ソファで何気なく流れている情報番組に相槌を打ちながら、ルナとチャコは同じカップの温かさを指で確かめていた。湯気はもう薄い。そこへ、浴室の方からひやりとした空気を連れて、リュウジが戻ってくる。Tシャツにスウェット、片手にアイスコーヒー。向かい合うように腰を下ろすと、テーブルに一枚のチラシをコトリと置いた。
「明後日、みんなでここに行こう」
ルナが拾い上げ、声に出して読む。
「グランピング施設『ナチュラル』……?」
「ああ。ロカC2にできたキャンプ場みたいだ」
リュウジはストローを軽くくわえ、氷の音を鳴らす。
「私は大丈夫だけど、チャコは?」
「問題ないで。なんや、キャンプでもするんか?」
「いや、ちょっとな。細かいことは俺が連絡しとく」
「へぇ~。自然と触れ合えるキャンプ施設なんだ」
ルナはチラシを覗き込む。木のデッキに白いベルテント、星空の下で灯るランタン。森なのに、床は平らでベッドまである――“サバイヴの夜”とは、まるで違う顔の“外”がそこにあった。
「ずっとキャンプしとったもんやろ」
チャコが肩をすくめる。
「そうだけど、サバイバルとキャンプは違うでしょう。ーーふふ。ありがとう、リュウジ。楽しみにしておくね」
「了解」
リュウジは短く頷くと、端末を取り出してグループチャットを開いた。画面には〈サヴァイヴ班(帰還後)〉の名。指が軽快に踊り、メッセージが投下される。
【リュウジ】明後日。ロカC2「ナチュラル」。昼集合。
【持ち物】着替え・歩きやすい靴・タオル。参加希望、ここで挙手。
返事は秒で返ってきた。
【ハワード】うおお!グランピング!行く!!肉は何キロ必要だ!?
【シンゴ】挙手!ドローン持ってく!夜の星景タイムラプス撮る!
【メノリ】参加。勉強道具も持っていく。夜の読書タイムを確保したい
【ベル】挙手。ハーブティーを用意する
【シャアラ】マシュマロ買ってく!串も!
【カオル】……どういう風の吹き回しだ?
【リュウジ】たまにはな。休む。楽しむ。
【カオル】了解。
リュウジは画面をルナに見せる。ルナは笑いながら、ぽん、と胸を弾ませた。
「すごい。みんな楽しみにしてる」
「せやけどルールは決めとき」チャコが指を一本立てる。「“食いすぎ禁止”と“夜更かしはほどほどに”や」
「それ、主にハワード向けだね」
ルナがくすくす笑うと、リュウジの端末にまた通知が弾む。
【ハワード】聞こえてるぞ!俺は盛り上げ役だ!!
【メノリ】イコール騒音源だ。22時以降は静粛
【ハワード】了解……(小声)
「そういえば泊まる?」ルナが首を傾げる。
リュウジは一拍おいて、氷を軽く回した。「いや、次の日から学校だろ、泊まらない。夕方には帰るつもりだ」と言いながら、チャットに今の内容を打ち込んだ。
ルナはチャットに視線を戻す。リュウジのメッセージが投下され、皆んなからは残念の通知が広がった。
「楽しみだな〜」
ルナは嬉しそうに呟いた。
ーーーー
次の日、人工太陽がちょうど真上に差しかかる頃。
ソーレ・デッラ・ルーナの中にあるコーヒーショップは、昼休みの人波でほどよく賑わっていた。
窓際の席に腰を下ろしたリュウジは、湯気の立たないアイスコーヒーを一口すすり、ふと店内を見回す。サヴァイヴから帰還したあの日に、ふらりと立ち寄ってから――この店はすっかり「お気に入り」になっていた。
「ねぇ、あの人カッコよくない?」
隣のテーブルから、小声のつもりなのだろうひそひそ話が聞こえてくる。宇宙服でも制服でもない、ただの私服のはずだが、S級パイロットとして鍛えられた背筋と、無駄のない動きはどうしても目立つらしい。
「やっぱりそう思うよね? さっきからチラチラ見ちゃうんだけど……」
「でも声かけるのはムリ~。オーラやばいもん」
視線が何度か刺さるのを感じながらも、リュウジは顔をしかめるでもなく、ただ苦笑してストローを指で回した。慣れていると言えば慣れている。こういう視線は、サヴァイヴに行く前から何度も浴びてきた。
「人気者だな、オーナー」
カウンターからやってきた店員が、焼きたてのスコーンを載せた皿をストンとテーブルに置く。茶色く焼けた表面がこんがりと光っていた。
「どうも」
リュウジは軽く会釈し、苦笑を深める。
「昨日ニュース見たぜ。慰霊式と、そのあとステファン財閥の会見。……なんか、やっと色々、報われたな」
「あんまり騒がれるのは好きじゃないんだけどな」
そう言いつつも、声色はどこか柔らかくなっていた。
スコーンをちぎり、口に運びながら、彼の意識は自然と「昨夜」へと戻っていく。
◇
「リュウジ、明日は何してるの?」
夕食を終え、食後のコーヒーの香りがリビングに漂っていた頃。
ミネラルウォーターのボトルを片手に、ルナがふわりとソファに腰を下ろした。正面のソファ、ちょうどリュウジと向かい合う位置だ。
「明日か?」
リュウジはカップをソーサーに戻し、視線をまっすぐルナへと向ける。
「検診とソリア学園に行くつもりだけど。……何かあったか?」
真っ直ぐに見据えられて、ルナの心臓がドクンと鳴る。
メノリとシャアラに背中を押された言葉が、頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
――“コロニーに来て間もないんだから、教えてって言えばいいのよ”
――“一緒に回りたいって言えばいい”
「その……あのね……」
言い出そうとして、喉のところで言葉がつかえる。
「明日、もし午後に時間があったら、一緒にどこか――」
その一言が、なぜかとても遠い。
「ん?」
リュウジが首を傾げた。琥珀色の瞳が、普段通りに穏やかで、それがまたルナを焦らせる。
「えっと、その……」
「リュウジ、明日、午後暇やったら、ルナとどこか行ってきたらええねん」
ソファの背もたれに寝転んでテレビを見ていたチャコが、タイミングを計ったかのように口を出した。
「チャコ!」
ルナは思わず立ち上がりそうになり、けれど嬉しさを隠しきれず、頬がぱぁっと明るくなる。
「別に構わないが」
リュウジは一度チャコを見てから、もう一度ルナへ視線を戻した。
「俺はあんまりコロニーのこと知らないけど。……それでもいいか?」
「うん、リュウジと一緒ならどこでもいい!」
言ってから、自分で真っ赤になった。けれど、嘘でも誇張でもない、本心だった。
「なんなら夕食も外で食べてくるとええねん」
チャコがニヤニヤしながら追い打ちをかける。
「チャコはどうするんだ?」
「ウチのことは気にせんでええがな。なんとかする」
いつも通りの平然とした顔。ルナがちらとチャコを見やると、片目をつぶってウインクされた。
「分かった。なら――ソーレ・デッラ・ルーナで待ち合わせでいいか?」
「うん、大丈夫!」
ルナは勢いよく頷く。
胸のあたりがそわそわして、じっとしていられない。何を着て行こうか、どこを回ろうか、思考が忙しく騒ぎ始めていた。
「時間と場所は、また連絡する」
リュウジはそう言ってカップを持ち上げ、コーヒーを一口。
ルナは「うん!」と返事をし、立ち上がる。
「じゃあ、私はお風呂に入ってくるね」
鼻歌混じりの足取りで、タオルを抱えながらバスルームへ消えていく。その背中を見送りながら、チャコが小声でリュウジに話しかけた。
「明日はデートやな」
「……そういう類なのか、これは」
「他に何があるんや。女の子からの“どこでもいい”は特別扱いや」
「そういう理屈もあるのか」
リュウジは苦笑しつつ、カップの底に残ったコーヒーを飲み干した。胸のどこかが、ほんの少しだけ、そわりと揺れる。
――サヴァイヴでは、生きるために手一杯だった。
――今は、「誰かと過ごすための時間」を考えてもいい。
そんなことを思いながら、その夜は静かに更けていった。
◇
「……で、今日はその待ち合わせ待ちってことか?」
現在に戻り、店員がひょいと椅子の背に腕をかけながら笑う。
「そんな大したもんじゃない」
リュウジは視線を落とし、アイスコーヒーの表面を軽く揺らした。
とはいえ、時計を見てしまう回数が、いつもより明らかに多いことは自覚している。
隣の席の女性二人組はまだこちらを見てひそひそやっているが、その視線の先にいる本人は、穏やかな顔でただコーヒーを飲んでいた。
――この後、ルナがここにやってくる。
――どんな表情で現れるのか。
――どんな一日になるのか。
その答えは、まだ一口分ほど先の未来に、静かに待っている。
ーーーー
扉のベルが小さく鳴った。
紺のコートの裾が、外気の名残りをさらりと揺らす。オフホワイトのワンピースに、黒のスラックスを重ねたルナが、店内の光へ溶け込むように一歩踏み入れた。
視線が自然と店内を泳ぐ。
――どこ……。
窓際。氷の音を指先で弄びながら、外の回廊をぼんやり眺めている後ろ姿。肩のライン、座り姿勢の静けさ。あの落ち着いた背中を、ルナはもう見間違えない。
「……見つけた」
ふわりと笑みが浮かぶ。歩くたびに、三日月のネックレスが胸元で小さく光った。
隣のテーブルの女性客二人が、同時にこちらを見て目を丸くする。
「え、彼女持ち!?」「マジ? さっき“声かけよっかな~”とか言ってたのに……」
ひそひそ声が、笑いを含んだため息に変わった。ルナの耳にも届いて、頬がほんのり熱くなる。けれど――足取りは止まらない。
「お待たせ、リュウジ」
彼が顔を上げる。驚きは一瞬。すぐに、目尻がやわらぐ。
「……似合ってるな」
それだけで、胸の奥があたたかく満たされた。
ルナは椅子を引き、向かいに腰掛ける。包帯の白が、彼の右手にまだ残っているのを見て、そっと視線を左手へ移した。
「コーヒー、飲み過ぎないでよ」
「気をつける」
くすっと笑い合う。ささやかな合図みたいに、いつもの空気が戻ってきた。
「じゃ、行こうか」
リュウジが立ち上がり、店員に軽く会釈する。ルナも続こうとして――小さく息を呑んだ。彼が自然に、左手を空けて歩幅を合わせてくれる。右手はかばうように、ポケットのあたりで落ち着いている。
ルナはリュウジを横目で見ると、胸の鼓動が一拍、甘く跳ねた。
◇
ソーレ・デッラ・ルーナ――月の太陽。
エアポートと直結した巨大モールは、人工の昼が緩やかに傾き始め、アトリウムの天蓋が薄桃色に染まりつつあった。ホール中央には、来港機の発着時刻を示す水盤のディスプレイ。周縁には「スカイガーデン」「オービタル・テラス」「ルミナ・ドーム」の矢印が踊る。
「行きたい場所、あるか?」
「……ううん。案内して。月の太陽のこと、まだ全然知らないから」
昨夜、メノリに言われた言葉を、そのまま乗せた。
リュウジは少しだけ考えて、視線を上へとやる。
「じゃあ――スカイガーデン。島を思い出すかもしれない」
「行きたい!」
返事が早すぎて、二人で小さく笑った。
◇
スカイガーデンは、アトリウムの最上層にあった。
螺旋エレベーターを上りきると、湿った温室の香りが迎えてくれる。水耕栽培の棚が幾段にも重なり、ミント、バジル、レタス。ところどころ、白い小花――クローバーも、愛らしく葉を揺らしていた。
「シロメツクサ……」
ルナの瞳に、島の陽だまりがふっと宿る。
花冠の写真、あの午後の風。彼女の指先が、そっとクローバーの葉に触れた。
「持って帰りたいな、って顔してる」
「……ばれた?」
「顔に書いてある」
「じゃあ、見なかったことにして」
二人で笑う。歩くごとに、ガラス越しの光が三日月のネックレスに跳ねて、ルナの喉元で淡く瞬いた。
「そういえば」
リュウジが足を止め、ルナの横顔を覗く。
「そのネックレス、やっぱりお前にぴったりだ」
「……ふふ。貰いっぱなしで、なんだか申し訳ないけど」
「前にも言っただろ、俺は金の使い道を知らない。喜ぶ顔が見られるなら、最適な使い道だ」
真正面からそんな風に言うのはずるい――ルナは心の中でぶつぶつ言いながら、頬を両手で押さえた。
温室を抜けると、薄い風が頬を撫でた。スカイガーデンの縁には、滑走路を見下ろす展望回廊がある。着陸灯のラインがゆっくりと点灯を始め、遠い滑走路を走る誘導車の光だけが細い軌跡を描いていた。
「綺麗……」
「夜のほうが“月の太陽”らしい」
柵に寄りかかるルナの肩先に、リュウジが並ぶ。
しばしの沈黙。宇宙船の腹が、頭上に小さく唸る。
◇
夕刻――アトリウムの光が藍に傾くころ。
二人は下層へ降り、回廊沿いの小さなトラットリアに入った。窓の向こう、誘導灯が星の河みたいに瞬いている。
「ご注文は?」
「えっと……おすすめを」
「俺は、トマトとバジルのパスタ。それと、前菜の盛り合わせを」
店員がメモをとり、すっと引く。
ルナが首を傾げた。
「詳しいね」
「昔、ここでフライトの合間に食べた。味が落ちてなければ、当たりのはずだ」
「それ、信頼できそう」
ほどなく運ばれてきた湯気に、ルナの表情がほころぶ。
ひと口。トマトの甘みと酸味、飛び跳ねるようなバジルの香り。島で採った野草の記憶が、一瞬、舌の上で呼吸した。
「……美味しい」
「よかった」
会話は絶えないけれど、必要以上に言葉は要らない。
ルナが水のグラスに手を伸ばして、ふと思い出したように笑う。
「ねぇ、コーヒーのおかわり、頼む?」
「今日はやめておく」
「えらい」
からかうでもなく、嬉しそうに。
リュウジは小さく肩をすくめ、フォークを置いた。
デザートに選んだのは、**“ルナ・チーズケーキ”**と名付けられた半月型のケーキ。表面の艶が、まるでネックレスの三日月と呼応するように光っている。
「名前で選んだ?」
「そうかもしれない」
「……もう」
ルナは笑って、フォークをそっと入れる。
やわらかな甘さがひろがって、胸の奥の緊張までほどけていく。
◇
食後、二人は再び通路へ。
夜のルミナ・ドームで行われる短い星空投影まで、あと十五分。
「歩こうか」
「うん」
人の波が少しだけ薄くなった回廊を、肩が触れそうな距離で並んで歩く。ルナはふいに立ち止まり、滑走路の方を指さした。
「ね、あれ。小さいけど、離陸するのかな」
「補助推進の音だな。巡航に入ると、もっと静かになる」
説明を聞くのが、ただ嬉しい。
ルナは横顔を見上げる。右手の包帯に目が留まって、無意識に自分の指先で左袖口をつまんだ。
「痛くない?」
「もう大丈夫だ」
「なら、よかった」
言葉はそれだけなのに、胸の奥に“安心しました”の行が何行も滲む。
リュウジが、彼女の視線の意味に気づいたように、左手をゆっくりと伸ばした。
「――行くぞ、ルミナ・ドーム」
差し出された手の温度。ルナは一瞬、きょとんとして、それから左手を重ねた。指が絡む、というほど強くは握らない。ただ、確かめるように。
「うん」
歩き出す。
背後で「やっぱ彼女持ち……」と先ほどの女性客の、あきらめ半分の笑い声がまた聞こえた。ルナは振り返らない。頬に少しだけ熱を宿したまま、前を向く。
◇
ドームに入ると、天井一面に擬似星空が広がった。
人工太陽が完全に落ち、アトリウムの灯りが夜色に沈むにつれて、星の粒は数を増す。ナレーションが流れ始めたが、言葉は耳をかすめるだけで、ほとんど届かない。
ルナは、隣にいるひとりの呼吸だけを、静かに感じていた。
――あの日、絶望の中で、諦めずに舵を切り続けた人。
――帰ってきてくれた人。
――「ただいま」と、言ってくれた人。
投影が終わり、薄明かりが戻る。
ルナは小さく息を吸って、勇気を一つ、胸の前で握りしめた。
「ね、リュウジ」
「ん?」
「……この月の太陽のこと、もっと教えて。明日じゃなくても、また。私、いろんなとこ、あなたと一緒に見てみたい」
リュウジは少しだけ目を見開き、すぐにやわらいだ声で答えた。
「ああ。いつでも」
それだけで、足元の世界が、少し明るくなる。
ルナはうなずき、軽く揺れた三日月の光を喉元で受け止めた。
二人はドームを出て、夜のアトリウムへ。
発着案内の水盤は、青い文字で静かに時刻を更新している。どこかへ向かう船、どこかから戻ってくる船。それらの光の往復の中で、二人の歩幅はぴったりと重なっていた。
「ルナ」
「なに?」
「今日は――よく、似合ってる」
「あ……ありがと」
頬にまた、やさしい熱が広がる。
ソーレ・デッラ・ルーナの夜景が、静かな波のようにまたたいている。
“月の太陽”の名にふさわしい光の下で、二人の影は寄り添い、長く伸びていった。
ーーーー
玄関のオートロックが閉まる音が、静かな部屋に吸い込まれた。
「……チャコいないのー?」
ルナが先にリビングへ顔を出す。返事はない。靴音も、テレビの小さな音も、しない。
「どこ行ったのかしら……」
首を傾げたその瞬間――
「あ——っ!」
棚の一角に視線が吸い寄せられ、ルナは思わず声を上げた。
「どうした?」
少し遅れて入ってきたリュウジが眉を上げる。
「あはは、な、なんでもない、なんでもないから!」
ルナは慌てて棚の前に回り込み、自分の身体で目隠しを作った。頬にうっすら朱が差す。
無言。じとっとした目。
リュウジがそのまま距離を詰め、ルナの肩越しに腕を伸ばす。
「……あ」
するり、と指先が“それ”を抜き取った。
彼の手に収まっていたのは――ピンク色のハート型の写真立て。
中の写真は、サヴァイヴにいた頃。お姫様抱っこされたルナが、みるみる真っ赤になって、それでも夢見心地の顔でリュウジを見つめている。
リュウジの口元が、ふっと緩んだ。
「じゃじゃーん!!」
背後の廊下から、威風堂々と現れる小さな影。
「チャコ!」
両手を腰に当て、胸を張る。尾は得意げに左右へ。
「どや? ウチからのプレゼントや! “ベスト・オブ・サヴァイヴ”やで!」
「何してるのよ、もう……!」
ルナが耳まで赤くして抗議する。
「ええやん、ええやん。可愛いもんは可愛い言うたらええんや」
チャコはケラケラ笑って、用意していた紙袋をガサゴソ。
「他にもな、第二弾あるで」
テーブルに並んだのは、同じハート型の小ぶりなフレームが二つ。
ひとつは花冠のルナと、目を丸くするリュウジ。
もうひとつは、焚き火を囲んで全員で写った集合写真。そこには、あの頃の空気がまるごと閉じ込められていた。
「……サヴァイヴの時の写真か」
リュウジはしみじみと呟き、指で埃一つない透明板を軽く拭う。
「せや! “見るたび思い出し笑い不可避セット”や!」
「要らないセット名まで付けないで……!」
ルナが顔を覆い、指の隙間からこちらを伺う。
リュウジは心もち真面目な顔に戻し、写真立てを持ち替えた。
「悪くない」
ぽつり、と。
「……え?」
「悪くないって言った。置くなら、ここだな」
そう言って、リビングの白い棚の“空席”へ、花冠の一枚を丁寧に立てかける。
隣には以前のままの無機質な黒い置き時計。ハートの輪郭が、そこだけ柔らかな色を差した。
「もう一枚は?」
チャコがニヤニヤしながら顎をしゃくる。
リュウジは少しだけ考え、集合写真をテレビ台の端に置いた。視界の端でいつでも仲間がこちらを見ている位置。
「ほな、メインはコレやな」
チャコが最後に取り出したのは、少し大きめのフレーム。
中には――白い塔を背景にした、今朝のニュースから切り抜かれた一瞬が収まっていた。献花台へ深く一礼するリュウジの背中。誰かが撮って、プリントしてくれたのだろう。下の小さなプレートに、メッセージが刻まれている。
「おかえり」
……一拍、空気が止まった。
ルナは胸の前で指をぎゅっと握り、そっと視線を落とす。
「チャコ」
リュウジが静かに呼ぶ。
「ん?」
「ありがとう」
短い言葉が、部屋の静けさにやわらかく馴染んだ。
チャコは一瞬だけ照れくさそうに頭を掻き、すぐにいつもの調子へ戻る。
「礼はええから、フルーツジュース飲もや!」
「一日一本、って言ったでしょ」
「今のは“感動の特例”や!」
「特例は出ない」
リュウジが即答し、冷蔵庫の前で振り返る。
「ねぇ……その、お姫様抱っこのやつは、やめない?」
ルナが恐る恐る切り出す。
「何故だ」
「は、恥ずかしい……」
「ええやん、ええやん。新婚みたいやで」
「新婚じゃない!!」
即座に真っ赤。チャコは机をバンバン叩いて笑う。
リュウジはほんの少しだけ目元を細めた。
「……じゃ、これは預けておく」
そう言って、ハートのフレームをそっと持ち上げ、ルナのほうへ差し出す。
「……うん」
受け取った瞬間、ガラス越しの過去が、いまとやわらかく繋がる。
ルナは胸の前で大切に抱え、三日月のネックレスを指先でそっとなぞった。
「ほな、記念撮影といこか!」
チャコがいつの間にか端末を構えている。
「え、ちょっと心の準備が……」
「三、二――」
ぱしり。
ハートのフレーム、湯気、ネックレスの光、少し照れた頬。
新しい一枚が、音もなく未来のアルバムへ滑り込んだ。
「……悪くない」
写真を覗き込んだリュウジが、もう一度だけ同じ言葉をこぼす。
それは照れ隠しみたいでもあったけれど、ルナには、ちゃんと届いていた。
静かな部屋に、暮れゆくコロニーの灯りが差し込む。
棚の上、小さなハートが、ほんのりと夜色を映した。
ーーーー
エアタクシーが静かに離陸していく。
ルナの部屋の前。玄関脇には、リュウジが運んだ段ボールがきちんと二列に積まれている。上段は「サクラ&シン著作(取扱注意)」、下段は「極撰・太陽果樹園プレミアムミックス ×3」。
「荷物はここでいいか?」
「うん、ありがとう」
「中まで運ばなくていいのか?」
「だいじょーぶ〜」
扉の向こうから明るい声。チャコが肩にちょこんと乗って小さく腕を組む。
「色々散らかっとるんやろ。レディはそういうもんや。入室は“準備完了”サイン出るまで待機、や」
「気にすることか?」
「めっちゃ気にすることや」
ルナが少しだけ顔を覗かせ、ぺこりと頭を下げた。
「一週間……本当に色々ありがとう。」
「復旧は今日の午前中に通電・通水済み。ブレーカー上げれば使えるはず。冷蔵庫は……開ける前に覚悟決めたほうがええけどな」
肩の上からチャコが小声で耳打ちしてくる。
「ブレーカーは、俺が上げてくるか?」
「ま、待って、そこは自分でやる。ここは私の“ただいま”のスイッチだから」
その言い方が少しだけ誇らしげで、リュウジは「そうか」と短く頷いた。
代わりにショルダーバッグから、軍手と分厚いゴミ袋、それから小さな工具セットを取り出し、段ボールの上に置く。
「冷蔵庫、もし危険区域やったら、これ使え」
「“危険区域”て言わんといて……でも、助かるな」
チャコが段ボールを指して身を乗り出す。
「まずは極撰を冷やすのが最優先任務や。常温は罪や」
「ジュースは最後。片づけてから」
「はーい……」と口では言いながら、尾は名残惜しそうに箱に絡みついている。
「本、重いから、持つ時は膝使えよ。腰やるぞ」
「うん」
「サクラとシンのは上段の棚がいい。紙が古い。湿気、逃がしてやれ」
その名前を口にした時、ルナの目がやわらかく揺れた。
「……うん。あの本たち、ちゃんと居場所つくる。ね」
しばし、三人とも言葉を失う。廊下に、小さな空調音だけが流れた。
「じゃ、俺は先にC3に向かう」
リュウジが立ち上がり、段ボールの塔をもう一度見回す。
「急がなくていいからな。」
「うん」
扉の向こうから、少し笑う気配。
「……あのね」
「ん?」
「帰ってきて最初のスイッチ、押したら——ちゃんと“ただいま”って言う」
リュウジは、ほんの僅かに口角を上げた。
「それでこそ、ルナだ」
「そんで“おかえり”はウチの担当や」
チャコが胸を張る。「おかえりの練習済みや」
「過剰訓練だな」
苦笑して、靴音を一歩だけ下げる。
「……また、後でね」
「ああ」
短いやり取りのあと、リュウジは踵を返す。廊下の先、曲がり角に消える前に半歩だけ振り返り、軽く手を上げた。
扉が、やさしく閉まる。
*
「……よし」
ルナは深呼吸をひとつ。玄関の足元で靴を脱ぎ、ブレーカーのレバーに手を伸ばす。
“カチン”
一瞬の暗闇ののち、天井灯が順に灯っていく。白い壁紙、薄青のカーテン、観葉植物の鉢は少しだけしおれているけれど、確かにここは“自分の部屋”だ。
「ただいま」
声に出してみる。小さな反響が、胸の奥に帰ってくる。
「おかえり!」
チャコが即座に復唱し、肩から飛び降りて、廊下をころころ走った。
まずは窓を開けて空気を入れ替え、シンクに新しい水が流れるのを確認。台所の冷蔵庫の前で、二人は見つめ合った。
「開ける?」
「……開ける」
二人でカウントダウンして扉を引く。
「うっ」
「想定範囲内や!」
笑いながら、軍手・マスク・ゴミ袋で迅速に封じ込める。生鮮の整理、棚の拭き上げ、ベッドリネンの交換。
こうして体を動かしていると、気持ちまで少しずつ“帰ってくる”のが分かる。
段ボールを開け、まずはサクラとシンの本の置き場所を決めた。
上段の棚、窓から直射の当たらない右側。
『地球再生論』の背表紙に指を滑らせる。紙の温度が指先に移る。
「ここが、あの人たちの居場所」
「ええやん。ええ顔しとる」
ついでに、ハート型の写真立てを机の角へ。お姫様抱っこの一枚は、照れながらもしっかり正面。
「……見られると、ちょっと恥ずかしいけど」
「見るたび元気出るやろ。栄養価は極撰級や」
極撰と言えば、とチャコが箱に抱きつく。
「一本だけ、冷やしてええ?」
「一本“だけ”ね」
やがて、部屋に風が通い、床の木目が軽く光った。
ルナは窓辺に立ち、三日月のネックレスに触れる。
―――――
ロカC3に新しくできたキャンプ場は、人工気候の空の下とは思えないほど、深い緑に包まれていた。
木々の香りと、わずかに湿った土の匂い。ゲートには「Jupiter Colony – natural Camp」と書かれた木製のプレートがぶら下がっている。
その入り口の前で、ルナとチャコは立ち止まっていた。
「わぁ……すごい。本当に森みたい」
ルナは思わず息をのんだ。ゲートの向こうには、両脇に高い木が立ち並び、その間を一本の白い砂利道が奥まで伸びている。
コロニーの人工太陽から柔らかい光が差し込み、葉の隙間からこぼれるように揺れていた。
「やるやんロカ。ちゃんと“自然っぽい匂い”するで。人工調香、なかなかのクオリティや」
チャコが肩の上で鼻をひくひくさせながら、感心したように言う。
「ルナ〜!」
背後から声が飛んできた。振り返ると、黄色いパーカーにショートパンツというラフな格好のシャアラが、片手を大きく振りながら駆けてくる。その隣には、落ち着いた色のワンピースを着たベルの姿もあった。
「シャアラ!」
「ベルも一緒やったんか」
「こんにちは」とベルが柔らかな笑みを浮かべる。
「シャアラ、それなに?」
ルナが彼女の両腕に抱えられた、やけに膨らんだ袋に視線を向けた。
「マシュマロと串!」
胸を張って、シャアラはビニール袋を持ち上げる。
「グランピングだし、焚き火で焼かないともったいないでしょ?」
「グランピングって、“優雅なキャンプ”みたいなやつやろ?」とチャコが首をかしげる。
「せやけど、マシュマロは正義やな。ウチの分はあるんか?」
「ちゃんとチャコの分もあるよ〜」とシャアラが笑う。
「他のみんなはどうしたんや?」
チャコが辺りを見回す。
「メノリとハワードは、もう中にいるみたい」
シャアラが携帯端末を取り出し、地図アプリを確認する。「さっき『先に着いた』ってメッセージ来てた」
「シンゴとカオルも、さっき“到着”って来てた」
ベルも自分の端末を見て頷いた。
「それじゃあ、私たちも行きましょう」
ルナは笑顔で言い、ゲートの中へと歩き出した。
両脇には高い木々が生い茂り、葉擦れの音がささやきのように耳に届く。
白い砂利道を三人+一匹で歩いていくと、やがて木々の間に、こじんまりとしたコテージが姿を現した。
「……あそこかな?」
ルナはリュウジから送られてきた地図データを確認し、画面とコテージを見比べる。
「そうみたいだね」
ベルが前方を指さす。その先には、コテージの横のスペースで、何かを組み立てているメノリとシンゴ、椅子に座って腕を組んでいるハワード、木のポールに寄りかかっているカオルの姿が見えた。
「おーい、みんな〜!」
シャアラが手をぶんぶん振りながら駆け出す。
呼びかけに、四人が同時に振り返った。
「お、来たな!」
「遅かったじゃねぇか」
それぞれが手を振ったり、軽く顎を上げたりして出迎える。
「全員揃うのは久しぶりやなぁ」
チャコがルナの肩からピョンと飛び降り、きょろきょろと周囲を見回した。
「帰ってきてから、みんな色々あったからね」
シンゴが笑いながら言う。「検査に、手続きに、家族サービスに」
「お前は特に、妹弟の視線がやばかったろ」
ハワードが意地悪く笑い、シンゴが「ま、まぁ……」と頭をかいた。
「やぁやぁ、皆さん、よく来たね!」
唐突に、コテージの扉が開いた。
現れたのは、茶色のくせっ毛をふわりと風になびかせた青年だった。カジュアルなシャツに、胸元には記者証。どこか柔らかい物腰だが、目の奥には仕事人特有の光がある。
「誰だ、あのおっさん?」
「言ったな、おっさんって……」と男が苦笑するより早く、ハワードが眉をひそめて呟いた。
「場所を間違えたか?」
メノリが携帯端末で予約情報を確認し始める。
「お前は確か……記者会見の時に……」
カオルがじっと青年の顔を見つめ、思い出すように目を細めた。
「せや! 最後に質問しとった!」
チャコがぽんと手を叩く。
青年は、ぱっと顔を明るくした。
「そう! 記者のフレデリックです!」
胸に下げた記者証を軽く指で弾き、にこやかに頭を下げる。
「今日はよろしくお願いしますね」
「きょ、今日は?」
ルナが首をかしげる。
「あれ? 皆さんは何にも聞いていない感じ?」
フレデリックがきょとんと目を丸くした。
「今日はここでグランピングするってことしか聞いてないけど……」
シャアラが振り返る。
「ちょっと! リュウジさん!」
フレデリックがくるりと振り向き、コテージの中へ向かって声を張り上げた。
「どうしたんだ?」
しばらくして、コテージの中からエプロン姿のリュウジが現れた。
黒いシャツの上から、ベージュのエプロン。袖はまくり上げられ、手には布巾。どう見ても“準備中のシェフ”だ。
「お、みんな揃ったか」
リュウジは一人一人の顔を順番に見て、短く確認するように呟いた。
「一体、どういうことなんだ?」
メノリの眉がぴくりと上がる。
横ではハワードも腕を組み、露骨に怪しんでいる。
「今日はここで、皆さんに“無人惑星サヴァイヴ”のことを取材させてもらうつもりで集まってもらいました」
フレデリックが一歩前に出て、はっきりと告げた。
「えええっ!?」
反射的に、全員の声が揃った。
木々の間に、驚きの声が反響する。
「そうなの?」
シンゴが目を丸くして、リュウジに尋ねた。
「言ってなかったか?」
リュウジが本気で不思議そうに首を傾げる。
「聞いてねぇよ!!」
ハワードが叫ぶ。「“たまには遊ぶ。休む”って言葉のどこに“取材”が入るんだよ!?」
「急にグランピングするって言うから、おかしいとは思ったが……」
カオルがため息をつきながらも、どこか納得したように肩をすくめる。「やっぱりな、って感じだ」
「ふふっ」
ルナが小さく笑った。
「今度からは、ちゃんと伝えてね」
責めるというよりは、どこか楽しんでいるような、穏やかな声音で。
その笑顔に、リュウジは一瞬だけ居心地悪そうに目をそらし、すぐに「ああ」と短く頷いた。
「まぁまぁ」
フレデリックが両手を広げる。
「取材と言っても、そんな堅苦しいものじゃありません。あくまで“皆さんの記録”です。まずはお昼を食べながら、のんびりお話してもらえれば」
「お昼?」
シャアラがきょろきょろと辺りを見回す。
「……匂い、ええな」
チャコの鼻がぴくりと動いた。
コテージの中からは、香ばしい肉の匂いと、ホイルで包まれた野菜が焼ける匂いが漂ってきている。
リュウジのエプロンの端には、うっすらとソースの染みがあった。
「とりあえず、中に入れ」
リュウジが顎でコテージの方を示す。
「グランピング取材、か」
メノリが小さく呟く。
「なかなか面白そうやん」
チャコが嬉しそうに言う。
ルナは、胸元の三日月のネックレスをそっと指で押さえながら、コテージの扉をくぐった。
ここで話すことが、きっとまた誰かの未来を繋ぐのだろう——そんな予感と一緒に。