サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第51話

昼休みのチャイムが鳴り、教室の空気が一気にほどけた。

「このあと体育だ、遅れないようにな」スペンサーが念押ししてから教室を出ていく。

 

 束の間の解放感が満ちるより先に、視線はまた一斉に後方へ集まった。——リュウジへ。彼は椅子から腰を上げかけたところで、ポケットの中の端末が低く震える。

 

 着信表示に、短く目が細くなる。〈CRYSTAL〉

 

「——俺だ」

 立ち上がりざまに応答し、そのまま通路へ出る。背後で誰かが「あ、電話?」と囁いた。ルナが振り向きかけ、けれど何も言わずに保温バッグの留め具をそっと押さえたのが、視界の端で揺れた。

 

 廊下は昼のざわめきと食堂へ向かう人の流れでやや混んでいる。リュウジは片耳に端末を当て、逆の手で階段の手すりを軽くなぞりながら、下りた。

 

『やっと出た。今、時間は取れる?』

 クリスタルの声はいつも通り落ち着いているが、背後に規則的な端末音と、室内の無線のざわめきが混じる。宇宙管理局の管制フロアだろう。

 

「大丈夫だ。」

『よかった。そうだ、ブライアンの隊は予定通り西域へ。——で、ペルシアからの最初の報告は“通信がうるさい、あの人は相変わらず空でも地上でも四六時中しゃべってる”だったわ』

 端末越しに、ため息まじりの笑い。

「想像はつく」リュウジの口元に、わずかな苦笑が寄る。

 

 食堂の入り口を抜けると、芳ばしい油の匂いとスープの湯気が押し寄せてきた。トレーは取らない。片手で自販機のカウンターから紙カップのコーヒーを受け取り、ショーケースのサンドウィッチを一つ、指先で滑らかに抜き取る。空いた手でドア近くの窓際、一人掛けの椅子に腰を落とした。

 

『本題なんだけどね』

「ああ」

『探査の間、管制は不測の事態に備えて待機が続くじゃない?。私も局に詰め。で——冥王星の、私がお世話になってる農場、覚えてる? あそこの空中散布機を回せるおじさんが、ぎっくり腰でダウン。今週いっぱい、農薬の散布スロットを落とすと壊滅的で……。パイロットを一人、短期で借りられないかって泣きつかれてる』

 

 リュウジはコーヒーを一口啜る。苦味が舌に乗り、ゆっくり喉へ落ちる。

「……俺に、飛べと?」

『あなた以外に誰がいるのって感じ。軽固定翼の農薬散布、地表レイヤの乱流読み。あなたの腕なら半日で慣れる。報酬だってちゃんと出るわ。なんなら私の勤務明けと合わせれば、宿も面倒見る——』

 

「悪いが、無理だ」

 言葉が重なるより早く、リュウジは切った。

『理由を聞いても?』

 

「学園の手続きを済ませたばかりだ。出欠の管理も授業も——今回は正式に“戻る”。それに、冥王星だと往復の時間がかかり過ぎる。片道の補給待ちも含めれば、二、三コマどころじゃ済まない」

 淡々と並べ、紙カップを指で回す。窓の外で回収ドローンが一機、光を反射して過ぎた。

 

『最速便を押さえれば——』

「行って、戻って、また行って。——その間に何を落とすかだ。誰かの“昼”を落とすのは簡単だけど、落ちた穴は意外と深い」

 

 短い沈黙。回線の向こうで、クリスタルが何か書き付けるペンの音がして止まる。

『……了解。引き受けてもらえたら助かったけど、あなたが断る理由は筋が通ってる。冥王星の件は別口を当たる。』

「悪い」

『謝らないで。頼れる人から順に当たってるだけ。その一人があなたってだけよ。——それと、こっちから一つ。』

 

「なんだ」

『あなた、“地上にいる顔”に戻ってるでしょう。声で分かる。』

 リュウジはわずかに眉を動かした。

「声でか」

『ええ。ペルシアほど耳は良くないけど、それでも分かる。……学園の昼休みなら、切るわ。どうせ、コーヒーとサンドウィッチでしょ?足りないでしょ?』

 

「十分だ」

『嘘つき。——じゃ、また連絡する。ブライアンの件、動きがあれば共有する』

「頼む」

 

 通話が切れ、食堂の喧騒が一気に現実の音量で戻ってくる。紙カップの縁に唇を当て、残りの半分を流し込んだ。サンドウィッチの包みを開ける。パンの白とハムの薄紅、レタスの緑。昼の色。

 

 窓の外では人工雲がゆっくりと薄まり、天井の照明が少しだけ“晴れ”寄りに調光されていく。

 ——冥王星。空は広い。畑も広い。楽しい仕事だ。

 だが、今は違う。

 

 サンドを一切れ齧り、噛む速度を落とす。昼の残り時間を頭に並べる。

 

ーーーー

 

 椅子から立ち上がった瞬間、ポケットの端末がまた震えた。

「——俺だ」

『フレデリックです。今、いいですか?』

「昼だ。手短に」

『この前の取材、初稿の校正が上がりました。A3でゲラを出して、封筒に入れて持ってきてます。正門の受付に預けてもいいし、直接渡しても——』

「今、そっちへ行く」

 

 リュウジは食堂の人波をするりと抜け、電話を耳に当てたまま出口へ向かった。窓際で様子を見ていたルナは、その背中が角を曲がって消えるまで目で追い、ふぅ、と小さくため息をこぼす。

 

「……あいつ、一人で行きやがって。待ってたのによ」

 ハワードがぶつぶつ言いながらホットドッグにかぶりつく。

 

「忙しいんだろ、きっと」カオルはスープをひとすくい。「——それにしても、いつの間に髪を切ったんだ? 登校してた時は、切ってなかったぞ」

「手続きに印鑑が必要で、一度家に帰るって言っていたから、その時じゃないかな」ベルがパンをちぎりながら言う。

 

「……あいつめ、授業をサボって散髪してたな。反省文を書かせてやる」メノリが困ったように眉を寄せつつ、目だけは鋭い。

 

「メノリ、容赦ないね」

シンゴが苦笑して、おにぎりをぱくり。

 

「わぁ、ルナのお弁当、綺麗。美味しそう」シャアラがのぞき込み、目を輝かせる。

「そうかな?」ルナは照れ笑い。保温バッグから取り出した二段の弁当箱には、彩りよく詰められた、おにぎり、出汁巻き、ブロッコリーのナムル、ミニトマト、りんご。

ほんの少し、胸元の三日月が揺れた。

 

「でも、どうしてリュウジが持ってきたんだ?」

カオルが不思議そうに問う。

 

「どうしてだろう?」

ルナも首を傾げる。

 そこで、ハワードがニヤニヤしながら身を乗り出した。

「もしかして、まだ一緒に暮らしてたりして〜」

 

 ——ぺしん。

「そんなわけないだろ」

 背後から、A3サイズの茶封筒がハワードの後頭部を軽く叩いた。

「いてっ!?」ハワードが情けない声を上げる。

 

 振り返ると、短く整えた前髪を指で上げながら、リュウジが立っていた。肩にはさっきの封筒。手には紙コップのコーヒー。

 ルナと目が合う。ふたりの表情がふっと明るくなり、ほんの一瞬、頬に薄い色がさした。

 

「印鑑を取りに戻る途中で、チャコに会ったんだ」

リュウジは簡潔に言う。

 

「——ほぅ。散髪の“途中”で、の間違いじゃないのか?」

 メノリの視線がスッと細くなる。

 リュウジはメノリから視線を外し、咳払いひとつ。「それより——」

 

 茶封筒を机に置いて開き、中から四つ折りのA3ゲラを数枚、丁寧に引き出す。

「フレデリックから。こないだの取材の校正だ。確認してくれ」

 

「ほんとだ 前編/中編/個別インタビュー(ルナ)”って見出しが並んでる」シンゴが身を寄せる。

 「写真候補もあるぞ。——これ、ハワードがマシュマロ焼いてるやつだ」ベルが指をさした。

「おい、それは採用しろ。絶対にだ」ハワードが胸が躍る。

 

 ルナは自分のページをそっとめくる。

——“ルナ:『誰かがやらなきゃいけない状況だった。でも、チャコとリュウジのおかげで不時着できた』”

 当日の声色が、そのまま紙の上で息をしている。

「……うん。ここ、句読点を一つ足してほしいかな。『——でも』の前に、息が欲しい」

「了解。付箋、ここ」シンゴが蛍光付箋を手際よく貼っていく。

 

「個別インタビューの最後、“いつか地球で”のところ、願いが強く出すぎているかもだ。読み手が感傷に傾きすぎないように、語尾を一段落としたい」

メノリの“だろう口調”が淡々と響く。

 

「“あの島”表記は“惑星”に統一だって。学術系の読者に合わせるなら、そのほうがいい」カオル。

「写真クレジット、“撮影:フレデリック”に修正案。私たちの名前がずらっと並ぶの、ちょっと照れるね」シャアラが笑う。

 

「うん……“リュウジは語らない”って見出しは、あえて空白にして余白で読ませる構成か。なかなかいいね」

ベルが感心したように唸る。

 

「確認できた分、チェック入れて返してくれ。フレデリックにまとめて渡す」

 リュウジはペンを数本、机に置いた。黒、赤、青。

「おう、僕は自分のページ、誤字だけ見る!」ハワードが赤ペンを奪い取る。

「全部見ろ」メノリが即座に制す。「お前の“だけ”は信用ならない」

「容赦ない二回目だよ」シンゴが笑うと、周りもつられて笑った。

 

 ルナは最後のページを見つめ、静かに頷く。

「ありがとう、リュウジ。……届けてくれて」

「ついでだ」

 素っ気なく返しながらも、その横顔はどこか柔らかい。短くなった前髪が、昼の光をすっと受けていた。

 

「——で、髪。似合ってる」

 ルナが少しだけ声を落として言うと、リュウジは一拍遅れて目を瞬く。

「……そうか」

「せや、よう似合うとる。ルナも惚れ直すで」どこからともなくチャコの声が聞こえてきた気がした。

 

 チャイムが一度、遠くで試し鳴りする。昼の後半戦が近い。

「体育、遅れないようにな」誰に言うともなくカオルが立ち上がる。

「校正、残りは放課後に回してもいいだろう。締切は?」

「今日中、とは言われてない。明日の正午までだ」

「なら十分だ。」

 

 笑いとため息が交じり合いながら、各々が立ち上がる。

 リュウジはゲラをそっと重ね、茶封筒に戻した。指先に紙の感触が残る。

「続きは、放課後」

「うん。——皆でやりましょう、ね?」

 ルナが小さくウインクすると、彼は同じ強さで一度だけ頷いた。

 昼の光は少し傾き始め、窓の外で人工雲が薄く解けていく。体育館へ向かう足取りに、さっきよりほんの少しだけ、揃ったリズムが宿っていた。

 

ーーーー

 

 チャイムが鳴り終えると同時に、生徒たちの足音が体育館に響いた。

 中央にはゆっくり回転する四角形のホバリングゴールが四基。それぞれの面に空いた穴が、ゆっくりと角度を変えながら位置を移していく。

 

 その上で履く反重力のエアシューズは、踏み出すたびに微細な浮力を返してきて、普通の走りではつんのめる。

 

「エアバスケかぁ……久しぶりだな」

リュウジが重力制御シューズのベルトを締める。

隣でカオルも無言で同じ動作をしていた。

 

「ちょっと!なんでカオルとリュウジが同じチームなんだよメノリ!」

 ハワードの抗議が体育館に響き渡った。

 

「知らん。私が決めたことではない」

 メノリは得点板をチェックしながら、そっぽを向いたまま淡々と答える。

 

「大丈夫ですよ、僕たちがいます!」

「そうですよ。あっちには運動音痴のシャアラもいますから、なんとかなりますよ」

 かつてハワードとつるんでいた男女の取り巻きが、機嫌をとるように肩を叩いた。

 

「……シャアラ、舐められてるな」

 リュウジが小声で呟く。

 

「もうあの時の私じゃないんだから」

 シャアラはキリッと眉を上げた。思った以上に頼もしい横顔だった。

 

「お前らは……あの二人の実力を知らないからそんな呑気なこと言えるんだ……」

 完全に心が折れた声でハワードが肩を落とす。

 

 メノリがセンターサークルに立ち、バスケットボールを高く掲げた。

 

「——試合開始!」

 

 ボールが高く舞い上がり、エアシューズの微振動が体育館の空気をわずかに震わせた。

 

 最初に跳んだのはカオルだった。

 かカオルの身体が一気に2メートル以上跳ね上がる。

 

 落ちてくるボールを片手で掴み、そのまま後方へノールックパス。

 

「シャアラ!」

 

「う、うんっ!」

 

 シャアラは以前のようにおどおどしていない。身体は軽やかに重力を受け流し、ふわりと浮き上がる。その横に、影のようにリュウジが滑り込む。

 

「——ほら、抜けろ!」

 

 リュウジが指先一本でボールを弾き、シャアラの進行方向へ送り出す。

 タイミングは完璧。

 

「い、行くわ!」

 

 シャアラが跳ね上がった瞬間、回転ゴールの穴がちょうど目の前に現れた。

 彼女の両手から放たれたシュートは、無音のまま滑り込む。

 

《ピッ! 1点、青チーム!》

 

「しゃ、シャアラが……決めた!?」

「まじか……」

「動き、全然違う……」

 

 周囲がざわつく中、シャアラは着地して胸を押さえて照れくさそうに笑った。

「できた……!」

 

 リュウジは軽く指を立てる。

「ナイスだ」

 

⸻

 

「くそぉぉぉリュウジ!待てぇぇぇぇ!!」

 

 ハワードがエアシューズ全開で追ってくる。

 だがリュウジは、普通のジャンプでひらりとかわす。

 

「ちょっ……お前、それ絶対本気じゃないだろ!!」

 

「本気じゃなくても、お前には捕まらない」

 

 ぴょん、ぴょん、と跳ねるでもなく、ただ軽い足取りでフェイクをかける。

 エアシューズで浮いてるハワードは、慣性に負けてコースアウト。

 

「ぐわあああああ!!」

 

「おっと」

 リュウジが片手でハワードの襟を掴み、空中から元の位置に戻してやる。

 

「反重力シューズなんだから、落ちるなよ」

 

「お前が言うなぁぁぁぁ!!」

 

 取り巻きたちが悲鳴を上げる。

「ちょ、ちょっと!?あの動き、補助シューズ使ってないよね!?」

「反則級じゃない!?」

 

 

 リュウジはスイッチを切ったまま。

 カオルは逆にスイッチを入れず、あえて普通のステップで相手チームを翻弄する。

 

「お前ら……スイッチ入れろ!!ハンデだろ!!」

 ハワードの悲鳴にも似た抗議が響く。

 

「入れてないほうがやりやすい」

「だな」

 

 二人の呼吸は完全に合っていた。

 

 リュウジが高速で切り込んで相手を引き付け——

 すっと後ろにカオルが回り込む。

 

「カオル」

 

「任せろ」

 

 空中の回転ゴールの穴がこちらを向く瞬間——

 カオルのシュートが正確に飛び込む。

 

《ピッ! 青チーム追加1点!》

 

 体育館がどよめく。

 

⸻

 

 コート横で、ルナが柔らかした目でその様子を見つめている。

 

「……リュウジ、なんだか楽しそう」

 

 リュウジは汗を拭いながら、ほんのわずか笑っていた。

 楽しそうに。

 心の底から、久しぶりに。

 

 ルナは胸の前でそっと手を握る

 

⸻

 

「ここから本気だ! 見てろよ、宇宙最速の——」

 

「その宣言、10秒で後悔するぞ」

リュウジが肩で笑う。

 

ハワードがエアシューズの推力を最大にし、斜め上へ一気に加速。

“空中からの奇襲レイアップ”——のつもりだったが、彼の前にいつの間にかリュウジの指先がある。

 

「ドンマイ」

リュウジはボールの回転の芯だけを指で止め、力を加えずスッと弾く。

ハワードの掌から、ボールは“ひとりでに”抜け出し、コートの床に柔らかくバウンドしてシャアラの足元へ。

 

「え? あ、ありがと……って違う違う!」

「打て」

リュウジの短い声に、シャアラが反射的に放つ。

《ピッ! 青、1点!》

 

「返せぇぇ! 俺の見せ場ぁぁ!」

ハワードが吠えるが、すでに次の地獄が始まっていた。

 

⸻

 

取り巻きの一人が渾身のパスをハワードへ——

その軌道のすぐ隣に、リュウジの手が“たまたま”在る。

 

「ナイスパス(俺に)」

ボールは触れられたのかさえ分からない角度で軌道を曲げ、カオルの胸へ。

「……ナイス」

無感情に受け取ったカオルが、角度を変えずにゴールの“窓”へスナップ。

《ピッ! 青、さらに1点》

 

「おい! いま触ったよな!?」

「風だ」

「室内だぞ!!」

 

リュウジは次のプレーで、ハワードの真正面へ歩いていき、至近距離でボールを床に軽く“コツン”。

その瞬間、エアシューズのフィールドに干渉したボールが“ふわり”と浮き、ハワードの視界から消える。

 

「どこ行った!? おいボール!!」

「後ろ」

振り返った時には、すでにカオルがキャッチしている。

「俺がやる」

カオルの落ち着き払ったミドルが、回転窓の縁をかすめて吸い込まれた。

《ピッ!》

 

⸻

 

「はい、もう一回」

リュウジがハワードの前に立つ。しゃがんで構え、わざとらしくボールを床で“コツン、コツン”。

フェイクは最小、重心移動は最小。だがハワードの体はフェイントに釣られて、左右に泳ぐ。

 

「右だな!」

「左だ」

次の瞬間、リュウジは前にも横にも行かない。真上に“すっと”浮く。

ハワードの手は虚しく空を切り、リュウジは真上からボールを“落として”自分で受け直す。

 

「何その移動!? ズルじゃん!!」

「ジャンプだ」

「嘘つけぇ!!」

 

取り巻き男子が援護に入るが、リュウジは二人の肩の“間”にボールを一回だけ通す。

背面で弾んだボールが、まるで糸で引いたように戻ってきて彼の手に戻る“糸引きパス”。

振り向きざまにシャアラへ。

「頼む」

「う、うん!」

——カシャン。

《ピッ!》

 

「しゃ、シャアラに優しいの何なんだよ!!」

「教えるなら“成功体験”からだ」

「教育論まで完璧かよ!!」

 

⸻

 

「そろそろ点差がつき過ぎだ。ハワード、抗議はあとで受ける」

メノリが淡々と告げる。

「いま受けろよ!!」

 

背後から、カオルが小声でリュウジに問う。

「……楽しいのか?」

「まあな」

短い返事だが、言葉以上に楽しそうな背中だった。

 

⸻

 

ハワードが最後の意地でドライブ。エアシューズを最大出力、リング下へ突っ込む。

正面には——リュウジ。

 

「さすがに正面からは止められないだろ!!」

 

「ただし——」

 

リュウジは一切ボールに触れず、ハワードの“肩甲骨の下”に軽く手を添えた。

わずかに体幹が起き、シュート角が二度ズレる。

回転ゴールの穴は、次の面へくるりと回って——

 

「ぐえっ!?」

ボールは穴の“枠”に当たり、真下へボトリ。

拾ったのはリュウジ。

そのまま、あえてゴールを見ずに背面フリック。

 

宙を切る白線。

くるり、と回転した“窓”がちょうど開いて——

すぽん、と音もなく吸い込まれた。

 

《ピイイイイイ! ゲームセット! 青チーム勝利!》

 

体育館が一瞬静まり、そして爆発するような歓声。

コートの外、ルナが胸の前で手を結んだまま、目を細めて笑った。

「……やっぱり、楽しそう」

 

ハワードはというと、コートにへたり込み、体育館の天井を睨む。

「お、俺の……逆襲……は……?」

リュウジが歩み寄り、手を差し出す。

 

「次は、逆襲になるよう手伝ってやる」

「……や、優しい屈辱やめろ!!」

 

カオルはタオルで汗を拭いつつ、ぼそり。

「……流石だな。相変わらずだ」

「俺より点、決めてただろ」

「それはそれ、これはこれだ」

 

シャアラは小さくガッツポーズ。

「次は私も、ドリブルで抜いてみせるから」

「期待してる」

リュウジの目は、完全に“遊びを知ってる大人の目”だった。

 

ーーーー

 

放課後のチャイムが鳴り終わり、教室のざわめきが少しずつ薄れていくころ――

窓際の席でカバンを肩にかけようとしていたリュウジの前に、影が差し込んだ。

 

「リュウジ!」

 

勢いそのままに、ハワードが机に両手をつく。

いつものニヤけ顔だが、どこか期待で目が輝いている。

 

「……なんだ」

「映画、行こうぜ!」

 

ハワードがタブレットを取り出し、ホログラムで広告を浮かび上がらせる。

「宇宙怪獣Ω vs 銀河騎士団」と派手な文字。爆発、ビーム、巨大ロボット。

 

「前から気になってたんだよ。サヴァイヴでの経験者としてさ、“本物のサバイバルはこんなもんじゃない”とかツッコむ会をやろうじゃないか!」

 

「……くだらない理由だな」

リュウジは吹き出しそうになる口元を、なんとか引き結んだ。

 

「いいだろ少しくらい! メンバーは、僕とお前と……そうだな、シンゴとベルとカオルも巻き込んで――」

 

「待て」

 

きっぱりとした声が、背後から飛んだ。

メノリだ。腕を組み、すでに“却下する側”の顔をしている。

 

「駄目だ、ハワード」

「なんでだよ!? 僕だって命懸けで戦ったんだぞ、ヒーロー映画の一つくらい見たって――」

「お前がヒーローかどうかは別として、今日は却下だ」

 

メノリは一歩前に出て、リュウジへ視線を向ける。

 

「リュウジ、悪いが手を貸してくれ。生徒会室まで備品を運びたい」

「備品?」

「ああ。文化祭で使ったパネルや機材だ。今日中に整理しておかないと、明日の朝から指導のしようがない」

 

ハワードが思いきり顔をしかめた。

 

「ちょっと待てよメノリ! そういうのは生徒会の連中だけでやれよ!」

「そんなことを言うな。あの“地球再生ラボ”でお前も散々好き勝手やっただろう。あれを片付けているのは誰だ?」

 

ハワードが「ぐぬぬぬ……」と顔を歪める。

リュウジは少しだけ肩をすくめた。

 

「……悪いな、ハワード。今日はやめておく。また誘ってくれ」

「マジかよ、裏切りだ!」

「裏切りじゃない。延期だ」

 

ハワードはしばらく大げさに肩を落としていたが、やがてタブレットをしまった。

 

「……分かったよ。じゃあ今度は“ポップコーン代込み”で誘ってやるからな!」

「条件が増えているぞ」

「当然だろ。僕の傷心を癒す慰謝料だ!」

 

そう言い残し、ハワードはシャアラたちの待つ方へぶつぶつ言いながら歩いていった。

 

メノリが小さく息を吐く。

 

「悪かったな。せっかくの誘いだったのに」

「気にしてない。映画は逃げない」

 

リュウジは肩のカバンを掛け直し、メノリの隣に歩み寄る。

 

「それで、備品はどこにある? 体育館か?」

「半分はな。残りは特別教室前の廊下だ。」

 

その言い方に、リュウジはふっと目を細める。

 

「……相変わらずだな、生徒会長兼風紀委員長」

「当然だ」

 

軽く睨まれ、リュウジは小さく笑った。

 

「その“風紀委員長”が、俺に生徒会の仕事を手伝わせるのか。規約に抵触しないのか?」

「“必要と認めた場合、学園内の安全管理に協力を仰ぐことができる”——生徒会規約第七条。問題ない」

 

即答。

その口調に、一瞬だけサヴァイヴでの“厳しくて優しい副リーダー”の姿が重なる。

 

「了解。じゃあ、“安全管理”の名目で運ぶとするか」

 

二人は並んで廊下に出た。

夕方の光が斜めに差し込み、窓の向こうの人工空はオレンジ色に染まりつつある。

 

⸻

 

体育館の裏手。

文化祭の名残りが積み上げられた倉庫前で、メノリが作業用の鍵を開ける。

中には折り畳みパネル、ディスプレイスタンド、模型の土台などが雑然と並んでいた。

 

「これを全部、生徒会室前のストックスペースまで?」

「全部と言っても、主に“ラボ”関係だ。あとのクラス展示はもう引き取られている」

 

メノリはタブレットを開き、リストを確認する。

 

「パネル四枚、折り畳み机二つ、補助イス六脚、ケーブルボックス三つ――それと、あの大気循環ミニ模型の基礎ユニットだ」

 

視線の先には、回転する透明シリンダーが鎮座している。

 

「文化祭か・・・・」

リュウジが近づき、ユニットの縁を軽く叩いた。

 

「今でも動かせるぞ。シャアラが“来年はもっとリアルにしたい”って言っていたからな」

「来年、か……」

 

メノリが彼の横顔を見る。

その眼差しの奥に、何かを測るような光が一瞬だけ宿ったが、追及はしなかった。

 

「まずパネルから運ぼう。私は前を持つ。お前は後ろを頼む」

「了解」

 

二人でパネルを抱え、廊下を歩く。

人気の少なくなったソリア学園は、いつもより少し広く感じた。

 

すれ違う後輩たちが、ひそひそと二人を見送る。

 

「あれ、リュウジさんじゃ……」

「生徒会の手伝いしてる……レア……」

 

「なぁ、メノリ」

廊下の曲がり角で、リュウジが何気なく口を開いた。

 

「お前、一日中こんなことをしているのか? 授業に、生徒会に、風紀に……」

 

「そんなに大したことはない」

 

まるで、さっきの答えをなぞるように。

だが今度は、少しだけ柔らかい声音だった。

 

「お前が宇宙で操縦桿を握るのと、私がここで帳簿と鍵を握るのは、やっていることは違うが本質は同じだ。場所が変われば役目も変わる。……それだけだ」

 

「生徒会長らしい答えだな」

「らしいと言うな。実際そうなんだ」

 

二人は、再び黙って歩く。

だがその沈黙は、重苦しさではなく、どこか心地よい“作業仲間”の空気をまとっていた。

 

生徒会室前のストックスペースにパネルを立てかけ終え、机を置き、イスを並べ、ケーブルボックスを棚に収める。

最後に、大気循環ミニ模型のユニットを二人で慎重に運び込んだ。

 

「……これで終わりか?」

「あと一つ」

 

メノリが生徒会室の中から、小さな段ボール箱を抱えて出てきた。

「これは?」「アンケート用紙だ。地球再生ラボの」

 

箱の蓋を少し開けると、見覚えのあるタイトルが並ぶ。

『あなたの思う“明日の地球”は?』

『重力を“感じた”瞬間を書いてください』

 

「これも保管か?」

「ああ。来年、何かの役に立つかもしれない」

 

メノリは箱に手を置き、ふっと微笑んだ。

 

「それに、こういうのは“誰かが見ていた証拠”だからな」

 

その言葉に、リュウジの胸の奥で、何かが小さく反応した。

 

「あの島でのことも、今日みたいな一日も。……全部、誰かがどこかで見ている。そう思えば、無駄なことなんて、意外と少ない」

 

「……そうだな」

 

リュウジは箱を受け取り、棚の一番奥に丁寧に収めた。

その手つきは、いつかどこかで操縦桿を握っていた時と、同じくらい慎重だった。

 

「助かった。ありがとう、リュウジ」

メノリがきちんと頭を下げる。

 

「たいしたことじゃない。……みんなのために、ちゃんとしないとな」

「言ったな。私の台詞を取るな」

 

メノリがわずかに口元を緩める。

リュウジも、肩をすくめて笑った。

 

廊下の窓から差し込む光は、もう夕方の色に変わっていた。

人工空の向こう、遠くの宇宙をかすかに思いながら、彼は今、自分の足で立っている“この場所”の重みを、少しだけ確かに感じていた。

 

ーーーー

 

生徒会室のストックスペースが片づき、棚の扉を閉めたところで、メノリがふっと息を吐いた。

 

「……これで、今日の分は終わりだな」

 

タブレットのチェックリストに最後の印をつけると、彼女はリュウジのほうへ向き直った。

 

「手伝ってくれて助かった。ありがとう、リュウジ」

「たいしたことじゃないさ。どうせ暇だったしな」

 

肩をすくめて答えると、メノリは「そうか?」と苦笑を浮かべた。

それから、何かを思い出したように手を打つ。

 

「そうだ。コーヒー豆、持っていくか?」

「……コーヒー豆?」

 

リュウジが片眉を上げると、メノリは少しだけ目を細めた。

 

「重力嵐を抜けたあとだ。“私のおすすめの豆を送ってやる”って、私が言っただろう」

「ああ……あの時か」

 

サヴァイヴの空。ネフェリスの狭い船内で飲んだ、薄いコーヒーの味が、ふと舌に蘇る。

 

「約束は守る。酸味が強いのと、香りの柔らかいやつのストックが少し余っているから、豆を分けよう。挽き方は自分で考えてくれ」

「……なら、遠慮なく貰っておく」

 

素直に頷くと、メノリも満足げに頷いた。

 

「よし、それじゃあ行くか。家まで少し歩くが、文句は言うなよ」

「言わない。……たぶんな」

 

二人は生徒会室の照明を落とし、並んで廊下を後にした。

 

⸻

 

夕方のソリア学園の校門を出ると、帰宅途中の生徒たちがまだちらほらと行き交っていた。

その中を、メノリとリュウジは並んで歩く。距離は半歩ほど。特別、近くも遠くもない。

 

だが――周囲の視線だけは、やけに距離を詰めてきていた。

 

「ねぇ、今の……」「メノリ会長とリュウジさん……?」「まさか付き合ってるの?」

 

小さな囁きが、後ろからいくつも追いかけてくる。

正面からすれ違う生徒も、さりげなく視線を寄越してくる。

 

リュウジは、特に気にした様子もなく前を向いたままだったが、隣でメノリが小さくため息をついた。

 

「……お前と歩くと、やっぱり疲れるな」

「俺のせいか?」

 

ようやくそちらを見ると、メノリは呆れたように肩をすくめていた。

 

「ああ、お前のせいだ。サヴァイヴから帰還して、悲劇のフライトの当事者で、S級パイロットで……今は、話題性の塊みたいなものだ」

 

「買いかぶりすぎだ。半分は、生徒会長と風紀委員長のせいだろ」

 

そう言うと、メノリは少しだけ目を細めた。

 

「……本当に、お前は周りを見ているのか、見ていないのか分からないな」

 

「必要なところだけ見てる。そういうものだ」

 

軽口を交わしながら、二人はロカA2の住宅エリアへと歩を進める。

街路樹の間を抜けるたび、人工夕陽の光が角度を変えて、ビルの壁面を朱に染めていった。

 

⸻

 

やがて、他の住宅とは明らかに違う、広い敷地に囲われた建物が見えてきた。

 

門扉は重厚な金属フレームに、簡素な紋章が刻まれている。

その向こう、ガラスと白い石材で構成された邸宅が、静かに佇んでいた。

 

「……すごいな」

 

思わず漏れたリュウジの感想に、メノリは「そんな大げさな」と言いつつも表情を引き締める。

 

「宇宙連邦議員の家としては、標準的な規模だ。慣れれば、ただの“家”だぞ」

「世間の“標準”と、お前の“標準”は違うと思うがな」

 

門のインターホンにメノリが手を伸ばし、短く名乗る。

すぐにロックが解ける音がして、門扉が左右に開いた。

 

玄関ホールに入ると、冷んやりとした空気と、どこか馴染みのある香りが鼻をくすぐった。

 

「応接室で待っていてくれ。豆を取ってくる」

「分かった」

 

メノリに案内され、リュウジは広い廊下を通って応接室に通された。

落ち着いた色合いのソファ、壁には抽象画と、宇宙を写した大型ホログラフ。

テーブルの上には、読みかけの分厚い資料が束ねられている。

 

――いかにも、“仕事場兼家”って感じだな。

 

腰を下ろして背もたれに軽く寄りかかる。

窓の外には、人工の夜景が少しずつ濃くなり始めていた。

 

「娘が世話になったな」

 

落ち着いた低い声が、背後から聞こえたのは、その時だった。

 

振り返ると、背の高い男がドアのところに立っていた。

整えられた髪に、わずかな白いものが混じる。深い紺のスーツ。胸元には、宇宙連邦議員を示すバッジ。

 

「……宇宙連邦議員、ステュワード・ヴィスコンティだ」

 

男――メノリの父が、ゆっくりと歩み寄ってきた。

正面から見ると、メノリと同じ鋭さを湛えた灰色の瞳が、まっすぐにリュウジを射抜いてくる。

 

「ちゃんと挨拶するのは、はじめましてかな。リュウジ。いや、宇宙飛行士リュウジであるべきか」

 

少しだけ迷うように言ってから、口元にわずかな笑みを浮かべた。

 

リュウジはソファから立ち上がり、軽く頭を下げる。

 

「こちらこそ。……メノリには、サヴァイヴでも、ここでも、何度も助けられてます」

 

ステュワードの目が、一瞬だけ柔らかくなる。

 

「そう言ってもらえると、父親としては少し安心できる。

 彼女は不器用だが、責任感だけは人一倍だからな」

 

「それは、よく分かっています」

 

リュウジがそう答えると、ステュワードは満足げに頷いた。

 

「君たちがサヴァイヴから無事に戻ってきたことは、政治家としてではなく、一人の親としても感謝している。……娘も、君たちと一緒にいられたことを誇りに思っているようだ」

 

その言葉に、リュウジはわずかに目を伏せる。

 

「俺のほうこそ、メノリたちがいてくれたから、生きて帰ってこられました」

 

短く、だがはっきりと。

そう告げたとき、廊下の向こうから小走りの足音が近づいてきた。

 

「コーヒー豆、持ってきたぞ」

 

扉が開き、紙袋を抱えたメノリが姿を現す。

その背後で、父とリュウジが向かい合っているのを見て、ほんの少しだけ目を丸くした。

 

「……お父様、もう挨拶はすみましたか?」

「ああ。お前の客だからな」

 

ステュワードは一歩退き、二人の間を空けた。

 

「続きは若い者同士で話すといい。――リュウジくん、今後とも娘を頼む」

 

静かにそう言い残し、彼は応接室を後にした。

 

残されたメノリは、どこか気恥ずかしそうに視線を逸らしながら、紙袋を差し出す。

 

「……これがうちの豆だ。」

「ありがとう。期待してる」

 

紙袋を受け取る手は、思ったよりも軽く、そして温かかった。

リュウジはその重みを確かめるように、一度だけ握り直した。

 

ーーーー

 

ソリア学園の時間は、少しずつ、けれど確かに色を変えていった。

 

◇ ◇ ◇

 

「うわぁ、このシーン最高だろ!? ここ! この爆破カット!」

暗い劇場の中、ハワードのテンションだけが一段高かった。

 

スクリーンの中では、旧時代のシャトルをモデルにした映画の機体が、敵艦の間を縫うように飛び抜けていく。観客のざわめきと、重低音のエンジン音。

 

リュウジは、隣でポップコーンを抱えたまま、ふっと笑った。

 

「その軌道じゃ、普通は機体がもたないな」

「夢のないこと言うなよ! 映画なんだからさ!」

「だが、あそこまで持たせたメカニックは大したもんだ」

「視点がパイロットと技術者!」

 

ハワードが呆れながらも、どこか楽しそうに突っ込む。

以前なら、リュウジは無表情のまま淡々と辛口な感想を漏らして終わりだっただろう。だが今は、ほんの少しだけ肩をすくめて、冗談の余地を残した笑みを返す。

 

「……まぁ、映像としては悪くない」

「だろ? 後でパンフ買ってくから付き合えよ」

「ああ」

 

ごく自然に、約束が交わされる。

 

◇ ◇ ◇

 

別の日、ロカA2のショッピングフロア。

 

「えっと、次は保存食コーナーだから……」

「シャアラ、メモ貸せ」

 

買い出しリストを抱えたシャアラの手元から、リュウジは紙を受け取った。カートには、既に山盛りの食材と生活用品が入っている。

 

「こんなに頼まれてたのか」

「う、うん。メノリが『どうせ行くなら一週間分まとめて』って……」

「合理的だな」

「で、でも、さすがに一人じゃ持てなくて……ありがとね、付き合ってくれて」

 

シャアラが照れくさそうに笑うと、リュウジは「気にするな」と短く返した。

 

「お前の料理はうまいからな。材料が尽きる方が問題だ」

「な、なにそれ。褒めてる?」

「事実を言っただけだ」

 

シャアラの頬がほんのり色づく。

その様子を見ながら、リュウジもどこか穏やかな表情を浮かべていた。

 

「ねぇ、今度さ。サヴァイヴの頃みたいに、みんなでご飯作らない?」

「いいんじゃないか。火事さえ起こさなければな」

「誰のこと言ってるのかしら」

「ハワードだ」

 

二人の小さな笑い声が、静かな売り場に溶けていく。

 

◇ ◇ ◇

 

また、ある日は植物園だった。

 

ガラスドームの天井越しに、人工太陽の光が降り注ぐ。湿った空気と、土と葉の匂いがほんのり混ざり合う。

 

「ここに来ると、あの島のことを思い出すな」

ベルが大きな手で葉を撫でながら、ぽつりと呟く。

 

「そうだな。湿度が違うけど」

「はは。あっちはもうちょっと“生きてる”感じがしたね」

「それはある」

 

リュウジは、温室の奥に列をなす木々を眺める。

水槽のように管理された緑でさえ、どこか懐かしさを連れてくる。

 

「ベル」

「ん?」

「お前がいなかったら、冬は越えられなかった」

「……いきなりだね」

 

ベルは目を瞬かせた。

リュウジは視線を前に向けたまま、続ける。

 

「洞窟拠点の提案も、罠も。あれは全部、お前の“生き延びる知恵”だ」

「みんなが動いてくれたからだ。俺一人じゃ何もできない」

「それでも、あのとき“最初に”動いたのはお前だ」

 

ベルの足取りが、少しだけ止まる。

 

「……ありがとう」

「礼を言うのは俺の方だ」

 

短い言葉のやり取り。でも、その一つ一つが、二人の間の距離を確かに変えていた。

 

◇ ◇ ◇

 

別の日、博物館。

 

「見ろよ、これ! 実物だ、実物! 本物の旧時代のエンジン!」

シンゴのテンションは、もはや天井を突き抜けている。

 

透明ケースの向こう側に鎮座する巨大なエンジンブロックは、ところどころ錆びつきながらも、まだ「動きそうな」気配を纏っていた。

 

「すげぇ……図面でしか見たことなかったよ」

「お前が喜ぶと思った」

「どうして知ってるのさ」

「お前、サヴァイヴでも延々とエンジンの話をしてただろ」

 

シンゴは一瞬ぽかんとして、それから――少し照れくさそうに笑った。

 

「……覚えてたんだ」

「あんなに熱弁されたらな」

 

ケースのプレートには、かつて地球の大気圏を突き抜けた数多のシャトルの名前が刻まれている。

 

「リュウジ」

「なんだ」

「もしさ。もし、僕たちで新しい船、作れるとしたら――」

「作るだろうな」

 

リュウジは当たり前のように言った。

 

「お前がエンジンを組んで、ベルが外で支えて、カオルが航路を引いて、ルナが目標を決める」

「リュウジは?」

「……見守るさ」

 

シンゴは、それを聞いて満足そうに笑った。

今はそれで十分だった。

 

◇ ◇ ◇

 

そんなふうに、日々は静かに、しかし確実に積み重なっていった。

 

以前なら、下校時刻にはさっさと校門を抜け、一人でコロニーの通りへ紛れていったリュウジが──今は誰かと肩を並べて歩いている。

笑ったり、冗談を返したり、ときには真顔で語り合ったり。

 

その変化は、ソリア学園の中で目立たないはずがなかった。

 

「ねぇ、あれって――」

「悲劇のフライトの……?」

「本物のリュウジさんなの?」

 

廊下ですれ違うたび、ひそひそとした声が背中を追いかける。

だが最近の視線には、単なる噂好きの好奇心だけでなく、別の色も混ざり始めていた。

 

「髪、切ってから印象変わったよね」

「うん……前より、なんか話しかけやすそう」

「ていうか、普通にカッコいいんだけど」

 

昼休み、食堂の一角。

窓際でコーヒーを啜りながら資料を読んでいるリュウジの周囲では、女子生徒達が小さな半円を描くように距離を取りつつ、きゃあきゃあと囁きあっている。

 

「聞いた? ハワードくんたちと映画行ったんだって」

「シャアラさんとも買い物?」

「ベルさんと植物園とか、絶対ほのぼのするやつじゃん……」

 

当の本人は、相変わらず気づいているのかいないのか、いつものようにマイペースにコーヒーを飲んでいた。

ただ、声をかけてくる相手に対して、以前なら無表情で短く返して終わりだった会話も、今は少しだけ続くことがある。

 

「今日の体育、すごかったです!」

「エアバスケ? たまたまだ」

「たまたまじゃないですよ~!」

 

照れ笑いを浮かべる一年生に、「そうか」とほんの少し柔らかい目で返す。その一瞬を見逃さない女子生徒たちの視線は、さらに増えていく一方だった。

 

廊下の端で、その様子を眺めていたルナは、ふっと微笑んだ。

 

「……人気者だね、リュウジ」

「そうだな」

ルナの隣にいるメノリが呟いた。

 

「どうするんだ? ルナ」

「ど、どうもしないわよ!」

 

ルナは慌てて首を振る。

それでも胸の奥は、どこかくすぐったく、そして少しだけ誇らしかった。

 

あの島で、何度も何度も死にかけて。

心を閉ざして、自分の存在ごと凍らせようとしていた少年が――今はこうして、ちゃんと笑っている。

 

仲間と一緒に過ごして、からかわれて、からかい返して。

一人で背負わなくてもいい場所で、ちゃんと息をしている。

 

「……いいことだよね」

 

ルナが小さく呟くと、メノリは「そうだな」と頷いた。

 

「だけど――」

 

「え?」

 

「“いいこと”が増えれば増えるほど、選ばないといけないことが増える。」

 

メノリの言葉に、ルナはそっと胸元の三日月に指を添えた。

 

――どんな道を選んでも、私は支える。

 

そう決めた自分の気持ちを、改めて握り締めながら。

 

 

その頃、当のリュウジはというと――

食堂の窓ガラス越しに、うっすらと自分の姿が映るのを眺めていた。

 

伸び放題だった前髪は、もう目にかからない。

表情も、どこか昔より柔らかくなっている気がする。

 

コーヒーを一口飲んで、息を吐く。

 

「今は、これでいいか」

 

ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。

 

仲間と過ごす穏やかな日々。

笑い合う昼休み。

からかう声、からかわれる声。

 

その一つ一つを、リュウジはまるで、失くしたくない記録を丁寧に上書きするように、胸の奥に刻み込んでいった。

 

ーーーー

 

放課後の図書室は、窓の外の夕焼けがゆっくりと色を変えていく音まで聞こえそうなくらい静かだった。

 

ルナは「地球再生論」を開きながら、ノートを横に置いてペンを走らせている。ページの端には、文化祭の準備のときに書き込んだメモがまだ残っていた。

 

「……相変わらず、難しい本読んでるな」

 

不意に聞こえた低い声に、ルナは顔を上げた。

本棚の影から、カオルが片手に借りた本をぶらさげて立っている。

 

「カオル」

「隣、いいか?」

 

ルナが頷くと、カオルは向かいではなく、あえてルナの斜め隣の席に腰を下ろした。机を挟みすぎない距離。けれど、近すぎもしない。

 

「珍しいわね、図書室に来るなんて」

「たまには静かな場所も悪くないだろ」

 

カオルはそう言いながら、本を机に置いただけで開こうとはしなかった。

代わりに、視線は横のルナに向けられる。

 

「“いいことだよ”って昼に言ったな」

「昼?」

 

ああ、とルナは小さく声を漏らした。

リュウジが一年生の女子生徒と話をしていた光景が頭に浮かんだ。

 

「……いいことよ。前のリュウジなら、きっと一人で距離を取ってたもの」

「それはそうだな」

 

カオルの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

 

「俺から見ても、今のあいつは、昔の“訓練校にいた頃のリュウジ”に少し似てきた。無茶ばかりして、でも楽しそうに操縦桿にしがみついてた頃のな」

 

「なら、いいことじゃない」

ルナは即答した。

 

「カオルは、そう思わないの?」

 

カオルは少しだけ目を細め、天井の方に視線をやる。

 

「……半分は、そう思う。残りの半分は、見ていてイラつく」

「イラつく?」

 

ルナが首を傾げると、カオルはあっさり頷いた。

 

「あいつ、自分の足元をまだちゃんと見てない顔をしてる。楽になったのはいい。肩の力が抜けたのもいい。だが、“どこへ向かうか”を決めてないまま流されるのは、俺は好きじゃない」

 

図書室の奥から、誰かが椅子を引く小さな音がした。だが、二人の間に流れる空気までは乱さない。

 

「……宇宙飛行士を辞めるつもりってことは、聞いたか?」

「ええ」

 

ルナはうなずき、少しだけ視線を落とした。

 

「驚いたか?」

「……ううん。驚かなかった」

 

カオルが静かに眉を上げる。ルナは手元の本の背表紙をそっと撫でながら、言葉を継いだ。

 

「リュウジ、ずっと走りっぱなしだったもの。十二歳でS級パイロットになって、悲劇のフライトで全部背負って、サヴァイヴでも皆のために戦って……。まだ私達と同じ十四歳なのに」

 

その声には怒りでも同情でもない、ただ事実を確かめるような響きがあった。

 

「だから……“辞めてもいいんじゃないかな”って。そう言ったの。怖いから逃げてほしいわけじゃなくて、一度くらい足を止めて、自分のために迷ってもいいかなって」

 

カオルは腕を組み、しばらく黙ってルナを見ていた。

 

「お前らしいな」

「え?」

 

「“許す”んだろ。あいつが止まることも、迷うことも。あいつが自分を嫌いにならないように、先に道を用意しておいてやる」

 

図星を刺されたような気分になって、ルナは苦笑した。

 

「……ダメだった?」

「ダメとは言ってない」

 

カオルは視線を、窓の外の人工空に向ける。

 

「俺だって、一度は同じことを考えた。ルイを死なせたとき、“もう二度と操縦桿は握らない”って決めた。諦めた方が楽だからな」

 

ルナは息を飲んだ。カオルが自分から「ルイ」の名を出すのは、今でもまだ珍しい。

 

「でも、結局戻ってきた。お前らが、勝手に俺の“逃げ道”塞いだからな」

「勝手にって……」

「サヴァイヴで、お前も、リュウジも、俺に“前を向け”って目を向けるからだ」

 

呆れたように言いながらも、その声音はどこか柔らかい。

 

「だから分かる。誰かのために飛ぶのも、誰かのために生き方を決めるのも……悪くない。だが、それだけじゃ足りない」

 

「足りない?」

 

「“自分がどうしたいか”だ。お前、惑星開拓技師になるって決めたたんだろ」

「あ……うん」

 

ルナは胸元の三日月のネックレスに、そっと指を添えた。

 

「惑星開拓技師になりたいって決めたのは、私自身だから」

 

「そうだ。お前は“選んだ”んだ。誰かに押し付けられたんじゃなく、自分で」

 

カオルはそこで、ほんの少し間を置いた。

 

「リュウジは、まだそこまで行けていない。“誰かを守るため”に飛ぶことは決めていたが、“自分がどう生きたいか”までは決めていない。だから今、揺れている」

 

ルナはゆっくりと息を吐く。

 

「……私、リュウジに『誰かのためじゃなくて、リュウジがやりたいことを決めてほしい』って言ったの。宇宙飛行士じゃなくてもいい。リュウジが自分で選んだ道なら、私は隣で支えるって」

 

カオルは目を細めてルナを見た。

 

「それを言えるお前は、強いよ」

「え?」

「“一緒にいたい”とか、“空を飛んでてほしい”とか、自分の願いを飲み込んで、それでもあいつの背中を押してやってる。そう簡単にできることじゃない」

 

ルナは頬をかきながら、苦笑いを浮かべた。

 

「……正直に言うとね。怖くないって言ったら嘘になるよ」

「そうだろうな」

「もし、どこか辺境の星で静かに暮らすって決めたら、もしかしたら会う機会は減るかもしれない。空を飛び続けるなら、またどこか遠くに行っちゃうかもしれない」

 

ルナはペンを握りしめた指に力を込める。

 

「それでも、“誰かのために”じゃなくて、“自分のために”決めてほしいの。……だって、そうじゃなきゃ、きっといつか、同じところでまた迷うから」

 

カオルは少しだけ口角を上げ、鼻で笑った。

 

「やっぱり、お前は強いな」

「強くなんか――」

「いや、強い。俺がリュウジなら、そんなこと言われたら逃げられない」

 

「逃げられないって、どういう意味よ」

 

ルナがむっとすると、カオルは珍しく、はっきりと言った。

 

「“どんな道を選んでも、お前が隣で支える”って宣言されたら、もう中途半端な決め方はできないってことだ」

 

ルナは言葉を失い、視線を泳がせた。

ネックレスの三日月が、わずかに揺れる。

 

「……お前、自覚してないだろうけどな」

 

カオルは本の表紙を指先で軽く叩いた。

 

「あいつにとって、“戻る場所”の半分はこのコロニーで、もう半分は、お前だ」

 

「……半分って、変な言い方」

 

「全部って言ったら、調子に乗るだろ」

「乗らないわよ!」

 

言い返しながらも、ルナの耳たぶはほんのり赤い。

 

カオルはそんなルナの横顔を見て、小さくため息をついた。

 

「だから、頼みがある」

「頼み?」

 

「どっちを選んでもいい、とお前は言った。それはそれでいい。だが一つだけ、譲るな」

 

ルナは真剣な表情でカオルを見た。

 

「“逃げるための選択だけは、認めない”ってことだ。そこだけは、お前の方からあいつにちゃんと怒れ」

 

「……怒って、いいのかな」

「怒れるのは、お前くらいだ。俺が言っても、あいつは“なかま”としてしか受け取らない」

 

カオルは肩をすくめる。

 

「お前は、あいつにとってただの“仲間”じゃない。……少なくとも、あいつの目はそう言ってる」

 

「えっ……?」

 

ルナの心臓が、どきんと一つ大きく跳ねた。

 

カオルはそれ以上、詳しく言葉にしなかった。ただ、立ち上がると本を脇に抱えた。

 

「まぁ、焦らなくていい。あいつはいつか、自分で決める。そのとき、お前は今みたいに隣にいればいい」

 

「カオルは……どうするの?」

 

問いかけに、カオルは少し考えてから答えた。

 

「俺は、“飛び続ける”を選んだ。ルイの夢も、自分の意地も、全部含めてな。だから――」

 

そこで一度言葉を切り、真正面からルナを見る。

 

「リュウジがどっちを選ぶかに関係なく、お前とあいつの“背中合わせ”が崩れないように、俺は俺でやれることをやるさ」

 

「背中合わせ?」

 

「お前が地面を作って、あいつが空を切り開く。……そういう形も悪くない」

 

ルナは少しの間、何も言えなかった。

胸の奥に、暖かいものと、少しだけ苦いものが入り混じって広がっていく。

 

「ありがとう、カオル」

「礼を言われるような話はしてない」

 

カオルはそっけなく言い捨て、踵を返した。

 

「――ああ、そうだ」

 

去り際、肩越しに振り返る。

 

「今度、あいつがまたふらっとどこかに行こうとしたら、ちゃんと引き留めてやれ。『ちゃんと帰ってこい』ってな」

 

ルナはゆっくりと頷いた。

 

「うん。言う。何度でも」

 

「なら、いい」

 

それだけ残して、カオルは静かな図書室を後にした。

 

残されたルナは、開きっぱなしの「地球再生論」に目を落としながら、ペンを握り直す。

 

――リュウジがどんな空を選ぶとしても。

 

『私は、隣で支える。逃げるだけの選択なら、ちゃんと怒る』

 

心の中でそう繰り返しながら、ルナは新しいページに、ゆっくりと文字を書き出していった。

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