サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第50話

翌日、壮行会は昨夜の人工雨とは変わり、澄んだ景色となっている。

 

リュウジは黒のスーツに紺のネクタイ。鏡の前で結び目を一度整え、深呼吸してドアを開ける。エントランス前にはハワードの送迎車――低く唸る電磁モーターの黒いセダンが待っていた。

 

「おっそーい! 主役級の顔なんだから、もうちょい早く来いよ」

ドアを開けたハワードが白い歯を見せる。後部座席からベルが軽く手を上げ、助手席のシンゴはカメラをいじっている。カオルは窓にもたれて、ネクタイの結び目を指で弾いた。

 

「主役はブライアンだろ」

そう言ってリュウジが滑り込むと、車内に革と新しい香水の匂いがふわりと広がった。

 

「女子チームは?」

シンゴがミラー越しに訊く。

 

「ドレスはメノリから借りるんだと。現地集合」

カオルが短く返す。

 

ハワードの車はロカでも名の通ったホテルの光の塔へ滑り込む。車寄せには連邦旗と宇宙管理局の紋章。それに複数財閥の章が並ぶ。雨粒を払うポーター、燕尾服のドアマン、正装のゲスト。光がきらめき、空調がやわらかい。

 

「最上階だってよ。」

ハワードは胸を張ると、ゲスト用のホログラム受付にICをかざした。四人の名前が淡い青で浮かび、チケット認証の鐘が控えめに鳴る。

 

専用エレベーター。壁面は黒曜石のような光沢で、天井には小さな星が散らばる。上昇とともに、足元から低い振動。シンゴが「うわ、加速度制御が滑らか……」と技術屋の顔になる。

 

「緊張してるか?」

カオルがぽつりと訊く。

 

「いつも通りだ」

リュウジは嘘は混ぜずに答えた。胸の奥に残るざらつきは、昨日の昼間の会話と同じ形でそこにある。それでも――ルナに灯された小さな灯りは消えずにいた。

 

扉が開く。最上階は巨大な吹き抜けのバンケット。クリスタルのシャンデリアが滝のように降り、壁一面のガラスには、ロカの夜景が舗道の光ごと抱き取られている。

 

受付で名札を受け取る。白地に「来賓:ソリア学園」

 

エントランスで名札を受け取っていると、背後でエレベーターの到着音が高く澄んだ。

扉が左右に開き、まずメノリ――深いボルドーのドレスが静かな炎のように揺れ、まとめ上げた髪に光が縁取る。続いてシャアラは淡いミントのロング、歩くたびに葉脈のようなドレープが軽やかに波打つ。そして――

 

紺の流れるドレスに、オフホワイトのショールをはらりとかけたルナ。胸元の三日月が星のようにきらりと瞬き、視線のいく先に小さな灯をともす。

 

「……綺麗だ……」

思わず漏れたベルの声に、ハワードも目を丸くしたまま「本当だよな……」と素直に続く。

 

「お待たせ」

ルナがリュウジへ優しく微笑む。

 

「……ああ。よく似合ってるな」

一瞬、言葉を失いかけた自分に苦笑しつつ、リュウジはすぐ口を開いた。

 

「ありがとう」

ルナの頬に、ほんのり色が差す。

 

会場はすでに人の海――宇宙管理局の紺の礼装、宇宙連邦連盟の赤い徽章、ロカA2の財閥シグネット、連邦議員のバッジが光の粒になって流れていく。その雑踏を縫って、小さな影がこちらへまっすぐ駆けてきた。

 

「リュウジ!」

止まる勢いのまま、少し背の届かない抱擁が腰に飛びつく。

見下ろすと、ぱっと花開く笑顔。

 

「ユイか! 久しぶりだな」

リュウジは軽々と抱き上げる。ユイはくすぐったそうに笑い、腕を首に回した。

 

「え、誰?」とシンゴ、ベルも「可愛い……」と目を丸くし、ハワードとカオルも珍しく言葉が出てこない。

 

「みんな、久しぶり。」「やっほー」

大人びた香りと共に、エリンとペルシアが歩いてくる。エリンは落ち着いたネイビーのミディドレス、ペルシアはモードなブラックに細い金のアクセント。二人が並ぶと、近くの照明が一段明るくなった気がする。

 

エリンとペルシアの姿にハワードもカオルもシンゴもベルも目が釘付けなっていた。

 

「……まったく男ってやつは」

メノリが呆れ顔で小声。

「本当」

シャアラはむっと頬を膨らませ、腕を組んだ。

 

「どうしてユイがいるんだ?」

リュウジはユイを抱っこしたまま、首を傾げる。

 

「タツヤ班長がね、今日は旅行会社のアルバイトでフライトなんだって」

ペルシアが肩をすくめる。

 

「だから、私が連れてきちゃった」

エリンが悪戯っぽく微笑んだ。

 

「へぇ~。タツヤ班長もドルトムント、辞めたんでしたっけ?」

リュウジが訊く。

 

「ええ。今は民間の旅行会社でアルバイト。次の航路が決まるまでのつなぎ、だそうよ」

エリンの説明に、ペルシアが「でも接客は案外向いてるのよ、あの人」と肩で笑う。

 

ルナはそっと近づき、ユイの髪を指で梳いた。

「ユイちゃん、よろしくね」

 

「うんっ! おねえちゃん、きれい!」

ユイが満面の笑みで答え、胸の三日月を指さして「おほしさまだ~」と囁く。

 

三日月が、もう一度だけ柔らかく光った。

人の波、音の波、その真ん中で、輪の中心が自然に出来上がる。

リュウジはユイを下ろして手を繋ぎ、視線を上げた。遠くでブライアンの白銀の礼装がこちらを横目に掠める。――この夜は、まだ始まったばかりだ。

 

「さて、ユイ。——終わりだ」

リュウジがそっと床へ降ろすと、ユイは名残惜しそうに頬をふくらませた。

「ええー、もっとー」

 

「じゃあ、ユイちゃん。お姉ちゃんと一緒にいようか」

ルナが目線を合わせて微笑む。

「うん! お姉ちゃんといる」

小さな指が、ルナの手をきゅっと握った。

 

「……なんか、アダム思い出すね」シャアラがくすっと笑う。

「私も思った」メノリも同じように口元をゆるめた。

 

「さて、と。私は面倒くさいけど挨拶回りに行ってくるかな」

ペルシアが背中を伸ばしながら肩を回す。

「“面倒くさい”は余計でしょ」エリンが呆れたように小突いた。「私もドルトムント時代にお世話になった方々へ挨拶に行くけど……どうする?」

視線は自然にリュウジへ。

 

「俺も行きます」

リュウジは頷き、ユイの頭を軽く撫でた。「ちゃんとルナの言うこと、聞くんだぞ」

「うん!」ユイは元気よく返事をして、握る手に力をこめた。

 

「それじゃあ、私はお父様に合流してくる」メノリが会釈し、

「僕もパパのところへ」ハワードも片手を上げる。

二人は人波の向こうへ消えていった。

 

――そのとき。

会場中央、段差の上にスポットが落ちる。白銀の礼装、S級パイロット章が光を返し、空気がすっと引き締まった。ブライアンが正面に立つ。

 

「諸君」

短い導入。重く澄んだ声が、広間を一度で掴む。

「我々は明日、“西の未探索領域”へ向かう。目的は、未知の資源と回廊の探索、そして——帰る道を、次の世代に増やすことだ」

 

ひと呼吸。誰もがわずかに姿勢を正す。

「航路は危険だ。だが、危険の向こうにしか見えない景色がある。だからこそ行く。私個人としては……」

ほんの一瞬、視線がこちらへ流れ、ブライアンは口元に一筋の笑みを置いた。

「この場に“帰ってきた”若い仲間がいることを、誇りに思う」

 

拍手が波のように広がった。祝意と敬意が混じる音の層が、会場を一巡する。

ブライアンはグラスを掲げる。

「壮行の杯だ。——行ってくる。必ず帰る。その間、ここは託す」

「乾杯!」

 

澄んだクリスタルの音が重なり、泡の香りが弾ける。ブライアンは壇を降り、来賓の列へ。握手は淡々、しかし一人ひとりの目を外さない。

 

「行こっか」エリンがリュウジに小さく合図し、ペルシアも軽くウインクをよこす。

「ユイちゃん、こっち座ろ。ジュース取ってくるね」

ルナがユイを導き、シャアラがその横でナフキンを整える。

ベルは人垣の切れ目を見極め、カオルはさりげなく周囲の動線を確保する——サヴァイヴ仕込みの“気づいて支える”動きが、何も言わずに全員へ伝わっていく。

 

リュウジは一度だけ振り返った。

三日月の灯りが、紺のドレスの胸元で小さく揺れる。

——任せた。

目が合う。ルナは「うん」と唇だけで答え、ユイの手をもう一度握り直した。

 

人の海へ踏み出すリュウジの肩越しに、乾杯の残響がまだ微かに漂っていた。

 

ーーーー

 

ルナはユイと並んで椅子に腰を下ろし、グラスの縁に曇りをつくるオレンジジュースを一口ふくんだ。人工の夜景が窓ガラスに沈み、会場のシャンデリアが泡の粒に映り込む。

 

「ねえ、ルナお姉ちゃんはリュウジのこと好き?」

ユイが嬉しそうに身を乗り出す。目はまっすぐだ。

 

ルナはふっと表情をやわらげた。「ええ。——大好きだよ」

「じゃあ、ライバルだね!」

「ふふっ。負けないわよ」ルナはユイの髪をそっと撫でた。

 

そこへシャアラがやって来て、「ユイ、ベルと一緒にお料理取りに行こ」と手を差し出す。

「うん!」ユイは椅子を降り、ベルとシャアラに挟まれて人の波へ消えた。

カオルは少し離れた展示ブースで、シンゴと航路図や試験機材をのぞき込んでいる。

 

ルナの視線は、いつの間にか遠くのリュウジを追っていた。黒のスーツに細いネクタイ。挨拶のたびに軽く会釈し、相手の目線に合わせて立ち位置を半歩整える——いつもの無駄のない所作。けれど、その頬の陰影に、少しだけ疲れの色が混ざって見えた。

 

「——隣、いいかな?」

穏やかな男の声。ルナが振り向くと、節度ある礼装の男が立っていた。

「あ、はい」

椅子の隣を示すと、男は一拍置いて会釈する。

 

「初めまして。ステファン・レヴィンと申します」

その名に、ルナの背筋がわずかに伸びた。

「……初めまして。ルナです」

深く頭を下げる。

 

ステファンはグラスをテーブルに戻し、改めてルナへ正面から向き直った。

「本当は——君と話してみたかったのです。彼のことも、あの“フライト”のことも。私は彼に申し訳ないと思っています」

 

言葉を区切るたび、男の喉ぼとけがわずかに上下する。周囲のざわめきの中で、その誠実な揺れだけがくっきり浮いた。

 

「彼に相談もせず、私は真実を公にしました。……彼は、どう思っているでしょうか?」

問いというより、自罰に近い自問だった。

 

ルナはすぐには答えず、短く息を整える。「分かりません」静かな声。

「ただ——もし相談されていたら、彼は“話すこと”を止めたと思います」

 

ステファンの瞳がわずかに細くなる。「本来は、彼が望む形を尊重すべきだった。理屈では分かっているのです」

そして、ほんの一拍置き、苦い微笑みを沈めた。

「それでも私は、君の言葉に背中を押され、会見を開くことを選んだ。……謝罪と感謝が、奇妙に同じ場所にある」

 

ルナは視線を落とさずに頷く。「知っています。私も、ステファンさんも——“カラスさん”の掌の上で転がされていました」

 

「……カラスが?」ステファンが眉を寄せる。

 

「はい。私の発言がステファンさんを動かす、という確信があの人にはあったみたいです。彼は、リュウジが“自分から公表するつもりはない”って見抜いて、だからこそ、私たちをそういう位置に置いたんだと思います」

 

ステファンは顎に手を当て、短く思案の間を作る。「金儲けのため、という説明で足りるでしょうか」

 

ルナは首を振る。ふっと柔らかな笑みが浮かんだ。

「たぶん、違います。お金は手段でしょうけど、カラスさん自身は……リュウジの名誉を守りたかったんだと思います。あの人のやり方は、決して綺麗じゃないけれど」

 

「名誉を……守るために、あえて世間に晒す」ステファンが低く繰り返し、苦味のある納得が表情に落ちる。「皮肉ですね」

 

「ええ」ルナはうなずき、ほんの少しだけ肩の力を抜く。「でも、カラスさんらしいとも思います」

 

ステファンはグラスの縁を指でなぞり、視線を遠くの群衆へ流した。そこではリュウジが来賓と握手を交わし、淡い笑みで会釈している。

「君は——公表したことを、どう受け止めていますか?」

 

問われて、ルナの指が膝の上で小さく重なった。

「……分かりません」言い切るまでに、少し時間が要った。

「正直、嬉しかった。彼の取った行動が“間違っていなかった”って、ちゃんと理解されたことは。彼が一身に背負わされた汚名が、少しでも剝がれ落ちたのなら」

言葉をそこで一度切り、胸の奥を確かめるように続ける。

「でも同時に、複雑です。彼が望まなかった形で、物事が動いた。彼が“沈黙”という代償で守ろうとしたものを、私たちは別のやり方で守ってしまった。……そこに、迷いが残っています」

 

ステファンは正面からその迷いを受け止め、短く頭を下げた。

「あなたの迷いは、真っ当です。私にも同じ重さの迷いがある。だからこそ、せめて今後の選択は——彼と、その隣に立つ人の意志に、できる限り沿うべきだと考えています」

 

ルナは胸元の三日月に触れた。冷たさがすぐに体温に溶ける。

「ありがとうございます。……彼は、きっと終わらせたいだけなんです。誰も傷つけない形で」

 

「ええ」ステファンは穏やかに頷き、声を落とす。

「君の言葉は人を動かす。今日の私がそうであるように。どうか、彼の隣で——“前”を向く人でいてください」

 

「なります。なってみせます」ルナの声は静かだが、芯があった。

 

そこへ、ユイが両手に小皿を抱えて戻ってくる。「ケーキ、チョコとベリー! どっちが好き?」

「どっちも好き」とルナが笑い、ユイの皿に自分のフォークをコツンと当てた音が、小さく弾けた。

 

ステファンは二人のやり取りを目で追い、微かな安堵を滲ませて立ち上がる。

「長く引き止めました。——明日、彼らを見送ります。私は私の責任の範囲で、必ず“次”を正します」

 

「お願いします」ルナが頭を下げると、ステファンは会釈を返し、人の波へ溶けていった。

 

残された席に、賑わいと音楽が戻る。ルナはユイにベリーをひとつ譲ってもらい、口に含む。甘さの奥に、ほんの少しの酸味。

——終わりじゃない。

視線の先、リュウジが別の来賓と握手を交わし、その目がほんの一瞬こちらに触れた。ルナは小さく頷き、ユイの笑顔をそのまま受け止めた

 

ーーーー

 

ルナとシャアラとベルとユイはブライアンが待っていると声をかけられて、案内役に導かれて別室へ向かうと、途中でカオル、シンゴ、メノリ、ハワードも合流した。ドアが開いた瞬間、甘い香水とシャンパンの泡の匂いがまとまって押し寄せる。

ソファにはブライアン。両脇にイブニングドレスの女性が肩を寄せ合い、照明はわずかに落とされ、窓外の夜景がガラスに滲んでいた。

 

「よく来た!」ブライアンが白い歯を見せた。

 

すぐに、エリンとペルシアも入室。二人は同時に呆れ顔になる。

「……子どもの前で何をやってるのよ」

ペルシアの声は冷たい。

エリンは無言でユイを抱き上げ、肩に顔を寄せさせる。「ユイ、こっち。あっちは見ないでね」

 

メノリが鋭い視線を送った。

「はしたない」

ブライアンは肩をすくめ、グラスをくゆらせる。「俺たちは明日から長期任務。堅苦しい宴会ばかりじゃ息が詰まる。——S級は、緊張と孤独の代償として“成人同士の交際”の自由も広く認められてる」

 

シャアラが恐る恐る手を挙げた。

「ほんとうに、そういう“特例”があるんですか?」

 

エリンは溜息。「法的にはね。才能の継承とか名目は色々。でも個人的には賛成しかねるわ」

 

ブライアンが茶化す。

「アズベルト先生なんて後継が十人以上いるぞ。どうだ、ペルシア、エリン。お前たちも——」

「誰があなたの話に乗るものですか」

ペルシアはゴミでも見るような目を向ける。——が、ちらりとルナを見て口角を上げた。「でも、リュウジなら……まぁ、別に、ね」

 

「ええっ!?」ルナの声が裏返る。

「冗談よ」ペルシアは肩を竦めた。

 

「それで、俺たちを呼んだ理由は何なんですか」

カオルが本題を引き戻す。

 

ブライアンは手を叩き、隣の女性たちを目線で下がらせた。部屋の空気が一段落ち着く。

「この場に“帰ってきた”若い連中の“夢”を聞きたかった。それだけだ」彼は顎でハワードを指す。「まず、お前から」

 

「夢? うーん、僕はまだ考え中かな」ハワードは頭を掻く。

「私は連邦議員を目指している。いつか“サヴァイヴ”との国交を樹立するわ」メノリが静かに言う。

「私は小説家。サヴァイヴでの冒険を書きたいの」シャアラは目を輝かせた。

「俺は惑星開拓の技師になる。必ず形にする」ベルの声は芯が太い。

「僕は“宇宙一”のメカニックに。どんな艦でも直す」シンゴは拳を握る。

「俺は宇宙飛行士だ。友に託された夢を叶える。それから——サヴァイヴまで操縦する」カオルの言葉は短く、重い。

「私は惑星開拓技師になります。そして、地球をまた人が住める環境に戻す」ルナがまっすぐ告げる。胸元の三日月が小さく光った。

 

「若いっていいわね」

ペルシアがうんうんと頷く。

ブライアンは腕を組み、視線をカオルへ固定した。

「さっき“サヴァイヴまで操縦”と言ったな。お前がリュウジの言っていた訓練生か。——未知の領域だ。S級にでもなるつもりか?」

 

「そこまでは考えていない。俺は“あいつの隣”に立てればいい」

カオルは力強く返す。

 

「なら聞く。お前の“宇宙飛行士としての力”は何だ?」

ブライアンの声が硬質に変わる。

 

「力……?」

カオルがわずかに首を傾げる。

 

エリンが柔らかく補う。

「S級パイロットは、みんな“自分だけの力”を持っているの。操縦の癖や技量という枠を超えた、核みたいなもの」

 

ペルシアが指を一本立てる。

「最初のS級、アズベルトは“演算能力”。飛行パターンを瞬時に何百通りも評価して最適を選び続ける。“守り”の天才ね」

 

ブライアンが自分を顎でさす。

「俺は“力”。どんな航路でも、必要ならこじ開ける判断と胆力。いわば“攻め”の型だ」

 

彼は視線を床へ落とし、すぐ上げる。

「そしてリュウジは——圧倒的な“操縦技術”。宇宙船そのものを自分の四肢みたいに使う。機体の限界と意思を一致させる」

ペルシアが続ける。「それに、アズベルトに劣らぬ演算も持ってる」

エリンも頷く。「判断も決断も速い。ブライアンさんのような突破力もある。攻と守、二面性を高い次元で併せ持っているわ」

 

ブライアンは結論を置くように言った。

「だから、あいつは英雄だ。——で、“あいつの隣”に立ちたいなら、まずは自分の力を知れ。何をもって攻め、何をもって守るのか。自分で言葉にして、鍛えろ」

 

カオルの表情は揺れない。驚きもしない。まっすぐな目で受け止め、短く答える。

「覚悟の上だ。俺の力はこれから自分で掴む。掴んで、磨く」

 

数秒の静寂——次いで、ブライアンの笑い声が別室に広がった。からかいではない、腹の底からの愉快さ。

「いい。楽しみにしてる。弱音はここで吐け。だが、宇宙では一滴もこぼすな」

 

「心得てる」カオルが頷く。

 

ブライアンは時計を見やり、手を叩く。

「よし、夢は聞いた。言葉は種だ。蒔いたなら、育てろ。明日、俺は行く。帰ってくる。そのとき“芽”の報告を聞かせてくれ」

 

そして、ブライアンがカオルの背に一言だけ落とす。

「——“自分の力”、見つけたら最初に俺に言え。テストしてやる」

 

「望むところだ」カオルは振り返らずに答えた。

 

そして再び、ドアが開き、濡れた夜気の名残をまとったリュウジが入ってきた。

「……なんだ、全員いるのか」

部屋をひと巡り見渡してから、視線をブライアンへ。

「それで、俺に話って何なんだ?」

 

ブライアンは背を離し、まっすぐ問いを投げる。

「リュウジパイロット。お前なら“探査チーム”に誰を選ぶ?」

「探査チーム?」リュウジが首を傾げる。「選ぶも何も、宇宙管理局が割り当てるだろ」

「そうじゃない」ブライアンの声音が硬くなる。「“お前なら”誰を選ぶのか、知りたい」

 

短い間。リュウジは息を整え、肩をわずかに落とした。

「……条件は?」

ブライアンが指を折る。「副操縦士、救護、通信システム、コックピット・コンディション、システムエンジニア——この五つでどうだ」

 

「了解」リュウジは順に切り分けていく口調に変わった。

 

「副操縦士は、タツヤ班長。物事を冷静に見られる。危機察知が突出してる。生死を賭ける任務なら、最終判断の“引き戻し役”が必要だ」

「救護は、クリスタル。他に“あのレベルで”救護できる人間を俺は知らない。負傷だけじゃない、宇宙病・隔離手順・心理ケアまで現場で回せる」

 

「通信システムは、ペルシア」

「まあ、うれしいじゃない」とペルシアが冗談めかして片手を振る。

リュウジは続ける。「耳がいい。声のトーンから状態を読む。交信を“繋ぎっぱなし”にするでも“切る”でもなく、必要な呼気だけ残して隊の意識を保てる人間だ」

 

「コックピット・コンディションは、エリンさん」

エリンが目を細めて頷く。

「航行時間を一番、俺と共有してる。疲労・水分・糖分・室温・照度、そして“言葉”でパイロットの状態を戻せる。たった一言で同調を作れる人だ」

 

「最後。システムエンジニアは——チャコ」

「チャコ?」ブライアンが眉を上げる。

エリンが補足した。「ルナのロボットペット。ピンクの猫型」

「記者会見の時の……」ブライアンは思い出したように頷く。

 

リュウジは一歩だけ踏み出す。

「旧式だが優秀だ。ネフェリスの時も、俺の操縦に“追従”して、船側の癖を補正してくれた。現場で“足りないもの”を継ぎ足せるやつは強い」

 

ブライアンは目を伏せ、数拍だけ沈思した。

室内は静まる。氷がグラスの底で微かに鳴る。

 

やがて彼は目を開け、短く笑った。

「——わかった。ありがとう」

 

「構わない」リュウジは軽く頷き、視線をみんなに流す。「それより、戻っていいか?」

 

「待て」ブライアンが片手を上げる。だが声は柔らいでいた。

「今のは“頭の中”じゃなく“現場の目”の答えだ。……欲しいのは、そういう答えだ」

 

「そうか」リュウジは肩の力を抜いた。

 

横でカオルがわずかに拳を握り、そして開く。悔しさではなく、納得の色が濃い。

(危機の場で“引き戻す”副操縦士——今の俺は、そこへ届いていない)

自分にだけ聞こえる声で、彼は覚悟を新しくした。

 

ーーーー

 

次の日、ブライアンはソーラ・デッラ・ルーナから、西の未探索領域に向けて飛び立っていった。

その姿を見送ることなく、リュウジは自分のやるべきことをこなしていた。悲劇のフライトで命を落とした仲間たちの墓参りを終え、ひとり静かな時間を過ごした。

 

墓地の一角で手を合わせる。無言のままで、ただひたすらに、心の中でひとつひとつの名前を呼びながら。

すべてが終わったように思えた。――これで、もう、何もかも終わりだ。自分にできることはやり切った。しかし、胸の内は晴れない。

心にまだ小さな雲がかかっているような、そんな感覚がぬぐいきれなかった。

 

翌日からは、再び学園に登校しなければならない。手続きも残っているし、他にも片付けるべきことが山積みだ。いつもより早く家を出て、歩いてソリア学園に向かう。

 

通学路、通いなれた道。歩くたびに、懐かしさと、どこか無力感が胸にこみ上げる。

しばらく歩いていると、前からひとりの姿が見えてきた。

 

「おはよう、リュウジ」

声をかけてきたのは、メノリだ。

 

「おはよう」

リュウジは微笑んで返した。

 

メノリは肩にかけたバッグをちょっと引き寄せ、リュウジの隣に並んで歩き始める。

朝の涼しい空気が、ほんの少しだけ会話を和らげてくれる。

 

今日は随分早いんだな。何か用事でもあるのか?」

リュウジが不意に尋ねると、メノリは少し考えるように眉をひそめながら答えた。

 

「私はいつもこの時間だ。私は生徒会長と風紀委員長もやってるから、朝のうちにいろいろとやらなきゃいけないことがあるんだ。」

メノリはさっと肩をすくめ、少し照れたように笑った。

 

「生徒会長に風紀委員長だったのか・・・」

リュウジが目を見開いて驚くと、メノリは少し照れくさそうに笑って答えた。

「そんなに驚くことか?まあ、学園内では知らないのはお前くらいだろうな」

 

リュウジはすぐに顔をしかめて、あたりを見渡す。

「あはは……あの頃の俺は周りには関心がなかったからな」

リュウジは素直にその言葉を口にする。メノリはしっかりと学園で活躍しているんだと改めて気づく。

 

「まあ、そんなに大したことはない。やるべき事をやっているたけだ。でも、それなりに大変だがな」

メノリは軽く笑って、そんなことはないと話しながらも、きっと色々な責任をしっかりと果たしてきたのだろうと感じた。

 

「大変そうだな。でも、いつも真剣にやってるから、誰も文句は言わないんだろ?」

リュウジが言った言葉に、メノリは軽く頷く。

 

「言わないのか、言えないのかは知らないがな」

メノリは冗談ぽく微笑んだ。

 

「それでもお前はすごいよ。――何かしら、やり遂げる力があるんだろうな」

リュウジは、メノリを見てその表情に静かな敬意を込めて言った。

 

「やり遂げる……か」

メノリは一瞬考え込み、そしてふっと微笑んだ。

「お前に褒められると違和感があるな」

 

二人はそのまま、学園へ向かって歩き続けた。朝の静けさに包まれた通学路は、心に少しの余裕を与えてくれる。

リュウジの背中が少しだけ軽く感じられた。

 

ーーーー

 

職員室の片隅、スペンサー先生が端末に入力してから顔を上げた。

「最後に——ここ、認印が要る。手続き上の決まりだ」

 

「印鑑?」リュウジは思わず聞き返す。

 

「そうだ。電子署名で済む部分もあるが、学園規程は古いところが残っていてな。職員証を仮発行する間だけ、特例で外出許可を出す。直帰せず戻ってこい」

 

「了解。すぐ取ってくる」

 

外出許可のタグを受け取り、職員室を出たところで、ちょうどベルと鉢合わせた。

「リュウジ」

 

「おう」

 

「手続き?」ベルの大きな影が廊下の光を遮る。

 

「ああ、ハンコが必要でな。家に取りに行ってくる」

 

「……気をつけて」

 

「——ああ」

 

短い言葉を交わして別れる。ベルは一度だけ親指を立てて見せ、教室の方へ戻っていった。

 

階段を降りる間、すれ違う生徒たちの視線が、薄い波のようにまとわりつく。囁き声、控えめな会釈、遠巻きの好奇。リュウジは正面だけを見て歩いた。——見られることには慣れているつもりだったが、学園の空気は、少しだけ違う重さを持っている。

 

昇降口を抜け、コロニーの光に身を晒す。エアタクシーで自宅棟まで移動し、ドアを開けると、冷えた室内に自分の匂いが薄く溜まっていた。

 

「……どこだったか」

 

靴を脱ぎながら棚を順に開ける。工具、航行データ、古いメモ帳——その間に小さな木箱。蓋を指で弾くと、黒い朱肉と銀の印鑑がきちんと並んでいる。

〈リュウジ〉の彫り。サヴァイヴから戻って、初めて触る気がした。

 

ポケットに収め、ふと窓ガラスを覗き込む。外の明るさを受けたガラスが、ゆるい鏡になる。映る自分の髪が、前よりわずかに額へ落ちていた。

 

「……伸びたな」

 

指で前髪を払う。刈り込んだ襟足も、形が崩れている。視線が自然に、部屋の隅のジャケットへ滑った。ルナに「似合ってる」と小さく言ったときの、あの間(ま)。——喉の奥が、少しだけ軽くなる。

 

「切っていくか」

 

印鑑、外出許可のタグ、端末。確認を三つ。ドアのロックが軽く鳴る。廊下に出ると、人工の秋風が低く流れていた。エレベーターの鏡面にもう一度だけ目をやり、リュウジは静かに歩き出した。学園へ戻る前に、いつものコロニーのヘアサロン——青いシザーのホログラムが回る店へ向かうために。

 

ーーーー

 

店の鏡に映る自分を、リュウジは数秒だけ見た。

 耳のまわりはきれいに刈り上げ、前髪は視界にかからない長さで軽く上げる。襟足のラインも整って、首筋に風が通るのがわかる。

 

「——お願いします」

 

 最後にスタイリストがドライヤーで流れを整え、「似合うよ、若いのに雰囲気があるね」と笑った。会計を済ませて自動ドアを出ると、コロニーの人工昼光が髪の艶をさらりと撫でていく。歩道を行き交う制服や作業着の肩、天井植栽の葉影、遠くで鳴るリニアの音。どれも見慣れた景色なのに、視界の縁がほんの少しだけ鮮明だった。

 

 角を曲がったところで、小さな影が正面から突進してくる。

 

「——おっ?」

 

「……あっ、リュウジやないか!」

 

 チャコだ。小さな前足で抱えるのは、紺色の保温バッグ。肩にポシェット、首には何故か“極選”の紙パックがぶら下がっている(どこで買ったのかは聞かないことにした)。

 

「なんや、えらいええ顔になってる思たら……髪、切ったんやな?」

 

「まあな。さっぱりした」

 

 チャコはきゅっと目を細め、ぐるりと一周見てから、満足げに頷いた。

 

「似合うとる。めっちゃ似合うとるわ。——ルナ、惚れ直すで」

 

「……そうか?」

 

「そうや。ウチの推定やと、頬の紅潮度+12%、瞳孔開度+0.2ミリや」

 

「数字で言うな」

 

 思わず笑うと、チャコも「ふふん」と鼻を鳴らした。

「ま、立ち話もなんやし、そこの喫茶、入ろか?」

 

 ガラス越しに見える、古いレコードジャケットが壁に並ぶ喫茶店。二人は扉を押して、中の柔らかな照明に包まれた。カウンターの焙煎機からは、浅煎りの明るい香り。四人がけのテーブルに向かい合って座る。

 

「ご注文は?」

 

「ホットコーヒーを」

 

「ウチは……ホットミルクに、はちみつちょびっと」

 

 店員が去るのを待って、チャコが保温バッグをぽすんと卓上に置いた。

 

「で、どこ行くところだった?」

 

「ルナの弁当、届けるんや」

 

「弁当?」

 

「せや。今朝、慌ててな。玄関に忘れていきおった。気ぃついたのがついさっきでな。ウチが持ってったる思てんけど——」

 

 チャコはそこでリュウジの額に視線をあげ、にやりと笑った。

 

「渡す相手、誰が持ってったら一番喜ぶと思う?」

 

「……俺か」

 

「正解や」

 

 ちょうどコーヒーとミルクが届く。湯気の向こうでチャコは前足を組み、教師のような顔をした。

 

「それにな、手続き戻るんやろ。ついでや。届けてえな」

 

「分かった」

 

 リュウジはカップを両手で包み、ひと口。舌に落ちる苦味が、ほどけて甘くなる。

 

「中身はなんだ?」

 

「ええ質問や。——本日の“ルナ特製は、おにぎり二種(鮭フレークと昆布)、出汁巻き、ブロッコリーのナムル、ミニトマト、りんご。スープボトルに根菜コンソメも付属。栄養価バランスA判定」

 

「豪華だな」

 

「うむ。愛情指数は偏差値72や」

 

「また数字で言う」

 

「事実やもん」

 

 ミルクを一口すすったチャコが、ふっと真顔になる。

 

「——さっきの『惚れ直す』は冗談半分やけどな。ホンマの半分は、“戻ってきとる顔”に見えたから言うたんや」

 

 リュウジはカップを受け皿に戻し、チャコの目を見た。

 小さな瞳なのに、正面から射抜く強さがある。

 

「戻ってきてる?」

 

「ウチに分かるで。ルナもな、今はよう笑う。——せやけどたまに、ふっと窓んとこで遠い顔もする。あの子の“遠く”に、今、リュウジもおるんやったら……それでええ」

 

「……ああ」

 

「せやから、弁当、頼んだで。渡すとき、ちゃんと『いただきます』言わせること。スープはフタ、最後までしっかり締めること。こぼすからな」

 

「了解」

 

「それから。ルナに“無理すんな”って言うんやなく、“無理させない”顔でおってや」

 

 返す言葉を探すより早く、チャコはにやっと笑い、軽口に戻した。

 

「ついでに言うと、配達料は極選一本や」

 

「店に置いてないだろ」

 

「せやな。ほな、気持ちでええわ」

 

 二人で小さく笑い合う。時計を見ると、戻るにはちょうどいい時刻だ。リュウジは会計を済ませ、保温バッグの持ち手をきゅっと握る。

 

「学園まで直行する。スペンサー先生に顔を出してから、持っていく」

 

「ほな、ウチは別件の買い出し行ってくるわ。——あ、最後に」

 

 チャコは椅子からぴょんと降り、リュウジの足元から見上げた。

 

「さっきも言うたけど、似合うてるで。その髪。前を見る顔になっとる」

 

「……ありがとう」

 

「ええて」

 

 喫茶店のドアがチリンと鳴る。外気が頬に触れる。軽くなった後頭部に、人工の秋風がさらりと当たった。

 右手には印鑑、左手には弁当。足取りは自然と、学園へ続く動線に乗っていく。

 

 ——届けよう。間に合ううちに。

 

 そんな小さな決意が、切ったばかりの前髪の向こうで、静かに光った。

 

ーーーー

 

職員室での書類提出を終え、判子の押印欄にすべて朱が並んだのを確認してから、リュウジは保温バッグを片手に教室の扉の前で一度だけ息を整えた。

 ノック、スライド。静かに開いた扉の向こうへ、短く頭を下げる。

 

「失礼します」

 

「リュウジくん、遅かっ——」

 

 黒板の前にいたスペンサーの声が、そこまでで止まった。

 タブレットを操作するペンが細く宙にほどけ、教室中の視線が一斉にこちらへ向かう。空気の向きが変わる音が、たしかにした。

 

 リュウジは特に気にも留めず、いつもと変わらない歩幅で通路をまっすぐ進んだ。シャアラの隣、——ルナの机の前で足を止め、手に持っていた保温バッグをそっと置く。

 

「——弁当だ」

 

 それだけ告げる。

「……う、うん、ありがとう」

 上の空の返事。けれどルナの瞳は上の空どころか、まっすぐリュウジの顔に吸い寄せられていた。結った髪から外れた前髪のライン、襟足、額に落ちる新しい影。三日月のネックレスが小さく震え、「私」の胸元で星みたいに光る。

 

 ルナの隣でシャアラが小さく息を呑み、机の下でルナの膝をこつんとつつく。——見すぎ。

 ルナは慌てて目線を落とし、保温バッグの取っ手を抱きとめるみたいに両手で握った。

 

 リュウジはそのまま列を折れ、最後列——カオルの真後ろの席に腰を下ろした。肘をつき、頬杖。視界の外でざわめきが一段高くなる。

 

「……髪、切ったのか?」

 

 前の椅子がわずかにきしみ、カオルが振り返る。

「ああ。伸びてたからな」

 

 短いやり取り。カオルは「そうか」とだけ言って前を向いたが、口角がほんの少しだけ上がっていた。

 

 通路の反対側で、服の袖を寄せ合った女子たちが、声を潜めるには無理のある音量で囁きを交わす。

 

「ちょ、見た?」「髪——」「やば……かっこいい……」「前より大人っぽい……」

 

 いつもなら「静かにしろ」とメノリの低い一喝が飛ぶはずだった。だが今日に限って、メノリは席に座ったまま、目を見開いてリュウジをまっすぐ見ている。叱責ではなく、評価でもなく、ただ“確認”するような眼差し。ややあって彼女は視線を外し、咳払いひとつ。自分の頬が少し熱いことに気づいたように、手元のタブレットに視線を落とした。

 

 スペンサーが二拍、三拍と遅れて手を打ち鳴らす。「はい、えーと……再開だ。座学に戻ろう。今日は前回の続き、惑星間交通における重力アシストの基礎式——」

 

 スクリーンに数式が展開し、黒板には楕円軌道のスケッチ。

 だが、既に大学レベルの履修を終えているリュウジの脳は、式の途中でスリープに入る。頭に入らないというより、入ってくる前に“どこへ置けばいいか”を知ってしまっていて、置く必要もない、と判断してしまう感じだ。

 

 代わりに、窓の外の人工空が目に入る。雨は止み、ガラスに映る自分の輪郭は、たしかに昨日までと少し違った。短くなった髪に沿って、視界のフレームが広がっている。

 ——前を、見やすい。

 

 前方でスペンサーの声が続く。「この“重力井戸”のイメージは、文化祭の——そう、あのメンブレン実験、覚えているか? 中央の質量に引かれて軌道が曲がる、あれだ……」

 

 教室の空気がふっと柔らぐ。あの黒いラバーシートのへこみ、アルミ円柱、シャアラのイラスト。昼の人だかり、子どもたちの歓声。

 リュウジは何気なくルナの背中に視線を落とした。

 ルナは保温バッグの留め具をそっと撫で、「お昼にね」と口の形だけで言って、小さく笑う。こちらの視線に気づいたのだろう、振り返りそうになって、けれどやめた。三日月に触れて、姿勢を正す。シャアラが、わかってる、と唇で返す。

 

 ——届けた。間に合った。

 それだけのことなのに、胸の奥に小さく灯がつく。

 

 女子の囁きはまだ続いている。

「ねえ、さっき“弁当だ”って……」「誰の?」「決まってるでしょ……」

 男子の方はというと、ハワードが片肘をついたままにやにやして、ベルはなにも言わずに前を見据え——けれど耳だけが、ほんの少し赤い。シンゴは式の展開をタブレットで追いながらも、時折後ろを振り返って親指を立ててくる。やめろ、前を見てろ、と目で返すと、彼は「へへ」と肩をすくめて画面に戻った。

 

 チョークが黒板を走る乾いた音。

 スペンサーが問う。「では、惑星のスイングバイでΔVを最大化する角度は——」

 数人の手が上がる。

 メノリ、即答。「公転方向への接線に近づけるのが基本です」

 「その通り。——さて、次は——」

 

 時間は規則正しく進んでいく。

 リュウジは頬杖を少しだけほどき、指先で机の縁をコツと鳴らした。教室という小さな宇宙の“重力井戸”の中心は、黒板でも先生でもなく、前列二列目の右から三番目——。保温バッグの上で両手をそっと重ね、まっすぐ前を見ている少女だった。

 

 それだけをひとつ、今日の予定のいちばん上に置いて、リュウジはまたホログラムへ視線を戻した。

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