次の日。
人工太陽がまだ高く昇りきる前の時間帯、ソーラ・デッラ・ルーナの出発ゲート前は、すでに多くの人でざわついていた。出張らしきスーツ姿、観光客の家族連れ、荷物を搬入するクルーたち――そこに、ルナ達が一つ、場違いなようでいて、不思議と溶け込んでいる。
「……サボりじゃないからな。これは“重要な見送り”だ」
と、最初に宣言したのはメノリだった。腕を組み、周囲を見渡しながら、いつもの凛とした声で言う。
「分かってるわ、メノリ。皆で見送りに来ただけだもの」
ルナはそう言って、掌でリュックの肩紐をぎゅっと握りしめた。胸元の三日月のネックレスが、ガラス越しの光を受けて小さくきらめく。
「しかし、本当に全員で休むとはな……」
カオルが苦笑する。
「当たり前だろ! リュウジを見送るのに、僕らだけ教室にいるわけないじゃないか!」
ハワードは胸を張っているが、その足取りはいつもより少し早い。落ち着かないのが丸分かりだ。
「シンゴも、授業平気だった?」
「うん……まぁ、今さら一日二日サボったところで、単位的には問題ないと思うよ」
シンゴは苦笑しながらも、片手で端末を弄りつつ、ゲートの電光掲示をちらちらと確認していた。
「……なぁ、ルナ」
ベルがふと尋ねる。
「チャコは一緒じゃないのか?」
「ああ、そういえば」
シャアラもきょろきょろと周囲を見回した。
「昨日から検診だって。だから今日は一緒に来られないのよ」
ルナは少し寂しそうに笑う。
「“検診終わったら、家に戻る”って言ってたから。……だから、チャコの分まで、ちゃんと見送らないとね」
「そうか。あいつのことだから、検診室でも好き勝手喋ってるんだろうな」
カオルが小さく笑うと、皆も少しだけ表情を緩めた。
少しの沈黙の後、カオルがふと空港の奥を見遣る。
「……探査メンバー、本当に集まったのか?」
シンゴも顔を上げる。
「ニュースでは“募集中”って言ってたけど……こんな危ない任務、そう簡単に人が集まるとは思えない」
その不安は、皆の胸にもあった。
ルナは端末を握り直して、小さく頷く。
「ペルシアさんから、さっきメッセージが来たの。“最低限のクルーは揃ったから、心配しないで”って。だから……大丈夫」
「“最低限”ってのが、逆に不安になるな」
ハワードが眉をひそめるが、ルナはそれでも信じるように笑った。
「大丈夫だよ。ペルシアさんがいるもの。エリンさんも」
そこへ、賑やかな人の波の向こうから、見慣れた金髪がひょいと手を上げた。
「こっち!」
宇宙管理局の制服を着ているペルシアが、ちょっと乱暴なくらいの勢いで腕を振っていた。隣には、宇宙管理局のスタッフらしき人物もいる。
「ペルシアさん!」
ルナが手を振り返すと、ペルシアは人混みを器用にすり抜けて合流する。
「よかった、間に合ったわね。みんな、こっち。一般エリアから見送ると混雑でろくに姿も見えないから、控え室まで案内する」
「控え室?」
シャアラが目を丸くする。
「探査クルー用のブリーフィングルームよ。そこにリュウジもいる。ちゃんと顔を見て話せるわ」
ペルシアはいつもの軽い調子を取り戻しているように見えたが、その目の奥にはやはり疲れと緊張が残っている。
「ありがとう、ペルシアさん」
メノリが頭を下げると、ペルシアは片目をつむって見せた。
「礼は、リュウジがちゃんと帰ってきたあとに頂戴するわ。さ、こっち」
一行はペルシアに続いて、一般客とは違う通路へと進んだ。
ガラス扉の向こうには、静かな廊下と、セキュリティゲート。宇宙管理局のロゴがあちこちに浮かんでいる。
「うわぁ……」
シャアラが小さく感嘆の声を漏らした。
「ここ通っていいのか? 俺たち、ただの学生だぞ」
「今日は“関係者”扱い。ちゃんと許可取ってあるから心配しないの」
ペルシアが端末をかざし、ゲートを次々に解錠していく。
角を曲がった先、小さなプレートに「BRIEFING ROOM 3」と表示されたドアの前で、ペルシアが立ち止まった。
「ここ。リュウジは今、船体チェックで席を外してるけど――先に、エリンが待ってる」
「エリンさんも……」
ルナの胸が少しきゅっと締め付けられる。
ペルシアがノックもそこそこに扉を開けた。
「ただいまー。親衛隊連れてきたわよ」
控え室の中は、そこまで広くはないが、壁一面に航路図と未探索領域のデータパネルが並び、小さなテーブルとソファ、スーツケースがいくつか。
その中央に、すでに宇宙服のエリンが立っていた。
いつも通り柔らかな笑み――だが、その目の下にはわずかなクマが浮かんでいる。
「みんな……!」
エリンは一歩前に出て、深く頭を下げた。
「来てくれて、本当にありがとう」
「エリンさん!」
ルナが駆け寄ろうとして、ぐっと足を止める。
エリンは顔を上げ、真っ直ぐにハワードとメノリを見ると、改めて会釈をした。
「ハワード、メノリ」
「え、あ、うん」
名前を呼ばれ、ハワードが少し慌てる。
メノリは姿勢を正し、静かに見つめ返した。
「今回……私がこの探査船に“正式なクルー”として乗り込めるように、動いてくれて、ありがとう」
その言葉には、軽さ一つなかった。
「ハワード財閥の旅行会社の枠を使わせてもらえなければ、私はここには立てなかった。
――心から、感謝している」
エリンの頭が、もう一度深く下がる。
「い、いや、その……僕はただ、パパに頼んだだけで……」
ハワードは頬を掻きながら目を逸らす。
「それが一番難しいんだ、ハワード」
ベルが小さく笑い、シンゴも「うん」と頷く。
「そうですね。企業の枠を動かすというのは、大人でも簡単なことではありません」
メノリが真っ直ぐに言う。
「エリンさん。礼を言われる立場ではありません。あなたが覚悟を決めて、リュウジを追いかけようとしなければ、話は始まらなかった」
「メノリ……」
「だから――帰ってきたら、そのときまた礼を言ってください。“ハワードの会社を選んでよかった”と」
ハワードが「えっ」と変な声を出す。
「そ、そうだよ! 帰ってきたら、ちゃんと働いてもらうからね!僕の旅行会社で!」
「ええ。チーフ・パーサーは置いといて、恥ずかしくない仕事をするわ」
エリンはそう言って、少しだけ微笑んだ。その横顔には、恐怖も、不安も、全部飲み込んだ上での覚悟が滲んでいる。
ルナはそっと、その隣に並んだ。
「エリンさん……リュウジを、お願いしてもいいですか?」
「お願いなんて、されなくても行くわ。
あの子を一人宙に出すなんて――私の性格が許さないもの」
エリンは冗談めかして肩をすくめ、ルナに穏やかな視線を向けた。
「でも、頼んでくれてありがとう。必ず、彼を連れて帰るわ。
それに……あなたの笑顔も、一緒に守ってくる」
ルナの胸が、じんと熱くなる。
「……私も待っています。皆で、ソリア学園で」
静かな控え室に、仲間たちの小さな声と足音が満ちた。
まもなく、この部屋にもう一人――黒髪のS級パイロットが戻ってくる。その前に交わされた感謝と約束は、誰の胸にも深く刻まれていった。
ーーーー
ブリーフィングルームの空気が、少しずつ変わり始めた。
壁にかかったクロノメーターの秒針が、規則正しく音を刻む。その下には、西の未探索領域を示すホログラムの航路図。そこに描かれているのは、誰もまだ“安全”と呼べない空域だった。
コンコン、と控えめなノックの音。続けて、ドアが静かに開く。
入ってきたのは、二人の女性クルーだった。
アラミド繊維で織られた、緑色の宇宙服。足元は同色のカーゴパンツで、腰の位置から銀色のサスペンダーが肩へと伸びている。上衣も同じグリーンの作業服で、胸元には宇宙連邦連盟と宇宙管理局のワッペン。袖にはそれぞれの所属を示す小さなエンブレムが光っていた。
(……同じだ)
ルナは思わず喉を鳴らした。
――未探索領域の調査を行う専用スーツ。それが、目の前にある。
二人の女性は室内を一瞥し、ルナたちに軽く会釈をすると、ホログラムから少し離れた椅子に並んで腰を下ろした。無駄な言葉はない。だが、その所作の一つ一つが、ここがただの“イベント会場”ではないことを強く印象づける。
「……なんか、ドキドキするな」
ハワードが小声で呟いた。落ち着きなく視線を泳がせる。
ドキドキしているのは、彼だけではなかった。
ベルも、シンゴも、シャアラも、メノリも、カオルも。ルナ自身も、いつもと違う心拍の速さを感じていた。
理由ははっきりしている。
ここに流れているのは、ソリア学園の教室とも、文化祭の準備室とも違う――“任務”と“生還”の空気だ。宇宙服の生地が擦れる音ですら、何かの合図のように聞こえる。
そんな張り詰めた空気の中で、不意に耳に届いたのは――
場違いなほど可憐な、しかし聞き覚えのある声だった。
「なるほどね、私としては、普通の操縦が限界かなぁ」
ほわんとしたトーン。続けざまに、もう一つ。
「安心せぇ、ウチがサポートしたる」
聞き間違えるはずがない。
「ちゃ、チャコ!?」
思わずルナの声が突き刺さった。
全員の視線が、声のしたドアの方へ向く。
ドアから、テクテクと小刻みに歩いてくる小さな影。
見慣れたネコ型のシルエット。
「お、待っとたでぇ」
チャコが、いつも通りの調子で片手を上げた。
「チャコ!?」「なんでここに?」「検診は?」
口々に飛び交う問いかけに、チャコは胸を張ってふふんと笑った。
「ウチもな、探査チームに加わるんや」
「えっ……!?」
ルナの胸がどきんと跳ねる。
チャコは、「せやな」と頷き、昨夜のことを話し始めた。
◇ ◇ ◇
昨夜。ソーラ・デッラ・ルーナ内、宇宙船ネフェリスの格納ベイ。
巨大な船体は、照明を落とされた格納庫の中で静かに眠っていた。点検用ライトがところどころでともり、機体のラインを柔らかく照らしている。
ひたり、と足音が響いた。
ブーツの音。聞き慣れたリズム。
乗降用ランプを上がってきたリュウジの姿に、ブリッジの奥で待機していたチャコが顔を上げた。
「やっと来よったな」
薄暗いコクピットパネルの上で、チャコの目がぱっと光る。
「……チャコ? 何してるんだ」
リュウジは思わず眉を上げた。
ブリッジには、すでにメインコンソールの一部が開かれ、内部配線にアクセスした痕跡がある。
「捜索にネフェリス使うんやろ? そう思って、先に点検しといたったで」
チャコは得意げに胸を張った。
「航法システムも重力制御も、一通り診断済みや。エラーはゼロ。いつでも飛べる。」
リュウジは、しばし無言でその様子を眺めていたが――
やがて、ふっと唇の端を上げた。
「……流石だな」
短い言葉。それでも、チャコにとっては十分だった。
「もっと褒めてもええんやで?」
チャコがご機嫌になったところで、くるりと振り返った。
「それと、ウチも行くで」
「……何?」
リュウジは思わず聞き返す。
「ネフェリスのシステムで、ウチより理解しとるやつ、おらん。
それに、補助管制は必要やろ? セーシング領域外を行くんやったら、リアルタイムでセンサー書き換えられる頭脳がおったほうがええ」
チャコの目は、いつものおどけた光だけじゃなかった。
あの惑星サヴァイヴで、何度も死線をくぐり抜けたときの、鋭い光も宿っている。
「そうだが……ルナには?」
リュウジが目を細める。勝手に連れて行くわけにはいかない。
「大丈夫や!」
チャコは親指をぐっと立てた。
「ルナも“リュウジを手伝おうてやれ”って言うてた。
ウチはな、その言葉を最大限好意的に解釈して、“現場で全力サポートしろ”って受け取ったんや」
「……どうやったら、そんな解釈になるんだ?」
リュウジは額に手を当てたくなったが、息を吐いて肩を落とした。
「……分かった。局長には、俺から話しておく」
穏やかな諦めの声ではなく、きちんとした了承のトーンだった。
チャコは「よっしゃ!」と片手を突き上げた。
「任しとき! ウチがついとったら、そう簡単には落とさへん。ネフェリスも、リュウジもな」
◇ ◇ ◇
「――ってわけや」
現在に戻り、チャコは胸を張って話を締めくくった。
「だからウチも、正式にクルー登録されとる。補助管制員兼、船内マスコットや!」
「そんなこと言ってないでしょ!」
ルナは思わずチャコの頬をむぎゅっとつまんだ。
「い、痛いてルナ!」
「“手伝ってあげて”とも!勝手に行っていいなんて言ってないわよ!」
「細かいことはええやんか〜。結果オーライってやつや。ほら、ウチがおったほうが安心するやろ?」
「……まったくもう」
呆れたように言いながらも、ルナの指はそっと力を弱めていた。
つまんでいた頬を離し、小さく息を吐く。
「でも……ありがとう、チャコ」
「任せとき。ウチがおったら、そうそう無茶はさせへんから」
「それは、少し心配だけど……」
ルナとチャコがそんなやり取りをしていると――
再び、ブリーフィングルームの扉が開く音がした。
全員の視線が、音の方に向かう。
入ってきたのは、緑色の宇宙服を身にまとった一人の少年だった。
アラミド繊維のズボンから伸びるサスペンダーが、精悍になった肩のラインを縁取る。
短く整えられた黒髪。胸元には、宇宙連邦連盟の紋章。コロニーの人工光を受けて、その金色が静かに光った。
彼――リュウジは、室内を一望し、仲間たちの顔を一人ひとりゆっくりと見回した。
そして、ルナと視線がぶつかった瞬間。
彼の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「――来てくれたんだな」
その声は、不思議なほど落ち着いていて。
でも、どこか子どものような、安堵の気配も滲んでいた。
ルナは胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
「当たり前でしょ。皆で、見送りに来たのよ」
ーーーー
その言葉を聞いて、リュウジはふっと笑みを深めると、ルナから視線を外し、ドアの方へと向き直った。
「――着席してた全員、起立。横一列に整列」
低く通る声がブリーフィングルームに響く。
ルナたち見送り組は一瞬きょとんとしたが、空気を読んで壁際に下がり、通路を空けた。
リュウジの後ろから入ってきた男――紺の礼装に、宇宙管理局のエンブレムを胸に付けた中年の男性が、一歩、室内に足を踏み入れる。
「宇宙管理局長、入室」
静かなアナウンスに合わせるように、リュウジが声を張った。
「宇宙管理局長に対し――敬礼!」
リュウジの掛け声と同時に、彼自身が踵を揃え、右手を額へ。
チャコは少しぎこちないながらも、前肢をこつんと頭の横に当てる。
その隣で、エリン、女性の三人も、同じように一糸乱れぬ敬礼を揃えた。
ルナたちは思わず息を呑む。
彼らの背中だけで、この場が「遊び」ではないことを、痛いほど思い知らされる。
「直れ」
リュウジの号令で全員が手を下ろした。
宇宙管理局長は一列に並ぶ彼らを見渡し、ゆっくりと頷く。
「諸君。今回は、西の未探索領域におけるブライアン隊の捜索という、極めて困難な任務に志願してくれたことに、宇宙管理局を代表して礼を言う」
落ち着いた、しかし重みのある声だった。
「消息を絶って三日。時間との勝負だ。
だが、私はここにいるメンバーを信じている。生きて帰り、可能な限り多くを連れ戻してくると。――以上だ。詳細は作戦管制官のペルシアから」
局長が一歩退くと、今度はペルシアが前へ出た。
いつもの皮肉っぽい笑みは潜め、引き締まった表情だ。
「今回の作戦について説明する」
ホログラムが切り替わり、ブライアンの探索航路と、消息を絶ったポイントが拡大される。
「目的は二つ。
一つ目は、ブライアンたちの搭乗する探索機の捜索および、生存者の救出。
二つ目は、発見した機体が自力航行不能だった場合の牽引。状況によっては船外での接続作業が発生する」
ルナはごくりと喉を鳴らした。隣でシャアラが小さく手を握りしめる気配がする。
「探索期間は一週間。必要な資機材と食料、予備の酸素カートリッジ、簡易医療キットはすでに積載済み。後方支援と通信窓口はすべて私が担当する」
ペルシアは、ちらりとリュウジたちに視線を投げた。
「――あとは、あなたの腕次第。頼むわよ、リュウジ」
「了解した」
リュウジは短く返し、前に出た。
「今回、操縦士を務めるリュウジだ。――俺のことはもう知ってるだろう」
どこか居心地悪そうに肩をすくめる。
「現場からはしばらく離れていた。俺にできないことは、躊躇わず任せる。
だから、お前たちはお前たちの得意分野を最大限に発揮してくれ」
そう言って、一度息を整えると、仲間たちを順に紹介し始めた。
「まずは、救護兼副操縦士――クリスタル」
「よろしく」
すっと一歩前に出たのは、鋭い目元に切れ味のある青いショートカットがよく似合う女性だった。
白いメディカルパッチ入りのポーチを腰に提げ、胸元には小さな翼のバッジ。
「彼女は宇宙管理局の探索チーム《スターフォクス》所属だ。
医療の知識と操縦テクニック、それに――元・宇宙ハンターとしての度胸もある。期待してる」
「ハードル上げすぎないでよ」とクリスタルは苦笑したが、その目は頼もしい。
「次。メカニック――サツキ」
「よろしくお願いします」
赤茶の長い髪を低い位置でまとめた女性が、丁寧に頭を下げた。整った顔立ちに、どこか芯の強さがにじむ。
「彼女は恒星間輸送船のメカニックだ。
忙しい中、今回の任務に協力してくれたことに感謝する。ネフェリスの心臓部は、彼女に任せる」
サツキは照れくさそうに、でもどこか誇らしげに微笑んだ。
「通信システム――マリ」
「よろしく頼む」
ショートボブの女性が軽く手を上げた。
「彼女は宇宙管理局所属の通信技師だ。ペルシアの推薦もあって、今回参加してもらった。
セーシング領域ギリギリの綱渡りになる。回線は、彼女の腕にかかっている」
マリは「プレッシャーをかけるな」と言いながらも、口元を引き締める。
「システムエンジニア――チャコ」
「よろしく頼むで!」
チャコがぴょこんと前に出て、胸をどんと叩いた。
「ロボットペットだが、優秀だ。
俺と一緒に“魔のゾーン”を突破した経験もある。ただ、正式な宇宙任務としては今回が初めてだ。皆んなには船内のフォロー、頼んだぞ」
「コックピット・コンディション――エリンさん」
「よろしくお願いします」
落ち着いた微笑みを浮かべ、エリンが頭を下げる。
「彼女はハワード財閥の旅行会社所属。
俺との航行も、一番長い。チーフ・パーサーとしての実力は俺が保証する。ただ、現場復帰は久しぶりだ。……フォロー、頼む」
エリンは「そこも含めてよろしくね」と柔らかく笑った。
リュウジは一つ、深く息を吸う。
「宇宙船は――ネフェリスを使う。
ブライアンたちが消息を絶って、すでに三日。航路は危険だが、今回はスピード勝負だ」
ホログラムに映る軌道図の一点を見据える。
「俺たちは寄せ集めで、チームとしての連携はこれからだ。
“完璧”な動きは求めない。その代わり――自分にできることを、絶対に手放すな」
リュウジは、そこにいる全員の顔を見るようにゆっくりと視線を回した。
「頼んだぞ」
「――はい!」
クルー全員の声が、ぴたりと揃った。
しばしの静寂のあと、ペルシアがぽつりと言った。
「……そういえば、このチーム、名前がないわね」
「名前?」
シャアラが小さく首を傾げる。
「そうだな」
リュウジは腕を組み、少しだけ考え込んだ。
そして、不意に顔を上げ、見送りの列の方へ視線を向ける。
まっすぐに、シャアラを見た。
「――頼む」
「えっ、わ、私!?」
いきなり指名され、シャアラは椅子から半分浮き上がった。
「ええやん、ええやん。シャアラ、こういうの得意やろ?」
チャコが笑いながら言う。
「が、頑張って」とルナも微笑んだ。
シャアラは胸の前でそっと手を組み、目を閉じて数秒だけ考える。
サヴァイヴでの夜、みんなでつけた名前。フェアリーレイク、スターホール、みんなの家――
言葉には、いつも願いが込められてきた。
やがて、目を開く。
「……ラスペランツァ、なんてどうかしら?」
「ラスペランツァ?」
ハワードが首をかしげる。
「“La speranza”。古い言葉で“希望”って意味よ」
シャアラは少し照れながら説明した。
「行方が分からなくなった場所へ向かうんだもの。
それでも、希望だけは手放さないって気持ちを、名前に込められたらいいなって」
エリンが、ふっと目を細めた。
「悪くないわね」
マリも腕を組みながら頷く。
「希望、か……いいじゃないか。帰りの航路にも似合う名前だ」
クリスタルも「響きも悪くない」と口元を上げる。
サツキも小さく拍手し、「素敵です」と呟いた。
「じゃあ、決まりだね」
ペルシアが一歩前に出て、胸を張る。
「チーム《ラスペランツァ》――出発準備!」
「おおーっ!」
ブリーフィングルームに、力強い声が響き渡った。
ルナも思わず、胸の前で手を握りしめる。
(――必ず、帰ってきて)
胸の内でそう願いながら、彼らの背中に、精一杯の“希望”を送った。
ーーーー
ネフェリスへ続く白い通路は、まるで舞台の花道みたいに、左右を柵で区切られていた。
その両側にはびっしりと見物客と報道陣。
フラッシュの光が、人工灯より明るいくらいに、絶え間なく瞬いている。
アラミド繊維のグリーンの宇宙服に身を包んだクルーたちが、横一列に並んでゆっくりと歩いていく。
サツキも、マリも、クリスタルも、エリンも、チャコも。
その先頭を歩くリュウジの横顔は、いつもの飄々としたそれではなく、覚悟を固めた鋭さと静けさをまとっていた。
「リュウジさん! こっち向いてください!」
「一言だけ、コメントを――!」
報道陣が叫び、マイクがいくつも突き出される。
その中には、帽子を目深にかぶったカラスの姿や、真剣な表情でカメラを構えるフレデリックの姿もあった。
一般客の列の中には、ステファンの姿も見える。その少し後ろ、保安員に囲まれるようにして立つフォックス、ファルコ、スリッピー――かつて“魔のゾーン”を共にくぐり抜けたクルーたちの姿もあった。
「……先に行っててくれ」
リュウジが歩を緩めてそう告げると、クルーたちはすぐに意図を理解したようだった。
「了解。ドック前で待ってるわ」
エリンはそれだけ言って、他のメンバーを引き連れ、ネフェリスへ続く通路の先へと向かう。
リュウジは一人、柵の途切れたポイントから、一般客の方へと足を向けた。
周囲がざわっ、と一段大きく沸き立つ。だが彼は、気にした様子もなく、まっすぐその一角へと向かう。
そこには――サヴァイヴから帰ってきた仲間たちが、揃って立っていた。
「リュウジ!」
一番に声を上げたのはハワードだ。
きっちりとしたジャケットに身を包んでいるくせに、仕草はいつも通り大げさだ。
「行ってくる」
リュウジは、柔らかな笑みを浮かべた。
サヴァイヴにいた時よりも、幾分か穏やかで、でも芯は変わっていない笑み。
「気をつけろよ」
カオルが短く言う。
それだけなのに、こめられた意味は山ほどあった。
「言われなくてもな」
リュウジが口の端を上げる。
「無茶はするな、とは言わない。するだろうからな」
メノリがため息混じりに言う。
「だが、ちゃんと戻ってこい。勝手に“終わり”にするのは許さないからな」
「了解、生徒会長」
「からかわれる筋合いはない」
そう言いながらも、メノリの目はほんの少し潤んでいるように見えた。
「俺たちの分まで見てきてくれ。……西の宙がどんな場所か」
ベルが、ぐっと拳を握る。
「帰ってきたら、植物園で聞かせてくれ。」
「任せとけ」
「こっちの準備も、ちゃんと進めておくからさ!」
シンゴも負けじと笑った。
「戻ってきたとき、“すごいでしょ!”って自慢できるようにしとかないと」
「楽しみにしてる」
「……がんばってね、リュウジ」
シャアラは、胸の前でそっと手を握りながら言った。
「きっと、“ラスペランツァ”って名前が、ぴったりの結末になるから。そうなるって、信じてるから」
「ああ」
リュウジの視線が、最後に――ルナへと向いた。
ルナは一歩前に出る。
喉の奥に張り付いた何かを、ごくりと飲み込んで、絞り出す。
「……必ず、帰ってきて」
その声は震えていたけれど、その瞳はまっすぐだった。
リュウジは一瞬だけ目を細め、すぐに、いつもの調子で言う。
「ああ。心配するな――全部、上手くいく」
「そればっかり」
思わずルナは、口を尖らせた。
けれど、次の瞬間には二人とも、小さく笑っている。
「あと、これ……」
ルナは、小さな包みを差し出した。
指先がかすかに震えている。
リュウジは受け取り、丁寧に包みを開く。
中から出てきたのは、オレンジ色の糸で編まれたミサンガだった。
シンプルだけど、ところどころに入った白い糸が、星屑みたいに見える。
「十字のネックレスは……私が無くしちゃったから。
だから、その……代わりに。せめてもの、お守り」
ルナは恥ずかしそうに、視線を足元へ落とした。
リュウジはしばし黙ってミサンガを見つめ、器用に片手で自分の手首に巻きつける。
きゅっと結び目を締めると、オレンジ色が宇宙服の袖口の上で、鮮やかに光った。
「……ありがとう」
低く、でもはっきりとした声で囁く。
そして、そっと右手を握り込み――拳を、ルナの前に差し出した。
「――行ってくる」
ルナは、一瞬だけ目を閉じて息を吸い、それから笑顔を作る。
涙が今にも溢れそうなのをごまかすように、力いっぱい拳を握り返した。
「行ってらっしゃい!」
こつん、と拳と拳がぶつかる。
その小さな音が、なぜかこの場の誰よりも鮮明に、ルナの耳には届いた。
リュウジは拳を下ろし、もう振り返らなかった。
人の海の中を、真っ直ぐにネフェリスへ向かって歩いていく。
ルナは、その背中をじっと見つめる。
胸の奥がきゅうっと締めつけられて、今すぐにでも泣き出してしまいそうになる。
(泣かない……!)
唇を噛んで、ぐっと堪える。
彼が振り返らないのなら、自分も前だけを見る――その意地が、涙腺の最後の一押しをかろうじて押しとどめた。
やがて、リュウジの姿はクルー専用ゲートの向こうに消えた。
残ったのは、フラッシュの残光と、胸元で小さく揺れる三日月のネックレス、そして――手首のオレンジ色のミサンガを思い浮かべるだけで、胸がぎゅっと熱くなるような感覚だった。
ーーーー
巨大なシャッターが、低い唸りとともに開いていく。
その向こうに鎮座しているのは、帰還の時と同じ姿――宇宙船ネフェリスだった。
「何度見ても、格好いいな……」
ハワードが思わず漏らした言葉に、誰もツッコまなかった。
全員が同じように、胸のどこかを掴まれていたからだ。
クルーたちはタラップを上り、順にハッチをくぐっていく。
エリン、クリスタル、サツキ、マリ、チャコ、最後にリュウジ。
ハッチが閉じられる重い音が、コロニーとの境界線をはっきりと刻んだ。
◇ ◇ ◇
「配置完了や」
コックピットの右側席――人間用のシートに、チャコはちょこんと腰を下ろしていた。
シートベルトは不要だが、サイズの合わないヘッドレストに、ちょんと背中を預ける姿が妙に様になっている。
左側、メインの操縦席にリュウジが腰を下ろす。
ハーネスを固定し、目の前の計器盤に指を滑らせていく。
「電源系統、起動」
低く呟くと同時に、パネルが次々と光を帯びた。
ネフェリスの心臓が、眠りから覚めていく。
「メインリアクター、スタンバイ。出力二十パーセントまで上昇」
後方席でサツキの声が響く。
メカニック用コンソールの表示を、鋭い目で追っている。
「通信系、良好。外部リンク、ソーラ・デッラ・ルーナ管制とネートワーク接続完了。遅延、許容範囲内」
マリが指を走らせながら報告した。
「救護区画、固定完了。医療ユニット、安全圧確認。非常時対応、いつでも行ける」
クリスタルの落ち着いた声も続く。
「キャビン内、気圧・温度ともに正常。乗員は全員着席、シートベルト確認。――こちら、コックピットコンディション完了」
エリンの声は、どこか懐かしい響きを伴っていた。
この船で幾度となく聞いてきた安心のトーンだ。
「よし」
リュウジは小さく頷き、最後に自分の手元のチェックリストを閉じた。
「ネフェリス、チーム“ラスペランツァ”。準備完了。管制、聞こえるか?」
『こちらソーラ・デッラ・ルーナ管制。ネフェリス、クリアに聞こえている。
ドックゲート、これより開放。発進シーケンスに入れ』
「了解。――チャコ、最終確認だ」
「任しとき」
チャコは目を細め、制御用のホログラムパネルにジャックインケーブルを軽く接続する。
その瞬間、ネフェリスの内部データが一斉にチャコの視界へ流れ込んだ。
「姿勢制御ユニット、オールグリーン。
重力制御ユニット、異常なし。
機体フレームストレス、許容範囲内。
――問題なしや」
「そうか」
リュウジは、操縦桿に右手を添える。
左手首でオレンジ色のミサンガが、ふっと揺れた。
「……行くぞ、チャコ」
「いつでもええで」
ネフェリスの脚部固定クランプが、重い音を立てて外れる。
船体にわずかな浮遊感が生まれた。
『ネフェリス、離床許可。ベクトル025、速度制限第一区間までは指示どおり。
幸運を、ラスペランツァ』
「ネフェリス、離床する」
リュウジがスロットルを少し押し込む。
重力制御ユニットが低い唸りを上げ、ネフェリスは音もなく宙に浮き上がった。
管制塔の窓越しに、たくさんの手が振られているのが見える。
ドックの観覧窓の向こうでは、小さな人影が必死になって腕を振っていた。
(……見えてるさ)
誰にも聞こえない心の中の声と一緒に、リュウジは静かに息を吐く。
「チャコ、外部カメラ。ドックビュー出せ」
「了解っと」
メインスクリーンに、ソーラ・デッラ・ルーナのドックが映し出される。
遠ざかっていくプラットフォーム、そこに並ぶ仲間たちの姿が、徐々に小さくなっていく。
「ほら、ルナ、まだ手ぇ振っとるで」
「……ふっ」
サイドモニターに映る小さな影を見て、リュウジはほんの一瞬だけ目を細めた。
そして顔を前に向け直し、スロットルをさらに押し込む。
「ネフェリス、第一加速区間に入る。
ラスペランツァ、出発だ」
機体が滑るようにドックを抜け、人工大気の境界を越える。
ソーラ・デッラ・ルーナの光が遠ざかり、目の前には――西の未探索領域へ続く、深い宇宙の闇が広がっていた。
ーーーー
離陸から三分――。
ネフェリスの駆動音が安定し、船体の微かな振動だけが続いていた。
リュウジは計器を確認し、前方の星々が流れる光景を眺めながら言った。
「ヘルメットとシートベルト、外して構わない。しばらく大きな操作はしない」
チャコが嬉しそうに「ほな外すでぇ」と言いながらヘルメットもどきを外し、
クリスタルも静かにバックルを外す。
サツキは腕を組み、マリは姿勢を正しながら、それぞれ持ち場の端末を操作する。
ぱん、とその空気を切るような音がした。
エリンが両手を一度打ち鳴らしたのだ。
「――はい。ちょっと、その前にいい?」
「……なにをですか?」
マリが怪訝そうに眉を寄せた。
サツキも同じく、少し面倒くさそうに振り返る。
リュウジは操縦席のままエリンをちらりと見る。
「エリンさん、何か……?」
「ちょっとした自己紹介の続き、みたいなものよ」
エリンは満面の笑み。
その余裕に、サツキは思わず溜息をついた。
「自己紹介なら、さっきしたでしょう。名前と職務は分かってます」
「仕事の話だけじゃ足りないの。
――“長期航行の仲間として”の話は、これからするんでしょ?」
やんわりとしているのに否定させない声。
エリンが、本領を発揮した時の話し方だった。
サツキが腕を組む。
「……必要性が、いまいち分からないんですけど」
「分からなくていいわ、今は。
でも、あと三日もすれば、どちらにせよ“分からされる状況”になるもの」
「なにそれ怖……」
マリが小声で呟いたが、エリンは軽く笑って続けた。
「宇宙船って、密室でしょ?
ストレスも疲れも、全部この箱に溜まっていくの。
そういう時、一番効くのは――小さな“好き”なのよ」
「“好き”……」
サツキが眉をひそめる。
「そう、“好き”。
好きな飲み物、好きな食べ物、落ち着ける匂い。
それをクルー同士が知っていれば、それだけで救われる瞬間が来るの。
――ほら、こういうのって、女同士の方が話しやすいでしょ?」
(上手い……)
リュウジは横目でエリンを見て、心の中で呟いた。
たしかに、彼女の仕事は“乗客の心を読むこと”だ。
話術が、自然と人をほどく。
マリは肩をすくめる。
「……まあ、話すだけ話してみますけど。
本当に意味があれば、ですけどね」
エリンはすぐ食い気味に返した。
「もちろんあるわ。
――あなた達の緊張を、ほどく意味がね」
その言葉に、二人の表情が少し揺れた。
エリンは微笑んだまま、まずサツキに向き直る。
「じゃあ、サツキから。
“好きな飲み物”と、“今回持ち込んだ食べ物や飲み物”、教えて?」
「……私から?」
「そう。あなた、緊張すると顎に力入るタイプでしょ?
最初に喋った方が、楽になるわよ」
サツキは思わず顎に手を当てた。
「……なんで分かるんですか」
「仕事柄」
エリンはそれだけで説明を終えた。
サツキは少し照れながら、息を吐いた。
「……好きな飲み物は、お茶です。
ちゃんと淹れた、葉で出すお茶。人工味じゃないものがいい」
「いいじゃない。落ち着く飲み物よね」
「だから、今回の持ち込みは――お茶と、煎餅を一週間分」
「煎餅?」
「はい。……硬いのが好きなんです。
咀嚼音が、自分だけのリズムみたいで、落ち着くので」
マリとエリンが同時に頷く。
「分かる」「分かるわ」
「ちょ、なんで分かるんですか……」
「女の勘よ」
エリンが言うと、サツキは少し呆れつつも笑ってしまった。
エリンは次にマリへと向き直る。
「じゃあ、マリ?」
「……紅茶、ですね」
マリは最初こそ警戒していたが、自然と口が滑らかになっていた。
「香りが強いブレンドが好きです。
今回の持ち込みは、ティーバッグと、クッキーを一週間分」
「クッキー?」
「通信作業を長時間するとき、甘いものがあると楽なんです。
糖分は思考処理速度に直結しますから」
「なるほどね。
あなたは“仕事モードに入るためのおやつ”って感じかしら」
マリは照れたように頷いた。
「……そんなところです」
エリンは手を叩いた。
「ありがとう、二人とも。
ほら、話す前よりずっと顔が柔らかくなってる」
サツキとマリは顔を見合わせ、思わず笑った。
「ほんとだ……」「ちょっと気楽になってる……」
「でしょ?」
エリンは満足げに言った。
「これが“好きな飲み物と食べ物の力”。
この船の一週間を、少しでも楽にするための魔法よ」
二人は、初めて出会ったときよりぐっと柔らかい表情になっていた。
リュウジは操縦席でその様子を見て、小さく息を吐く。
「……さすがです、エリンさん」
「当然でしょ?
あなたの隣に座る時間が、一番長いのは誰だと思ってるの?」
エリンがウインクする。
チャコが横から言う。
「お見事やなぁ。二人ともエリンに懐いとる」
サツキ「懐いてません!」
マリ「懐いてません!」
――しかし声には、どこか弾みがあった。
ネフェリスはそのまま、静かに未踏の闇へ向かっていく。
その船内で、クルーたちの緊張が、ほんの少しずつほどけていった。
ブリーフィングがひと段落すると、エリンは「ちょっと待ってて」と言い残し、軽い足取りで奥の食料区画へ消えていった。
数分もしないうちに戻ってきたときには、片手にエネルギー補給ゼリーのパック、もう片方に紙コップを何個か重ねて持っていた。
「はい、クリスタル。そろそろ“飲みそうな顔”してたから」
「……バレてたわね」
クリスタルは苦笑しながらゼリーを受け取り、一口吸うと、わずかに肩の力が抜ける。
エリンは今度は何も言わず、自然な手つきでリュウジの前に紙コップを差し出した。
ふわりと、淹れたてのコーヒーの香りが立ちのぼる。
「……ありがとうございます、エリンさん」
「どういたしまして」
それだけのやり取りなのに、コクピットの空気が一段やわらぐ。
今度はエリンが、くるりとチャコの方へ向き直った。
「さて、と。次はチャコの番ね。――あなたは、なに持ち込んだの?」
「ウチ!?」
チャコは目を丸くした。
「ウチも持ち込んでええんか!? なんや、持ち込みとかあかんのか思てたわ」
「え、ええ、もちろんよ」エリンは笑う。「みんな、自分の好きな飲み物とか食べ物とか、だいたい一つは持ってくるの。
長期航行の常識よ?」
「そ、そうなんか……」
チャコは一瞬きょろきょろと視線を彷徨わせた。その横で、リュウジがコーヒーを一口飲んでから口を開く。
「だと思って、家にあった極選は持ってきた」
「お、さっすがリュウジやな!」とチャコが身を乗り出す。「さっきから、どっかで極選の匂いする思ててん!」
エリンがくすりと笑い、胸ポケットに手を入れた。
「私は極選まではいかないけど……一応、ジュースを持ってきたわよ」
そう言って取り出したのは、小ぶりな紙パックのジュースだった。
パッケージの隅には、さりげなく“ストレート果汁○%・無添加”の文字が光る。
エリンはそれをくいっとチャコの方へ差し出した。
「チャコに。非常食兼、ご褒美」
「……こ、これも十分、高級ジュースやないか!?」
チャコは慌ててパックを両手で受け取り、裏面の表示を凝視する。
「うわ、果汁率エグい……! 値段見たないレベルや……。
ウチ、ラスペランツァのメンバーで良かったわぁ……!」
座席の向こうから、マリが呆れたように言った。
「大袈裟だな……ジュースひとつで」
「大袈裟ちゃうわ!」とチャコが即座に反論する。
「ルナなんか、ウチ用のジュースは“業務用の特売パック”ばっかりやぞ!?
“量で勝負や!”とか言うて、味よりコスパ重視や! このサイズの高級ジュースなんか、まず買うてくれへん!」
「……なんか想像つく」とサツキがぽつりと漏らす。
エリンは楽しそうに肩を揺らした。
「でも、そういうところも、ルナらしいわね。
――じゃあ、その分ここで贅沢して。ラスペランツァ仕様ってことで」
「ふふん、ほな遠慮なく味わわせてもらうわ。
帰ったらルナに自慢したろ。“宇宙で高級ジュース飲んでもうたで~”ってな!」
「やめとけ」とリュウジがぼそっと突っ込む。
チャコはますます上機嫌になり、パックを胸に抱いた。
ネフェリスの船内には、エンジンの低い唸りと、紙パックのストローを差す小さな音。
未探索領域へ向かう船の中に、わずかな甘さと笑い声が、確かに灯っていた。
ーーーー
「せやからな、ルナは小さい頃、ようおねしょして――」
チャコがストローをくわえながら、いかにも「今から爆弾落としまっせ」という顔で口を開く。
「ベッド一面に宇宙地図かいとったわ。銀河系どころか、隣の星雲まで制覇しとったで」
「ぷっ……!」
エリンが吹き出し、サツキが肩を震わせ、クリスタルまでゼリーのストローを押さえながら笑う。
「宇宙地図って……発想がひどいね」サツキが呟く。
「待て待て、それ本人に言ったら怒られるやつでしょ」とクリスタル。
チャコは得意げに胸を張った。
「事実やからしゃあないやろ。それにウチの方がモテたんやで~。
ルナはおっちょこちょいでな、ウチがおらんと危なっかしくて、世話が焼けるんや」
「モテてた、ねぇ……」サツキがニヤニヤしながら覗き込む。「誰に?」
「そらもう、男ども全員や!」
「全員は盛ってるでしょ……」クリスタルが額に手を当てた。
コクピット後方、簡易シートに座っていたエリンは、楽しそうに目尻を下げる。
「ふふ、でも分かるわ。チャコって、放っておけない愛嬌があるもの」
「せやろ? もっと言うてええで」
船内に笑い声が広がる。
ただ一人、マリだけは苦笑いを浮かべて、ヘッドセットのボリュームを少し下げた。
「……いいのか?」
「ん?」とチャコが振り向く。
「こっちの回線、管理局との通信――繋ぎっぱなしだぞ。
発言全部、ソーラ・デッラ・ルーナの通信室に筒抜けだ」
その言葉に、さすがのサツキとクリスタルも「え」と固まった。
しかし、当のチャコはまったく悪びれない。
「かまへん、かまへん。どうせバレへんやろ」
「いや今の流れでバレてないわけが――」
クリスタルがツッコむより早く、マリが小さくため息をついて肩をすくめる。
「……まあ、向こうが楽しそうならいいか」
「楽しそう、って?」エリンが首を傾げた。
マリは片耳にかけたイヤホンを少し外し、反対側の耳から浮かんだ音を拾う。
「笑い声が聞こえる。向こうの通信室から。結構、でかい」
そこでリュウジが、操縦席から視線を外し、ちらりとマリを見た。
「……誰が聞いてる?」
「管制のオペレーターに、局長室の緊急ラインもオープン。
それと……ペルシアさんもな」
「……やっぱりか」
リュウジは額に手を当てて、そっと目を閉じる。
笑いはしないが、その表情には「もう止めても無駄だ」という諦めに似た色が浮かんでいた。
「ま、ええやろ」チャコはジュースを大事そうに抱きしめて言う。
「ルナの恥ずかしい黒歴史の一つや二つ、宇宙に流れたところで減るもんやない」
「……後で本人に聞かれたら、責任取れよ」リュウジがぼそり。
「聞かれへんやろ」
リュウジは眦をわずかにゆるめ、前方の星々へ視線を戻した。
◇ ◇ ◇
同じ頃――ソーラ・デッラ・ルーナ、捜索用に特設された通信室。
壁一面のスクリーンにはネフェリスの航路図と、各種計測データ。
中央の卓にはマイクとヘッドセットが並び、その前で十数人のスタッフが忙しなく手を動かしている。
しかし、今だけは別の音が支配していた。
「……ぷっ……はははは!」
ペルシアが椅子の背にもたれかかり、お腹を押さえて笑っていた。
隣のオペレーターも肩を震わせている。
『ルナは小さい頃、よくおねしょして宇宙地図かいてた』
『ウチの方がモテた』
『世話が焼けるんや』
開きっぱなしの副回線から聞こえてくるチャコの声が、室内にまで響いている。
「……あの子、本当に容赦ないわね」
マイクをミュートにしながら、ペルシアは目尻の涙を指で拭った。
「ペルシアさん、記録どうします?」とオペレーターの一人が笑いを噛み殺しながら尋ねる。
「もちろん保存。あとで本人に送る」
「送るんですか……」
「冗談よ。――でも、将来の“交渉材料”くらいにはしておこうかしら」
そんなやり取りの最中、通信室の扉がそっと開いた。
「失礼します……」
案内役の職員に連れられて入ってきたのは、ルナだった。
見送った後だからか、今は、三日月のネックレスが見えないくらい、彼女はうつむき加減だった。
「ペルシアさん、ルナさんをお連れしました」
「ありがとう。入って、ルナちゃん」
ペルシアが笑みを整えた瞬間――副回線から、またチャコの声が飛び込んでくる。
『ルナはおっちょこちょいでな、ウチがおらんと危なかっしくて、世話が焼けるんや!』
「……っ!」
ルナの肩がびくんと跳ねた。
室内にいたスタッフの何人かが、気まずそうに咳払いをする。
しかし、笑いを完全に消すには少し遅かった。
ペルシアは咳払いをひとつしてから、回線のボリュームを少し絞った。
「ご、ごめんなさい……」
ルナは耳まで真っ赤にしながら、深く頭を下げた。
「チャコが、その……変なこと、言ってますよね……?」
「変なこと、っていうか……」
ペルシアは机に肘をつき、頬杖をつきながら、にやりと笑う。
「“宇宙地図”は、なかなか秀逸な比喩だと思ったけど?」
「や、やめてくださいっ!」
ルナは両手で頬を覆い、さらに俯き込んだ。
「ほ、ほら、ペルシアさん」
オペレーターの一人が小声でささやく。「本人の前であまりからかわない方が……」
「分かってるわよ」とペルシアは苦笑気味に肩をすくめる。
「……ごめんなさい。チャコが、また……」
ルナは小さく呟いた。
「謝るのはチャコの方よ」
ペルシアはやわらかい声で言う。「でもね、ルナちゃん」
「は、はい……」
「こういう“どうでもいい話”が宇宙に流れてるってことは――
逆に言えば、“今のところ、本当に危ない話は何一つ流れてきてない”ってことよ」
ルナははっとして顔を上げた。
「……あ」
「操縦席のリュウジも、補助のチャコも、クルーも。
少なくとも今は、ジュースの話や昔話をする余裕がある。
それは、こっちにいる私たちにとっても、すごく大事な情報なの」
ペルシアはモニターに映るネフェリスの航跡をちらりと眺める。
「だから、恥ずかしがる必要はないわ。むしろ――」
「むしろ?」
「いい意味で、あの船の“空気”を保ってくれてる。
チャコには後で、“よくやった”って言っておいてあげる」
「そんなぁ……」
ルナはまだ頬を赤くしながらも、わずかに口元がゆるんだ。
通信室には、さっきまでの笑い声よりも少し穏やかな空気が漂う。
「さ、こっちはこっちで“見守る仕事”がある。
ルナちゃんも、ここで一緒に聞いていきなさい」
「……はい!」
ルナは胸元のネックレスをそっと握り、モニターに映る小さなネフェリスのアイコンを見つめた。
その向こうで、チャコがまた何か余計なことを言っているのが、少しだけ、くすぐったくて誇らしかった。