サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第37話

重力の呻きが遠のき、艦内に残っていた金属臭と焦げたオゾンの匂いが、ゆっくりと薄れていく。リュウジは深く息を吐き、ヘルメットのロックを外すと、額に張り付いた汗を手の甲でぬぐった。視界の先――ネフェリスの鼻先を“水切り石”みたいに軽やかに跳ねながら、四機の探索機が先導灯を点滅させて進んでいる。

 

 「……まさか、宇宙管理局のエリート探索チーム《スターフォックス》が出てくるとは思わなかったよ」

 

 リュウジは耳に装着した無線子機へ指を添え、軽く角度を合わせる。返ってきたのは、明るく澄んだ女声だった。

 

 『ペルシアに叩き起こされたのよ。“リュウジが帰ってきた”って。――クリスタルよ。無事で何より』

 

 短く笑って、別の渋い声が混じる。

 

 『まったく、いい迷惑だぜ……ったくよ』

 

 「はいはい、ファルコが一番最初に飛び出したくせに」と、第三の少年声が茶化した。『よく言うよ、いちばん心配してたのは――』

 

 『余計なこと言うな、スリッピー!』

 

 通信の向こうで、探索機二機が機影を寄せて“追いかけっこ”を始める。すぐさまクリスタルの溜息が被さった。

 

 『もう、やめなさいって言ってるでしょ、二人とも。――フォックス、隊長からも何か言って』

 

 わずかに笑いを含んだ落ち着いた声が入る。

 

 『それにしても……よく帰ってきたな、リュウジ。無事でよかった』

 

 「ああ。ありがとう、フォックス」

 

 『礼ならペルシアにも言っておけよ。お前の居場所を掴んで、空路を開けたのはあいつだ』

 

 「ああ、頭が上がらないよ。――あいつの機転がなければ、あの巨大隕石は抜けられなかった」

 

 『こっちはここで離脱する。後は管制に従って戻ってこい。最後まで油断するな』

 

 先頭の探索機が、右へ翼を傾け、青い尾光を残して軌道外へ離脱していく。「ありがとう」と短く返し、リュウジは操縦桿へ指をかけ直した。指先がまだ微かに痺れている。深層リンクの余熱が神経に残っているのがわかった。

 

 「……チャコ、いけるか?」

 

 隣席に視線をやると、チャコはヘルメットを顎まで下げたまま、がくりと背もたれに沈み込んでいた。呼気は荒く、けれど瞳は笑っている。

 

 「なんとかな。――最後んとこは、流石に“もうアカン”思うたで」

 

 「俺も正直、薄氷だった」

 

 「それより、リュウジの方こそ大丈夫かいな? 三層心理の深層(第二層)まで入っとったやろ。――後から来るで、あれは」

 

 「問題ない」

 

 いつもの調子で微笑む。言葉に嘘はない――身体は悲鳴を上げているが、意識は澄んでいた。あの“声”が、最後の一押しで、迷いを断ってくれたから。

 

 リュウジは背後に声を投げた。「みんな、大丈夫か?」

 

 ――返事がない。振り返れば、シートにしがみついたまま、全員が見事に脱力している。メノリは腕を抱えたままうつむき、ハワードは口を開けて白目、ベルとシャアラは手を固く握り合ったまま、カオルは下を向いたまま、シンゴはヘルメットのバイザーに額を押し付けて寝落ち、ルナは……穏やかな寝顔で、胸の上で手を組んでいた。

 

 「みんな気ぃ失っとるんや。――無理もないわ、あのG(重力)は」

 

 チャコは肩を回して立ち上がると、操縦席横の副系統パネルのボリュームに手を伸ばした。「ちょい待っとれや」

 

 「……何をする気だ?」

 

 「起床コールや」

 

 ダイヤルが最大に回り切る「カチッ」という生々しい音。次の瞬間――

 

 「ゴラァァァァァ!! 起きんかぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 艦内スピーカーが振り切れた。空気そのものが震え、照明パネルがジジッと鳴る。リュウジでさえ、反射的に肩を竦め、操縦桿を握り直したほどだ。

 

 「な、なんだっ!? 墜落したのかっ!?」 

 

 最初に跳ね起きたのはハワードだ。髪を逆立て、シートベルトをわたわたと外そうとして、手が空を切る。続いて、シンゴが「ひゃっ」と情けない声をあげ、ベルは小動物みたいにビクンと震え、シャアラは目を瞬かせながら周囲を見回した。メノリは眉間に皺を寄せながら素早く姿勢を正し、カオルは汲んでいた腕を解き、ルナは一拍遅れてぱちりと目を開けると、状況を測るように静かに周囲へ視線を巡らせた。

 

 「何言うとんねん。――無事、乗り切ったで!」

 

 チャコは親指をぐっと立て、満面の笑みで応える。

 

 言葉が耳に落ちるのと、胸の底から熱が溢れ出すのは同時だった。しん、と一瞬静まったのち、歓声が艦内を揺らす。

 

 「やったぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 「生きてる! 俺たち、生きてるぞ!!」

 

 「すごい……ほんとうに抜けたんだ……」

 

 ベルが座席から半分浮き上がって両手を合わせ、シャアラは涙を光らせながら笑い、シンゴは安堵で膝から力が抜けて床に手をつく。メノリは堪えていた呼気を長く吐き、カオルは静かに目を閉じて天井を仰いだ。ハワードは「うおおおおお!」と喉が枯れるほど叫び、シートを叩いてリズムを刻む。

 

 「ルナ、だいじょうぶか」

 

 リュウジが目だけで問うと、ルナは小さく頷いた。頬にはまだ緊張の余韻が残っているが、瞳は驚くほど澄んでいる。震える指先でヘルメットを外し、胸の前でしっかり抱え込んだ。

 

 「……うん。――リュウジこそ、大丈夫?」

 

 「問題ない。ちょっと喉が渇いただけだ」

 

 「またコーヒー?」

 

 「正解」

 

 二人のやりとりに、背後でハワードが「俺の砂糖は控えめで頼む!」と叫び、メノリに肘で小突かれて「自分でやれ!」と一喝される。チャコはケラケラ笑い、肩越しにルナへウィンクを飛ばす。

 

 「にしても……」

 

 メノリが肘掛けに腕を置いて、前方の黒い空を眺める。「“そこ”を抜けるって、こういう感覚なんだな。――骨の芯が、やっと自分のものに戻った感じだ」

 

 「わかる……わかるよ、それ」

 

 ベルが胸に手を当て、シンゴもこくこく頷いた。シャアラはそっと目元を拭い、微笑で涙を隠す。

 

 「よし。感傷は帰ってから何度でもやれる。――チャコ、被害と機体状態の再確認。外殻の擦過は?」

 

 「表面三%、浅い“すり傷”や。内殻二%、構造は健在。推力系は正常、神経応答は――深層の熱がまだ高い。冷却循環まわしとくわ。みんなのシートも点検しとく」

 

 「頼む。カオル、暫定で姿勢維持を任せる。」

 

 「了解。――リュウジ」

 

 カオルは操縦桿を受け取り、短くこちらを見た。「……見事だったな」

 

 「たまたまだ」

 

 「お前の“たまたま”が、俺たちの命を何度救ったことか」

 

 軽口の奥に、本気の敬意。リュウジは答えの代わりに軽く顎を引き、視線をルナへ戻した。ルナはその視線を受けると、胸の前で小さく拳を握り、にっ、と笑う。言葉はいらない。――“最後まで生き抜け”。あの誓いが、今、確かにここへ届いている。

 

 「さぁ、帰ろう」

 

 そのリュウジの言葉に、誰もがうなずいた。歓声はいつしか、小さな笑い声と、深い呼気に変わっている。ネフェリスは姿勢を整え、静かに進路を取った。重力嵐の名残は背中のはるか後ろ、魔のゾーンは、もうただの闇の海の一部でしかない。

 

 カオルは隣にいるチャコに視線を向けた。

 「――チャコ」

 

 「なんや?」

 

 「さっきの起床コール、二度とやるな」

 

 「検討はする」

 

 「やめろと言ってる」

 

 ルナがぷっと吹き出し、シャアラがくすっと笑い、ハワードが「でも効果は抜群だったぜ!」と親指を立てる。メノリが肩をすくめ、ベルとシンゴが顔を見合わせて笑う。

 

 ――騒がしくて、温かい。いつもの、俺たちだ。

 

 リュウジは深く、ゆっくりと息を吸った。コックピットの空気は、さっきより少しだけ甘く、やわらかい。

 

 ネフェリスは、星々の間を滑っていった。

 

――――

 

皆が歓声を上げ、安堵の笑いに変わっていく中で、リュウジは深く息を吐き、ヘルメットの縁を指で叩くように整えると、歩き出す。

 

「……コーヒー、淹れてくる」

 

 何でもない一言。けれど、その後ろ姿に、どこか“糸がほどけた”みたいな緩みが見えた。ルナは無意識に立ち上がる。皆の顔を見渡し、ほっとした笑顔を返してから、操縦室のドアが閉まる少し前――滑り込むように後を追った。

 

 通路はいつも通りの静けさだった。床に埋め込まれた誘導灯が薄青く伸び、ネフェリスの心臓の鼓動みたいなエンジン音が、金属を通して低く伝わってくる。

 その時、足元に、点。赤い、ひとしずく。

 

 ルナは歩みを止めた。誘導灯の縁に、ぽたり、と落ちて拡がる深い赤。膝をつき、人差し指でかすめ取る。指先を鼻先に寄せ、そっと息を吸う。鉄の匂い。すぐに胸がきゅっと縮んだ。

 

(血――)

 

 喉が鳴った。さっきまで温かかった胸の奥に、冷たい針が差し込まれたみたいな痛みが走る。足はもう勝手に動き出していた。ひとつ、ふたつ、と赤い点が、後方区画への曲がり角まで、途切れがちな軌跡を描いている。

 

 後方区画のドアが自動で開く。ふわり、と香る焙煎の匂い。その中央のコンテナの上に、リュウジが腰を下ろしていた。カップを両手で包み、ひと口飲むと、目を細めて天井を見上げる。

 右側の顎のラインを、赤が――つう、と。

 

「リュウジ!」

 

 声が思ったよりも鋭く出て、自分で驚く。彼は遅れて、ゆっくりこちらを向いた。いつもの穏やかな笑み。けれど右耳の下、顎から首筋にかけて、乾きかけの赤い筋が一本。耳の中が暗く濡れている。

 

「……ああ、ルナ。どうした」

 

「どうした、じゃないわ。耳、血が出てる」

 

 駆け寄って、彼の手からカップを受け取る。卓に置いた音が小さく響く。ルナはポケットから布巾を取り出し、反射的に右耳の下へ添えながら、覗き込んだ。にじみ出した血がまだ温かい。

 

「動かないで。……痛む?」

 

「少し、ざわつく。キーンってのが、時々」

 

「神経応答制御――無理したのね」

 

 問いじゃなく、確かめるみたいに言うと、リュウジはわずかに肩を竦めた。

 

「深層まで入った。……限界手前で戻ったつもりだったが、圧が残ってたみたいだ。加減が難しい」

 

 ルナは息を整えて、リュウジの状況を話す。

「鼓膜、破れてる。いまは安静にして、圧をかけないこと。強く鼻をかんだり、声を張ったりもしないで」

 

「了解」

 

「コロニーに戻ったらちゃんと病院に行くのよ」

 

 リュウジは「助かる」と短く言って、少し照れくさそうに目を伏せた。

 

「ごめん。騒がせるつもりはなかったんだが……通路のは俺のだな」

 

「うん。見た時、心臓が止まるかと思ったわ」

 

「悪い」

 

 謝る声が、いつもより少し掠れている。ルナは首を横に振った。彼の右手――空いていた方の手を、自然に取っていた。体温が掌に広がる。

 

「謝らないで。無茶は……したと思う。でも、それは生き延びるために必要な無茶だった。……ありがとう、リュウジ」

 

 彼の指が、わずかに強く握り返す。

 

「礼を言われる筋合いじゃない。みんなの顔が、俺の視界にあっただけだ」

 

「そういう時に、いつも“前”を向くのが、あなたでしょ」

 

 少し笑ってみせると、リュウジも口角を上げた。けれど、その笑いはほんの一瞬で、耳の奥の痛みに連れ去られたように消える。ルナは机の上のカップを取り、半分ほど残ったコーヒーを眺めた。

 

「飲みたいでしょう。でも、熱いのはしばらく控えたほうがいいわ。体が“落ちつく”まで、水を持ってくるから」

 

「コーヒーは落ち着く」

 

「水でも落ち着くのよ。はい、異議は却下」

 

 立ち上がろうとした肩を、そっと押さえられた。リュウジが目で「ここにいてくれ」と言う。彼の手の温度が、さっきよりもほんの少し高いのを感じる。

 

「……わかったわ。」

 

 コンテナの端に腰を戻し、彼の横顔をのぞく。

 ルナは自分のポケットから、布巾を出すと、顎から首筋にかけて乾いた血筋を、水に湿らせた端でそっと拭う。強く擦らず、なぞるだけ。細い線が一つずつ消えていく。

 

「痛い?」

 

「いや。……平気だ」

 

「平気って言葉、信用しないんだから」

 

「なら、ちょっとだけ痛い」

 

「それなら、信用できるわ」

 

 

 短いやり取り。けれど胸の奥に、ふわりと温かい膜が張るみたいな安堵が広がる。ルナは、拭き終えた布巾を畳み、彼の右手をもう一度握った。

 

「ねぇ、約束」

 

「ん?」

 

「次は――一人で、深く潜らない。限界の少し手前で、必ず戻る。体を守る。……私が、止める」

 

「力づくでも?」

 

「もちろん」

 

 即答すると、リュウジはほんの少し目を丸くして、それからおとなしく頷いた。

 

「了解。――艦内規約に追加だな」

 

「うん。第何条にしようか」

 

「第一条だ。『無茶は計画的に』」

 

「それ、守る気ある?」

 

「努力目標だ」

 

 笑い合う。冗談の薄皮の下で、互いの呼吸が落ちていくのがわかる。鼓膜の裂け目は、時間と静けさが塞いでくれる――ルナは自分に言い聞かせる。大事なのは、ここから先も“生き残る”こと。皆で、最後まで。

 

「水、持ってくる。すぐ戻るから、動かないこと。いい?」

 

「ああ」

 

 立ち上がる前に、ルナはもう一度、彼の右耳を確かめた。血は既に止まっている。

 ドアの前で振り返る。リュウジはコンテナにもたれ、こちらを見ていた。その目に“痛み”はある。けれど、もっと強い“灯り”がある。彼が航路に灯す、あの灯り。

 

「――ありがとう、リュウジ」

 

 今度は、はっきりと言葉にして伝えた。彼は何も言わず、代わりに左手の親指を、静かに立てた。

 ルナは頷き、ドアを開ける。通路の青い誘導灯が延びている。赤い点は、もうどこにもない。胸の針は、少しずつ溶けていく。

 

 水と、新しい布巾。必要なものを抱えて、ルナはもう一度、彼の待つ後方区画へ戻っていった。

 

――――

 

後方区画から戻ると、操縦席の背もたれ越しに振り返ったカオルと視線が合った。リュウジは短く顎を引き、「交代だ」とだけ告げる。カオルが席を立つや否や、リュウジは滑らかな動作でシートへ収まり、ハーネスを引き寄せて固定、操縦桿に右手、推力レバーに左手を添えた。わずかに傾いていた姿勢制御を微調整し、ネフェリスの鼻先が針の先で線を引くみたいに進路へ吸いつく。

 

「ネフェリスは最新鋭の宇宙船やで」

 隣のサブコンソールでチャコが鼻を鳴らす。

 

「……ああ?」

 リュウジは首を傾ける。わずかに遅れて、チャコの顔に悪戯っぽい笑み。

 

「全部見てたで。中々、ええ雰囲気やったな」

 

 ルナの耳朶が熱くなるのを自覚した瞬間――

 

「こちらネフェリス」

 リュウジがチャコの台詞を遮るように、冷静な声で送信キーを押した。

 

「素直やないなぁ」

 チャコが肩をすくめた時、スピーカーが応答の雑音を切り裂く。

 

『魔のゾーンを突破するとは流石、S級パイロットですね』

 アレクセイの年配の声が、落ち着いた笑みを纏って届く。

 

「たまたまです」

 リュウジは息一つ乱さない。

 

「たまたまで突破できたら、千機も落ちんやろ」

 即座にチャコの突っ込み。操縦席の周りに、かすかな笑いが漂う。

 

『ネフェリスはどこのエアポートに着陸する予定ですか?』

 

「ソーレ・デッラ・ルーナ《月の太陽》にする予定です」

 

『了解。航路データを同期します。ご武運を』

 

「受領」

 チャコが軽やかに指を走らせ、フロントの投影モニターに青いボックスが描き出される。

 

「来たで。――このまま真っ直ぐ、あと十分ってところや」

 

「月の太陽ってエアポート名なの?」

 シンゴが背後からひょいっと顔を出し、目を丸くする。

 

「とっても素敵な名前ね」

 シャアラが、名前そのものに灯りを見つけたみたいに微笑んだ。

 

「そんなエアポート、あったか?」

 カオルが眉根を寄せる。

 

「S級パイロットになった時の契約金で建てたんだ」

 リュウジは数値を追いながら、ごく自然に返す。

 

「へぇ、すごいな」

 ベルが感嘆をこぼす。

 

「S級はそういうもんらしい。俺の場合は、たまたまロカに建てただけだ」

 

「どういう意味なんや」

 チャコが首を傾げる。

 

「闇を照らす月のように、艦を導く太陽のように――帰る灯りを残したかった。そんな“願掛け”だ」

 

「なんか、ルナみたいだな」

 メノリが肩で笑う。

 

「私もそう思った」

 シャアラが頷く。

 

「そ、そうかな?」

 ルナは少しだけ俯き、耳までほんのり色づく。

 

「いっそのこと“ルナ”って名前にすればいいじゃないか」

 ハワードが豪快に笑う。

 

「それいいね!」

 シンゴの即答が明るい。

 

「ええー、恥ずかしいなそれ」

 ルナは頭を掻き、困ったように笑った。

 

「次はカオルに建ててもらえ」

 リュウジが前を見たまま、にやりとする。

 

「……ああ、そうだな」

 カオルは短く答えて宇宙を見据えた。

 

 ――その一瞬、ルナは自分でも驚くほど静かに、けれど鋭く、胸の奥が締めつけられるのを感じた。リュウジは私のことをどう思っているんだろう。魔のゾーンを抜けた余燼がまだ身体に残る彼の横顔は、いつになく澄んで見えて、手を伸ばせば触れられそうで、それでも遠い星の光みたいに揺らがない。

 

(あなたは私のことをどう思ってるの?)

 

 問いは口からこぼれない。代わりに、ルナは操縦席の右後ろ――彼の気配がもっとも濃く感じられる位置へと立ち、両手でシートの背をそっと掴んだ。指先に伝わる振動は安定している。大丈夫。いまは、ただ着くまで――。

 

「進路、安定。外部ビーコン同期完了、ILSに相当する誘導モード“LRA”に切替可能や」

 チャコが読み上げる。

 

「LRAスタンバイ。終端進入、手動優先で入る」

 リュウジは短く応じ、推力を微かに絞った。船体がわずかに沈む。正面、黒の海に一滴、金の針が刺さるみたいに、点が灯る。続いて、点の下に薄い弧――環が満ちていく。

 

「……あれが」

 ルナの囁きが漏れた。

 

 モニター越しではなく、前方投影の透明な板の向こうに、星の点描から分離していく人工の光群。リング状のプラットフォームが、静かな青白の誘導灯を周縁に並べ、その内側に金色のラインがすっと走る。中央には、月を模した半透明のドーム、その向こうに、ヘリオスの象徴のような多方向光源が、薄いカーテンのような光のレースを広げていた。

 

「ソーレ・デッラ・ルーナ《月の太陽》――」

 シャアラが、祈るみたいに名を呼ぶ。

 名を呼ばれたエアポートは、呼吸を合わせるかのように、周回軌道上で速度を落としていくネフェリスへ向けて、誘導サインの光を脈打たせた。

 

「ネフェリス、こちら管制。進入コリドー2を割り当てる。ベクトルは送信済み、下り角3度、速度6.8に詰めろ」

 落ち着き払った女性の声。地球語のアクセントに、わずかなロカ訛りが混じる。

 

「こちらネフェリス、コリドー2、三度、6.8了解」

 リュウジの声は、水面に石を落とした時の波紋みたいに穏やかに広がった。

 

「姿勢、微調整入るで。機体反応、良好」

 チャコが短い指示で手を添え、姿勢制御の針が中央で揺れを止める。ハワードがごくりと喉を鳴らし、シンゴが両手を膝に置いて呼吸を合わせ、メノリが静かに目を閉じて数を数える。ベルはシャアラの肩に手を置き、カオルは計器から目を離さない。

 

「ここから先は、落ち着いて見てろ」

 リュウジが言えば、皆が頷く。その声だけで、薄く残っていた緊張がやわらぐ。

 

 リングの外縁に、白い糸のような誘導灯が降りる道を描く。ネフェリスはその道に吸い込まれ、わずかに機首が下がる。ルナは、息をするのを忘れそうになった胸を、意識的に膨らませる。

 

「フレア、抑えめで。――照返し、入るで」

 チャコの指が二度、三度と踊る。ガラスの向こう側に広がる光のベールが濃くなり、船体の縁が淡く縁取られる。

 

「高度、二八〇、二五〇、二二〇……速度6.9、6.8、維持」

 チャコの読み上げに、リュウジの声が重なる。

 

「スラスト、ポリッジ。――ノーズ、キープ。機軸ずれ、コンマゼロニ。許容」

 

 短い単語の往復が、心地よい拍に変わっていく。ネフェリスの影が、リングの内側に広がる“静けさ”へと滑り込む。中央の半透明ドームが大きくなり、その表皮に流れる光の筋が、潮のように満ちては引く。

 

(帰ってきた――)

 

 誰よりも先に、その言葉がルナの胸に灯る。惑星サヴァイヴの空を越え、魔のゾーンを越え、重力の荒海を抜け出た先に、ちゃんとある“帰る場所”。胸の中心に、ひとつ柔らかい音が落ちた。

 

「レールコンタクトまで十、九、八――」

 チャコの声。

 ルナは、無意識に背の布地を握る指に力をこめた。彼の肩が、ほんのわずか沈む。推力がさらに絞られ、姿勢が水平へ移る。

 

「三、二、一――タッチ」

 

 かすかな衝撃。ネフェリスの足がリングのガイドレールに触れ、磁束が絡みつく。金属の擦れる音はない。ただ、機体全体を優しく“掴まれた”ような安心感が、床から脊椎を伝い、胸骨の裏側までじんわり広がる。

 

「スラスト、アイドル。ロック有効。――ふぅ」

 リュウジの息が、ごく僅かに解ける。チャコのモニターに「ARRIVED」の文字が、白い息のようにふっと現れた。

 

「や……やったのか?」

 ハワードが小声で呟く。

 

「やったわ」

 シャアラが微笑み、ベルが拳を小さく握る。シンゴが「帰ってきた」と口の中で繰り返し、メノリは目尻を指で押さえ、カオルはほんのわずかに頷いて視線を落とした。

 

 ルナは、その輪の中心――操縦席の横顔に目をやる。彼の睫毛が微かに震え、次の瞬間には、いつもの落ち着いた色に戻る。

 

 軽い整備用のドローンが接舷し、ドッキングの小気味いいラッチ音が三度鳴った。管制からの音声が穏やかに続く。

 

『ネフェリス、ようこそ“月の太陽”へ。機外圧、同期完了。船内外の温度差、解消フェーズへ移行します。乗員の皆さん、ようこそお帰りなさい』

 

 “お帰りなさい”――その言葉が、途端に胸を熱くする。ルナは目を伏せ、呼吸を整え、それからほんの少しだけ勇気を出して、操縦席の背から手を離した。

 

「……リュウジ」

 

「ん?」

 

 振り返った瞳に、いつもの透明な光。ルナは、喉元にせり上がってくる熱を押しとどめながら、ゆっくりと笑った。

 

「帰ってきたね。――皆で」

 

 頷きが返る。言葉にするとほどけてしまいそうな感情が、しかし言葉にすることで形を得て、二人の間を温めた。

 

 背後でハーネスが外れる音が重なり、歓声と笑い声がまた動き出す。チャコが「帰ってきたで!」と叫び、ハワードが「腹減った!」と続け、シンゴが「まず親に連絡!」と慌て、メノリが「順番!」と制し、ベルが「整列!」と半分冗談で叫ぶ。シャアラは涙を拭いながら微笑み、カオルは最後に一度だけ外の光景を見て、静かに席を立った。

 

 ルナはその喧噪の向こうで、もう一度だけ、操縦席の横顔を盗み見る。

 魔のゾーンを断ち割った手。鼓膜を破ってまで繋いだ航路。あの背中のどこに、自分は立てるだろう――肩なのか、横なのか、少し後ろなのか。今はまだ、はっきりわからない。それでも、はっきりわかることがひとつだけある。

 

(私は、あなたの“帰る灯り”になりたい)

 

 胸の奥で、ささやきが音もなく結晶する。言葉にせず、ただ微笑って、その結晶をそっと握りしめた。

 

 ドアが開く。白い通路の向こう、半透明のドーム天蓋から、柔らかな光が滝みたいに降りてくる。“月の太陽”――夜に灯る昼の光。皆が歩み出す。

 リュウジも立ち上がり、シートから身体を離す。その右耳はもはや痛みの印ではなく、戦いを終えて帰ってきた証みたいに見えた。

 

 ネフェリスは息を吐き、静かに心臓の鼓動を落としていく。ハッチが開き、空気が入れ替わり、その匂い――鉄と洗剤と人いきれと、どこか懐かしい人工の香りが、肺の奥へすっと染み込んだ。

 

 ルナは一歩、二歩――皆の後ろを歩きながら、ほんの刹那だけ足を止める。そして、振り返った。操縦席の脇で、彼がこちらを見る。

 目が合う。彼は、何も言わない。ただ、親指を、さっきと同じように、静かに立てた。

 ルナは大きく頷き、今度こそ、光の方へと歩み出した。

 

――――

 

 「――帰ってきた。」

 

 ハッチが油圧の低い唸りとともに開くやいなや、空気が入れ替わる匂いがどっと流れ込んだ。金属と洗剤と、人の体温が混じった、懐かしい人工の匂い。次の瞬間、待ち切れない仲間たちが、押し合う波の先頭みたいに、ネフェリスから弾け出していった。

 

「うおおおっ、地面! 固い地面だぁ!」

「すべるな、ハワード!」

「きゃっ、シンゴ、手をつないで!」

 

 歓声と笑いと靴音が、白いロビーに弾んでいく。

 

 肩口にふわりと温もりが跳ねた。「っとと……!」

 

「ウチらも行こか」

 チャコが、猫みたいに軽やかにルナの肩へ飛び乗る。拡張フレームのソールがやわらかく沈み、耳元で合成ボイスのくすぐったい息が笑った。

 

「……うん」

 

 ひときわ静かなルナの返事が、がらんとした船内に余韻を残す。足を一歩、前へ――

 

 背後で、カチ、カチ、とスイッチの切り替わる固い音。ルナの踵が止まった。胸の奥の糸を引くように、名前が唇から零れる。

 

「リュ、リュウジ……?」

 

「どうした?」

 振り向かないままの声。指が機器の列を滑っていく律動は、普段どおり完璧で、ゆえに遠い。

 

「……一緒に行きましょう」

 

 思ったより小さく、か細い声だった。自分で驚くほどに。

 

「システムを切ったら行く。先に行っててくれ」

 

「……うん」

 

 落ちた語尾は小石みたいに軽く、なのに胸の底へ沈む。俯いた視界で、床の警告ラインが滲んだ。足を、今度こそ前に出す。歩幅は自然と狭くなる。肩にいるチャコが、何も言わずにそっとバランスを合わせてくれた。

 

 背後で、ふっと音が消える。カチカチという連打が途切れ、気圧の静けさが戻る。ルナの背中が、わずかにほどけた。

 

 ハッチをくぐると、眩しい白が目に刺さる。ロビーには、すでに人の花が咲いていた。扇状に広がるガラスの天蓋から、光の粒が舞う。その中心で――

 

 メノリが、父親に抱きついていた。頬を押し当て、肩に顔を埋め、言葉にならない声が布に吸い込まれていく。

 カオルは、両親と固い握手を交わし、握った手の角度だけで感謝と無事を伝えていた。父の背筋はまっすぐで、息子の視線と同じ高さだった。

 ベルは父と母の前に立ち、二人の手が左右の肩に置かれていた。まるで、帰巣した鳥に羽をかけるみたいに。

 ハワードは――大柄な身体で、そのままコアラのごとく父親にしがみついている。父はよろけつつ、でも笑って、片腕で抱え直した。

 シャアラは母の胸に飛び込み、母は落とさぬよう全身で受け止め、少し離れたところで父が涙を拭いていた。

 シンゴは、妹と弟と両親に揉みくちゃにされ、四本の腕に抱え込まれている。耳元で「おかえり」を何度も浴びるたび、小さなうなずきが増えていく。

 

 ――帰りを待っている人がいる。

 

 胸の前で、両手が自然と重なる。指先が触れたネックレスの不在の場所に、代わりの熱がまた宿る。視界の端が少し滲んだ。こみ上げるものをこらえて、ルナは笑ってみせる。

 

「ルナ……」

 肩のチャコが、いつもの呼び方を柔らかくする。

 

「帰りを待っててくれる人がいるって、いいね」

 

 笑顔に力は入れた。けれど、声の芯は透明だった。チャコが小さく息をのむ。

 

「おかえり、ルナ」

 

 背中のほう、そっとタイルを踏む歩幅の音。そして、言葉。それは、真っ直ぐに胸のど真ん中へ落ちた。

 

 振り返る。そこに、彼がいた。艶のない黒髪。青をひと滴垂らしたみたいに澄んだ目が、くしゃりとほどける。

 

 頬を伝うものが、意志に追い抜いて落ちた。熱い線が顎へ滑り落ちる。拭う指が追いつかない。

 

「……ただいま!」

 

 今度は本心で、飾らず、まっすぐ。笑った自分の声を、自分で好きになれた。彼の目がふっと細くなる。

 

「ああ。――あと、チャコもな」

 

「ウチはついでか! ……ただいまや」

 肩の上でチャコが誇らしげに笑って、ルナの頬に頭をこすりつけた。

 

「もうシステムは停止したの?」

 涙の余熱を指でぬぐいながら、ルナは尋ねる。

 

「いや。……先に降りようって、考えを改めた」

 

 不意に、胸の真ん中が春みたいに暖かくなっていく。きっと、考えを見抜かれたのだ。皆の再会の輪のなかで、置き去りにされたような自分の小さな影。その影ごと抱えてくれる人が、いま目の前にいる。

 

「ありがとう」

 

 声は小さかったのに、彼の表情ははっきりと緩む。リュウジはハッチへ歩み寄り、手際よくパネルを閉め、ロックをかける。乾いたチャイム音が短く鳴った。

 

「さて。俺たちも降りよう」

 

 階段を下りながら、彼はロビーの騒ぎに目を細める。

 

「……ハワードのやつ、コアラかよ」

 

「せやな、背中にユーカリでも入っとるんやろか」

 チャコが肩の上で吹き出し、ルナも思わず、声を立てて笑ってしまった。喉の奥まで温かくなる笑い。胸の締め付けが、するりとほどける。

 

 床に降り立つと、ロビーの喧噪は一段と近くなる。誰かの泣き声、誰かの笑い声、誰かの名を呼ぶ声。織物みたいな音の層のあいだを、三人は歩く。ルナは、ネフェリスの機体を一度だけ振り返った。きっと、またあそこへ戻るのだろう。けれど今は――人の匂いと光のあいだにいたい。

 

「……リュウジ」

 

 呼ぶだけで、彼の足が止まる。振り返る顔は、不思議そうに少しだけ目を瞬かせて、そのあと自然にほどけた。

 

「おかえり、リュウジ」

 

 柔らかな笑みを添えて渡した言葉は、さっき彼から受け取ったものの、形を少しだけ変えた贈り物だ。

 

 一拍、間。

 彼は照れくさそうに、でも隠しきれずに、口角を上げた。

 

「……ただいま」

 

 たった四文字が、胸の真ん中に灯を増やす。チャコが肩の上でごそりと動く。

 

「よっしゃ、次は親御さんに挨拶や。挨拶の段取りはウチに任せ――」

 

「チャコ、落ち着いて」

 笑いながら、ルナは肩の相棒をそっと撫でた。

 

 視界の先では、メノリの父がこちらに気づき、軽く会釈をくれた。カオルの母は、目尻を拭きつつも背筋を伸ばしている。ベルの母は、息子の襟元を整え、ベルは照れた顔でそれを受けていた。ハワードの父は、まだコアラをぶら下げたまま、誰かに頭を下げている。シャアラの母の腕の中で、シャアラの肩が上下し、父が後ろからそっと二人を包んだ。シンゴの家族は、ようやくほどけて、今度は順番に抱き合っている。

 

 ――帰る場所に、人がいる。

 

 ルナは胸の前で、そっと両手を合わせた。ネックレスの代わりに、そこに宿る熱を確かめる。彼が隣にいる。肩の上でチャコが笑っている。仲間の声があふれている。光は柔らかく、空気は現実の重さで、足はしっかりと床を踏んでいる。

 

「行こうか」

 

「ああ」

 

「せやな」

 

 三人の足音が、ロビーのざわめきの織り目に溶けていく。誰かの「おかえり」がまた届き、誰かの「ただいま」が重なる。ルナは小さく息を吸って、笑顔のまま、その輪の中心へ歩み込んだ。

 

――――

 

ロビーの歓声が少し落ち着いたころ、白い床の中央に、ぽつりと取り残された三つの影があった。ルナとリュウジ、そしてルナの肩に乗るチャコ。周囲では再会の輪が幾重にも広がり、家族たちの泣き笑いが交錯している。だが二人の前には、抱きとめる腕はない。ルナは胸の前で指を組み、リュウジは無言で天井の光を一度見上げた。チャコが小さく息を呑んだ気配がする。

 

 ――その静けさに、誰かが気づいた。

 

「……あ」

 

 一番に振り返ったのはメノリだった。続いてカオル、ベル、シャアラ、シンゴ、ハワードが、家族の腕から半歩抜け出してこちらを見た。全員の表情に、気づきの色がさっと走る。次の瞬間、彼らはほとんど駆け足で、二人へ向かってきた。

 

「ごめん、ルナ」

「……ごめん、リュウジ」

 

 言葉は同じだった。けれど、包む腕はそれぞれの体温で違っていた。メノリはルナの両肩を抱きしめ、シャアラは背中をさすり、シンゴは正面からぎゅっと寄り添う。ハワードは照れくさそうに頭をかきながら、がばっと三人まとめて抱えようとしてメノリに小突かれた。カオルは短く息を吐き、何も言わずにリュウジの肩を叩いた。ベルは小さく微笑んで、ルナの手を握った。

 

「おかえり、ルナ」

「おかえり、リュウジ」

 

 輪が重なり、言葉が重なる。その重なりの真ん中で、ルナの喉の奥が熱くなる。泣き顔にならないように、笑って「ただいま」と返した。リュウジも、少しだけ視線を伏せてから「ただいま」と短く言った。肩のチャコが「ウチもおるで」と胸を張り、皆の笑いが弾けた。

 

 そこへ、波のように押し寄せる別の輪――マスコミだ。マイクとフラッシュの群れが、あっという間に円陣を作る。

 

「メノリさん、今のお気持ちは!」「リュウジさん、魔のゾーン突破の詳細を!」

「ルナさん! 一番大変だった瞬間はいつですか!?」

 

 四方から伸びる黒い棒――マイクの先端が、ぱし、と空を切った。チャコがその一本を、器用に前脚でひょいと掴み上げる。

 

「まずは列を作りや!」

「ちょ、チャコ!」

 慌ててルナが奪い返そうとして、逆にコードが腕に絡まり、わたわたとほどく。遠目にその光景を見て、リュウジは口の端だけで笑った。肩の力が半分だけ抜ける、あの癖のある笑い方だ。

 

「リュウジさん! リュウジさんは――」

 数人の記者がこちらへ雪崩れてくる。リュウジは正面から一歩出て、掌を軽く上げた。

 

「話せることはない。……俺の代わりに、あいつらに聞いてくれ。言うべきことは、あいつらが持ってる」

 

 低く、よく通る声。質疑の矛先が、すっと他の仲間へ流れる。渦の中心が移ったのを確認すると、リュウジは息をひとつ吐き、フラッシュの縁から離れかけたところで――

 

「……はぁ」

 

 メノリが肩で息をしながら、ひとり戻ってきた。前髪に光の粒がくっついている。

 

「取材は?」

「ハワードに。『英雄的登板』だそうだ」

「なるほど」

「話はだいたい合ってるが、三割は盛ってる」

 

 二人はロビーの喧噪を横目に、肩を並べて立った。さっきまでの緊張がほどけたせいか、空調の風音がやけに大きく聞こえる。

 

「……家に戻っていいか?」

 間を計るように、リュウジが不意に言った。

 

「ダメに決まってるだろう」

 即答。メノリは片眉だけを上げる。「帰りたいなら、ルナに言え。たぶん『もう少し一緒に』と言う」

 

「やっぱり、終わるまで帰れなさそうだな」

 リュウジの声には、諦めというより、状況の把握に対する素直な了解があった。

 

「なにか急ぎ?」

「一人暮らしだからな。……一度、家の荷物とか確認したいんだけど」

 

 そこで、メノリの目がぱちりと大きく開いた。

 

「待て。今、なんて言った」

「一人暮らしだから、家の荷物を確認したい、と」

「……忘れていた。ルナはハワード財閥の奨学金制度で部屋を借りてる。長期不在の扱いになってたら――」

 

 息が一拍止まる。二人の視線が自然にルナへ向かい、マスコミの輪の隙間で奮闘している背中を捉えた。肩のチャコが、まだ小さく吠えている。

 

「支払いが滞っていたら、家財道具が処分されてる可能性がある」

「……あるな。あそこは厳しいことで有名だ。期日とルールがすべて」

 

 リュウジの喉の奥が低く鳴った。「俺が呼んでくる。メノリ、エアタクシーを二台、手配してくれ」

 

「二台? どうしてだ」

「俺も家に帰る。……心配だから」

 

 言い終わるのと同時に、リュウジは走り出していた。フラッシュの光がストロボみたいに足元を白黒に染める。その間を縫って、まっすぐルナのもとへ。

 

「――ルナ!」

「えっ、リュウジ?」

 記者の肩越しに目が合う。彼女の表情に、ぱっと灯がともる。

 

「急ぎで話がある。……家のことだ」

 短く状況を告げると、ルナの顔色がさっと引き締まる。彼女は記者たちに頭を下げ、言葉を選びながら丁寧に断りを入れる。「すみません、至急の用事が――あとで必ず」。そのすばやさに、記者も押し返しきれず、道が開いた。

 

「ウチは?」

 肩のチャコが前脚を上げる。ルナが苦笑した。

 

「チャコは……もうちょっと話してあげて。たぶん、まだまだしゃべり足りないでしょう」

 

「せやな! 任せとき!」

 チャコがくるりと踵を返し、記者団に向き直る。「整列! はい、まずは時系列から説明するで!」――ルナは額を押さえ、思わず笑ったが、すぐ真顔に戻ってリュウジと並んで走った。

 

 エアポートの外気口が開閉するたび、冷たい風が廊下を横切る。二人は無言で足をそろえ、青い矢印の動線に沿って駆け抜ける。自動扉が次々と口を開き、プラットフォームの縁に、白い双胴のエアタクシーが二機、回転灯を点して待っていた。手配の早さに、さすがメノリだとリュウジは内心舌を巻いた。

 

「料金は――」

「先に済ませた」

 いつの間にか背後に来ていたメノリの指先に貼られた決済タグが光る。

 

「助かる」

「礼は帰ってきてからまとめてでいい。……状況は?」

「まだ分からない。だが、厳しいと聞いてる。最悪を想定して動く」

 

「私、大丈夫かな……」

 ルナの声は小さいが、揺れてはいなかった。走って火照った頬に、風が心地よく当たっていく。

 

「大丈夫じゃなくても、どうにかする」

 リュウジが短く言い切る。言葉の棘はない。代わりに、確かな重さがあった。

 

 エアタクシーのドアが、羽のように上へ開く。AI「行き先は?」と簡潔に問う。ルナが住所を伝えると、機体が低く共鳴して浮き上がる準備に入った。

 

「……リュウジ、また後でね」

 

 ドアの縁に手をかけたルナが、振り返って言った。目がまっすぐリュウジを捉える。そこに余計な遠慮はなかった。

 

「ああ」

 

 それだけ返す。ルナは小さく笑み、シートへ滑り込む。ドアが静かに閉まり、透明なキャノピー越しに彼女の横顔が光を受けてきりりと輪郭を描く。

 

「だから言っただろう。リュウジも早く行って、早く帰ってこい」

 メノリが短く言う。命令でも懇願でもない。責任者の声音だった。

 

「……了解」

 渋々というより、力の抜けた苦笑でリュウジが頷く。エアタクシーがふわりと浮き、無音のまま滑るように出発レーンへ。風が巻き込み、髪が少しだけ揺れた。ルナが小さく手を上げ、それに答えるようにリュウジも指先をあげる。透明な窓越しに交わされた挨拶は、音より強く届いた。

 

 機体が加速し、ロビーの外気に吸い込まれていく。白とガラスの街路を縫って、ライトの帯が細い川になり、二つの影がその上を走る魚のように遠ざかる。見えなくなるまで見届けると、メノリが隣で息を吐いた。

 

「……さて、俺も行ってくる」

 

「ああ。頼む」

 

「それと――」

 メノリは一拍おいて、目だけで笑った。「こっちは任せろ。記者も対応する。ハワードの盛り話が暴走しかけたら、止めておく」

 

「頼んだ。……火消しは、お前の領分だ」

 短い握手。メノリは踵を返し、残ったもう一台へ乗り込む。ドアが閉まり、浮上音が重なる。二筋の白い尾が、コロニーの空に溶けた。

 

 残されたロビーへ、再びカメラの光が踊る。遠目には、依然としてマイクを操り、記者たちに「まず見出しや! 見出しから決めるんや!」と説教している。マイクを慌てて取り返そうとするスタッフと、それを宥めて謝り倒す広報の姿。メノリは、ほんの少し肩の力を抜いて、フッと笑った。

 

 でも、次の瞬間にはもう真顔に戻る。胸の奥の針が、静かに次の位置を指している。行くべき場所、守るもの、やるべき段取り。視線を入口へ向け、靴底を鳴らし――彼は小走りに、街の光のほうへ消えていった。

 

ーーーー

 

会場脇の通路から、ルナが戻ってきた。照明の白が頬の血の気をうすくさらって、足取りはまっすぐなのに、目元だけが曇っている。浮かない顔——それを最初に拾ったのはシャアラだった。

 

「ルナ! どうだったの?」

 すぐに輪ができる。メノリ、カオル、ベル、シンゴ、ハワード、そしてチャコ。

 

 ルナは一度唇を結んでから、小さく吐息を落とした。

「……家財道具は、全部無事だったわ。置き去りの手紙もなくて。鍵もそのまま」

「ほんまか! よかったやないか!」とチャコが胸を叩く。

「でも——」とルナは続ける。「電気も水道も止まってた。長期不在扱いで、契約が保留になってるって。復旧申請は出してきたけれど、再開には少し時間がかかるみたい」

 

 その場の空気が、わずかに沈む。

「よし、任せろ!」とハワードが胸を張って一歩前に出た。「こういうのは僕の出番だ。財団の窓口に連絡すれば、即日開通の優先フラグを立てさせられるはずだ。契約番号は? 管理会社は?」

「ほんとに?」とシンゴが目を丸くする。

「“僕がなんとかしてやる”。こういう時に言う台詞って決まってるんだ」とハワードは親指を立て、にっと笑って見せた。

「頼りにしてるわ、ハワード」ルナの声が少しだけ明るくなる。

 

「で、リュウジは?」

 その問いは、結局そこへ戻る。輪の視線が一斉にメノリへ流れた。

 

「まだ来ていない」メノリはこめかみを押さえ、短く言った。「あの男、逃げたな」

「メノリ」ルナはかぶりを振る。「『また後で』って、ちゃんと言ったもの。来るわよ、必ず」

 微笑んだその表情は、信じている人だけが持てる柔らかさだった。メノリは片眉を上げ、肩をすくめる。「……なら、信じて待つ」

 

 そこへ、タブレットを抱えた局員が駆け寄ってきた。「皆さん、記者会見の時間です。ステージの方へご移動を」

「記者会見……」とシンゴが飲み込み、「行こう」とうなずく。

 一同は互いの袖口を確かめ、呼吸をそろえるようにして歩き出した。

 

   ◇

 

 会見場は、冷たい光で平らに整えられていた。背面には〈宇宙管理局/ロカA2ソリア学園 帰還ブリーフィング〉のロゴ壁。八脚の長机、人数分のマイクと名札。中央の席にルナ、左右にメノリとカオル、続いてシャアラ、ベル、シンゴ、ハワード、チャコはルナの肩から机上へぴょんと飛び降り、名札の前にちょこんと座る。

 

 フロアのレコーダーとカメラが一斉に赤く点った。司会の進行役が開会を告げ、最初のライトがルナの頬に落ちる。彼女は一度だけ視線を水平に走らせ、マイクに口を寄せた。

 

「……私たちは、修学旅行中に発生した重力嵐に巻き込まれ、未知の惑星で生き延びました。そこを私たちは“惑星サヴァイヴ”と呼ぶことにしました。多くの人たちの助けで、いま、ここに戻って来られたことを、まず伝えたいです。ありがとうございます」

 

 静かな出だしに、最前列の記者が手を上げる。

「生存の鍵となったのは? 誰がリーダーシップを?」

 ルナは一瞬だけ隣のメノリを見て、それから首を横に振った。

「鍵は“分け合うこと”でした。役割も、責任も、食べ物も、恐怖も。誰か一人の勇気ではなく、みんなで生き延びる決意の総和です。リーダー、という言葉に縛られるより、順番に前へ出ました。今日のこの席も、その延長です」

 

「“惑星サヴァイヴ”の環境は?」

「水はあり、危険もあり、そして人もいました。私たちだけの世界ではなかった。だから、勝手なことはできない。帰ると決めてからは、惑星の未来に負債を残さないことを第一にしました」

 メノリがマイクを少し引き寄せる。「補足します。惑星の方々は、私たちを支援し、宇宙船まで提供してくれました。文化、言語、価値観の違いがありましたが、対話で橋をかけられたのは、ルナの——」

「メノリ」ルナが小さく咳払いをして笑う。「みんなの、ね」

 

記者席の中段が手を挙げる。「食料や水が潤沢でなかった時期の衝突は? 仲間割れは避けられた?」

 

 ルナは一呼吸置いてから答える。「意見の違いは何度でも起きました。でも、相手ではなく“問題”に向かって話す。休憩を挟む。謝るときは、目を見て謝る。——簡単じゃないけれど、続けられました」

 

 ハワードが片手を挙げる。「そして、腹が減ってたらだいたい全員機嫌が悪い。まず食わせろ。話はそれからだ」

 

 笑いが再び起こる。司会が次の問いを振る。「帰還後、まず何を食べたいですか?」

 

 シャアラが少し考えてから。「温かいスープ。香草が少しあればなおよし」

 ベルは「バターとパン」と即答。

 シンゴは「普通の牛乳をコップで」と照れ笑い。

 ハワードは「肉!」と拳を握り、

 カオルは「魚の塩焼き」と短く、

 メノリは「静かな音のする紅茶」と言ってから、「……それから楽譜とペン」と続け、

 チャコは「電源100Vの安定供給!」と場をさらう。

 ルナは少しだけ迷って、「みんなで囲む、あったかいごはん」と答えた。

 

た」

 

「帰還に使われた宇宙船について伺います。性能や整備の状況は?」

 

 チャコが即答。「最新鋭。安全系は多重化、重力場制御は高精度。とはいえ、外から来た私らが過信したらあかん。チェックリストは短く、見直しは長く。未踏領域の通過では、センサー群の校正を丁寧にやったわ」

 

会見の中盤、記者席から手が上がる。

「“魔のゾーン”通過時の操縦と判断について教えてください。誰が、どうやって——」

 

ルナは一拍おいて、苦笑いを浮かべた。

「……すみません。あの区間に入ってすぐ、強い衝撃と加速度で私たちはほぼ同時に意識を失ってしまって。だから“その瞬間に何が起きたか”を、私たち自身の記憶では説明できないんです。分からない、が正直な答えです」

 

メノリが続ける。

「主観の証言ではなく、機体ログや管制の観測データを突き合わせた技術検証で事実を確かめてください。公開はその確定版に沿って」

 

チャコがマイクへ身を寄せる。

「センサーの生データと時刻合わせ済みの航跡は残っとるさかい、“どう通ったか”は数値で再構成できるかな。印象や推測で喋るのは今日は控えますわ」

 

カオルが短く補足した。

「安全に関わる情報は、再現性のある形で。以上です」

 

「今の心境を一言で。」

 

「“ただいま”。それに尽きます」

「腹減った、でも幸せ」

「抱きしめたい人を抱きしめられる世界に戻れました」

「ここからが責任の始まり」

「驕らず、次の安全へ」

「学びを共有したい」

「静かに喜び、静かに働く」

「ログは嘘つかん。ぜんぶ残しとるで」

 

ルナ、ハワード、シャアラ、メノリ、ベル、シンゴ、カオル、チャコが次々にマイクを引き寄せ、答えていく。

 

ーーーー

 

紙コップのフタ越しに立ちのぼる湯気が、ほの暗い店内の照明をやさしく歪ませていた。受け取ったばかりの深煎りの香りが、乾いた喉の奥と胸のざわつきを順に撫でていく。カウンター越しにスコーンの包みを受け取りながら、俺は何気なく店員に声をかけた。

 

「今日は人が少ないんですね」

 

「そりゃあ、あれだよ」

 

 店員は顎で示す代わりに、カウンター端の壁面に埋め込まれた大型モニターを親指で指した。フレームの中では、白い照明に切り取られた記者会見場が映っている。見馴れた制服、見馴れた背中。ルナたちが横一列に並んでいた。

 

「……なるほど」

 

 俺はそれだけ言って、窓際の二人掛けの席に腰を落とした。スコーンの包みを破る。焼きたての香りとバターの温みが指先に移り、よくも悪くも現実に引き戻される。ひと口かじると、ざくり、と軽い音がした。遠巻きのざわめき、豆を挽くミルの低い唸り。ここだけ時間が別の速度で流れている。

 

(今戻ったら、面倒くさいことになる)

 

 そんな考えが脳裏をかすめ、俺は苦笑いで追い払う。画面の向こうでは、ルナが一瞬だけ笑って頷き、その横でメノリがさらりと数字を並べ、カオルが言葉を選ぶ間にチャコの口元がむずむずと動いて、ベルが袖をそっとつまんで止める――いつもの、そしてやっと取り戻した空気だ。

 

「それにしてもよ」と、コーヒーマシンの蒸気の音が落ち着いたころ、店員がカウンターからこちらに声を投げてきた。「子ども達だけで、よく生きて帰ってきたもんだな」

 

「本当ですね」

 

 つい短く返しただけなのに、胸の内側で何かが静かに膨らんだ。誇り、罪悪感、安堵。どれにも完全には名前がつかない重さが、コーヒーの黒い水面にうっすらと映る。

 

「実はさ、俺たちのオーナーも一緒に帰還したんだよ」

 

「オーナー?」

 

「ああ、S級パイロットのリュウジさんって言うんだ」

 

「……なるほど」

 

 スコーンの最後の欠片を口に放り込み、もぐもぐと噛みながら、息だけで笑う。ここは《ソーレ・デッラ・ルーナ》のロビー直通のコーヒースタンドだ。店の片隅には、昔ここに寄贈した抽出器の記念プレートが、今も相変わらず鈍く光っている。だが店員は、目の前の常連がその“オーナー”本人だとは思っていない。思わなくていい。今はそれが助かる。

 

「まぁ、彼が帰ってきたのは良かった。賃貸料だって受けとらねぇし、今度こそはうちのコーヒーを飲んでもらうつもりだ」

 

 店員はニコッと笑った。客足が少ないせいで、言葉が少し弾んでいる。俺もつられて口角が上がった。

 

「そうですね」

 

 紙コップを持ち上げると、焙煎の油が光をはじく。舌に落ちる苦味は強いが、余韻は短く軽い。遠征先で飲んだ粗いコーヒーを思えば、どんな豆でもごちそうだ。喉を落ちていく熱が胸の奥で丸くなり、張りつめていた神経が一本ずつほどけていくのがわかる。

 

 ふと、モニターの前列で記者たちが一斉に手を挙げた。司会が指名し、立ち上がった一人の記者が映像の中央に入ってくる。見覚えのある、黒い服。ネクタイの結び目の小ささ、マイクの持ち方、間を取りにいく視線の跳ね方――嫌でも思い出す。あの執拗な問いの癖。獲物に輪をかける時の呼吸。

 

 胸のうちで、音のないスイッチが入った。

 

 椅子の脚が床をわずかに擦る。立ち上がりざまに、耳の奥で乾いた痛みが微かにじんだ。右耳の奥、深層を使い過ぎた余波。包帯は薄く、フタの飲み口を軽く噛み、息をひとつ、丁寧に吐いた。心拍を一段落とす。

 

「ありがとうございました。また来ます」

 

 カウンターに向けて短く言う。店員が片手を上げた。

 

「まいどあり! ……お、行くのか?」

 

「ええ」

 

 視線はモニターから外さない。黒い服の記者が口を開き、最初の言葉が空気を変える前に、俺は踵を返した。紙コップの温度が掌に確かな重さを残す。ロビーに通じるガラスの自動ドアが、近づく気配に合わせて滑るように開いた。外の喧騒と白い閃光がまとめて流れ込んでくる。

 

 俺はコーヒーをひと口だけ飲み、歩幅を整えた。もう逃げる理由はない。いや、最初から逃げるつもりはなかった。ただ、今でなければならない理由がひとつ増えた――それで充分だった。

 

 耳の奥の鈍痛が、鼓動と一緒に小さく打つ。大丈夫だ、と心の中で答える。俺は無言のまま、記者会見場へ向かって歩き出した。

 

ーーーー

 

記者会見場の空気が、わずかに変わった。

 黒いスーツの記者が、椅子を擦る音すら計算したようなゆっくりした動作で立ち上がり、細身のマイクを口元へ寄せる。照明が反射して、結んだネクタイの結び目が冷たく光った。

 

「質問です。――“悲劇のフライト”で多くの死者を出した、あの〈罪人〉リュウジの件について。あなたたちは、彼と共に行動していた。命の扱いが甘い人物と行動を共にすることに、倫理的な問題はなかったのですか? それとも、同じような無謀を肯定している?」

 

 会場のどこかで、誰かが小さく息を呑んだ。

 最前列でメモを取っていた記者のペン先が、わずかに紙を引っかく音を立てる。シャッター音が、ひと beat 遅れてぱらぱらとこぼれた。

 

「……待てよ、おい」

 

 最初に反応したのはハワードだった。椅子をがたんと鳴らして半歩前に出る。

「言い方、考えろ。ここは帰還報告の場だ。傷口をほじくるだけの質問が“仕事”かよ」

 

「ハワード」メノリが袖をつまんで制する。その顔は冷静で、しかし目だけは鋭い。「質問の筋が違う。今は我々の活動報告の説明の時間です。個人攻撃は控えてください」

 

「同感だ」カオルがマイクを引き寄せ、低い声で続けた。「操縦の判断は状況がすべてだ。断片的なラベルで語るのは、現場への冒涜だ」

 

「せや、アンタ今、“命の扱いが甘い”て言うたな」チャコが両手を腰に当てて前のめりになる。「甘いも辛いもあるかい。ウチらは毎回、歯ぁ食いしばって生き延びてきたんや。撤回せぇ」

 

「やめようよ……」シンゴが小さく首を横に振る。「ぼくら、帰ってきたばっかりなんだ」

 

「彼は――」ベルが、言葉を選びながらマイクに口を寄せる。「彼は“誰かを生かすために”、自分の身を削るタイプの人間です。少なくとも、ぼくはそう見てきた」

 

「そうよ」シャアラが頷いた。「無謀と献身は似ているけれど、同じじゃないわ」

 

 黒い記者は眉ひとつ動かさず、次の矢を番えるように言った。

「では、彼の“判断”の結果として死者が出た事実は、どう受け止めている? “似て非なる”と言い換えても、失われた命は戻らない」

 

 その言葉に、壇上の一角でルナの肩がぴくりと震えた。

 背筋を伸ばしたまま、彼女の指がマイクを握る手元でわずかに白くなる。顔は笑っていない。頬の筋肉が固まり、目の奥で、怒りと悲しみがあぶくのようにふくらんでいく。

 

(――やめて)

 

 心の奥で、別の声が言う。けれど、堰は上がっていた。

 

 「質問を変えましょう。“悲劇のフライト”で多くの死者を出した〈罪人〉リュウジ――あなたたちは、そんな人物と行動を共にした。無謀を肯定するのですか?」

 

 会場の空気がざらつく。浅い笑い、止まるペン先、間に合わないシャッター音。

 今にも飛び出しそうなハワード、メノリがそっと袖をつまんで止める。カオルは眉間に皺を寄せ、チャコは「言い方に気ぃつけぇや」と小声で毒づく。ベルもシャアラもシンゴも怒りに顔が歪む。

 そのとき――ルナの手が、コト、とマイクを引き寄せた。

 

「……貴方は“悲劇のフライト”の、何を知っているの?」

 

 声は震えていない。けれど、奥に沈む熱が会場の湿度を変える。記者の目が細くなった。

 

「公的記録、運航ログ、当時の公式発表、証言――取材はしています」

 

「数字と、切り抜かれた映像と、匿名の文字列のことですね」ルナは真っ直ぐに見据えた。「でも、貴方は知っているんですか? ――リュウジが、誰かの絶望と怒りと悲しみを一身に引き受けて、生きることが罪と言っていたリュウジの、その時の顔を」

 

 ざわ、と後列が揺れた。

 記者は息を吸い、淡々と反撃する。

 

「あなたは感情論に逃げています。亡くなった命は戻らない。私たちは“知る権利”のために――」

 

「“知る権利”は刃物じゃないわ」ルナは被せた。「向ける相手を間違えれば、ただの暴力になる。亡くなった方々を盾に、誰かひとりを的にして叩く快感を“正義”って呼ぶなら、そんな権利は最初から要らない」

 

 会場の空気が一段、熱を帯びる。ハワードが「言ってやれ」と小さく拳を握り、シャアラは胸の前で手を重ねる。

 記者は表情を変えず、冷静を装った声で問う。

 

「では、あなたは“真実”を語れるのですか?」

 

「ええ。――リュウジは“無謀”なんかじゃない。誰かを護るために、可能性がほんの僅かでもあるなら、燃え尽きても構わないって顔で、最後の最後まで救うことを選び続けた。それがどれほど苦しい選択か、あなたに想像できますか? 誰かが助かったという事実の裏で、助けられなかった人の重さ全部を、彼は自分で背負い込んでいるのよ。眠るたびに戻っていく。何度も、何度も。――それを、あなたは“無謀”って切り捨てるんですか?」

 

 記者は口角だけで笑い、首を傾げる。

「美談です。だが、検証と責任は別問題だ」

 

「責任、ね」ルナは一歩踏み出した。マイクがこすれてハウリングが短く鳴る。

「あなたに聞きたい。貴方は“悲劇のフライト”について、何を知っているの? ログの行間に挟まった沈黙を、誰かの泣き声の主の名前を、彼が“止まれ”じゃなくて“行け”を選んだ瞬間の意味を――一つでも、自分の言葉で語れるの?」

 

 記者の喉仏がわずかに動く。返す言葉を探す間、ルナはさらに畳みかけた。

 

「数字を読み上げるだけなら、誰にだってできるわ。けれど、現場は数字で動いていない。体温で、痛みで、責任で動いてる。あなたはその重さに、自分の舌の重さを足したことがある?」

 

 空気がぱん、と張り詰めた。

 黒い記者はそれでも退かず、声を低くする。

 

「……なら、その“真実”とやらをここで」

 

「悲劇のフライトはーー」

「――やめろ」

 

 低く短い声が、壇上の脇から差し込んだ。

 紙コップからふわりと立つ焙煎の香り。右耳に薄い肌色のテープ。リュウジが、いつの間にか通路を抜けて立っていた。彼はルナのマイクの網頭にそっと手を置いた。

 

 会場中の視線が一斉に吸い寄せられる。フラッシュが雪のように降り、黒い記者のペン先が止まる。

 

リュウジはルナのマイクにそっと手を添えて下げ、前列の黒いスーツを真っ直ぐに射抜いた。

「……相変わらずだな、カラス」

 

黒服の記者が片眉を上げ、唇の端だけで笑う。

「ええ。お元気そうで何よりです」

 

リュウジは振り返らず、紙コップをルナへ差し出した。

「飲んで、落ち着け」

ルナは小さく頷き、両手で受け取って一口。温度と香りが喉を通り、肩の強張りがわずかにほどける。

 

リュウジは再びカラスへ視線を戻す。

「もういいだろ。――このぐらいで手を引け」

 

一拍の沈黙。会見場の空気がたわむ。

カラスは肩をすくめ、気のない調子で答えた。

「ダンナには、ずいぶん儲けさせていただいてますからね。今日はこれで」

 

踵を返すと、黒い背中は他の記者の列に紛れ、音もなく消えた。

司会が慌てて進行に戻し、シャッター音がふたたび小刻みに鳴り始める。

リュウジは短く息を吐き、ルナのコップ縁を指でトン、と弾いた。

「大丈夫だ」

ルナは「うん」とだけ答え、もう一口コーヒーを含んだ。胸の鼓動が、ゆっくりといつもの速さに戻っていく。

 

「おいリュウジ! お前、コーヒー飲んでサボってただろ!」

ハワードが勝ち誇ったように指を突きつける。

 

「……うるさい。」

リュウジは短く返し、紙コップへ手を伸ばした――が、ひょいっとルナが紙コップを守るように動かす。

 

「コーヒーは今は我慢、ってさっき言ったでしょう?」

ルナが涼しい顔でコップを胸に抱える。リュウジは、観念したように一つため息を落とした。

 

「まったく……。」

メノリが安堵の笑みを浮かべ、肩の力を抜く。

 

その一瞬の緩みを、会見場のシャッター音が容赦なく切り裂く。連写の雨がさらに激しくなり、フラッシュが白い波のように壇上を洗った。記者たちの腕が一斉に伸び、林立するマイクの先が、今度は完全にリュウジへ向く。

 

司会者が慌てて整える前に、リュウジがすっと一歩前へ出た。

「質問は――一人だけ、受ける。」

低く、しかし会場の隅々まで届く声。ざわめきが一拍で収束し、司会者が最前列に視線を走らせる。

 

「では……そちらの、茶色いくせ毛の方。」

指名された若い男性が立ち上がる。襟元はやや無造作、手帳は使い込まれて角が丸い。どこか懐かしい空気をまとっていた。

 

「ご無沙汰してます、リュウジさん。」

落ち着いた口調に、リュウジはわずかに口角を上げる。

 

「久しぶりだな、フレデリック。」

 

周囲が小さくどよめく。記者席の一角で数人が「あのフレデか」と囁いた。かつて現場に足を運ぶ記事で名を立てた若手、フェアで辛辣――そんな評判が今も残っている。

 

「では端的に三点。まず――“魔のゾーン”を突破できた要因は何でしょう?」

 

ざわめきが薄く広がり、すぐ静まる。リュウジはマイクを受け取り、言葉を選ぶように短く息を吐いた。

 

「要因は一つじゃない。まず、ネフェリス――最新鋭の宇宙船のポテンシャルがあった。こちらの想定以上に働いてくれた。次に、周りの援護。宇宙管理局、火星管理局、探索機スターフォックス達のおかげだ。そして――」

 

彼は振り返り、列をなす仲間の顔を順に見渡す。ルナ、メノリ、カオル、ハワード、ベル、シャアラ、シンゴ、そしてチャコ。

「ここにいる全員の“生き抜く力”が噛み合った。“操縦士”一人で抜けたわけじゃない。あれは、全員で持って抜けた。」

 

最前列の記者がペンを止め、客席の何人かが小さく頷く。ルナは胸の前で手を握り、微笑みを堪えるように視線を落とした。チャコが小さく親指を立て、ハワードが鼻をこする。

 

フレデリックは続ける。

「ありがとうございます。二点目――踏破データの提供について。貴重な生還データです、公開の予定は?」

 

会場の空気が再び前のめりになる。リュウジは即答しなかった。数秒の沈黙ののち、淡々と。

 

「必要に応じて対応する予定だ。救難、安全確保、管制の目的で求められるなら、相応の形で提供する。ただし――“魔のゾーン”では、固定の航路という概念がほとんど意味を持たない。潮のように重力井戸が移ろい、群泳する隕石の群れは同じ顔で二度は来ない。生半可な“ルート公開”は、むしろ危ない真似を誘発する。」

 

チャコが補うように身を乗り出す。

「うちのログでも、時系列の位相が秒単位でズレとる。『この角度、この速度が正解』みたいな出し方は、クルーを危険に晒す可能性が高いんや。」

 

リュウジが頷く。

「だから“悪戯(いたずら)に公開するつもりはない”。必要なところに、必要な粒度で。――それが答えだ。」

 

フレデリックは短く「了解」と記し、最後の紙面をめくった。

「三点目――あなたはこれからも“宇宙飛行士”を続けますか?」

 

会場の空気がきしむ。レンズが一斉に絞りを変え、シャッターが先走って数枚切られる。仲間たちも息を飲んだ。ルナがわずかに顔を上げる。

 

リュウジはフレデリックを正面から見据え、表情を引き締める。

「――ノーコメントで。」

 

短い。だが、その一言の温度が会場全体に伝播した。軽いはずの言葉が、重心を持って落ちる。司会者が慌てて「本当に最後の質問でした、以上で終了です」と締めに入ろうとするが、記者席の数人が思わず手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。

 

沈黙ののち、フレデリックは微笑だけを返し、深く一礼する。

「十分です。ありがとうございました。」

 

リュウジも一つ頷く。その瞬間、壇上の背後でチャコが小声で言った。

「……ええ顔しとったで、リュウジ。」

 

ルナは胸元でコーヒーの紙コップをそっと握り直し、誰にも聞こえない小ささで呟く。

「――ありがとう。」

 

拍手が起き、フラッシュが白くまたたく。会見は終わりへと滑り出し、だが会場に残ったのは、三つの答えよりも、ひとつの未回答が放つ余韻だった。ノーコメント――その先にある進路は、誰の航路にも書かれていない。けれど、彼らの足取りは揃っていた。帰ってきた者たちが、次に向かうべき場所を、これから一緒に決めるために。

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