サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第40話

テレビの画面が暗転し、静かな電子音とともに電源が落ちた。

部屋に残るのは、微かな空調の音と、誰も言葉を発さない沈黙。

 

やがて、カオルが立ち上がり、小さく息を吐いた。

「……さて、行くか。」

その声は、会見の余韻を切り裂くように、静かに響いた。

 

「そうだね。」

ベルがゆっくりと立ち上がり、淡い笑みを浮かべる。

「そうだな。」

メノリも続き、エリンへと視線を向けた。

 

「……私も、そろそろ帰らないと。」

エリンは柔らかく言いながら、椅子の背に手をかけた。

 

「じゃあね。」

シャアラが優しく微笑み、ルナも小さく頷く。

「……うん。」

 

「気ぃ付けて帰るんやで。」

チャコが手を振ると、

「明日、八時に迎えに行くからな! みんなで検診だ、寝坊するなよ!」

とハワードが言い、胸を張った。

 

「ハワードに寝坊って言われてもね。」

シンゴが呆れたように呟くと、

「うるさい!」とハワードがシンゴの頭を軽く小突いた。

 

ルナは小さく手を振り、皆を見送った。

ドアが閉まると、部屋の空気が一気に静まる。

 

ルナはテーブルの前に戻ると、腕を組むようにして額を乗せた。まぶたの裏に、慰霊広場の白い塔と、彼の背中が焼きついている。

「……っ」

ぽたり、とテーブルの木目に透明な滴が落ちた。息を殺そうとしても、喉の奥がきゅうと痛む。

――ステファンの言葉が、命の重さが、遅れて胸に押し寄せてきた。

 

***

 

外の通りを歩きながら、エリンは後ろを振り返った。

「ねぇ……ルナを一人にして良かったの?」

その声に、カオルたちは歩を緩めた。

 

「あれで、いんです。」

カオルが静かに言う。

「そーそー。」

ハワードが頭の後ろで手を組み、少し空を見上げた。

 

「ルナは、私たちの前だと泣かないですから。」

シャアラが寂しげに微笑む。

 

「私たちの前では、弱みを見せないからな。」

メノリの声には、どこか優しい哀しみが滲んでいた。

 

「今は、そっとしておいた方がいいね。」

シンゴも同意するように頷く。

 

「そうだね。」

ベルが穏やかな表情で言った。

「――ここからは、リュウジの番さ。」

 

その言葉に、エリンは足を止め、驚いたように皆を見渡した。

そして、ゆっくりと笑みを浮かべる。

「……みんな、ちゃんと分かってるんだね。」

 

「伊達にサバイバル生活はしてないですから。」

カオルがフッと笑った。

 

少し間を置いて、ハワードが拳を上げた。

「よーし! せっかくだし、みんなで映画でも見に行こうぜ!」

 

「俺はパス。」とカオルが即答。

「私も今日は無理かな。」とシャアラ。

「俺も今日は……。」とベル。

「僕も、これから家族と出かけるんだ。」とシンゴ。

 

「エリンさんは!?」とハワードが振り返る。

「私も……帰らないと。」

エリンは少し申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「そうか……。」

ハワードは肩を落とす。

 

その背中を見て、メノリがため息を漏らした。

「しょうがない。――私が付き合ってやる。」

 

「ほ、本当か!?」

ハワードが顔を上げ、目を輝かせた。

 

「ただし、お前のおごりだからな。」

メノリが口元に笑みを浮かべる。

 

「ああ!」

ハワードも嬉しそうに頷いた。

 

彼らの笑い声が、夕暮れの街に溶けていく。

その背中を、エリンはしばらく見つめ、

――「あの子も、きっと大丈夫。」と小さく呟いた。

 

***

 

一方その頃、静かな部屋の中。

静かな空調の音。

ルナは袖で涙を拭い、深く息を吸い込んだ。鼻先に、ほんの微かに残る――リュウジの香り。昨夜から、彼の気配はそこかしこにある。

ルナは唇を寄せて、目を閉じた。

 

「……リュウジ。」

 

小さく呟いた声は、誰にも届かないまま、

彼女の涙と一緒に、静かに夜へと溶けていった――。

 

――――

 

胸の奥で小さく弾む鼓動が、まだ完全には静まっていなかった。

「……ルナ、起きたんか?」

 

 背後からチャコの声。ソファに腰を下ろし、リモコンで音量を絞ったままのテレビに視線をやるでもなく、横目でこちらを見た。

「うん。少し、すっきりした」

「なら、よかったわ」

 

 安堵の吐息が落ちる。けれど、部屋にある気配はふたりぶんだけ。耳を澄ませば空調の風と、遠くの走行音。――いない。

「……リュウジは?」

 

 言葉にすると、欠落の形が鮮やかになる。たったそれだけで、胸の真ん中が空洞みたいに冷えた。いま、どこで、なにを考えてるんだろう。

 ―――寂しい。

 ―――会いたい。いま、すぐに。

 

「チャコ! ちょっと出てくる!」

「ちょ、出てくるって……あ、行ってもうたがな」

 チャコの呆れ声を背に受け、ドアノブを引いた。壁の時計は二十一時を指している。月の太陽のエアポートまでは、エアタクシーなら十分かからない。けれど、足は止まらなかった。真っ直ぐで平らなコロニーの歩道を、ルナは走る。サヴァイヴの野道に比べれば、どれほど走りやすいことか。けれど息はすぐ荒くなる。胸の熱と歩幅が競い合うみたいに、速さは勝手に上がっていく。

 

 “月の太陽”に近づくと、夜にこそ映えるガラスの回廊が、星図みたいに冷たい光を撒いた。併設のショッピングモールは、夜の方が活気がある。行き交う人の群れは煌めきを纏い、笑い声が天井を跳ね返す。人混みを掻き分け、滑る床を蹴り、エアポート側のコンコースへ――。

 

「木星からの便は、何番ゲートに着きますか!?」

 

 インフォメーションに飛び込み、カウンターへ身を乗り出す。

「え、えっと……木星発ですと二番ゲートになりますが、先ほど最後の便が到着しました、が……」

「ありがとうございます!」

 

 言い終わりを待たずに駆け出した。ゲートに近づくほど、人影はまばらになる。賑わいの膜が薄く剥がれ、白い照明の音だけが濃くなる。二番ゲート前――足が止まる。

 

 見渡す。左、右、奥。―――いない。

 

 膝から力が抜けるような感覚。帰ってこないのかもしれない――焦りと空虚が胸の内側を擦って、呼吸がひとつ詰まった、その時。

 

「……ルナ?」

 振り返るより先に、声が届いた。耳が先に震える。

 二番ゲートの自動扉が開く。薄い機械音。そこから現れたのは、左手に小さな紙袋、右手には白いハンカチをきつく結んだ、見慣れた背丈と歩幅。

 

「こんな時間に、何してるんだ?」

 驚き半分、呆れ半分の声音で、でも歩みは迷いなくこちらへ。

 視界が滲む。頬を伝う温かい道を、拭っても、拭っても追いつかない。

 

「どうしたんだ」

 彼は少し屈み、視線の高さを合わせてくれる。その顔は――いつもと同じ。優しい、困ったような、でも責めない顔。胸の芯がじんわりと温かくなり、くしゃくしゃの顔のまま、言葉がこぼれた。

 

「……リュウジ。――よく、頑張ったね」

 彼の瞳が一瞬、大きく見開かれる。すぐに緩み、ああ、と柔らかい息が落ちた。すべて、通じ合うみたいに。きっと彼は分かった。自分がここまで走ってきた理由を。自分がいま、どれだけ彼に会いたかったのかを。

 

 肩を並べ、ゆっくりと歩き出す。

「ルナ。――ちゃんと、終わらせてきた」

「……うん」

「最初に言うって、約束だったからな」

 

 囁きは、エアポートの高い天井に吸われて丸くなる。ルナは照れくさく頷き、そっと彼の右腕に両手を回した。

「テレビでね。最後まで、ちゃんと見てたよ」

 

 頬を彼の肩に預ける。彼の匂いが胸に落ち着きを落としていく。

「……ルナ、ちょっと右手、痛い」

「あっ、ごめん!」

 弾かれたように手を離す。怪我を忘れていた。小さく息を整え、くるりと彼の左側へ回り込む。今度は左腕を抱いた。

 

 彼は苦笑いをして、片眉を下げる。

「今日は――どこにも行かない」

 短い宣言。

 それでもルナの手は離さない。握る指先の力は、ほんの少しだけ、強くなる。

 

 コンコースの渡り廊下を抜け、見下ろす広場は夜の海みたいに光っていた。噴水が低く音を立て、遠巻きの人波が泡のように絶えず形を変える。

「ねえ、紙袋……」

「制服だ。」

「ふふ。やっぱり。コーヒーは買ってないんだ」

「水で我慢した」

「えらい」

 肩が触れるたび、こそばゆい。けれど離れたくなくて、歩幅を彼に合わせる。

 

 エアポートの端に、展望テラスへ続く小さな階段がある。二人はそこで立ち止まり、横並びのまま柵に肘を預けた。ガラス越しの宇宙港には、滑走路のガイドライトが一直線にのび、夜空の深い藍を貫いている。

「……月の太陽、やっぱり綺麗」

「設計、ムダにこだわったからな」

「“ムダに”って言わないの」

「はいはい」

 やわらかな空気が、ふたりの間にひとつ分、毛布みたいにかかる。

 

「ねえ、リュウジ」

「ん」

「慰霊広場……怖かった?」

 

 彼は少しだけ間を置き、正直に頷いた。

「怖い、というより――重い。あそこに立つと、身体の内側が引っ張られる感じがする」

「……うん」

「でも、行かなきゃいけなかった。俺のわがままだ」

 

 わがまま――それは、彼が滅多に使わない言葉。ルナは目を瞬かせ、彼の横顔を見つめる。

「わがままで、いいよ」

 

 静かに答え、左腕に回した手のひらを少しだけきつくした。

「私も、わがまま言うから。ね、いまは“ここにいて”」

 

 彼は苦笑いを、今度は照れ隠しみたいに短く零し、視線だけをこちらへ向ける。

「いるよ。今日は、ずっと」

「……約束ね」

「ああ」

 

 テラスに、小さな風が通り抜けた。

 手すりの向こうで、発着ゲートのアナウンスがかすかに重なり合う。人々の生活がまた始まっている。帰還した子どもたち、待ってくれていた家族、そして、まだ帰れない誰かのための灯が、この場所には並んでいる。

 ルナは、彼の肩にこつんと額をあずけた。

「リュウジ」

「ん?」

「おかえり」

 

 彼は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと開き、まっすぐに返す。

「ただいま」

 

 テラスを降り、ふたりは再び並んで歩く。手は繋がない。けれど、左腕の温度がそれ以上に確かなものを伝えていた。

 ガラスの自動扉が開くと、夜の匂いが薄く入れ替わる。遠く、ステージイベントが終わったのか、拍手が波紋のように広がり、やがて消えた。

 

 エスカレーターの手すりにそっと指を置き、ゆっくりと降りていく。

 彼は左手で紙袋を握り直し、右手のハンカチを気にして視線を落とした。

「痛む?」

「少し」

「帰ったら、また手当てするね」

「頼む」

 短いやりとりが、妙に嬉しい。こんな当たり前の言葉が、やっと自分たちにも戻ってきた。

 

 コンコースに出ると、夜の人波はさらに薄くなっていた。並んで歩く影が、床面の光で長く引き延ばされる。

 ルナは左腕に預けた頬をほんの少しだけ離し、彼の耳元で囁いた。

「――今日は、どこにもいかないでね」

「分かってる」

「ほんと?」

「ほんと」

 確かめ合うように、二度。

 それでも、ルナは腕を離さなかった。離せなかった。

 

 “月の太陽”の外扉が開く。夜の気温はやや低い。人工の風が頬を撫で、街の灯が凛と澄んでいる。

「帰ろうか」

「うん。――一緒に」

 足取りは、もう走らない。急がない。

 並んだ影だけが、まっすぐに帰路を指して伸びていた。

 

――――

 

玄関が閉まる小さな音。すぐにリビングの明かりの白が二人の影を伸ばした。

「ただいま、チャコ」

「おかえり。――ちゃんと会えたんやな」

「ええ」

 ルナの頬に浮かぶ安堵を見て、チャコも肩の力を抜く。

 

「チャコ、リュウジの怪我、見てくれる?」

「ええで。ちょっと見たるわ」

 

 チャコはぴょんとテーブルへ飛び乗り、掌に収まる小型センサーを起動。リュウジの右手を上からなぞるようにスキャンしていく。青白いラインが薄く走り、数値がチャコの瞳に反射した。

 その間にルナは食器棚や引き出しを順に開け、中身を確かめていく。

「救急箱は奥の部屋にある」

「分かったわ」

 

「――問題あれへんな。深い所まではいってへん。単なる切り傷や」

「助かる」

 

 リュウジは椅子に腰を下ろし、汚れた白いハンカチの結び目を器用に片手で解いた。布を外すと、掌の付け根に斜めの赤。乾きかけの血がうっすら光る。

「うわぁ、結構いたそうやな」

「すぐに閉じるさ」

 

平然と答えつつ、部屋をぐるりと見回す。壁際に積まれた段ボールが目に留まった。

「なんか買ったのか?」

「“極撰・太陽果樹園 プレミアムミックス”や。――リュウジも飲むか?」

「ああ」

「よっしゃ」

 

 チャコは冷蔵庫を開け、ぎっちり並ぶ紙パックのひとつを取り出して戻ってくる。

「ありがとう」

 

ストローを刺し、一口。果肉の厚みが舌に乗り、控えめな酸味がふっと抜けた。

「……中々、美味いな」

「せやろ。ウチが選んだんや」

 

 ちょうどその時、奥から白い箱を抱えてルナが戻ってきた。

「なに飲んでるの?」

「フルーツジュース」

 

リュウジがもう一口すすったところで、ルナの眉が申し訳なさそうに寄る。

「……あの、そのジュース買うのに、千ダールも使っちゃったの」

「千ダール? どうりで美味いわけだ」

「お金は、ちゃんと返すから……」

「別にいい。『好きに使え』って言ってあっただろ」

「もう……」

 

苦笑するルナの横で、チャコが空にした紙パックを掲げる。

「ほれみぃ、言ったとおりやろ」

「チャコ~!!」

「冗談やがな、冗談」

「まったくもう!」

 腕を組むルナの頬が、呆れと安堵でほんのり赤い。

 

「それより、あっちの部屋。段ボールが山積みなんだけど」

「前のコロニーから引っ越してきた時の荷物が、そのままだ」

「そうなんだ……。――手、見せて」

 

促されるまま右手を差し出す。

「ちょっと滲みるわよ」

「どうぞ」

 

消毒スプレーが小さく鳴り、透明な雫が傷に散る。ルナの指が無駄なく動いて、滅菌ガーゼをそっと当てた。

「サヴァイヴでの経験、出とるなぁ。手つきが速い」

「元々、ルナは包帯を巻くのは上手かったぞ」

「まぁ、リュウジが一番手当受けとったもんな」

「否定はしない」

 

くすりと笑い合う間にも、ルナは包帯を滑らせ、手首で固定する。最後に端を差し込み、形を整えて――

「はい、できた」

「ありがとう」

 包帯の上から、そっと指で撫でて確かめる。締め付けは最小限、安定感は十分。見た目もきれいだ。

 

「さて。俺は風呂に入ってくる」

「リュウジ、晩ごはんはもう食べたの?」

「そういえば、まだだったな」

 

腹を軽く押さえる仕草。

「それじゃ、何か作っておくから。ゆっくり入ってきて」

「悪いが、頼む」

 バスルームのドアが閉まり、ほどなくして湯の音が遠くに立ちはじめる。

 

――――

 

ルナは冷蔵庫を開けて、うっすらと眉を寄せた。

 白い庫内灯に照らされて並んでいるのは、ミネラルウォーターのボトルが数本と、例の“極撰・太陽果樹園”のフルーツジュースが一本――それから、なぜかドアポケットに乾麺が二束、ぎゅうっと差し込まれているだけ。

 

「……どうしよう」

 

 開け放った冷気の前で腕を組むと、背後のテーブルから紙を捲る音がした。

 

「仕方ないやろ。こういう時は――」

 

 チャコがテーブルの上に前足を投げ出し、何やらご機嫌でページを繰っている。艶消しの厚紙、金の箔押しロゴ。“ROOM SERVICE MENU”。

 

「何、見てるの?」

 ルナは冷蔵庫の扉をそっと閉め、テーブルへ歩み寄る。

 

「これなんてどうや?」

 チャコがぱたん、と一枚を広げ、爪でとん、と指した。

 

「なになに……フルーツ盛り合わせ……五十ダール!? た、高い!」

 載っている写真は確かに宝石みたいに綺麗だ。けれど桁が一つ間違っている気さえする。

 

「却下」

 ルナは即断し、メニュー表を手繰り寄せてぱらぱらと捲る。チャコは口を尖らせ、隣でまだ“デザート”の頁に未練がましく視線を残している。

 

「……これにしましょう」

 ページを捲る音が止まり、ルナが示した先をチャコが覗き込んだ。

 

「おかゆ!? ルナ、そんなケチケチせんと。おかゆなんて誰が食べんねん」

「おいしいじゃない。三ダールだし、さっぱり――」

「値段の話やない。そんなことしとったら、リュウジが逆に気ぃ遣うねん」

 

 ぐっ、とルナは言葉に詰まる。確かに、それはそうかもしれない。彼が今日どれだけ心身を削ってきたかを思えば、“気遣いのつもりが、気遣わせる”のは本意ではない。

 

「せっかく“悲劇のフライト”の件が一件落着したんや。こういう時は祝わなあかん」

 チャコは腕を組み、むすっとしながらも目は優しい。

 

「……うーん」

 ルナは再びメニューを捲る。寿司、ステーキ、点心に麺……どれもそれなりの値段だ。寿司の頁で指が止まる。

 目を走らせ、値段と内容を天秤にかけ――ぴたり、と止めた。

 

「分かった。これにしましょう」

 ルナが差し出したのは「寿司パーティーパック(二~三人前)」。色とりどりの握りに巻物、玉子、いくら、海老、白身――ぎゅっと詰まって、三十ダール。

 

「ええやないか」

 チャコは満足げに頷いた。

 

「じゃあ、明日の朝ごはんの材料も、ついでに頼んじゃうね」

 ルナは段ボール受け取り用の共用インターフォンに駆け寄り、ルームサービスの呼び出しを開く。

 寿司パックに加えて、牛乳、卵、ベーコン、レタス、トマト、パン、玉ねぎ、バター、オートミール、果物を少し。合計額を素早く確認して送信。返信の到着予定時刻は十五分後。

 

 ――ほどなく、バスルームの扉が開いた。湯気とともに、濡れた髪をざっとタオルで拭ったリュウジが現れる。

 

「寿司にしたのか」

 テーブルの上に届いた折箱を見て、ぽつりと呟く。

 

「何か作ろうと思ったんだけど、材料がなくて……」

 ルナは申し訳なさそうに手を合わせた。

 

「俺も買ってなかったしな」

 リュウジは思い出したように冷蔵庫へ。扉を開けて、ミネラルウォーターを取り出しかけ――手が止まる。

 

「……他にもずいぶんと買ったんだな」

 空だったはずの庫内は、さっきルナが注文した品々で一気に“生活の色”を帯びている。

 

「うん。一週間分は買っておいたの」

 ルナは嬉しそうに微笑んだ。

 

「ここにいる間は、ゆっくりしてていいんだぞ?」

 冷蔵庫を閉めながら、リュウジは横顔で念を押す。

 

「そういう訳にはいかないわよ。ご飯や掃除くらいは私がやるから」

 柔らかいけれど、譲らない言い方。

「……あんまり無理しなくていいからな」

「うん。ありがとう」

 

 三人はテーブルに腰を下ろす。

「いただきます」

「いただきます」

「いただきまーす!」

 

「ウチは卵からや!」

 チャコが躊躇なく玉子に箸を伸ばす。

「私はマグロにしよ」

 ルナは醤油をちょんとつけ、目を細めて口へ。

 

「……うまぁ!」

「おいしい……」

 二人の顔がぱっと明るくなる。その様子を見て、リュウジも口元を緩め、白い烏賊をひとつ摘んだ。

 

「美味しそうに食べるな」

「当たり前や!」

 チャコはすでに二貫目の卵へ。

「お寿司なんて、久しぶりだもんね」

「たくさん食べてくれ」

 リュウジはミネラルウォーターを一口のどへ落とす。喉の渇きが、やっと静かになった。

 

「そういえば、今日――エリンさんがここに来たわよ」

「エリンさんが?」

「うん。“式典を一緒に見ようと思って”って。残念ながら入れ違いだったけど」

「悪いことしたな。あとで連絡しておく」

 

「それだったら、私にも連絡先を教えてくれる?」

「エリンさんの?」

「ううん。リュウジの」

「ああ。あとで送る」

 

「ありがと――あっ! チャコ! 私の卵は!?」

「何いうとんねん! 早いもん勝ちや!」

「もーっ!」

 ルナは半ば笑いながら、別の寿司に箸を伸ばす。

 笑い声に押されるように、部屋の空気が一段軽くなる。テレビは消えたまま、窓の外の光の帯がゆっくりと流れていた。

 

合間に、ルームサービスの第二便が届く。ルナは玄関で受け取り、チェックリストを確認してキッチンへ運び込んだ。牛乳の栓をひねって、一本はすぐ冷蔵庫へ。パンは冷凍庫へ半分、オートミールはストッカー。

「明日の朝はどうする?」

「うーん、ベーコンエッグとトーストにサラダ……と、チャコのためにヨーグルト」

「分かっとるやん!」

「“極撰”は一本だけ、朝に三人で分けるからね」

「ケチや」

「千ダールの“一本”なの!」

 二人のやり取りに、リュウジが肩で笑う。

 

「なぁなぁ、ルナ。明日の朝ごはん、ウチの“特別メニュー”も追加してええ?」

「特別?」

「“チャコ巻き”や! ベーコンを卵でくるっと巻いてな、ケチャップを――」

「それ、ただのベーコンエッグロールじゃない……」

「名前が大事や!」

「ふふ……じゃあ、“チャコ巻き”一皿、ね」

「よっしゃ!」

 

 寿司折がきれいに空になるころ、ルナの頬にはうっすらと赤みが残っていた。いつのまにか笑って食べ、笑って喋って、笑って片付けている。

 それを横目に、リュウジはふと冷蔵庫へ視線を向けた。空っぽだった箱が、生活の匂いで満ちていく。

 ――どこにも行かない夜に、必要なものがひとつずつ揃っていく。

 

「片付けは私がやるから、二人は先に休んでて」

「手伝う」

「え、でも右手――」

「左手でもできる」

「ほな、やろうか」

 

 三人で手早く皿を重ね、折箱を畳み、テーブルを拭く。ルナは最後にゴミをまとめて、キッチンのタイマーで“明朝の湯沸かし設定”をオンにした。

 

 窓の外、月の太陽〈ソーレ・デッラ・ルーナ〉の広場を走るライトレールが、遠い線を引いていく。

 食器の乾く匂い、フルーツジュースの甘い残り香、そして新しく詰まった冷蔵庫の低い唸り。

 ささやかな音たちが、静かに“日常”を組み立てていた。

 

 その夜は、誰も無理をしなかった。

 祝うほど大げさでもなく、質素すぎるわけでもない、ちょうどいい食卓。

 “帰ってきた”ことを噛みしめるのに、充分な時間だった。

 

――――

 

食後の片づけを終えると、部屋は一気に静かになった。食器が乾く音と、外壁の向こうで遠ざかっていくエアタクシーの低い唸りだけが、夜の底に沈んでいく。

 

「――そうだ。明日のこと、伝えとかないと」

 椅子の背にもたれかけていたルナが、思い出したようにリュウジを見る

「明日?」

「八時に迎え来るってハワードが言ったわ。全員で検診するんだって」

 

 リュウジは頷きながらドリッパーに湯を落とし、湯気の薄い帯を立ちのぼらせている。香ばしい匂いが“部屋の夜気に溶け、胸の奥まで温めてくれるようだった。

 

「ちょっとだけだ」

 顔を上げたリュウジは、苦笑いしながらカップを掲げる。

「……砂糖は?」

「入れない。ブラック派だ」

「うん」

 ルナは肩の力を抜き、ダイニングの椅子に腰を戻した。包帯を巻いた彼の右手は、もう痛まないのだろうか――視線が自然とそこへ落ちる。

 

 カップがテーブルに置かれ、ほのかな熱が木目を伝って広がった。リュウジは一口だけ啜り、息を細く吐くと、視線を窓の外に投げる。

 

「……すまないが、明日から二日ほど家を空ける」

 

 湯気の向こう、静かな声だった。

「え?」

 

 ルナの背筋が、反射的に伸びる。

「用事がある。ちょっと片づけておきたいことがな。検診が終わったら、ルナとチャコはここでゆっくりしてていい。食材は足りるだろ」

「うん……でも、大丈夫?」

「大丈夫だ」

 

 即答に、迷いの影はない。けれどその横顔は、どこか遠い光を見ているみたいで、ルナの胸に柔らかな痛みが生まれる。

「……分かった。行ってらっしゃい、って言えるように、ちゃんと朝起きる」

「出るときは一緒に行くから大丈夫だ」

 リュウジはそれ以上、言葉を継がず、コーヒーをもう一口だけ。香りとともに、短い沈黙がテーブルの上に降りた。

 

「ほな、そろそろ寝ようか?」

 空気の継ぎ目を縫うみたいに、チャコが明るい声を差し込んだ。

「二人はどこで寝る? リュウジはベッド使い。ルナはソファでええな?」

「いや、逆だ。ルナがベッドを使え」

「ダメ。ここはリュウジの家でしょ。リュウジがベッド使って」

「いや、俺はソファで充分だ」

「私がソファで寝る」

「ダメだ」

 

 間髪入れず、低く穏やかな拒否。ルナも負けじと身を乗り出す。

「わ、私は平気なの。サヴァイヴじゃ、もっと硬い床でも寝てたんだから」

「ここはサヴァイヴじゃない。ベッドを使え」

「でも――」

「でも、じゃない」

 二人の視線がテーブルの上でぴたりとぶつかる。柔らかな夜に、ほんの少しだけ火花が散った。

 

「もー、ややこしいわ」

 チャコがあごをさすり、にやりと笑う。

 

「ほな、こうしよ。二人でベッドで寝たらええやろ。広いし、問題な――」

「「チャコ!」」

 

 声が見事に重なり、チャコは肩をすくめて笑いを飲み込んだ。

「冗談や、冗談。――でも、ほんまは一番合理的やけどな」

「合理的でもダメ」

 

 ルナは頬を熱くしながら、両手をばたばたと振る。リュウジは咳払い一つで話を戻した。

「……俺はソファで寝る」

「じゃあ、私が――」

「ルナ」

 

 名を呼ぶ、その一音に力がある。彼の目は真っ直ぐで、けれど押しつける強さではなく、今夜くらいは譲ってほしい、と静かに頼む色だった。

 ルナは唇を噛み、ほんの数秒だけ睫毛を伏せると、観念したように息を吐いた。

「……分かった。今日はベッド、使わせてもらう。でも次は交代ね」

「考えておく」

「約束」

「検討する」

「もう……」

 むくれた顔が可笑しくて、彼の口元にまた笑みが浮かぶ。チャコは「はいはい決まり決まり」と前足を叩いて散会を宣言した。

 

 寝支度は手早く進んだ。ルナは洗面所で歯を磨き、Tシャツに着替える。鏡に映る自分の寝癖は、もう朝ほど酷くない。それでも、リュウジの前に出る前に指先で丁寧に梳かした。

 

 寝室のドアを押すと、外の街灯の縁がカーテンにやわらかな輪郭を描いている。ベッドに腰を下ろすと、シーツはリュウジの匂いがした。胸の奥が少しだけ高鳴る。

 

 リビングでは、リュウジがソファの背にブランケットを広げ、クッションの位置を調整していた。包帯の手を使わないよう、左だけで器用に。テーブルには読みかけの資料が一枚、コーヒーは空になっている。

 

「……痛まない?」

 

 寝室のドアから顔を出して、ルナが問う。

「平気だ。すぐ塞がる」

「無理しないで。」

「ああ。おやすみ」

「おやすみ、リュウジ」

 言葉が部屋の温度に吸い込まれていく。

 

 寝室の灯りが落ち、静けさが降りる。ルナは横になり、天井の淡い影を追った。明日の八時、検診、そして……二日だけ家を空けると言った彼。どこへ行くのか、何を終わらせに行くのか。訊きたい言葉はいくつも喉まで来たが、彼の「大丈夫だ」という声が、問いをそっと押し戻す。

 

(いってらっしゃいって、笑って言おう)

 ゆっくりと、胸の奥で言葉が形になる。目を閉じると、枕の匂いに彼の気配がふわりと混じった。

 

 リビングでは、リュウジが最後に窓の外を確認し、ブランケットを肩まで引き上げる。コーヒーの残り香、微かな機械の振動、遠くの航路を行く灯り。右手の疼きは、鈍い鼓動に変わっていた。

 

(二日。片をつける)

 心の中で短く区切り、呼吸を整える。目を閉じる前、寝室のドアの向こうに、かすかな寝返りの音がした。安心が、胸のどこかに灯る。

 

 夜が、ゆっくりと回る。

 明日の八時、約束の時間まで――わずかな休息が、三人をやさしく包み込んだ。

 

――――

 

次の朝。

 キッチンの小さな物音――包丁がまな板に触れる乾いたリズムと、トースターの軽い唸りに、リュウジはまぶたの内側をふわりと明るく感じて目を開けた。上半身を起こし、ブランケットを膝に畳む。視線の先、白い朝の光の中に、エプロンも付けず手際よく立ち働くルナがいた。

 

「おはよう、リュウジ。起こしちゃった?」

「おはよう。……早いな」

 

 壁の時計は六時半を指している。

「サヴァイヴでの生活で早起きが習慣化しとるんやろ」

 

 ダイニングの椅子で小さな足をぶらつかせ、テレビを点けたままチャコがあくび混じりに言う。

「それもそうだな」

 

 リュウジは肩を回し、大きくひとつ伸びをして立ち上がる。

「もう少しでごはんできるから、ちょっと待ってて」

 

 ウインクするルナの横顔に、フライパンの油がきらりと跳ねた。

 ああと返事をして、リュウジは洗面所へ。冷たい水で顔を洗い、歯を磨いて戻ると、テーブルには四角い影の整列――ベーコンエッグ、きつね色のトースト、オリーブとレモンを効かせたサラダ、角切りフルーツが沈んだヨーグルト。湯気とともに、朝の匂いがふくらんでいく。

 

「お待たせ」

「助かる」

「はい、チャコは“チャコ巻”ね」

 

 ベーコンを卵でくるりと包んだ黄色い小山がチャコの前に置かれる。

「おおきに、ルナ。……美味そうやな」

 

 チャコの目がきゅっと細くなり、しっぽが揺れた気配。

「リュウジはコーヒーでいい?」

「ああ。悪いな」

「ルナはええ嫁さんになるで」

 

 チャコがにやり。

「そうだな」

 

 気に留める風もなく頷くその素っ気なさに、ルナの耳朶がほんのり色づいた。

「はい、コーヒー。……こっちは私とチャコの分、牛乳ね」

「いただきましょう」

 

 三人で手を合わせ、いつもの言葉が揃う。

「いただきます」

 

 リュウジはまず、ベーコンエッグの白身を少し切って口に運んだ。縁がかりっとして、黄身はとろり。噛むほどに塩気と甘さが混ざっていく。

「どう?」

 

 ナイフを持つ手がわずかに止まり、ルナの目だけが不安げに揺れる。

「美味い」

 リュウジの短い答えに、ルナの表情がぱっと花開いた。トーストを齧る音まで軽やかになる。

 

「ねぇ、リュウジ?」

「ん?」

「嫌じゃなかったら……チャコと私で、段ボールの荷ほどき、しようか?」

 

 リュウジはフォークを置き、サラダの皿を指先で押しやりながら小さく首を振る。

「別にそこまでしなくていい」

「なんや、見られて困るもんでもあるんやないやろな」

 

 チャコがじと目。

「そういうのはないが……。分かった。暇なときでいいからな」

 

 言いながら、どこか居心地悪そうに耳の後ろをかく。

「うん。ありがとう」

 ルナはそれ以上踏み込まず、にっこり笑って、ヨーグルトの上のベリーをひとつ沈めた。

 

 食べ終えると、リュウジがいち早く皿を重ねて立ち上がる。

「片づけは俺がやる」

「いいわよ、私が――」

「もう少しでハワードが来る頃だろ? 出かける準備でもしておけ」

 

 蛇口がひねられ、水音が明るく跳ねた。

「……ありがとう。」

 

 ルナは素直に洗面所へ。チャコはその隙に冷蔵庫から例の“極撰”ジュースを取り出し、ちゅうっと吸って満足げ。

 皿洗いを終えたリュウジはクローゼットへ移動し、手早くシャツとジャケットを選ぶ。片手でバックパックの口を開き、書類、洋服、外付け端末、カード類を迷いなく放り入れる。

「ルナ、そろそろ時間だぞ」

「今行く」

「レディは支度に時間がかかるもんや」

 

 チャコがひょいと肩に乗る。

 ほどなく、ルナが洗面所から姿を見せた。

「お待たせ」

「行くか」

 玄関を出ると、朝の空気は澄んでいて、マンションのエントランスに差す光はやわらかい金色だった。

 

 数分待つと、通りの端に長い車体――リムジン仕様のエアカーが滑り込み、ハザードが規則正しく灯る。

「おーい! ちゃんと起きたな!」

 

 後部ドアが開き、ハワードが顔を出した。

「おはよう、ハワード」

「おはようさーん」チャコがひらひら手を振る。

「それじゃ、気をつけて行ってこい」

 

 リュウジの声は穏やかだ。

「なんだ、リュウジは行かないのか?」

「ああ。悪いな」

 微笑を返す。

 

「リュウジも気を付けてね。――いってらっしゃい」

 ルナのことばに、リュウジは小さく頷いた。

 

「いってきます」

 ルナとチャコは車内へ、ドアが静かに閉まり、エアカーは滑るように発進する。リュウジはしばらく手を振り、それから踵を返してソーレ・デッラ・ルーナの方角へ歩き出した。

 

 車内。ハワードは座るなり腕を組んで、むむむと唸る。

「うーん、なんというか……」

「気持ち悪いで、ハワード」

 

 先に刺すチャコの言葉が早い。

「どうしたの?」

 

 正面の席でルナが首を傾げる。

「いや、なんか……ルナとリュウジのやり取りが、新婚夫婦みたいでな」

 

むふふ、と頬が緩む。

「な、何言ってるのよ!」

 

 ルナは思わず声を上げ、頬がふっと熱くなる。

「実際どうなんだ!?」

「どうって……別に、普通よ」

「せやで。二人とも全然、手ぇ出さないねん」

「当たり前でしょ」

「まぁまぁ、詳しく聞かせてくれよ」

「そやな、せっかくの機会やし」

 

 いつの間にかチャコはするりと席を移り、ハワードの隣で肘と肘を当て合っている。

「はぁ……この二人と一緒だと、なんだか疲れる」

 ルナは窓の外に目をやった。朝の街は、ビルのガラス面に光を返し、空路には真新しい航路標識が青白く瞬く。サヴァイヴの大地とは違う人工の滑らかさ。そのなめらかさの上を、彼の歩幅で歩いていく背中を想像すると、胸の奥があたたかく満たされる。

 

「ところで今日は検診のあと、どうする?」

「一旦、学園で書類の確認や。行方不明扱いから『帰還』への切替いろいろあるらしいで」

「分かったわ」

「それから、ハワード財閥の事務局にも寄る。家のインフラ再開の手続き、今日中に段取りつけたるって、ハワードのおやっさんが言うとった」

「……ありがとう」

 

 頭を下げるルナに、ハワードは照れくさそうに鼻を鳴らす。

「気にすんな。……それより、昨夜はホントに何も――」

「しつこいわよ、ハワード」

「す、すみません」

 小さくなるハワードにチャコが吹き出し、車内に笑いが戻った。

 

 ――同じ時刻。

 ソーレ・デッラ・ルーナのホールを、一歩一歩確かめるようにリュウジは歩く。右手の包帯は白く清潔で、痛みはもう鈍い痺れに変わっている。

 朝のエアポートは夜ほどの喧騒もなく、清掃ロボットが床に淡い水跡を残しながら通り過ぎた。ガラス越しに見える滑走路の先、空の層が薄く重なり、上方へ行くほど白みが増す。

「……今日中に、連盟へ顔を出す」

 

 独り言を言いながら、手元の端末で、メールを刻む。カラスに『動いた』合図を出すための短文を送る。

 コーヒースタンドの前で一瞬、足が止まった。

「コーヒーをブラックで」

 

 紙コップを受け取り、ベンチに腰を下ろした。喉を湿らせ、ふと目を閉じる。――白い塔、長い階段、かすかに残る鉄の匂い。掌に残る鈍い痛みは、昨夜の線をただ思い出に変えず、確かな重みとして現在へ繋ぎ止める。

 

 視界を開けば、行き交う人々の中に、昨日と違う色が混じって見えた。

 何かが確かに動き始めた――そんな朝だった。

 

 車内では、ハワードとチャコの“根掘り葉掘り”がいよいよ佳境に入っている。

「で、初めて“手ぇ繋いだ”ん、いつや?」

「えっ……その……」

「お、図星か」

「うるさい!」

 頬を熱くしながらも、ルナの胸は不思議と静かだ。からかいの波をやり過ごすたび、昨夜の二番ゲートの灯りが、肩に寄せたぬくもりが、内側からそっと背を押してくれる。

 窓の外、エアポートの尖塔が遠くに見えた。そこに、彼はいる。

 それだけで、今日をまっすぐに始められる気がした。

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