出発から、どれくらい経っただろうか。
窓の外には、相変わらず真っ黒な宇宙が広がっている。星々の粒は静かに瞬いているだけで、「時間」という概念とはまるで縁がないように見えた。
それでも、ネフェリスの壁に取り付けられたデジタルクロックは、律儀に「17:02」を示している。コロニー時刻で言えば、ちょうど夕方だ。
そんな時間を見計らったように、キャビンのドアが軽い電子音と共に開いた。
「お待たせ。そろそろお腹、空いてきた頃でしょ?」
エリンが、両手にトレーを載せて戻ってきた。
トレーの上には、きつね色に焼き上がったパンで作られたサンドウィッチがずらりと並んでいる。表面には軽く焦げ目がつき、その間からバターとレタスの端、薄切りのハムが覗いていた。
ふわっと、焼きたてのパンとバターの香りがキャビンに広がる。
「うわ……いい匂い」
サツキが思わず目を丸くした。
「探索機って聞いてましたからね。正直、もっと……その、栄養バーとか、乾燥スープとか、そういうのばっかりかと」
マリがほんの少し言葉を濁した。
「まあ、そういうのも一応、積んであるけどね」
エリンは笑ってトレーをテーブルに置いた。
「でも、一週間もそんなのばっかりじゃ、心が持たないでしょ? だから、最低限の範囲で許可もらって、食料区画の一角を“ちょっとだけ”アレンジさせてもらったの」
「“ちょっとだけ”ってレベルちゃうやろ、これ……」
チャコがトレーを覗き込みながらぼそっと言う。
「エリンさん、IHで焼いてましたよね? さっき」
サツキが感心したように首を傾げた。
「うん。あの小さい電気IH、使ってもいいって許可は出てたから、パンを軽く温めてみたの。バターものせたら、香りも出るしね。ほら、冷えたパンより、こっちの方が、ちょっとだけ気持ちがほぐれるから」
エリンはそう言いながら、どのクルーにも公平にサンドウィッチを配っていく。
「そないなもんまで持ち込んどったんかいな……」
チャコが呆れたように、けれどどこか嬉しそうに呟く。
「はい、サツキ。これ、レタス多め。ビタミン、大事だから」
「ありがとう、ございますエリンさん!」
「マリは、こっちね。飲み物、あとで紅茶淹れてあげるから」
「……そこまでしてもらっていいんでしょうか」
「もちろん。任務中に倒れられる方が困るからね。食べられるうちに、ちゃんと食べておいて」
チャコの前にもサンドウィッチが一つ、ぽんと置かれた。
「ウチの分も……ちゃんとあるんか」
「当然でしょ? システム担当が低血糖でふらふらになってたら、誰がリュウジを止めるのよ」
「止める前提なんやな……」
チャコが肩をすくめる横で、操縦席に座るリュウジも、サンドウィッチを一つ手に取った。
「……いただきます」
一口かじると、外は軽くサクッと、中はまだ温かい柔らかさが残っていた。
バターの塩気と、シャキッとしたレタス、薄いハムの旨味が、思った以上に口に広がる。
探索任務の船内で、こんな食事が出てくるとはーー
チャコとサツキ、マリ、そしてクリスタルまでもが、少し驚いたような表情を浮かべていた。
唯一、表情をあまり変えなかったのは、やはりリュウジだ。
だが、その目尻はわずかに緩んでいる。
「エリン」
クリスタルが静かに口を開いた。
「こういうのを、“贅沢”って言うのよね」
「ふふ、そうかもね。でも、贅沢も“適量”なら、立派な燃料よ」
サンドウィッチが一通り行き渡ったところで、リュウジがテーブルにサンドウィッチの紙を置いた。
「よし。じゃあ、今後のシフトを決める」
その声に、全員の視線が自然と操縦席に集まった。
「基本は二グループに分ける」
リュウジは簡易モニターを指先で操作し、そこに簡単な編成図を映し出した。
「グループAは、俺とサツキ。
グループBは、マリ、チャコ、クリスタル」
「……ほう」
チャコが顎に手を当てる。
「交代は八時間ごと。」
「八時間……けっこう、がっつりだな」
マリが小さく眉を寄せた。
「休憩は、こまめに挟んでもいい。
ただし、“誰か一人が抜けても、最低限の機能は維持できる状態”は保ってくれ」
「了解しました」
「エリンの休息は?」とクリスタルが尋ねる。
「エリンさんは、どちらのグループにも属さない」
「え?」
サツキとマリが同時に声を上げる。
「エリンさんの休息は……本人のタイミングに任せる。
必要だと思ったときに、きちんと休んでください」
「え、いいの?」
エリンは目を瞬かせた。
「いいも悪いもない。エリンさんの仕事は“全体の空気を整えること”ですから。
それをするためには、誰よりもコンディションが良くないと困ります」
言いながらも、リュウジはどこか気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……了解。じゃあ、遠慮なく、都合のいいタイミングで休ませてもらうわ」
「それと」
リュウジは、さっと神経応答制御パネルに指を滑らせた。
「クリスタルが操縦するときは、神経応答制御は切る。
普通のインターフェースで充分だ」
「私の腕を信用してくれている、と解釈していいのかしら?」
クリスタルの声に、ふっと強さが混じる。
「当たり前だろ。」
「……では、その期待に応えるわ」
クリスタルは小さく頷き、サンドウィッチを一口かじった。
ゆっくりと咀嚼しながら、その瞳はすでに、次のシフトと航路を頭の中で組み立て始めているようだった。
⸻
「神経応答制御って、そんな切ったり入れたりして大丈夫なん?」
チャコがパネルを覗き込みながら尋ねる。
「問題ない。
俺が操縦するときだけ、リンクを繋ぐ。
クリスタルが操縦中に俺の神経ノイズが入っても邪魔なだけだからな」
「確かに。二人分の“癖”が混ざったら、船が混乱しそうやな」
「そういうこと」
「じゃあ、ウチらBチームは一旦、休息やな」
「そうだ。だが休息の間でも、チャコは機器の状態。
マリは通信と外部の情報整理。
クリスタルは医療と、必要に応じて船内の動線管理」
「動線管理?」
サツキが首を傾げた。
「例えば、誰がどの時間帯にどのエリアにいるか。
万が一、トラブルが起きたときに、“誰に”最初の指示を飛ばすか。
そのあたりを、クリスタルに任せたい」
「……分かったわ」
クリスタルは短く頷いた。「責任は重いけど、その分、やり甲斐もありそうね」
「難しいことは言ってないさ」
リュウジは肩をすくめる。
「みんな、自分にできることをやるだけだ」
「それが一番、難しいときもあるけどね」
エリンが柔らかく笑い、カップにコーヒーを注ぎながら言った。
「でも……今のところ、悪くないチーム分けだと思うわ。
誰か一人に負担が集中してる感じはしないもの」
「実際には、エリンさんが一番動いてる気がしますけど」
マリがぽつりと漏らす。
「それはほら、私が止まってると落ち着かない性格なだけ」
「それが一番、厄介なんですよねぇ……」
サツキが小声で呟き、チャコがくすっと笑った。
⸻
サンドウィッチを頬張る音が、しばし船内を満たす。
窓の外は変わらず暗い。
それでも、キャビンの中には、ささやかな温度と香りがある。
ネフェリスという鋼鉄の箱の中に、人の気配がしっかりと根を下ろし始めていた。
ふと、サツキが窓の外を見上げる。
「……なんか、不思議」
「なにがや?」とチャコ。
「こんな真っ暗なところを飛んでるのに、ここだけ、ちょっと“夜の台所”みたいな匂いがするから」
「分かる気がするわ」
エリンが微笑む。「台所の匂いがすると、人って少し安心するでしょ?」
「します」
マリが即答した。「基地の夜間勤務のときも、差し入れのスープの匂いがあるだけで、みんな表情変わりますから」
「せやなぁ。サヴァイヴでも、まともなご飯があるときは、みんな顔が柔らかかったわ」
チャコの言葉に、リュウジは少しだけ眼を細めた。
あの島での夜。
大いなる木の下で囲んだ、粗末だけれど温かい食卓。
そこにあった“確かな何か”が、今、この宇宙船の中にも、薄く、しかし確かに再現されつつある。
彼は残りのサンドウィッチを口に運び、飲み込んでから静かに言った。
「……いいスタートだ」
「でしょ?」
エリンが嬉しそうに笑う。
「この調子で、一週間。ちゃんと帰ってきましょう。
ブライアンさんも、タツヤ班長も、それからーー」
エリンの視線が、一瞬だけリュウジの手首に向かう。
そこには、ルナから託されたオレンジ色のミサンガが、しっかりと巻かれていた。
「この船のみんなも、ちゃんと」
「ああ」
リュウジは短く頷いた。「全部、連れて帰る」
宇宙船ネフェリスは、静かなエンジン音を響かせながら、
夕方と呼ばれるにはあまりに深い闇の中を、確かな軌道で進み続けていた。
ーーーー
Bチームが交代で休息に入ってから、一時間ほどが経っていた。
船内は静かだった。
エアリサイクルの低い唸りと、姿勢制御スラスタが時折かすかに鳴らす「コッ」という音だけが、金属の骨組みを伝って響く。
コックピットでは、正面の窓の向こうに星々の帯がゆるやかに流れている。
サツキは機械室へ回り、配線系統の再チェックに向かった。
操縦席にはリュウジ。
そのすぐ後ろ、スライドシートにエリンが腰を下ろしていた。膝の上にはタブレットと、小さなメモパッド。それから、半分ほど減った紙コップのコーヒー。
「……これで、ひとまず全員、腹は満たされたわね」
エリンが小さく息を吐いた。
さっきまでパンの焼ける匂いと、バターの香りがネフェリスの船内を満たしていた余韻が、まだかすかに残っている。
「助かりました。正直、ここまで“普通の飯”が出てくるとは思ってませんでした」
リュウジが操縦席から振り返り、苦笑混じりに言った。
エリンは肩をすくめる。
「探索機だからって、味気ない食事で士気を削る必要はないでしょ。
食べて、寝て、笑って。それができないチームは、どれだけ訓練されてても、長くはもたないわ」
「……さすがです、エリンさん」
「褒めても何も出ないわよ?」
そう言いながらも、エリンの口元は少し楽しそうだった。
少しの沈黙。
前方の虚空に、薄くガス雲のような光の筋が見える。セーシング領域はまだ先だが、その手前にも宇宙の“ざらつき”が微かに感じ取れた。
「で――」
エリンが紙コップを軽く指で回しながら、横顔でリュウジを見る。
「このチームのこと、どう思ってる?」
リュウジは少しだけ眉を動かし、前方の計器を確認してから答えた。
「どう、とは?」
「そのままの意味よ。ラスペランツァ。
マリにサツキ、チャコ、クリスタル。……そして、あなた」
名前を並べる声には、いつもの柔らかさの奥に、仕事モードの鋭さが混じっている。
リュウジはしばらく考え、ゆっくりと言葉を選んだ。
「寄せ集めに見えて、役割のバランスはいいと思います。
マリは冷静だし、判断も速い。サツキは機械に対しての勘がいい。
チャコは……まぁ、ウチの頭脳担当ですね。
クリスタルは、何も言わなくても動けるタイプだ。背中を預けやすい」
「ふふ。褒めてるのよね、それ」
「もちろんです」
「それで、“私は”?」
エリンがわざとらしく首を傾げてみせる。
リュウジはわずかに姿勢を正し、いつもより少しだけ真面目な顔になった。
「エリンさんは――このチームの“心拍”みたいなものです」
「心拍?」
「はい。誰かが疲れていないか、緊張しすぎていないか、逆に緩みすぎていないか。
本人が気づくより先に、リズムの乱れを感じ取って、少しだけ整えてくれる。
さっきの夕食だって、あのタイミングじゃなければ、たぶん誰も腹が減ったことに気づかなかった」
エリンは少しだけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「……本当に、そういうところだけは、ずるいわね、あなた」
「ずるい、ですか?」
「ええ。こっちが言葉にしなくても、ちゃんと見てる。
でも、自分のことになると、途端に不器用になる」
リュウジは苦笑して、前を向き直る。
顔は見えないが、耳のあたりがわずかに赤くなっているように見えた。
「このチーム、悪くないわ」
エリンがぽつりと続ける。
「マリは表向きはぶっきらぼうだけど、細かいところをすごく気にしてる。
さっきだって、“紅茶は残り何パックで、予備をどこに置いたか”全部頭に入ってたし。
サツキは……あれで、相当肝が据わってる。自分の師匠が関わった案件に、正面から向き合おうとしてる」
「はい」
「あとは、チャコとクリスタル。
この二人が、たぶん今回の“鍵”になると思う」
リュウジが少しだけ目を細めた。
「チャコは、ああ見えて自分の役割をよく分かってる。
場を和ませるのも本音、でもそれでみんなが“普通でいられる”ってことも理解してる。
クリスタルは……静かに見えて、一番、決める時に迷わないタイプね」
「同感です」
エリンは紙コップをテーブルに置き、少しだけ身を乗り出した。
「いいチームよ。
“あなたのためだけ”に集まったわけじゃない。
それぞれに理由があって、勝手にここへ来て、勝手に同じ方向を向き始めた」
「…………」
「でも結局、その真ん中にいるのは、あなた」
リュウジの手が、操縦桿の上でわずかに止まる。
「プレッシャーに感じろって意味じゃないわ。
ただ――一人で抱え込むな、って言ってるだけ」
エリンは穏やかな声で言った。
「ブライアンさんのことも、タツヤ班長のことも、悲劇のフライトのことも。
“全部、自分が背負って当然だ”なんて顔をしてると、そのうちまた、どこかで折れるわよ」
「……そんなに頼りなく見えますか?」
「頼りになるから、余計に危ないのよ」
エリンはからかうように笑い、それからふっと真顔に戻った。
「ねぇ、リュウジ」
「はい」
「怖い?」
唐突な問いだった。
リュウジは少しだけ黙り、正直に答えた。
「……怖くないと言ったら、嘘になります」
「どれくらい?」
「そうですね。
あの島で、“みんなを乗せて帰る”と決めた時と……同じくらいです」
エリンは小さく息を呑み、それから目を細めた。
「なら、大丈夫ね」
「……大丈夫、ですか?」
「ええ。あの時、あなたはちゃんと帰ってきた。
“怖い”って感情をごまかさずに、その上で前に出たから」
エリンの視線は、前方の星々ではなく、リュウジの横顔を捉えている。
「一番危ないのは、“怖いのに怖くないふりをしてる時”。
あなたは、今はちゃんと、怖いって言えた。――だから平気」
「エリンさんは、そう判断するんですね」
「私の仕事は、そういう“顔”を見ることだから」
エリンはクスリと笑った。
少し間をおいて、今度はリュウジの方から口を開く。
「エリンさんは、どうなんですか」
「なにが?」
「怖くないんですか。
現場に戻るのも、ブライアンのことも、タツヤ班長のことも。
それに……ユイのことも」
ユイの名を出した途端、エリンのまつ毛がかすかに震えた。
数秒の沈黙。紙コップのコーヒーが、表面だけ微かに揺れる。
「怖いわよ」
エリンはあっさりと言った。
「怖くないわけ、ないでしょ。
ブライアンさんも、タツヤ班長も、どっちも大事な仲間だもの。
ユイには、“ちゃんと連れて帰るからね”って約束してきたし」
「……約束、ですか」
「うん。
だから私は、“怖いから行かない”って選択肢は最初からなかった」
エリンは自分の両手を見つめるように、指を組んだ。
「私にできることは限られてる。
操縦はあなたほどじゃないし、機械や無線はサツキやチャコ、マリに敵わない。
クリスタルみたいに、あらゆる状況で冷静でいられる自信もない」
「そんなことは――」
「でもね」
エリンはそっと言葉を重ねる。
「“場を整える”ことだけは、誰にも負けないつもり。
みんなが一番力を出せるタイミングで、必要なものを届ける。
余計な不安や心配で、判断が鈍らないように、先回りする。
そのためだったら、私は何度でも宇宙に出る」
「……エリンさんは、変わりませんね」
「そう? 少しは大人になったつもりなんだけど」
冗談めかして言いながらも、その瞳の奥には、揺るがない意志があった。
「それに――」
エリンは、ふっと口元だけで笑う。
「あなたを一人で行かせたら、ペルシアに一生ネチネチ言われるもの」
「……それは、確かに面倒ですね」
「でしょ?」
二人の間に、短い笑いが生まれた。
コックピットの外では、星々がゆっくりと流れていく。
ネフェリスの先端が向いているのは、未だ誰も踏み入れたことのない、西の未探索領域。
エリンはそっと立ち上がると、後ろから操縦席の背もたれに指先を軽く触れた。
「リュウジ」
「はい」
「ひとつ、お願いがあるの」
「なんでしょうか」
「“全部上手くいく”って、簡単に言うのはやめなさい」
リュウジは一瞬きょとんとして、それから苦笑した。
「……ルナから聞いたんですね」
「当たり前でしょ。
あの子にも、仲間にも、いつもそう言う。
“全部上手くいく”。――優しいけど、残酷な言葉でもあるのよ」
エリンの声は、ほんの少しだけ厳しかった。
「だって、もし上手くいかなかった時。
自分だけを責めるでしょ? “上手くいくって言ったのに”って」
「…………」
「だから、これからは少し言い換えて」
エリンは前に回り込み、真正面からリュウジを見た。
「“全力でやってくる”。
それなら、どんな結果になっても、嘘にはならない」
リュウジはその言葉を、ゆっくりと胸の内で反芻した。
やがて、小さく頷く。
「……分かりました。
次からは、そう言うようにします」
「うん。それでいい」
エリンは満足そうに微笑むと、軽く背伸びをした。
「そろそろ、サツキの様子を見てくる。
それと、あなたのコーヒー、あと一杯分は確保してあるから。飲みたくなったら呼んで」
「了解です。ありがとうございます、エリンさん」
「どういたしまして」
エリンはひらりと手を振り、コックピットを出ていった。
扉が閉まる。
静けさが戻る中で、リュウジは一人、前方の虚空を見据えた。
“全部、上手くいく”
いつもの口癖が、喉元まで出かかって――代わりに、別の言葉が浮かぶ。
「……全力で、やってくる」
小さく呟いた声は、エンジンの唸りにかき消されたが、
少なくともネフェリスの中枢には、確かに刻まれていった。
ーーーー
二日目の宇宙は、驚くほど静かだった。
交代で眠り、交代で見張り、必要な会話だけをして――ネフェリスの中には、すでに小さな「日常」が出来かけていた。
だが、その空気が長く続かないことを、リュウジは正面パネルを見ながら知っていた。
センサー表示の端に、薄い線がじわじわと近づいてくる。
コロニーの観測網がギリギリ届く限界、セーシング領域の縁だ。
「……そろそろだな」
操縦席で神経応答制御に接続しながら、リュウジが小さく息を吐く。
そして、後ろを振り返らずに声を上げた。
「エリンさん」
「なぁに?」
通路側の簡易シートでログをまとめていたエリンが、顔だけこちらに向ける。
すでに、眠気の欠片もない“仕事中の目”だ。
「そろそろセーシング領域の縁に入ります。
全員起こしてきてください。ここから先は、全員配置につかせたい」
「了解。急ぐわね」
エリンはタブレットを腰のポーチに滑り込ませると、船内奥へ駆けていった。
◇ ◇ ◇
数分後。
まず機械室側から、乱れたポニーテールを手で押さえながらサツキが戻ってくる。
「機械系、今のところ異常はないよ」
続いて、通路の方から三人分の足音。
「ねっむ……」「……ふぁ」「うわ、もうそんな時間かいな」
マリ、チャコ、クリスタルが、順番にコックピットへ顔を出した。
三人とも目元は眠そうだが、その表情にすぐ緊張の色が灯る。
「全員そろったな」
リュウジは一度だけ全員の顔を確認し、口調をほんの少しだけ引き締めた。
「ここから先は、セーシング領域“外”だ。
俺にも、何が起こるか分からない」
言いながら、自分の胸の内側にあるざらついた不安も、同じように認める。
「だからこそ、役割をはっきりさせる」
視線を一人ずつなぞりながら、指示が飛ぶ。
「クリスタル。医療体制の見直しを頼む。
怪我だけじゃない。急な加速度変化で気分が悪くなったやつのケアも想定しておいてくれ。ここからの操縦は、基本的に俺が全部やる」
「了解。医療スペースの備品も、緊急時仕様に組み替えておく」
静かな声の奥に、硬い芯がある。頼もしい返事だ。
「チャコとサツキ。システムと機械の再点検を。
重力制御、推進系、電源ライン、全部一度洗い直してくれ。セーシング領域の向こうで何かあった時に、船の中だけは“普通”でいてほしい」
「任せとき。ネフェリスはウチの身体みたいなもんや」
チャコが胸を張る。
「分かった。主機と補機、制御系のバックアップも確認してくるね」とサツキ。「変な振動が出たらすぐ戻すから」
「頼んだ」
次に、リュウジの視線が通信席へ移る。
「マリとエリンさんは、中継機だ。
セーシング領域を越えた時点で、コロニーの観測網はほとんど当てにならない。無人中継機の投下で、少しでも“道しるべ”を残しておきたい」
「中継ベイ、もう準備はできてる。……問題は間隔だけど」
マリが真剣な顔で尋ねる。
「どれくらいの間隔で投下する? ある程度密に置けば安心だけど、戻りも考えると、数は限られてる」
「……念のためだ。十キロ毎に投下してくれ」
リュウジは迷わず答えた。
「正直、効率は悪い。でも、ブライアンの探索機がどこで消えたのか、少しでも絞り込みたい。
行きも帰りも、“糸”は多い方がいい」
マリは一瞬だけ考え、それから深く頷いた。
「了解した。十キロ毎、中継ベイから順次投下。
記録も全て残しておく」
「エリンさんは、マリのサポートを。
中継機の投下タイミングは任せます」
最後の一言は、わずかに冗談めかして言う。
エリンはふっと笑った。
「よく分かってるわね。
そういう判断は、専門家に任せて。私は“人”の方を見てる」
「ああ、分かってます」
リュウジも同じくらい小さく笑ってみせる。
ほんのわずかなほころびだが、それだけで船内の空気が少し和らいだ。
「――じゃ、散って」
エリンが手を叩くと、全員が一斉に持ち場へ動き出した。
◇ ◇ ◇
機械室への通路を、小走りで進む二つの影。
「チャコ、スラスターのログ、さっきの分まで全部見返す?」
「もちろんや。ちょっとでも変なクセ出とったら、ここで直しとかなな」
「だよね。……はぁ、眠かったのに一気に覚めちゃった」
「そういうとこが、チーフ・パーサーなんやろなぁ」
二人の声が遠ざかっていく。
反対側、通信ベイ前。
マリは中継ベイのコンソールを起動し、エリンがその横で操作手順を確認する。
「一機目、リンクチェック完了。
この子が“0キロ”基準。ここから先、十キロごとに『道標』を置いていく感じですね」
「戻る時、あの子たちが“ただいま”って言ってくれるといいわね」
「はい。――必ず、そうさせます」
マリの声に、エリンは満足げに頷く。
そしてコックピットでは。
クリスタルが医療スペースのモニターを確認し終え、静かに報告した。
「応急処置キット、酸素投与セット、鎮静剤。
全部ここから手が届く範囲に移した。揺れがひどくなった時に備えて、固定具も追加しておいた」
「助かる」
リュウジは短く礼を言い、手元のスロットルを軽く握り直した。
センサー表示の“境界線”は、もうすぐそこだ。
「セーシング領域の縁まで、あと五分」
マリの声が船内スピーカーから届く。
ネフェリスの空気が、ゆっくりと張り詰めていく。
一人ひとりが自分の役割を握りしめ、それでも互いの気配を意識している。
リュウジは深く息を吸った。
「……行くぞ。
みんな、“自分の仕事”をしてくれ」
誰も、軽い冗談で返さなかった。
ただ、「了解」「分かった」「任せろ」と、それぞれの声が重なった。
こうして、ネフェリスは万全ではないまでも――自分たちに出来る限りの準備を整えた状態で、セーシング領域の外側へ、第一歩を踏み出そうとしていた。
ーーーー
セーシング領域の境界線を、ネフェリスが静かに越えた――その瞬間だった。
コクピットの空気が、ふっと変わる。
誰も触れていないのに、温度が一度下がったような錯覚。
さっきまで穏やかだったリュウジの背中から、鋭い何かが立ち上がる。
操縦席で神経応答制御に繋がったまま、彼は微動だにしない。
だが、その沈黙が、サツキとマリ、そして後方のクリスタルの喉に、自覚のない緊張を絡め取っていく。
(……空気、変わった)
サツキは思わず、胸の前で手をぎゅっと握りしめた。
目の前のパネルの光はさっきと同じ色なのに、世界の輪郭だけがきゅっと細くなったような感覚。
(これが……“現場のS級”……)
マリも、背筋にぞくりとしたものを感じる。
センサーの値は落ち着いている。航行ラインも、揺らぎはない。
けれど、リュウジの集中が一段階、いや二段階は深く沈んだのが、背中越しに伝わってきた。
クリスタルも、無意識に呼吸を整えていた。
医療スペースの備品はすべて定位置。準備は万全なはずなのに、手のひらにだけ、じんわりと汗がにじむ。
「――セーシング領域外、突入」
低く、リュウジの声が落ちた。
その一拍後、ネフェリス全体を、微かな“揺らぎ”が通り抜ける。
計器には何も出ていない。だが、空間そのものが、わずかに軋んだような、そんな感覚。
ぎゅっと喉を鳴らしたところで――。
「マリ!」
鋭いが、よく通る声が飛んだ。エリンだ。
「中継ベイ投下!」
「っ、は、はい!」
マリはビクリと肩を震わせながらも、すぐに端末へ指を走らせる。
あらかじめ設定しておいた一機目の中継機が、シーケンスに従って排出口へ移動していく。
「中継ベイ一号、リンク最終確認――オールグリーン。
投下、行きます!」
パネルの“RELEASE”に指が触れた瞬間、わずかな振動。
ネフェリスの腹から、小さな機体が宇宙空間へ放り出されていく。
外部カメラの一つに、その姿が一瞬だけ映った。
点のような光が、ネフェリスの航路上に、最初の「しるし」として残る。
「……よし」
リュウジは視線を前から外さないまま、小さく言った。
だが、船内の緊張は、まだ張り詰めたままだ。
サツキは唇を噛み、マリは肩に力が入り過ぎている。クリスタルも、表情こそ崩していないが、その目は戦闘前の兵士のように冴え過ぎていた。
その空気を、エリンは一瞬で読み取った。
「いいわ、その調子!」
彼女はぱんっと手を叩き、全員に向かって声を張る。
「まずは、この空気に“慣れる”こと!
怖いのは当たり前。ここが、普段と違う場所だって分かってる証拠よ」
マリが、はっとしたように瞬きをする。
サツキも、視線だけそっとエリンに向けた。
「それから――思い出して」
エリンは一人一人の顔を、あえてゆっくりとなぞる。
「自分が“できること”をやる。
それだけでいいの。今まで練習して、訓練して、積み上げてきたこと。
ここで急に“特別な何か”をしなくていい」
その言葉は、優しいが甘くない。
日常の客室で、不安そうな乗客に向けていた声と、根っこは同じだ。
「マリ、中継機の管理。
サツキは機械。チャコはシステム。クリスタルはみんなの身体。
そして――リュウジは船と宙」
リュウジは何も言わない。ただ、わずかに顎を引いて応えた。
「いいチームよ。ラスペランツァは」
エリンが、ふっと笑う。
そのとき、副操縦席から、いつもの調子の声が飛んだ。
「せやで!」
チャコが、工具ホルダーを腰につけたまま、胸を張る。
「こんなん、まだ序の口や!
ウチは、もっとヤバいとこを生き延びてきとるんやからな!」
それはサヴァイヴの島での、暴風と豪雨と、得体の知れない闇を思い出させる言葉だった。
サツキが、ふっと肩の力を抜く。
「……たしかに。あの島から帰ってきた人たちと一緒なんだから。私がびくびくしてたら、師匠に笑われちゃうね」
マリも、自分でも気づかないうちに固くなっていた肩を、ぐるりと回した。
「中継二号、十キロまであと九分です。
ツールチェックしながら、リズム作ります」
「クリスタルは?」
エリンがそっと視線だけで問うと、クリスタルは静かに頷いた。
「大丈夫。心拍も、呼吸も、みんな“戦う前”としては正常範囲。
私自身も、だいぶ慣れてきた」
「よし」
エリンは満足げに息をつき、最後に操縦席へ声を飛ばす。
「リュウジ、あとは任せたわ。
私たちは、各自の場所で“いつも通り”やる」
「ああ」
短い返事。だが、その低い声には、さっきより少しだけ柔らかさが戻っていた。
ネフェリスは、セーシング領域の外側を、静かに、しかし確かに進んでいく。
船内には、相変わらず緊張がある。それでも、さっきまでの“張り詰めた硬さ”は、少しずつ“研ぎ澄まされた集中”へと変わりつつあった。
それぞれが、自分の持ち場で、自分にしかできない仕事をする。
ラスペランツァの最初の一歩は、そうして確かなものになっていった。
ーーーー
ネフェリスの中を満たす空気は、相変わらず張り詰めていた。
セーシング領域の外側。
計器は静かに数値を刻んでいるが、その向こうにある“何か”を、リュウジの背中だけが確かに感じ取っている――そんな雰囲気だった。
その中で、ひとりだけ、いつも通りのリズムで動く人がいる。
エリンだ。
彼女は足音をほとんど立てずに、通路をすべるように行き来しながら、紙コップに注いだ飲み物を、さりげなく皆の近くへ置いていく。
リュウジの座る操縦席にも、タイミングを計ったように、ごく自然な流れでコーヒーを差し出した。
「……ありがとうございます」
視線を前から外さずに、リュウジは小さくだけ礼を言う。
エリンは何も言わず、軽く頷いてすぐにその場を離れた。
(気を散らさせないように、か)
マリは内心でそう思う。
本当に“邪魔にならない”距離感で、でも確実に皆の体調をキープしていく、その動きを、職業病のような観察眼で見ていた。
そんな中――。
「なぁ、リュウジ」
チャコが、いつも通りの声量で口を開いた。
「ここから先は、どうやって探すんや?
まさか“目視だけ”やあらへんやろ?」
そのあまりの平常運転ぶりに、その場の全員が、心の中で同じことを思った。
(この状況で、よく話しかけられるな……)
リュウジは、ほんの一瞬だけ目を細め、しかしすぐに答える。
「ブライアン達と中継ベイは、ほぼ同時に消息を絶った。
“何か”が起きたのは確かだ」
「そら分かっとるわ」
チャコはコンソールに向かいながら、鼻を鳴らす。
「ウチが聞いとるんは、その“何か”をどうやって炙り出すんかって話や。
リュウジのことや、何か策は用意してきたんやろ?」
その言葉に、リュウジの口元が、わずかに上がる。
「ああ。ここからは――“アイツ”の出番だ」
「アイツ?」
チャコが、ちろりと視線だけを向ける。
後方でエリンが微笑み、肩をすくめた。
「忘れたの?
ラスペランツァのメンバーは、ここにいる私たちだけじゃないのよ」
その一言で、誰のことか察した者もいた。
マリは、はっとして通信パネルに指を置く。
「マリ、通信状態は?」
リュウジの声が飛ぶ。
「ノイズはあるが……中継ベイのおかげで、今のところリンクは安定している。
ソーラ・デッラ・ルーナとの回線も、細いですけど“生きている”状態だ。」
「十分だ」
リュウジは短く言うと、すぐさま次の指示を飛ばす。
「チャコ、集音マイクを最大にしろ」
「集音?」
チャコは一瞬きょとんとしたが、すぐに手を動かす。
「……ほな、最大にしたで。
これ以上は、宇宙塵の音まで拾いそうや」
「マリ、管制と集音マイクを接続」
「えっ……集音データを、そのまま?」
マリは戸惑いながらも、すぐに操作に入る。
複数ある回線のうち一本を切り替え、集音ラインをソーラ・デッラ・ルーナの管制室へブリッジする。
「……接続完了。
ソーラ・デッラ・ルーナ管制、こちらネフェリス。集音ライン、送ります」
「よし」
リュウジは、ヘッドセットのマイクを軽く指で押さえた。
「ペルシア。出番だ」
◆ ◆ ◆
ロカA2の一角、ソーラ・デッラ・ルーナ管制室。
その奥に設けられた、小さな個室。
壁一面にアナログ・デジタル入り混じったオーディオ機器と解析装置が並び、その中央に、一脚の椅子が置かれている。
そこに、ペルシアが腰を下ろしていた。
ネフェリスからの回線が切り替わり、ヘッドホンのインジケーターが点灯する。
耳元に、かすかな“宇宙のノイズ”が流れ込んできた。
『……ペルシア。出番だ』
リュウジの声が、機械越しにも分かる落ち着きで響く。
「了解」
短く、真剣な声で答えると、ペルシアは深く息を吸い込んだ。
そして――そっと、アイマスクを目元に下ろす。
視界を完全に遮断し、ヘッドホンをしっかりと耳に押し当てた。
世界から、光が消える。
残るのは、音だけ。
宇宙船のエンジンの低音。
船体をかすめる微細な粒子のざらつき。
通信回線の底に、かすかに混じる電子ノイズ。
そして、そのもっと向こう側――。
「……さあ」
ペルシアは背もたれに軽く身を預け、口元だけにわずかな笑みを浮かべた。
「“私”の出番よ。
さあ、どんな音を隠してるのか、聞かせてちょうだい――この領域の“異常”を」
彼女の聴覚が、宇宙のざわめきへと、静かに、深く潜っていった。