夜更け、教科書等を片付けたリビング。
クッションに輪になって座ると、チャコがわざとらしく咳払いした。
「――ほな、恋バナ審議会、開廷や」
「い、いきなり名前が重い!」とルナは慌てて両手を振る。
「いいじゃない、たまには。ね、ルナ」シャアラが目をきらきらさせる。
メノリは笑いをこらえつつ、タブレットを縦にして「議題」と書き始めた。
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一、リュウジの第一印象
「まずはここから。ルナ、最初どう思った?」
「えっと……最初はよく分からなかったかな」
ルナは頬に指を当て、少し考える。「でもね、どんなに厳しいこと言っても、仲間の輪に入らなくても、見捨てたりはしない人って思った。あとは――今もだけど、無茶する人」
即座に三方向からツッコミが飛ぶ。
「それ、ルナもや」
「うん、ルナも十分“無茶する側”だよ」
「同意だ。二人してブレーキ踏み忘れるタイプだな」
チャコ、シャアラ、メノリが呆れたように呟いた。
「え、えぇぇ……わ、私そんなに?」
「“重力嵐”に**『突っ込む』**言うたの、誰やったか振り返ってみ」チャコが細い目でにやり。
「……反省します」
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二、告白のタイミング(※予定含む)
「次。いつ言うん? もしくは、もう言った?」
ルナは小さく息を吸って、ぽつり。
「実はね。大陸に来た最初の夜に……『もし、また誰かと家族になれるなら――きっと、リュウジみたいな人がいいな』って、言っちゃったの」
三人の目が見事に丸くなる。
「核心射抜きやん!」「それ告白通り越してプロポーズだぞ」「リュウジはなんて言ってたの!?」
「ち、違うの! あの時はアダムが熱を出して……リュウジ、何か言おうとしたみたいだけど、それどころじゃなくなっちゃって。そのまま、うやむやに……」
「それ以降、その話には?」
シャアラが身を乗り出す。
「……なってない。たぶん、リュウジは忘れちゃってるよ」
ルナは苦笑して肩をすくめた。
「忘れてへんと思うけどなぁ。あいつ、顔に出さんだけや」
チャコがストローを回す。
「まぁ順序は逆だ。けど本質は同じだ。**“家族になりたい”**は最高強度のメッセージだ」
メノリが理屈っぽく頷く。
「問題はどっちが先に踏み出すか、だよね」
シャアラが微笑む。
「リュウジって、自分から告白とかするかな?」
「案外、そっちは奥手やったりしてな」チャコ。
「それに……リュウジ、好きな人いるのかな。エリンさんみたいに綺麗な人、周りに多いし」
ルナの声が少し細くなる。
シャアラは迷わずルナの手を握った。「ルナなら大丈夫だよ」
「日常のケア・行動の一貫性・信頼残高――全部、ルナがトップだ」メノリがさらっと言ってから、咳払い。「えー、つまり強いってことだな」
「ありがとう、シャアラ、メノリ……!」ルナは二人に思い切り抱きついた。
「うちも混ぜてや」チャコがちょこんと肩に乗ってきて、四人で小さな塊になる。
⸻
三、初デートの行き先(※ソーレ・デッラ・ルーナ内でも可)
ひとしきり抱き合ってから、シャアラが目を輝かせる。
「で、初デートどこ行くの?」
「そ、そもそも予定がないの。リュウジ、帰ってきてからほとんど家にいないし……」
「ルナはそれでいいの?」
シャアラが首をかしげる。
「え? な、なにが?」
「だから、一緒にいたくないの?」
「……いたいよ。でも、リュウジにはリュウジの都合もあるし……」
メノリが即断。
「なら誘えばいい。理由はシンプルでいい。『コロニーは来たばかりで分からない。案内して』――これで成立だ」
「“教えて”は最強のお願いや。断る理由ない」
チャコがどや顔で頷く。
「ルナ! がんばって!」
シャアラが拳を作る。
「で、行き先の候補、一応出しとく」
メノリがタブレットに箇条書きする。
•月光回廊(ソーレ・デッラ・ルーナ展望デッキ):静かに話せる、夜景が味方。
•ロースタリー・コリドー:焙煎の香り+コーヒー=リュウジの脳内安定剤。
•星港ガーデン:人工重力0.8Gの芝生。寝転んで星を見るやつ。
•ゼロGルーム(体験30分):二人でふわっと。手、離さない口実ができる。
•機体ミュージアム:S級の彼の“原点”に触れる。語らせろ。
「最後のは沼るで。語り出したら朝や」
チャコが肩をすくめる。
「でも、いいかも……。リュウジ、話すときの顔、好きだし」
ルナは小さく笑った。
⸻
「じゃ、作戦名:はじめての“案内して”。届け方、練習しよ」
メノリが立ち上がり、低く落ち着いた声でリュウジ役を始める。「『どうした?』」
ルナは背筋を伸ばし、深呼吸。「コロニーのこと、まだ分からないから……ね、案内して。リュウジと一緒に歩きたいの」
「『……ああ。いつ行く?』」
「今度の夕方。月光回廊、連れてって」
「『了解。コーヒーは?』」
「それは……一杯だけね」
シャアラがぱちぱちと拍手した。「完璧!」
「語尾の“ね”が効いとった。柔らかいのに、引力ある」
チャコも満足げだ。
ルナは胸の前で小さく拳を握る。「……やってみる。ちゃんと伝える」
「“伝える”は“頼る”と同義。ルナはずっと支えてきた。今度は支えてもらう番だ」メノリが微笑む。
「ありがと、みんな」
窓の外、ソーレ・デッラ・ルーナの夜景が静かに瞬いた。
甘いケーキの名残と、温かい湯気みたいな勇気が、ルナの胸にゆっくりしみ込んでいった。
ーーーー
木星コロニーの輪郭が白みはじめるころ、リュウジはもう動き出していた。昨夜はスターフォックスとペルシアと居酒屋へ。ホテルに戻ったのは一時過ぎ――眠りは浅く、身体にはサヴァイヴで染みついた“夜明け前に動く”癖がまだ残っている。
「抜けないのは俺も同じか」
苦笑しながら、自走式の歩道に身を預ける。B2ブロックの端、古い配管が露出した狭い廊下を抜け、小さなマンションの前で足を止めた。
扉をこんこん――いや、だんだんと強めて、ドンドン。
「ペルシア! 迎えに来たぞ」
応答なし。二度、三度、やはりなし。ため息をひとつ吐いて、携帯端末をかける。コールを切らず、ただ鳴らし続けるのがコツだ。やがて、鼻にかかった眠そうな声が出た。
『ふぁーい……』
「暗証番号」
『にーよん、ぜろ、ろく……』
通話を切り、テンキーに2406。乾いた解除音。リュウジは手慣れた動きで中に入る。
リビングの扉を開けると、ベッドの上でTシャツ一枚・パンツ一丁の女があぐらをかいて欠伸をしていた。
「おはようぉおお」
「お前が七時に起こしに来いって言ったんだろ」
「そうだったわね。ちょっと待ってて」
気怠い身を起こして、よろりと洗面所へ。
「冷蔵庫にコーヒーあるから、適当に外で待ってて」
「ああ」
缶コーヒーを一本つまみ、廊下の手すりにもたれて一本。……結局、もう一本。さらに、もう一本。待つこと一時間。
勢いよく扉が開いた。
「さぁ! 行くわよ!」
帽子とサングラス、きっちりメイク。別人のような完成度でペルシアが現れる。
「遅い」リュウジは空き缶を片手に言った。
「レディは支度に時間がかかるものよ」
(チャコも同じこと言ってたな)心の中で小さく息を吐く。
「そんなにせっかちだと嫌われるわよ?」
「誰にだよ」
軽口を交わしつつ並んで歩き出す。
「で、今日は何を買うんだ? またブランドか」
「もちろん♪」
音符が見えるような上機嫌。リュウジは苦笑して肩をすくめた。
角のコーヒースタンドでペルシアが立ち止まる。
「コーヒー二つね」
自分のICカードを渡して決済、受け取りはリュウジに任せる――その、ほんの数歩のあいだ。ペルシアは彼の尻ポケットから端末をすっと抜いた。
「ロックなしは不用心よね」
小さくつぶやき、着信履歴の**“LUNA”**へ発信。
『もしもし?』
「はぁ〜い」
『あ、ペルシアさん。おはようございます』
「おはよう〜。いま大丈夫?」
『はい、大丈夫です』
「服のサイズ、Mでいい?」
『え? はい、たぶん……でも、どうして――』
「了解」
切る。ちょうど戻ってきたリュウジに端末を差し出す。
「落としてたわよ」
「ああ、すまない」
受け取った彼は何の疑いもなく、コーヒーとカードを交換してポケットに戻した。
ショッピングモールに入ると、ペルシアは迷いがない。まずはカジュアルから。厚手のニット、軽い中綿、動きやすいパンツ、コロニーの人工気候と温度帯を店員と二言三言で確かめ、手際よく選んでいく。
リュウジは半歩後ろで歩幅を合わせる。服を選ぶペルシアの視線の走らせ方は、昔から変わらない。素材タグ、縫い目、伸縮、洗濯表示――彼女は“飾る”より先に“使える”を見るタイプだ。
次はアクセサリー。ショーウィンドウのガラスに、二人の上半身が薄く重なる。
「ねぇ、どれがいいと思う?」
「ん……」
リュウジの視線が、一度ガラスの反射に抜けてから、ケースの中へ落ちる。ガラス越しのライトに、銀の三日月がひとつ、静かに光っていた。小ぶり、でも輪郭が強すぎない。肌に乗せたとき、主張しないで視線を受け止める形。
(ルナに、ピッタリだな)
ふっと足が止まる。
「これがいいのね」
背後からペルシアの声。すでに店員へ合図を送っている。
「すみません、これください」
「……それでいいのか」
「ええ。悪くないセンスじゃない?」
「そうか」
自分に意見を聞いてくるなんて珍しいなと思いながらも、口に出すことはなかった。
買い物は続く。冬小物、インナー、ルームウェア、少しだけ色の遊び。荷物はみるみる増え、ペルシアは配送カウンターで住所を短く告げた。
「全部、家に送ったわ」
「成長するもんだな」
「当たり前でしょ。お礼、言われるのが楽しみだわ」
「お礼?」
ペルシアはにやりと笑い、視線を泳がせただけで答えない。
フードコートで軽く昼食。リュウジは残高を確認して眉を上げた。
「二万ダール、使ったな」
「いいじゃない。どうせ使い道ないんでしょ?」
「それはそうだが」
サンドイッチをもぐ、とやりながら、つい仕事の癖で周囲の導線と死角を確認していると、ペルシアのフォークがケーキを突き、ひと口分だけ宙で止まった。
彼女はふと思い出したように口元へ手を当てる。
「そうだわ、言い忘れてた。洋服やアクセサリー、カードも一緒に入れておいたから」
「カード?」
「――**“月の太陽”**のショップで使えるやつ。メンテやサイズ直し」
「は?」
「まぁ、任せるわ」
ペルシアのサングラスの奥で、目が細く笑う。リュウジはコーヒーの最後の一滴を口に含み、空きカップをトレーに戻した。
「……そうか」
モールを出ると、人工太陽が午後の角度にさしかかっていた。B2ブロックへ戻る動く歩道、流れる人の列。ペルシアは両手をポケットに入れ、肩を並べて歩くリュウジに横目を投げる。
「ねぇリュウジ。嫌われるくらい、せっかちになってもいいとき、分かる?」
「仕事のときはいつだって」
「違うわよ。人のとき」
リュウジは半歩だけ歩幅を落とした。
「……必要なら、踏み込む。嫌われたって、守る」
「うん」
ペルシアは満足そうに頷き、ついでに肘で小さく突く。
「じゃ、今日はここまで。私はここでタクって戻る。貴方はどうするの?
「このまま、火星に飛ぶ。」
「エリンに会いにいくの?」
リュウジは短く息を吸い、ほんの少しだけ目を丸くした。
「よく分かるな。後、タツヤ班長にも」
ペルシアは理由を聞くことはなかった。きっと私達と同じで、悲劇のフライトの件で二人に礼をするのだろうと分かった。
「それじゃあ、ルナちゃんによろしくね」
「ルナ?……お前、やっぱり勝手に使ったな、俺の端末」
「不用心が悪いの。ロックくらい掛けなさい」
笑って手を振り、ペルシアはサングラスを押し上げる。
「お礼、楽しみにしてる」
くるりと踵を返し、人の波に溶けていった。
リュウジはしばらくその背中を見送り、
彼もまた歩き出した。人工太陽は、木星の雲海の色を真似たように、ゆっくりと午後を傾けていた。
ーーーー
午後の静けさに、鉛筆の走る音と紙をめくる気配だけが重なっていた。
キッチンテーブルには参考端末とプリント、惑星開拓の基礎資料。ルナは見出しに蛍光ペンを滑らせ、シャアラは語句カードを積み上げ、メノリは赤ペンで二人の答案に印を入れていく。
――ピンポーン。
「ウチが出る。勉強の邪魔したらあかんしな」
チャコが椅子からぴょこんと降り、尻尾を揺らして玄関へ。
「お願いね」
ルナは短く返し、目線をテキストに戻す。次の設問へ視線を滑らせた瞬間――
「……何しに来たんや!」
玄関の方から、いつになく鋭いチャコの声。
三人は顔を見合わせる。
「行ってくる」
ルナは立ち上がり、足早に廊下を進んだ。
「チャコ、どうしたの――……!?」
扉の向こう、共用廊下のクリアパネル越しに人工灯。そこに、黒いハットを軽く傾け、長い影を引く男が立っていた。薄い笑み、眼の奥に眠らない光。
「おや。貴方もいたのですね」
「……カラス」
名前が口から漏れた瞬間、空気がひやりと引き締まる。
「せやから言うとるやろ! 何しに来たんや! リュウジならおらへんで!」
チャコは前足を広げ、全身で玄関口をふさぐ。
「チャコ、落ち着いて」
ルナはそっとチャコの肩――いや、首元を抱えて下がらせた。
「それで、どうしてここに?」
カラスは胸ポケットから細長い封筒を一枚。
「ダンナに頼まれものをお届けに」
薄いクリーム色の封筒。表には何も書かれていない。受け取ると、紙の端がひんやりと指に沿った。
「これは?」
「それは秘密です」
口元だけで笑い、黒い帽子のつばをちょいと持ち上げると、踵を返し――
「待って」
廊下にルナの声が跳ねた。
カラスが振り返る。
「まだ何か?」
「会見の時……敢えて私を煽ったでしょう?」
ルナは真っ直ぐに見つめる。自分の鼓動が速くなるのを意識的に抑えた。
「なに言うとんねん。リュウジも言うてたやろ、カラスは煽るタイプやって」
チャコが呆れ顔で合いの手を入れる。
「そうじゃないの。わざと私を煽って、ステファン財閥に会見をさせるように仕向けた。――違う?」
声が揺れないように、言葉を刻む。メノリの“面を上げろ”の指導を思い出すように。
薄い笑みは消え、カラスはただ首を傾けた。
「どうして、そう思うのですか?」
「ステファン財閥は、リュウジに相談してから開くつもりだった。でも、あの人に相談したら、公表しないほうを選んだはず。だから……」
ルナは息をひとつ吸う。
「あなたは――私を利用した。私が言い切れば、ステファン財閥は動くって、賭けた」
「つまり、ルナを利用したちゅうわけやな」
チャコが肩をすくめる。
「貴方の読み、当たったけれど、確実じゃなかった。私の言葉で、会見する保証はない。――どう考えていたの?」
視線を逸らさず問い返す。
一拍の沈黙。
カラスは肩をわずかにすくめ、口角だけを上げた。
「いいえ、確実でしたよ。貴方なら必ず、ステファン財閥を動かす発言をする」
「どうして?」
「貴方が――私とは真逆の人間だと、分かったからです」
笑みは消えていた。言葉だけが乾いて落ちる。
ルナは一歩、彼に近づく。
「でも、あなたは悲劇のフライトの時、真っ先にリュウジを吊し上げる記事を書いた。なのに今度は、どうして彼を助けるの?」
「私は金の匂いがすることにしか興味がありません。今回も同じですよ」
カラスは内ポケットから小さな機械を取り出し、指でカチッと押した。
——パアン。
瞬間、白い閃光が玄関に満ちた。
ルナもチャコも反射的に目を伏せる。
「何すんねん!」
チャコが飛び上がる。
「貴方たちが何か不祥事を起こした時のために、一枚」
カラスの声は平板で、どこか楽しんでいる。
ルナは目を開け、まっすぐにレンズの向こうを見た。
「ふふっ。なら、もっと可愛く撮ってくれればいいのに」
「……やはり、気は合わなさそうですね」
「そう? 私は結構、分かり合えると思うけど」
本気とも冗談ともつかない調子で、ルナは小首をかしげる。
カラスはふっと吹き出し、喉の奥で笑った。
「――では、またどこかで」
黒い帽子のつばを指で押さえ、すらりと背を向ける。廊下の角で影が切れ、足音も消えた。
ーーーー
午後、コロニーの陽がオレンジに傾きはじめ、三人分のノートの端に長い影が伸びた。
「ふぅ……」背伸びをしたルナと、同じく腕を上へ突き上げるシャアラ。メノリも肩をぐるりと回して、「今日はここまで」と赤ペンを置く。
――ピンポーン。
「また?」とシャアラが首をかしげる。
「ええで、ウチが出る」チャコが尻尾をひょいと揺らし、玄関へ小走り。
メノリはほんの少し眉を寄せ、「変なやつじゃなければいいんだがな」と立ち上がって様子をうかがう。
「お届け者でーす」。のんびりした声に、ルナは肩をすくめて微笑んだ。「大丈夫みたい」
次の瞬間――
「こんなにか!?」玄関でチャコの素っ頓狂な声が跳ねた。
三人は思わず顔を見合わせて、苦笑いを分け合いながら玄関へ。
「どうしたの?」
扉の向こう、台車の上に大きめの段ボールが三つ。宛名シールには達筆なアルファベットでPERSIAの文字。
「チャコ、何頼んだの!」
「ウチやないで!」
シャアラがラベルをのぞき込み、「**ペルシア?**って書いてあるわよ」
「ペルシアさんが……? ごめん、チャコ」
「わかればええねん。せやけど、何の荷物なんや?」
「とりあえず中へ」
メノリがひょいと一箱を抱え、ルナとシャアラも続いた。
ダイニングテーブルに三つ並べ、カッターで封を切る。ガムテープが小気味よくはがれ、ふわりと薄紙(ティッシュペーパー)の香りが広がった。
「……洋服だ」
シャアラが一番上の薄紙を持ち上げ、そっと一枚取り出す。ミルクティー色のニット。袖口に小さな月の刺繍。
「こっちも」ルナの箱には紺のコート、オフホワイトのワンピース、シンプルな黒のスラックス、どれも控えめに洒落ていて、手触りのいい生地。タグには見慣れない、でもどこか聞いたことのある高級ブランドのロゴが並ぶ。
メノリが半眼になってタグを見比べ、「どれもブランド物ばかりだな……桁が違いそうだ」
ルナは合点がいったように小さくうなずく。「だからサイズを聞いてきたんだ、ペルシアさん」
「リュウジの洋服かと思たら女性もんかいな」チャコが目を丸くする。
そのとき、チャコが箱の隅から小箱を二つつまみ上げた。「なんや、これ?」
「見せて」シャアラがひとつ受けとって、リボンをほどく。
ふわ、と薄絹がほどけ――銀色に輝く三日月が現れた。細いチェーンの先、磨かれたカーブが光を掬う。
「綺麗……!」シャアラの瞳に、ちいさな月が映る。
「ねぇ、これ見て」彼女が箱の底のカードをつまみ上げ、読み上げる。
“愛を込めて、貴方に ――リュウジ”
「キャーッ!」シャアラがはじけるように声を上げ、ソファに倒れ込んだ。
「意外と大胆やな、あの男」
チャコはニヤリ。
「案外、やる男だな」
メノリは口元だけで笑った。
ルナは苦笑しながら、指でカードの縁をなぞる。「あはは……ペルシアさんの仕業ね」
けれど、三日月のモチーフは不思議と胸に落ちた。彼女の名に寄り添うような、静かな光。胸元にあてると、肌の上でちろりと揺れて、**“月の太陽”**の名を持つ彼のエアポートに重なる。
二つ目の小箱を、ルナがそっと開く。
中には厚手の写真が束になって収められていた。角の丸い銀塩プリント、やさしい艶。
「かわいい……」思わず息がこぼれる。
一枚目。薄い灰色の作業服に腕をまくった若いリュウジ。背後にはドルトムント財閥のハンガー。
二枚目。整備棟の前でタツヤ班長と肩を並べ、屈託のない笑顔。
三枚目。食堂でエリンと並んでカップを掲げるスナップ。エプロン姿の彼女、まだ少しあどけないリュウジ。
四枚目。夜明けのランニングコース。汗で髪が額に貼りつき、遠くを見ている横顔。
五枚目。合格通知の前でS級カードを受け取る直前、俯きがちな目を照らす光。
六枚目。散らかった部屋。床に寝転ぶペルシア、机で舟をこぐタツヤ、ソファで書類に埋もれるリュウジ。――撮影者の笑い声が、そのまま紙に封じ込められているみたいだ。
「リュウジ、幼いな」メノリが目を細める。「輪郭がまだ少年っぽい」
「ええもん貰おうたな、ルナ」チャコがしみじみとうなずいた。
「うん!」ルナは写真を一枚、一枚、大事にめくっていく。めくるたびに胸の奥がじんわりと温まる。知らない時間の中にも、確かにつながっている“彼”がいる。いま此処の自分と同じ空気を吸って、生きてきた足跡。
「ねぇねぇ、試着してみようよ!」
シャアラがワンピースを胸に当ててくるり。
「待て、それを着る前にサイズ調整……」
メノリが真顔で段取りを立てる。
「そんな固いこと言わんと。似合うやつ、コーデ勝負しよか」
チャコが両前足でぱん、と拍手。
ルナは笑ってうなずいた。「じゃあ――私は、このミルクティーのニットと、紺のコートに、三日月を」
首元で銀の月がかすかに揺れ、光が跳ねる。
鏡の前に立つと、そこには少しだけ背筋の伸びた自分がいた。サヴァイヴの粗い布ではない、柔らかい生地が、肩先から落ちる。
(ペルシアさん……ありがとう。そして――)
心の中で、もう一人の名前をそっと呼ぶ。言葉にはしない。けれど、胸の前で指先が自然と三日月に触れた。
「ルナ、似合う!」
「うん、月の光みたいだ」
「そのまま表紙いけるで、“ロカの月”特集や!」
褒め言葉の嵐に、ルナは「もう、やめてよ」と頬を染めながら笑う。
テーブルの端に、“愛を込めて”のカードが小さな月と並んで置かれている。
――選ばれた三日月の静かな線は、どこか彼の眼差しに似ている気がした。
窓の外で、ロカの人工夕景が一段と深まる。
新しい衣服の手触り、紙の写真の温度、胸もとで揺れる銀の月。
ここから先の時間に、そっと**“日常”**の色が差しはじめていた。
ーーーー
午後の光が薄く床に広がり、窓際の観葉植物――は、ない。整然としたリビングに、紙の擦れる音と、鉛筆の芯がノートを走るかすかな気配だけが続いていた。ルナは数式の横に小さくチェックを付け、深呼吸をひとつ。そこで、カチャと金属の噛み合う音が玄関から響いた。
扉の開閉。足音。
リビングのドアノブが回り――
「ただいま」
「……! おかえり!」
椅子が小さく鳴って、ルナははねるように立ち上がった。頬が自然と明るむのが自分でもわかる。入ってきたのは、ショルダーバッグを肩から外しながら、いつもの落ち着いた目をしたリュウジだった。
「大丈夫だったか?」
「うん、ありがとう」
短い言葉の往復。けれど十分だった。安堵と嬉しさが、部屋の空気をわずかにあたためる。リュウジがソファの端にバッグを置き、こちらを見やる。
「クリーニング、悪かったな――」
言いかけた彼の視線が、ルナの胸元に吸い寄せられて止まった。細いチェーンの先、銀の三日月がきゅっと光を拾って揺れる。
「ううん、大丈夫だよ」
ルナは笑い、指先でそっと三日月を触れる。リュウジは、瞬きを忘れたように見つめた。まるで、そこで言葉を探しているみたいに。
「……どうしたの?」
小首をかしげる。ちょうどそのとき、奥の部屋の扉がガラリと開いた。
「なんや、リュウジ、帰ってきとったんか」
「……ああ」
返事はそっけないが、視線は戻らない。チャコが片眉を上げる。
「なんや? ルナに見惚れとんのか?」
「……っ」
リュウジが小さく咳払いをして、ようやく我に返った。
「いや――ネックレスが似合っているな、と思ってな」
言葉は淡々としているのに、口元が少し柔らかい。
「え……ふふっ、ありがとう」
ルナは両手を後ろで組み、照れを隠せずに笑った。
「ペルシアさんが送ってきてくれたの」
「ペルシアが?」
リュウジの眉間にうっすらシワが寄る。そこへチャコが畳みかけた。
「せやで。ネックレス以外にも、ぎょうさん服を送ってくれたわ」
「服……」
ミルクティー色のニット、柔らかな編み目が肩先に影を作っている。それを確かめるように視線を上下させ、リュウジはひとつ息を吐いた。
「なるほど――そういうことか」
「何がなるほどやねん?」
「いや、ペルシアと洋服を買いに行ったんだがな。珍しく“配送する”なんて言うから、気にはなっていたんだ」
言いながら、冷蔵庫を開ける手つきは迷いがない。中から極撰・太陽果樹園プレミアムミックスの紙パックを取り出し、ストローを差す。
「えーと、どういうこと?」ルナが首を傾げる。
チャコがにやりと口角を上げた。「つまりや――ペルシアに買ってたつもりが、実はルナのを買わされたってことやんな?」
「その通りだ」
ストローがひゅっと鳴る。
「ええっ!?」
ルナが目を丸くする。予感はあった。けれど、本人の口から聞くと胸の奥がふっと熱くなる。
「まぁ、そんな事だとは思ってたけどな」
リュウジは肩をすくめて、ジュースをもう一口。
「でも、そのネックレスは……元々、ルナにピッタリだと思ってたからな」
視線がまっすぐ来る。ルナは胸の前で手をぎゅっと握った。
「そ、そうかな……」
喜びが胸いっぱいに広がる。言葉は小さく零れるだけで、もっと言いたいことがあるのに、うまく綴れない。
チャコがテーブルにひょい、と乗った。「それで? 一体いくらしたんや?」
リュウジは隣に腰を下ろし、紙パックを指先で回した。「全部で二万ダールぐらいだ」
「二万!?」
ルナの声が跳ね、同時にチャコの口がパクパクと開閉する。「ダールやて!? こっちは一日一本制限のジュースで小競り合いしとるのに!」
「リ、リュウジ!?」
ルナはつい前のめりに近づき、身振り手振りで“それは高すぎる”とか“申し訳なさすぎる”とか、言葉になる前の焦りを伝えようとした。肩、手、視線、ぜんぶ忙しい。
リュウジは耐えきれずにぷっと吹き出し、声を出して笑った。「気にするな。プレゼントだと思ってくれ」
「で、でも……!」
「金の使い道も知らないしな。ルナが喜んでくれるなら、それでいい」
穏やかで、揺れない声音。ルナは両頬に手を添えた。「もう……」――その笑顔はずるい、心の中でだけ呟く。
「と、いうことはやなぁ!」
チャコがソファからぴょんと降り、冷蔵庫に直行。極撰ジュースを三本抱えて戻ってくるや、ストローを三本、ぶすぶすぶすと差し込んだ。
「チャコ! 一日一本の約束でしょ!」
「何いうとんねん! 二万ダールに比べたら、ウチのジュース代なんか砂粒みたいなもんや!」
チャコは得意げに三本同時吸い。ほっぺたがふくらみ、目がとろんとする。
ルナは言葉を飲み込み、半眼で見つめ――やがて諦めたみたいに肩の力を抜いた。
そのやり取りに、リュウジの笑いがもう一度、からりと弾ける。笑い声なんて久しぶりに聞いた、とルナはふと思う。
「そうだ」リュウジが手を打った。「礼を言うのを忘れてた。クリーニング、助かった」
「ううん。血がついてたから――勝手に拭いて干してたの。ごめんね」
「助かった。あの制服、色々あってな」
一瞬、視線が遠くへ泳ぎ、それから戻ってくる。
ルナは、胸の三日月を指でなぞる。
「それと」チャコが吸うのを一旦止め、ストローの先でルナを指す。「ペルシアの荷物、まだ一箱、奥や。ルナのサイズ違いが入っとるかもしれへん。後で見よ」
「わかった。あ、後でお礼のメッセージも送らないと」
「礼は俺からもしておく。」
リュウジは貸しを一つ作ってしまったかもなと軽く苦笑いを浮かべた。
「――ほな、勉強に戻るか?」
チャコのストローがちゅーと鳴る。「その前に、ジュースの本数の件、再交渉からやけどなぁ?」
「ダメ。一日一本」
「二万ダールに比べたら――」
「比べません!」
二人の声が重なって、笑いに崩れる。
窓の向こう、人工の午後はまだやわらかい。三日月は胸元で小さく揺れ、**“帰る場所”**という言葉が、いつもより少し近いところに感じられた。
ーーーー
キッチンの天板にマグの輪染みがひとつ、光を吸って薄く沈んでいる。リュウジはその向かいに腰を下ろし、肘をつかないまま背筋を立てた。向かいのルナが、エプロンの紐を軽く結び直してから、そっと二通の封筒をテーブルの真ん中へ滑らせる。
「ソリア学園と、カラスさんから預かったわ」
「カラスが?」
低く反射的に返しつつ、リュウジは上の封筒を手前に引いた。厚手の紙の感触。封はすでに解かれている。素早く目を通し、端的なメモと添付の目録に視線を走らせる――フレデリックに看過されたか? 心の中で短くつぶやき、すぐにそれをしまい込むように封筒へ戻した。
「学園の方は、手続きの案内と提出書類一式。メノリが渡して、スペンサー先生がって」
「こっちは後で纏めて出しておく。……ありがとう」
リュウジは学園の封筒は中身に触れず、表の差出日時だけ確認して端に寄せた。その視線が、テーブルに置きっぱなしになっていたもう一つの、細長い白箱に移る。
「……なんだこれは?」
「ペルシアさんが送ってくれたの」
ルナが頬をゆるめる。リュウジは箱を開け、中のスリーブから六枚の写真を抜き出す。ドルトムント財閥の制服。整備棟の通路。タツヤ班長の横顔。若い自分が、記録ではなく空気の中に生きている。
「……懐かしいな」
声はほとんど息。角を指で整えながら、一枚、また一枚と置いていく。最後の一枚を見終わったところで、彼は静かに立ち上がった。
「さてと」
「どこか出掛けるの?」
不意にこぼれた問いは、ほんの少しだけ寂しさの色を帯びていた。ルナの視線が三日月のネックレスを揺らす。
「いや、段ボールの荷解きでもしようかと思ってな」
「……うん」
安堵の息が、ほとんど音にならずに落ちる。ルナは立ち上がって、その背中を追った。
奥の部屋の扉を開けると、段ボールの匂いと、紙の乾いた手触りがまとめて押し寄せた。床一面に口を開けた箱、箱、箱。部屋の真ん中でチャコが上半身を箱に突っ込んでいる。
「荷解きしてくれてたのか?」
「そのつもりやったんやけどな、資料ばっかりで。全部は見とらんけど、中身出す必要もなさそうやし」
「まぁな。S級になった時に、色々と調べたものばかりだから」
近い箱から一束抜き取り、表紙を親指で弾く。航行記録、ダストチューブ相互干渉の仮説、重力剪断域の古い論文コピー――紙の端が指に引っかかる。
「……ここにある段ボールは半分以上、処分だな」
「大事な資料なんじゃないの?」
ルナの声は、物そのものよりも、そこに積もった時間を惜しむ響きがあった。
「まぁ、俺には必要ないからな」
リュウジは苦笑した。言葉はあっさりしていたが、箱の縁に置いた指先は一秒だけ動きを止めた。その一秒を、ルナは見逃さない。目が、少しだけ寂しそうに揺れる。
「資料以外だと、こっちの箱か」
入口に積まれたラベルなしの箱を示すと、チャコがすぐ身を乗り出した。
「どれどれ……物理学、宇宙航行システム、天体観測、人体学、宇宙学。どれも難しそうなんばっかやな……」
「それだけじゃない、こっち」
ルナが別の箱のテープをぺりっと剥がす。中から目録が顔を出す。
「生物学、考古学、心理学、危機管理学、武術学……あるわね」
「S級パイロットになると、色々と資格も取らされるからな」
リュウジは肩をすくめる。言い方は軽いが、箱の中身は軽くない。経験の裏打ち、身体で覚えた判断、そして紙の上の裏付け。
ルナは一冊をそっと取り上げた。『惑星開拓のためのリスク評価と居住計画』。ページをめくる指の動きが丁寧になる。
「……やっぱりS級は凄いんだ」
ぽつりと洩れた感想に、チャコも素直に頷く。「ほんまにな」
「凄いのは紙じゃなくて、現場で一緒にいた人間だ」
リュウジは軽く笑って言い、ルナの手から本を受け取って閉じた。その仕草に、否定ではなく譲渡の気配がある。
ルナは、もう一箱の中を覗き込み、背表紙の列に指をすべらせる。ふっと止まった指先が一冊をつまみ上げ――
「――あー! この本!」
ぱっと目が輝く。表紙いっぱいに描かれた白化した海岸線と、青のグラデーション。題名は**『地球再生論』**。ルナは胸の前でそっと抱え直す。
「その本……」
リュウジがぽつりとつぶやく。チャコも横から首を伸ばして、
「おお、地球再生論やないか。懐かしぃ~!」
「あー! こっちには『青い星の再起動』『地球改造の倫理と実装』もある……!」
次の箱に手を入れたルナが、子どもみたいにきょろきょろと目を輝かせる。表紙の隅々を撫でる掌が、嬉しさで落ち着かない。
「**『リセット・ジオスフィア ―人為的気候修復の最前線―』**もあるやん!」
チャコが別の背から一冊を抜き、声をあげる。
「ね、ねぇ、これ見ていい?」
詰め寄る勢いに、リュウジは苦笑して頷いた。「……ああ」
「ありがとう!」
ぱら、ぱら、ぱら――。ルナはその場にしゃがみ込んで、ページを光の下でめくりはじめた。図版のキャプション、注釈の細かさ、数式の横に添えられた現場の写真。どのページを開いても、紙面の向こうから熱のような情熱が伝わってくる。
「あの本はな」チャコが懐かしそうに言う。「ルナが惑星開拓の技師を目指してる頃な、図書室でよう読んどったやつや。ほんで“また明日も読むわ”言うて、毎日飽きもせんと通っとった」
「ルナは……惑星開拓の技師が夢だったのか」
ぽつりと漏れたリュウジの声に、チャコが「なんや、知らんかったんか?」と目を丸くする。
「……ああ」
「まだ火星におった時にな。たまたま入った図書館でこの**『地球再生論』**見つけてな。そっから毎日や。ウチが“もう閉館やで”って言うまで帰らへんのや」
ルナは頬をかき、「だって……」と本を抱き直す。
「どのページにも“未来を諦めない手順”が書いてあるみたいで。読むたびに、胸の奥がひとつずつ明るくなる気がして……」
それから少し眉尻を落とした。「でもね、いつの間にか図書館からなくなってて。作者の**“サクラさん”と“シンさん”**の本、他にも探したんだけど、どこにもなくて……」
「本はまったく売れなかったからな。出回ることもなかったんだろう」
リュウジが低く応じる。ルナが顔を上げた。
「え……そういえば、どうしてリュウジはこんなに持ってるの?」
「当たり前だろう」
きょとんとした顔で、リュウジが言った。
「サクラもシンも、俺の両親なんだから」
「――――ええええ!?」
ルナとチャコの声が見事に重なり、部屋の空気が一瞬、跳ねた。
「言ってなかったか?」
リュウジが首を傾げる。二人は無言でぶんぶん首を横に振った。
「二人とも惑星開拓技師でな。地球の環境改善を目標に動いてたらしい。その想いを綴ったのが、その本だ」
「でも……リュウジのご両親は……」
「ああ。作業中の事故で」
苦笑と呼ぶには少しだけ古傷の匂いを含んだ表情で、リュウジは短く言った。言葉はそれ以上、先へ行かない。ルナは唇を噛み、ページの端をそっと撫でる。チャコが帽子をとるみたいに、目線を一瞬だけ落とした。
沈黙は長くなりすぎる前に、リュウジが指で切った。
「本なら持っていっていい。必要とするやつの手元にある方がいい」
「でも――」
ルナは胸に手を当て、迷うように目を伏せる。「大切なものじゃ……」
「俺は読まないからな」
淡々とした声音。でも、そこには“残していく”ではなく“託す”の温度があった。
「ルナが読むなら、ページは生きる」
ルナは目尻を潤ませ、ゆっくりと頷いた。「……ありがとう。大切にするね」
「ああ」
リュウジは小さく頷いて立ち上がる。「――そろそろ夕食作ってくる」
「一緒にやらせて!」
ルナもすぐ立ち上がった。チャコが「ウチは段ボール見張っとくわ」と胸を叩く。
◇
キッチンに移ると、窓の向こうでコロニーの昼がゆっくり傾き始めていた。人工太陽の角度が変わると、ステンレスの流し台が淡く金色を帯びる。
「今日は簡単なものでいくかな」
リュウジは冷蔵庫から野菜と鶏肉を出し、バットに広げた。包帯の残る右手をかばうように、左手で器用に進めていく。
「じゃがいも、リーク、玉ねぎ――ポタージュ。それと鶏のハーブソテー。あとはトマトをつぶしてさっと煮る」
「私、切るほうやるね」
ルナが袖をまくる。包丁を持つ手元は安定している。サヴァイヴの台所と焚き火の記憶が自然と姿勢を整える。トントン、トントン――リズムの良い音がキッチンに落ちる。
「右手、痛くない?」
「もう大丈夫だ。握るのは左にするけど」
「無理はダメ」
「はい」
短いやり取りのあと、二人は無言で分担に集中した。
ルナが切ったリークを鍋に落とし、バターで香りを出す。リュウジが塩をひとつまみ。湯気にねぎの甘い匂いが乗る。鶏肉にハーブミックスを揉み込み、フライパンに置くと、じゅう、と心地いい音が鳴った。
「……ねえ」
ルナが鍋をかき混ぜながら、勇気を少しだけ足すみたいに息を吸う。
「さっきの本、どうして最初に隠してたの?」
「隠してたつもりはないが……言い方が難しいだろ?」
リュウジは苦笑して、ソテーの表面を返す。「“両親の本です”って言えば、話すことも思い出すことも増える。ルナたちの話を、先にちゃんと聞きたかった」
「……ずるい」
「ずるいな」
ふたりで笑う。フライパンの香りが、少しだけ家っぽい安心を濃くする。
「わたしね」
ルナが鍋の火を少しだけ弱めた。「あの本に救われたの。ページを閉じるたびに、“また明日”って言えるようになるの。今がどうであっても、“直す手順”があるって言ってくれてるみたいで……。」
「知れてよかった」
リュウジは短く言い、ポタージュの鍋に水を足す。
「ルナが開拓を選ぶなら、俺の分の紙は、ルナの背中を押すためにあった方がいい」
ルナは頷き、少しだけ笑ってから目尻を指で押さえた。「鼻の奥が、ちょっとだけツンとしただけ」
「湯気のせいだな」
「うん、湯気のせい」
ふたりの笑いに合わせて、鍋が静かにぐつぐつと鳴る。トマトソースは塩と少しの砂糖で角を落とし、鶏の焼き上がりを待つ。ポタージュはミキサーで滑らかにし、牛乳でのばして、白い器へ。
「味見」
スプーンを差し出すと、ルナが一口すくって目を細めた。「――やさしい」
「やさしい?」
「うん。読書のあとに飲むスープの味。頭がいっぱいでも、お腹が安心するやつ」
「なら、合格だ」
テーブルに皿を並べる。ポタージュ、鶏のソテーにトマトのソース、シンプルなサラダ。極選のフルーツジュースは一本だけ(チャコ用)が許可され、残りは冷蔵庫で静かに冷える。
「いただきます」
三人の声が重なる。スプーンが器の縁に小さく当たり、湯気が顔に心地よい。
「……ほんま、優しい味や」
チャコがポタージュを一口で言う。「本読んで泣いたあとにも合いそうや」
「泣いてから食べる前提はやめてくれ」
「ほんじゃ“笑う前に食べる”で」
卓の笑いが、部屋の隅までふわりと伸びていく。
食後、湯のみのお茶に口をつけながら、ルナが改めて本の束を見る
三日月のネックレスが小さく光って、ページの白にきらりと反射した。
「なぁ」
と、チャコが湯のみを置く。「サクラさんとシンさんの“サイン”とか、どっかに入ってたりせぇへん?」
「あるかもしれない」
リュウジが『地球再生論』の奥付をぱらぱらと繰る。すると、ページの最初の遊び紙に、色褪せた万年筆のインクで短い一文があった。
未来の誰かが、今日の失敗をやさしく直せますように。
SAKURA & SHIN
「……やっぱり」
リュウジは微笑んで本を閉じ、そっとルナに差し出した。「その“未来の誰か”に、今、名前を付けよう」
ルナは言葉を失い、うなずくことでしか返せない。胸の前に本を抱く腕に、自然と力がこもる。
ルナはあらためて本を見下ろした。背表紙に指をあて、そっと撫でる。“未来の誰か”。――きっと、あの日、図書館でページをめくっていた、自分の指にも届いていた言葉。
「ねえ、リュウジ」
「うん?」
「私、地球の環境改善をする惑星開拓の技師。誰かの“今日”を直せる人になりたい」
「知ってる」
リュウジは当然みたいに頷いた。「――ルナはそういう顔をしてる」
廊下の灯りがつく。三日月のトップが胸元でかすかに鳴り、三人の影が、ゆっくりと並んで伸びた。