重力嵐の激しい揺れが次第に弱まり、やがてネフェリスの内部に静寂が訪れた。
船体を包んでいた光の渦が消え、代わりに外の窓には漆黒の宇宙が広がっている。
警告灯も、警報音も止んでいた。
「……抜けたのか?」
ハワードが息を呑むように呟いた。
誰もすぐには答えられなかった。
全員がまだ手を繋いだまま、恐る恐る目を開ける。
そして、その視線は一斉に前方の操縦席――リュウジへと向けられた。
リュウジは深く息を吐き、ゆっくりと両手を上げてシートベルトを外す。
ヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭い、そして穏やかな笑みを浮かべた。
「――成功だ。」
その言葉が発せられた瞬間、船内に抑えていた歓声が一気に弾けた。
「やったぁ!!」
「本当に……抜けたの!?」
「すごいっ!」
誰かが立ち上がり、誰かが涙を流し、抱き合う。
ルナも思わず席を立ち、リュウジの元へ駆け寄り、抱きついた。
「やったね、リュウジ!」
目尻に浮かぶ涙が、光を反射してきらめく。
リュウジはその姿に少し照れたように笑い、ルナの肩に手を置き、少し離す。
「……ああ。でも、こっからだ。」
その言葉にルナは顔を上げる。
「せやで。」とチャコが手を腰に当て、いつもの調子で言う。
「まずは、ここがどこなんか分からへんからな。」
「それでも――大丈夫だろう。」
リュウジは頷きながら、モニターを一瞥した。
その瞳には、恐れではなく、確かな自信が宿っていた。
「チャコ、機体のチェックを頼む。」
「了解や。」
チャコは操縦席の隣にある操作盤に座り、素早く手を動かした。
指先が触れるたび、淡い光が走る。
「エネルギー出力安定、姿勢制御正常、機体内部異常なし、機体の損傷なし、――問題なしや!」
「よし。」とリュウジは頷き、後方にいるカオルを振り返った。
「カオル、操縦変わってくれ。」
「構わないが……大丈夫なのか?」とカオルが眉を寄せる。
「神経応答制御は切ってある。今は普通の宇宙船だ。」
リュウジはそう言って、カオルの肩を軽く叩いた。
「何かあったらすぐ言えよ。」
カオルが頷くのを確認すると、リュウジは操縦席を離れて後方へ向かった。
「どこ行くんや?」とチャコが首を傾げる。
「コーヒー、持ってくる。」
「ほんま、好きやなぁ。」とチャコが呆れたように笑う。
「僕の分も頼むぞ!」とハワードが手を上げる。
「私もいただこう。」とメノリも続いた。
「他に欲しいやつはいるか?」とリュウジが問いかける。
ルナが少しだけ恥ずかしそうに手を挙げた。
「じゃあ……私も、いいかな。」
「わかった。」
リュウジは優しく頷き、軽く微笑んだ。
メノリがリュウジに続いて立ち上がる。
「手伝おう。」
「助かる。」
そう言って二人は通路を抜け、後方の休憩区画へと向かっていく。
通路の外では、まだ皆が小さく笑い合っていた。
ベルがシャアラの肩に手を置き、シンゴがハワードに「よかったね」と笑顔を見せる。
チャコはモニターを確認しながらも、ふと窓の外を見て呟いた。
「……戻ってこれたんやな、ほんまに。」
青い惑星はもう見えなかった。
だがその代わりに、無限の闇の奥に、希望の光があった。
――新しい旅路の始まりを告げるように、ネフェリスは静かにその推進音を響かせていた。
ーーーー
扉を開けると、淡い照明の下でメノリが棚の前に立っていた。
金属のカップにコーヒーを注ぎながら、香ばしい香りがふわりと広がる。
リュウジは壁に背を預け、額の汗を手の甲で拭った。
「お疲れ。」
「……ああ。」
短く答えると、メノリが微笑んで容器を差し出した。
「先に飲むか?」
「ありがとう。」
リュウジはカップを受け取り、しばらく目を閉じたまま、一口だけ口に運んだ。
苦味とともに、喉の奥にわずかな甘みが残る。
冷えた空気の中で、その温かさが全身に染み渡っていく。
「……いい香りだ。」
「やっぱりコーヒーが好きなんだな。」
メノリが手際よく三つの容器にコーヒーを注ぎながら言う。
「気分が落ち着くんだ。気持ちを落ち着かせるには、コーヒーが一番だよ。」
そう言いながらリュウジは、もう一口、ゆっくりと味わった。
そして一息、深く息を吐く。
「……よし。」
空になったカップを軽く傾け、
「おかわり。」とリュウジが無表情のまま差し出した。
「もう残りが少ないぞ。」
「俺が持ってきたやつだろ?」
「それはそうだけど。」
メノリはため息をつきながらも、やれやれと笑って注ぎ足す。
リュウジはそれを受け取ってまた口に運ぶ。
「……うまい。」
「そんな顔して言うと、こっちまで飲みたくなるな。」
メノリの柔らかな笑みが、張り詰めた空気を少し和らげた。
「コロニーに帰ったら、私のおすすめの豆を送ってやる。」
「それは楽しみだな。」
「酸味が強いのと、香りの柔らかいやつ、どっちがいい?」
「そうだな……そのときの気分で決めるさ。」
二人の間に一瞬、静かな時間が流れた。
金属の壁に背を預け、リュウジは軽く腕を組む。
メノリは残りのカップをトレーに乗せ、立ち上がった。
「それじゃ、みんなに持っていく。」
「あ、ちょっと待て。」
リュウジの声にメノリが足を止める。
「どうした?」
「ルナとハワードの分に、砂糖を入れてやれ。」
そう言って、ポケットから小さな布袋を取り出した。
「用意がいいな。」とメノリが感心したように笑う。
「ハワードが“苦い”ってうるさいだろ。」
「それもそうだな。」
メノリは袋を開けて、少しずつ白い粉をコーヒーに落としていく。
ところが――。
ザバッ。
「……あ。」
思わず手が滑り、一つのカップに大量の砂糖が落ちてしまった。
コーヒーの表面が真っ白になり、ゆっくりと溶けていく。
「ぷっ……!」
リュウジは口を押さえて笑いを堪える。
「しょうがない。……それ、ハワードにやれ。」
「ひどいな。」とメノリは頬を赤らめながらも、仕方なさそうに頷いた。
「しかし、そうしよう。」
メノリがカップを整えている間、リュウジはルナの分のカップに少しだけ砂糖を入れた。
ほんの少しだけ――彼女の口に合うくらいに。
「これでいい。」
「細かいな。」
「相手によって、ちょうどいい味があるんだ。」
「ふふ、まるでバリスタだな。」
「そんな上等なもんじゃないさ。」
二人は互いに笑い合いながら、金属のカップを両手に持ち上げた。
そして操縦室へと戻っていく。
通路の先では、チャコの声が響いていた。
「出力安定。姿勢も保っとるけど、ほんまにここどこなんやろなぁ……」
ハワードがモニターを覗き込みながら、「どこでもいいさ、生きてるんだからな!」と冗談を言って笑う。
その横でベルが呆れ顔で「そういう問題じゃないよ」と笑う。
リュウジとメノリが扉を開けて入ると、みんなの視線が一斉に集まった。
「おー、来た来た!待ってました!」
「ほら、ハワード。特製だぞ。」とメノリが笑顔で渡す。
「サンキュー!」と勢いよく受け取り、一口飲んだハワードの顔がみるみる変わる。
「……あっま!!!」
「うっわ、なんだこれ!? 砂糖の海かよ!」
「甘すぎるぜ、これ!」とメノリに詰め寄ると、
「だったら自分で入れればいいだろうが!」とメノリの叱責が飛ぶ。
「ご、ごめんなさいっ!」とハワードが慌てて頭を下げ、皆が笑いに包まれた。
その様子を後ろで見ていたリュウジは、クスッと笑いながら操縦席へ歩いていった。
「ほら。」とルナの前にコーヒーを差し出す。
「ありがとう。」
ルナが両手で受け取り、嬉しそうに微笑む。
「何か分かったか?」
リュウジがチャコとカオルに声をかける。
チャコはモニターに映るデータを眺めながら首を振る。
「いやぁ、何にも分からへん。恒星の座標も一致せぇへんわ。」
「一応、無線は開通しているが、応答はない。」とカオルが答える。
「そうか。」
リュウジは頷き、コーヒーを口に運んだ。
苦味が喉を通り、ゆっくりと温かさが広がる。
「もう少し進んでみよう。」
その言葉に、全員が小さく頷いた。
その時――背後から、柔らかな声がした。
「……甘くて、美味しい。」
振り返ると、ルナが微笑みながらコーヒーを両手で包み込むように持っていた。
その頬がほんのり赤く、目を細めている。
リュウジはその様子に小さく笑みを漏らし、また前を向いた。
「それは、よかった。」
チャコが肩をすくめる。
「まったく……ほんまにええ雰囲気やな。」
「いいじゃない、こういう時ぐらい。」とシャアラが微笑む。
その間にも、ネフェリスは静かに進んでいく。
漆黒の宇宙の中を、ゆっくりと――確かに、未来へ向かって。
そしてその船内には、ほんのりとコーヒーの香りが漂っていた。
その香りは、長い旅路を共にした仲間たちの絆を象徴するように、
静かに、優しく、消えることなく残り続けていた。
――――
ネフェリスの船内には、静かな振動音だけが響いていた。
操縦席のモニターには、果てのない暗黒の宇宙空間が映し出されている。
リュウジはルナの隣に腰を下ろし、温かいコーヒーを片手に、その深淵を見つめていた。
「……やっぱり、落ち着くな。」
ぽつりと呟いたリュウジの声は、微かに響くエンジンの律動に溶けていった。
「どうしたの?」とルナが首を傾げる。
「いや、こうして落ち着いて宇宙船に乗るのが……懐かしいと思ってな。」
苦笑を浮かべながら、リュウジはゆっくりとカップを傾ける。
「懐かしい……」
ルナはその言葉を反芻しながら、横顔を見つめた。
宇宙を背景に映るリュウジの瞳は穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。
その言葉に何かを返そうと口を開いた、その瞬間だった。
――ビィービィーッ!!
鋭い機械音が船内に響き渡る。
「な、なんだ!?」
ハワードが声を上げ、思わず腰を浮かせた。
「ただの無線通信だ。」とカオルが冷静に答える。
「びっくりさせるなよ……」とハワードが胸を押さえた。
リュウジは立ち上がり、すぐさま操縦席のモニターを覗き込む。
「通信はどこからだ!?」
チャコの指が素早くパネルを操作し、表示された信号を確認する。
「発信元は……SMB0254やな。」
その文字列を見た瞬間、リュウジの表情が変わった。
安堵と、ほんの少しの緊張が混じる。
「SMB……か。」
「知ってるのか?」とメノリが尋ねる。
「ああ、宇宙管理局だ。」
その言葉に、ルナをはじめ全員が息を呑む。
「応答しろ。」
リュウジの声にチャコが頷き、通信スイッチを押す。
雑音の後、明瞭な声が船内に響いた。
『――こちら宇宙管理局、応答せよ。繰り返す、応答せよ。』
「聞こえている。」
カオルが短く答え、通信機のスイッチを固定する。
振り返るとルナと目が合う。
ルナは一度深呼吸をし、ゆっくりと操縦席へ身を乗り出した。
「こちらロカA2・ソリア学園の生徒です。修学旅行中に重力嵐に巻き込まれ、今、コロニーに向けて航行しています。」
船内に一瞬の沈黙が訪れる。
そして無線機の向こうから、戸惑いの声が漏れた。
『ソリア学園って……まさか“あの”?』
雑音が混じり、複数人の声が聞こえる。
『すまないが、最近宇宙ジャックが多発していてね。偽装通信の可能性もある。そちらの宇宙船の名称と登録番号を答えてくれ。』
「宇宙船の名前は《ネフェリス》です。……登録番号は、分かりません。」
ルナの声に、また沈黙。
やがて、訝しむような声が返ってきた。
『聞いたことのない船だな……登録番号も不明となると……』
「私たちは不時着した惑星で、その星の住民から譲っていただいた宇宙船なんです!」
必死に説明するルナの声が少し震える。
しかし、無線機の向こうは依然として懐疑的だった。
『……そう言われてもね。証明がない限りは。』
「なんなんだよ!信用できねえのか!」
ハワードが椅子を蹴って立ち上がる。
「ハワード!」とベルがすぐに抑える。
「落ち着け!」とメノリが声をかける。
「お願いです!信じてください!」とルナは必死に呼びかけた。
そのとき、無線機から再び冷たい声が流れる。
『では、運転しているのは誰だ?宇宙連邦の登録番号を言ってもらおう。』
「そ、それは……」
ルナの喉が詰まる。
沈黙が流れる。
『答えられないのか?』
冷ややかな声。船内の空気が重く沈んだ。
その沈黙を破ったのは、リュウジの声だった。
低く、鋭い声が船内に響く。
「――おい!」
全員が振り返る。
リュウジは無線機の前に歩み出て、短く息を吸い込んだ。
「UFPS00003だ。」
その瞬間、船内の空気が変わった。
カオルが目を見開き、チャコの指が止まる。
リュウジはカオルに視線を送り、無言のジェスチャーで操縦を交代し、操縦席に腰を下ろした。
無線機の向こうから、驚愕に満ちた声が聞こえてくる。
『……も、もう一度言ってくれ。』
「UFPS00003だ。」
リュウジの声は冷静だが、どこか苛立ちが滲んでいた。
『ま、まさか――ざ、罪人のリュウジ!?』
船内の空気が一瞬で凍りつく。
“罪人”という言葉が、金属音のように響いた。
ルナの表情が強張る。
リュウジは眉をひそめ、静かに無線機に向かって言った。
「おい。」
『は、はい!』
「宇宙管理局なら、ペルシアがいるはずだ。変われ。」
低いが、確固とした声。
『ぺ、ペルシアさんを……ですか!?』
「そうだ。早くしろ。」
しばしの沈黙のあと、遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえた。
『ペルシアさーん!通信です、通信!』
ざわめきが走り、機械音が数回響いた。
そして――。
『はぁ……もう、これから合コンなのに。誰よ、こんなタイミングで……』
通信機越しに、可憐な女性の声が流れた。
その声を聞いた瞬間、リュウジの口元が微かに緩む。
「……ペルシア、俺だ。」
ルナは隣でその表情を見つめながら、小さく息を呑んだ。
――これで、本当に帰れる。
そう確信するように、ルナの胸の奥で鼓動が高鳴っていた。
――――
ネフェリスの船内に響く通信音。緊張した空気の中、無線機から聞こえてきたのは、あまりにも拍子抜けするような女性の声だった。
『あら、その声はリュウジじゃない。重力嵐に巻き込まれたんじゃなかったの?』
その声には、まるで危機感というものがない。むしろ、旧友に久しぶりに出会ったような軽さだった。
リュウジは一瞬だけ目を閉じ、眉間を押さえると、淡々と答えた。
「……ああ、それから戻ってるんだ。」
『なるほどね。どうりで、あの連中が騒いでたわけね。』
ペルシアのため息がスピーカー越しに響く。その気の抜けた声音に、誰もが肩透かしを食らったような表情を浮かべた。
だが、次の瞬間――。
『それで、捨てた女に連絡してくるなんて……私とやり直す気になったの?』
「ええっ!?」とシャアラが目を丸くした。
「おい! こんな時に何を言ってるんだお前は!」とメノリが叫ぶ。
「でもリュウジにも、そういう過去があったんだね」とシンゴが興味津々の顔を向ける。
「“捨てた”とはなかなかやるじゃねえか!」とハワードが笑い、ベルも「でも、リュウジなら不思議じゃないかも」と頷いた。
「……お前、やることやってたんだな」とカオルまで感心したように呟く。
「そ、そうなの?」
ルナの声には、どこか強張った響きがあった。
彼女の視線を感じ取ったチャコは、腹を抱えて笑い出した。
「ぷっははは! こりゃ傑作やで!」
「……俺がいつお前を捨てた!? そもそも付き合ったことすらないだろうが!!」
リュウジが叫ぶ。
しかし、無線機の向こうではペルシアの笑みを含んだ声が返ってくる。
『あら? そんなこと言っていいのかしら?』
「何がだ。」
『あなたがドルトムント財閥の会社に就職してから、毎日のように客室乗務員や社員に囲まれてたじゃない。そのとき、助けてあげたのは誰だったかしら?』
「ぐっ……」
リュウジは口をつぐむ。
ペルシアの声が得意げに続く。
『“私と付き合ってる”って噂を流さなきゃ、あの騒ぎは収まらなかったのよ? 感謝してほしいくらいだわ。』
「だからって! お前、会社辞めたとき、“今度はエリンさんと付き合ってる”って噂を流しただろう!」
『だって、私が辞めたらまた言い寄られるでしょ? あなたを護るためよ♡』
「護るためって……! あのあと俺、一時期“変態”とか“二股野郎”って呼ばれてたんだぞ!」
ペルシアの高笑いが通信を震わせた。
『あははっ! あなた、二つ名が増えてよかったじゃない。英雄、罪人、悪魔、変態、二股――見事なラインナップね!』
船内はもう、笑いの渦だった。
チャコは転げ回り、ハワードはお腹を押さえ、ベルは肩を震わせ、ルナだけが頬を引きつらせていた。
リュウジは額を押さえ、呆れたように深く息を吐いた。
「……いい加減にしろ。さっさとやることやれ。」
『もうやったわよ。』
「は?」
『だから、あなたたちのことはもう各管理局に伝達済み。今ごろ、あなたたちのご両親に連絡が入ってるはずよ。』
「生存確認は?」
『貴方もわかってるでしょ、私、耳がいいのよ。あなたたち八人、それぞれの声色の区別くらいすぐつくわ。
今はあなたたちの通信波を逆探知中。あと一分もすれば位置を割り出せる。』
ペルシアの声が、少しだけ真剣な響きに変わった。
『念のため、探索隊のフライト準備も進めてある。各エアポートにも開放指示を出してある。』
リュウジは思わず口元を緩めた。
「……相変わらずだな。」
『ふふっ。重力嵐に巻き込まれたって聞いた時は驚いたけど……悪いことばかりじゃなかったみたいね。』
「……ああ。」
短い返答に、ペルシアが少しだけ柔らかく笑う。
『変わったわね――ううん、昔のあなたに戻ったのかしら。』
リュウジは答えなかった。代わりに、微かに息を吐き、通信音の向こうを見つめた。
その時、ペルシアの声のトーンが一変する。
『……逆探知成功! 場所は――』
数秒の沈黙。
『……なっ!?』
「どうした?」とリュウジが眉をひそめる。
『あなた……なんてところにいるの。』
「どういう意味だ?」
『そこ、魔のゾーンの中心部よ!!』
「なにっ!?」
リュウジの声が鋭く響く。
船内が一気にざわめいた。
『まったく……帰ってきたかと思えば、今度はそこなの? 本当にあなたって人は……』
呆れ混じりのペルシアの声に、チャコが苦笑する。
「心配するな。必ず帰る。」
『心配はしてないわよ。……とりあえず、そこから近い管理局に無線を移譲するから、詳しいことはそっちで聞いて。』
「わかった。ありがとう、ペルシア。」
一瞬、無線機からの音が止まる。
そして、少しだけ柔らかな声が響いた。
『……無事でよかったわよ。』
静かに通信が切れる。
船内に残ったのは、機械の駆動音と、仲間たちの息を呑む音だけだった。
リュウジは無言のまま、前方のモニターを見つめる。
画面に映るのは、光のない漆黒の宇宙。
だがその先に、確かな帰還の道がある――そんな確信を胸に、彼は静かに目を閉じた。
――――
無線の移譲が終わるまでのわずかな間、船内にはざわめきが戻っていた。
「なぁ、なぁ……魔のゾーンって、なんなんだよ。」
ハワードが不安そうに口を開く。
その顔には、冗談を言う余裕など微塵もない。
カオルが腕を組み、モニターに映る航行マップを見つめながら言った。
「魔のゾーンは……別名“パイロット殺し”とも呼ばれている宙域だ。」
「そ、そんな場所に……私たちはいるのか!?」
メノリが驚きの声を上げる。シャアラの肩が小さく震えた。
「やっと帰れると思ったのに……」
うなだれる彼女に、ベルが優しく声をかける。
「でも、まだ帰れないって決まったわけじゃないわ。」
「でもさ……魔のゾーンって、隕石群の巣窟だって聞いたことあるよ。
だからこの宙域は、今でも“未探索区域”なんだ。」
シンゴが項垂れた声で呟く。
「その通りだ。」
カオルの声が低く響く。
「魔のゾーンの入り口に足を踏み入れたら、誰一人帰ってこない。
俺たちは……その中心部にいる。」
その言葉に、全員の喉が一斉に鳴った。
「うちのデータにも載っとるで。」
チャコが続けた。
「今まで数えきれんほどの宇宙船や探索機が突っ込んだみたいやけど、
いずれもすべて墜落や。その数、ざっと千機ちゅうとこやな。
そやから“パイロット殺し”って異名がついたんや。」
「……もう終わりだ……」
ハワードが床に崩れ落ちた。
「ルナ、どうしよう……?」
シャアラが縋るようにルナの袖を握る。
ルナは微笑みながら、仲間たちの顔を見渡した。
「みんな、大丈夫だよ。」
その笑顔に、誰もが一瞬、息を呑む。
「なんで……そんなに落ち着いていられるんだよ!」
ハワードが呆れたように叫ぶ。
ルナはウインクして、明るく言った。
「みんな、忘れたの? “魔のゾーン”の入り口で、
エンジンが壊れて燃料も尽きかけてたのに、
隕石群を全部避けて生還したパイロットのことを。」
その言葉に、チャコがニヤリと笑った。
「……せやな。リュウジ、データに加えとこか。“一機だけ、魔のゾーンから帰還した船あり”。
もっとも、入り口までやけどな。」
「そうだ。」
リュウジが静かに口を開く。
「……でも、その“入り口”までを抜けた奴が、今ここで操縦してる。」
その瞬間、全員の表情が変わった。
“悲劇のフライト”――。
あの絶望的な状況の中、重力嵐と隕石群を掻い潜った唯一の宇宙飛行士。
その経験が、今この宙域に生きていた。
「……リュウジ。」
ルナが小さく彼の名を呼ぶ。
彼の眼差しは静かで、確信に満ちていた。
「全員、しっかり席に着け。」
リュウジの低い声が操縦室に響く。
「ヘルメットを被ってろ。これから少し、揺れるぞ。」
その一言に、誰もが無言で従った。
恐怖よりも、リュウジの声がもたらす安心感のほうが勝っていた。
チャコが副操縦席につきながらシートベルトを締める。
「……ほんま、よう帰ってきてくれたわ」
静かにネフェリスの照明が落ちる。
闇の中、各席のライトが一つずつ点き、
皆の顔が薄く照らし出された。
ルナは深呼吸をして、胸に手を当てる。
「大丈夫……きっと帰れる。」
その声にチャコとリュウジが微笑む。
操縦席の前では、リュウジがコンソールに手を置き、
ゆっくりと息を整えていた。
“魔のゾーン”――。
千もの船が飲み込まれた宙域。
だが、たった一人、その地獄から生還した男が、今ここにいる。
――――
無線通信の警告音が船内に響き渡った。
ピピピ――ピピピ――と、短く、鋭く、そしてどこか重みを感じさせる電子音。
「……こちらネフェリス。」
リュウジが通信スイッチを押し込み、落ち着いた声で応答した。
少しのノイズの後、低く年配の声が返ってきた。
『――こちらは火星管理局。宇宙管理局より無線を移譲しました。』
その声音には、威厳と同時に長年の経験を感じさせる深みがあった。
『火星管理局長のアレクセイと申します。』
「こちらはリュウジです。」
リュウジは短く名乗る。
『……やはり、英雄殿が帰還されたのですね。』
アレクセイの声は落ち着きの中に、かすかな安堵と喜びが混じっていた。
その響きに、操縦室にいた全員が小さく息を呑む。
「アレクセイさん、状況はどうなんですか?」
リュウジの声は静かだが、明確な緊張感を含んでいた。
『ええ、いまそちらの宙域データを観測システムと同期しました。数秒で届くはずです。』
「チャコ。」
「任せとき!」
チャコが軽く頷き、手元のコンソールを素早く操作する。
スクリーン上に、淡い光の点群が次々と表示されていった。
次の瞬間――。
「なんて数や……!」
チャコの声が震えた。
モニターいっぱいに広がるのは、まるで無数の光の雨。
それがすべて、小型から中型に至るまでの隕石群だった。
『――これからそちらは、隕石群の主軌道に突入します。通過にはおよそ二〇分を要するでしょう。』
アレクセイの言葉が、静かに船内を満たす。
背後では、ハワードやシンゴの小さな呻き声が聞こえた。
「うそだろ……二十分もあの中を?」
「……一発でも当たれば終わりだよ……」
それでも、リュウジは振り返らない。
ただ、無線機に向けて静かに答えた。
「ありがとうございます。――突破するまで、連絡は不要です。」
『……分かりました。英雄殿、ご武運を。』
その声には、敬意と祈りが込められていた。
しかし、リュウジは小さく息を吐いて言った。
「“英雄”はやめてください。その名は、もう捨てました。……リュウジで構いません。」
『……了解しました、リュウジ殿。』
アレクセイの声がわずかに微笑んだ気配を残し、通信が途切れた。
静寂。
船内の空調音が、やけに大きく聞こえる。
リュウジは背もたれから体を起こし、短く指示を飛ばした。
「チャコ、神経応答制御を再起動。センサーの確認は任せる。」
「任せとき!」
チャコは再び端末に手を走らせる。
コンソールが青く光り、システムの再起動音が鳴り響く。
ルナはその様子を見守りながら、静かに両手を胸の前で組んだ。
「……頼んだわよ、リュウジ。」
リュウジは短く頷き、深く息を吸い込んだ。
操縦席の前に広がるのは、無数の光――
それは、まるで夜空を漂う流星の海。
「――これより、魔のゾーン突破に入る。」
ネフェリスの船体が低く唸りを上げ、
再び、静寂の宇宙に火花を散らした。
――――
船体が低く唸り、視界一面の闇に、銀の礫が雪崩のように広がっていく。微細な破片の霞、その奥で――黒い夜を裂く、鈍色の山塊。中型、いや大型だ。輪郭が星明りを食い破りながら膨れ、瞬きのたびに距離が縮む。
「――全員、口を閉じろ。舌を噛むぞ。」
リュウジの声は乾いて鋭い。椅子の軋み、呼吸の浅い震えが一瞬で鎮まり、操縦席の周りにただ計器の音だけが戻ってくる。
「チャコ、バリア先行展開。ナノバリア、二層。外殻は散乱角優先、内殻は運動量吸収で。」
「了解、外殻ナノ拡散層、展開……――密度三段階上げるで。内殻、慣性ダンパ、効率七二%、上限まで引き上げ中。テンソル応答、遅延四ミリ秒、補正かけるわ。」
操縦桿にかけたリュウジの指が微かに震える。眼前のホロに、走査レイヤが畳みかけるように重なった。
最初の衝突は音より先に光だった。前面で青白く弾ける火花、極薄の膜を爪で裂くような微音。だが遠く正面、獣の背骨めいた岩塊が迫る。回転している。表層が剥離し、石の粉雪が尾を引いている。
「正面三二度上、距離一・一キロ、相対速度プラス二四。中型、回転周期六・九秒!」チャコが読み上げる。
「見えてる。前方スラスタ、二%だけ噴け。船尾、〇・八。機首を一二度左、ロール四度右。バリア、前面厚を一五%増し。」
「前、厚みアップ。透過率落ちるで、視界暗なる。」
「構わん。」
ネフェリスが身を捻る。右肩を落とすように姿勢を変え、岩塊の腹を掠める。ナノバリアがざらりと鳴って光の鱗を散らし、すぐ後ろへ流した。背を撫でる低い震動が、骨を通じて心臓に響く。
「次来るで! 前方グループ、三、五、九。中型三つ、大型一や!」
「大型のベクトル出せ。」
「相対角度マイナス一七、距離二・九、速度プラス三一、形状は偏平楕円、表面硬度高い。分裂可能性低。」
「楯突く気満々って顔だな……よし、手前の三を“踏み台”にする。重力制御、局所偏向で前方三へ落とし、反力で大型の軌道外す。チャコ、重力場グラディエント、前方〇・七、左二度に偏向。」
「グラディエント撓ませるで――テンソル場、変化率一・一%、限界近いけどいける!」
ネフェリスは自ら微小に落ち、前方の中型群へ滑り込む。ナノバリアが弾き、船体は撥ねられるように上へ跳ね上がった。狙い通り、機首が一瞬だけ大型の進路から外れ――すれ違いざま、岩の影が窓一杯に黒い山脈を描いて通過した。肩口で真空が吠え、操縦桿が重くなる。
「大型、通過。後流の破片、来るで!」
「後方バリア、散乱優先。尾翼角、三度下げろ。」
背後で星屑が白雨に変わり、バリアが静かに火花を飲む。
わずか二分。しかし汗は掌を濡らし、腕に纏わりつく手袋の内側が熱い。
「チャコ、センサ層、もう一段階上げろ。粒径一〇センチ以上の選択表示、警告は赤、回転体は橙だ。」
「了解。閾値、一〇〇ミリに設定。おおきいの来たで、前方扇状に群や――散開パターンB、ベクトル乱れひどい!」
視界の“星”が、急に意思を持った鳥の群れに見えた。ばらばらに、しかし一つの波として押し寄せる。
「ルナ、喋るな。息だけでいい。」
背で息が整う気配。全員が僅かに頷いた。
「右舷、三つ束になってくるで。うち側面薄いで、ぶつけられへん。」
「なら、“落ちる”。重力制御――一時遮断。」
「はぁ!? リュウジ――」
「落ちるぞ!」
チャコの指が落ち、船体から“持ち上げる手”が消えた瞬間、世界が沈んだ。
落下。
胃が喉から反転して抜け出す感覚。全員の体が骨ごと浮き、シートベルトが喰い込む。
右舷を掠める三つの岩が、こちらを飛び越す鳥のように上へ去った。リュウジは即座に姿勢制御を叩きつけ、
「重力制御、再起動! 機首、下げ――ロール左に一八!」
「再起動っ、応答、立ち上がり良し! ロールいくで!」
ネフェリスは水切り石のように身を捩り、足元の虚空を滑って持ち直す。遅れて船体にじんと来る重み。肺に空気が戻るたび、胸が痛む。
「前、霧みたいになってる……破砕帯や!」
「広さは?」
「扇形に三〇度、距離一・三キロから。粒径ばらつき大、最大で一メートル級が混じっとる!」
一メートル――当たれば終わる。
「バリア分厚くすれば持つけど、視界ゼロやで!」
「厚くするな。前面は薄く、側面に回す。……視界は“作る”。前方十度だけ感応窓、ナノを“開ける”。」
「感応窓、開くで。十度、透明化――応答レイテンシ二ミリ、映像出す。」
前方に細い“穴”が穿たれた。風もない宇宙に、ただ粒子の奔流が横殴りに走る様子が、線香花火を裏返したように映る。
「チャコ、右前の高速回転、回転軸は?」
「機軸に対してマイナス一二度、プリセッションあり。今、挙動不安定!」
「あれを軸に“踊る”。推力〇・六、姿勢はロール右、ピッチ上げ一一。……いま!」
機体が斜めに入り、回転岩の作る“影”へ沿う。陰の帯がわずかに揺らぎ、そこだけが“風下”のように静まる。リュウジはその短い静寂を一気に抜け、次の影へ跳ぶ。
「よし、影から影へ――」
「次の影、崩れるで! 回転速度、変化!」
「読むのをやめろ。“数える”な。来た瞬間だけ見る――」
呼吸が短く切れる。
ネフェリスは、細い刃の上を裸足で駆けるように、影から影へ。わずかに外れれば、銀の霰に削り取られる。
胸の奥で、誰かが小さく嗚咽した。
「泣くな。息だけしろ。」
リュウジの声が、刃物のように静かで、温かかった。
「前方、扇の先が“壁”になっとる! 大型、四つ――合体しとる!? 塊や、でかい!」
「サイズ。」
「最大径六〇メートル級、表面亀裂多いけど、中心の核は硬い! 避け道、左二度に窪み。」
「窪みは罠だ。後ろで千切れる尾がある。右一七度、逆に尾の“首”を潜る。チャコ、バリア前面、局所集中。一点に“爪”を作れ。」
「一点集中――ナノ、針状に束ねる。前面中央、直径一二センチ、貫通補助フィールド立ち上げ!」
「推力、一二%。衝撃来る。――全員、目を閉じろ。歯を食いしばれ。」
命令と同時に、空気のない宇宙が吠えた。
針先で氷を割るような甲高い叫びが、船体の芯を震わせる。ナノの“爪”が尾の首を裂き、塊の“鞭”が弾けて左右に千切れる。視界の端で散った破片が、光の粉煙になって流れていく。
「貫通成功! 後方、破片シャワー来る!」
「尾翼、下げ。後方バリアを厚く――よし、抜ける。」
重い息が、操縦席の曇りを作る。汗が首筋を伝い、宇宙服の襟に吸い込まれた。
「リュウジ、前、静かになってきた……けど、右から“雪崩”や!」
感応窓の外で、右舷方向から白い斜面が崩れ落ちてくる。大小の石群が引力で束になり、ひと塊の壁のように押し寄せる。
「右舷スラスタ、全停止。船体“脱力”。――もう一回、落ちる。」
「了解や」
「二・一、カウント――今!」
ふっと“掴む手”が消え、また世界が沈む。右舷からの白い瀑布が頭上へ滑り上がり、ネフェリスは奈落の段差を踏み外したように落ちる――落ち切る直前、
「復帰! 船首上げ、ロール左一五、ピッチ下げ四!」
「復帰っ! 姿勢、安定へ!」
操縦桿の向こうで、残骸のカーテンが上へ去る。船体を撫でる微細な擦過音が、鼓膜の裏で砂をこする。
「……よし。」
リュウジの呼気が、短く低い。
チャコが震える声で続ける。
「前方、粗密が消えてきた。粒子密度、三割減。隕石の数、目視で……少ない。」
「いい。感応窓を閉じるな。十度のまま。――まだ十秒は油断するな。」
「了解、十秒カウント……九、八――」
「全員、口を閉じたまま、呼吸だけしろ。終わった気でいる時に死ぬ。」
静かに、ゆっくり、数が減る。
星屑の流れが綻び、闇が戻る。
ナノバリアの表面を撫でる光が痩せ、個々の粒がただの点に戻っていく。
「……三、二、一――十分、経過。」
チャコの読み上げに、誰も声を上げない。
ただ、胸の奥で、固く縛っていた縄が少し緩む。
リュウジは操縦桿から指を外し、わずかに掌を開いた。
「――まだ半分だ。気持ちは切るな。」
その声に、全員の肩がもう一度だけ張り詰める。
闇の向こう、見えない“次”が、なお息を潜めていた。
十の刻印を越えた刹那、前方の黒がざわついた。散ったはずの粒子流が、まるで逆流する潮のように巻き戻り、光を吸う砂柱になって立ち上がる。薄く明滅するベクトル矢印がスクリーンいっぱいに踊り、艦内の空気が一段重くなる。
「前扇三五度、密度リバウンド! 小型多数、群化傾向! 右下から大型ひとつ、回転数一・九、表層剝離中!」
「見えた。――チャコ、前面ナノ、微粒散乱に最適化。内殻は慣性ダンパ+五。機首一度下げ、ロール右三。右舵“撓み”で受ける」
ナノの薄皮が前面で波打ち、白い粉が霧のように分解される。次いで右下から、氷塊の巨拳が殴りつけるように迫る。リュウジは操縦桿を指先で弾き、船体をわずかに「抜く」。拳は頬を掠め、後方で尾を引いて割れた。
「――っ、前方“渦”形成! 微小群が一斉に巻き上がっとる! 吸い寄せられる!」
「吸われない。こちらが渦の“壁”になる。側面ナノ厚+四、感応窓は維持。推力二%、パルス間隔〇・三。……乗る」
ネフェリスは渦の外周に沿って滑り、巻き込み流の傾斜だけを掴んで弧を描く。機体が薄刃のように傾ぎ、背骨に伝わる遠心の唸りが増す。
耳元で、乾いた電子音が跳ねた。操縦席左側の縁が血の色で点滅し、「神経応答制御」の警告が重ねて走る。
〈WARNING:NEURAL-LINK LAYER-1 HEAT-UP ―― THRESHOLD 92%〉
〈ADVISE:侵入心理層(第一層)過負荷/第二層へ移行は生体影響リスク〉
「リュウジ! 三層心理の一枚目――第一層の温度、しきい値越え寸前や! 深層(第二層)に入ったら、何かあった時に後遺症、残る!」
「問題ない」
「アカン! “問題ない”やない! ほんまに――」
「喋るな。――切り替える」
リュウジは咬んだ歯の隙間で息を細くし、トグルを押し込む。ヘルメット内で一瞬、世界の輪郭が静かに鮮鋭化し、音が遠のく。視界のベクトル、粒の回転、ナノ層の配向――すべてが等間隔の縞になって脳に落ちてくる。
〈NEURAL-LINK:DEEP LAYER-2 同調 37%……52%……安定〉
「……入った。やれる」
背後で誰かが小さく息を呑む気配がした。ルナの指先が隣席の肘掛けを掴む。チャコは奥歯を噛みしめ、声色を絞って読み上げに戻る。
「前、斜行帯! 中型二、小型無数! 右上から大型、偏心回転――軸プラス五、速度三一!」
「大型は“芯”が柔い。右上へ誘って、芯だけ外す。――推力〇・八、右ロール四、機首上げ二。チャコ、前面ナノ、中心一〇センチだけ“薄”に。輪郭は“厚”のまま」
「中心薄、輪郭厚――形成。いくで!」
大型の“芯”は僅かな差でゆるみ、輪郭だけがバリアの厚みに弾かれて外れた。脇をすり抜ける瞬間、白い砂が雨のようにトラスを叩く。後方警告が三度鳴り、すぐに収束する。
「右舷、乱流壁! ここで姿勢崩したら“絡まる”で!」
「絡ませない。――“落ちる”。重力制御、〇・九秒カット」
支えを失った機体がスッと沈む。同時に左舷スラスタを唸らせ、船体を斜めに滑らせる。落差を階段みたいに使って、乱流の“糸”から身を解く。
「復帰や!」
「重力制御、オン! 姿勢戻し――安定!」
「チャコ、テンソル応答の遅れ、どこまで詰められる?」
「あと二ミリ秒は攻められるけど、神経側が焼けるで!」
「詰めろ」
「……了解や。遅延、三→一ミリに調整。冷却回路、蛇腹配分、最大」
警告灯がまた一段明るさを増す。こめかみの裏で、低いハムが鳴りつづける。
「前方、三叉路みたいな分岐! 左:小粒多、右:中粒速い、中央:大型混在!」
「中央を直進。――“足場”がある。小惑塊、三連。踏んで、跳ねて、潜る」
「跳ねんのかい!?」
「跳ねる」
最初の小惑塊に接触直前、バリアを“板”へと再構成。弾性を最大にして、瞬間的に「踏み台」にする。船体がふっと軽く持ち上がる。
「二段目!」
小さな台地に爪先だけを置くように乗せ、前方の大型が肩をいからせて通り過ぎる。
「三段目は潜る。前面ナノ、楔形に尖らせろ」
「楔、成形! いけ!」
黒い内臓のような粒の幕に切っ先を差し入れ、薄い膜の裂け目をくぐる。背後で「どっ」と遅れて押し寄せる圧を、尾部の厚みで受け止める。
「左下、渦芯! 引かれたら終わる!」
「渦の“肩”を使う。右舷厚、+六。左舷薄、-四。船体傾斜、三度。――乗るぞ」
渦の肩は、流れが最も速いが、均整が崩れにくい。リュウジはそこを刃の背で撫でつけるように通り、渦芯の引力を自分の推力で打ち消し続ける。ヘルメットの中で呼吸が浅くなる。
〈NEURAL TEMP:95%〉
「リュウジ! 温度、九五! これ以上は――」
「あと五分だ。持つ」
艦内の空気が微かに甘い金属臭を帯びる。ナノ層の摩擦で発生するプラズマが、表面で細い稲妻となって走る。
「前、粒径混交帯。小型が“大型の影”に群れてる! 影を抜けた瞬間、砂嵐になるで!」
「なら、影の中を“泳ぐ”。――スラスタ、パルス〇・二秒。ロール左右に一・五ずつ振動。チャコ、影の縁に沿って厚を左右に振って“しごけ”」
「厚、左右にスイング――実行。……うわ、これは酔う……」
「舌、噛むぞ」
影の内側は不規則に揺れるが、外よりも粒の衝突が少ない。縁に沿って厚みをゆらし、まるでロープを手繰るみたいに進む。外に出る瞬間、白い霧の壁が牙を剥くが、尾部の厚みで受け、鼻先だけを汚さず抜ける。
「右上、二連の巨塊! “衝突予備軍”や! 二つが互いに引き寄せ合っとる! 間隔、縮まる!」
「その“間”を抜く。縮むタイミングに“合わせる”。――重力制御、位相ずらし〇・一五秒。推力一%、後ろ押し。ロール左四、ピッチ下げ三」
「間、閉じるで!」
「今だ」
二つの巨塊が抱き合うように近づく。ネフェリスはその唇が触れる瞬間に、その“歯の隙間”を抜けた。バリアがギリと鳴き、汗が背を伝う。
「前、静か……に見えて、“雪煙”! 微粒が視界潰しに来るで!」
「感応窓、偏光強化。表示レイテンシ、二→一ミリ。――音だけを信じるな。矢羽根と“癖”を見ろ」
視界は灰に霞み、計器の矢印だけが確かな道標になる。チャコが読み上げ、リュウジは矢羽根の僅かな癖――長さの揺らぎ、拡散の偏り――に針路を合わせる。
「前方、散開。――いける、薄なっとる!」
チャコの声音にわずかな安堵が混じる。だが、次の瞬間、低く、地鳴りのような波がスクリーン全体を黒に染めた。
「……嘘やろ」
前方に、視野を塞ぐ“黒い大陸”が現れる。表面はガラス様に光り、ところどころ溶岩のような赤い筋が走る。
「超巨大……隕石や。直径、少なくとも一・二キロはある。回転、極めて遅い。――リュウジ、これは……」
「……」
「回避は、無理や。間に合わん。左右も上下も、破片が壁になっとる。通路なし」
舌に鉄の味が広がる。握りの中で指が冷え、汗が乾く。脳裏でルートを何百本も試し、すべてが途中で潰える。
そのとき、耳の奥――ヘルメットの内側から、ごく小さな呼吸の音がした。無線機から、ささやくような声。
『――来い』
聞いたことのある声に、リュウジはフッと笑みを浮かべる。
リュウジは一度、目を閉じた。開ける。超巨大隕石の中央――色の薄い楕円。微かに周囲より「軽い」場所。
「……ある」
「チャコ。前面ナノ、極点集中。一点“槍”。直径二センチ、凝集率一〇〇。全周は“骨”。内殻ダンパ、上限まで。――推力、最大三。重力制御、機首の前一メートルに“重み”を置く。船首――下げ一。ロール固定。ピッチ固定」
「待て、突っ込む気か!? 熱、上がり切っとるんやぞ!」
「突っ込む」
〈NEURAL TEMP:98%/99%〉
〈DEEP LAYER-2 同調 76%……82%〉
「――行くぞ。全員、歯を食いしばれ。」
ネフェリスは“黒い大陸”へ一直線に走る。表面に走る赤い筋が近づき、やがてスクリーンを覆い尽くす。
「槍、形成完了! 凝集率最大! 前面、硬さ指数、計器上限! これ以上は――」
「要らない」
衝突の一瞬、時間が細く伸びる。
船首の一歩先に置いた“重み”が、隕石の表層をゆっくりと撓ませる。ナノの槍が、最初の皮膜を「割る」きっかけを作る。
「――今だ!」
巨大隕石が白い稲妻が無音で爆ぜた。“音もなく”破れ、黒の下から灰白の粉が噴き出す。槍はひびを走らせ、亀裂は楕円に広がり、中心が沈む。
「穴、開くッ!」
「推力、三→二。機首、微下げ〇・五。尾厚+八! ――潜れ!」
ネフェリスは生まれたばかりの産道のような孔へ身を差し入れる。左右の壁が近い。小石が雨のように叩く。内殻のダンパが悲鳴を上げ、警告が真紅に踊る。
〈STRUCTURE STRESS:93%〉
「もう少し――持て!」
チャコが無言で祈るように両手を握り、読み上げを続ける。
「前方、密度低下! 孔の出口、予測距離一五! 一二! 八!」
「尾厚、最大! 機首、上げ一! ――抜ける!」
黒が裂け、星が爆ぜる。ネフェリスは巨大隕石の腹を貫き、背中から白い粉雪を浴びながら、虚空へ飛び出した。背後で大陸が鈍くうなり、二つに割れて、ゆっくりと離れていく。
前方では、白を基調とし、主翼の付け根が青くカラーリングされている探索機が四機飛んでいる。
砂は霧へ、霧はただの闇へ。
誰かが、短く啜り泣き、そして、堪えた笑い声が連鎖する。
「……よく突っ込んできた」
ヘルメットの内側で、微かなノイズが混じる。
「まったく、探索機のスマートボムを放たなかったら、今頃、宙の藻屑だったな」
次に上から目線で、高圧的な声が聞こえてくる。
「怪我人はいないかしら?」
優しく可憐な声が響く。
「まったく、ほんと無茶するんだから」
高い声が耳元で聞こえてくる。
「無茶じゃない、信頼してんだよ、バーカ」
リュウジは肩で呼吸するのを抑え、笑みを浮かべ、操縦桿からそっと手を離した。