ネフェリスの内部には、船体のわずかな振動と、空調が生む低い風の音だけが響いていた。船内灯は落とされ、白と薄青の光が柔らかく反射している。宇宙船独特の閉ざされた静寂――しかし、それが逆に、船員たちの会話をより鮮明に、色濃く際立たせていた。
エリンが紙コップを両手で持ちながら笑みを浮かべる。
「さて……じゃあ、次は“どうして今回の任務に参加したか”を聞いていこうかしら」
その一言に、マリとサツキが同時に顔を上げた。
チャコはというと、手にしたジュースのストローを噛んだまま、興味津々で二人を見比べている。
サツキは腕を組み、マリは無表情のまま目線を逸らした。
「……私から?」とマリ。
エリンは頷く。「ええ。もちろん話したくなければ無理にとは言わないわ。ただ、こういう時って、どうしても“自分以外は何を考えているのか”気になって不安になったりするものなの。話すことで、互いが楽になるから」
マリは息をひとつ吸い、ほんの僅かに視線を落とした。
「……別に大した理由じゃない」
「ペルシアに押し付けられたんやろ?」とチャコ。
「……ええ、その通りだ」マリは頭を掻く。「私は元々、本部勤務でモニター管理と通信分析。現場に出るタイプじゃない。なのにペルシアさんから直々に回ってきた任務が、これ」
「ペルシアがこんな任務を押し付けるなんて珍しいね」とクリスタルが言う。
「珍しいどころじゃない」マリは肩をすくめる。「向こうは“あなたが適任”って言うだけで、詳細は全部職務命令」
「でも――」エリンが柔らかい声で続ける。
「ペルシアは、“本当に信頼できる相手”じゃないと、自分が関わってる任務には絶対に呼ばない人よ? 押し付けたんじゃなくて、“任せた”の間違いじゃない?」
マリの指が一瞬止まる。
「……かもしれないけど。あの人、押しが強い。断れる空気じゃないし」
「断っても、あの人なら“じゃあ今から説得します”って家まで来そうだね」とサツキが笑う。
マリは吹き出した。
「……言いそう。ほんとに言いそうなのが怖い」
エリンがくすっと笑い、紙コップをマリの前にそっと置いた。
「でも安心して。ここにいる全員、何かしら“押し付けられた”経緯はあるのよ」
「ウチは違うけどな!」とチャコ。
「チャコは押し付ける側でしょ……」クリスタルが呟く。
船内に小さな笑いが生まれ、それが緊張をほぐしていく。
エリンは視線をサツキへ移した。
「じゃあ次は、サツキ。あなたはどうして?」
サツキは組んでいた腕をゆっくり解いた。
「……正直に言っていいですか?」
「もちろん」
サツキは少し遠く、航路データが映るモニターへと視線を向けた。
「私、あなたの“サヴァイヴ特集”、全部見てきたの」
周囲がピタリと静かになった。
サツキは続ける。
「最初はただの好奇心だった。“未開の惑星で漂流した子供たち”っていうニュースがあまりにインパクトあったから。でも、映像を見て、レポートを読んで……その中に、私の知っている名前を見つけたの」
そこで、彼女の声がほんの少しだけ震えた。
「――ポルト」
チャコの目が見開かれた。
「ポルトさん……!」
「知ってるの?」クリスタルが尋ねる。
チャコは頷き、少し遠くを見るようにして言った。
「ポルトさんはな、サヴァイヴでウチらの命を何度も救ってくれた……仲間や」
サツキの表情に、静かな痛みが浮かぶ。
「……やっぱり、そうだったんだ」
リュウジも操縦席から目を上げた。
サツキはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ポルトさんは、私にとって“師匠”だった。恒星間輸送船のメカニックとしての基本も、特殊船外作業の技術も、全部、彼に教わった」
「師匠……」とエリン。
「ええ。ポルトさんは優しくて、でも厳しくて……。“自分の技術で誰かの命を守れ”って、そう教えてくれた人」
チャコは自分の尻尾をぎゅっと握るようにして聞いていた。
「サヴァイヴ特集で彼の名前を見つけた時……頭が真っ白になった。
あの惑星で、あんな場所で、最後まで戦って……そして――」
言葉は詰まったが、それだけで十分伝わる。
エリンはそっとサツキの隣に移動し、背中に手を添えた。
「それで、今回参加したの?」
サツキは力なく笑った。
「正直……私はリュウジを見てみたかった」
リュウジは驚いたように眉を上げる。
「俺を?」
「……ええ。ポルトさんが、あなたたちと一緒に過ごして。
大陸を渡るために自分の手で船を作って、その船をあなたが操縦して……仲間を守ったと聞いた」
サツキは手を握りしめた。
「その話を聞いて……胸が熱くなった。
“ああ、この人は、師匠が命を懸けて守った仲間なんだ”って」
チャコは目を潤ませながら言った。
「……サツキ、あんた……」
「だから、今回参加した理由はそれだけじゃないけど……でも大きいわ。
あなたたちが守ってきたものを、この目で見たかった。
そして……ポルトさんが守った仲間の力になりたかった」
ネフェリスの狭い船内に、その想いは重く深く落ちた。
沈黙を破ったのは、エリンの柔らかい声だった。
「サツキ。……ありがとう」
サツキは照れたように視線を逸らした。
「礼なんかいいです。ただ――」
「ただ?」とエリン。
「……今回の任務、なんとしても生きて帰る。
ポルトさんに怒鳴られそうだし」
チャコがくすっと笑った。
「怒鳴られるどころか、“お前も来たんかい!”って喜びそうやけどな」
サツキも微笑んだ。
そして――視線は自然と、操縦席のリュウジへ。
リュウジはしばらく黙って、星が流れる前方を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……ポルトさんの遺したものは、俺たちだけじゃないんだな」
サツキは頷いた。
「ええ。私も、その一人」
リュウジは息を吸い、そして言った。
「――俺たちが必ず、みんなで帰る。
ポルトさんに胸を張って報告できるようにな」
サツキは、ようやく本物の笑みを見せた。
「期待してるわよ、S級パイロット」
チャコが両手を上げた。
「ほな決まりや! みんなで帰るんがウチらラスペランツァや!」
「“希望”の名前に恥じないように、ね」とエリン。
「ええ、もちろんだ」とマリまで微笑んだ。
そしてネフェリスは、静音のまま、確実に加速していく。
まだ見ぬ“未知の闇”の方へ――
しかしその船内には、不思議なほど温かい空気が満ちていた。
ーーーー
「――これから規定航路を外れる」
リュウジが、静かに告げた。
前方スクリーンには、淡く青白いラインで描かれた“正規ルート”が映っている。
「チャコ。神経応答制御を一度落とす。再起動の後、俺に接続してくれ」
「了解や」
チャコはくるりと椅子を回し、コンソールの奥に手を伸ばした。
“NEURAL RESPONSE SYSTEM”と刻まれたブレーカーを落とし、数秒待ってから再投入する。
パネルのランプが一斉に暗くなり、順に点灯していく。
「主制御、リブート完了。サブも順次立ち上がり……リンク待機状態や」
「頼む」
リュウジは操縦席に深く座り直し、ヘルメットの側面に指をそえる。頬の内側に埋め込まれた小さなインターフェースが、微かな熱を帯びた。
チャコの前のモニターに、脳波パターンのグラフが走る。
「神経応答制御――リンク開始」
チャコが指を滑らせると、リュウジの視界の端に、ネフェリスの三次元モデルが薄く重なった。
姿勢、推力、重心バランス。感覚の奥底に、“船の傾き”がそのまま流れ込んでくる。
「……よし。遅延なしだ」
「ウチのチューニングや。文句言わせへんで?」
「あとでな」
短く言って、リュウジは視線を前方に戻した。
緑色のラインで示された“これから進むべき道”が、脳裏の奥で鮮明になる。
「――それと」
彼は神経リンクの感覚を確かめながら、振り返らずに声をかけた。
「チャコ。今のうちに設備の細かいところ、サツキと共有しておけ。
機械室を一周して、ネフェリスの“癖”を伝えてくれ」
「任せとき。ウチの頭の中身、全部コピーしたるわ」
「全部は遠慮しておく」
サツキが苦笑する。
「……ありがとう。機関周りの構造も、まだ完全には把握してない。
設計図だけじゃ分からないとこが多いのよね」
「せやろ? 機械は“肌で覚える”もんや。行こか、サツキ」
チャコはマグネットレールに足をかけ、すいっとドアの方へ滑っていく。
「私はどうすればいいの?」
副操縦席から、クリスタルが問いかけた。
シートベルトを腰にだけかけ、準備万端の姿勢だ。
「クリスタルは、俺と一緒に操縦の確認だ。
“ネフェリスの癖”を共有しておく」
リュウジは、自然と敬語になる。
クリスタルは、ほんの少し目を細めて笑った。
「了解。リュウジの“勘”頼りじゃ、上から怒られるしね」
「そういうことだ」
リュウジも軽く笑い、各種スイッチの配列をゆっくり説明し始める。
「このレバーが重力制御の微調整。
神経応答制御を切った時は、ここで手動補正する。
こっちがサージの逃がし弁。緊急時は――」
「なるほど。じゃあ、私が神経制御なしのバックアップ操縦を。
もしあなたが過負荷で落ちても、ネフェリスだけは生かしておく」
「……心強いな」
リュウジがそう言った瞬間、後ろから軽い声が飛んだ。
「じゃあ、私は機械室を見学させてもらうわ。
“現場の空気”は、見て聞いておかないと」
エリンがふわりと浮かび上がる。
その動きは、何度も宇宙を飛んできた人間のそれだった。
「エリンさんも行くんですか?」
サツキがわずかに驚く。
「ええ。サツキやチャコがどんな“顔”で機械を触るのか、見ておきたいの。
どんな状況でも、その人らしさは変わらないから」
「……心得てるわね」
クリスタルが感心したように呟く。
チャコがくるりと振り返った。
「ほな、エリン、一緒に来てな。ネフェリスの“機嫌の取り方”教えたるわ」
「ぜひお願いするわ」
エリンはリュウジの側を通り過ぎる時、さりげなく紙コップを一つ彼のコンソールに置いた。
「さっきのコーヒー、淹れ直しておいたわ。
冷める前に、少しずつでも飲んでおいて」
「……ありがとうございます、エリンさん」
リュウジが目だけで礼を言うと、エリンは軽く頷き、ドアの方へ向かう。
「チャコ。案内、お願いね」
「おうとも! こっからがネフェリスの心臓部や」
「……じゃあ、“心臓の鼓動”を、ちゃんと耳で聞いておく」
三人の足音――いや、マグネットレールを踏む小さな音が遠ざかり、ドアが静かに閉まる。
コックピットには、リュウジとクリスタル、そして奥の席でログを確認しているマリだけが残った。
「――さて」
クリスタルが、改めて前を向く。
「規定航路外。目的地まで、後二日ちょっと。速いわねネフェリスは」
「ああ。サヴァイヴの最新技術で作られた宇宙船だからな」
リュウジは指先でスロットルを撫でるように触れた。
神経応答制御を通じて、ネフェリスの微かな振動が、そのまま自分の身体に響いてくる。
「それでも、準備できることは全部やる。
俺の感覚も、機体の癖も、クルーの“理由”も――全部な」
「任せて。
“ラスペランツァ”の翼を折らせるわけにはいかないから」
クリスタルの声には、いつもの明るさに、薄く決意の色が混ざっていた。
その頃、機械室へ続く長い通路では――
「ここが、ネフェリスの動力部?」
エリンが目を丸くしていた。
壁一面に並ぶコンデンサユニットと、脈動するように光るエネルギーライン。
サツキが慣れた手つきでハッチを開き、内部を確認してゆく。
「見ての通りですね。
元の設計に、チャコの改造が山ほど乗ってる。
ログだけじゃ足りないと思ってたけど……やっぱり実物を見て正解だわ」
「そやろ? ウチの芸術品やで」
チャコが胸を張る。
「芸術品なら、もう少し美しく配線をまとめてほしかったわ」
「中身は美しいんや!」
サツキとチャコの軽口に、エリンがくすりと笑う。
「……大丈夫ね」
「何がです?」
サツキが振り返る。
「こうやって好きなことを喋ってる時の顔を見れば、分かるの。
二人とも、まだ“余裕”がある」
エリンは胸に手を当てる。
「その余裕があるうちに、全部覚えておきたいのよ。
ネフェリスの構造も、みんなの表情も、声も」
「えらい、ロマンチックなこと言うなぁ」
チャコが照れ隠しのように言うと、エリンは少しだけ真面目な顔になった。
「だって――何が起こるか分からないんだもの」
その一言に、機械室の空気がわずかに引き締まる。
だが、すぐにエリンは笑みを取り戻した。
「だからこそ、全部、ちゃんと“知って”から飛びたいの。
誰が、どんな想いで、この船に乗ってるのか」
サツキが短く息を吐く。
「……安心しました。
“プロ”がちゃんと見てくれてるって分かりました」
「もちろん」
エリンは軽くウインクした。
「さ、続きの案内をお願い」
「任せとき!」
チャコが誇らしげに配線ラックを叩き、サツキが苦笑しながらその手を押さえる。
ネフェリスの“心臓”は、そんな三人のやり取りを、低く優しい脈動で受け止めていた。
そして前方のコックピットでは、
リュウジの意識とネフェリスの舵が、完全に一体になろうとしていた。
規定航路の青いラインは、やがてスクリーンの端へと消えていく。
代わりに、誰も描いたことのない軌跡が、静かに――しかし確かに、宇宙の闇の中へと延び始めていた。
ーーーー
それから数時間後。
ネフェリスは静かな亜光速航行に入り、船体を伝う微かな振動だけが「進んでいる」という事実を教えてくれていた。
エンジンルームではサツキとチャコが、パネルの前で身を寄せ合っている。
「ここの圧力値、さっきよりちょっと高いわね……」
「このくらいやったら誤差の範囲や。けど、よう見とるなぁ。師匠に仕込まれただけあるわ」
「ふふ、ポルトさんなら“油断するな”って言うから」
二人の指が走るたび、モニターの数値がきびきびと更新される。
その背後――いつの間にか、配線の隙間に小さな折りたたみテーブルが出現していた。
サツキがふと振り向いて、目を瞬かせる。
「あれ……いつの間に?」
だろ」
テーブルの上には紙コップが三つ。
一つには湯気の立つお茶。葉で煮出したもの特有の香り。
もう一つは透明のゼリー飲料。
そして最後の一つにはチャコ用の極選ジュース。
横には、ラベルに小さく「サツキ」「チャコ」「予備」と書かれたメモ。
「エリンやな」
チャコが耳をピクッと動かしながら呟いた。
「全然気づかなかった……」
「ホンマ、幽霊みたいやで。気づいたら、必要なもんだけ置いて消えとる」
サツキは思わず笑う。
「幽霊って……」
メモを手に取り、自分の名前が書かれた紙コップをそっと持ち上げた。
ふわりと立ち上がる、やわらかな茶の香り。
「……あ、これ、ちゃんと“葉で淹れた”お茶の香り……」
エリンが、自己紹介の時にしていた「どんな飲み物が好き?」アンケート。
あのときサツキが、「“葉で淹れた”お茶が好きです」と照れながら答えたのを、彼女はきっちり覚えていたのだ。
チャコも、自分の名前が書かれた方を手に取る。
「ウチのは……極選やんけ!」
紙パックごとテープで固定された極選ジュースが、ちょうどチャコの手の届く高さにぶら下がっている。
「せやから言うたやろ。エリンの“仕事モード”入ったら、ウチらの嗜好全部、頭に入っとるで」
「……なんか、ちょっと怖い」
「怖いけど、助かるやろ?」
「すごく、ありがたいわ」
二人は顔を見合わせ、同時に一口含んだ。
「落ち着く……」
「しみるわぁ……」
ほんの数分の休憩。それだけで、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。
「よし。じゃあ、もう一周点検しよか、サツキ」
「ええ!」
再び視線がメーターに戻る。その間も、誰一人として「取りに行く」ために手を止めなくていい。
“飲み物の動線”は、すべてエリンの頭の中で組み立てられていた。
***
一方、コックピット。
前方スクリーンには、まだ遠いセーシング領域の方向が薄く表示されていた。
「ノイズは……まだ平常ね。縁までは距離がある」
マリが淡々と通信波形を追う。
クリスタルは静かな声で操縦データを読み上げていた。
「姿勢制御、微調整する。……はい、これで安定かな」
「助かる」
クリスタルが操作するたび、ネフェリスの軌道がわずかに修正される。
その背後――出入口の脇の、小さな棚の上に、いつの間にか紙コップが四つ整列していた。
「……ん?」
いち早く気づいたのはマリだった。
手元の操作を止めることなく、器用に片手を伸ばす。
「あれ……? 紅茶の香り……強め……?」
マリの好みを正確に押さえた濃いブレンドティーだった。
香りを嗅いだ瞬間、表情が緩む。
「はい、マリ。ミルクは入れてないわよ」
「……エリンさん。ありがとうございます」
いつの間にか、出入口のそばにエリンが立っていた。
コックピットの空気になじみ過ぎていて、誰も扉の開く音に気づかなかったのだ。
「……相変わらず、忍者みたいな登場の仕方するわね、エリン」
クリスタルが苦笑する。
「忍者じゃないわよ。ただ、邪魔をしたくないだけ」
エリンは柔らかく笑い、残りの紙コップをそれぞれの手元に滑らせていく。
一つは、チャコの席の脇へ。
中身は、極選をベースにした少し薄めのジュース。糖分は補給できるが、ベタつきにくい配合だ。
最後の一つは、リュウジの右手側に。
「はい、リュウジ」
「……ありがとうございます」
リュウジは一瞬、視線をスクリーンから外し、コップを受け取った。
香りはコーヒー。しかし、その色はどこか柔らかい。
「今日は決断のあとで、顔色が少し沈んでたわ。コーヒー薄めてあるの。胃に優しいやつ」
「……そこまで読まれてるのか」
「今、少し顔色が悪かったから。カフェインは欲しいけれど、空腹時にストレートはきついでしょう?」
さらりと言ってのける。
「俺の顔を見て、そこまで判断したんですか?」
「それもあるけど」
エリンは窓の外をちらりと見やる。
「あなた、決断したあとって、必ず一度“飲み込む”みたいな顔をするの。
悲劇のフライトのあとも、サヴァイヴから帰るときも、そして今回――ブライアンの捜索を引き受けたときも」
リュウジは言葉を返さなかった。
代わりに、コップに口をつけ、ゆっくりとひと口飲む。
「……飲みやすいです」
「でしょう?」
それ以上深追いはしない。
エリンの役目は、「心の奥」に土足で踏み込むことではなく、「その一歩先」で転ばないよう、足元を照らすことなのだ。
「クリスタル」
「ん?」
「あなたのはエネルギーパック。さっきから無意識に奥歯、噛みしめてるから」
「うわ、見られてたのね」
クリスタルは肩をすくめ、一気に半分ほど流し込んだ。
「……助かるわ」
「どういたしまして」
そう言いながら、エリンは一歩下がる。
コクピットの出入口とコンソールのちょうど中間、誰の視界も邪魔しない、しかし呼ばれたらすぐ届く距離。
立ち位置まで計算され尽くしているのが、自然すぎて誰も気づかない。
***
船内の狭い通路を、エリンは滑るように移動していた。
片手にはタブレット、もう片手には補給リスト。足音はほとんど響かない。
(ペットボトル水、残り三十六本。ゼリー二十四。クッキーと煎餅の配分、サツキとマリが偏らないようにして……)
彼女の頭の中には、小さなマップがある。
ネフェリスの各区画だけでなく、「誰がどの時間帯に、どこで、どれくらい集中するか」という行動パターンの地図だ。
(サツキは夢中になると飲むの忘れる……補給多め。
マリはノイズ増えると喉が乾く……ブランケットも必要。
クリスタルは緊張で甘い物欲しくなる。
チャコは言わなきゃ飲まない。
リュウジは“決意のあと”にカフェイン量を調整……
全員、同じように扱ってもダメ。
“その人が仕事を止めずに済む形”で、必要なものだけ差し込んでいく)
それが、エリンのチーフ・パーサーとしての「戦場」だった。
食料区画に入り、棚を開ける。
日数と人数を計算しながら、今日使う分をサブのストレージボックスに振り分けていく。
「……よし。今日の“前半戦”分」
***
再びエンジンルーム。
「――はい、ちょっと手、止めて」
サツキがパネルに視線を固定したまま眉をひそめると、すぐ横からタオルが差し出された。
「エリンさん?」
「額の汗、目に入りそう。あと五分そのままだと、視界がぼやけてミスるわよ」
「あ、ありがとうございます」
言われて初めて、サツキは自分がどれだけ集中していたかに気づく。
額の汗を拭うと、視界が少しクリアになった。
「つい、夢中になっちゃって」
「分かるわ。でも、ネフェリスは逃げないし、エンジンもあなたを待ってくれる。
サツキがきちんと“自分のケア”をしてくれている方が、ポルトさんも安心すると思う」
「……そうですね」
サツキはお茶の入った紙コップを受け取り、一口飲んだ。
「チャコは……」
「ウチは大丈夫やで!」
と言いつつ、エリンが差し出したジュースを、当然のように受け取る。
「はいはい、“大丈夫”って言う人ほど危ないの、覚えてる?」とエリン。
「ぐ……痛いとこ突いてくるなぁ」
笑い声が漏れる。
その間も、誰も自分の持ち場から大きく離れない。
エリンの動線が、全員の「動かないで済む」範囲にきっちり合わせられているからだ。
***
通信コンソールの前では、マリが波形データに睨みをきかせていた。
「ノイズ、少し増えてきたな……」
その肩口に、そっと何かが触れる。
「マリ」
「うわっ」
振り向くと、そこにエリンがいた。手には薄手のブランケット。
「肩、冷えてる。空調が通信ブロックに直撃してたから」
「そんなことまで見てんですか!?」
「さっき通路を通ったとき、風の向きがちょっと変わってるのに気づいたの。
ブランケットは邪魔にならないように、腰から上だけね」
エリンは手早くマリの肩にブランケットをかけ、その上から軽く叩く。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。はい、紅茶のおかわり。」
「お、分かってますね」
マリはカップを受け取り、香りを吸い込む。
「落ち着く……」
「ここが揺れたら、船全体が揺れるからね。マリが一番リラックスしててくれる方が、私たち全員安心できるの」
「……プレッシャーのかけ方、逆にうまくないですか?」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
エリンは目を細め、視線だけでコンソールの状態を確認した。
問題なし、と一瞬で判断し、静かにその場を離れる。
***
ネフェリスの内部を、エリンは何度も往復する。
狭い船内なのに、なぜか「歩き回っている」という印象が薄いのは――
一つの場所に長く留まらず、しかし決して「慌ただしい」動きを見せないからだ。
すれ違うたびに、誰もがこう思う。
(あ、今ちょうど欲しかったやつだ)
(なんでこのタイミングで出てくるんだろう)
けれど、それを口に出す暇もない。
彼女が持ってくるものは、いつだって「作業の合間」ではなく、「作業の延長線上」に滑り込んでくるからだ。
その結果として――
「……ネフェリスの中、妙に快適じゃない?」
ふと、クリスタルがコックピットで呟く。
「危険宙域に向かってるって実感、あんまりないな。いい意味で」
「そうね」
エリンが、窓の外の星々を眺めながら答える。
「怖さは消えない。でも、“怖さだけ”にならないようにするのが、私の仕事だから」
リュウジは、前方のスクリーンから視線を外さないまま、静かに言った。
「エリンさんが船にいてくれると、安心できます」
「ふふ、それは光栄」
彼女はほんの一瞬だけ、リュウジの横顔を見つめる。
覚悟を決めたパイロットと、その背中を支えるクルー。
そのクルーの中で、誰より「縦横無尽」に船内を駆け回るのが、チーフ・パーサー――エリンだった。
食料の管理。
飲み物の温度。
タオルの枚数。
ブランケットの位置。
全員の顔色、声のトーン、沈黙の長さ。
それらすべてを、彼女は「機体のパラメータ」と同じくらい精密に観察し、調整していく。
気づけば、誰もが、自然とこう思っていた。
(エリンがいるなら、大丈夫だ)
その穏やかな確信が、ネフェリスという小さな船の、見えない「もう一つのシールド」となっていくのだった。
ーーーー
ネフェリスはセーシング領域へ向けて、無音の宇宙を滑るように進んでいた。
その中で、通信セクションにいるマリの手元をエリンが静かに覗き込んでいた。
「……この波形、“ノイズ”に見えるけど、違うわよね?」
エリンが指さすと、マリは目を瞬かせる。
「気づくの早いですね……それ、背景放射と航行圧の干渉。慣れれば分かります」
「ふむふむ。じゃあ、ここで振り分けるのね?」
「そうです。ここのフィルタ値を……あの、押しすぎないでください。壊れます」
「あっ、ごめん。繊細なのね」
「……エリンさんの“好奇心”は危険です」
「辛辣ねぇ……」
苦笑しつつもエリンは素直に手を引っ込める。
マリは指先で最小の動きだけを使い、ノイズを取り除いた。
「ねぇ、マリ。教えてくれたら、私も通信サポートに入れる?」
「えっ……エリンさんが……ですか?」
「だめ?」
「だめじゃないですけど……むしろすごく助かりますけど……」
マリは一瞬だけ目を伏せ、そして真面目な顔つきで続ける。
「でも、エリンさんって……ふわっとしてるようで、本気出すと怖いんですよね」
「褒められてるのか、怖がられてるのか分からないんだけど」
「両方です」
「正直ねぇ」
「私は通信専門なので……航宙中は常に負荷がかかるんです。
だから、雑音でも、誰かの呼吸でも、全部拾ってしまう。
でもエリンさんの“動き”だけは、本当にストレスにならない」
「褒めてるじゃない。嬉しい」
「褒めてます。だから……通信クルーとして前に立たないのがもったいないです」
エリンは小さく息を吐き、目を細めた。
「私の仕事は、支える側よ。誰かを前に押し出す方が好きなの」
「……らしいですね」
二人は静かに笑い合った。
だが、通信室の壁の向こうーー
ネフェリスを包む銀河は、徐々に未知の領域に近づいていた。
***
「サツキ、チャコ、ここにいたのね」
機械室の扉を開けた瞬間、熱気と鉄の匂いが流れ込んできた。
「エリン!」
チャコが嬉しそうに顔を向ける。
「うん。二人にお願い。ネフェリスの心臓を教えて?」
「もちろんや! まずはここの“神経応答制御システム”や」
チャコが胸を張ると、サツキが隣で頷いた。
「私も、サポートしますね。エリンさん、危ないところは手を入れないでくださいね……」
「う……みんな私を“不用意に触る人”と思ってない?」
「違いますか?」
「否定できへんやろ?」
二人に同時に言われ、エリンは肩を落とした。
「……気をつけます」
「まぁまぁ、ええわ。まずはこれ、ネフェリスの中枢部分やけど……」
チャコが小さな爪でホログラムパネルを起動する。
ネフェリスの内部構造が立体で浮かび上がった。
「ここが“応答制御”。リュウジはここを直接神経リンクで操縦してるんや」
「つまり……機体の動きを“反射”で返してるの?」
「そう! さすがやエリン!」
「すごいわね……そんなの、普通の操縦士じゃ絶対に無理だわ」
「だからリュウジは化け物じみてるんですよ……良い意味で」
サツキがはにかむように笑った。
「で、サツキは何を見てるの?」
「私は……ここの振動値と温度管理です。
この船、意外と繊細なので……小さな誤差が命取りになるんですよ」
「へぇ……あなたの指先、すごく安定してる。職人ね」
「そ、そんな……! 褒められると……照れます……」
サツキは両手を胸の前でそわそわさせ、頬を赤らめた。
「でな、エリン。ここの“エネルギー回路”は——」
「ちょ、ちょっとチャコ! そこ熱いわよ!」
「わ、ほんまや!危なっ!」
「もう……チャコも気をつけて……!」
「二人とも仲良いじゃない」
「仲良い……んかな?」
「どうでしょう……?」
三人は吹き出した。
機械室の明かりの下、
ネフェリスの心臓が規則正しく脈を打ち続けていた。
***
機械室での“お勉強会”がひと段落すると、エリンは小さく伸びをした。
「ふぅ……ネフェリスの中身、少しは分かってきたかな」
「エリンさん、飲み物、飲みます?」
サツキが気遣うように首を傾げる。
「大丈夫。ありがと、サツキ。でも、そろそろ通信にも顔出さないとね。マリがヤキモチ焼いちゃう」
「焼きませんよ……たぶん」
サツキがくすっと笑い、チャコは「絶対ちょっとは焼いとるわ」とぼそっと突っ込んだ。
「じゃ、またあとで。何かあったら呼んでね」
「はいっ!」
エリンは二人に手を振り、通路を軽やかに戻っていった。ネフェリスの床はわずかに振動している。それが今、自分たちが確かに“進んでいる”という証拠に思えて、少しだけ胸が熱くなる。
***
通信セクションに戻ると、マリはちょうどソーラ・デッラ・ルーナとの定期通信ログを確認しているところだった。
「ただいま、マリ。邪魔してもいい?」
「おかえりなさい、エリンさん。……いえ、むしろ助かります。そろそろログ整理が増えてきたところで」
「じゃあ、私にも何か仕事をちょうだい」
エリンは空いているサブコンソールの前に腰を下ろす。
マリは一瞬だけ躊躇したものの、すぐに切り替えた。
「では……ここ、監視ライン2番。セーシング領域に近づくにつれて、バックグラウンドノイズが増えるはずです。
この閾値から上がったら、私に知らせてください」
「了解。ノイズだけじゃなく、人間の声も拾ったら教えていい?」
「……エリンさんが聞こえるなら、ぜひ」
モニターに流れる波形を見ながら、エリンはイヤーパッドを片耳だけ軽く当てる。
通信自体はまだクリアだ。けれど、その向こうにある“人の気配”は、画面の外ににじむように感じ取れる。
「……あ、今、ソーラ・デッラ・ルーナの通信室、ちょっとざわついたわね」
「え? まだこちらにはレベル上がってないですけど……」
「声のトーンが変わったの。さっきまで低くて固かったのに、急に明るくなった。誰か冗談でも言ったのかも」
「……やっぱり怖いです、エリンさん」
「またそれ? 少しは褒めてよ」
「褒めてます。心から」
マリは苦笑しつつ、エリンに新しいタスクを渡していく。
「じゃあ、エリンさん。ここのテンプレート返信、作ってもらえますか? 定時報告用です」
「了解。文面、どういうトーンがいい?」
「フォーマルですけど……固すぎると、ペルシアさんが“読まない”可能性が」
「あぁ、想像できるわね、それ」
エリンはキーボードに指を走らせる。
“必要十分かつ、読む気になる程度の柔らかさ”
それを自然に調整していく様子に、マリは素直に感心した。
「……早いですね。しかも、こっちの言い回し……ペルシアさんのクセまで合わせてる」
「だって、あの人、長文嫌いだし。ポイント三つくらいにしておかないとね」
「そこまで読んでたんですか……」
「ペルシアの声、分かりやすいもの。早口になるところと、テンションが落ちるところの差が大きいから」
「……やっぱり、怖いです」
「そこ、“すごい”って言うところじゃない?」
「すごいです。怖いくらいに」
二人はまた、同時に笑った。
しばらくの間、ネフェリスの通信セクションでは、
キーボードの打鍵音と、控えめな通知音だけが心地よいリズムを刻んでいた。
エリンはマリの手順を覚えながら、自然に“先回り”を始める。
必要なログを事前にまとめ、次に来そうな指示のためにテンプレートを準備し、通信の合間に小さな“ひと息”を差し込む余裕まで作る。
「……エリンさん」
「なぁに?」
「正直に言っていいですか」
「うん」
「最初は……“元チーフ・パーサー”って聞いても、そこまで期待してませんでした」
「無理もないわよ」
「でも今は、本気で尊敬してます。
私たち通信クルーが“届ける”前に、エリンさんが“整えてくれる”から、全体の負荷がぜんぜん違う」
「ありがとう。そう言ってもらえると、やりがいがあるわ」
「……それから」
マリは少しだけ視線を落とし、言葉を選んだ。
「エリンさんが、“怖い”って思ってたのは撤回します。
……いえ、やっぱり怖いですけど」
「やっぱり?」
「でも、その“怖さ”ごと……頼りにしてます」
エリンは、ゆるく目を細めた。
「じゃあ、その“怖さ”がみんなの安心に変わるように、がんばるわね」
ふわりと笑うその横顔は、“全盛期のチーフパーサー”と呼ばれた頃と同じ、
けれどその眼差しは、あの頃よりもずっと遠くを見ていた。
***
同じ頃ーー
ソーラ・デッラ・ルーナの管制棟にある通信室では、大量のモニターがネフェリスの状態を映し出していた。
「……はぁ、よく喋るロボットペットだなぁ……」
別ラインで流れていたチャコの“ルナ暴露大会”を聞きながら、オペレーターの一人が苦笑する。
「面白いけど、録音データの扱い、注意しないと怒られそうですね」
「もう既に、怒られそうな人、ここに一人おるしな」
視線の先には、真っ赤になって俯いているルナの姿があった。
「す、すみません……」
ルナは小さく肩をすくめる。
隣ではペルシアが、モニターに肘をつきながら笑っていた。
「いいのよ、ルナちゃん。こういうのも大事な“船内の空気”だからね。
それにしても、チャコ、本当に容赦ないわねぇ」
「……帰ってきたら、ちょっと叱っておきます」
「ほどほどにね?」
そのとき、通信卓のひとつで、インカムのランプが点滅した。
「ペルシアさん、マリさんからサブ回線です」
「つないで」
短い電子音のあと、少し緊張を含んだマリの声が聞こえてきた。
『……こちら、ネフェリス通信担当のマリです。ソーラ・デッラ・ルーナ、聞こえますか』
「こっちはペルシア。よく聞こえてるわ。どうしたの、トラブル?」
『いえ、トラブルではありません。……報告と、少し個人的な感想を』
「感想?」
ペルシアが眉を上げると、ルナは思わず身を乗り出した。
『……エリンさんのことです』
「エリン?」
ペルシアの声音が、わずかに柔らかくなる。
『正直に申し上げて、最初は“客室担当のベテラン”くらいの印象でした。
でも、実際に一緒に仕事をしてみると……』
マリは、一度言葉を切り、整えるように深く息を吸った。
『通信の補助、ログ整理、クルーごとのコンディション把握、作業の優先順位調整……
どれも“専門家”以上に、全体を俯瞰して動いています。
私たち通信クルーが三人がかりでやる仕事を、
エリンさんは“すき間時間”で半分以上、先回りして片付けてしまうんです』
「ふふっ、やっぱりね」
ペルシアは口元に笑みを浮かべた。
『それだけじゃありません。
さっき、ネフェリスの機械室に行って、チャコとサツキと話しながら、
作業の邪魔にならない位置取りで、必要な情報だけを拾って……
そのまま、私たち通信側の“次の手”に繋げてくれました』
「剥き出しの現場でも、ちゃっかり役に立ってるのね、あの子」
『はい。……お世辞抜きで、“すごい”です。
こんな言い方は失礼かもしれませんが……
エリンさんがいるだけで、この船の“ストレス値”が丸ごと下がっている気がします』
ルナは、その言葉に小さく息を呑んだ。
自分たちがサヴァイヴで得た“支え合う感覚”を、
遠く離れた宇宙船の中で、別の形でやっている人がいるーー
そう思うと、不思議な安心が胸に広がる。
『……以上、現場からの追加報告です。失礼しました』
「ちょっと待って、マリ」
ペルシアが呼び止める。
『はい?』
「マリがそこまで言うなんて、珍しいじゃない。
あなた、普段は数字と実績でしか人を評価しないタイプでしょ?」
『……否定は、しません』
「いいわ、その“感想報告”、正式ログに残しておいて。
あとで私が局長に見せるから」
『えっ……そ、それは……』
「大丈夫。怒られたりしないわよ。
“エリン”の真価は、数字だけじゃ測れないからね」
『……ペルシアさんは、知っていたんですよね』
「なにを?」
『エリンさんの……本当の実力を。
私たちが“元チーフ・パーサー”なんて肩書きだけで判断していた頃から』
「当たり前じゃない」
ペルシアの声に、ささやかな誇らしさが滲む。
「あの子は、十八でチーフ・パーサーに選ばれた“看板娘”なんかじゃない。
“宙の中で、誰よりも人の心を読むプロ”よ」
『人の心……』
「客室の空気、乗客の視線、クルーの疲れ。
それを一つも取りこぼさないで、“当たり前の安心”に変える。
本気を出したエリンはね、ただのサービス要員じゃないの」
ルナは、隣で静かに聞き入っていた。
サヴァイヴから帰還して、コロニーで再会したときのエリン。
地球再生ラボの文化祭で、展示室の空気を一瞬で整えたあの姿。
それらが一本の線で繋がっていく。
『……では、そのエリンさんの“本気”は、もう出てるんでしょうか』
「いい質問ね」
ペルシアは少し考え、それから静かに首を振った。
「まだ、半分。
きっとまだ、一年振りで鈍ってるでしょうし、それに危機的な時ほど
あの子はもっと厄介で、もっと頼もしい存在になるわ」
『厄介、ですか』
「ええ。自分のことを後回しにしてでも、全員を座らせて飲ませて笑わせて泣かせて、
それで“宙の中の世界”をまるごと抱え込もうとするから」
その語り口には、呆れと、深い愛情が混ざっていた。
『……ペルシアさん』
「なに?」
『少しだけ、分かった気がします。
どうして、ペルシアさんが、あのとき……
“この子がいるなら大丈夫”って顔で、私を送り出したのか』
「そりゃそうよ」
ペルシアは肩をすくめる。
「エリンはね、私が人生で初めて“同じフロアで戦える”と思った女だから。
それにーー」
『それに?』
「今回の任務で、あの子自身の“宙”も、きっと取り戻せる。
そう信じてるから、私は送り出したの」
通信室に、短い沈黙が落ちる。
ルナは、ぎゅっと胸の前で手を握りしめた。
リュウジを支える人が、また一人増えた。
それだけのことなのに、涙が出そうになる。
『……ペルシアさん』
「なに、マリ?」
『エリンさんのこと、ちゃんと見ておきます。
ネフェリスの誰よりも“声”が分かるのは、通信担当の私ですから』
「頼りにしてるわよ、マリ。
あの子が無理しすぎたら、容赦なく止めてちょうだい」
『了解です。……こちら、マリ。通信終話します』
「こっちペルシア。ご安全に、ラスペランツァ」
回線が落ち、通信室には再び、機械音だけが残った。
ペルシアは椅子の背にもたれ、隣に立つルナをちらりと見る。
「聞いてた?」
「……はい」
「エリンも、リュウジも、チャコも。
みんな、自分の“得意な宙”を持ってる。
ルナちゃんも、ちゃんと持ってるからね?」
「私の……宙?」
「そう。“惑星をひとつ、もう一度、緑で満たそう”なんて言える子の宙よ」
ルナは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
遠く離れた宇宙で、仲間たちが戦い、支え合い、守り合っている。
ここで自分にできることは限られている。
それでもーー
「……私も、がんばります。
リュウジが帰ってきたとき、“ただ待ってただけ”じゃないって言えるように」
「うん、その意気」
ペルシアが笑い、モニターには小さくネフェリスの機体シルエットが映っている。
その中で、通信卓の前では、マリとエリンが並んで波形を見つめていた。
エリンは紙コップのコーヒーを片手に、マリはお気に入りのブレンドティーを少しずつ啜りながら。
それぞれの場所で、それぞれの“空”を支える者たちが、
目に見えない線で、確かに繋がり始めていた。