなんですか?」
「ええ。特にパイロットの子たちは、随分厳しく教えてもらったみたいだから」
エリンが楽しそうに続けた。
すると、若いパイロットの一人が慌てて口を開いた。
「で、でも! 本当に勉強になりました!」
その必死な様子に、事務所から笑い声が漏れた。
「……エリンさん」
リュウジが少し困ったように口を開く。
「俺は、そこまで厳しく指導したつもりはないんですが」
「……本当に?」
「はい。必要なことを伝えただけです」
その答えを聞いた若いパイロットたちは、揃って顔を見合わせた。
「…………」
ミラが、とうとう吹き出した。
「……ふふっ!」
エリンも口元を押さえて笑った。
「もう、あなたって本当にそういうところがあるわよね」
「……そうでしょうか?」
「そうよ」
エリンは楽しそうに微笑んだ。
そんな二人のやり取りを、新人五人は少し不思議そうに眺めていた。
S級宇宙飛行士。
その肩書きから、もっと近寄りがたい人物を想像していたのだろう。
けれど、実際のリュウジは落ち着いた雰囲気で、エリンやミラたちと自然に会話を交わしている。
しかも、エリンに対しては丁寧な敬語を使っていた。
その姿は、新人たちにとって少し意外だった。
◇
「……ところで、エリンさん」
クミコが少しだけ不思議そうに尋ねた。
「何?」
「リュウジさんは、今日は何かお仕事でいらっしゃったんですか?」
「……それが、仕事じゃないみたいなのよ」
エリンはリュウジへ顔を向けた。
「ねえ、リュウジ。何か用事があるって言ってたけど、どうしたの?」
その言葉に、クミコとマユが顔を見合わせた。
「……お仕事じゃないんですか?」
マユが小さく呟く。
「珍しいですね」
クミコも少し意外そうだった。
以前リュウジがスペースホープへ来た時は、パイロットの指導やフライトへの協力など、仕事に関係することがほとんどだった。
その彼が、今日は仕事ではない用事でエリンを訪ねてきたという。
自然と興味が湧くのも無理はなかった。
リュウジは少しだけ笑った。
「実は、エリンさんをお誘いしたいことがありまして」
「……私を?」
エリンが首を傾げる。
「はい」
その言葉に、ミラが少しだけ目を丸くした。
シルヴィアも、興味深そうに顔を向ける。
「……お誘い?」
ミラが小さく呟いた。
エリンはリュウジを見つめた。
「……何かしら?」
その声音には、純粋な好奇心があった。
リュウジは手元の端末へ視線を落とした。
「……ああ、その前に」
「何?」
「皆さんの訓練が終わったばかりのところ、すみません。少しお時間をいただいても大丈夫ですか?」
エリンは一瞬だけ目を丸くした。
そして、柔らかく微笑んだ。
「もちろんよ。今ちょうど一区切りついたところだもの」
そう言って、新人五人へ振り返った。
「みんな、今日の訓練記録をまとめておいてね。それから、クミコとマユは指導記録も提出してちょうだい」
「はい!」
クミコとマユが頷く。
新人五人も揃って返事をした。
「分かりました!」
「じゃあ、解散。お疲れ様」
「お疲れ様でした!」
五人は頭を下げると、それぞれの机へ向かった。
クミコとマユも、後輩たちへ声をかけながら記録の整理を始める。
エリンは、その様子を確認してからリュウジへ向き直った。
「……ごめんなさいね。今日は少し訓練が長引いちゃって」
「いえ、気にしないでください。忙しいところへ突然来たのは俺の方ですから」
「ふふっ。そう言ってもらえると助かるわ」
エリンは微笑んだ。
そして、自分の席に置いてあった端末を机へ戻した。
「……それにしても、本当に久しぶりね。最近は宇宙管理局の方も忙しいんでしょう?」
「はい。東の未探索領域の件で、色々と準備を進めています」
「……そうでしょうね」
エリンは静かに頷いた。
その表情には、わずかな真剣さが戻る。
「ネフェリスの改修も進めてるって聞いたけど、どうなの?」
「まだ検討段階です。チャコが中心になって進めていますが、今は無人探査機を先に送り込む計画になっています」
「……そう」
エリンは少しだけ安心したように息を吐いた。
「それなら、すぐに危険な場所へ行くわけじゃないのね」
「はい。有人での調査を判断するのは、無人機の観測結果を確認してからになります」
「……よかった」
その短い一言に、リュウジは静かに目を細めた。
エリンが、自分の身を案じてくれていることは理解している。
そして、その心配を軽く扱ってはいけないことも。
しかし、今日はその話をするために来たわけではなかった。
「……エリンさん」
「何?」
「実は、今日は別の用事で来たんです」
「……別の用事?」
「はい」
リュウジは端末を取り出した。
そして、ハワードから届いた電子チケットを表示する。
「ハワードから、これが届きまして」
画面には、華やかな舞台公演の案内が映し出されていた。
主演の欄には、ハワードの名前が大きく記されている。
エリンは、その画面を覗き込んだ。
「……あら?」
そして、少し驚いたように目を丸くする。
「……ハワードの舞台?」
「はい。今度、初めて本格的な舞台で主演を務めるそうです」
「……まあ!」
エリンの表情が、一気に明るくなった。
「本当に!? あの子、ついに主演が決まったのね!」
その声に、少し離れた席で資料を整理していたミラが顔を上げた。
クミコとマユも、思わずこちらを見る。
リュウジは小さく笑った。
「はい。本人も随分張り切っていましたよ」
「ふふっ。そうでしょうねぇ。あの子、昔から演技のことになると本当に楽しそうだったもの」
エリンは嬉しそうに画面を眺めていた。
ハワード。
かつて、ハワード財閥の後継者という立場と、自分の夢との間で悩んでいた少年。
それでも彼は、自分が本当にやりたいことを選んだ。
俳優としての道を歩み始め、舞台に立つために努力を続けてきた。
以前の公演でも、彼は決して主演ではなかった。
それでも、エリンには彼の成長がはっきりと感じられていた。
そのハワードが、今度は主演を任されたという。
「……よかったわねぇ、ハワード」
エリンが静かに呟いた。
その声音には、心からの喜びが込められていた。
◇
「……それで、エリンさん」
リュウジが口を開いた。
「何?」
「ハワードから、電子チケットを何枚か送ってもらったんです」
「……あら、そうなの?」
「はい。本人からも、皆さんを誘って観に来てほしいと言われまして」
リュウジは画面を切り替えた。
そこには、公演日時と座席情報が表示されている。
「ルナにも声をかけたんですが、地球活動の打ち合わせと重なってしまったそうです。チャコもネフェリスの改修で忙しく、シンゴも仕事の都合がつかなくて」
「……そうだったのね」
エリンは静かに頷いた。
「それで、ペルシアにも聞いてみたんですが、その日はアルビオンへ行く予定があるそうで」
「……ペルシアも駄目だったの?」
「はい」
リュウジは少しだけ苦笑した。
「それで、ペルシアからエリンさんを誘ってみたらどうかと言われまして」
「…………」
エリンが一瞬だけ黙った。
そして、ゆっくりと目を細める。
「……ペルシアが?」
「はい」
「……ふふっ」
エリンは小さく笑った。
「もう、あの子ったら」
その言い方には、長年の付き合いを感じさせる親しみがあった。
ペルシアがどんな顔でリュウジにそう勧めたのか、何となく想像できたのだろう。
リュウジは、改めてエリンへ顔を向けた。
「それで、もしご都合がよろしければ……」
少しだけ間を置く。
「エリンさんも、一緒にハワードの舞台を観に行きませんか?」
エリンは、ゆっくりと瞬きをした。
そして。
「……私でいいの?」
「もちろんです」
リュウジは迷わず答えた。
「エリンさんも以前、ハワードの舞台をご覧になっていましたし、きっと今回も喜んでいただけると思ったので」
その言葉に、エリンは少しだけ目を伏せた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……そうね。確かに、あの子の主演舞台は観てみたいわ」
リュウジの表情が少しだけ和らぐ。
「それなら、よかったです」
「ただ、ちょっと待ってね」
エリンは端末を取り出した。
「その日のフライトと訓練予定を確認するわ」
「はい。もちろんです」
エリンは手早く勤務予定を開いた。
何度か画面を切り替える。
リュウジは、邪魔にならないよう静かに待っていた。
やがて。
「……あら」
エリンが小さく声を上げた。
「どうしました?」
「……ふふっ。ちょうど空いてるみたい」
エリンは嬉しそうに微笑んだ。
「その日は今のところフライトも入ってないし、訓練の予定もないわ」
「……そうなんですか」
「ええ」
そして、リュウジへ顔を向けた。
「いいわよ。一緒に行きましょう」
「……ありがとうございます」
リュウジは穏やかに微笑んだ。
◇
そのやり取りを、少し離れた場所で聞いていたミラが、思わず顔を上げた。
「……えっ?」
隣にいたシルヴィアも、少し驚いたように目を丸くする。
「……エリンさん、舞台へ行かれるんですか?」
「ええ。ハワードの主演舞台があるんですって」
エリンは嬉しそうに答えた。
「以前、あの子の舞台を観に行ったことがあるでしょう? 今度は主演を務めるそうだから、ぜひ観てみたいと思って」
「……そうなんですね!」
ミラが笑顔になった。
「凄いですね。初主演なんて!」
「そうなのよ」
エリンは頷いた。
「昔から演技が好きな子だったから、私も嬉しいわ」
すると、クミコが興味深そうに近づいてきた。
「あの、エリンさん。ハワードさんって、以前お話しされていた俳優の方ですか?」
「ええ。そうよ」
「……主演になられたんですね!」
マユも目を輝かせた。
「私、舞台ってあまり観たことがないんですけど、楽しそうですね」
その言葉を聞いたエリンは、リュウジへ顔を向けた。
「……ねえ、リュウジ」
「はい?」
「そういえば、チケットは何枚あるの?」
「何枚かありますよ。ハワードが、ほかの人も誘ってほしいと言っていましたから」
「……そう」
エリンは少し考えた。
そして、楽しそうに微笑んだ。
「だったら、興味がある子にも声をかけてみましょうか」
「はい。俺もそう思っていました」
リュウジは頷いた。
実際、ペルシアからも同じことを勧められている。
エリン以外にも、舞台に興味がある乗務員はいるだろう。
せっかくハワードが送ってくれたチケットだ。
できれば、無駄にはしたくなかった。
「……ミラ、シルヴィア」
エリンが二人へ顔を向ける。
「はい?」
「二人とも、舞台って興味ある?」
ミラは一瞬だけ目を丸くした。
そして、少し嬉しそうに笑った。
「……あります!」
シルヴィアも微笑んだ。
「私も、機会があれば観てみたいと思っていました」
「そう。だったら、あとで予定を確認してみて」
エリンは頷いた。
「もちろん、仕事に支障が出ない範囲でね」
「はい!」
ミラの返事が明るく響いた。
◇
「……それにしても」
エリンが、ふとリュウジへ顔を向けた。
「何ですか?」
「あなたがこうして、仕事以外のことで私を誘いに来てくれるなんて、少し意外だったわ」
リュウジは小さく笑った。
「……そうですか?」
「そうよ。最近は東の未探索領域の話ばかりだったでしょう?」
「……確かに、そうですね」
「だから、今日も何か難しい話を持ってきたのかと思っちゃった」
エリンは楽しそうに微笑んだ。
リュウジは、少しだけ肩をすくめる。
「すみません。いつも仕事の相談ばかりで」
「別に謝らなくてもいいのよ」
エリンは小さく笑った。
「ただ、こういう用事で来てくれるのも嬉しいわ」
「……そう言ってもらえると、ありがたいです」
その返事を聞いて、エリンは穏やかに微笑んだ。
そして、少しだけ真面目な表情になる。
「……ねえ、リュウジ」
「はい?」
「あなたも、少しは休めるようになったの?」
リュウジは一瞬だけ考えた。
「……今は無人探査機を先に送り込む計画ですから、少なくとも俺が直接操縦する予定はありません」
「……そう」
「ペルシアからも、しばらく休んだらどうかと言われました」
その言葉に、エリンは思わず笑った。
「……ふふっ。ペルシアらしいわね」
「はい。少し強引でしたけど」
「でも、私も同感よ」
エリンは静かに続けた。
「あなた、ここしばらくずっと忙しかったでしょう? たまには仕事から離れて、普通に過ごす時間も必要だと思うわ」
リュウジは、少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
「舞台を観に行くのもいいじゃない。ハワードの晴れ舞台なんだもの」
エリンは微笑んだ。
「それに、私も楽しみだわ」
「……ありがとうございます」
リュウジは静かに頭を下げた。
すると、エリンが少しだけ呆れたように笑った。
「もう、そんなにかしこまらなくてもいいのに」
「……そういうわけにもいきませんから」
「ふふっ。相変わらずね」
そのやり取りに、近くにいたミラが小さく笑った。
◇
しばらくして、エリンは自分の席へ戻り、午後の予定を確認し始めた。
クミコとマユは新人五人の訓練記録を確認している。
ミラとシルヴィアも、それぞれ自分の勤務予定を調べ始めていた。
リュウジは、そんな事務所の様子を静かに眺めていた。
以前とは違う。
ここには、確かな活気がある。
エリン一人が全員を引っ張るだけではなく、ミラやランが現場を支え、クミコやマユたちが後輩を教え始めている。
新しい乗務員たちも、必死に仕事を覚えようとしている。
そして、その成長をエリンが見守っている。
「……本当に、いい会社になってきましたね」
リュウジが静かに呟いた。
エリンが顔を上げる。
「……え?」
「以前来た時と比べて、随分雰囲気が変わったと思います」
その言葉に、エリンは一瞬だけ目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう」
彼女は事務所の中を見渡した。
忙しく働く社員たち。
後輩へ声をかけるクミコとマユ。
真剣な表情で記録をまとめる新人五人。
その姿を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……でも、まだまだこれからよ」
エリンは穏やかに言った。
「ワイルドフライト賞はいただけたけど、TOP10に入ったわけじゃないもの。もっと経験を積んで、もっといい会社にしていかないとね」
「……そうですね」
「それに、私がいつかハワード財閥へ戻ることになっても、みんなが自分たちの力で仕事を続けられるようになってほしいから」
リュウジは静かに頷いた。
エリンが現在、ハワード財閥の旅行会社から出向していることも知っている。
いずれは元の会社へ戻る日が来るかもしれない。
それでも、彼女は今いる場所でできることを全力で続けていた。
「……エリンさんらしいですね」
リュウジが言う。
エリンは小さく首を傾げた。
「そうかしら?」
「はい」
リュウジは穏やかに微笑んだ。
「いつも、自分がいなくなった後のことまで考えていらっしゃいますから」
エリンは、少しだけ照れたように笑った。
「……もう。そんな大げさなことじゃないわよ」
◇
その後、リュウジはハワードへ短いメッセージを送った。
『エリンさんが一緒に観に行ってくれることになった。ほかにも何人か誘ってみる』
送信して、数秒後。
すぐに返信が届いた。
『本当!? エリンさんも来てくれるの!? やった!!』
その後にも、興奮した文章が次々と届く。
『絶対いい舞台にするから!』
『リュウジも楽しみにしててよ!』
『ああ、もう今から緊張してきた!』
リュウジは、思わず小さく笑った。
「……相変わらずだな」
「……何?」
エリンが顔を向ける。
「ハワードに連絡したんですが、随分喜んでいましたよ」
「……ふふっ。そうでしょうね」
エリンも嬉しそうに笑った。
「本当に、あの子らしいわ」
そして、少しだけ楽しそうに続ける。
「でも、せっかく主演を任されたんだもの。どんな演技を見せてくれるのか、私も楽しみにしてるわ」
「はい。俺もです」
リュウジは頷いた。
いつも危険な任務や難しい判断ばかりに向き合っている自分たち。
そんな日々の中で、昔からの仲間が舞台に立つ姿を観に行く。
それは、随分と穏やかな時間に思えた。
けれど、決して悪くない。
むしろ、今の自分には、こういう時間が必要なのかもしれなかった。
エリンは、リュウジの穏やかな表情を見つめていた。
そして、嬉しそうに微笑む。
「……リュウジ」
「はい?」
「今日は誘いに来てくれて、ありがとう」
リュウジは少しだけ目を丸くした。
そして、静かに微笑んだ。
「……こちらこそ。ありがとうございます、エリンさん」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
事務所の窓の向こうには、明るい午後の光が広がっている。
スペースホープの社員たちは、今日もそれぞれの仕事に励んでいた。
そんな慌ただしい日常の中で、思いがけず決まった一つの予定。
ハワードの初主演舞台。
その公演を、エリンとリュウジは一緒に観に行くことになった。
仕事でも、任務でもない。
ただ、昔からの仲間の夢が実を結ぶ瞬間を見届けるための、小さな約束だった。
そしてエリンは、机に置かれた公演案内をもう一度見つめながら、静かに微笑んでいた。
──ハワード、本当におめでとう。
あの頃、進路に悩んでいた少年が、今では主演として舞台に立とうとしている。
その姿を見る日が、今から少しだけ楽しみだった。