オリオン号の船体が、低く唸るような音を立てていた。
砂漠の熱気に晒され続けた外装は焼け、細かな砂が隙間から入り込み、エンジンの回転音にかすかな異音が混じっている。
窓の外では、細かい砂粒が風に乗って流れ、まるで星のように瞬いていた。
操縦席では、シンゴが計器を見つめていた。
その眉間には深いしわが寄っている。
「……やっぱり温度センサー、誤差が出てる。吸気口に砂が詰まってるかもしれない」
「またかよ……」
ハワードが両手を頭に当て、イライラと足で床を鳴らした。
「何とかできねぇのか? こんな状態で飛んでたら、マジで止まっちまうぞ!」
「僕だって直したいよ! でも外は砂嵐だ、今出たら機体ごと吹き飛ばされる!」
「じゃあ、どうするってんだよ!」
「冷却装置を止めれば、温度は抑えられるけど……」
「止めたらエンジン死ぬだろ!」
ハワードの声が、静まり返った船内に響いた。
他の仲間たちは何も言わない。
この騒ぎに、チャコが扉の隙間から顔を出した。
「ちょ、ちょっと! なんの大声や!」
「ハワードが落ち着かないんだ!」とシンゴが振り返る。
「落ち着いてられるか! もしオリオン号が止まったら、俺たちは砂漠の真ん中で干上がるんだぞ!」
「だからって、怒鳴ってもどうにもならないだろ!」
ハワードは舌打ちし、席を蹴って立ち上がった。
「チッ……もういい! お前らで勝手にやれ!」
そして扉を乱暴に開け、寝室へと駆け込んでいった。
⸻
寝室には、かすかな寝息が流れていた。
ルナは薄く目を開ける。
ハワードの荒い足音が響き、扉が勢いよく閉まる音に眉をひそめた。
「……どうしたの?」
暗がりの中で声をかけると、ハワードはばつが悪そうに布団を抱えたまま立っていた。
「……別に。シンゴと、ちょっと口論になっただけだよ」
「また喧嘩?」
ルナは上体を起こし、柔らかい声で尋ねた。
「何があったの?」
ハワードはしばらく黙っていたが、やがてぼそりと口を開いた。
「……シンゴのやつ、冷却装置を止めようなんて言うんだ。
止めたらオリオン号が止まるかもしれないんだぞ。
こんな砂漠の真ん中で壊れたら、俺たちどうすんだよ……」
その声は怒りよりも、不安に満ちていた。
ルナはそっと布団を握りしめながら、彼の目を見た。
「ハワード……不安なのは、あなただけじゃないよ」
「え?」
「みんな、怖いの。
オリオン号が止まるかもしれないことも、嵐に巻き込まれるかもしれないことも、誰だって心のどこかで怯えてる」
ルナの声は静かだった。
けれど、ひとつひとつの言葉が胸の奥にまっすぐ届いてくる。
「いくら心配したって、どうすることもできないことってある。
でも、それでも進むしかないの。
“乗り切れる”って信じて――今を越えていくしかないのよ」
ハワードは視線を落とし、ぎゅっと布団を抱きしめた。
その肩がわずかに震えている。
何か言おうとして、でも言葉が出てこない。
代わりに、小さく息を吐き、ただルナの言葉を受け止めるように俯いた。
ルナは彼の沈黙を責めなかった。
むしろ、その沈黙の中に、ハワードの素直な“弱さ”を感じ取っていた。
誰もが強くあろうとしている。でも、本当は皆、不安と隣り合わせなのだ。
その時――
オリオン号が、突然大きく揺れた。
「きゃっ!」
ルナが体を支えきれず、ベッドの端で倒れ込む。
船体が軋み、照明がちらついた。
金属音が響き、砂の吹き上げる音が一層激しくなる。
「な、なんだ!?」
ハワードが布団を投げ出し、慌てて立ち上がる。
その瞬間、別のベッドで寝ていたリュウジが目を開けた。
「……何が起きた?」
彼はすぐに起き上がり、部屋を出ようとした。
「オリオン号が……揺れたの!」
ルナも急いで靴を履き、リュウジの後に続いた。
「操縦室に行く!」
「わかった」
走る二人の背後で、ハワードは布団を放り出したまま立ち尽くしていた。
ルナの言葉――“信じて進むしかない”が、頭の中で何度も響いていた。
そして、ハワードは拳を握りしめ、震える唇で小さく呟いた。
「……頼むぞ、オリオン号……」
⬜︎
警報が鳴り響く。
赤い警告灯が室内を断続的に照らし、操縦席のパネルが明滅していた。
金属の軋む音、エンジンの唸り、そして吹き荒れる砂嵐の轟音――
オリオン号の中は、まるで暴風の中に投げ出されたような混乱に包まれていた。
その場に駆け込んだルナが、息を切らしながら叫ぶ。
「何があったの!?」
操縦席に座るカオルは、額の汗を拭う暇もなく操縦桿を握り締めていた。
「重力制御ユニットが不安定だ! 制御が効かない!」
「このままじゃ姿勢を保てない!」ベルが必死に補助装置を操作する。
「砂嵐を抜けるぞ!」
背後から低く響く声。
リュウジが操縦席の後ろに立ち、鋭い目で前方のスクリーンを見据えていた。
その声には焦りよりも、確かな覚悟がこもっている。
カオルとベルが舵を合わせ、オリオン号は唸りを上げながら上昇を開始した。
砂の粒が窓を叩き、視界がほとんど白に染まる。
だが、その瞬間――前方の空が開けた。
「……抜けた……!」
ベルが息を吐いた。
カオルも胸を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべる。
だが――その安堵は、一瞬だった。
「――うあぁぁぁ!」
カオルが叫んだ。
その先には、果てのない崖。
砂の海が途切れ、巨大な断層の裂け目が口を開けていた。
「崖だッ!!」
オリオン号が急に重力を失い、機体が傾く。
砂を巻き上げながら、滑るように崖の斜面を落ちていく。
制御装置が警告音を鳴らし、船体が激しく揺れた。
「きゃっ!」
バランスを崩したルナが身体を投げ出されそうになる――
その瞬間、リュウジの腕が素早く伸び、彼女の肩を抱き寄せた。
「危ない!」
ルナの身体がリュウジの胸に押し当てられ、二人の距離が一気に縮まる。
鼓動が一瞬だけ重なり、時間が止まったように感じた。
「カオル! 目を閉じるな! 前を見ろ!!」
リュウジの声が響く。
「分かってる!!」
カオルは歯を食いしばり、全身の力を込めて操縦桿を倒した。
「右に切れっ!!」
リュウジの指示に反応し、カオルは力いっぱい右へ操縦桿を倒す。
オリオン号は激しく揺れながら、目前に迫る砂の山をぎりぎりでかわした。
機体の底が地面を擦り、火花が散る。
――ガガガガッ!!
最後の衝撃と共に、オリオン号は砂を巻き上げながら停止した。
船内が一瞬の静寂に包まれる。
誰もが息を止めたまま、数秒だけ時が止まった。
「……ふぅ……」
ベルが最初に息を吐いた。
続いて、メノリが深く安堵の息をつく。
「無事、止まった……」
「みんな、平気やったか!?」
チャコが機械室から駆けつけてくる。
その目に入ったのは、まだリュウジの腕の中にいるルナの姿だった。
「な、なに、この状況でイチャコラしとんのや!」
「ち、違うわよ!!」
ルナは顔を真っ赤にしてリュウジから離れる。
「倒れそうになったのを助けてもらっただけでしょ!!」
「ふぅん……えらいタイミングで倒れるもんやなぁ~」
チャコがニヤリと笑うと、ルナはますます頬を染めて背を向けた。
「……シンゴは?」
気を取り直してルナが声を上げる。
「大丈夫や! さっき計器室にいたけど、無傷やで!」とチャコが答えた。
「チャコ、機械室はどうなんだ?」
リュウジが真剣な表情で尋ねる。
「うん、重力制御ユニットがな、かなり限界や。けど――なんとかしてみるわ!」
チャコはそう言い残して、尻尾を揺らしながら機械室へ走っていった。
ルナは荒い息を整えながら、まだ揺れる心臓を押さえた。
リュウジはそんな彼女をちらりと見て、無言で頷く。
それだけで、言葉はいらなかった。
砂漠が、再びオリオン号を包み込む。
静けさの中に、仲間たちの息遣いと、機械の唸りが微かに響いていた。
崖の縁に立たされた一行は――それでも、まだ“進む”ために生きていた。
⬜︎
――ゴゴゴゴゴッ。
低く、不気味な振動が船体を伝ってきた。
オリオン号が再び大きく揺れた。
壁に吊るされた道具が揺れ、床の上に砂がパラパラと落ちる。
「また揺れた……!」
ルナが身を起こすと、リュウジはすでに操縦室の扉に向かっていた。
「リュウジ! どこ行くの!?」
「外を見てくる」
短く答えると、彼は迷いのない足取りで甲板へ続くハッチを開けた。
「僕も行く!」
ハワードが立ち上がり、顔を青ざめさせながらもリュウジの後を追う。
「危ないかもしれない、気をつけて!」
背後からルナの声が響く。
⸻
甲板に出ると、灼熱の風が吹き抜けた。
砂嵐が薄く漂っている。
だが――足元に広がる光景を見た瞬間、二人の息が止まった。
「なんだよ、これ……」
ハワードが呻き声を漏らす。
オリオン号の船体下部が、じわじわと沈み込んでいた。
砂の海が生き物のように渦を巻き、まるで巨大な口を開けて船を呑み込もうとしている。
「流砂か……!」
リュウジは舌打ちをし、足元の揺れを確かめる。
甲板がかすかに傾き、音を立てて沈んでいく。
「まずい……」
彼はすぐに振り返り、扉を開けて中へ戻る。
「ハワード、戻るぞ!」
しかし、ハワードはその場で立ち尽くしていた。
目の前の光景を理解しきれず、ただ震える声で呟く。
「……沈む……俺たち、沈むんだ……?」
「ハワードッ!」
リュウジの怒鳴り声が、甲板の轟音を切り裂いた。
「戻れ!!」
ハワードは我に返り、よろめきながら駆け戻る。
⸻
操縦室に戻ると、皆が不安げな表情で彼らを待っていた。
メノリが真っ先に駆け寄る。
「どうだった?」
リュウジは息を整え、短く答えた。
「……流砂だ。オリオン号が呑み込まれつつある」
「なにっ!?」
カオルが目を見開いた。
「どれくらいの時間がある!?」
「分からない。けど……長くはもたない」
リュウジの声が低く響く。
「時間がない。早く脱出しなければ……このままじゃオリオン号ごと沈む!」
「オリオン号を捨てるのか!?」
ベルが振り返り、叫ぶように言った。
その声には怒りよりも、悲しみが滲んでいた。
この船は、彼らの“家”だった。
長い旅の中で雨風を凌ぎ、夜を共に越えてきた場所――それを置いていくという現実が、胸を刺した。
「ルナ……」
シャアラが震える声で名を呼ぶ。
ルナは唇を噛み締め、しばし沈黙した。
室内の振動が強まり、壁がきしむ。
その音が、決断を急かしていた。
やがて、ルナは静かに顔を上げた。
その瞳には迷いがなかった。
「……オリオン号から脱出しましょう」
全員が息を呑む。
「このままじゃ、全員が沈むわ。今は生き延びることを優先しなきゃ」
ルナの言葉は震えていなかった。
まるで、自分自身に言い聞かせるように、それでいて仲間全員に希望を投げかけるように。
「すぐに準備して!」
ルナの声に、皆が一斉に動き出した。
「シンゴとチャコは私が呼ぶわ!」
⸻
各自が手早く荷物をまとめ始める。
メノリはケースの中からヴァイオリンを取り出し、そっと抱きしめる。
「また、弾ける日が来るよね……」と小さく呟くその手は震えていた。
ベルとカオルは倉庫に走り、ロープと簡易武器を掴み取る。
「ベル、外に出る時は風向きに注意しろ。砂を吸い込んだら一発で視界を失う」
「分かってる……カオルこそ、気をつけろよ」
リュウジは医療室へ駆け込み、まだ眠るアダムを慎重に抱き上げた。
「……もう大丈夫だからな」
そう言いながら、水筒に残っていたわずかな水を移し替える。
その手は焦りながらも、どこまでも静かだった。
ルナが部屋を駆け抜け、チャコとシンゴを見つける。
「二人とも、急いで! オリオン号が流砂に呑まれ始めてる!」
「なんやて!?」
チャコが目を丸くし、端末を抱えたまま立ち上がる。
「くっそ、ユニットがぁ……」
「そんなの後! 早く!」
「わ、分かっとる!」
⸻
オリオン号の船体がさらに傾く。
砂の波が押し寄せ、外壁が軋みを上げた。
部屋の照明がちらつき、金属音が鳴り響く。
「全員、準備完了したらすぐに外へ!」
ルナの声が響く。
誰もがその声に背中を押されるように動いた。
オリオン号は――砂の底へと、静かに沈み始めていた。
⬜︎
オリオン号の船首に、一行が集まっていた。
傾いた甲板はきしみを上げ、砂がじわりと流れ込んでいる。
遠くでは、砂の海が渦を巻くようにうねり、まるで巨大な生き物が獲物を待ち構えているようだった。
「……俺が先に行く」
ベルが言った。
その瞳は静かで、恐怖よりも仲間を守る決意が宿っている。
「気をつけろ」
カオルが短く答え、肩にかけたロープを強く握り締めた。
ベルは頷き、船首の縁に立つと、勢いをつけて砂の上へ飛び降りた。
砂がわずかに沈んだが、すぐに踏みしめるようにして体勢を立て直す。
そしてゆっくりと、流砂の外側――まだ固い地面の方へと移動した。
「大丈夫だ!」
ベルが振り返り、手を挙げた。
「全員、同時に行くぞ!」
カオルの声が響く。
⸻
その時、アダムが小さく呻き声を上げ、目を覚ました。
ルナの手をぎゅっと握りしめている。
「アダム……!」
「……ルナ……?」
焦点の合わない瞳が、彼女を見つめた。
「アダム、こっちに来い」
リュウジが膝をつき、静かに手を差し出した。
「……うん」
アダムは小さく頷き、震える手を伸ばす。
「しっかり捕まってろ」
リュウジはアダムを抱き上げ、その小さな身体を胸に抱えた。
ルナはそんな二人を見つめながら、唇を噛む。
流砂の渦が、すでにオリオン号の船尾を呑み込み始めていた。
「カオル、合図を!」
「いくぞ――今だ!!」
全員が一斉に飛び降りた。
足元の金属が悲鳴を上げ、船体が軋む。
着地と同時に、オリオン号が大きく揺れた。
ルナは砂に膝をつき、振り返る。
「急いで! 早く流砂の範囲から離れて!」
砂の上を走るたび、靴が沈む。
息を切らしながらも、仲間たちは懸命に前へと進んだ。
⸻
ベルが振り向き、後方を確認する。
「……シャアラがいない!」
皆が一斉に振り返る。
その視線の先――
オリオン号の傾いた甲板に、必死にしがみつくシャアラの姿があった。
足元は崩れ、金属の床が砂に沈みかけている。
「シャアラ!!」
ルナが叫んだ。
その瞬間、ハワードの胸を何かが突き刺した。
ルナの言葉――
『不安なのは、あなただけじゃない。みんなだって怖いのよ』
その声が頭の中で響く。
気づけば、彼の足は勝手に動いていた。
「ハワード!!」
ルナの叫びを背に、ハワードは沈みかけるオリオン号に向かって走り出していた。
砂が崩れ、足を取られながらも、彼は勢いを殺さず跳んだ。
船体に飛び乗り、片手でパイプを掴み、もう一方の手でシャアラの手を掴む。
「離すなよ!」
「……ハワード!」
シャアラの目に涙が滲んだ。
⸻
「カオル!」
リュウジが叫ぶ。
カオルは無言で頷き、肩に巻いたロープの端をリュウジに投げた。
「行けるか!?」
「任せろ!」
リュウジは素早くキャッチし、腰に巻きつけて結んだ。
「みんな、ロープを握れ!」
カオルが叫び、メノリとベル、ルナ、シンゴがそれぞれロープを掴む。
リュウジはアダムをベルに託し、すぐに船首へと走った。
傾いた甲板に飛び乗り、ソーラーパネルの上に足を掛ける。
「ハワード! 捕まれ!!」
手を差し出す。
「もうちょいだ……!」
ハワードも手を伸ばす。だが――あと数十センチ届かない。
その瞬間、オリオン号が再び大きく揺れた。
金属が軋み、甲板が崩れる。
ハワードとシャアラの身体がさらに下に滑った。
「くそっ! これが限界か!」
リュウジが歯を食いしばる。
ロープがピンと張り、前に進めない。
そこで、彼の視界に映った。
ハワードの肩――
首元で縛っていた上着。
「ハワード! 上着だ!!」
「えっ……!」
ハッとしたハワードは、片手で上着の紐をほどき、勢いよくリュウジへ投げた。
「よしっ!」
リュウジは袖を掴み、力いっぱい引く。
「もう少し! 頑張れ!!」
ルナが必死に叫ぶ。
皆がロープを握る手に力を込める。
その時――
轟音。
オリオン号が縦に傾いた。
全員の視界が一瞬、砂色に染まる。
「きゃああっ!」
シャアラの悲鳴が響く。
彼女の手がハワードの掌から滑り落ちた。
「シャアラッ!!」
ハワードの叫び。
反射的に上着を離し、彼は身を投げ出した。
シャアラを抱き寄せ、そのまま片手で船体のパイプを掴む。
「ハワード、逃げて……!」
「馬鹿野郎! 一緒に帰るんだろ! コロニーに!!」
ハワードの叫びは、轟音にかき消された。
「ハワード!!!」
ルナが泣き叫ぶ。
リュウジは腰のナイフを抜き、自分の命綱に刃をかけた。
「よせ、リュウジ!!」
カオルの声が響く。
カオルはとっさにロープを引き寄せた。
「しまっ――!」
リュウジの身体が引っ張られ、バランスを崩す。
「ハワード!! シャアラ!!!」
ルナの悲鳴。
視界の端で、二人の姿が流砂に飲まれていくのが見えた。
足が、もう砂に沈んでいる。
「くそおおおおっ!!!」
リュウジが咆哮した瞬間――
砂の渦が彼をも呑み込み、ロープが限界まで引きちぎれた。
オリオン号が大きく軋み、縦に立ち上がるようにして沈んでいく。
金属音、砂の唸り、仲間たちの叫び。
そして――
すべてが砂の底へ、静かに消えていった。
⬜︎
――オリオン号が完全に流砂に呑まれたあと。
沈黙が、砂漠を支配していた。
空は朱に染まり、遠い地平線の彼方へと太陽が沈んでいく。
吹き荒れていた風も次第に弱まり、ただ乾いた砂が彼らの足元を滑るように流れていく。
ハワードとシャアラを失った仲間たちは、誰も言葉を発せず、その場に立ち尽くしていた。
リュウジは拳を強く握り締め、沈みきった砂の海を見つめていた。
拳の中の砂が、静かにこぼれ落ちていく。
その横顔は怒りでも悲しみでもなく、何かを押し殺すような苦しみに満ちていた。
「うわああああっ!!」
突然、シンゴが叫んだ。
小さな体で、流砂へ向かって駆け出す。
「よせ、シンゴ!!」
メノリがすぐに腕を掴む。
だがシンゴは必死に振り払おうと暴れる。
「離してよ!! 離せよっ!!」
その叫びは、悲鳴のようだった。
「離すもんか!!」
メノリはシンゴの肩を掴み、力いっぱい引き寄せた。
「お前まで失うわけにはいかないんだ!!」
その声は怒りではなかった。
涙をこらえきれずに震える声。
シンゴはメノリの胸に顔を押し付けるようにして、力を失った。
「ごめんね……」
かすかな声が、静寂の中に落ちた。
それはルナの言葉だった。
「私が……大陸に行こうなんて言わなければ……」
ルナはうつむき、拳を握りしめる。
その手が微かに震えていた。
「よせ、ルナ。お前のせいじゃない」
リュウジの声は低く、静かに響いた。
「せや、誰のせいでもあれへん」
チャコも心配そうに言葉を添える。
だがその沈黙を破るように、シンゴが呟いた。
「……僕のせいだ」
「シンゴ……」
ルナが顔を上げた。
「僕が……ちゃんと整備していれば……重力制御ユニットが止まりさえしなければ……!」
その言葉と共に、シンゴは砂の上に膝をつき、うずくまった。
拳を握りしめ、肩を震わせ、涙が頬を伝う。
誰も何も言えなかった。
誰も彼を責めることはできなかった。
胸の奥では、誰もが同じ思いを抱えていたからだ。
⸻
太陽は地平の向こうに沈み、辺りがゆっくりと闇に包まれていく。
冷たい風が吹き抜け、砂の表面を薄く削り取っていく。
まるで、沈んだ仲間たちの痕跡までも消そうとするかのように。
その中で――
メノリが静かに立ち上がった。
「……いつまで、そうしているつもりだ」
彼女の声が、冷たい空気を切り裂いた。
涙で濡れた瞳に、強い光が戻っていた。
「ここにいたって、あの二人は帰ってこない。
でも、私たちは――生きてる。
先に進まなければ、今度は全員が死ぬぞ」
その言葉に、誰もが顔を上げた。
静寂の中、メノリの足音だけが砂を踏みしめる音を立てる。
「……行くぞ」
カオルがその背中を追いかけた。
短く頷き、無言で歩き出す。
「俺たちも行こう」
ベルが立ち上がり、ロープの端を背に担ぐ。
その瞳には、まだ悔しさの色があったが――それでも前を向いていた。
ルナはアダムを見つめた。
アダムは小さく頷く。
その手を握り返し、ルナも立ち上がった。
「チャコ……」
「分かっとる。ウチも行くわ」
チャコは流砂を一度だけ振り返り、そして静かに歩き出した。
最後に残ったシンゴの前で、リュウジがしゃがみ込む。
「……シンゴ、行くぞ」
リュウジが手を差し出す。
シンゴは涙で濡れた目を上げ、黙ってその手を取った。
「……うん」
リュウジはその手を強く引き上げた。
「前を見ろ。あいつらが見てる」
シンゴはゆっくりと立ち上がり、砂を踏みしめながら歩き出した。
その後ろを、リュウジが静かに歩いていく。
⸻
夜の帳が完全に降りた砂漠の中、
沈黙の列が――光のない地平へと進んでいった。
彼らの足跡だけが、砂の上に淡く刻まれていく。
それは、失われた仲間たちへ捧げる祈りの道でもあった。
⬜︎
――灼熱の太陽が、容赦なく頭上から照りつけていた。
青く澄んだ空には一片の雲もなく、陽光は白く反射して砂の大地を焼き尽くす。
靴底が焼けるように熱く、歩くたびに立ち上る砂煙が肺を刺すようだった。
「……あ、あっつぅ~……」
チャコが耳の後ろを仰ぎながら、尻尾をだらりと垂らす。
「うち、オーバーヒートやで……。このままやと回路がショートするわ……」
額に浮いた油の粒をぬぐいながら、まるで汗を拭うように耳の先で風を起こした。
誰もが疲弊していた。
唇は乾き、視界の先が揺らめいて見える。
焦げたような風が肌を刺し、息を吸うだけで喉が痛む。
「……この暑さで、先に進むのは危険だ」
前を歩くカオルが、息を整えながら低く呟いた。
「なに?」とメノリが眉をひそめる。
「このまま歩けば、全員が倒れる。太陽の角度が変わるまで、休むべきだ」
その声は理性の響きだったが、誰も反論できないほど、皆限界に近かった。
リュウジは立ち止まり、ベルが背負っていた大きなリュックに目を向けた。
中には、メノリのヴァイオリンや小さな布、道具類が詰め込まれている。
「ベル、ちょっとそれを貸してくれ」
リュウジが手を差し入れ、一枚の厚手の布を取り出す。
「日陰を作って休もう。今は無理に進むより、体温を下げる方が先だ」
彼の声に、皆が顔を上げた。
リュウジはすぐに行動を開始する。
オリオン号から持ち出した金属パイプを四方に突き立て、その布を縛りつけていく。
わずか数分の作業で、簡易的な日除けが出来上がった。
「……よし」
布の影が、砂の上に柔らかい影を落とす。
それでも空気は熱く、汗が止まらない。だが、直射日光を避けられるだけでも天と地の差だった。
⸻
「みんな、少しずつでいいから水を飲んで」
ルナがリュウジの持つ水筒を開け、仲間たちに差し出した。
中には残り少ない水。
それでも今、喉を潤せることがどれだけ貴重なことか、全員が分かっていた。
アダムが両手で水筒を受け取り、小さく口をつけた。
その瞬間、彼の目に安堵の色が宿る。
「一口だけよ、アダム」
ルナが優しく声をかけると、アダムはこくりと頷き、水筒をルナに差し出した。
「ありがとう」
ルナはその手を受け取り、少しだけ唇を濡らす。
冷たい水が喉を通る瞬間、体が少しだけ軽くなる気がした。
彼女は水筒をそっとリュウジに差し出す。
「……リュウジ、あなたも」
だが彼は、首を横に振った。
「俺はいい」
「ダメよ。少しでも飲んで」
ルナの声には、懇願にも似た響きがあった。
「俺は一日や二日、水を飲まなくても生きていける訓練をしてる」
そう言って、リュウジは微笑んだ。
その笑みは、いつもの冷静な顔とは違って、どこか穏やかだった。
「心配するな。危ないと思ったら、ちゃんと飲む」
「……もう、約束よ」
ルナは眉を寄せて言う。
「約束だ」
リュウジは短く応え、背中から砂の熱を逃すようにごろりと横になった。
ルナもその隣に身を横たえる。
日除けの布の影が、二人の頬を淡く照らす。
汗の跡が光り、呼吸の音だけが静かに重なった。
⸻
やがて、他の仲間たちもその輪の中へと入ってくる。
ベルは背からリュックを下ろし、パイプの根元に置いた。
メノリは腕を枕にして横たわり、シンゴはその隣で目を閉じた。
チャコは布の端に体を寄せながら、かすれた電子音で呟く。
「……人間って、不思議やな。こんなに暑いのに、みんなちゃんと……生きようとしとる」
「それが“生きる”ってことなんじゃないか」
リュウジの声が、半ば眠たげに響いた。
「……たとえこの星が俺たちを拒んでも、俺たちは生きる理由を見つけるんだ」
その言葉に、ルナはそっと目を開ける。
彼の横顔を見つめながら、ふっと微笑んだ。
(……あなたは本当に、強い人ね)
太陽の熱はまだ容赦なく降り注いでいた。
だが、布の下で生まれたわずかな影の中――
彼らは確かに、“生きる力”を分け合っていた。
⬜︎
日が傾き始めると、砂の色が少しずつ鈍い金に変わっていった。
布の下で仮眠をとっていた皆が、順に身を起こす。喉は渇き、体は重い。それでも彼らは互いに目を合わせ、うなずき合い、歩きだした。涼しいうちに少しでも距離を稼ぐ――それだけが合言葉のように、足を前へと運ばせる理由になっていた。
足取りはどこまでも重い。砂は一歩ごとに沈み、踵を引き戻す。
ルナは列の中ほどで、時々振り返ってシンゴの様子を確かめた。彼は肩を落とし、視線を足元に落としたまま、とぼとぼと進んでいる。
最後尾にはリュウジ。影のように静かだが、その視線は確かにシンゴの背を守っていた。ふとルナと目が合うと、彼は軽く顎を引いて見せる。――大丈夫だ。
その合図に、ルナは小さく息を吐き、握っていたアダムの手をぎゅっと握り直した。アダムが見上げ、かすかに微笑む。冷え始めた風が、ほんの少しだけ体力を返してくれた。
夜は長く、歩調は遅かったが、星々の下を列は確かに進んだ。
⸻
朝。
地平の向こうから、今日も容赦のない光が這い上がってくる。白い刃のような陽光が砂原を切り、熱を呼び起こす前に、皆は決まりきった手順で動いた。
布を広げ、パイプを四隅に突き立て、結び、影を落とす。昨日と同じ影、同じ広さ。だが、そこに横たわった体の疲労は昨日より深く、失った二人の不在は昨日よりはっきりとした輪郭を持っていた。
水筒の栓が、慎重に、音を立てずに開けられる。
ひとり、ひと口。次のひとりが、さらにひと口。唇が濡れるたび、誰かの喉が小さく鳴った。
その輪の中で――今日も、リュウジは飲まない。
ルナは何も言わなかった。昨日の彼の言葉――「危ないと思ったら、ちゃんと飲む」――を、信じる選択をした。信じることは、彼に無理を言って飲ませるより、今はずっと大事なことに思えたから。
影の温度は、やはり高い。直射を避けられる分だけ、命が伸びる。
ルナはリュウジの隣に横たわった。砂のざらりとした感触が背中から伝わり、耳には皆の浅い寝息と、遠くを渡る風の音だけが入ってくる。
沈黙が広がる。
ハワードの軽口も、シャアラの明るい声もない。そこに在ったはずの音の形が、影の端で揺らめいては消える。胸の奥にひやりとした空白ができ、そこへ太陽の熱とは違う痛みがじわじわと入り込んでくる。
その時――指先が、何か柔らかなものに触れた。
ルナはハッとして視線を落とす。彼女の手の甲に、リュウジの手の甲が、そっと触れていた。体勢を整えるうちに、偶然重なったのだろう。
リュウジは気に留める様子もなく、いつものように空を見ている。狭い影の中で、彼にとってはただの“配置”にすぎないのかもしれない。
けれど――ルナの胸の中では、違った。
触れた部分から、あたたかさがじんわりと広がっていく。
さっきまで心に巣作っていた寂しさが、砂に沁みる水のように少しずつ薄まる。そこに形を与えられない優しさが満ちて、喉の奥につかえていた痛みが、ゆっくりとほどけていく。
(……大丈夫。進める)
言葉にはならない。
ただ、触れている手がそう告げている気がした。
ルナは指をわずかに丸め、引っ込めず、そのままにしておいた。
リュウジの指も、動かない。意図か、偶然か、彼はやはり何も言わない。だが、その沈黙は冷たさではなく、寄り添うために選んだ沈黙だった。
影の縁で、砂が小さく崩れる音がした。
誰かが寝返りを打つ。誰かがかすかに名前を呼ぶ。
熱は日ごとに厳しく、喪失は日ごとに重くなる。けれど、その中で触れた小さな手の温度が、今日を越える力を、確かに少しだけ増やしてくれた。
やがて、太陽がまた傾き始め、影の位置がゆっくりと移動する。
人影もまた起き上がり、布をたたみ、砂を払い、足を前に出す準備を始めた。
ルナはそっと手を離し、立ち上がる。リュウジも何も言わずに立ち、列の最後尾に回る。前ではカオルが方角を確かめ、ベルが荷を背負い直し、シンゴは視線を深くして歩き出す。
砂は熱い。風は乾く。道は果てしない。
それでも――触れた手の記憶が、今日をまた一歩、前へ運ばせてくれる。
⬜︎
夕焼けが砂原を染めていた。
真紅の光が水平線に沈みかけ、長く伸びる影がゆっくりと彼らを包む。
熱を孕んだ風も、どこか冷えを帯び始めていた。
その中で、シンゴがふらりとよろめき、膝をついた。
「……シンゴ!」
ルナの声が響く。
乾ききった唇、肩で息をする小さな背中。
必要最小限の水しか口にしていない。
それは皆同じだったが、シンゴの身体は特に限界に近かった。
彼の体力を奪っているのは暑さだけではない――
仲間を失った悲しみが、心から力を奪っていた。
リュウジが膝をつき、シンゴの目線に合わせる。
「大丈夫か?」
低く落ち着いた声だったが、その声の奥に焦りが滲んでいた。
「だ、大丈夫だから……」
シンゴは顔を上げずに呟く。
その言葉に説得力はなかった。
リュウジは無言で水筒を外し、シンゴに差し出した。
中身はほとんど残っていない。
「最後の水だ。飲め」
その声を聞いたルナの胸が強く締めつけられた。
「リュウジ……」
小さく呟く。
彼がこの二日間、一滴の水も口にしていないことをルナは知っていた。
それでも迷わず、仲間に分け与える姿――
その背中があまりにも静かで、まぶしかった。
シンゴはためらい、目を伏せたが、リュウジの目がそれを拒む余地を与えなかった。
「……ありがとう」
かすかな声とともに、シンゴは一口だけ水を含む。
その時、前方からベルの声が上がった。
「――森だ! 見てみろ!」
その言葉に、皆の顔が一斉に上がる。
視線の先には、黄金の光を浴びながらゆらめく緑の帯が広がっていた。
長かった砂漠の終わり――ようやく、森が彼らを迎えていた。
「やっと……」
ルナが小さく息を漏らす。
安堵と疲労がないまぜになった声だった。
⸻
森に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たく、湿った風が肌を撫で、土の匂いが鼻をくすぐる。
足元には柔らかな苔があり、砂漠の熱が嘘のように静まっていく。
「……ここで一息入れよう」
カオルの言葉に、誰も反対しなかった。
辺りはすでに薄闇に包まれ始めていた。
太陽の名残が森の木々を橙に照らし、空には宵の星がひとつ、またひとつと灯り始めている。
リュウジは空の水筒を地面に置いた。
その手がゆっくりと腰のナイフに伸びる。
「食べ物を探してくる」
「待って! リュウジ――」
ルナが思わず声を上げる。
その声を遮るように、別の声が重なった。
「俺も行く」
カオルだった。
立ち上がりながら、短く告げる。
だがリュウジは小さく首を振る。
「一人でいい。……カオルはベルと火を起こせ」
「しかし――」
カオルは言いかけて、リュウジの表情に気づいた。
そこに迷いも怒りもなかった。ただ、極限の疲労と静かな覚悟があった。
「あと、どれくらい動ける?」
カオルの問いに、リュウジはわずかに間を置いた。
「……三十分がいいところだ」
その言葉に、ルナは息を呑んだ。
リュウジの手と足がかすかに震えている。
それは疲れではない。痙攣――明らかに脱水の症状だった。
水分が足りていない。
それでも、彼はまだ前へ進もうとしている。
「……それに、ここからは時間との勝負だ」
リュウジは短くそう言うと、ナイフを腰に戻し、背筋を伸ばした。
カオルは唇を噛み、やがて小さく頷いた。
「分かった。三十分経っても戻らないようなら、俺たちが行く」
リュウジは頷き、森の奥へと足を踏み出す。
その背は、炎のような夕暮れの光に染まり、影が長く地面に伸びた。
⸻
「ちょっと、カオル!」
ルナが声をかける。
その声に、カオルはゆっくりと振り向いた。
「大丈夫だ。今のあいつは……周りを気遣う余裕がない」
彼の声は低く、どこか哀しげだった。
「一緒に行ったところで、俺も足手まといになる」
ルナは唇を噛み、何も言えなかった。
「とりあえず、火を起こそう。三十分経っても戻らないようなら、探しに行こう」
ベルが言った。
「……ああ」
カオルが短く答える。
ルナはその場に立ち尽くし、リュウジが進んでいった森の奥をじっと見つめていた。
木々の間に消えていく彼の背中が、まるで光の向こうに溶けていくように見えた。
胸の奥がざらりと痛む。
彼の無理を止められない自分が悔しくて、
それでも――その背中を信じるしかなかった。
ルナの指先は、まだあの時触れたリュウジの手の温もりを覚えていた。
それが、彼を信じる力の唯一の証だった。
⬜︎
森の奥は、砂漠の死の世界とはまるで違っていた。
ひんやりとした風が木々の間を抜け、どこか懐かしい生命の匂いが漂う。
土の感触、湿り気のある空気、遠くで鳥のような生き物の鳴き声――
そのすべてが、リュウジの体を包み込んだ。
(……生きてる。ここは、生きてる星だ)
ナイフを構えながらも、リュウジの目は光を取り戻していた。
喉の奥が焼けるように渇き、体の内側は悲鳴を上げている。
だが、それでも足を止めない。皆が待っている。
あの小さな影たち――ルナ、アダム、シンゴ、チャコ、そして仲間たち。
誰一人、もう失いたくなかった。
森の奥を抜ける風が、ふと甘い香りを運んだ。
リュウジは足を止める。
――この香り。果実だ。
木々の間を進むと、薄い橙色に光る実が枝に群れていた。
形は丸く、表面にはうっすらと産毛のような細かな毛がある。
夕暮れの光を浴びて、まるで桃のように淡く輝いていた。
「……食えるか、どうか」
独り言のように呟き、ナイフの先で軽く皮を削る。
果汁がとろりと溢れ、手の甲を伝う。
指でなめると、ほんのりとした甘みが舌に広がった。
(……いける)
リュウジは果実を一つもぎ取り、思い切って一口かじった。
柔らかい果肉が歯の間で弾け、喉を潤すような甘露が流れ込む。
冷たさにも似た清涼感が全身に広がり、心臓の鼓動がひとつ強く打った。
「……生き返る……」
小さく息を吐く。
喉の渇きが和らぎ、指先に再び力が戻ってくる。
木の下にはいくつもの実が落ちていた。
リュウジは迷わずそれを拾い集め、両腕いっぱいに抱え込む。
ふらつきながらも、笑みがこぼれた。
「これで……みんな、助かる」
木漏れ日が彼の頬にかかる。
風が枝を揺らし、桃色の果実がまたひとつ、ぽとりと落ちた。
それを拾い上げ、リュウジは再び駆け出す。
森の中を、颯爽と。
枝葉が腕を掠め、葉の音が追い風のように鳴る。
誰もいない道を、ただひとり――迷いも恐れもなく。
胸の奥には、ひとつの想いだけが燃えていた。
(……みんなを待たせるわけには、いかない)
森の木々が途切れ、焚き火のかすかな光が見えた。
その光の向こうには仲間の影。
リュウジは息を弾ませながらも、両腕に抱えた果実を落とさぬよう、
まるで宝物を運ぶように――しっかりと胸に抱きしめていた。
⬜︎
森の奥から足音が聞こえた。
ふらつきながらも、両腕に抱えた果実を落とさぬように歩いてくるリュウジの姿。
焚き火の橙色の光が彼の汗に濡れた頬を照らす。
「リュウジ!」
ルナが立ち上がり、駆け寄った。
「おかえりなさい、大丈夫?」
「……ああ。果実も見つけてきた。」
息を整えながらリュウジは腕の中の果物を見せた。丸く、桃のような果実がいくつも光を受けて淡く輝く。
「おお、甘い匂いやな!」
チャコがひょいと手を伸ばし、一つを受け取って齧る。
果汁が口の端から垂れ、目を丸くした。
「糖分も水分も問題あらへんで! 食べても大丈夫そうや!」
リュウジは小さく頷くと、果実をルナに手渡した。
「みんなに配ってくれ。」
「分かったわ。……リュウジ、少し休んでて。」
「僕も手伝うよ!」とアダムが元気よく立ち上がる。
「ありがとう、アダム。」とルナは柔らかく笑い、果実を両手で抱えながら皆の元へ歩いていった。
焚き火の明かりの中で、ルナが順に果物を配っていく。
「はい、シンゴ。……こっちはメノリ。」
「ありがとう。」
「それじゃ、いただきます。」
ルナの声に続き、誰もが静かに果物を齧る。
口に広がる甘さが、疲れ切った体にゆっくりと染み込んでいく。
しかし――その味を感じる余裕がある者は多くなかった。
誰も言葉を発さず、ただ果実の音だけが焚き火の中に溶けていく。
その沈黙を破ったのはチャコだった。
「それにしても、なかなかいけるな、この果物!」
元気に尻尾を振りながら言う。
「せや、あの巨大ウツボカズラの実や! あれは確かルナとシャアラが――」
チャコは途中で口をつぐんだ。焚き火の火がぱちりと弾ける音が響く。
ルナの表情は何も言わず、ただ少しだけ俯いていた。
「……まあ、ともかく砂漠も越えた! あとはメインコンピューターまで進むだけや!」
気まずさを誤魔化すようにチャコが声を張り上げる。
「でも油断は禁物やで! またあのトカゲみたいなやつが出てくるかも知れへん! でもその時はハワードの……やのうて、パパッと攻撃をかわしてやな……」
ルナが静かに首を振った。
「チャコ、無理しなくてもいいわ。」
その声は優しいが、どこか寂しい。
チャコは小さく頷き、火のそばに腰を下ろした。
⸻
「シンゴ、ちゃんと食べておけ。身体が持たないぞ。」
メノリが果実を齧りながら言う。
だが、シンゴは果物に手をつけず、メノリを睨みつけた。
「よくこんな時に食事なんてできるね……! ハワードとシャアラは死んだんだよ!」
焚き火の音が止まったように感じた。
誰もが動きを止め、シンゴの叫びを見つめる。
メノリは少し目を伏せ、それでも静かに口を開いた。
「それがどうした。死んだ者は仕方がない。それより生きることを考えるべきだ。後悔するのは勝手だが、そんなことをしても二人は生き返らない。」
「よくもそんなことが言えるね!」
シンゴの目に涙が光った。
「自分が助かればそれでいいの!? 仲間がどうなってもいいの!? 自分さえ生きれば!」
「よせ、シンゴ!」
リュウジが素早く立ち上がり、シンゴの肩を掴んだ。
「メノリも言い過ぎだ。」
だがシンゴはリュウジの手を振り払った。
「触らないでよ!」
涙が頬を伝い、声が震えている。
「リュウジに僕の気持ちなんて分かるわけないじゃないか! あんたは……あんたは仲間を失うことに慣れてるんだろ!」
ルナの声が鋭く響いた。
「シンゴ!!」
焚き火の光がルナの瞳に反射して揺らめく。怒りを含んだ声だった。
「あなた、一体何を………」
その瞬間――乾いた音が、空気を切った。
カオルの手が、シンゴの頬を叩いていた。
「おい、カオル!」とリュウジが声を上げる。
シンゴは頬に手を当て、ゆっくりとリュウジを見た。
リュウジは怒るでもなく、ただどこか寂しげで困惑した表情をしていた。
焚き火の炎が揺れる。
沈黙が長く続いた。
やがてシンゴが小さく唇を震わせ、「……ごめん」とだけ呟いた。
そのまま、誰の顔も見ずに立ち上がり、森の奥へと走り出した。
「シンゴ!」
ルナの声が追うが、もう彼の背は暗闇に消えていった。
風が枝を揺らし、果実の甘い香りが静かに流れた。
それは、まるでこの森が悲しみの色を知っているかのように――
ゆっくりと、痛みを包み込むように漂っていた。
⬜︎
焚き火の光がゆらゆらと揺れていた。
その火を背にして、メノリは静かに立ち上がると、言葉もなく森の奥へと歩いていった。
彼女の背中は、何かを噛み殺すように固く、影だけが長く伸びていた。
「メノリ!」
ルナの声が夜気に響く。だがメノリは振り返らない。
「ルナ、俺が行く。」
短く言って、リュウジが彼女の後を追った。
その背中にもまた、静かな決意があった。
「俺は……シンゴのところへ行く。」
カオルも歩き出し、焚き火の光を背に森の闇へと足を踏み入れる。
「大丈夫。二人なら上手くやるよ。」
ベルが穏やかな声で言う。
その声には、仲間への信頼と、悲しみを抑える優しさが滲んでいた。
ルナも小さく「うん」と頷いた。
⸻
森の奥では、夜風が枝葉を揺らしている。
その中に、怒りをぶつけるような声が響いた。
「メノリが……あんな奴だとは思わなかったよ!」
怒鳴り声と同時に、木を殴る乾いた音。
小鳥たちが一斉に飛び立つ。
その音を聞きつけ、カオルはため息をついた。
「……ここにいたのか。」
静かに言いながら、シンゴの隣に腰を下ろす。
しばらくの沈黙。森の中には、焚き火のかすかな匂いだけが漂っていた。
やがて、カオルが口を開く。
「……悪かったな。叩いたりして。」
シンゴは少し俯いたまま、拳を緩めた。
「僕の方こそ、ごめん。ついカッとなって……。」
その声には悔しさと、後悔が滲んでいた。
「シンゴ、俺もな……昔、友を失ったことがある。」
「カオルが?」
「……ああ。」
カオルは少し遠くを見るように目を細めた。
「俺のつまらない意地が、友を殺したんだ。」
その声は低く、静かだったが、森の闇に響くほどの重みがあった。
「その時の苦しみや痛みは、今でも消えない。
忘れることも、許すこともできない。
……それでも、俺は生き続けている。
ハワードとシャアラを失った時も、同じだ。」
シンゴは言葉を失い、ただその横顔を見つめた。
カオルは淡々と語り続ける。
「リュウジも、同じだ。」
「うん……。」
「奴は、あの事故で仲間も、無関係な人たちも失っている。
あいつの痛みは、きっと俺たちの想像を超えてる。
大切な仲間を失うことは、永遠に続く苦しみだ。
癒えることのない痛みを、あいつは今も抱えている。」
シンゴは膝の上に視線を落とし、動けなかった。
手が震えているのは怒りではなく、恥と悲しみのせいだった。
カオルは少しだけ彼の方を見て、静かに言った。
「だから……“リュウジは仲間を失うことに慣れてる”なんて、言ってくれるな。」
その言葉に、シンゴは顔を上げることができなかった。
森の風が二人の間を吹き抜け、葉の擦れる音が優しく響く。
やがて、カオルは立ち上がった。
「……行こう。皆のところに戻ろう。」
シンゴはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……うん。」
木漏れ日のような月光が二人の背を照らす。
静かに歩き出すその足跡は、少しずつ焚き火の光へと戻っていった。
⬜︎
森の奥、月明かりが木々の間からこぼれ、地面をまだらに照らしていた。
リュウジは静かにその中を歩いていた。
メノリの足跡は、砂のような土の上に細く続いている。
やがて、木の根元に腰を下ろす影が見えた。
「……メノリ。」
声をかけると、その影がゆっくりと振り返る。
月光に照らされたメノリの目には、涙が光っていた。
彼女は慌ててそれを指で拭おうとする。
リュウジはその姿を見て、静かに言った。
「泣きたい時は、泣け。……お前、普段から泣かないだろ。
こういう時ぐらい、泣いていい。」
その言葉に、メノリの肩がわずかに震えた。
しばらくの沈黙。
やがて、彼女は小さく笑った。
「……お前がそんなに優しいのは、かえって気持ち悪いぞ。」
「うるさい。」
リュウジも小さく笑い返す。二人の間にわずかな安堵が流れた。
だが、すぐにメノリは表情を引き締め、真剣な目でリュウジを見た。
「言い方がキツいのは分かってる。……でも、シンゴは生きる気力を失っている。
私たちはもう、誰も失うわけにはいかないんだ。」
リュウジは頷いた。
「分かってる。あいつは俺たちより若い。
受け入れるには……まだ時間がかかる。」
メノリは目を伏せ、小さく「すまなかった」と呟いた。
「私があんなことを言わなければ……シンゴも。」
リュウジは首を振る。
「気にしてない。」
穏やかに、しかしどこか寂しげに笑った。
風が通り抜け、木の葉を揺らす。
メノリはその風に顔を向け、夜空を見上げた。
月が雲にかすみながらも、静かに輝いている。
「……私は“悲劇のフライト”の真実を知った時、胸が締めつけられる思いがした。
でも、今思えば……それは偽物だったのかもしれない。」
リュウジは黙って聞いていた。
メノリの声はかすかに震えている。
「今になって分かる。仲間を失う痛みの意味を。
……辛いものだな、仲間を失うというのは。」
リュウジはゆっくりと頷いた。
「……ああ。この痛みは、慣れるものじゃない。」
そして拳を握り、前を見据える。
「だけど――あいつらの想いも背負って、生きていこう。」
メノリはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「……そうだな。」
二人はしばらく、月の光の下で黙って立ち尽くしていた。
風が静かに吹き、遠くで仲間たちの焚き火の灯りが揺れている。
失われた命のぬくもりを、心のどこかで抱きしめるように――。
夜は、深く、静かに、彼らを包みこんでいた。
⬜︎
焚き火の輪へ、二つの影が戻ってきた。
リュウジがメノリを、カオルがシンゴを連れて。
どちらも言葉はない。けれど、メノリの目元に残る涙の跡と、シンゴの肩の力の抜け方で、ルナは悟った――もう大丈夫だ、と。
「シンゴ。」
小さく名を呼び、ルナは彼を森の縁まで連れていく。
草いきれと湿った土の匂い。闇に溶ける虫の羽音。二人の距離だけが、近い。
「……さっきの、リュウジのことだけど。」
先に口を開いたのはルナだった。
シンゴは唇を噛み、すぐに目を伏せる。
「ごめん。僕、カッとなって……心にもないことを言っちゃった。」
「うん。」
ルナはうなずき、言葉を選ぶみたいに間を置いた。
「シンゴも、きっと分かってると思うけど――リュウジはね、いつだって“守る”ために動いてる。
脱獄囚のときも、私が海に落ちたときも、自分のことなんて後回しで。
今日だって、砂漠の中で水を飲まないで、みんなに回してた。
無茶に見えるけど……“誰も失いたくない”って気持ちが、あの人を動かしてるんだよ。」
はい、とも、うん、ともつかない小さな声で、シンゴが頷く。
「分かってるよ、ルナ。ほんとに、ごめん。……リュウジにも、謝らなくちゃ。」
「うん。」
ルナはやわらかく笑った。
「もう、あんなことは言っちゃダメだよ。」
その笑みは叱るでも許すでもなく、ただ“信じてる”という合図みたいに、あたたかい。
二人は並んで焚き火の輪へ戻った。
やがて果実をわけ合い、夕食を終えると、空は群青に沈み、眠りのしたくが始まる。
⸻
アダムがルナの手をぱっと離れ、ちょこちょこと走っていく。
そのまま、リュウジの足にぎゅっと抱きついた。
「今日は、リュウジと寝るよ。」
その瞳の奥に、子どもなりの優しさ――励ましが、はっきりと見えた。
ルナは思わずくすっと笑ってしまう。
リュウジは少し照れくさそうに視線をそらし、「……ルナと寝ろ」とだけ返す。
「じゃあ、三人で寝よ! リュウジと、ルナと、三人で!」
アダムの笑顔がぱっと咲き、焚き火の光が瞳に跳ねた。
リュウジの顔に困惑が浮かぶ。
ルナの頬は、火よりも赤くなる。
「よう言った、アダム。」
チャコがニヤリと笑い、「三人で寝たほうがええな」と油を注ぐ。
「チャコ!」
ルナは声を上げる――けれど、その響きには怒りに似た嬉しさが少し混じっていて、自分でも気づいて、余計に赤くなる。
「冗談やがな。」
チャコは肩をすくめるが、尻尾はおもしろそうに小さく揺れていた。
リュウジはひとつ息を吐く。
「……分かった。一緒に寝よう。」
アダムの顔がぱあっと明るくなる。胸の奥で、ルナの鼓動が早まった。
「来い、アダム。」
リュウジがごろりと横になって手を招く。
「はーい!」
アダムはリュウジの隣へ、砂をはらいながらころんと転がり込む。
その瞬間、ルナは――胸に刺すような期待と、自分でそれを沈める理性が、同時に立ち上がってくるのを感じた。
(……アダムと寝るのを“初めて”認めただけ。――それだけ。)
自分に言い聞かせるように、静かに息を吐く。
「なに、勘違いしとんねん。」
耳元でチャコが小さく刺してくる。
「してないわよ!」
ルナは即座に返す――が、頬の熱は収まらない。
「かぁ~、赤い赤い。」
チャコはにやにやしながら、「……しとったやろ」とさらに小声で呟いた。
「もう、うるさい。」
と言いながら、ルナは結局、二人の隣に身体を横たえた。
夜の森は、葉の擦れる音と、焚き火のやわらかな爆ぜる音。
アダムの小さな寝息がすぐそばで規則正しくなっていく。
リュウジの肩越しに見える星は、砂漠で見上げた星と同じなのに、どこか近く、あたたかかった。
ふと、ルナが目を閉じる直前――
「ルナ。」
低い声が、静かな夜に落ちた。
「……あんまり、無理するなよ。」
リュウジの声だった。
ルナは驚いて目を開ける。焚き火の残り火がリュウジの横顔を照らしている。
「お前はいつも、みんなのことばっかりだ。
心配しすぎて、自分のことは後回しにしてる。」
リュウジの言葉は穏やかだったが、どこか痛みを含んでいた。
ルナは一瞬、言葉を失った。
「……それは、お互いさまだよ。」
少し笑ってみせる。
「でも、ありがとう。」
リュウジは短く息を吐き、「……そうか」とだけ言った。
それ以上、何も言わず、空を仰ぐ。
夜風が吹き、火の粉が一つ、星のように舞い上がった。
ルナはその光を見送りながら、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じた。
きっとこの人も、自分と同じように――誰かのために心を削りながら、生きている。
そう思うと、不思議と少しだけ、涙が出そうになった。
「……おやすみ、リュウジ。」
「ああ。」
森の夜は、静かに深く降りていく。
三人の寝息が重なり、やがてそれが、遠くの波音のように穏やかなリズムを刻んでいった。
⬜︎
夜の森は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
月は細く、光は焚き火の橙だけ。風がそよぐたび、炎がゆらりと形を変える。
リュウジは目を閉じたまま、しばらく静かに横になっていた。
隣からは、アダムの小さな寝息が聞こえる。
その腕の中に、ルナが穏やかな寝顔で寄り添っていた。
焚き火の光に照らされたその横顔は、まるで昼の陽射しのようにあたたかく、けれどどこか儚げだった。
(……よく眠れてるな。)
リュウジはほんの少し、微笑んだ。
だが、その笑みはすぐに消え、目を開くと静かに身を起こす。
火の粉がひとつ、空へ舞い上がった。
「なんや、寝とらんかったんか。」
低い声が闇の向こうから聞こえた。
チャコが、焚き火の対面で尻尾をゆらしながら座っていた。
その丸い目は、炎に照らされて金色に輝いている。
「……起きてたのか、お前も。」
リュウジが呟くと、チャコは前足で焚き火の枝を突っつきながら笑った。
「ウチは寝つきええけどな、こういう夜は別や。火が消えたら寒いしな。」
リュウジは火の向こうに座り、無言で枝を一本、焚き火にくべた。
ぱち、と音を立てて火が勢いを増す。
「……寝れるわけがないだろう。」
その言葉は、呟きというより、息のようだった。
チャコは耳をぴくりと動かす。
「ハワードとシャアラのこと、か?」
リュウジは答えなかった。
ただ、燃える炎をじっと見つめる。
橙の光が瞳に揺れ、心の奥に残る何かを映しているようだった。
「……リュウジも大概やな。」
チャコはため息をつき、丸まって尻尾で顔を撫でた。
「ルナも、アダムも……ようやっと寝ついたんや」
リュウジはふと、視線を横に向けた。
そこでは、ルナがアダムをそっと抱くように眠っていた。
彼女の腕はまるで母のように優しく、アダムの小さな頭を包み込んでいる。
ルナの頬には、焚き火の光が柔らかく反射していた。
穏やかな寝顔――まるで、さっきまで
不安が嘘のようだった。
リュウジの胸に、微かな安堵が生まれる。
けれどその奥には、言葉にならない痛みが静かに沈んでいた。
チャコが、そんなリュウジをちらりと見やる。
「……せっかくアダムが“三人で寝よう”って言ったのになぁ。」
わざとらしく尻尾を揺らしながら、ニヤッと笑った。
リュウジは眉をひそめた。
「……からかうな。」
そう言って、焚き火の枝をひとつ掴み、火の奥へ押し込む。
「いや、別にええやん。
あの子なりに気ぃつかってるんや。
ハワードとシャアラがいなくなって、ルナもずっと無理してる。
アダムは、それをよう分かっとる。」
チャコの声には、いつになく優しさが滲んでいた。
リュウジは短く「……ああ」と答えるだけだった。
火の音が、ぱちぱちと二人の間を繋いでいた。
やがて、チャコはくるりと体を丸め、目を閉じた。
「ウチはもう寝るで。リュウジもあんまり考えすぎんなや。」
リュウジは小さく頷いたが、目を閉じなかった。
――守りたい。
それはただの責任でも、同情でもない。
この星で出会ってからのすべてが、もう自分の中で“かけがえのないもの”になっていた。
「……からかわれるのも、悪くないかもな。」
小さく呟き、焚き火を見つめたまま、リュウジは静かに息を吐いた。
火の粉が夜空に舞い上がり、星々の群れへと溶けていく。
森の奥では虫が鳴き、遠くの風が砂の音を運んでいた。
夜はまだ深い。
だが、今この瞬間だけは――炎の温もりと、仲間の寝息だけが確かな現実だった。
リュウジは背を壁にもたせ、夜空を見上げた。
そこには、彼らが越えてきた砂漠の上で見た星々が、静かに瞬いている。
あの光のどれかに、もう戻れない仲間たちの魂があるような気がした。
「……おやすみ。」
焚き火に向かって小さく呟く。
炎がやわらかく揺れて、まるで答えるように光を返した。
その温もりの中で、リュウジの瞼がようやく重くなる。
遠く、ルナの寝息とアダムの小さな寝返りの音が、穏やかな夜を包んでいた。
⬜︎
夜明けの森は、薄靄が漂い、空気が冷たい。
昨日の焚き火の跡からは、まだかすかに灰の匂いが残っていた。
鳥のさえずりが木々の上から響き、葉の間を縫って朝の光がこぼれ落ちてくる。
リュウジがナイフを構え、静かに森の奥へ踏み出した。
その背中を追うように、ルナ、ベル、チャコ、メノリ、シンゴ、アダムたちが列をつくる。
落ち葉を踏む音が、リズムのように重なっていく。
「……昨日よりも道が深いわね。」
ルナが小声でつぶやく。
「この辺り、獣道みたいになってる。あまり奥に入りすぎると、戻れなくなるかもしれん。」
ベルの落ち着いた声が後方から届いた。
リュウジは足を止め、周囲を見渡す。
太い木の根が地面を這い、苔が湿った光を反射している。
風が止まると、森の奥は一瞬で静寂に包まれた。
まるでこの場所そのものが、彼らの存在を試しているようだった。
「よし、行くぞ。」
リュウジの合図で再び歩き出す。
その途中、赤く熟した果実が木の枝にいくつも垂れ下がっていた。
「お、見てみぃ。食えそうな実や。」
チャコが尻尾を揺らしながら指差す。
リュウジは慎重に枝を切り、果実を一つ取り出す。
香りを嗅ぎ、ナイフで小さく切って味を見る。
「……悪くない。甘味が強いが、毒はなさそうだ。」
そう言って仲間に手渡すと、ルナはほっとしたように笑った。
「よかった。これで昼の食料も確保ね。」
それからしばらく進んだあと、木陰の下で一行は腰を下ろした。
各々が果実をかじる。
チャコは果実を半分ほど齧ると、尾を垂らしてぼやいた。
「……思ったよりも進んでへんなぁ。」
その声に、リュウジは目を細めて黙っていたが、ルナが口を開く。
「仕方ないわよ。初めて通る森なんだもの。」
彼女の声は明るいが、どこか疲れが滲んでいた。
「この森は地形が複雑だ。地面も柔らかい。用心するに越したことはない。」
ベルが穏やかに言う。
「せやけどなぁ……どっちみち進まなあかんのやし、もうちょいペース上げたいとこや。」
チャコが頭を掻く。
リュウジは果実をひと噛みし、しばらく無言のまま考えた。
木漏れ日が頬を照らす。
やがて低い声で言った。
「……気持ちは分かる。でも焦るな。」
その言葉に、みんなの視線が集まる。
「無駄に足を早めても、疲れが溜まるだけだ。
それに、どんなに急いでも遅れる奴が出る。
そうなったら、全員が危険になる。」
その言葉は淡々としているのに、どこか重みがあった。
カオルがリュウジの横に立ち、腕を組んだ。
「……じゃあ、先の様子を見てくる。」
リュウジは果実を齧りながら、首を横に振る。
「ダメだ。」
その声には即断の鋭さがあった。
「これ以上離れると、守れなくなる。」
リュウジは静かに言葉を続けた。
「この森は見た目以上に危険だ。
音の反響も妙だし、空気が重い。……どこかに何かいる。」
その言葉に、ルナの背筋がぞくりとした。
リュウジの目は、鋭く森の奥を見つめている。
まるで何かを察しているようだった。
チャコが口を開きかけたが、リュウジが手を上げて制した。
「とにかく、全員で進む。互いの姿が見える距離を絶対に保て。」
その声に誰も逆らわなかった。
静寂が、再び森を包む。
ルナは少しだけアダムの手を握り直した。
後ろでチャコが「ほんま、怖い顔しとるなぁ」と小声で呟く。
けれど、リュウジの背中を見つめるその瞳には、不思議と安心もあった。
(大丈夫。あの人がいる。)
ルナはそう思う。
森の奥では、風が葉を揺らし、どこか遠くで何かが動く気配がした。
それでも、進むしかない――
彼らは無言のまま、木々の迷路を抜けるようにして、ゆっくりと前へと進むしかなかった。