総合メディカルセンターの白い光に包まれながら、検診は骨の髄まで――視力、聴力、血液、生体ストレス、宇宙放射線暴露量まで、抜け漏れなく進んだ。ハワード財閥の名が効くのか、端末に並ぶ数値は次々と緑に変わり、判定は恐ろしく早かった。
「はい、これで全部。優秀ね」
白衣の医師がタブレットを返す。ちなみにその隣のベイでは、チャコがメカニックに囲まれていた。
「そこ、もうちょい右や。オイル足らへん」
「はいはい、チャコさん、ジャイロの微調整入れますよ」
くすぐったそうに肩をすくめるチャコに、小さな工具と光のアームが忙しなく踊る。
「これで完了。次の点検は一週間後で」
「おおきに。新品みたいや」
検診が終わると皆んなはソリア学園へ直行した。校門をくぐれば、懐かしい風と、ガラス越しの青空。事務棟の応接室には、規律正しい空気と紙の匂いが漂っている。担任のスペンサーが、いつも通りの几帳面さで書類の束を並べた。
人数が多いので、カオル達、男性陣は別の部屋で書類の確認を行なっている。
「では、ここからここまで。行方不明扱い解除、在籍継続届、それから――帰還者健康観察の誓約書ね」
「はい」
ルナは黄色い上着の袖を軽くまくって、ペン先を走らせる。シャアラは真剣な表情で欄外の注意を読み、メノリはページの抜けがないかを一枚ずつ確かめていく。
「スペンサー先生、できました」
「ありがとう、ルナくん……うん、問題ないですね」
赤いスタンプがぱしん、と気持ちよく落ちる。
「終わったわ」
振り返るルナに、シャアラが小さくコクリとうなずいた。
「そうだ、メノリくん」
スペンサーが思い出したように引き出しを開け、一枚の封筒を取り出す。
「リュウジくんに、これを渡しておいてくれるか?」
「分かりました」
受け取ったメノリは、そのままルナへ。
「だ、そうだ」
「ええ。戻ったら届けるように伝えておきます」
「あ、ああ……助かるよ」
スペンサーは少し困ったように頷いた。いつの間にかリュウジの連絡係がルナになっていたからだ。
応接室を出ると、三人は中庭へ向かった。白い小径、風に揺れるポプラ、昼前の陽光。
「ええ!? じゃあリュウジは二日も帰ってこないの?」
シャアラが驚いて足を止める。
「うん。何か用事があるみたい」
ルナは上着のポケットに手を入れたまま、少しだけ視線を上げる。
「不自由はしてないか?」
メノリの問いに、ルナは肩の力を抜いてほほ笑んだ。
「全然。むしろ快適だよ」
その顔は嘘をつけない。むしろ、頬の色は帰還前よりずっと柔らかい。
「ねぇ、せっかくだし、今日は三人で女子会しようよ!」
シャアラが手を合わせ、ぱっと花が咲くみたいに目を輝かせる。
「女子会!?」
メノリが一拍遅れて肩を跳ねさせた。
「いいでしょう、メノリ」
「……うーん。まぁ、いいだろう」
「女子会って何するの?」
「ケーキを作ったり、夕食作ったり、おしゃべりしたり!」
「勉強もだ」
メノリが釘を刺すのを、シャアラが「はーい」と伸びやかに受け流す。
「それで、どこでやるんだ?」
「一泊二日で――リュウジの家で!」
「ええ!?」
ルナの声が裏返る。
「ダメかしら……?」
シャアラの瞳が不安に揺れ、メノリも少しだけ頬をかく。
「うーん……リュウジに聞いてみないと」
ルナは唇を結んで考える。――でも、きっと。
「まぁ、いいって言うかな」
自分でも驚くほど自然に、頷いていた。
「一応、聞いてみるけど」
「やった!」
シャアラが小さく跳ねる。
「それじゃあ、お昼ご飯食べたらリュウジの家に集合ね!」
「分かった」
メノリは素早くスケジュールアプリにメモを入れる。
「うん!」
ルナも封筒を胸に抱え、笑った。
ーーーー
ハワード財閥の事務局は、磨かれた金属の匂いがするほど効率的だった。受付でハワードが名を告げると、並べられた端末が一斉に起動し、係員たちが「こちらへどうぞ」と笑顔で道を空ける。用意された椅子に腰を下ろし、必要事項を入力して――印字、確認、電子署名。驚くほど滑らかに、奨学金の再開手続きは終わった。
「よし、完了。送ってくよ」
ハワードの大きな手が軽くひらひらと振られる。ルナは「ありがとう」と頭を下げ、車に乗り込んだ。
リュウジの部屋に戻るころには、背中にいい具合の疲れがたまっていた。ドアを閉め、ほっと息を吐くと、ソファの脇にリュックを下ろす。そのままキッチンへ。冷蔵庫から朝の残りのフルーツヨーグルトを取り出し、テーブルへ置いた。
「チャコ、お昼、食べましょう」
「待ってました」
椅子にぴょんと飛び乗ったチャコが、スプーンを構えて満面の笑み。二人で一口目を合わせると、甘い香りが口の奥でほどけた。
「ねぇ、今日ね。メノリとシャアラが来るの」
「そうなんか」
「うん、“女子会”。泊まるって」
「ウチはかまへんで」
「ありがとう、チャコ」
ルナは嬉しくなって、ヨーグルトからのぞいたベリーを小さく弾く。ぷち、と音がした。
「楽しみだなぁ~」
軽い昼食のあと、洗い物を手早く片づける。チャコは「用事、済ませてくるわ」と出かけていき、部屋は一旦静かになった。
ルナは袖をきゅっと捲り、奥の部屋――段ボールが積まれた“倉庫”へ。床から天井まで、きっちりと詰んだ箱が壁のように連なっている。
「改めて見ると、すごい量ね……」
最上段のラベルには整った字で「航行データ/旧規格」、その隣に「構造材応力の推移(推定)」、さらに「緊急時手順・自筆メモ」。ひとつ開ければ、紙の匂い。狐色に縁が焼けた分厚い資料や、タブレットに取り込まれたままの古いメモリカードが、几帳面に並んでいた。
「S級パイロットって……やっぱり凄い」
思わず感嘆が漏れる。きちんと整えられた余白に、リュウジの癖のある筆跡。数字と矢印、そして小さな「ここで迷うな」という短い言葉。ページをめくる指先が、少しだけ熱くなる。
と、そのとき――
箱の底に、黒い厚表紙が目にとまった。金の細い縁取り。背にタイトルはない。
「……アルバム?」
そっと持ち上げる。思いのほか、重い。開こうとして、ほんの一瞬ためらった。――見ていいのかな。
迷いを飲み込んだ、その瞬間。
リビングから、端末の着信音。
ルナはアルバムを片手に、足早にリビングへ戻る。端末の画面に浮かぶ名前を見て、胸が、ゆるむ。
『いま大丈夫か?』
耳にかかる声だけで、肩の力が抜けた。
「うん、大丈夫。どうしたの?」
『昨日、着ていた制服――知らないか?』
「制服って、紺色の?」
『ああ。持ってきたつもりだったんだが、なくてな』
いつもの落ち着いた低音に、わずかな焦りが混じっている。
「あ……ごめん。今朝、紙袋に入ってるのを見つけて。血がついてたから、少し拭いて、干してたの」
『そうか。手間をかけさせたな』
「ううん、勝手なことしてごめん。どこにいるの? すぐ持っていくわ」
『大丈夫だ。それより悪いが、近くのクリーニング店に出してくれないか。場所と届け先は、あとでメールする』
「ええ、任せて」
『助かる。……またな』
「あ、それとね、今日、メノリとシャアラが泊まりにきたいって言うんだけど、いいかな?」
『ああ、構わない』
「ありがとう。それじゃあ、またね」
切ろうとした指先に、かぶさるような女性の声が、かすかに滑り込んだ。
『ちょっと、まだー?』
『今いく』
そこで通話は途切れた。
ルナは、端末の黒い画面を数秒、見つめた。胸の奥に、小さな針の先ほどの痛み――そして、温かいものがせめぎ合う。
(……大丈夫。信じてる)
息をひとつ吐き、気持ちを整える。アルバムはテーブルの端にそっと置き、寝室のハンガーから制服を丁寧に外した。袖に手を入れて形を整え、膝の上に広げて、血の跡がどのくらい残っているか確かめる。拭き取った後は薄くなっているが、袖口の縫い目に赤が滲んでいた。
「よし」
押し入れから透明のガーメント袋を見つけ、制服を畳んで差し込む。ポケットにICカード、端末、ハンカチ。玄関前に揃えた靴のひもを結び直すと、端末が震えた。
――新着メール。
『クリーニング店:ソーレ・デッラ・ルーナ モールB1「ルミナ・クリーン」。即日仕上げ可。届け先指定:木星コロニーB2 管理局保管。特殊処理(血痕)OK。必要費用は店が立替、精算は俺。無理はするな』
いつも通り簡潔で、隙がない。なのに、ところどころにこちらを気づかう言葉が滲む。
「……了解」
小さくつぶやいて、ルナはドアを開けた。
エレベーターを降りると、回廊に人工の風が流れ込んでくる。昼の照明は柔らかく、床のガイドライトが帯のように続いていた。
モールのB1へ。人波の合間に「ルミナ・クリーン」の看板が見える。白いカウンター、無機質な機械の横で、くるんとした髪の店員が明るく頭を下げた。
「いらっしゃいませー」
「クリーニングをお願いします。血が、少し……」
ガーメントを出すと、店員の目が一瞬だけ真剣になる。
「拝見しますね。……うん、大丈夫。繊維を傷めない処理、できます。即日仕上げでよろしいですか?」
「お願いします。仕上がりは、木星コロニーB2管理局で受け取りで」
「承知しました。処理内容、こちらで共有しておきます」
端末でフォームにチェックが入るたび、心配ごとが一つずつ片づいていく感覚が心地よい。
「料金は?」
「本日は立替で。後日、まとめて精算とのご指定です」
「助かります」
サインを終え、控えを受け取る。制服は白いベルトコンベアに吸い込まれ、背後の扉の向こうへ運ばれていった。
店を出て、モールの吹き抜けに立つ。喧噪はあるのに、耳の奥は静かだった。
――『ちょっと、まだー?』
さっきの声を思い出す。胸の真ん中が、きゅっと狭くなる。でも、同時に、じんわりと温かいものも広がる。
(リュウジは今、何かを“片づけて”いる最中なんだ)
慰霊広場での背中、握りしめた刃、滴る血、深く下げた頭。
彼が“終わらせる”と言ったこと。あの言葉の重さを、私はもう知っている。
ーーーー
クリーニング店の控えをポケットにしまい、歩道の風を胸いっぱいに吸い込む。ソーレ・デッラ・ルーナの外縁を回ってリュウジのマンションへ向かうと、前方に見覚えのある二つの後ろ姿。片方は紙袋を抱えてスキップ気味、もう片方は両手を均等に使って重さを分配するように歩いている。
「おーい! シャアラ、メノリ!」
「ルナ!」シャアラがぱっと振り返り、手をぶんぶん振る。
「ちょうど今ついたところだ」メノリが小さく顎を引いた。紙袋の口から、ベリーの赤や生クリームのパックが顔を覗かせている。
「たくさん買ったのね」
「今日は“女子会スペシャル”だからね」シャアラの目がきらきらしている。
「計量器と温度計、持参だ。失敗はしない」メノリはいつもの調子で淡々と宣言した。
三人でエントランスを抜け、エレベーターを上がる。ドアを開けると、朝のうちに片づけたキッチンが、迎えるように明るかった。大きなボウルと泡立て器、ふるい、シルパット、そして天板に敷かれたオーブンペーパーが整列している。
「わぁ、準備万端ね」
「導線と作業台は確保済み。換気もよし」メノリが窓を少し開け、空気の流れを確認する。
「じゃあ、エプロンつけて、手を洗って――ケーキ作り、始めます!」シャアラが宣言すると、三人の声が重なった。
「おー!」
今日のメニューは二本立て。ひとつは苺とベリーのショートケーキ。もうひとつは、ビターすぎない、でもちゃんと“チョコ”なガトーショコラ。材料はテーブルに整列し、役割分担もすぐ決まった。
「スポンジはわたしがやる。温度管理が要だ」メノリがガス口に小鍋を置き、湯せんの準備をする。
「クリームとデコは任せて! フルーツの飾りはセンス勝負よ!」シャアラはベリーを洗い、キッチンペーパーで優しく水気を拭き取っていく。
「私は洗いものとサポート、それからシロップ作るね」ルナは計量カップに“極撰・太陽果樹園”のフルーツジュースを少し注ぎ、砂糖と合わせて弱火で溶かしながら香りを確かめた。「……うん、いい匂い」
ボウルに卵と砂糖。メノリが湯せんにかけ、真剣な顔で温度計の目盛りを追う。
「三十四から三十六度。ここを外すと泡のキメが変わるらしい」
「はいっ、泡立て係シャアラ、参ります!」
「待て、いまは私だ」メノリが手早くハンドミキサーを動かす。細い腕に迷いはない。とろりとした薄黄色が、空気を含んで白に近づき、持ち上げた跡がゆっくり消えるまで――「はい、ここで粉」
「了解!」ルナが薄力粉をふるい、ふわあ、と粉雪のような雲がボウルに降りる。「きれい……」
「ここからはゴムべらで、さっくり」メノリの手首が、空気を潰さない円を描く。「ルナ、溶かしバター少量。温度は三十七」
「ばっちり」ルナが縁から回し入れ、混ぜ筋が消える手前で止める。
「型、用意できてる」シャアラが底に紙を敷いた丸型を差し出す。「いってらっしゃい、未来のスポンジ!」
生地が流れ込み、表面が静かに張る。オーブンの扉を開けると、熱気に甘い気配が乗って頬を撫でた。
「一七〇度、二十五分。様子は見ながら」メノリがタイマーをセットする。
焼成の間に、今度はガトーショコラの番だ。
「チョコ、湯せんで溶かす。水が入ると分離するから注意」メノリは湯気の角度まで目で追っている。
「卵黄と砂糖、白っぽくなるまで。はい、筋が残る!」シャアラはやる気満々で泡立て、腕がぷるぷるしてくると「交代!」とルナに笑顔でバトンタッチ。
溶けたチョコにバターを落として艶が出たら、卵黄へ。粉を合わせ、最後はメレンゲで軽さを出す。
「メレンゲは、艶のあるツノ。砂糖は三回に分けて」メノリが指先で泡の角をつまみ、頷いた。「よし」
「混ぜすぎ注意、ルナもういいだろう」
「……はい、先生」
型に流す前に、ルナはふと、オーブンの小窓を覗いた。中で膨らんだスポンジが、真ん中から山を作っている。
「……きれい」
「あと五分」メノリが微調整で温度を落とし、焼き上がりの高さを均一にする。「ケーキの“地平線”は、温度と時間で決まる」
「名言っぽい!」シャアラが笑って親指を立てた。
タイマーが鳴る。扉を開けると、ふわりと甘い風。竹串を刺すと、何もついてこない。
「成功」
三人はハイタッチした。型から外して、逆さにして粗熱を取る。
次は生クリームだ。氷水にボウルを当て、八分立て手前で止めたい。シャアラが勢いよく泡立てるうち、クリームの表情が一瞬ざらついた。
「あ、やばい」
「ストップ」メノリがすばやく“極撰”ジュースを小さじ一垂らす。「脂肪球のつながりを少し切る。温度を一度上げてから、また冷やす」
ルナは氷を足し、ボウルの底を回して温度を整える。滑らかさが戻ると、三人同時に安堵の息が洩れた。
「ほっ……心臓に悪い」
「でも、ちょっとだけフルーツの香りがして、良いかも」ルナがクリームをひとすくい舐めると、ふわりとベリーの残り香。「うん」
スポンジをスライス、シロップを打つ。クリームを薄く伸ばし、苺を規則正しく並べ、またクリーム。上からスポンジをかぶせ、側面を下塗りで“下地”を作る。
「メノリ、パレットナイフ似合う」
「道具は正しい角度で使えば、誰にでも似合う」
「それも名言っぽい!」
仕上げのクリームをさっと回し、側面にストライプをつける。シャアラがベリーを盛りつけ、ミントの葉をちょんとのせる。
「完成!」
テーブルに白い丸が二つ並んだ。ひとつはベリーショート。もうひとつ、やや低めで重心のあるガトーショコラが、しっとりと光を吸っている。
「チョコには粉糖で“雪”。ショートには……」ルナは冷蔵庫の隅から、細いチョコプレートを見つけた。「これ、描いてもいい?」
「なんて書くの?」
ルナは少しだけ考えて、ペン型のチョコで小さく書いた。
『おかえり』
シャアラが覗き込んで、嬉しそうに笑う。
「いいね。ルナの字、やわらかい」
「……うん」
そこへ、玄関の方から電子錠の音。
「ただいまー……って、わ、すごっ」チャコが紙袋を抱えて戻ってきた。「えらいことになっとるやん」
「ちょうど完成したところ」
「味見役、いただきます!」チャコが箸――ではなく、フォークを高々と掲げる。「行儀はわるいけど、端っこ切って……」
「少しだけだぞ」メノリが目線で制す。
一口、頬張ったチャコの目が、うっとろりと溶けた。
「……うまっ。幸せ、直送便……」
「よし、合格だ」メノリが僅かに口角を上げる。
「ルナのシロップ、効いてる。ほわっと香る」シャアラが、嬉しそうにルナの肩に額をこすりつける。
「ありがと」
そのまま三人は、箱詰め用の小さいカットも用意した。明日、皆に配る分。ハワードの分はチョコを厚め、シンゴにはベリー多め、ベルは甘さ控えめに。
「カオルは?」
「……二種類、半分ずつ。きっと味に文句は言わないけど、食べ比べて表情が変わるの、見たい」
「メノリ、性格悪い?」
「研究熱心だ」
三人は笑った。
片づけを終えるころには、部屋に甘い匂いがやわらかく残り、窓の外の光が夕方の色に変わっていた。ショートケーキは冷蔵庫の一番高い段に、ガトーショコラはカットしないままラップで包み、風味を落ち着かせる。
「ね、夜はさ」シャアラがソファにごろんと転がり、クッションを抱いた。「恋バナ、しよ」
「勉強も、少しは」メノリがすぐ脇に座って教科書を開く。
「恋の方が“予習”が難しいのよ」シャアラが悪戯っぽくウインクする。
三人は牛乳と、ほんの一口の“極撰”ジュースをグラスに注ぎ、軽く合わせた。
「女子会、開会!」
笑い声が、焼きたての甘い空気に溶けていく。
テーブルの中央、チョコプレートの小さな一言は静かに光っていた。
“おかえり”。――いつでも。
ーーーー
フォークの先でクリームをすくいながら、四人はソファからぞろぞろとキッチンテーブルへ移動した。テーブルの真ん中には、ベリーが宝石みたいにきらめくショートケーキと、粉糖の雪をまとったガトーショコラ。甘い匂いが湯気みたいに立ちのぼり、窓の外の午後の光まで少しやわらかく見える。
「──で、これは何?」
ルナが、テーブル端に置かれた八つに仕切られた紙袋へ手を伸ばした。紙の口を開くと、つるりとした光沢の束が手のひらに落ちる。
「写真や。サヴァイヴのん、現像してきたんやで」
チャコはケーキを頬張りながら、得意げに胸をそらす。
「わぁ……」
ルナは束ねられたゴムを外し、テーブルいっぱいに写真を広げた。甘い匂いの上に、潮と土と風の色がぱっと咲く。
「これは──最後に島に戻った時の、だね」
輪の中心で皆が笑っている一枚を指で押さえ、ルナはやわらかく目を細める。
「こっちは、シロメツクサを取りに行った日の」
メノリが一枚を取り上げた。写真の中では、花冠をかぶったルナとメノリとシャアラ、アダムが並んでいる。白い花が陽に透けて、四人の笑顔まで少し白く見えた。
「この二枚、続きだね。──あ、見て、こっちはアダムとリュウジが弓を作ってる」
シャアラが別の束を広げた。大いなる木の根元、屈んで弦の張りを確かめ合う二人の横顔。片方は真剣で、片方は子どもみたいに楽しそうで、どちらも太陽の光を額に受けている。
「……いい写真ね」
ルナは喉の奥でひっそり言って、指先で写真の角をなぞった。指に残るのは光沢の滑り、そして胸に広がるのは、あの湿った土と木陰の涼しさ。
「腕がええねん。被写体もええけどな」
チャコが鼻を鳴らす。
束をめくるルナの手が、ふいに止まった。紙の端をつまんだまま、肩ごと小さく固まる。
「ねぇ、チャコ……」
「なんや?」
「この写真って、全員分あるの?」
「そらそやろ。八部現像するのに時間かかったんやで」
チャコは胸を張る。
「どうしたの、ルナ?」
シャアラが覗き込んできて──「あっ」と口に手を当てた。
「……いい写真じゃないか」
メノリは逆にやさしく微笑んだ。
「こ、これはちょっと見せられないわよ!」
ルナはあわててその一枚をテーブルに伏せた。けれど、遅かった。視界の隅に、しっかり焼き付く。
お姫様抱っこされたままの自分。頬は見る見るうちに真っ赤で、でも、どこか夢心地のまなざしは崩れない。腕の中の逞しい影、額の汗、近すぎる呼吸──すべてが一枚に閉じ込められている。
「ええ写真やないか〜」
チャコがにやりと笑う。フォークの先で皿を小突き、リズムをつけるみたいに。
「恥ずかしいし、それに……わ、私、変な顔してる」
ルナは頬に両手を当て、指の隙間からそっと写真を盗み見て、さらに真っ赤になった。
「何言うとんねん。ほれ、こっち見てみ」
チャコが別の一枚をひょいと掲げる。
シロメツクサの花冠を頭にのせたルナが、にやけた笑みでカメラを見ている。その背後で、リュウジが目を見開き、何かを言いかけて止まったような表情だ。驚きと、困惑と、どこか甘い戸惑いが混じる顔。
「な、な、なっ……!」
ルナは言葉の階段を踏み外し、その場でしばたたく。
「私、こんな顔してるんだ……」
「リュウジといる時は、いつもこんな顔してるぞ」
メノリが淡々と述べる。否定も誇張もない、ただの観測結果のように。
「うん、“乙女”の顔してる」
シャアラが頬杖をつき、うっとりとした声音で追い打ちをかける。
「えぇ〜〜……」
ルナは耐えきれずテーブルに突っ伏した。髪がふわりと広がり、頬はケーキの苺みたいに熟れている。
「今夜の恋バナ、楽しみだわ」
シャアラがにっこり。フォークの先でベリーをひとつ転がし、ぽん、と口に放り込む。
「議題は三つやな」
チャコが指を三本立てる。「一、出会いの瞬間(※リュウジの第一印象)。二、告白のタイミング(※予定含む)。三、初デートの行き先(※ソーレ・デッラ・ルーナ内限定でも可)」
「勝手に議題が整っているな……」
メノリが小さく肩をすくめるも、さりげなくメモ帳を取り出している。整理魔はどこでも仕事が早い。
「出会いの瞬間は……」
ルナは顔を上げかけて、また伏せた。「や、やっぱり今はパス!」
「ほな準備運動や。写真、並べ替えよ」
チャコが素早く写真を回収し、時系列に並べ始める。
「ここが“花冠事件”。ここが“弓づくり共同作業”。ここが“みんなで焚き火”。で──これが“お姫様抱っこ”や」
「事件って言わないの」
ルナが抗議するも、声は弱い。写真のうえの自分が幸せそうすぎて、言葉の芯がすぐ溶ける。
「ねぇ、これ、ルナの分はルナが持ってて」
シャアラが、そっと“お姫様抱っこ”の写真をルナの前に押し出した。「大事に、ね?」
「……うん」
胸の奥のどこかが、あたたかく灯る。指先が震えないように、写真の角を二本の指でそっとつまむ。
「アルバム、作るといい」
メノリが提案する。「島の匂いは、いつか薄れる。けど、並べて物語にすれば、記憶は整理されて、長持ちする」
「タイトルは『サヴァイヴのち、月の太陽で』とかどう?」
シャアラが楽しそうに笑う。
「センスあるやん。表紙は花冠つけたルナの写真で決まりや」
チャコが指笛を鳴らすように口をすぼめた。
「や、やめてってば……!」
ルナは両手で顔を覆いながら、指の隙間から皆を見た。笑い声、ケーキの甘さ、紙の触感、午後の光。全部がここにあって、全部がやさしい。
「……でもね」
ぽつりと、指の隙間から言葉がこぼれた。「私、やっぱり嬉しいの。こうして笑って、この写真みたいに、また笑えるのが」
メノリが頷き、シャアラが椅子ごと近づいて肩を寄せる。チャコは“ええやん、その顔”と短く言って、空になったフォークを皿に置いた。
「ほな、第一部は“ケーキと回想会”。第二部は“恋バナ本編”や」
チャコが手のひらをぱん、と打つ。「その前に、ジュースおかわりな。ルナはどうする?」
「ちょうだい」
ルナが顔を上げ、涙の名残を指でそっと拭った。頬はまだ熱い。でも、胸の奥はもう怖くない。写真の中の“乙女の顔”は、否定したい恥ずかしさじゃない。守りたい、今ここにあるものだ。
「……今夜の恋バナ、楽しみだね」
ルナが照れ笑いを添えて言うと、三人の「おー!」が重なった。
テーブルの上で、写真がさざ波みたいに光を返す。甘さと笑いの匂いの中、四人の女子会は、ゆっくりと、でも確かな熱を帯びていった
ーーーー
湯気の立ちこめるバスルームからは、三人の楽しそうな声が響いていた。
「シャアラ、それ泡多すぎ!」
「え〜? だってフワフワで気持ちいいんだもん!」
「ルナ、背中流すぞ」
「ありがとう、メノリ」
湯面がぱしゃりと光を跳ね、笑い声が弾けた。まるでサヴァイヴ時代の水場でのひとときのように、温かくて懐かしい時間。
やがて、髪を乾かしながらエプロンをかけると、キッチンには香ばしい匂いが広がっていった。フライパンからは、肉と野菜の炒める音、オーブンの奥からは香ばしいグラタンの香り。窓の外はすっかり夜の色に包まれている。
ソファに腰を降ろしたチャコは、ちらりとキッチンの方へ視線を向けた。
そこには笑顔でじゃれ合いながら料理をしている三人の姿。
ルナがサラダを盛り付け、シャアラがトマトソースを味見してメノリに差し出す。メノリは一口味見して、少しだけ頷いた。
「ええもんやなぁ……」
チャコは思わず口の端を上げた。まるで本当の姉妹のようだと思いながら、視線をテレビに移した。
そのとき、テーブルの上でルナの端末が小さく震えた。
「ルナ! 電話やで!」とチャコが声を上げる。
「ちょっと今、手離せないの!」とキッチンからルナの声が返ってきた。
「ええのか? リュウジからやで」
「――えっ!?」
ルナはフライパンを慌てて火から下ろし、ハンカチで手を拭きながら駆け寄った。
「手、離せるやないかい」
チャコが呆れ混じりに笑う中、ルナは胸の鼓動を落ち着けるように一度咳払いして、通話ボタンを押した。
「も、もしもし?」
「もしもーし!」
明るく弾む可憐な声がスピーカーから響いた。
「え?」
ルナは一瞬まばたきをして、画面の表示を見た。――確かに**『リュウジ』**と出ている。
「あの……どちら様でしょうか?」
「あら、忘れたの? ペルシアよ、ペルシア」
「ペルシア……?」
ルナは首を傾げたあと、はっと顔を上げた。
「宇宙管理局の……!」
サヴァイヴからコロニーへ帰還する途中、あの重力嵐を越えた先で通信した女性。落ち着いた声で誘導してくれた、あの人だった。
「そうそう、思い出してくれた? うれしいわ〜」
「はい、その節はお世話になりました」
「あら、いいのよ。久しぶりにリュウジと話せたしね」
その直後、電話口の向こうから聞き覚えのある声が響いた。
「おい! ペルシア!」
「なによ! 電話中よ!」
「スリッピーを家まで送ってくる! 帰るなよ!」
「はいはい、いってらっしゃい〜」
まるで漫才のようなやり取りが、スピーカー越しに響き渡る。
「ごめんね〜」と再びペルシアの声が戻ってきた。
「い、いえ……何してるんですか?」
「昼過ぎからスターフォクスとリュウジと呑んでるのよ」
「えっ……?」
「悲劇のフライトの件でお礼がしたいんだって。ほんと律儀よね〜、あの子」
ペルシアがくすくす笑う声が聞こえる。
「でも……リュウジらしいです」
ルナもつられて笑った。その口調に、ペルシアは少し間をおいて微笑む声を返した。
「ふふっ、ずいぶんとリュウジのこと、知ってるのね?」
「サヴァイヴで一緒に生活してましたから」
「なるほどね。──それに今は同棲してるんだっけ?」
「ど、同棲というか……」
ルナの頬が一気に赤く染まる。
「サヴァイヴでの間に借りてた奨学金の家が止められちゃって、一週間だけ泊めてもらってるんです」
「奨学金? 親御さんは?」
「お母さんは三歳の時に宇宙病で、お父さんは八歳の時に事故で……」
ルナの声が少しだけ小さくなった。
「……そう、嫌なこと話させちゃったね」
「あ、いえ! 全然。今はサヴァイヴで一緒だった皆が家族みたいなものですから」
「……」
受話口の向こうが静かになった。
「ペルシアさん?」
「……ルナちゃんって、いい子ね」
その言葉はふっと柔らかく、まるで抱きしめられたように心に響いた。
「えっ……」
「ルナちゃんはお洋服とか好き?」
「え? 嫌いではないですけど……あまり気を使ったことは」
「奨学金で苦労してるなら、なおさら! お姉さんに任せなさいっ!」
「え、あの、どういう――」
そのとき、また遠くからリュウジの声。
「おいペルシア! いい加減、人の携帯返せ!」
「うるさいわね、今いいところなんだから!」
「誰と話してるんだ!」
「秘密よ!」
通信の向こうでどたばたした音がして、次の瞬間、ペルシアの明るい声が聞こえた。
「それじゃあ、楽しみにしててね!」
「えっ、ちょっとペルシアさん!? あの――」
ぷつん、と通話が切れた。
静まり返るリビング。
ルナは端末を見つめたまま、しばし言葉を失っていた。
「……リュウジやなかったのか?」
テレビを見ていたチャコが首を傾げる。
「うん、ペルシアさんからだったの」
「ペルシア?」
「ほら、重力嵐でこっちに来た時に通信してくれた……」
「あぁ〜! あの時リュウジが遊ばれとった人かいな!」
チャコは思い出したように手を打ち、ケラケラ笑う。
「おい、二人とも、そろそろできるぞ!」
キッチンからメノリの声が響く。
「ルナ、お皿出して!」
「分かった!」
ルナは端末をテーブルに置き、立ち上がった。
キッチンの方では、三人分の夕食が湯気を上げている。
ルナは笑みを浮かべながら、食器棚から皿を取り出した。
ーーーー
夕食の片づけが一段落すると、キッチンの湯気の名残がまだ温かいリビングに、ノート端末と薄い教科書がずらりと並んだ。テーブルの中央に置かれた小さな卓上ホロ投影機が、青白い板書を宙に浮かべる。
「よし、始めるぞ。今日は“取り戻す日”だ」
メノリが指を鳴らすと、空間に**ソリア学園・補講プラン(仮)**のタイムラインが立ち上がった。
「前半は《航法・物理》、後半は《生命・社会》、最後に《言語表現》の三本立て。行方不明になってた期間の内容も混ぜていく。質問はいつでも」
「はーい!」とシャアラ。
「よろしくお願いします」とルナは背筋を伸ばし、ペンを握った。テーブル端ではチャコがクッションに座り、「ウチは監督や」と言いつつ、ちゃっかりフルーツジュースをストローで啜っている。
◇◇◇
「まず《航法・物理》。単元は相対速度と回避行動」
メノリがホロに二つのベクトル矢印を描く。
「行方不明中に学園では、ダストチューブ内でのΔv最小回避が出てた。問題、ネフェリスが秒速12kmで進行、前方に中型隕石が秒速10kmで逆行。相対接近速度は?」
「えっと……12+10で22km/s!」とシャアラ。
「正解。で、可航限界まで3秒しかないと仮定したら必要な横方向回避距離は?」
メモ用ホロに数字が走る。
「22×3で66km……だけど横方向だから、必要横速度は……」ルナが眉を寄せ、指を折る。「規定安全距離が1.5kmなら、1.5を3で割って0.5km/s、つまり500m/sの横成分があれば理論上は躱せる……けど、機体応答遅れとバリア展開損失を足して余裕を見ないと危ない」
メノリが頷く。「いいね。行方不明の間に、実地で学んだ感覚が計算にちゃんと乗ってる。補足。バリア展開で最大8〜12%の推力低下、神経応答制御時は遅延0.08〜0.12秒の人機同調ラグが生じる。ここ、試験に出る」
「ラグって思ったより効くんやな……」とチャコ。
「効く。だから予見操舵が要る。――次、重力制御カット落下回避」
メノリはさっと場面図を切り替え、ネフェリスの軌跡を弧で描く。
「こっちは行方不明期間の授業“発展編”。ルナ、あの時リュウジがやった“重力切って落としながら躱す”――原理を一言で」
「相対加速度をゼロ近傍に寄せて衝突確率を落とし、自由落下に姿勢制御を乗せて面で抜ける、かな」
「満点。シャアラ、落下中の姿勢安定を保つ制御優先順位は?」
「姿勢→熱→通信の順……でも、近接物標がある時はセンサー更新レートを落とさない!」
「よし。――二人とも、行方不明期間の穴はここで埋められる」
青白い光の板書がほどけ、要点が三行に圧縮されていく。
・相対速度は和、回避は横成分と余裕の確保
・バリア展開は推力低下と同調ラグを見込む
・自由落下回避=相対加速度ゼロ化+姿勢優先
ルナが小さく息をついた。「座学で聞くと、ちゃんと整理されるんだね」
「現場の熱は大事。でも言語化しておくと、次に体がもっと早く動く」
◇◇◇
「後半、《生命・社会》に移る。単元は閉鎖生態系の基礎とコロニー法・情報倫理」
メノリの指先から、緑の環状図が咲く。
「学園では“エコドームのO₂/CO₂循環”をやった。サヴァイヴで体感済みだろうけど、式で書けるかが評価される。――ルナ、酸素収支の最小モデルを書いてみて」
「d[O₂]/dt=光合成−呼吸−漏洩……で、光合成はk·I·[Chl]、呼吸はr·Pop、漏洩はλ·[O₂]」
「いい。係数名は授業仕様と概ね一致。シャアラ、非常時の優先順は?」
「水→空気→熱→食。水は循環効率次第、空気はCO₂センサの正確さが命」
「そう。――そして摂食は“心”にも関係する。ここ、先生は強調してた」
スクリーンが切り替わり、今度は条文の短冊が並ぶ。
「行方不明中に進んだ《コロニー法》は、“報道と個人の権利”。昨日の会見を踏まえて、要点だけピン留め」
メノリは三つ、印を打った。
① 真実性・公益性・相当性――三要件
② 未成年者・被害者の二次被害防止義務
③ 編集における文脈省略の危険**(切り取り)**
「質問。昨日、カラスの挑発はどこまで許容される?」
ルナが少し考え、「相当性のラインを試す質問。けど、二次被害の回避を欠けばアウト……かな」
「うん。境界の理解が大事。怒りは正当でも、言葉は刃になる」
シャアラが手を挙げた。「メノリ、私たち、行方不明のテストはどう扱われるの?」
「学園は補講・口頭試問での単位認定を出す方針。だから今みたいに、式で書ける・言葉で説明できるを両輪で積む」
◇◇◇
「ラスト、《言語表現》――“要約と再構成”。行方不明の間に、声明文の書法と質疑応答のフレームをやった」
メノリは短い段落を空中に映すと、「これ、昨日のステファンの会見要旨。三文で要約して」と課題を出す。
ルナがペン先を走らせる。
「① 追悼の意と沈黙への反省。② 収集した証拠に基づく“真実”の提示。③ 個人に過剰な責を負わせない、という提言」
「簡潔で筋がいい。――次、反論を想定して“再構成”。“捏造だ”と責められた時の一文」
「『一次資料の提示(点検報告書・通信記録)と、関係者の証言の相互補強によって立証します』」
メノリの口元が緩む。「よく訓練されてる」
「よし、仕上げ。口頭試問ごっこ行くぞ。私が試験官」
メノリが背筋を伸ばすと、空気が少しだけ引き締まった。
――試問①「自由落下回避で、通信断に踏み切る判断基準は?」
「生残確率の上昇と干渉リスクの比較。近接密度が閾値を越え、通信系が姿勢制御を阻害するなら断つ」(ルナ)
――試問②「エコドームでCO₂上昇。最初の一手は?」
「センサ異常の排除→換気・藻類系の励起→消費行動の調整。人の動揺抑制も同時に」(シャアラ)
――試問③「報道に対し、未成年当事者として言える“一文”は?」
「『命を悼む場に、事実で向き合ってください。私たちの生活の安全も守ってください』」(ルナ)
「――合格。二人とも“言える言葉”を持ってる」
張りつめていた空気がふっと緩み、シャアラが大きく伸びをした。
「ふあぁ……でも、なんかスッキリした!」
「知識が“怖さ”を小さくするからな」メノリが微笑む。「最後に宿題。三十分だけ」
ホロに宿題が並ぶ。
・航法:ラグを含む回避時間の計算問題 ×3
・生命:O₂収支の簡易シミュレーション(係数を仮定)
・言語:昨日の会見を150字要約+自分の一文
「三十分……で終わる?」とルナ。
「終わらせる。量じゃなく質。分からなければ飛ばせ。**“立ち止まらない”**が今の授業だ」
三人は一斉に視線を落とした。ペン先と仮想キーの音が、静かな部屋に小気味よく刻まれる。チャコは邪魔をしないようにテレビの音を絞り、時々うんうんと頷きながら、ページをめくる音に合わせてストローを啜った。
やがて三十分。
「タイムアップ」メノリが手を叩く。「提出」
ルナとシャアラの端末から、回答データがメノリのタブレットに吸い込まれていく。
「航法は二人とも正解。生命は係数の置き方が良い。言語――ルナ、その150字、とても良かった。『真実は誰かの痛みの上に積むな』、覚えておけ」
ルナは照れたように笑い、シャアラは「えへへ」と肩を揺らした。
「総評。――行方不明の“穴”は、もう穴じゃない。サヴァイヴの経験が、授業を太くしてくれてる。あとは、続けること」
メノリは卓上ホロを閉じ、ふっと息を抜く。「今日はここまで。よく頑張ったな」
勉強道具を整え、三人で軽くハイタッチ。
その背中を見ていたチャコがぽつりとつぶやいた。
「知っとるか? ウチら、ちゃんと“帰ってきとる”で」
ルナとシャアラは顔を見合わせ、同時に頷く。
青白いホロの余光が消え、部屋には静かな達成感と、温かな夜の匂いが残った。