サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第57話

警告音。

耳の奥を刺すような高い電子音が、途切れ途切れに鳴り続けている。

鼻の奥には、焦げた金属とプラスチックが混ざった匂い。喉がひりつく。

 

「リュウジ! しっかりせぇ!!」

 

すぐ近くで、チャコの声が響いた。

その声がして、ようやく――エリンの意識は、ゆっくりと浮上してきた。

 

「……っ、ん……」

 

重たい瞼を、無理やりこじ開ける。

視界がぼやけていて、天井と床の区別もつかない。

身体がシートに押し付けられている感覚だけが、かろうじて自分の“上”と“下”を教えてくれる。

 

(……ここは……ネフェリス……)

 

手探りで、自分の胸元のバックルに触れた。

指先に硬い金属の感触。何度か空振りしてから、ようやく外すことができる。

 

カチン、とバックルが外れた瞬間、右脇腹に鋭い痛みが走った。

 

「……ッ!?」

 

呼吸が止まる。

思わずシートの縁を掴み、痛みが引くのを待つ。

 

(肋骨……やったわね、これ……)

 

右肋骨のあたりに、鈍い熱が広がっている。

浅く息を吸うだけでも、きゅうっと内側から締め付けられるように痛い。

それでもエリンは、ゆっくりと身体を起こした。

 

――ペルシアの「来る!」という声。

――直後にネフェリスを叩きつけた、あの異常な揺れ。

 

断片的な記憶が、頭の中でつながっていく。

 

機械の警告音。

船体を叩くような重低音。

視界の隅で、サツキがシートにしがみついて悲鳴を飲み込んだ顔。

マリが何かを叫んでいた。チャコの指がコンソールを踊る。

 

『チャコ! 何が起こってる!?』

 

操縦桿を両手で握りしめたリュウジの声が、耳に蘇る。

 

『分からへん! ただ電子系統がやられとる!?』

 

『非常系統に切り替えろ!』

 

『今やっとる! やっとるけど――』

 

そこで、チャコの声が途切れた瞬間があった。

警告音が一段高くなり、コンソールが真っ赤に染まる。

 

『アカン! 衝撃波や!!』

 

チャコの叫び。

 

次の瞬間、ネフェリスは、まるで巨大な手で鷲掴みにされたように揺さぶられた。

肺から勝手に空気が絞り出され、声を出す余裕さえ奪われる。

骨ごと内臓を振られるような衝撃。シートベルトが食い込み、全身がきしむ。

 

甲高い破砕音が、耳を裂いた。

 

――前方のキャノピーガラスが、ひび割れた。

 

スローモーションのように、ひびが蜘蛛の巣状に走り――

次の瞬間、ぱきん、と音を立てて砕け散る。

ガラス片と共に、薄い空気が吸い出される感覚。

非常用シールドが起動するまでの一瞬、皮膚が引き剥がされるような冷気が頬を刺した。

 

そこで、エリンの記憶は途切れていた。

 

「……そうだわ、それで……気を失ったんだっ……」

 

シートから身を離そうとした瞬間、右肋骨に再び鋭い痛み。

ぐ、と息を噛み殺す。

 

(折れてはいない……ヒビ、くらい……。歩ける)

 

自分に言い聞かせるように、シートの背を掴みながら、ゆっくりと立ち上がる。

視界が揺れるが、意識ははっきりしてきた。

 

コックピットは、薄暗かった。

非常灯の赤とオレンジが交互に点滅し、ところどころから煙が漂っている。

床には小さな機器の破片や、ガラス片が散らばっていた。

 

「リュウジ! しっかりせぇ!!」

 

再び聞こえたチャコの声のほうへ、エリンは足を引きずるようにして近づいていく。

 

「チャコ……一体、何があったの?」

 

かすれた声で尋ねると、コンソールにかじりついていたチャコが振り返った。

その丸い目に、一瞬はっきりとした安堵が灯る。

 

「エリン! 起きたんか!」

 

「ええ……。状況を教えて」

 

チャコは、ちらりと前方の割れたキャノピーに目をやり、すぐにコンソールへ視線を戻した。

 

「恐らく――宇宙爆発や!」

 

「宇宙爆発……? 本当に……」

 

エリンは思わず呻くように言葉を漏らした。

 

宇宙空間で突然発生する局所的なエネルギー放出。

強力な電磁パルスと衝撃波を伴う、原因不明の現象。

ブライアン一行が消息を絶った時も、可能性のひとつとして挙がっていたそれ。

 

「それしか考えられへん。ブライアンの時もそうや。

 中継ベイと探索機が同時に消失。

 恐らく、爆発時に起きた電磁パルスが電気系統を阻害して、

 遅れて衝撃波が来たんやと思う」

 

チャコの指は、休むことなくシステムのパネルを走っている。

非常系統への切り替え、損傷箇所の隔離、残存機能の洗い出し。

 

エリンは、割れたキャノピーを見上げた。

そこには緊急用のナノマシンシールドが半分ほど降りており、

完全な真空にはなっていないが、空気はいつもより薄い。

 

「なるほど……」

 

状況の説明と、目の前に広がる光景が繋がる。

 

(あの衝撃で、このガラスが……。その前にシールドが間に合ってなかったら……)

 

背筋に冷たいものが走った。

だが、チャコは別のことを急いでいた。

 

「そんなことより、リュウジを起こさんと! このままだとマズイことになるで!!」

 

「……リュウジ?」

 

そこで、エリンはようやく操縦席に座る少年へ視線を向けた。

 

「……っ!?」

 

息が詰まる。

 

リュウジは、まだ操縦席に座っていた。

シートベルトも、ヘルメットも、そのまま。

だが、ヘルメットの前面――透明なバイザーの部分には、

砕けたキャノピーのガラス片がひとつ、内側まで貫くように刺さっていた。

 

ガラスの縁から、赤いものが滴っている。

それはぽた……ぽた……と、彼の胸元の宇宙服に小さな赤い斑点を作っていた。

 

「ちょっと待って……こんな状態で、どうやって操縦してるっていうの……!?」

 

エリンは思わず前のめりになる。

だが、右肋骨の痛みに顔をしかめ、シートの背を強く掴んで踏みとどまった。

 

リュウジの両手は、操縦桿を握ったまま動いていた。

小刻みに、だが確実に、スラスターの調整が行われている。

その動きは、人間の意識が宿っているにしてはあまりに機械的で――

かといって、自動操縦のそれとも違っていた。

 

「ネフェリスの仕業や!」

 

チャコが叫ぶ。

 

「動かんくなったリュウジの身体を、

 ネフェリスが無理やり使こうてるんや!

 このままやと、神経応答制御が深くなってまう!!」

 

エリンの背筋に、冷水を浴びせられたような感覚が走った。

 

神経応答制御――パイロットの神経信号を船体制御に直結するシステム。

通常は第一層、反射レベルで操縦感覚を補助するだけ。

そこから先の“層”は、危険領域。

第二層は意識の深部へ、第三層は人格にも干渉しうる領域だ。

 

「……どこまで入ってるの?」

 

エリンは震える声を抑えて尋ねる。

 

チャコは唇を噛み、モニターに映る制御ログを指差した。

 

「既に第二層まで入り込んどる。このままいけば、第三層まで行ってまう……!」

 

「第三層……」

 

そこまで踏み込めば、

ネフェリスはリュウジの脳を“自分のもの”として扱い始める。

帰ってこられなくなる危険すらある。

 

「しっかりせぇ! リュウジ!!」

 

チャコの叫びが、コックピットに響く。

 

エリンも、彼の肩に手を添えた。

ヘルメット越しに、その体温を確かめるように。

 

「リュウジ! リュウジ!!」

 

呼びかけても、彼は微動だにしない。

まぶたは閉じたまま、顔色は悪い。

だが、その指先だけは、相変わらず操縦桿から離れない。

 

「……っ」

 

エリンの胸の奥に、焦りと、別の痛みが混じって広がる。

 

(やめて……そんな無茶な守り方、しなくていいのよ……)

 

ネフェリスは、彼を守るために、彼を“使って”いる。

その皮肉な構図が、エリンには耐えがたかった。

 

「チャコ、ネフェリスに直接、指示は出せる?」

 

「今、こいつは完全に“防御モード”や。

 パイロットを最優先に守るモードと、統合されてしもてる。

 ウチの言うことなんて、聞きよらへん」

 

チャコが唇を尖らせる。

 

「でも、その“守る”ってのが、今はリュウジを潰しかけてる……」

 

エリンはヘルメットの表面にそっと額を寄せた。

ガラス片を避けながら、できるだけ近くに。

 

「……リュウジ」

 

ささやくような声になる。

 

「聞こえてるなら、返事はしなくていい。

 指を、ほんの少し動かすだけでいいから」

 

返事はない。

操縦桿を握る指の動きも、変わらない。

 

背後で、金属の軋む音がした。

振り返ると、クリスタルがシートベルトを外して立ち上がっていた。

額に小さな切り傷があるが、意識ははっきりしている。

 

「……状況は把握した」

 

物静かな声だが、その瞳は鋭い。

 

「エリン、肋骨を庇って立つのはやめなさい。

 それ以上痛めたら、こっちの手が増える」

 

「今は、私よりリュウジよ」

 

エリンは、短く答える。

 

クリスタルは一瞬だけ彼女を見つめ、次にチャコの側へ移動した。

 

「神経応答制御第二層まで侵入……

 第三層への移行条件は?」

 

「ネフェリス的には“これ以上やばい”って判断したらやろな。

 たぶん、船体の損傷が一定ライン越えたら、勝手に踏み込む」

 

「なら、“大丈夫だ”と判断させればいい」

 

クリスタルは、あくまで冷静に言った。

 

「制御ログを見る限り、姿勢制御は保たれている。

 致命的な損傷も、まだ出ていない。――そう見せかける」

 

「見せかけるって……」

 

チャコが眉をひそめる。

 

「アラート系統の一部を“誤魔化す”のよ。

 ネフェリスに危険情報を全部渡さない。

 そうすれば、第三層への侵入トリガーは、しばらく遅らせられる」

 

「やれるの?」

 

エリンが問うと、チャコは一瞬黙り――すぐに頷いた。

 

「……やるしかあらへん。

 ウチが警告系統の信号をフィルタリングする。

 ほんまにヤバい時だけ、ネフェリスに回すようにすれば……」

 

「その間に、あなたが彼を“引き戻す”」

 

クリスタルはエリンを見た。

 

「コックピットコンディション担当は、あなたなんだから」

 

エリンは、大きく一度、息を吸い込んだ。

肋骨が痛む。それでも、目は逸らさない。

 

「……分かったわ」

 

彼女は、リュウジのヘルメットに指を添えた。

薄いプラスチック越しに、少年の額の位置を探る。

 

「リュウジ。――あなたを一人で飛ばせるつもりは、ないわ」

 

ヘルメットの向こうの彼の耳に、届くかどうかは分からない。

それでも、声にして伝える。

 

「ネフェリスに全部、背負わせないで。

 あなたが“守る”ために、自分を捨てるのは――もう、やめて」

 

操縦桿を握る彼の右手に、自分の手を重ねた。

厚いグローブ越しに、体温がじんわりと伝わってくる。

 

「ここには、私もいる。チャコも、サツキも、マリも、クリスタルも。

 ペルシアだって、向こうで必死に手を伸ばしてる。

 ――“一人で飛ぶ”必要なんて、どこにもないのよ」

 

チャコの指が、コンソールの上を激しく動き続ける。

警告音の一部が、少しずつトーンを落としていく。

ネフェリスの中枢に入る信号が、選別され始めた証拠だ。

 

「神経応答レベル、変化なし……第二層のまま」

 

クリスタルが静かに読み上げる。

 

エリンは、重ねた手に力を込めた。

 

「リュウジ。

 あなた、いつも言うでしょう? “全部、上手くいく”って」

 

ほんの少し、口元が笑った。

 

「だったら今くらい――私の言葉も信じて。

 “全部、上手くいく”から。

 だから、こっちに戻ってきて」

 

沈黙。

 

非常灯の点滅だけが、時間の経過を示している。

 

コンソールの端で、小さな表示が一瞬だけ点滅した。

 

〈NEURAL LINK LV2 → LV1〉

 

チャコが息を呑む。

 

「……今の、見えたか?」

 

「ええ……」

 

クリスタルが頷く。

 

「リンクレベルが、一瞬だけ浅くなった」

 

「リュウジ……」

 

エリンは、もう一度彼の名を呼んだ。

 

その時。

 

操縦桿を握るリュウジの右手の指が――本当にわずかに、ぴくりと動いた。

 

それは、誰も見逃せないほど、確かな反応だった。

 

ーーーー

 

白い、のっぺりとした天井があった。

天井、というより——光と影の境目だけでできた、何もない空。

 

リュウジは、ゆっくりと瞼を開けた。

 

「……また、ここか」

 

自分の声が、妙に響く。

身体は重くも軽くもなく、痛みもない。さっきまで肋骨を締め付けていたような重圧も、血の匂いも、何もない。

 

(今度こそ——)

 

「今度こそ死んだ、か?」

 

口に出してみて、苦笑が漏れた。

言葉に、実感が追いつかない。

 

「そんな訳ないでしょ」

 

背後から、聞き慣れた声が聞こえた。

 

振り返る前から、誰なのか分かっていた。

それでも、リュウジはゆっくりと顔を向ける。

 

そこには、少年が立っていた。

少し跳ねた銀髪。いつもの、皮肉と優しさが混ざった目つき。

 

ルイだった。

 

「ま、危ない状況だったのは確かだけどね」

 

ルイは肩をすくめて笑った。

 

「よく、そんな顔で言えるな」

 

リュウジは額に手を当てる仕草をして、苦々しく息を吐いた。

頭を打ったような感覚はない。ただ、記憶だけが鮮明だ。

 

「……爆発、か」

 

「うん。綺麗な花火だったよ。こっち側から見るとね」

 

「笑い事じゃない」

 

口ではそう言いながらも、その言い方に少しだけ救われる自分がいた。

ルイは肩をすくめ、いつもの少し皮肉な笑みを浮かべた。

 

「だって、死んでないもん。今のリュウジ」

 

リュウジは眉を寄せる。

 

「ならこれは……夢か?」

 

「精神世界。リュウジの“意識の中”みたいなものだよ。

 神経応答制御の第二層まで落ちたから、ここに引っ張られたわけ」

 

ルイは床を指先で小さく叩く。

 

「本当は来ないほうがいいんだけどね」

 

「来たくて来たわけじゃない」

 

「知ってるよ」

 

ルイは笑ったが、その奥にある心配は隠せていなかった。

 

ルイは、ぽん、と自分の胸を叩いた。

 

「リュウジ、さっきまでまた“全部背負うモード”に入ってたでしょ」

 

「……さっき?」

 

「意識落としたあたりから」

 

ルイは軽く指を鳴らした。

二人の足元の白が、ゆらりと波打つ。

遠くのほうに、うっすらとコックピットの影のようなものが浮かんでは消えた。

 

リュウジは短く言った。

 

「俺は……操縦桿を離すわけにいかなかった」

 

「うん、知ってる」

 

ルイは否定しない。

そのあたりが、彼らしいところだった。

 

「ブライアンも、タツヤ班長も、まだ向こうにいる。

 ここで手を離せるような性格なら——そもそもこんなところまで来てないし」

 

「だったら何を言いに来た」

 

リュウジはルイをまっすぐ見据える。

 

「説教か? “また一人で背負うな”とか、そういうやつなら、もう何回も聞いた」

 

ルイは「んー」と少し考えるふりをしてから、白い床にぺたりと座り込んだ。

 

「説教ってほど、偉そうな話じゃないけどさ」

 

「お前が座ると、余計に夢みたいだな」

 

「ここ、そもそもリュウジの頭の中みたいなもんだからね。文句は自分に言ってよ」

 

ルイは笑い、横をぽんぽんと叩いた。

 

「座りなよ。立ったまま話すほど、時間ないわけでもない」

 

リュウジは少しだけ眉をひそめたが、結局ルイの隣に腰を下ろした。

座った感覚があることが、不思議に思える。

 

しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

白い世界のどこか遠くで、微かな電子音のようなものが聞こえる気がした。

 

「なぁ、リュウジ」

 

先に口を開いたのは、ルイだった。

 

「リュウジ、今……まだ迷ってるよね」

 

「……何についてだ」

 

「決まってるでしょ。宙のこと」

 

リュウジは目を閉じた。

ネフェリスの操縦席。

サヴァイヴの青い空。

コロニーの人工空。

ルナの顔。カオルの視線。ブライアンの背中。タツヤの笑い声。

全部が、胸のあたりで絡まっている。

 

「宇宙飛行士を続けるかどうか、か?」

 

「リュウジ、自分で言ったじゃん。

 “あの帰還で、俺の原点は一度果たされた気がする”って」

 

ルイは、あっさりとリュウジの言葉を口にする。

 

「誰かを守れるパイロットになりたい。その夢は、もう叶ってる。

 ——その先をどうするか、まだ決めきれてない」

 

「……そうだな」

 

認めるしかなかった。

 

「お前までそれを言うのか。カオルにも、ルナにも言われた」

 

「そりゃそうだよ。リュウジの中で引っかかってる“トゲ”がそこしかない」

 

ルイは、リュウジの胸のあたりを指でつつく仕草をする。

 

「で、そのトゲ抜かないまま、また“どうせ俺が飛ぶしかない”モードに入ってる」

 

「他に誰がいる」

 

リュウジの声に、苛立ちが滲んだ。

 

「アズベルト先生は体調不良。

 ブライアンもタツヤ班長も消息不明。

 セーシング領域の向こうに出る腕持ってるやつなんか、ほとんどいない」

 

「そうだね」

 

ルイは否定しない。

だからこそ、リュウジの言葉は重い。

 

「俺が行かなきゃ、誰が行く」

 

「だから飛んだ。それは間違いじゃないよ」

 

ルイの声は、驚くほど穏やかだった。

 

「問題は、その先」

 

リュウジは眉を寄せる。

 

「“このまま、ここで燃え尽きれば楽だ”って思ってない?」

 

図星を突かれたように、心臓が一度跳ねた。

 

リュウジは視線をそらし、苦笑した。

 

「……楽、とは思ってない」

 

「じゃあ?」

 

「全部、終われるとは思った」

 

正直に言葉がこぼれた。

 

「ブライアンを見つけるか、見つけられないかは分からない。

 けど、この捜索をやり切れば、あのフライトから続いてる“何か”には、

 一区切りつけられる気がした」

 

「“最後の仕事”っぽく聞こえるね」

 

ルイの声音は、少しだけ冷たい。

 

「そのあと、どうするつもり? どっかの辺境の星に引っ込んで、

 誰とも関わらずに、宙からも目を逸らして?」

 

リュウジは返事をしない。

それが、暗黙の肯定になっていた。

 

「……志望届出したとき、なんて書いたか、覚えてる?」

 

「今さら、そんな話をするのか」

 

「するよ」

 

ルイは笑う。

 

「“誰かの命を守るための操縦をしたい”

 “自分の判断で、誰かを救えるパイロットになりたい”」

 

「ああ」

 

あの日、自分が書いた文字が、ありありと蘇る。

まだ何も失っていなかった頃の、自分の筆跡。

 

「それ、別に“宇宙飛行士”って職業に限定した願いじゃないでしょ?」

 

「……分かってる」

 

「サヴァイヴで、嫌ってほど知ったじゃないか。

 ハンターにもなれる。開拓技師にもなれる。監察にもなれる。

 ——リュウジは、どこにいても“守るほう”に回るさ」

 

ルイは、あきれたように笑った。

 

「だからさ。迷うのはいいけど」

 

そこで、彼は真面目な目つきになる。

 

「“どこで生きるか”を、“どこで死ぬか”と混同するなよ」

 

リュウジは、ハッとしたように目を上げた。

 

「さっき、ちょっと、そんな顔してた。

 “ここで全部終わってもいい”って。

 そういう顔、もう見たくないんだよ」

 

ルイの声には、はっきりとした苛立ちと、同じくらいの心配が混ざっていた。

 

「リュウジには、まだ“帰る場所”がある。

 待ってる人がいる。

 それを無視して終わったら……俺は怒るよ」

 

「ルイ……」

 

「ほんとはさ。もう一度だけでも、ちゃんと言いたかったの。

 ——“置いてかないでよ”って」

 

その言葉が心臓に突き刺さるようで、リュウジは視線を落とした。

 

「俺はもう死んでる。

 だからリュウジが同じ場所に降りてきたら……意味ないでしょ」

 

ルイは笑って見せたが、その目は泣きそうだった。

 

「……」

 

「リュウジ」

 

ルイは、彼の名を呼んだ。

 

「この捜索は、“終わらせるための仕事”じゃない。

 “続けるための仕事”だ。

 ブライアンも、タツヤも、リュウジも。

 みんながまだ“宙の上”にいられるようにするための仕事」

 

リュウジは、胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚を覚えた。

言葉にできない何かが、喉のあたりでひっかかっている。

 

「……俺は、どうしたらいい」

 

珍しく、素直な問いだった。

 

ルイは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑った。

 

「決めるのは、リュウジでしょ。——って言いたいところだけど」

 

「だろうな」

 

「ただ、ヒントくらいはあげるよ」

 

ルイは、指を一本立てた。

 

「一つ。

 “自分がやりたいこと”から逃げない。

 “怖いからやらない”のと、“ほんとにやりたいわけじゃない”は、ちゃんと分けること」

 

「……」

 

「二つ。

 “誰のために飛ぶか”を忘れないこと。

 ブライアンのためだけじゃない。タツヤのためだけでもない。

 ——リュウジを待ってるやつ、今、何人いる?」

 

ルナの顔がまず浮かんだ。

その隣に、カオル。メノリ。ハワード。シンゴ。ベル。シャアラ。

チャコ。エリン。ペルシア。ユイ。

そして、まだ見ぬ、どこかの誰か。

 

胸が、じんと熱くなる。

 

「三つ」

 

ルイは少し真顔になって続けた。

 

「リュウジ、さっき“俺が行かなきゃ誰が行く”って言ったけどさ」

 

「事実だろ」

 

「今のリュウジには、もう一つ言えるはずだよ?」

 

ルイは、いたずらっぽく笑った。

 

「“俺が行くなら、誰がついてきてくれるか”って」

 

リュウジは、はっとした。

 

ネフェリスの中の顔ぶれが、次々と浮かぶ。

チャコ。サツキ。マリ。クリスタル。エリン。

ソーラ・デッラ・ルーナで、必死に音を聞いているペルシア。

管制室で祈るようにモニターを見つめているであろう、仲間たち。

 

「……みんな、来てくれたな」

 

「皆んなリュウジに付いてきたんじゃない?」

 

ルイは苦笑した。

 

「カオルと違って、リュウジは“助けてくれ”って言葉をあんまり口にしない。

 でも、態度で言ってる。

 だから、皆んなは勝手に集まってきたんだよ」

 

「態度で、か」

 

「そう。だからさ」

 

ルイは、立ち上がった。

白い床が、足元から波紋のように揺れる。

 

「ここで“全部終わらせる”とか考えたら、全員、殴りにくるよ。たぶん」

 

「……ルナあたりは、本気でやりそうだな」

 

「でしょ」

 

二人は、ほんの少しだけ笑った。

 

笑いが収まると、ルイの表情は静かに引き締まる。

 

「——さて」

 

空気が変わった。

精神世界の“空”が、少しだけ色を帯びる。

無色透明だったはずの天井に、かすかな星のような点が浮かんでは消える。

 

「本題、もう一個残ってるんだよね」

 

「本題?」

 

「そう。リュウジ、今、何しに来てる?」

 

ルイの視線が、リュウジをまっすぐ射抜いた。

 

「……ブライアン達を、探しに来てる」

 

「それだけ?」

 

「タツヤ班長もいる」

 

リュウジは、迷いなく答えた。

 

「ユイに、“父親を見つけられませんでした”なんて言いに行きたくない」

 

「うん、その顔だよ」

 

ルイは、満足そうに頷く。

 

「英雄でも、“罪滅ぼし”でもなくてさ。

 ちゃんと“誰か一人”の顔が浮かんでる時の、リュウジの顔」

 

「説教じみてきたぞ」

 

「褒めてるんだけど?」

 

ルイは肩を竦めたあと、小さく息を吸い込んだ。

 

「——じゃあ、約束どおり」

 

「約束?」

 

「最初に言ったでしょ。“まだこっちに来るには早い”って。

 送り返すついでに、オマケくらいはつけてあげる」

 

そう言って、ルイは視線を上に向けた。

白い“空”に、幾つもの光点が浮かび上がる。

それは宇宙図のようであり、ネフェリスの航路図のようでもあった。

 

「ブライアン達の、居場所」

 

ルイの声が、少しだけ低くなる。

 

「全部、音と光で見えてるわけじゃないけど……

 “こっち側”からなら、リュウジ達よりちょっとだけ、遠くが見える」

 

リュウジは、思わず身を乗り出した。

 

「知ってるのか」

 

「正確な座標を口で説明しろって言われると面倒だからさ」

 

ルイは苦笑し、指先で空間をなぞる。

 

「——直接、頭に叩き込んどく」

 

白い世界の空が、一瞬だけ鮮やかな星図に変わった。

点と点を結ぶ線が、音もなくリュウジの視界に流れ込んでくる。

距離。角度。相対速度。

いくつもの数字とイメージが、脳に焼き付く。

 

「ここが、“ブライアン達”のいる場所」

 

ルイの声が、耳のすぐ側で聞こえた。

 

「……ブライアン達の居場所は、伝えておく。

 後は——リュウジ次第だよ。必ず助けてあげて。

 リュウジだけが届くところだから」

 

白の世界に戻る。

 

リュウジは息を吐き、ルイを見つめた。

 

「ルイ。……また来れるか?」

 

ルイは少し寂しそうに笑った。

 

「ううん。これで最後」

 

「最後……?」

 

「うん、僕もそろそろ行かないと。ずっとここにいる訳にもいかないしね」

 

リュウジは返す言葉を失った。

 

ルイはリュウジの肩を軽く叩き、背中を押すように歩き出した。

 

遠くから、誰かが自分の名を呼ぶ声がした。

切羽詰まった、震えるような、必死の声。

 

『リュウジ!!』

 

「……エリンさんの声だな」

 

ルイは振り返り、にっこり笑った。

 

「ほら。リュウジを必要としてる人が、もう呼んでる。

 行ってあげなよ」

 

世界がゆっくりと暗くなる。

遠ざかる意識の中で、ルイは最後に手を振った。

 

「じゃあね、リュウジ。

 ——ちゃんと、生きて帰ってきてよ」

 

リュウジは、その言葉に小さく頷いた。

 

光が完全に消え、世界が反転する。

 

意識が現実へ引き戻される直前——

エリンの必死な呼び声が、鮮明に響いていた。

 

ーーーー

 

赤く染まった世界だけが、そこにあった。

 

ヘルメットのバイザー越しに見えるのは、ひび割れた警告表示と、かろうじて広がる宇宙空間。

視界の端を、じわり、と赤が垂れていく。

 

(……また、ギリギリだな)

 

リュウジはかすかに口角を上げ、操縦桿を左へ倒した。

まだ死ぬ訳にはいかない。その一点だけは、はっきりしている。

 

ネフェリスの機体が、きしみながらも応える。

姿勢制御ユニットが悲鳴を上げるように小刻みに震えた。

 

「……っ、良かった―――っ……イタタタ……」

 

すぐそばで、安堵と痛みの混じった声が上がる。

エリンが、肋骨のあたりに手を添えながら、息を吐いていた。

 

「急に動くからよ。落ち着きなさい、エリン」

 

物静かながら芯のある声が、それを咎める。

クリスタルが、計器とエリンの様子を交互に見ながら小さく眉を寄せた。

 

「リュウジ、大丈夫かいな?」

 

チャコの声が、副操縦席側から飛んでくる。

神経応答制御の端末に繋がったケーブルが、チャコの胸元から伸び、ネフェリスのシステムへと続いていた。

 

「……なんとか、だな」

 

リュウジは短く答え、まだ霞む視界の向こうを睨む。

 

「それより、みんなは?」

 

問いかけに、クリスタルがすぐ返す。

 

「エリンは肋骨にヒビ。マリとサツキは脳震盪ってところね。

 それよりも、あなたの怪我の方が心配よ」

 

「ウチは平気やで! この程度、なんともあらへん」

 

チャコは言葉とは裏腹に、必死に端末を操作し続けていた。

額には細かい汗が浮かんでいる。

 

クリスタルが、ゆっくりと操縦席に近づいてくる。

 

「リュウジ、ヘルメットを外すわよ。急に動かないで」

 

「頼む」

 

彼女は慎重に手をかけ、固定具を外しながら、頭を支えつつヘルメットを持ち上げた。

 

その瞬間、バイザーに溜まっていた血が、重力の変化と共に垂れ落ちていく。

 

左瞼のあたりが、ぱっくりと裂けていた。

破片で切り裂かれたその傷口から、なおも赤い線が頬を伝っていく。

 

「……ヘルメットの破片ね。傷は、だいぶ深いわ」

 

クリスタルは顔をしかめながらも、声は冷静なままだ。

ガーゼを押し当て、出血の具合を確かめる。

 

「止められるか?」

 

「ガーゼとテープで圧迫すれば、出血は抑えられる。

 でも、完全に左眼は塞ぐことになるわ。それでもいい?」

 

宇宙船の操縦で“片目”は致命的だ。

その意味を誰よりも理解しているのは、ここにいる全員だった。

 

ほんの一瞬だけ、艦内の空気が固くなる。

 

「……なら、このままでいい。他を先に手当てしてくれ」

 

左目から流れる血が視界を染め、それでもリュウジの声は揺れなかった。

 

クリスタルは短く息を吐き、頷く。

 

「了解。じゃあ、マリとサツキを優先する。

 エリンは、あとでテーピングしてあげるから、無理はしないで座ってて」

 

「……分かったわ」

 

エリンは痛みを堪えながら、近くの席の背もたれを掴んで腰を下ろす。

肋骨のあたりが、ズキズキと抗議するように疼く。

 

クリスタルはすぐさまマリとサツキの方に移動し、瞳孔と呼吸を確認し始めた。

 

「チャコ、ネフェリスは?」

 

リュウジが問いかける。

薄く開いた片眼で、ちらりと副操縦席を見やる。

 

「“動いとる”いう意味なら、ギリギリやな」

 

チャコは端末から目を離さずに答えた。

 

「ウチがジャックインして、なんとか繋いどる。

 装甲はあちこち損傷、電子系統は非常系統以外、ほぼ全滅。

 重力制御も姿勢制御ユニットも出力が不安定や」

 

「調整はできるか?」

 

「今、ここ離れたら、それこそ終わりや。

 サツキが起きてくれんことには、細かい調整はムリやな」

 

「……分かった。チャコはネフェリスを“生かす”ことだけに集中してくれ」

 

リュウジは操縦桿を握り直す。

左眼から流れる血を、手の甲で乱暴に拭った。

 

「今はナノマシンシールドが頼りだ。

 外殻の一部は、まだ保ってくれてる」

 

「任せとき。ウチとネフェリス、根性見せたるわ」

 

チャコは端末に繋がるジャックを指先で軽く叩き、画面を睨んだ。

 

「それより、どこに向かってるんや?」

 

「ブライアン達のところだ」

 

リュウジは短く答える。

 

「あと一時間もすれば着く」

 

「えっ……!? 見つけたの!?」

 

驚いて身を乗り出した瞬間、エリンの肋骨に激痛が走った。

 

「……ッ、いったぁ……!」

 

「無理しないで、エリン」

 

クリスタルがちらりと視線を向けつつも、マリの脈を測る手は止めない。

 

エリンは息を整えながら、それでもリュウジを見た。

 

「本当に……居場所が分かったの?」

 

「ええ。ブライアン達は生きてます」

 

リュウジは確信に満ちた声で告げた。

 

ルイから託された“座標”が、意識の奥に鮮明に焼きついている。

そこに向かうルートを、神経応答制御が半ば自動的に補正していた。

 

「だったら、尚更―――死なせないわよ、みんな」

 

エリンは痛みを堪えながら、小さく笑う。

 

「操縦は任せたわよ。……リュウジ」

 

「ええ。エリンさんは休んでてください」

 

リュウジは、わずかに敬語を強めた。

 

「了解、パイロット」

 

エリンはわざとらしく敬礼の真似をして、背もたれに体重を預ける。

 

ネフェリスは、傷ついた機体を引きずるようにして、なお前へ進む。

装甲の軋む音と、警告灯の点滅。

それでも、ここにはまだ“進む意思”があった。

 

ブライアン達が待つ場所へ。

あの日、終わらせられなかった“空”の続きを、掴みに行くために。

 

ーーーー

 

コロニーは、人工太陽の灯りとともに朝を迎えていた。

 

 ソーラ・デッラ・ルーナの管制フロアだけは、その穏やかな“朝”から切り離されたように、薄暗く、張り詰めた空気に包まれている。

 

 ペルシアは通信室の一画にある狭いブースで、椅子にも座らず配線と格闘していた。

 外しては繋ぎ直し、調整してはまた外す。何度目かも分からない手順を、既に夜を何周も越えた身体で続けている。

 

 ヘッドホンを耳に押し付け、マイクのスイッチを入れる。

 

「……ネフェリス、こちらソーラ・デッラ・ルーナ管制。応答してください。ラスペランツァ、聞こえるなら、誰でもいい、返事を……」

 

 返ってくるのは―――ザーッという、耳を削るようなノイズだけ。

 

 周波数を変える。

 バックアップラインに切り替える。

 無人中継ベイに向けての指向性アンテナを再調整する。

 

「……ネフェリス。リュウジ、チャコ、エリン、クリスタル、マリ、サツキ―――誰か、応答しなさい……!」

 

 ノイズは、何も変わらない。

 叫び続ければ、いつかそのザーという音の中から、誰かの息づかいが混じるのではないか――そんな期待だけで、彼女はマイクを握っている。

 

 だが、現実は残酷に沈黙を貫いた。

 

「……っ」

 

 ヘッドホンのコードが、引きちぎれそうなほど強く握られる。

 その手が震えていることに、自分でも気づいていた。

 

 次の瞬間、ペルシアはヘッドホンを力任せに引きはがし、そのまま床へ叩きつけた。

 

「クソッ……!」

 

 乾いた音が、狭いブースの中に響く。

 膝から力が抜けて、その場に尻餅をついた。冷たい床が、スーツ越しに背中へ伝わる。

 

 もともと、彼女は“冷静で有能な管制官”と呼ばれてきた。

 どんな緊急事態でも声を荒げず、淡々と指示を飛ばすことで知られている。

 

 だが今は、そんな仮面を保つ余裕はひと欠片もなかった。

 

 自分で「ネフェリスの耳」なんて、大層な呼び名まで口にしておきながら。

 

(―――一番大事な時に、何も聞こえないなんて、笑える話じゃないわね)

 

 悔しさと情けなさで、視界がじわりと滲む。

 

 そのとき、ブースのドアが静かに開いた。

 

「ペルシア」

 

 落ち着いた、しかし疲れを隠せない男の声。

 振り向かなくても分かる。宇宙管理局長だ。

 

 ペルシアは、床に座り込んだまま、顔だけをそちらへ向けた。

 

「……時間だ」

 

 局長は短く言った。

 その声の中には、彼女を責める色は一つもない。ただ、決断を迫られた者の重さだけが宿っていた。

 

「ブライアン達と、ラスペランツァのご家族に連絡した。

 これから、ここに集まってもらう」

 

 ペルシアはぎゅっと拳を握る。血が指先に行き渡らず、白くなっていく。

 

「…………分かりました」

 

 かすれた声で、それでもきちんと言葉を返す。

 

「ご家族には、私が話します。

 全員揃ったら……呼んでください」

 

 局長は一瞬だけ彼女を見つめ、静かに頷いた。

 

「分かった」

 

 扉が閉まり、またブースに一人きりになる。

 

 その瞬間、保っていたものがふっと切れた。

 

 音もなく、ペルシアの拳にぽつ、ぽつと透明なものが落ちていく。

 涙が、手の甲を濡らしていた。

 

「……何が、“ネフェリスの耳”よ……」

 

 絞り出すような声。

 

「大事な仲間一人、見つけられないのに……」

 

 唇が震える。

 ブライアンの豪快な笑い声も、エリンの柔らかいツッコミも、チャコの関西弁交じりの冗談も、リュウジの短い「了解」も―――何ひとつ、今は届いてこない。

 

 それを“耳”と呼ぶなんて、おこがましいにも程がある。

 

「……ごめん、リュウジ……」

 

 嗚咽が混じった声が、狭い部屋に溶けるように消えていった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 同じ頃、ソリア学園の教室では、いつも通り授業が進んでいた。

 

 ルナは窓側の席でノートを広げ、ペンを握っていたが、意識の大半は授業内容ではなくネフェリスに向いていた。

 

(今頃、どの辺りを飛んでるのかな……)

 

 教室の時計の針が、いつもより遅く感じる。

 

 何も連絡がないのは、ある意味“順調”の証拠。

 頭では分かっている。でも―――胸のどこかが、ずっと落ち着かない。

 

 そのときだった。

 

 ドタ、ドタ、と廊下を走る足音が近づき――

 ガラッ、と勢いよく扉が開いた。

 

「す、すみません! ルナさんはいますか!」

 

 息を切らした教員が、教室の中を見回しながら叫ぶ。

 

 教室中の視線が、いっせいにルナへ向かった。

 

「は、はい!」

 

 慌てて手を挙げると、教員がほっとしたように息を吐いた。

 

「君だね。今すぐ、ソーラ・デッラ・ルーナへ行ってくれと連絡があった。

 荷物を持って、すぐに出られるか?」

 

 瞬間、心臓が一度だけ大きく跳ね、それから“すとん”と落ちるような感覚があった。

 

 いい知らせなのか、悪い知らせなのか。

 分からない。分からないからこそ、余計に不安になる。

 

 それでも、ルナは顔に微笑みを浮かべた。

 

「……大丈夫です。すぐ行きます!」

 

 立ち上がってバックを掴む。

 メノリ、シャアラ、ハワード、シンゴ、ベル、カオル――皆が心配そうな視線を送ってきていた。

 

「ルナ……」

 

 シャアラが小さく名前を呼ぶ。

 ハワードは何か言いかけて、飲み込んだ。

 

 ルナは振り返り、できる限り普段通りの笑顔を浮かべて見せる。

 

「すぐ戻るから。……行ってくるね」

 

 それだけ言って、教室を後にした。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ソーラ・デッラ・ルーナに到着すると、出入口には既に何人もの宇宙管理局員が立っていた。

 

「ルナさんですね。こちらへどうぞ」

 

 制服姿の局員に案内され、彼女は長い廊下を歩いていく。

 壁の向こうにはネフェリスへ続くドックや、通信室、管制フロアがある。その全てが、今は遠く感じられた。

 

 やがて、重そうな扉の前で足が止まる。

 

「ここが会議室です。中に、ご家族の方々が……」

 

 “ご家族”という言葉に、ルナの喉がひゅっと細くなるのを感じた。

 

「……ありがとうございます」

 

 小さく頭を下げ、深く息を吸う。

 胸の中で、一度だけ自分に言い聞かせる。

 

(大丈夫。……リュウジなら、大丈夫)

 

 そうして、扉を開けた。

 

 中は、重たい沈黙に支配されていた。

 

 長テーブルがいくつも並べられ、その周囲に椅子が置かれている。

 そこに、スーツ姿の人、作業服の人、普段着の人――様々な服装の大人たちが腰を下ろしていた。皆、顔色が悪く、目の下にはくっきりとクマが浮かんでいる。

 

 すすり泣きの音だけが、ところどころから聞こえた。

 

(……ここにいるのは、ブライアンさん達のご家族……それから、ラスペランツァの……)

 

 ルナは息を詰めながら、空いている席を探す。

 そのとき――視界の端に、小さな影が映った。

 

「ユイちゃん……?」

 

 タツヤの娘、ユイが、椅子の端にちょこんと座っていた。

 いつもの元気のいい笑顔はなく、ただぼんやりと手を握りしめている。

 

 ルナが声をかけると、ユイはびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

 

 目が、真っ赤に腫れている。

 

「……ルナ、お姉ちゃん……!」

 

 掠れた声が漏れたかと思うと、ユイは椅子から転がるように降りて、よろよろとルナへ駆け寄ってきた。

 

 ルナはとっさに膝をつき、その小さな身体をしっかり抱きとめる。

 

「ユイちゃん……!」

 

「パパが、パパが……っ」

 

 ユイはルナの制服を握りしめ、堰を切ったように泣き出した。

 

「いきなり“消えちゃった”って……ペルシアさんが……っ……

 パパ、また帰ってくるって言ったのに……!」

 

 細い腕に込められた力が、痛いくらいだった。

 それでもルナは、その腕ごと包み込むように抱きしめる。

 

「……大丈夫」

 

 耳元で、そっと囁いた。

 

「大丈夫だよ、ユイちゃん。

 リュウジが、必ず見つけてくれるから」

 

 それは、根拠のある言葉ではない。

 けれど、今この子にかけられる言葉は、それ以外に見つからなかった。

 

 ユイはしゃくりあげながら、ルナの胸に顔を埋め続ける。

 

 ルナは、ぎゅっと抱きしめる腕に力を込めた。

 そのまま、近くの空席へユイを抱き上げ、一緒に腰を下ろす。

 

 周囲からも、すすり泣きや嗚咽が聞こえてくる。

 誰も声を荒げたりはしない。ただ、静かに、じわじわと“何か”に押し潰されそうになっている。

 

 ルナ自身は――まだ涙が出なかった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 しばらくして、会議室の扉が再び開いた。

 

 宇宙管理局の制服を着た女性が一人、ゆっくりと入ってくる。

 深い紺色の制服が、やけに重たく見えた。

 

 ペルシアだった。

 

 ルナの心臓が、どくん、と大きく跳ねる。

 

(ペルシアさん……)

 

 目を見張るほど、その姿は変わっていた。

 

 大きな瞳は真っ赤に腫れ、目の下にはくっきりとしたクマ。

 頬は少し痩け、唇の色も悪い。それでも彼女は髪をきちんと束ね、制服を整えている。管制官として、ここに立つために。

 

 姿を見た瞬間、会議室全体の空気がピンと張り詰めた。

 

 ペルシアは前方の演台へ歩み出て、深く頭を下げた。

 

「……皆様、お集まりいただき、ありがとうございます」

 

 声は震えていた。

 

「宇宙管理局……捜索担当官の、ペルシアです。

 まずは、今回のブライアン一行の捜索に際し、ご家族の皆様に多大なるご心配をお掛けしていることを、お詫び申し上げます」

 

 彼女は一度、唇をぎゅっと噛み締めた。

 話すべきことは、何度も頭の中で反芻してきたはずなのに、いざ口に出そうとすると、喉が締め付けられる。

 

(落ち着きなさい。事実を、間違えずに伝える。それが、私の仕事)

 

 そう自分に言い聞かせ、顔を上げる。

 

「ブライアン一行を捜索する任務にあたっていた、

 リュウジ・パイロット率いる探査チーム“ラスペランツァ”ですが―――」

 

 言葉が、喉の奥でいったん止まる。

 

 会議室の全員が、息を呑んだのが伝わってきた。

 

 ペルシアは拳を握りしめ、声を振り絞る。

 

「昨夜二十時をもって……ネフェリス本体、および中継ベイと共に、セーシング領域外で“消失”しました」

 

 頭を下げた瞬間、会議室にざわめきが走った。

 

 「消失って……どういうことだ……?」

 「爆発したのか?」「生きているのか死んでいるのか、どっちなんだ……」

 押し殺した声と、すすり泣きが一斉に膨れあがる。

 

 ルナは、そのざわめきが遠くで起きているように感じた。

 耳には届いているのに、自分の周りだけ音が薄くなっていく。

 

(……消失……)

 

 さっき頭の中を漂っていた単語が、今度は冷たい現実として胸に突き刺さる。

 

 “どこにいるか分からない”ではなく。

 “たどり着くべき地点ごと、丸ごと消えた”のだとしたら―――。

 

 隣で、ユイの小さな指が、ルナの服をぎゅっと掴む力を強めた。

 

「今、我々はコロニー全域の捜索チームに出動要請を行い、

 セーシング領域内ギリギリまでの捜索を続けています」

 

 ペルシアの声は震えながらも、言葉自体ははっきりしていた。

 

「ですが、宇宙連邦連盟の規定により、

 “消失”から三日間――その期間をもって、捜索を継続することが認められております」

 

 “規定”という単語に、会議室のあちこちから小さな怒りの声が漏れる。

 

 「たった三日で諦めろっていうのか……」

 「そんな決まり、納得できるか……」

 

 ペルシアは、全て分かっているというように目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。

 

「三日間、我々は全力で彼らを探します。

 ですが―――それ以降については……」

 

 低く、絞るような声になった。

 

「捜索の継続を“断念”せざるを得ません」

 

 その瞬間、誰かが声を上げて泣いた。

 ずっと堪えていた涙が、あちこちで一気に溢れ出す。

 

 ユイも、ルナの胸の中で小さく震えた。

 

「……いやだ……

 パパ、帰ってくるって言ったのに……!」

 

 ルナは、強く抱きしめるしかできなかった。

 

 ペルシアは、泣き崩れる人々を正面から見つめていた。

 その視線は揺れている。それでも、逸らさなかった。

 

(責めていい。罵っていい。……全部、受け止める)

 

 そう覚悟してここに立った。

 本当は、自分だって叫び出したい。机を叩き壊してでも、規定なんかくそくらえだと言ってやりたい。

 

 けれど、彼女は宇宙管理局の人間だ。

 今ここで取り乱せば、“希望”は完全に折れてしまう。

 

「必ず三日間、諦めずに捜索を続けます。

 それが、ブライアン一行への責任であり、ラスペランツァのクルーに託された使命です」

 

 その言葉は、半分は自分自身に向けたものだった。

 

 ルナは――やはり、涙が出なかった。

 

 ただ、全身から力が抜けていくのを感じていた。

 ユイを抱きしめていなかったら、椅子から崩れ落ちていただろう。

 

(……リュウジが、チャコが消えた?)

 

 頭で考える前に、心がそれを拒絶している。

 

 だって、ついこの前、目の前で笑っていた。

 「心配するな、全部うまくいく」なんて、いつもの決まり文句みたいに言っていたのに。

 

(全部、うまくいくって……言ったのに)

 

 胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。

 

 それでも、彼女は唇を噛み、声を出さないように耐える。

 今ここで自分が崩れれば、ユイを支える人がいなくなってしまう。

 

 ルナの指先は、ユイの背中を小刻みに撫でながら、まだどこか、祈るように空を見上げていた。

 

(……リュウジ。絶対に、帰ってきて)

 

(だって私、まだ―――)

 

 ―――あなたに、ちゃんと伝えていないことが、たくさんあるんだから。

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