サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第5話

 

女子寝室

 

 夜。屋根の上を風が渡り、葉の擦れる音が子守歌のように響いていた。完成したばかりの女子寝室には、ルナ、メノリ、シャアラが並んで横になっている。

 

 「……今日は疲れたね」

 ルナがぽつりと呟くと、シャアラが「うん……でも、楽しかった」と笑顔を見せる。その笑顔は、崖の上で怯えていた少女の面影よりもずっと力強いものだった。

 

 メノリは横で静かに目を閉じていたが、やがて小さく口を開いた。

 「……私は、間違っていたかもしれない」

 

 「え?」ルナとシャアラが同時に顔を向ける。

 

 「今まで……仲間に指示を飛ばすこと、それが私の役割だと信じていた。けれど……この数日でわかった。指示よりも大切なのは、皆が同じ気持ちで前を向けること……それを守ることだと」

 メノリの声は、これまでのような堅さではなく、柔らかな揺らぎを帯びていた。

 

 ルナは目を丸くし、それから微笑んだ。

 「メノリ……ありがとう。私もね、時々不安で押しつぶされそうになるけど、仲間がいるから頑張れるんだよ。みんなで一緒に歩んでいこう」

 

 その言葉に、メノリは小さくうなずき、初めて心から安心したような笑みを見せた。シャアラはそんな二人を見て、涙ぐみながらも幸せそうに笑っていた。

 

 

男子寝室

 

 一方、男子寝室では、ハワード、ベル、シンゴ、カオル、そしてリュウジがそれぞれの場所に横になっていた。

 

 「なぁなぁ、僕の寝る場所、もうちょっと広くならない?」

 ハワードがわざとらしく体を伸ばすと、ベルが呆れ顔で返す。

 「ハワードは自分で決めた場所だろ……」

 

 「でもさぁ、僕、御曹司だし?」

 「御曹司でも腹は減るし、木は重いだろ」

 シンゴがさらりと返し、部屋に小さな笑いが広がる。

 

 そんな中、カオルは目を閉じたまま低い声で言った。

 「……でも、今日の壁作りはよくやったな。誰一人欠けずにやり遂げた。大したもんだ」

 

 リュウジは静かに天井を見つめながら、短く言葉を継ぐ。

 「当たり前だ。これからも続けなきゃならないんだからな」

 

 その冷たさの奥に、確かに仲間を認める響きがあった。ベルは照れくさそうに笑い、シンゴは安心したように肩の力を抜いた。ハワードだけが「僕の魚ももっと認められるべきだった!」とぶつぶつ言い、再び笑いが起こった。

 

 

 こうして男子と女子、それぞれの部屋に笑いと安堵が広がっていった。

 完成した拠点の中で迎える最初の夜――仲間たちの絆は少しずつ強くなり、メノリもまた新しい一歩を踏み出し始めていた

 

 

 

 翌朝、木々の隙間から差し込む光が、新しい家の壁を黄金色に染めた。屋根に落ちる朝露の滴る音や、小鳥のさえずりが心地よく響く。仲間たちはまだ身体の疲れを残しながらも、次なる作業に取りかかっていた。

 

 「こっちは掃除終わったよー!」

 ルナが声をあげ、女子たちが寝室の床を拭き上げる。シャアラは丁寧に砂を払い、メノリは無言で木の隙間に入り込んだ葉を取り除いていた。

 

 男子の寝室からは、ハワードの声が聞こえる。

 「シンゴ!僕の荷物に触るなよ!」

 「散らかすからだろ!」

 呆れたベルが二人の間に入ってなだめ、カオルは黙々と槍の手入れをしている。その様子をリュウジは外からちらりと見やり、何も言わず共用スペースのテーブル用に木材を運んでいた。

 

 昼近くになると、みんなの作業は自然と大いなる木の下へと移った。

 

 「ここで食事ができたら、もっと楽しいと思うんだ」

 シンゴの提案に皆が頷く。広い木陰の下に、切り出した丸太を組み合わせてテーブルを作り、その周りに椅子を並べていく。ベルが力任せに丸太を動かし、リュウジとカオルが縄でしっかり固定する。

 

 「おぉ、形になってきたやん!」

 チャコがぱちぱちと拍手し、シャアラも「まるで本物の食堂みたい」と感嘆の声を上げる。

 

 ハワードは汗を拭いながら鼻を鳴らした。

 「ふん、僕がデザインしたんだぞ。見た目も大事だからな」

 「ほな座ってみぃや、ハワード。壊れたらアンタの責任やで?」

 チャコの言葉に背中を押され、渋々腰を下ろすハワード。椅子はきしみもせず、しっかりと耐えていた。

 

 「……悪くないな」

 そう呟くハワードを見て、皆がどっと笑った。

 

 テーブルと椅子が完成すると、ルナは嬉しそうに手を叩いた。

 「これでみんなで食事ができるね! ただの拠点じゃなくて、本当に“家族”みたいだよ」

 

 仲間たちは疲れた体を木陰の椅子に預け、ささやかな昼食を囲んだ。

 風の音に包まれながら、大いなる木の下に広がるその空間は、確かに一つの“居場所”として形を成し始めていた。

 

 昼下がりの光は柔らかく、森を抜けて大いなる木の根元に差し込んでいた。葉の影が風に揺れ、地面の上にまだら模様を描いている。その木陰の下には、新しく設けられた木製のテーブルと、丸太を削って作った椅子が並んでいた。

 

 ルナは椅子の一つに腰を下ろし、深く息をついた。

 「やっと完成したね……。こんなに立派になるなんて、思ってもみなかったよ」

 

 隣でシャアラが目を輝かせる。

 「うん……すごく素敵。まるで森の中のレストランみたい」

 彼女は指でテーブルの表面をなぞり、木目の模様を愛おしそうに眺めていた。

 

 「ふふん、デザインしたのは僕だからな!」

 ハワードは胸を張り、鼻を鳴らす。

 「角度と高さをきちんと考えたんだぞ。ただの丸太を並べるだけじゃ芸がないだろ?」

 

 「いやいや、実際に切ったり運んだりしたんはウチらやん」

 チャコがすかさずツッコミを入れる。

 「アンタは“ここは美しく”とか言うだけ言って、重たい木はぜーんぶベルに押しつけとったやろ」

 

 「うっ……」

 ハワードは言葉を詰まらせ、隣で大きな体を揺らしていたベルが苦笑した。

 「いいんだよ。俺、力仕事しか取り柄ないからさ。こうして役に立てるならうれしい」

 

 「ベル、そんなことないよ」

 ルナがすかさず声をかける。

 「力があるってことは大きな才能だよ。今日のテーブルだって、ベルがいなきゃ完成しなかったんだから」

 

 ベルは耳まで赤くし、俯きながら「そ、そうかな……」と呟いた。その姿を見て、みんなの間に優しい笑いが広がった。

 

 「はいはい、ではその才能を祝いまして、さっそく昼食にしよか!」

 チャコが手を叩き、用意された食事がテーブルに並べられていく。

 

 今日のメニューは、リュウジとハワードが釣ってきた魚を炙ったもの、森で採れた根菜を焼いたもの、そしてシャアラが工夫して作った木の実のスープ。シンプルではあるが、みんなで作り、みんなで囲む食卓は格別だった。

 

 「じゃあ――いただきます!」

 ルナが元気よく声を上げると、全員が手を合わせ、食事が始まった。

 

 

 火で炙った魚の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。ハワードが得意げに言った。

 「見ろよ、この焼き加減! 僕の魚さばきの腕がなければ、こうはいかなかっただろう」

 

 「ハワードがさばいたんは一匹だけやろ?」

 チャコが冷静に指摘する。

 「残りはリュウジやカオルがやってくれたんや」

 

 「うぐっ……そ、それでも僕がいなきゃ雰囲気は出なかった!」

 「雰囲気で魚は焼けへんわ!」

 またしても笑いが起こり、シンゴは口にしていたスープを吹き出しそうになって慌てて手で口を押さえた。

 

 「シンゴ、大丈夫?」

 シャアラが慌てて背中をさする。

 「うん、大丈夫……! でも、なんか楽しくて……」

 そう言って笑うシンゴの顔は年相応の子どもらしい明るさに満ちていた。

 

 

 メノリは皆のやり取りを黙って見つめていた。テーブルの端に座り、魚を口にしながらも、心の中では複雑な感情が揺れていた。

 

 (こうして笑っている……私も、この輪の中にいる。けれど……今までの私は、皆をただ従わせることでしか存在できなかった。でも……今は違う)

 

 崖での出来事が蘇る。傷ついた手、無謀な行動、そしてリュウジに救われたこと。あの瞬間から、自分の役割は「命令」ではなく「支えること」へと変わり始めていた。

 

 ルナがふとメノリの方を見て、柔らかく微笑んだ。

 「メノリ、今日のスープの味、どう?」

 「……ああ。とても美味しい。シャアラの工夫だな」

 素直にそう答える自分に驚き、メノリは小さく笑った。以前の自分なら、料理の味に感想を述べることすらしなかっただろう。

 

 「よかった……!」

 シャアラは照れながらも嬉しそうに頬を赤らめる。

 

 

 リュウジは少し離れた場所で魚を食べていた。会話に積極的に加わることはないが、その目はどこか和らいでいる。

 

 (家……か。まさかこんな場所で、拠点どころか“家族”みたいな空気になるとはな……)

 

 彼は心の奥にまだ冷たい孤独を抱えていたが、仲間たちの笑顔を見ていると、その孤独が少しずつ薄れていくように感じられた。無意識のうちに口元がわずかに緩んでいた。

 

 その様子に気づいたルナの胸が、不意にきゅっと締めつけられる。

 (……リュウジ、やっぱり仲間を大事に思ってるんだ。なのにどうして、私はこんな気持ちになるんだろう)

 安堵と、言葉にできないざわめきが同居する感覚に、ルナは小さく首を振った。

 

 

 食事が進むにつれて、会話はさらに盛り上がっていった。

 

 「このテーブルがあれば、ここで遊べるね!」

 シンゴが目を輝かせ、ベルも頷く。

 「うん、ちょっとしたゲームもできるんじゃないかな」

 

 「ゲーム? 僕は絶対勝つぞ!」

 ハワードが声を張り上げる。

 「お金を賭けないと意味がないだろうけど……」

 「賭けはあかん!」

 チャコが慌てて突っ込み、再び笑いが起こる。

 

 やがて、皆の笑い声と話し声が森に溶けていった。新しいテーブルの上には食べ終わった皿が並び、風が心地よく頬を撫でていく。

 

 

 ルナはふと立ち上がり、仲間たちを見渡した。

 「みんな、本当にありがとう。ここまで来られたのは、誰一人欠けてもできなかったことだよ。私……これからもみんなと一緒に、この家を守っていきたい」

 

 その言葉に、仲間たちはそれぞれ頷き、自然と拍手が広がった。

 「おう!」「そうだな」「うん!」

 

 ルナの胸の中には、強い誓いが芽生えていた。

 ――私が一人で背負うんじゃない。みんなと一緒に、進んでいくんだ。

 

 大いなる木の下で囲んだ初めての食卓は、仲間たちの絆をさらに強く結び、彼らの心に「家族」のような温もりを刻んだのだった。

 

 

森の奥、大いなる木の上に建てられた拠点。壁と屋根が取り付けられ、男子の寝室、女子の寝室、そして中央の共通スペースが整えられたことで、ようやく「家」と呼べるものが完成した。

 

 その日の夜。ランプ代わりの火が壁にかけられ、柔らかな灯りが木の床に揺れている。森のざわめきと虫の声が遠くから響き、木の壁に守られていることがいつもより安心感を与えてくれていた。

 

 

共通スペース

 

 「……やっと屋根の下で寝られるんやなあ」

 チャコが床に寝転がり、広げた両手で天井を指差す。

 「雨に濡れんで済むの、めっちゃ幸せやわ」

 

 「本当に……。これで夜も安心して眠れる」

 シャアラは胸に手を当て、ほっとしたように笑った。彼女の微笑みがランプの光に照らされ、どこか柔らかく見えた。

 「でも、本当にみんなのおかげで完成したんだよね。僕、こんな立派な家に住めるなんて思ってなかった」

 シンゴが嬉しそうに口を開く

 

 「そうだね」

 ルナが椅子に腰掛けながら微笑む。

 「この家は、みんなで作った“証”だよ。これからはここが、私たちの拠点――ううん、“家”なんだ」

 

 その言葉に、場にいた誰もが小さく頷いた。

 

 

女子の寝室

 

 夜が更け、みんなはそれぞれ自分の寝室へと移った。女子の寝室には、ルナ、シャアラ、チャコ、そしてメノリが集まる。壁に立てかけられたランプの灯りが揺れ、木の香りがほんのり漂っていた。

 

 「はぁ……なんや落ち着くわ。ちゃんと壁があるって、こんなに安心するんやな」

 チャコは丸太の簡易ベッドに横になり、大きな欠伸をした。

 

 「うん……外で眠るのとは全然違う」

 シャアラが頬を染めながら微笑む。

 「でも……ちょっと不思議。ほんの少し前まで、わたしたち、シャトルにいたのに」

 

 「そうだな」

 メノリは静かに答えた。

 「気が付けば……自分の手でこんな場所を作っている」

 

 ルナは隣でメノリの顔を見つめ、少し嬉しそうに微笑んだ。

 「メノリ、変わったよね。前はもっと……厳しいことばかり言ってたのに」

 

 「……そうかもしれないな」

 メノリは瞳を伏せた。

 「でも今は……みんなのことを思うと、不思議と心が揺れる。役に立ちたいと、本気で思える」

 

 その言葉に、ルナは優しく頷いた。

 「その気持ちがあれば、きっと大丈夫だよ。これからも一緒に頑張ろう」

 

 メノリは一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに小さく笑みを浮かべた。

 「……ありがとう」

 

 

男子の寝室

 

 一方、男子の寝室では。

 

 「よーし、今日はぐっすり寝るぞ!」

 シンゴは床に飛び込み、ベッド代わりの草布団に顔をうずめた。

 「ふかふかだぁ!」

 

 「よかったな、シンゴ」

 ベルが苦笑しながら布団を整える。

 「でも、あんまり暴れると壊れちゃうぞ」

 

 「だいじょーぶだって!」

 

 「おい、静かにしろよ」

 カオルが背を向けたままぼそりと呟く。

 「寝室なんだぞ。夜更かししたら明日動けなくなる」

 

 「そ、そんなぁ……」

 シンゴは不満そうに口を尖らせたが、すぐに目を輝かせて言い出した。

 「でもさ、なんかワクワクしない? なんか本当に……ここでずっと暮らしていける気がする!」

 

 その言葉に、誰もが一瞬黙った。

 

 「……暮らしていけるか、か」

 リュウジがゆっくりと口を開いた。

 「簡単なことじゃない。まだまだ危険も多い」

 

 「でも……希望はある」

 ベルが力強く言う。

 「みんなで協力すれば、きっと」

 

 リュウジは横目でその姿を見つめ、静かに口を開いた。

 「……そうだな」

 

 

夜の安らぎと小さな不安

 

 やがてそれぞれが布団に横たわり、家の中は静けさに包まれた。木の壁が守ってくれる安心感は確かにあった。森の夜の音――虫の声や、木々のざわめきが遠くから聞こえる。

 

 ルナは女子の寝室で布団に横たわり、天井を見つめていた。

 (こうして皆で同じ屋根の下で眠れるなんて……夢みたい。でも……)

 

 心の奥で、小さな不安が芽を出す。

 (この森の奥には、まだ知らないことがたくさんある。食料も、天気も、これからのことも……どうなるんだろう)

 

 リュウジもまた、男子の寝室で眠れぬまま目を閉じていた。

 (家ができた……けど、本当の戦いはここからだ。俺たちは、生き残れるのか……)

 

 ――安らぎと、不安。

 その二つを胸に抱えながら、彼らは完成した家で迎える最初の夜を静かに過ごした。

 

「……メノリ」

 ルナがそっと声をかける。

 「この頃、なんだか少し優しくなったよね。みんなのことを前より気にかけてくれてる」

 

 その言葉に、シャアラも目を輝かせる。

 「わたしも、そう思う! 前は厳しいことばかり言ってたのに、今は……なんていうか、すごく頼れる感じがする」

 

 「えぇ〜?」

 チャコが口を尖らせて笑った。

 「昔のメノリやったら、シャアラの泣き声に“静かにしなさい!”て怒鳴っとったのになぁ」

 

 「チャコ!」

 シャアラが頬を赤らめて抗議する。

 

 「……悪かったな」

 メノリは苦笑を浮かべた。

 「確かに、あの頃の私は“規律”ばかりを気にしていた。けれど……最近は少し考えが変わったんだ」

 

 「なんで?」

 ルナがまっすぐ尋ねる。

 

 メノリは一瞬言葉を飲み込み、視線を落とした。ランプの灯りに照らされた横顔は、どこか照れくさそうにも見える。

 「……あの日、卵を取りに行ったとき。崖から落ちそうになった私を、リュウジが助けてくれた」

 

 その名が出た瞬間、ルナの胸が不意に高鳴った。

 「リュウジが……?」

 

 「えっ、リュウジのやつが?」

 チャコが耳をぴんと立てて驚く。

 「信じられへんなぁ。口の利き方はそっけないのに」

 

 メノリは小さく頷いた。

 「彼は……私の話を聞いてくれた。私がずっと、役割や責任ばかりを背負って生きてきたことも……不安も……。誰にも言えなかった気持ちを、あの人は黙って受け止めてくれた」

 

 静かな声だったが、その言葉には確かな重みがあった。

 

 「だから、少しだけ……肩の力を抜いてもいいのだと、気づかされたの。皆と一緒に歩んでいくことも、大切なんだって」

 

 ルナはその言葉を聞きながら、胸の奥に複雑な感情が湧き上がるのを感じていた。

 (……リュウジが、メノリを……変えた?)

 

 嬉しいはずなのに、なぜか胸がざわつく。彼が冷たい態度の裏で、誰かを支えている――それがメノリだったという事実に、言葉にできない感情が渦を巻いた。

 

 「……メノリ」

 ルナは笑顔を作り、言葉を紡ぐ。

 「それを聞けて、すごく嬉しいよ。これからも一緒に、みんなを支えていこうね」

 

 「ああ。もちろんだ」

 メノリは小さく頷いた。いつもの堅さが少し和らぎ、少女らしい柔らかな笑みが浮かんでいた。

 

 その笑顔を見ながらも、ルナの胸にはまだ小さな棘のような感覚が残っていた。

 (リュウジ……どうして、あのとき私にはそんな顔を見せてくれなかったんだろう……?)

 

 夜の静寂の中、森のざわめきと仲間たちの寝息が重なり合う。完成した家の中で、少女たちはそれぞれ異なる思いを胸に抱きながら眠りにつこうとしていた

 

⬜︎

 

夜も更けた頃。共通スペースにはランプの柔らかな光だけが灯り、静けさが漂っていた。

 

 テーブルの上に散らされた木片や蔓、石で削られた刃物の残骸。その中で、リュウジはひとり椅子に腰掛け、無駄のない手つきで道具を整えていた。ナイフの刃を石で研ぎ、蔓を撚り直しては束ねていく。

 

 「……リュウジ」

 声がして、彼はふと顔を上げる。入口にはルナが立っていた。寝巻きのまま、少し心配そうにこちらを見つめている。

 

 「また作業してる!」

 ルナは小さく肩をすくめて近づき、椅子に腰を下ろした。

 「せっかく家ができたんだよ。今夜ぐらいはゆっくり休んでいいのに」

 

 「……落ち着かないんだ」

 リュウジは短く答え、手を止めることはなかった。

 「道具が整っていれば、何かあったときすぐに動ける」

 

 「そういうところ、やっぱりリュウジらしいね」

 ルナは苦笑しつつも、どこか嬉しそうに目を細めた。そして少し間を置いてから、ぽつりと口を開いた。

 

 「……ねぇ、メノリのこと」

 

 リュウジの手が一瞬だけ止まる。ルナは彼の横顔を見つめながら続けた。

 

 「最近、メノリが少しずつ変わってきたんだ。前よりもみんなに優しくなって、気持ちを考えてくれるようになった。……きっと、リュウジのおかげだよね?」

 

 「……俺?」

 リュウジは訝しげに眉をひそめた。

 

 「うん」

 ルナは頷いた。

 「崖で助けてくれたとき、言葉をかけたんでしょ? 彼女、自分の気持ちを話せるようになったんだ。……ありがとう、リュウジ」

 

 そう言って頭を下げるルナの声には、感謝の響きがあった。

 

 だが。

 

 「……覚えてないな」

 リュウジの返答はあまりにも素っ気なかった。

 「別に何か言ったつもりもない。ただ助けただけだ」

 

 「えっ……」

 ルナは驚いたように目を瞬かせたが、すぐにふっと笑った。

 

 「やっぱり、リュウジは優しいんだね」

 

 「……そうか?」

 リュウジは首を傾げる。ルナの笑顔を前に、少しだけ戸惑いが浮かんだ。

 

 「うん。覚えてなくても、誰かを支えてる。そういうところが、リュウジなんだと思う」

 

 ルナの声は柔らかく、温もりを帯びていた。リュウジは返す言葉を探すように、ナイフを研ぐ手を止め、視線を落とす。

 

 静寂の中に、ランプの灯りが小さく揺れていた。

 

⬜︎

 

朝の光が森の葉を透かし、大いなる木の拠点を柔らかく照らしていた。完成した家で迎えた初めての朝食を終え、仲間たちは自然と「次に必要な設備」の話題になった。

 

 「家はできたけど……やっぱりトイレがないと不便だよね」

 ルナがスプーンを置きながら言うと、女子たちも頷いた。

 

 「夜に外に行くの、ちょっと怖いよね」

 シャアラが肩をすくめて答えた。

 

 「衛生面のこともあるだろう。大いなる木の近くに囲いを作るべきだろう」

 メノリは厳格な口調で指示する。

 

 「なるほどな。竹や枝で壁を作れば十分だろう」

 カオルが腕を組んで言い、リュウジは周囲を見渡した。

 「家から近くて、人目も防げる。これなら不便はないな」

 

 「じゃあ、ここに置くのが良さそうだ」

 ベルが提案すると、皆が頷く。太い枝を柱にして囲いを立て、蔓で固定する作業が始まった。

 

 シャアラは「ここから見えないかな?」と不安げに確認する。

 「大丈夫だろう」

 メノリが答え、ベルが小声で「安心だな」と続ける。

 ハワードは「俺様の力で完璧に立ってるぜ!」と得意げに板を差し込む。

 

 「おーい、これで完成だ!」

 簡易トイレの囲いが出来上がると、皆が声を揃えて「やった!」と喜んだ。

 

 

 次は洗濯場だ。

 

 「服を洗える場所も欲しいだろう」

 メノリが指示し、ルナも笑顔で頷く。

 「そうだね! 湖のはずれなら水もきれいで、洗いやすそう」

 

 皆で湖の端に向かい、平らな石を整え、川の水を導く溝を掘る。

 

 「ここに板を置けば、服を叩いて洗える」

 メノリが言い、カオルとリュウジが協力して板石を運び込む。

 

 シャアラとベルは試しに布切れを濡らし、叩いてみる。

 「わぁ、汚れが落ちた!」

 「天気が良ければすぐ乾くな」

 

 チャコも尾を振りながら「ウチも手伝ったで! 働かざる者食うべからずやな!」と喜ぶ。

 

 

 夕方、トイレと洗濯場が完成し、拠点は一段と暮らしやすくなった。

 

 「すごい、生活の基盤が整ってきたね」

 ルナは胸を張って仲間たちを見渡す。

 

 メノリも小さく頷く。仲間と共に設備を整え、役割を果たしている自分を実感し、安堵の表情を浮かべた。

 

 リュウジは湖の水面を見つめながらも、口元にわずかに満足げな笑みを浮かべていた

 

⬜︎

 

森の間から朝日が差し込み、完成した家と周囲の木々を柔らかく照らしていた。仲間たちは朝食を終えると、それぞれの役割に沿って動き始める。

 

 ルナは皆を見渡し、手を広げて声をかけた。

 「今日の作業は、拠点の補強と食料確保を優先するよ。まずは屋根と壁の補強を進めて、午後からは釣りと森での採集に分かれよう」

 

 メノリは横で観察し、必要な箇所に助言を加える。

 「梁の位置を確認した方が安全だ。固定が甘いと作業中に危険だ」

 口調は厳格で、指示を出すルナの補助として仲間に危険を知らせる。

 

 ベルは「俺も力仕事をやるぞ」と大きな声を上げ、ハワードも「じゃあ俺も手伝う」と笑顔を見せた。チャコは尾を振りながら「ウチもついていくで!」と声をかける。リュウジとカオルは静かに作業位置を確認し、ルナの指示に従った。

 

 

 大いなる木の上では、木材や板を運び、屋根や壁の補強を進める。ルナが仲間の位置や手順を指示する。

 

 「シャアラ、そこの板を少し左に動かして。ベル、杭はこっちに打ち込んで」

 「リュウジ、カオル、梁を支えてくれ。安定するまで動かさないで」

 

 シャアラは手元を慎重に調整し、「これで大丈夫」と小声で呟く。

 ベルは杭を打ち込み、チャコは木材の角度を計算しながら支える。

 ハワードも板を持ち上げ、「よし、屋根の補強も完了だ」と声を上げた。

 

 メノリはルナの横で補強箇所や角度をチェックし、危険箇所を見つけると即座に声を上げる。

 「ここは緩い。もう少し杭を打ち込め」

 仲間たちはそれに従い、作業は順調に進んだ。

 

 

 午前の作業が一区切りすると、ルナは皆に昼食と食料確保の段取りを伝える。

 

 「釣りチームは湖へ、採集チームは森で果実とキノコを集めるよ。安全第一でね」

 

 メノリはルナの横で、作業計画の確認や安全への注意を補助する。

 「森の中は足元に気をつけること。滑ったら怪我する」

 

 ハワード、リュウジ、カオルが釣りに向かい、ベル、シャアラ、チャコは森へ入る。仲間たちはルナとメノリの注意を胸に、慎重に行動した。

 

 

 湖ではリュウジが手際よく釣り糸を垂らし、ハワードも竿を握る。

 「今日はどれくらい釣れるかな」とハワードが笑顔を見せ、小さな魚から大きめの魚まで順調に捕まえた。

 

 森ではベルが熟した果実を慎重に採集し、シャアラは記録を取りつつ「量は十分」と確認する。

 チャコは枝や蔓を使って足元を補助し、ベルとシャアラの安全を守った。

 

 

 午後、釣り担当チームが拠点に戻ると、ルナは「おかえり。成果を並べて確認しよう」と声をかけ、魚や果実をキッチンに並べた。

 「今日も皆のおかげで食料は十分だね」

 

 メノリは微笑み、仲間の頑張りを静かに見守る。

 「油断せず、計画通りに進めることが大切だ」

 ベルも頷き、シャアラも微笑む。チャコは尾を振りながら「ウチも分析通りや! これで皆元気に過ごせるで!」と喜ぶ。

 

 

 午後の残り時間は、ルナの指示で家の細かい補強やテーブル・椅子の配置、道具の整理に費やされる。

 

 「椅子の位置を少し直して、作業スペースを確保して。板も再確認しよう」

 メノリは横で微調整の助言を続け、仲間たちは手分けして作業を進めた。

 

 夕方、作業を終えた仲間たちは共通スペースに集まり、ルナが「今日も一日よく頑張ったね」と声をかけると、自然と笑顔が広がった。

 

 リュウジは遠くから仲間を見守り、微かに口元を緩める。

 メノリも静かに誇らしさを感じ、仲間と共に過ごす日々の価値を実感していた。

 

 下がり、拠点の共通スペースには涼しい風が吹き込み、仲間たちは一息ついていた。トイレも洗濯場も完成し、少しずつ生活の形が整ってきている。湖のほとりで汗を拭ったシンゴが、ぽつりと口にした。

 

 「ねえ、ルナ。洗濯場はできたけど、体を洗う場所も欲しいよ。水浴びするにしても湖だと冷たすぎるし、毎回は大変だしさ」

 

 ルナは目を丸くしてシンゴを見たあと、すぐに頷いた。

 「確かに……。毎日作業してると汗もかくし、体を清潔にしておかないと病気の原因にもなるかもしれないね。シャワーを作るっていうのは、いいかも!」

 

 シャアラもすぐに賛成の声を上げる。

 「それがあれば、とても助かるわ。髪や服に砂が入ってしまって……いつも気になってたの」

 

 「ウチも大賛成や!」とチャコが前足を振り上げた。

 

 ハワードは腕を組み、少し難しい顔をした。

 「でも、シャワーってどうやって作るんだ? そんな簡単にできるもんじゃないだろ」

 

 その言葉に、メノリが静かに口を開く。

 「水を高い位置に設置して、下に落とせば自然と水流は生まれる。仕組みそのものは単純だ。問題は水をどうやって確保し、貯めるか……だな」

 

 「だったら僕が考えてみるよ!」シンゴの目が輝く。「竹や中が空洞の木を使って水を導けば、貯水タンクのような仕組みができるはず。昼間に太陽で温めれば温水にもできるかもしれない!」

 

 ルナは嬉しそうに両手を叩いた。

 「それなら明日からはシャワー作りに挑戦しよう! シンゴは設計をお願い。メノリは安全性の確認、リュウジとカオルは作業の補助ね」

 

 カオルは「了解」と短く答え、リュウジは無言で頷いた。ベルは「俺、力仕事なら任せてくれ」とやや照れくさそうに胸を叩いた。

 

 ルナは仲間たちの表情を見渡して、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 (少しずつだけど……ここが本当に皆で暮らす“家”になっていくんだ)

 

◇◇◇

 

朝の光が大いなる木の枝葉を抜け、拠点の空気をやさしく照らしていた。私たちは食事を終えると、昨日決めた「シャワー作り」のために集まった。

 

 「シャワーがあれば、毎日もっと気持ちよく過ごせるだろうな」

 私がそう言うと、シンゴが図を広げて説明する。

 

 「竹みたいな植物をパイプにして水を通す。それと水を溜める容器をどうするかが問題なんだ」

 

 そのとき、リュウジが少し考えるように視線を落とし、低い声で口を開いた。

 「水を貯める容器なら……巨大ウツボカズラを使えるかもしれない」

 

 一瞬、空気が張り詰める。

 ベルが目を丸くし、シンゴが身を乗り出す。

 「巨大ウツボカズラって……あの恐ろしい植物?」

 

 メノリも眉を寄せて頷いた。

 「確かに形状としては理にかなっている。でも、近づくのは非常に危険だ」

 

 「そうだな」リュウジは淡々と応じる。「ただ、自然にできた容器としては理想的なんだ。水を溜められるし、強度もある」

 

 私たちは顔を見合わせた。シャアラは不安そうに唇を噛み、ハワードは苦笑いを浮かべる。

 「そんなのに近づいたら、僕らまで溶かされちゃうんじゃないの?」

 

 ルナは深呼吸して言った。

 「今すぐは無理でも、いずれ必要になるかもしれない。シャワーを完成させるには容器がいるもの。まずは安全に使える方法を考えよう」

 

 話し合いが一段落したところで、私はみんなに「今日は危険なことはしない」と念を押した。

 「今すぐは無理でも、いずれ必要になるかもしれない。シャワーを完成させるには容器がいるもの。まずは安全に使える方法を考えよう」

 

 みんなが頷き、少し安心した空気が流れる。

 けれど、そのときリュウジだけは無言で立ち上がり、背を向けて歩き出した。

 

 「リュウジ?」ルナが呼びかけても、彼は振り返らない。

 

 シンゴが慌てて声を上げる。

 「ちょ、まさか今から行く気じゃ……?」

 

 リュウジは足を止めず、低い声で言い放った。

 「待ってるだけじゃ、何も手に入らない」

 

 その言葉に場が凍りつく。

 メノリが険しい表情で立ち上がり、彼を睨みつける。

 「勝手な行動はよせ!危険だって話をしたばかりだろう!」

 

 しかしリュウジは振り返らない。冷たい横顔を見せたまま、大いなる木の根元から森の奥へと歩を進める。

 

 ルナは思わず数歩追いかけた。

 「リュウジ、聞いて!私たちは仲間なんだよ!みんなで考えて――」

 

 だが、返ってきたのは短い一言だった。

 「俺は俺のやり方で動く」

 

 その背中は孤独で、頑なで、触れようとすればするほど遠ざかってしまうように見えた。

 

 森の緑に彼の姿が飲み込まれていくのを、私は立ち尽くしたまま見送るしかなかった。

 

 森の奥へと歩いていくリュウジの背中を、私は不安で目で追っていた。

 巨大ウツボカズラ――危険な植物だとわかっているのに、彼は迷いなく進んでいく。

 

 隣で腕を組んでいたカオルが、ぼそりと呟いた。

 「リュウジなら……問題ない」

 

 思わず振り向く。

 「でも、あんな危険なものに一人で……!」

 

 「……わかってる。あいつは無茶をするが、それでも滅多なことでは死なない」

 カオルは目を細め、森の暗がりを睨みつけた。

 「だが――念のためだ。俺も行く」

 

 その声には冷静さがあったが、どこか苛立ちも滲んでいるように聞こえた。

 リュウジへの信頼と、放っておけない気持ち。両方が混じっているのだろう。

 

 「……お願い、カオル」

 私は不安を隠せないまま頼み込む。

 

 カオルは短く頷いた。

 「心配するな。俺がいる」

 

 そう言って彼は足早に森へ入っていった。

 残された私は、胸の奥で渦巻く不安と祈りを抑えきれずにいた。

 

 ――どうか二人とも、無事で帰ってきて。

 

◇◇◇

 

 森の奥へと進む。頭上の木々は鬱蒼と茂り、昼だというのに周囲は夕暮れのように暗かった。

 湿った空気が肌にまとわりつき、耳の奥ではどこからともなく羽音や小さな鳴き声が響いている。

 

 リュウジは前を歩きながら、一度も振り返らなかった。無造作に、しかし迷いのない足取りで進んでいく。

 やがて彼は低く、ぽつりと呟いた。

 

 「……なんだ、お前も来たのか」

 

 背後を歩くカオルは短く応じる。

 「ああ」

 

 それ以上は何も言わない。二人の間に余計な言葉はなかった。

 ただ重苦しい沈黙だけが、森の中に落ちていく。

 

 ――巨大ウツボカズラ。

 初めてこの島に降り立ったとき、遠目に見た光景が脳裏に蘇る。

 甘ったるい香りを漂わせ、近づく生き物を蔓で絡め取っては、巨大な捕虫袋に落とし、溶かしてしまう恐ろしい植物。

 獲物を骨の欠片すら残さず溶かし尽くす、捕食者の姿。

 

 二人はしばらく森を抜け、やがて視界が開けた場所へと出る。

 そこに――それはいた。

 

 深緑の巨体が地表から天へと伸び、その中心には人間の胴ほどもある捕虫袋が大きく口を開けていた。

 袋の縁には粘液が滴り、陽の光を受けて不気味に光っている。

 その周囲からは何本もの蔓がうねるように伸び、今もなお小動物の死骸を絡め取っては袋へ運び込んでいた。

 

 「……あの時と、変わってないな」

 カオルが低く呟いた。

 

 リュウジは返事をせず、腰に差していた黒曜石のナイフを二本、静かに抜き取った。

 片方を逆手に、片方を順手に持ち、両腕を自然に広げる。

 

 カオルは息を詰めた。だが、リュウジは眉ひとつ動かさない。腰から黒曜石のナイフを二本抜き取り、順手と逆手に構える。その動作に緊張も焦りもなかった。研ぎ澄まされた無機質な気配が、森の空気を一変させる。

 

 ――その瞬間、蔓が一斉に襲いかかってきた。

 

 しなる音と共に、十本以上の蔓が鞭のように迫る。まともに受ければ肉も骨も粉砕される。だがリュウジは一歩も退かない。両腕がわずかに動き、刃が閃く。

 

 シュッ、と風を裂く音。続けざまに斬撃。次の瞬間、迫っていた蔓はすべて切断され、地面にバラバラと落ちていった。黒い汁が飛び散り、湿った土に染み込む。リュウジの頬にも数滴かかったが、彼は瞬きすらしなかった。

 

 カオルは目を疑う。速い。あまりにも速すぎる。一本どころか十本以上を、わずかな刹那でまとめて斬り払ったのだ。しかも、力任せではない。刃筋は正確無比で、切断面は滑らかだった。

 

 しかし巨大ウツボカズラは怯まない。さらに二十本、三十本と新たな蔓を繰り出す。空を覆うほどの嵐のような蔓が、全方向からリュウジを包囲する。

 

 カオルの背筋を冷汗が伝った。常人なら一瞬で絡め取られ、袋の中へ引きずり込まれるだろう。だが――

 

 「……っ」

 

 リュウジは前へ踏み込んだ。双剣が舞う。斬撃、斬撃、斬撃。左右の手から繰り出される軌跡が光の網を編み、迫る蔓をことごとく切り落としていく。一本も掠らせない。攻撃を防ぐのではなく、先に斬り捨てる。完璧な支配だった。

 

 落ちた蔓が地面を覆い、辺りは切断された肉塊の山と化す。だがリュウジの表情は無。眉一つ動かさず、粘液まみれの地面を踏みしめ、ただ進み続ける。

 

 やがて袋の根元へたどり着くと、リュウジは一閃。ナイフで捕虫袋の下部を大きく切り裂いた。中から濁った液体が滝のように溢れ出す。刺激臭が立ち上り、カオルは思わず口元を覆った。粘液に混じり、未消化の獲物の影が流れ出すのが見えた。

 

 リュウジは怯まず、袋の中に腕を突っ込み、内部を探る。そして何かを掴むと、そのまま引きずり出した。

 

 「……補虫器」

 

 カオルが呟く。袋の内側は壺状に硬質化した部分があり、それは容器として利用可能だ。普通なら粘液や臭気に圧されて近寄ることすらためらう。だがリュウジは表情を変えず、淡々と切り分けていく。液体が滴り落ち、手や服を汚しても気にする様子はなかった。

 

 切り出した補虫器を地面に置き、使える大きさのものをさらに二つ、三つと収穫する。作業は正確で、まるで鍛冶職人が鉄を打つかのように無駄がない。彼にとっては命の危険を冒す戦闘すら、ただの作業の一環でしかないのだ。

 

 カオルは息を呑んだまま、その光景を見つめていた。圧倒的な技術、冷徹な集中力、そして何より――人間らしい感情を感じさせない無表情。

 

 「……やっぱり、お前はただ者じゃないな」

 

 小さく呟いた言葉は、湿った森の闇に吸い込まれていった。リュウジは何も答えず、ただ補虫器を抱えて立ち上がる。その眼差しは変わらず冷ややかで、何も映していないようにさえ見えた。

 

 森に再び静寂が訪れる。だが、カオルの心には今の自分とリュウジとの差に悔しさを滲ませた。

 

◇◇◇

 

 リュウジとカオルが森へ姿を消してから、拠点の大いなる木の下はいつになく落ち着かない空気に包まれていた。仲間たちはそれぞれ作業に手を動かしてはいるものの、視線が時折森の奥へと向かってしまう。

 

 ルナも例外ではなかった。椅子に腰かけながら、手にした木の枝を削る作業を続けてはいたが、その刃先が何度も滑り、表面が不格好に削れてしまう。思わずため息がこぼれ、心の奥に浮かぶ問いを抑えられなくなる。

 

(リュウジは……どうして、あんな危険なことを自分からしようとするの?)

 

 彼が必要なものを探しに行ったのは理解している。確かにシャワーを作るには容器がいる。けれど、あの巨大ウツボカズラに挑むなんて、命を賭ける行為に等しい。それを、まるでためらいもなく行ってしまう彼の姿が、ルナの胸をざわつかせていた。

 

「ルナ、大丈夫?」

 隣でシャアラが心配そうに問いかける。彼女は小枝を集めて焚き火の準備をしていたが、ルナの落ち着かない様子に気づいたのだろう。

 

「……うん、大丈夫。ありがとう、シャアラ」

 笑顔を返そうとしたが、頬の引きつりを自分でも感じた。

 

「リュウジなら大丈夫だよ。だって、あの人、危ない目にあっても絶対に負けなさそうだもん」

 シンゴが無邪気に口を挟む。だがその言葉に安堵は訪れなかった。むしろルナの心はさらにざわつく。

 

(そう……確かにリュウジは強い。でも、それが余計に怖いの。強さに頼って、自分を削って、心を閉ざして――いつか、本当に帰ってこなくなってしまうんじゃないかって……)

 

 ルナの胸に広がるのは、焦りにも似た感情だった。仲間のために行動することは立派だ。だが、その背中を追うこともできず、ただ待っているしかない自分に無力感を覚える。

 

「ルナ……」

 メノリの声が不意に響く。彼女は木材を並べながら、落ち着いた視線をこちらに向けていた。

「心配なのは分かる。だが、あの男は自分の判断で行動している。私たちにできるのは、戻ってきたときに受け入れることだろう」

 

 規律を重んじるメノリらしい言葉だった。だがルナは小さく首を振る。

「……分かってる。でも、私は……仲間が危ないことをしてるのに、ただ待ってるだけなんて、いやだ」

 

 胸の奥からこぼれたその声は、彼女の不安を正直に映していた。

 

 焚き火の薪がぱちりと音を立てる。誰もすぐに返事をせず、沈黙が広がった。ルナは拳を握りしめ、森の奥をじっと見つめる。そこにいるであろうリュウジの姿を想像しながら、ただ祈るように呟いた。

 

(リュウジ……お願い。無茶なんて、しないで。あなたがいなくなったら……私は――)

 

◇◇◇

 

夕暮れが森を朱色に染めるころ、拠点の仲間たちはそわそわと大いなる木の下を行き来していた。湖面が反射する光は刻一刻と色を失い、夜の帳がすぐそこまで迫っている。

 

「遅い……」

 ルナは思わず呟いた。胸の奥で、脈が速くなる。

 

 リュウジとカオルが森へ入ってから、もうかなりの時間が過ぎていた。

 ただの探索なら心配はない。だが今日の目的は――あの巨大ウツボカズラ。島に漂着した直後、仲間の命を脅かした恐ろしい存在。その捕虫器を取りに行くという無謀な行動を、ルナは止めきれなかった。

 

(どうして……どうしてあんな危険なことを一人で……)

 

 責任感を口実に、彼の背に向かって「無茶はしないで」と声をかけた自分を思い出す。その言葉が届いたかどうか、いまはただ祈るしかなかった。

 

 そのとき――。

 

「戻ったぞ」

 

 低く短い声に振り返ると、夕暮れの森からカオルが姿を現した。後ろには、両腕に巨大な捕虫器を抱えたリュウジ。黒曜石の刃を腰に差し戻し、表情ひとつ変えずに歩いてくる。

 

「リュウジ!」

 

 抑えきれず、ルナは駆け寄っていた。

 無事な姿を目にした瞬間、胸に積もっていた不安が一気に崩れ落ちる。足が震えるほどの安堵と同時に、言葉にできない複雑な感情が押し寄せてきた。

 

 ――よかった。本当に……よかった。

 ――でも、どうして。どうしてあなたはそんな顔で、何事もなかったみたいに帰ってこられるの。

 

「追加の素材だ」

 リュウジは無造作に捕虫器を地面に置いた。淡々とした声。勝利の誇りも疲労の影も見せない。

 

 その無表情さが、ルナの心を強く締めつけた。

 怖かった。もし彼が帰らなかったらどうしようと考えた自分がいた。仲間として以上に――彼を失いたくないと、はっきり思ってしまったのだ。

 

「……ありがとう、リュウジ」

 言葉にできたのは、それだけだった。

 

 リュウジは短く「別に」とだけ答える。その横顔に夕陽が差し、影を長く伸ばしていた。

 

 ルナは小さく息をついた。安堵に混じるのは、自分の中で確実に芽吹きつつある特別な想い。その重さに、胸がまたざわつく。

 

(私は……リーダーなのに。みんなを平等に見なきゃいけないのに……どうして、こんなにリュウジのことばかり……)

 

 仲間たちは捕虫器を囲み、興味深そうに声を上げている。

 だがルナの視線は、ただ一人の背に釘付けのままだった。

 

◇◇◇

 

 その日の夜。大いなる木の根元に広げられた食卓代わりの板の上には、焼いた魚と果実、そしてシンゴが工夫してつくった木の実の煮込みが並んでいた。

 みんなで囲む食事は一日の疲れを和らげるひととき――のはずだった。

 

「おかわり、いる人!」

 チャコが元気よく声をあげ、器を掲げる。

 

「はーい、僕!」

 ハワードが真っ先に手を挙げる。その勢いにベルが呆れたように肩をすくめた。

「食べすぎだよ、ハワード」

 

「働いた分は補給しないと。成長期だぞ?」

 そんなやりとりに笑い声が漏れる。

 

 けれど、ルナは笑えなかった。

 目の前の魚に箸を伸ばしながらも、心は落ち着かない。夕暮れ時に帰ってきたリュウジの姿を思い出す。血の気も汗も見せず、淡々と捕虫器を運んできた背中。そこに隠されたものを考えると、胸がざわついて仕方がない。

 

 食事を半ばで切り上げ、リュウジが立ち上がった。

「俺はもう行く。先に休む」

 それだけ言って、黒曜石のナイフを腰に下げたまま大いなる木の階段を上っていく。

 

「……」

 ルナの視線が、その後ろ姿を追う。だが言葉は出ない。

 喉の奥で詰まった感情を、ただ握りしめるようにして黙り込んだ。

 

 そんなルナに気づいたのか、メノリが静かに口を開く。

「カオル。巨大ウツボカズラ……本当に大丈夫だったのか?」

 

 その一言に、場の空気が少し張りつめた。

 ハワードも、ベルも、シンゴも、そしてチャコも顔を向ける。

 

「そうだよ。あれ、島に来たばかりのときに僕たちを襲ったんだよ?」とシンゴ。

「怖くなかったのか?」とチャコが首を傾げる。

 

 カオルは箸を置き、皆の視線を受け止めた。

「……正直、驚いた。あの蔓を全部、一人で斬り落としてたからな」

 

「えっ、一人で? リュウジが?」

 ベルの目が大きく見開かれる。

 

「ああ。俺は手を出す間もなかった。気づいたら、もう動かなくなってた」

 

「……」

 ルナの胸が強く鳴った。自分の中で渦巻く想いを、他の誰にも気づかれないように俯く。

 

「すげえ……」

 感嘆の声を漏らしたのはハワードだった。

「そんなの聞いたらさ、なんか無敵に聞こえるじゃん。リュウジって、やっぱ只者じゃないな」

 

「でも……」とシャアラが眉を寄せる。

「そんなに無茶をして、大丈夫なのかしら。心配だわ」

 

「心配する必要ねーよ。あいつ、顔色ひとつ変えてなかったろ」

 ハワードは笑うが、ベルがすぐに反論した。

「だから逆に怖い。何を考えてるのか、まるで読めないんだ」

 

「……」

 その言葉に、ルナは無意識に拳を握った。

 ――本当は、誰よりも心配しているのは私。

 でも、それを口にしたら、自分が仲間の一人でなくなる気がして。

 

 夕食を囲む温かい輪の中で、ルナの胸だけが冷たく震えていた。

 

◇◇◇

 

 夜遅く、今日一日の出来事が頭の中を巡り、ルナは布団に横たわりながらも眠れずにいた。森の木々が揺れる音、遠くの小さな生き物の気配。普段なら穏やかに感じられる夜の静寂も、今は心を落ち着けるどころか、今日のあれこれを思い返させるばかりだった。

 

「こんなことで悩んでいる場合じゃないのに……」

 

ルナはそっと息を吐くと、気分を変えようと決めた。女性陣を起こすわけにはいかない。慎重に布団から抜け出し、柔らかい木の床に足を下ろす。物音を立てないよう、そっと寝室を抜け、大いなる木の外階段を伝い下りていく。

 

冷たい夜風が顔に触れる。月光に照らされた森の影は幻想的で、昼間の活気とはまったく違う、静寂の中の世界が広がっていた。ルナは足を止め、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。

 

ふと、焚火のほのかな光のほうに目をやると、誰かが湖の方を見つめているのが見えた。黒い影、静かに立つ人物。息を呑んだルナは思わず足を止めた。

 

「……カオル?」

 

小さな声で名前を呼ぶ。影の人物はゆっくりと振り向き、ルナの存在に気づいた様子だ。

 

「……お前も眠れないのか」

カオルの声は低く、しかしどこか落ち着いた響きを帯びていた。

 

ルナは頷きながらも、少し距離を置いて立つ。焚火の赤い光が二人の間に温かさを生み、夜の冷たさを和らげていた。

 

「気分転換に……湖を見に来たの」

ルナの声は柔らかく、昼間のリーダーらしい鋭さは影を潜めていた。

 

カオルは黙って頷き、視線を再び湖面へ向ける。湖面は月明かりを映し、揺れる波紋が静かに広がっていた。

 

「今日は……色々あったな」

ルナの言葉に、カオルはわずかに肩を揺らすだけで答えた。言葉は少ないが、湖に向かう背中が彼の気持ちを物語っているようだった。

 

しばらく二人は言葉を交わさずに立ち、湖を見つめた。夜の空気は澄んでいて、遠くの木々や焚火の煙、湖面の揺らぎが互いに寄り添うように静かに存在していた。

 

ルナの胸に、昼間の出来事や仲間たちの顔が思い浮かぶ。だが、隣で静かに佇むカオルの存在が、何か心の奥に小さな安心感をもたらすのを感じた。

 

「……私、少しだけ、落ち着いたかも」

小さく呟くルナ。カオルは何も言わず、ただ視線を湖面に向け続ける。その沈黙は決して冷たくはなく、むしろ温かく、心に染み入るようだった。

 

夜風が頬を撫で、森の香りが鼻をくすぐる。ルナは深呼吸をして、そっと瞼を閉じた。今日の疲れも、不安も、少しだけ静まるような気がした。

 

二人の間に言葉は少なくとも、共有する時間が、互いの心をほんの少しだけ軽くしていた。

 

焚火の赤い光が湖面に揺れる中、ルナは少し視線をそらし、心の中で考えを巡らせていた。今日一日、リュウジとカオルの様子を見ていて、どうしても気になることがあった。

 

「……リュウジとカオル、どういう関係なの?」

小さな声で尋ねるルナ。森の静寂にかき消されないよう、慎重に口を開く。

 

カオルは一瞬湖面から視線を上げ、ルナを見た。その目は冷淡に見えながらも、どこか落ち着いた安心感を湛えている。ゆっくりと口を開く。

 

「……昔な、俺たちはアストロノーツ養成学校で訓練を受けていた」

 

ルナは息を呑む。宇宙飛行士養成学校、あのコロニー各地から選ばれた1万人以上の少年少女。その中で入学できるのは160人。そして宇宙飛行士になれるのはわずか数名という、究極のエリート校だ。

 

「……そんな学校に、二人ともいたの?」

ルナの声には自然と驚きと好奇心が混じる。

 

カオルは焚火の炎を見つめながら、静かに続けた。

「ああ。学校では、生き残るために、あらゆる訓練を積む。極限状態で判断力や操縦技術を鍛えるんだ。俺も必死でやったけど……リュウジは、違った」

 

ルナは小さく息を呑む。違った、とはどういう意味だろう。

 

「リュウジは、養成学校始まって以来の天才だった。誰よりも抜きん出ていて、全ての科目でトップ。史上初の飛び級で卒業し、卒業後はコロニーでたった二人しかいないと言われるS級パイロットになった」

 

ルナの胸に、思わず圧倒される感覚が走る。たった一人の天才の話を聞くのではなく、今、自分が無人島で一緒に生活しているリュウジのことを思い浮かべると、その才能と過去の重みが彼の冷たい口調の裏に隠れていることが、鮮明に伝わってくる。

 

カオルは湖面を見つめながら低い声で続ける。

「……俺は、あいつには勝てなかった。どれだけ努力しても、いつも一枚上手だった」

 

ルナの心臓が小さく跳ねる。無人島でのリュウジの行動を思い返す。仲間を導く姿、冷静沈着な判断、そして時折見せる優しさ――あれは、ただの性格ではなく、過去の並外れた実力と経験に裏打ちされたものだったのか、と理解する。

 

「……そうなんだ」

ルナは静かに頷く。言葉少なだが、心の中で理解が深まる。無人島生活の中で、仲間同士が互いを頼り、信頼を築く瞬間の一つを目の当たりにしたのだ。

 

カオルは再び湖面に目を落とす。月明かりと焚火の光だけが、二人の間に静かに流れる時間を照らしていた。

 

ルナはその静寂の中で、少しずつ、リュウジに対する胸のざわめきと、カオルの過去に思いを馳せる心情を整理しようとしていた。孤独を抱えながらも互いを認め合う、無言の信頼の輪郭が、目の前にあるかのように感じられた。

 

ルナは焚火の揺れる炎を見つめながら、そっと尋ねた。

「……じゃあ、カオルも……宇宙飛行士だったの?」

 

カオルは少し間を置き、湖面に反射する月光を見つめたまま、淡々と答える。

「いや……養成学校の生徒だっただけだ」

 

ルナは少し驚き、息を飲む。

「そう……だったのね……」

その声には、尊敬の気持ちと、今ここで一緒に無人島生活をしていることへの不思議な感覚が混じる。

 

カオルは肩を少しすくめ、続けた。

「でも、俺は……あそこで負けた。リュウジに。誰よりも努力したつもりだったが、あいつには勝てなかった」

 

ルナは視線を下げ、手元で小さく手を組む。

「……そうだったんだ……リュウジが、あんなにすごいのは……」

無人島での生活で見てきたリュウジの冷静さや技術の確かさが、今になって腑に落ちる。

 

「ルナ……」

カオルの声は小さく、焚火のパチパチという音にかき消されそうなほどだった。

 

「……どうしたの、?」

ルナの声は低く、しかし問いかける調子には優しさが混じっていた。

 

カオルは目を伏せたまま、重い口を開く。

「……話を、聞いてほしい」

 

ルナは黙って頷く。焚火の揺らめく光が、カオルの表情をわずかに照らす。普段は無表情で冷たい印象の彼の顔に、どこか緊張と後悔が入り混じっていることがわかった。

 

「俺は……その訓練学校で、人を……殺した」

 

言葉は低く、しかし確固たる重みを持って放たれた。ルナは一瞬息をのむ。無人島での過酷なサバイバルの中でも、これほどの影を落とす過去を聞かされることはなかった。

 

「リュウジが卒業したあと、勝てなかったやつが一人いた。名前は……ルイ。あの頃、訓練生は160人いたが、何度も脱落して、最後には10人しか残らなかった」

 

カオルの声には微かな震えが混じっていた。ルナはじっと彼の言葉に耳を傾ける。

 

「俺は……奴が苦手だった。涼しい顔で、カリキュラムを完璧にこなし、弱者への救済も忘れない。道徳心に満ち溢れたやつだった」

 

ルナは湖面に映る焚火の光を見つめながら、カオルの告白を受け止める。声は発せず、ただ耳を傾けていた。

 

「最終選抜の最終ミッションは、二人一組で行う訓練船の操縦だった。選ばれたのは俺とルイ。予定通りの航路を運航しているだけで、何も変わらなかった……はずだった」

 

カオルの言葉に一瞬の沈黙が訪れる。夜の湖畔に、焚火のパチパチという音だけが響いていた。

 

だが、突然船内のエマージェンシーコールがけたたましく鳴り響いた。耳元で教官の焦った声が飛び込む……『ダストチューブ、軌道と航路が交差している!これは訓練ではない!』

 

モニターを見ると、既に迫ってきていた。ダストの範囲からは逃れられない。操縦で避けるしかなかった。

 

ルナは思わず手を握りしめた。火の揺らめきがその手に影を落とす。

 

「ルイは自分が操縦すると言った。だが、この訓練での操縦士は俺だった。腕前は確かにルイの方が上だった。だが、実践では負けないと思った」

 

カオルは視線を遠くに向け、焚火を見つめる。

ルイも納得して、迫りくるダストの距離と角度を読み上げる。二人で回避を続け、ホッと一息ついた……その瞬間だった。レーダーにも映らない小さなダストが、宇宙船の上部を掠めた。

 

カオルの手が小さく震える。

「船内は激しく揺れ、警告音が鳴り響いた。天井に亀裂が入り、大きな穴が開いた」

 

ルナの胸が締め付けられる。彼女は思わずカオルの手をそっと握りそうになるのを抑えた。

その時の光景が目の前に浮かび上がった。

 

—――――

 

「まずい……」ルイの声。シートベルトを外して立ち上がると、体は軽々と持ち上がり、その穴に吸い寄せられていった。

 

 カオルはすぐさまシートベルトを外し、座席を掴みながら左手でルイの手を保持した。吸い込む力は強く、全力を振り絞るカオルの筋肉は限界に近かった。

 

「カオル!離せ!このままじゃお前まで死ぬ!」ルイが叫ぶ。

 

「……だ・・・・ま・・・・れ!」カオルはただその言葉を返す。力の限り振り絞り、ルイの手を離さず、しかし座席を掴む右手の力も限界だった。

 

ルイは覚悟を決め、静かに言った。

「カオル……僕の夢……君に託したぞ」

 

そして、何かを口にした後、ルイは自ら手を離した。宇宙船の隙間から無情にも宇宙空間へ投げ出されるルイを見て「ルイィ!!!!」とカオルは全力で叫んだ。

 

――――――

 

胸の奥からこみ上げる絶望と後悔、怒りと悲しみが全身を駆け巡る。彼は夜の湖面に向かってその声を投げたように、空気を震わせていた。

 

「学園では、俺がライバルを蹴落とすために、わざと手を離したって噂になっていた。言い訳も何もしたくなかった……俺は訓練学校を去ることにした」

 

ルナは小さく息を呑む。彼の肩越しに湖を見つめ、言葉を探した。

 

「……あいつは今でも、宇宙の中を彷徨っている。永遠にな」

 

その言葉にルナは震える唇を噛む。

 

「……あいつを殺した俺が、光の中に居ていいはずがない……」

 

ルナは静かに答える。

 

「カオル……あなたが殺したんじゃないわ」

 

カオルは目を伏せ、湖面に映る自分の顔を見つめた。

 

「……あの時、ルイが操縦していたら助かっていたかもしれない。俺のつまらない意地が、あいつを殺したんだ……」

 

ルナはそっと手を握り、柔らかく声をかける。

 

「でも、そのルイって子の手をわざと離したわけじゃないんでしょ?」

 

カオルの肩が少し震え、声が力を帯びる。

 

「……俺はそんな卑怯な真似は絶対にしない!」

 

次第に静かな声になり、震えが混じる。

 

「だが時々、どうしようもなく変なことが頭に浮かんでしまう……あの時、もっとしっかり掴んでいられなかったんだって……もしかしたら無意識のうちに手を緩めていたんじゃないかって……」

 

瞳には涙が溜まり、頬を伝う光が焚火の揺らめきに映る。ルナはその手を強く握り、彼の肩にそっと触れた。

 

「……カオル」

 

湖面に静寂が戻る中、ルナの声が温かく、しかし強く響いた。カオルは小さく息を吐き、初めて声を震わせずにはいられないほど、過去の重みを抱えたまま静かにうなずくのだった。

 

夜の湖面は焚火の橙色に揺れ、周囲の静寂が二人を包んでいた。ルナは少しだけ間を置き、重い空気を破るように口を開く。

 

「……一つだけ聞いていい?」

 

カオルはゆっくりと顔を上げ、ルナの瞳を見つめながら答えた。

 

「なんだ?」

 

ルナの声は震えていなかったが、胸の奥の感情が抑えきれずにこもっていた。

 

「ルイは……最後に、何て言ったの?」

 

カオルの瞳が一瞬、遠くを見るように泳ぐ。宇宙空間に投げ出されるあの瞬間、ルイが何を叫んでいたのか――その記憶は今もカオルの胸に重くのしかかっていた。

 

「さあな……今でも時折考えるが……」

 

ルナは小さく肩をすくめ、穏やかに言葉を続けた。

 

「もしかして……『生きろ』って言ったんじゃないかしら。私のお父さんは、最後にそう言って、私を助けるために死んでいったの……」

 

その瞬間、カオルの胸に何かが突き刺さった。瞳の奥に、あの時の船内の光景が鮮明に蘇る。

 

「……僕の夢……君に託したぞ……」

 

カオルの喉からこぼれた声は、無意識にルナの言葉と重なった。ルイが手を離した瞬間の、あの絶望と覚悟の叫び――そして、彼の最後の声。

 

そう言った瞬間、ルイは手を離した……そして、『生きろ!!』

 

カオルはハッと我に返り、震える唇を押さえながら湖面を見つめる。焚火の橙色が水面に映り、静かに揺れる。

 

「……ルイ」

 

小さく、しかし確かに呟いた。口元に浮かぶのは、重荷を少しだけ下ろしたような穏やかな表情だった。胸の奥で、あの時の苦しみと痛みが少しずつ溶けていく感覚があった。

 

ルナはそっとカオルの肩に手を置き、優しく言った。

 

「カオル……あなたは一人じゃない。私たちは、あなたの大事な仲間なんだから……」

 

その言葉に、湖面に映る自分の姿と焚火の光が重なり、カオルの心は静かに、しかし確かに前を向いた。深く息を吸い込み、彼は小さくうなずく。夜の風が二人の間を通り抜け、心の重みを少しずつ運んでいった。

 

ルナは立ち上がり、大いなる木の上へ戻ろうとしたその瞬間、カオルの低い声が背中をかすめた。

 

「お前ならきっと、リュウジも救うことが出来るのかもしれないな」

 

ルナは小さく微笑みながら振り返らずに答えた。

 

「……リュウジも、大切な仲間だもん」

 

カオルは一歩近づき、湖面に映る月明かりの中で静かに言葉を続ける。

 

「だがあいつは、俺よりもきっと深い闇を抱えている。あのフライトでいったい何があったのかは、俺も知らない」

 

ルナは少し息を吸い込み、胸の奥で感じる複雑な思いを噛み締めながらも、力強く答えた。

 

「……私は諦めたりしないよ……」

 

カオルは頷き、穏やかだが覚悟の籠った声で最後に告げた。

 

「頼んだぞ、ルナ」

 

ルナはその言葉を胸に刻み、大いなる木へ向かって歩き出した。背中を押す月明かりの中、仲間たちを信じる決意が静かに、しかし確かに彼女の内側で燃え上がっていた。

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