サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第62話

エアロック前で、サツキとマリの足がそろって止まった。

 

帰ってきた。

生きて帰ってきた。

シャトルも、仲間も、全部引き連れて――確かにこの場所まで戻ってきた。

 

そう分かっているのに、扉の解除スイッチに手が伸びない。

 

目の前のエアロックは、薄い隔壁ひとつで宇宙とコロニーを分けているだけの“境界”だ。

ほんの数時間前まで、そこは死と紙一重の線だった。

だからだろうか。

その境界を越えた瞬間に、今まで抑え込んでいたものが一気に溢れてしまいそうで、怖かった。

 

「……」

 

サツキは無意識に自分の指先を握り込む。

マリも、視線をスイッチから逸らして唇を噛んでいた。

 

その背に、ふわりと温度が触れた。

 

エリンの手だった。

いつものようにさりげなく、けれど確かな力で二人の背中に置かれる。

 

「二人とも、大丈夫よ」

 

囁きは小さい。

それなのに、エアロック前の空気全部がその言葉で満たされるようだった。

 

「ちゃんと帰ってきた。……行こう」

 

背を押される。

押されたのは身体だけじゃない。

胸の奥に張りついた最後の躊躇も、一緒に押し流されていく。

 

サツキとマリは、コクリと頷いた。

 

「……解除します」

 

サツキの声は、まだ少し震えていた。

 

「うん、お願い」

 

エリンの呼び捨ての声が、背中を支える。

 

マリがスイッチを押すと、低い解放音とともにエアロックがゆっくり開いた。

眩しい光が一気に差し込む。

 

扉の先は――ソーラ・デッラ・ルーナのフロア。

白い床に、明るい照明。

そして、そこにできている“おびただしい数の人波”。

 

碧い制服の管理局員。

救助チーム。

報道陣のフラッシュ。

そして、それ以上に――

必死にこちらを見上げている一般の人々。

 

サツキとマリは、タラップに足をかけた。

 

一歩、また一歩。

降りていくたびに、フロアの歓声とざわめきが近づく。

「戻った!」

「生きてる!」

そんな断片が耳に飛び込んでくる。

 

けれど途中で、二人はまた足を止めた。

 

その背後で、エリンも足を止める。

 

一人ひとりが、目の前の光景を受け止めていた。

自分たちが“帰ってきた意味”を、今ようやく実感していた。

 

「……いいものだろう」

 

背後から、リュウジの声が落ちた。

 

ゆっくりとタラップに現れる影。

彼は左手だけでヘルメットを外しながら、階段の上で立ち止まっていた。

 

外した途端、血の匂いがふわりと広がる。

左の瞼の上――依然として深い切り傷が走り、

乾きかけた血と新しい血が混じって頬を伝っている。

左眼の視界は、赤く染まったままなのだろう。

それでも彼は、表情を崩さずに目の前を見ていた。

 

「これだけの人が、俺たちを待っててくれてたんだ」

 

言葉が静かに落ちると、胸の奥が熱くなった。

 

「せやな!」

 

チャコがリュウジの横に並ぶ。

小さな身体に同じ宇宙服を着込んで、尻尾の先までぴんと立っていた。

 

「胸張っていこうや! ウチら、ようやったんやから」

 

その声に押されるように、みんながまた一歩、また一歩とタラップを降りていく。

 

隣のシャトルに視線を向けると、救急隊がすでに担架を運び始めていた。

白い担架の上、ブライアンたちの顔が見える。

ぐったりとしながらも、生きている気配が確かにそこにあった。

 

その横を――

一人の男が、息を切らして走り抜けていく。

 

「ユイ!!」

 

呼ぶ声はひび割れていた。

迷いも、理性も、全部置き去りにした声。

 

「タツヤ班長……」

 

エリンの呟きが零れる。

 

タラップを降りきったフロアの端。

人混みの隙間から、ちいさな影が飛び出した。

 

ユイだ。

 

泣き腫らした瞳のまま、足を縺れさせながら走っていく。

タツヤ班長も、担架の列を押しのけるようにして駆けていく。

 

そして――

 

フロアの端で、二人は互いに抱き合った。

 

タツヤ班長の肩にユイがすがりつき、

ユイの頭をタツヤ班長が震える腕で抱きしめる。

どちらも声を出せないまま、ただ涙が溢れていた。

 

「……良かったですね」

 

リュウジが、ぽつりと呟く。

 

「ええ……」

 

エリンが頷いた。

その目元も、少し潤んでいる。

 

そうしてタラップを降りきると、

サツキ、マリ、クリスタルがこちらを見て足を止めていた。

 

「どうした?」

 

リュウジが首を傾げる。

 

「操縦士が先頭行くもんやろ」

 

チャコが肩をすくめた。

 

「そうそう。格好がつかないでしょう?」

 

エリンの冗談めいた声に、緊張がすっとほどける。

 

「……そうだな」

 

リュウジは小さく苦笑して歩き出した――が、

クリスタルの前でふと足を止めた。

 

「肩が外れてる。戻せるか?」

 

淡々とした言い方。

淡々としているからこそ、痛みを隠しているのが分かる。

 

「……ちょっと触るわよ」

 

クリスタルが右肩に慎重に指を当てる。

その途端、リュウジの眉がきゅっと歪む。

 

「脱臼してるわね。すぐはめるから」

 

彼女は微笑んだ。

静かで、揺るがない医療者の笑み。

 

「はい、リュウジ」

 

エリンがハンカチを差し出す。

リュウジはそれを受け取り、首を傾げる。

 

「舌、噛むわよ」

 

エリンは笑いながら、

ハンカチを彼の口元へ運んだ。

 

「……なんか楽しそうですね」

 

リュウジはぼやきつつも、素直にハンカチを咥える。

 

「いくわよ〜」

 

クリスタルがリュウジの背中と肩口に手を当て、

ぐっと持ち上げる。

 

「――ッ!!」

 

ハンカチ越しの悲鳴が漏れた。

 

一回、二回。

クリスタルは呼吸のタイミングを見計らい、

的確に角度を変えて押し込む。

 

三回目。

 

ガキン、と小さな音がして――

肩が、正しい位置に戻った。

 

「はい。戻ったわよ」

 

リュウジはハンカチを左手で外し、

目を細めて大きく息を吐いた。

 

「……だいぶ楽になった」

 

言って、ハンカチをエリンに返す。

 

「後で固定してあげる」

 

クリスタルが続け、

エリンが指を一本立てる。

 

「あんまり暴れると、また外れるわよ」

 

「分かってます」

 

リュウジが短く答えると、

背後でクスクスと笑い声が上がった。

 

「リュウジもあんな顔するんだな」

 

マリが意外そうに言う。

 

「私も驚いた……」

 

サツキもその言葉に頷く。

 

「サヴァイヴでも、あんな顔はしぃひんかったからな。貴重やで」

 

チャコが肩を揺らして笑う。

 

「うるさい」

 

リュウジが照れ隠しみたいに言い捨てた。

 

そして、

血で汚れた左眼を細めながら、

彼はもう一度、前を見据える。

 

「行くぞ」

 

操縦士として。

仲間として。

そして、帰ってきた者として。

 

リュウジが先頭で歩き出すと、

サツキ、マリ、クリスタル、エリン、チャコが続いた。

 

フロアの歓声が波のように押し寄せる。

光の海の中へ、

“ラスペランツァ”の面々は胸を張って降りていった。

 

ーーーー

 

同じ頃――。

 

ネフェリスが着陸したという連絡が入ったころ、ルナはユイを抱っこしたまま、ハワードとメノリと並んでフロアの端へ誘導されていた。

 

ソーラ・デッラ・ルーナの天井は高く、白い照明が昼のように眩しい。

けれど、ルナの視界はどこかぼやけていた。

二日前から泣きすぎたせいもあるし、胸の奥がまだうまく呼吸できていないせいでもある。

 

腕の中のユイは、さっきまで眠そうにしていたのに、今は小さな手でルナの服をぎゅっと掴んで、遠くのタラップを見つめている。

あの子もきっと分かっているのだ。

ここに“帰ってくるかもしれない人”がいることを。

 

「……もうすぐ見えるはずだ」

 

メノリが、落ち着かないフロアの喧騒を一瞥しながら言った。

ハワードはその隣で、靴のつま先をカツカツ鳴らしている。

ふだんならうるさくて叱られる仕草だが、今日のメノリは何も言わなかった。

 

「なあ、ルナ、ユイちゃん重くない?僕が――」

 

「大丈夫」

 

ルナの声は、自分でも驚くほど小さかった。

だって、ユイを抱っこしていると、心臓の鼓動が少し落ち着く。

この子の体温が、現実に引き戻してくれる。

 

タラップの見える場所まで来たとき、フロアの空気が変わった。

人のざわめきが一段高くなり、制服の足音が忙しく交差する。

救護チームのストレッチャー、医療カート、報道陣のフラッシュ――全部が“帰還”へ向けて、一気に動き出していた。

 

「ルナ!」

 

背後から声がして、振り向くとシンゴが走ってきた。

 

「大丈夫?」

 

シンゴの顔は心配で真っ青なのに、言葉だけはいつもの丁寧さで整えようとしている。

その後ろにはシャアラ、カオル、ベルがいた。

シャアラは胸の前で手を組んでいて、瞳が赤い。

ベルは大柄な身体をぎゅっと縮めるように立っている。

カオルだけがいつも通り無表情に見えるけれど、目の奥に張り詰めたものが透けていた。

 

「……無事着陸できたんだな」

 

カオルが低く呟く。

その声は、安堵というより、祈りがようやく触れたときの静けさに近い。

 

「うん……」

 

ルナは頷いたが、頷いただけで喉が詰まった。

涙が落ちそうで、言葉にできない。

 

「ルナ、無理して笑わなくていい。……今は、ただ見ていればいい」

 

メノリの声が背中から支えるように届く。

いつもなら厳しいはずの声音が、今は優しい。

 

ルナは息を吸った。

吸ったはずなのに、胸の奥はまだ軽くならない。

 

そして――

 

タラップの先、ネフェリスのエアロックが開いた。

 

人の波が一斉にそちらへ向き、フラッシュの雨が降る。

その光の中で、最後に現れた影を見た瞬間、ルナの思考が止まった。

 

リュウジだった。

 

宇宙服の上半身をずるりと脱ぎかけていて、左手でヘルメットを外している。

たったそれだけの動作なのに、彼の身体は明らかに重そうだった。

そして――顔。

 

左の瞼が裂け、血が頬を伝っている。

左眼は赤く染まり、まるで片側だけ夜に沈んだみたいだ。

右腕は肩をかばうように下げられていて、歩幅も普段よりやや短い。

 

それでも彼は前を見ていた。

ただ前を、まっすぐ。

 

「……っ」

 

ルナは声にならない息を漏らした。

胸の奥が、ぎしっと音を立てて折れそうになる。

 

まただ。

また、そうやって。

 

背負って。

傷ついて。

それでも戻ってきて。

 

ふっと、全部の記憶が一緒に押し寄せる。

サヴァイヴの夜、操縦席で眠らない目。

荒れた風の中で、皆を支えていた背中。

そして、帰還の瞬間に見せた小さな笑み。

 

「……良かった……」

 

その言葉だけがやっと口から落ちた。

落ちた途端、涙が溢れて止まらなくなった。

 

ルナはユイを強く抱きしめてしまい、はっとして力を抜く。

 

「ルナお姉ちゃん……」

 

「ごめんね。大丈夫。大丈夫だよ、ユイちゃん……」

 

自分に言い聞かせるみたいに、繰り返す。

 

そのときだった。

 

タラップの向こう、隣のシャトル側が急にざわついた。

担架が運ばれ、救急隊が走り、そして――

ひとりの男が、タラップを飛び降りるようにして駆け出してきた。

 

「ユイ!!」

 

ひび割れた声。

泣きそうというより、泣いている声。

その声を聞いた瞬間、ユイの身体がびくっと跳ねた。

 

ルナもすぐ分かった。

あの人がユイのお父さんだ。

 

ルナは一瞬だけ迷った。

ユイを抱きしめたまま、この場所から離したくない、と思った。

でも、それは自分の弱さだ。

 

「ユイちゃん」

 

ルナはユイをそっと床に下ろし、膝をついて目線を合わせた。

 

「パパ、来てるよ」

 

ユイの瞳が大きく揺れた。

 

「……行っておいで」

 

ルナが微笑むと、ユイは唇を噛んで、こくんと頷いた。

 

その次の瞬間、ユイは走り出す。

 

ルナは人混みの中へ、「すみません、すみません」と頭を下げながら道を作っていった。

最前列まで押し分け、ユイが走りやすいように、ほんの少しだけ腕を伸ばして、背中をそっと押す。

 

ユイは真っ直ぐに父親のもとへ飛び込んだ。

 

男はユイを抱き上げ、震える手で抱きしめた。

ユイも声を上げて泣き、男も顔を歪めて泣き、

二人の泣き声がフロアの喧騒の中で、まるでひとつの音になる。

 

「……よかった……」

 

ルナは知らないうちに、自分も泣きながら呟いていた。

 

「よかったよ、ユイちゃん……」

 

胸の奥が、一箇所だけ温かくなる。

“助かった命”がここにあることを、やっとちゃんと感じられた。

 

――そして、ルナはふとタラップの方へ視線を戻した。

 

リュウジの周りに、クルーたちが集まっている。

クリスタルが近づき、彼の肩口へ手を当てて、何かを確かめている。

 

リュウジの顔が、痛みに歪んだ。

 

その表情を見た瞬間、ルナの喉がきゅっと締まった。

涙はもう出ているのに、また違う痛みが押し寄せてくる。

 

――この人は、痛いって顔をしても、止まらない。

止まらずに、前へ行ってしまう。

 

ルナは拳を握った。

爪が掌に食い込むくらい、強く。

 

「ルナ?」

 

シンゴが小さく声をかけた。

シャアラも、ベルも、カオルも、みんな同じ方向を見ている。

 

メノリが、一歩ルナの横へ来て、静かに言った。

 

「帰ってきたのだろう。……あとは、私たちが支える番だ」

 

その言葉に、ルナはようやく頷けた。

 

泣けるだけ泣いて、

この胸の震えが収まったら、

リュウジのところへ行こう。

 

“おかえり”を言いに行こう。

“よく戻ってきたね”って、

ちゃんと目を見て伝えよう。

 

タラップの上で、リュウジがふっと顔を上げた。

血で赤い左眼のまま、こちらを見た気がした。

 

ルナは涙を拭く暇もなく、ただ一歩踏み出した。

 

胸の奥の痛みはまだある。

でも、今はそれでもいい。

 

だって――

帰ってきた。

この場所に、また一緒に生きられる“今”がある。

 

ルナは泣きながら笑った。

 

ーーーー

 

リュウジを先頭に、フロアの中央へ向かって歩き出す。

 

タラップを降りた瞬間の熱はまだ冷めていなかった。

左右には幾重にも張られたロープ、その向こうに押し寄せる見物客と報道陣。フラッシュが雨のように降り、シャッター音が絶え間なく耳を叩く。

 

「リュウジ!」「英雄だ!」「エリン!」

「ラスぺランツァ最高!」

誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが手を伸ばす。

 

リュウジはそれらを特に気に留めない。

ただ、機体の中でずっと続いていた“張り詰めた線”が、ここに来て少しずつほどけていくのを感じていた。

 

背後ではチャコが「おお、すごい歓迎やなぁ」と小声で呟き、サツキはフロアの眩しさに一瞬目を細める。

マリはまだ頬に疲労を残しつつも、背筋だけは真っ直ぐ伸ばしていた。

クリスタルとエリンは歩幅を崩さず、確かめ合うように周囲と隊列を見ている。

 

「……エリンさん、歩けますか」

 

リュウジが横目で見ながら、彼女にだけ穏やかな敬語を落とした。

 

「ええ、歩けるよ。リュウジも、無理しないで」

 

柔らかな声。

それを聞いてリュウジは短く頷き、また視線を前へ戻した。

 

フロア中央。

そこに、宇宙管理局長とペルシアが並んで立っていた。

背後には制服姿の局員たち、さらにその奥に家族たちの人波。

 

リュウジは歩みを止める。

その瞬間、自然と――ほんとうに“自然と”、隊列が整う。

 

チャコが一歩詰め、サツキ、マリ、クリスタル、エリンがリュウジの左右に並ぶ。

さっきまで互いの呼吸を必死に合わせ、機体を支え、命を繋いだ仲間たち。

今は同じ床の上で、同じ方向を向いて立っている。

 

リュウジの胸の内に、ふっと静かな熱が灯った。

 

「宇宙管理局長に対し――」

 

低い声がフロアのざわめきを裂く。

 

「敬礼!」

 

号令と同時に、リュウジは踵を揃え、右手を鋭く額へ運んだ。

その隣で、チャコは小さな体をぴしりと伸ばし、サツキも、マリも、クリスタルも、エリンも、一糸乱れぬ敬礼を揃える。

 

フラッシュが一段と激しくなる。

歓声が一瞬、吸い込まれたみたいに静まった。

 

「直れ」

 

リュウジの号令で、一斉に手が下ろされる。

 

すぐさま、彼は一歩だけ前へ出て、腹の底から声を張った。

 

「ラスぺランツァは、西の未探索領域におけるブライアン隊の捜索任務――無事に完遂しました!」

 

その言葉が、広いフロアをまっすぐ走る。

 

宇宙管理局長は一同を見渡した。

ひとりひとりの顔、宇宙服の傷、血の跡、疲労の色。

すべてを確かめるように目を止め、静かに、こくりと頷いた。

 

「任務、ご苦労だった」

 

局長の声はよく通る。

淡々としているのに、どこかあたたかい重さがあった。

 

「負傷者もいるようだ。……無理はするな。ゆっくり休んでくれ」

 

そう告げると、局長は自ら敬礼を返す。

その所作に迷いはない。

そして踵を返し、局員たちに囲まれるようにして静かに離れていった。

 

局長の背がフロアの群衆に溶けると、代わってペルシアが一歩前へ出た。

 

彼女は制服の上着の裾を正し、深く息を吸う。

目の下の隈も、腫れたまぶたも、化粧の下に隠れきれていない。

それでも――その瞳は、もう沈んでいなかった。

 

「現時刻をもって」

 

ペルシアの声が、少しだけ震える。

でも、すぐに強さを取り戻す。

 

「ラスぺランツァは解散とする!」

 

その瞬間、誰かが息を飲む音がした。

 

ペルシアはそこで言葉を切り、ふっと口元をやわらげた。

 

「……おかえり。みんな」

 

たったそれだけの言葉だった。

けれど、ネフェリスの中で張り詰めていた糸が、そこでぷつりとほどけた気がした。

 

チャコが肩を落として「はぁぁ……」と大袈裟に息を吐く。

サツキが目を伏せ、小さく唇を噛んだ。

マリが胸の前で拳を握り、クリスタルが静かに目を閉じる。

エリンは「最後まで、ほんとに怖かったね」と呟きながら、そっと肩をさすった。

 

リュウジは一度だけ目を閉じ、短く息を吐いた。

“完了”という言葉が、ようやく骨の奥まで落ちていく。

 

そして、次の瞬間だった。

 

フロアの空気が爆ぜる。

 

「うおおおおおっ!!」

「ラスぺランツァ!!」

「リュウジ!!チャコ!!」

 

歓声が天井を揺らし、拍手が渦のように押し寄せる。

泣きながら笑う声、名前を呼ぶ声、ありがとうの声。

 

ペルシアはその波を受け止めながら、胸の前で軽く拳を握った。

誰にも見えないほど小さな動作で。

 

リュウジは横に並ぶ仲間を一瞥し、ほんの一瞬だけ口角を上げた。

 

「……帰ってきたな」

 

その声は小さかったが、全員に届いた。

 

チャコが「せやな。……ほんま、帰ってきた」と笑い、

サツキが涙をこらえるように頷き、

マリが「やっと、だな」と吐き出し、

クリスタルが静かに「ええ」と答える。

エリンは目尻を拭ってから、いつもの調子で肩をすくめた。

 

「休むのはあとだよ。まずは――ここで立ってるのが、いちばんの報告よ」

 

その言葉に、リュウジは短く「そうですね」と返す。

 

歓声の中で、ラスぺランツァの六人は肩を並べたまま、フロア中央に立っていた。

傷も、疲れも、恐怖も、全部抱えたまま。

 

それでも今、確かに――

ここにいる。

戻ってきた。

そして、次の一歩へ行ける。

 

光と声の渦の中で、彼らはしばらくその“帰還の重さ”を噛みしめていた。

 

ーーーー

 

フロアの中央での報告が終わった瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れたみたいに、身体の奥から一気に力が抜けた。

 

 リュウジは、その場で膝が笑うのをどうにもできず、よろりと一歩踏み出したかと思うと、倒れるように尻餅をついた。

 硬い床の冷たさが、宇宙服越しにじんわりと伝わってくる。呼吸がまだ浅い。胸の奥が、熱いのか痛いのか、もう分からない。

 

 彼はぼんやりと周りを見渡した。

 

 サツキが、眦に涙をためたまま目を細め、作業服姿の男たちに手を振っている。

 同じ恒星間輸送船のメカニック仲間なのだろう。

 男たちは笑いながら泣いていて、サツキの肩を叩いたり、両手を高く挙げたりしている。

 

「サツキ、よくやったな!」

「生きて帰ってきやがって……ほんと、驚かせるなよ!」

 

 かけられる声に、サツキは何度も頷いた。

 目の端を拭って、鼻をすするのを隠すみたいに笑いながら――それでも頬は、涙で濡れている。

 

「ご、ごめんね……でも、ほんとに、ほんとに……」

 サツキの声は細く震え、最後まで言葉にならなかった。

 代わりに、ぎゅっと拳を握りしめて、仲間へ小さな敬礼みたいに頭を下げた。

 

 すぐ横では、マリとクリスタルが宇宙管理局の制服を着た仲間たちに手を挙げていた。

 マリはいつもの冷静さを保とうとしているのに、唇が何度も噛みしめられている。

 クリスタルは静かな微笑みを浮かべていたが、目の奥に宿る光は強く、硬かった。

 

「……戻りました」

 マリが短く言うと、制服姿の仲間のひとりが堪えきれないように笑いながら泣き出した。

 

「当たり前だよ。戻ってこないと困るでしょう」

 クリスタルは頷き、淡く、けれどはっきりした声で返した。

 彼女の静かな強さが、その場の誰より頼もしく見えた。

 

 その向こうで、エリンがペルシアと握手を交わしていた。

 

 握った手の温度が、互いの体温を確かめ合うみたいに消えない。

 ペルシアの肩が細かく震え、堪えていたものが崩れ落ちるみたいに、涙と鼻水がぽろぽろ落ちていく。

 

「良かった……良かったよ、エリン……!」

 ペルシアは声も顔もぐしゃぐしゃのまま、何度も何度も頷いた。

 

「泣きすぎよ」

 エリンは笑みを浮かべる。

 揶揄するわけじゃない。ただ、苦しさに沈みきっていたペルシアを、いつもの場所へ連れ戻すみたいに、軽い調子で。

 

「エリン!!」

 次の瞬間、ペルシアは勢いよく胸元に抱きついた。

 

「ペルシア、痛い!」

 エリンは右肋骨を押さえ、苦痛の表情を浮かべる。

 だが、突き放さない。

 痛みで息が詰まりそうでも、その腕は、ペルシアの背中をそっと受け止めていた。

 

「良かった……っ」

 ペルシアは嗚咽混じりに呟き、エリンの肩口に顔を埋めた。

 エリンはその様子に微笑みながら、そっとハンカチを差し出す。

 

「ほら、鼻かみなさい」

 

「ぶ、ぶぅーーーん!!」

 

 盛大に、ペルシアはエリンの宇宙服で鼻をかんだ。

 

「ああ……やっちゃった」

 エリンは苦笑いを浮かべながら、情けないようで嬉しそうに肩を落とした。

 

 その光景があまりに、ペルシアらしくなくて、ペルシアらしくて――

 リュウジは思わず、声に出して笑った。

 

「……っ、はは……」

 

 肺の奥に残っていた硬いものが砕けていく笑いだった。

 痛いはずの右肩が軋むのに、それすらどうでもよくなるくらい、胸の奥が軽い。

 

「なんや、笑う余裕あるんか」

 チャコが、リュウジの横に腰を下ろし、片目で彼を見上げる。

 

「……あんなペルシア、初めて見たわ」

 チャコがくすくすと笑う。

 

「ペルシアも、ずっと無理してたんだろ」

 リュウジは天井を仰いだまま、静かに言った。

 

 そのまま、彼は背中を床に預けるように寝転んだ。

 身体が重い。骨と筋肉が、いまさら限界を主張してくる。

 なのに、どこか懐かしいぬくもりだけが残っている。

 

「ルナたちもきっとおるやろ。行かなくてええんか?」

 チャコが言った。

 

「……もう、身体が動かない」

 リュウジは正直に返す。

 感情は動くのに、身体がついてこない。

 戻ってきた場面を見せたい人がいるのに、そこまで歩く余力がない。

 

「それより、見てみろよ」

 リュウジが、指先じゃなく視線で天井を指した。

 

 チャコも言われた通りに、ふっと顔を上げる。

 

 そこには、三日月の形をした明かりが、フロア全体に広がっていた。

 ソーラ・デッラ・ルーナの天井灯――夜の海を照らす月みたいに、やわらかく、あたたかい光で。

 

「ここの灯りは……落ち着くだろうな」

 リュウジは小さく息を吐いて言う。

 

「せやな。暖かい明るさや」

 チャコも頷いた。

 

 その時。

 

 ――ぶちっ。

 

 何かが切れる乾いた音がした。

 リュウジは顔も動かさず、左手だけをゆっくり上げる。

 

「あ……」

 

 手首に巻いていたオレンジ色のミサンガが切れて、床に落ちたのだ。

 ほどけた糸が、星屑みたいに細く揺れている。

 

「なんや? ミサンガが切れたんか?」

 チャコが覗き込む。

 

「ああ。……全員無事に帰るっていう願いが叶ったからな」

 リュウジは左手で器用にそれを拾い直し、指の間でそっと結び目を確かめた。

 切れてしまったのに、どこか嬉しい。

 守りたい約束が、ちゃんと役目を終えた証拠みたいで。

 

「それにしても、疲れたな……」

 胸の底から抜けるみたいに、安堵の息が漏れる。

 

 その、次の瞬間だった。

 

「リュウジ!!」

 

 サツキの声。

 

「よくやったな!!」

 

 マリの声。

 

「行けぇ!!」

 

 ペルシアの声。

 

 どさっ、と重たい衝撃が落ちてくる。

 

 ペルシアが、倒れているリュウジの上に、勢いよく飛び乗ったのだ。

 そしてその背にマリが、さらにサツキが、泣き笑いのまま重なっていく。

 

「うっ……!」

 リュウジは肺が押しつぶされるように声を漏らした。

 

「帰ってきた……っ、帰ってきたんだ……!」

 ペルシアがぐしゃぐしゃの声で叫ぶ。

 

 皆が涙していた。

 泣きながら笑い、笑いながら震えて、身体の重みで互いの存在を確かめ合っている。

 

「おいおい……」

 リュウジは言いながら、離せ、とも、やめろ、とも、本気では言えなかった。

 むしろその重さが、今はとても心地いい。

 “ここにいる”という現実を、何度も叩き込んでくれる重さだった。

 

 離れる気配なんて、誰にもない。

 

「よーし、私たちも行くわよ!」

 クリスタルが、エリンの手を引っ張ってこちらへ飛び込もうとする。

 

「え、ちょっと待って!」

 エリンは脇腹を押さえたが、時すでに遅い。

 ペルシアの勢いに引っ張られたまま、転がるようにリュウジの上へ。

 

「痛い、痛いってば!」

 エリンが笑い混じりに叫ぶ。

 

「重い……! イタタタ、右肩が外れる!」

 リュウジは暴れる。

 でも、声の端がどこか弾んでいる。

 

「ほな、ウチも」

 チャコが悪戯っぽく言って、リュウジの顔にしがみついた。

 

「よせ、離れろ、痛いってば……!」

 リュウジは文句を言いながら――

 その口元は、確かに笑っていた。

 

 床の上に転がったまま、重なった体温と涙と笑い声。

 宇宙の暗闇の中で、命を繋ぎ続けた“チーム”の終わり方として、これ以上のものはない。

 

 天井の三日月の灯りが、ゆっくりと瞬いている。

 それはまるで、彼らの帰還を確かめるように、

 「おかえり」と言っているみたいだった。

 

 リュウジは目を閉じ、仲間たちの重みと声を胸ごと抱きしめる。

 

 ――ああ、帰ってきた。

 帰ってきたんだ。

 

 その確かな実感が、じわじわと全身に満ちていった。

 

 

 どさどさと重なっていた体温が、ようやく引いていく。

 

「……っぷは」

 

 リュウジは肺いっぱいに空気を吸い込み、床に仰向けのまま、天井の三日月灯をぼんやり見上げた。

 右肩がじんじん痛む。左目は相変わらず熱い液体が頬を伝っていて、視界の右半分だけが妙に鮮明だ。

 

 その上に乗っていた面々が、慌てて身体を離す。

 

「わ、悪い! リュウジ、痛かったか?」

 マリが申し訳なさそうに身を引きながら言う。

 

「痛かったよね、あの勢いは」

 サツキも目元を拭って、少し赤い顔で肩を竦めた。

 

「ごめん、悪気はなかったのよ」

 ペルシアは鼻をすすりながらも、どこか照れ隠しみたいにそっぽを向いた。

 

「ウチは悪気あった」

 チャコがしれっと言って、すぐに皆から「おい!」と総ツッコミが飛ぶ。

 

 その騒がしさに、リュウジの口元がふっと緩んだ。

 

「はは……ラスペランツァは、容赦がないな」

 

 乾いた笑いだった。

 けれど、その笑いの奥にあるあたたかさは、誰の目にも分かった。

 

 その時、背後から規則正しい足音が近づいてくる。

 

「救急隊です! 負傷者の方、こちらへ!」

 

 白い担架を抱えた救急隊員たちが、人の海を割るようにしてフロアへ入ってきた。

 歓声が少し引いて、ざわめきが整列するみたいに道を作る。

 

「……やっと来たわね」

 

 クリスタルが一歩前に出た。

 制服のままの彼女の背筋は、やっぱりまっすぐだ。

 その目が、リュウジとエリンを一直線に捉える。

 

「リュウジ、エリン。あなた達は病院に行きなさい」

 

 静かな声。

 でも、反論を許す余地のない、はっきりした命令だった。

 

「ええ、そうさせてもらうわ」

 

 エリンは冗談を言う余裕も残っていないのか、素直に頷いた。

 脇腹に手を添えたまま、ゆっくりと担架へ寝転ぶ。

 その動作ひとつひとつに、痛みを噛みしめる気配が滲むのに、顔は最後まで崩さなかった。

 

「無茶しないでね。……って、言うの遅いか」

 

 クリスタルが小さく笑って、エリンのベルトを確かめる。

 エリンは目を細めて、少しだけ肩を竦めた。

 

「ね、言ったでしょ。私は大丈夫だって。……ほら、帰ってきたもの」

 

 その言葉に、ペルシアがまた泣きそうな顔になって、慌てて袖で目を拭いた。

 

「……じゃあ、俺も」

 

 リュウジは床から上体を起こそうとして、右肩の痛みに眉をしかめた。

 

「動かなくていい。乗れ」

 クリスタルが短く言う。

 

「……分かってる」

 

 リュウジは苦笑して、差し出された担架の縁に左手をかけた。

 片目しか見えないせいで距離感がずれて、少しふらついた瞬間――

 

「リュウジさん、ゆっくりでいいですよ」

 

 救急隊員が手を貸そうとする前に、チャコが横からさっと支える。

 

「ほら、こっちや。左や左」

 

「分かってるって」

 

「分かってへん動きしとるから言うとんねん」

 

 喧嘩みたいな掛け合いのまま、リュウジは担架に転がり込む。

 背中を預けた瞬間、全身の緊張がほどけて、視界が一瞬だけ白く揺れた。

 

「……そっちのほうが安全だ」

 

 ぽつりと呟くと、クリスタルが一度だけ頷いた。

 

「ええ。あなたの頑固は知ってるけど――今は私が正しい」

 

「……参りました」

 

 リュウジが小さく息を吐くと、チャコが隣で「やっと素直になりよった」と満足げに鼻を鳴らした。

 

 担架の固定が終わると、救急隊が合図を交わし、ゆっくりと運び始める。

 フロアの空気が波のように揺れて、道の両側から拍手と歓声が起こった。

 

「リュウジー!!」

「ありがとう!!」

「生きて帰ってくれて……本当に……!」

 

 言葉が飛び交う。

 触れられない距離だからこそ、声の熱さがまっすぐ胸に刺さる。

 

 リュウジは左手だけをゆっくり上げ、短く応えた。

 

「……みんなのおかげだ」

 

 それが精一杯だった。

 もう、口を動かすだけで疲れる。

 でも、そう言えた自分に、彼は少し驚いていた。

 

 担架が進む先、フロアの人混みの向こう側――

 そこに、ルナがいた。

 

 彼女は、仲間たちの後ろで、少しだけ立ち尽くしている。

 顔はぐしゃぐしゃだ。頬も鼻も赤い。

 それでも、その目だけは真っ直ぐで、リュウジの姿を見逃さないように、必死に焦点を合わせていた。

 

 担架が彼女の前を通り過ぎる瞬間。

 

 リュウジとルナの視線が、ほんの一拍だけ重なる。

 

 言葉は要らなかった。

 「帰ってきた」

 「うん、帰ってきたね」

 それだけが、胸の奥で確かに交わされる。

 

 ルナの表情が、ふっとほどけた。

 涙がまた溢れるのに、口元は安堵のかたちで震えている。

 

 ――よかった。

 ほんとうによかった。

 

 その想いを、彼女は何度も何度も繰り返すみたいに、担架の進む方向を目で追い続けた。

 まるで、視線で背中を支えるように。

 

 救急隊が曲がり角へ差しかかり、リュウジの姿が人波に隠れていく。

 それでもルナは、最後の最後まで目を逸らさなかった。

 

 担架が完全に見えなくなった瞬間、ルナはようやく息を吐く。

 胸の奥に溜め込んでいたものが、静かにほどけていくみたいに。

 

 彼がまた、走り出してしまわないように。

 彼が今度こそ、ちゃんと休めるように。

 

 ルナは両手を胸元に当てて、震える息の中で、小さく祈る。

 

 ――リュウジ。

 今は、休んで。

 ちゃんと、痛いって言って。

 私たちが、そばにいるから。

 

 ざわめきの向こうで、救急隊の足音が遠ざかっていく。

 それは、確かに「生きて帰った」証の音だった。

 

 ルナは涙を拭わないまま、ただただ、その音が消えるまで、そこに立ち尽くしていた。

 

ーーーー

 

 翌日。

 

 ソーラ・デッラ・ルーナの喧騒が嘘みたいに静かな朝だった。

 白い雲のような消毒の匂いが漂う病院の廊下を、ルナたちは並んで歩いている。

 

 ルナ、チャコ、カオル、シャアラ、シンゴ、ベル。

 ハワード、メノリはハワード財閥の総帥、ハワードの父親に呼ばれて、ここにはいなかった。

 

 昨日までの重みが残っていないわけじゃない。けれど、あれほど彼女を沈めていた「消失」という言葉は、もう胸の中で牙を剥かない。

 リュウジとチャコが帰ってきた。それだけで、世界の色はちゃんと戻っていた。

 

「……ほら、ここだ」

 

 ベルが病室番号を指さす。

 ルナは「うん」と頷き、ドアノブに手をかけた。

 

「失礼しま――」

 

 扉を開けた瞬間、白いベッドが視界に入るはずだった。

 けれど、そこに人影はない。

 

 空っぽのベッド。

 薄く整えられたシーツ。

 そして枕元に置かれた、携帯と、包帯の残り。

 

「……は?」

 

 シンゴが目を丸くする。

 

「いない!?」

 シャアラの声が裏返る。

 

「な、なんでや。手術でも行ったんか?」

 チャコが首をひねって、しっぽをぴんと立てた。

 

 カオルは眉を寄せ、病室内を一度ぐるりと見渡し、短く吐き捨てるように言う。

 

「……逃げたか」

 

「いや、逃げるって」

 ベルが苦笑いを浮かべる。「病院から逃げたら怒られるよ」

 

 皆が驚いて固まる中、ルナだけが「ふふっ」と小さく笑った。

 

「やっぱり、いないか」

 

 その一言に、全員の視線がルナへ集まる。

 

「やっぱりって、ルナ、どういうこと?」

 シャアラが心配そうに尋ねた。

 

 ルナは肩をすくめる。

 昨日までの泣き顔の面影は、少しもない。

 けれど、明るさの奥に、どこか分かっていたような柔らかい諦めが見える。

 

「だって、リュウジだよ? ベッドでじっとしてる方が似合わないもん」

 

「それはまあ、……そうやけど」

 チャコが頬をかく。

 

「でも、冗談で済む状況じゃないだろ」

 カオルが低い声で言って、廊下を見やった。「あの怪我だぞ」

 

 ルナは「うん」と真顔で頷く。

 

「分かってる。だけど、たぶん……ね」

 

 続きを言おうとした瞬間。

 

「ルナお姉ちゃーーん!!」

 

 廊下の向こうから、跳ねるような足音と一緒に声が飛んできた。

 次の刹那、ふわっと柔らかい体がルナの腰に抱きつく。

 

「わっ」

 

 ルナは反射的に腕を回して、ぎゅっと受け止めた。

 

「ユイちゃん! おはよう」

 

「おはよー! ルナお姉ちゃん!」

 

 小さな目がきらきらしている。

 ほんの数日前まで、泣き腫らしたその目の曇りは、もうどこにもなかった。

 

 ルナはユイの髪をそっと撫でて、にっこり笑う。

 

「リュウジ、どこー? お部屋、からっぽ?」

 

「……それがね」

 

 ルナが言いかけたとき、落ち着いた足取りが近づいた。

 

「おや、やっぱりいないか」

 

 低く、けれどどこか温かい男の声。

 

 花束を片手に持って歩いてくる――タツヤ班長が、病室の前で足を止めた。

 宇宙服ではなく、簡素なシャツとジャケット姿。

 腰にはまだ負担があるのか、歩き方は慎重だが、その表情には確かな生。

 

「パパ! ルナお姉ちゃん!」

 

 ユイが弾む声で叫ぶ。

 タツヤはそれに微笑み返し、ユイの頭を軽く撫でた。

 

 タツヤはルナを見て、静かに頭を下げた。

 ルナも慌ててユイを抱き上げたまま、深く礼をする。

 その後ろで、皆も一斉に頭を下げた。

 

「君がルナお姉ちゃんか。娘がお世話になりました」

 

「い、いえ……こちらこそ、お世話になってます。ルナです」

 

 ルナの声は、少し照れくさそうだった。

 「お姉ちゃん」と呼ばれることへのくすぐったさと、目の前にいるタツヤの「生」を見て胸が熱くなるのと――その両方が混じっている。

 

「そうそう、ルナが“お姉ちゃん”やで」

 チャコがにやっと口角を上げる。「ユイのこと、よう面倒見とったみたいやしな」

 

「ちゃ、チャコ!」

 

 ルナが頬を赤くする。

 ユイはむしろ嬉しそうに「うん!」と頷いた。

 

「ルナお姉ちゃん、いっつも優しいの! パパがいないときも、ぎゅってしてくれた!」

 

「……ありがとう」

 タツヤは一度目を伏せ、静かに息を吐いた。

 花束を持つ手が、わずかに震えたのをルナは見逃さなかった。

 

 タツヤはルナに向き直る。

 

「君たちは……サヴァイヴの仲間たちだね」

 

「はい」

 ベルが穏やかに答える。「俺はベルです」

 

「僕はシンゴ!」

 シンゴがぺこりと頭を下げる。

 

「シャアラです。……お帰りなさい、タツヤ班長」

 シャアラの声音は、涙の膜に包まれていた。

 

 カオルは短く頷き、言葉は少ない。

 

「カオルだ」

 

 タツヤはひとりひとりに目を向け、深く礼をした。

 

「……本当に、ありがとう。君たちがいなければ、俺は今ここにいない」

 

「そんな……」

 

 ルナが首を振る。

 

「助けに行ったのはラスぺランツァです。私たちは……待ってただけで」

 

 タツヤはゆっくり首を振った。

 

「待つのも、支えるのも、立派な戦いだよ」

 それから、ふっと苦笑する。

 「正直、俺なら誰かに待ってもらってると思うだけで、少しだけ強くなれる」

 

 ルナの胸が温かくなる。

 

「……タツヤさんは大丈夫なんですか?」

 ベルが気遣うように言う。

 

「ああ身体のあちこちは痛いけど、大事には至らなかったよ」

 タツヤは花束を少し持ち直す。「医者に“三日は安静”って言われたのに、ここに来ちゃった」

 

「どっかの誰かさんと同じやな」

 チャコが呆れ半分に言う。

 

 タツヤは苦笑しつつ、病室をちらと見た。

 

「……で、その“どっかの誰かさん”も消えたと」

 

「はい」

 カオルが即答する。「たぶん、抜け出しました」

 

「はぁ……」

 タツヤは眉間に皺を寄せ、でもすぐに目尻を緩めた。「やっぱり、リュウジらしい」

 

「ですよね」

 ルナは肩をすくめる。

 彼がいないことに対する怒りより、理解が先に来てしまうあたり、自分はもう昔みたいに驚かなくなったのかもしれない。

 

「ねえパパ、リュウジ、どこいったの?」

 ユイが不安そうに尋ねる。

 

 ルナはユイを抱いたまま、優しく言う。

 

「きっと……すぐ戻ってくるよ。ちゃんと叱られるためにね」

 

「叱られるの?」

 ユイがきょとんとする。

 

「ああ」

 カオルが珍しく口を開いた。「叱られて、笑って、寝て、また直る」

 

 それがカオルなりの励ましだと、ルナは分かった。

 

 タツヤはその言葉に、少し驚いたように目を瞬かせてから、深く頷いた。

 

「……そうだな。あいつは、そうやって生きてきた」

 

 花束を見つめ、タツヤは静かに続ける。

 

「俺は副操縦で乗っただけだった。でも……最後に聞こえた通信の声で、あいつがどれだけ無茶をしてるか、痛いほど分かった」

 

 ルナの手が自然と胸元のネックレスに触れた。

 あのオレンジのミサンガが、切れる瞬間まで彼の手首で震えていた光景が、脳裏に浮かぶ。

 

「リュウジは――」

 ルナが小さく言う。

 

「いつも誰かのために、全速力で走ってしまうんです。

 でも、それが……彼の良いところでもあって、怖いところでもあって」

 

 タツヤは、ルナの目をまっすぐ見た。

 

「君は、よく知ってるんだな」

 

「……はい」

 

 ルナは笑った。

 泣くみたいな笑いだったけど、もう沈まない笑いだ。

 

「だから、戻ってきたら、ちゃんと叱ります。

 それと……ちゃんと休ませます」

 

「うん!」

 ユイが元気よく頷き、ルナの首にぎゅっとしがみつく。

 

 タツヤの目に、また少しだけ潤みが浮かんだ。

 彼はそれを隠すみたいに咳払いして、廊下を見やる。

 

「……ところで、あいつが行きそうな場所に心当たりは?」

 

 その問いに、ルナは「ほらね」と言うように、楽しそうに目を細めた。

 

「たぶん、屋上か、売店か、こっそりネフェリスです」

 

「ネフェリスか……」

 シンゴが半分呆れて笑う。

 

「一番怪しいのはネフェリスだが、まずは“屋上”だな」

 カオルが言い切る

 

「そうだね」

 ベルも頷く。

 

 チャコが親指をぴんと立てて得意げに言った。

 

「ほな、見つけたらドヤし倒したるわ。

 “寝とけ言うたやろ!”ってな!」

 

「チャコ、言い方が怖いよ」

 シャアラが苦笑する。

 

 でも皆の顔には、もう沈黙の影はない。

 探しに行く、その自然な流れが、帰還の実感をさらに濃くしていた。

 

 タツヤは花束を持ち直し、ルナたちに向かって小さく頭を下げた。

 

「……俺も一緒に探すよ。

 命を拾った身として、礼を言わなきゃならない相手がいる」

 

「一緒に行きましょう」

 ルナが頷く。

 ユイが腕の中で嬉しそうに跳ねた。

 

「リュウジ、見つけるー!」

 

「よっしゃ、行こか」

 

 チャコが先頭を歩き出す。

 その背中に続くように、ルナたちは廊下へ出た。

 

 空っぽの病室の扉が、背後で静かに閉まる。

 でも、その空白はもう怖くない。

 

 帰ってきて、またいなくなって、叱って、笑って――

 そうやって皆で彼を現実に繋ぎ留める。

 

 それが、今のルナたちの「日常」だった。

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