二日目の朝。校門の上に薄い雲が流れ、冷えた空気が頬を撫でた。
「今日は“ハワード・ドック”はお休み。代わりに“サバイバルの知恵”でいくぞ」とメノリがタブレットで工程表を確認し、全体に短く指示を飛ばす。
展示室は昨日と同じくルナ、メノリ、ハワード、チャコ、シンゴが担当。中庭では――
中庭・体験コーナー
炊事棟の脇に、二つの体験ブースが立ち上がった。
左は「火おこし体験&防災キット展示」。右は「寒冷地レイヤリング実演/アクセサリーワークショップ」。
安全柵と消火バケツ、救急箱、注意サイン。すべてカオルのチェック済みだ。
「まずは火おこし。今日は“弓ぎり型”だけに絞る」
ベルが低い声で説明をはじめると、子ども達の目が丸くなる。
「回す速度は“歌のサビ直前”ぐらい。焦らず、でも止めない」
ベルが手本を見せると、弓がキィ、キィと鳴り、ほどなく木粉が黒く煙を上げはじめる。
「おおー!」輪が広がる。
すぐ横でカオルが声を被せる。「火口(ほくち)へ移す時は、深呼吸してから。はい、周囲は下がる。君、髪、結ぼうか」
素早くヘアゴムを差し出し、風下に立つ位置を直す。
「安全員が試すのかよ」と昨日のノリで口を挟みかけたハワードは、メノリの一瞥で口を結ぶ。
「見本が綺麗だと、初めてでも成功率が上がる」とメノリ。
チャコは子ども達の手を支えながら、「力は半分、リズムは二倍や」と調子を取らせる。
シンゴは防災キット卓で、透明ケースを順に開いていく。
「水は“1人×1日×3L”が基本。けど持てないよね。だから“濾過ストロー+折りたたみタンク”の組み合わせ」
「ライトは“押すと光る”やつ。電池式は家に置く、携帯するのは手回し・ソーラー」
「笛は“3点”――短・短・短。世界共通の救難信号」
子どもが笛を吹き、別の子が手回しライトを回し、親がメモを取る。
カオルは終始、距離と動線を見張り、「火の列は三人まで。終わったら右に抜ける」と声を通す。
ベルが最後に消火のデモをして締める。「火をつけた人は、火を消す責任も持とう」。皆が頷く。
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レイヤリング実演
「寒冷地では“厚い一枚”より“薄い三枚”」
ベルはワークスタンドのマネキンに、ベース層・ミドル層・アウターを順に重ねる。
「ベースは“汗を逃がす”、ミドルは“空気を抱く”、アウターは“風と水を断つ”」
観客から「ダウンはミドル?アウター?」の質問。
「設計次第。今日はミドル扱い。上からシェルを足す」
ベルの声は淡々としているが、動きはやわらかい。裾を摘み、袖口を見せ、襟の立て方まで手短に示す。
「寒いのが嫌いなら、“首・手首・足首”を守る。三つの“くび”」
チャコが即興で段ボールに“くび×3”のピクトを描き、子ども達が真似して笑う。
カオルはここでも「バックパックは通路側に置かない。足ひっかける」と静かに拾い、事故の芽を摘む。
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アクセサリーワークショップ
その隣ではシャアラの小さな工房が開店。
テーブルに並ぶのは、磨いた木の実、小さな歯車、色糸、古布の端、アルミ空き缶を打ち抜いた“月片”。
「“未来の装い”を作ろう。条件は三つ。軽い・落ちない・痛くない」
シャアラはタブレットで作例を見せる。
「これは“月のしずく”。空き缶から切り出して、角を丸くしてあるの」
子どもが恐る恐る触れると、シャアラが笑って頷く。
「触っていいよ。角が残ってたら“紙やすり”で挨拶」
カオルがここでも横目で見ている。「パンチ工具の貸し出しは“保護メガネ着用”が条件」と、渡す前にサイズを合わせる。
「うち、ネックレスにしたい!」
「じゃあ、結びは“外れない8の字”。いっしょにやろう」
シャアラの指がほどけるように動き、子どもの指が後を追う。
「できた!」
「すてき。——名づけは?」
「“星のたね”!」
拍手。ハワードがいつの間にか列整理を手伝い、「完成ポーズで写真、撮る?」とムードを上げる。
メノリは受付で人数の山谷を見ながら、十五分ごとに整理券を切り替え、待ち時間のストレスを削っていく。
ーーーー
展示室
室内は落ち着いた運営。
ルナは“重力の感じ方”のメンブレンの前で、昨日の学びを短い言葉に圧縮して伝える。
「まっすぐ転がしても、道が曲がる。“見えない形”は、感じて確かめられる」
チャコは脇で「球は順番に返してな」と、やさしく声をかけ続ける。
シンゴは「傾斜レール」の二本立てを、親子同時に体験できるよう間隔を調整。
ハワードは今日は装置には触らず、説明の“掴み”だけ。
「宇宙最速とか言いません。言いませんが——」
メノリの視線が飛ぶ。
「——言いません」
笑いが起き、空気がほどける。ルナも肩の力が抜けた。
ーーーー
午前の終盤
体験コーナーを回り終えた家族連れが、展示室の出口で「来てよかった」と口々に言う。
ベルは最後の火種を確実に消し、灰の温度を確認してから頷く。
シャアラのテーブルには、小さな“未来の装い”が整然と並び、名づけカードが風に揺れた。
カオルは最後の巡回をして、注意サインを外しながら「事故ゼロ、よし」と小さく呟く。
メノリがタブレットで午前の来場カウントを締める。「想定の一二〇%。よくやった」
「昼でクローズ。撤収・復旧は“いつも通り”」
皆がそれぞれの持ち場で手短に片づけへ入った。
人波がひいた展示室で、ルナは端末を取り出す。
送信先:リュウジ。
件名:「文化祭・二日目(午前)報告だよ」
リュウジへ
今日は“ハワード・ドック”はお休みで、サバイバルの知恵の体験をやったよ。
火おこしは、ベルが教えてくれて、みんな本当に上手にできた。消火までちゃんと見せたの、ベルらしいでしょ。
防災キットは、シンゴが“持てる工夫”をたくさん紹介したよ。みんなメモしてた。
レイヤリングは、“三つのくび”——首・手首・足首。覚えやすくて、私も好きだな。
アクセサリーは、シャアラが“未来の装い”。子ども達がつけた“星のたね”、すごく可愛かった。
カオルは終始、安全と導線を守ってくれた。やっぱり頼りになる。
展示室は、昨日の改善でスムーズ。事故ゼロで終われたよ。
——来られなくても大丈夫。私達は、ちゃんとやれてる。
でも、帰り道は、やっぱり少しだけ寂しい。
夜はみんなで軽く打ち上げして、早めに寝るね。
ルナより
送信ボタンを押す。
しばらく、画面を見つめる。
既読はつかない。
返信もない。
胸の奥が、ひときわ静かにきしんだ。
けれど——ルナは端末をそっと伏せ、深呼吸を一度。
「大丈夫。明日も、前を向く」
廊下からチャコの声。「ルナ、撤収いくで!」
「今行く!」
ルナは帽子のつばを指で整えると、振り返って走り出した。
文化祭の二日目は、午前で役目を果たし切って、静かに幕を閉じる。
――そして、まだ見ぬ返事を胸の奥で温めながら
ーーーー
朝の光がコロニーの天蓋をやわらかく染め、気温管理の表示は「外気相当 14℃」。秋だ。空調の微かな送風音とともに、ソリア学園は文化祭の余韻を胸の奥にしまい込み、いつもの月曜日へと戻っていく。
ホームルームのチャイム。
タブレット出欠端末が机の列をなめるように青く点滅する中、スペンサーが教室に入ってきた。白いカップを片手に「おはよう」といつもより一拍だけ静かな声。教壇脇の壁には、文化祭のポスターがまだ半分剝がれかけで残っている。
「それじゃあ、朝のHRを始めます。まず連絡事項の前に、出欠を—」
最前列のメノリが手を挙げる。「先生、ルナが来ていません」
スペンサーは端末を軽くスワイプして頷いた。「うん、連絡がありました。ルナくんは風邪でお休みだそうです。文化祭の疲れもあるでしょうし、今日は無理せず。心配はいりません」
「そっか……」シャアラが胸に手を当て、ほっと息をつく。
「ったく、昨日まで全開だったからな」ハワードが小声で笑い、カオルが肘で小突く。「お前が言うな。お前の呼び込みが一番うるさかった」
「静粛に」メノリの一言で、教室にまた秋の冷気のような落ち着きが戻った。
スペンサーは続ける。「では、11月の行事予定と文化祭の後片づけ当番、配布します。各班長は—」
黒板代わりの大型ディスプレイに、白い表がすべって映る。授業の音が、日常を取り戻していく。
* * *
同じ頃。
薄い雲の影が、別の居住ブロックの窓辺を流れていった。玄関の鏡の前で、ルナは肩の紐を握り直す。色あせた帆布のリュック。——お父さんの形見。ベルト穴には彼が増やした跡がいくつも残り、小さなキズに手のひらが触れるたび、懐かしい体温が思い出の底から上がってくる。
「一人で大丈夫か?」
ソファの背からひょいと降りたチャコが、心配半分、からかい半分の顔を向ける。
「うん、大丈夫。ちゃんと……お父さんとお母さんに報告しなくちゃ」
ルナは笑ってみせる。けれど声の芯は真っ直ぐだった。文化祭のこと。皆のこと。そして、自分がまた“前を向いている”ことを。
「ほな、道中気ぃつけや。連絡入れられるときだけでええ、入れてな」
「うん。行ってきます、チャコ」
ドアが閉まる。廊下の空気は朝の低い温度で透き通っている。ルナは形見のリュックの重さを背に馴染ませ、一段ずつ階段を下りた。靴音が淡く反響し、やがてコロニーの通りへ溶けていく。
エアポートまでは歩いて十五分。
ソーレ・デッラ・ルーナのモールを横目に、ルナは端末を確認する。便名、ゲート、搭乗時刻。指先が自然と、既読のつかないメッセージ一覧に触れそうになって、そっと画面を閉じた。——今は、報告を先に。
ターミナルは平日の朝らしい静けさだ。大きな天窓の向こうで、光が薄く揺れている。チェックインを済ませ、保安ゲートへ。
係員が目線を合わせて微笑む。「お一人ですか?」
「はい」
「火星は冷えますから、到着後は上着をお忘れなく」
「ありがとうございます」
ゲートを抜けると、世界は一段と静かになる。金属と樹脂の匂い。遠くでひとつ、機械が律動を刻む音。
ルナはゲート脇の窓から滑走路を見た。灰色の床に白線が伸び、その向こうで火星行きのシャトルが眠っている。鼻先は赤く、腹に銀のパネルを抱え、翅のような姿勢制御板を休ませていた。
搭乗開始のアナウンス。
ルナは列に並ぶ。前の席の親子が、行き先ボードを指差して小声で話している。「ママ、ほんとに赤い星?」——そんな会話に、胸が少しやわらぐ。
座席は窓側。肩口に形見のリュックを抱き、シートベルトを留める。背もたれに頭を預けて深呼吸をひとつ。
ふと、父の背中越しに見た昔の火星の空を思い出す。低い太陽、薄い大気、砂の匂い。母の笑い声は、いつも風よりも先に聞こえた。報告が遅くなって、ごめんね。心の内で言葉を並べる。
機体が動き出す。
滑走路の端で一瞬、すべてが止まり、次の瞬間、世界が静かに傾く。
座席の背から体が押しつけられる力。窓の外で、コロニーのパネルの列が流線にほどけ、青と銀のモザイクが遠ざかる。
重力が薄くなる。胸郭の中に広がる空白が、なぜだか少しだけ心地いい。
高度が上がるにつれ、窓は宇宙の黒を映しはじめる。
夜でも昼でもない、音のない濃紺。そこに、点のような光がいくつも散っている。
ルナはガラス越しに掌を当て、息を小さく白く曇らせた。
——見ててね。私はちゃんと、ここまで来たよ。
そして、これからも。
隣席の読書灯がひとつ点く。機内アナウンスが火星到着までの所要時間と気温を告げる。
ルナは頷き、肩のリュックのベルトをなぞった。指先が、擦り切れた縫い目を越える。
ポケットの中の端末が、静かに重みを主張する。
返信はない。それでも、送るべき言葉は胸に揃っている。お父さんとお母さんに。みんなに。そして、彼に。
窓の外で、太陽光がふいに反射し、銀の翼に走った。
ルナは目を細め、ほんの少しだけ笑った。
「いってきます」
誰にともなく、けれど確かに届くように。
ーーーー
火星到着ロビーを抜けると、空気は乾いて少し金属のにおいがした。ルナは案内サインに従って歩き、共同墓地へ向かうシャトル乗り場の手前で足を止める。
小さな花屋があった。温室育ちの白い小菊と、淡い橙色のカーネーション。彼女は迷って、両方を束ねてもらう。「紙は薄めでお願いします」—形見のリュックにすっと納まるように。
共同墓地はドームの外縁に近い高台にある。風除けの壁を巡らせた静かな区画。入ってすぐの水場で柄杓に水を汲み、ルナは馴染みの区画へ向かった。
「……ただいま、お父さん。お母さん」
名前を刻んだ黒い石の前にしゃがみ、持ってきたタオルで、まず上から下へ、角から角へ。石の光沢が現れていく。
花立に白と橙の束を差し、リュックの内ポケットから細長い筒を取り出した。線香と小さな携帯用の香炉。マッチを擦る音が、火星の薄い空気に小さく弾ける。火を移し、三本を合わせて額の前へ。ひと呼吸置いてから、香炉にそっと立てた。甘い煙がふわりとほどけ、風除けの壁に沿って上っていく。
「それと……これ、内緒で持ってきたの」
リュックの底から布に包んだものを取り出す。サヴァイヴで採れた果実、炎果。手のひらに乗せると、うっすらと温もりが残っている気がした。石の端、目立たない場所に小皿を置いて、炎果を一つ。
「向こうの島でね、みんなで分けて食べたの。甘くて美味しいよ。……お父さんも、たぶん好きだと思う」
ルナは石の前で正座し、手を合わせた。
「報告、たくさんあるよ。まずね、私たち、無事に帰ってきたの」
言葉は急がない。サヴァイヴの冬のこと、スターホールの暗さとぬくもり、オリオン号のこと、大陸への渡航、重力嵐のこと。みんなの名前を一人ずつ呼んで、今どうしているかを話す。
「それから、文化祭。地球再生論をもとに展示を作ったの。来てくれた人、すごく多かったよ。……メノリが引っ張ってくれて、シャアラも、カオルも、ハワードも、ベルも、シンゴも、チャコも。みんなでやり切った」
香の煙が指の間を抜けていく。
「私ね、惑星開拓技師になるって、もう一度ちゃんと決めた。遠回りでも、必ず。いつか、地球に人が帰れる日をつくるから」
ゆっくりと瞼を開け、合掌を解く。
「また来るからね」
立ち上がるとき、視線はまだ石の名前に吸い寄せられて、胸の奥にひゅっと空きができる。ここに来ると、いつも少しだけ寒くなる。風のせいだけじゃない。
「ルナ?」
聞き覚えのある声に、顔が跳ね上がった。
そこに——リュウジがいた。
黒いジャケットの前を留めず、片手には小さな花束。火星の赤を映すような、少しだけ茶に寄った瞳が驚きと、確かめるようなやわらかさでこちらを見ている。
「こんな所で何しているんだ?」
言葉は戸惑い混じり。けれど責める色はない。
ルナの表情は、不思議なほど動かなかった。動かす必要がなかった。胸の中で、ぽっと火が灯るみたいにあたたかさが広がっていく。喉の奥がきゅっと締まり、視界が少し揺れた。
「ルナ? 大丈夫か?」
リュウジが一歩近づき、身をかがめて覗きこむ。香の煙が彼の肩口をかすめ、紙袋が小さく揺れた。
ルナは指先で目尻をそっと拭った。涙の筋を消すように、ひと撫で。
それから、いつもの、でも今は少しだけ強い声で——
「大丈夫」と、笑った。
「どうしてここに?」
リュウジがもう一度たずねる。声は低く、急かさない。
「……お母さんとお父さんに報告。命日には来れなかったから」
ルナは少しだけ目を伏せ、寂しさを隠さずに言った。
「そうか」
それだけ告げると、リュウジはルナの両親の墓前にすっと膝を折る。紙袋から細い線香を取り出し、マッチを擦る。ぱち、と小さく火が跳ねた。火を移し、合掌。肩の力の抜けた背中が、風の流れに合わせてほんの少し呼吸する。香の煙が真っ直ぐ上がり、やがて風にほどける。
(ありがとう)
声には出さず、ルナは胸の奥でそうつぶやいた。自分のためだけではない、誰かを想って手を合わせるその所作が、嬉しかった。優しかった。
しばらくしてリュウジは合掌を解き、静かに立ち上がる。
「ありがとう、リュウジ。お父さんもお母さんも、喜んでる」
「……ああ」
「それで、リュウジはどうしてここに?」
ルナが首を傾げると、彼は視線だけを遠くに滑らせた。
「俺も、似たようなものだ」
短くそう言って歩き出す。足取りは迷いがない。けれど、ついていこうと一歩踏み出しかけたルナは、そこで足を止めた。——邪魔しちゃいけない。そう思ったからだ。
墓地の入口脇、風除け壁の陰で待つことにする。遠目に見えるリュウジは、区画を移るたびに立ち止まり、線香に火を灯しては合掌していた。ひとつ、またひとつ。誰の墓なのか、ルナは知らない。ただ、そのたびに姿勢は変わらず、丁寧で、長すぎず短すぎず——祈りは、その人の分だけ正確に区切られていく。
時間の感覚が砂のようにこぼれる。二度、三度と風鈴が鳴り、太陽がわずかに傾く。小さな子どもを連れた家族が通り過ぎ、作業ロボが水盤を洗い、香の匂いが薄くなって、また別の香が重なる。
やがて——二時間ほど経ったころ、彼が戻ってきた。
「まだ、居たのか」
リュウジは少し驚いたように目を細める。
「うん。ちゃんと待ってたかったの」
「……ありがとう」
「ううん。それに、リュウジと少し話したかったし」
ルナが照れたように笑うと、リュウジも口元をやわらかく崩した。二人は並んで墓地を後にした。砂利の小さな音が、ふたりだけの会話みたいにぱらぱら続く。
風除け壁を抜け、ドーム内の空気が少し湿る。しばしの沈黙ののち、前を向いたままリュウジが口を開いた。
「何か、話があるのか?」
「大したことじゃないけどね」
ルナは笑い、肩をすくめる。
「リュウジ、全然、連絡くれないんだもん」
「え? ああ……」
彼は眉をかすかに上げ、すぐに苦笑に変えた。
「しばらくずっと家を離れてたからな。携帯は家に置いてきたし」
「それ、携帯の意味ある?」
「確かにな」
二人で小さく笑う。張り詰めていたなにかが、そこだけふっと緩む。
歩調を合わせながら、ルナは話し始めた。
「文化祭、あのね——“地球再生ラボ”、すごく人が来たの。大気循環のミニ模型、回した瞬間に子どもたちが目を丸くしてね。土壌浄化と藻類パネルも、光を当てたら電圧がちゃんと上がって、『生きてる』って感じが伝わったみたい。あと、重力の“感じ方”実験。メンブレンの上で球を転がすやつ。メノリが無表情でデモするから、逆にウケてさ」
話しながら、自分でも楽しくなるのがわかった。
「エリンさんが手伝ってくれてね。説明、完璧。人の流れまで見えてるんだよ。気づいたら詰まりが解消してるの」
リュウジの横顔が、ほんの少し和らぐ。
「それは……あの人らしいな」
「それで、ペルシアさんも来てくれたの」
ルナは笑って、ネックレスの三日月に触れた。銀色がかすかに光る。
「展示、全部見てくれてさ。帰りにジュースとクッキー、どっさり差し入れ。……でも途中でね、S級パイロットが来てるって騒ぎになって。私、もしかしてって思って中庭まで走っちゃった」
「俺じゃなかったか」
「うん。ブライアンさんだった」
ルナは少しだけ声を落とす。
「ちょっとだけ、怖かった。あの人、空気が変わるから。でもペルシアさんが間に入ってくれて……大丈夫だったよ」
「そうか」
リュウジは短く応じる。その「そうか」に、余計な詮索も、無用な慰めもない。ただ事実を受け止める手触りがある。
「日曜の午後は生徒だけでね。“明日のくらし対話ゾーン”で、みんなで地球のこと話した。——ちゃんと伝えられたかは、まだ自信ないけど」
「伝わってるさ」
即答。彼の声は低いが、迷いがない。ルナは思わず彼を見上げた。
ドームの天井を走る照明が点き始め、人工の夕景が広がる。墓地のゲートを出るころには、人の影もまばらになっていた。
「帰り、どこか寄るか?」
「ううん。今日は……このままがいい」
ルナが答えると、リュウジは「わかった」とだけ言って、歩幅を少しだけ狭めた。肩が触れない距離、でも温度は確かに届く距離。
沈黙が戻る。けれどそれは、もう寒くない。
二人の靴音が、火星の夕暮れにやわらかく刻まれていった。
ーーーー
エアポートのガラス越しに、発着ゲートの案内板がゆっくり更新される。
「ロカA2 行き、最終案内」「木星・外縁コロニー行き、搭乗開始」。
「……じゃあ、ここまでだな」
リュウジが小さく息を吐き、ルナの目線に合わせるように身をかがめた。まだ右手には薄い包帯。表情はいつも通り落ち着いているのに、視線の奥に迷いのない優しさが揺れている。
「週末には——学園に一度、顔を出す」
約束を切り出す声音は、風のない水面みたいにまっすぐだ。
「……うん」
名残惜しさが頬の熱になってにじむ。言葉にすると泣きそうで、ルナはそれ以上を飲み込んだ。
「気をつけてね」
届いてほしい言葉だけ、背中に向けて投げる。
リュウジは振り返らない。けれど、右手を軽く挙げる仕草で返事をした。歩みがボーディングブリッジの向こうに消える。
ルナは自分の搭乗口へ向かいながら、胸の奥に灯った小さな火が、ぎゅっと温度を上げるのを感じていた。——短い時間でも会えた。それに、墓参りの帰り道にこんなにも温かくなれるなんて、初めてだ。
◇
翌日。
メノリやシャアラ、シンゴ、カオル、ベル、ハワードの顔が揃うと、口々に心配の言葉が飛んできた。
「本当に大丈夫か?」
「無理してない?」
「熱は? データ残ってたら見るけど」
「顔色は悪くないが油断は禁物だ」
「……よかった」
「はしゃぎすぎるからだよ」
「大丈夫。みんな、ありがとう」
ルナはいつもの笑顔で答える。頬の色はほんのり明るい。目の奥には、昨晩の火種がまだきちんと息づいている。
ーーーー
金曜日の朝。
ルナは目覚ましが鳴る前に目を開けた。胸の内がほんのり熱い——今日は、リュウジが学園に顔を出すと言ってくれた日だ。洗面台で頬を軽く叩き、三日月のネックレスを指先でそっとなぞる。パンを半分だけ齧ると、いつもよりずっと早い時刻に家を出た。
通学路は秋設定の空調で、空気がきりっと澄んでいる。角を曲がると、前からメノリが手をポケットに入れて歩いてきた。
「おはよう、メノリ」
「おはよう。今日は早いな」
「メノリこそ車じゃなかったけ?」
「サヴァイヴから戻って、朝に身体を動かさないと気持ち悪くてな。徒歩にした」
「ふふっ、メノリらしい」
二人で並んで歩くうちに、ソリア学園の門が見えてきた。と、その入り口の影に茶髪の青年がひとり立っている。制服でも保護者証でもない。胸元を押さえる癖が目についた。
「……誰だ、あれは?」
メノリの声がわずかに硬くなる。
ルナは一歩前へ出て、いつも通りの調子で微笑んだ。
「どうしたんですか?」
青年はゆっくり顔を上げた。眠気の抜けきらないような目の縁、作り物めいた笑み。
「少し迷ってね。見学に来たんだ」
メノリはルナの前に半歩、自然に入る。
「身分証の提示をお願いします」
「……ああ、しまったな。どこにやったかな」青年はポケットを探る素振りだけして、何も出さない。視線は昇降口の奥へと滑っていく。
メノリが低く息を吸う気配を、ルナは横で感じた。(——この空気、知ってる)背中に薄い警鐘が走る。サヴァイヴの冬、吹雪の前ぶれに似ていた。
「保護者証がなければ事務で手続きが必要です。案内しま——」
「結構だ」青年の口角が、わずかに上がる。「君……記者会見で見た顔だな」
「……人違いです」
「面白い。リュウジは?」
胸の奥が、ちくりと疼く。ルナは答えず、青年の靴先が門の内側へ半歩入ってくるのを見逃さなかった。
◇◇◇
同じ頃。
木星からの始発便で自宅へ戻ったリュウジは、玄関で大きく欠伸をひとつ。テーブルの端末を手に取ると、未読のメッセージと着信が画面いっぱいに並んだ。「……悪いな」と独り言ちてスクロールしているところへ、着信が割り込む。
「俺だ」
『カラスです』
「どうした? 珍しいな」
『まずは礼から。ダンナが宇宙連邦連盟に入る写真、ありがとうございました』
「……記事にはしなかったのか?」
『しませんでした。宇宙連邦連盟に高値で売りました。いい取引ですよ』
「そういうやり方もあるのか」
『ええ。手札は使いようで切り札になる』
短いやり取りののち、カラスの声色が僅かに低くなる。
『本題です。——本日、ナッシュとリョクの身柄が監察に拘束されました』
「ようやく、か」
『ところが——ナッシュが監察の隙をついて逃亡しました』
「……なんだと!?」リュウジは立ち上がる。「位置は」
『報酬次第です』
「一万ダール」
『成立。——ナッシュは今、ソリア学園にいます』
「……!」時計に目をやる。登校時間帯ど真ん中だ。
『レーザー銃を所持。お気をつけて』
「分かった」
通話を切ると同時にコートを掴み、廊下を駆ける。踵でドアを閉め、走りだした。(間に合え)
◇◇◇◇
胸の奥がちくりと疼く。それでもルナは笑みを崩さない。答えず、まばたきの回数だけを意識的に落とす。メノリが低く息を吸ったのが横で分かった。
「先生を呼びます。あなたはここで待っていてください」
「結構だ」青年の右手が、コートの内側で何か硬いものをなぞる。次の瞬間、小さな電子音が“ピッ”と鳴り、安全装置が外れる音が空気を刺した。
光沢のない小型レーザー銃が、コートの裾から現れ、まっすぐ——ルナの鎖骨の下へ。
「動くな」
輪郭のはっきりした低音。人混みが、さざ波のように後ろへ引いた。
「ルナ」メノリが名を呼ぶ。
「大丈夫」ルナは短く返す。両手は見える位置、指は開いたまま。心臓は速い。けれど呼吸は細く長く——サヴァイヴの夜、焚き火の火を守るときの呼吸で保つ。
青年は一歩踏み出し、ルナの背へ左腕を回して固定した。銃口は揺れない。体温、革の匂い、そして僅かなオゾン臭。
「いい子だ。——俺はナッシュ。用件は一つ。リュウジをここに連れてこい」
「ここは学校です」メノリの声は平坦だ。「銃を下ろしてください。今なら誰も傷つかない」
ナッシュは鼻で笑う。「理想論は要らない。十分だ。十分で連れてこい。一人で来させろ」
メノリは顎だけで門衛ボックスの方向を指した。近くの生徒に視線で合図し、無言のまま校舎側へ下がらせる。(——通報、ロックダウン、先生たちの招集。時間を稼げ)
「十分じゃ足りない」ルナが口を開いた。柔らかな、けれど芯のある声。「十五分。それが現実的です」
ナッシュの指がトリガーガードに触れたまま止まる。「交渉か?」
「ええ。リュウジは今ここにはいません。呼ぶなら、移動時間がいる。あなたも無駄に焦りたくないでしょう」
ナッシュの口角がかすかに上がる。「面白いな。怖がらない」
「怖いわ」ルナは正直に言った。「だから、誰も傷つかない方を選びたいの」
彼の腕の硬さが、ほんの少しだけ緩んだ。銃口の角度は変わらないが、撃発の直前にあるあの冷たさが、半歩遠のく。
「条件だ」ナッシュは続ける。「誰もここに近づけるな。警備ドローンもだ。迂回路を作れ。人を散らせ」
「分かった。私が伝える。あなたは——私から距離を取らないで」
「そりゃ無理だ」彼は笑い、腰の位置でルナを引き寄せた。「逃げないようにね」
メノリがその間に、腕端末を胸元に一度当てる。無音の危険度Bコードが飛び、校内の静音ロックダウンが徐々に始まる。表向きは何も起きていない——けれど、廊下の自動扉が一枚ずつ内側から鍵を噛み、担任たちに“遅刻者対応”の名目で生徒を教室へ集める指示が流れる。
「十分。——一分でも過ぎたら撃つ」
「撃つ理由は?」ルナが問う。
「俺は脅しに来たんじゃない。落とし前をつけに来た」
「誰の?」
「……あの男の」
言葉が、皮膚の下へ刺さる。(やっぱり——)ルナは息をひとつ整え、声の高さを微妙に落とした。「あなたは彼を誤解してる。ここは話す場所じゃないけど——真実は会見の通り」
「真実?」ナッシュの目が鋭く細くなった。「そんなものは、いくらでも作れる」
ルナは目だけで周囲を見た。門柱の陰に、スペンサーの影。離れた位置で、メノリと視線を結ぶ。三つ数えて、合図——その合意だけを通す。
「なら、彼本人の口から聞いて方がいいわ。だからこそ——十五分」
ナッシュは舌打ちをひとつ。「十分で足りる」
「十五」
「——十二」
「十三」
短い沈黙。
「……よし。十三だ」ナッシュは腕時計をタップし、カウントを刻ませた。赤い数字がルナの頬の横で逆光に浮かぶ。13:00から減り始める秒数。
メノリがゆっくり両手を上げ、わずかに後退する。「分かった。呼んでくる。ただし、一緒には行かない。ここから、私の声で繋ぐ」
ナッシュは顎で許可した。メノリは数歩離れ、胸の端末に接続を開く。
「スペンサー先生、保健室と事務に“遅刻対応”要請。正門周辺は私が見る。……全員、落ち着いて行動」
落ち着いた響きが、メノリの声帯を通って校内へ“いつも通り”の形で広がる。緊急は——外側にだけ存在する。
銃口は、ずっとルナの胸元にある。ほんの数ミリ、呼吸に合わせて上下する光点。
(大丈夫。時間を、繋ぐ)
「ねぇ、ナッシュ」ルナが口を開く。「一つだけお願い。——銃口、外側へ向けて。私のことはどうでもいい。でも、校舎には友だちがいるの」
ナッシュは目を細め、わずかに銃の角度を外へ逸らした。「交渉上手だな」
「あなたが悪人に見えないから」
「……ふん」
数字は11:02、10:41と落ちていく。
風が旗を撫で、門前の落ち葉がころんと転がる。遠くで、遅刻ぎみの生徒が走ってくる足音がして、すぐに別の先生の手で静かに引き返される。
メノリは電話越しの声を低く保った。「——リュウジ、聞こえるか。至急、正門前だ。対象はナッシュ、レーザー所持、人質ひとり」
応答は、まだ来ない。
(間に合って。お願い——)ルナは胸の中でだけ祈る。外側の顔は、静かで、まっすぐで、ちゃんと“ここにいる”。
「話せ」ナッシュが言った。「待ち時間は退屈だ」
「何を?」
「あの島のことでもいい。どうやって、生きた」
(……見てたんだ、会見も、記事も)
ルナは小さく頷く。「じゃあ、家の話をしようか。——“大いなる木”っていう、私たちの最初の家のこと」
彼の左腕の力が、ほんの一段弱まる。耳は銃よりも言葉へ向く。秒数は進み続ける。
09:57
リュウジは、まだ来ない。
ルナは呼吸を守り、時間を守る。そして“誰も傷つかない”のほうへ、言葉で道を敷き続けた。
ーーーー
ルナが“大いなる木”の話を静かに紡いでいると、門の向こうから駆け寄る気配が増えた。
「ルナ!」シャアラの声が風を切る。
その瞬間、ナッシュの左腕がぎゅっと締まり、銃口の冷たい輪がルナの胸元からわずかに喉側へずれた。
「来るな」ナッシュの声が低く沈む。
「みんな、私は大丈夫だから」ルナは視線だけで仲間たちを見る。メノリ、シャアラ、シンゴ、カオル、ベル、そして少し遅れてハワード——全員の顔がそこにあった。
ナッシュの右手が滑るように動き、銃口が仲間たちへ向く。
「待って! みんなを撃たないで」
「そんな事をしても無駄だぞ! 今に逮捕してやるからな!」ハワードが一歩前へ出た。
「挑発するな、馬鹿!」カオルが襟首をつかんで後ろへ引き戻す——
ピッ、と短い電子音。
次いで、白い閃光が地面を裂いた。ハワードの靴先から指二本分先、石畳が黒く穿たれ、焦げた匂いとオゾンの匂いが鼻を刺す。
「やめて!」ルナの声が震える。ナッシュは不敵に片口角を上げ、銃口をまたルナの胸元へ戻した。
「リュウジが来るまで余計なことをするな」メノリの声音は低く、刃のように真っ直ぐだ。
「何やってんだよ、リュウジのやつ……」ハワードが歯噛みする。
「大丈夫。きっと来るよ」シンゴが短く。
「俺もそう思う」ベルが頷く。
「信じて待ちましょう」シャアラが両手を胸の前で固く握った。
ナッシュの腕時計の赤い数字が、00:58、00:37、00:19と削れていく。
呼吸の音、遠くの校内放送、風に揺れる校旗——すべてが遅く聞こえた。
00:00。
甲高いアラームが三度鳴る。
「時間だ」ナッシュの黒目が冷える。「まずはお前を殺す」
銃口がゆっくり、メノリの胸部へ移動する。
「待って! やるなら私をやって!」ルナが一歩、前へ出ようとする——が、腰で極端に引き戻される。
「お前は最後だ」ナッシュは告げる。
メノリは仲間たちを一瞥し、ほんの僅かに顎を上げた。「いいだろう。私から離れておけ」
冷静を装う声。だがこめかみには、はっきりと汗が滲んでいた。
「まず一人だ」
ナッシュの指が引き金へ食い込む。
「メノリ!!!」ルナの叫びが張り裂ける。
——ドン!。
メノリの身体が横から弾かれた。肩口を強い力が押し、石畳を転がりながら視界が流れる。
同時にレーザーが唸り、メノリがさっきまでいた空間を貫いて、背後の塀に黒い焦げ穴を穿った。
「用があるのは俺だろ! ナッシュ!」
門柱の影から飛び込んだ男が、メノリを庇うように立つ。額から汗が線になって伝い落ち、肩は大きく上下している。
荒い呼吸。走ってきたばかりの肺の音。
鋭い眼だけは、微塵も揺れない。
リュウジだった。
門前。張りつめた空気の芯に、二人の声だけが落ちる。
「——どういうつもりだ、ナッシュ」
リュウジは半歩も詰めない。視線だけで距離を測り、右手をゆっくり胸の高さで開いた。
ナッシュの左腕が僅かに強張る。ルナの喉元すれすれに銃口の冷たい輪が触れる。
「どういうつもり、だと?」ナッシュが乾いた笑いを一度だけ漏らす。「全部失った。資格も、肩書も、居場所もだ。ステファンの会見で、世界は掌を返した。お前さえ——お前さえ戻らなければ、俺は“ドルトムント財閥のナッシュ”でいられた」
「戻ったのは俺の責任だ。だが、お前が積んだ選択まで、俺のせいにはできない」
リュウジの声は低い。「工具紛失の報告を潰し、離陸を急がせた。宇宙ジャックを隠し、偽の数字で世間を黙らせた。あれは——お前達の手だ」
「正しい言葉だな、英雄」ナッシュの口角が歪む。「綺麗だよ。綺麗すぎて吐き気がする。お前が帰って来た瞬間、俺は悪に、ピエロに、切り捨てられるコマになった」
リュウジは静かに首を振る。
「俺は英雄じゃない。あの日だって、選択の残りカスを掴んだだけだ。ナッシュ。ここで引き金を引けば、お前の失ったものは何一つ戻らない。これ以上、罪を重ねるな」
短い沈黙。風が校旗を鳴らし、服を揺らす。
ナッシュはルナの肩越しにリュウジを刺すように見た。「罪? 笑わせるな。罪はもう山ほどだ。なら、最後の一つくらい意味のある的に撃たせろよ」
「的にされる覚悟なら、とっくにできてる」
リュウジの眼差しが一瞬だけ鋼に変わる。「だが、その前にルナから手を離せ。」
「英雄の台詞だ」ナッシュが囁く。銃口がミリ単位で上がる。「お前の“選択”のせいで、俺は地獄を見た。拘束、尋問、見世物。……それでも、あの日は俺が先に座ってた。サインも俺だ。なのに、最後に拍手を貰うのはお前だ」
「拍手なんて要らなかった。欲しかったのは、乗客が息をしていることだけだ」
リュウジは、わずかに体の角度を変える。ナッシュの視線が吸い寄せられ、トリガーにかかる指が僅かに締まる。リュウジは止まる。
「覚えてるか、操縦桿の感触。手の平が汗で滑って、それでも握り直した夜。あの手は、人を運ぶための手だ。今、その手で人を撃つのか」
ナッシュの喉が小さく鳴る。
「……お前はいつもそうだ。正しい言葉を一つだけ置いて、全部を押し返す。俺にはもう、これ(銃)しか残ってない」
「残ってるさ」リュウジが即答する。「認めることと、やり直すことは、まだ残ってる。逃げた先にあるのは、空っぽだ。引き金の先は、もっと空っぽだ」
「やり直す? 俺に?」ナッシュが鼻で笑う。「世間は戻らない。資格も戻らない。戻るのは恨みだけだ」
「恨みで操縦した機は、真っ直ぐ飛ばない」
リュウジの声がさらに低く落ちる。「ここで終われ。今なら、まだ止まれる。俺も——お前のために証言する。責任を分け合うために」
ルナの肩がかすかに震え、彼女は息を飲む。
ナッシュは一瞬だけ視線を落とし、すぐ戻す。「いらない。お前に救われるくらいなら、全部壊す」
「壊すのは簡単だ。飛ばすのが難しい」
リュウジは目を逸らさない。「ナッシュ、俺はここにいる。撃つなら俺にしろ。だが、その前にルナを離せ」
張りつめた一本の糸に、全員の呼吸が絡みつく。
ナッシュの指が、トリガー上でわずかに緩む——かに見えた次の瞬間、また締まる。
「……最後の確認だ、リュウジ。お前は本当に、あの日の全部を背負うつもりか」
「背負う。俺はずっとそうしてきたし、これからもそうする」
リュウジは一歩も引かない。「だから言う。——下ろせ、ナッシュ」
風が止む。音が消える。
ナッシュの喉仏が上下し、銃口がルナの鎖骨から、ゆっくりと——リュウジの眉間へ移った。
「なら、お前からだ」
彼の目に、凍った決意が灯る。
リュウジは、ほんの僅かに顎を引いた。「——そうしてくれ」
二人の間の距離が、数字では測れない深さになる。
緊張が、弾ける寸前まで張り詰めた。
「……一つ条件だ。もし撃って俺を殺したら、こいつらには手を出すな」
ナッシュの瞳が細くなる。引き金の上で指が固まったまま、口角だけがわずかに上がった。
「いいだろう。約束してやる」
リュウジは、ほんの気配ほどの笑みを浮かべた。「それでいい」
次の瞬間——パチン。トリガーが落ちる、ごく小さな乾いた音。
「——やめてぇええっ!!」
ルナの叫びが空気を裂いた。
同時に、彼女の皮膚の下で何かが目覚める。微細な震えが四肢の内側を駆け、耳の奥で砂嵐みたいなざわめきが膨らむ。視界の縁に、砂鉄が光を弾くような粒子の煌めき。サヴァイヴで一度だけ感じたあの力——ナノマシンの群れが、悲鳴に引き寄せられるように一斉に指向を変えた。
銃口の内部、コンデンサの帯電にノイズが走る。誘導コイルが飽和し、出力が逸れる。
——ボンッ!
白い閃光、濃いオゾン臭。ナッシュの手の中でレーザー銃が弾け、黒い煙が短く噴き上がった。
「ぐっ——!」
ナッシュの握力が緩む。
「今!」
ルナは体を捻って腕をすり抜け、振り返るより早くリュウジの胸に飛び込んだ。リュウジは左腕でしっかり受け止め、右肩で彼女を庇うように一歩退く。
「大丈夫か」
「……うん!」ルナは涙混じりに頷く。鼓動がぶつかって、彼の体温で恐怖が洗い流されていく。
「リュ——」とナッシュが顔を上げた瞬間、影が横を切った。
「——遅い」
カオルだ。リュウジの横をすり抜け、煙の中のナッシュへ一直線。
足払いが刈る。ナッシュの膝が浮く。落ちる肘を内側から極め、ねじる。
「離せッ!」
「離すのはお前のほうだ」
関節が悲鳴を上げ、ナッシュの体から力が抜ける。床に転がった残骸の銃を、シンゴがすかさず靴先で遠くへ蹴り飛ばす。
「ナイスだ!カオル!」
ハワードは嬉しそうに手を叩いた。
「近づくな!」
メノリが振り向きざまに指示を飛ばす。
「こっちは任せろ!」
ベルが手を広げて生徒の列を止めた。
「保安局に通報済み!」
シャアラが端末を掲げる。「三分で到着!」
「拘束バンド!」
「ある!」シンゴがツールポーチから簡易バンドを取り出し、カオルがナッシュの両手首を背中で素早く固定する。
リュウジはルナを背に、周囲に目を走らせた。爆ぜた金属の匂い。焦げた床に散る微細な破片。
「負傷者なし……」
彼は深く息を吐き、腕の中のルナにだけ声を落とす。
「無茶するなって、いつも言ってるだろ」
「……勝手に、からだが動いたの」ルナは照れたように笑う。その胸の奥で、さっきまで暴れていた微かなざわめきが、すっと鎮まっていく。
地面に押さえつけられたナッシュが、悔しげに歯を噛んだ。
「また——またお前は、俺から……」
カオルが表情を崩さず言う。「もう喋るな。終わりだ」
遠くからサイレンの音が近づく。メノリは一度だけリュウジと視線を合わせ、短く頷いた。
ハワードが肩越しに声を上げる。「みんな、道を開けろ!」
「了解!」ベルが応じ、シャアラとシンゴが人の波にガイドテープを走らせる。