ソーラ・デッラ・ルーナのフロアに出た瞬間、リュウジたちは思わず足を止めた。
仕切りロープの向こう側――そこは、押し寄せる波そのものだった。
「リュウジ!」「クリスタルさーん!」「チャコー!!」
「サツキ!」「マリさーん!」「エリーン!」
あちこちから名前が飛ぶ。拍手と歓声と、無数のシャッター音。
ラスペランツァの仲間の名前が、幾重にも重なって天井に反響した。
「……な、なんやこれ……」
チャコが目を瞬かせ、ぽかんと口を開ける。
「芸能人みたいやん、ウチら……」
隣でサツキが、小さく肩をすくめた。
「こ、こういうの……ほんと、緊張する……。
機械いじってる方が、まだ落ち着くわ……」
そんな二人の様子を横目に、ペルシアはため息を一つ落としつつも、どこか誇らしげに口角を上げた。
「そりゃそうよ。
今回の任務は、どのコロニーでも大注目だったもの。
それに“S級パイロット・リュウジが行く”ってなれば、嫌でも注目は集まるわ」
そう言ってから、ぱん、と二度手を叩く。
「ほら、さっさと散った散った。
記者も一般の人たちも待ってるんだから、笑顔で“帰ってきました”って見せてあげなさい」
リュウジは苦笑しつつ制帽に手をやり、軽くうなずいた。
チャコ、サツキ、マリ、クリスタル、エリン――それぞれが、戸惑いながらも仕切りの方へ歩き出していく。
その途中だ。
「エリンさん! エリンさん! 少しよろしいですか!」
明るいライトを抱えたクルーとカメラマン、マイクを握ったアナウンサーが駆け寄ってきた。制服姿のエリンの前で、ぴたりと足を止める。
「……生放送ですか?」
エリンが穏やかに問い返すと、アナウンサーはぱっと表情を輝かせた。
「はい、今このまま、コロニー全域に中継が流れています」
その言葉を聞いた瞬間、エリンの背筋がすっと伸びる。
胸元のハワード財閥のロゴに、指先だけそっと触れた。
「承知しました。よろしくお願いいたします」
凛とした声でそう答えると、彼女はカメラの方へ身を向ける。
軽く一歩下がり、足を揃え、気品に満ちた所作で一礼した。
アナウンサーがマイクを握りしめ、カメラの向こうへ向き直る。
「ただいま、ソーラ・デッラ・ルーナから、生中継でお送りしております。
先ほど無事帰還しました、捜索チーム“ラスペランツァ”のクルーのお一人――
元チーフ・パーサー、エリンさんにお越しいただいております」
カメラが、ふわりとエリンを抜いた。
彼女は落ち着いた笑顔で、画面の向こう側――見えない乗客たちに向けるときと同じ顔をした。
「よろしくお願いいたします」
その一礼だけで、フロアのざわめきがほんの少し和らいだ気がした。
どこか“仕事モード”の空気が、周囲を包み込んでいく。
「エリンさん、今回の任務では、大活躍だったと伺っていますが……?」
アナウンサーが持ち上げるように問いかける。
エリンはかすかに首を振り、柔らかな笑みを浮かべた。
「いえ、とんでもありません。
至らない点ばかりでしたし……まだまだ、反省することが多い任務でした」
その謙遜は、ただの社交辞令ではない。
一年のブランクと、宇宙爆発の中で感じた限界――それを知っているからこそ出る言葉だ。
アナウンサーは、次の質問へとスムーズに繋いだ。
「差し支えなければ、これまでのご経歴を伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい」
エリンは一拍置いてから、はっきりと答えた。
「私は、ドルトムント財閥の旅行会社にて五年間、乗務員として勤務しておりました。
そのうちの三年は、チーフ・パーサーとして――宇宙旅客便の運航に携わっております。
その後、一年ほど療養の期間をいただき……
現在は、ハワード財閥の旅行会社に勤務しております」
そう言って、胸元のジャケットについたロゴを指先でそっとなぞる。
画面の端に、そのロゴのアップが映し出される。
深い青と柔らかな光を組み合わせた、安心感のあるデザインだ。
「なるほど……一年の療養を経て、今はハワード財閥の旅行会社に、ということですが。
数ある会社の中で、“ハワード財閥”を選ばれた理由は、なんだったのでしょうか?」
アナウンサーの問いに、エリンは少しだけ目を細めた。
“用意してきた言葉”ではなく、“自分の言葉”を選ぶときの目だ。
「どこの旅行会社でもいい――とは、私は思っていませんでした。
元チーフ・パーサーとして、私自身が“心から信頼できる会社”でなければ、
再び乗務員として宇宙に出るつもりはありませんでした」
彼女はそこで、改めてジャケットのロゴに視線を落とす。
「このロゴを、ご覧ください」
カメラが、もう一度ロゴへ寄る。
エリンの指先が、そこを軽く押さえた。
「このロゴは――“宙”と“安全”と“安心”をモチーフにしています。
広い宇宙の中で、乗客一人ひとりの旅路が、
安全で、安心できる時間であってほしい。
その願いが、形になっているのだと、私は受け取りました」
言葉が重くなり過ぎないように、あくまで柔らかく。
けれど、その奥にある信念だけは隠さない。
「私は、その想いに惹かれて――
ハワード財閥の旅行会社で、もう一度“宙の仕事”を続けていきたいと思ったのです」
アナウンサーは、感心したように何度も頷いた。
「なるほど……。
“ロゴの意味”まで、きちんと理解されているんですね」
「ロゴは、お客様にとって、最初に目に入る“約束”みたいなものですから」
エリンは、少しだけ照れたように笑った。
その仕草が、画面越しの何万人もの視聴者に、親しみと安心を届けていく。
「それでは最後に――」
アナウンサーが、マイクを少しだけ近づけた。
「画面の前の皆さまへ、一言、お願いできますか?」
エリンは小さく息を吸い込み、カメラを正面から見据える。
そこに映るのは、救助任務から帰ってきた“英雄”でも、“被害者”でもない。
ただの、ひとりの乗務員。
宇宙を飛ぶ“おもてなしのプロ”の顔だった。
「今回の捜索任務で、改めて思いました」
彼女の声は、さっきまでより少しだけ柔らかくなる。
「どんなに優れた宇宙船や、どんなに腕のいいパイロットがいても――
宇宙は、決して“当たり前”に安全な場所ではありません。
だからこそ、私たち乗務員やパイロット、管制の皆さんは、
日々、当たり前のように“無事に帰ってきてもらう”ための準備をしています」
ふっと、微笑み。
「今日、こうして皆さんにお会いできるのは、
ラスペランツァの仲間たち、ブライアンさんたち、宇宙管理局、
そして、ここまで私たちを支えてくださった全ての方々のおかげです」
一拍置き、画面の向こうに向けて、ほんの少しだけ頭を下げる。
「いつか皆さまが、ご家族や大切な方と宇宙の旅に出られる時――
“このロゴ”を見かけたら、少しだけ、安心していただけたら嬉しいです」
ハワード財閥のエンブレムをそっと指し示しながら、最後の一言を添えた。
「その旅路を、“無事に行って、無事に帰る”ものにするために。
私たちは、これからもここで――お待ちしています」
そう言って、エリンはもう一度、気品あふれる一礼をした。
ソーラ・デッラ・ルーナのフロアには、さっきまでと違う種類の拍手が広がっていく。
英雄譚の拍手ではなく――
“またどこかのフライトで会いましょう”という、静かな約束の拍手だった。
ーーーー
ハワード財閥本社ビルの最上階。
重厚な絨毯が敷かれた社長室の大きなモニターには、ソーラ・デッラ・ルーナからの生中継がまだ流れていた。
画面の中では、エリンが最後の一礼を終え、アナウンサーと短い言葉を交わしている。
その姿がフェードアウトして、スタジオ側に切り替わったところで、ようやくリモコンの電源ボタンが押された。
「……やれやれ、あれで“一般乗務員からお願いします”か」
ソファの背にもたれ、腕を組んでいた男――ハワードの父親、クルーズ・ハワードが低く笑った。
鋭い眼光に、ほんの少しだけ愉快そうな色が浮かぶ。
向かいに座る、旅行事業本部長が深く息を吐いた。
「本当に、もったいない話ですよ。
ドルトムント財閥で十八歳にしてチーフ・パーサー。
今回の捜索任務でも、ネフェリスのクルーから“MVP”とまで言われる人材が――」
横で書類を閉じていた宇宙事業部の責任者も、頷きながら言葉を継いだ。
「それに、“S級”からの評価付きですからね。
あのリュウジが、あそこまであからさまに褒めるとは思いませんでした」
彼はモニターが消えた黒い画面を一瞥し、苦笑を漏らした。
「『俺達が全員、自分以上の力を出せたのは、エリンさんのサポートのおかげ』……でしたか。
あの男の口から、そこまでの言葉が出るとは、正直、想定外です」
クルーズは、指先で肘掛けを軽く叩いた。
「S級の彼も、宇宙管理局も、スターフォックスのクルーも、恒星間輸送船のメカニックも――
揃いも揃って、“あの子はすごい”と来た。
挙げ句の果てに、うちの制服を着て宇宙中に向けて宣伝までしてくれた」
そこまで言って、ふっと口元を緩める。
「……チーフ・パーサーじゃなくて、本当に良かったのか、という話になるな」
旅行事業本部長が、苦笑混じりに肩をすくめた。
「ええ。向こうから“チーフ・パーサーとして雇ってくれ”と言われても、おかしくない実績です。
むしろ、“一般乗務員からお願いします”と頭を下げられた時は、耳を疑いましたよ」
「普通は逆だろう」
宇宙事業部責任者が、眼鏡の位置を直しながら言う。
「こちらが条件を飲む人材ですよ、彼女は。
それを――“一からやり直したいので、現場の末端からで構いません”とは」
「……その姿勢がまた、客に刺さるんだろうな」
クルーズは顎に手を当て、先ほどの映像を思い返すように目を細めた。
「さっきの受け答え、見たか?
経歴を語る時は簡潔に。
療養のことも隠さずに、しかし弱みとしてではなく“ひと区切り”として話す。
そして今は“ハワード財閥のロゴの意味に惹かれて勤めています”だ」
旅行事業本部長が、思わず舌を巻いた。
「ロゴの説明は、完全にこちら側の言葉でしたね。
“宙と安全と安心をモチーフにしたロゴ”――プレゼン資料の文言を、ほぼそのまま、
いえ、それ以上に柔らかく、お客様に伝わる形で噛み砕いている」
宇宙事業部責任者も同意する。
「しかも、宣伝臭さを感じさせない。
“私がこの会社を選んだ理由”として話しているから、自然に耳に入ってくる。
あれでは、宣伝というより“信頼の証言”ですよ。
うちの広報が何人束になっても、あの説得力には勝てません」
三人の間に、しばし沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、机の上で突然震えだしたスマート端末の着信音だった。
クルーズが視線で合図すると、旅行事業本部長が端末を取り上げ、スピーカー通話に切り替える。
『も、申し訳ありません、本部長!』
「どうした。そんなに慌てて」
『先ほどの生中継をご覧になったというお客様や取引先から、
“エリン氏の次のフライトはいつか”という問い合わせが……殺到しておりまして……!』
「……殺到?」
宇宙事業部責任者が、眉を跳ね上げる。
秘書課の声は、少し上ずっていた。
『はい! 代表回線からだけでなく、旅行事業部の予約センターにも直接……
“エリンさんが乗務する便に乗りたい”
“あのエリンさんがいるなら、子どもを連れても安心だ”
“団体で予約したいが、フライトスケジュールは決まっているのか”などなど……』
旅行事業本部長と宇宙事業部責任者は、思わず顔を見合わせる。
『それから……ドルトムント財閥の古い顧客らしき方からも、
“エリン氏がハワードに移ったと聞いたが、本当なのか”との確認が何件か……』
「ふむ……」
クルーズは、少しだけ考えるように目を閉じ、それから短く答えた。
「今は“来週から勤務予定で、初便は未定”とだけ伝えろ。
“スケジュールが決まり次第、公式にアナウンスする”とな」
『かしこまりました!』
通話が切れると、部屋に再び静寂が戻る。
しかし、さっきまでとは違う種類の静けさだ。
旅行事業本部長が、苦笑しながらソファに背を預けた。
「……本当に“とんでもない拾い物”をしてしまったかもしれませんね、我々は」
宇宙事業部責任者も、肩をすくめる。
「ええ。
S級パイロットからの信頼、
ネフェリスのMVP、
そして――カメラの前で、あれだけ自然にブランドの価値を説明できる人材」
彼はデスクの上にあった、ハワード財閥のパンフレットを手に取って、軽く振ってみせた。
「この紙より、彼女が一言話した方が、よほど宣伝効果がありますよ」
「……だからこそ」
クルーズは、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外――コロニーの人工空を眺めながら、静かに言葉を続ける。
「“チーフ・パーサーからやらせてください”と言われていたら、
こちらもそれなりの“枠”に押し込む必要があっただろう。
だが、彼女は自分から“一般乗務員からやらせてほしい”と言った」
細めた視線の先には、ガラスに映る自分の姿と、その隣に先ほどのエリンの笑顔が重なるような気がする。
「なら――こちらがやることは一つだ」
二人が、自然と姿勢を正す。
「徹底的に現場で鍛えて、守って、育てる。
“ハワード財閥の顔”として恥ずかしくないように、な」
旅行事業本部長がにやりと笑う。
「フライトスケジュールの調整は、私に任せてください。
最初の一年は、あくまで“一般乗務員”として。
しかし、要所要所で“エリンがいる便”を、しっかり打ち出します」
宇宙事業部責任者も、頷きながらメモを取る。
「宇宙事業部としても、彼女が乗る便に合わせて、
安全性のデータや新型船のPRを絡められるよう、企画を練っておきます」
クルーズは、そんな二人を見て、満足気に息を吐いた。
「……まぁ、あれだな」
ふっと口元を緩める。
「ハワード財閥の制服を着て、あそこまで完璧に宣伝してくれる乗務員を、
今さら手放す気はない――ということだ」
三人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。
とんでもない拾い物をした――
その実感だけが、じわじわと胸の奥で膨らんでいくのだった。
ーーーー
ラスぺランツァの面々は、まさに押し寄せる波に飲まれるような忙しさだった。
「握手お願いします!」「サインしてくださーい!」「写真、一緒に撮ってください!」
四方八方から伸びる手。
サツキは少し照れたように笑いながらサインをし、
マリは「はい、じゃあ三秒我慢して笑ってくださいね」とカメラに向けてピースをし、
クリスタルは物静かに、それでも一人ひとりとしっかり目を合わせて握手を交わしていく。
チャコはチャコで、「ウチもサインでええんか? ほな、肉球サービスつけといたるわ!」と、サインの横に小さな肉球マークを描いて歓声を浴びていた。
その少し離れた場所で――。
リュウジは、いつもの無愛想さをすっかりどこかに置き忘れたような顔で、笑っていた。
差し出されるペンを受け取り、一枚一枚、丁寧にサインをし、
肩まで寄せて写真に写り、
子どもに話しかけられれば、かがんで目線を合わせて会話までしている。
その姿を、少し離れたところから眺めていた仲間たちは、思わず息を呑んだ。
「……あんなリュウジ、初めて見たかも」
ぽつりとシャアラが漏らす。
その横でベルも、柔らかい笑みを浮かべながら頷いた。
「うん。なんか……優しい顔をしてるな」
「……あれが、きっと本来のリュウジなんだろうな」
メノリもまた、どこか安心したように微笑む。
守るものに向き合いながらも、肩に背負いすぎていた重さが、ようやく少し降りた――そんな表情だった。
ハワードは腕を組んだまま、その様子をしばらく眺めていたが、ふっと口元を緩めた。
「あいつも、ようやく年相応の顔になったってことだな」
言ってから、ぱん、と手を打つ。
「よし、決めた。じゃあ俺もエリンさんと写真撮ってこよ! こんなチャンス、滅多にないしな!」
意気揚々と足を踏み出したその瞬間。
背中にふっと気配を感じ、ハワードは振り返る。
「……なんだ、カオルも写真撮りたいのか?」
少し顔を赤くしたカオルが、そっぽを向いたままぼそりと答えた。
「違う。……お前が、変なこと言わないか心配なだけだ」
「そっかそっか、心配してくれるのか。優しいなぁお前は!」
「だから、そういう言い方をするな……!」
言い合いをしながらも、結局カオルも一緒にエリンの列に並ぶことになる。
その様子を見ていたルナは、ぽかんと目を丸くした。
「へぇ〜……カオルって、エリンさんがタイプなんだ」
「ふふ、でもエリンさん、すごく綺麗だもの。分からなくもないわ」
シャアラがくすくすと笑いながら言うと、ベルが「確かに」と真顔で頷く。
その横で、シンゴがぱっと顔を上げた。
「じゃあ、僕はサツキさんのところ行ってくる!
メカニックのことも話したいし、ポルトさんのことも聞きたいしね!」
「じゃあ俺もついていくよ」
ベルがシンゴの後を追って小走りに列へ向かう。
それを見送っていたルナの耳元に、柔らかな声が届いた。
「あなたたちは、並ばなくていいの?」
振り向けば、そこにはペルシアがいた。
帽子の鍔を軽く指で押さえ、いつもの気怠そうな笑みを浮かべている。
「ペルシアさん、お疲れ様です」
ルナがぺこりと頭を下げると、隣でメノリも会釈しながら言った。
「本当に……大変でしたね。ずっと動いていたって、聞きました」
「まぁ、任務そのものよりも――さっきのリュウジの会見の方が疲れたけどね」
ペルシアは深々と溜息をついた。
「S級パイロットを返上するなんてらさらっと言ってくれるし、
勝手に“宇宙ハンターの依頼は俺の独断です”なんて被ってくれるし……
宇宙管理局の監察室、まだ私の顔を見るとため息つくのよ?」
「リュウジらしいといえば、リュウジらしいですけど……」
シャアラが苦笑いを浮かべる。
「まぁね。
あんなタラシ野郎は、この後しっかり懲らしめてやるから」
顎で「あそこ」と示された先――。
リュウジは、複数の女性に囲まれ、笑顔で写真に収まっていた。
「はい、じゃあもう一枚」「サイン、こっちにもお願いします!」
声が飛び交い、カメラのフラッシュがまたひとつ光る。
その姿は、どう見ても“嫌々付き合っている”というものではない。
どこか、心から楽しんでいるようにも見えた。
「……なんか、嬉しそう」
ルナの頬が、むくっとむくれたように膨らむ。
ペルシアはその表情を見逃さなかった。
じっとルナの横顔を観察し、それから小さく肩を揺らす。
「ルナちゃんも、並んできたら? ほら、ああ見えて、今なら何枚でも撮らせてくれるわよ」
「……そう、します」
ちょっとだけ――いや、かなり怒ったような足取りで、ルナは長い列の最後尾へ向かって歩いていく。
背中には「なんであんなに楽しそうなのよ……」という声にならないつぶやきが漂っていた。
「ルナちゃんって、本当に分かりやすいわね」
ペルシアがおかしそうに笑う。
「でも、それでいいと思います」
メノリが穏やかに言った。
「リュウジが、ちゃんと帰ってきたんですから。
ずっと、ルナも我慢してましたし」
「そうね」
シャアラも、胸に手を当てて小さく頷く。
「“悲劇のフライト”とか、“英雄”とか……
そんな言葉ばかりが先行して、彼自身はいつも傷ついてきて。
やっと、“帰ってきた場所”が、あの人にもできたんだろうなって思うと――
ルナが、少しくらい分かりやすく怒ってくれるくらいで、ちょうどいいわ」
ペルシアは、ふっと視線を上げた。
フロアの中央では、ラスぺランツァの面々が、笑顔で、一人ひとりと手を握っている。
チャコは子どもに囲まれ、
サツキはメカニック仲間らしき青年たちと談笑し、
マリはカメラを向けられるたび、プロ顔負けの笑顔で応えていた。
エリンはというと、列の最後尾近くに並んでいるハワードとカオルに気づき、驚いた顔をしてから、くすりと笑って手を振っている。
「――ずっと、我慢してきたんだもんね。あいつも、こっちも」
ペルシアは小さく呟いた。
その声は、フロアの喧騒に紛れて誰の耳にも届かない。
ただ、明るい照明の下で。
待ち望んだ笑顔が、ようやく、当たり前のようにそこにあった。
ーーー
最初にひと区切りついたのは、チャコだった。
「ほな、ここまでやな。みんな、ありがとなぁ!」
子ども達の前で、チャコは両手をぶんぶんと振った。
さっきまで列を作っていたのは、小学生くらいの子ども達ばかりだ。サイン帳やノート、教科書の裏表紙、なかには落書き帳まで持ってきている子もいた。
「チャコちゃん、またテレビに出る?」
「ネフェリス、また飛ぶ?」
「ルナお姉ちゃんと一緒に今度は来て!」
「おうとも! ウチが出ぇへん時は、リュウジに“代役料”請求しとくから安心しぃ!」
最後の一言に、子ども達は「きゃはは」と笑い声をあげた。
保護者らしき人たちが「ほら、邪魔しちゃダメよ」と声をかけに来ると、チャコはひょいっと背伸びして、もう一度大きく両手を振る。
「みんな、宿題ちゃんとせな、宇宙行かれへんで〜! ほな、またや!」
子ども達が手を振り返しながら散っていき、チャコの前のスペースにようやく余白ができた。
「ふぅ〜……よぉ喋ったわ。喉、カラッカラや」
チャコが肩を回しながら一息ついていると、そのすぐ隣で、マリがペットボトルの水を飲み干して、ほっと息を吐いた。
「こっちも、ひと段落……かな」
マリの前に並んでいたのは、宇宙管制や通信に興味のありそうな学生や、通信系の仕事をしているらしい大人達だった。
「マリさんって、あの“音だけで位置を割り出した人”ですよね?」
「いや、それはペルシアさんだよ。私はただ、“耳のいいペルシアさん”を信じて、レーダーと計器を睨んでただけ」
そんな会話を何度も繰り返し、質問に答え、最後は決まって「ペルシアさんもすごいんです」と返すのが、ここ最近のマリのパターンだった。
「ありがとーございました!」
「気をつけて帰って。……あ、宇宙通信の仕事、興味あるなら、宇宙管理局の採用サイト見てみて」
笑顔で見送った最後の一人が人混みに紛れたのを確認して、マリはようやく肩の力を抜いた。
「ったく……慣れないことすると、変に疲れるなぁ」
「けど、よう頑張っとったで。ちゃーんと“ラスぺランツァの通信士”やったわ」
チャコがニヤリと笑いかけると、マリは気恥ずかしそうに視線をそらした。
「そっちこそ。子どもウケ、異常だよね、チャコ」
「ウチ、どこに出しても恥ずかしゅうないロボットペットやからな!」
「……自分で言う?」
そんな二人のやり取りを横目に、少し離れた場所で最後の一組と握手を交わしていたクリスタルが、「ふぅ」と肩を落とした。
「こちらも、ようやく終わり、かな」
クリスタルの前に並んできたのは、医療従事者や救急の関係者、宇宙医療に興味を持つ学生などが多かった。
「宇宙での応急処置で、一番気をつけたことは?」
「“完璧を求めすぎないこと”ね。状況によっては、できることが限られる。だからこそ優先順位を決めるの。誰を・どう生かすか、ってこと」
「怖くなかったんですか?」
「怖くないわけないでしょう。でも、怖いって言ってる暇があったら、やるべきことをやる、かな」
そんなやり取りを淡々と、けれど丁寧にこなしてきた。
最後の人が深々と頭を下げて去っていくと、クリスタルは小さく肩を回す。
「ほえ〜、リュウジとエリンは大人気やな」
チャコが、二人のいる方角に顔ごと向けてぽつりと漏らした。
視線の先では、まだ長い列が蛇のように伸びている。
ときおり歓声や笑い声が起き、そのたびにフラッシュが瞬いた。
二人の列は、さっきよりは少し短くなっている。だが、その分だけ後ろが増えているだけのようにも見えた。
「二人とも美男美女だしね。それに、肩書きも派手よ?」
クリスタルが、どこか呆れたように、でも楽しげに微笑む。
「元S級パイロットと、若きチーフ・パーサー。
物語にしたら、いくらでも話が膨らみそう」
「せやなぁ。なんせ“悲劇のフライト”とか、“英雄の復活”とか、マスコミが好きそうなワードばっかやしなぁ。
現場からしたら、“もうちょい静かにしてくれや”なんやけど」
チャコはボディをぽんぽん叩きながら、伸びをする。
視線の先には、笑顔を絶やさずに次々と手を差し出すリュウジと、どんな年齢層の相手にも品よく丁寧に応じているエリンの姿があった。
「……あの二人、絶対、後でどっと疲れ出るわよ」
「せやな。エリンはともかく、リュウジは“人混み耐性”低そうやしなぁ」
「よく言う。あれで結構、板についてるわよ」
クリスタルとチャコがそんなことを話していると、マリがふと思い出したように周囲を見渡した。
「……サツキは?」
「せやな?」
チャコも同じように首を左右に振る。
少し離れたブロックでは、まだ人だかりが一つ残っていた。
そこから聞こえてくる声は、他の場所とは少し違う雰囲気があった。
「まだ話しているのかって顔だね、マリ」
「だって、もうとっくに区切りの時間、過ぎてるでしょ。あそこだけ、まだ終わる気配ないんだけど」
マリの視線の先――。
そこには、作業服姿のサツキが、困ったような、それでいて楽しそうな笑顔を浮かべて立っていた。
彼女の前には、シンゴとベル。
二人とも、目を輝かせて身を乗り出している。
「あれやな、完全に“ポルトさんトーク”に火がついとるな」
チャコがニヤニヤしながら言う。
「“ポルトさんが使ってた工具って、どんなのだったんですか?”とか、
“あの時の船の設計図、まだ残ってたりします?”とか……そんな感じかしらね」
クリスタルが、遠くからでも分かるくらいのテンションの高さに苦笑する。
「シンゴ君だっけ?、さっきからずっと身振り手振りで何か語ってるし。ベル君?もあんなに喋るタイプだったっけ?」
「サツキもサツキで、楽しそうに答えとるからな。あれ、放っといたら二時間くらい普通に続くで」
「止めに行く?」
「……ま、ええんちゃう? 今日は特別やし。ポルトさんの話、できる相手なんてそうおらへん。
あいつも、きっと嬉しいやろ」
チャコの声は、少しだけ柔らかくなった。
サツキは、エンジニア仲間のメカニック達と話す時とはまた違う表情をしている。
サヴァイヴのこと、大陸を渡った船のこと、ポルトのこと――。
彼女の言葉に、シンゴとベルは何度も頷き、時には笑い、時には真剣な表情を浮かべていた。
「……なんか、いいわね」
「どっちが“ファン”で、どっちが“話を聞いてもらってる側”か、分からんな」
チャコが肩をすくめると、マリも小さく笑った。
「こっちも負けてられないかも。
“ラスぺランツァの通信士”としてのファン、増やさないと」
「お、やる気やな?」
「ま、ぼちぼちね。
……とりあえず、次にこういう場があったら、“ペルシアさんの耳”のすごさを、もうちょっと上手く伝えられるようにしておきたい」
「それはええ心がけや」
チャコが軽くマリの背中をぽん、と叩く。
「どのみち今日は、ペルシアに“サービス残業”命じられとるしな。
16時から打ち上げや」
「うわ……やっぱり、あの人、鬼だ」
「でも、そんな鬼が、ウチらをちゃんと地面まで帰してくれたんやで」
その言葉に、三人はそろってソーラ・デッラ・ルーナの高い天井を見上げた。
そこには、いつもと変わらない三日月型の照明が柔らかな光を落としている。
「……ま、“たまには”こういう賑やかなのも、悪くないかもね」
「せやな。ウチら、宇宙でもこっちでも、よう頑張っとるわ」
チャコが胸を張る。
その間にも、リュウジとエリンの列はじわじわと短くなりつつあり、サツキの周りではまだ楽しそうな笑い声が響いていた。
ラスぺランツァの長い一日は、もう少しだけ続きそうだった。
ーーーー
ルナの順番が来る少し前――。
「ねぇ、本当に彼女いないの?」「S級パイロットでしょ? 絶対いるって〜」「連絡先、ちょっとだけでも……」
リュウジの目の前で、二、三人の女性が遠慮なく身を乗り出していた。
ひとりは学生らしく、もうひとりは若い会社員、最後のひとりは雑誌のレポーターか何かだろうか、メモ帳を握りしめている。
彼は、そんな中でも表情を崩さない。
柔らかな笑みを湛えたまま、ゆっくりと手を軽く上げた。
「えっと……彼女はいませんよ。
今は学生ですし、しばらくは勉強と、皆と一緒に過ごすのを優先したいので」
「でも、好きな人とかは?」
「さすがに、その質問にはお答えできないですね」
冗談めかして肩をすくめると、三人は「え〜」「ずるい〜」と声を上げる。
それでも、リュウジは最後まで丁寧だった。
「連絡先の交換も、ごめんなさい。
今日は“ラスぺランツァの一員”としてここにいるので。
この場で不公平なことは、したくないんです」
きっぱりとした言葉なのに、声に刺はない。
それが分かるのか、三人は不満を漏らしながらも、どこか納得したように頷いた。
「じゃあ、せめて写真だけ!」
「それなら、喜んで」
リュウジは一歩前に出て、三人の真ん中に立つ。
スマホを構える誰かに向けて、軽く顎を上げ、左手を上げてピースを作った。
「撮りますよー、はい、チーズ!」
パシャッというシャッター音。
画面には、リュウジを中心に満面の笑みを浮かべた女性たちが映っている。
「ありがとうございます!」
「こちらこそ」
彼は、最後まで笑顔を崩さず、一人ひとりと握手を交わし、「気をつけて帰ってください」と頭を下げた。
そして三人が名残惜しそうに去っていく背中に、軽く手を振って見送る。
彼女たちの姿が人混みに紛れて消えた頃――。
リュウジはようやく、ふぅ、と小さく息を吐いた。
笑顔を保ったまま、それでもほんの僅か、肩の力が抜ける。
(……なかなか、体力使うな、これ)
内心そうぼやきながらも、彼はすぐに顔を上げる。
「次の方、どうぞ――」
事務的になり過ぎないよう、けれど丁寧に声をかける。
その視線が、スッと正面の人影を捉えた瞬間、左の眉がぴくりと跳ねた。
そこに立っていたのは、腕を組み、むすっと頬を膨らませたルナだった。
目だけは笑っていない、どこかぴしりと冷えたような笑顔を浮かべている。
「――随分と楽しそうだね?」
にこり、と。
言葉とは裏腹に、どこか刺さるような笑みだった。
「……なんで並んでるんだ……」
リュウジは、乾いた笑みを浮かべた。
まさか自分の列の最後尾に、ルナまで混ざっているとは思っていなかった。
「人がどれだけ心配してたと思ってるのさ。
こっちは毎日、ニュースと空ばっかり見てたのに……」
ルナは、つかつかと一歩踏み出す。
その頬は、ぷくっと膨らんだままだ。
「それなのに、帰ってきたと思ったら――
鼻の下、伸ばしちゃってさ」
「伸ばしてはいない」
即座に否定するリュウジ。
が、ルナはじとっとした目で睨み上げた。
「さっき、“彼女はいません”って笑って言ってたよね?」
「……聞いてたのか」
「聞こえてきたの。こっちまで。
“好きな人は?”って言われて困ってる顔してたし」
ルナの声には、ほんの少しだけ棘が混じる。
それは嫉妬というより、張り詰めていた何かがまだ解けきらず、ぎこちなく気持ちの置き場を探しているような、そんな響きだった。
「こっちはね、消失したって聞かされて。
あの時の“悲劇のフライト”みたいに、また……って。
ずっと……ずっと、こわかったのに」
言いながら、自分でその言葉に気づき、ルナははっとして口を噤む。
胸の奥で、ぐしゃっと絡まっていた感情が一気に溢れ出しそうになる。
「なのに、帰ってきたらこれだよ。
女の人達に囲まれて、写真撮って、サインして……
リュウジなんて、もう知らない!」
半分八つ当たり、半分本音。
ルナはくるりと踵を返し、人混みの方へ歩き出した。
「ルナ!」
背中に、強めの声が飛ぶ。
足が、反射的に止まった。
フロアのざわめきの中で、周囲の声が一瞬だけ遠くなる。
振り返ろうとして、ルナは自分の頬が熱くなっていることに気づいた。
ぎゅっと唇を噛みしめ、視線を床に落とす。
(だめ。今、顔を見たら……)
絶対、変な顔をしている。
目は腫れぼったくて、口はへの字で、涙は今にもこぼれそうで。
そんな顔で振り返るのは、嫌だった。
だから、ルナはそのまま、前を向いたまま、耳だけをリュウジの方へ向ける。
人々のざわめきの中で、彼の声だけが、不思議とはっきりと届いた。
「……ただいま」
柔らかな、けれど芯の通った声だった。
ネフェリスの操縦席に座っている時のような、張り詰めた声ではない。
サヴァイヴの島で、夜空を一緒に見上げていた時のような――どこか懐かしい響き。
ルナの胸の奥で、ぐしゃぐしゃにねじれていた不安が、少しずつ溶けていく。
(ああ……帰ってきたんだ)
消失したと告げられた会議室。
耳鳴りだけが響いていたあの日の感覚。
布団の中で、声を殺して泣いた夜。
ユイを抱きしめながら、強がって「大丈夫だよ」と言った自分。
それら全部が、今の一言で、少しずつ「過去」に押し出されていく。
胸の真ん中が、じんわりと暖かくなった。
喉の奥がきゅっと縮まり、答えようとすると声が掠れそうになる。
それでも、ルナはぎゅっと拳を握りしめ、はっきりと言葉を紡いだ。
「……おかえり、リュウジ」
振り返らず、前を見たまま。
それでも、声には笑みが滲んでいた。
リュウジは、その背中を見つめる。
肩が小さく震え、そのくせ、足はしっかりと床を踏みしめている。
泣きたいのを堪えているのか、笑いたいのを抑えているのか――多分、その両方だ。
「ただいま、ルナ」
今度は、少しだけ笑い声が混じった。
その声に、ルナの胸の中で何かがほどける。
(よかった……本当に……)
視界が滲みそうになるのを、必死に瞬きでごまかした。
今、振り返ったら――きっと、ぐしゃぐしゃの顔を見られてしまう。
(だから、今はまだ振り返らない)
そう心の中で決めて、ルナはぐいっと腕で目元を拭った。
その横を、一般客たちが通り過ぎていく。
誰も、この小さなやり取りの意味までは知らない。
けれど――。
人混みの中、少し離れた場所でそのやり取りを見ていたメノリは、そっと胸に手を当てて微笑んだ。
(ようやく、言えたな)
シャアラは肩を寄せながら、ルナの小さな背中を見つめる。
(よかった……本当に)
ハワードは腕を組みながら、ふっと目を細めた。
「……あいつら、やっとスタートラインに立ったって感じだな」
ベルとシンゴは顔を見合わせ、照れくさそうに笑う。
そして、ペルシアは遠くからその光景を見て、ひとつだけ満足そうに頷いた。
(そう。そうやって、“帰ってきた”って、ちゃんとお互いに言えるなら――
私がどんなに監察に怒られたって、減給くらい、安いものよ)
フロアのざわめきは相変わらず続いている。
ラスぺランツァの名を呼ぶ声、拍手、笑い声、シャッターの音。
その真ん中で。
「ただいま」と「おかえり」が、ようやく、静かに交わされた。
ーーーー
ハワードとカオルは、わいわいした人混みの中をかき分けて、ルナ達のところへ戻ってきた。
ハワードはというと、もう顔中で「楽しかった!」と語っているような笑みを浮かべ、片手の携帯端末をニヤニヤと眺め続けている。
「……随分と楽しそうだな」
メノリが半ばあきれ顔で言うと、ハワードは待ってましたと言わんばかりに画面を突き出した。
「そりゃそうだろ? エリンさんとツーショットだぜ?」
どやぁ、と効果音がつきそうなくらいの顔だ。
画面には、制服姿のエリンと並んで、これでもかというくらいキメ顔をしているハワードが映っている。
エリンはプロの微笑み、ハワードはやたらと張り切ったスマイル。背景には、ソーラ・デッラ・ルーナのフロアの人混みと、ネフェリスの一部も写り込んでいた。
「……本当に嬉しそうね、ハワード」
ルナが苦笑すると、シャアラがくすっと笑う。
「カオルも撮ったんでしょ?」
シャアラが首を傾けて尋ねると、カオルはわずかに肩を揺らし、
「ああ」
とだけ返した。
「見せて見せて〜」
シャアラが目を輝かせて一歩近づく。
しかしカオルは、ほんの一瞬だけ視線を泳がせると、携帯端末をポケットに滑り込ませ、ややむっとした顔をした。
「……いい。べつに」
「え〜? なんでよ?」
「見せる必要、あるか?」
その言い方が妙にぎこちない。
シャアラは「ふぅん?」と意味ありげに目をすがめ、しかしそれ以上は追及せずに肩をすくめた。
「シンゴとベルは?」
ハワードが辺りを見回しながら尋ねると、メノリがフロアの少し離れた一角を指さした。
「あそこだ」
視線の先――。
まだ人だかりができている一画があり、その中心にサツキの姿があった。
作業服の胸元でペンをいじりながら、目を輝かせて話すシンゴ、隣で真剣に耳を傾けているベル。
三人は身振り手振りを交えながら、まるで周囲のざわめきが耳に入っていないかのように盛り上がっている。
「……ほんとだ。めちゃくちゃ楽しそうだな、あいつら」
「同じメカニック同士で、ポルトさんの弟子同士だ。話が合うんだろうな」
メノリが柔らかく微笑む。
ポルトの名をちらっと耳にしているだけに、その輪の中が少し羨ましくも、微笑ましくも見えた。
そんな中、カオルはふと視線をルナに戻した。
さっきまでは少し遠くを見ていたルナの表情が、今はどこか柔らかくほどけている。
「……何かいいことがあったのか?」
「え?」
不意に向けられた問いに、ルナは瞬きをした。
「なんで?」
「顔が――」
カオルは少し言いよどみ、それでも正直に言葉を続けた。
「……綻んでる」
「えっ」
ルナは咄嗟に両手を頬に当てて、慌てて隠す。
指先に伝わる自分の頬の熱に、余計に顔が熱くなる気がした。
(やっぱり……顔、緩んでたんだ……)
さっき聞いた「ただいま」が、まだ胸の奥でふわふわと響いている。
その一言だけで、胸の中の何かが解きほぐされてしまったのだ。
「ははーん?」
そんなルナの様子を見て、ハワードが妙に含みのある声をあげた。
「さてはリュウジと何かあったな?」
「な、なにもないよ!」
ルナはぶんぶんと首を振るが、頬に添えた手が余計にそれを誤魔化しているようにも見える。
「怪しい〜」
ハワードがじとっと疑いの視線を向けた、そのとき――。
「あはは、面白い子達ね」
横から軽やかな笑い声が差し込んだ。
振り向けば、ペルシアが腕を組み、肩を揺らして笑っていた。
「ペルシアさん!」
ルナが声を上げる。
「でもね、ルナちゃん。うかうかしてると――」
ペルシアはわざと声をひそめ、悪戯っぽく目を細めた。
「エリンに取られちゃうわよ?」
「え?」
「えっ!?」
ルナと、何故かハワードの声が同時に上がった。
カオルも思わず眉をぴくりと上げる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいペルシアさん、それって――」
「どういう意味ですか?」と問おうとするハワードの言葉を、ペルシアはひらひらと手を振って遮る。
「あの二人の息の合いようったらないのよ。
ほら、見てみなさい」
ペルシアは顎で、少し離れた場所を指し示した。
視線を向けると、ちょうどエリンの前の列が、一組を見送ったところだった。
エリンは笑顔で最後の子どもと握手を交わし、丁寧にお辞儀をして見送る。
相手が去ると、ふぅ、とわずかに肩を落として、受け付け台の脇に置いてあったペットボトルの水を一口飲んだ。
「……このペースで、ずっと続けてるのか」
メノリが小さく呟く。
エリンはすぐに表情を戻し、「次の方、どうぞ」と凛とした声を上げる。
列の先頭にいた大人の男女が進み出るのを確認すると、彼女は視線を前に向けたまま、ほんの一瞬だけ斜め横に目を流した。
その先――リュウジの列でも、ちょうど一組が写真を撮り終えたところだった。
リュウジは笑顔で手を振り、子どもに頭を撫でられ、少し照れ臭そうに髪をかいたところで、
「次の方、どうぞ」
と柔らかく声をかける。
そのタイミングと、ほとんど誤差もない瞬間だった。
エリンは自分の前のテーブルにペットボトルを置いたかと思うと、誰の方を見るでもなく、軽い動作でそれを放り投げた。
ふわり、と緩やかな弧を描いて飛ぶペットボトル。
狙いは、リュウジのブースの方角。
「えっ、ちょ、投げた!?」
ハワードが思わず声をあげる。
しかし、リュウジはまったく慌てた様子を見せなかった。
視線を目の前の来訪者から外すことなく、右手を軽く横に出す。
「ありがとうございます」
視線を向けることさえなく、ぴたり、とペットボトルをキャッチした。
「うそ……」
ルナの口から、自然と驚きの声が漏れた。
リュウジはそのまま、片手で器用にキャップを回し、喉を潤すように一口飲む。
動作は滑らかで、流れを一切止めない。
受け取った直後には、もう次の質問に答えている。
「職人芸かよ……」
ハワードが、素直に感嘆を込めて呟いた。
ペルシアは得意げな顔で肩をすくめる。
「あの二人の信頼関係は、ほんっと、すごいから。
ネフェリスの中じゃ、もっとすごかったのよ?」
「もっと、ですか?」
メノリが驚いて問い返す。
「ええ。
“今、誰が何を欲しがってるか”を、あの子は一々聞かずに動くし――」
「リュウジも、手を伸ばした先に“あるはずのもの”を、疑いもせずに掴みにいく。
あのペットボトルみたいにね」
ペルシアの言葉に、ルナの胸がきゅっと小さく疼いた。
(……すごい、な)
素直にそう思う。
悔しいとか、負けたくないとか、そんな感情よりも先に――。
(リュウジが、ああやって笑ってるの、ちゃんと支えてくれる人がいるんだ……)
そう思うと、どこかほっとしたような、そして少しだけ寂しいような、複雑な温かさが胸に広がる。
「……でもさ」
ぽつりと、ハワードが口を開いた。
「それって、“取られちゃう”ってより――」
「“同じ方向を見てる仲間”って感じじゃないのか?」
意外にも落ち着いた声音で言ったのは、カオルだった。
さっきまでポケットに突っ込んでいた手を抜き、腕を組みながら、リュウジとエリンの方を見つめる。
「……そうかもしれないな」
メノリが小さく笑った。
「それでも、ルナちゃん、油断は禁物よ?」
ペルシアが横からさらりと釘を刺す。
「リュウジみたいなタイプは、自分が誰を頼りにしてるか気づくのが遅いんだから。
ちゃんと横に居続けてあげないと」
「……もう、ペルシアさんったら」
ルナは頬を赤くしながら、制帽のつばを指でいじるペルシアに視線をそらした。
けれど、その口元は、先ほどよりもずっと柔らかく綻んでいる。
(うかうかなんて、してられないよね……)
さっき聞いた「ただいま」、自分が返した「おかえり」。
その短い会話が、ルナの中で静かに形を変えていく。
(リュウジが、やりたいことを見つけたって言うなら――)
その隣で、一緒に笑っていられる自分でありたい。
ペットボトルの軌道を読むような、そんな器用な真似はできないかもしれないけれど。
(私にだって、私にしかできない“支え方”が、きっとあるはずだもん)
賑やかなフロアのざわめきの中で、ルナはそっと胸元のネックレスに手を添えた。
オレンジ色のミサンガは、もう切れてしまったけれど――。
その願いは、きっとまだ続いている。
ーーーー
ファンサービスの列がようやく途切れ、最後の子どもと写真を撮り終えると、リュウジは軽く会釈をして手を振った。
子ども達が名残惜しそうに手を振り返しながら去っていくのを見届けると、彼はそっと肩の力を抜き、テーブルの縁に片手をついた。
(……はぁ……)
声には出さなかったが、出そうなほどの疲労がどっと押し寄せてくる。
左瞼を覆うガーゼはじんわりと重く、右肩もさっきクリスタルに戻してもらったばかりで鈍い痛みが続いていた。
それでも、さっきまでの数時間、彼はずっと笑っていた。
写真、握手、サイン、質問、また写真――。
戦場とは違う意味で、これはこれで体力を削られる。
「お疲れさま」
ふわりと、よく知った声が落ちてくる。
横を見ると、ペットボトルを片手に持ったエリンが、いつもの柔らかな微笑みを浮かべて立っていた。
「……ありがとうございます、エリンさん」
リュウジはペットボトルを受け取り、喉を潤すように一口飲む。
冷たい水が乾いた喉を通っていく感覚が、少しだけ意識を覚ました。
「悪くなかったわ」
エリンはそう前置きしてから、すっと目を細めた。
「ただ――途中から笑顔がぎこちなかったわよ」
容赦ない指摘が、さらりと飛んでくる。
「……厳しいですね」
リュウジは苦笑いを浮かべた。
図星なのは自覚している。頬の筋肉が、途中から本気で悲鳴を上げていたのだ。
「当たり前でしょう?」
エリンは肩をすくめ、冗談めかして続ける。
「S級パイロットなんて肩書きで呼ばれておいて、その程度の笑顔でどうするの。
皆さん、命懸けで帰ってきた“英雄”に会いに来ているのよ?」
「……“英雄”は大袈裟です」
「そうかしら?」
エリンは、ふふっと小さく笑った。
「少なくとも、あの子達にとってはそうよ。
あなたの“ただいま”を聞けた人達なんだから」
その言葉に、リュウジはふっと視線を落とした。
“ただいま”――あの一言を言えなかった過去を思い出し、喉の奥に小さな棘が刺さる。
「……努力します」
「そう、それでいいわ」
エリンは満足げに頷くと、指先で軽く彼の肘をつついた。
「それにね、リュウジ」
「はい?」
「目を輝かせるっていうのは、ああゆうことを言うのよ」
そう言ってエリンが指差した先――。
少し離れたスペースで、サツキとシンゴが向かい合っていた。
サツキの周りには工具箱と整備データを写したパネルがいくつか広げられており、その隣でシンゴが身を乗り出している。
「でね、そのときポルトさんが使ってたのが、このタイプの推進ユニットで――」
「へえっ! 本当にこれ、あのときの構造と似てるんだ!」
シンゴの瞳は、今にも星が飛び出してきそうなほどキラキラと輝いている。
サツキもまた、作業服の袖をまくりながら、嬉しそうに笑っていた。
「ポルトさんに教えてもらった時はね、もっと粗くて、融通も利かなかったの。
でも、あの経験があったから、こうやって活きてるのよ」
「すごい……! あの船の構造の話、僕、もっと詳しく知りたいです!」
「じゃあさ、後で図面、コピーしてあげる。
ポルトさんの話も、できる範囲でならいくらでもするわ」
「本当ですか!?」
シンゴの声は一段と大きくなる。
その後ろで、ベルが少し離れた場所に腰を下ろし、どこかお手上げといったように苦笑していた。
「シンゴ、そろそろ……」
「ベル、この話は今すごく重要なんだ。ちょっとだけ静かにしてて!」
「……だそうよ」
エリンは肩を揺らして笑い、顎であの二人を示した。
「あれが、“自然な目の輝き”」
「……確かに、あれはすごいですね」
リュウジも思わず苦笑する。
サツキの瞳もシンゴの瞳も、まるで子どものようにまっすぐだ。
そこに作り物の笑顔はひとかけらもない。
「べつに、あなたにあれと同じものを求めているわけじゃないけれど」
エリンは視線をリュウジに戻す。
「でも――“楽しい”とか、“嬉しい”とか、“安心させてあげたい”って気持ちがちゃんと伝われば、
笑顔はもう少し、自然になるはずよ?」
「……難しい注文ですね」
「難しいからこそ、練習する価値があるのよ。
ね? リュウジ“さん”」
最後だけわざとらしく“さん”を強調してくる。
リュウジは軽く肩をすくめてみせた。
「エリンさんのようには、なかなかいきません」
「私だって最初からできたわけじゃないわよ?」
エリンは少し遠くを見るような目をした。
「泣きたいときでも笑わなきゃいけないときもあったし、
本当は怖くてたまらないのに、“大丈夫ですよ”って言い続けた日もある」
そこで一度言葉を区切り、彼女は首を横に振る。
「でも、あの子達の顔を見たでしょう?」
さっきまでリュウジの列に並んでいた子ども達。
憧れや、安堵や、“帰ってきてくれてありがとう”という想いをそのまま乗せた瞳。
「彼らにとっては、今のあなたは――
“宇宙を飛んできた、本物のヒーロー”なのよ」
「……ヒーロー、ですか」
「そう。
だからこそ、作り笑いじゃなくて、“あなた自身”の笑顔で応えてあげて。
それは、きっとあなたにしかできない仕事だから」
穏やかな口調なのに、芯のある声だった。
彼女もまた、無数の乗客と向き合ってきた人間だと、改めて思い知らされる。
「……精進します」
リュウジが素直に頭を下げると、エリンは満足そうに微笑んだ。
「ええ。それでこそ、ネフェリスのパイロットね」
そう言って、視線を横に流す。
まだ笑い声とざわめきに満ちたソーラ・デッラ・ルーナのフロア。
サツキとシンゴは相変わらず熱弁を交わし、ベルは二人の背後で「やれやれ」と首を振っている。
「……悪くない光景でしょう?」
エリンが小さく尋ねる。
リュウジは、ゆっくりと頷いた。
「ええ。」
「そのためにも、ほら」
エリンは、リュウジの手元のペットボトルを指差した。
「水、飲み切って。笑顔の練習は、これからいくらでもできるから」
「……厳しいですね、本当に」
「アルバイトするんでしょ?」
エリンの冗談めいた一言に、リュウジは小さく笑い、残りの水を一気に飲み干した。