皆んなと笑い合った時間は、火の粉が夜空に吸い込まれるみたいに、あっという間に終わった。
焚き火は静かに灰を抱き、フェアリーレイクの面は星を貼りつけたように凪いでいる。大いなる木の上では、それぞれの寝息が風の音にまぎれ、拠点はまるで世界から切り離された小さな島になっていた。
――明日は飛び立つ。
胸の奥で、その言葉が硬く音を立てる。ルナは毛布からそっと身を抜き、用意しておいたリュックを肩に掛けた。靴紐を確かめ、息を潜めて梯子を降りる。木の幹に沿ってあがる夜気はひんやりとしていて、頬を撫でるたび、心の輪郭をくっきりさせた。
地上は暗い。昼間の賑わいが嘘みたいに、葉擦れも小川のせせらぎも、どこか遠くへ押しやられている。月は雲に薄く覆われ、森は墨一色の大きな塊になって横たわっていた。
「……行かなきゃ。」
立ち止まっている時間はない。明日は日の出とともに島を旅立つ。今日しかないのだと、自分に言い聞かせる。怖さが、喉の奥で固く膨らむ。それでも、足は前に出た。
東の森へ――。あの夜、皆が眠っている間に聞いた木々のざわめきも、今は違って聞こえる。胸の奥に灯った小さな火が、正体の知れない影を遠ざけるようだった。
しばらく歩き、開けた風の匂いがした。木々が薄くなり、月明かりに切り取られた崖の縁が現れる。ここが東の森との境。
ルナは一度、深く息を吐く。崖際に立ち、下方――月に洗われた木々の波打ちを見渡した。見慣れた森が、別の星の風景みたいに静謐だ。
「よーし、頑張るか!」
小さく気合いを入れた、その瞬間だった。
「誰だ!」
背後から、鋭い声。反射的に振り返った足が、空を踏む。
「あっ――」
視界が傾き、身体がふわりと軽くなる。崖の縁が遠ざかる――落ちる、と理解するより早く、
ぐい、と強い力が手首を掴んだ。
次の瞬間、背中が地面に触れ、尻もちをついた衝撃が遅れてやってきた。肺の空気が抜け、思わず「はぁ」と息が洩れる。
「……ルナ?」
耳になじんだ声。月の薄明かりが、驚いた顔を少しずつ浮かび上がらせる。
「リュウジ!?」
「こんなところで何やってるんだ、こんな時間に。」
「リュウジこそ、こんな時間に何やってるの?」
「遺跡に行こうと思って。少し、な。」
ぽかんとした顔が、ふっとほどける。
「なーんだ、リュウジも。」
「……も?」
「うん。行き先、同じ。」
二人は肩を並べた。言葉を重ねなくても理由は分かる――明日、飛ぶ前にどうしても済ませておきたいこと。置いて行きたくない気持ち。黙っていても、同じ場所へ向かう足どりがそれを証明しているみたいだった。
「皆に言わずに出てきたのか?」
「うん。起こしたら……きっと止められちゃうから。」
満面の笑みで言われて、リュウジは少し困ったように眉を下げる。
「こんな夜中に一人で東の森は危険だ。せめて、誰かに声をかけて行け。」
「じゃあ次からは、リュウジに声をかけるね。」
笑顔は、夜の冷たさを和らげる小さな焚き火のようだ。
「……そうしてくれ。」
短く返す声に、微かな笑みが混じる。
そこからは、ほとんど言葉がなかった。
けれど気まずさはない。踏みしめる土の弾み、枝を払う音、夜の鳥の気配――それらを共有するだけで十分に満ちる沈黙だった。ルナは、不思議と胸があたたかく満ちていくのを感じる。この時間が、ずっと続けばいいのに――そう思ってしまうくらいに。
やがて、木々の密度が変わった。古い石の呼吸が地面から立ち上る。闇の中、遺跡は輪郭だけを持ってそこに佇み、月光が崩れた壁の継ぎ目を薄くなぞっている。
近づく。ルナはリュックから、リュウジは布袋から――シロメツクサの花束を三つずつ取り出した。
「やっぱりか。」とリュウジ。
「そうだと思った。」とルナ。
二人は短く笑い合い、無言で頷いた。
遺跡の前――静かに花束を置く。石は冷たく、花は温い。手のひらに残る、昼の陽を吸い込んだ草の匂い。
二人は肩を並べ、目を閉じる。合唱の声は出さない。胸の内で、静かに“歌”を重ねる。
ここで息絶えた脱獄囚たちへ――彼らの終わりが、どんな生の結末にも、弔を。
そして、明日からの航路が、無事であるように。
先に、リュウジが目を開けた。
少しして、ルナもまぶたを上げる。その目には、迷いの澱が消えていた。
「……行こう。夜が明ける。」
「ええ。」
遺跡を背に、ふたたび森へ。
歩き始めてすぐ、リュウジがちらと空を見上げ、額に手を当てた。
「どうしたの?」
「このペースじゃ、夜明けに間に合わなそうだ。」
皆の家、つまり拠点までの距離と、夜明けまでの時間。頭の中で素早く並べ替え、彼は足を止めてルナの正面に回る。
「少し、我慢してくれ。」
「え?」
抱き上げられた。
膝裏と肩に回る腕、軽々と持ち上げられる感覚、胸の前でぎゅっと縮む空気。
「きゃ……!」
小さな悲鳴が月明かりに散って、ルナの心臓が一気に跳ねた。
「走るぞ。」
リュウジの足が、闇の中を滑るように弾む。
枝を避け、根をまたぎ、わずかな明暗の差を拾って最短のラインを選ぶ。呼吸は一定、体幹はぶれない。ルナを支える腕の力は強いのに、動きのひとつひとつは驚くほど丁寧だった。
ルナは、見上げる顔の近さに眼を瞬かせる。
頬、鼻梁、薄く結ばれた口元――数えられる距離。心臓がうるさく鳴って、森の音が遠のく。耳まで熱が走る。それでも、不思議と怖くない。
(……ああ、こんな顔で走るんだ。)
真っ直ぐ前を見て、必要だけを選び取る顔。
その横顔を、おっとりと、愛おしむように見つめてしまう自分を笑いそうになる。
森が薄くなり、空がうっすら白む。
岸の水音が近づき、大いなる木のシルエットが大きくなる。
夜の最後の冷気を割るようにして、拠点の広場へと飛び込んだ。
――その瞬間。
梯子の上から、ひとつ、ふたつと顔が覗いた。寝癖の残るハワード、目を擦るシンゴ、腕を組んだままのカオルとメノリ、肩を伸ばしながら見降ろすベル。シャアラは手すりに身を預け、アダムが目を輝かせる。木の上では寝ぼけた様子のタコ。
そして、地上の陰から、チャコがひょいっと現れた。
皆の視線が、一斉に二人へ吸い寄せられる。
お姫様抱っこされたままのルナは、頬をみるみる真っ赤に染め上げ、けれどどこか夢心地の表情を崩さない。
リュウジは「……おはよう」とだけ言って、困ったように肩をすくめた。
次の瞬間――
パシャリ。
チャコの目元が小気味よく鳴った。
「ええがな、ええがな。ええ画(え)やで。」
ニヤリと笑うチャコに、ハワードが口笛を吹き、シンゴは「すご……」と素直に感嘆の声を漏らす。メノリはこめかみに手を当て、ベルは肩を震わせて笑い、シャアラは両手で頬を押さえた。アダムは「すごい!」、「やっぱり一緒だったか」とカオルが一つ息を吐く。
リュウジはようやくルナをそっと降ろし、彼女の足元が安定したのを確認してから一歩下がった。
「……間に合ったな。」
「うん。」
二人の短い会話に、夜明けの光が差し込んでくる。
湖面が金色にほどけ、風が木々の梢を撫でる。新しい一日――そして旅立ちの朝が、静かに始まろうとしていた。
ルナは小さくリュックの肩紐を握り直し、皆の方を振り返る。
その頬にはまだ夜の名残の赤みがあり、目には、強さと優しさの両方が澄んで宿っていた。
リュウジは一度だけ視線を合わせ、言葉にしない合図を送る。
――大丈夫。行ける。
そんな気持ちが、微笑みひとつで行き交った。
チャコがもう一度、メモリーを残す。
夜と朝の境目に立つ仲間たち――その中心にいる二人を、今度は少し引いた画角で。
パシャリ。
新しいページに、また一枚、大切な写真が増えた。
ーーーー
「最後に――ポルトさんのお墓参りをしましょう。」
ルナの声が、やわらかな朝の光の中に響いた。
仲間たちはゆっくりと頷く。
「それがいいね。」とシンゴが微笑む。
皆の心の中にも、同じ思いがあった。あの優しかったポルトさんに、ちゃんとお別れを言わなければ。
大いなる木の根元――そこに小さな丘のように盛られた土と、手作りの木の十字架が立っている。
木漏れ日が枝の隙間から降り注ぎ、花々と同じように十字架を照らしていた。
ルナたちは一列になって近づき、昨日摘んだシロメツクサの花束を一つずつ置いていった。
風に花弁が揺れ、草の匂いがふんわりと漂う。
「ポルトさん……。」
ルナは小さく目を閉じた。
――私たちは今日、この惑星を旅立ちます。
――どうか見守っていてください。
心の中で、そう静かに祈る。
リュウジも、メノリも、ハワードも、カオルも、ベルも、シャアラも、アダムも。
誰もが言葉を持たずに、ただ目を閉じ、胸の中でそれぞれの感謝を捧げていた。
やがてルナがそっと息を吸い、顔を上げる。それに倣って、皆も静かに目を開けた。
空は高く、雲はゆっくりと流れている。
湖面のきらめきが、まるでポルトの微笑みのように見えた。
「……それじゃあ、行きましょうか。」
ルナが小さく笑って言う。
「ちょい待ちぃな!」
チャコが片手を上げて声を上げた。
「どうしたんだ? 忘れ物か?」とメノリが振り返る。
「ちゃうちゃう! 最後に皆んなで写真を撮るんや!」
その提案に、空気がぱっと明るくなる。
「それでしたら、私が撮ります!」
いつの間にか後ろにいたタコが、胸を張って言った。
「それがいい!」とシンゴが頷く。
「最後にこの島にこれて良かった……。」ベルが静かに呟いた。
「皆さん、もっと寄ってくださーい!」
タコの声に導かれ、皆がポルトさんのお墓の前に集まる。
ルナとリュウジが中心に立ち、左右にはチャコとメノリ、ハワードとベル、シャアラとシンゴ、カオル、アダム。
それぞれが少し照れながらも、自然に肩を寄せ合った。
「ええで、タコ!」とチャコが声をかける。
「はいはい〜、撮りまーす!」
カチッ。
機械音が静かな森に響き、光の粒が一瞬だけ弾けた。
タコの内部記録媒体に、皆の笑顔と花に包まれたポルトの墓標が収められる。
「オッケーでーす!」
タコが軽快な声で言う。
「後でウチにもデータ送ってな。」
「はいー、もちろんです〜!」
二人のやりとりに、皆がくすくすと笑った。
ルナはふと空を見上げた。
その目に映るのは、雲間から覗く青――そして遥か遠く、自分たちがこれから飛び立つ空の彼方。
その表情には、寂しさと決意の両方が宿っていた。
「カオル、エアシップを運転できるか?」
リュウジが声をかける。
「ああ、問題ない。」
「なら、シャトルの海岸にネフェリスを置いてある。そこまで頼む。」
「分かってる。」
カオルの短い返事に、全員の空気が引き締まる。
ルナはもう一度、ポルトさんの墓に目を向け、小さく呟いた。
――ありがとう、ポルトさん。私たちは、ちゃんと前へ進みます。
風が花を揺らし、その音がまるで「行ってらっしゃい」と言っているようだった。
ーーーー
ネフェリスのハッチが開くと、風が頬を撫でた。
大陸の空は澄み切っていて、遠くの山脈の輪郭までくっきりと見える。あの長い日々を過ごした島が、今では背後の水平線にかすかに霞んでいる。
リュウジは外に出て、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……戻ってきたな。」
「せやな。」とチャコが答える。
仲間たちは手分けして、水と食料をネフェリスへ積み込んでいく。
ハワードとベルが樽を運び、シンゴとメノリが食料袋を整理し、ルナはリストを手に確認している。
アダムは荷物を運ぶ途中、時折空を見上げては嬉しそうに微笑んでいた。
この惑星を離れるという実感が、静かに胸の奥へと沁みていく。
――その時だった。
背後から、軽やかな風のような声がした。
「……旅立つのですね。」
振り向くと、白い衣をまとったアンシェルアヌが立っていた。
その隣にはパンデッタが控え、月光のような穏やかな微笑みを浮かべている。
タコが前へ出て、翻訳装置を起動する。
「アンシェルアヌ様が言っています。“旅立つのですね”とのことです。」
ルナが一歩進み、深く頭を下げた。
「はい。短い間でしたけど……本当にお世話になりました。」
その言葉に続くように、皆も一斉に頭を下げた。
アンシェルアヌは目を細め、静かに頷いた。
「こちらこそ。皆様の活躍は、後世まで必ず引き継ぎます。」
タコがその言葉を伝えると、仲間たちの間に小さなどよめきが広がった。
彼女は一人ひとりの前に立ち、手を差し出す。
その掌はあたたかく、柔らかかった。
ルナ、メノリ、ハワード、ベル、シンゴ、シャアラ、カオル、アダム、そしてチャコ――。
それぞれが短い言葉とともに握手を交わす。
「皆さんの旅路を祈っています。」
「ありがとうございます。」ルナが微笑み、深く頭を下げた。
そして、アンシェルアヌが少し横に身を引くと、パンデッタが前へ進み出た。
彼の手には、青く光を反射する一枚の板のようなものがあった。
金色の文字でこの惑星の言語が刻まれ、中央には紋章のような模様が輝いている。
「リュウジ殿には、これを。」とパンデッタが差し出す。
「これは……?」とリュウジが受け取りながら尋ねた。
「リュウジ殿の惑星で言う“証明書”のようなものです。」
「その中でも、最上位の証明です。」
「すごーい!」とシンゴが声を上げた。
「コロニーで言うS級パイロット証みたいなものだな。」とカオルが感心したように呟く。
パンデッタは穏やかに頷く。
「リュウジ殿は、この惑星の新たな航路を開いた方です。その功績は、我々の記録に永く残ります。」
リュウジは一瞬だけ視線を落とし、そしてまっすぐ顔を上げた。
「……ありがとうございます。」
青い板を胸に抱き、パンデッタと固く握手を交わす。
彼の手には、地上を離れる前の最後の温もりが残った。
ーーーー
ネフェリスの白い機体が朝の光を受けて輝き、その姿はまるで、旅立ちを待つ鳥のようだった。
出発の準備はすべて整った。
ルナ、カオル、チャコ、ハワード、ベル、メノリ、シャアラ、シンゴ――そして最後にリュウジが制御パネルの確認を終えると、皆が外へと出た。
風が砂を巻き上げる中、アダムが小さな体で真っ直ぐに立っていた。
その後ろには、アンシェルアヌをはじめとする多くの仲間たちが並び、旅立ちを見送ろうと静かに集まっていた。
彼らの衣の裾が風に揺れ、光の粒が舞う。
ルナたちはアダムとタコの前に並び、静かに向き合った。
「やっぱり……行っちゃうの?」
アダムの声は、少し震えていた。
「ええ……寂しいけどね。」とルナが優しく微笑む。
「せっかく宇宙船ももらったしな。」とハワードが笑って言う。
「それに、重力嵐が消える前に行かないと。」シンゴが小さな声で言い、手をぎゅっと握った。
「でも、危険だよ。必ずコロニーに帰れるって保証は、ないんでしょう?」
アダムの声には、子どもとは思えないほどの真剣さがあった。
「だが、可能性はある。」とベルがきっぱり言う。
チャコが両手を腰に当て、少し得意げに続けた。
「せや! もろうた宇宙船なら、ヒッグス粒子で重力場を精密に制御できるさかいな!」
「試してみる価値は十分ある。」とメノリも頷く。
アダムの目が少し潤む。
「……アダム、元気でね。」とシャアラが静かに言った。
ルナは少しだけ前に出て、穏やかな笑みを浮かべた。
「もしも私たちが自分たちのコロニーに戻れたら――この惑星での経験を、必ず活かすわ。」
その声には、迷いも恐れもなかった。
「人間が犯した過ちも、含めてな。」とカオルが低い声で続ける。
リュウジは空を見上げ、少し笑った。
「ダメなら……また戻ってくるさ。」
その言葉に、アダムは目を伏せ、しばらく沈黙した。
しかし次の瞬間、顔を上げ、力強く言い放つ。
「僕も、お父さんとお母さんの意思を継いで頑張る! 皆んなで力を合わせて、この惑星を守っていくよ!」
その声は小さな身体からは想像できないほど力強く、胸の奥に響いた。
「はい!」とタコが手を上げ、機械の目を輝かせる。
アンシェルアヌも静かに頷き、まるで祝福を込めるように目を閉じた。
その頷きを見て、ルナたちも自然と頷いた。
空気が一瞬、あたたかく震える。
その時、メノリが一歩前に出た。
アダムの前で膝をつき、そっと背負っていたケースを開ける。
「アダム。」
中から現れたのは、長い間、彼女が肌身離さず持っていたヴァイオリンだった。
「これを……受け取ってくれ。」
アダムの瞳が見開かれる。
「僕に? でも、それはメノリにとって大切なものじゃ……」
「だから、お前に渡すんだ。」
メノリの声は、柔らかく、けれど力強かった。
「音楽には、惑星も民族も言葉も、何の隔たりもない。きっと、すべての人の心に届く。
いつの日か――お互いの惑星と惑星を繋ぐ架け橋になろう。」
その言葉に、アダムの目に涙が溜まり、こぼれた。
「……ありがとう、メノリ。大切にするよ。」
そのまま彼はメノリの胸に飛び込み、彼女は静かに受け止め、ギュッと抱きしめた。
メノリの目にも、涙が伝い落ちた。
チャコはその光景を見て、そっとタコの肩に手を置いた。
「タコ、お前も元気でな。」
「はい、チャコさんも……皆さんも、どうかお元気で!」
タコが小さな腕をめいっぱい伸ばして両手を振る。
その姿に、皆の目頭が熱くなった。
ルナもベルもシャアラも、何かを言おうとして、ただ頷くしかなかった。
沈黙を破ったのは、ハワードの大きな声だった。
「さぁ、皆んな! 出発だー!!」
彼は天に拳を突き上げた。
「おおーっ!!!」
全員の拳が空へと伸びた。
その背後で、アンシェルアヌとアダム、そして惑星の人々が手を振り続けている。
ネフェリスのハッチが開き、ルナたちは振り返る。
風が吹き抜け、草原の白詰草が波のように揺れた。
――この星は、もう“見知らぬ惑星”ではない。
彼らの心に刻まれた第二の故郷。
そして、リュウジが静かに呟いた。
「行こう、みんな。」
ネフェリスの機体に光を放ち、風が強く吹き抜ける。
その瞬間、ルナは空を見上げ、微笑んだ。
――また、必ず会おうね。
その祈りの言葉を胸に、この惑星に広がっていく。
ーーーー
ネフェリスの船内は、静かな緊張に包まれていた。
白い照明が通路を淡く照らし、床にはアンシェルアヌたちが最後に残していった灰色の模様が映り込む。それはまるで、この惑星の記憶が船の中に刻まれたかのようだった。
男女それぞれに分かれた区画では、みんなが順にアンシェルアヌが用意してくれた宇宙服に袖を通していた。
灰色のインナーは身体にぴたりと密着し、動きやすいように設計されている。その上に白を基調とした外装スーツを着込み、肩や腕にはこの惑星特有の幾何学模様が銀色に輝いていた。
「すごい……これ、ぴったりだ。」とシンゴが腕を動かして感心する。
「うむ、これなら多少の気圧変化にも耐えられそうだ。」とハワードが頷く。
「案外、似合ってるじゃないか。」とメノリが微笑むと、ハワードは耳まで赤くなった。
「それじゃあ、先に行くね。」
ルナが着替え終え、メノリとシャアラに声をかけた。
「気をつけて。リュウジ、きっと待ってるわ。」とシャアラが言うと、ルナは小さく頷いて通路を進んでいった。
通路の先、操縦室のドアが開くと、眩い光が差し込んだ。
その中央――操縦席には、同じ宇宙服を纏ったリュウジが静かに座っていた。
背筋を伸ばし、モニターに映る航行データを確認している彼の姿には、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
ルナはドアの前で一瞬、立ち止まる。
言葉が喉まで出かかって、けれど出てこない。
その沈黙を破ったのは、リュウジだった。
「……案外、似合ってるな。」
その一言にルナはハッと顔を上げ、そして自然と笑みを浮かべた。
「ありがとう。……リュウジもね。」
少しの間、二人の間には言葉がなく、船内の電子音だけが響いていた。
ルナは視線を落とし、静かに口を開く。
「……やっぱり、怖い?」
リュウジはわずかに目を細め、計器から目を離して答える。
「ああ、怖いさ。」
その声は静かで、どこか穏やかでもあった。
「でも、一人で背負えるだけ背負って、恐怖心から逃げずに受け止めてる。」
そう言ってリュウジは軽く肩をすくめた。
「それが――宇宙飛行士ってもんだ、でしょ?」
ルナの言葉に、リュウジは驚いたように目を見開き、そして二人は柔らかく笑った。
二人の笑みは、緊張を少しだけ和らげた。
やがて、リュウジは拳を突き出した。
「心配するな。全部、上手くいく。」
その声には確かな自信と優しさがあった。
「ええ。」ルナは頷き、拳をリュウジの拳に軽く合わせた。
カチン、と柔らかな音が響いた瞬間――。
「リュウジ、チェック完了や!」
元気な声とともにチャコがドアを開けて入ってきた。
「ルナ……ごっつ幸せそうな顔しとるで。」
見たことのないルナの笑みを見て驚いたようにチャコが言う。
「え?」とルナが頬に手を当てる。
「そうかもしれないわね。」と穏やかに笑った。
「なんやねん、気持ち悪いで。」とチャコが肩をすくめて呆れる。
その空気にルナはクスッと笑い、リュウジも小さく息を漏らした。
その時、ドアが開き、メノリ、カオル、ハワード、シンゴ、ベル、シャアラが入ってきた。
全員が白い宇宙服を着ており、その姿はどこか神聖な雰囲気すら感じさせた。
「全員、揃ったな。」とリュウジが言う。
全員が無言で首を縦に振った。
それぞれの表情には、不安と希望が入り混じっている。
チャコが通信席に座り、システムの最終確認を行う。
モニターには、航路図と重力嵐のエネルギー波形が映し出されていた。
「ネフェリス、出力安定。エネルギーコア反応正常や。」
「了解。」とリュウジが短く返す。
「じゃあ、いくわよ。」
ルナが仲間たちを振り返り、声を上げた。
「発進シークエンス、開始!」
チャコの指がスイッチを押すと、船体全体が静かに振動を始めた。
外の地面が離れ、重力がわずかに軽くなる。
窓の外、見送りの人々が手を振っているのが見えた。
リュウジが操縦桿をゆっくりと引く。
「ネフェリス、リフトオフ。」
轟音が響き、重力が一瞬、全身を押しつぶすように襲いかかる。
それでも誰一人、目を閉じなかった。
ルナが前方の窓越しに光り輝く大気圏を見つめる。
そこには新しい未来があった。
――彼らを待つのは、まだ見ぬ宇宙。
そして、帰るべき故郷。
ネフェリスは、静かに青い空を突き抜けた。
ーーーー
ネフェリスは静かに揺れながら、大気圏の最上層を抜けた。
窓の外で炎のように輝いていた光が薄れ、やがて深い闇の中に青い光が浮かび上がる。――再び、宇宙。
幾度となく夢見た景色が、今、目の前に広がっていた。
リュウジがモニターの安定を確認し、静かに操縦桿を緩める。
「よし……安定圏に入った。」
その声と同時に、船内を包んでいた重力振動がゆっくりと収まっていった。
仲間達は後方スペースに移動していく。
「リュウジ、ウチも見てもええか?」
チャコの遠慮がちな声に、リュウジは少しだけ口角を上げた。
「ああ、行ってこい。」
その短い言葉にチャコは嬉しそうに「ほな、行ってくるで!」と声を弾ませ、皆のいる後方スペースへと駆けていった。
後方の観測窓から見える惑星――その姿は、まるで宝石のように青く輝いていた。
海と大陸の境界がゆるやかに交わり、雲の帯が優しくその表面を覆っている。
「きれい……」とルナが息を漏らす。
「青い惑星……こんなに美しいものだったなんて。」とシャアラが胸の前で手を組んだ。
「色々あったな。」ハワードが腕を組みながら呟く。
「うん。」シンゴが頷く。
「ありすぎて……言葉にならないな。」とカオルも窓の外を見つめながら小さく言った。
その時、メノリがふと口を開く。
「そういえば、最後まで惑星に名前をつけなかったな。」
その言葉に、皆がハッとしたように顔を見合わせ、自然と視線がシャアラに集まった。
「シャアラ」とベルが微笑む
「え、私?」と戸惑いながらも、シャアラは少しだけ考え、微笑んで言った。
「……惑星サヴァイヴってどうかしら?」
一瞬の静寂。
やがてルナが微笑み、「うん、その名前がピッタリだわ。」と頷いた。
「サヴァイヴ、か。」ハワードが口にし、その響きを味わうように言った。
「いい名だ。」とメノリが続け、
「本当に……」とシンゴも感慨深げに呟いた。
チャコが手を腰に当てて満足そうに笑う。
「ウチらの第二の故郷、サヴァイヴやな。」
ルナはその言葉を聞きながら、ゆっくりと窓に手を当てた。
「さようなら、サヴァイヴ……」
その声は小さく、けれど確かに届いていた。
操縦席のリュウジもその言葉を無線機越しに聞いていた。
無言のままモニターに映る青い惑星を見つめ、ほんのわずかに目を細める。
――ありがとう、サヴァイヴ。
その瞬間、モニターの端に光の渦が現れた。
「……重力嵐を捉えた。」
リュウジの声が船内通信を通じて響く。
空気が一瞬で張り詰めた。
「全員、席に着け。ヘルメットを装着してくれ!」
仲間たちは慌てて操縦室へと戻る。
後列にはカオル、ベル、シャアラ。
その前にはシンゴ、ハワード、メノリ。
最前列にはルナが座り、隣にはチャコが駆け込んだ。
「重力場、計測完了や!」
チャコの指がコンソールを叩き、モニターには複雑な波形が表示される。
「モニター出すで!」
視界の前方には、まるで生き物のように渦を巻く巨大な重力嵐――光と闇が交錯し、空間そのものを歪ませていた。
「……いけるか?」
チャコが不安げにリュウジを見つめる。額には汗が滲んでいる。
リュウジはフッと笑い、操縦桿を握る手を少しだけ強くした。
「問題ない。」
その笑みは静かで、確信に満ちていた。
「なんや、余裕そうやな。」チャコが肩を竦める。
「頼もしいわね。」ルナが優しく微笑んだ。
「チャコ、もう座ってろ。」
「了解や。」チャコは頷き、ルナの隣の席に腰を下ろす。
「衝撃くるぞ!」リュウジが叫ぶ。
次の瞬間、ネフェリス全体が強烈な振動に包まれた。
身体が押し潰されるような重力の圧が襲い、警告音が鳴り響く。
それでも、誰も声を上げなかった。
ルナが隣のチャコの手を強く握る。
その後ろで、ハワードもシンゴも、ベルも、メノリも、シャアラも、カオルも――皆が互いの手をつないでいた。
光と闇の境界を越える、その瞬間を、全員で。
ルナは薄く目を開け、操縦席のリュウジを見つめた。
横顔が、青い光の中に浮かび上がる。
――「心配するな。全部上手くいく。」
彼が言ったその言葉が、ルナの脳裏に蘇る。
“信じてるわ、リュウジ。”
ルナは静かに微笑み、チャコの手をもう一度握り直した。
そして、ネフェリスは光の渦へと突入した。
その瞬間、白い閃光が宇宙を満たし、音もなく――船は時空の彼方へと吸い込まれていった。