サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

60 / 181
第60話

ルナが目を覚ましたのは、枕元で震える携帯の着信音だった。

 

 耳に刺さるほど甲高い電子音が、暗い部屋の静けさを裂く。眠りの底に沈んでいた意識が、いやでも引き上げられる感覚に、ルナは眉をひそめながら片手を伸ばした。画面に浮かんでいるのは、見覚えのない番号。

 

 一瞬だけ胸が跳ねる。

 ――誰だろう。

 それでも、躊躇はなかった。指が自然と通信ボタンを押していた。

 

「……もしもし」

 

 自分の声が、思ったよりかすれていた。喉の奥がカラカラで、まるで砂を噛んだみたいに痛い。

 

『ルナさんですね。宇宙管理局です』

 

 機械の向こうの声は事務的で落ち着いているのに、その言葉だけでルナの背筋が硬直した。

 宇宙管理局。

 その単語が、二日間胸に押し込めてきた不安を、いきなり喉元までせり上げさせる。

 

『至急、ソーラ・デッラ・ルーナへお越しいただけますか。詳細は到着後に』

 

 呼吸が一拍遅れた。

 “至急”。

 “詳細は後”。

 その組み合わせが、良い知らせにも悪い知らせにも聞こえてしまって、ルナは瞬間的に言葉を失う。

 

「……分かりました。すぐ行きます」

 

 返事は、驚くほど冷静に出た。

 自分でも不思議だった。心臓は暴れるほど打っているのに、声だけは勝手に整っている。

 

 通話が切れる。

 携帯の画面が暗くなると同時に、部屋の暗さが再び戻ってきた。

 

 ルナはベッドを飛び出した。足の裏が冷たい床を踏む感覚すら、いまは遠い。椅子の背にかけてあった黄色のジャンパーを掴み、袖を通す。ファスナーを一気に引き上げながら、鏡の前を横切った瞬間――目が腫れて赤い自分が映って、息が詰まった。

 

 でも、立ち止まらない。

 今は泣いた顔を気にする時間なんてない。

 

 昇降機のスイッチに手を伸ばす指が、ほんの少し震えた。扉が開く。中に乗り込み、下降のボタンを押す。

 機械が静かに唸って、床がゆっくりと沈んでいく。

 

 胸の中では、さっきの声が反芻されていた。

 “至急”。

 “詳細は到着後”。

 そこにどんな意味が隠れているのか、想像しようとしても、恐ろしくて最後まで思い切れない。

 

 やがて昇降機が止まり、扉が開く。

 

 リビングに降りたルナは、そこで凍りついた。

 

 ソファに、椅子に、床に近い場所に――

 皆がいた。

 

 ハワードがソファの背もたれに肘を乗せてこちらを見ている。

 ベルはキッチン側でコップを手にしたまま動きを止め、シンゴはテーブルの端に腰をかけて、目を丸くしていた。

 カオルは部屋の奥、ルナの部屋の扉の近くに立っていたのに、ルナの姿を見た瞬間だけ視線が揺れる。

 メノリは背筋を正してソファに座り、シャアラはその隣で、ほっとしたように息を吐いた。

 

 ルナの頭は一瞬、真っ白になった。

 

 ――え、どうして。

 ――みんな、ここに……?

 

 すぐに、胸の奥に針みたいな痛みが走った。

 きっと、心配させちゃったんだ。

 私が――動けなくて、泣いて、寝込んで。

 そのせいで。

 

「……」

 

 喉が詰まりかける。

 でも、口を開かなきゃ。

 

「みんな……」

 

 声が震えた。

 

「来てくれて、ありがとう」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。

 泣きそうな気配をごまかすように、ルナは無理やり笑う。笑ったつもりだった。

 

 シャアラが一歩立ち上がって、柔らかく笑った。

「ルナ……よかった。起きてくれて」

 

 ベルが頷く。

「顔、少し良くなったな」

 

 その言い方が不器用すぎて、ルナの胸の奥がまたぎゅっとなる。

 

 ハワードはわざとらしく肩をすくめた。

「そりゃ僕たち仲間だし? 放っとけるわけないじゃん」

 

「ハワード」

 メノリが硬い声で制す。

 だが、その目には責める色より、どこか安堵が濃かった。

 

「……どこか行くのか?」

 メノリが改めて尋ねた。

 だろう口調の低い声。けれど、柔らかい。

 

 ルナは頷いた。

「うん。今、宇宙管理局から電話があって……すぐソーラ・デッラ・ルーナに来てって」

 

 その瞬間、部屋の空気が変わった。

 誰もが、息を止めたように静止する。

 

「……なるほど」

 メノリが小さく息を吐く。

「行くんだろう?」

 

「うん。行く」

 

 ルナは真っ直ぐ答えた。怖さがないわけじゃない。けれど、今の自分に逃げ道はないと分かっていた。

 

 メノリが立ち上がった。迷いのない動きだった。

「私も行こう」

 

「え?」

 ルナが思わず目を見開く。

 

「ルナを一人で行かせる理由がない」

 メノリは淡々と言い切ったあと、皆に視線を向ける。

「他のみんなは、ここで待っていてくれ。」

 

 ベルが口を開きかけたが、メノリの表情を見て言葉を飲み込む。

 シンゴも頷き、シャアラは不安そうにルナの肩を見るだけに留めた。

 

 そのとき。

 

「僕も行く」

 

 低い、いつになく真剣な声。

 

 ハワードが立ち上がっていた。

 いつもの軽い笑みはない。目の奥が、まっすぐ一点を射抜いている。

 

「ハワード、待て」

 メノリの声が鋭くなる。

「お前が行っても――」

 

「行く」

 ハワードは改めて言った。

 言葉は短いのに、背中に重さがある。

 

「ルナに何かあったら嫌だし、

 それに、ちゃんと“聞く役”が必要だろ?」

 

 普段なら、調子に乗った台詞に聞こえるのに、今は違った。

 ハワードは冗談を言っていない。

 

 メノリが口を開きかけ、閉じた。

 彼の眼を見て、理解したのだろう。

 いつもの“我が儘な御曹司”じゃない。

 サヴァイヴの地獄を一緒に越えてきた、“仲間としてのハワード”の目だ。

 

「……分かった」

 メノリが短く頷いた。

 それが彼女の譲歩であり、信頼だった。

 

「ただし、勝手な行動はするなよ。

 私の指示に従うんだろうな?」

 

「分かっている」

 ハワードが苦笑いを浮かべる。

 けれど、その笑いの裏側に、ちゃんと覚悟が見えた。

 

 ルナは二人のやり取りを見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 私は、ひとりじゃない。

 ずっと前から分かってたはずなのに、今ようやく体の芯に落ちてきたみたいだった。

 

「……ありがとう、二人とも」

 

 ルナが言うと、メノリは照れ隠しみたいに視線を逸らし、

「礼を言うのは後でいい。行くぞ」

と、いつもの調子で言った。

 

 ハワードはルナの隣に並ぶ。

「ほら、ジャンパーちゃんと着ろよ。外、寒いからさ」

 

「うん」

 

 ルナは小さく頷いた。

 胸の奥の空洞はまだ冷たい。

 でも、その冷たさの周りに、仲間の体温が確かに寄り添っている。

 

 そして三人は、リビングを後にした。

 

 扉が閉まる直前、ルナは振り返る。

 ベルが真っ直ぐに頷き、シンゴが拳を握って見送っている。

 シャアラは祈るように胸の前で手を組み、

 カオルは一言も言わないまま、鋭い眼でルナの背中を守っていた。

 

 ――行ってくるね。

 言葉にしなくても、心は伝わった気がした。

 

 廊下に出ると、人工灯の白さがやけに眩しい。

 外の空気は冷たく、だけど肺に入るたび、ルナの意識が少しずつはっきりしていく。

 

 ソーラ・デッラ・ルーナへ。

 そこに待つのが“希望”か“絶望”かは分からない。

 でも、今のルナはもう一人じゃなかった。

 

 三つの足音が、同じ速度で夜のコロニーへ踏み出していった。

 

ーーーー

 

 ソーラ・デッラ・ルーナの正面ゲートは、いつもより硬い空気に包まれていた。

 見上げるほど高い壁と、そこに並ぶ警備の黒い影。ニュースで何度も見たはずの管理局の紋章が、今日はやけに冷たく見える。

 

 ルナ、メノリ、ハワードの三人が足を踏み入れた瞬間、二人の局員が前に立ちはだかった。

 

「止まってください。関係者以外の立ち入りは――」

 

 ルナは息を飲み、咄嗟に一歩前へ出た。

 胸の奥がざわつく。足元がふわりと浮くような感覚。それでも声はしっかり出さなきゃいけない。

 

「私はルナです。呼ばれました」

 

 局員が端末を確認し、すぐに顔を上げる。

 

「ルナさんですね。……では、そちらのお二人は?」

 

 視線がメノリとハワードに向けられる。

 局員の目はまだ礼儀を保っているが、“通すべきかどうか”を計る警戒が濃い。

 

 ルナは一瞬だけ言葉に詰まり、けれどすぐに答えた。

 

「大切な友達です。私、一人じゃ――」

 

「申し訳ありません」

 局員の声は丁寧だったが、遮る速度は冷たかった。

「ご親族の方以外はお通しできません。ここは現在――」

 

「おいおい」

 ハワードが思わず口を挟みかける。軽い口調の裏に、噛みつきたい衝動が透ける。

 だがメノリがハワードの袖を掴み、首を一度振った。

 “今は堪えろ”という合図。メノリのだろう口調なら、ぷつりと切れそうな場面でも、まずは状況を見る。

 

 ルナは唇を噛んだ。

 そのとき、背後から硬い靴音が近づいた。

 

「通してあげなさい」

 

 低く、疲れた声。

 振り返るまでもなく分かった気がした。

 

 ペルシアが歩いてきた。

 制帽を被った姿はいつも通り凛としているはずなのに、ルナは息を呑む。

 二日前に見た彼女より、確実に痩せている。頬の線が鋭くなり、目の下の濃いクマを隠すためか、厚い化粧が不自然に浮いていた。

 それでも唇は引き結ばれ、背筋は折れていない。

 “折れてたまるか”とでも言うように。

 

 ルナは思わず小さく声を漏らした。

 

「ペ、ペルシアさん……」

 

 ペルシアは一瞬だけルナを見た。

 その目は、傷ついた人の目だった。

 けれど次の瞬間には、感情を押し込めるように鋭さだけを残して局員を見据える。

 

「し、しかし担当官……」

 局員が困惑した声を上げる。

 

 ペルシアは間髪入れずに切り捨てた。

 

「今回の担当官は私よ。私がいいって言ってるの。

 それに彼らはハワード財閥の御曹司に、ヴィスコンティ議員の御息女よ。

 あなたに責任が取れるの?」

 

 声は静かで、しかし切っ先のように鋭い。

 それがどれほど無理を押し込めた声音か、ルナには分かった。

 怒りと焦りと恐怖と後悔、それら全部を噛み殺して、ペルシアは“担当官”として立っている。

 

 局員の顔色が変わる。

 肩が小さく跳ね、立場の差と責任の重みを一瞬で理解した顔だった。

 

「……わ、分かりました。案内します」

 

 局員は慌てて道を開ける。

 ペルシアはそれ以上何も言わず、制帽のつばを深く引き、ルナにだけ一瞬視線を寄越すと――そのまま踵を返した。

 “歩け”と背中が言っている。

 

 三人は局員に促され、白く長い通路を進む。

 通路の窓の向こうには宇宙港の広い視界が広がっているはずなのに、今日だけは壁の中に閉じ込められたような圧迫感があった。

 

 会議室の扉が開く。

 瞬間、重たい空気が波のように押し寄せた。

 

 二日前より、さらに人が増えている。

 俯いたまま肩を震わせる人、互いに抱き合う人、机に拳を落として泣き叫ぶ人。

 その表情のどれもが、深い闇の底で揺れていた。

 ――ブライアン一行の親族、そしてラスペランツァの親族。

 ルナは胸の奥が軋むのを感じながら、ゆっくりと室内を見渡す。

 

 そして、すぐに見つけた。

 

 小さな少女が、椅子の上で小さく縮こまって泣いている。

 ユイ。

 二日前に抱きしめた、あの子だ。

 

 ルナは迷わずそこへ歩き、隣の椅子に腰を下ろした。

 そっと手を伸ばし、指先でユイの手を包む。

 

「ユイちゃん……」

 

 呼びかけた声は、震えていた。

 ユイは泣き濡れた瞳でこちらを見上げ、喉の奥で小さく息を詰まらせる。

 

「ルナ……お姉ちゃん……」

 

 しがみつこうとする小さな手を、ルナはぎゅっと握り返した。

 言葉が出ない。

 “大丈夫だよ”なんて、今の状況で軽々しく言えない。

 ただ手を握ることだけが、今できる唯一の“答え”だった。

 

 その背後で、メノリとハワードが席を取る。

 二人はユイとルナのすぐ後ろ、角度を変えて全体が見渡せる場所に腰を下ろした。

 メノリは背筋を伸ばし、周囲の空気を静かに測っている。

 ハワードは唇を噛み、落ち着きを装おうとするが、椅子の脚が小刻みに震えている。

 

 やがて、扉の前がざわついた。

 ペルシアが入ってきたのだ。

 

 制帽を脱ぎ、制服の襟を正す。

 その動き一つひとつが疲労の上に乗っているのに、彼女は崩れない。

 崩れることを許さない“役目”が、今のペルシアを立たせている。

 

「皆様……お集まりいただき、ありがとうございます」

 

 声はかすかに震えていた。

 けれど、言葉ははっきりと会議室に届く。

 

「ブライアン一行、そしてラスペランツァの捜索状況について、報告いたします」

 

 瞬間、室内の空気がぎゅっと硬くなる。

 誰もが、次に来る言葉を恐れている。

 それでも聞かなければならない。

 その覚悟が、押し黙った会議室を重くした。

 

 ペルシアはゆっくりと息を吸った。

 唇が薄く結ばれ、顎の線が揺れる。

 

「現在までに発見されたのは、セーシング領域の縁における中継ベイの破片のみ。

 探査機本体およびクルーの生存反応は――確認できていません」

 

 ざわめきが起きる。

 誰かの嗚咽。

 椅子がきしむ音。

 ルナの手を握るユイの指に、力がこもった。

 

 ペルシアは続けた。

 

「規定により、消失から三日間は最大限の捜索を行いました。」

 

 その先の言葉が、ルナの胸の奥を凍らせた。

 

「本日二十時をもって、捜索活動を打ち切ります」

 

 会議室が、一瞬にして爆発した。

 

「ふざけるな!!」

「まだ生きてるかもしれないだろう!」

「勝手に決めるな!」

「なんで諦めるんだ!」

「何のための管理局だ!!」

 

 怒号と罵声が、壁を叩くように飛び交う。

 泣き声が混じり、椅子が倒れる音が混ざる。

 誰かが机を叩き、別の誰かがその人の肩を掴んで止めようとする。

 悲しみと怒りが、無差別にぶつかり合う。

 

 ペルシアは、そのすべてを正面から受け止めた。

 背中を丸めず、目を伏せず。

 ただ、深く頭を下げ続ける。

 

「……っ、まだ、セーシング領域の外を探せば――!」

 誰かの声が割れる。

 

 ペルシアは顔を上げ、真っ直ぐに答えた。

 その目は赤く腫れているのに、芯だけは失っていない。

 

「セーシング領域外の捜索は行いません」

 

 ――また怒号が跳ねる。

 

「なんでだ!」

「危険だからか!」

「それでも、人命だろう!」

「あなたたち、英雄を使い捨てにするのか!」

 

 言葉が、ナイフみたいに突き刺さる。

 ペルシアは唇を噛み、喉の奥を絞るように声を出した。

 

「領域外の航行は、現行法で想定される危険度を超えます。S級パイロットでしか認められていません。……あなた方も、分かっていたはずです」

 

 言い終わると、ペルシアは再び深く頭を下げた。

 まるで罵声も怒号も、“担当官の責務”として受け止める装置になったかのように。

 

 ルナの視界が揺れた。

 耳が遠くなり、怒号が水の中の音みたいにこもっていく。

 “打ち切る”。

 “行わない”。

 “セーシング領域外”。

 その言葉の列が、胸の中で何度も何度も反響して、理解が追いつかない。

 

 ――このまま、終わるの?

 ――リュウジは、チャコは、みんなは……?

 

 握っていたユイの手が震え、ルナの指に爪が食い込むほど強く掴まれる。

 ユイの嗚咽が、肩越しに伝わってきた。

 

 ルナはユイの手を、さらに強く握り返した。

 何か言えば壊れてしまいそうで、言葉が出ない。

 胸が息苦しい。

 でも――今、ユイを離すわけにはいかない。

 

 背後で、メノリが立ち上がりかけた気配がした。

 言いたいことがあるのだろう。

 けれどメノリは、すぐに座り直す。

 “今は言葉より、ここに居ることが必要だろう”という判断が、その沈黙に滲んでいた。

 

 ハワードは拳を握りしめ、歯を食いしばっている。

 いつもなら飛び出して叫びそうなのに、今はじっと耐えている。

 耐えていること自体が、彼の成長に見えて痛かった。

 

 ――この空気の中で、ペルシアがどれほど苦しいか。

 ルナには分かってしまう。

 ペルシアは諦めたくて諦めてるわけじゃない。

 立場として“終わり”を告げなきゃいけないだけだ。

 それがどれだけ残酷か、ルナには肌で分かった。

 

 罵声は止まらない。

 泣き叫ぶ声が混ざり、誰かがペルシアに詰め寄りそうになるのを局員が慌てて止めている。

 ペルシアは頭を下げたまま、ただ受ける。

 

 その時間が、永遠みたいに長く感じた。

 

 ――そして。

 

 ビィーッ。

 

 突如、鋭い緊急音が会議室中に鳴り響いた。

 

 全員の動きが止まる。

 怒号も、嗚咽も、呼吸も。

 耳を裂くような単調な警告音だけが、室内を支配する。

 

 ペルシアが、はっと顔を上げた。

 まるで呼吸を忘れていた人が突然空気を吸い込むように、目が見開かれる。

 

「――っ」

 

 その瞬間、ルナの心臓が嫌なほど強く跳ねた。

 ユイの手がさらに強く握られる。

 背後でハワードが息を呑む音、メノリの椅子がきしむ音が重なる。

 

 緊急音は止まらない。

 それはまるで、“絶望の続き”か“希望の始まり”かを告げる合図のように、容赦なく鳴り続けていた。

 

ーーーー

 

非常通信――。

 その言葉の形が、緊急音の金属的な波の中から立ち上がった瞬間、会議室の空気が一度、凍った。

 

「……非常通信……!?」

 

 ペルシアは反射で耳元の通信機に指を押し当てた。鼓動が喉元までせり上がり、呼吸が浅くなる。だが、手だけは冷たく、正確に動いた。

 

「応答して!!」

 

 鋭い声が会議室に落ちる。

 次の瞬間、天井のスピーカーがざらついたノイズを吐き出した。

 

ザー……ザー……。

 

 聞き慣れた「何かの始まり」の音。

 けれど、その中にまだ言葉はない。

 

「ノイズ……?」

 

 メノリが小さく呟いた。その声が、わずかに震えていた。

 ざわめきが起こる。親族たちが身を乗り出し、誰かが「今のは何だ」と叫び、別の誰かが「説明しろ」と椅子を蹴った。

 

 しかしペルシアは、いっさい視線を動かさない。

 目を閉じ、耳元に手を添えたまま、全神経を聴覚へと押し込めていく。

 

 ザー、ザーという白い波の向こう、かすかな“ひび割れ”のような声が滲んだ。

 

『……マリ! ノイズが酷いわ!』

 

 女性の声。

 会議室の誰もが息を止める。

 

『分かってますが、調整が難しいんです……!』

 

 もうひとつ、若い声。

 ペルシアの膝が、わずかに揺れた。

 全身が熱くなる。胸の奥から、今にも溢れそうなものがこみ上げ、喉を焼いた。

 

 ――でも、ここで崩れたら終わる。

 

 彼女は震えを噛み殺し、通信機のスイッチを押し込んだ。

 

「すぐに逆探知!!! 通信を私と繋いで!! 急いで!!」

 

 会議室の奥から怒声が飛ぶ。

 

「おい! 説明しろ!」

「何が起きてるんだ!」

「今の声は誰だ!」

 

 ペルシアは瞼を上げ、鋭く振り返った。

 視線だけで空気が切り裂けそうなほどの、怒りと焦りと命令の眼。

 

「黙りなさい!!」

 

 叫びは一撃だった。

 罵声も怒号も、一瞬で喉の奥に引っ込む。

 ペルシアはそのまま、通信機に全意識を戻す。

 

『繋ぎました!』

 

 オペレーターの声が耳元で弾ける。

 ペルシアは手を当てたまま、喉の奥の震えを押し潰し、叫んだ。

 

「こちら管制! 聞こえてる!」

 

 ノイズの壁が少し薄れた。

 そして――返ってきた声が、今度ははっきりと、会議室全体を貫いた。

 

『ペルシア! こちらエリンよ!』

 

 瞬間、ペルシアの視界が白く跳ねた。

 羽のように軽い声が、今は信じがたいほど強く、はっきりとそこにあった。

 

『ネフェリスの非常回線に繋いどる! 長くは持たんで!』

 

 チャコの声。

 ざらつきが混じっても、あの関西弁は一発で分かる。

 

 ペルシアの喉がつまる。

 胸の内側の硬い塊が、一気に崩れそうになる。

 ――生きてる。

 ――全員、そこにいる。

 

 彼女は震えを飲み込み、声を繋いだ。

 

「エリン! 状況を!」

 

『大丈夫! ブライアンさん達も、私達も、全員無事よ!』

 

 その言葉が、会議室の天井スピーカーから――管制棟全体のスピーカーから、一斉に響いた。

 

 爆発。

 歓声と嗚咽と叫び声が一つになって、空気を揺らした。

 泣き崩れる親族、抱き合う人々、座り込んで両手を天に突き上げる人。

 それは二日前の絶望が、いま一瞬で裏返った音だった。

 

 ルナは口に手を当てたまま、目から大粒の涙を落とした。

 呼吸ができない。胸が痛い。けれど痛みの先に、確かな熱があった。

 

「よかった……本当に、よかった……!」

 

 ユイがルナの服を握りしめ、声にならない泣き声を上げる。

 ルナはユイを抱き寄せ、頭を強く撫でながら、ひたすら頷いた。

 

 ペルシアは涙が落ちそうになるのを噛み殺し、通信へ戻る。

 

「何が起こってたの?!」

 

『宇宙爆発が起こったのよ! それで電子系統は壊滅。

 宇宙船も衝撃波でボロボロ。今はネフェリスが、ブライアンさん達の避難シャトルを牽引しながら戻ってる!』

 

 会議室に再びざわめきが走る。

 “無事”の意味を、もう一段深い現実へ引き戻す情報だった。

 

 すぐに別の声が割り込む。

 

『チャコ! 姿勢制御ユニットがブラックアウト! 頑張って!!』

 

 サツキの凛とした、けれど必死の声。

 

『ぐぬぬぬ、やっとるがな!』

 

 チャコの返事は、明らかに踏ん張っていた。

 

 ペルシアの背筋が冷える。

 今、向こうは“生きている”だけじゃない。

 “生き残るために、今も戦っている”。

 

 そして。

 

『ペルシア! 俺だ』

 

 低い声。

 ノイズ越しでも分かる――リュウジ。

 

 会議室の空気が一斉に吸い込まれた。

 ルナの心臓が跳ね、耳が熱くなる。

 忘れようとしても忘れられない、あの落ち着いた声。

 

「リュウジ!」

 

 ペルシアの声が揺れた。

 担当官としての鋭さが、一瞬だけ“ただの仲間”の響きに戻る。

 

『ネフェリスも限界だ。すぐ救助船を送ってくれ』

 

 切羽詰まった指示。

 状況の危険を、短い言葉で突きつける。

 

「今、逆探知してる! もう少しだけ堪えて!」

 

 ペルシアは即答しながら、オペレーターに無言の圧で作業を促す。

 指先が、机を叩く代わりに通信パネルの上で細かく震えていた。

 

『リュウジ! 俺だ』

 

 今度は、さらに低く、重い声。

 ブライアン。

 

『ブライアン……!』

 

 リュウジの声が一瞬、息を呑んだ。

 

『こっちの船員を全員ネフェリスに移せ!』

 

 ブライアンの言葉に、会議室の親族が息を止める。

 ルナの背筋が凍る。

 “全員移せ”――つまり、置いていけという意味が含まれている。

 

『何言ってるの!!』

 

 クリスタルの声が鋭く飛ぶ。

 

『他はともかく、ブライアンは搬送できない! 腰の骨折よ、今動かしたら――!』

 

『俺はいい!』

 

 ブライアンの声は、あまりに静かで、だからこそ怖かった。

 

『このままだとネフェリスは堕ちる!

 シャトルを切り離せば、ネフェリスだけならまだ持つ!』

 

 ペルシアの心臓が、ぎゅっと握られたみたいに痛んだ。

 会議室の歓声が一瞬で引っ込み、空気が再び薄氷を張る。

 

 ルナは唇を噛み、ユイを抱く腕に力を込めた。

 “無事”はまだ終わっていない。

 向こうは今、命の天秤の上にいる。

 

 しばらく、通信の向こうが沈黙した。

 ノイズだけが薄く走る。

 リュウジが何かを飲み込んでいる気配。

 言葉を探している、あの間。

 

 そして――。

 

『……俺達はお前達を救うために来たんだ』

 

 リュウジの声が、鋼のように強くなった。

 

『お前にも帰りを待つ奴がいるだろ。

 ……全員連れて帰る』

 

 その宣言は、会議室にも刺さる。

 誰かが息を詰まらせ、泣き声がひとつ漏れる。

 ユイががくんと顔を上げ、目を丸くした。

 

『全員連れて帰る!』

 

 リュウジが言い放つたび、胸の奥が焼ける。

 それは無謀にも聞こえる。

 けれど――あの島で、何度も同じ無謀を“現実”に変えた男の声だった。

 

『リュウジ! これ以上は無理や!』

 

 チャコが叫ぶ。

 必死さが、ノイズを突き抜けてくる。

 

 ベイ……と何か金属の擦れる音、警告音、誰かの息遣い。

 向こうの宇宙船の中が、そのまま音になって流れ込んでくる。

 

 会議室では誰も喋れない。

 祈るしかない。

 ただ、音の一つひとつに命が乗っている。

 

 ノイズが、また濃くなり始めた。

 非常回線が限界に近づいている証拠だ。

 

『……頼むぞ、ペルシア』

 

 リュウジの声が、ざらついた波の中でかすれる。

 それでもはっきりと届く、信頼の重み。

 

 そのあとに続くはずの言葉は、途中で飲み込まれた。

 ザーッ、という白い雑音が通信を覆い尽くし、声の輪郭が溶けていく。

 

「リュウジ!? エリン!? チャコ!? 応答して!!」

 

 ペルシアが叫んだ。

 その声は、担当官の声でも、仲間の声でも、どちらでもあり、どちらでもなかった。

 ただ――“取り戻したい”という叫びだった。

 

 返事はない。

 ノイズだけが続く。

 

 ――だけど、彼女は泣かなかった。

 泣く暇を、彼女は自分に許さなかった。

 

 ペルシアは顔を上げ、オペレーターへ鋭い視線を投げた。

 

「逆探知、急いで!」

 

 オペレーターたちが一斉にキーボードを叩く。モニターに座標解析の波形が踊り、数値が走る。

 だが次の瞬間、赤いエラーログがモニターを塗りつぶした。

 

『……探知、失敗です! ノイズが強すぎて座標が割り出せません!』

 

 会議室が再びどよめいた。

 親族の間から「ふざけるな」「そんな馬鹿な」と怒声が上がりかける。

 

 しかしペルシアは、眉ひとつ動かさなかった。

 喉の奥が震えているのに、声だけは凍るほど冷静だ。

 

「……いい。逆探知はもういいわ」

 

 ペルシアはゆっくり息を吸い込んだ。

 目を閉じ、その瞬間だけ、頭の中で状況を整理する。

 

 ――通信が来た。

 ――非常回線もギリギリで繋いだ。

 ――ノイズはひどいが、まだ“届く距離”にいた。

 

 彼女は目を開け、静かに、しかし確信を帯びた声を会議室へ落とした。

 

「……通信が来たってことは、彼らはセーシング領域内にいるということよ」

 

 その一言が、重い空気の芯を貫いた。

 ざわめきが凍りつき、誰もがペルシアの顔を見つめる。

 

 ペルシアは会議室のスピーカーではなく、管制棟全体に繋がる指令回線を開いた。

 

「全コロニー管制へ――こちらソーラ・デッラ・ルーナ。緊急だ」

 

 声の強さが、部屋の空気を押しのけて広がる。

 

「ラスペランツァ及びブライアン隊、帰投中。

 座標不明。ただし、非常通信が届いた以上、セーシング領域内に存在するのは確定」

 

 オペレーターが息を呑み、各部署が動き出す足音が管制室に反響する。

 

「全コロニーの管制に捜索強化を依頼!

 今、ある宇宙船を――輸送船でも医療船でも整備艇でも、宙を飛べるものは全部よ。

 全てを注ぎ込んで!」

 

 怒鳴るのではない。

 命じる声だ。

 震えていない声が、いま必要な“軸”だった。

 

「セーシング領域内縁までの各航路を片っ端から潰す。

 レーダー、熱源、重力波、航跡、ありとあらゆる反応を拾い上げろ。

 私が統括する。報告は一分単位で上げて!」

 

 会議室の親族が、ようやく“希望の形”を理解しはじめる。

 罵声は消え、代わりに祈りのような静けさが湧く。

 

 ルナは涙を拭うことも忘れていた。

 ペルシアの背中が、あまりに強く、あまりに必死で――その姿が、リュウジと重なる。

 

 ペルシアは短く通信を切り替え、別系統へ即座に指示を飛ばす。

 

「スターフォクス、即時発進準備。

 セーシング領域内の捜索ライン、最短で張り直し。

 現場は“総力戦”よ。遠慮はいらない」

 

『了解!』

 

 フォックスの声が跳ね返ってくる。

 管制棟の空気が、ついに“捜すための空気”になった。

 

 ペルシアは最後に、会議室へ向き直った。

 深く頭を下げるのではない。

 まっすぐ立って、その場にいる全員の目を受け止める。

 

「……断念なんてしない。

 彼らが生きているなら、私たちが見つけ出す。

 最後までやるわ」

 

 誰かが小さく嗚咽を漏らした。

 ユイがルナの手をぎゅっと握り直す。

 ルナはその手を握り返して、何度も頷いた。

 

 ――逆探知は失敗した。

 でも、通信は繋がった。

 それは「まだ終わっていない」何よりの証拠だった。

 

 ペルシアは通信機を握りしめたまま、もう一度、受信ランプを見据えた。

 この先、どんなノイズが来ようと、どんな絶望が押し寄せようと。

 

 彼女の声は折れない。

 

「……ラスペランツァ。

 生きて戻ってきなさい。

 こっちは、必ず見つけるから」

 

そう心に誓った。

そしてペルシアは会議室の騒めきを背に、親族たちへ短く告げた。

 

「ここで待っていてください。追加情報が入り次第、すぐに共有します」

 

 そして視線を巡らせ、ルナ、ハワード、メノリの三人を見つめる。その目の奥には、疲労と、しかしまだ折れていない意志があった。

 

「ルナちゃん……ハワード、メノリ。

 あなた達は私と来て」

 

 有無を言わせぬ声だった。ルナは隣のユイの肩に手を置き、小さく微笑んだ。

 

「ユイちゃん。ちょっとだけ待ってて。すぐ戻るからね」

 

 ユイはこくりと頷き、小さな手でルナの袖を掴んだが、やがてゆっくり離した。

 ルナとハワード、メノリの三人はペルシアの後を追い、廊下へと出た。

 

 歩き出したペルシアは、ふらつく身体を壁に手をつきながら進む。

 見るからに限界が近い。

 

「ペルシアさん!!」

 

 ルナが慌てて肩に腕を回した。

 

「悪いわね……ほんの少し、立ちくらみしただけよ」

 

「大丈夫です、ゆっくりでいいですから」

 

 ルナの声は優しく、しかし必死だった。

 ペルシアは薄く笑い、三人に支えられるようにして歩き続けた。

 

 着いた先は通信室。

 壁一面のモニターと、跳ねるように動く数十人のオペレーター。

 その中央に、ペルシアはゆっくり足を踏み入れた。

 

「セーシング領域内の宇宙地図をメインスクリーンに。

 それと、エナジードリンク、一本持ってきて」

 

「ま、まだ飲むんですか!? ペルシアさん、この三日間……エナジードリンクしか飲んでませんよね!?」

 

 若いオペレーターが慌てて声を上げる。

 その指が震えているあたり、この三日間の異常な様子がよく分かる。

 

 メノリは視線を動かし、机の横に積まれた空き缶の山に目を留めた。

 少なく見積もっても二十本はある。

 

「まさか……これ全部……?」

 

「胃に穴が開くぜ……これは……」

 

 ハワードも引き攣った声を漏らした。

 

 しかしペルシアは声を荒げるでもなく、淡々と言った。

 

「胃に穴が開いて、みんなが助かるなら、安いものよ」

 

 その一言に通信室の空気が固まった。

 誰も反論できなかった。

 

「セーシング領域内の宇宙図、出ます!」

 

 オペレーターの声と同時に、巨大なスクリーンに広大な宇宙の地図が開示された。

 その中に無数の航路線、危険域、重力の歪みが示されている。

 

 ペルシアはルナたち三人を振り向いた。

 

「あなた達に聞くわ。

 リュウジのことを誰より知る、三人に」

 

 その声は硬く、それでいて震えていた。

 

「直感でもいい。

 リュウジは――どこを飛んでいると思う?」

 

 通信室の空気が止まった。

 三人は顔を見合わせ、すぐには言葉が出ない。

 

 サヴァイヴで長く共に過ごした。

 リュウジの判断、癖、リスクを取る場所、仲間を優先する気質。

 それらすべてを彼らは知っている。

 

 だが、ここは宇宙。

 サヴァイヴの島とは違う。

 広すぎる。危険すぎる。

 

 ハワードが深い息を吐き、髪を後ろに撫でつける。

 

「……正直、分からない。ここがサヴァイヴならまだしも、セーシング領域は広すぎるよ」

 

 メノリも肩をすくめた。

 

「私もです……。地図上の“合理的な場所”を言うことはできても……。

 “リュウジが行く場所”となると、確信が持てません」

 

 ルナは一歩、前に出た。

 胸元のネックレス――リュウジからもらった白い十字。

 

 彼女はネックレスを握り、そっと目を閉じた。

 

 ――リュウジ。

 ――どこにいるの?

 ――大丈夫なの……?

 

 胸の奥で、何かが脈打つように動いた。

 じわりと広がる温度。

 ナノマシンの反応が、わずかにルナの体内で灯る。

 

 宇宙の地図が広がる暗闇に、

 “ひとつの光”が点いたように脳裏に浮かんだ。

 

 気づけば、ルナの右手は静かにスクリーンへ伸びていた。

 

「……たぶん」

 

 震える声が漏れる。

 

「リュウジは――ここにいます」

 

 指先が示したのは、

 セーシング領域の西ではなく、

 常識的な帰投ルートのどれでもない。

 

 大きく外れた――南側、地球の裏側。

 

「そ、そこは……!?」

「あり得ない……あの方向は……!」

「航路から外れすぎてる……!」

 

 オペレーターたちがざわめく。

 確かに、そこは“普通なら行かない”場所だ。

 

 でも、ルナの指先は震えず、視線は真っ直ぐだった。

 

 ペルシアは、そのルナの横顔をしばらく見つめていた。

 そして――静かに頷いた。

 

「……ありがとう。三人とも」

 

 その声音は穏やかだが、底に強い決意が宿っていた。

 

「あなた達は会議室に戻って。

 ここから先は、私がやる」

 

 その言葉が、ゆっくり通信室に落ちた。

 

 ルナたち三人は深く頷き、静かに引き返した。

 廊下の外へ出る瞬間、ルナは振り返った。

 

 ペルシアは、誰よりも疲れた背中で、

 しかし二度と折れない姿勢でスクリーンを見つめていた。

 

ーーーー

 

 通信室の空気は、目に見えない糸で張り詰めていた。

 巨大スクリーンに映るセーシング領域の地図、その一点に残るルナの指の軌跡が、まだ薄く残像のように残っている。

 

 オペレーターの一人が、躊躇いがちにペルシアへ声をかけた。

 

「……ペルシアさん。本当に、探索機をそちらへ向かわせるんですか?」

 

 迷い、というより恐れだった。

 その一点は航路から外れすぎている。

 西側に総力を投入している今、南側に手を伸ばすのは“無駄撃ち”になる可能性が高い――そういう意味の問いだった。

 

 ペルシアは返事をしない。

 オペレーターが差し出したエナジードリンクを受け取り、プルタブを開ける。

 小さな金属音が、やけに大きく響いた。

 

 彼女は一口、喉へ流し込み、息を整えるように唇を拭った。

 その顔は疲れ切っている。瞳は充血し、頬はこけ、口紅の色だけが妙に鮮やかに浮いている。

 ――それでも、その声は揺れなかった。

 

「動かせる探索機は?」

 

 問い返され、オペレーターが背筋を正す。

 

「はい。現在、全ての宇宙船は西側のセーシング領域縁から北南百キロ地点に展開させるよう指示済みです。

 宙を飛べる船は全部、出発しています」

 

 ペルシアは顎に手を添え、スクリーンをもう一度見上げた。

 西側。正規の捜索範囲。

 “合理的な座標”。

 “誰もの想定の中にある場所”。

 

 オペレーターは言葉を継いだ。

 その声には、現場の現実が詰まっていた。

 

「そこから先ほどの地点へ向かうなら……スターフォックスでも五日はかかります」

 

 五日。

 たった五日で助けが届くなら、どれほどいい。

 けれどネフェリスは限界だと言っていた。

 牽引で速度も落ち、機体も傷だらけ。

 “五日”は、場合によっては“間に合わない”と同義だった。

 

「……分かったわ」

 

 ペルシアは短く頷いた。

 

「とりあえず各管制に伝達。

 レーダー探知と中継ベイの反応、徹底監視。

 どんな些細な変調も、見逃さないように」

 

「了解です!」

 

 何人ものオペレーターが一斉に動き出す。

 指がコンソールの上で踊る。通信が飛び、回線が走り、地図上の光点が忙しなく更新される。

 

 ペルシアはスクリーンから視線を外し、静かに踵を返した。

 通信室の出口へ向かって、ゆっくり歩き出す。

 

「……ペルシアさん?」

 

 背後から声が追った。

 

「ど、どこへ行くんですか?」

 

 ペルシアは歩みを止めない。

 肩越しにも振り返らず、いつもの軽い口調だけを残した。

 

「お花を摘みに行ってくるわ」

 

 その一言に、通信室の空気がわずかに緩む。

 冗談みたいな言い回し。

 けれど、彼女がこういう言い方をする時は、だいたい“大丈夫じゃない時”だと、現場の全員が知っていた。

 

 自動扉が閉まり、通信室の喧騒が薄く遠のく。

 廊下に出た瞬間、ペルシアの肩がほんの少し落ちた。

 

 ――今だけ。

 ――一歩、外に出たこの瞬間だけ。

 

 壁に手をついて息を吐き、制帽を深く被り直す。

 そして歩きながら通信端末を取り出し、親指で番号を呼び出した。

 

 呼び出し音。

 たった数秒が、やけに長い。

 

『……こちらグレートフォクス母艦、ナウスです』

 

 ロボットの機械音声。

 

 ペルシアは廊下の角、トイレへ向かう通路の陰に身を寄せ、声を落とした。

 それでも芯は鋭い。

 

「ナウスいい?

 すぐに出発準備を整えて」

 

『分かりました』

 

 「頼むわね」

ペルシアは短く告げて、別の番号に発信した。

二、三回のコールの後に繋がり、すぐに要件を告げた。

 

「逆探知に失敗した。

 でも通信が来たってことは、ネフェリスは“セーシング領域内”に戻ってる。

 そして……“南側”にいる可能性が高い」

 

 短い沈黙。

 向こうの制御音だけがかすかに聞こえる。

 

『……南側? 航路から外れすぎだろ』

 

 当然の反応だった。

 けれどペルシアは即答した。

 

「責任は私が取る」

 

『ペルシア――』

 

「頼めるのは、あなた達しかいないのよ」

 

 声がわずかに震える。

 それを悟られないように、彼女はすぐ言葉を継いだ。

 

「グレートフォクスも準備済みよ」

 

『……相変わらず無茶する女だ。だが、了解した』

 

 そのの声には迷いが混じっていなかった。

 あの人は、いつだって“現場の勘”を信じる。

 

 ペルシアは息を吸い、最後の言葉を押し出す。

 

「……頼むわよ」

 

『任せろ。必ず拾う』

 

 回線が切れる。

 廊下の静けさが戻ってきた。

 

 ペルシアは端末を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 喉の奥が熱い。

 歯を食いしばらないと、声が漏れそうだった。

 

 ――絶対に、取り戻す。

 ――私の耳で掴んだ命を、私の手で落とすわけにはいかない。

 

 彼女は一度だけ目を閉じ、深く息を吐くと、何事もなかったように背筋を伸ばした。

 

 そして、再び強い足取りで通信室へ戻るため、廊下を歩き出した

 

ーーーー

 

ネフェリスの操縦室は、薄い非常灯だけが赤く脈打つように点滅していた。

 割れたキャノピーの向こうは、ナノマシンシールドが辛うじて繋ぎ止める黒い宇宙。外は静寂のはずなのに、船内は金属が悲鳴を上げるたびに、空気そのものが裂けるような音が響く。

 

 計器類の半分は死んでいる。

 残りの半分も、いつ消えるか分からない。

 座席の足元に転がった小さな破片が、ネフェリスの揺れに合わせてカタカタと鳴いた。

 

「チャコ!」

 

 リュウジの声は鋭く、それでいて冷静だった。

 血で染まった左目の視界が赤い靄を作っているのに、操縦桿を握る左手は一切ぶれない。右肩は外れたまま、腕は垂れている。なのに、彼の背中は真っ直ぐだった。――あの“戦場の空気”が戻っている。

 

「分かっとる!」

 

 チャコは副操縦席の計器群に身体を預けたまま、両手のコードを自分の腕に巻きつけていた。

 ジャックインのユニットが彼女の身体に神経のように絡み、彼女自身が船の一部になっている。

 

「ネフェリス……いま、ほんまギリギリや。姿勢制御も重力制御も、心臓止まりかけやで」

 

 言いながら、チャコは指先で緊急経路を何度も叩く。

 ――応答が鈍い。

 熱にやられて、配線が痙攣でもしているみたいに、信号が途切れ途切れになる。

 

 後部の通路で小さな足音が跳ねる。

 サツキが工具箱を抱えて戻ってきた。額に汗。短い息。頬が蒼い。

 それでも瞳は、逃げない。

 

「サツキ、持たされる?」

 

 エリンがすぐ横へ寄り、彼女の肩を支えながら尋ねた。

 

「……時間、かかりますけど」

 

 サツキはエリンにだけ、きちんと敬語を置いた。

 それが彼女なりの“覚悟の形”だ。

 

「なんとかします。バイパス自体は繋いだんです。でも……もう一段、補強しないと、持ちません」

 

「三十分だ」

 リュウジが言い切る。

 

 その瞬間、サツキの目が大きく見開かれた。

 十秒でも惜しい現場で、三十分は長い。

 けれど同時に、三十分という猶予が“最後の希望”でもあるのを、彼女は理解した。

 

「……最善、尽くします!」

 

「頼む」

 

 短い言葉が、鎖のように重く落ちる。

 

 エリンが操縦席の背後へ戻りながら、ヘッドセットに手を当てた。

 

「マリ、中継ベイは?」

 

 エリンの呼び捨て。

 それがいつもの調子であることが、今は逆に救いだった。

 

「さっき投下したのが最後です」

 

 マリの声は乾いていた。

 無理に喉を鳴らして、冷静さを貼り付けている。

 

「もう、残っていません」

 

 その言葉と同時に、操縦席の右側の計器から、ぶすり、と煙が上がった。

 焦げた匂いが一気に広がる。

 

「チャコ! 耐熱シールドだ!」

 

 リュウジが即座に叫ぶ。

 このままなら熱で最後の生きた配線まで焼き切れる。

 耐熱シールドで内部温度を落とすしかない。

 

「何言うとんねん!? 耐熱シールドしたら、前が見えんくなるで!? キャノピーの内側、霜みたいに白になるんや!」

 

 チャコの怒鳴り声が跳ね返る。

 彼女の実況は正しい。

 耐熱シールドは船体を守る代わりに、視界を奪う。

 モニターが死んでいる今、視界まで消えれば操縦は“盲目”になる。

 

「ナノマシンシールドを解除する!」

 

 リュウジの声は迷いを一切含まない。

 

「それしかない。シールドに回してるエネルギーを戻せば、姿勢制御と重力制御が持つ」

 

「あかん!」

 チャコが噛みついた。

 

「モニターもレーダー以外壊れとるんや! ナノマシンシールド解除したら、外の破片がそのまま入ってくる。

 ほんで前も見えへん。レーダーだけで飛べ言うんか!」

 

 ――その通りだ。

 計器は“最低限の針”だけが息をしている。

 速度も方位も誤差だらけ。

 シールド解除は、死を近づけるのと同義になる。

 

 それでもリュウジは、操縦桿から目を逸らさない。

 

「今は“持たせること”が優先だ」

 

 言葉は静かだったが、重力のように落ちた。

 

「エリンさん。モニターの復旧、できますか?」

 

 リュウジがエリンにだけ向ける、柔らかい敬語。

 その一滴の温度が、冷えかけた船内に染みる。

 

「……やってみる!」

 

 エリンは頷くと、すぐに床へ膝をついた。

 割れた配線パネルをこじ開け、予備の端子を取り出す。

 肋骨にひびが入っているはずなのに、動きに迷いがない。彼女は痛みを“作業の外側”へ追い出すことを知っている。

 

「マリ」

 

 リュウジが次の命令へ移る。

 

「もうセーシング領域内だ。微弱でもいい。電波を飛ばせる機器を作って外へ放出しろ。

 レーダーに引っかかる目印が必要だ」

 

「分かった。何とかしてみる」

 

 マリが背後へ駆ける。

 通信区画へ飛び込む音が遠くで鳴った。

 彼女の背中が小さく揺れたのは、恐怖だけじゃない。

 ――“今動かなきゃ終わる”と分かっている人間の、焦りの揺れだ。

 

「クリスタル、そっちは?」

 

 リュウジの声に、通信機が微かに返った。

 

『こっちは大丈夫。シャトルの生命維持、なんとか持ち堪えられそう』

 

 クリスタルの声は静かで、しかし芯が硬い。

 ――“持ち堪えられそう”。

 それは“いつ崩れてもおかしくない”という現実の裏返しなのに、彼女は“そう言う”ことで仲間を立たせる。

 

「了解。引き続き頼む」

 

『任せて』

 

 短い返答の向こうで、シャトルの中のうめき声が一瞬だけ混じった。

 それだけで、彼女が今どれほどタイトな処置を続けているか分かる。

 

 操縦室の天井がミシ、と鳴った。

 衝撃波で歪んだフレームが、熱でさらに膨張している。

 赤いランプが一段階増えて、警告音が高くなる。

 

「……チャコ」

 

 リュウジが静かに名前を呼んだ。

 

「一か八かだ」

 

 チャコの瞳が、わずかに揺れる。

 彼女だって分かっている。

 ここで船体を守らなければ、全員が宇宙へ放り出される。

 

「……っ、やるしかないやろ」

 

 チャコは両手を計器へ伸ばした。

 ジャックインのコードをさらに深く握り、痛覚センサーを切る。

 その瞬間、彼女の背筋がびくん、と反る。

 ネフェリスの内部温度が、チャコの神経に“焼ける痛み”として流れ込んでいる。

 

「耐熱シールド、起動!」

 

 チャコが叫ぶ。

 スイッチが押し込まれた瞬間、船体が低い唸り声を上げた。

 まるで巨獣が肺いっぱいに冷気を吸い込むように。

 

 キャノピー内側が一瞬で白く曇り、外の星々の光が霧の奥へ消えた。

 視界は、ほぼゼロ。

 残るのはレーダーの薄い点と、針のわずかな動きだけ。

 

 それでもリュウジの手は止まらない。

 

「姿勢制御、数値落ちるぞ。

 チャコ、今の出力、俺に返してくれ」

 

「今、渡す!」

 

 チャコが負荷を配分する。

 神経応答経路の電流が、彼女の体内を流れる。

 ほんの僅かの遅れが命取りになるタイミングで、彼女は“遅れない”。

 

 しかし、ネフェリスは応えない。

 

 ――ドン。

 

 微かな衝撃。

 外側で何かがぶつかった。

 シールドが熱で白く曇った視界の外で、宇宙の破片が船体をかすめたのだろう。

 

「今の――!」

 

 サツキが息を飲む。

 手元の工具が震え、カン、と床に当たった。

 

「気にするな! 今は“やること”だけやれ!」

 

 リュウジの叱咤が飛ぶ。

 彼女の口調は荒い。荒いが、仲間の背中を押す荒さだ。

 

 サツキは唇を噛むと、即座に機械区画へ飛び戻った。

 通路の奥から、スパナが金属を叩く音が連続する。

 彼女は自分の恐怖を“作業音”でかき消している。

 

 エリンはモニターの裏で、端子を繋ぎ直していた。

 汗が首筋を伝う。

 痛みで息が乱れそうになるたび、彼女は呼吸を浅くして手を止めない。

 

「……よし、いける。

 電源、ここから引き直して……」

 

 彼女の声が小さく響く。

 それは祈りに似ていた。

 

 リュウジの額から血が落ち、シートの縁を赤く濡らす。

 左目の視界はほとんど真っ赤だ。

 けれど彼は、レーダーの点の動きだけで“空間の形”を描き直していく。

 

 かつて、サヴァイヴで何もない夜空と風だけを頼りに飛んだ時と同じ。

 ――“体で宇宙を読む”。

 

「……速度、落とす。

 シャトル引いてる今、無茶するな。

 レーダーの誤差が増えてる、斜めの渦が来てるぞ」

 

 リュウジは誰に言うでもなく呟く。

 それは自分への確認でもあり、船への命令でもあった。

 

「頼むで、ネフェリス……」

 

 チャコが歯を食いしばる。

 彼女の身体を通じて、ネフェリスの“熱”と“痛み”が伝わってくる。

 それでも彼女は手を離さない。

 

 その時、通信区画から駆け戻る足音。

 

「……できた!」

 

 マリが荒い息で操縦室へ飛び込む。

 手の中には、即席で組んだ小型発信ユニット。

 あり合わせのコイルとバッテリーを無理やり繋いだ、乱暴な代物だ。

 

「これを外に放出すれば、最低限、レーダーに映るはずだ。

 ただ……耐久は、期待できない」

 

「十分だ」

 

 リュウジが短く言う。

 その一言に、マリの肩が少しだけ落ちた。

 “やった”。

 その実感が、やっと呼吸に戻ってくる。

 

「放出する。チャコ、タイミング合わせろ」

 

「任せとき!」

 

 チャコが計器を叩き、速度と姿勢の揺れを最小にする。

 マリが投下ハッチのレバーを引いた。

 

 ――シュッ。

 

 微かな放出音。

 発信ユニットが暗闇へ消える。

 次の瞬間、レーダーに小さな点が生まれた。

 弱々しいが、確かに“生きている点”。

 

「映った!」

 

 マリが声を上げる。

 それは彼女には珍しい、子どものような叫びだった。

 

「よし。これで、どこかの管制が拾う」

 

 リュウジが息を吐いた。

 左手の指先が、ほんの少し震えている。

 それは疲労でも痛みでもなく、今ようやく“希望が形になった”ことへの反応だった。

 

 だが、船体の震えは止まらない。

 耐熱シールドで温度は下がる。

 その代償に、視界は白い霧。

 レーダーを頼りに飛ぶしかない。

 シールドが切れれば、破片と真空が一気に襲う。

 

 ――どちらにしても、死が寄り添う。

 

 エリンが立ち上がった。

 片手で胸を押さえ、もう片手で配線パネルを閉める。

 

「モニター、簡易復旧できた!」

 

 彼女の声に、操縦室の空気が一段軽くなる。

 

 古い画面の片隅がぼやけ、縦線が走っている。

 それでも、速度と方位の補助表示が戻った。

 

「よくやりました、エリンさん」

 

 リュウジが柔らかく言う。

 その敬語は、彼女への信頼そのものだった。

 

「まだ、油断できないけどね」

 

 エリンは笑ってみせる。

 その笑みは疲労に滲んでいたが、仲間にとっては灯りだった。

 

 操縦室の奥でサツキの声が飛ぶ。

 

「バイパス、補強できた……!

 でも、一歩間違えたらまた落ちる。

 だから、揺れは最小にして!」

 

「分かった!」

 チャコが即答する。

 

「ウチの身体がネフェリスや。揺らさへん。揺らさせへん」

 

 彼女の言葉に、サツキが一瞬だけ笑った。

 それがどれほど頼もしいか、彼女は今、骨で分かった。

 

 操縦室は再び、静かな戦場になった。

 誰も無駄口を叩かない。

 それぞれが持ち場に戻り、命の針を一ミリでも延ばすために動く。

 

 リュウジはレーダーと復旧したモニターを見比べ、左手だけで操縦桿をじわりと倒す。

 

「……行くぞ。全員で」

 

 その声は小さい。

 だが、船全体を前へ押すほどの重さがあった。

 

 チャコが歯を食いしばり、シールドの負荷を背負う。

 サツキが汗まみれで補強を続ける。

 マリが発信ユニットの反応を監視し、いつでも次の手を打てるように構える。

 エリンが痛みを噛み殺し、何度でも船内を走る支度をする。

 

 そして、クリスタルの声が通信の奥から静かに届いた。

 

『……全員、今を越える』

 

「もちろんだ」

 

 リュウジが答える。

 赤い視界の向こうで、彼は真っ直ぐ前を見ていた。

 

 ネフェリスを持たせる戦いは、ここからだ。

 白い霧の中の宇宙を、傷だらけの船が、仲間の意志で押し進む。

 その一瞬一瞬が、死と並走している。

 だからこそ、誰も目を逸らさなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。