サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第6話

朝の光が差し込む中、大いなる木の下には昨日リュウジが取ってきた巨大ウツボカズラの捕虫器が転がっていた。人ひとりすっぽり入るほどのサイズに、皆が思わず息を呑む。

 

「これを……タンクにするんだよね」

ルナは捕虫器を見上げながら声を上げる。

 

「せやなぁ。中身は空っぽにしてあるから、あとは吊り下げて水を溜めるだけや」

チャコがちょこんと足を組みながら分析を口にする。

 

「でも、あんな大きなもの、どうやって吊るんだろう……」

シャアラが心配そうに声を漏らすと、ベルが胸を叩いた。

 

「任せろ! 重いもんを運ぶのは俺の役目だ」

 

「よし、それならロープを使って固定しよう。高さは……木の枝を利用できるな」

シンゴが枝ぶりを確認しながら計算を始める。

 

「みんな! 役割を決めるよ」

ルナが声を張ると、自然と視線が集まった。

「ベルとリュウジはタンクを持ち上げて。シンゴとチャコとメノリは水の流れを調整する仕組みを考えてほしい。」

 

「じゃあ、僕は応援担当ってことで!」

ハワードが胸を張る。

 

「応援じゃなくて、手を動かすの!」

ルナが思わず声を張ると、皆の笑いがこぼれた。

 

 

作業は次第に本格化した。

 

ベルとリュウジが協力して、巨大な捕虫器をロープで引き上げる。

「うっ……重いな……!」

「手を緩めるな。まだ上だ」

リュウジの短い声が飛ぶ。ベルは額に汗を浮かべながらも、必死に踏ん張った。

 

一方シンゴは、チャコと一緒にバルブ代わりの仕組みを試作していた。

「ほら、これなら下を引っ張ると水が落ちてくる」

「せやけど強く引きすぎたら全部出てまうやろ。もうちょい調整せなあかん」

 

「……これでどうだ」

横からカオルが無言で枝を削り、簡易のストッパーを差し出す。

「おおっ、ピッタリだ!」

シンゴが目を輝かせた。

 

「すごい……」

シャアラが感嘆の声を漏らすと、カオルは目をそらし「大したことじゃない」とだけ呟いた。

 

 

やがて捕虫器タンクは枝に固定され、下には石を敷き詰めた小さな足場も作られた。

「やった……完成だ!」

ルナの声に、みんなの顔が明るくなる。

 

「シャワーか……夢みたいだな」

ベルがしみじみと呟いた。

 

「フフ、でも順番を決めないと。誰から浴びる?」

メノリが腕を組むと、ハワードが勢いよく手を挙げる。

 

「もちろん僕だろ! 文明社会の象徴、最初に浴びる栄誉は僕が――」

 

「待てやコラ、力仕事せんと応援しかしてへん奴が先やと?!」

チャコが飛び跳ねるように抗議した。

 

「ぼ、僕は応援という精神的労働を――」

 

「はいはい、ケンカはやめて」

ルナが割って入り、皆が笑い合った。

 

大いなる木の下には、笑い声と水のきらめきが広がっていた。

 

結局順番はくじ引きで引き、順番が決まった。

次々にシャワーを浴びた皆んなの嬉しそうな表情にルナも満足であった。

そして全員がシャワーを浴び終えると。

「ほら、ルナ。あんたも浴びてきぃな」

チャコが尻尾を揺らしながら声をかけてきた。

 

「え、私はいいよ。みんなが使えればそれで――」

そう言いかけたとき、シャアラが首を振った。

「ダメ。ルナだって疲れてるんだから……。最後まで頑張ってくれたの、みんな知ってるよ」

 

仲間たちの視線が自然と集まる。

ベルは「うん、ルナが一番最初でも良かったのに」

シンゴは「タンクの位置決めたの、ルナでしょ?」

メノリでさえ「リーダーが遠慮するのは却って不自然だ」と頷いた。

 

「……そう、かな」

ルナは少し照れくさそうに笑うと、父の形見のリュックをそっと脇に置き、捕虫器の下に立った。

 

シンゴがロープを引く。

ドバァッと冷たい水が一気に降り注ぎ、ルナは思わず声を上げた。

「きゃっ……つめたいっ!」

しかし次の瞬間、その冷たさが火照った体を洗い流し、心まで澄んでいくのを感じた。

 

目を閉じると、流れる水の音に父の声が重なる。

――生きろ。

あの日、最後に耳にした言葉。

それを胸に刻んで、ここまで来た。

 

水滴が頬を伝い落ちると、ルナはふっと笑った。

「……ありがとう、お父さん。私、ちゃんと生きてるよ」

 

仲間たちが拍手を送る。

ハワードが「ブラボー! リーダーの凱旋シャワーだ!」と大げさに叫び、みんなが笑った。

 

ルナは髪をかき上げながら振り返った。

「さあ、これでまた少し文明に近づいたね。次は、もっと快適にする方法を考えよう!」

 

その笑顔に、カオルは静かに目を細め、リュウジはわずかに口元をゆるめた。

冷たい水が降り注ぐ大いなる木の下、仲間たちの絆はまたひとつ強く結ばれていた。

 

◇◇◇

 

シャワーを浴び終えたルナは、火のそばに腰を下ろした。冷えた体をじんわりと包み込むように、焚き火の熱が心地よい。タオルで髪を拭いていると、横でシンゴが得意げに笑った。

 

「ねっ、完璧だったでしょ? あのロープの仕組み、僕が考えたんだ!」

「ふふ、ほんとにありがとう。シンゴがいなかったら、とても動かなかったよ」

ルナがそう言うと、シンゴは少し照れくさそうに肩をすくめた。

 

「……まあ、僕って天才だからね」

強がって言い切った後で、みんなの笑いが起こる。

 

ハワードが枝を振り回しながら、芝居がかった声で言った。

「これは文明の復活の第一歩だ! 次はスパリゾートでも建てるかい?」

「はぁ? そんな暇があったら畑を耕すべきだろう」

すかさずメノリが冷たく突っ込む。だが、その表情は以前のように険しくはなく、口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 

「でも……いい匂いがするお風呂に入れたら素敵よね」

シャアラが膝を抱えて夢見るように言うと、ベルがうなずいた。

「木の実を絞って油にすれば、石けんみたいなものも作れるかもしれないな」

「ほぉ、ベル。やるじゃないか。ちょっと見直したぞ」

ハワードが肩を叩くと、ベルは顔を赤くしながら「べ、別に……」と目を逸らした。

 

その様子を見て、チャコは尻尾をぶんぶん振りながら笑う。

「なんやなんや、どんどん発展していっとるやんか! ウチ、ワクワクしてきたで!」

 

焚き火の炎が揺れる中、ルナは一人ひとりの顔を見渡した。

――この仲間となら、もっとやっていける。もっと前に進める。

 

ふっと、隣に座っていたカオルが小さく呟いた。

「……悪くないな、こういう時間も」

普段滅多に言葉を漏らさない彼の一言に、ルナの胸は温かさで満たされた。

 

「うん。これからも、みんなで作っていこう。私たちの生活を」

ルナの声に、焚き火の炎が応えるようにぱちりと弾けた。

 

◇◇◇

 

朝の木漏れ日が、大いなる木の葉の間から地面に差し込む。

ルナはリーダーとして、仲間たちを集めて今日の作業内容を伝える。

 

「今日の作業は、大いなる木の周囲に柵を作ること。大トカゲが近づかないようにね。材料は木の枝と太い蔓を使おう」

 

メノリが手早く地面の状態を確認し、規律正しく指示を出す。

「まず、支柱を立てる位置を決める。間隔はこのくらいでいい」

小さなノートに鉛筆で印をつけ、細かく計算する姿は、生徒会長らしい厳格さが漂う。

 

ハワードは枝を持ち上げ、ぶつぶつ言いながらも手伝う。

「僕、これ結構重いけど……うまく立てられるかな」

ベルは大柄な体で力強く支柱を押さえ、ハワードの力を補助する。

「落ち着いてやれば大丈夫だ」

 

チャコは枝と蔓をチェックしながら、分析を始める。

「この蔓の耐久度なら、あの大トカゲくらいなら問題ないやろ」

 

リュウジは黙って支柱を打ち込み、手慣れた手つきで蔓を絡めていく。

カオルも自分のペースで手を動かし、必要な部分だけを補強する。

 

作業は淡々と進むが、ルナは時折、仲間の進行状況を確認しながら声をかける。

「ここはもう少し強く巻き付けておいた方がいいね」

「そうだな」メノリも同意し、指示を少し変えて調整する。

 

支柱が地面にしっかり立ち、蔓が絡められると、柵は徐々に形を成していく。

小さな隙間も、ルナは見逃さない。

「ここ、トカゲが通れそうだね。もう一本支柱を追加しよう」

 

シンゴは工具を使って蔓を補強し、シャアラも傍で枝を手渡す。

「こうすると、より安定するわね」

ハワードは感心しながら、少し誇らしげに手を拭く。

「へえ、僕でも役に立ったな」

 

◇◇◇

 

数時間後、柵は完成する。

大トカゲが近づけないよう、木の周囲は強固な囲いで守られた。

ルナは最後に全体を見渡し、仲間に声をかける。

「これで大トカゲが中に入る事はないと思う。みんな、お疲れさま」

 

リュウジは黙って作業道具を片付け、カオルも静かに柵を確認する。

メノリは満足げにノートを閉じ、シャアラと笑顔を交わす。

ハワードはちょっと得意げに胸を張り、ベルも頷く。

チャコは分析結果をメモし、すぐに次の作業の準備に取りかかる。

 

ルナは柵を囲む仲間たちの顔を見渡し、心の中で小さく安堵した。

今日も、皆で力を合わせて無事に作業が終わった――そんな達成感が、木漏れ日の中でそっと胸に広がる。

 

◇◇◇

 

大いなる木の上に淡い朝靄が漂っていた。鳥のような鳴き声が遠くで響き、葉の隙間から差し込む光が少しずつ青白さを失いはじめる。拠点にしている寝床の上で、最初に目を覚ましたのはチャコだった。

 

「ルナ、朝やで」

 

 いつものように明るい調子で声をかける。だが返事はない。布にくるまったままのルナは、かすかに身じろぎしただけだった。

 

「……なんや、まだ眠っとるんか。ほんまに、いつまで寝てんねん」

 

 冗談めかして顔を覗き込んだチャコは、次の瞬間、息をのんだ。ルナの顔は赤く火照り、眉間には苦悶の皺が寄っている。胸は荒く上下し、熱にうなされるような浅い呼吸を繰り返していた。

 

「……ルナ?」

 

 不安に駆られたチャコは、腕に装着しているセンサーを額に向ける。すぐに数値が表示され、それを見た彼女は思わず声を上げた。

 

「あかん! えらい熱や!」

 

 その声に反応して、近くで身支度をしていたシャアラとメノリが振り向く。二人とも驚きに目を見開いた。

 

「何度あるんだ?」

 メノリが落ち着いた声で尋ねる。

 

「……三十九度一分や」

 

「高いな……」

 

 メノリが険しい表情を見せたその時、外から足音が近づいてきた。

 いつまでも女性陣が降りてこないことを不思議に思ったリュウジだった。彼は寝床の中のルナを見て一瞬立ち止まると、目を細めて歩み寄った。

 「‥‥何かあったのか」

 「ルナに熱があるみたいなんだ」

 メノリが端的に答えた。

 

 ぐったりと横たわったルナは、ぼんやりと意識が戻ったのか、うつろな目で上体を起こそうとした。しかし力が入らず、ふらつく。

 

「……だいじょ……ぶ」

 

 か細い声を振り絞る彼女を見て、リュウジは短く息を吐いた。

 

「前に無茶をするなと言ったのは誰だ」

 

 その言葉に返す力もなく、ルナは力尽きたように再びベッドへ身を預けた。長いまつ毛が震え、額には汗がにじんでいる。

 

 ――

 

 場面は変わり、大いなる木の根元。朝食の準備を進めながら、皆が落ち着かない様子で集まっていた。木漏れ日の下に並べられた食器に、今日も朝の果物や干した木の実が置かれている。

 

「風邪なのか?」

 カオルが首をかしげて尋ねる。

 

「今、チャコが調べてるわ」

 シャアラが短く答える。その表情は曇っていた。

 

「疲れが溜まったのかもしれない」

 ベルが心配そうに言葉を添える。

 

 だが隣で果物ををかじりながら、ハワードが呑気に笑った。

「じゃあ今日は休みにしようぜ。久しぶりにさ」

 

 その言葉に、シャアラの眉がきつく吊り上がる。

「こんなときに何を言ってるの! ルナは倒れてるのよ!」

 

「だからこそ休みだって言ってんだろ。お前までピリピリすんなよ」

 ハワードは悪びれもせず肩をすくめる。

 

 二人の言い合いが熱を帯びかけたところで、メノリが間に入った。

「よさないか。今は言い争っている場合じゃない」

 

 その時、チャコが枝を下りて現れた。彼女の顔は真剣で、皆の視線が自然と集まった。

 

「原因はようわからん。やけどどうにか熱を下げてやらんと、ほんま苦しそうや」

 

「熱を下げる薬草があればいいんだが」

 メノリが腕を組んで思案する。

 

 チャコはデータ端末を開き、指先で画面を操作しながら答えた。

「……うちのデータに、葛の根に解熱効果があるとあるなぁ。木にかみついとるマメ科の植物や」

 

「それで探せるのか?」

 メノリが食い気味に問い返す。

 

「映像データがあるさかい、葛はウチが探すわ。リュウジもついてきてくれるか?」

 

 リュウジは黙ったまま頷いた。その瞳は落ち着いていたが、どこか鋭い決意を宿していた。

 

「薬がないときは、ヨモギを煎じて飲んだことがある」

 ベルが思い出すように口にした。

 

「いろんなビタミンも含まれとるし、解熱効果もあるみたいや。胃の弱い人には向かんけど、ルナなら大丈夫やろ」

 チャコも頷いて補足する。

 

「でもヨモギなんて見たことないぜ」

 ハワードが怪訝な顔でつぶやいた。

 

「俺が探しに行く」

 ベルが真っ直ぐに答えると、すぐにシンゴが立ち上がった。

「僕も付いていくよ」

 

「それと精がつく食べ物がほしいねん。果物とか卵とか」

 チャコが言葉を続ける。

 

「卵は俺が採ってくる」

 カオルが立ち上がる。

 

「私も行こう」

 メノリも同じく腰を上げた。

 

「仕方ない、僕も果物を探してきてやるよ」

 不承不承といった様子で、ハワードも立ち上がった。

 

 そこでメノリが皆を見渡し、短く言い切った。

「ではルナの看病はシャアラに任せて、手分けして探しに行こう」

 

 厚い雲が空の端から迫ってきていた。森を覆う緑の影が濃くなり、湿った風が枝葉を揺らす。仲間たちはそれぞれの役割を胸に、足早に森の奥へと歩みを進めていった。

 

◇◇◇

 

空を覆っていた厚い雲は、彼らが森へ足を踏み入れてすぐに大粒の雨を降らせはじめた。葉を打つ水音が耳を塞ぐほどに響き渡り、視界は白い雨幕にかすんでいく。リュウジとチャコは近くの大木の根元に身を寄せ、しばし雨宿りをしたが、待てども雨脚が弱まる気配はなかった。

 

「……行くぞ」

 短くそう言ってリュウジは木陰から一歩踏み出した。

 

「ええのか? ビショビショになるで?」

 チャコが不安げに問いかける。

 

「大丈夫だ」

 それだけを返すと、彼は容赦なく降り注ぐ雨に身をさらした。

 

 チャコは仕方なく小さな体を揺らしながらついていく。雨に濡れた丘はぬかるみ、歩を進めるたびに泥が靴にまとわりついた。リュウジは一度振り返り、鋭い声で注意する。

 

「滑るから気をつけろ」

 

「分かっとる!」

 そう返した直後、チャコの足がズルリと泥に取られた。

 

「わっ!」

 

 とっさにリュウジが腕を伸ばし、その小さな体を支えた。

「……まったく、お前らは無茶をすることが似ているんだな」

 

 皮肉めいた言葉を吐きつつ、リュウジはチャコを肩に担ぎ上げる。そのままずんずんと泥道を進み出した。

 

「ちょ、ちょっと! ウチは荷物ちゃうで!」

「歩けないなら運ぶしかない」

「はぁ……ホンマ、頑固者やな」

 

 チャコは肩の上で小さくため息をついたが、どこか安心もしていた。

 

 しばらく無言で歩いた後、チャコが不意に問いかけた。

「なぁ、リュウジ。ルナのこと、どう思っとるんや?」

 

 唐突な質問にリュウジは一瞬眉を寄せたが、すぐに冷静に答える。

「……強がっているようにしか見えないな」

 

「おお~、よぉ見とるなぁ」

 チャコは感心したように声を上げる。

 

 そしてぽつりぽつりと、ルナの過去を語り出した。

「昔のルナは、ほんま泣き虫やった。もう八年も前のことや。お母ちゃんが宇宙病で亡くなって……毎日毎日、泣きじゃくっとった」

 雨音に混じるその声は、どこか懐かしさと寂しさが滲んでいた。

 

「それから二年経って、今度はお父ちゃんまで……。それからは、ウチと二人で必死に生きてきたんや」

 

「……だからあいつは、誰よりも生きるという力が強いのか」

 リュウジの声が低く響く。

 

「せや。ルナはな、辛いときはいつでも空見上げんねん。雨の日もあるけど、心はいつも青空やってな」

 チャコは雨に濡れた空を見上げ、にこりと笑った。

 

◇◇◇

 

 やがて二人の前に一本の大木が現れた。その根元には紫色の小さな花が群れ咲いている。

 

「リュウジ! この植物、ウチのデータに出とるのとよう似とるで!」

 チャコが弾んだ声を上げた。

 

 リュウジは花を見下ろし、すぐに視線を地面へ落とす。

「根っこを掘ればいいんだな」

 

 しかしその根は崖際に張り出していた。リュウジは大木の幹に左手をかけ、右手で根に伸ばした。

 

「気ぃつけるんやで!」

 チャコの声援もむなしく、濡れた手が幹から滑り落ちる。

 

 リュウジの体が崖下へと滑り落ちていった。

 

「リュウジ!! 大丈夫かいな!」

 チャコの叫びが雨の音にかき消される。

 

 しかしすぐに下から淡々とした声が返ってきた。

「問題ない。帰るぞ」

 

 彼の右手にはしっかりと葛の根が握られていた。

 

「な、なんちゅう身体能力やねん……!」

 チャコは呆気にとられたように呟いたが、雨と泥で全身を汚したリュウジの姿を見て、思わず笑みを浮かべた。

 

「……リュウジも十分、無茶しとるやないか」

 

 リュウジはその言葉に反応もせず、ただ無言で崖をよじ登り、再び歩き出した。握り締めた葛の根を片手に、彼の背はいつもよりわずかに重たそうに見えた。

 

◇◇◇

 

森を駆け抜けて帰ってきたリュウジとチャコの姿が「みんなの家」に現れた時、ちょうど入口で待っていたメノリがすぐに駆け寄ってきた。二人の腕には大きな束になった葛の根が抱えられており、泥にまみれ、ずっしりと水気を含んだそれが今の拠点にとってどれほど貴重なものかを物語っていた。しかしそれ以上にメノリの目を引いたのは、泥と擦り傷でひどく汚れたリュウジの姿だった。髪は雨と汗で重く垂れ下がり、服は泥の斑点に覆われている。頬や腕に小さな切り傷が散りばめられていて、息遣いもまだ荒い。

 

「どうしたんだリュウジ⁉ そんなに泥だらけで」

 思わずメノリは声を上げた。驚きと同時に、心配の色が隠しきれない。

 

 リュウジが口を開く前に、横にいたチャコが胸を張って割って入った。

「戦士の勲章やねん」

 

 メノリは一瞬、ぽかんとした顔でチャコを見つめる。「勲章?」と心の中で繰り返し、意味が掴めずに眉を寄せる。だが、リュウジがわざと泥まみれになったはずもない。その表情と疲れ切った目を見れば、誰のためにそうなったのかは想像がつく。――ルナのためだ。

 

 メノリは静かに息を整え、小さく笑みを浮かべた。

「……もうみんな戻っている。早く体を乾かしたほうがいい」

 

「ウチは大丈夫や」チャコは葛の根を抱え直して答える。雨と泥で全身が冷えきっているのに、声だけは元気だった。

 

 リュウジはちらと仲間たちの集まる方を見てから、低く短く告げた。

「俺は洗濯場で服を洗ってくる。早く飲ませてやれ」

 

 それだけを残し、そそくさと奥へ足を運ぶ。歩き方はやや重いが、迷いのない背中だった。

 

◇◇◇

 

 チャコは黙ってその後ろ姿を見送り、抱えていた葛の根を丁寧に布に包み直すと、薬草を煮出した容器と一緒にルナのもとへと向かった。

 

 「みんなの家」の一角。女性陣用のスペースにあるベットの上、ルナは毛布にくるまれて横になっていた。顔色はまだ青白く、額には薄く汗が浮かんでいる。仲間たちが心配そうにその周りに集まっていた。

 

 チャコはそっと膝をつき、用意してきたものを並べる。葛の根をほぐして煎じたもの、苦みを和らげるために混ぜたヨモギの液体、小鍋で茹で上げた卵、森で採れた果実、そして水。

「これは薬や。食欲ないかもしれんけど……頑張って全部食べるんやで」

 

 その声に反応するように、ルナの睫毛がかすかに震えた。うっすらと瞳が開き、視線がぼんやりと集まっている仲間たちをなぞる。そして――そこにリュウジの姿がないことに気づいた。

 

 その探すような眼差しを読み取ったチャコは、柔らかく告げる。

「リュウジは洗濯場におる。葛の根を取るのに泥だらけになっとたからな」

 

 ルナはコクリと小さく頷く。ほんの一瞬、表情が安堵に緩んだのを見て、仲間たちの胸に温かいものが広がった。

 

 シャアラがそっと肩を貸し、ルナは上半身だけを起こす。体はまだ重く、指先にも力が入りづらいが、それでも仲間の支えに身を委ねながら口元を器へと近づける。チャコが差し出した葛の根とヨモギの煎じ薬を受け取り、ルナはゆっくりと唇を湿らせた。苦みと草の香りが舌に広がるが、それを嫌がるような仕草は見せず、少しずつ喉に流し込んでいく。仲間たちはただ静かに見守り、その小さな一口一口にほっと息を漏らした。

 

◇◇◇

 

そのまま深い眠りについたルナは、夜になる頃にはすっかり熱も下がり、頬に少し紅が差すほどに顔色も回復していた。呼吸も穏やかで、苦しげな唇の震えもない。

 その変化を見届けたチャコもシャアラもメノリも、胸の奥で張り詰めていたものが一気に緩んだように、思わず「よかった……」と小さく吐息を漏らした。三人の顔にようやく安堵の色が広がり、その瞬間、緊張の糸が切れたようにどっと疲れが押し寄せてきた。気づけば体がふわりと重くなり、まぶたは抗いがたい眠気に包まれた。三人はその場に寄り添うように身を横たえ、すぐに深い眠りへと落ちていった。

 

 夜が静かに過ぎ去り、やがて東の空が少しずつ青白く染まり始めた頃――。

 ルナはゆっくりと瞼を開けた。体を覆っていただるさはほとんど消えており、まだ完全とはいえないが、起き上がる力を取り戻していた。周囲を見渡すと、仲間たちが静かに眠り込んでいる。その寝顔を眺め、ルナは心の中で「ありがとう」と呟いた。

 起こしてはいけないと思い、そっと毛布をかけ直すと、身を起こして足音を忍ばせながら共通スペースへ向かった。

 

 そこには、予想通りリュウジの姿があった。灯りの落ちた薄暗がりの中、彼は一人で机に腰かけ、ぼんやりと窓の外を眺めている。その横顔には夜の間に積もった疲労が隠しきれないが、瞳はまだ醒めていた。

 

「……良くなったのか?」

 ルナに気づいたリュウジが、低く、けれど確かに安堵を含んだ声を投げかける。

 

「もう大丈夫」ルナは笑みを浮かべ、少し冗談めかして言葉を続けた。「でも、こんなに手厚く看病してもらえるなら……もうちょっと病気のままでいようかな」

 

 その冗談に、リュウジの口元がわずかに動いた。苦笑のようにも、安心した証のようにも見える表情だった。

「すぐに無茶をするからだ」

 

「ごめん、ごめん」ルナは両手をひらひらと振ってみせる。「って、まさかリュウジに言われる日が来るなんて」

 からかうように笑ったあと、ふと真面目な顔に戻り、小さな声で告げた。

「……ありがとう」

 

「ああ」

 短く、けれど確かに重みのある返事が返ってくる。

 

 ルナはその声を胸の奥で反芻した。その時、不意に思い出す。薬を飲むとき、リュウジの姿がそばになかったこと。代わりにチャコが笑って「葛の根を取るのに泥だらけになっとたからな」と言っていたこと。あの時は弱っていて深く考える余裕もなかったけれど――今こうしてリュウジと向き合うと、その言葉の意味が胸の奥にじんと沁みてきた。自分のために彼が体を張り、雨の中で泥にまみれた姿を想像するだけで、胸が熱くなる。言葉にはできないけれど、それは確かに嬉しい気持ちだった。

 

 しばし二人の間に沈黙が流れる。静寂に満ちた空間で、聞こえるのは風の気配と遠くの鳥の声だけ。

 

「……それだけを言いに起きてきたのか?」

 リュウジが不意に口を開いた。

 

「ちょっとだけ……日の出を見たいなって思って」ルナは恥ずかしそうに笑い、リュウジの横の椅子に腰を下ろす。

「日の出まで、隣で待ってていい?」

 

「好きにしろ」

 そっけなく返す声。しかし、その響きは拒絶ではなかった。

 

 それから二人は言葉を交わさなかった。けれどルナにとっては、それが一番居心地のいい時間だった。無理に会話をしなくてもいい。ただ隣に座り、同じ空を待つ――それだけで胸の奥が温かく満たされていく。

 

 窓の外の空は少しずつ朱を帯び始めていた。やがて光の筋が闇を切り裂き、二人の前に新しい一日が訪れようとしていた。ルナはその光景をリュウジの隣で迎えられることに、ひとしおの幸せを感じていた。

 

◇◇◇

 

東の空は、まだ淡い群青色に包まれていた。けれどその奥底から、じわじわと金色の光が染み出すように広がっていく。夜と朝の境目が少しずつ曖昧になり、冷たい空気の中にもどこか温もりの兆しが混じりはじめていた。

 

 ルナは息を呑んだ。胸の奥にひんやりとした空気が流れ込み、心臓の鼓動がわずかに速まる。夜のあいだ自分を包んでいた熱はもうない。けれど、その代わりに、別の熱――隣に座るリュウジの存在が、静かに彼女を温めていた。

 

 リュウジは腕を組んだまま、窓の外に視線を向けている。いつも通りの無表情、何を考えているのか読み取れない横顔。けれどルナには分かる。彼はただ冷たく座っているわけじゃない。この沈黙の中にも、自分を気遣う思いが確かにあるのだと。

 

「……綺麗だね」

 思わず漏れた声は、囁きのように小さかった。

 

 リュウジは答えなかった。だがほんの一瞬、視線を横に流し、ルナの方を見た。ルナは気づいていたが、あえて顔を向けなかった。目が合えば、胸の奥にある秘密の温もりが溢れてしまいそうだったから。

 

 空の端が赤く染まり、細い光の帯が雲を突き抜けて伸びていく。まるで遠い故郷の星からの贈り物のように、やさしく、そして力強く。

 

「……日の出って、こんなにゆっくりなんだね」

 ルナがぽつりと言葉を落とす。

「いつもは忙しくて、ちゃんと見たことなかったかも」

 

 リュウジは少しだけ首を傾け、短く答えた。

「……焦っても、太陽は急いでは昇らない」

 

 その言葉に、ルナは思わず笑みを浮かべた。いつもの冷たい調子に聞こえるけれど、その裏にある静かな真実が、なぜか心に響いた。

「そっか。……だから、私も少しは焦らなくていいのかな」

 

 リュウジは再び黙った。だがその沈黙は、どこか肯定のように感じられた。

 

 ルナは窓の向こうに目を凝らした。暗闇を切り裂くように、ついに太陽の輪郭が地平線の上に姿を現した。黄金の光が放たれると同時に、世界全体が息を吹き返すように明るくなっていく。濡れた葉に残っていた雨粒が一斉に光を反射し、宝石のように輝いた。

 

 その瞬間、ルナは胸の奥にこみ上げる感情を抑えられなかった。自分は生きている。仲間と共に、この星で生きている。そして――リュウジが、ここにいる。

 

「……ありがとね」

 もう一度、小さな声で呟いた。今度は誰にも聞かれなくてもいい。ただ自分の心の中で確かに伝えたかった。

 

 リュウジは顔を動かさなかったが、指先がほんの少しだけ揺れた。それが無意識の反応なのか、意図的なものなのかは分からない。けれどルナにとっては十分だった。

 

 二人の間に、言葉はなかった。けれど沈黙は重くない。むしろ、これ以上ないほど穏やかで、優しいものだった。

 

 やがて完全に昇った太陽が共通スペースに差し込み、二人の横顔を黄金色に染めた。ルナは目を細めながら、そっと心の中で呟いた。

――この朝を、ずっと忘れない。

 

黄金の光が部屋の中へ差し込み、静かな夜の余韻を押し流していく。冷えた空気が少しずつ和らぎ、鳥たちがどこからともなくさえずりはじめた。新しい一日の合図だった。

 

 ルナはその光を浴びながら、ぼんやりとリュウジの横顔を見ていた。彼はまだ窓の外に視線を向けたまま、微動だにしない。けれどその瞳には、確かに昇りゆく太陽の色が映り込んでいた。

 

 やがて、リュウジはゆっくりと腕を組んでいた手をほどいた。軽く肩を回すと、椅子をきしませながら立ち上がる。

「……そろそろ作業の準備をする」

 誰に聞かせるでもなく、ただ事実を告げるような声だった。

 

 ルナは慌てて彼を見上げた。

「もう行くの?」

 思わず問いかけたが、リュウジは振り返らなかった。ただ無言で歩き出し、背中だけを見せる。

 

 その背中は、やっぱり大きいと思った。誰よりも強くて、冷たく見えるのに――なぜか安心できる背中。昨日まで自分を苦しめていた熱の残滓が、すっと胸の奥から消えていく気がした。

 

 ルナは小さく息をつき、心の中でそっと呟いた。

――ありがとう。

 

 リュウジはその言葉を聞いたわけではない。けれど、不思議なことに彼の歩みは一瞬だけ緩んだように見えた。まるで、心のどこかで彼も同じ思いを感じ取ってくれたかのように。

 

 彼は何も言わず、そのまま朝の作業へ向かっていく。光に照らされた背中が、少しずつ遠ざかる。

 

 ルナは椅子に残ったぬくもりに手を触れながら、窓の外の太陽をもう一度見上げた。

――この朝を、新しい始まりにしよう。そう思えたのは、あの背中のおかげだ。

 

◇◇◇

 

リュウジの背中が朝の光の中に溶けていった後、ルナはしばらく椅子に腰を下ろしたまま、静かに深呼吸をした。胸の奥の重苦しさは消え、空気は澄みわたり、まるで昨日までの熱と苦しみが夢だったかのように思える。

 

 やがて、背後の寝床から小さな物音がした。布のこすれる気配に振り向くと、シャアラが寝返りを打ち、目をこすりながら上体を起こしていた。

「……あれ? ルナ……起きてるの?」

 まだ夢うつつの声に、ルナは柔らかく笑って頷いた。

「うん。もう熱も下がったから大丈夫」

 その言葉を聞いた瞬間、シャアラの瞳がぱっと明るくなる。

「ほんとに? よかったぁ……」

 胸をなでおろした彼女は、緊張の糸が切れたようにルナに抱きついてきた。

 

 続いて、奥で丸くなっていたチャコの目がぴくりと開く。

「……んあ? ルナ、動いとるやんか! おいおい、昨日はウチ、どんだけ心配した思とるねん!」

 寝ぼけ声で文句を言いながらも、チャコの表情は安心しきっている。

 

 その声に釣られるように、メノリも目を覚ました。髪を整えながら姿勢を正すと、まだ寝間着姿のままきりりとルナを見つめる。

「熱は……本当に下がったのか?」

「うん、平気」

「……そうか」

 メノリは短く答えたが、その目には確かな安堵が浮かんでいた。

 

 女性陣が賑やかに声を交わす間、男性陣の寝室から足音が近づいてきた。ベルだった。

「おはよう、ルナ! うん、顔色、よくなってるね」

 安堵した表情で呟いた。

 

 その後ろからは、欠伸をかみ殺しながらハワードが顔を出した。

「おいおい、病人が復活してるじゃないか。これで今日は作業免除なしってことだな?」

 軽口を叩くが、すぐにシャアラに「ハワード!」と睨まれて、肩をすくめて引き下がった。

 

 次に小柄なシンゴがひょこっと姿を現す。

「ルナ、ほんとに大丈夫? 昨日はすごく苦しそうだったから……」

「ありがとう、シンゴ。もう元気だよ」

 ルナの言葉を聞き、シンゴは安心したように笑った。

 

 最後にカオルが安心した表情で現れた。

 「もう大丈夫そうだな」

 「ええ、ありがとう」

 

 こうして一人、また一人と仲間たちが目を覚まし、部屋の中は一気に活気を帯びていった。昨夜まで漂っていた不安と緊張はすでになく、代わりに安堵と希望の空気が充満している。

 

 ルナはふと窓の外を見やった。リュウジの姿はもうない。けれど彼が先に立ち去った痕跡のように、朝日が眩しく大いなる木を照らしていた。

 

 ――今日もみんなで一緒に生きていける。

 その確信を胸に、ルナは仲間たちと共に新しい一日の始まりを迎えた。

 

◇◇◇

 

ルナの計らいで、この日も拠点ではいつも通りの作業が進められた。病み上がりとはいえ、彼女が元気を取り戻している姿は皆に安心感を与え、自然と一日の動きも滑らかになっていく。

 朝の食卓を囲み、簡素ながら温かい朝食を取ったあと、ベルが両手を膝につきながら真剣な面持ちで口を開いた。

 

「今日は……畑を作ろうと思うんだ」

 

 唐突な提案に一同は驚いたようにベルを見たが、すぐにその瞳に宿る切実な思いを察した。メノリが頷きながら答える。

 

「そうだな。毎日の食料探しだけでは先が不安だし、安定して確保できる手段を持っておくことは大事だ」

 

 ベルの提案に賛同する声が出ると、ルナが前へ出るようにして全員の顔を見渡し、明るい調子で言葉を添えた。

 

「じゃあ今日は畑作業と食料集めに分かれて行動しよう。食料集めはリュウジ、カオル、ハワード、シンゴの四人にお願いするね。畑作業はベル、メノリ、シャアラ、チャコ、そして私でやるから」

 

 自然と役割が決まり、皆がそれぞれの仕事に取り掛かった。

 食料班は森へと足を踏み入れ、畑班は大いなる木の根元近くの開けた土地を選び、枝や石を取り除きながら土を掘り起こしていく。ベルは真剣な顔で土を手に取り、硬さや湿り気を確かめていた。チャコは器用に木の枝を削り、簡易的な農具を作り出してルナに手渡す。シャアラとメノリは雑草を引き抜き、作業は少しずつ形になっていった。

 

 時間が経つにつれ、太陽は西に傾き、空はゆっくりと茜色に染まり始める。ルナは汗で前髪を額に張りつけながらも笑みを浮かべ、仲間たちに声を掛けた。

 

「今日はここまでにしよう」

 

 全員が頷き、使った道具を片づけ始める。その間、ルナは両手についた泥を落とそうと洗濯場に足を運んだ。湖畔にしゃがみこみ、冷たい水に手を浸した瞬間――。

 

 脳裏に鮮やかな映像が流れ込んできた。湖の外れから東の森へと続く川。その川を辿った先には、木々の奥深くに沈黙を守るように佇む古びた遺跡が見える。映像はそこまでで途切れ、まるで見えない手に遮られたかのように意識は現実へと戻された。ルナは小さく息を呑み、胸に手を当てた。

 

◇◇◇

 

 その夜。仲間たちが共通スペースに集まり、火を囲んで夕食を取っていると、ルナは少し迷った末に切り出した。

 

「……私、東の森に行こうと思ってるの」

 

 スプーンを持ったままのメノリが驚いたように目を丸くする。

 

「どうしてだ?理由を聞かせてもらえるか?」

 

 ルナは一呼吸おいてから、静かに口を開いた。

 

「まだ行ったことがないし……それに、声が聞こえたの」

 

「声?」とメノリが聞き返す。

 その場に重い空気が流れたが、ハワードが竹を削っていた手を止め、呑気な調子で声を上げた。

 

「いいじゃないか、探検に行こうぜ!退屈してたところだしな」

 

 しかしルナは首を振った。

 

「……一人で行こうと思うの」

 

 その言葉に、全員が一斉に反対の声をあげた。

 

「危険すぎる!」

「だめだよ、ルナ!」

 

 ハワードは勢いよく立ち上がり、真剣な眼差しをルナに向けた。

 

「だったら僕も行く」

 

 続いてベルも席を立ち上がる。

 

「俺も行くよ」

 

 カオルは腕を組んで少し考え込んだ後、静かに口を開いた。

 

「東の森は深い。歩いて進むのは大変だ。筏を作って川を下ったほうがいい」

 

 その提案に皆が頷きかけたとき、チャコがリュウジに視線を向けて声をかけた。

 

「念のためや。リュウジも行ってくれへんか?ルナは病み上がりやしな」

 

 焚き火の明かりに照らされたリュウジの横顔は、相変わらず冷静だった。

 

「ああ。どのみち探索は必要だ」

 

 短くそう答えると、シャアラが安堵の息を漏らした。

 

「リュウジとベルが一緒なら安心ね」

 

「どういう意味だよ!」とハワードが憤慨すると、チャコが笑いながら肩をすくめた。

 

「そういう意味や」

 

 賑やかなやり取りに、ルナは思わず微笑み、みんなに向かって感謝を述べた。

 

「ありがとう、みんな」

 

 出発は三日後に決まり、それぞれが準備に取り掛かった。ルナとベルは筏作りに汗を流し、ハワードは弓を完成させるために竹を削り続ける。リュウジは生活改善を兼ねて、シャトルの残骸と木材を利用して畑用の鍬を作り、さらに竹を用いて簡単なジョウロまで仕上げた。

 

 

◇◇◇

 

 そして三日後。

 朝の光が森を照らし出すころ、仲間たちは川岸に集まった。見送りのために全員が揃っている。ルナは父の形見のリュックを背負って立ち、そこにシャアラが二日分の食料を詰め込んでいく。

 

 

「これ、二日分の食料だから、怖い生き物に出会ったら、すぐに逃げるのよ」

 

 シャアラの忠告に、ルナは真剣に頷いた。

 

「うん」

 

 続いてルナはメノリの方へ向き直る。

 

「明日の夕方には戻るから、みんなのこと、お願いね」

 

「ああ、わかった」

 

 メノリは短くも力強く答えた。

 ルナは深呼吸をしてから振り返り、仲間たちに向かって声を上げる。

 

「それじゃあ……行ってきます!」

 

 そう言って竹で作られた筏に乗り込む。ハワードとベル、リュウジも続き、筏は静かに川の流れに乗って下り始めた。

 遠ざかるその背中へ、シャアラの「気をつけて!」という声が風に乗り、いつまでも耳に届いていた。

 

◇◇◇

 

 川下りは、最初は静かだった。竹で組んだ簡易の筏は、仲間たちの体重を受けながら水面にゆらりと浮かび、周囲の森が緑の壁のように迫っている。水は澄んでいるところと、淀んで葉を浮かべるところとが交互に続き、太陽の光が樹間を抜けて水面に斑を落とした。

 

ルナは父の形見のリュックを背負い、風を受けながら景色を確かめていた。ハワードは弓を背に、竹筒に手を掛けて目を泳がせる。ベルは櫂の動きを合わせ、リュウジは淡々と前方を見据え、周囲を見張っていた。

 

川の流れが緩やかな場所を抜け、両岸の茂みがさらに深くなると、突然、岸辺の草むらの隙間から、長い影がにゅ、と舌を出した。大きな蛇だ。濡れた体を半分ほど草に寄りかからせ、舌先が湿った空気を探るように震えている。幸いにも、いまのところ筏に気づいてはいない。

 

「よし! ここは僕が」

ハワードが弓に手をかけ、忠誠心と得意げな気合いを混ぜて囁く。彼の声には、いつもの大げささと可愛い臆病さが同居している。

 

ルナがすっと手を上げて止めた。表情は真剣だ。

「待って、ハワード」

 

ハワードは少し拍子抜けした顔をしたが、矢を引かずにうなずく。リュウジが低い声で続ける。

「このままやり過ごす」

彼の声は冷たく、しかし確信があった。

 

皆、身を屈める。筏の動きが最小限に抑えられ、風の音と森の匂いだけが濃くなる。蛇はゆっくりと体を伸ばし、うっとりと草の香りに舌を這わせている。数分の凝視のあと、蛇は面倒くさそうに頭をひっこめ、茂みの奥へ滑るように戻っていった。空気が戻り、皆が胸をなでおろす。リュウジは肩で小さく息をつき、筏を再び流れに乗せる。

 

曇りがちだった空間に、ふと静けさが訪れる。ゆらゆらと筏が進むなか、ベルがふと耳に手を当てた。

「何か、聞こえる」

 

「何にも聞こえないぞ」ハワードが大きな声で返すと、ルナが「静かに!」と一喝した。全員が耳を澄ます。風の音、水のかすかなさざめき、遠くの鳥の声。だが、混じってくるのは、どこか一定の低い、うねるような水の音――滝のそれだった。

 

リュウジの顔が変わる。目の先、下流の水面。

「滝だ」――彼は短く言った。そこに川が続いていないと気づいた。

 

瞬間の静寂を裂いて、彼は低い声で、しかし鋭く命じる。

「右に寄れ!」

 

櫂代わりに持っていた太い竹を、一斉に懸命に振る。だが濡れた竹は手から滑りやすく、筏は思うように曲がらない。水はいつのまにか細やかな岩場を経て一気に落ちる準備をしていた。彼らの目の前には、白く砕ける波の筋が迫り、峡間へと川幅が狭まっていく。

 

「右、もっと右だ!」リュウジが叫ぶ。ベルとハワードが懸命に櫂を打つ。だが筏の底が石に乗り上げる音がして、ギシリと嫌な振動が走った。木と竹がきしみ、次の瞬間、ぶつり、と大きな衝撃が襲った。

 

衝突の弾みに、筏の端でバランスを崩した者たちがそのまま水中へ放り出された。冷たい水が全身を包み、空気の通りが途絶える。慌てて水面へ顔を出すと、白いしぶきの向こうに滝の暗い縁が見えた。水は凄まじい勢いで峡に吸い込まれていく。

 

水流は人間の力などものともせず、身体をねじ曲げ、飛ばし、叩きつける。ハワードが大声で叫ぶ。ベルが必死にハワードの手を掴む。リュウジもルナの手を掴んだ。皆、それぞれに必死で岸へ、木の根や岩へとつかまろうとする。

 

ルナの瞳の端で、何かが赤茶けた波間を滑っていくのが見えた。――父の形見のリュックだ。強い巻き込まれの衝撃で、背中から剥がれ落ちたのだろう。白い水泡の中へと流れていく。

 

「ダメ!」ルナは慌てて手を伸ばし、リュウジの腕を振りほどこうとした。だがリュウジは微動だにしない。彼の眼は、流れていくリュックを見据えていた。それを見てルナの心臓がぎゅっと縮む。

 

「俺が取ってくる、ベル! ルナを頼む」リュウジは短く指示を出した。その口調はいつもの冷たさとは違う、揺るがない決意が滲んでいた。ルナは言葉を発せず、ただ彼女の手をベルの腕の中へ押し渡した。ベルがぎゅっと抱え込み、ルナはそこに体を預ける。

 

リュウジは水の流れへ飛び込んだ。暗い、冷たい流れが彼を包み込む。彼は上下の見当もつかない中で、腕を掻き、足で水を蹴る。下流へと速い速度で引かれながらも、視界の片隅に茶色い塊を見つけると、それへ向かって突進する。

 

──捕えた。リュウジは泥と泡と手応えを感じながら、背嚢の端を掴んだ。だが川の力は残酷だ。リュックを掴んだその瞬間、彼の体は強い逆流に捕まり、思わず体勢を崩した。水中で足がもがき、石に叩きつけられる。腕の痛みが走り、肺に押し寄せる冷たい水。必死で浮かび上がろうとするが、流れは下へ下へと強く引きずった。

 

「リュウジ!!」ルナの声が、白い水の壁を越えて届く。彼女の叫びは真っ直ぐに突き刺さるが、リュウジの周りは泡と轟音だけになり、空気の気泡が目の前を踊った。

 

暗転のように、視界は引き裂かれ、別の景色が押し寄せてきた。重苦しく、焼けた匂いと金属の軋む音、そして――人の叫び声。リュウジは水に飲まれながら、知らず知らずにその光景の中へ滑り込んだ。

 

◇◇◇

 

目の前に広がるのは、かつて自分が「最後に見た光景」だった。エアポートの滑走路に押し寄せる炎、裂け散る機体、焦げた繊維と破片が散乱する。燃え上がる業火、鉄のにおいと焦げた肉の匂いが鼻を突き刺す。どこからか滴る血。断末魔の叫び。目を閉じれば、人の手が足元を掴んで引きずりこもうとする。まるでそのときの地獄が、今ここで再生されるかのようだ。

 

いつもなら、そこで彼は目を覚ます。過去が彼を縛る。だが今回は違った。引きずりこまれる寸前、空の向こうから強烈な光が落ちてきた――神々しいほどの白い光。それは腰の奥を、胸の奥を、ぎゅうと押すようにして、暗闇を切り裂いた。ルリュウジは、光のまぶしさに耐えながら、何か遠いものを思い出すように目をつぶった。

 

次に気づいたとき、彼は冷たい砂利の上にあるらしい川岸に体を打ちつけていた。意識がじわりと戻る。胸の奥で何かが痛む。水が耳の中に残り、世界は音で満たされている。波の音と、遠くで誰かの声がした。

 

「目を覚まして良かった」――ベルの声だ。片膝を突き、顔は土と水で汚れているが、安堵が深く刻まれている。

 

リュウジは上半身をゆっくり持ち上げ、周囲を見渡す。滝壺へ落ちてからどれだけ流されたのか、体は重く、筋肉は鉛のようだ。だが確かに、岸にいる。白い瀑布が遠くで音を立てる。水はあたりにミストを撒き散らし、葉が濡れて光る。ハワードの声が飛ぶ。

「ルナ! リュウジが起きたぞ!」

 

森の深みから、足音が近づく。泥の匂いと草の擦れる音。ルナが現れた。彼女は走り出し、薬草の束を手にしていた。目に光る涙が、朝日の光を受けてきらりと輝く。顔は泥と疲労で汚れているが、表情は安心に満ちている。

 

「良かった……」ルナの声は震えていたが、その口元には笑みが混じる。彼女は躊躇なくリュウジに駆け寄り、腕を周りに回して抱きしめた。濡れた服のまま、体温を確かめるようにぎゅっと抱きしめる。耳元で、吐息混じりに「ありがとう」と呟く。声には涙が混じり、温度があった。

 

リュウジは一瞬、状況の輪郭が掴めず、思考がふわふわとしていた。滝の衝撃で頭がまだぼんやりとしているのだろう。だが、ルナの温もりが確かに腕にある。彼は力なく手を上げて、震える声で呟いた。

「……ルナ、痛い」

 

ハワードはそれを聞くと、緊張が一気に抜けて、照れ隠しのようにケラケラと笑った。

「いつまで抱きしめてるんだよ!」とからかい、しかしその声の向こうに、安堵と嬉しさがにじんでいる。ベルは肩のあたりを押さえつつ、笑顔を見せる。

 

ルナは申し訳なさそうにリュウジを放す。だが頬は熱く紅潮している。抱きしめたときの感触と、彼が水の中で見たであろう恐怖が、胸の奥でぐるぐると混ざり合っているのだ。彼女は声を詰まらせながらも、やっとのことで、

「ごめん」と言った。

 

体はずぶ濡れで泥にまみれているが、目には確かな灯が戻り始めていた。彼の横顔は、あの冷たさの中にも、どこか守る者の輪郭を取り戻しているようだった。

 

滝の轟音が遠ざかる中、リュウジのそばでルナは父のリュックをそっと撫でた。濡れ、多少傷んでいるが無事に戻ったそれは、彼女にとってただの荷物ではない。命や記憶を繋ぐ象徴なのだと、改めて胸に刻む。リュウジは「無事だったのか」と小さく呟く。事故の記憶は消えない。しかし、誰かの声が、彼を現実に引き戻してくれる。

 

◇◇◇

 

リュウジの体力が戻ったことを確認すると、彼は立ち上がり、腰に差した黒曜石のナイフの柄に軽く手を触れながら静かに口を開いた。

 

「体も戻った。――探索を始めるぞ」

 

その言葉にルナは心配そうに近寄り、のぞき込むように彼の顔を見た。滝壺に流され、あの衝撃を受けたばかりなのだ。まだ頬に水の痕跡が残り、髪も乾ききってはいない。それでも彼の瞳は力強く、もう迷いも揺らぎも見られなかった。

 

「ほんとに大丈夫?」

心配半分、信じたい気持ち半分でルナが尋ねる。

 

リュウジはその視線を正面から受け止め、わずかに顎を引いて「問題ない」とだけ答えた。その言葉は短く、だが揺るぎなく、まるで石に刻まれた文のように確かな響きを持っていた。

 

ルナはそれ以上何も言えず、小さく頷くだけだった。

 

◇◇◇

 

いざ足を踏み入れてみると、そこは異質な世界だった。

滝壺の周囲から伸びる森は、通常の森とは明らかに違っていた。木の幹は大人十人で抱えなければ囲めないほど太く、高さは雲を突き抜けそうなほど。根は大地を割るように張り巡らされ、その合間からは人間の背丈を超える草花が天を目指していた。

 

「……なんだ、ここは……」とリュウジは無意識に呟いた。

 

見上げると、巨木の枝葉が空を覆い、まるで夜の帳が昼間に降りているかのような薄暗さが広がっていた。湿った空気が肌にまとわりつき、どこからか滴る水滴が絶え間なく響く。

 

「お、おい。本当に行くのか?」

ハワードがたまらず声を上げた。その声音には普段の軽口とは違う震えが混じっている。

 

「ならここで待っているか?」

リュウジの低い声が返る。その一言には挑発でも慰めでもなく、ただ事実を突きつけるような冷たさがあった。

 

「なっ……僕が怖がってるとでも思ってるのか!?」

ハワードは慌てて強がりを見せると、胸を張り「おし、行くぞ!」と竹の弓を担ぎ、川沿いの先頭を切って歩き出した。

 

リュウジは苦笑することもなく、淡々とその背を追った。ルナとベルも続く。

 

◇◇◇

 

歩きながらも、リュウジの視線は常に周囲を警戒していた。頭上で風を裂くような羽音が響き、木々の葉が揺れるたびに四人は息を呑む。

 

そのとき、前を歩いていたハワードが突然声を張り上げた。

「なんだあれ!」

 

彼の指差す先を追うと、巨木の幹に貼りついている影があった。

 

「カ、カブトムシ!?」

ルナの口から思わず驚きの声が漏れる。

 

だがそれは彼女たちが知るカブトムシとは桁違いだった。大人の上半身ほどの大きさの甲虫が、角をぎらつかせながら幹に穴を穿っている。その音は大地を揺らす太鼓のように響き渡り、四人の背筋を冷たくした。

 

「……ここは、生き物も植物も……全部、大きいのか」

ベルの言葉は呟きに近かったが、誰も否定できなかった。

 

ハワードはごくりと喉を鳴らし、震え声で言う。

「ま、待て。ということは……もっと大きい生き物もいるのか!?」

 

その瞬間だった。

 

ドスン……ドスン……と大地が揺れ、木々の葉がざわめいた。

 

◇◇◇

 

「隠れろ!」

リュウジの即座の判断で、四人は近くの巨木の陰に飛び込んだ。

 

やがて樹々を押し倒す轟音とともに姿を現したのは――巨大なイノシシだった。

その体躯は岩のように分厚く、毛並みは鋼の針のように逆立っている。二本の牙は人間の背丈を優に超え、咆哮とともに吐き出される息は湿った風となって押し寄せてきた。

 

「ひっ……!」

ハワードは恐怖に足を震わせながらも、反射的に弓を構えた。

 

「よせ! ハワード!」

リュウジが低く鋭く制止する。

 

だが恐怖に突き動かされたハワードは叫び声を上げ、「来るなぁ!!」と放った矢を巨獣へ飛ばした。

 

竹を削っただけの矢は、幸運にも巨体の肩をかすめた。

 

「やった……!」

一瞬、手応えに顔を輝かせたハワード。

 

だが次の瞬間、イノシシは怒り狂ったように咆哮を上げ、突進してきた。地面が揺れ、岩が砕ける。

 

「うわあっ!」

「逃げるわよ!」

ルナが叫び、咄嗟にハワードの腕を掴んで走り出した。ベルとリュウジもすぐに続く。

 

必死に走りながらも、ハワードはなお強がった。

「もうちょっとで仕留められたのになぁ!」

 

「リュウジの忠告を聞かないからこうなるのよ!」

ルナが振り返りざま怒鳴る。

 

「で、でも、あの威力なら倒せたぜ!」

それにベルも息を切らしながら「確かに……さっきの矢は力強かった」と同意してしまう。

 

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろう」

ルナとリュウジの声が重なった。

 

その瞬間、ルナの頭にまたあの声が響いた。

――「こっちよ!」

 

「こっち!」

ルナは咄嗟に方向を変えた。仲間たちは理由を問わず、ただ必死に後を追う。

 

崖と飛び降り

 

やがて森が開け、目の前に断崖絶壁が広がった。

 

「行き止まりじゃないか! 何がこっちだよ!」

ハワードが叫ぶ。

 

振り返れば、巨大イノシシの巨体が迫ってきていた。

 

「……ちっ」

リュウジは舌打ちをし、前に出て腰の黒曜石ナイフに手をかける。

 

だがその時、再びルナの脳裏に声が響いた。

――「下よ!」

 

「下!?」

ルナは思わず叫び、崖下を覗き込む。

 

そこには巨大な蕗のような植物が群生していた。厚みある葉と茎がクッションのように広がっている。

 

「飛び降りるわよ!」

ルナは一息に叫び、そのまま崖下へ身を投げた。

 

「ルナ!」とベルが続き、リュウジはハワードの襟を掴んで無理やり飛び降りた。

 

四人の体は巨大植物の葉に受け止められ、勢いを殺して着地した。

 

◇◇◇

 

鬱蒼とした蕗の茎の中を抜けると、やがて小さな岩場にたどり着いた。

 

夕日が差し込み、あたりは茜色に染まっている。

 

「……ここまでくれば、大丈夫だね」

ルナは肩で息をしながらも、安堵の笑顔を見せた。

 

「巨大昆虫の次は、巨大イノシシかよ……」

ハワードは地面にへたり込み、深いため息を漏らした。

 

リュウジはというと、息を切らすこともなく冷静に告げた。

「この森は……何かがおかしい」

 

「確かに。崖を飛び降りるとき、体が軽くなった気がした」

ルナが言えば、ベルも頷く。

「俺も感じた」

 

「とりあえず、今日は近くで野宿できる場所を探そう」

ルナの提案で、岩の窪みを寝床とした。巨大な葉を敷き、ようやく休める環境を整える。

 

簡単な夕食をとり、仲間たちが次々と眠りに落ちる中――ルナだけは満月を仰ぎ見ていた。

 

胸の奥に残る声の余韻。

(この森の奥に……答えがあるのかしら……)

 

彼女は静かにそう呟き、月光に照らされた横顔は決意と不安の両方を抱えて輝いていた。

 

◇◇◇

 

翌朝。まだ夜の気配がかすかに残る時刻、ルナたちは再び東の森へと足を踏み入れていた。空気はひんやりとしているが、森の中は異様なほどに薄暗い。太陽の光が届かないのは、頭上を覆う巨大な大木の枝葉が光を遮っているからだった。

 

「……薄気味悪いところだな」

 ハワードは小声で呟きながら、緊張で汗ばむ手で弓を握りしめていた。彼はルナのすぐ後ろを歩いている。ルナは真剣な表情で前方を見据えていた。

 

 突然、ルナの足がピタリと止まった。

「どうした、ルナ?」とベルが慌てて声をかける。

 ハワードは心臓を跳ね上がらせ、周囲をビクビクと見回した。「どこから来るんだ!?」

 

 ルナは静かに指を伸ばし、森の奥を示した。「……こっち。」

 そう言うと彼女は迷いなく先頭を切り、再び歩き出した。その背中をリュウジ、ベル、ハワードが順番に追う。

 

 だが、どれほど歩いても景色はほとんど変わらなかった。見慣れたような巨木が続き、同じ場所を歩いているかのような錯覚すら覚える。

 

「少し休憩しましょうか……」

 ルナが顎に伝う汗をぬぐいながら呟く。近くの倒木に腰を下ろし、彼女はリュックから水の入った容器を取り出した。仲間たちに配る。それぞれが水を口に含み、疲れを癒やす。ルナも容器を口に運ぼうとした、その時――。

 

 ズキン、と頭に鋭い痛みが走った。

「いった……!」

 思わず容器を落とし、両手でこめかみを押さえる。

 

 ベルが心配そうに身を乗り出した。「大丈夫!?」

「えっ……あ、ええ、大丈夫……」ルナは苦笑いで取り繕った。

 

 だがハワードは納得がいかないように首を傾げた。「でもさ、どうしてその声はルナだけに聞こえるんだ? おかしいだろ」

「……私にも分からない。でも感じるの。誰かが、何かを伝えようとしてるって」ルナは眉をひそめた。

 

「この大きな木が関係してるのかもしれんな」リュウジが低く呟く。彼は自分が持っていた容器をルナに差し出した。「飲め」

「……ありがとう」ルナは受け取り、口をつけた。ふと気づく。(これって……間接……)

 一瞬だけ視線をリュウジに向けたが、彼は真剣な顔でハワードやベルに説明を続けており、気にしている素振りすらない。ルナは小さく息を吐き、考えを打ち消した。

 

 リュウジの話はさらに続く。「この森に入ってから重力が軽いのは感じているだろう」

 ベルもハワードも頷く。

「この星の影響で、この区域だけ重力が変化するのはありえるが……差が大きすぎる。だから――人為的な重力制御ユニットのようなものが暴走しているのかもしれない」

「じ、重力制御……? えーと、つまりどういうことだ?」ハワードは頭をかく。

「あくまで仮説だ」リュウジはそれ以上を遮った。

 

 普段は寡黙な彼が、ここまで情報を共有する。それがどれほど東の森を危険だと見ている証拠か、ルナは悟った。

 

◇◇◇

 

 休憩を終え、一行はさらに奥へと進む。軽くなった身体を活かし、次々と崖を飛び越えていく。思った以上に早く奥地へと到達した。

 

 ――不意に、リュウジの足が止まった。

「わっ、急に止まるなよ!」ハワードが背中にぶつかる。

 だがリュウジは動かない。目を見開き、森の奥を凝視していた。

 

「どうしたの?」ルナとベルも駆け寄り、その視線を追う。そこには――。

 

「……遺跡?」ベルが呟いた。

 絡みつく蔓、覆う木々。それでもその下にあるのは明らかに人工の石造りだった。

 

 ルナが凝視した瞬間、また頭に痛みが走った。「あ、頭が……」

「ルナ!」ベルが支える。

「何だよ、急に……」ハワードが不安げに後ずさる。

 

 ルナは呻き声を漏らし、震えながら頭を押さえる。

「しっかりしろ、ルナ!」リュウジの声が鋭く飛ぶ。

 

 その時、ルナの脳裏に映し出されたのは――見知らぬ異星人の姿。小さな子供のように見える影。

 ハッと我に返ると、痛みは消えていた。

「……ごめん、もう大丈夫」ルナは弱々しく笑った。

 

「とりあえず、行ってみようぜ」ハワードが指をさす。

 ルナもベルも頷く。だがリュウジだけは胸騒ぎを覚え、腰のナイフに手をかけて警戒を強めた。

 

◇◇◇

 

 遺跡に近づくと、その全貌が明らかになる。古代文字のような刻印、苔むした壁。遺跡は池の中の小島にあり、周囲を水に囲まれていた。

「でっけえな……」ハワードが感嘆する。

「かなり古い……」ベルも息をのむ。

 

 好奇心を抑えきれないハワードが一歩踏み出した、その瞬間――。

 リュウジの背筋を冷気が駆け抜けた。

「ハワード! 止まれ!!」

 

 三人が振り返った時、池の水面がボコボコと泡立ち始めた。轟音とともに水柱が弾け、そこから姿を現したのは――。

 

 両手に巨大なハサミを構える、異様なほど大きなロブスターだった。

 

 硬い外殻に覆われた巨体が揺れ、水滴が飛び散る。ハサミを開閉しながら、威嚇音を響かせる。

 

 ハワードは震える手で矢をつがえた。「く、来るな……!」

「ハワード、やめて!」ルナが叫ぶが、矢は放たれた。

 

 矢はロブスターの顔面に当たったものの、乾いた音を立てて弾かれた。

「挑発するな!」リュウジが怒鳴る。

「逃げるわよ!」ルナが叫び、一行は散り散りに走り出した。

 

 地面を砕く勢いでハサミが振り下ろされる。もし直撃すれば一撃で命はない。

「ハワード! 離れるな!」リュウジの声が飛ぶが、ハワードは別方向へ逃げてしまう。

 

 ロブスターはその動きを追い、巨大なハサミを次々に振り下ろす。

「助けてくれ!」ハワードの叫びが森に響く。

 

 大きなハサミが振り下ろされ、ハワードの姿が隠れた。

「ハワード!!」ルナは声を詰まらせ、絶望の色を浮かべる。

 

 その瞬間、リュウジは舌打ちをし、黒曜石のナイフを二本抜いた。ルナの横を駆け抜け、一直線にロブスターへと迫る。

 

 幸運にも、ハサミの隙間からハワードが顔を出した。「あっぶなかった……!」

 だがすぐにロブスターが再び狙いを定める。

 

 ハワードは必死に巨木を登って逃げる。ロブスターのハサミが根元を掴み、木ごと持ち上げようとする。

 

 リュウジは背後から接近しながら、頭上の岩に目を留めた。巨石が小さな石に支えられている。

「……そこだ」

 

 ナイフを投げつけると、カン、と乾いた音を立てて石が外れた。岩がグラリと揺れる。

 もう一本を投げると、ストッパーが崩れ、巨石が音を立てて動き出す。

 

 轟音とともにロブスターの甲羅に直撃。

 硬い外殻が砕け散り、怪物はそのまま押し潰された。

 

 地響きと土煙が森に広がり、静寂が訪れる。

 

◇◇◇

 

リュウジは視線を巡らせ、怪我らしい怪我もなく立ち上がっているハワードの姿を確認すると、胸の奥に小さく溜め込んでいた緊張を吐き出すように、ひとつ深い息を漏らした。先ほどまで暴れ狂っていた巨大ロブスターとの死闘の余韻が、まだ彼の全身を張りつめさせていたのだ。しかし、どうやら命に関わる事態には至らなかった――そう理解できた瞬間、緊張が少し緩み、代わりに疲労が肩にのしかかる。

 

その刹那、ルナとベルが慌ただしく駆け寄ってきた。二人の顔は心底心配そうで、荒い呼吸と共にハワードの名を呼ぶ。

「ハワード! 大丈夫か?」

ベルの声には焦燥が滲んでいた。しかし当の本人はすぐには答えず、ただ目の前に横たわる巨大ロブスターの残骸を凝視していた。殻は砕け、鋏はもげ、肉片が湿った土の上に散乱している。その惨状を見つめながら、ハワードは唇を小さく震わせ、かすれた声で呟いた。

「……やったのか?」

 

次の瞬間、彼の顔がぱっと輝いた。

「僕がやったのか!? わーい! 僕が倒したんだ!!」

子どものような歓声を上げると、飛び跳ねるように両足を弾ませ、大きく跳ねては笑い声を響かせる。その無邪気なはしゃぎぶりは、恐怖と緊張の場を一瞬にして裏返すほどであった。

 

「二人とも見てたか?」

振り返ったハワードの顔には、少年のように屈託のない笑みが浮かんでいた。まるで手柄を褒めてほしいとせがむ子どものように。

 

ルナは一瞬言葉に詰まった。やや歯切れの悪い声音で「……え、ええ」と返すと、ベルも苦笑いを浮かべて頷いた。彼女たちの反応など気にかけることもなく、ハワードは夢中で散らばるロブスターの破片を拾い集め始める。

 

リュウジは静かに歩み寄り、ルナとベルのそばに立った。その表情を見たルナは、どこか申し訳なさそうに眉を下げ、「ごめんね」と小さく呟いた。リュウジは一瞬だけ視線を彼女に移し、淡々と答える。

「別に構わない」

否定したところでハワードが落ち込むだけだ。それが後々の面倒を生むのは目に見えている。リュウジはそう理解していた。

 

しかしルナはさらに声を続ける。

「それと……ありがとう」

その瞳は優しく、微笑みは温かかった。リュウジがいなければ、あの怪物にどうなっていたのか――考えるだけで身震いする。そんな彼女の胸中が、ほんの一瞬で彼の心に伝わってきた。リュウジは短く視線を逸らし、口を閉ざした。

 

その間にもハワードは嬉しそうに破片を抱え、「これ、どうするの?」とルナが素直な疑問を投げかける。

「僕がこいつを倒した証拠にするのさ。口で言っても信じないからな」

誇らしげに答えるハワードの顔には、子どものような自信が溢れていた。

 

ルナとリュウジは互いに視線を交わし、同時に肩をすくめるようにして呆れの表情を浮かべた。その視線に気づくこともなく、ハワードはルナの背後に回り込んで声をかける。

「リュック」

「はいはい」

まるで我が子をあやす母親のように、ルナは慣れた手つきでリュックを差し出した。ハワードは大事そうに拾った破片をそこへ収め、満足げに頷いた。

 

一息ついた四人は気を取り直し、目の前の遺跡へと足を向けた。緑色の外壁は金属とも石ともつかない材質で、異様な存在感を放っている。ベルが眉をひそめ、低く呟いた。

「一体どこから入るんだ……」

 

そのとき、不意にルナの耳へ囁きが届いた。――「手をかざせ」。

ルナは小さく「分かった」と答え、ゆっくりと歩を進める。仲間たちが見守る中、彼女はそっと壁面に手をかざした。すると掌から柔らかなピンク色の光がほとばしり、遺跡に刻まれた文様が次々と輝き始めた。

 

「なんだぁ……」

ハワードが思わず声を上げる。だが誰も返答しなかった。光は一層強さを増し、次の瞬間、低い音を響かせながら扉がゆっくりと開いた。

 

「行きましょう」

ルナは小さく呟き、最初の一歩を踏み入れた。

 

内部は外壁の無骨さとは違い、整然とした美しさを備えていた。中央に伸びる長い通路を進んでいくと、やがて広間に辿り着く。そこには不思議な装置と、その中央に横たわる存在があった。

 

広場の中央に横たわる人物を前に、誰もが言葉を失っていた。遺跡の冷たい光に照らされ、静かに眠るその姿は、人間と呼ぶにはあまりにも異質で、しかし不思議なほどに安らかであった。

 

「……人だ」最初に口を開いたのはベルだった。驚きと戸惑いがないまぜになった声。その一言に、皆の視線が改めてその身体に注がれる。

 

「それより、こいつは……本当に人間なのか?」ハワードが眉をひそめながら問いかける。

 

ベルはじっと子供の姿を観察し、小さく首を横に振った。「少し違うようだけど……」

 

肌は淡い水色に近く、透き通るような質感を帯びていた。長く伸びた水色の髪は、どこか水流のように柔らかく光を反射している。その姿は儚げで、しかし確かに生命の気配を感じさせる。彼らとは明らかに異なる種族の存在――そう直感せざるを得なかった。

 

リュウジが静かに口を開く。「……こいつが、ルナを呼んでいたのか?」

 

問われたルナは、コールドスリープ装置の透明なカバー越しに眠る顔を見つめ、首を振った。「分からないわ。でも……あのとき、私の前に浮かんでいた子供と同じ顔なの」声には確信と戸惑いが入り混じっていた。

 

リュウジは装置に映し出される文字列を目で追いながら呟いた。「恐らく……異星人だろうな」

 

その言葉にベルも同意を示す。「惑星開発は進んでいるけど、人類はまだ異星人を発見していないはずだ」

 

「だったら僕たちは、異星人の発見者として歴史に名を刻むわけだ!」自信満々に胸を張るハワード。その無邪気な興奮に、リュウジは大きくため息を吐き捨てるように零した。「コロニーに帰れたらの話だがな」

 

その冷静な一言が場の空気を引き戻す。

 

「少し……調べてみましょう」ルナの声が響いた。小さな決意を宿したその提案に、三人は頷いた。

 

リュウジは装置を見ながら呟く。「コールドスリープが生きているなら、この遺跡のシステム自体もまだ稼働しているんだろう」

 

ベルとハワードは広間に散り、それぞれ別の装置に触れていく。ルナは中央のコールドスリープにそっと手を置き、眠る子供を見つめ続けた。彼女の唇から小さな囁きが零れる。「あなたが……私を呼んだの?」

 

その瞬間――「うわぁ!?」ハワードの甲高い悲鳴が広間に響いた。

 

ベルとリュウジが駆け寄ると、宙に大きなホログラムが投影されていた。それは惑星の映像だった。

 

「……地球?」ベルが小さく呟く。

 

だがリュウジはすぐに否定した。「似ているが……違う。これは別の惑星だ」

 

ホログラムに映し出された惑星は一面が茶色に覆われ、荒れ果てているように見える。その中で一つの白い点が点滅を繰り返していた。やがてそこから白い線が幾筋も広がり、各地に伝播していく。線が広がるごとに大地は茶色から緑へと変化し、惑星全体が徐々に蘇っていく様が映し出された。

 

「これは……どこなんだ?」ハワードが唸る。

 

「恐らく……この星だ」リュウジは確信めいた声で答えた。

 

その時、遠くからルナの驚きの声が上がる。リュウジは振り返り、慌てて彼女のもとへ駆け寄った。「どうした?」

 

ルナは食い入るように子供の顔を見つめ、小さく呟いた。「……目を開けたわ」

 

コールドスリープの中で、閉じられていた瞳がゆっくりと開かれた。その瞬間――声が響いた。

 

今度はルナだけでなく、その場にいた全員の耳に、確かに届いた。

 

「なんだ……なんだ!?」ハワードが怯えたように辺りを見回す。ベルも驚きに声を失った。

 

リュウジはただルナを見つめた。その視線に気づいた彼女は小さく頷き、「この子が……『頼む』って」そう伝えた。

 

再び声が響く。言葉そのものは理解できない。だが確かに意味が脳裏に流れ込んでくるような感覚。

 

ハワードとベルも彼女の傍に駆け寄り、食い入るように問いかける。「今の……なんて言ったんだ?」

 

ルナは小さく息を吸い込むと答えた。「……『アルドゥラムギェット』」

 

「アル……なんだって?」ハワードが眉をひそめ、ベルも意味を問うが、ルナは首を振る。「分からない。ただ……この子の名前だと思う」

 

ルナは視線を子供に戻し、コールドスリープの装置にそっと両手を置いた。そして改めて言葉を紡ぐ。「アルドゥラムギェット……」

 

その名を呼ぶと同時に、遺跡の入口と同じく、装置全体がピンク色の光で包まれた。

 

光が収まった時、機械音が低く鳴り響き、装置の蓋がゆっくりと開いていく。白い煙が噴き出し、冷気が辺りに漂った。

 

眠っていたアルドゥラムギェットは小さく身を震わせ、身体を起こそうとした。しかし力が入らず、崩れるように倒れかける。

 

ルナが慌てて駆け寄ろうとするが、リュウジが鋭く制した。「今は触るな! まだ体が完全に目覚めてない。皮膚も弱っているかもしれない」

 

ルナは立ち止まり、小さく頷いた。だがその瞳は子供を見守り続ける。「がんばって……」と優しく声をかけた。

 

やがてアルドゥラムギェットは震える足で立ち上がり、よろよろとバランスを取る。その姿を見て、ルナの表情がぱっと明るくなる。「やった……立てたわ」

 

「お前はいったい何者なんだ!?」ハワードが我慢できず大声を上げる。

 

「質問は後にして!」ルナが即座に制した。

 

その時、コールドスリープの装置が最後の動作を終えたかのように静かに光を失い、一枚のカード状の物体を排出した。

 

「……これは?」リュウジが拾い上げる。橙色に輝き、緑の線が複雑に走り、小さな穴が規則的に並んでいる奇妙なカードだった。

 

だが、それを調べる暇はなかった。

 

「扉が閉まっていくぞ!」ベルの叫びに皆の視線が入り口へ集まる。

 

「急げ!」リュウジが鋭く声を放つ。

 

全員が走り出したが、アルドゥラムギェットは覚醒直後の身体が言うことを聞かず、無様に倒れ込んだ。

 

「大丈夫!?」ルナが駆け寄ろうとしたその瞬間、リュウジが素早く抱え上げた。「急げ!」と叫び、子供を抱えたまま通路へと飛び込む。

 

間一髪、扉が閉じる直前に広間を後にすることができた。

 

冷たい通路に戻った一同は、ようやく大きく息をついた。ルナが子供に顔を寄せて優しく尋ねる。「大丈夫?」

 

返答はなかったが、アルドゥラムギェットは弱々しくも確かな笑みを浮かべた。その笑顔に、ルナは安堵の息を吐く。

 

「まったく……なんなんだよ、こいつは」ハワードが苛立ちを隠さず吐き捨てる。

 

「とりあえず外に出よう。いつまた扉が閉まるか分からない」ベルが冷静に判断を下す。

 

誰も異論を唱えず、一行は足早に出口へと向かった。アルドゥラムギェットは小さな手でルナの手をぎゅっと握り、共に歩いた。

 

やがて外の空気に触れた瞬間、遺跡の入口は音もなく再び閉ざされた。

 

「さて……こいつをどうする?」ハワードが腕を組み、じろりと子供を見やる。

 

その声にアルドゥラムギェットはビクリと肩を震わせ、怯えの表情を浮かべた。

 

「ハワード! 大きな声を出さないで!」ルナが咎める。

 

ベルが優しく問いかける。「言葉は……分かるのかな?」

 

だが返事はない。沈黙だけが漂った。

 

リュウジがルナを見やり、問いかける。「お前には……分かるのか?」

 

ルナは少し考えてから答える。「はっきりとした言葉が理解できているわけじゃないの。でも……なんとなく意味が伝わる感じなの」

 

ベルが顎に手を当てる。「……テレパシーか?」

 

ルナは小さく首を振った。どういう仕組みなのかは自分にも説明できない。

 

「まあいいさ。それより、その子の名前は何なんだ?」ハワードが不機嫌そうに問いかける。

 

ルナは微笑み、子供の頭を撫でながら答えた。「アルドゥラムギェット……そう呼ばれていたわ」

 

「アルドゥ……なんだ? ややこしい! アダムでいいだろ」ハワードが勝手に決めつける。

 

「アダム?」ルナは首を傾げた。だが確かに呼びやすい。小さく笑いながら子供に問いかける。「あなたの名前、アダムでいい?」

 

アルドゥラムギェット――いや、アダムは嬉しそうに頷いた。

 

「そろそろ大いなる木に戻ろう。皆が心配している」ベルの提案に、ルナも頷いた。「そうね。帰りましょう」

 

アダムの手を引き、一行は帰路についた。

 

だが歩きながら、リュウジは胸に奇妙な不安を覚え、立ち止まった。振り返ると遺跡は静まり返っており、何事もなかったかのようにそびえている。

 

それでも、得体の知れない胸騒ぎが消えない。「……なぜだ?」

 

「リュウジ? どうしたの?」ルナが振り返る。

 

「……いや」リュウジは短く答え、再び歩き出した。

 

その不吉な予感が的中したのかどうか――四人が去った直後、遺跡の天頂から光が走り、空へと向かって放射されていった。その光はまるで、遠い宇宙へ信号を送っているかのように。

 

◇◇◇

 

夕刻、大いなる木に戻ったルナたちの姿を見て、拠点で待っていた仲間たちは一斉に駆け寄ってきた。先頭を歩いていたルナの隣に、見慣れない水色の髪をした少年がいることに、誰もが驚きの声をあげた。

 

「ルナ、その子は……?」

チャコは不安そうにルナの足元に寄り添った。

 

「新しい……人なの?」シャアラが目を丸くして問う。

「でも、肌の色が……」メノリは言葉を濁した。

 

 仲間たちが戸惑うのも無理はなかった。アダムは彼らとは違う色をした肌に、水を連想させる透き通るような髪。視線を受けると、怯えながらもルナの手を握って離さなかった。

 

 ルナは少し深呼吸し、皆に向き直る。

「この子は……遺跡で見つけたの。名前は“アダム”。今はまだ言葉を話せないけれど、悪い子じゃないわ」

 

 彼女の言葉に、仲間たちは一旦は納得しようと頷いた。だがその目には、どうしても警戒心が浮かんでいた。

 それでもルナが真剣に守ろうとする姿勢を見せると、仲間たちも強く反対することはできなかった。

 

 そうして夜の支度が進んでいく中、アダムは周囲の動きをじっと観察していた。火を囲んで食事をする様子、器を手に持って口に運ぶ動作、布を敷いて横になること。ひとつひとつに驚きや興味を示し、まるで見よう見まねで自分も真似をしようとする。ルナが「座るのよ」と示せば、ぎこちなく腰を下ろす。チャコが器を両手で持てば、自分も同じように両手を前に出して真似をする。そんな姿に、仲間たちも次第に警戒よりも不思議さと微笑ましさを覚えていった。

 

◇◇◇

 

 翌朝。

 リュウジはいつものように少し離れた場所で、無骨なナイフを手に石を当て、シャッシャッと刃を研いでいた。彼の動きは無駄がなく、鋭く光る刃先に集中する姿は近寄りがたい雰囲気を漂わせている。

 

 その静寂を破ったのは、小さな足音だった。

 振り返ると、アダムが無言のまま近づいてきていた。大きな瞳で刃物を凝視し、まるでその光に吸い寄せられるかのようだ。

 

「……危ないから近づくな」

 リュウジは短く言い放ち、視線を石と刃先に戻す。だがアダムは立ち止まらず、さらに一歩踏み出す。

 

 そのとき、後ろからルナの声が響いた。

「アダム! リュウジの邪魔をしちゃいけないの」

 

 だがアダムは、彼女の声に反応は見せず、じっとリュウジの手元を見続ける。その小さな額には汗が浮かんでいた。

 

「どうしよう……」ルナは小さく息を呑み、リュウジの横にしゃがみ込んだ。「一度は止めても、また来ちゃうと思うの」

 

 リュウジはため息をつき、刃先を石に当てる手を止めた。冷たい視線をアダムに向ける。

「……ルナと一緒なら、見ててもいい。だが絶対に手を出させるな」

 

 ルナは少し安心したように微笑み、アダムの肩に手を置いた。

「分かった? ここから見てるだけよ」

 

 アダムは小さく首を傾げた後、ルナの真似をするように腰を下ろし、じっとリュウジの手元を観察し始めた。その様子を横目で見たリュウジは、また石を動かし始める。

 シャッ、シャッと刃を研ぐ音の隣で、ルナとアダムの静かな視線が彼に注がれていた。

 

 リュウジはわずかに眉をひそめる。だが、その背中にはどこか諦めとも、静かな受容ともつかぬ空気が漂っていた。

 

◇◇◇

 

シャッ、シャッと、規則正しく響く刃を研ぐ音。

 その傍らに座るのは、ルナとアダム。二人とも口数は少なく、ルナは時おりアダムの肩にそっと手を置いて「ここから見るだけよ」と優しく諭し、アダムは素直に頷いて、じっとリュウジの動きを凝視していた。

 アダムの小さな横顔には、憧れにも似た真剣さが宿っている。リュウジの荒々しい手つきに息を呑み、ルナの表情を伺って安心を得る。その繰り返しだった。

 ルナもまた、集中して作業を続けるリュウジの横顔を見守りながら、時折微笑を浮かべる。どこか母親のようでもあり、同じく仲間を支える者として隣に並び立つ相棒のようでもあった。

 

 その静かな三人の姿を、少し離れた木陰からじっと見ている二人がいた。チャコとハワードだ。

 チャコは口をつぐみながらも、尻尾をパタパタと揺らして視線を三人に注いでいる。ハワードは両腕を組み、不敵な笑みを浮かべていた。

 

「なあ、チャコ……」

 ハワードが小声で呟くと、チャコは耳をぴくりと動かしながら「ん?」と首をかしげた。

 

「どう見てもあれ……まるで夫婦だよな」

 

 言葉を聞いた瞬間、チャコは「ぷっ」と小さく吹き出し、口元を押さえた。

「しーっ、チャコ! そんなこと言ったら聞こえちゃうよ!」

「いいや、聞こえてもええやろ。あんなに自然に並んどる二人、そうそうおらんで」

 

 チャコは得意げに顎をしゃくり、研ぎ石に集中するリュウジ、その隣に座るルナ、さらに彼女に寄り添うように身を預けているアダムを交互に見やった。

 

「ほら見ぃ。旦那が一心に仕事して、嫁さんが隣で子どもと一緒に見守っとる。まんまやないか」

「う……ん……確かに、そんなふうに見えるかも……」

 ハワードは真剣な表情を崩さぬリュウジと、彼の刃先を見守るルナの柔らかい横顔を交互に見つめ、小さく笑った。

「でも……ルナはそんなこと言ったら怒るだろう」

「怒ったって、図星やからやろな」

 

 ハワードは肩を揺らして笑いをこらえる。だが声が少し大きかったのか、ルナがふとこちらに顔を向けた。

 

「……?」

 

 不思議そうに首をかしげるルナに、ハワードは慌てて背を向け、「なんでもない、なんでもない!」と手を振った。チャコも「えへへ……」とごまかすように笑い、しっぽを丸める。

 

 再びルナがリュウジの隣に視線を戻すと、チャコはこっそり息を吐いた。

「……なあ、チャコ。あれ、ほんまにそのうち……ってやつやで」

 ハワードは目を瞬かせ、少し考えるように尻尾を揺らした。

「でも、きっとリュウジのやつは気づいてないよ。ルナも……どうなんだろうな」

「ふん、そういうもんかもな。でもな、あの雰囲気はごまかされへん。ウチの目は確かやで」

 

 二人は顔を見合わせ、堪えきれずにまたクスクスと笑った。遠くから眺める三人の姿は、どこか柔らかく温かい空気を漂わせ、拠点に暮らす小さな「家族」のような光景に見えたのだった。

 

◇◇◇

 

ルナはそっとアダムの肩に手を置いた。手のひらに伝わる微かな温もりが、ほんの少しだけ不思議な感覚を呼び起こす。アダムはまだ言葉を発さないが、その存在感は確かで、まるで小さな火種のようにルナの胸の奥に触れてくる。肩に触れる手の感覚に意識を集中させると、心が少し落ち着くように感じた。

 

しかし、無意識のうちにルナの視線は、アダムではなく隣に立つリュウジの方へと向かっていた。リュウジは手元の刃物を研ぎながら、静かに集中している。鋭い刃先に光が反射するたび、ルナの心臓が小さく跳ねるのを感じる。胸の奥がわずかに熱くなり、呼吸がいつもより速くなる。まるで、自分の心臓の鼓動がリュウジに聞こえるのではないかと、ぎこちない不安が生まれた。

 

その時、遠くからハワードとチャコの声が聞こえた。「まるで夫婦やな」

ルナの肩に置いた手がわずかに硬直する。耳に届く二人の軽口は、冗談のつもりなのだろう。しかしルナの心には、ほんの少しの羞恥と、説明しがたい胸の高鳴りが押し寄せる。顔の奥が熱くなり、頬が自然と赤く染まるのを感じた。手のひらの力を少し強くして、アダムの肩にそっと触れ続ける。手を離すわけにはいかない。なぜなら、この温もりと、この瞬間の感覚は、守らなければならない何かのように思えたからだ。

 

ルナの意識は、アダムの肩と手のひらの感触を通して、自然にリュウジに引き寄せられていく。リュウジの背中、腕の筋肉の動き、真剣な眼差し……それらが一つひとつ、ルナの心をかすかに揺さぶる。胸の奥に潜む微かな感情が、ハワードたちの冗談とは無関係に、じわじわと熱を帯びてくる。自分の心が、知らず知らずのうちにリュウジを意識していることに、ルナはほんの少し戸惑いを覚えた。

 

「……変な気分」

ルナは心の中で小さく呟く。確かに、アダムを守るための自然な行動ではある。けれど、その行動の先にある、リュウジの存在感の大きさに、胸の奥がざわつく。手のひらに伝わる温もりの心地よさと、隣に立つリュウジの静かな強さが、微妙に絡み合って、心臓を小さく揺さぶるのだ。顔が熱くなるのも、自然なことだと理性では理解しても、感情は素直に反応してしまう。

 

ルナは視線を下に落とし、アダムの肩に置いた手に集中する。微かに震える肩、柔らかな皮膚。これらすべてが、ルナの心に「守るべき存在がここにいる」という確信を与える。そしてその感覚は、隣にいるリュウジの存在と交差する。無言で、ただ並んでいるだけのリュウジだが、その背中の存在感が、ルナの胸をぎゅっと締めつけるように温かくなる。

 

遠くでハワードとチャコの声が笑いながら響く。茶化す声を耳に入れつつも、ルナはその声を遮るように意識をリュウジに向ける。隣にいるだけで、心が落ち着き、しかし不意に熱を帯びる感覚。リュウジの存在が、守るべきものと、心を揺さぶる存在とが一つに混ざり合う瞬間だった。

 

ルナの頬は自然と赤く染まり、心臓が小さく早鐘のように打つ。こんな感覚は初めてではないが、アダムを守る責任感と、リュウジの隣で感じる微かな期待や温かさが、これまで以上に強く胸を満たしていた。自分が今感じているこの胸の熱さ、心臓の鼓動の速さは、守るための責任感だけではなく、もっと別の感情が絡んでいることを、ルナは否応なく認めざるを得なかった。

 

「……いいのよ、今は」

ルナは心の中で自分に言い聞かせる。恥ずかしい感情も、心臓の高鳴りも、遠くの茶化す声も、今のこの瞬間にある感情には関係ない。大切なのは、目の前にいるアダムを守ること、そして隣にいるリュウジの存在を受け入れること。手のひらに伝わる温もりに集中し、頬の熱さを微かに感じながら、ルナは静かにその場に立ち続ける。

 

ルナの視線は、無言のままアダムの肩とリュウジの背中を交互に見つめる。遠くで茶化す声が響くたびに、心が小さく跳ねる。恥ずかしさと胸の高鳴りが混じった感覚は、言葉にできない微妙な喜びとしてルナの胸に広がった。守るべき存在、頼れる隣人、そして、心の奥で意識せずにはいられない存在。その三つが重なり合い、ルナの心は一瞬にして温かく、そして少しずつ熱を帯びていく。

 

ルナは手をそっと動かさず、アダムの肩の温もりを確かめ、胸の奥の熱を感じながら、遠くで茶化す声を聞き流す。心の奥底で微かに笑みを浮かべ、頬の熱さに気づきながらも、自分が今ここで守るべきものを、静かに、しかし確かに抱きしめる決意を胸に刻んだ。

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