サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第59話

 エアロックの内側に滑り込んだ瞬間、ネフェリスの人工重力が足裏を捕まえた。

 真空の圧力から解放されたはずなのに、胸の奥の圧迫感が抜けない。ヘルメットの内側で、自分の吐息だけがやけに熱い。

 

 エリンはふらつく足で床に手をついた。肋骨の亀裂が、戻った重力で一気に主張してくる。

 

「……っ、はぁ……」

 

 その横で、クリスタルは無駄のない動きでハッチを閉め、ロックを確認する。

 

「リュウジ、一分待って!」

クリスタルは声を上げた。

 

「……分かった、急げ!」

 リュウジの声がさらに硬くなる。

 ネフェリスの姿勢がわずかに揺れ、牽引ロープ越しにシャトルの重みが伝わってくる。安定している――だが、いつ崩れるか分からない種類の安定だ。

 

 クリスタルは迷いなく腰のフックを外し、医療区画へと駆けた。

 足音は軽いのに速い。彼女の動きは、静かな水面の下で流れる強い潮みたいに、無駄がない。

 

 ラックを開け、止血材、輸液パック、固定用のスプリント、鎮痛薬、簡易モニター。

 次々に必要なものだけを抜き取り、もう片方の棚から非常食と水パックを掴む。

 

 その背中を追いながら、エリンが息を切らせて口を開いた。

 

「何してるの……?」

 

 クリスタルは振り返らないまま答えた。

 

「私はシャトルに戻る」

 

「え……?」

 

 エリンの声が掠れる。

 クリスタルは抜き取った道具をリュックへ詰め、肩に背負った。ストラップを引いて固定すると、すぐに次の動き。

 

「怪我人がいる。私が側にいないと、何かあった時に救えなくなる」

 

 淡々とした声。

 けれど、その一言一言に、彼女がどれだけ状況を冷徹に切っているかが滲んだ。

 

「それに、万が一の時は操縦桿を握る人が必要よ」

 

 クリスタルは再び展開リンクのワイヤーへ向かい、腰の金具を装着する。

 カチリ、とロックの音。

 迷いの余地を閉じる音だ。

 

「なら、私も――!」

 

 エリンが反射的に踏み出した。

 身体は行けると叫んでいるのに、肋骨の痛みが現実を引き戻す。

 

「ダメよ」

 

 クリスタルは初めてエリンへ視線を向けた。

 叱らない。怒鳴らない。

 ただ、事実だけを伝える目。

 

「その怪我でそれ以上は無理。それにネフェリスには、あなたの力がまだ必要よ」

 

 エリンは唇を噛んだ。

 悔しいのは、言われたことが正しいと自分でも分かるからだ。

 

「……分かった」

 

 言葉にした瞬間、喉の奥が少しだけ震えた。

 

 操縦席から再び声が飛ぶ。

 

「クリスタル、早くしろ!」

 

 外に出れば、牽引中のシャトルの揺れ一つで身体が引き千切られるかもしれない。

 それでもリュウジは急がせる。

 急がなければ間に合わないほど、ネフェリスは持たないのだろう。

 

「今いく!」

 

 クリスタルの返答は短い。

 けれど強い。

 

 エアロックが開いた。

 瞬間、ネフェリス内部の灯りが細く伸び、真空の闇が口を開ける。

 

 クリスタルは一度だけエリンを振り返った。

 

「エリン。中、頼む」

 

「……うん。絶対、戻ってきて」

 

 クリスタルは小さく頷く。

 それだけで充分だと言うように。

 

 次の瞬間、彼女は宇宙へ飛び出した。

 ワイヤーがぴん、と張り、白い宇宙服が闇の中へ滑っていく。

 

 エリンはその背中を、息が痛みで止まりそうになりながら見送った。

 そして、視線を操縦席のリュウジへ向ける。

 

 ――ここから先、ネフェリスを支えるのは自分だ。

 クリスタルがシャトル側で命を繋いでいる間、この船を揺らしてはいけない。

 

 エリンは肋骨に手を当て、痛みの奥にある自分の役目を噛みしめた。

 

 ネフェリスの中に、再び張り詰めた沈黙が落ちた。

 外では、クリスタルが真空の闇に身を預け、シャトルへと向かっている。

 その一本のワイヤーが、今は命綱であり、希望そのものだった

 

ーーー

 

無線のスピーカーが、短く乾いたノイズを吐いたあと、芯のある声が響いた。

 

『……いいわよ。固定、完了。牽引ロープ、シャトル側のロックも確認した』

 

 クリスタルだ。遮られがちな通信の向こうでも、その声は落ち着いていた。冷静さの奥に、硬い意志がある。

 

「よし」

 

 リュウジは低く返すと、操縦桿を持つ左手に力を込めた。

 ネフェリスの計器が、極薄く明滅する。非常系統だけが生きている薄暗い操縦席は、まるで深海の船室みたいに息苦しい。

 それでもリュウジの指先は迷いなく動いた。空間に浮かぶ船体と、その背にずしりとかかるシャトルの質量。数値と振動と、わずかな“気配”だけで、全てを束ねていく。

 

 ネフェリスがゆっくりと姿勢を変える。牽引ロープが張り、シャトルが一拍遅れて追随する。

 引っ張りすぎればロープが擦り切れ、弱すぎればシャトルが揺れて船体を傷つける。

 微妙な均衡の上でしか成立しない“帰り道”が、今ようやく形になり始めた。

 

 その時、背後の通路から足音が近づいた。

 エリンが戻ってきたのだ。宇宙服は脱いでいるが、髪は乱れ、肩のラインがわずかに歪んでいる。

 

「戻ったわ……」

 

 声音はいつも通りに作られているのに、息が深く入っていない。

 歩き方も、ほんの少し不自然だ。

 

「大丈夫かいな、エリン」

 

 副操縦席にジャックインしたチャコが振り返った。猫型の小さな体が、今だけは妙に頼もしい。

 

「大丈夫よ」

 

 エリンはそう言って笑みを作った。

 けれど、その表情は言葉についてきていない。

 口元は柔らかく見せているのに、目の奥が白く固い。痛みを噛み殺す顔だ。

 

 リュウジは操縦桿から目を離さないまま、静かに言った。

 

「エリンさんは、ゆっくり休んでいてください。これから引き返します」

 

「ええ、ありがとう」

 

 エリンは背もたれに片手をつき、呼吸を落ち着かせようとする。

 それでも、すぐに気を切り替えたように操縦席の横へ寄ってきた。

 

「それより……帰り道は分かるの?」

 

 エリンが覗き込むと、リュウジの横顔が闇の輪郭の中で鋭く見えた。

 

「ええ、大丈夫ですよ」

 

 敬語のまま、簡潔に。

 右目は真っ直ぐ前方、左眼は血で薄く曇り、バイザーの内側で赤が溜まっている。

 それでも声に揺らぎはない。

 

 エリンはふっと笑った。

 その笑みは、ほっとしたからではなく――この少年の無茶な確かさに、半ば呆れるような、それでも信じてしまうような笑い。

 

「さすがだね」

 

 そう言いながら、エリンは何気なくリュウジの手元へ視線を落とした。

 その瞬間、胸の奥に冷たい違和感が走る。

 

 操縦桿を握っているのは――左手だけ。

 右手は、座席の脇にぶらんと垂れ下がっていた。指先に力が入っていない。腕のラインが、妙に重い。

 

 エリンの背筋が跳ねた。

 

「リュウジ……まさか、右手を……!?」

 

 言いかけた途端、エリンは「いたた」と脇腹を押さえ、顔をしかめた。

 肋骨に走る痛みが、怒りと驚きで跳ね上がったのだ。

 

「ホンマかいな」

 

 チャコが低い声で言った。画面越しの計器を睨む瞳が、軋むように細くなる。

 

 リュウジは視線を前に据えたまま、淡々と答えた。

 

「……よく見てますね。宇宙爆発の時に、どうやら肩が外れたみたいです」

 

「外れたって――」

 

 エリンの声が掠れる。

 “外れた”という言い方が軽すぎる。

 操縦席で衝撃波を受けたあの角度、あの揺れ。

 脱臼なら、普通は激痛で腕が動かない。まして操縦など論外だ。

 

「大丈夫なの?」

 

 エリンは眉を寄せた。心配の色が、隠しきれずに滲む。

 

 リュウジはわずかに口角を上げた――いや、上げた“つもり”の線が、疲労で薄く揺れただけかもしれない。

 

「エリンさんほどじゃないですよ」

 

 さらりと、逃げのない声で言う。

 自分の痛みを軽く扱う癖が、ここでも出ている。

 

「ふーん。本当に?」

 

 エリンが半目で睨む。

 冗談じゃない、という意味も、これ以上無茶するなという意思も、全部混ざった視線。

 

「ええ。操縦に支障はありません」

 

 リュウジは即答した。

 その声が“嘘ではない”ことが、余計に厄介だ。

 彼は本当に、支障が出ない操縦をしてしまう。

 だからこそ、身体が壊れるまで止まれない。

 

「リュウジのそれは信用できへんな」

 

 チャコがぼそっと言う。関西訛りが、今だけ鈍い刃のように聞こえた。

 

「チャコ」

 

 リュウジが短く名を呼び、声の温度を一段落とした。

 

「お前はネフェリスを持たせることを考えろ。今は、こっちに気を散らすな」

 

「……分かっとるわ」

 

 チャコは唇を尖らせた。

 けれど言い返さない。

 この場で一番、ネフェリスの“呼吸”を聞けるのはチャコだ。彼女が気を散らしたら、船はすぐに不安定になる。

 

 操縦室に、短い沈黙が落ちた。

 非常灯の青白い光が、全員の顔から血の気を削る。

 シャトルの重みが繰り返し小さく引き合うたび、ネフェリスの骨格が「ギシ」と鳴く気がした。

 

 エリンは、リュウジの右肩を見た。

 宇宙服を脱いだ彼の肩のラインは確かに不自然だ。

 だが本人は痛みの波を顔に出さず、左手一本で繊細に操縦を続けている。

 

「……ねぇ」

 

 エリンが小さく口を開く。

 声は低く、静かで、しかし揺れない。

 

「帰ったら、まず肩を戻すわよ。拒否は無し」

 

「……了解です」

 

 リュウジが返したのは、素直な敬語だった。

 その返事に、エリンは少しだけ肩の力を抜く。

 

「それと、あなたの左目。あれも放っておかない。

 “支障ない”って言ったら殴るから」

 

 リュウジが、今度こそ小さく笑った。

 

「殴られたら、もっと支障が出ますね」

 

「出していいのは、帰ってからの反省だけよ」

 

 エリンの声も、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 それでも痛みは消えない。

 呼吸のたびに肋骨が軋み、背中に冷や汗が貼りつく。

 だが彼女は、それをあえて表に出さなかった。

 今、ここでリュウジの集中を削るわけにはいかない。

 

 チャコが計器を睨む。

 

「姿勢制御ユニット、出力がじわじわ下がっとる。

 このまま引っ張り続けたら、どっかで限界来るで」

 

「分かってる」

 

 リュウジは短く返す。

 左手の指が、操縦桿のグリップを微細に締め直した。

 

「まずはセーシング領域の縁まで戻る。

 そこまで耐えれば、重力補助が少し効く。

 そこで一度、牽引のテンションを落として整え直す」

 

「了解や」

 

 チャコが頷く。

 リュウジの声には、場を支配する確かさがある。

 “引き返す”という方向が定まっただけで、船内の空気がわずかに落ち着くのが分かった。

 

 それでも、緊張は消えない。

 この宇宙の静けさは、油断した瞬間に牙を剥く。

 ミスは、誰かの命で払うことになる。

 

 エリンは操縦席の後ろに回り、壁際のベンチに腰を下ろした。

 体を預けようとして、やめる。

 痛みが走る角度を探り、息を整え、背筋を伸ばしたまま座る。

 

 そこでようやく、自分の胸の鼓動が早いことに気づいた。

 外での作業を終えた安心。

 怪我人を簡易処置した疲労。

 そして、目の前の少年が負っているものの重さ。

 全部が染み込んできて、息が熱い。

 

 エリンは視線だけで操縦席のリュウジを追う。

 彼は左手一本で、シャトルの重さとネフェリスの損傷と、残りの燃料と、視界の悪さと、全部を同時に抱えている。

 顔色は、誰が見ても限界に近い。

 

 それでもリュウジは言わない。

 “無理だ”とも、“怖い”とも。

 

 だからエリンは、言葉を飲み込む。

 励ましも、心配も、今は邪魔になる。

 

 ただ――

 

「リュウジ」

 

 エリンは、静かに呼んだ。

 名前だけ。

 それだけで、十分だと思った。

 

「はい」

 

 リュウジは前を向いたまま返す。

 その声は、さっきより少しだけ柔らかく聞こえた。

 

「……帰ろうね。みんなで」

 

 独り言みたいな小さな声。

 敬語でも命令でもない、ただの願い。

 

 リュウジはわずかに頷いた。

 

「ええ。必ず」

 

 その短い返事の奥に、揺るがない決意があった。

 操縦桿を握る左手の力が、もう一段だけ深くなる。

 

 ネフェリスは牽引ロープを背負い、静かな宇宙を引き返していく。

 ガラスの向こうの闇は何も語らない。

 だが、船内の小さな呼吸と、覚悟の重さだけが、確かな現実として鳴っていた。

 

ーーーー  

 

 帰路の航行は、行きよりもずっと静かだった。

 宙には風も匂いもないはずなのに、ネフェリスの内部には、焦げた金属と冷却剤の混じる、あの“事故の匂い”が薄く残っている。

 計器の光は非常系統の最小限だけ。薄暗い操縦室に、青白い表示が浮かび、船体のどこかが軋むたび、ともすれば鼓膜の裏側が痛くなる。

 

 牽引ロープの先にあるシャトルは、まだネフェリスの影を引きずっていた。

 重い。

 ひどく重い。

 けれど、そこにある重みは、命の重みだと分かっている。だからリュウジは手を止めない。

 

 操縦席の後方、エリンはシートに身を沈め、眠っている。

 疲労と痛みと緊張が、彼女の体をようやく休ませたのだろう。

 浅い呼吸が一定のリズムを刻み、時折、軽く息を吐く音が聞こえる。

 その寝顔は、今まで見せてきた完璧な“チーフ・パーサーの顔”じゃなく、年相応にやわらかくて、どこか無防備だった。

 

 リュウジは前を見据えたまま、意識の端にその寝息を置いた。

 守るべきもののひとつが、そこにある。

 そう思うだけで、指先に入る力の質が変わる。

 

「……アカンで、リュウジ」

 

 チャコの声が、少し低くなる。

 副操縦席の計器前、ジャックインしたままのチャコがモニターを睨みつけていた。

 

「姿勢制御ユニットも、重力制御ユニットも、出力がじわじわ下がっときとる。

 “持たせとる”だけで、今も削られとる感じや」

 

 チャコの言葉に、リュウジは舌打ちを噛み殺すように喉の奥で鳴らした。

 

「この状態で……ナノマシンシールドにエネルギー回してるのが仇になったか」

 

 独り言のように呟いて、視線だけを計器へ流す。

 数字は、正直だった。

 シールドが張られている限り、船体は宇宙の微細な破片から守られる。

 だが、その代償として、姿勢と重力のユニットが削れていく。

 どちらを優先しても、別の場所に皺寄せが来る。

 まさに、“壊れかけの船に命を積む”という行為そのものだった。

 

「せやけどな」

 

 チャコが続ける。不安に刃を混ぜた音だった。

 

「キャノピーガラスが砕けとるいま、シールド解除したら一瞬で終わる。

 解除は無理や。

 せめて重力制御と姿勢制御、出力を安定させんと、牽引しながらセーシング領域の縁まで持たへん」

 

「分かってる」

 

 リュウジは短く返す。

 左手一本で操縦桿を握り、その手首の角度を微細に変える。紐のような繊細さで速度と姿勢を調整するたび、ロープに伝わる緊張が変化し、牽引シャトルがわずかに揺れた。

 

 その揺れを吸収するように、ネフェリスの骨格が低くうなる。

 ここでユニットが落ちれば、シャトルは制御を失い、ネフェリスに追突するか、ロープごと切れて漂流する。

 どちらも、全滅に等しい。

 

 静寂の中、背後から足音がした。

 ふらつく気配の混じる、けれど確かな足取り。

 

「……チャコ、データ見せてくれる?」

 

 聞き慣れた、やわらかい女の子の声。

 サツキだ。

 

 続けて、少し落ち着いた声が重なる。

 

「私も起きた。状況を確認させてくれ」

 

 マリ。

 

 リュウジは一瞬だけ肩越しに二人を見た。

 サツキは額に薄い汗を浮かべ、まだ顔色は白い。足元が少し頼りない。

 マリも目尻に疲れの影が残っているが、背筋は真っ直ぐだった。

 二人とも脳震盪の余韻があるはずなのに、目だけははっきりしている。

 

「二人とも起きたんか!?」

 

 チャコの声が弾む。

 この状況で笑顔を作れるのは、チャコくらいだ。

 だがその明るさが、いまは救いにもなる。

 

「ん。起きたよ、チャコ」

 

 サツキはチャコに向けるときだけ、敬語を抜いた自然な口調で返した。

 そして操縦席の計器に視線を送り、眉をきゅっと寄せる。

 

「……なるほど。

 重力制御ユニットと姿勢制御ユニット、熱が抜けきってないのに出力だけ落ちてる。

 エネルギー配分が偏ってるね……」

 

 彼女は口元を噛む。

 その仕草は幼さが残るのに、視線は真剣で、遠慮がない。

 

「重力制御と姿勢制御の調整は、私がする。

 頭はまだクラクラするけど、手の感覚はあるし……ここからは私たちの番だよ」

 

 サツキの言葉は、少し照れたような、けれど真っ直ぐな決意だった。

 

 チャコが思わず笑ってしまうように鼻を鳴らす。

 

「頼もしいやんけ」

 

 リュウジも、前を向いたまま静かに返す。

 

「無理はするな。

 まだ身体が本調子じゃないだろ」

 

 サツキは操縦席の方へ軽く首を振った。

 

「大丈夫。

 休んでたぶん、ここで返す」

 

 その言葉に、マリも頷いた。

 

「私も同じだ。

 ひとつ残っている中継ベイ、最低限、使いものになるようにしてくる。

 通信が生きていれば、セーシング領域の縁での引き継ぎが段違いに楽になる」

 

「……分かった」

 

 リュウジは短く言った。

 迷いのない返事。

 この船でいま一番優先すべきは、操縦と船体維持と通信確保だ。

 その役割を、ようやく全員で背負える。

 

 サツキは操縦席の横を抜け、機械室へ向かう通路へ足を踏み出した。

 一歩目、二歩目、まだふらつきが残るのが分かる。

 だが彼女は止まらなかった。

 小さく息を吸って、歩幅を整え、手すりを軽く掴みながら進む。

 

「サツキ、気をつけや」

 

 チャコが声をかける。

 

「分かってる。

 転ばないよ、チャコ」

 

 サツキは軽く笑って手を振った。

 その笑みは、ネフェリスに薄い体温を戻す。

 

 マリは通信ラックの前に腰を下ろすと、端末の蓋を開けた。

 指先が、迷いなくケーブルを抜き差しし始める。

 彼女の動きには、静かな緊張と、圧倒的な手慣れがあった。

 

「中継ベイの残りは一機……」

 

 独り言のつもりだったのか、マリは淡々と呟く。

 画面の前で、彼女の横顔が冷たい光に浮かび、細い髪が頬にかかる。

 

「これを復活させれば、最悪の場合でも、“位置”は残せる……」

 

「頼む」

 

 リュウジが短く言うと、マリは小さく頷いた。

 

「ああ」

 

 その返事が、どこか嬉しそうに聞こえたのは気のせいじゃない。

 “必要とされる場所”があることが、彼女の背中を立たせている。

 

 操縦室は、再びそれぞれの仕事の音に満たされた。

 計器のクリック音。

 ケーブルを抜くわずかな金属音。

 遠く機械室で工具が触れ合う音。

 そのどれもが、冷たい宇宙の中で、命の脈拍みたいに聞こえる。

 

 リュウジは左手で操縦桿を握り、指先で推力を微調整する。

 右肩は、まだ抜けたままだ。痛みは波のように襲ってくる。

 だが、いまその痛みは、どこか遠い。

 

 ――背中に仲間がいる。

 それだけで、操縦桿の重さが違って見える。

 

 チャコが画面の隅を睨んだ。

 

「姿勢制御、限界近いで。

 サツキ、間に合うか?」

 

 内線。

 

『……やるよ。

 今、出力振り分け見直してる。

 姿勢制御ユニット側のバイパスを一度噛ませるから、三十秒だけ出力落ちる。

 その間、頼むね』

 

 サツキの声は少し息が上がっていた。

 だが、言葉ははっきりしている。

 彼女はふらついていても、仕事はぶれない。

 

「リュウジ、三十秒やって」

 

 チャコが言う。

 

「ああ、分かった」

 

 リュウジは推力を落とし、牽引テンションを微細に緩める。

 シャトルが小さく揺れる。

 その揺れがロープに伝わり、ネフェリスの背を引っ張る。

 

 “揺れに合わせて揺れを殺す”。

 今までも何度もやった制御だ。

 彼の身体は、まだ覚えている。

 

 カウントのように、三十秒が長く伸びた。

 

 ――その間に何かが来たら、終わる。

 

 宇宙は、そういう場所だ。

 静かなようで、常に牙を隠している。

 

 だが、何も来ない。

 

 そして――

 

『戻った!

 姿勢制御ユニット、バイパス通ったよ。

 出力、安定に入った。

 重力制御の補助も調整済み』

 

 サツキの声が、少し誇らしげに響いた。

 

「……よし」

 

 チャコが息を吐く。

 計器の数字が、じわじわと持ち直すのが見えた。

 

 リュウジはわずかに首を動かし、背後の空間に向けて言う。

 

「助かった。

 サツキ、無理するなよ」

 

『無理してないよ。

 いま、ちょうど“楽しいところ”だから』

 

 サツキの返しに、チャコが吹き出す。

 

「ほんま、師匠譲りやな」

 

 その言葉がどこか温かく、しかし同時に、亡くなったポルトの影も連れてくる。

 リュウジは胸の奥で一瞬、重いものを噛みしめたが、表には出さなかった。

 

 マリの方からも、静かな声が上がる。

 

「中継ベイ、復旧できる。

 ……通信帯域を絞れば、ノイズの中でも“声の芯”は拾える」

 

「やれるか?」

 

 リュウジが聞くと、マリは端末から目を離さずに答えた。

 

「やってみる。

 ……いや、やってみせる」

 

 その“やってみせる”の一言に、彼女の覚悟が詰まっていた。

 

 チャコが少し笑いながら言う。

 

「休んでた分を返すとか、みんな格好つけすぎやわ。

 ほなウチも返したるで、まだまだネフェリス支えたる」

 

「頼んだ」

 

 リュウジは短く返す。

 その声が、ほんの少しだけ明るい。

 

 操縦室の空気が変わっていく。

 さっきまで、リュウジとチャコだけで背負っていた重みが、仲間に分散される。

 一人が倒れても、今度は他が支える。

 その“連携の形”が、ようやくネフェリスの内部に戻ってきた。

 

 エリンの寝息だけが、変わらず穏やかに続いていた。

 彼女は無自覚なまま、船内に“帰る場所の温度”を置いているようだった。

 

 リュウジは前方の闇を見つめながら、心の中で小さく呟いた。

 

 ――帰る。

 今度こそ、みんなで。

 

 ネフェリスは、かすかな振動を抱えながらも、確かに前へ進む。

 牽引ロープの先で、シャトルが静かについてくる。

 その背後の宇宙は相変わらず無言だが、船内にはもう、孤独の気配はなかった。

 

ーーーー

 

背後の通路から足音が響いた。

 控えめでありながら急ぐ速度。

 チャコが振り返るより早く、二つの影が操縦室に滑り込んだ。

 

「チャコ、リュウジ!」

 サツキの声。まだ掠れているが、芯が戻っている。赤茶の髪は乱れ、宇宙服の胸元は汗で濃くなっていた。

「重力制御ユニットも姿勢制御ユニットも、かなり酷いわ。バイパス組んだけど……いつまで持つかは分からない。正直、綱渡り」

 

 続けてマリが息を整えながら言う。

「中継ベイも同じだ。ユニットがあちこち故障してる。完全な通信は期待しない方がいい。でも……“使えなくはない”状態までは戻した」

 

 リュウジは二人の顔を順に見た。重い瞼の下の右目だけが、確かな熱を宿している。

「十分だ」

 

 短い言葉だったが、サツキの肩から力が少し抜けた。

 マリも同じように小さく息を吐く。

 それは“命令が通った”という安心ではない。“自分の仕事が、誰かの生還につながった”という安堵だった。

 

「せや、二人のおかげで希望が見えたで」

 チャコがにかっと笑う。

「引き続き頼むで。ウチはシステム側、サツキは機械側、マリは中継ベイと通信や。三人おれば、まだやれる」

 

「もちろん」

 サツキが頷いた。

「揺れが来る前に、出力の落ち方をまた測っておく。もし再起動のタイミングが必要なら、すぐ言うね」

 

「私は中継ベイの最終調整と、管制へのノイズ整理を続ける」

 マリの声は淡々としているが、目だけは鋭かった。

「牽引の振動が通信線に載ってる。今のうちに“聞き分けられるノイズ”に変えとく」

 

「頼もしくなったわね」

 背後から、ふっと笑う声がした。

 

 振り返ると、エリンが後方のシートに腰を降ろしたまま、薄く微笑んでいた。

 身体は、まだ痛みを押し込めたように硬い。右肋骨のあたりをそっとかばいながら、しかし目はいつもの通り、場の全体を見ていた。

 

「エリン、起きてて大丈夫かいな」

 チャコが口を尖らせる。

「まだ休んどかなアカンやろ」

 

「大丈夫よ、チャコ」

 エリンはさらっと言った。

「ずっと寝てる方が身体が固まるし、それに……目が覚めたら、みんなが頑張ってる声がしてね。黙って寝ていられるわけがないじゃない」

 

 サツキが慌てて一歩寄りかける。

「エリンさん、無理しないでくださいね……」

 

「心配してくれてありがとう、サツキ」

 エリンは軽く手を振って止めた。

「でも、私は“動ける範囲で動く”のが仕事。ここから先、あなたたちの手が止まらないように支える。それだけ」

 

 その言い方には、誇張も演技もなかった。

 “頼るな”でも“頑張れ”でもない。

 ただ、“私が支えるから、やるべきことに集中して”という、静かな断定。

 

 操縦席のリュウジが、少しだけ眉を動かした。

「エリンさん、ゆっくり休んでいてください。今は――」

 

「はいはい、分かってる」

 エリンは笑いながら肩をすくめた。

「でもね、リュウジ。いま“休むべき人”が休めないときは、“休める環境を作る人”が動くしかないの。……だから、夕食作ってくるわ」

 

「夕食?」

 サツキが目を丸くする。

「え、今この状況で……?」

 

「腹が減ってはなんとやらって言うでしょ」

 エリンは冗談めかして言い、ひょいっと親指を立てた。

「それに、味気ない栄養バーとゼリーなんて、美味しくないでしょ」

 

「あんまり電力使うと――」

 マリがいつもの調子で口を差し挟むが、途中でエリンに視線を合わせて、ほんの少しだけ語尾が柔らかくなる。

「エリンさん、今は電力が本当に――」

 

「大丈夫」

 エリンは言い切った。

「蓄電池、持ってきてあるから。あと、IHじゃなくて低出力の加熱ユニットでいく。船の電力を食わない方法、ちゃんと考えてる」

 

「そないなもんまで持ち込んでたんか……」

 チャコが呆れ半分、感心半分で頭を振る。

「ほんま、どこまで用意周到やねん」

 

「職業病よ」

 エリンが笑う。

「“万が一のために、もう一歩を用意する”。それが私の癖。……さ、邪魔になる前に消えるね」

 

 そう言って、エリンは立ち上がり、操縦室を出ていった。

 足取りは決して軽くない。痛みを隠しながら、でも歩幅もリズムも崩さない。

 その背中は、戦場の後方で淡々と弾薬を運ぶ兵站みたいに、静かで、頼もしかった。

 

 扉が閉まると、操縦室に残った緊張が“すうっ”と一段、薄くなるのが分かった。

 空気はまだ硬い。危険も変わらない。

 それでも、“同じ危険を、みんなで抱えている”という実感が、胸の奥に灯る。

 

「……エリンさん、すごいな」

 サツキがぽつりと言った。

 女の子らしい声のまま、でも目には尊敬が滲んでいる。

「痛いはずなのに、場の空気を読むのが早いし……私、見習わなきゃ」

 

「エリンさんは“空気を読む”ってより、“空気を整える”人だ」

 マリが淡々と返す。

「読み取った上で、必要な方向に流す。……あの人がいると、作業のテンポが乱れない」

 

「せやな」

 チャコが頷く。

「ウチら、さっきまで“落としたら終わり”の空気でガチガチやったやろ? せやけど、エリンが“ごはん作る”って言うただけで、なんか呼吸できるようになったで」

 

 リュウジは返事をしなかった。

 だが、操縦桿を握る左手の指が、わずかに力を抜いた。

 それだけで十分だった。

 

 その後もネフェリスは、ゆっくり、慎重に前へ進んだ。

 サツキは後部のユニット室へ戻り、断続的にバイパスの温度と負荷を確認する。

 マリは通信スペースへ移り、残る中継ベイの調整と、管制へ送る信号の整理を続けた。

 チャコは副操縦席で、システムの死にかけた部分を自分の出力で繋ぎ止め、船を持たせる”ための最低限、整えている。

 

 そして一時間ほど経ったころ。

 操縦室の扉が開き、香りが滑り込む。

 

 焼けたパンの匂い。

 温めたバターの甘い気配。

 それに、野菜とハムの塩気が混ざった、――“生きている食事”の匂い。

 

 エリンがトレーを両手で抱えて入ってきた。

 紙コップに入った温かい飲み物が二つ、そして簡単なサンドウィッチが人数分。

 そのトレーを、痛みをこらえるように少しだけ歪んだ肩で、しかし揺らさず運んでくる。

 

「はい、配給」

 エリンは呼び捨てで淡々と告げる。

「サツキ、まずはあなた。汗かいてたでしょ。塩分多め。

 マリ、紅茶。香り強いブレンドで淹れたよ。

 チャコは……はいはい、極選は後。まず水分補給ね」

 

「え、ウチの優先順位、低ない?」

 チャコが不満そうに言うと、エリンはわざとらしくため息をついた。

 

「低い。だって、あなたは口を動かしてる限り生きてるから」

 

「なんやそれ!」

 操縦室に小さな笑いが起きた。

 

 エリンは最後に、リュウジの横へ寄る。

 彼にだけは自然に敬語を使う声が落ちた。

「リュウジ、コーヒー。熱すぎない温度にしてある。片手で持てるように、蓋もつけた」

 

「……ありがとうございます、エリンさん」

 リュウジは短く礼を言って受け取る。

 その一言が、どんな応援よりも“今ここにいる”確かな証だった。

 

 エリンはそのまま、操縦室の隅に腰を下ろした。

 そして笑った。

「さーて、今日ぐらいは豪華にしましょうか。……って言っても、パン焼いて野菜挟んだだけだけどね」

 

「豪華です!」

 サツキが素直に声を弾ませる。

「……涙出そう」

 

「泣くのは帰ってから」

 エリンが軽く指を振る。

「いまは食べて、頭を動かして、持たせる。泣く余裕を“あと”に残すためにね」

 

 その言葉に、誰も口答えできなかった。

 胸の中に固まっていたものが、温かい飲み物と食事の匂いで少しずつ溶けていく。

 

 操縦室の窓――ナノマシンの薄膜の向こうで、宇宙は相変わらず冷たい。

 牽引ロープの先には、壊れたシャトルと、そこに横たわる仲間たち。

 ユニットは綱渡りのまま、帰還路はまだ遠い。

 

 それでも。

 紙コップの湯気が立つだけで、人は少し前を向ける。

 ひと口の温かさが、“ここから先も生き延びる”という選択に、重みを与えてくれる。

 

「……よし」

 リュウジが小さく呟き、左手で操縦桿をわずかに整えた。

「全員、最後まで持たせるぞ」

 

「了解」

 サツキが微笑む。

 

「了解だ」

 マリが頷く。

 

「任せとき!」

 チャコが拳を握る。

 

 エリンはトレーを片付けながら、軽やかに目を細めた。

「うん。生きて帰ろう。――ラスペランツァらしくね」

 

 ネフェリスは、再び静かに星の闇へ滑っていく。

 その背中には、仲間の命と、まだ消えていない希望が、確かに繋がっていた。

 

ーーーー

 

リュウジたちが消失したと聞かされてから、二日が経った。

 

 ソリア学園の夕暮れは、妙に静かだった。授業の終わりを告げるチャイムはいつもと同じ音なのに、廊下を満たす気配が薄い。誰もが“いつもの雑談”の入り口に立ちながら、そこへ踏み込む決心を失っているようだった。

 

 放課後、メノリが無言で教室から出る。

 

 自然と後ろに、ハワード、ベル、シンゴ、カオルが並んだ。

 この二日間、皆が同じことを考えていた。

 誰か一人だけに背負わせてはいけない。

 それでも、どうしたらいいか分からない。

 だから、メノリが先に歩き出した瞬間、全員が何も言わずにその背中に続いた。

 

 コロニーの通りは、白い人工光に濡れていた。

 遠くに見えるドーム天井の外側は、夕闇のように黒い。

 その黒さに飲まれないように、街の明かりが妙に明るく見える。

 

 誰も余計な話をしなかった。

 足音だけが連なっていく。

 ハワードは何度か口を開きかけたが、そのたびに飲み込む。

 ベルは歩幅を合わせて歩く。

 シンゴは、手の中で無意識にペンを回していた。

 カオルは――目の奥がずっと硬いまま、前を見据え続けていた。

 

 ルナの家の前に着いたとき、メノリが先にインターホンを押した。

 返事はすぐにあったが、声の主はルナではない。

 少し上ずった、気遣いの混じる女性の声。

 

「どうぞ、入って。ルナは……少し休んでるの」

 

 シャアラが扉を開け、リビングへ導いた。

 その仕草があまりに慣れていて、胸がきゅっと縮む。

 この二日、シャアラとメノリは何度もここへ来て、ルナのそばにいた。

 

 リビングは、きれいに片付いていた。

 机の上に積まれていた本も、食器も、いつも通りの位置に整えられている。

 “整っている”ということが、逆に不安を煽った。

 何も乱れないように、乱れないようにと、必死に生活の形を保っているように見えたからだ。

 

「ルナは寝てるんだな」

 ハワードが小さく言った。声が普段より低い。

 

「うん」

 シャアラは頷いて、そっと二階――ルナの部屋の方へ視線を向けた。

「さっき、やっと眠ったところ。起きてる時間は……本当に、頑張ってたの」

 

 そこへ、メノリが椅子を引かずに立ったまま、短く尋ねた。

「ルナの様子はどうだ」

 

 シャアラは唇を噛み、少しだけ言葉を探す。

 それから、出来るだけ落ち着いた声で答えた。

 

「元気に見せてるけど……時折、目が虚ろになる時があるの。

 呼んでるのに聞こえてないみたいに、遠いところを見てることがある。

 きっと、まだ無理してると思う」

 

 その一言が、部屋の温度を一段落とした。

 ベルが拳をぎゅっと握りしめる音がした。

 シンゴは俯いたまま、ノートの角を指でぐしゃりと折る。

 ハワードの喉が、ひゅっと鳴った。

 

「……だよな」

 ハワードが、噛みしめるように言った。

「そりゃ、そうだよな。

 だって、リュウジもチャコも……」

 

 続けようとした声が、途中で途切れる。

 “いないかもしれない”という現実を、口に出すのが怖かった。

 

 カオルが、ゆっくりと息を吐いた。

 その吐息は、怒りにも悲しみにも似ている。

「ルナだけじゃない。俺たちも……無理してる」

 

 その声に、メノリが視線を動かした。

 少しだけ柔らかい調子で言う。

「分かっている。だから、ここに来た」

 

 彼女は一歩前に出る。

 いつもなら生徒会長の号令みたいに鋭く響くはずの声が、いまは静かに、しかしはっきりと響いた。

 

「リュウジもチャコも、私たちの仲間だ。家族だ。

 失っていい存在ではない。

 だが、現実がどう転ぶか分からない以上、今ここにいる私たちが崩れたら終わりだろう」

 

 ルナの部屋は二階だ。

 そこにルナがいる。

 泣き声も、寝息も聞こえない。

 “無音”が、かえって彼女の痛みを想像させた。

 

「ルナは強い。それは誰より俺たちが知ってる」

 ベルがぽつりと口を開く。

 穏やかな声なのに、腹の底から繋がる重みがあった。

「でも、強いってことは“全部一人で抱える”って意味じゃない。

 俺たちがいるのに、抱えさせたら……それは俺たちの弱さだ」

 

「……ベルの言う通りだ」

 シンゴが目を上げる。

 涙は出ていないが、目が赤かった。

「ルナは“皆で生き抜く”ってずっと言ってきた。

 だから、今度は僕たちが“皆で支える番”だと思う」

 

 ハワードが、急にソファにどさっと座り込んだ。

 背もたれに深くもたれても、肩は揺れている。

「……チャコさ」

 唐突に名前が出て、空気がまたきゅっと固くなる。

「俺、あいつにさ、何回もムカついたし、口喧嘩もしたし、勝手にいじられたし……

 でも、あいつがいないって考えたら、なんか……胸が変なんだよ」

 

「変なんじゃない。普通だ」

 メノリが即答した。

 ハワードにだけは敬語を使わず、まっすぐ言い切る。

「お前はいつだって、言葉より先に気持ちが出る。

 それを“変”なんて言うな」

 

「……うるさいな」

 ハワードが鼻を鳴らしたが、どこか救われたみたいに口元が歪んでいた。

 

 カオルは、しばらく黙っていた。

 怒りも悲しみも、全部飲み込んで喉の奥に沈めたまま、ようやく言う。

 

「リュウジは……必ず戻る」

 それは“願い”じゃない。

 信頼しているリュウジを見てきた者の、固い確信だった。

「俺は、あいつの顔を知ってる。

 帰れない状況でも帰ろうとする顔を、何度も、嫌ってほど見てきた。

 だから、戻る」

 

 言い終わったカオルの目は、どこか遠い。

 そこに見えているのは宇宙の闇か、操縦席の血か、仲間の背中か。

 誰にも分からない。

 

 シャアラが、そっとテーブルに手を置いた。

 自分の指先が震えているのを止めるためのように。

「……ルナ、今は“戻るって信じる話”を聞くのも、きっと苦しいと思うの。

 信じたいのに、怖い。

 だから、私たちは……“信じろ”って押しつけるんじゃなくて、

 “ここにいる”って伝え続けるのが大事なんだと思う」

 

 その言葉に、全員が黙って頷いた。

 “信じる”は、時に重い。

 だが、“一緒にいる”は、言葉より先に心を支える。

 

 メノリが小さく唇を引き結ぶ。

「そうだな。

 私たちは、今ルナに“頑張れ"と言いに来たのではない」

 

 そして彼女は、この家の主が眠る二階へ向けて、少しだけ声の高さを落とした。

「ルナは、私たちのリーダーだ。

 だがリーダーは、休めるときに休むべきだろう。

 休ませるのは私たちの役目だ」

 

 静寂が降りた。

 空調の低い唸りと、窓の外を行くメンテナンスカーの遠い音だけが聞こえる。

 家の中に、六人分の“同じ痛み”が折り重なる。

 

 誰も泣かなかった。

 泣いたら、ルナの部屋の奥まで届いてしまいそうで、皆、息を殺した。

 代わりに、息を合わせた。

 ここにいるという事実を、同じ呼吸で確かめ合うみたいに。

 

「とりあえず、俺、台所見てくる」

 ベルが立ち上がる。

「何か作れるものがあるかもしれないし、ルナが起きたとき、すぐ温かいもの出せるようにしとく」

 

「僕も手伝う」

 シンゴがすぐに続いた。

「栄養バランス、考える。」

 

「じゃ、私は……ここにいるね」

 シャアラが言って、ソファへ静かに座り直す。

「ルナが目を覚ましたら、最初に見えるのが“仲間がいるリビング”になるように」

 

 メノリは頷き、ハワードとカオルを見た。

「お前たちは、ここで待っていろ。

 カオル、ルナの家で気配を乱すなよ。

 ハワードは……変なことを言うなよ。今はな」

 

「分かってるよ」

 ハワードがむくれた顔を作りながらも、珍しく素直に頷く。

「僕だって、空気読むくらいできるって」

 

「……成長したな」

 メノリが小さく皮肉を返すが、声に棘はない。

 

 カオルは無言で、ルナの部屋の二階に視線を置いた。

 目に見えない盾を差し出すように。

 

 こうして、ルナの家の夜は静かに始まった。

 誰も答えを持っていない。

 未来の保証もない。

 それでも、

 “ここにいる”という事だけが、今できる一番の救いだった。

 

 扉の向こうのルナが、いつか目を覚まして、深い底から戻ってきたとき。

 このリビングの光が、彼女の足元を照らすように。

 彼らは、ただ黙って、同じ場所を守り続けた。

 

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