サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第48話

二日目の朝。校門の上に薄い雲が流れ、冷えた空気が頬を撫でた。

「今日は“ハワード・ドック”はお休み。代わりに“サバイバルの知恵”でいくぞ」とメノリがタブレットで工程表を確認し、全体に短く指示を飛ばす。

展示室は昨日と同じくルナ、メノリ、ハワード、チャコ、シンゴが担当。中庭では――

 

中庭・体験コーナー

 

炊事棟の脇に、二つの体験ブースが立ち上がった。

左は「火おこし体験&防災キット展示」。右は「寒冷地レイヤリング実演/アクセサリーワークショップ」。

安全柵と消火バケツ、救急箱、注意サイン。すべてカオルのチェック済みだ。

 

「まずは火おこし。今日は“弓ぎり型”だけに絞る」

ベルが低い声で説明をはじめると、子ども達の目が丸くなる。

「回す速度は“歌のサビ直前”ぐらい。焦らず、でも止めない」

 

ベルが手本を見せると、弓がキィ、キィと鳴り、ほどなく木粉が黒く煙を上げはじめる。

「おおー!」輪が広がる。

 

すぐ横でカオルが声を被せる。「火口(ほくち)へ移す時は、深呼吸してから。はい、周囲は下がる。君、髪、結ぼうか」

素早くヘアゴムを差し出し、風下に立つ位置を直す。

「安全員が試すのかよ」と昨日のノリで口を挟みかけたハワードは、メノリの一瞥で口を結ぶ。

「見本が綺麗だと、初めてでも成功率が上がる」とメノリ。

 

チャコは子ども達の手を支えながら、「力は半分、リズムは二倍や」と調子を取らせる。

 

シンゴは防災キット卓で、透明ケースを順に開いていく。

「水は“1人×1日×3L”が基本。けど持てないよね。だから“濾過ストロー+折りたたみタンク”の組み合わせ」

「ライトは“押すと光る”やつ。電池式は家に置く、携帯するのは手回し・ソーラー」

「笛は“3点”――短・短・短。世界共通の救難信号」

子どもが笛を吹き、別の子が手回しライトを回し、親がメモを取る。

カオルは終始、距離と動線を見張り、「火の列は三人まで。終わったら右に抜ける」と声を通す。

ベルが最後に消火のデモをして締める。「火をつけた人は、火を消す責任も持とう」。皆が頷く。

 

ーーーー

レイヤリング実演

 

「寒冷地では“厚い一枚”より“薄い三枚”」

ベルはワークスタンドのマネキンに、ベース層・ミドル層・アウターを順に重ねる。

「ベースは“汗を逃がす”、ミドルは“空気を抱く”、アウターは“風と水を断つ”」

観客から「ダウンはミドル?アウター?」の質問。

「設計次第。今日はミドル扱い。上からシェルを足す」

ベルの声は淡々としているが、動きはやわらかい。裾を摘み、袖口を見せ、襟の立て方まで手短に示す。

「寒いのが嫌いなら、“首・手首・足首”を守る。三つの“くび”」

チャコが即興で段ボールに“くび×3”のピクトを描き、子ども達が真似して笑う。

カオルはここでも「バックパックは通路側に置かない。足ひっかける」と静かに拾い、事故の芽を摘む。

 

ーーーー

アクセサリーワークショップ

 

その隣ではシャアラの小さな工房が開店。

テーブルに並ぶのは、磨いた木の実、小さな歯車、色糸、古布の端、アルミ空き缶を打ち抜いた“月片”。

「“未来の装い”を作ろう。条件は三つ。軽い・落ちない・痛くない」

シャアラはタブレットで作例を見せる。

「これは“月のしずく”。空き缶から切り出して、角を丸くしてあるの」

子どもが恐る恐る触れると、シャアラが笑って頷く。

「触っていいよ。角が残ってたら“紙やすり”で挨拶」

カオルがここでも横目で見ている。「パンチ工具の貸し出しは“保護メガネ着用”が条件」と、渡す前にサイズを合わせる。

「うち、ネックレスにしたい!」

「じゃあ、結びは“外れない8の字”。いっしょにやろう」

シャアラの指がほどけるように動き、子どもの指が後を追う。

「できた!」

「すてき。——名づけは?」

「“星のたね”!」

拍手。ハワードがいつの間にか列整理を手伝い、「完成ポーズで写真、撮る?」とムードを上げる。

メノリは受付で人数の山谷を見ながら、十五分ごとに整理券を切り替え、待ち時間のストレスを削っていく。

 

ーーーー

展示室

 

室内は落ち着いた運営。

ルナは“重力の感じ方”のメンブレンの前で、昨日の学びを短い言葉に圧縮して伝える。

「まっすぐ転がしても、道が曲がる。“見えない形”は、感じて確かめられる」

チャコは脇で「球は順番に返してな」と、やさしく声をかけ続ける。

シンゴは「傾斜レール」の二本立てを、親子同時に体験できるよう間隔を調整。

ハワードは今日は装置には触らず、説明の“掴み”だけ。

「宇宙最速とか言いません。言いませんが——」

メノリの視線が飛ぶ。

「——言いません」

笑いが起き、空気がほどける。ルナも肩の力が抜けた。

 

ーーーー

午前の終盤

 

体験コーナーを回り終えた家族連れが、展示室の出口で「来てよかった」と口々に言う。

ベルは最後の火種を確実に消し、灰の温度を確認してから頷く。

シャアラのテーブルには、小さな“未来の装い”が整然と並び、名づけカードが風に揺れた。

カオルは最後の巡回をして、注意サインを外しながら「事故ゼロ、よし」と小さく呟く。

 

メノリがタブレットで午前の来場カウントを締める。「想定の一二〇%。よくやった」

「昼でクローズ。撤収・復旧は“いつも通り”」

皆がそれぞれの持ち場で手短に片づけへ入った。

 

 

人波がひいた展示室で、ルナは端末を取り出す。

送信先:リュウジ。

件名:「文化祭・二日目(午前)報告だよ」

 

リュウジへ

今日は“ハワード・ドック”はお休みで、サバイバルの知恵の体験をやったよ。

火おこしは、ベルが教えてくれて、みんな本当に上手にできた。消火までちゃんと見せたの、ベルらしいでしょ。

防災キットは、シンゴが“持てる工夫”をたくさん紹介したよ。みんなメモしてた。

レイヤリングは、“三つのくび”——首・手首・足首。覚えやすくて、私も好きだな。

アクセサリーは、シャアラが“未来の装い”。子ども達がつけた“星のたね”、すごく可愛かった。

カオルは終始、安全と導線を守ってくれた。やっぱり頼りになる。

展示室は、昨日の改善でスムーズ。事故ゼロで終われたよ。

——来られなくても大丈夫。私達は、ちゃんとやれてる。

でも、帰り道は、やっぱり少しだけ寂しい。

夜はみんなで軽く打ち上げして、早めに寝るね。

ルナより

 

送信ボタンを押す。

しばらく、画面を見つめる。

既読はつかない。

返信もない。

 

胸の奥が、ひときわ静かにきしんだ。

けれど——ルナは端末をそっと伏せ、深呼吸を一度。

「大丈夫。明日も、前を向く」

 

廊下からチャコの声。「ルナ、撤収いくで!」

「今行く!」

 

ルナは帽子のつばを指で整えると、振り返って走り出した。

文化祭の二日目は、午前で役目を果たし切って、静かに幕を閉じる。

――そして、まだ見ぬ返事を胸の奥で温めながら

 

ーーーー

 

朝の光がコロニーの天蓋をやわらかく染め、気温管理の表示は「外気相当 14℃」。秋だ。空調の微かな送風音とともに、ソリア学園は文化祭の余韻を胸の奥にしまい込み、いつもの月曜日へと戻っていく。

 

ホームルームのチャイム。

タブレット出欠端末が机の列をなめるように青く点滅する中、スペンサーが教室に入ってきた。白いカップを片手に「おはよう」といつもより一拍だけ静かな声。教壇脇の壁には、文化祭のポスターがまだ半分剝がれかけで残っている。

 

「それじゃあ、朝のHRを始めます。まず連絡事項の前に、出欠を—」

 

最前列のメノリが手を挙げる。「先生、ルナが来ていません」

 

スペンサーは端末を軽くスワイプして頷いた。「うん、連絡がありました。ルナくんは風邪でお休みだそうです。文化祭の疲れもあるでしょうし、今日は無理せず。心配はいりません」

 

「そっか……」シャアラが胸に手を当て、ほっと息をつく。

「ったく、昨日まで全開だったからな」ハワードが小声で笑い、カオルが肘で小突く。「お前が言うな。お前の呼び込みが一番うるさかった」

 

「静粛に」メノリの一言で、教室にまた秋の冷気のような落ち着きが戻った。

スペンサーは続ける。「では、11月の行事予定と文化祭の後片づけ当番、配布します。各班長は—」

 

黒板代わりの大型ディスプレイに、白い表がすべって映る。授業の音が、日常を取り戻していく。

 

* * *

 

同じ頃。

薄い雲の影が、別の居住ブロックの窓辺を流れていった。玄関の鏡の前で、ルナは肩の紐を握り直す。色あせた帆布のリュック。——お父さんの形見。ベルト穴には彼が増やした跡がいくつも残り、小さなキズに手のひらが触れるたび、懐かしい体温が思い出の底から上がってくる。

 

「一人で大丈夫か?」

ソファの背からひょいと降りたチャコが、心配半分、からかい半分の顔を向ける。

 

「うん、大丈夫。ちゃんと……お父さんとお母さんに報告しなくちゃ」

ルナは笑ってみせる。けれど声の芯は真っ直ぐだった。文化祭のこと。皆のこと。そして、自分がまた“前を向いている”ことを。

 

「ほな、道中気ぃつけや。連絡入れられるときだけでええ、入れてな」

「うん。行ってきます、チャコ」

 

ドアが閉まる。廊下の空気は朝の低い温度で透き通っている。ルナは形見のリュックの重さを背に馴染ませ、一段ずつ階段を下りた。靴音が淡く反響し、やがてコロニーの通りへ溶けていく。

 

エアポートまでは歩いて十五分。

ソーレ・デッラ・ルーナのモールを横目に、ルナは端末を確認する。便名、ゲート、搭乗時刻。指先が自然と、既読のつかないメッセージ一覧に触れそうになって、そっと画面を閉じた。——今は、報告を先に。

 

ターミナルは平日の朝らしい静けさだ。大きな天窓の向こうで、光が薄く揺れている。チェックインを済ませ、保安ゲートへ。

係員が目線を合わせて微笑む。「お一人ですか?」

「はい」

「火星は冷えますから、到着後は上着をお忘れなく」

「ありがとうございます」

 

ゲートを抜けると、世界は一段と静かになる。金属と樹脂の匂い。遠くでひとつ、機械が律動を刻む音。

ルナはゲート脇の窓から滑走路を見た。灰色の床に白線が伸び、その向こうで火星行きのシャトルが眠っている。鼻先は赤く、腹に銀のパネルを抱え、翅のような姿勢制御板を休ませていた。

 

搭乗開始のアナウンス。

ルナは列に並ぶ。前の席の親子が、行き先ボードを指差して小声で話している。「ママ、ほんとに赤い星?」——そんな会話に、胸が少しやわらぐ。

 

座席は窓側。肩口に形見のリュックを抱き、シートベルトを留める。背もたれに頭を預けて深呼吸をひとつ。

ふと、父の背中越しに見た昔の火星の空を思い出す。低い太陽、薄い大気、砂の匂い。母の笑い声は、いつも風よりも先に聞こえた。報告が遅くなって、ごめんね。心の内で言葉を並べる。

 

機体が動き出す。

滑走路の端で一瞬、すべてが止まり、次の瞬間、世界が静かに傾く。

座席の背から体が押しつけられる力。窓の外で、コロニーのパネルの列が流線にほどけ、青と銀のモザイクが遠ざかる。

重力が薄くなる。胸郭の中に広がる空白が、なぜだか少しだけ心地いい。

 

高度が上がるにつれ、窓は宇宙の黒を映しはじめる。

夜でも昼でもない、音のない濃紺。そこに、点のような光がいくつも散っている。

ルナはガラス越しに掌を当て、息を小さく白く曇らせた。

——見ててね。私はちゃんと、ここまで来たよ。

そして、これからも。

 

隣席の読書灯がひとつ点く。機内アナウンスが火星到着までの所要時間と気温を告げる。

ルナは頷き、肩のリュックのベルトをなぞった。指先が、擦り切れた縫い目を越える。

ポケットの中の端末が、静かに重みを主張する。

返信はない。それでも、送るべき言葉は胸に揃っている。お父さんとお母さんに。みんなに。そして、彼に。

 

窓の外で、太陽光がふいに反射し、銀の翼に走った。

ルナは目を細め、ほんの少しだけ笑った。

「いってきます」

誰にともなく、けれど確かに届くように。

 

ーーーー

 

火星到着ロビーを抜けると、空気は乾いて少し金属のにおいがした。ルナは案内サインに従って歩き、共同墓地へ向かうシャトル乗り場の手前で足を止める。

小さな花屋があった。温室育ちの白い小菊と、淡い橙色のカーネーション。彼女は迷って、両方を束ねてもらう。「紙は薄めでお願いします」—形見のリュックにすっと納まるように。

 

共同墓地はドームの外縁に近い高台にある。風除けの壁を巡らせた静かな区画。入ってすぐの水場で柄杓に水を汲み、ルナは馴染みの区画へ向かった。

「……ただいま、お父さん。お母さん」

名前を刻んだ黒い石の前にしゃがみ、持ってきたタオルで、まず上から下へ、角から角へ。石の光沢が現れていく。

 

花立に白と橙の束を差し、リュックの内ポケットから細長い筒を取り出した。線香と小さな携帯用の香炉。マッチを擦る音が、火星の薄い空気に小さく弾ける。火を移し、三本を合わせて額の前へ。ひと呼吸置いてから、香炉にそっと立てた。甘い煙がふわりとほどけ、風除けの壁に沿って上っていく。

 

「それと……これ、内緒で持ってきたの」

リュックの底から布に包んだものを取り出す。サヴァイヴで採れた果実、炎果。手のひらに乗せると、うっすらと温もりが残っている気がした。石の端、目立たない場所に小皿を置いて、炎果を一つ。

「向こうの島でね、みんなで分けて食べたの。甘くて美味しいよ。……お父さんも、たぶん好きだと思う」

 

ルナは石の前で正座し、手を合わせた。

「報告、たくさんあるよ。まずね、私たち、無事に帰ってきたの」

言葉は急がない。サヴァイヴの冬のこと、スターホールの暗さとぬくもり、オリオン号のこと、大陸への渡航、重力嵐のこと。みんなの名前を一人ずつ呼んで、今どうしているかを話す。

「それから、文化祭。地球再生論をもとに展示を作ったの。来てくれた人、すごく多かったよ。……メノリが引っ張ってくれて、シャアラも、カオルも、ハワードも、ベルも、シンゴも、チャコも。みんなでやり切った」

香の煙が指の間を抜けていく。

「私ね、惑星開拓技師になるって、もう一度ちゃんと決めた。遠回りでも、必ず。いつか、地球に人が帰れる日をつくるから」

 

ゆっくりと瞼を開け、合掌を解く。

「また来るからね」

立ち上がるとき、視線はまだ石の名前に吸い寄せられて、胸の奥にひゅっと空きができる。ここに来ると、いつも少しだけ寒くなる。風のせいだけじゃない。

 

「ルナ?」

聞き覚えのある声に、顔が跳ね上がった。

 

そこに——リュウジがいた。

黒いジャケットの前を留めず、片手には小さな花束。火星の赤を映すような、少しだけ茶に寄った瞳が驚きと、確かめるようなやわらかさでこちらを見ている。

 

「こんな所で何しているんだ?」

言葉は戸惑い混じり。けれど責める色はない。

 

ルナの表情は、不思議なほど動かなかった。動かす必要がなかった。胸の中で、ぽっと火が灯るみたいにあたたかさが広がっていく。喉の奥がきゅっと締まり、視界が少し揺れた。

 

「ルナ? 大丈夫か?」

リュウジが一歩近づき、身をかがめて覗きこむ。香の煙が彼の肩口をかすめ、紙袋が小さく揺れた。

 

ルナは指先で目尻をそっと拭った。涙の筋を消すように、ひと撫で。

それから、いつもの、でも今は少しだけ強い声で——

「大丈夫」と、笑った。

 

「どうしてここに?」

リュウジがもう一度たずねる。声は低く、急かさない。

 

「……お母さんとお父さんに報告。命日には来れなかったから」

ルナは少しだけ目を伏せ、寂しさを隠さずに言った。

 

「そうか」

それだけ告げると、リュウジはルナの両親の墓前にすっと膝を折る。紙袋から細い線香を取り出し、マッチを擦る。ぱち、と小さく火が跳ねた。火を移し、合掌。肩の力の抜けた背中が、風の流れに合わせてほんの少し呼吸する。香の煙が真っ直ぐ上がり、やがて風にほどける。

 

(ありがとう)

声には出さず、ルナは胸の奥でそうつぶやいた。自分のためだけではない、誰かを想って手を合わせるその所作が、嬉しかった。優しかった。

 

しばらくしてリュウジは合掌を解き、静かに立ち上がる。

「ありがとう、リュウジ。お父さんもお母さんも、喜んでる」

「……ああ」

 

「それで、リュウジはどうしてここに?」

ルナが首を傾げると、彼は視線だけを遠くに滑らせた。

 

「俺も、似たようなものだ」

短くそう言って歩き出す。足取りは迷いがない。けれど、ついていこうと一歩踏み出しかけたルナは、そこで足を止めた。——邪魔しちゃいけない。そう思ったからだ。

 

墓地の入口脇、風除け壁の陰で待つことにする。遠目に見えるリュウジは、区画を移るたびに立ち止まり、線香に火を灯しては合掌していた。ひとつ、またひとつ。誰の墓なのか、ルナは知らない。ただ、そのたびに姿勢は変わらず、丁寧で、長すぎず短すぎず——祈りは、その人の分だけ正確に区切られていく。

 

時間の感覚が砂のようにこぼれる。二度、三度と風鈴が鳴り、太陽がわずかに傾く。小さな子どもを連れた家族が通り過ぎ、作業ロボが水盤を洗い、香の匂いが薄くなって、また別の香が重なる。

やがて——二時間ほど経ったころ、彼が戻ってきた。

 

「まだ、居たのか」

リュウジは少し驚いたように目を細める。

 

「うん。ちゃんと待ってたかったの」

「……ありがとう」

 

「ううん。それに、リュウジと少し話したかったし」

ルナが照れたように笑うと、リュウジも口元をやわらかく崩した。二人は並んで墓地を後にした。砂利の小さな音が、ふたりだけの会話みたいにぱらぱら続く。

 

風除け壁を抜け、ドーム内の空気が少し湿る。しばしの沈黙ののち、前を向いたままリュウジが口を開いた。

「何か、話があるのか?」

 

「大したことじゃないけどね」

ルナは笑い、肩をすくめる。

「リュウジ、全然、連絡くれないんだもん」

 

「え? ああ……」

彼は眉をかすかに上げ、すぐに苦笑に変えた。

「しばらくずっと家を離れてたからな。携帯は家に置いてきたし」

 

「それ、携帯の意味ある?」

「確かにな」

二人で小さく笑う。張り詰めていたなにかが、そこだけふっと緩む。

 

歩調を合わせながら、ルナは話し始めた。

「文化祭、あのね——“地球再生ラボ”、すごく人が来たの。大気循環のミニ模型、回した瞬間に子どもたちが目を丸くしてね。土壌浄化と藻類パネルも、光を当てたら電圧がちゃんと上がって、『生きてる』って感じが伝わったみたい。あと、重力の“感じ方”実験。メンブレンの上で球を転がすやつ。メノリが無表情でデモするから、逆にウケてさ」

話しながら、自分でも楽しくなるのがわかった。

 

「エリンさんが手伝ってくれてね。説明、完璧。人の流れまで見えてるんだよ。気づいたら詰まりが解消してるの」

リュウジの横顔が、ほんの少し和らぐ。

「それは……あの人らしいな」

 

「それで、ペルシアさんも来てくれたの」

ルナは笑って、ネックレスの三日月に触れた。銀色がかすかに光る。

「展示、全部見てくれてさ。帰りにジュースとクッキー、どっさり差し入れ。……でも途中でね、S級パイロットが来てるって騒ぎになって。私、もしかしてって思って中庭まで走っちゃった」

 

「俺じゃなかったか」

「うん。ブライアンさんだった」

ルナは少しだけ声を落とす。

「ちょっとだけ、怖かった。あの人、空気が変わるから。でもペルシアさんが間に入ってくれて……大丈夫だったよ」

 

「そうか」

リュウジは短く応じる。その「そうか」に、余計な詮索も、無用な慰めもない。ただ事実を受け止める手触りがある。

 

「日曜の午後は生徒だけでね。“明日のくらし対話ゾーン”で、みんなで地球のこと話した。——ちゃんと伝えられたかは、まだ自信ないけど」

「伝わってるさ」

即答。彼の声は低いが、迷いがない。ルナは思わず彼を見上げた。

 

ドームの天井を走る照明が点き始め、人工の夕景が広がる。墓地のゲートを出るころには、人の影もまばらになっていた。

「帰り、どこか寄るか?」

「ううん。今日は……このままがいい」

ルナが答えると、リュウジは「わかった」とだけ言って、歩幅を少しだけ狭めた。肩が触れない距離、でも温度は確かに届く距離。

 

沈黙が戻る。けれどそれは、もう寒くない。

二人の靴音が、火星の夕暮れにやわらかく刻まれていった。

 

ーーーー

 

エアポートのガラス越しに、発着ゲートの案内板がゆっくり更新される。

「ロカA2 行き、最終案内」「木星・外縁コロニー行き、搭乗開始」。

 

「……じゃあ、ここまでだな」

リュウジが小さく息を吐き、ルナの目線に合わせるように身をかがめた。まだ右手には薄い包帯。表情はいつも通り落ち着いているのに、視線の奥に迷いのない優しさが揺れている。

 

「週末には——学園に一度、顔を出す」

約束を切り出す声音は、風のない水面みたいにまっすぐだ。

 

「……うん」

名残惜しさが頬の熱になってにじむ。言葉にすると泣きそうで、ルナはそれ以上を飲み込んだ。

「気をつけてね」

届いてほしい言葉だけ、背中に向けて投げる。

 

リュウジは振り返らない。けれど、右手を軽く挙げる仕草で返事をした。歩みがボーディングブリッジの向こうに消える。

ルナは自分の搭乗口へ向かいながら、胸の奥に灯った小さな火が、ぎゅっと温度を上げるのを感じていた。——短い時間でも会えた。それに、墓参りの帰り道にこんなにも温かくなれるなんて、初めてだ。

 

 

翌日。

メノリやシャアラ、シンゴ、カオル、ベル、ハワードの顔が揃うと、口々に心配の言葉が飛んできた。

「本当に大丈夫か?」

「無理してない?」

「熱は? データ残ってたら見るけど」

「顔色は悪くないが油断は禁物だ」

「……よかった」

「はしゃぎすぎるからだよ」

 

「大丈夫。みんな、ありがとう」

ルナはいつもの笑顔で答える。頬の色はほんのり明るい。目の奥には、昨晩の火種がまだきちんと息づいている。

 

ーーーー

 

金曜日の朝。

ルナは目覚ましが鳴る前に目を開けた。胸の内がほんのり熱い——今日は、リュウジが学園に顔を出すと言ってくれた日だ。洗面台で頬を軽く叩き、三日月のネックレスを指先でそっとなぞる。パンを半分だけ齧ると、いつもよりずっと早い時刻に家を出た。

 

通学路は秋設定の空調で、空気がきりっと澄んでいる。角を曲がると、前からメノリが手をポケットに入れて歩いてきた。

「おはよう、メノリ」

「おはよう。今日は早いな」

「メノリこそ車じゃなかったけ?」

「サヴァイヴから戻って、朝に身体を動かさないと気持ち悪くてな。徒歩にした」

「ふふっ、メノリらしい」

 

二人で並んで歩くうちに、ソリア学園の門が見えてきた。と、その入り口の影に茶髪の青年がひとり立っている。制服でも保護者証でもない。胸元を押さえる癖が目についた。

「……誰だ、あれは?」

メノリの声がわずかに硬くなる。

ルナは一歩前へ出て、いつも通りの調子で微笑んだ。

「どうしたんですか?」

 

青年はゆっくり顔を上げた。眠気の抜けきらないような目の縁、作り物めいた笑み。

「少し迷ってね。見学に来たんだ」

メノリはルナの前に半歩、自然に入る。

「身分証の提示をお願いします」

「……ああ、しまったな。どこにやったかな」青年はポケットを探る素振りだけして、何も出さない。視線は昇降口の奥へと滑っていく。

 

メノリが低く息を吸う気配を、ルナは横で感じた。(——この空気、知ってる)背中に薄い警鐘が走る。サヴァイヴの冬、吹雪の前ぶれに似ていた。

 

「保護者証がなければ事務で手続きが必要です。案内しま——」

「結構だ」青年の口角が、わずかに上がる。「君……記者会見で見た顔だな」

「……人違いです」

「面白い。リュウジは?」

胸の奥が、ちくりと疼く。ルナは答えず、青年の靴先が門の内側へ半歩入ってくるのを見逃さなかった。

 

◇◇◇

 

同じ頃。

木星からの始発便で自宅へ戻ったリュウジは、玄関で大きく欠伸をひとつ。テーブルの端末を手に取ると、未読のメッセージと着信が画面いっぱいに並んだ。「……悪いな」と独り言ちてスクロールしているところへ、着信が割り込む。

「俺だ」

『カラスです』

「どうした? 珍しいな」

『まずは礼から。ダンナが宇宙連邦連盟に入る写真、ありがとうございました』

「……記事にはしなかったのか?」

『しませんでした。宇宙連邦連盟に高値で売りました。いい取引ですよ』

「そういうやり方もあるのか」

『ええ。手札は使いようで切り札になる』

 

短いやり取りののち、カラスの声色が僅かに低くなる。

『本題です。——本日、ナッシュとリョクの身柄が監察に拘束されました』

「ようやく、か」

『ところが——ナッシュが監察の隙をついて逃亡しました』

「……なんだと!?」リュウジは立ち上がる。「位置は」

『報酬次第です』

「一万ダール」

『成立。——ナッシュは今、ソリア学園にいます』

「……!」時計に目をやる。登校時間帯ど真ん中だ。

『レーザー銃を所持。お気をつけて』

「分かった」

 

通話を切ると同時にコートを掴み、廊下を駆ける。踵でドアを閉め、走りだした。(間に合え)

 

◇◇◇◇

 

胸の奥がちくりと疼く。それでもルナは笑みを崩さない。答えず、まばたきの回数だけを意識的に落とす。メノリが低く息を吸ったのが横で分かった。

 

「先生を呼びます。あなたはここで待っていてください」

「結構だ」青年の右手が、コートの内側で何か硬いものをなぞる。次の瞬間、小さな電子音が“ピッ”と鳴り、安全装置が外れる音が空気を刺した。

 

光沢のない小型レーザー銃が、コートの裾から現れ、まっすぐ——ルナの鎖骨の下へ。

「動くな」

輪郭のはっきりした低音。人混みが、さざ波のように後ろへ引いた。

 

「ルナ」メノリが名を呼ぶ。

「大丈夫」ルナは短く返す。両手は見える位置、指は開いたまま。心臓は速い。けれど呼吸は細く長く——サヴァイヴの夜、焚き火の火を守るときの呼吸で保つ。

 

青年は一歩踏み出し、ルナの背へ左腕を回して固定した。銃口は揺れない。体温、革の匂い、そして僅かなオゾン臭。

「いい子だ。——俺はナッシュ。用件は一つ。リュウジをここに連れてこい」

「ここは学校です」メノリの声は平坦だ。「銃を下ろしてください。今なら誰も傷つかない」

ナッシュは鼻で笑う。「理想論は要らない。十分だ。十分で連れてこい。一人で来させろ」

 

メノリは顎だけで門衛ボックスの方向を指した。近くの生徒に視線で合図し、無言のまま校舎側へ下がらせる。(——通報、ロックダウン、先生たちの招集。時間を稼げ)

 

「十分じゃ足りない」ルナが口を開いた。柔らかな、けれど芯のある声。「十五分。それが現実的です」

ナッシュの指がトリガーガードに触れたまま止まる。「交渉か?」

「ええ。リュウジは今ここにはいません。呼ぶなら、移動時間がいる。あなたも無駄に焦りたくないでしょう」

 

ナッシュの口角がかすかに上がる。「面白いな。怖がらない」

「怖いわ」ルナは正直に言った。「だから、誰も傷つかない方を選びたいの」

彼の腕の硬さが、ほんの少しだけ緩んだ。銃口の角度は変わらないが、撃発の直前にあるあの冷たさが、半歩遠のく。

 

「条件だ」ナッシュは続ける。「誰もここに近づけるな。警備ドローンもだ。迂回路を作れ。人を散らせ」

「分かった。私が伝える。あなたは——私から距離を取らないで」

「そりゃ無理だ」彼は笑い、腰の位置でルナを引き寄せた。「逃げないようにね」

 

メノリがその間に、腕端末を胸元に一度当てる。無音の危険度Bコードが飛び、校内の静音ロックダウンが徐々に始まる。表向きは何も起きていない——けれど、廊下の自動扉が一枚ずつ内側から鍵を噛み、担任たちに“遅刻者対応”の名目で生徒を教室へ集める指示が流れる。

 

「十分。——一分でも過ぎたら撃つ」

「撃つ理由は?」ルナが問う。

「俺は脅しに来たんじゃない。落とし前をつけに来た」

「誰の?」

「……あの男の」

 

言葉が、皮膚の下へ刺さる。(やっぱり——)ルナは息をひとつ整え、声の高さを微妙に落とした。「あなたは彼を誤解してる。ここは話す場所じゃないけど——真実は会見の通り」

「真実?」ナッシュの目が鋭く細くなった。「そんなものは、いくらでも作れる」

 

ルナは目だけで周囲を見た。門柱の陰に、スペンサーの影。離れた位置で、メノリと視線を結ぶ。三つ数えて、合図——その合意だけを通す。

「なら、彼本人の口から聞いて方がいいわ。だからこそ——十五分」

 

ナッシュは舌打ちをひとつ。「十分で足りる」

「十五」

「——十二」

「十三」

短い沈黙。

「……よし。十三だ」ナッシュは腕時計をタップし、カウントを刻ませた。赤い数字がルナの頬の横で逆光に浮かぶ。13:00から減り始める秒数。

 

メノリがゆっくり両手を上げ、わずかに後退する。「分かった。呼んでくる。ただし、一緒には行かない。ここから、私の声で繋ぐ」

ナッシュは顎で許可した。メノリは数歩離れ、胸の端末に接続を開く。

「スペンサー先生、保健室と事務に“遅刻対応”要請。正門周辺は私が見る。……全員、落ち着いて行動」

落ち着いた響きが、メノリの声帯を通って校内へ“いつも通り”の形で広がる。緊急は——外側にだけ存在する。

 

銃口は、ずっとルナの胸元にある。ほんの数ミリ、呼吸に合わせて上下する光点。

(大丈夫。時間を、繋ぐ)

「ねぇ、ナッシュ」ルナが口を開く。「一つだけお願い。——銃口、外側へ向けて。私のことはどうでもいい。でも、校舎には友だちがいるの」

ナッシュは目を細め、わずかに銃の角度を外へ逸らした。「交渉上手だな」

「あなたが悪人に見えないから」

「……ふん」

 

数字は11:02、10:41と落ちていく。

風が旗を撫で、門前の落ち葉がころんと転がる。遠くで、遅刻ぎみの生徒が走ってくる足音がして、すぐに別の先生の手で静かに引き返される。

 

メノリは電話越しの声を低く保った。「——リュウジ、聞こえるか。至急、正門前だ。対象はナッシュ、レーザー所持、人質ひとり」

応答は、まだ来ない。

(間に合って。お願い——)ルナは胸の中でだけ祈る。外側の顔は、静かで、まっすぐで、ちゃんと“ここにいる”。

 

「話せ」ナッシュが言った。「待ち時間は退屈だ」

「何を?」

「あの島のことでもいい。どうやって、生きた」

(……見てたんだ、会見も、記事も)

ルナは小さく頷く。「じゃあ、家の話をしようか。——“大いなる木”っていう、私たちの最初の家のこと」

 

彼の左腕の力が、ほんの一段弱まる。耳は銃よりも言葉へ向く。秒数は進み続ける。

09:57

 

リュウジは、まだ来ない。

ルナは呼吸を守り、時間を守る。そして“誰も傷つかない”のほうへ、言葉で道を敷き続けた。

 

ーーーー

 

ルナが“大いなる木”の話を静かに紡いでいると、門の向こうから駆け寄る気配が増えた。

「ルナ!」シャアラの声が風を切る。

その瞬間、ナッシュの左腕がぎゅっと締まり、銃口の冷たい輪がルナの胸元からわずかに喉側へずれた。

 

「来るな」ナッシュの声が低く沈む。

「みんな、私は大丈夫だから」ルナは視線だけで仲間たちを見る。メノリ、シャアラ、シンゴ、カオル、ベル、そして少し遅れてハワード——全員の顔がそこにあった。

 

ナッシュの右手が滑るように動き、銃口が仲間たちへ向く。

「待って! みんなを撃たないで」

「そんな事をしても無駄だぞ! 今に逮捕してやるからな!」ハワードが一歩前へ出た。

「挑発するな、馬鹿!」カオルが襟首をつかんで後ろへ引き戻す——

 

ピッ、と短い電子音。

次いで、白い閃光が地面を裂いた。ハワードの靴先から指二本分先、石畳が黒く穿たれ、焦げた匂いとオゾンの匂いが鼻を刺す。

「やめて!」ルナの声が震える。ナッシュは不敵に片口角を上げ、銃口をまたルナの胸元へ戻した。

 

「リュウジが来るまで余計なことをするな」メノリの声音は低く、刃のように真っ直ぐだ。

「何やってんだよ、リュウジのやつ……」ハワードが歯噛みする。

「大丈夫。きっと来るよ」シンゴが短く。

「俺もそう思う」ベルが頷く。

「信じて待ちましょう」シャアラが両手を胸の前で固く握った。

 

ナッシュの腕時計の赤い数字が、00:58、00:37、00:19と削れていく。

呼吸の音、遠くの校内放送、風に揺れる校旗——すべてが遅く聞こえた。

 

00:00。

甲高いアラームが三度鳴る。

「時間だ」ナッシュの黒目が冷える。「まずはお前を殺す」

銃口がゆっくり、メノリの胸部へ移動する。

「待って! やるなら私をやって!」ルナが一歩、前へ出ようとする——が、腰で極端に引き戻される。

「お前は最後だ」ナッシュは告げる。

 

メノリは仲間たちを一瞥し、ほんの僅かに顎を上げた。「いいだろう。私から離れておけ」

冷静を装う声。だがこめかみには、はっきりと汗が滲んでいた。

 

「まず一人だ」

ナッシュの指が引き金へ食い込む。

「メノリ!!!」ルナの叫びが張り裂ける。

 

——ドン!。

メノリの身体が横から弾かれた。肩口を強い力が押し、石畳を転がりながら視界が流れる。

同時にレーザーが唸り、メノリがさっきまでいた空間を貫いて、背後の塀に黒い焦げ穴を穿った。

 

「用があるのは俺だろ! ナッシュ!」

門柱の影から飛び込んだ男が、メノリを庇うように立つ。額から汗が線になって伝い落ち、肩は大きく上下している。

荒い呼吸。走ってきたばかりの肺の音。

鋭い眼だけは、微塵も揺れない。

 

リュウジだった。

 

門前。張りつめた空気の芯に、二人の声だけが落ちる。

 

「——どういうつもりだ、ナッシュ」

リュウジは半歩も詰めない。視線だけで距離を測り、右手をゆっくり胸の高さで開いた。

ナッシュの左腕が僅かに強張る。ルナの喉元すれすれに銃口の冷たい輪が触れる。

 

「どういうつもり、だと?」ナッシュが乾いた笑いを一度だけ漏らす。「全部失った。資格も、肩書も、居場所もだ。ステファンの会見で、世界は掌を返した。お前さえ——お前さえ戻らなければ、俺は“ドルトムント財閥のナッシュ”でいられた」

 

「戻ったのは俺の責任だ。だが、お前が積んだ選択まで、俺のせいにはできない」

リュウジの声は低い。「工具紛失の報告を潰し、離陸を急がせた。宇宙ジャックを隠し、偽の数字で世間を黙らせた。あれは——お前達の手だ」

 

「正しい言葉だな、英雄」ナッシュの口角が歪む。「綺麗だよ。綺麗すぎて吐き気がする。お前が帰って来た瞬間、俺は悪に、ピエロに、切り捨てられるコマになった」

 

リュウジは静かに首を振る。

「俺は英雄じゃない。あの日だって、選択の残りカスを掴んだだけだ。ナッシュ。ここで引き金を引けば、お前の失ったものは何一つ戻らない。これ以上、罪を重ねるな」

 

短い沈黙。風が校旗を鳴らし、服を揺らす。

ナッシュはルナの肩越しにリュウジを刺すように見た。「罪? 笑わせるな。罪はもう山ほどだ。なら、最後の一つくらい意味のある的に撃たせろよ」

 

「的にされる覚悟なら、とっくにできてる」

リュウジの眼差しが一瞬だけ鋼に変わる。「だが、その前にルナから手を離せ。」

 

「英雄の台詞だ」ナッシュが囁く。銃口がミリ単位で上がる。「お前の“選択”のせいで、俺は地獄を見た。拘束、尋問、見世物。……それでも、あの日は俺が先に座ってた。サインも俺だ。なのに、最後に拍手を貰うのはお前だ」

 

「拍手なんて要らなかった。欲しかったのは、乗客が息をしていることだけだ」

リュウジは、わずかに体の角度を変える。ナッシュの視線が吸い寄せられ、トリガーにかかる指が僅かに締まる。リュウジは止まる。

「覚えてるか、操縦桿の感触。手の平が汗で滑って、それでも握り直した夜。あの手は、人を運ぶための手だ。今、その手で人を撃つのか」

 

ナッシュの喉が小さく鳴る。

「……お前はいつもそうだ。正しい言葉を一つだけ置いて、全部を押し返す。俺にはもう、これ(銃)しか残ってない」

 

「残ってるさ」リュウジが即答する。「認めることと、やり直すことは、まだ残ってる。逃げた先にあるのは、空っぽだ。引き金の先は、もっと空っぽだ」

 

「やり直す? 俺に?」ナッシュが鼻で笑う。「世間は戻らない。資格も戻らない。戻るのは恨みだけだ」

 

「恨みで操縦した機は、真っ直ぐ飛ばない」

リュウジの声がさらに低く落ちる。「ここで終われ。今なら、まだ止まれる。俺も——お前のために証言する。責任を分け合うために」

 

ルナの肩がかすかに震え、彼女は息を飲む。

ナッシュは一瞬だけ視線を落とし、すぐ戻す。「いらない。お前に救われるくらいなら、全部壊す」

 

「壊すのは簡単だ。飛ばすのが難しい」

リュウジは目を逸らさない。「ナッシュ、俺はここにいる。撃つなら俺にしろ。だが、その前にルナを離せ」

 

張りつめた一本の糸に、全員の呼吸が絡みつく。

ナッシュの指が、トリガー上でわずかに緩む——かに見えた次の瞬間、また締まる。

「……最後の確認だ、リュウジ。お前は本当に、あの日の全部を背負うつもりか」

 

「背負う。俺はずっとそうしてきたし、これからもそうする」

リュウジは一歩も引かない。「だから言う。——下ろせ、ナッシュ」

 

風が止む。音が消える。

ナッシュの喉仏が上下し、銃口がルナの鎖骨から、ゆっくりと——リュウジの眉間へ移った。

「なら、お前からだ」

彼の目に、凍った決意が灯る。

 

リュウジは、ほんの僅かに顎を引いた。「——そうしてくれ」

 

二人の間の距離が、数字では測れない深さになる。

緊張が、弾ける寸前まで張り詰めた。

 

「……一つ条件だ。もし撃って俺を殺したら、こいつらには手を出すな」

 

ナッシュの瞳が細くなる。引き金の上で指が固まったまま、口角だけがわずかに上がった。

「いいだろう。約束してやる」

 

リュウジは、ほんの気配ほどの笑みを浮かべた。「それでいい」

 

次の瞬間——パチン。トリガーが落ちる、ごく小さな乾いた音。

「——やめてぇええっ!!」

ルナの叫びが空気を裂いた。

 

同時に、彼女の皮膚の下で何かが目覚める。微細な震えが四肢の内側を駆け、耳の奥で砂嵐みたいなざわめきが膨らむ。視界の縁に、砂鉄が光を弾くような粒子の煌めき。サヴァイヴで一度だけ感じたあの力——ナノマシンの群れが、悲鳴に引き寄せられるように一斉に指向を変えた。

 

銃口の内部、コンデンサの帯電にノイズが走る。誘導コイルが飽和し、出力が逸れる。

——ボンッ!

白い閃光、濃いオゾン臭。ナッシュの手の中でレーザー銃が弾け、黒い煙が短く噴き上がった。

 

「ぐっ——!」

ナッシュの握力が緩む。

「今!」

ルナは体を捻って腕をすり抜け、振り返るより早くリュウジの胸に飛び込んだ。リュウジは左腕でしっかり受け止め、右肩で彼女を庇うように一歩退く。

「大丈夫か」

「……うん!」ルナは涙混じりに頷く。鼓動がぶつかって、彼の体温で恐怖が洗い流されていく。

 

「リュ——」とナッシュが顔を上げた瞬間、影が横を切った。

「——遅い」

カオルだ。リュウジの横をすり抜け、煙の中のナッシュへ一直線。

足払いが刈る。ナッシュの膝が浮く。落ちる肘を内側から極め、ねじる。

「離せッ!」

「離すのはお前のほうだ」

関節が悲鳴を上げ、ナッシュの体から力が抜ける。床に転がった残骸の銃を、シンゴがすかさず靴先で遠くへ蹴り飛ばす。

 

「ナイスだ!カオル!」

ハワードは嬉しそうに手を叩いた。

 

「近づくな!」

 メノリが振り向きざまに指示を飛ばす。

「こっちは任せろ!」

 ベルが手を広げて生徒の列を止めた。

「保安局に通報済み!」

 シャアラが端末を掲げる。「三分で到着!」

「拘束バンド!」

「ある!」シンゴがツールポーチから簡易バンドを取り出し、カオルがナッシュの両手首を背中で素早く固定する。

 

リュウジはルナを背に、周囲に目を走らせた。爆ぜた金属の匂い。焦げた床に散る微細な破片。

「負傷者なし……」

彼は深く息を吐き、腕の中のルナにだけ声を落とす。

「無茶するなって、いつも言ってるだろ」

「……勝手に、からだが動いたの」ルナは照れたように笑う。その胸の奥で、さっきまで暴れていた微かなざわめきが、すっと鎮まっていく。

 

地面に押さえつけられたナッシュが、悔しげに歯を噛んだ。

「また——またお前は、俺から……」

カオルが表情を崩さず言う。「もう喋るな。終わりだ」

遠くからサイレンの音が近づく。メノリは一度だけリュウジと視線を合わせ、短く頷いた。

ハワードが肩越しに声を上げる。「みんな、道を開けろ!」

「了解!」ベルが応じ、シャアラとシンゴが人の波にガイドテープを走らせる。

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