サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第39話

インターホンが短く鳴った。

「うちが出るで」チャコがぴょんと飛び降り、玄関へ向かう。ロックが外れる音、扉が開く。

 

「おはようさーん。全員、一緒やな」

「ああ、失礼する」

 

チャコに案内され、リビングへわっと人が流れ込む。

「みんな!」ルナの顔がぱぁっと明るくひらいた。

「おはよう、ルナ」真っ先にシャアラが笑顔で手を振る。続いてメノリ、ハワード、シンゴ、カオル、ベルが順に姿を見せ、室内の空気が一気に賑やかになる。

 

そのとき、視線の矢がふっと二人へ集まった。ルナと、もう一人――緑の髪を後ろでまとめた女性。椅子からすっと立ち上がる所作だけで、育ちの良さが伝わってくる。

 

ルナは慌てて立ち上がり、皆の方へ向き直った。

「こちら、エリンさん」

女性も軽く会釈する。

「初めまして。エリンです」

 

その“美しさ”は、言葉より先に場を静かにしてしまった。メノリとシャアラでさえ一瞬、目を奪われ、小さく息をのむ。

「う、うわ……美人……」ハワードは心の声が口から落ちた。

「う、うん……」ベルもつられて頷く。

シンゴはごくりと喉を鳴らし、カオルでさえ、ほんの刹那、視線を外せなかった。

 

注がれる視線に、エリンが少し困ったように微笑む。そこで皆も我に返り、順に頭を下げた。

「改めて紹介します、エリンさん」

ルナは一人ずつ名を挙げ、性格や役回りをひとこと添えながら紹介していく。ハワードは気まずそうに背筋を伸ばし、シャアラは礼儀正しく手を前で組み、一礼、メノリは落ち着いた声で「よろしくお願いします」と言い、ベルは少し照れ、シンゴは早口に自己紹介して噛み、チャコは胸(パネル)をぽんと叩いて「ウチはチャコや」と笑わせる。

 

最後に、ルナがカオルの名を呼んだ。

「彼がカオルです」

「――そう。あなたが、カオルなのね」エリンがやわらかく微笑む。

「知ってるんですか?」ルナが目を丸くする。

「ええ。リュウジから、何度も聞いたの」

 

エリンの瞳が、ふと遠くの時間へ焦点を合わせた。

 

——二年前。

リュウジがS級パイロットの資格を得て、初めての難任務を完遂した夜。

小さな祝いが、リュウジの部屋で開かれていた。

 

「ほら、リュウジも飲みなよ!」タツヤ班長が酒瓶を差し出す。

「そうだそうだ、飲めぇ!」ペルシアが顔を真っ赤にして煽る。

「やめなさい。リュウジは未成年でしょ。それにペルシア、あなたもよ」エリンは呆れ顔で二人から瓶を取り上げた。

「いいじゃない、いいじゃない〜」と、タツヤは手をひらひら、ペルシアはソファに沈み込みながら笑っている。

 

リュウジは困ったように笑みを浮かべ、グラスの水を持ち替えた。やがて三人は次々に眠りこけ、床には空き缶と空き瓶が転がる。

翌朝、エリンが目を覚ますと、タツヤは床で大の字、ペルシアは酒瓶を抱き枕みたいに抱えていた。

 

「……あれ? リュウジは?」

ちょうどそのとき、リビングの方でドアの開く音。

「おはよう」

「おはようございます」リュウジはランニングウェアのジッパーを上げながら一礼する。

 

「どこ行くの?」

「日課のランニングに」

「たまには休んでもいいんじゃない?」

リュウジはかぶりを振った。

「休むわけにはいかないんですよ」

「どうして?」

「俺を追いかけてくる奴がいるんです」口調は淡々、だが目は楽しげだった。

「でも、あなたに追いつけるのかしら」

「追いつきますよ、あの二人なら」少しだけ照れたように笑って――「内心、いつ抜かれるかヒヤヒヤしてるんですから」

 

エリンは、その背が廊下に消えるのを見届けてから、膝に置いた手を握り直した。

――その “二人” の名は、やがて何度も彼の口から聞くことになる。

 

……現在。

エリンは回想をそっとたたみ、目の前のカオルへ視線を戻した。

「その“二人”が、ルイと……あなた、カオル。――彼は本気でそう言ってたわ」

 

「リュウジが……そんなことを」カオルの瞳が一瞬だけ揺れる。

室内の空気が、きゅっと締まる。少年の頃から競い合ってきた背中の温度が、記憶の奥から鮮やかに立ち上がる。

「ええ。誇張じゃない、あの人の本音よ」

カオルは答えず、ただ静かに拳を握った。爪が掌に食い込み、痛みで覚悟を刻むみたいに。

「――いずれ、追いつく。必ず」

声は低く短く、それでもはっきり聞こえた。

 

「ええやんか、ええ目ぇしとる」チャコがにやりと笑い、場の張り詰めを少しだけ緩める。

「うん」ルナも頷いた。彼女の頬はほのかに上気している。皆がそれぞれの場所へ帰ってきて、ちゃんと“続き”が動き出している――そんな実感が、胸の奥であたたかく膨らむ。

 

「ところで」ハワードが現実的な声に戻す。「ルナの朝食、美味しそうだな……」

ハワードは机の上にあるスープと食パンに目が釘付けになっていた。

「ふふっ簡単なものなら、すぐに作れるわよ」

「うおっ、神!」ハワードの腹がタイミングよく鳴って笑いが起きる。

 

部屋の温度がまた一段あがる。窓の外では雲がほどけ、朝の光が少し明るくなった。ここから先の“競争”も“協力”も、たぶん同じテーブルから始まる。そんな予感を、それぞれが胸にしまい込む。

 

カオルはもう一度だけ拳を握り、ふっと開いた。

――追いつく。リュウジ、お前が笑って言ったその日まで。

その横顔を、ルナもエリンも、穏やかな眼差しで見つめていた。

 

――――

 

湯気が湧き立つ白いスープ皿が円卓に並び、立ちのぼる香りが部屋の空気を柔らかく包む。

「――うまっ!」

最初に声を上げたのは、やっぱりハワードだった。レンゲを握る手が止まらない。

 

「ホントだ!!」

シンゴも目を輝かせ、器用にふうふうと冷ましつつ、次の一口へと急ぐ。

 

「……美味しい」

メノリは口元にそっと手を添え、ひと拍、スープを見つめてから頬をゆるませた。

 

「お粗末様」

エリンは和らいだ笑みで、皆が食べる姿を見守りながら、リビングのテーブルに腰を降ろす。

 

「エリンさん、ありがとうございます」

ルナが椅子から軽く立ち上がるようにして頭を下げる。

 

「ふふっ、別にいいのよ」

エリンは頬杖をつき、揺れる湯気の向こうに子どもたち――いや、もう“子ども”と呼ぶには逞しくなった彼らの顔を数える。

 

「とっても優しい味だ」

ベルが匙を置いて満ちた声を漏らす。

 

「リュウジと、どっちが美味しいかな?」

シャアラが首を傾げ、純真な疑問を投げた。

 

「俺はこっちのスープだ」

カオルが滅多に見せない柔らかい口調で言うと、場がふっと和む。

 

「僕もエリンさんのスープのほうがいいな!」

ハワードは啜る音を立てながら親指を立てた。

 

「当たり前でしょ。――リュウジに料理を教えたのは、私なんだから」

会話を聞いていたエリンが、くすっと目を細める。

 

「そうなんですか?」正面のルナがぱっと顔を上げる。

 

「宇宙飛行士はね、家にいる日より宙へ出てる日のほうが多いでしょ。だから“静かに続けられる趣味”がほしいって言われて。――それで、料理を教えたの」

 

「なるほどなぁ。リュウジの料理がうまかったんは、エリンのおかげやったんやな」

チャコは納得げに大きく頷く。

 

「お前も教えてもらったらどうだ」

メノリがハワードに肘を向ける。

 

「え? なんでだ……?」

ハワードは器を空にしながら首をひねった。

 

「サヴァイヴでも鍋、焦がしてたから」

ベルが肩をすくめる。

 

「“黒焦げスープ事件”、忘れてないでしょ」

シンゴが堪えきれず吹き出す。

 

「黒焦げスープ事件……?」エリンが小首を傾げる。

 

「ハワードが夕食のスープを作ってくれたんだけど――」とルナは苦笑のまま眉を八の字に。「鍋ごと真っ黒で、底が抜けたんです」

 

「ふふ……」エリンの笑いは上品に揺れた。

 

「もういいだろ、そんな前のこと!」

ハワードは耳まで赤くしてそっぽを向く。

「ごめんって、ハワード」ルナが気遣うように微笑む。

 

「――そんなことより!」

勢いよく同時に身を乗り出したのは、ハワードだった。

「なに?」皆の視線が集まる。

 

「昨晩はどうだったんだ?」

ハワードがにやりと笑い、机に身を預ける。

 

「昨晩?」ルナは瞬きして、小さく首をかしげた。「昨日は……リュウジの部屋に着いて、すぐ寝ちゃったけど?」

「はぁ!? ホントかよ!?」ハワードの驚愕に、椀のスプーンがからんと鳴る。

「ええ……なんで驚いてるの?」ルナは怪訝そう。

 

「ハワード、最低」

シャアラが眉を吊り上げる。

 

「変なことを聞くな」メノリがこつんと軽く小突く。

「いてっ!」頭を押さえるハワードに、笑いが一巡した。

 

「そういえば――リュウジは?」

カオルがルナへ視線を戻す。

 

「昨日の夜に“少し出てくる”言うてから、まだ戻ってきとらんで」チャコが器を置いて答える。

 

「なんだよ、せっかく心配して来てやったのによ」

ハワードが唇を尖らせる。

 

「……心配?」ルナがぱちぱちと瞬きを重ねた、そのとき――。

「え? ルナ、知らないの? 今日が何の日か」

エリンが意外そうに目を丸くする。

「え?」

 

「無理もない」

メノリが静かに言う。「ルナは“悲劇のフライト”を、元々、知らなかったんだ」

 

カオルが天井灯の光をひとつ受けて、短く告げる。

「今日は――“悲劇のフライト”から、ちょうど一年だ」

 

シンゴが手を握りしめた。「だから、きっと辛いと思って。傍にいてあげようって……皆で来たんだ」

 

「そうだったんだ……」ルナの瞳に、ゆっくり影が差す。「――それじゃ、エリンさんも?」

「ええ」エリンは淡く頷く。「彼は式典には出ないと思ってた。でも、せめて同じ時間に、同じニュースを見ていられたらって」

 

「今日は……その日だったんですね」

ルナは視線を落とす。スープの湯気が、わずかに揺れた。舌に残る優しい塩味の奥で、胸の内側がきゅっと痛む。あの人は今、どこで何を見て、何を思っているのだろう。――痛んだのは、彼の心を想像したからか、それとも自分の“知らなかった”という事実への悔しさなのか。

 

空気が自然と静まり、匙の触れ合う小さな音だけが続く。

メノリが息を整え、場の輪郭を戻すように口を開いた。

「……だから、今日くらいはさ。誰かがそばにいたほうがいいって、みんなで話したんだ」

「当たり前や」チャコが頷く。「ウチも、それ用にジュース買い込んどるしな」

「買い込みすぎなのよ、それは」ルナが思わず突っ込むと、皆にふっと笑みが広がった。

 

「――で、式典は何時からだ?」カオルの声が現実へ引き戻す。

「午前と午後に分けて、主要都市からの中継が続くはず」エリンが答える。「木星のハブシティ・ロカの慰霊広場は、十時から追悼の合唱」

 

「テレビ、つけようか」

ベルが立ち上がり、リモコンに手を伸ばす。

 

「その前にもう一杯」ハワードが器を差し出した。「エリンさん、スープおかわり!」

 

「ふふ、はいはい」エリンは鍋を持ち上げ、手際よく注いで回る。ふわりと漂うハーブの香りが、さっきよりも少し濃く感じられたのは、皆の体温が上がったせいだろう。

 

ルナは両手で椀を包む。温度が掌から腕へ、そして胸へと戻ってくる。

――“彼”を温められるものを、自分は持っているだろうか。

“ありがとう”と“おかえり”は、もう言えた。

けれど今日、この日に彼が抱えるものの重さに、どう手を添えればいいのか。

分からないまま、でも目を逸らさない。ルナは一口、スープを啜った。やさしい塩と旨味が喉をなでて、背筋をそっと支える。

 

「ルナ」

メノリがそっと声を落とす。

「無理に強がらなくていい。“知らなかった”のは、悪いことではない」

 

「……うん」ルナはまっすぐ頷いた。「でもね、知った以上は、ちゃんと向き合いたい。――彼が背負ってるものに、私も遅れてでも追いつきたいから」

カオルが目を細める。シャアラが微笑む。シンゴが大きく頷き、ハワードが鼻を鳴らす。

チャコは記録端末をそっと傾け、今の表情を一枚、心のアルバムにしまい込むみたいに保存した。

 

テレビが入って、モノクロームの花束が映る。画面端に“追悼式典ライブ”の文字。

マイクの前で、喪章を付けた司会が静かに言葉を紡ぐ。街のざわめき、広場を渡る風、遠くで鳴る時報の鐘――スピーカー越しの音が、部屋の空気と混ざり合う。

 

ハワードは姿勢を正し、ベルは指を組み、シンゴは唇を結ぶ。メノリの視線はまっすぐで、シャアラは胸の前でそっと手を重ねる。カオルは一点を見据え、チャコは音量を微調整した。

ルナは深呼吸をひとつ。――気づけば、手の震えは止まっていた。

 

ふと、エリンが立ち上がる。

「……キッチンに、少しだけ、残りがあるの。おかわり、まだいる子は?」

「僕!」とハワード。「僕も」とシンゴ。「少しだけ」ベル。「ウチも!」チャコ。

ルナは首を横に振り、微笑んだ。「私は大丈夫です。――ありがとうございます」

 

エリンは頷いて、鍋を持って戻る。注がれるたび、湯気に混じって“誰かのために火を守る”という行為の体温が、また部屋を満たしていく。

 

画面では合唱が始まった。

――最初の一声が、空気の芯を震わせる。

言葉は少なく、音も飾らない。それでも、祈りというものが確かに形を持つ瞬間があるのだと、全員が知った。

 

ルナは膝の上で指を重ねる。小さく、口の中で呟く。

(リュウジ……)

(どこにいても、あなたが一人きりじゃないように。――私は、ここにいるよ)

 

誰も何も言わないまま、横顔だけが、同じ方向を見ていた。

その“沈黙の輪”の中に、戻ってくるべき人の居場所が、もうちゃんと用意されている――そんな確信が、スープのぬくもりみたいに長く残った。

 

――――

 

テレビの合唱が静かに終わり、画面は切り替わってハブシティ・ロカの上空映像へ。円形の広場、その中心に真っ白な塔――磨かれた石肌が午前の光を受けて淡く光り、塔の根本から放射状に敷かれた石畳は、中央へ向かう一本の参道と三十段の階段に収束している。アナウンサーの落ち着いた声がかぶさった。

 

「こちらはハブシティ・ロカ慰霊広場です。“悲劇のフライト”で亡くなった皆さまを追悼するために、ドルトムント財閥が建立したものです。中央の白塔へと続く三十段の階段を上った先に献花台が設けられ、式次第に沿って献花が行われます」

 

リビングの空気が少し硬くなる。ソファに並ぶ面々は誰も口を開かない。次いで映ったのは演壇。黒い喪章を左胸に付けた男――ドルトムント財閥の社長、リョクがマイクの前に立っていた。白髪まじりの前髪をなでつけ、静かに頭を下げる。

 

「この度の事故では、エンジントラブルと隕石群の衝突が重なり――」

 

ことさらに抑制の効いた声音。それでも、言葉の継ぎ目に混じるわずかな湿りが、視聴者の感情の置き場を誘導する。謝罪の言は続く。だが、よく聞けば、語尾や言い回しの端々で“機長の判断”に重心を寄せるよう仕立てられた文言が続いていた。

 

「責任は操縦判断にあったと断ずることは容易い。しかしながら我々にも……」

 

(今、“我々にも”って言って、すぐに戻したな)

メノリは無言で画面を見つめたまま、わずかに眉根を寄せる。

(エンジントラブル、隕石群――その二語で全部を包もうとしてる)カオルの視線は冷たい鋼に似ていた。

 

ルナは膝の上で指を組み、唇をかすかに噛む。エリンは姿勢を正したまま、表情を凍らせる。シンゴとベル、ハワード、シャアラ、チャコ――だれ一人として言葉を足さない。リョクの語る“事故”は、彼らの知る真実から遠かった。操縦桿を握っていたのがリュウジではなく、財閥の一人息子ナッシュだったこと。宇宙ジャックで重力制御ユニットと姿勢制御ユニットが破壊され、死地の船内で、リュウジとエリンが身を投げ出して応急処置をつなぎ続けたこと。ナッシュが“魔のゾーン”の入り口へ航路を切ってしまったこと――どれも語られない。

 

「以上、犠牲者の皆さまに、改めて哀悼の意を――」

 

言い終えると、儀礼のごとく一礼。カメラが引く。三十段の階段の左右、黒い服の列が二つの帯を成してたゆたう。左手は遺族席。高齢の両親、若い配偶者、泣き腫らした目の子どもたち。右手は当時のドルトムント財閥関係者と、その随伴。中央列には宇宙管理局や宇宙連邦の代表が並び、その少し前にはS級パイロットの紋章を襟に留めた二人――アズベルトとブライアンの姿。さらに列は遥か後ろまで折り重なり、広場は足の踏み場もないほどの人波で埋め尽くされている。

 

献花台の前に、司会の手が花を捧げる合図を示したその時――。

ざわっ、と音がするほどの気配が画面の奥から手前へと広がった。群衆の真ん中に波が立つ。人が自然と左右に割れ、一本の“道”が生まれる。

 

「……え?」シャアラが小さく漏らす。

アナウンサーが慌ててカメラを引き連れ駆け寄る。ズームが合う。

 

S級パイロットの制帽。紺の上着に黒のスラックス。胸ポケットにはS級パイロット証のカードが差さり、腕には花束。数えるのが馬鹿らしくなるほどの数――否、数えようとすれば、亡くなった人の名簿の数字と一致するであろう量。顔は、疲労の影を残しながらも、凪いだ水面のように静かだった。

 

「……リュウジ」

エリンが呟く。

ハワードの肩がぴくりと動き、メノリは息を止める。チャコは無意識に記録端末を握り直す。ルナだけは、胸の前で拳を固く握り、言葉を飲み込んだまま目を離さない。

 

広場のざわめきの中から、低い懐かしい声が拾われた。

「戻ってきたか、リュウジ・パイロット」

ブライアンの声だ。だがリュウジは視線を向けない。まっすぐ、献花台だけを見据える。

 

階段の手前で足を止める。

まず、右手――ドルトムント財閥の席へ向き直り、敬礼。

一瞬、リョクとその隣に立つナッシュの顔に、明確な焦燥の影が走る。

次いで、左手――遺族席へ。背筋を伸ばし、同じく敬礼。

掌を下ろす所作に一切の緩みがない。

 

「……行く」

誰にともなく、画面の中の彼はそう言ったように見えた。

 

一段。二段。三段――。

足取りは速くない。けれど、不思議と、誰もその歩みを阻もうとしない。腕に抱えた花束が小さく揺れ、白塔からこぼれる光が、制帽の庇をかすかに照らす。

(落とすな、息を乱すな、膝を割るな――)

ルナは自分が階段を上っているかのように、掌に汗をにじませる。エリンの指先は膝の上で組まれ、ほどけそうでほどけない。

 

献花台に辿り着く。

リュウジは左手の花束を支えたまま、右手で制帽を取り、献花台の前に立って深々と頭を下げた。

十秒――二十秒――三十秒――。

アナウンサーは何も言わない。風音だけがマイクに触れる。

四十秒――五十秒――。

画面の中の時間は、刃の上に滴る水のように、ゆっくりと伸びた。

一分。

 

やがて、彼は頭を上げる。制帽をかぶり直し、腕の中の花を、一つ、また一つと静かに置いていく。名前を心の中で呼びながら数えているのが伝わるほどの丁寧さで。最後の一束を置き終えたとき、彼の表情に、ほんのわずかな安堵が差した。

 

踵を返す。

階段を降り始める。

視線は落とさない。正面だけを見て、一段ずつ確かめるように。

 

広場の空気が変わった。誰かが嗚咽を飲み込み、誰かが胸に手を当て、誰かが無言で頭を垂れる。右側の列――財閥関係者の帯にも、顔を伏せる者がいる。左側――遺族の帯からは、一人の女性がそっと会釈を返した。アズベルトは顎を引き、ブライアンはわずかに拳を握った。

 

「……綺麗や」チャコが、気づけば声に出していた。

「うん」シャアラが頷く。

「“誰のせいか”じゃなく、“誰のために”を選ぶ顔してる」メノリの声は低く、穏やかだった。

ハワードは言葉を失い、ベルは目尻を指先でそっと押さえる。シンゴの喉仏が上下し、カオルは静かに背筋を伸ばす。

 

ただ一人、ルナだけが――拳を解かなかった。

テレビの中の彼と、画面のこちら側の自分の距離。その間に流れる一年という時間、幾つもの“知らなかったこと”。それでも今、彼は前に進んでいる。ならば自分も、と胸の奥で固く誓う。

 

―――

 

白い塔を背に、リュウジは階段を一段ずつ、静かに降りていた。

その足取りは、風のように穏やかで、見る者に不思議な安心さえ与えていた――その瞬間までは。

 

あと数段というところで、彼の足が止まる。

画面の向こうで、アナウンサーが小さく息を呑んだ。

リュウジの視線の先――階段の下には、一人の少女が立っていた。

年の頃は十歳にも満たないだろう。小さな体が震え、両手には銀色に光るナイフが握られている。

 

「……危ないっ!」

チャコが叫ぶ。

「嘘……何してるの、あの子……」とシャアラが青ざめる。

 

テレビのアナウンサーが動揺を隠せない声で伝える。

「現在、ハブシティ・ロカ慰霊広場の中央階段で、S級パイロットのリュウジ氏の前に、一人の少女が立ちふさがっています。遺族の方でしょうか……両手に――ナイフを……!」

 

リビングの空気が凍りついた。

ルナは両手を膝の上に置いたまま、固まっている。

次の瞬間――テレビの中で、少女が叫んだ。

 

「よくも……お父さんを!!!」

 

その声は、あまりにも幼く、あまりにも痛切だった。

ナイフを前に突き出しながら、少女は階段を駆け上がる。

カメラがぶれる。アナウンサーの声が震える。

 

「少女が……リュウジ氏に向かって――!」

 

仲間たちは思わず目を背けた。

「もう見てられへん……」とチャコが顔を覆う。

シャアラが両手を胸の前で組み、ハワードは立ち上がりそうになってメノリに腕を掴まれた。

しかし――ルナだけは、視線を逸らさなかった。

 

鼓動が早鐘のように鳴る。

画面の中で、少女の刃先がリュウジの胸元へ迫る。

ルナの耳の奥で、自分の心臓の音だけが響いていた。

 

(だめ……! 逃げて! リュウジ!)

 

叫びたくても、声が出なかった。

そして――少女とリュウジの影が重なる。

 

次の瞬間、テレビ画面が一瞬白くフラッシュし、そして――赤。

白い階段に、ぽたぽたと赤い雫が落ちる。

 

「あぁ……」

ルナは息を詰め、両手で口を押さえた。

呻くような声が漏れる。

 

だが、刺されてはいなかった。

リュウジは、その瞬間――ナイフの刃を、素手で握り締めていたのだ。

 

指の間から赤い血が滴り、白い階段を汚す。

少女はハッと顔を上げ、手を離した。

ナイフが階段を転がり、金属音を響かせる。

 

少女は、恐怖と混乱の中で後ずさり、膝をつき、その場に崩れ落ちた。

すぐに、泣きながら母親が駆け寄ってくる。

「ごめんなさい……! ごめんなさい!」

母親は少女を抱きしめ、嗚咽を漏らしながらリュウジに頭を下げる。

 

リュウジは悲しげにその光景を見つめる。

そして、ゆっくりと歩み寄る。

階段に反響する足音が、まるで心臓の鼓動のように響く。

 

「君まで、罪を背負う必要はない……」

彼の声がマイクに拾われ、テレビのスピーカーを通して部屋に流れた。

その声は静かで、どこまでも優しかった。

 

「――お父さんを救えなくて、すまなかった……」

 

その瞬間、少女が母の腕の中で、大きな声をあげて泣き出した。

広場に響く嗚咽。群衆のざわめき。アナウンサーの言葉が追いつかない。

 

リュウジは背を向け、白い階段を下りていく。

指の隙間から、ぽたぽたと赤い血が滴る。

その足跡が、白い石の上に、小さな赤い線を描いていく。

 

――その姿は、まるで自らが罪を洗い流そうとする者のように。

 

ルナは震える唇を噛み締めた。

エリンが目を覆い、カオルが拳を握りしめる。

テレビの音が遠くなり、ルナの胸の中にはただ、リュウジの言葉だけが残った。

 

(君まで、罪を背負う必要はない……)

 

その言葉が、胸の奥で繰り返され、涙になって溢れ出そうになる。

 

――――

 

木星軌道エアポートの外れにある喫茶店は、昼前の光に磨かれたように静かだった。強化硝子の向こうでドック臨床がゆっくり回転し、遠くの滑走路に小型艇が点のように降りていく。

 

リュウジは右手の甲に白いハンカチを巻き、コーヒーをひと口。湯気の奥で、向かいに座る二人へ視線を移す。片や真面目一徹の記者フレデリック。片や黒いネクタイをほどけ気味に締め、涼しい顔でこちらを値踏みする男――カラス。

 

「リュウジさん、どうしてコイツがいるんですか?」

フレデリックが露骨に眉をひそめ、隣の男を親指で示す。

 

「おやおや。私と一緒だと困ることがあるのですか?」

カラスは平然とカップを傾け、苦味を舌の上で転がす余裕すら見せた。

 

「僕はお前のやり方を認めていない。」

 

その言葉を聞いたカラスは、ゆっくりと首を傾げ、不敵な笑みを浮かべた。

「ふふ……私はあなたのこと、認めていますよ。――“ある程度”は」

 

リュウジは思わずため息をついた。

「落ち着け、二人とも。ここでケンカをするために呼んだわけじゃない」

包帯の上からでも、握りしめた指先に鈍い痛みが走る。階段でつかみ取った刃の冷たさが、まだ皮膚の下に残っていた。

 

フレデリックは長い息を吐き、正面に座り直す。

「それで、僕たちに話があるっていうのは、何ですか?」

 

「頼みたいことがある。」

リュウジはテーブルの真ん中に茶封筒を二つ置いた。角がきちんと揃えてある。

「お前たちに探してほしい。『悲劇のフライト』で亡くなった人たちの――墓の場所を、全て。」

 

「墓標の所在、ですか。」

フレデリックが封を切る。中から取り出した名簿に、視線が素早く走る。

「……公式発表の人数とは違う。」

 

カラスも指先で紙をたぐる。

「公式のリストではない、と。」

 

「違う。」リュウジは即答した。「でっち上げの人数じゃない。実際に亡くなった人たちの名前だ。」

 

喫茶店のスピーカーが、ちいさくラウンジのベースを響かせる。三人のテーブルだけ、曲の拍からわずかに外れた沈黙で満たされた。

 

「期限は?」

フレデリックが資料から目を離さずに問う。

 

「一週間でお願いしたい。」

リュウジはコーヒーに口をつけ、苦味を喉へ落とす。

 

「一週間!?」

フレデリックが顔を上げる。驚きと、負けん気が同時に光った。

 

「厳しいか?」とリュウジ。

 

「この程度でしたら――三日で十分です。」

カラスは封筒を戻し、輪郭の薄い笑みを浮かべた。

 

フレデリックの肩がびくりと動く。すぐさま身を乗り出し、テーブルに指を立てる。

「僕は二日で十分です!」

 

「そ、そうか。」

勢いに押され、リュウジは僅かに目を丸くしてから頷く。

「それじゃあ、頼む。」深々と頭を下げた。

 

「任せてください。」

フレデリックの声は真っ直ぐだ。記者の熱と、祈りのような律義さが混じっている。

 

「それで、報酬は?」

カラスが肩を落ち着け、脚を組み替えた。視線は笑っていない。

 

リュウジは包帯の結び目を親指でなぞってから、低く言う。

「明日、宇宙連邦連盟(UFU)の本部前で張り込んでおけ。俺が行く。」

 

「ほぉ。」

カラスの瞳孔がわずかに開く。

「つまり――そういうことですか。……いいでしょう。」

 

彼の「了解」は、いつだって契約書のサインと同じ重さだ。

 

リュウジはフレデリックに向き直る。

「フレデリック、お前には“無人惑星サヴァイヴ”のインタビューをやらせる。みんなと一緒に取材を受ける。特集を組め」

「……! 本当ですか?」

フレデリックの表情がぱっと明るくなった。

「ありがとうございます、リュウジさん! 必ず形にします!」

 

リュウジは静かに席を立つ。

椅子が床を擦る音が、喫茶店の空気を震わせた。

「それじゃあ、頼んだ」

 

その時、カラスがコーヒーを啜りながら呟く。

「午後からは“ステファン財閥”の会見がありますが……見ていかないのですか?」

 

「ステファン財閥……?」

リュウジは記憶を辿る。

悲劇のフライト。あの時、宇宙ジャックの一人を取り押さえた時、拘束に協力してくれた人だ。

 

「……ああ、そういえばいたな」

「ええ。彼らも“あの日”を語るそうです。……見るか、見ないかは、あなた次第ですが」

カラスの言葉は、意味深に途切れた。

 

リュウジは一瞬だけ沈黙し。

「……考えておく」

それだけ言って、扉を開けた。

 

外の光が店内に差し込み、リュウジの背を淡く照らす。

扉のベルが短く鳴り、彼の姿は通りの人混みに消えた。

 

カラスはその背中を見送りながら、フレデリックに向かって呟いた。

「さて……どちらが先に“墓”を見つけるか、楽しみですね」

「遊びでやってるわけじゃない」

「ええ、もちろん。……でも、彼の“依頼”はいつだって、遊びよりも厄介だ」

 

カップの中の黒い液体に、カラスの笑みが滲んだ。

 

―――――

 

午後一番。

ステファン・レヴィンによる「悲劇のフライト」会見が行われる会場は、熱気と緊張に包まれていた。

会場の外には報道ドローンが何十台も浮かび、地上では各局のリポーターがマイクを構えている。

「“あの日”を語る」――その言葉だけで、この一年、誰もが封じてきた記憶が再び息を吹き返したのだ。

 

ステファン・レヴィン。

まだ三十代半ば。

だがその穏やかな語り口と誠実な人柄で、多くの経営者や政治家からも一目置かれている若き財閥の長。

一年前――悲劇のフライトの“生存者”の一人。

彼が姿を見せた瞬間、フラッシュが嵐のように点滅した。

 

ステファンは深呼吸を一つしてから、ゆっくりと壇上へと上がった。

その視線の先――壁際に立つ二人の男が見えた。

ドルトムント財閥のリョク社長と、その息子ナッシュ。

一瞬だけ視線が交わる。

だがステファンは何も言わず、まっすぐにマイクの前へ進んだ。

 

フラッシュが止み、会場の空気が張り詰める。

 

「……まずは、この場をお借りして、悲劇のフライトで亡くなられた方々に、心よりご冥福をお祈りいたします」

 

彼は深々と頭を下げた。

静寂が数秒――いや、永遠のように感じられた。

 

そして、頭を上げると、ゆっくりとマイクに口を近づける。

「私は、悲劇のフライトについて、ずっと考えてきました」

 

その声は穏やかで、しかし確固たる意思が宿っていた。

「私はあの時、乗っていたのに、沈黙を選ばざるを得なかった。

 この社会の“空気”が、声を上げる者を押しつぶす。

 その理不尽さに、私は怒りを覚えました。

 そして、同じように憤っていた人々が、私の前に現れたのです」

 

スクリーンには数人の顔が映し出された。

ドルトムント財閥の元社員――タツヤ班長。

宇宙管理局のペルシア。

記者のフレデリック、カラス。

そして、宇宙管理局の探索チーム・スターフォックスの面々。

 

「彼らの協力のもと、私は一つずつ“隠された真実”を集めていきました。

 ――そして、S級パイロット、彼が行方不明になったと聞いた時、私は神を呪いました。

 どうして、彼ばかりが試練を背負わされるのかと」

 

一瞬、会場の空気が揺れる。

 

「彼は、帰ってきた。そして、その顔は“あの日”と同じ――覚悟の顔でした」

 

ステファンはマイクを握る手に力を込めた。

そしてスクリーンには昨夜、行われた無人惑星サヴァイヴから帰還した報告の場として設けられた記者会見で、強張った表情のルナがマイクを握っている画像が映し出されている。

「私は、彼女の言葉に背中を押されました。

 “貴方は知っているんですか?

 リュウジが誰かの絶望と怒りと悲しみを一身に引き受けて、生きることが罪だと言っていた、その顔を。

 現場は数字で動いていない。体温で、痛みで、責任で動いてる。

 あなたはその重さに、自分の舌の重さを足したことがある?”

 ――本当は彼と相談してどうするのか決めたかったのですが―――その言葉が、私に突き刺さりました。

 だから、私は今日、真実を話します」

 

その瞬間、リョクの怒声が轟いた。

「ステファン!! 貴様、何を言うつもりだ!!」

 

会場が一気にざわつく。

だがステファンは動じなかった。

「順を追って説明しましょう」

淡々と、しかし確信をもって彼は言葉を重ねた。

 

「まず、当時の機長は“リュウジ”とされていました。

 しかし、実際の機長は――そこにいる“ナッシュ・リョク”でした」

 

会場が爆発したようにざわめいた。

一斉にフラッシュが壁際のナッシュへと集中する。

ナッシュは顔を真っ赤にし、声を荒げた。

「な、なにを根拠にそんなことを――!」

 

「これを見てください」

スクリーンに映し出されたのは、一枚の点検報告書。

「これは“最終点検報告書”。

 整備士が機長へ提出し、承認のサインを受ける書類です。

 その署名欄にあるサインは――」

 

映像がズームインし、鮮明に映し出された署名。

“ナッシュ・リョク”。

 

会場が静まり返る。

「でっち上げだ!! 捏造だ!! 我々を陥れる気か!!」

リョクの怒号が響く。

 

ステファンはため息を一つつき、テーブル上のレコーダーを起動した。

 

――スピーカーから、年配の男の震える声が流れる。

『あの時、私はナッシュ氏に整備不良の件を報告しました。

 しかし、“重要な日だ、そんな下らない理由で離陸を遅らせるな”と叱責されました。

 事故のあと、リョク社長から多額の金が振り込まれ、口を閉ざせと……。

 でも私は――あの旅客機の整備士として、どうしても真実を伝えたかった。お金は全て返します。』

 

音声が止まる。

一瞬の沈黙。

ステファンは静かにマイクを取った。

「……彼は、今も罪悪感に苦しみ続けています」

 

リョクの顔が真っ青になった。

「捏造だ!大金を振り込んだ?私はそんなことしていない!」

「いいでしょう。それならどうして、宇宙ジャックの件を黙っていたのですか?」

 

ステファンはスタッフに頷く。

次の瞬間、会場スピーカーから新たな音声が流れた。

 

――『リュウジ……宇宙船ジャックよ。この人の他に五人仲間がいる。

 ナッシュ、お前はここに残れ。操縦席から離れるな。頼んだぞ、機長!』

 

その一言で、空気が凍りついた。

報道カメラが一斉にナッシュへと向く。

 

会場の空気が、一段と張りつめた。

「これは、宇宙管理局が録音していた旅客機との通信記録です」

ステファンは視線で合図を送り、リョクを真っ直ぐに射抜いた。

 

「彼は――一人で宇宙ジャックを取り押さえ、その最中にレーザー銃で撃ち抜かれました。それでも逃げる犯人を追い詰めた。宇宙ジャックは退路を作るため、機械室に爆弾を仕掛け、起爆したのです」

 

直後、会場のスピーカーが低く唸り、荒れた音質の記録が流れ始める。

 

『ジャック犯が機械室に爆弾を仕掛け、爆発させたんだ。――システムの異常はどうなっている』

『せ、生命維持装置の数値は……異常なし。冷却循環系統も、酸素供給ラインも正常……でも……! ――ま、マズいぞ!? し、姿勢制御ユニットに異常! それに重力制御ユニットもおかしい! おまけに、自動操縦ができない! どうすんだよ、こんな状況で…』

 

リュウジと、まだ声の幼いナッシュの慌ただしい声が、天井に反響する。

前列の記者たちが固唾を呑んだ。シャッターの連打は止み、紙を擦る音さえ吸い込まれていく。

 

ステファンは続ける。

「彼と当時のチーフパーサーは、危険を顧みず――機体外板に穴が開いた環境で、姿勢制御ユニットと重力制御ユニットの応急修理にあたりました。真空暴露、帯電、二次爆発の危険。操縦の支援が切れれば、即座にロスト。……それでも戻った」

 

再び、記録音声。

 

『航路からだいぶズレているけど、何かあったのか?』

『ジャックがありました。その影響です』

『ナッシュ! さっきの爆発で方向がズレたんだ! 飛行指示器を確認してなかったのか!?』

『お、俺……そ、そんな余裕……』

『そこは――“魔のゾーン”の入り口だ。三分後にダストチューブの軌道と交差する。すぐに回避せよ!』

 

会場に、鋭い吸気音がいくつも重なった。

ステファンは拳をいちど握り、ほどく。

「ここで、ようやく彼が操縦席に座った。燃料は底が見え、機体は損耗し、補助系は半壊。――“パイロット殺し”と呼ばれる魔のゾーンを、なお突っ切る判断を選んだのです。ほかに、残る可能性が無かったから」

 

言葉の端に、震えが混じった。

彼はすぐに息を整え、視線を壇下に落とす。

「これが、真実です。彼は――先の会見である女性が言ったとおり、誰かを護るために、可能性がほんの僅かでもあるなら“燃え尽きても構わない”という顔で、最後の最後まで救う選択を続けた。それがどれほど苦しい選択か、あなたに想像できますか!」

 

「いい加減なことを……!」

リョクの顔が紅潮し、声が跳ねた。

だがステファンは一歩も退かない。

 

「貴方は彼を“罪人”として吊し上げた。報道規制を敷き、偽の数字を公表し、世論を誘導した。――“死亡者は乗客の八割”。嘘だ!」

ステファンの声が会場の外壁まで届くほど、鋭く炸裂する。

「実際の死者は“およそ三割”だ。彼は七割を救った。……私は同じS級パイロットのブライアンに訊いた。『あなたなら全員を救えたか』と。彼ははっきりと言いました――『無理だ』。あの局面で、あの判断はできなかった。彼でなければ、乗客は誰も救えなかった、と」

 

演壇の上でステファンの肩が微かに震え、次の瞬間、声はさらに烈しくなる。

「あなたがしたことは、彼と、亡くなられた方々と、残された遺族への“冒涜”だ!!」

 

怒号ではない。澄んだ刃のような叱責だった。

広い会場に、深い静寂がおりる。

カメラのランプが、音もなく瞬いた。

 

「彼はきっと、真実を語ってもなお、救えなかった命の重みを、自分の背に背負い続けるでしょう。けれど――彼ひとりに“すべて”を負わせることは許されない。あなたにも、相応の責任を取ってもらう」

 

リョクの肩ががくりと落ち、ナッシュは両手で顔を覆い、小さく何かを繰り返した。

どこからか、抑えた嗚咽が響く。遺族だろうか、あるいは――。

 

ステファンはマイクを握り直し、静かに結ぶ。

「これが“悲劇のフライト”の真実です。――命を懸けて誰かを救った男の名誉を、私は取り戻したかった」

 

最初は、遠慮がちな掌が一つ、二つ。

やがて波紋が重なり、拍手は“嵐”へと変わる。

音の波が天井を満たし、フラッシュは、もう痛いほどには光らない。

 

その嵐の只中で、ステファンの視線はただ一人を探し当てていた。

慰霊広場で、ひとり黙って花を置いた男――リュウジ。

壇上から会場の奥へ、見えない直線が引かれる。

 

ステファンは最後の言葉を置く。

「機長責任の所在は、法廷で判断されるべきでしょう。けれど――“英雄”も“悪魔”も、ラベルを貼るのは、もう終わりにしませんか」

彼は会場をゆっくり見回し、声をやわらげた。

「生きて帰ってきた子たちがいる。助かった人たちがいる。死者を悼む場は、真実の上にしか築けない。――それだけは、今日ここで、皆さんと共有したい」

 

静寂。

そして、確信に満ちた拍手。

立ち上がる者、涙を拭う者、記者の中にもカメラを下ろす者がいる。

 

リョクは椅子の背にもたれ、視線を宙に漂わせた。

ナッシュは、ただ小さく首を振っている。

通路の奥、制服の群れ――宇宙管理局の面々が静かに前進を始め、証拠保全の隊列が形を成す。

 

ステファンは深く一礼した。

拍手はなお止まず、しかしその音色は、さっきまでと違う。

見世物の劈(つんざ)く音ではなく、記録と証言の上に積まれていく、静かな合意の音。

 

“数字ではなく、体温で、痛みで、責任で”。

彼が掲げた言葉どおりに、今日の会見は一本の記録となって刻まれた。

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