どうやって家まで戻ってきたのか――ルナには、さっぱり思い出せなかった。
気がついたときには、自分の部屋のベッドの縁に手をついていて、そのまま、倒れ込むように布団へ潜り込んでいた。
シーツの匂い。枕の感触。
いつもなら安心をくれるはずのそれらが、今日はやけに遠かった。
(……消失)
ペルシアの口から告げられたその言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
音だけが繰り返されて、意味だけがちゃんと胸に刺さってくる。
「……リュウジ……」
布団の中で、掠れた声が零れた。
拳を握りしめて、ぎゅっと胸元に押し当てる。
瞼を閉じると、さっきまで意識して追い払っていた光景が、容赦なく押し寄せてきた。
ソーラ・デッラ・ルーナのドックで、振り返りもせず歩いていく背中。
オレンジ色のミサンガを巻いた右腕。
「全部うまくいく」と、あの少し照れたような笑み。
コロニーの雨でびしょ濡れになって、玄関に立っていた夜。
キッチンの椅子に座って、ホットミルクを両手で包んでいた横顔。
チャコとじゃれ合う自分を見て、肩を震わせて笑っていた声。
「チャコ……」
いつもの調子で騒いでいた、小さな体。
サヴァイヴで、何度も命を救ってくれた丸い瞳。
それらが、フラッシュバックのように次々と浮かんでは、胸の中で弾けて消えていく。
「……嫌だよ……」
堰が切れたように、頬を熱いものが伝いはじめた。
声を上げて泣いたら、本当に“いない”ことを認めてしまう気がして、必死に唇を噛んでいた。けれど、涙だけは止まってくれない。
枕元の三日月のネックレスに手を伸ばし、胸の上で握りしめた。
(全部、うまくいくって……言ったのに)
胸の奥に出来た空洞が、じわじわと広がっていくような感覚だけが、いつまでもそこに居座り続けていた。
◆ ◆ ◆
翌朝。
コロニーの天井に設置された人工太陽が、「朝」を告げる光を街へ落としていた。
いつもなら、その光がカーテンの隙間から差し込んできたタイミングで、ルナは自然と目を覚ます。
だが今日は――まぶたを開ける気力すら、なかった。
目を開けてしまえば、「学校に行かなきゃ」「皆と顔を合わせなきゃ」と、いつもの自分が働き出す。その“いつもの自分”を引っ張り出せる自信が、どこにもなかった。
(……学校……)
頭のどこかで、スペンサー先生の顔が浮かぶ。
ハワードが文句を言いながら体操着に着替えている姿。
シャアラが「今日の授業、難しそうね」と不安がる声。
メノリが注意しながらも、皆をきっちり並ばせている光景。
(今行ったら……絶対、皆に心配かける……)
今の顔を見せたくない、という気持ちもあった。
瞼は昨日泣き腫らしたせいで重く、鏡を見ていなくても分かるぐらい腫れている。
頬も強張って、うまく笑顔が作れそうにない。
(……大丈夫って、絶対言えない)
思考がそこで止まり、再びふわりと暗い水の底に沈んでいく。
一度眠ったのか、ただ意識が遠のいていただけなのか、それすら分からない。
どれくらい時間が過ぎたのか――玄関のチャイムが鳴る音で、ルナはようやく現実に引き戻された。
ピンポーン、と、やけに軽い音。
だが、その音だけで胸がドキンと跳ねる。
(……誰?)
布団の中で息を潜める。
しばらくして、チャイムがもう一度鳴った。
「ルナ、いるんだろう? 私だ」
扉越しに、くぐもっていても分かる声。
メノリの声だった。
(メノリ……)
寝癖がついたままの髪。腫れた目。よれたTシャツ。
この状態を見られたくない、という羞恥心が一瞬頭をもたげる。
(でも……このまま居留守を使ったら、もっと心配かけちゃう)
それだけは嫌だった。
布団をどかし、足を床に降ろす。
体が、自分のものではないみたいに重い。けれど、一歩一歩を無理やり前へ出す。
鏡を見る余裕もないまま、ルナは玄関までよろよろと歩き、解錠ボタンを押した。
扉が開くと、そこには学校の制服姿のメノリが立っていた。
いつも通りきちんとした髪型で、姿勢も良く、肩にはスクールバッグ、片手には紙袋。
しかし、その瞳の奥には、明らかな疲労の色が差していた。
「……おはよう、ルナ」
メノリは、いつもより少し柔らかい声で言った。
「……おはよう、メノリ」
自分の声が、思った以上にかすれていることにルナは驚いた。
メノリはルナの顔を一瞥し、何も言わずにそっと中へ入る。
「ごめんね、散らかってて……」
「そんなことはどうでもいい」
いつもの“口調”なのに、その言い方は責めるものではなかった。
むしろ、「気にするな」と言っているような響きがあった。
リビングに案内すると、メノリは勝手知ったる様子でソファに腰を下ろす代わりに、キッチンの方へ向かった。
「……え?」
「座っていろ。お茶ぐらいは淹れられる」
そう言って、紙袋からティーバッグと、小さな焼き菓子の箱を取り出す。
「メノリ、それ……」
「途中で買ってきた。甘いものは脳にいいだろう」
淡々とした口調。でも、その言葉の裏には、“君が少しでも楽になればいい”という気持ちが透けて見えるようだった。
ルナは言われた通り、ソファに腰を下ろした。
身体を支えているクッションが、妙にふわふわと心許ない。
数分後、テーブルに湯気の立つカップが二つ置かれた。
ハーブティーの柔らかな香りが、じんわりと鼻をくすぐる。
「……ありがとう」
ルナが両手でカップを包むように持つと、メノリも自分のカップを手に取り、向かいの椅子に腰を下ろした。
しばし、沈黙が続く。
お互い、何から口にしていいか分からないような空気。
その沈黙を破ったのは、メノリだった。
「無理に笑わなくていい」
その一言は、とても静かで、でもはっきりしていた。
ルナは思わず顔を上げる。
「……え?」
「ソーラ・デッラ・ルーナで、随分と無理をしていたんだろう。」
メノリは、ルナの腫れた目をまっすぐ見つめる。
「だからといって、“強くいなければならない”と思い込む必要はない。
泣きたいなら、泣いていいんだ」
優しいけれど、逃げ道を作らない言い方。
ルナは口を開きかけて、すぐに閉じる。喉がきゅっと締め付けられる。
「……泣いたら、本当に……」
ぽつりと零れた。
「本当に、いなくなっちゃったみたいで……
だから、泣いたらいけないって……どこかで思ってて……」
メノリは、ふう、と小さく息を吐く。
「ルナ」
「……うん」
「現実から目を逸らすために涙を止めるのは、強さじゃない」
それは、厳しい言葉にも聞こえたが、責める色はない。むしろ、自分自身に向けた戒めのようでもあった。
「私だって、同じだ。今日の報道で、ずっと“何かの間違いだろう”って思っていた。
今でも、どこかで“すぐに通信が復旧して、リュウジが『ただいま』と言ってくるんじゃないか”と期待している」
「……メノリ……」
「それでも、事実として“消失”と報告された。
この現実から目を逸らしたら、彼らのためにできることを見失う」
“彼ら”という言い方に、リュウジだけではなく、チャコやエリン、マリ、サツキ、クリスタルの姿が重なる。
「……でも、どうしたら……」
ルナの声は震えていた。
「今は、何もしなくてもいい」
メノリはカップをソーサーへ戻し、静かに続ける。
「皆に余計な心配をかけるのが嫌だと言うが……今のルナが無理に笑う方が、余計に心配をかけると思わないか?」
図星だった。
ルナは思わず視線を落とす。
「……だって、皆も不安だろうし……メノリだって、生徒会長で……風紀委員長で……」
「そんな肩書は、今は関係ないだろう」
ぴしゃりと言い切ってから、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「今日は正式に休みを取った。
“ルナの家に行く”と、最初から決めていたからだ」
ルナの胸の奥で、きゅっと何かが締め付けられる。
この人は、本当に――いつも、自分よりまず“皆”を考える。
「……ごめんね」
自然と、その言葉が口から零れた。
「私のことで、メノリまで……休ませちゃって……」
「謝ることではない」
即答だった。
「サヴァイヴで、何度も皆を引っ張ってくれたのはお前だ。
誰よりも考えて、誰よりも笑って、それでも前に進もうと言ってくれた」
メノリの声音が、ほんの少しだけ震える。
「今度は、私たちの番だ。
お前が動けないなら、私たちが横にいる。それだけのことだ」
ルナの視界が、じんわりと滲んだ。
「……メノリ……」
「泣きたいなら、今ここで泣け。
私しかいないからな。見ているのは私だけだ」
そう言われてしまえば、もう堪えようがなかった。
ぎゅっと握りしめていた三日月のネックレスが、手の中でカチャ、と小さな音を立てる。
「……うっ……」
喉の奥で堰き止めていたものが、一気に溢れ出した。
「……嫌だよ……リュウジが……チャコが……いない世界なんて……!」
言葉にならない声と一緒に、涙がぽろぽろとカップの上に落ちていく。
メノリは、それを黙って見ていた。
慰めの言葉を挟むことも、無理に納めようとすることもせず、ただそこに座って、ルナが泣き切るのを待つ。
どれくらい泣いたのか分からない。
やがて嗚咽が少しずつ落ち着き、ルナの肩の震えが弱まっていった。
ぐし、と袖で目元を拭うと、メノリがようやく口を開いた。
「少し……顔色が戻ったな」
「……そうかな」
「少なくとも、さっき玄関を開けたときよりはマシだな」
それは冗談半分、本気半分の言い方だった。
ルナは小さく笑いそうになって、また泣きそうになり、どうしようもなく顔をしかめる。
「夕方になったら、シャアラと交代する」
メノリがふと、そんなことを言った。
「え?」
「私も、一日中ここにいるわけにはいかない。
生徒会の仕事もあるしな」
言いながらも、その表情に“後ろ髪を引かれている”色が浮かぶ。
「だから、夕方にはシャアラに来てもらう。
あいつなら、お前の話をどれだけでも聞くだろうし、静かに本を読んで横にいることもできる」
シャアラの穏やかな笑顔と、そばにいるだけで落ち着く空気を思い出し、ルナは少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
「……そんなに、私のために……」
「何度も言わせるな。これは、私たちがやりたくてやっていることだ」
それきりメノリは立ち上がり、キッチンに向かって新しくお湯を沸かし始めた。
「もう一度、温かいお茶を淹れる。
飲んだら、少し寝ろ。今日は学校のことは気にしなくていい」
「……うん」
ルナは素直に頷いた。
カップの中のハーブティーはもうぬるくなっていたが、その香りはまだ、かすかに優しく鼻をくすぐった。
(大丈夫。……今は、動けなくても)
(メノリも、シャアラも、皆がいてくれる)
リュウジのことも、チャコのことも、心配は消えない。
不安も恐怖も、まだ胸の奥にしがみついたままだ。
けれど――少なくとも、今この瞬間、ひとりきりではない。
その事実だけが、かろうじてルナを“ここ”に繋ぎ止めてくれていた。
ーーーー
ネフェリスの前方、暗い宇宙の闇の中で、かすかな輪郭が浮かび上がった。
「……いた」
リュウジが低く呟き、操縦席の前に身を乗り出す。
星の光を鈍く反射する、小さな機体。
探索機とは明らかに形状が違う。
「シャトルだ。見つけた……探索機を捨てて、避難シャトルに移ったんだろ」
片目だけで前方を捉えながら、リュウジは操縦桿を微調整する。
右手首には、オレンジ色のミサンガがきゅっと締め付けるように巻き付いていた。
「中の状況は分かる?」
背後から、テーピングで右わき腹を固めたエリンが近づいてきた。
声色は落ち着いているが、肋骨の痛みをごまかすためか、呼吸は少し浅い。
「分からへん。向こうも通信機はイカれとるはずや」
チャコが、ちらりと計器に目を走らせてから答える。
モニターにはシャトルの外形データだけが辛うじて映し出されているが、内部の生命反応までは拾えない。
「つまり、直接行くしかない……ってことね」
クリスタルが、静かに言った。
その瞳は、前方のシャトルから目を離さない。
「ああ。危険だが、航外で作業して繋ぐしかない。――俺が行く」
リュウジが迷いなく告げた瞬間、クリスタルの視線が、鋭くこちらへ向いた。
「だめ」
きっぱりと言い切られる。
「その傷と、片目の視界で、宇宙服を着ての作業は危険が大きすぎる。
視野が狭い状態での船外活動は、判断の遅れに直結するわ」
彼女は短く息を吐き、続ける。
「それに、シャトルとの接続に使うグラップリングは、私の方が上手いでしょ。
ここは私が行く」
リュウジが何か言い返すより先に、もう一つの声が割り込んだ。
「私も行くわ」
エリンだった。
リュウジとクリスタル、チャコの視線が一斉に彼女へ向く。
「……エリンさん?」
リュウジの声には、自然と敬語が混じる。
「ダメよ、エリンだって怪我してるじゃない」
クリスタルが眉を寄せた。
エリンの右わき腹には、しっかりとテーピングが巻かれている。その下には、ひびの入った肋骨。
「これくらい平気」
エリンはあっさりと言ってのけた。
その表情には痛みの影もあるが、それ以上に、固い決意が宿っている。
「それに、医療道具と食料を持ち込まないと。
中で誰かが重症だった場合、宇宙服のままあなた一人で何とかするのは無理があるでしょ、クリスタル」
理詰めの言葉に、クリスタルは一瞬だけ目を細めた。
「……まあ、そうね」
小さく息を吐く。
「シャトルの中が、真空になっているとも限らないし、逆に気圧が不安定な可能性もある。
誰かが動けない状態なら、二人いた方が有利なのは確か」
「それに、私もパーサーだけど宇宙船勤務は長いの。
緊急時の客室対応は、プロのつもりよ?」
エリンが軽く肩を竦めて見せる。
リュウジは一度、苦々しそうに口を結んだ。
左瞼から頬にかけて、まだ乾ききっていない血が細く跡を残している。
「だが――」
「リュウジ」
エリンが、静かに呼び止める。
その声には、彼が自分より年下であることを忘れさせるような、落ち着いた強さがあった。
「操縦席は、あなたの場所。
今、ネフェリス全体の状態を見て舵を切れるのは、あなただけよ」
「……」
「私が外に出ているあいだ、船内の安全を維持できる人は誰?
ネフェリスがまた何かに巻き込まれたら、その瞬間に判断をしてくれるのは誰?」
問いは、すでに答えを知っている。
チャコが、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「ウチはシステム守るのに手一杯や。
この状態で、操縦まで全部引き受けるんは……正直、分が悪い」
クリスタルも、淡々と続ける。
「医療スペースと船外活動、その両方を同時にこなせと言うなら、さすがに私でも無理よ。
誰かが冷静に“全体”を見てくれないと」
リュウジは、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。
左目の視界の端で、オレンジ色のミサンガが、袖の下からほのかに覗く。
「……分かった」
かすかに顔を背けながら言う。
「船外作業は、クリスタルとエリンさんに任せる。
俺はネフェリスを維持しつつ、シャトルとの距離と姿勢を固定する」
「了解」
クリスタルが短く頷く。
「宇宙服のチェックをするわ。
エリン、あなたは医療キットと非常食をピックアップしてきて」
「了解」
エリンは、軽く手を挙げて応じた。
その足取りはまだ少しぎこちないが、肋骨の痛みを悟らせないように、姿勢を正して歩いていく。
「エリンさん、無理はしないでください」
背中に向かって、リュウジが思わず声をかける。
エリンは振り返らない。
ただ、軽く親指を立てて見せた。
「大丈夫。私、こう見えても結構丈夫だから」
チャコが、操縦席の後ろで腕を組む。
「ほな、ウチはネフェリスを見とる。
電子系はギリギリやけど、まだ“生きとる”わ。落とさんようにせんとな」
「頼んだ」
リュウジは操縦桿を握り直し、前方のシャトルとの距離を微調整し始めた。
片目だけの視界は心許ないが、長年染み付いた感覚が、舵をわずかに傾ける角度を教えてくれる。
「クリスタル、シャトルの回転は?」
「今のところ微弱。接近する角度を間違えなければ、ドッキングまでは持ちこたえるはず」
コンソールに走る指先は、いつも通り滑らかで正確だ。
やがて、エリンが医療ケースと小さめのフードコンテナを両手に抱えて戻ってきた。
「最低限ね。止血用のキットと簡易バイタルモニター、
それから高カロリーのゼリーと水、あとはカロリーバー」
「十分だ」
クリスタルが頷き、二人で宇宙服ロッカーへ向かう。
アラミド繊維製の緑のスーツ。
ズボンから伸びたサスペンダーを肩にかけ、上衣のジッパーを上まで引き上げる。
「エリン、肋骨のテーピングは?」
「そのまま。宇宙服の下なら、問題ないでしょ」
「咳やくしゃみは厳禁よ。
船外で“痛っ”なんて言って体勢崩したら、洒落にならないから」
「了解」
エリンは笑みを浮かべながらも、その瞳は真剣だった。
ヘルメットを抱えた二人がエアロック前に並び立つ。
背後から、リュウジの声が届く。
「シャトルとの距離、あと三十メートル。
姿勢はこのまま固定する。――クリスタル」
「分かってる」
クリスタルはヘルメットをかぶる前に、一度だけ振り返った。
「リュウジ。こっちは任せなさい。
あなたは、ここを死守して」
その言葉に、リュウジは短く頷く。
「……頼む」
彼がそう言った瞬間、チャコがくるりと椅子を回した。
「二人とも、絶対帰ってこいよ。
ウチ、帰ってこん連中の後処理なんか、もうごめんやからな」
「分かってる。戻ってきたら、ジュースもらうわよ」
エリンが軽口を叩く。
「話がちゃうぞ、それ」
チャコが思わず突っ込んだ。
ほんの一瞬だけ、操縦室の空気が緩む。
だが、それもすぐに張り詰めた静寂へと戻っていく。
ヘルメットがかぶられ、シール音が鳴り、通信が内部チャンネルに切り替わる。
『クリスタル、スーツ内圧正常。酸素濃度良好。テザー接続よし』
『エリンも問題なし。医療ケース、コンテナ固定済み』
チャコがシステムを確認し、頷く。
「エアロック、加圧解除。ハッチオープンまで、十秒」
重いロックの解除音が、足元から伝わってくる。
リュウジは、片目だけで前方とモニターの数値を交互に見ながら、息を整えた。
(ブライアンさん……タツヤ班長……)
(必ず、連れて帰る)
誰にも聞こえない誓いを胸の内で繰り返し、操縦桿を握る手に、少しだけ力を込める。
「エアロック、開くで――」
チャコの声とともに、ネフェリスの側面にあるハッチが、ゆっくりと宇宙の闇へ向かって開いた。
その向こうに、一隻の小さなシャトルが、ひっそりと漂っていた。
ーーーー
エアロックの隔壁が、重たい音とともに完全に開いた。
その瞬間、ネフェリス内部のわずかな空気が、黒い宇宙へと吸い出される。
靴裏が床から持ち上がるほどの引きに、エリンは思わず膝を踏ん張った。
『スーツシール、問題なし。内圧安定。――行くわよ、エリン』
クリスタルの落ち着いた声が、ヘルメット越しに響く。
『了解。ワイヤー確認します』
二人は、ネフェリス内部から外へ伸びている展開リンク――太いリールワイヤーの先を手繰った。
腰のハーネスに備え付けられた金具に、カチリと確かな音を立てて接続する。
命綱。
それが、今この瞬間、二人の命とネフェリスをつなぐ唯一の線だった。
『リュウジ、展開リンク良好。固定完了』
クリスタルが報告する。
『了解。シャトルとの距離、二十五メートルで維持中。回転は緩やかだ』
リュウジの声は、いつもより低く、硬い。
だが、その硬さの奥には、確かな信頼と覚悟があった。
『チャコ、ワイヤーテンション管理頼む。変動あったらすぐに言え』
『任しとき。……せやけど二人とも、絶対ワイヤーから手離したらアカンで』
冗談めかしたような関西弁の中に、隠しきれない焦りが滲む。
エリンは自分の腰から伸びるワイヤーを、手袋越しに強く握りしめた。
胸の奥で、鼓動が規則正しく早くなる。
(大丈夫。いつもやってること。
宇宙服を着てるだけで、やっていること自体は変わらない。落ち着いて)
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと息を吸って吐いた。
『まずは私が先に出る。エリンはその後ろ。絶対に、私の死角には入らないで』
『了解、クリスタル』
クリスタルは、肩に担いでいた大きな筒――グラップリング射出装置を、しっかりと両腕で抱え直した。
それは、ネフェリスの展開リンクとは別系統のワイヤーを射出し、標的に直接打ち込むための道具だ。
重い機材を抱えたまま、彼女はゆっくりとエアロックの縁まで進む。
そこから先は、ただの「外」だ。上下も前後も分からない、終わりのない空間。
エアロックの敷居のところで、一瞬だけ足を止める。
目の前には、遮るもののない漆黒――その中に、かすかに光を反射する小さなシャトルが浮かんでいる。
『……行くわよ』
クリスタルは低く呟き、自分の背中側にある展開リンクのテンションを確認する。
そのまま、躊躇なく一歩、足を踏み出した。
足元の床が、唐突に消える。
身体がふわりと浮き上がる感覚。
全身を包む緑色のスーツ越しに、空気のない世界の冷たさが、じわりと伝わってくる錯覚がする。
腰のワイヤーが、ぴん、と張った。
ネフェリス内部のリールがそれに応じて滑らかに伸び、クリスタルの身体を宇宙空間へと送り出していく。
すぐ後ろを、エリンが続いた。
エアロックから一歩踏み出した瞬間、全身を内側から引っ張られるような感覚に襲われる。
足場を失う不安感。
だが、視界の隅に映る自分の腰のワイヤーと、前方を進んでいくクリスタルの背中が、その感覚をかろうじて抑え込んでくれる。
『スーツ外圧、安定。視界良好。シャトルとの角度、十二度右。距離、二十二メートル』
ヘルメット内のHUDに流れる数値を確認しながら、クリスタルは少しだけ身体をひねった。
グラップリング筒の先端を、シャトル右翼の根本にある補強プレートへと向ける。
『シャトルの回転、微妙に変化してる。クリスタル、目標座標修正を』
リュウジの声が飛ぶ。
『了解。三度右、二メートル上へ……』
視界の端に、シャトルの輪郭がじわりとズレていく。
エンジン部分には大きな損傷は見られないが、外装のあちこちに焦げと擦り傷が走っている。
(間違えたら、貫くどころか機体ごと裂いてしまう)
そんな最悪の想像が、頭の片隅をかすめる。
だが、クリスタルの指は震えなかった。
『エリン、位置ついて』
『了解。後方一メートル、右斜め下』
エリンは、クリスタルの少し斜め後ろで姿勢を保つ。
展開リンクのワイヤーが、二人の身体の動きに合わせて、わずかにきしむ音を立てた。
『チャコ、リンクテンション良好。数値変動、許容範囲内や』
船内からの声が、わずかな安心感をもたらす。
グラップリング筒を両腕でしっかりと構え、クリスタルは狙いを定めた。
照準レティクルがシャトル右翼の根元を捉え、ヘルメット内のマーカーが緑に変わる。
『距離、二十メートル。射程内』
リュウジが静かに告げる。
呼吸が、自然と浅く長くなる。
クリスタルは自分の心拍を数えながら、ほんの一瞬だけ指を止める。
(ここで躊躇ったら、全部が無駄になる)
彼女はそっと、引き金にかかる指へ力を込めた。
――シュッ。
音はほとんど聞こえない。ただ、腕を伝って、強い反動だけがはっきりと伝わってくる。
筒の先端から細く硬いワイヤーが射出され、真っ直ぐに黒い空間を切り裂いた。
シャトルの右翼に、白い閃光のような軌跡。
次の瞬間、鈍い震えがワイヤーを通じて腕に戻ってくる。
先端が金属を穿ち、内部で展開する感覚が、手のひらに生々しく伝わった。
『命中』
クリスタルが短く告げた。
シャトルの機体が、わずかに傾いだ。
固定されたグラップリングのワイヤーを軸に、ゆっくりと回転が収束していく。
『シャトル回転、減速。いい角度だ、このまま保持』
リュウジの声が、安堵を含んだ少し低めのトーンで響いた。
だが、まだ終わりではない。
『エリン、こっち』
『はい』
二人は、腰の展開リンクワイヤーと、グラップリングから伸びるワイヤーとの交点に移動した。
無重量下で身体の姿勢を制御しながら、グラップリング側のワイヤーを手繰り寄せる。
薄い手袋越しでも分かるほど、ワイヤーは硬く、冷たかった。
『チャコ、テンションどう?』
『ええ感じに張っとる。ここで急に引いたらアカンで、じわっとや』
『了解』
クリスタルは、展開リンク側のカラビナと、グラップリングワイヤーに取り付けられたリングを近づけた。
小さな金具同士が触れ合い、カチリ、カチリと慎重に角度を調整しながら、最後の一押しで――。
ガチン。
という、はっきりとしたロック音がヘルメットの外側から伝わってきた。
『グラップリングと展開リンク、接続完了。両方向ロックよし』
『確認した。リンクテンション、安定や』
チャコが即座に数値を読み上げる。
これで、ネフェリスとシャトルは一本の命綱で結ばれたことになる。
だが、その命綱自体も、鋼鉄ではない。もしもどこかに過剰な力がかかれば、簡単に千切れてしまう細さだ。
エリンは、その細い線を見つめながら、知らず知らずのうちに喉を詰まらせていた。
(たった一本。
これ一本を信じて、ここに立ってるんだ)
自分の腰から伸びる展開リンク。
その先にある、ネフェリスの金属フレーム。
そして今、繋いだシャトルの右翼。
三つの点が、一本の線で結ばれている。
どこか一つでも折れれば、簡単にほどけてしまう“線”。
『……エリン、顔が固まってる』
クリスタルの声が、少しだけ柔らかくなる。
『平気。ちょっと、空気薄めなだけ』
『宇宙でその冗談やめて。ややこしいから』
二人の軽いやり取りが、わずかに緊張をほぐした。
そんな中でも、リュウジの声は変わらない。
『よくやった。シャトルとの距離をこのまま維持する。
これから、少しずつ巻き取って、機体同士の位置を固定する』
『了解。ワイヤーの様子を見ながら、私たちも移動する』
クリスタルが返事をし、ゆっくりとシャトル側へと身体の向きを変えた。
エリンもそれに続き、慎重に姿勢を制御しながら、シャトルの外壁へと近づいていく。
眼前に迫るシャトルの表面には、いくつもの擦り傷と、小さな焦げた跡。
爆発か、衝撃波か――何かに叩きつけられた痕跡が、痛々しく残っている。
『……近くで見ると、ひどいわね』
『でも、完全に吹き飛ばされんかった。それだけでも、運がある方や』
チャコの声が、わずかに震える。
『エリン、ハッチの位置分かるか?』
『ええ、確認した』
エリンはシャトル側面にある小さなハッチを指差した。
その縁には、かすかに歪みが見える。内側からの圧力か、外側からの衝撃か――いずれにせよ、簡単には開きそうにない。
『まずは外から状況を確認する。エアロックのシールが死んでたら、こちら側でできる処置を考えないと』
クリスタルが、シャトルの外壁に手袋越しに触れた。
金属の冷たさがスーツ越しにも伝わってくるようだ。
エリンは、ふと自分たちが立っている場所――いや、「浮かんでいる」場所を意識した。
足元は、底なしの闇。
掴めるものは、自分のワイヤーと、すぐそばのシャトルの外壁だけ。
ネフェリスの灯りが届いている範囲から、ほんの少しでも離れれば、すぐにどこまでも落ちていく――そんな錯覚に襲われる。
(怖い)
正直にそう思う。
だが、その恐怖のすぐ隣には、はっきりとした「やること」が存在していた。
シャトルの中には、ブライアンたちがいるかもしれない。
タツヤ班長も。ユイが、あの小さな手で「パパ」と呼んでいた人も。
そして――。
(この先に、リュウジの“約束”の答えがある)
エリンは、肋骨の痛みをごまかすように、ゆっくりと息を整えた。
『リュウジ、シャトルとの間隔、どれくらいまで詰められそう?』
『これ以上は危ない。今の距離で固定する』
リュウジの声が返ってくる。
『分かったわ。――これからハッチを確認する』
『頼む』
クリスタルとエリンは、シャトル外壁のハンドホールドに指をかけ、慎重に体勢を移動させながら、ハッチの前に並んだ。
その一つ一つの動きが、常に「死」と隣り合わせであることを、全身で自覚しながら。
ハッチの縁に指を添えた瞬間、クリスタルの眉がわずかにひそむ。
『……ダメね。歪みが大きい。この状態で無理にこじ開けたら、閉まらなくなる可能性が高いわ』
声は静かだ。けれど、それは「危ない」という叫びよりもずっと重い警告だった。
閉まらない――それは、内部の空気を守れないということ。
つまり、ここで開ければ、もし中に生存者がいても、全部を道連れにする。
エリンは喉の奥で息を飲んだ。
手袋越しに触れている金属が、ほんの少しずつ、きしむように鳴っている気がする。
『……そうね。正面ハッチは捨てる』
クリスタルが結論を出した、その瞬間。
『シャトル後方に、エマージェンシールームの外部ハッチがあるはずだ。そこを確認してくれ』
リュウジの声が、無線に割り込む。
船内からの声は少し掠れている。
片目を血で塞いだまま操縦しているはずのリュウジが、余計な動揺を見せないように抑え込んでいるのが分かった。
『了解。後方へ回る』
返事をするクリスタルの声は、いつもの物静かさのまま、芯だけが硬い。
彼女はハッチから手を離し、ワイヤーのテンションを確認するように一度腰をひねった。
その動きで、展開リンクから伸びる命綱が、ピン、と張り直される。
エリンが後ろについていく。
シャトルの表面を伝うように、二人はゆっくりと移動を始めた。
足場と呼べるものはない。
手袋の指先で外壁の縁を掴み、腰のワイヤーの張りに身を預け、ほんの数十センチずつ身体を運ぶ。
視界の端の宇宙は、相変わらず暗い。
意識を逸らしたら、どこまでも吸い込まれそうな闇。
(落ちるわけじゃないのに、“落ちる”気がする)
エリンはそう感じながら、歯を噛みしめた。
肋骨の痛みが、動くたびに遅れて刺す。
痛みは恐怖を甘く誘う。
「ここで止めてしまえ」と囁くように。
でも、止まれない。
『エリン、呼吸浅い。吐いて』
クリスタルが、背中越しに小さく指示する。
『……うん』
エリンは長く息を吐いた。
ヘルメット内に吐息が白く曇る。
シャトル後方へ回り込むにつれ、外壁の傷はさらに増える。
焦げた線、削れた金属、鋭く裂けたような凹み。
どれも“隕石”の爪痕とは違う――そんな直感が、背骨を冷やした。
『……爆発の中心、相当近かったはずね』
『私もそう思う。……格納されてる避難シャトルなのに、こんな状態になっているなんて』
エリンの声が震えそうになるのを、意識して抑えた。
クリスタルが先行し、外壁の背面に回り込む。
そこには、正面より一回り小さな外部ハッチがあった。
“EMERGENCY”の刻印。
そして、手動レバー。
『見つけた。これね』
クリスタルがハッチの縁に手を当て、レバーに指をかける。
彼女の動きが、ほんの少しだけ慎重になる。
エリンはハッチの周囲を見回した。
継ぎ目に亀裂はない。
歪みも、正面ほどではない。
『シールは生きてそう』
『ええ。……でも、ここを開ける瞬間が一番危険よ』
クリスタルが言う。
内部の圧が残っている可能性がある。
もし内部が真空なら、何も起きない。
でも、もし空気が残っていたら――。
開いた瞬間、強烈な噴き出しが来る。
二人の身体を、ワイヤーごと引き千切るほどの力で。
『チャコ、展開リンクテンション上げて。こっちの負荷に備える』
『了解や。テンション、微増させるで。二人とも、踏ん張りや』
船内からの声。
エリンは咄嗟に、ハッチ横のハンドホールドに指を掛けた。
ワイヤーを片手で握り込み、身体が弾かれても一瞬で姿勢を立て直せるようにする。
クリスタルも同じく、レバーとは逆の手で外壁を掴む。
静かな数秒。
その沈黙の中に、全員の呼吸が乗る。
『……開ける』
クリスタルが短く言った。
そして、レバーをゆっくりと引く。
ギギ……。
金属が、無理に動くときの、嫌な鳴き声。
それが宇宙では小さく響くだけなのに、耳の奥には大きな音として残る。
レバーが半分ほど引かれた瞬間――。
“シュッ!!”
ハッチの継ぎ目から、白い霧のようなものが一筋噴き出した。
空気だ。
内圧が残っている。
『ッ!』
エリンが咄嗟に身体を固める。
噴き出しの力は、怖いほど強くない。
だが、それでも二人の身体はふわりと押し返され、ワイヤーがピンと張り直される。
『力入れて、踏ん張る!』
クリスタルの声が鋭くなる。
彼女はレバーを保持し、噴き出しが弱まるのを待つ。
エリンは横からハッチを押さえ、外壁に身体を固定した。
数秒。
霧はやがて薄くなり、やがて止まる。
『……内圧は、まだ少し残ってる。でも致命的な量じゃない。開けられる』
クリスタルがそう判断した。
『リュウジ、こちらエマージェンシーハッチ。内圧残存あり、噴出は収束。開けるわよ』
『了解。慎重に』
リュウジの声は短い。
クリスタルは残りのレバーを最後まで引き切る。
ロックが外れる、鈍い感触。
ハッチが、ゆっくりと開いた。
闇が口を開けたような内部。
そこから微かな、熱と匂いが漏れてくる。
(生きてる空気の匂い……)
エリンの脳裏に、そんな言葉が浮かぶ。
宇宙の無臭の闇の中で、わずかに感じる“人間の場所”の匂い。
『中に入る。エリン、続いて』
『うん』
クリスタルが、先に身体を滑り込ませる。
ハッチの縁に手を掛け、ゆっくりと胴体を通す。
内部は狭い。
緊急隔室――エマージェンシールーム。
非常用の酸素ボンベと簡易パネル、そして壁に取り付けられた折りたたみのシート。
照明は落ちていた。
だが、完全な闇ではない。
非常灯の弱い赤が、空間をぼんやり照らしている。
エリンも後に続き、身体を押し込む。
ハッチを抜けた瞬間、宇宙の闇が背後に遠のいた。
それだけで、肺の奥が少しだけ軽くなる。
『……閉めるわよ』
クリスタルが背後のハッチに手を伸ばす。
『待って』
エリンが息を飲む。
内部の床に、何かが散らばっているのが見えたからだ。
白い布切れ。
破れたグローブ。
血の跡――乾いて黒く変色した筋。
『……ここ、誰か通ってる』
エリンが呟く。
クリスタルは一瞬だけ固まり、すぐに頷いた。
『生存者がいる可能性、上がったわね』
彼女は、ハッチを半分だけ閉めてロックし、内外の圧を安定させた。
緊急隔室の内側のパネルを操作し、酸素の残量をチェックする。
『酸素、残り四割。最低限の循環は生きてる』
『……じゃあ』
『ええ』
クリスタルは赤い非常灯の下、細い通路の向こうを見据えた。
隔室の奥には、シャトル本体へ続く内側ハッチがある。
その向こうに、ブライアンたちがいるかもしれない。
あるいは――最悪の沈黙が待っているかもしれない。
エリンは、持ってきた医療バッグを胸の前で抱え直した。
手のひらが汗で湿っているのに気づき、無意識にスーツの太腿で拭う。
クリスタルが、内側ハッチのレバーに手を掛けた。
『……開けるわよ。
どんな状況でも、叫ばない。動揺しない。生存者がいたら、まず呼吸確保。いい?』
『……分かってる』
エリンは短く返事をし、背筋を伸ばした。
宇宙のど真ん中、壊れかけのシャトルの腹の中。
彼女たちの鼓動だけが、はっきりと耳に響いている。
クリスタルが、ゆっくりと、内側ハッチのレバーを引いた。
内側ハッチのレバーを最後まで引き切ると、硬い金属の爪が外れる音がした。
クリスタルが慎重に押し開け、赤い非常灯の光が奥へ滲む。
次の瞬間、二人の視界に“それ”が飛び込んできた。
薄暗いキャビンの床に、六人の人影が折り重なるように倒れていた。
重力制御はほぼ死んでいるのだろう、身体は不自然に壁へ寄りかかり、誰の胸もほとんど動いていないように見える。
乾いた空気の匂い、金属と焦げの混じった臭い、そして――生き物が長く閉じ込められた部屋特有の、汗と呼気の澱んだ気配。
視界の端が一気に狭まる。
息が細くなる。
けれど足は止まらない。
「ブライアン!」
クリスタルの声が、低く鋭く響いた。
同時にエリンが叫ぶ。
「タツヤ班長!」
二人はほとんど同時に駆け出していた。
ワイヤーを外し、膝をついて、倒れている身体を確かめる。
クリスタルはまずブライアンの頸動脈に指を当て、次に胸へ手を滑らせた。
「……生きてる。弱いけど、脈ある」
その声には安堵と緊張が混じらない。
ただ事実だけを刃みたいに置く。それがクリスタルの強さだ。
エリンはタツヤの肩を抱き起こしかけ、すぐに力を緩めた。
乱暴に揺らせば脳に負担がかかる。
そんな基本が、体に染みついている。
「タツヤ班長。聞こえる? タツヤ班長!」
ゆっくり、慎重に、肩に手を置いて呼ぶ。
数秒の空白。
真空より重い沈黙のあと、タツヤのまつ毛がほんのわずか震えた。
「……エ……リ……ン?」
消え入りそうな声だった。
乾ききった喉が、かろうじて音を作っただけの揺れ。
「はい、私です。エリンです」
エリンは必死に声を張った。
でも“必死さ”が相手を潰さないように、呼吸を整えながら言葉を選ぶ。
「大丈夫。今、助けに来たわ。リュウジと一緒に来ましたよ」
その名が出た瞬間、タツヤの口角が微かに持ち上がった。
笑ったのか、力が抜けただけか、判別がつかないほどの小さな変化。
「……やっぱり……
リュウジが……来ると思った……」
そう呟いて、タツヤは再び瞼を閉じた。
意識を手放したというより、身体が“休ませろ”と命じたのだ。
エリンは拳を握りしめて、呼吸を一度整えてから顔を上げた。
「クリスタル!」
「大丈夫。恐らく脱水と低酸素。
まずタツヤに少しだけ水を。喉を潤す程度でいい。急に入れるとむせる」
クリスタルはブライアンの手首に小型のバイタル出力パッチを貼りながら、視線を外さず指示を飛ばす。
「他の人も診る。エリン、順番に回って。
意識がある者を優先、呼吸と脈の確認。動かせるなら頭の位置を確保。
それと――冷却シート、持ってるわよね?」
「ええ。すぐやる」
エリンは医療バッグを開き、携帯ボトルの水を紙パックの注入口へ移し替えた。
口元に小さく当て、タツヤの唇を湿らせる。
「……ゆっくり。ごめんね、少しだけ」
水が喉を通ったのを確かめてから、エリンは次の倒れている青年へ移った。
顔に血の跡があり、唇が紫がかっている。
頸動脈に指を当てる。
脈はある。弱い。
呼吸は浅いが続いている。
「……生きてる、大丈夫」
言い聞かせるように呟き、冷却シートを首筋へ貼った。
酸素吸入の簡易マスクを装着し、酸素ボンベの流量を最低限に調整する。
次。
その次。
三人目は女性だった。髪が額に貼りつき、汗というより塩がこびりついたような乾燥が見える。
エリンは手袋の指でそっと瞼を開き、瞳孔反射を確認した。
「……反応あり。意識はまだ戻りそう」
彼女の口に湿らせたガーゼを当て、口内の乾き具合を確認する。
舌がひび割れている。
体液が限界まで削られている証拠だ。
「水、少しだけ。ほんの一口」
エリンは同じ手順で水分を与え、喉を詰まらせないよう顎を支えた。
過去に何度も、こういう現場を見たことがある。
サヴァイヴより前の“航行の現実”の場所で。
「……あの子たちのためにも、死なせない」
ぽつりと漏れたその言葉が、キャビンの乾いた空気に吸い込まれる。
クリスタルはブライアンの呼吸を確認しながら、身体を触っていく。
腰に手が触れた時、微かにブライアンの顔が歪んだ。
「……これは、ダメね。腰椎、完全に折れてる」
その言葉に、エリンが顔を上げた。
「折れてるって……搬送は?」
「ネフェリスまで運ぶ振動に耐えられない。
下手に動かしたら脊髄を傷つける可能性がある。神経が残っているか確認したいけど……器材も時間も足りないわ」
クリスタルは深く息を吸い、静かな決意の声で続けた。
「――彼を動かすのは無理。
シャトルごと牽引するしかない」
その言葉は、この場の“唯一の正しい選択”として空気の中に落ちた。
エリンもすぐに理解した。
腰の骨折は動かした瞬間に命取りになる。
ならば、このシャトル自体をネフェリスの“後ろに繋いで引くしかない”。
「……分かったわ。リュウジに伝える?」
「ええ。その前に、応急処置を全部終わらせる。
状態をこれ以上悪くしないためにね」
エリンは頷き、残る五人の衣服と体勢を整え、酸素マスクを正しい角度に調整していく。
その間にもクリスタルはブライアンの腰回りに固定材を巻き、可能な限り動かないよう処置を施していた。
「ブライアン、聞こえる? 今は応急処置だけ。動かないでね」
返事はない。
けれど呼吸は安定し、脈も規則的になりつつある。
――生きてる。
このままなら、持つ。
エリンはその事実に胸の奥で小さく息を吐く。
◆ ◆ ◆
「リュウジに報告するわ」
クリスタルは手元の通信端末を開いた。
ノイズの層の向こうへ、細い糸みたいな回線を探る。
『こちらクリスタル。シャトル内部、生存者六名確認。
全員生体反応あり。主症状は脱水、低酸素、軽度外傷。
ただしブライアンは腰椎骨折。搬送不可能。
――リュウジ、シャトルごと牽引する必要があるわ』
すぐに返事が来た。
リュウジの声は、いつもの落ち着きの中に痛みを隠した響きを持っていた。
『了解……! 牽引用のワイヤー、こっちからも準備してる。
二人は外で作業できるか?』
「エリンは無理をしなければ大丈夫。私は問題ないわ。
今から牽引ロープの接続作業に入る」
『頼む。時間がない。ネフェリスの姿勢制御も限界が近い』
エリンは息を整え、胸に手を当てて頷いた。
「行きましょう、クリスタル」
「ええ。外の固定ポイントを探して、強度を優先するわよ」
二人は再びシャトル後方のハッチに戻り、宇宙服のスーツリングを確認し合った。
腰のワイヤー金具、エアシールの状態、酸素残量。
全てを確認し終えると、クリスタルは懐から牽引ロープのロックユニットを取り出して言った。
「――ブライアンは絶対に揺らせない。
だから、この接続は“一度の固定で決める”。」
エリンは静かに頷いた。
「任せて。絶対に、誰も死なせない」
二人は再び外へ出るため、重い外部ハッチを開いた。
暗い宇宙空間は、何も言わぬまま二人を吸い込むように広がり、
背後には六人のかすかな呼吸と、急ぎすぎても遅すぎても死に近づくという現実だけが残された。
ーーーー
外部ハッチの縁に指をかけた瞬間、クリスタルの宇宙服のグローブ越しに、シャトルの金属が冷たく硬い“死の温度”を返してきた。
ここは薄い皮膜一枚を隔てた真空。
息を吸う音も、心臓の鼓動も、ヘルメットの内側でやたらと大きく響く。
腰の命綱が小さく鳴り、身体がふわりと浮きかけるたび、エリンは無意識に腹へ力を入れた。肋骨の亀裂が、遠慮なく痛みを主張する。
「……っ」
「エリン、無理しないで。呼吸、止めない」
クリスタルの声は静かで、凍るように冷たいのに揺れない。
それが逆に、エリンの背中を押す。
「うん。平気。……行こう」
二人はシャトルの外殻に沿って、ゆっくりと移動を始めた。
歩く、というより“体を引っかけて進む”に近い。
推進をかければ早い。でも勢いは制御を失う。
シャトルを叩けば中の六人の身体が揺れる。ブライアンの折れた腰椎には、それだけで致命的な振動になり得る。
――一歩、確実に。
薄い手袋越しに金属の継ぎ目を探り、指先をひっかけ、次の把持点へ身体を送る。
真空の闇はどこまでも広く、下も上もない。
ネフェリスの灯が遠くに浮かんでいるだけで、距離感が簡単に狂う。
クリスタルが先に進み、シャトル後方の構造を目でなぞった。
牽引に耐えられる“骨格の太い部位”を探している。
「……ここ。後部フレーム。外殻じゃなく内骨格に直結してる」
彼女は指で金属の太い梁を叩き、音の返りを確かめた。
軽い場所は空洞が響き、質量のある場所は鈍く詰まる。
牽引ロープを通すなら、ここしかない。
エリンは頷き、通信を開く。
『リュウジ、シャトル後部フレームに固定ポイント確認。
シャトル側ロープ固定に入るわ』
『分かった。ネフェリス側の外部接続は、こっちでやる』
『いや、あなたは操縦に集中して。』
一瞬の沈黙。
返事は短かった。
『……任せる。無茶はするな』
その“無茶するな”が、今さら何を、と笑いかけてしまうほど緊迫している。
でも、エリンは笑わない。笑える空気じゃない。
◆ ◆ ◆
牽引用ロープのロックユニットは、金属の輪と圧着爪のセットだ。
クリスタルがユニットを取り出し、ワイヤーの先端をチェックする。
「一本目は“荷重固定”。
二本目は“振れ止め”。
どっちも確実に入れる」
「了解」
エリンは補助クリップを構え、身体をシャトルに押しつけるようにして体勢を作った。
肋骨がじんと熱を帯びる。
痛い。でも、ここで身体を固めないほうが危ない。
クリスタルが梁に輪を通し、爪の位置を調整する。
「真空で金属が収縮してる。噛み合わせ、少しずれてるね」
工具を入れる。
――その瞬間。
ゴン、と鈍い衝撃。
シャトル全体がわずかに震えた。
二人の身体がふわりと浮き、命綱が張る。
「っ……隕石!?」
「小さいのがかすっただけ。直撃じゃない。
でも次が来る可能性がある」
クリスタルの語尾が冷える。
予測じゃなく、確信に近い警戒。
「急ごう」
「急ぐ。でも雑にしない。
ここをミスったら、シャトルは引けない」
爪が一段ずつ食い込み、噛み合わせが締まっていく。
金属の“カチ、カチ”が、ヘルメット内の呼吸音と混ざって心臓を叩いた。
「一本目、完了」
エリンは息を詰めたまま二本目のユニットを手渡す。
清算できない怖さが喉の裏に張りつくのに、手は不思議と震えていない。
二本目は振れ止め。
引かれる方向に対して、回転を抑えるため対角に張る。
クリスタルが縁を伝い、慎重に移動。
エリンも追う。
推進なしの移動は遅い。だが、速度を上げれば、死が一気に近づく。
また小さな衝撃。
今度は緩やかに船体が回転するような揺れ。
「来た……!」
「落ち着いて。ネフェリスが姿勢制御で抑えてる。
今のうちに固定を終わらせる」
二本目の輪を通し、エリンが補助クリップで押さえ込む。
最後の圧着の瞬間――肋骨に鋭い痛みが走り、視界が白く霞む。
「……っ、う……!」
「エリン!」
「大丈夫……まだ、やれる……!」
声を出すたび、意識が戻る。
クリスタルが最後の爪を打ち込み、ユニットを固定した。
「二本目、完了。
シャトル側の固定は終わった」
……でも、牽引はまだ成立しない。
「次、ネフェリス側よ」
クリスタルがそう告げると、エリンは頷いた。
“戻る”という言葉が、今ここでの最大の危険だ。
シャトル側を終えても、ネフェリス側を失敗すれば、全てが無意味になる。
二人は命綱に身体を預け、ゆっくりとネフェリスへ向かう。
距離は短いはずなのに、真空では永遠みたいに長い。
ネフェリスの船体は、外から見ると痛々しかった。
装甲は裂け、前方ハッチ近くの外殻には焦げ跡。
爆発の衝撃波をもろに受けた傷だ。
エリンは胸が縮むのを感じた。
この脆い船を、今から“牽引の親”にする。
つまり、ネフェリス側の固定点が耐えられなければ、ロープが船体ごと剥ぎ取られる。
「固定ポイントは……ここ」
クリスタルが船体下面の補強フレームを見つけた。
外殻ではなく、姿勢制御ユニットの基部に直結する梁。
この船で最も“強い骨”。
「一本目はここに荷重、二本目は外側に振れ止め。
引かれる方向考えると、角度は……このぐらい」
彼女は手で角度を測り、エリンへ合図する。
「支えて」
「分かった」
エリンは梁に腕を回し身体を固定。
クリスタルがロープユニットを通し、爪の位置を決める。
……ギッ。
金属が噛み合う手応えが指先に響く。
冷たい。硬い。
でも、うまく嵌れば、そこに“確かな手応え”が生まれる。
エリンが補助クリップで押さえ込み、クリスタルが圧着。
――カチ、カチ、カチ。
音が強い。
ネフェリスの骨が、祈りに応えるみたいに締まっていく。
「一本目、完了」
でも――
小さな異音。
遠くで何かがぶつかるような“乾いた衝突”。
エリンが息を呑む。
クリスタルが即座に警戒を上げる。
「隕石が流れてる。
サイズは……小さい。今は直進してない。
だけど、ここで姿勢がずれたら当たる可能性がある」
「急いで二本目いこう」
「ええ」
二本目の振れ止めは外側。
危険な位置だ。
船体の縁に近く、足場という足場がない。
クリスタルが縁へ移動し、エリンが後ろから命綱のテンションを調整する。
ほんの数センチのズレが、宇宙服の関節角を変え、体の回転に直結する。
――落ちる、という概念はここにはない。
ただ、滑れば“戻れなくなる”。
「……っ」
クリスタルが梁を掴む手を変え、輪を通す。
その瞬間、
ネフェリスがふわり、と揺れた。
姿勢制御が不安定なせいだ。
チャコが中で必死に繋いでいるのが分かる。
「大丈夫、今の揺れならいける」
クリスタルが淡々と言う。
その背中が、まるで“揺れない杭”みたいに見える。
エリンは歯を食いしばり、補助クリップを差し込む。
少しでも支えが外れたら、爪が噛み損ねる。
圧着。
――カチ……!
最後の爪が入った瞬間、
二人は同時に息を吐いた。
「二本目、完了。
ネフェリス側、固定終了」
ここまで来て、ようやく“牽引の線”が完成した。
エリンは通信を開く。
『リュウジ。ネフェリス側も二点固定完了。
いつでもテンションかけられる』
操縦席から少し掠れた声が返る。
『……了解。
ゆっくり張力かける。
二人とも、固定点から離れろ。揺れが来る』
「分かった」
二人は船体に身体を寄せ、固定点から距離を取る。
張力がかかる瞬間、反動は必ず出る。
それが船体に無駄な捻れを生むと、固定部ごと剥がれる。
――ギギ……。
ロープが伸び、金属が軋む振動が掌から腕、胸へ伝わる。
真空の沈黙の中で、触感だけがやけに雄弁だ。
テンションが一段上がる。
ネフェリスがゆっくりと姿勢を整え、
シャトルが引かれる方向へ“従う”ように向き直った。
回転はない。
振れも最小。
固定点は確実に荷重を受け止めている。
「……成功ね」
クリスタルの声に、ほんの少しだけ安堵が混じる。
エリンは真空の闇の向こうに、シャトルの薄い灯を見た。
「うん。
……これで、六人を連れて帰れる」
『クリスタル、エリンさん。よくやった』
リュウジの短い通信が飛ぶ。
声の奥で、彼がどれだけ張り詰めていたかが分かる。
「そっちこそ。
牽引中、姿勢無理に崩さないでね」
『無茶はしない。
帰るぞ。全員で』
その言葉が、真空よりも重く、温かく胸に落ちた。
二人は互いに視線を交わし、
ゆっくりとネフェリスのエアロックへ戻るための移動を開始した。
命綱が軋み、
宇宙が沈黙したまま彼女たちを見つめる。
死は、いつだって隣にいる。
でも今はまだ、背中の一歩先に追いやれる。
二人は何も言わず、
ただ確実に、帰還のための距離を縮めていった。