サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第49話

サイレンの青が門柱に揺れて、監察の車両が止まった。灰色の制服の隊員たちが素早く展開し、カオルに押さえつけられているナッシュへと向かう。

 

「拘束、引き継ぎます」

「頼む」

 

カオルが簡易バンドを外し、監察の金属製カフがカチリと音を立てて締まる。別の隊員が周囲の破片と焦げ痕を撮影し、現場の見取りをタブレットに記録していく。

 

「事情を伺います。あなたがリュウジさん、こちらがルナさんで間違いないですね?」

 

二人が頷くと、主任らしき男がメモを構えた。

「発砲の経緯は?」

 

リュウジは一呼吸だけ置き、淡々と答える。

「……たまたま暴発した。誰も撃っていない。以上だ」

 

「おい!」

「いやいやいや!」

「それはさすがに——」

背後でハワード、シャアラ、シンゴらが一斉に突っ込む。

 

「ちょっと待っ——」隣でメノリが一歩、前に出る。指揮権を持つ目つきで補足しようと口を開いた瞬間——

 

リュウジの左手がすっと上がった。

「要らない。俺が言う」

 

メノリはきゅっと唇を結び、半歩下がる。主任は眉をわずかに動かし、メモへ淡々と記した。

 

「確認しました。処理は我々が——」

 

「……引き継いでくれ」

 

引き渡しの手順が終わり、ナッシュは二人の隊員に前後を固められて立ち上がる。だが、彼は歩き出す前にぴたりと止まった。顔を上げ、焦げ跡の先——リュウジとルナを射抜く。

 

「……全部、お前のせいだ」

 

声は低いが、刃の縁だけが冷たく光る。止める間もなく、言葉が溢れた。

 

「ステファンの会見で俺は全てを失った。仕事も、信用も、仲間も! お前がいなければ、こんなことにはならなかった。資格は停止、契約は切られた。『安全第一』をうたう連中が、真っ先に俺だけを切った。友人は“運が悪かったな”と肩を叩き、上司は“落ち着け”と目を逸らす。婚約者は“もう頑張らないで”と言って指輪を置いて出ていった。どいつもこいつも——」

 

彼の目がぎらりと笑った。乾いた笑いだ。

 

「世論は俺を悪魔にした。ネットは“お前が死ねばよかった”で溢れた。ドルトムントは? “遺憾だ”の一文で黙殺。そして、お前は! 英雄だとよ。『命を賭して七割救った男』? 滑稽だな。お前が戻ってきたせいで、俺は完全に標的になった。お前の存在が、俺から居場所を奪った!」

 

ルナの手が震え始める。指先に血が集まり、白かった関節が薄く紅を帯びた。

 

ナッシュはさらに前のめりに吐き続ける。

 

「お前の正しさが、俺の人生を焼いたんだ。“本当のことを言っただけ”か? 綺麗ごと言うな。お前はいつだって独りで決めて、独りで飛び込んで、独りで称賛を受ける。現場に残された俺たちが何を背負うかなんて、考えもしないで! ——あの日、操縦席の判断が少しでも違っていたら、俺は今も普通に飛んでいた。お前が行方不明のまま消えていれば、俺が“最善を尽くした”という物語で済んだんだ!」

 

ハワードが奥歯を噛み、シャアラが小さく息を呑む。シンゴは黙って拳を握り、ベルとカオルが一歩前へ出かけてメノリに肩をつかまれた。

 

「それなのに——お前は帰ってきた。英雄譚を引き下げて。ステファンと手を組み、世論の審判を連れて。俺は裁かれ、お前は称えられる。これで対等だと? ふざけるなよ。お前が——」

 

唇の端が裂けるみたいに、ことばが歪む。

 

「——生まれてこなければよかった。お前があの時——死んでいれば!」

 

風が止まったように、音が消える。次の瞬間——

 

パァン!

 

乾いた雷みたいな音が、校門の石に跳ね返った。

ルナの掌がまっすぐ、ナッシュの頬を打ち抜いていた。腕のしなり、肩の捻り、つま先の踏み込み——迷いのない、全身の一撃。

 

ナッシュの顔が横を向き、呼吸が一拍、抜ける。頬に赤い手形がくっきりと浮かび上がった。

 

ルナの声は震えていなかった。低く、はっきり、空間の芯を打つ。

 

「——取り消しなさい」

 

ナッシュの目が揺れる。ルナは一歩、踏み込む。周りの監察隊員も、仲間たちも動かない。動けない。

 

ルナの掌が頬に刻んだ赤みがまだ消えないうちに、彼女は一歩踏み込み、ナッシュの胸ぐらを掴んだ。指が布地をきしませ、距離は拳一つもない。

 

「あなた、まだ分からないの!!」

声は裂け、抑えのきかない熱が言葉を押し出す。

「リュウジがどうして“悲劇のフライト”のことを黙っていたのか! ステファンがリュウジに相談していたら、絶対に真実を口外することを拒んだはず!!」

 

「どうして言い切れる!!!」ナッシュの喉が震え、唾が飛ぶ。

 

「リュウジは優しいから。あなたのことも——守りたかったのよ!!」

 

刹那、ナッシュの瞳がぐらりと揺れた。

「リュウジが……僕のことを……」

 

「もうよせ、ルナ」横からリュウジの手が伸びる。

だがルナは、その手を振り払った。目尻に涙の刃。

 

「もし、リュウジがたった一人でも“悲劇のフライト”の真実を話していたら、必ずそれを嗅ぎつけて掘り返す記者が出る。断片が繋がれば、最後に矢面に立つのは、あなた。だから——だからリュウジは、血の涙を流しながら感情の一切を殺して、名誉の代わりに汚名を、憎しみを、全部一身に引き受けたのよ!!あなたを守るために!!!」

 

ぽとり、と涙が拳に落ちる。指先の力がほどけ、ルナはゆっくりと胸ぐらを離した。ナッシュは息を飲み、視線を落とす。言葉を探して口が開くが、音は出ない。

 

「連行する」監察の隊員が短く告げ、ナッシュの腕を取る。

歩き出す、その前に——。

 

メノリ、カオル、ベル、シンゴ、ハワードが一直線に立ちはだかった。胸元が風に鳴る。五人の眼差しが、通せんぼのように道を塞ぐ。

 

メノリが一歩前へ。声は低く鋭い。

「よく覚えとけ、ナッシュ! 二度と私たちの前に姿を見せるな!」

 

続いてカオルが顎を上げ、真っ直ぐ刺す。

「あいつの夢を、二度と邪魔させない」

 

ハワードは二人よりさらに前に出る。整った顔に、怒りの色を隠さない。

「僕の仲間に手を出してみろ! ハワード財閥の力を使って、お前を地獄に叩き落としてやるからな!」

 

ベルもシャアラもシンゴも、言葉はない。ただ睨む。

ベルの腕は組まれ、肩の筋が浮く。シャアラの指は震えず、静かに拳を握る。シンゴの視線は真芯を捉え、逸らさない。その無言が、どの罵倒よりも重い。

 

ナッシュは唇を噛み、視線を斜めに落とした。頬の赤みが脈と一緒に熱を持つ。監察の隊員が軽く肩を押すと、彼は抵抗なく足を前へ出した。

 

金属のヒンジがガチャンと鳴り、車両のドアが閉まる。サイレンは鳴らない。ただ、エンジン音だけが校門の外へ遠ざかっていった。

 

静寂。

ルナは拳を胸の前でぎゅっと握り直し、深く一度だけ息を吐いた。

隣でリュウジが視線を落とし、そっと言う。

 

「……悪かった。背負わせた」

 

ルナは首を横に振る。涙の跡は残したまま、強い目で返した。

「一緒に背負うって、決めたから」

 

ーーーー

 

サイレンも遠のき、校庭のざわめきが嘘みたいに薄れていく。

「本日の授業は中止。以後は各自、自宅待機」——スペンサーの決定が校内放送で流れた瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。

 

「お、おい……リュウジ!」

誰より早く駆け寄ってきたのはハワードだ。返事の暇もなく、彼は勢いそのままがばっと抱きついた。

「そういえば会うの、久しぶりだな! 生きてたか!? って、生きてるか!!」

「窒息する」

「わ、悪い!」

横ではカオルが額を指で弾き、「騒々しい。……だが、まあ、帰ってきたなら良し」と口元をわずかに緩める。

「無事で何よりだ、リュウジ」メノリが短く頷き、シンゴは「さっきは助かったよ」と工具袋を握り直した。ベルは無言で肩を軽く叩き、シャアラはほっとしたように笑って「ちゃんと連絡してよ」と念を押す。

ルナは、一歩だけ近づき、小さく「おかえり」と言った。リュウジは同じく小さく「ただいま」と返す。言葉は少ないが、それで十分だった。

 

「スペンサー先生」

リュウジが振り返る。「皆を先に応接室へ。少ししたら行く。話がある」

「分かった。君も無理はするな」

先生が皆を促すと、一行はぞろぞろと校舎の中へ。ルナが名残惜しそうに振り向くと、リュウジは目で“すぐ行く”と合図した。

 

中庭の隅、紅葉色の植え込みの陰。

リュウジは足を止め、広場の空気に紛れた気配へ向けて声を落とす。

「……いるんだろう、カラス」

 

「おや、気づいてましたか」

影がほどけ、黒帽子の男が現れる。相変わらずの不敵な笑み。

「さっき監察を呼んだのはお前だな? シャアラが呼んだのは保安員だ」リュウジは片口を上げる。

「さて、何のことやら」カラスは肩をすくめて、とぼけてみせた。

 

「まぁいい」リュウジは鼻で笑い、ICカードを取り出す。「一万ダールで足りるか?」

「ええ、今回は特別サービスです」

端末同士が軽く触れ、送金の完了音が鳴る。

「確かに一万ダール。毎度どうも」カラスの目が愉快そうに細められる。

 

リュウジはカードをしまい、わずかに表情を引き締めた。

「それと——今回の件は記事にするな」

「理由をうかがっても?」

「あいつらはサヴァイヴの件で、もう十分注目を浴びてる。これ以上、変な火種を投げ込みたくない。厄介事に巻き込みたくない」

 

風が校庭の落ち葉を少しだけ転がした。カラスは帽子のつばを指で弾き、短い沈黙のあとで言った。

「……いいでしょう」

 

「……」

即答に、リュウジは言葉を失った。警戒の影が一瞬だけ緩む。

カラスは唇の端を上げる。

「理由は簡単です。**私にとって彼女は“お気に入り”**なだけですから」

 

「……そうか」

リュウジは思わず笑ってしまう。「ルナは、すごいやつだよ。ほんとにな」

 

「ええ。だからネタにするより、見届ける方が面白い。記者にも、嗜みというものがある」

カラスは踵を返し、影に溶ける前に振り向きもせず片手を軽く上げた。

「では、また“儲かる時”に」

 

気配が消える。中庭に残るのは、児童のいない放課後みたいな静けさだけ。

リyuウジはひとつ深呼吸をして、空を見上げた。薄い雲の向こうに、調整された秋の光。

 

——応接室、待たせてるな。

 

彼は足を返す。

ドアの向こうでは、ハワードの大声、カオルのため息、メノリの低い制止、シンゴの「配線いじるなって!」、ベルの渋い注意、シャアラの笑い、そして——ルナの、あの柔らかな声が待っている。

 

「……行くか」

 

ノブが回る。

騒ぎのあとの、ささやかな再会が、静かに幕を上げた。

 

ーーーー

 

「久しぶりだな、リュウジ・パイロット」

低い声とともに、室内の空気が一段冷たくなる。皮膚の表面に細かい棘が立つような、ヒリつく圧。目に見えない刃が、床と天井のあいだをきしませた。

 

反射で、メノリ、カオル、ベルが一歩、前へ。

後列のハワード、シンゴ、シャアラも目を逸らさず、視線で切っ先を合わせる。

ルナは——ため息をひとつだけ吐いて、リュウジの顔を見た。

 

「よせ、ブライアン!」

短い制止。ぴたり、と圧が消える。

次の瞬間、ブライアンは豪快に笑った。「すまん、すまん。少し“試した”だけだ。……いい目だ。全員」

 

「当たり前だ」リュウジが口角を上げる。「こいつらは、生きるか死ぬかの毎日をくぐってきた。そんなもので怯む連中じゃない。それに、ここは学校だ。刃はしまえ」

 

ブライアンは肩をすくめ、視線を順に滑らせていく。

「——指揮の眼(メノリ)。踏み込みに迷いがない(カオル)。軸がぶれない(ベル)。手の震えが消えてる(シャアラ)。周囲の呼吸数を数えてるのは誰だ?……お前か(シンゴ)。足が出すぎだ(ハワード)。そして——」

視線がルナで止まる。

「前に中庭で見た眼。生還者の眼だ。忘れるな」

 

ルナは瞬きを一度だけして、「……はい」と頷いた。

 

「で、用件は?」

促されるまま、ブライアンはソファにどっかと腰をおろした。胸ポケットに手を入れ、チケットを八枚、パタンとテーブルに揃える。

 

「明日の夕方から壮行会をやる。場所はロカでも一、二を争う高級ホテルだ。お前たちも来い」

 

「僕たちもいいのか!」ハワードが身を乗り出すように受け取る。

「ハワード!」ルナが制止しかけるが、ブライアンが片手を上げて止めた。

 

「礼は出席のときでいい。——それと、壮行会をやるということは、だ」リュウジが視線で続きを促す。

「ああ。西の未探索領域へ。概ね一か月の長期任務だ」ブライアンの瞳がわずかに鋭くなる。

 

沈黙が一拍。ブライアンはソファからゆっくり身を起こし、リュウジへまっすぐに向き直った。

「お前も来い、リュウジ。副操縦士として」

 

「——!」

驚きとざわめきが一斉に弾け、全員の視線がリュウジへ集まる。

シャアラが息を呑み、シンゴが無意識にタブレットを握りしめ、メノリは無言のまま表情を固めた。ルナは胸の奥で鼓動が跳ねるのを止められない。

 

リュウジは、ほんの少しだけ目を伏せ、それから首を横に振った。

「無理だ。俺は現場からしばらく離れてるし、まだやることがある」

 

「悲劇のフライトで亡くなった者たちの墓参りか?」

ブライアンの言葉に、ルナの脳裏へ火星の共同墓地、線香の白い煙、あの背中が鮮烈に蘇る。

 

リュウジはバツの悪そうな笑みをわずかに浮かべ、しかし視線は逸らさない。

「ああ——それもある。……それに俺は、宇宙飛行士を辞めるつもりだ」

 

「おい!」カオルが思わず肩を掴む。「お前、本気で言っているのか!」

だがリュウジの目はブライアンに向いたままだ。

 

ブライアンは一度だけ目を閉じ、短く息を吐く。「……やはり噂は本当だったか」

そして顔を上げ、まっすぐに問う。「この先、お前はどうする」

 

「幸い、稼ぎはある。どこか辺境の星でのんびり暮らすさ」

リュウジは肩の力を抜いたように笑ってみせる。乾いた冗談みたいな笑い方だった。

 

ブライアンは無言で立ち上がり、長い影を扉へと伸ばす。

取っ手に手をかけたまま、振り返らずに言った。

「まあいい。なんと言おうと——お前は宇宙(そら)へ戻ってくる」

静かな宣告のような声音だった。

 

「……言い切るんだな」リュウジが苦笑する。

「そういう顔をしている」ブライアンは短く答えると、ふっと調子を戻す。「ちなみに壮行会は“正装”で頼む」

片手をひらりと挙げ、応接室を出ていった。

 

扉が閉まる音。重たかった空気がすっと軽くなる。

ハワードが真っ先にチケットをぶんぶん振った。「やった!高級ホテルで正装!こういうの待ってた!」

「お前、本当に“正装”の意味わかってるんだろうな」メノリがじと目を向ける。

「タキシードでしょ?ネクタイは——」

「黙るのも担当」とシンゴの早撃ちツッコミ。場に笑いが広がった。

 

だが、ルナは笑えなかった。胸の奥の鼓動はまだ速い。

——“辞めるつもりだ”。

さっき墓地で見た背中の寂しさと、今の言葉が重なる。喉の奥がきゅっと鳴った。

 

「リュウジ」

呼ぶと、彼はいつもの穏やかな目でこちらを見る。

「……大丈夫」ルナは自分に言い聞かせるみたいに微笑んだ。「明日、行くね。正装で」

「ああ」リュウジも短く、けれど確かに頷いた。

 

窓の外、ロカの空はゆっくりと秋色に傾いていた。

壮行会まで一日。

そして、リュウジが選ぼうとしている**“次の生き方”**までの距離は、思っているより近いのかもしれない——そう、ルナは胸の奥でそっと呟いた。

 

ーーーー

 

「せっかくだし、みんなで飯でも食ってこうぜ!」

 

ハワードが両手を叩いて、場の空気を強引に跳ねさせた。

数時間前まで悲鳴と警報が鳴り響いていた同じ学校の中とは思えない。

今は、湯気のように残る緊張が、ゆっくりと薄れていくところだった。

 

「賛成」

シャアラがぱっと手を挙げ、シンゴも「俺も!」と笑う。

ベルは静かに頷き、メノリも「……行こう」と無理やり口角を上げる。

 

けれど、その輪の中で、リュウジとカオルは同時に、横に小さく首を振った。

 

「俺はいい」

「俺もだ」

 

「えー、せっかくなんだし行こうよ」

シンゴが身を乗り出す。

 

リュウジは少しだけ視線を泳がせ、困ったように笑って、口元だけで「悪い」と形だけ謝った。

 

「まぁまぁシンゴ。明日も会えるんだし、私たちだけで行きましょう」

 

ルナが間に入ってシンゴの肩をぽんと叩く。

三日月のネックレスが室内灯に揺れて、かすかに光った。

 

「……んじゃ、そうするか!」

 

ハワードが空気を切り替えるように扉へ向かい、他のみんなもそれぞれ短い言葉を残して部屋を出ていく。

 

「あとで連絡する」

「無茶すんなよ」

「鍵、ちゃんと閉めろよ」

 

扉が閉まる音が何度か続き、やがて、静けさだけが残った。

 

応接室の空調の低い唸りと、テーブルの上の紙コップに残ったコーヒーの酸い匂い。

遠くの廊下でカートの車輪がきしむ音。

そんな日常の音が、さっきまでここにあった非日常を、少しずつ奥へ押しやっていく。

 

ソファに向かい合って座る二人。

どちらも背もたれには寄りかからず、浅く腰を掛けたまま。

指先と視線だけが、互いの温度を探るように動く。

 

先に口を割ったのは、カオルだった。

 

「……さっきの話、どういうつもりだ」

 

低い声。

さっきナッシュに向けていた殺気とは違う、もっと硬質なものがそこにある。

 

「宇宙飛行士を辞める? 本気で言ったのか」

 

逃げ場のない直球だった。

リュウジは視線をそらさず、喉の奥で息を整える。

 

「悲劇のフライトの件は、ステファンの会見で……少なくとも、表向きは着地点が見えた」

 

言葉を選ぶように、一語ずつ置いていく。

 

「あの時点で、俺はもう二度と操縦桿は握らない覚悟をした。握る資格も、機会も、ないと思ってた」

 

彼は右手を見た。

ナイフの刃を握った時の感触が、まだどこかに残っている気がして、指先がわずかに震える。

 

「それでも……サヴァイヴで、もう一度、握った。命を載せて、宙を裂いて、みんなをこのコロニーに連れて帰ってこられた」

 

そこで一度、言葉が止まる。

ほんの一瞬の沈黙のあと、リュウジは続けた。

 

「――その事実が、俺のどこかを納得させてしまっている」

 

自嘲気味な笑みが、口元だけに浮かぶ。

 

「それが怖いんだ。

 俺の中で“あれで十分だった”って思ってる自分がいる。

 その安堵が、再び誰かを守る力を鈍らせる気がしてならない」

 

「“燃え尽きた”って顔だな」

 

カオルが言う。

責める色はない。だが、甘やかそうという気配もない。

 

「燃え尽きた、とは少し違う」

 

リュウジは小さく首を振った。

 

「一度、終わりにしてもいいと思える“句点”が、手の中にある感じだ。

 あの帰還で、俺の原点――“誰かを守るために操縦桿を握る”っていう目標は、いったん果たされた。

 ……そう思う自分が、確かにいる」

 

短い沈黙。

空調が一瞬、回転数を上げて、すぐ落ちる。

 

「それでも辞めると言うのか?」

 

カオルの声は平坦だったが、その奥底には冷たい鉛が沈んでいる。

 

「迷ってる」

 

リュウジは、正面からそれを認めた。

 

「操縦席は、俺にとって“守る”ための手段だった。

 でもサヴァイヴで分かった。守るための手は他にもある。

 惑星開拓技師として環境を整えることも、監察として腐ったものを裁くことも、宇宙ハンターとして危険を先に摘むことも、全部“誰かを守る”に繋がる。

 “飛ぶ”以外の道もあるって、嫌でも知っちまった」

 

カオルは「理解はする」と頷いた。

 

「だが――“終わりの句点”を言い訳に、次の文を白紙にするな」

 

リュウジの眉がわずかに動く。

 

カオルの言葉は、いつも通りだ。柔らかくはないが、鋭さがあるからこそ信頼できる。

 

「俺はお前に“前”を見てほしい。

 ルイが生きてたら、きっと同じことを言う。

 “飛べ”って。飛んで、護れって。――今日みたいにな」

 

今日。

校門。

ルナのこわばった横顔。

銃口と、13分という数字。

喉の奥がじわりと乾いた。

 

「……分かってる」

 

リュウジは、テーブルの縁を指先で一度、軽く叩いた。

 

「だから迷ってるんだ」

 

「迷うこと自体は悪じゃない」

 

カオルは、静かに続ける。

 

「だが、迷いをそのまま放置するのは罪だ。判断は遅れを生む。遅れは人を殺す」

 

淡々とした声に、戦場の現実だけが宿る。

 

「お前が一秒迷えば、誰かが一秒早く死ぬ。宇宙は、そういう場所だ」

 

テーブル越しに、二人の視線がぶつかった。

退かない。揺れない。

互いの奥底まで射抜くように、静かな熱だけがじりじりと上がっていく。

 

「……分かっている」

 

今度はリュウジの方から視線をそらさずに口を開いた。

 

カオルは即答する。

 

「どちらを選ぶにせよ、“句点”を“終わり”じゃなく“次へ進むためのピリオド”にしろ。

 続きの一文を、今度はお前が自分で選んで書け」

 

リュウジは、ふっと笑った。

疲れと苦さが混じるが、逃げのない笑みだ。

 

「了解。……それと、ルイのことは、忘れてない」

 

「忘れるな」

 

カオルは立ち上がり、ソファの脇を抜けてドアの方へ向かう。

ドアノブに伸びた手が一瞬止まり、肩越しに振り返った。

 

「――明日、正装で来い。どっちを選ぶにせよ、“逃げる背中”には見えないようにな」

 

「……ああ」

 

短く返したリュウジの声には、さっきより硬い芯が戻っていた。

 

カオルが扉を開く。

廊下の明かりと生徒たちの遠い足音が、一瞬だけ流れ込んでくる。

 

「それと」

 

去り際に、カオルが言葉を付け足した。

 

「ルナには、お前の“迷い”を見せてやれ。あいつは弱くない。お前が思ってるより、ずっとな」

 

扉が閉まる。

 

再び応接室に静寂が満ちる。

壁掛け時計がコツ、コツ、と時を刻むたび、リュウジの胸の中で、ぼやけていた輪郭が少しずつ線を持ちはじめた。

 

テーブルの端には、さっきブライアンが置いていった壮行会のチケットが一枚。

リュウジはそれを手に取り、指で角を丁寧に揃えた。

紙切れ一枚のくせに、妙に重い。

 

“壮行会”――その言葉が、なぜか出発ではなく、“何かとの決別”のように耳に響く。

 

リュウジはゆっくりと息を吐き、チケットをジャケットの内ポケットへ滑り込ませると、立ち上がった。

 

応接室のドアを開けると、廊下の先には夕暮れ色の人工照明。

ロカA2の空は、気温管理された秋の空気の中で、わずかに震えていた。

 

ーーーー

 

コロニーの天井に走る偽空のパネルが、昼過ぎからゆっくりと色を変えはじめた。

予告されていたとおり、午後のプログラムは「人工雨」。

高層の散水ノズルから、やがてポツ、ポツ、と細かな水滴が落ちてきて、ロカA2の街路を濡らしていく。

 

「やっぱり……コロニーの雨と、サヴァイヴの雨は全然違うね」

 

ルナは自宅のリビング、窓際のソファに腰を下ろしながら、ガラス越しに外を眺めていた。

窓を伝うしずくは、規則正しく、どこか機械的で、冷たい。

 

「なんやろな。生きとるって言い方が正しいんか分からんけど……サヴァイヴん時のは“雨”やったけど、こっちのはただの“水”って感じやな」

 

チャコも窓枠の上にちょこんと座り、ぽつりと呟く。

 

「うん……」

 

ルナが短く相槌を打とうとした、そのときだった。

 

――ピンポーン。

 

インターホンの電子音が、静かな部屋に響いた。

 

「はーい!」

 

ルナは立ち上がり、スリッパの音をぱたぱた鳴らして玄関へ向かう。

インターホン越しに返事をして、ロックを解除し、扉を開けた。

 

「ど、どうしたの!?」

 

思わず声が裏返った。

 

そこに立っていたのは――びしょ濡れのリュウジだった。

紺のジャケットも、シャツも、ジーンズも、すべて人工雨に打たれて色を深くしている。髪からはしずくが滴り、玄関前のマットに暗いシミが広がっていた。

 

「雨予報って、知らなくてな」

 

苦笑いを浮かべながらそう言うその顔は、どこか寂しげで、疲れがにじんでいる。

 

「ちょ、ちょっと待ってて!」

 

ルナは慌てて踵を返し、リビングへ駆け戻った。戸棚からタオルを二枚引き出すと、そのまま玄関へ小走りで戻ってくる。

 

「はい、これ。身体、拭いて」

 

一枚をリュウジに差し出し、自分はもう一枚を握る。

リュウジはタオルを受け取ると、ジャケットの上からざっと水気を拭いはじめた。

 

「風邪ひいちゃうでしょ」

 

そう言うなり、ルナは彼の頭にもう一枚のタオルをぽんと被せた。

 

「おっ……」

 

「じっとしてて」

 

ゴシゴシ、ゴシゴシ。

半ば強引に、乱暴にならない程度の力加減で、濡れた髪を拭いていく。タオル越しに伝わる体温が、生きていることの証みたいで、胸のどこかがほっとした。

 

「とりあえず、上がって。温かい飲み物持ってくるから」

 

「いや、濡れてるし、床が――」

 

「いいから!」

 

いつになく強い声音で、ルナが言い切る。

その表情は真剣で、冗談を差し込む余地もない。

 

「……悪いな」

 

観念したように短く呟くと、リュウジは靴を脱ぎ、廊下へと上がった。

濡れた靴下で歩幅を小さくしながら、昇降機でリビングフロアへ。

 

「適当に座って待ってて」

 

そう声をかけられ、リュウジはキッチンテーブルの椅子に腰を下ろした。

服の裾から、ぽた、と雫が床へ落ちる。

 

「どないしたんや、そないびしょ濡れで」

 

チャコがテレビの前からひょいと降りて、リュウジの足元を見上げた。

 

「ちょっとな」

 

リュウジは苦笑混じりに答える。

 

「“ちょっと”やあらへんで。外、けっこう降っとるで」

 

チャコが呆れたように眉をひそめたところへ――。

 

「はい、ホットミルクだけど……飲んで」

 

湯気の立つマグカップを二つ、ルナがテーブルへそっと置いた。

白い液面に、小さな泡がぽつぽつ浮かんでいる。

 

「すまない」

 

リュウジはカップを手に取り、一口、口に含んだ。

甘さは控えめだが、舌と喉をゆっくり温めていく。

 

ルナは対面の椅子ではなく、テーブルの角の位置――斜め向かいに腰を下ろした。

マグカップを両手で包み込むように持ち、しばらく口をつけないまま、彼の表情をうかがう。

 

「……カオルと、何かあったの?」

 

沈黙に耐えきれず、心配そうな声がその静けさを破った。

 

リュウジは答えない。

視線だけが、空になりかけたマグの底を見つめている。

テーブルに、かちゃ、と小さくカップを戻す音が響いた。

 

「――宇宙飛行士を辞めるって言ったこと?」

 

ルナは、先回りして口にした。

 

その一言に、リュウジの肩がビクリと揺れた。

視線がようやくルナの顔を捉える。目が、驚いたように大きく見開かれていた。

 

「なんやて!? リュウジ、宇宙飛行士やめるんか!? なんでや!?」

 

本人よりも早く、チャコがテーブルの上に飛び乗る勢いで叫んだ。

 

「チャコ、落ち着いて」

 

「落ち着いていられへんて! どういうこっちゃねん!?」

 

小さな体を精一杯使って身振りも大きく、チャコが詰め寄る。

 

「チャコ!……もう、極撰飲んでいいから。あと、クッキーも持ってきて」

 

ルナが呆れたようにため息をつきつつ、指で奥の棚を指差した。

 

「……分かったわ」

 

極撰の名に一瞬表情を和らげたチャコは、ぴょんと床へ降りて、テテテッとリビングの奥へ消えていく。

 

チャコの姿が見えなくなったところで、ルナはふっと息を吐いた。

 

「ごめんね」

 

「いや……大丈夫だ」

 

リュウジは小さく笑い、首を振る。

その笑みは、さっき玄関で見せたものより、少しだけ柔らかかった。

 

「持ってきたで〜!」

 

ほどなくして、チャコが戻ってきた。

前足で抱えるように、クッキーの入った缶と、極撰フルーツジュースの紙パックを器用に運んでいる。

 

「良かったら、食べて。こないだ、シャアラとメノリと作ったの」

 

ルナが缶の蓋を開け、小皿にクッキーをいくつか並べた。

素朴な色のビスケットに、ドライフルーツが少しだけ覗いている。

 

「……いただきます」

 

リュウジは一枚を指先でつまみ、口に運んだ。

さくり、と歯が入る。バターの香りと、ほんの少しの甘酸っぱさ。

 

「……うまいな」

 

自然と頬が緩む。

 

「せやろ。愛情がたっぷり入っとるんや」

 

チャコがニヤリと口角を上げた。

 

「チャコ!」

 

ルナの頬がみるみる赤く染まっていく。

 

「ええやんか、本当のことやんか」

 

「そ、そんなこと言わなくてもいいでしょ!」

 

真っ赤な顔のまま、ルナはチャコの方へぐいっと身を乗り出す。

チャコはひょいひょいと後ろへ下がりながら、なおもニヤニヤ笑っていた。

 

そのやりとりがたまらなくおかしくて――。

 

「……っはは」

 

リュウジは堪えきれず、久しぶりに声を上げて笑った。

喉の奥につかえていた重たいものが、少しだけ外に押し出されたような感覚。

 

窓の外では、人工雨が変わらずコロニーの街を濡らしている。

だがリビングの空気だけは、サヴァイヴのあの暖かい雨の夜に、ほんの少しだけ似ていた。

 

チャコとじゃれ合うルナを見て、リュウジは肩を震わせながらしばらく笑っていた。

声にして笑うなんて、いつぶりだっただろうかと、自分で自分に驚く。

 

「……そんなに笑わなくてもいいでしょ」

 

頬を赤くしたまま、ルナがむくれて席に戻る。

チャコはと言えば、ストローをくわえて極選ジュースを啜りながら、上機嫌だ。

 

「ええやんええやん。空気ぐらい、ちょっとは甘なっても」

 

「甘くないから!」

 

ルナがぷいっと横を向く。

そのやり取りがあまりにいつも通りで、さっきまで胸の奥にへばりついていた重いものが、少しだけ薄くなっていくのをリュウジは感じた。

 

笑いがひと段落して、ふと、窓の外に目が行く。

人工雨は本降りになり、街の光を細かく砕いている。

 

「……なぁ、リュウジ」

 

チャコがストローをくるりと回した。

 

「宇宙飛行士、ほんまに辞めるつもりなんか?」

 

さっきより落ち着いた声だが、その瞳には心配と寂しさがにじんでいる。

 

リュウジはマグを一度持ち上げ、温かさだけを指先に確かめてから、そっとテーブルに戻した。

 

「まだ、“つもり”だ。決めたわけじゃない」

 

「迷ってる、ってこと?」

 

今度はルナが問いかける。

さっきまでの照れは引き、真剣な眼差しがまっすぐに向けられていた。

 

リュウジは小さく息を吐く。

 

「……ああ。迷ってる」

 

チャコが「ウチ、ちょっとテレビ見とるわ」と言い残して、ソファの方へぴょんと飛び降りた。

リモコンをつける音だけが、さりげなく二人の間に余白を作る。

 

「悲劇のフライトの時……」

 

リュウジがぽつりと言葉を重ね始めると、ルナは自然と背筋を伸ばした。

 

「全部、終わったと思った。操縦桿を握る資格も、もうないって。

 でも、サヴァイヴでまた握った。みんなを乗せて、帰ってこられた。……あれで、一区切りついた気もしてる」

 

ルナは黙って聞いている。その横顔には、責める色はひとつもない。

 

「俺は、“誰かを守れるパイロットになりたい”って思って宇宙飛行士になった。

 けど、あの島で知った。操縦席に座ってなくても、人を守る術はいくらでもあるって」

 

「惑星開拓技師とか……」

 

ルナがそっと言葉を継いだ。

彼の段ボールから出てきた本の背表紙を、何度も読み返したときのことを思い出している。

 

「そうだ。どれも、誰かの明日を守る仕事だ」

 

リュウジは窓の外に視線を投げる。

ガラスに映る自分の顔は、思った以上に疲れていた。

 

ルナの瞳は揺れずにリュウジを見据えていた。

リュウジは目を伏せ、しばらく何も言わなかった。

ホットミルクの湯気が細く揺れ、窓の外では雨粒が絶え間なくガラスを叩いている。

 

「……正直に言うと」

 

ようやく、彼が口を開く。

 

「怖いのは、確かにある。自分の判断ひとつで、また誰かが死ぬかもしれないって恐怖は、消えない」

 

「うん」

 

ルナは否定しなかった。ただ、受け止める。

 

「だけど、それを理由に遠ざかろうとしてる自分がいるのも……分かってた。

 カオルにも、同じことを言われたよ。“迷いを放置するな”ってな」

 

 ぽつり、と落ちた言葉は、窓を叩く雨粒より重かった。

 ルナは小さく息を吸い込んだ。

「……カオルらしいね」

 

ルナはマグカップの縁を指でなぞりながら、ぽつりと言った。

「――ねぇ、リュウジ」

 

「なんだ?」

 

「宇宙飛行士、辞めてもいいんじゃないかな」

 

その声音は、責めも否定もない、ただただ柔らかい響きだった。

リュウジはハッとして、思わず目を大きく見開く。

「……いい、のか?」

「うん」

 

ルナは、ふわりと微笑んだ。

「だって、リュウジは十二歳でS級パイロットになってさ。

 悲劇のフライトで、色んなものを背負わされて。

 それからサヴァイヴに不時着して、みんなを守るために戦って、傷ついて……それでも生き延びて」

 

一つひとつ確かめるように言葉を置いていく。

その表情はずっと優しいままだった。

「リュウジ、まだ十四歳なのに……ずっと走り続けてきたんだもん。

 迷ってもいいよ。今は、ゆっくり足を止めて休んでも、いいんじゃないかなって、私は思う」

 

リュウジは、何かを飲み込むように喉を鳴らした。

「……ルナは、迷ったりしないのか?」

 

ようやく出てきた問いかけ。

ルナは少しだけ目を丸くして、それから「するよ」と小さく笑った。

「そりゃあ、私だって。

 ケーキ屋さんとか、花屋さんとか……やってみたいことはいくらでもあったよ」

サヴァイヴの島で摘んだ花々や、リュウジの家で手作りケーキが脳裏に浮かぶ。

ルナは一度、視線を落としてから、まっすぐに続けた。

 

「それでも私は……お父さんと――“サクラさん”と“シンさん”と同じ、惑星開拓技師を目指すって決めたの」

 

その顔から、冗談めいた色は消えていた。

真剣で、でもどこか誇らしげな表情。

「だけどね、リュウジは私と違って、もう夢を叶えてるんだよ」

 

「……」

 

「“誰かを守れるパイロットになる”って夢。

 悲劇のフライトでも、サヴァイヴでも……何度も何度も、それを証明してきた」

 

ルナはそう言って、小さく息を吸い込んだ。

胸元に下がる三日月のネックレスを、そっと指で掴む。

「だから、これは私からのお願い」

 

「お願い?」

 

リュウジの視線が、ルナの手元――ネックレスへと自然と落ちる。

「リュウジはいつも、誰かのため、誰かを守るために選んできたでしょ。

 “みんなを守るため”“誰かを助けるため”って」

 

――あの島でも。コロニーに戻ってきてからも。

 

「でも、一回でいいから。

 そういうの、全部いったん忘れて」

 

ルナは言葉を選ぶように、一つひとつ区切って続ける。

「“リュウジ自身がやりたいこと”で、決めてほしいの」

 

静かに、でもはっきりとした声だった。

「……俺が、やりたいこと?」

 

リュウジは目を見開いた。

自分に向けられた問いのように、その言葉を胸の内で繰り返す。

「うん」

 

ルナはしっかりと頷いた。

「それが、たとえ宇宙飛行士じゃなくてもいい。

 惑星開拓技師でも、どこかの辺境の星でのんびり暮らすことでも。

 なんでもいいの。――“リュウジがやりたい”って思ったことなら」

 

ネックレスをつまむ指に、少しだけ力がこもる。

「でも、“もう頑張らなくていいよ”って言葉が欲しくなるときがあるのも、分かるよ。

 あの島でも何度も思ったもん。“ここでやめたい”“もう無理”って」

 

サヴァイヴの吹雪、飢え、眠れない夜。

そのたびに、彼の背中を追いかけてきたことを思い出す。

「それでも……私が続けてこれたのは、リュウジが前を向いてくれてたからだよ」

 

「俺が?」

 

「うん。無茶するし、すぐ一人で突っ走るし、危なっかしいけど」

ルナは苦笑して続けた。

 

「でも、いつも“誰かを助けるため”に、前を向いてくれた。

 私、あの背中が好きだった。……今も、好き」

 

頬がほんのり赤く染まっている。

けれど、その瞳は揺れずにリュウジを見据えていた。

 

「どんな道を選んでも、私はついていくし、隣で支える。――それは約束する」

 

そこまで言って、ルナは一拍置いた。

今度の言葉は、自分への覚悟でもある。

 

「でもね。もし“怖いから”“傷つきたくないから”って理由だけで空から離れるつもりなら……」

 

ルナは三日月のネックレスを再度ぎゅっと手を握りしめた。

 

「私は、嫌だ。そういう諦め方をするリュウジは、見たくない」

 

その言葉に、リュウジは返す言葉を失った。

胸の奥深く、誰にも触れられたくないと思っていた場所に、そっと灯りを置かれたような感覚がする。

 

雨はまだ、静かに降り続いている。

けれど部屋の中だけは、さっきより少しだけ温度が上がったように感じられた。

 

「……ありがとう、ルナ」

 

唐突に、リュウジが言った。

 

「え?」

 

「俺の“迷い”を、ちゃんと見てくれて。

 それでも隣にいるって言ってくれて。――ちょっとだけ、楽になった」

 

お礼を言われると思ってなかったのか、ルナは目を瞬かせたあと、照れくさそうに笑った。

 

「まだ、答えは出ないけどな」

 

「うん、すぐに決めなくていいよ」

 

「ただ――足を止めて、ゆっくりと考えてみる」

 

リュウジはそう言って、小さく笑った。

先ほどまでの寂しさとは違う、わずかながら前を向いた笑みだった。

 

「それでいいと思う」

 

ルナも笑う。

二人の笑みが、一瞬だけ、窓に重なって映った。

 

「なぁ、リュウジ」

 

急にチャコがストローを外して口を挟んだ。

 

「なんやかんや言うて、結局、どこにおっても誰か守ろうとするや、アンタは。

 ウチとルナぐらい、“勝手に見守らせとけ”」

 

「勝手に、ね」

 

「せや。文句ある?か」

 

チャコが胸をどんと叩く。

 

リュウジは肩をすくめて、クッキーをもう一枚つまんだ。

 

「ないな。頼りにしてるよ、二人とも」

 

「ふふっ、任せて」

 

ルナがそう答えた時、窓の外の雨は少しだけ弱くなっていた。

コロニーの人工雨は、サヴァイヴの荒れ狂う嵐とは違う、ただの水だ。

それでも今夜だけは、この優しい雨音が、三人を包み込んでくれる屋根の存在を、静かに教えてくれているようだった。

 

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