ソーラ・デッラ・ルーナ管制室――その一番奥にある、半ば物置のように扱われていた小部屋は、今や「耳」のための特等席になっていた。
壁いっぱいに並んだアナログとデジタルの機器。
旧式のオーディオ用アンプから、最新式の周波数解析モジュールまで、統一感なく並んでいるのに、不思議と「ペルシアらしい」秩序がそこにはあった。
その中心。
革張りの椅子に深く腰を沈め、アイマスクで視界を遮り、耳を覆うヘッドホンをぴたりと押し当てている女がひとり。
ペルシアだ。
「……よし」
低くつぶやき、右手でボリュームとゲインを微調整する。
左手はすでに、膝の上でリズムを刻んでいる。
宇宙の音を“聴く”とき、自然とそうなる癖だった。
ヘッドホンの内側では、すでにいくつもの音が折り重なっていた。
低くうなるエンジン音。
船体振動を拾ったコンタクトマイクのざらついたノイズ。
船内の空調が吐き出す、規則正しい風の唸り。
回線そのものが持つ、電子ノイズの微かな「サー……」という揺らぎ。
普通の人間なら、ただの雑音としか思えないその塊を――ペルシアは、一つひとつ丁寧に“ほどいて”いく。
「ベースは……エンジン。アイドリングと巡航の中間、負荷は低め。
船体のきしみは……良好。ストレス上がってない」
彼女の言葉に、隣でモニターを見守るオペレーターが目を丸くする。
「ペルシアさん、今の、数値見てませんよね?」
「見てないわよ」
あっさりと返し、ペルシアはさらにボリュームを上げた。
世界から光を絶ち、情報源を音だけに絞る。
そうすることで、彼女の「耳」は、常人ではあり得ないほど敏感になる。
「……さて」
小さく息を吸い込むと、ペルシアは耳の中の“層”を一段、深くした。
宇宙のざわめきの中から、船体右前方に張り付けた集音マイクのチャンネルを意識して選び取る。
コンッ――コォン……。
ごく微かな、しかし鋭さを秘めた衝撃音が、遅れて聞こえてきた。
「右前方、船体から二十メートル圏内。
小さな衝突音、二つ……いいえ、三つ」
すぐさま報告すると、すぐにネフェリス側からチャコの声が返ってきた。
『なんやて!? 衝突しとるんか!?』
「安心しなさい。どれもマイクが拾える程度の小石よ。
宇宙塵か、微小隕石ね。装甲が弾いた音だわ」
ペルシアは指先で机を軽くトントンと叩きながら、耳に届く残響を追う。
「金属プレートの共鳴が短い。傷はついても、へこみは浅いわ。
外板チェックは必要だけど、今すぐの危険はない」
『……了解や。計器にも異常なしや』
チャコの返事を聞きながら、ペルシアはすでに次の音へ意識を移していた。
今度は、船内マイクのチャンネルだ。
パタ、パタ、パタ――。
軽く、しかし一定のリズムで刻まれた足音が、通路マイクを通して耳に響く。
「この足音は……エリンね」
『分かるんですか、それで?』
ソーラ・デッラ・ルーナのメイン管制席で聞いていた若いオペレーターが、思わず口を挟む。
ペルシアは少しだけ笑って、説明も兼ねて言葉を続けた。
「重心移動が前寄りで、歩幅はやや狭い。
なにより――踵を落とさないで“滑らせる”みたいに歩くのが、エリンの癖よ」
パタ、パタ、とまた二拍。
そのあと、小さく布が擦れる音と、何かを置く「コトッ」という優しい音。
「今のが、紙コップ。
たぶん誰かの手元に飲み物を置いたところね。……リュウジのところかしら」
『おおぉ……』
オペレーターが素直な感嘆を漏らすが、ペルシアはそれを聞き流し、さらに耳を澄ます。
ぴ、と控えめな電子音。
それに続いて、「シューッ」と短く空気が抜けるような音。
「この音は……クリスタルのエネルギーパックね」
彼女は即座に断じた。
「……エネルギーパック?」
「ええ。医療用の簡易カロリーパック。
封を切るときのシールの剥がれ方と、中身が押し出されるときの“柔らかい抵抗”の音がするの」
ヘッドホンに、わずかに息を吐く音が混ざる。
喉を潤し、ほっと一息ついたような、安堵の息だ。
「今ので確信した。クリスタルは、医療区画の端に腰かけて、エネルギーパックを飲んでる。
疲れはあるけど、呼吸は乱れてない。コンディション良好」
『呼吸まで分かるんですか……?』
「声を聞かなくても、息の“混じり方”で緊張か疲労かくらいは分かるわよ」
ペルシアは事も無げに言い放つと、また別のチャンネルを拾い上げる。
キン、キン、……キン。
金属同士が触れ合う硬い音。だが、そのリズムには、どこか安定した規則性があった。
「これは……サツキね」
『理由、聞いてもいいですか』
「工具の鳴らし方。
このテンポは、スパナを工具台に戻している音。
一度軽く打ち付けて、角の欠けや曲がりを指先で確かめてから置く」
キン、ともう一度。
続けて、指で金属をなぞる「シャッ」という微かな摩擦音。
「うん、やっぱりそう。
工具を“触って確認する”整備士の癖。
それに、ネフェリスのエンジンルームには、換気ファンの低い風切り音が乗るから、すぐ分かるわ」
『……ネフェリスのエンジンルームの音まで分かるんですか?』
「なんとなくね」
ペルシアは肩をすくめた。
その仕草は見えないが、声の調子だけで、管制室の何人かは表情を想像して笑みを浮かべる。
別の層から、今度は控えめな電子音が耳に届いた。
小さなボタンを押す音、パネルに軽く指が触れる音、その合間に、わずかな衣擦れ。
「このパネル操作は……マリね」
彼女はすぐに判別する。
「キーを“押し切らずに”指を滑らせる癖がある。
だから、クリック音の前に、わずかな擦過音が入るのよ。
それと――紅茶の香り。マイクは匂いを拾わないけど、彼女はいつも淹れたてのブレンドを手元に置いてる。呼吸の深さでなんとなく分かるの」
『そこまで行くと、もう超能力では……』
「違うわ。ただの慣れよ」
ペルシアは笑いながらも、耳の集中は緩めない。
宇宙空間の奥――船外集音マイクのチャンネルに、意識の一部を沈む。
サ……ザァ……
微細な粒子が、シールドや外装に触れて弾かれる音。
電磁ノイズが、遠くでかすかにうなっている。
その中に混じる、ごく微かな“うねり”。
(……ノイズじゃない)
ペルシアは心の中でそう判断しつつ、今度は船内全体の音像を俯瞰するように“引き”で聴く。
複数の呼吸。
それぞれの速さと深さ。
心拍までは拾えないが、「息継ぎのテンポ」だけでも、今のコンディションが見えてくる。
「……リュウジ、少しだけ緊張してるわね」
ぽつりと、彼女は呟いた。
『どこで分かるんです?』
「舵を切る前に、息を細く吐く癖があるの。
それがさっきから回数増えてる。
でも、荒くはなってないから大丈夫。自分でちゃんと制御できてる」
今度は、少し軽めの足音が通路を走っていく。
タタタタッ――。
さっきよりも歩幅が広く、重心が前に飛び出している。
「これは……ルナね」
『えっ、ルナさん、ネフェリスにいないですよ?』
別のオペレーターが慌てて口を挟む。
ペルシアは一瞬黙り――すぐに、くすっと笑った。
「ごめん、これはこっちの足音だわ。
ルナと似てるのよ、焦ったときの歩き方が」
振り返れば、通信室に案内してきたスタッフが、慌てて資料を抱えて走り去っていく背中が見える。
管制室の空気が、少しだけ和んだ。
「……まあ、そういうこと。
私は“誰の足音か”を聞いてるんじゃない。
“どんな感情で歩いてるか”を聞いてるの」
ペルシアはひとつ息を吐き、ヘッドホンの位置を微調整する。
「さっきのは、焦り七割、責任感三割。
ルナだと、心配と不安がもっと多くなるわね。……あの子は、そういう歩き方をする」
ふいに、別の音が耳に飛び込んできた。
軽く指で机を叩く音――リズム。
たぶん、誰かが無意識にしている癖。
「これは……チャコの指ね。
システムのレスポンスを待ってるときの“暇潰し”」
リズムの合間に、「ピッ」と小さな操作音。
続いて「カチャ」と軽くキーが戻る感触が音になって返ってくる。
「システム応答良好。
……うん、ネフェリス、いい状態よ」
彼女は誰にともなくそう言い、椅子の背にもたれた。
「ペルシア」
メイン管制側から、上司格の男の声が飛ぶ。
『今のところ、特異な音は?』
「まだないわ。
宇宙塵と微小隕石のシャワー。
ネフェリスのエンジン音。船内の呼吸と会話。
異常音はまだ聞こえてこない」
彼女はわずかにアイマスクの下で目を細める。
「でも――変化は出始めてる」
『変化?』
「宇宙塵のぶつかる頻度が、さっきよりも不自然にばらついてきてる。
“流れ”が乱されてる感覚があるのよ。
何か、大きなものが、前方で空間の“流れ”を曲げてる」
『……センサーにはまだ出ていないが』
「センサーに出る前に、音で分かることもあるの」
ペルシアはゆっくりと、手元のノブを回した。
高音域を少し落とし、低音域と中音域の感度を上げる。
宇宙のざわめきが、別の形に聞こえ始める。
ザ……ザァ……
その中で、ごく低い周期で繰り返される、耳鳴りのような“うねり”。
「……これね」
彼女はつぶやき、ヘッドホンを押さえる手に力を込めた。
「“何か”が、空間そのものを揺らしてる。
でも、まだ輪郭はぼやけてる。……リュウジ」
彼女はマイクを少し近づけ、はっきりと呼びかけた。
『こちらネフェリス。聞こえてる』
リュウジの声は、いつも通りの落ち着きだが、かすかな緊張の糸も混じる。
「今のところ、異常な衝突音や、船体を破壊しそうな音はない。
でも、前方で“流れ”が乱されているのが聞こえる。
センサーの反応が出る前に、私の耳がざわつき始めたら……そのときは、すぐに言うわ」
『ああ、頼りにしてる』
短い返事。その奥にある信頼を感じて、ペルシアは小さく笑った。
「任せなさい。
“音”で守れるものは、全部守る。
だから、あんた達は――前だけ見てなさい」
ヘッドホンの中で、再びネフェリスの音たちが混ざり合う。
エリンの足音。
チャコの指のリズム。
サツキの工具。
マリのパネル操作。
クリスタルの静かな息。
そして、リュウジが舵を切る前に、必ず一度だけ吐く、細い息。
それらひとつひとつが、ペルシアにとっては“愛おしいノイズ”だった。
「……さて」
彼女はアイマスクの向こうで、そっと目を閉じる。
「ラスペランツァの“耳”として、ちゃんと仕事しないとね」
宇宙の闇の向こうで、まだ名前も分からない“何か”が口を開こうとしている。
そのささやきを、誰よりも早く聞き取るために――ペルシアは、さらに深く、音の海へと身を沈めていった。
「……前方右十五度で、音が変わってる」
ペルシアの声が、通信回線越しに静かに落ちてきた。
ヘッドホンの向こうで、彼女は依然として視界を奪われたまま“耳”だけで宇宙を見ている。
操縦席のリュウジは、前方スクリーンに目を凝らした。
黒と星の点、それだけの景色にしか見えない。
「何も見えないな。センサーも、特に変化は拾ってない」
『見えなくても“鳴ってる”のよ。右十五度、距離は……まだ少し遠い。
けど、そこだけ“流れ”が違う。空間がよれてる感じがする』
リュウジは短く息を吐き、操縦桿を握り直した。
「……了解。少しだけ進路を右に振る。
チャコ、姿勢制御補佐。サツキ、エンジン負荷の監視」
「任せときや!」
チャコが軽快に指を走らせ、スラスターの微調整を行う。
「了解。推力、±五パーセント範囲で抑えるね」
サツキは計器を一瞥すると、すぐに数値の変化を追い始めた。
ペルシアの声が、今度は少し強く響く。
『マリ!』
「分かりました」
マリが椅子から立ち上がり、通信コンソールから操縦席のすぐ後ろへ移動する。
エアシューズが床材を軽く叩く音が、短く連なる。
「マリには見えるの?」
副操縦席側で医療モニターに目を走らせていたクリスタルが、落ち着いた声で問うた。
『あの子、通信技師だけどね。目がいいのよ、昔から』
ペルシアが少しだけ得意そうに言う。
「“聞こえたもの”を“見える奴”に渡すのが一番確実だからね。
視線の方角と、音の揺らぎが合えば、だいたいの“輪郭”は掴める」
マリは前面スクリーンの左右を素早く見比べ、表示を切り替えた。
星図、簡易レーダー、光学センサー。重ね合わせた情報を目で追う。
「……マリ、前方右十五度。ズーム倍率を上げろ」
リュウジが指示を出すと、彼女は無言でパネルに触れた。
スクリーン右寄りの一角が拡大される。
黒。
星。
そして――その星々の手前に、ごく僅かな“白い濁り”。
「……」
マリの視線が、そこに吸い寄せられる。
「見えるか?」
リュウジが問いかける。
「…………何か、白い塵? ……いや」
マリは目を細め、さらに倍率を上げた。
ぼやけた白が、うっすらと形を持ち始める。
「塵っていうより……“散ってる何か”。
反射の仕方がバラバラで、粒の大きさもまちまち。
……人工物、かも」
「なんも見えへんで……」
チャコがサブモニターを覗き込みながら、口を尖らせた。
「ウチの見とる画面、解像度低いんちゃうか?」
「エンジンルーム用のモニターにそこまで期待しないで」
サツキが苦笑混じりに返しつつも、数値から推定される位置に、頭の中で大まかな構造を描き始めていた。
『リュウジ、慎重に進んで』
ペルシアの声音が、一段低くなる。
『いま聞こえてるのは“静かな崩れ方”よ。
急激な衝突音も、爆散音もない。
でも、その“静かさ”がかえって不気味。
何かがそこで、時間をかけて壊れたか、削られてる』
「……了解」
リュウジは操縦桿をわずかに倒し、スラスターの出力を微調整した。
「前進ベクトル、マイナス二十パーセント。
接近速度を落とす。チャコ、慣性制御を少し強めろ。
何かに引っかかったとき、船体にショックが来ないように」
「了解や。制御プログラム、補正入れるで」
チャコの指がリズム良く踊り、船内の感覚重力がほんの少しだけ柔らかくなる。
「クリスタル、医療区画の準備を整えておけ。
ブライアン達かどうかは分からないが、もし生命反応を拾ったら、すぐ対応できるように」
「了解した」
クリスタルは立ち上がり、淡々と医療モジュールのチェックリストを呼び出した。
だが、その目の奥には、確かな緊張が宿っている。
「マリ」
リュウジはスクリーンを見つめたまま、背中越しに声をかける。
「その“白いもの”の広がりは?」
「……まだ距離があるので断言はできませんが――
少なくとも、帯状に広がってるように見えます」
マリは視線を走らせながら、冷静に言葉を重ねる。
「散乱したパネルか、外装の一部。
それと、細かく砕けた何かが光を散らしてる。
……少なくとも“自然物”だけには見えません」
『やっぱりね』
ペルシアが小さく息を吐いた。
『あの“ざわつき方”は、ただの流星群じゃない。
人工物がばら撒かれて、粒子になって、周りの“流れ”を乱してる音』
「センサーの反応は?」
リュウジが問うと、チャコが計器を睨みながら答える。
「通常レーダーには、まだハッキリとは出ぇへん。
でも、微細反射のカウントがじわじわ増えとる。
こいつは――破片の雲やな」
サツキも別のモニターから顔を上げた。
「熱反応は薄い。
爆発の直後って感じじゃないけど……
船体が“擦られながら”壊れていった可能性もある」
『ブライアンの機体の残骸かどうかは分からないけど――
“何か”が、そこで確かに壊された』
ペルシアの声は静かだが、その下に硬い感情が沈んでいた。
『リュウジ、もう少し右に……三度。
音の密度が濃い方をなぞっていって。
その“帯”の端に、きっと“本体”がいる』
「ああ」
リュウジは素早く操縦桿を滑らせ、進路を微調整する。
ネフェリスの姿勢がほんの少し傾き、スクリーンの中央から白い濁りがずれていく。
マリはその動きに合わせてズームと角度を変えた。
「……見えてきました」
彼女の声が、微かに低くなる。
「白い塵の帯の奥――
何か、影になってる部分があります。
光をほとんど反射していない……シルエットだけが、星の前を遮ってる」
『形は?』
ペルシアの問いに、マリはさらに倍率を上げる。
「……細長い。
船体の一部か、ブリッジブロック。
完全に原形を留めてるわけじゃないですが……
“何かがそこにいる”ことだけは、確かです」
「なんや……ウチの方からは全然分からへんのに……」
チャコが口を尖らせたまま、しかし手だけは休めずにシステムのログを追っている。
『いいのよ、チャコ。
あんたは“見る”んじゃなくて“守る”方に集中しなさい。
ネフェリスの心臓が止まったら、全部そこで終わりなんだから』
「分かっとるわ。……絶対止めへん」
チャコは真顔に戻り、コンソールへと向き直った。
「リュウジ」
ペルシアが呼びかける。
『そのまま、もう少しだけ接近。
でも、決して無理に近づかないで。
“音”が悲鳴に変わる前に止まれる位置をキープしなさい』
「了解。前進ベクトル、さらにマイナス十パーセント。
接近速度を落とす。万が一の回避行動を優先」
操縦席の空気が、一段と張り詰めていく。
だが、その中で――エリンだけは、いつも通りのリズムで動いていた。
「はい、ここまで。いったん飲み物、置いていくからね」
彼女は手際よく、リュウジの脇にコーヒー、チャコの足元にジュース、マリの手元に温かい紅茶の紙コップを滑り込ませる。
「……ありがとうございます」
マリが小さく礼を言うと、エリンはにこりと笑った。
「マリ、目はスクリーンから離さないで。
手だけで取れる位置に置いてるから、気にしなくていいわよ」
「さすがですね、エリンさん」
サツキも受け取った煎餅を片手で押さえながら、もう片方の手でモニターの操作を続けた。
ネフェリスの中で、緊張と日常が、ぎりぎりのところで同居している。
そのすべてを、ペルシアの「耳」と、リュウジの「目」と「手」がつなぎとめていた。
『リュウジ』
再び、ペルシアの声が響く。
『前方右十五度――さっき言った“流れの乱れ”、今が一番濃い。
その向こう側に、きっと“答え”がある』
「……分かった」
リュウジは操縦桿を握る手に力を込めた。
「ここから先は、一歩も間違えられない。
全員、自分の役割に集中しろ。
ブライアン達がどんな形でそこにいるにせよ――
“見逃す”ことだけは、絶対にしない」
ネフェリスは、ゆっくりと、しかし確実に――
白い塵の帯と、その奥に潜む“影”へと、進路を取っていった。
ーーーー
白い濁りの帯が、スクリーンいっぱいにじわじわと広がってくる。
星の光を曇らせるような、細かい何かの群れだ。
「――っ」
マリが小さく息を呑んだ。
「どうした」
リュウジが視線を前に固定したまま問いかける。
「これ……中継ベイの破片です!」
マリは拡大映像をさらにズームし、指先で輪郭をなぞる。
割れたパネル、ねじ曲がったフレーム、そして、特徴的なアンテナ基部の一部。
『ブライアンが置いたやつか?』
ペルシアの声が、わずかに低くなる。
「恐らく。形状がほとんど同じです。
ただ……壊れ方が、普通じゃない」
マリが眉を寄せると、それにかぶせるようにサツキが言った。
「この壊れ方、変だわ……」
「やっぱり、そう思う?」
エリンも、スクリーンを見つめながら呟いた。
「隕石群の衝突でもなさそうやな」
チャコが計器に視線を落としつつ、口だけはいつも通りに動く。
「微細衝突の履歴は出とるけど、こんな“粉の帯”になるには、
衝突の仕方が偏りすぎとる気がするわ」
『どんな感じなの?』
ペルシアが尋ねる。
マリがすぐに答えた。
「“壊れてる”っていうより、“粉々になっている”感じです。
大きい破片もほとんど残っていない。
意図的に砕かれた、あるいは、何度も何度も細かく削られたみたいな……」
「中継ベイだけやないで」
チャコが指でグラフを示す。
「周辺の微細反射も、同じ成分っぽい。
本体がどこかで粉砕されて、その塵が帯になって流されてる、っちゅう感じや」
『リュウジ、どう思う?』
ペルシアの問いかけに、操縦席の彼は短く息を吐いた。
「……分からない。
ただ、ブライアン達と同時に消えた中継ベイが、ここで粉になってるなら――
“ここで何かがあった”ってことだけは確かだ」
スクリーンに映る白い帯の向こう。
闇の中に、まだ“本体”の気配は見えない。
「とりあえず、先に進む。
予定していた捜索ポイントには、順調にいけば夜には着く」
『そう。なら――』
ペルシアは一拍置いてから言った。
『慎重に頼むわ。
この“粉”は、過去に起きたことの“名残”にすぎない。
本当の“異常”は、まだその先にあるはずだから』
「了解。速度、そのまま維持。
チャコ、船体の被弾ログ、常時モニタ。
サツキ、推進系に負荷がかかりすぎたらすぐ言え」
「了解や。
船体表面への微細衝突は、今のところ許容範囲内や」
「こっちも大丈夫。エンジン、安定してる」
サツキが素早く答える。
「中継ベイは、こっちで増やしていくわ」
マリがそう言って、新たな無人中継機の準備シーケンスを立ち上げた。
エリンは、そんなそれぞれのやり取りを聞きながら、静かに立ち上がる。
「じゃあ、少し長丁場になりそうね」
彼女は柔らかな笑みを浮かべると、手帳のような端末を軽くタップした。
「――了解。
飲み物と軽食、補給して回るわ。
“変な静けさ”に飲まれないうちにね」
そう告げて、エリンは通路へと歩き出した。
ネフェリスは、白い粉の帯をかすめるように進みながら、
さらにその先――ブライアン達が消えた“夜”の地点へと、静かに近づいていった。
ーーーー
ネフェリスは、静かに闇を裂いていた。
視界の端で星々が細い線となり、船体の微かな振動だけが、ここがまだ「動いている」ことを教えてくれる。
誰もしゃべらない。息を呑む音さえ、ノイズになりそうで。
その沈黙を、ペルシアの声が破った。
『……前方で音がするわ』
ヘッドセット越しの声は、いつもより少し低い。
ただの“報告”のトーンではない。
「音?」
クリスタルが短く反芻する。
『恐らく――ブライアン達が置いた中継ベイかしら』
言葉に重さが乗る。
その直後、メインスクリーンの奥、闇の向こうに、白い霞のような帯がぼんやりと浮かび上がった。
「……見える」
リュウジが目を細める。
「白い塵だ。質感は、さっき通り過ぎた破片帯と似てる。
たぶん――中継ベイの“なれの果て”だな」
『後どれくらいで、最後の地点に着きそう?』
ペルシアの問いに、マリが慌ててコンソールに視線を落とした。
「え、えっと……現在速度を維持した場合――
あと十分、前後……です」
『マリ』
「は、はいっ!」
即座に返事が跳ねる。
『落ち着きなさい。
声が上ずっている。指先も、キーを叩きすぎだ』
「……っ、すみません」
マリは息を吸い直し、姿勢を正した。
「よう分かるなぁ……」
チャコが思わず感心したように呟く。
『当たり前でしょ。こっちは“音”しかないんだから』
ペルシアが少しだけおどけた調子を挟んだかと思うと、
すぐさま別の名前を呼んだ。
『ちなみに――サツキ、あなたも落ち着いて。
工具に触りすぎ。カチャカチャうるさいわ』
「えっ? あ……ご、ごめんなさい!」
サツキは慌てて、いじり回していたスパナやドライバーを元の位置に戻した。
「そんなことまで分かるんやな……」
チャコが苦笑する。
『“音”は全部、感情つきで届くのよ』
ペルシアの声は冗談めいているのに、どこか刺すように鋭い。
その言葉とほぼ同時に、エリンが静かに立ち上がった。
「ちょっと、食料区画に行ってくるわ」
「エリン?」
クリスタルが目だけ向ける。
「ニ年前の、初フライトの時と同じ顔をしている人がね。
このままだと、肩が固まりすぎて操縦に支障が出そうだから」
意味ありげに、ちらりと視線をリュウジの背中に落としてから、
エリンは軽い足取りで通路へ消えた。
通話越しに、それを見ていたのだろう。
ペルシアの声が、少し柔らかくなる。
『今、エリンが紅茶とお茶を持ってくるから、一息つきなさい。
深呼吸。肩の力を抜いて』
「……はい」
マリとサツキの返事が重なる。
数分もしないうちに、軽い足音が戻ってきた。
「お待たせ」
エリンが片手でトレーを支えながらブリッジに戻ってくる。
紙コップには、香りの違う液体が二種類。
「こっちがマリの分。ブレンドの紅茶。
こっちはサツキのお茶。ちゃんと葉から出したやつよ。
――こぼさないようにね」
「……ありがとうございます」
「うわ、本当に、ちゃんとした紅茶……」
二人が受け取ると、ふっと空気が和らいだ。
エリンはそのまま、何も言わずにリュウジの横に新しい紙コップを置く。
「……コーヒーか」
リュウジがちらと見やると、エリンはただ「ええ」とだけ頷いた。
『相変わらず、恐ろしいわね』
クリスタルが低く呟く。
『どこまで手の内を読まれてるのか、時々、背筋が寒くなる』
『これはエリンだから分かるのよ』
ペルシアが苦笑混じりに返す。
『私が聞いているのは“音”だけ。
あの子は、“人の癖”を身体で覚えてるだけ』
「褒め言葉と受け取っておくわ」
エリンが小さく笑い、今度はチャコの背後に回る。
『チャコ、レーダーに反応は?』
ペルシアの問いに、チャコは振り返ることなく答えた。
「なんも出とらんで。
通常の質量反応も、特異な反射も無し。
ただ、微細な塵のベールが濃い、っちゅう感じや」
『そう。――前方で、少し隕石の衝突音がするわ』
ペルシアの声が、ごくわずかだけ低くなる。
『恐らく直径一メートル級。単発、あるいは二、三発。
今のところネフェリスからは距離があるけれど、念のため注意して』
「了解」
リュウジが短く返す。
彼はコーヒーに一口だけ口をつけると、すぐにカップをホルダーに戻し、
全員に向けて声を張った。
「もう少しで、ブライアンが消息を絶った地点に着く。
全員、シートベルトとヘルメットを装着。
サツキ、船体ステータスのログを常時記録。
クリスタル、負傷時の初動プランを再確認しておいてくれ」
「了解」
「分かったわ」
それぞれが持ち場で手を動かし始める。
エリンもトレーを抱えて席に戻り、手際よくベルトを締めた。
やがて、白い塵の密度が一段と濃くなり、
前方の空間が、薄い霧の向こう側のようにぼやけて見えてくる。
「――目的地点、三分前」
マリが声を上げた。
「二分。……一分」
息を呑む音が、あちこちで重なった。
ネフェリスは速度をわずかに落とし、滑るようにその地点へと近づいていく。
「到達」
マリの報告とほぼ同時に、リュウジが前方の映像を精いっぱい拡大した。
『様子は?』
ペルシアの声が、ほんの少しだけ震えている。
リュウジは、数秒、言葉を探した。
「……何もないな」
その一言に、全員の喉がごくりと鳴る。
「ブライアンの船影も、中継ベイの本体も、漂流物らしきものも――
何一つ、見当たらない」
『そんなはずは……』
ペルシアが言いかけた、その時だった。
ペルシアの声が、ふっと細くなる。
『――ちょっと待って』
彼女はヘッドホンのボリュームを上げ、
アイマスクの奥で目を閉じ、息を詰める。
得体の知れない「唸り」のような音が混じり始めた。
それはスピーカーを通して伝わってくる――
そんな錯覚さえ覚える微細な震え。
『耳鳴りに近い低音が、周期的に――』
ペルシアの言葉が途中で途切れた。
「異常音?」
クリスタルの問いと同時に、
どこか遠くで「ギリッ」と金属が擦れるようなノイズが混じる。
「マリ!」
リュウジの声が、鋭く飛ぶ。
「い、いえ……まだ何も。
レーダーも光学も、変化は――」
それでも、マリの声にははっきりと緊張が滲んでいた。
彼女の手が、無意識にコンソールの端を掴む。
『――来る!!』
ペルシアの叫びが、ヘッドホンの中で炸裂した。
その瞬間。
バチッ、と空間が弾けるような音と共に、
ブリッジのスピーカーから聞こえていた全ての声が、ぷつりと途絶えた。
「リュウジ!?」
ペルシアが叫ぶ。
応答はない。
代わりに、耳が痛くなるような沈黙が、耳を包み込んだ。
ーーーー
「ネフェリス! こちら管制! 聞こえる!? ネフェリス!!」
ペルシアの叫びが、狭い個室に反響した。
耳を締め付けるようなヘッドホンの圧迫感。その向こうから返ってくるのは――
ザーッ……ザザァァ……。
砂嵐のような、乾いたノイズだけだった。
「……っ、なんなのよ、これ!」
奥歯がきしむ。
ペルシアはヘッドホンを乱暴に外し、机の上に叩きつけた。
額に滲む汗を手の甲で拭いながら、立ち上がる。
個室を飛び出した瞬間、外の通信室のざわめきが、一気に襲いかかってきた。
モニターの光、オペレーター達の慌てた声、警告音。
全てがごちゃまぜになって、空気そのものがざわついている。
「ペルシアさん!」
一人のオペレーターが彼女に気づき、椅子を回転させて立ち上がる。
「状況は?」
ペルシアは遮るように言い、彼の横に歩み寄った。
指示より先に、目がモニターを探る。
ネフェリスの識別コード――どこにもない。
震える指が、画面の隅を指し示した。
「報告します! ブライアン一行の時と……同じです!」
「同じ?」
ペルシアの声が低くなる。
「ネフェリス及び、中継ベイ群――
全ての信号が、同時刻に消滅しました!」
喉の奥が、ひりついた。
血の気が引いていくのが自分でも分かる。
……また、やられた。
今度は、目を閉じていた彼らの前で。
悔しさと恐怖が一瞬、ペルシアの喉元までこみ上げたが――
彼女はそれを、息と一緒に強引に飲み込んだ。
「……っ、了解したわ」
唇の内側を噛みしめる。
鉄の味が、微かに広がる。
「全コロニー管理局に通達!」
ペルシアは振り返り、通信室全体に声を飛ばした。
「非常事態宣言を発令!
発信者名義は宇宙管理局長。――文面はこっちで作る時間はないわ。
テンプレート第3号を基準に、“未確認空域における複数機消滅”として上書き!」
「は、はいっ!」
数人のオペレーターが一斉に端末へ向かう。
「それから――各コロニーで待機させている捜索チームに一斉出動要請!」
ペルシアは指を折りながら、次々と指示を並べる。
「ソーラ・デッラ・ルーナを中心として、セーシング領域内ギリギリまでの航行を許可。
機種は問わない。輸送船でも医療船でも――宙を飛べるなら、なんだって使いなさい!」
「ですが、医療船には――」
「反対意見は、あとで書面で出して!」
ペルシアの一喝に、若いオペレーターの言葉が喉で止まる。
「今は一機でも多く、前線に“目”と“手”が必要なの。
前衛に探索船、中衛に輸送船と医療船を配置して。」
「了解!」
オペレーター達が動き出す。
室内の空気が、混乱から“戦闘モード”へ切り替わっていく。
ペルシアは一瞬だけ視線を端末に落とし、
右手で別系統の通信ボタンを叩いた。
「――スターフォックス」
すぐに、落ち着いた少年の声が返ってくる。
『こちらスターフォックス。聞こえてる』
「あなた達も、すぐに出発準備」
胸の奥のざらつきを、声色から必死に排除しながら告げる。
「目的はネフェリスの追跡と、セーシング領域内の観測データ収集。
くれぐれも、“外側”には踏み出さないこと」
『了解。スターフォックス出撃準備に入る』
後ろから、ファルコの舌打ち混じりの声がうっすら聞こえた。
『ちっ、なんでこういう時に限って“縁止まり”なんだよ』
『命令は命令だろ。――やるぞ、みんな』
短いやり取りの後、通信は一度切れた。
ペルシアはそのまま、別の回線に繋ぐ。
モニター上部に表示された「局長室」の文字が、すぐに応答へと変わった。
『どうした、ペルシア』
「局長。ネフェリス及び中継ベイ群が、ブライアン機と同様に消失しました」
『……そうか』
短い沈黙。その重さに耐える前に、ペルシアは続けた。
「既に非常事態宣言の発令と、各コロニーの捜索チームの出動要請を開始しています。
セーシング領域内ギリギリまでの航行を許可しました。
ここから先の判断を、局長に一任したいと思います」
『分かった。しばらくの間、そちらの采配に口は出さん。
必要な権限はすべて回す』
その言葉を聞き、ペルシアは短く頭を下げた。
「ありがとうございます。――しばらくの間、ここは任せます。
私は、あの子達を“探す”ほうに集中したい」
『任せた』
通信が切れる。
ペルシアは深く息を吐き、
再び個室――集音用の専用室へと歩を戻した。
狭い部屋に入り、扉を閉じる。
ヘッドホンを拾い上げ、再び耳に押し当てた。
アイマスクを装着し、光と世界を遮断する。
「……ネフェリス」
彼女はマイクにそっと唇を寄せた。
「聞こえたら、返事だけでいい。声じゃなくていいから。
“何か”音を立てて。――どんな微かなものでも拾ってみせる」
返ってくるのは、まだノイズだけ。
それでも、ペルシアは決してヘッドホンを外そうとしなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ロカA2。
薄い人工雨も、いつの間にか止んでいた。
ルナは自宅のキッチンで、静かに本を読んでいた。
テーブルの上には、『地球再生論』
「……ふぅ」
区切りのいいところで、ルナはしおりを挟んだ。
窓の外は、コロニーの夜。
高層階の窓から見下ろす街の灯りは、雨上がりで少しだけ滲んでいる。
「そろそろ、温かいの飲もうかな」
ルナは椅子から立ち上がり、キッチンに向かった。
棚からお気に入りのマグカップを取り出す。
白地にブルーの小さな星が散りばめられた、火星の共同墓地のお土産だ。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、
小鍋に注いで弱火にかける。
「吹きこぼれないように……っと」
ヘラで軽くかき混ぜながら、
ルナはさっき読んでいたページを思い返す。
(地球の環境再生……。
惑星開拓技師になったら、地球以外の惑星にも関わるのかな)
胸元の三日月のネックレスに触れ、
ルナは小さく笑った。
ふつふつ……と湯気が立ち始める。
火を止めて、丁寧にマグカップへ注いだ。
「よし」
湯気の立つマグを両手で包み込むようにして、
テーブルへ戻ろうとした――その瞬間。
――パキ。
小さく嫌な音がしたかと思うと、
マグの取っ手の付け根に、ぱっきりとヒビが入った。
「あ――」
次の瞬間、取っ手が「ぽろり」と外れた。
支えを失ったマグは、ルナの手からすり抜ける。
「きゃっ!」
温めたばかりの牛乳が、床に白い弧を描きながら広がり、
陶器の割れる音が、キッチンに乾いた音を響かせた。
しん……と、静寂。
ルナは呆然と、その光景を見つめた。
足元には、白い水たまりと、星模様の破片。
「……やっちゃった」
しばらくして、ようやく言葉がこぼれる。
しゃがみ込んで、破片を拾い集める。
熱さはもうない。代わりに、じわりと胸の奥に、
正体の分からない不安のようなものが広がっていく。
(せっかく……気に入ってたのに)
火星のお土産。
一人で墓参りに行った帰りに、
自分への“お守り”みたいなつもりで買ったもの。
それが、何の前触れもなく、
ぱきりと、音を立てて壊れた。
「……ついてないなぁ、今日」
苦笑を浮かべながら、布巾を取りに立ち上がる。
けれど、胸の奥のざわめきは、笑い飛ばせるほど軽くない。
(大丈夫……だよね)
自然と、視線が窓の外に向いた。
コロニーの夜空は、いつも通り静かで、
人工の星々が決められた軌道を回っているだけ。
ネフェリスが今どこにいるのか、
ルナは知らない。
ただ、理由もなく――
胸の奥に、きゅうっとした痛みが走った。
「……リュウジ」
思わず、その名前を呼んでいた。
誰もいない部屋に、掠れた声だけが落ちる。
返事は、もちろんない。
ルナは首を振り、床に広がった牛乳を拭き始めた。
壊れたマグカップの破片を、ひとつひとつ拾い上げながら。
その頃。
彼女の知らない宇宙のずっと向こうで――
ネフェリスは、音もなく“どこか”へと引きずり込まれていた。