サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第38話

壇上を降りる足音が、拍手とシャッター音に吸い込まれていく。照明の熱がまだ肌に残る通路で、リュウジはまっすぐ近寄ってくる男に視線を向けた。

「……フレデリック」

「ご無沙汰しています、リュウジさん」

 

二人は短く笑い、力強く握手を交わす。掌の圧だけで、互いがこの数分で交わした幾つもの言葉の続きを分かち合えた気がした。

 

フレデリックが「紹介したい方が」と半歩退く。その背後に――黒いスーツを着飾っている、忘れもしない顔。

「タツヤ班長……? それに――」

 

人混みの向こうから、落ち着いた灰色のスーツに緑色の髪を束ねた女性が一歩進み出た。

「久しぶりね、リュウジ」

「……エリンさん……?」 

 

声帯が追いつくより先に、視界が滲んだ。悲劇のフライトの報告書では、彼女の欄は意識不明のまま。あのとき自分が守れなかった、もう二度と会えないと飲み込んだ名前が、今ここで音になった。

「意識が戻ったんですね……エリンさん……!」

「ええ。運が良かった。それと、あなたがあの時に“無茶”を選んだから、私の運は繋がったの」

 

言葉が続かない。エリンは笑って、涙が頬を伝う――震える彼の肩に、静かに手を置いた。

「戻ってきてくれて、ありがとう」

「……ただいま」

 

タツヤ班長が、一歩前に出た。

「まずは、詫びを言わせてくれ。班長として、お前を守り切れなかった。調査の過程で声を上げたが、経営陣は“英雄神話”にも“スケープゴート”にも依存していた。どちらも、現場の真実から目を逸らすためにな」

「班長のせいじゃありません。俺も黙って背負い込んだ。結果、誰のためにもならなかった」

「……そう言ってくれるな」

 

「重かったでしょう。あの夜から今日まで、ずっと」

 

肩越しに落ちる彼女の声は、薄いガラス越しの灯りみたいに静かで、確かな温度があった。リュウジは一度だけ瞬きをして、乾いた喉で言葉を整える。

「……生きてた、って聞けただけで、だいぶ軽くなりました」

「ふふ。そう言える顔になってる」

 

タツヤ班長が続ける。

「ドルトムント財閥のことは気にしなくていい。……それと、困っていることがあれば言え。出来ることは何でも」

「そこまで甘える気は――」

「こういう時に甘えんのが“組”だろ?」

エリンが肘で班長の脇腹をつつく。「言い方が昭和」

「うるさい」

 

その光景を、少し離れた場所からルナが見守っていた。青白い会見場の照明に、彼女の横顔が柔らかく縁取られる。

(よかった。本当によかった)

胸の奥でそっと呟いて、ルナは微笑んだ。

 

 

会場の反対側では、別の小さな輪ができていた。ルナとチャコを、仲間の家族たちが取り囲む。

「本当にありがとう。あなたがいてくれたから、うちの子は――」

「ウチはなんもしてへん。みんなの力や」

チャコが照れ隠しに耳を掻くと、笑いがこぼれる。ルナは一人ひとりの視線を正面から受け止め、小さく首を振った。

「みんなで帰ってきました。私一人じゃ、きっと無理でした」

 

そこへ、体格のいい男が前に出た。ハワードによく似た目元に、重ねた歳月の穏やかさと剛毅さ。

「私はハワード・クルーズだ。ルナ君、君には息子が世話になった。……それから、奨学金の家の件だが――」

 

ルナの背筋が少しだけ硬くなる。

「手続き上、どうしても確認がいる。一週間だけ、時間をいただきたい。」

「……ありがとうございます。助かります」

 

「だったら今日は、うちに泊まって!」

シャアラが食い気味に手を挙げる。

「いや、うちが預かる。お父様も『ぜひ』って」

メノリも歩を進めた。

「ありがとう。だけど――」

「“だけど”じゃない!」とメノリは早口になる。「奨学金も止まって、一体、どうするつもりだ――」

「私の家でもいいから!」とシャアラも引かない。「ベッド空いてるの。朝食は任せて!」

「いや、そういう問題じゃ――」

「そういう問題よ!」

 

押しの強さに押され気味のルナは、それでも笑って首を振る。

「二人とも、ほんとにありがとう。でも、今日は“家族の夜”でしょ。やっと会えたんだもの」

「でも、ルナ……」

「心配いらないわ。どうにかなるから」

 

シャアラとメノリがなおも食い下がろうとしたその時、背後から涼しい声。

「何があったんだ?」

 

 輪が自然に割れて、リュウジが合流した。

「ルナの家が奨学金の件で、一週間、使えないらしい」

 合流したリュウジに近づいたカオルが顛末を呟いた。

 

 先ほどまでの熱をわずかに残した目で一同を見回し、状況を一瞥で飲み込む。

「手続きが片付くまで、――なら、俺のところに来い。場所はソーレ・デッラ・ルーナから近い」

 

「えっ……!」

シャアラが素で声を上げ、メノリも目を丸くする。ハワードは「へぇ」と口笛を飲み込み、チャコは腕を組む。ベルとシンゴは「それがいい」と頷いた。

「お、お前……そういうことは、もっと、こう……」とカオルが珍しく言いよどむと、リュウジは肩をすくめた。

「言わなきゃ分からんだろ。――少し待っててくれ。ネフェリスのシステムを完全に落としてくる。」

 

踵を返し、彼はルナに背中を向けたまま。

「あとで迎えに来る」

「……うん」

 

ほんの二音の約束。それで十分だった。リュウジは人の波を縫って歩き出し、背中が照明に吸い込まれていく。

 

「……なぁルナ、ええんか?」

肩の上に乗ってきたチャコが小声で聞く。

「ええ」

ルナは頷いた。頬に灯る朱が、照明の反射だけではないのを、チャコはちゃんと知っている。

「顔、ゆるんどるで」

「も、もう……!」

ルナは赤く染まる頬を両手で添えた。

 

ーーーー

 

やがて、ネフェリスの方向から、落ち着いた足音が戻ってきた。

「お待たせ」

リュウジが片手を軽く上げる。

「全部切った。ログもローカルに退避、外部には遮断。鍵もかけた」

「用心深いのは相変わらずやな」

「サヴァイヴの方が文明が進んでる。悪戯でもされたら大変だ。」

 

「じゃあ、行きましょうか」とルナが立ち上がる。

その一歩に、シャアラが寄り添う。

「困ったら、すぐ言って。いつでも私の家においで」

「ありがとう、シャアラ」

メノリも肩を叩く。

「家族は、血縁だけじゃない。忘れるな」

「うん」

 

「ルナ、荷物は?」

「一回、家に寄ってもいい?」

「ああ」

 

そう言ってルナは背中のリュックをギュッと握る。チャコはルナの肩にちょこんと座り直した。

「みんなまた、学園でね!」

「気ぃつけて帰るんやで!」

ルナとチャコが声をかけ、手を振る。

仲間たちからの声が、聞こえ、やわらかい背風になる。

 

ルナは、リュウジの歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。彼の横顔には、任務前の硬さではなく、帰還後の静かな決意が宿っている。

(“ただいま”は言えた。――次は、“おかえり”を重ねていく番)

 

ソーレ・デッラ・ルーナの光の帯に向かって三つの影が伸びる。ひとつはまっすぐ、ひとつは少し弾んで、ひとつは肩の上から揺れて。

 

ーーーー

 

エアタクシーのドアが横にスライドして、柔らかな誘導灯が足元を照らした。三人が乗り込むと、無機質なのにどこか眠たげな女性の声が頭上スピーカーから降ってくる。

「ご乗車ありがとうございます。目的地をお知らせください」

 

ルナが身を乗り出し、落ち着いた発音で住所を告げる。AIは短く復唱し、「最短航路を計算中……完了。所要時間、七分」と告げると、機体は磁気レールへふわりと滑り、夜の風を切りはじめた。ビル街の光が窓を帯のように流れ、地表の広告パネルが、瞬きをするたび別の色に変わる。

 

「――俺が声をかけなかったら、どこに泊まる気だったんだ?」

 

沈黙を破ったのは、前席のリュウジだった。窓の外に視線を置いたまま、振り返らない低さで問う。

 

「……漫画喫茶とか、かな」

ルナは苦笑して両手を膝にそろえる。言ってみて、自分でも驚くほど自然に出た返事だった。

 

リュウジは短く息を吐き、呆れたように額に手をやる。

「はぁ……」

 

「せやけどなぁ」チャコがルナの肩に腰掛けながら、くいっとアゴを上げた。「サヴァイヴでの生活を考えたら、コロニーやったらどこでも生きていけるやろ。屋根があって壁があって、雨風しのげたら御の字や」

 

「皆の家族の時間を邪魔するのは悪い、って気を遣ったんだろ」

 

ぽつりと落ちたリュウジの言葉に、ルナは反射的に顔を上げた。

驚きが胸の奥で小さくはじける。見透かされている――そう気づいて、思わずくすりと笑ってしまう自分がいた。

「……うん」

 

「まぁ、いいさ」

リュウジはそれ以上、何も足さない。窓の外に視線を戻し、街の光の流れにピントを合わせる。夜航路のガードビームが、まっすぐに遠くへ伸びていた。

 

機内の空気が、短い静けさを孕む。磁気リニアのわずかな唸りと、足元を流れる空調の音。ルナは両手を握り、言葉を選ぶように唇を開く。

 

「あの……さっき、悲劇のフライトのことを聞いてきた記者。誰なの?」

 

「――ああ、あいつは《カラス》って記者だ」

リュウジはやっと視線を外し、ルナの目を見る。瞳の奥に、警戒ではない冷たさがひとかけら差し込む。

「悲劇のフライトの時、俺をいちばん早く吊し上げた。真意なんかより、金の匂いがする記事を書く。汚い、強欲の記者だ」

 

「なんて人なの……」

ルナの表情がぎゅっとこわばる。胸の奥でこみ上げる熱に、言葉が少し震えた。

 

「悲劇のフライトは、あいつにとって“ただの金儲けの絶好の機会”だった。――それだけだ」

 

「……人の不幸を!!」

握った拳に力が入る。あの会見場で喉元まで上がった怒りが、再び息を吹き返しそうになる。

 

「そう怒るな」

静かな制止。声は低いのに、芯がある。

「カラスは、人の本心を聞くために、あえて煽るタイプだ。嫌われる角度からでも、心の蓋をこじ開ける。そういう手腕は、本物だ」

 

「そら、ルナには相性最悪やな」チャコが肩をすくめる。「正面からぶつかったら、どっちも譲らん。ほな、火花散るで」

 

ルナは唇を噛み、ゆっくり息を吐く。サヴァイヴで覚えた“荒い呼気を整える”癖が、ここでも役に立つのが少しおかしかった。

「……気をつける」

 

リュウジは短く頷き、言葉を置き直す。

「それと。――悲劇のフライトの“真実”は、誰にも言うな」

 

「え? どうして?」

問いは素直だった。あの夜、精神世界で父とルイに会わせてもらった時に感じた“言葉の重さ”が、喉に引っかかる。

 

「ドルトムント財閥が黙っていない」

言い切る声。

「お前の身に、何が起こるかわからない。俺だけの問題に終わらない」

 

車内の灯りが、ルナの指先の震えを薄く照らす。

「……わかった」

少し寂しげに、それでもはっきり頷いた。秘密は、重い。けれど、守る相手がいるなら、その重さごと抱えて歩ける――サヴァイヴで学んだのは、そういうことだった。

 

リュウジが視線を外に戻す。その横顔を、ルナは横目にそっと盗み見る。彼の優しさを知ってしまったからこそ、胸がまたきゅっと縮む。

 

「代わりに、覚えとけ」

窓の外に向けたままの声が、静かに続く。

「俺が悲劇のフライトを終わらせる。その時はお前に最初に言う」

 

ルナは体の芯からふわりと温かくなるのを感じ、思わず笑みがこぼれた。

「……うん。待ってる」

 

「よっしゃ、それでええ」チャコがぱん、と小さく手を叩く。「せやけど防御は固めとこ。カラス対策、質問が来たら“記憶が曖昧で”で押し通す。ええな?」

「ええ……がんばる」

「“がんばる”やのうて“やる”や」

 

「お客様、まもなく目的地に到着します」

AIの声が少しだけ明るくなる。窓の下に、低層の住宅街と疏水の暗い筋が見え、その向こうに淡い明滅を繰り返すマンションの受信灯が現れる。

 

リュウジは座り直し、ルナにだけ聞こえる小ささで付け足した。

「それと。漫画喫茶は、次から却下だ」

 

「ふふ……了解」

ルナは肩の力を抜いて頷く。サヴァイヴの夜、焚き火のそばで覚えた“力の抜き方”を、コロニーの夜にも少しだけ持ち込めた気がした。

 

機体が減速し、無音で着地する。ドアが開く前、三人は短く視線を交わした。言葉より早く、通じる合図がある。サヴァイヴで生き延びた仲間たちの間には、もうそれが根づいている。

 

ーーーー

 

エアタクシーの扉がスライドし、夜気のひやりとした匂いが乗降口を満たした。

「ちょっと待ってて」

ルナが振り返り、チャコを肩に乗せたまま小走りでエントランスへ。自動ドアの向こうに吸い込まれていく背を、リュウジは「おう」と短く返事して見送った。

 

人工風が頬をかすめる。風向きを制御するルーバーの低い唸りが耳に気持ちよく、ふと物足りなさが喉の奥に転がる。――コーヒー。けれど、さっきの「コーヒーは今は我慢」の声が頭の中で再生されて、リュウジは苦笑した。

「ったく……」

近くの自動販売機へ歩く。光の粒が縦に並ぶパネルの前で躊躇したのち、黒い缶の列から視線をずらし、無色透明のボタンを押す。落下音。取り出し口の冷気に指先が冷える。キャップをひねると、涼やかな破裂音。ごくり、喉を鳴らして一息に半分飲む。味気ないはずの水が、今はやけに身体に染みた。

 

駐機帯の隅で、しばし待つ。空中車線を走るエアタクシーの灯が、雲に淡い筋を描いては消える。ほどなくして自動ドアが再び開き、リュックを背負ったルナが小走りで現れた。肩の上でチャコがひょいひょいとバランスを取っている。

「遅くなって、ごめんね」

「それだけで足りるか?」

「……うん」

素直に頷く顔に、むっとしていたはずの頬が、なぜか緩む。リュウジが乗り口へ向き直ると、ルナの視線が彼の手元に落ちた。

「えらい」

水のボトルを指して、いたずらっぽく笑う。

「……監視が厳しいんでね」

肩をすくめて返し、三人はふたたびエアタクシーへ滑り込んだ。

 

行き先を告げる。AIの合成音が航路を読み上げ、機体は音もなく浮上した。窓の外、夜の都市は規則正しい心拍のように明滅し、交差する広告光が流星みたいに尾を引く。

「間もなく右旋回。所要時間、約十五分」

「了解」

リュウジは短く返し、残りの水をちびちびと口に運ぶ。ボトルの結露が指先にまとわり、そこだけ現実感が濃い。

 

十五分は、案外短い。

「到着します」

機体が緩やかに高度を下げ、ハニカム状の誘導灯が広がるポートへタッチダウンする。ドアが開いた瞬間、見上げるほどのマンションが夜空を背に立っていた。

「す、すごいわね……」

ルナの感嘆が漏れる。眼前の建物は全面ガラスの曲面が織りなす塔で、フロアごとに植栽のテラスが張り出している。

「流石やな……こらハイグレードやで」

チャコが口笛を噛み殺す。

 

支払い処理を端末で静かに済ませ、リュウジは見上げたまま固まっている二人へ肩越しに声を投げた。

「何してるんだ。入るぞ」

「あ、うん」

二人は慌てて後を追う。広い車寄せには水の匂い――壁泉のせせらぎ。床は薄い灰の大理石で、靴音が上品に反響する。フロントのコンシェルジュは軽く会釈だけして、余計な言葉を挟まない。こういう場所の“空気”を、建物そのものが心得ている。

 

「居住者用ゲート、開きます」

低い電子音。虹彩認証のわずかな光。ゲートが左右に分かれて、奥へまっすぐ延びる廊下が露わになる。ルナは無意識に背筋を伸ばして、チャコは肩の上でちょこんと正座めいた姿勢になる。

「緊張せんでええのに、なんか、空気がしゃんとするから……」

 

エレベーターホール。床材が変わり、足裏の感触も滑らかさを増す。鏡面の扉に、自分たちの姿が淡く映る。呼び出しボタンの小さな白が灯り、すぐに「ピン」と澄んだ音が返ってきた。

「そういえば」

乗り込む直前、ルナが思い出したように口を開いた。

「エアタクシー、半分払うわ」

「いい」

「でも……」

「ええやん、ここは甘えとき」チャコが先に乗り込みながら言う。「サヴァイヴからの帰還ボーナスや、受け取りや」

「チャコ!」

「事実やろ」

 

エレベーターの扉が開く。ステンレスの内装に薄い木目が走り、間接照明が角に柔らかく沈む。乗り込む三人。ドアが閉じ、無音で上へ滑る。

「気にするな」

降り際、リュウジが振り返りもせずに言った。口元だけが、ほんの少し笑っている。

「……もう。ありがとう」

ルナは小さく頷き、その笑みに応える。胸の奥の緊張がふっとほどけ、肩の上のチャコが「ほれ、ええ顔や」と囁いた。

 

到着の音が鳴る。扉が左右に分かれ、その先に落ち着いた色調の廊下が延びていた。厚手のカーペットが足音を吸い、壁のアートライトが静かな陰影を落とす。リュウジが先に歩き、角をひとつ、またひとつ。ルナは歩きながら、少しだけ首を傾げる。

――ここに、泊まる。

その実感が、ようやく肌に降りてくる。コロニーの夜の匂い、乾いた空調、遠くで鳴る交通管制の低い脈動。サヴァイヴの焚き火の温度とは違うけれど、心を落ち着ける何かが確かにここにもある。

 

「ここだ」

リュウジが立ち止まり、ドアパネルに指を当てる。認証の青がすっと走り、電子錠が静かに解錠された。

振り返った横顔に、ルナは小さく微笑む。さっき自販機の前で見た「水の選択」が、胸のどこかをくすぐる――くだらないのに、嬉しい。

「ただいま、って言ってもいい?」

つい口から滑り出た言葉に、リュウジは一呼吸だけ間を置き、目尻だけで笑った。

「好きに言え」

「……ただいま」

「おかえり」

チャコが肩の上で「ウチもやで」と胸を張り、三人は扉の向こうへ歩みを進めた。

 

ーーーー

 

ドアが静かな電子音とともに横へ滑り、三人は白い玄関土間に足を踏み入れた。ほのかに乾いた空調の匂い。間接照明が低い位置から壁を撫で、陰影だけが室内の輪郭を描いている。

 

「荷物は適当に置いてくれ」

リュウジが振り返らずに言う。

 

「ありがとう」

ルナはきちんと靴を揃えてから、リビング脇の椅子にリュックをそっと置いた。チャコは肩の上からぴょこんと床へ飛び降り、ぐるりと一巡見渡してから鼻を鳴らす。

 

「ええとこ住んどるけど……なんもない部屋やな」

その言葉どおり、置いてあるのはガラスのローテーブルと落ち着いたグレーのソファ、壁面の薄いテレビ、それだけ。飾り棚は空っぽで、観葉植物の影もない。

 

「リュウジらしい気もするけど」

ルナがクスッと笑い、指先でカーテンの縁をつまむ。「でも、かえって落ち着くかも」

 

チャコがソファの背にぴょいと上がり、足をぶらぶらさせた。

「ここ、高いやろ」

 

「さあな。あんまり気にしたことがなかった」

キッチンのカウンター越しに、リュウジが肩だけ動かす。

 

「気にしたことないって……」

ルナは苦笑い。彼の“らしさ”が、こういう無頓着さにも滲んでいる。

 

「パイロットなんてそんなもんだ。家にいる時間の方が短いからな。それに報酬も高い。考えたこともない」

リュウジはそう言って、ソファではなくダイニングの椅子に腰を下ろした。ライトの輪の外に座る姿は、どこか仮の住人のようでもあり、この空間の芯のようでもある。

 

「疲れただろ。先に風呂にでも入ってこい」

 

「ううん、リュウジが先に入って。ここはリュウジの家だもん」

ルナが微笑み、チャコも腕を組んでうんうんと頷く。

 

「せやで。気にせんでええ」

 

「そうか。すぐ戻る」

クローゼットを開け、手早く着替えを抜き取る。扉が閉まる音、足音が奥へ遠のいて、浴室の方で水の走る気配が始まった。

 

一息、静けさが降りる。ルナはソファに腰を下ろした。弾力のあるクッションが背に沿って沈み、長い息が自然とこぼれる。窓の向こうにはコロニーの夜景。規則正しく明滅する誘導灯の列、空中回廊を滑る小さな光の点。サヴァイヴの星空とは違う。けれど、ここもまた、確かに「帰ってきた」と胸に教える光だ。

 

「……ただいま」

誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟く。閉じたまぶたの裏に、仲間たちの顔が浮かぶ。メノリの安堵、カオルの不器用な笑み、シャアラの涙、ハワードの大声、シンゴのはにかみ、ベルの肩の温もり、チャコのからかい――そして、操縦席越しに見た、あの横顔。

 

「ふふ。ええ顔しとる」

ソファの肘に腰かけながら、チャコが覗き込む。ルナの睫毛の影が、ゆっくり長くなる。

 

「ちょっとだけやで。起きたら風呂、入ったらええ」

チャコは声を潜め、ソファ脇のスローケットを引き出して、そっと膝から足首へ掛けた。ルナの指先が毛布の端を無意識に摘む。呼吸が、浅く、整い、規則正しくなる。

 

――シャワーの音が止む。小さな金属音、タオルの布擦れ、足音。

 

リュウジが戻ってきたとき、リビングは音の気配まで柔らかく変わっていた。ソファではルナが横向きに丸くなって眠っている。チャコが人差し指を口の前に立てて「しぃ」とやる。

 

「寝たか」

囁き声。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、視線だけが止まる。毛布から覗いたルナの頬に、帰還の疲れと、安堵と、幼い無防備さが同居している。さっきまで張りつめていた眉間のこわばりは消え、呼吸は静かな波のようだ。

 

「……移動するぞ。少し我慢してくれ」

 

囁くと同時に、彼は両腕を回した。片腕を膝裏、もう片方を肩の下へ。体重のかかる角度を確かめ、呼吸を合わせるように――お姫様抱っこで抱き上げる。

驚くほど軽かった。宇宙服ではない、素の体温と重さが腕に移る。ルナの頭が胸にころりともたれ、吐息がTシャツをかすかに温めた。

 

「ん……」

 

かすかな声。眠りの底から浮かび上がりかけて、また沈む。リュウジは足音を殺し、廊下を抜けて寝室へ向かった。ドアを肩で押し開け、枕元の照明を最低に落とす。柔らかな白が、ベッドの輪郭だけを残した。

 

そっと寝かせ、頭の位置と肩のラインを直す。掛け布団を胸まで引き上げ、シーツの皺を手の甲で撫でて整える。空調の温度を一度上げて送風を弱に――習慣の一連を無意識に終えると、枕元に小さなボトルの水を置いた。ラベルが触れ合う小さな音に、ルナの眉がわずかに解ける。

 

「……おやすみ」

 

声に出すと、言葉が薄い光に溶けて部屋に馴染んだ。ドアを半ばまで閉め、隙間を残してリュウジはリビングへ戻る。

 

冷蔵庫を開けると、白い冷気が足元へ流れた。手前の段からミネラルウォーターを一本、奥からフルーツジュースの紙パックを一本、まとめて引き出す。扉を膝で閉めながら振り向き、ソファに座っていたチャコに視線を投げる。

 

「ほい」

 

軽く下手投げで紙パックを放る。チャコは片手――いや前脚――で器用に受け取り、ストローをチュッと突き刺した。

 

「気ぃ利くやん」

「寝かせた」

 

「見とった。抱えとる時の顔、優しかったで」

チャコはストローをくわえたまま目を細める。果実の甘い匂いが空調に混じった。

 

リュウジは水のキャップを回し、喉へ流し込む。冷えた水が食道をすべって胃の奥に落ちた瞬間、強張っていた肩の筋肉がふっと緩む。一本飲み切ってから、もう一度キャップを閉め、キッチンの天板にコトリと置いた。

 

「……チャコ」

 

「ん?」

 

「ルナのおかげで、今がある。あいつがいなかったら、俺はどっかで立ち止まったままだったかもしれん」

 

チャコはストローをゆっくり引き抜き、紙パックを指で軽くつまむ。音が小さく鳴った。

 

「せやな。ウチもそう思う。あの子、おっきいもん背負って、でも笑って前に押してくれるやろ。ウチら全員、何回あの笑顔に助けられたか分からん」

 

「助けられたのは俺が一番かもな」

リュウジが、珍しく自分を茶化すように笑う。頬の力が抜け、視線は知らず寝室の半開きの戸へ吸い寄せられていた。

 

「魔のゾーンも、最後の判断も、結局は誰かの顔が背中押すんや。ペルシアもフォックスも、もちろん仲間も。でも、舵を切る瞬間に浮かぶのは、だいたい決まっとる」

 

チャコが片眉――に相当するセンサー部を上げる。

「ルナやろ?」

 

「……ああ」

 

肯定は短く、けれどはっきりと。

沈黙が落ちる。悪くない重さの沈黙だった。冷蔵庫のモーター音と、遠い空中回廊の低い唸りだけが、一定のリズムで部屋に流れ続ける。

 

「それにな。あいつが“最後まで生き抜け”って言ったから、俺もそこに合わせて身を削った。神経応答の深層に踏み込んだのも、後悔はしてない」

 

「鼓膜までやっとったけどな」

チャコがわざとらしく咳払いをし、紙パックを掲げる。「まぁ、ウチはウチで限界近かったけど。……けど、こうしてジュース飲めとる。つまり、今は『生きてる』っちゅうことや」

 

「そういうことだ」

リュウジは短く笑って、テレビの電源を入れないまま黒い画面に自分とチャコの影を見た。ふたつの影の向こう、寝室の戸の隙間から、均一な寝息がかすかに届いてくる。確かなリズム。帰還の証明。

 

「ありがとな、チャコ」

「なんや急に」

「いや、さっきの操縦も、お前の読み上げがなかったら詰んでた。――そして、何より。あいつを笑わせてくれるのは、お前の役目が一番多い」

 

チャコは照れ隠しのように肩をすくめ、ストローをくわえ直した。

「ウチはウチのやれることやっとるだけや。……でも、リュウジ。礼言う相手、もう一人おるで」

 

視線が自然に寝室へ向く。答えは要らなかった。

 

チャコは小さく親指を立てた。

「ほな、リュウジもちょい休め。耳も、な」

 

「聞こえてる」

「聞こえすぎるんやろ、それ」

 

言い返さずに笑って、リュウジは照明をさらに落とした。廊下に細い光の帯だけを残し、寝室の隙間からこぼれる呼吸のリズムに、もう一度だけ耳を澄ます。

 

チャコが紙パックを振って見せる。「おやすみ前の一杯は完了や」

 

「飲みすぎるなよ」

「だれに言うとる」

 

小さなやり取りが、夜の表面張力を乱さない程度に弾んで、すぐに静けさへ戻る。

リュウジは寝室に目を向けながら、ポツリと呟いた。

 

「……ありがとな、ルナ」

 

声にしない口の動きで、感謝だけを置いてくる。

戸を同じ隙間の角度に戻し、リビングの椅子に腰を下ろす。背もたれへ体重を預け、コーヒーの代わりに残るのは、冷えた水の涼しさと、ジュースの甘い匂い――そして、生きて帰ってきた夜の気配だった。

 

ーーーー

 

カーテンの隙間から、やわらかな朝の光が木の葉を透かして差し込んでいた。葉の影が天井に揺れて、波のように部屋を静かに撫でていく。

ルナはゆっくりと瞬きをして、見慣れない白い天井を見上げた。鼻先をかすめるのは、金属と石鹸と、どこか懐かしい――リュウジの匂い。胸の奥がふっと温かくなり、昨夜の記憶がほどけて戻ってくる。お風呂から上がってくるのを待つつもりが、いつの間にかソファで眠ってしまった。ここはリュウジの家。そう思うと頬まで熱がのぼるのがわかって、思わず枕に顔を埋めた。

 

「……よし」

 

ルナはベッドから身を起こし、シーツの皺を手の甲で丁寧に伸ばした。枕を二度、三度ポンポンと叩いて形を整えると、小さく満足の息を吐く。寝室の扉に向かい、指先でノブを回してノック代わりに軽く叩いた。

 

「チャコ?」

「なんや? 起きたんか、ルナ」

 

扉の向こうから、少し掠れた、けれど変わらない調子の声。安堵が胸に広がり、ルナはそっと扉を開けた。

 

「おはよう、チャコ」

 

リビングのローテーブルの端で、チャコがストローをくわえていた。フルーツジュースの紙パックが二つ、三つ、いや四つ。床には段ボール箱が積み上がり、色とりどりの果物の絵がこちらを見ている。

 

「おはようさん。それにしても――」チャコがじっと見上げて、片方の“耳”をぴくりと動かす。「――えらい寝癖やな」

 

「え?」ルナは咄嗟に窓ガラスへ駆け寄り、映る自分の頭を見て固まった。後頭部が見事に跳ね上がって、草原に突き立てた小さなアンテナのようになっている。慌てて両手で押さえ込む。

 

「だ、大丈夫かな、これ……」

「安心せぇ、リュウジはおらへん」

 

「そ、そうなの?」手を止め、肩から力が抜ける。こんな姿、見られていたらと思うだけで耳まで熱い。ルナは胸に手を当てて、ふうっと息を吐いた。すると、チャコがストローを鳴らして、のどを潤しながら言った。

 

「昨晩な――」

 

そこで、チャコは短く昨夜の続きの出来事を語りはじめた。

 

 

ルナが眠りに落ちて、しばらく。

クローゼットの扉が、静かな音を立てて開いた。チャコはテレビの暗い画面に映るリュウジの背を横目で追いながら、体を半分だけそちらへ向ける。

 

「どこか行くんか?」

 

「少し出てくる」リュウジは手早く黒いパンツに薄いグレーのシャツを通し、袖口を二折りにして留めた。視線は落ち着いていて、急いでいるのに雑ではない。クローゼットから出した紙袋に何着か畳んだ服を入れると、肩で扉を閉める。その動作の途中で振り返った。

 

「ルナのICカード、あるか?」

 

「ICカード? ちょい待ち」

チャコは小さな前脚でルナのリュックを器用に漁り、透明スリーブに入ったカードをつまみ上げる。写真の中のルナが、少しあどけない笑顔でこちらを見ていた。

 

リュウジは自分のカードを重ね、端子が触れ合う乾いた音をひとつ鳴らした。「ほら」すぐにチャコへ返す。

「一万ダール入れといた。ここにいる間、好きに使え」

「い、いちまん……ダール?」チャコの声が半音上ずる。

「多すぎやろ」

「足りなきゃ言え」

「さらっと言うなや……」

 

リュウジは短く笑い、分厚い冊子をテーブルに置いた。「ルームサービス。ここに頼めば何でも持ってくる。食べ物、日用品、替えの衣類、薬――必要なものは全部だ」

 

「ええんか? そんな気ぃ遣わんでも」

「ああ」リュウジは靴をつま先で履き込み、踵を鳴らしながら玄関に向かう。

 

金属の噛み合う音がして、扉は静かに閉じた。

残されたチャコは、数秒だけそのドアを見つめたあと、視線をゆっくりとテーブルの冊子へ落とす。ページをめくるたび、鮮やかな写真が咲いては流れた。

十秒、二十秒――。

「……ふむ」

 

次の瞬間、チャコはソファからひらりと飛び降り、段ボール受け取り用のインターフォンへ駆けていった。

 

 

「い、一万ダール!?」ルナは素で声を上げた。慌ててリュックを引き寄せ、ICカードを取り出して確認する。青いライトが走り、残高が浮かんだ。

 

「……九千ダール?」

 

桁違いの数字に目が泳ぐ。千ダールぶん消えている。

「おかしいな」と小首を傾げた瞬間、ふと視界の端に積まれた段ボールが映った。立派な印刷、金色の箔押し――〈極撰・太陽果樹園 プレミアムミックス〉×五箱。

 

「チャコ。あなた、まさか……」

 

「ひっ」チャコの肩――にあたる部分がぴくりと跳ね、ストローの先が空を切った。「ええやん、ええやん……」と苦笑いを貼り付け、慌ててジュースを吸う。

 

「どうするのよ! 一千ダールも使って!」

「好きにつこうてええ言うてたし。だ、大丈夫やろ?」

「そういう問題じゃありません!」

「ま、まぁまぁ落ち着き――」

 

「落ち着けるわけ――」と言いかけて、ルナは勢いを止めた。叱る言葉が喉で丸くなって、溶けていく。

 

「……もう。後でちゃんと、謝るのよ」

「うむ。箱の一つくらいはリュウジに献上しよか」

「そういう問題――は、半分くらい解決するかも。ううん、やっぱりちゃんと謝る」

「さすがや、ルナ」

 

チャコがほっと笑ってストローを鳴らす。ルナは深呼吸を一つして、前髪の跳ねを手で押さえた。その指先に、まだ微かに残る寝癖の弾力。ふと胸がざわつく。――このままじゃ、さすがに笑われる。

 

「そんなことより、先にお風呂、入ってきたらどうや?」とチャコ。「リュウジに見られたら、絶対に“アンテナ”言われるで」

「う……それは絶対にイヤ」

 

ルナは観念してリュックを片手で持ち上げた。「仕方ないわね。チャコ、後でちゃんと話すから」

「はいよ。ゆっくりしてき」

 

バスルームへ向かう足取りは、どこかトボトボとしていて、けれど軽かった。

廊下の途中、ふとテーブルの上の冊子に目が止まる。分厚いルームサービスのメニュー。どのページにも、色鮮やかな果物や温かそうなスープ、焼き立てのパン、清潔なタオルの写真。ページの角には、小さな付箋がいくつも。チャコの丸い字で「これうまそう」「ルナも飲める」「リュウジ喜びそう」と走り書きがしてある。

 

――一万ダール。日本円で百万円。

数字は途方もないのに、そこに込められた意味は、とても単純で、まっすぐだった。

(“ここで、不自由なく休め”――そういうこと、だよね。リュウジ)

 

胸の奥で、昨夜の腕の温度がもう一度ふくらむ。ルナはそっと笑って、メニューの角を元どおりに直した。

そして、軽く寝癖を押さえながら浴室のドアを開ける。ふわりと立ちのぼる湯気が、まだ硬い心をやわらかく包み込んだ。

 

背後でチャコが段ボールのガムテープをぺりぺりとはがす音がする。

「……一本は冷蔵、一本は常温。残りは――うん、リュウジ用。よし」

 

扉が静かに閉まる直前、ルナは小さく「ありがとう」と呟いた。

誰に向けた言葉かは、自分でもうまく言語化できない。ただ、この部屋の空気全部に届けばいい――そんな気持ちで、彼女は湯の中へ身を滑らせた。

 

ーーーー

 

ピンポーン――。

 

湯の音の向こう、インターホンの澄んだチャイムが部屋の空気を震わせた。

「どちらさまや?」チャコがソファからぴょこんと跳ね、玄関パネルのモニターに前脚を伸ばす。

扉を開けると、廊下の白い光の中に、緑の髪を肩でまとめた女性が立っていた。灰色のジャケット、落ち着いた目元。けれど声は柔らかい。

 

「あの、ここはリュウジの……」

「せやで」

「リュウジはいないのかな?」

「おらんで。すぐ戻ってくる思うけど。中で待っとるか?」

「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

 

靴音をそっと忍ばせ、女性はリビングへ。チャコが椅子を示すと、彼女は背筋よく腰をおろした。バスルームの方角からシャワーの白い糸がさらさらと響いている。

 

「誰かいるの?」

「ルナや」

「ルナ?……もしかして昨日、帰還した子?」

「そうやで」

 

女性の口もとに、ふわりと微笑が咲く。

「そういえばあなたも――報道陣からマイク、取り上げてたわね」

「なんや、昨日会場におったんか」

「ええ。――あ、私、エリンって言います」

 

軽く会釈。緑の髪が肩先で小さく揺れた。

「お、おぉ、あんたがエリンか! リュウジから聞いとるで」チャコの丸い目がぱっと明るくなる。

「リュウジから?」

「せや。『エリンがおらんかったら、悲劇のフライトの被害はもっと大きなっとった』ってな」

「……そう」エリンは一瞬だけ視線を落とし、すぐに顔を上げる前にチャコが笑みを浮かべる。

「ウチはチャコや。よろしく頼むで」

「こちらこそ、よろしくね」

 

壁の時計がコトリと小さく跳ねる。室内の静けさを埋めるように、湯と換気扇の音が重なった。

 

「どうしてあなた達は、リュウジの家に?」

「ウチらな、奨学金で家を提供してもろうとったんやけど、行方不明の間に全部止められてもうてな。一週間だけ、リュウジの家に居候することになったんや」

「そうなんだ」

 

エリンは「失礼」と一言添えた。

そして、ふとチャコの背後に視線が行く。昨夜届いた高級フルーツジュースの段ボールが五箱、どんと存在感を主張している。

 

エリンが目を丸くする。「……これは?」

「ええやろ。極撰・太陽果樹園の“プレミアムミックス”や! ――一本、飲むか?」

「ふふ。のどが渇いてたの。いただこうかしら」

 

チャコは、段ボールから、紙パックを一つ取り出し、ストローを指して、渡す。エリンがひと口含み、目を細めた。

「……おいしい」

「やろ?」

 

チャコが台所を跳ねていき、冷蔵庫から、同じ紙パックのフルーツジュースを取り出した。

 

「ルナちゃん、どんな子?」

「まっすぐで、ちょっと頑固で、よく無茶する。。せやけど最近は泣くときは、きちんと泣く。――ええ子や」

「なるほどね」エリンは頷き、指先で紙パックの角を撫でる。「昨日、遠目で会見を見ていても伝わってきた。覚悟のある子だわ」

 

シャワーが止む。バスルームの扉越しに、タオルを引く音。エリンは視線を扉に投げてから、そっと声を落とした。

 

「リュウジは、どう?」

「いつも通りやで。せやけど……顔がええ」

「顔が、いい?」

「“生きて帰った顔”や。前みたいに、目の底が真っ暗いうことは、もうない」

「……よかった」エリンの肩が微かにほぐれる。「悲劇のフライトの時、ずっと心配してたのよ」

 

チャコは少し首を傾げ、エリンの横顔を覗いた。

「エリンは、なんで来たんや?」

「お礼と、報告と、確認と……それから、ただの“会いたかった”」

「素直やな」

「年齢、重ねるとね。損得で動くより、会いたい人に会う方が早いの」

 

二人とも、ふっと笑った。チャコはもう一本ジュースを冷蔵庫から出す。段ボールの山を見たエリンが、いたずらっぽく眉を上げる。

 

湯気の向こうから、明るい声が飛ぶ。

「チャコ、リュウジ帰ってきたの?」

「帰ってきとらんで」

 

バスルームの扉越しに交わされた短いやり取りに、客椅子にいた女性が背筋をすっと正した。膝の上の指を軽く揃え、気配を整える。

 

「さっぱり―――え?」

ルナがパーカーの袖で首元の滴を押さえながら出てくる。視線がふっと止まり、二度まばたき。緑の髪、涼しい目許、上品な所作――“きれいな人”という印象が胸に咲く。

 

「はじめまして。エリンです」

女性は立ち上がり、控えめに会釈した。

「あ、……ルナです」我に返り、ルナも慌てて頭を下げる。

 

「エリンさん……もしかしてリュウジの言っていた?」

ルナがチャコへ目を向ける。

「そや、そのエリンや」

「お話はいろいろと、リュウジから伺ってます」

ルナがぺこりと頭を下げると、エリンは口元をやわらげた。

「そんなに畏まらなくていいのよ。――どうぞ」

示された椅子に、ルナはおずおずと腰を下ろす。

 

「エリンさんは、リュウジの……」言葉を探して宙に手を泳がせると、

「ドルトムント財閥の系列会社の時の同僚よ」

「そ、そうですよね」ルナはこくこく頷く。

「今も働いとるんか?」チャコが遠慮なく突っ込む。

エリンは小さく首を横に振った。

「今は働いてないの。辞めたというより……クビになった、が正しいかな」

 

「そうなんか? なんでクビになったんや?」

「チャコ!」ルナが思わず制止する。

「いいのよ」エリンはやさしく笑って、袖をすっとまくった。

 

「――っ」

ルナとチャコの目が思わず見開かれる。腹部から胸の近くまで、鋭く抉られたような大きな瘢痕。そこだけ時間が固まってしまったみたいに、肌の色が変わっている。

 

「私ね、悲劇のフライトの時に大きな怪我を負って、ずっと意識が戻らなかったの」

エリンは短く目を伏せ、息を整えて続けた。

「一年近く、眠っていた。――でも、ある時、夢を見たの」

 

「夢……ですか?」ルナが息を呑む。

「突然、リュウジが出てきたの。振り返りもせず、黙って歩いていく。『待って』って伸ばした手が届かなくて、慌てて追いかけた――そこで、目が覚めたの」

 

静けさが落ち、遠く冷蔵庫のコンプレッサが唸りを替える音だけが流れた。

 

「長く眠っていた私は、会社との契約を一方的に打ち切られていたわ」エリンは肩をすくめ、苦笑する。「それが現実。書面一枚。――そしてその日、もうひとつニュースが飛び込んできた」

 

「まさか……」チャコが顔をしかめる。

エリンは頷いた。

「リュウジが、重力嵐に巻き込まれて行方不明になったって」

 

胸の奥で、ルナの心がきゅっと縮む。

「どうして彼ばかり、こんな不幸が続くのだろうって、ずっと思ってた。でも……生きてるって、どこかで感じてた。彼がこのくらいで死ぬわけがない、って」

 

エリンの声音に、信頼ともうひと匙の“祈り”が混じる。ルナはその混ざり合いを胸の奥で受け取り、ちくり、と痛む自分の感情を両手で包むように抱きとめた。――それでも、温かい。矛盾する二つの熱が同時にある。

 

「それからは、いつ彼が帰ってきてもいいように、ずっとリハビリ。自分で探しにも行けるように準備を進めて……そんな矢先に、あなた達が帰ってきてくれた」

エリンはふっと微笑む。「ありがとう。彼を無事に連れてきてくれて」

 

「エリンさん……」

ルナは首を横に振りかける。「私は何も――」

 

―――キュルルルルゥ……

 

静寂に、はっきり鳴る可愛い音。ルナの頬が、瞬く間に熟れた果実みたいに赤く染まった。

「どんな時に腹、鳴らしてんねん……」チャコが額を押さえる。

エリンは吹き出しかけて、ぐっと堪え、優しく立ち上がった。

「ふふっ。朝ごはん、まだでしょう? 何か作ってあげる」

 

「それでしたら、私も――」

「ゆっくり待ってて」エリンはそっとルナの肩に手を置く。その掌から伝わる温度が、心なしか安心を撫でる。

「……すみません」ルナは腰を浮かせかけて、もう一度椅子に沈んだ。膝の上で指を揃え、深呼吸をひとつ。

 

エリンはキッチンに回り、冷蔵庫と棚を手際よく点検する。

「……なるほど。最小限、ね」

並ぶのはミネラルウォーター、プレミアムフルーツジュース、卵が三つ、乾麺少々、オリーブオイル、塩胡椒、黒胡椒のミル。冷凍庫には薄切りパンが二枚だけ。

「十分。――まずは、ボウルと鍋を用意して

金属音が小気味よく重なる。エリンは髪を耳にかけ、動作に無駄がない。

 

「まずは身体を起こすものから。塩分と水分、たんぱく質を少し」

ボウルに卵を割り入れ、泡立て器でほぐしながら、湯の鍋に塩をひとつまみ。

「コンロ、強めにして、黒胡椒ミルをかける」

 

湯が踊り始めた頃合いで、エリンは乾麺を手で折って投入。湯の表面でほぐれていく麺を見ながら火加減を落とし、オイルを数滴垂らす。別の小鍋では、水と塩を温め、卵液を糸のように回しかけて、ふわりと花を咲かせる。

 

「ルナちゃん」

「は、はい」

「匂い、きつくない? 空腹で香りに酔いやすいから」

「だいじょうぶです。……いい匂い」

「よかった」

 

フライパンに薄く油をなじませ、冷凍パンをのせて弱火でじっくり。表面が色づくたびに、エリンの指先の動きがわずかに弾む。

「――うん、いい焼き色」

焼けたパンを取り出し、ほんの少しオイルを刷毛で塗り、黒胡椒を数回だけ挽く。皿へ。鍋の麺をざるにあげ、湯をきり、もう一度鍋へ戻して卵のスープを注ぎかけた。

 

「簡単だけど、温まるよ。卵の“雲”スープと、香りだけの胡椒トースト」

「おぉ……」チャコが思わず感嘆の声を漏らす。

「いただきます」ルナは手を合わせ、レンゲでスープを口元へ運ぶ。舌に乗った瞬間、優しい塩味と卵のやわらかさが広がり、顎から首筋へ、すうっと力が抜けた。

 

「……おいしい」

「よかった」エリンは胸に手を当て、小さく息をつく。「胡椒は刺激だから、ほんの香りだけ。パンはゆっくり噛んで」

 

チャコはトーストを一口かじって目を丸くする。

「シンプルなんが、こんな旨なるんやな……」

「素材に余計なことをさせないのが、いちばん楽で、いちばん失敗しないから」エリンは微笑んで、ケーキをテーブルに置いた。「デザートはこれで我慢して。甘いものは頭を動かす燃料になる」

 

ルナはうなずきながら、もう一さじスープをすくう。温かいものが胃に落ちるだけで、世界が色を取り戻していく。ふと、心のどこかで、さっきの“ちくり”は、形を変えたことに気づく。

――痛みはまだある。けれど、嫌な痛みではない。自分がいま居る場所を、確かめる痛み。

 

「エリンさん」

「なぁに」

「その……ありがとうございます。私、何もできてないのに」

「できてるわよ」エリンは即答する。「あなたが“ただいま”って言ってくれて、彼が“ただいま”って返せる場所がある。それだけで、十分」

 

言葉が胸の真ん中に届いて、ルナは小さく目を潤ませた。

「……はい」

 

チャコがジュースを飲みきる音が鳴る。

「それにしても、エリン、手際ええな。プロか?」

「ただの長い一人暮らしよ。」

「なるほどや」

 

そこで、玄関のインターホンが鳴った。

二人の視線が食いつくように扉に視線を向けたのであった。

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