サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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笑い

文化区画。

 

 ハワードが初めて主演を務める舞台の公演当日。

 

 劇場の周辺には、開演を待ちわびる観客たちの姿があった。

 

 華やかな衣装に身を包んだ女性たち。落ち着いたスーツ姿の男性たち。公演のパンフレットを片手に、出演者について語り合う人々。

 

 劇場の入口には大きな公演ポスターが掲げられ、その中央には主演俳優としてハワードの名前が記されている。

 

 俳優の道を志すと決めてから、彼は幾つもの舞台に立ってきた。

 

 最初は学生として。

 

 そして、やがて本格的な劇団の公演へ。

 

 役者としての経験を重ねてきた彼が、ついに主演という大役を任されたのだ。

 

 その晴れ舞台を観るため、スペースホープの一行も劇場を訪れていた。

 

 ◇

 

「……わあ」

 

 劇場の入口で、クミコが感嘆の声を漏らした。

 

「凄い……。思ってたより、ずっと立派な劇場ですね」

 

 隣にいたユウコも、建物を見上げながら頷いた。

 

「本当。何だかちょっと緊張しちゃいますね」

 

「ふふっ。舞台を観に来ただけなんだから、そんなに緊張しなくてもいいのよ」

 

 そう言って微笑んだのは、エリンだった。

 

 その姿を見たミラは、思わず目を細めた。

 

 今日のエリンは、いつもとは少し違っていた。

 

 深みのある紺色のフォーマルドレス。

 

 身体の線を上品に見せる仕立てで、肩には薄手のショールを羽織っている。

 

 普段は自然な仕上がりの化粧を好む彼女だが、今日は目元にも丁寧に色が乗せられていた。

 

 長い緑色の髪は後ろで緩やかにまとめられ、耳元には小さな銀色のイヤリングが光っている。

 

 決して派手ではない。

 

 けれど、普段の制服姿とは違った大人の華やかさがあった。

 

「……エリンさん」

 

 ミラが思わず声をかける。

 

「何?」

 

「今日、いつもよりお綺麗ですね」

 

 エリンは少し驚いたように瞬きをした。

 

 そして、柔らかく笑う。

 

「……あら、ありがとう。せっかくの観劇だもの。少しおしゃれしてきたのよ」

 

「本当に素敵です!」

 

 クミコも嬉しそうに頷いた。

 

「いつものエリンさんも綺麗ですけど、今日は何だか特別な感じがします」

 

「もう、クミコまで」

 

 エリンは小さく笑った。

 

「あなたたちだって、よく似合ってるわよ」

 

 実際、今日の五人も普段とは違っていた。

 

 ミラは淡いベージュのドレスに、落ち着いた色のジャケットを合わせている。

 

 ユウコは黒を基調とした上品なワンピース。

 

 クミコは明るいクリーム色のドレスに、小さなアクセサリーを合わせていた。

 

 スズカとナリタも、それぞれ落ち着いた色合いのフォーマルな服装を選んでいる。

 

「……皆さん、本当にお綺麗です」

 

 スズカが少し照れたように言う。

 

 ナリタも頷いた。

 

「こういう場所に来るの、少し緊張しますね」

 

 ミラは優しく微笑んだ。

 

「大丈夫よ。今日は仕事じゃないんだから、楽しみましょう」

 

「はい!」

 

 その返事に、エリンも満足そうに頷いた。

 

「じゃあ、中に入りましょうか」

 

 ◇

 

 受付で電子チケットを提示し、一行は劇場の中へ入った。

 

 赤い絨毯が敷かれた通路。

 

 柔らかな照明。

 

 壁には過去の公演写真が飾られ、観客たちはパンフレットを眺めながら開演を待っていた。

 

「……凄いですね」

 

 クミコが小さく呟いた。

 

「何だか、本当に特別な場所へ来たみたいです」

 

 エリンは微笑んだ。

 

「ふふっ。舞台って、始まる前の雰囲気もいいのよね」

 

 彼女にとって、ハワードの舞台を観るのは初めてではない。

 

 以前も彼の出演する公演へ足を運び、役者として成長している姿を目にしていた。

 

 だが、今回は違う。

 

 主演。

 

 舞台全体を背負う立場だ。

 

 彼がどんな芝居を見せるのか、エリンも心から楽しみにしていた。

 

「……あっ、エリンさん」

 

 ミラが端末を確認する。

 

「お席、こちらみたいです」

 

「ええ。ありがとう」

 

 リュウジから送られてきた電子チケットには、座席番号が記されていた。

 

 一行は番号を確認しながら、中央寄りの客席へ向かった。

 

 すると。

 

「……エリンさん?」

 

 突然、聞き覚えのある声がした。

 

 エリンが顔を上げる。

 

 そこには、二人の少女が立っていた。

 

「……あら!」

 

 エリンの表情が明るくなった。

 

「メノリ! シャアラ!」

 

 ◇

 

「お久しぶりです、エリンさん」

 

 メノリが丁寧に頭を下げた。

 

 その隣で、シャアラも嬉しそうに微笑む。

 

「お久しぶりです!」

 

 エリンは二人の姿を見て、少し驚いたように目を細めた。

 

 メノリは、黒を基調とした落ち着いたフォーマルドレスを着ていた。

 

 余計な装飾は少なく、彼女らしい知的で大人びた雰囲気がある。

 

 一方のシャアラは、淡い青色のドレス。

 

 柔らかな色合いが彼女の雰囲気によく似合っており、髪も普段より丁寧に整えられていた。

 

「……まあ」

 

 エリンは思わず微笑んだ。

 

「二人とも、見ない間に随分と大人っぽくなったわね」

 

 シャアラは少し照れたように笑った。

 

「……ありがとうございます」

 

 メノリも、わずかに口元を緩める。

 

「エリンさんも、今日はいつも以上に素敵ですね」

 

「あら、ありがとう。せっかくの舞台だから、少し気合いを入れてきたの」

 

 エリンは嬉しそうに笑った。

 

 そして、二人へ尋ねる。

 

「あなたたちも、ハワードの応援に来たの?」

 

「はい」

 

 メノリが頷いた。

 

「主演が決まったと聞いたので、予定を空けました」

 

 シャアラも笑顔になる。

 

「私もです。ハワード、凄く張り切っていましたから」

 

「ふふっ。そうでしょうね」

 

 エリンは小さく笑った。

 

「本当に、あの子らしいわ」

 

 ◇

 

「……あの、エリンさん」

 

 シャアラが、後ろにいる女性たちへ視線を向けた。

 

「こちらの皆さんは……?」

 

「ああ、そうだったわね」

 

 エリンは振り返った。

 

「スペースホープの乗務員たちよ。こちらがミラ、ユウコ、クミコ。それからスズカとナリタ」

 

 紹介された五人が、それぞれ頭を下げる。

 

「初めまして。ミラです」

 

「ユウコです。よろしくお願いします」

 

「クミコです!」

 

 スズカとナリタも挨拶した。

 

 メノリとシャアラは丁寧に頭を下げる。

 

「初めまして。メノリと申します」

 

「シャアラです。よろしくお願いします」

 

 メノリは、改めて五人を見渡した。

 

「皆さんも、ハワードの舞台を観に来られたんですね」

 

「はい。リュウジさんがチケットを用意してくださったんです」

 

 ミラが答える。

 

「……なるほど」

 

 メノリは小さく頷いた。

 

 そして、何かを考えるように視線を落とした。

 

「……リュウジも来るんですか?」

 

 エリンが微笑む。

 

「ええ。もちろんよ。まだ来ていないけど、間に合うはずだわ」

 

「…………」

 

 その瞬間。

 

 メノリの表情が、わずかに変わった。

 

「……そうですか」

 

 短い返事だった。

 

 シャアラは、その横顔を見て小さく苦笑した。

 

 エリンは気づかなかったが、メノリの目には何とも言えない諦めの色が浮かんでいた。

 

 ◇

 

 一行は、それぞれの座席へ移動した。

 

 メノリとシャアラの席は、偶然にもリュウジたちの席のすぐ隣だった。

 

 エリンの隣にはミラ。

 

 その先にはユウコ、クミコ、スズカ、ナリタが座っている。

 

 メノリとシャアラは、反対側に並んでいた。

 

 ちょうどリュウジの席が、メノリとエリンの間に用意されている形だった。

 

「……随分、近い席だったのね」

 

 エリンが笑う。

 

 シャアラも嬉しそうに頷いた。

 

「はい。まさかエリンさんたちと同じ列だとは思いませんでした」

 

 その言葉に、メノリは少しだけ目を細めた。

 

 そして、リュウジの席番号を確認する。

 

「…………」

 

 何も言わなかった。

 

 ◇

 

 開演五分前。

 

 劇場の照明が少しずつ落ち着き始め、観客たちも自分の席へ戻っていた。

 

『まもなく開演いたします。携帯端末は音の出ない設定にしていただき、公演中の撮影や録音はご遠慮ください』

 

 案内放送が流れる。

 

 エリンは端末を確認した。

 

「……リュウジ、まだかしら」

 

 すると、通路の方から足音が近づいてきた。

 

「……すみません。こちらの席で合っていますか?」

 

 低く落ち着いた声。

 

 エリンが顔を上げる。

 

「あっ、リュウジ!」

 

 そこには、スーツ姿のリュウジが立っていた。

 

 黒に近い濃紺のスーツ。

 

 白いシャツに、落ち着いた色のネクタイ。

 

 普段の服装とは違い、今日は完全に観劇用の正装だった。

 

 髪も整えられ、いつも以上に端正な雰囲気をまとっている。

 

「お待たせしました、エリンさん」

 

「ふふっ。間に合ってよかったわ」

 

「すみません。少し用事が長引いてしまいまして」

 

 リュウジは軽く頭を下げた。

 

 すると、その隣から声がした。

 

「……リュウジ」

 

 メノリだった。

 

 リュウジが振り返る。

 

「……メノリ?」

 

 メノリは、少しだけ目を細めた。

 

「本当に来たんだな」

 

「……何だ、その言い方は」

 

 リュウジが苦笑する。

 

 シャアラも嬉しそうに手を振った。

 

「リュウジ、久しぶり!」

 

「……シャアラ。久しぶりだな」

 

 二人とも、以前より随分大人びて見えた。

 

「元気そうだな」

 

「うん! リュウジも元気そうでよかった」

 

 シャアラは笑った。

 

 メノリは、そんな二人のやり取りを横目に見ながら、静かに言った。

 

「……それで、お前はここに座るのか?」

 

「……ああ?」

 

 リュウジが首を傾げる。

 

 手元のチケットを確認した。

 

「……そうだが。席番号も合ってる」

 

 そして、メノリの隣に腰を下ろそうとする。

 

 その瞬間。

 

「……待て」

 

 メノリが静かに制止した。

 

「……何だ?」

 

「そこに座るのか?」

 

 リュウジは眉を寄せた。

 

「……だから、そうだが」

 

 メノリは数秒間、リュウジを見つめていた。

 

 そして。

 

「……はぁ」

 

 小さくため息を吐いた。

 

 ◇

 

「……すみません、ミラさん」

 

 突然声をかけられ、ミラが顔を上げた。

 

「はい?」

 

 メノリは、エリンの隣に座っていたミラへ丁寧に頭を下げた。

 

「ミラさん、リュウジと席を変わってもらってもいいですか?」

 

「……え?」

 

 ミラが目を丸くする。

 

「ええと……?」

 

 突然の申し出に、状況が理解できなかった。

 

 隣のエリンも首を傾げる。

 

「……メノリ?」

 

 しかし、メノリは真剣だった。

 

「すみません。今日はリュウジの面倒を見る気になれないので」

 

「…………」

 

 ミラが固まった。

 

 エリンも、思わずリュウジへ顔を向ける。

 

「……どういうこと?」

 

 リュウジ本人も、何を言われているのか分からない様子だった。

 

「……おい、メノリ」

 

「何だ?」

 

「俺は別に、面倒を見てもらうつもりなんてないぞ」

 

「……そうか」

 

 メノリは淡々と答えた。

 

「だったら、なおさら問題ないな」

 

「……いや、意味が分からないんだが」

 

 シャアラは、そんな二人を見て小さく笑いをこらえていた。

 

 ミラは困ったようにエリンへ視線を向ける。

 

「……エリンさん、どうしましょう?」

 

 エリンも、少しだけ苦笑した。

 

「……そうね。席を替わるくらいなら、別にいいんじゃない?」

 

「……分かりました」

 

 ミラは頷いた。

 

 そして、リュウジへ顔を向ける。

 

「リュウジさん、よろしいですか?」

 

「ああ。俺は構わないが……」

 

 リュウジはメノリを見た。

 

「……本当に、何なんだ?」

 

 メノリは、すでに舞台へ視線を向けていた。

 

「……すぐに分かる」

 

「…………」

 

 リュウジは、釈然としない表情を浮かべた。

 

 それでも、開演直前に揉めるわけにもいかない。

 

 結局、ミラがメノリ側へ移動し、リュウジがエリンの隣に座ることになった。

 

 エリンは小さく笑った。

 

「……何だか、変なことになったわね」

 

「……すみません、エリンさん」

 

 リュウジは苦笑した。

 

「いえ、あなたが謝ることじゃないでしょう?」

 

 エリンはそう答え、舞台へ視線を戻した。

 

 その隣で、メノリが静かに呟く。

 

「……これでいい」

 

 シャアラが小声で尋ねた。

 

「……メノリ、大丈夫かな?」

 

「……知らない」

 

 メノリは短く答えた。

 

「私はもう面倒を見ない」

 

 その言葉の意味を、この時のエリンたちはまだ理解していなかった。

 

 ◇

 

 やがて。

 

 客席の照明がゆっくりと落ち始めた。

 

 劇場を包んでいたざわめきが静まり、観客たちの視線が舞台へ集まっていく。

 

 幕の向こうで、静かな音楽が流れ始めた。

 

 エリンは自然と背筋を伸ばした。

 

 ミラも、初めて観る本格的な舞台に少し緊張した様子だった。

 

 ユウコはパンフレットを膝の上に置き、クミコは目を輝かせて舞台を見つめている。

 

 スズカとナリタも、静かに開演を待っていた。

 

 そして。

 

 幕が上がった。

 

 ◇

 

 舞台は、重厚な物語だった。

 

 戦乱によって故郷を失った若者が、理想と現実の間で苦悩しながら、人々を導いていく。

 

 華やかな舞台装置。

 

 精密に計算された照明。

 

 そして、俳優たちの力強い演技。

 

 物語は序盤から観客を引き込んでいた。

 

 やがて、舞台の中央に一人の青年が現れる。

 

 豪華な衣装。

 

 凛とした立ち姿。

 

 そして、客席の奥まで届く、よく通る声。

 

 ハワードだった。

 

『……私には、まだ守るべきものがある!』

 

 その声が、劇場に響き渡る。

 

 舞台の上のハワードは、普段の彼とはまるで別人だった。

 

 ふざけた冗談を言うこともない。

 

 周囲の反応を見て調子に乗ることもない。

 

 ただ、役としてそこに立っている。

 

 エリンは思わず息を呑んだ。

 

(……凄い)

 

 以前の舞台でも、ハワードの成長は感じていた。

 

 けれど、今日は明らかに違う。

 

 台詞の間。

 

 視線の使い方。

 

 立ち姿。

 

 そして、感情を声に乗せる技術。

 

 すべてが、以前より洗練されていた。

 

(……本当に、頑張ったのね)

 

 エリンは、少しだけ目を細めた。

 

 ミラも舞台から目を離せないでいた。

 

 ユウコとクミコも、すっかり物語に引き込まれている。

 

 スズカとナリタも同じだった。

 

 誰もが、ハワードの演技を素晴らしいと思っていた。

 

 ただし。

 

 一人だけ、様子がおかしい人物がいた。

 

 ◇

 

「…………」

 

 エリンの隣。

 

 リュウジだった。

 

 彼は舞台をまっすぐ見つめている。

 

 その表情は、普段とほとんど変わらない。

 

 しかし。

 

「…………っ」

 

 肩が、小さく震えていた。

 

 最初、エリンは気のせいかと思った。

 

 だが、しばらくすると、また。

 

「……っ、……」

 

 今度は明らかだった。

 

 リュウジは片手で口元を押さえ、少しだけ俯いている。

 

 エリンは小声で尋ねた。

 

「……ねえ、リュウジ」

 

「……はい」

 

「大丈夫?」

 

 リュウジは、ゆっくりと顔を向けた。

 

「……大丈夫です」

 

 声は落ち着いていた。

 

 しかし、目元が少しだけおかしい。

 

「……本当に?」

 

「……はい」

 

 エリンは不思議そうに首を傾げた。

 

 体調が悪いのだろうか。

 

 それとも、何か気になることがあるのだろうか。

 

 けれど、舞台が続いている以上、詳しく尋ねるわけにもいかない。

 

 エリンは再び舞台へ視線を戻した。

 

 その時だった。

 

 ハワードが、舞台の中央へ歩み出た。

 

 そして、感情を込めた声で叫んだ。

 

『たとえ世界のすべてが私を否定しようとも、私はこの道を歩み続ける!』

 

 力強い台詞。

 

 劇場が静まり返る。

 

 観客たちは、主人公の決意に心を動かされていた。

 

 しかし。

 

「……ふっ」

 

 エリンの隣から、小さな音が聞こえた。

 

 彼女は、ゆっくりと顔を向けた。

 

「…………」

 

 リュウジが、口元を押さえていた。

 

 肩が震えている。

 

「……リュウジ?」

 

「……っ、……すみません」

 

 リュウジは、必死に声を抑えていた。

 

 エリンは目を細めた。

 

「……ちょっと」

 

「……はい」

 

「変なシーンじゃないでしょう?」

 

「……すみません」

 

 リュウジは小さく頭を下げた。

 

 しかし。

 

「……ふっ、……」

 

 また、小さく吹き出した。

 

 エリンは、とうとう気づいた。

 

 この人。

 

 笑っている。

 

 ◇

 

 舞台の上では、ハワードが真剣な演技を続けていた。

 

 彼の演技は見事だった。

 

 苦悩する主人公の姿は観客の心をつかみ、台詞の一つひとつに説得力がある。

 

 けれど。

 

 リュウジにとっては、少し事情が違った。

 

 ハワードとは、長い付き合いだった。

 

 無人惑星サヴァイヴで過ごした日々。

 

 ソリア学園での生活。

 

 何かにつけて大げさな言葉を並べ、妙に格好をつけようとするハワード。

 

 いつも自信満々で、時々どうしようもなく調子に乗り、メノリに冷静な一言を返されていたハワード。

 

 その彼が。

 

 今。

 

 舞台の中央で、誰よりも真剣な顔をしている。

 

 しかも、驚くほど格好いい。

 

 演技も本当に上手い。

 

 それは分かっている。

 

 分かっているのだが。

 

(……駄目だ)

 

 リュウジは必死に笑いをこらえた。

 

(……あいつ、あんな顔するのか)

 

 舞台の上のハワードは、恋人との別れを前に、静かに目を伏せていた。

 

 その表情は、実に繊細だった。

 

 声も震えている。

 

 観客たちは、その悲しい場面に引き込まれていた。

 

 だが、リュウジの頭には、別の光景が浮かんでいた。

 

 いつかのハワード。

 

 皆の前で得意げに胸を張り、芝居がかった口調で自分の考えを語っていた姿。

 

 格好をつけすぎて、メノリに一言で切り返されていた姿。

 

 あの、いつものハワード。

 

 その顔と、今の舞台の顔が重なる。

 

(……いや、上手いんだが)

 

 リュウジは口元を押さえた。

 

(……本当に、上手いんだが……)

 

 それでも、どうしても。

 

 可笑しい。

 

 ◇

 

 舞台では、ハワードが静かに膝をついた。

 

『……どうか、私を許してほしい』

 

 重く、悲しい台詞。

 

 観客たちは息を呑んでいた。

 

 エリンも、胸を締めつけられるような思いで舞台を見つめていた。

 

 その時。

 

「……っ、ふ……」

 

 また、隣から小さな音がした。

 

 エリンは、ゆっくりと顔を向けた。

 

 リュウジが俯いている。

 

 肩が震えている。

 

 口元を押さえた手にも、力が入っていた。

 

「……リュウジ」

 

 エリンが小声で呼ぶ。

 

「……はい」

 

「……あなた、笑ってるでしょう?」

 

「……すみません」

 

 返事が早かった。

 

 エリンは、一瞬だけ呆れたように目を細めた。

 

「……もう」

 

 そして、さらに声を落とす。

 

「ハワード、あんなに真剣に演じてるのよ?」

 

「……分かっています」

 

「だったら……」

 

「……すみません。本当に……」

 

 リュウジは必死だった。

 

 しかし、その声はわずかに震えていた。

 

 エリンは小さくため息を吐いた。

 

 そして、ふと反対側の席へ目を向けた。

 

 ミラ。

 

 その隣にはメノリ。

 

 メノリは、舞台をまっすぐ見つめていた。

 

 けれど、その表情には、何となく事情を理解しているような雰囲気があった。

 

 エリンは、そこでようやく思い出した。

 

 開演前。

 

 メノリは、わざわざミラに席を替わってほしいと頼んだ。

 

 そして、こう言ったのだ。

 

 ──今日はリュウジの面倒を見る気になれないので。

 

(……まさか)

 

 エリンは隣のリュウジを見た。

 

 リュウジは、まだ必死に笑いをこらえていた。

 

(……こういうことだったの?)

 

 ◇

 

 その頃。

 

 メノリは、舞台へ視線を向けたまま小さく息を吐いていた。

 

 隣のミラが、そっと顔を寄せる。

 

「……メノリさん」

 

「……はい」

 

「もしかして、こうなるって分かっていたんですか?」

 

 メノリは、少しだけ目を細めた。

 

「……ある程度は」

 

「……そうだったんですね」

 

 ミラは、反対側の席から聞こえる小さな物音に視線を向けた。

 

 リュウジは、どうやらまだ苦戦しているらしい。

 

 メノリは、静かに続けた。

 

「……昔から、ああなんです」

 

「……え?」

 

「ハワードが真剣になればなるほど、リュウジは昔のあいつを思い出してしまうんです」

 

 ミラは、少しだけ驚いた。

 

 メノリは舞台へ視線を戻した。

 

「……もちろん、ハワードの演技は素晴らしいと思っています」

 

「……はい」

 

「でも、リュウジにとっては……」

 

 少しだけ間を置く。

 

「……あの顔で、あんな台詞を言われるのが、どうしても可笑しいんでしょうね」

 

 ミラは、思わず口元を押さえた。

 

 笑いそうになったからではない。

 

 むしろ、ようやく事情を理解したからだった。

 

「……なるほど」

 

 そして、小さく苦笑した。

 

「……それで、席を替わってほしいと」

 

「……はい」

 

 メノリは、静かに頷いた。

 

「今日は、ハワードの演技に集中したかったので」

 

 その言葉には、一切の迷いがなかった。

 

 ◇

 

 舞台は、さらに盛り上がっていった。

 

 ハワードの演技は、時間が経つにつれて力を増していた。

 

 観客の視線を引きつける。

 

 台詞の一つひとつを、丁寧に届ける。

 

 そして、感情が高まる場面では、一気に空気を変える。

 

 エリンは、素直に感動していた。

 

(……本当に、成長したわね)

 

 ハワードが俳優の道を選んだこと。

 

 その選択を後悔せず、こうして舞台に立っていること。

 

 それが何より嬉しかった。

 

 けれど。

 

 隣では。

 

「……っ、……ふっ」

 

 まだ、リュウジが苦戦していた。

 

 エリンは、とうとう小さく眉を寄せた。

 

「……リュウジ」

 

「……はい」

 

「……お願いだから、少し落ち着いて」

 

「……すみません」

 

 リュウジは小さく頷いた。

 

 しかし、次の瞬間。

 

 舞台の上で、ハワードが大きく腕を広げた。

 

『たとえこの命が尽きようとも、私は決して諦めない!』

 

 力強い声。

 

 劇場に響き渡る台詞。

 

 舞台の照明が、主人公の姿を鮮やかに照らす。

 

 その瞬間。

 

 リュウジの頭に浮かんだのは、以前のハワードの姿だった。

 

 人前で大げさに胸を張り、妙に芝居がかった言い方をしていた、あの頃の彼。

 

 その姿が、今の真剣なハワードと完璧に重なってしまった。

 

(……駄目だ)

 

 リュウジは、口元を押さえた。

 

(……これは、駄目だ……)

 

 必死に耐える。

 

 しかし。

 

「……ブッ!」

 

 とうとう、吹き出してしまった。

 

 ◇

 

 エリンの顔が、ゆっくりとリュウジへ向いた。

 

「…………」

 

 リュウジは、両手で口元を押さえていた。

 

 肩が激しく震えている。

 

 笑い声を出さないよう、必死に耐えていた。

 

 しかし、もう限界だった。

 

「……っ、……ふっ……」

 

 エリンは、無言で肘を動かした。

 

 こつん。

 

 リュウジの脇腹を小突く。

 

「……っ!」

 

 リュウジが少しだけ身体を跳ねさせた。

 

 エリンは、小声で言った。

 

「……ちょっと!」

 

「……す、すみません……」

 

「……もう、あなたって人は……!」

 

 エリンは、さらに小さな声で続けた。

 

「ここ、笑うところじゃないでしょう!」

 

「……分かってます……っ」

 

 リュウジは必死に答えた。

 

 しかし、その目元は完全に笑っていた。

 

 エリンは、とうとう呆れたように目を伏せた。

 

「……もう、本当に……」

 

 近くに座っていた観客が、少しだけこちらを振り返る。

 

 エリンは、すぐに丁寧に頭を下げた。

 

「……すみません」

 

 そして、リュウジへ顔を向ける。

 

 リュウジは、もう舞台をまともに見られない状態だった。

 

「……っ、……すみません……」

 

 声を抑えようとすればするほど、肩が震える。

 

 とうとう、リュウジはゆっくりと立ち上がった。

 

「……エリンさん」

 

「……何?」

 

「……少し、外に出てきます」

 

 エリンは、しばらく無言でリュウジを見つめた。

 

 そして、小さくため息を吐く。

 

「……ええ。そうしてちょうだい」

 

「……すみません」

 

 リュウジは、もう一度頭を下げた。

 

 そして、口元を押さえたまま、できるだけ音を立てないように席を離れた。

 

 周囲の観客へ小さく会釈しながら、通路へ向かう。

 

 その背中は、まだわずかに震えていた。

 

 ◇

 

「…………」

 

 エリンは、しばらくリュウジが出ていった方向を見つめていた。

 

 そして、ゆっくりと息を吐いた。

 

(……まったく、もう)

 

 せっかくのハワードの主演舞台。

 

 しかも、これほど素晴らしい演技を見せているというのに。

 

 隣でリュウジが笑いをこらえきれなくなるとは、想像もしていなかった。

 

 エリンは、少しだけ額に手を当てた。

 

 そして、ふと反対側へ視線を向ける。

 

 そこには、舞台を真剣に見つめるメノリの姿があった。

 

 メノリは、こちらを一度だけ見た。

 

 そして、何も言わずに小さく頷いた。

 

 まるで。

 

 ──だから言ったでしょう。

 

 そう言っているようだった。

 

 エリンは、思わず小さく苦笑した。

 

(……そういうことだったのね)

 

 メノリが席を替わってほしいと言った理由。

 

 ようやく、すべてを理解した。

 

 一方のシャアラは、舞台を見つめながらも、少しだけ困ったように微笑んでいた。

 

 どうやら、彼女も何となく予想していたらしい。

 

 そして、舞台の上では。

 

 ハワードが、相変わらず素晴らしい演技を続けていた。

 

 誰よりも真剣に。

 

 誰よりも堂々と。

 

 観客の心をつかみながら。

 

 その演技に感動する者がほとんどの中、昔から彼を知るリュウジだけは、どうしても笑いをこらえきれなかったのだった。

 

 エリンは舞台へ視線を戻した。

 

 そして、小さく呟く。

 

「……あとで、ちゃんと叱らないとね」

 

 もちろん、周囲には聞こえないほどの小さな声だった。

 

 その横顔には、少しだけ呆れたような、それでいてどこか可笑しそうな表情が浮かんでいた。

 

 舞台は、まだ始まったばかりだった。

 

 

ーーーー

 

 

 木星圏、文化区画。

 

 劇場の舞台上では、物語がいよいよ終幕へと向かっていた。

 

 幾度もの困難を乗り越え、かつての故郷へ戻ってきた主人公。戦いの傷跡が残る街を前に、彼はゆっくりと顔を上げる。

 

 中央に立っているのは、ハワードだった。

 

『……失ったものは、もう戻らない。それでも、私たちは明日を生きていかなければならない』

 

 低く、しかし客席の隅々まで届く声。

 

 先ほどまでの激しい感情を抑え、最後の台詞を静かに語る。その表情には悲しみと決意が入り交じり、観客の誰もが舞台へ引き込まれていた。

 

 エリンも、その一人だった。

 

 隣の席が空いたことで、ようやく舞台へ集中できるようになったのだ。

 

(……本当に、上手になったわね)

 

 昔のハワードを知っているだけに、感慨深いものがあった。

 

 財閥の後継者という立場と、自分の夢との間で悩んでいた少年。俳優になると決めてからも、簡単な道のりではなかったはずだ。

 

 それでも彼は、ここまで来た。

 

 そして今、主演として堂々と舞台に立っている。

 

『……この空の向こうに、まだ希望があると信じて』

 

 最後の台詞が響く。

 

 ハワードは静かに空を見上げた。

 

 照明がゆっくりと落ちていく。

 

 そして、幕が下りた。

 

 一瞬の静寂。

 

 次の瞬間。

 

 パチパチパチパチッ!

 

 劇場全体が、大きな拍手に包まれた。

 

「……凄い」

 

 クミコが小さく呟いた。

 

 ユウコも、感動した様子で拍手を送っている。

 

「本当に凄かったですね……」

 

 ミラも頷いた。

 

「ええ。あっという間だったわね」

 

 スズカとナリタは、初めて観た本格的な舞台の余韻に浸っていた。

 

 やがて幕が再び上がり、出演者たちが一列に並ぶ。

 

 最後に中央へ進み出たのは、主演のハワードだった。

 

 彼が深く頭を下げると、客席からひときわ大きな拍手が起こった。

 

 エリンも、惜しみなく拍手を送った。

 

「……おめでとう、ハワード」

 

 その声は拍手に紛れ、誰にも聞こえなかった。

 

 けれど、彼女の表情には心からの喜びが浮かんでいた。

 

 ◇

 

 終演後。

 

 観客たちは余韻を楽しみながら、ゆっくりと劇場を出始めていた。

 

 エリンたちも人の流れに合わせて客席を離れ、ロビーへ向かった。

 

「いやぁ、本当に凄かったですね!」

 

 ユウコが興奮した様子で話し始めた。

 

「最後の場面、私ちょっと泣きそうになりました!」

 

「分かります!」

 

 クミコが大きく頷いた。

 

「私もです。ハワードさんの声が凄くよく通っていて、表情も本当に自然でした」

 

 スズカも嬉しそうに顔を上げる。

 

「私、舞台ってもっと大げさなお芝居をするものだと思ってました。でも、あんなに自然な演技もできるんですね」

 

 ナリタも頷いた。

 

「特に最後の台詞、凄く印象に残りました」

 

 その話を聞いていたメノリが、少しだけ微笑んだ。

 

「ありがとうございます。ハワードも、皆さんにそう言っていただけたら喜ぶと思います」

 

 シャアラも嬉しそうに頷く。

 

「本当に、今日は凄かったですね。私も感動しました」

 

 エリンは微笑んだ。

 

「ええ。以前観た舞台よりも、随分成長していたわ」

 

 そして、ふと思い出したように周囲を見渡した。

 

「……ところで」

 

 ミラが顔を向ける。

 

「どうされました、エリンさん?」

 

「リュウジは?」

 

 …………。

 

 一同が黙った。

 

 メノリは、わずかに目を細めた。

 

「……たぶん、外にいると思います」

 

「……そうね」

 

 エリンは小さく息を吐いた。

 

 そして、どこか呆れたような表情を浮かべた。

 

「……まったく、もう」

 

 ◇

 

 劇場の外。

 

 夜の文化区画には、柔らかな照明が広がっていた。

 

 劇場前の広場には、終演後の観客たちが集まり、舞台の感想を語り合っている。

 

 その少し離れたところに、リュウジの姿があった。

 

 濃紺のスーツ姿で、建物の壁際に立っている。

 

 手元の端末を眺めながら、何やら考え込んでいる様子だった。

 

 もっとも、その口元には時折、小さな笑みが浮かんでいた。

 

「……ふっ」

 

 思い出してしまったのだ。

 

 舞台の上で、誰よりも真剣な表情をしていたハワード。

 

 そして、あの大げさな台詞。

 

「……いや、あいつ本当に……」

 

 リュウジは小さく首を振った。

 

 演技が下手だったわけではない。

 

 むしろ、驚くほど上手かった。

 

 それが、かえって可笑しかった。

 

 昔から知っているハワードが、あまりにも堂々と主人公を演じていたからだ。

 

 すると。

 

「……リュウジ!」

 

 聞き覚えのある声が響いた。

 

 リュウジが顔を上げる。

 

 そこには、エリンが立っていた。

 

 その後ろにはミラたちスペースホープの五人、そしてメノリとシャアラもいる。

 

「……あっ、エリンさん」

 

 リュウジは姿勢を正した。

 

「お疲れ様です。舞台、終わったんですね」

 

「ええ。終わったわよ」

 

 エリンは静かに頷いた。

 

 そして、リュウジの前まで歩いてきた。

 

「……リュウジ」

 

「はい?」

 

 エリンは、じっと彼を見つめた。

 

「貴方のせいで、ちゃんと見れなかったじゃない!」

 

「…………」

 

 リュウジが固まった。

 

 後ろにいたミラも、思わず目を丸くする。

 

 エリンは続けた。

 

「もう! せっかくハワードがあんなに真剣に演じてるのに、隣でずっと笑いをこらえてるんだもの。気になって仕方なかったわ!」

 

「……すみません」

 

 リュウジは素直に頭を下げた。

 

「……本当に、すみませんでした」

 

「しかも、最後は吹き出して席を立っちゃうし! 周りのお客さんにも迷惑だったでしょう?」

 

「……はい」

 

「あなたねぇ……」

 

 エリンは腰に手を当てた。

 

「私、最初は体調が悪いのかと思って心配したのよ?」

 

「……それは、申し訳ありません」

 

 リュウジは珍しく、完全に恐縮していた。

 

 エリンは小さくため息を吐く。

 

「……もう。昔からの友達なのは分かるけど、あそこまで笑わなくてもいいじゃない」

 

「……すみません」

 

 リュウジはもう一度頭を下げた。

 

 その姿を見て、シャアラは思わず口元を押さえた。

 

 ◇

 

「……リュウジ」

 

 今度は、低い声がした。

 

 メノリだった。

 

 リュウジが顔を向ける。

 

「……何だ、メノリ」

 

 メノリは腕を組んでいた。

 

「……お前、何をしに来たんだ?」

 

「……舞台を観に来たんだが」

 

「……そうか」

 

 メノリは静かに頷いた。

 

 そして、少しだけ目を細める。

 

「じゃあ、何で笑ってた?」

 

「…………」

 

 リュウジは答えなかった。

 

 メノリは続けた。

 

「ハワードが、どれだけ今回の舞台を楽しみにしていたか知ってるだろう?」

 

「……ああ」

 

「主演を任されてから、ずっと練習してたんだぞ」

 

「……知ってる」

 

「それなのに、お前は……」

 

 メノリは小さく息を吐いた。

 

「……まったく」

 

 リュウジは困ったように眉を下げた。

 

「……いや、演技は本当に上手かったんだ」

 

「……だったら普通に観ろ」

 

「……分かってる」

 

「分かってないから、ああなったんだろ」

 

「…………」

 

 リュウジは何も言い返せなかった。

 

 メノリは、さらに続けた。

 

「だから私は、最初からお前の隣に座りたくなかったんだ」

 

「……そういうことだったのか」

 

「……今さら気づいたのか?」

 

 メノリは呆れたように言った。

 

 リュウジは小さく苦笑した。

 

「……悪い」

 

 その返事を聞いて、メノリは深いため息を吐いた。

 

「……本当に、お前は昔から変わらないな」

 

 ◇

 

 そんな三人のやり取りを、少し離れたところから眺めている人物がいた。

 

 スズカとナリタだった。

 

 二人とも、目を丸くしている。

 

「…………」

 

 ナリタが小さく呟いた。

 

「……スズカ」

 

「……何?」

 

「……あの方って、S級宇宙飛行士のリュウジさんだよね?」

 

「……うん」

 

「…コロニーで四人しかいない?」

 

「……そうだよ」

 

「…………」

 

 二人は再び、目の前の光景へ視線を向けた。

 

S級宇宙飛行士。

 

 その存在は、宇宙航空の世界でも特別なものだ。

 

 高度な操縦技術と豊富な経験を持ち、危険な任務を任される限られた人間。

 

 新人乗務員の二人にとっては、簡単に声をかけられるような相手ではなかった。

 

 そのS級宇宙飛行士が、今。

 

「……すみません、エリンさん」

 

「謝るだけじゃなくて、次から気をつけてちょうだい」

 

「……はい」

 

「リュウジ、お前もいい加減にしろよ」

 

「……分かってるって」

 

 二人の女性に、立て続けに怒られている。

 

「…………」

 

 スズカは、思わずナリタへ顔を向けた。

 

「……凄いね」

 

「……うん」

 

「……S級の人って、こんなふうに怒られるんだね」

 

「……私も、ちょっとびっくりした」

 

 その声を聞いたユウコが、小さく笑った。

 

「ふふっ。二人とも、そんなに驚かなくても大丈夫だよ」

 

「……えっ?」

 

 クミコも微笑む。

 

「エリンさんとリュウジさん、昔からの知り合いだからね」

 

 ミラが穏やかに続けた。

 

「それに、エリンさんは相手が誰でも、必要なことはちゃんと伝える方だから」

 

 スズカは、改めてエリンを見た。

 

 今日の彼女は、いつもより丁寧に化粧をし、上品なドレスを身につけている。

 

 その姿は、まさに大人の女性だった。

 

 けれど今は、S級宇宙飛行士を前にして、まったく遠慮していない。

 

「……エリンさんって、やっぱり凄い方なんですね」

 

 ナリタが小さく呟いた。

 

 ミラは少しだけ笑った。

 

「……そうね」

 

 そして、リュウジにも視線を向けた。

 

 普段は危険な任務で冷静な判断を下す人物が、昔からの仲間の前では、こんな表情を見せる。

 

 そのことが、少し不思議で、どこか面白かった。

 

 ◇

 

「……あの、皆さん!」

 

 その時だった。

 

 シャアラが、明るい声で口を開いた。

 

 全員が顔を向ける。

 

「せっかくですから、みんなでハワードのところへ行きましょう!」

 

 エリンが顔を上げた。

 

「……あら、会えるの?」

 

「はい!」

 

 シャアラは嬉しそうに頷いた。

 

「終演後、楽屋に来てもいいって言われてるんです。関係者の方にもお話ししてあります」

 

「……そうなのね!」

 

 エリンの表情が明るくなった。

 

「それなら、ぜひ会ってお祝いを言いたいわ」

 

 ミラも頷く。

 

「そうですね。直接お祝いをお伝えできるなんて、嬉しいです」

 

 ユウコも笑顔になった。

 

「私も、ぜひお会いしたいです!」

 

 クミコ、スズカ、ナリタも頷いた。

 

 メノリは、リュウジへ顔を向けた。

 

「……お前も来るんだろうな?」

 

「ああ。もちろん」

 

「……今度は笑うなよ」

 

「……分かってる」

 

 その返事を聞いて、エリンが小さくため息を吐いた。

 

「……本当に分かってるのかしら」

 

 リュウジは困ったように笑った。

 

「……大丈夫です、エリンさん」

 

「……もう、信用できないわ」

 

 そのやり取りに、シャアラが思わず笑ってしまった。

 

 ◇

 

 劇場の関係者用通路。

 

 シャアラの案内で、一行はスタッフの受付へ向かった。

 

 事前に話が通っていたようで、名前を確認すると、係員が丁寧に案内してくれた。

 

 舞台裏の通路には、出演者たちの話し声や、舞台装置を片づけるスタッフの姿があった。

 

 華やかな客席とは違い、ここには公演を支えた人々の仕事場としての空気がある。

 

「……わあ」

 

 クミコが小さく声を漏らした。

 

「舞台裏って、こんな感じなんですね」

 

 スズカも興味深そうに周囲を見渡す。

 

「さっきまで、あんなに綺麗な舞台だったのに……」

 

 ナリタも頷いた。

 

「ここでは皆さん、まだお仕事をされてるんですね」

 

 エリンは、そんな新人二人へ微笑んだ。

 

「そうよ。舞台って、出演する人だけで成り立ってるわけじゃないもの。照明も音響も、舞台装置も、たくさんの人が支えてるのよ」

 

「……なるほど」

 

 ミラも静かに頷いた。

 

「私たちのフライトと、少し似ていますね」

 

「ええ。そうね」

 

 エリンは微笑んだ。

 

「お客様から見えないところで働いている人が、たくさんいるのは同じよ」

 

 そんな会話を交わしながら、一行は通路の奥へ進んだ。

 

 やがて、シャアラが一つの扉の前で立ち止まった。

 

 扉には、出演者名が記されている。

 

 主演、ハワード。

 

「……ここです!」

 

 シャアラが微笑んだ。

 

 そして、軽くノックする。

 

 コンコン。

 

『……はい!』

 

 聞き慣れた明るい声が返ってきた。

 

「ハワード、私だよ!」

 

『……シャアラ!?』

 

「みんな連れてきたよ!」

 

 その瞬間。

 

 扉の向こうから、何かが動く音がした。

 

『……ちょっと待って! 今開ける!』

 

 ◇

 

 数秒後。

 

 ガチャッ。

 

 楽屋の扉が開いた。

 

「……みんな!」

 

 そこに立っていたのは、ハワードだった。

 

 舞台衣装から着替え、少しラフな服装になっている。

 

 髪にはまだ舞台用の整髪料が残っており、顔にもわずかに化粧の名残があった。

 

 しかし、その表情は晴れやかだった。

 

「……来てくれたんだね!」

 

 ハワードは嬉しそうに笑った。

 

「本当にありがとう!」

 

 シャアラが微笑む。

 

「ハワード、お疲れ様!」

 

 メノリも静かに頷いた。

 

「……よかったぞ。随分上達したな」

 

「……メノリ!」

 

 ハワードは嬉しそうに顔を向けた。

 

「君にそう言ってもらえるなんて、今日はいい日だね!」

 

「……大げさだな」

 

 メノリは小さく笑った。

 

 すると、エリンが一歩前へ出た。

 

「……ハワード」

 

「……あっ!」

 

 ハワードが顔を上げる。

 

「エリンさん!」

 

 その声には、少年の頃と変わらない嬉しさがあった。

 

 エリンは柔らかく微笑んだ。

 

「お疲れ様。とっても素晴らしかったわ」

 

「……本当ですか!?」

 

「ええ。以前の舞台より、ずっと演技に深みが出ていたわね。主人公として舞台を引っ張る力もあったと思う」

 

 ハワードは、少し照れたように笑った。

 

「……ありがとうございます!」

 

 そして、改めて全員を見渡した。

 

「みんなも、今日は本当にありがとう! まさかこんなに大勢で来てくれるなんて思ってなかったよ!」

 

 ミラが微笑んだ。

 

「こちらこそ、素晴らしい舞台をありがとうございました」

 

 ユウコも頷く。

 

「本当に感動しました! 最後の場面、凄くよかったです!」

 

 クミコも嬉しそうに続けた。

 

「私もです。最初から最後まで、ずっと引き込まれていました!」

 

 スズカとナリタも、少し緊張しながら感想を伝えた。

 

 ハワードは、その一つひとつに嬉しそうに頷いていた。

 

 ◇

 

「……それで」

 

 ハワードは、最後に一人の人物へ顔を向けた。

 

 リュウジだった。

 

「……リュウジ!」

 

「……ハワード」

 

「来てくれてありがとう!」

 

 ハワードは満面の笑みを浮かべた。

 

「どうだった? 今回の舞台!」

 

 その問いに、リュウジは静かに頷いた。

 

「ああ。よかったぞ」

 

「……本当!?」

 

「ああ。演技も随分上達したな」

 

 その言葉に、ハワードの表情がぱっと明るくなった。

 

「……ありがとう!」

 

 リュウジは、少しだけ微笑んだ。

 

 そして。

 

「……面白かったぞ」

 

 その瞬間。

 

 ハワードの笑顔が、さらに大きくなった。

 

「……そうか!」

 

 嬉しそうに頷く。

 

「リュウジにそう言ってもらえるなんて、嬉しいな!」

 

 しかし。

 

 その背後から、静かな声がした。

 

「……別の意味でね」

 

 エリンだった。

 

「…………」

 

 リュウジの動きが止まった。

 

 ハワードが首を傾げる。

 

「……え?」

 

 エリンは、にっこりと微笑んでいた。

 

 ただし、その笑顔は少しだけ怖かった。

 

「……ねえ、リュウジ」

 

「……はい、エリンさん」

 

「あなた、何か言うことがあるんじゃない?」

 

「…………」

 

 リュウジは静かに目を逸らした。

 

 その様子を見て、メノリが深いため息を吐く。

 

「……やっぱりな」

 

 シャアラは口元を押さえている。

 

 ミラも、思わず苦笑した。

 

 そして、ハワードだけが状況を理解できずにいた。

 

「……えっ?」

 

 もう一度、全員を見渡す。

 

「……ちょっと待って。何の話?」

 

 エリンは、相変わらず微笑んだままだった。

 

「……ハワード」

 

「はい?」

 

「あなたの演技は、本当に素晴らしかったわ」

 

「……ありがとうございます!」

 

「ええ。私は心から感動したの」

 

 そして、ゆっくりとリュウジへ視線を向ける。

 

「……ただね」

 

「……はい?」

 

「この人が、隣でずっと笑ってたのよ」

 

「…………」

 

 楽屋が静まり返った。

 

 ハワードは、ゆっくりとリュウジへ顔を向けた。

 

「…………リュウジ?」

 

「……何だ?」

 

「……笑ってたの?」

 

「…………」

 

 リュウジは、少しだけ困ったように笑った。

 

「……いや、ハワード」

 

「……うん?」

 

「本当に、演技は素晴らしかったんだ」

 

「……ありがとう?」

 

「……ただ」

 

 そこで、リュウジの口元がわずかに緩んだ。

 

 ハワードは、その変化を見逃さなかった。

 

「…………」

 

 ゆっくりと目を細める。

 

「……おい」

 

 リュウジは口元を押さえた。

 

「……悪い」

 

 その姿を見たメノリが、呆れたように呟く。

 

「……また始まった」

 

 エリンは、とうとう深いため息を吐いた。

 

「……もう! リュウジ!」

 

「……すみません、エリンさん」

 

 そして、ハワードはようやく理解した。

 

 自分が人生を懸けて挑んだ初主演舞台。

 

 それを観に来てくれた昔からの親友が。

 

 どうやら、真剣な演技を見ながら笑っていたらしい。

 

「…………」

 

 ハワードは数秒間黙った。

 

 そして、大きく息を吸った。

 

「……リュウジィィィ!!」

 

 楽屋に、主演俳優の声が響き渡った。

 

 その迫力だけは、舞台の上とまったく変わらなかった。

 

 もっとも。

 

 その声を聞いたリュウジが、とうとう小さく吹き出してしまったことで、エリンとメノリの説教が再び始まったのは言うまでもない。

 

 そして、その光景を見つめるスズカとナリタは、また一つ学んだ。

 

 S級宇宙飛行士であっても、昔からの仲間たちの前では、まったく頭が上がらないことがあるのだと。

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