そのうち、ペルシアの手にした徳利がテーブルに「コトン」と落ちた。
「……ふにゃ……もう一軒……」
そう呟いたきり、彼女の瞼はすうっと閉じていく。つけまつげの影が長く落ち、腕を枕にして、そのまま気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
「……寝たな」
クリスタルが苦笑しながら、ペルシアの頬を指先でつつく。
「ペルシアさん、大丈夫ですか?」
マリも少し赤い顔で身を乗り出したが、その声にもペルシアはぴくりとも反応しない。徳利の口から残りの熱燗がじわっとこぼれ、チャコが慌てておしぼりを押し当てた。
「完全に出来上がっとるやんけ、この人……」
チャコが肩をすくめる。
ふと見ると、サツキもマリも、頬を赤くして、瞼がとろんとしていた。さっきまで元気にしゃべっていたのに、今は炊き出しの後みたいに、ふにゃふにゃとろけている。
「サツキ、大丈夫?」
エリンが覗き込むと、サツキはこくりと頷き、
「だ、大丈夫です……ちょっと、眠いだけで……」
と、言いながら、そのままテーブルにおでこをコツンとつけた。
「大丈夫ちゃうやろ、それは」
チャコが即ツッコミを入れると、マリも「ふぁ……」と可愛らしい欠伸を噛み殺し、慌てて口を手で押さえた。
「わ、私も……ちょっと眠いだけです。エリンさん、ペルシアさん、すみません……」
「いいのいいの。今日一番働いてた組でしょ、二人とも」
エリンは笑って、二人の前に残っていたお茶をそっと彼女たちのほうに押しやった。
「……そろそろ、帰ろっか?」
エリンが周りを見回しながら言うと、クリスタルが静かに頷く。
「そうね。これ以上飲んだら、明日の朝、全員動けなくなるわ」
「俺も賛成です。さすがにちょっと、眠くなってきました」
リュウジもコップの水を飲み干し、軽く息を吐いた。まだ十四歳の身体には、ジュースとおでんダシだけでも、さすがに長時間の場は堪えるらしい。
「ほな、そろそろお開きやな」
チャコがそう言って立ち上がりかけると、エリンがペルシアの肩を軽く揺さぶった。
「ほら、ペルシア、起きて。帰るよ」
「……んあ……打ち上げ、これからでしょ……?」
「もう十分したよ。ほら、起きて」
「やーよ……まだ飲める……」
ペルシアは完全に子どもみたいな声でわがままを言い、エリンの手を払いのけて、テーブルに頬をぺたりとくっつける。
「完全に酔っ払っとるなぁ……」
チャコが呆れたように笑った。
その隙に、リュウジはすっと席を立ち、さりげなくカウンター側に歩いていく。店の主人に会計を告げ、端末を出した。
「お勘定、全部で七百ダールだ」
「分かりました」
ピッ、とカードを通す音。明細を確認してから、リュウジは静かに頷いた。
テーブルに戻ろうとしたその時、背後から二つの影がぴたりと横についた。
「……あら、支払い終わった?」
クリスタルが覗き込み、エリンは当然のような顔で自分の端末を取り出す。
「リュウジ、こっち向いて」
「なんですか、エリンさん」
「じっとしてて」
エリンはリュウジのカード情報をさっと読み取り、指先で操作を始めた。ほぼ同じタイミングで、クリスタルも端末を操作する。
「はい、振り込んだ」
「私も。入ってるはずよ」
端末に通知が立て続けに二件届く。画面を確認したリュウジは、目を瞬かせた。
「……四百五十ダールずつ、ですか。二人合わせて九百ダールって、ちょっと多いですよ」
「打ち上げボーナス」
エリンがさらっと言う。
「そうそう。今回はあんたのおかげで生きて帰ってきたんだから、そのくらいさせなさい」
クリスタルも肩を竦めて笑った。
「でも――」
「遠慮しないの」
エリンが少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべる。
「もしどうしても気になるなら、今度、何か美味しいもの奢って?」
「……分かりました。その時は、ちゃんとお返しします」
リュウジは小さく笑い、頭を下げた。
席に戻ると、ペルシアは相変わらずテーブルに突っ伏したままだった。頬がほんのり赤く、寝息は気持ちよさそうに規則正しく続いている。
「ほら、ペルシア。起きて。帰るんだから」
エリンがもう一度揺さぶる。
「……んぅ……リュウジぃ、右舷側、ノイズ……」
「夢の中でも仕事かいな、この人」
チャコが思わず吹き出す。
「完全にアウトね。これは」
クリスタルが眉を下げ、諦めたように笑う。
「サツキ、マリ、立てる?」
エリンが二人を見ると、サツキはこくこくと頷きながらも、ふらりと体を傾けた。
「だ、大丈夫です……ふあ……すみません……」
「わ、私も大丈夫です。ちょっと、目が回るだけで……」
マリも頑張って笑おうとしているが、ほっぺたがぽやんと赤い。
「じゃあ、今日は全員、ホテルに戻って寝よ。明日もあるし」
エリンがまとめると、全員が素直に頷いた。
「……で、問題はこの人だよなぁ」
チャコがペルシアを指差す。
「とりあえず起こしてみるか」
リュウジがペルシアの肩に手を伸ばそうとしたそのとき、
「リュウジ、靴紐ほどけてるよ」
エリンがふと気づいたように指摘した。
「本当だ……すみません、ちょっと結びます」
リュウジは素直にその場で屈み、ほどけていた靴紐を結び直し始める。
その背中がちょうどいい高さになった瞬間――。
「今よ」
エリンは小さく呟くと、ペルシアの腕をぐいっと引き寄せ、そのままリュウジの背中にどさっと乗せた。
「……え?」
突然の重みと、背中に当たる柔らかい感触に、リュウジは靴紐を結んだまま固まる。
ペルシアは半分寝たまま、無意識にリュウジの首元に腕を回した。
「……ん……リュウジ……もう一杯……」
「いや、もう終わりだから」
リュウジは苦笑しつつ、背中に回された腕を落とさないように、そっと抱え直した。
「どうするんですか、これ……?
立ち上がりながら、エリンのほうを見る。
「ペルシアは、管制室に泊まり込みで働いてたでしょ。ホテルなんて取ってないと思うよ」
マリが小さく欠伸をかみ殺しながら言った。
「そういえば、そうやな。ずっとソーラ・デッラ・ルーナの簡易ベッドで寝とった言うてたし」
チャコも頷く。
「じゃあ、誰かの部屋に――」
リュウジが言いかけた瞬間、全員の視線が一斉に逸れた。
サツキは「えっと……」と目を泳がせ、マリはそそくさと鞄の中身を確認するふりをしている。クリスタルは「私は明日、ブライアンの様子を見に病院に行くから」と、さり気なく責任を回避した。
「……おい」
「わ、私達、シングルルームなの。ベッドもそんなに大きくないし……」
サツキが申し訳なさそうに両手を合わせる。
「私もだ。ペルシアさんを泊めるスペースは、さすがに……」
マリも続ける。
「クリスタルは?」
「残念ながら、こっちもシングル。しかも荷物だらけ。あのまま倒れ込んだら、多分、ベッドが沈むわ」
クリスタルがさらっと言う。
「エリンさんは?」
「私も同じ。ペルシアを転がしたら、間違いなく崩れるね」
エリンは肩を竦めた。
「つまり、この中でまともにペルシアを寝かせられるのは――」
クリスタルの視線が、じわじわと二人に絞られていく。
「リュウジとチャコだけ、ってわけだ」
「頼んだわ」
サツキがぺこりと頭を下げる。
「よろしく頼む」
マリも続けて頭を下げた。
「……はぁ」
リュウジはため息をひとつこぼし、背中でぐっすり眠るペルシアの重みを受け止め直した。
「ウチも無理やで? 絶対詰まるわ」
チャコも額をぽりぽり掻く。
「分かってる。だけどペルシアを寝かせるぐらいなら、なんとかなるだろ」
「あ、あかんて!?」
チャコが身振り手振りで止める。
「ルナには俺から話をしてやる。」
「…仕方あらへんな」
チャコが諦めると、エリンがふっと息を吐いた。
「じゃあ、今日は解散。サツキとマリは、私と一緒にタクシー乗り場まで行こうか」
「はい、エリンさん」
「お願いします、エリンさん」
サツキとマリはふらふらしながらも立ち上がり、コートを羽織る。
クリスタルは肩のストールを整え、
「私はブライアンの病院がこっち側だから、このまま歩いて帰るわ。また明日」
「気をつけろよ」
リュウジが背中の重みをずらしながら声をかけると、クリスタルは振り向きもせず、ひらひらと片手を振った。
「ほな、ウチらも行こか、リュウジ」
「……そうだな」
リュウジはエリンたちに一礼し、ペルシアの体勢が崩れないように支えながら、のれんの向こうへと歩き出した。
外に出ると、コロニーの夜は少し冷たく、酔いを覚ますような風が吹き抜けた。
「ペルシア、寒ないか?」
チャコがペルシアの頬を軽くつつく。
「……あったかい……ネフェリスのエンジン音……」
「エンジンちゃうわ、リュウジの背中や」
チャコのツッコミにも、ペルシアは小さく寝息を立てるだけだった。
リュウジとチャコは、顔を見合わせて、同時に深いため息をついた。
「……ほんま、ラスペランツァは最後まで手ぇかかるな」
「まったくだ」
リュウジは、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「嫌じゃないけどな」
「そやな。――ほな帰ろか」
「ああ」
夜の小さな灯りの中、背中にペルシアを背負ったS級パイロットと、小さなネコ型ロボットは、並んで歩き出した。どこか、家路につく家族のような足取りで。
ーーーー
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
「チャコ? おかえりー」
ルナはソファから立ち上がり、スリッパを引きずりながら玄関へ向かった。扉を開けた瞬間、思わず目を瞬かせる。
「……こんばんは」
「よっ、ただいまや、ルナ」
そこにはチャコと、そしてその横に立つリュウジ。その背中には、ぐったりとしたペルシアが背負われていた。
「ぺ、ペルシアさん!? ど、どうしたの、その……」
「泊めてやってくれ」
リュウジは短くそう告げると、背中からそっとペルシアを降ろした。ペルシアは玄関のたたきに尻もちをつき、そのまま壁にもたれて「むにゃ……追加で熱燗……」と呟いている。
ふわっと強いアルコールの匂いが漂ってきて、ルナは思わず鼻をつまんだ。
「ペルシアさん、大丈夫ですか? ……って、お酒くさっ……」
「完全に出来上がっとるわ。二軒目でトドメ刺されたな」
チャコが肩をすくめた。
「中まで運んでくれる?」
ルナが言うと、リュウジはきょとんとした顔になる。
「玄関で寝かせればいいだろ?」
「よくないよ!」
ルナは即座にツッコんだ。
「ここ寒いし、風邪ひいちゃうでしょ。ソファまでちゃんと運ぶの!」
「……そういうものか?」
「そういうもの!」
押し切られる形で、リュウジは再びペルシアの下に腕を差し入れ、ひょいと抱き上げた。右肩はまだ完全じゃないはずなのに、その動きは案外しっかりしている。
「ほな、ウチは先に寝るで。眠たさが限界や」
チャコがあっさりと宣言した。
「え、チャコ? ちょっと手伝――」
「ペルシア重いし、リュウジがおったら十分やろ。ルナ、あとは頼んだで」
手をひらひらさせながら、チャコはスタスタと廊下の奥、自分の部屋へ消えていった。
「ちょっ……チャコ! ……はぁ」
ルナが抗議の声を上げた時には、もうドアが閉まる音が響いていた。
「悪いな」
リュウジがペルシアを抱えたまま、苦笑する。
「ううん。……こっちこそ、ごめん。怪我してるのに」
「慣れてる。酔っぱらい運ぶのはな」
そんな冗談を言いながら、二人はリビングへ向かった。
ソファの横まで来ると、リュウジは慎重にペルシアを横たえ、クッションを枕代わりに差し込む。ルナは急いでブランケットを持ってきて、肩口までそっと掛けた。
「……よし」
ペルシアが幸せそうに寝息を立て始めたのを確認すると、リュウジはほっと小さく息を吐いた。
「ありがと、リュウジ。」
「こちらこそ」
そう言いつつも、彼は一瞬だけ右肩を庇うような仕草をした。ルナはそれを見逃さない。
「……やっぱり、痛いんでしょ?」
「これくらいどうってことない。明日にはもっとマシになってる」
軽く受け流すような口調。でも、その顔色はやっぱり少し悪い。
「とりあえず座って。お茶淹れてくるから」
「あぁ」
リュウジはテーブルの片側に腰を下ろし、ルナはキッチンへ向かった。ポットにお湯を注ぎ、いつもより少しだけ濃い目にハーブティーを作る。
(さっきの会見の顔とは、また違うな……)
さっきテレビ越しに見た彼は、穏やかで、どこか遠い場所を見ているようにも見えた。今、部屋の中にいるリュウジは、疲れ切っているけれど、手の届く距離にいる。
マグカップを二つ持って戻ると、リュウジはぼんやりとペルシアの寝顔を眺めていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
湯気の立つカップを受け取り、一口啜る。
「……うまいな」
「良かった」
ルナも向かいに座り、自分のカップを両手で包むように持った。
しばらくの間、二人は黙ってお茶を飲んだ。ペルシアの規則正しい寝息だけが、静かな部屋に響いている。
「……会見、見てたよ」
最初に沈黙を破ったのは、ルナだった。
「後列に座ってたな」
ルナは視線を落とし、カップの中の揺れる水面を見つめる。
「S級パイロット、返上するって。言うとは思わなかった」
「ペルシアも同じこと言ってた」
リュウジが苦笑する。
「終わって控え室戻ったら、ペルシアは鬼の形相で迫ってきた」
「……ふふ、想像できる」
ルナの口元にも、わずかに笑みが浮かぶ。
「でも、その……」
言い淀んで、息を吸い込む。
「それを聞いて、私……ほっとしたんだ」
「ほっとした?」
「うん。なんか……何も言わずに、またどこかに行っちゃうんじゃないかって、ずっと怖かったから」
自分で言っていて、顔が熱くなる。
「サヴァイヴのときみたいに、気づいたら前を走ってて、気づいたらどこかで傷だらけで倒れてて、それが当たり前みたいな顔で、また『大丈夫だ』って言うんだろうなって」
「……否定はできないな」
リュウジは片手で髪をかき上げた。視線はテーブルの上に落ちる。
「でも、S級を返上するって聞いて……あ、やっと止まってくれるんだ、って。勝手かもしれないけど、そう感じたの」
ルナはカップをぎゅっと握りしめる。
「どこか遠くの『英雄』じゃなくて、ちゃんと、ここにいる『リュウジ』のままでいてくれるんだなって」
言ってしまってから、ものすごく恥ずかしくなった。
「……変な言い方かもしれないけど」
「変じゃない」
即座に返ってきた声に、ルナは思わず顔を上げた。
リュウジは、さっき会見で見せた穏やかな表情に、少しだけいたずらっぽさを混ぜた顔でこちらを見ていた。
「俺も、やっと止まってもいいんだって思えたから」
「……今回の任務で?」
「それも一つだ」
彼はカップをテーブルに置き、少しだけ背もたれに身を預けた。
「前はさ、どこにいても結局一緒だって思ってた。宇宙でも、コロニーでも、サヴァイヴでも。操縦桿握って、前に出て、何かあったらそこで終わり。それでいいって」
ルナは黙って聞いていた。
「でも、今回……本気で『帰りたい』って思った。誰かのために、じゃなくて、自分のために」
その言葉に、ルナの胸が小さく震える。
「ペルシアの声も、エリンさんの声も、チャコの悪態も、サツキの焦った声も、マリの『了解!』も、クリスタルの冷静な報告も……全部、ちゃんと聞きたいって。全部、もう一度、ここで聞きたいって」
彼は一瞬だけ、ルナをまっすぐに見た。
「それと――」
言いかけて、少しだけ照れくさそうに目を逸らす。
「ここで、『ただいま』って言って」
ルナの心臓が跳ねた。
「『おかえり』って、言ってほしいって思った」
言ってから、自分で苦笑している。なんだそれ、と言いたげな顔。
「……さっき、言ったじゃない」
ルナはカップを置き、両手を膝の上で握りしめる。
「『ただいま』って」
「あぁ。だから、本当に叶ったって話だ」
リュウジは肩をすくめた。
「願い、ひとつ叶ったな」
「願い?」
「ほら」
左手首を少し持ち上げる。
「オレンジのミサンガ。……切れた」
「え?」
ルナは思わず身を乗り出した。
「ソーラ・デッラ・ルーナに着いたとき、チャコと天井見上げてたら、いきなり『ブチッ』ってな」
彼は、ズボンのポケットから、小さく丸めたオレンジ色の糸を取り出した。ところどころ擦り切れて、途中で途切れている。
「『全員無事に帰る』って願いだったなら、十分だろ?」
「……」
言葉が出なかった。胸の奥から、またじんわりと何かがせり上がってくる。
ペルシアのいびきが、少し大きくなる。
「そういえば」
ルナは、ふと思い出したように口を開いた。
「さっき、ファンサービスしてたとき」
「ん?」
「すごく……楽しそうだった」
リュウジが瞬きをする。
「楽しそう、だったか?」
「うん。ちょっと嫉妬するぐらい」
思わず本音が漏れてしまって、ルナは慌てて口を押さえた。
「嫉妬って」
「いまのナシ!」
真っ赤になって手を振るルナを、リュウジはめずらしく声を出して笑った。
「でも、なんか分かる気がする」
「な、何が?」
「今まで、俺が知らなかった自分を、お前達はたまに教えてくるからさ」
ルナはきょとんとする。
「サヴァイヴのときも、今回のときも……『あ、俺ってこんな顔するんだ』って、自分で思う瞬間が何回かあった」
「今日のファンサのときとか?」
「そう。正直、ああいうのは苦手だと思ってた。でも、意外と悪くないなって」
照れくさそうに笑うその顔は、たしかに「英雄」ではなく、年相応の十四歳の少年のものだった。
「……うん」
ルナは自然と笑顔になった。
そして胸が、跳ねた。
「そろそろ行くよ」
不意に立ち上がる。
「え?」
「この状態のペルシアを残してくのも心配だけど、ここならチャコもいるし。」
「うん」
玄関まで見送るために並んで歩くと、なんだかサヴァイヴの拠点で夜の見回りから帰ってくる時のことを思い出した。
靴を履き終えたリュウジが、扉に手をかける。
「ルナ」
「なに?」
「……さっきも言ったけど」
少しだけ振り返る。その表情は、会見のどの瞬間よりも柔らかい。
「ただいま」
胸の奥が、きゅうっと締め付けられた。でも、さっきよりもずっと、楽な痛み。
「……おかえり」
今回は、ちゃんと顔を見て、言えた。
リュウジの口元に、安心したような笑みが浮かぶ。
「また。――学校で」
「うん。また学校でね」
扉が閉まる音がしても、しばらくの間、ルナはその場から動けなかった。
やがて、小さく息を吐き出す。
「……ふふ」
気づけば、頬が緩んでいた。
振り返れば、ソファには相変わらずペルシアが大の字で寝ている。
「ペルシアさんも、おつかれさまでした」
小さな声でそう言って、ブランケットをもう一度掛け直す。
胸の中には、さっきの「ただいま」と「おかえり」が、何度も、何度も、波のように押し寄せてきていた。
ーーーー
翌日。まだ朝の光が白く病院の廊下を照らしている時間帯だった。
「左瞼は……一週間後にもう一度、経過を見せに来なさい。縫合自体は問題ないが、傷跡が残るかどうかは、それからだな」
白衣の医師がカルテをめくりながら、淡々と告げた。
「右肩は?」
「二、三日もすれば、日常生活には支障ないだろう。ただ――」
医師はちらりとリュウジの顔を見て、眉をひそめる。
「激しい運動は控えること。少なくとも一週間は、激しい運動は禁止。約束できるか?」
「……努力はする」
「努力じゃない、禁止だ。守れないなら、宇宙管理局にこちらから連絡するぞ」
「それは勘弁してくれ」
肩をすくめて観念したように答えると、医師はようやく「うむ」と頷き、カルテを閉じた。
「じゃあ、今日はこれでいい。処方箋は看護師から受け取っていきなさい」
「あぁ。世話になった」
診察室を出て、簡単な会計と処方箋の受け取りを済ませると、リュウジはエレベーターに乗り込んだ。ボタンを押す指には、まだ薄くテープの跡が残っている。
扉が閉まり、エレベーターが静かに上へと動き出す。
(……先に、あっちだな)
数字が一つずつ増えていき、目的の階でチャイムが鳴る。扉が開くと、廊下には花束を抱えた人の姿や、車椅子を押す看護師が行き交っていた。
案内板に目を通し、迷いなく右の廊下へ曲がる。突き当たりの、一番端の病室。
そのドアの前で、ふっと一度だけ息を吐いた。
コン、コン。
「どうぞー」
低いけれど、どこか明るさの混じった声が内側から聞こえる。
リュウジはノブを回し、ゆっくりとドアを開けた。
入った瞬間、鼻を刺すような甘ったるい匂いが広がる。部屋のあちこちには色とりどりの花束、窓際にはぬいぐるみまで並んでいた。壁際の小さなテーブルには、包み紙の剥がされたチョコレートの箱や、高級そうな果物の盛り合わせ。
「……なんだこれは」
「来たのか。遅いぞ」
ベッドの上で上半身を少し起こし、枕に凭れかかっているブライアンが、ニヤリと笑った。腰にはしっかりと固定具が巻かれ、シーツの下から鉄製のフレームが覗いている。
「ああ、来たけど……臭うな」
リュウジは顔をしかめ、思わず鼻をつまみたくなる衝動を抑えた。
「さっきまで愛人連中が来てたからな」
ブライアンは悪びれもなく言って、近くのカードの束を指先で弾く。「早く元気になってね♡」と書かれたメッセージカードが、何枚もひらひらと揺れた。
「怪我人が何してるんだよ」
「寝てるだけでモテるんだ。楽なもんだろ?」
「看護師さん達に迷惑かけてる未来しか見えないな」
「まぁ、それは否定しない」
二人して小さく笑ったあと、ふっと空気が和らぐ。
「……助けてくれて、ありがとうな」
ブライアンが、不意に真面目な声で言った。
その言葉は、甘い香りよりもずっと強く、リュウジの耳に届く。
リュウジはベッド脇の簡易チェアを引き寄せ、腰を下ろした。左瞼のガーゼが白く目立つ横顔を、ブライアンがじっと見つめる。
「あのまま切り離せって言ったのは、俺だ」
「聞かなかっただろ」
「聞いたふりくらいはしろ」
「悪いな、俺は聞き分けのいいパイロットじゃない」
軽口を交わしながらも、お互いに視線を逸らさない。
しばしの沈黙のあと、ブライアンがぽつりと漏らした。
「……S級パイロットを返上するのは、俺の方だろう」
リュウジの眉がわずかに動く。
「腰をやって、シャトルから動けもしなかった。隊長としては、最低だ」
「そうは思わないが」
「思うさ」
ブライアンは天井を見上げた。
「俺は、『ここで死んでも仕方ない』って、最初に諦めた。お前が来る前にな。……その時点で、たぶん、S級の看板を下ろす資格はあったんだろう」
「……」
「だから本来なら、返上すると言い出すのは俺の方であるべきだ。そういう順番だ」
静かな部屋に、機械の小さな駆動音だけが流れる。
リュウジは、その言葉を正面から受け止めるように、少しだけ前屈みになった。
「だから、そうさせないために」
ゆっくりと口を開く。
「お前が復帰するまで待つって言ったんだろ。俺が」
ブライアンの視線が、再びリュウジに戻った。
「……どういう理屈だ、それは」
「簡単な話だ」
リュウジは片方しか見えない目で、まっすぐに相手を見返す。
「S級パイロットを辞めるってのは、看板を下ろすってことだろ。だったら、ちゃんと看板を次に回してからじゃないと、筋が通らない」
「次に回す相手が、俺だってのか?」
「他に誰がいる」
リュウジは、当然のように言った。
「俺は、こう見えてもお前の背中を見て育った口だからな」
「言いすぎだ」
「事実だ。だから、S級の看板を地面に置いて立ち去る役は、俺でいい。お前は一回、戻って来い」
ブライアンはしばらく黙っていた。視線はどこか遠くを見ているようで、しかしちゃんと、リュウジの言葉を噛みしめている。
「……戻って来て、どうする」
「簡単だ。俺の代わりに、時代の舵を握れ」
リュウジは小さく笑った。会見場で見せた穏やかな笑みと、どこか同じ色をしている。
「S級パイロットは、次に台頭してくるパイロットが現れて、その人に舵を渡すんだろ? だったら、お前がその『次』になるべきだ」
「俺はもう、若くないぞ」
「歳の話じゃない。覚悟の話だ」
短く言い切る。
「今回、俺は思い知った。どこで生きるかと、どこで死ぬかを、混同してたって」
「……」
「死に場所なんて探すもんじゃない。生きる場所を選んで、そこで出来ることを全部やって、それでも終わる時が来たら、黙って受け入れればいい」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「俺は今回、今は『ここじゃない』って分かった。だから返上する」
「S級をか?」
「あぁ」
きっぱりとした声。
「でも、お前はまだ違う。俺達よりずっと前から、宇宙の前線で舵を握ってきた。お前の背中を追って、操縦桿を握る奴は、これからも出てくる」
「……」
「だから――」
リュウジは、少しだけ表情を緩めた。
「その奴らの前で、胸張って『引退』してくれ。『消えた』じゃなくて、『渡した』って形でさ」
その言葉に、ブライアンはふっと吹き出した。
「……偉そうに」
「事実を言っただけ」
「十四のガキが、何を達観したことを」
「こっちも色々あったんだよ」
二人はまた、ほんの少し笑った。
そのあとで、ブライアンが静かに尋ねた。
「お前は……それでいいのか」
「何が?」
「S級を捨ててまで、やりたいことがあるんだろ。昨日の会見で、そう言ってた」
リュウジは、わずかに目を伏せた。
「あぁ」
「それが何かは、聞かない。聞いたら、俺はたぶん止めるからな」
「止められても、やるつもりだけど」
「だろうな」
ブライアンは納得したように頷いた。
「じゃあ、せめて一つだけ約束しろ」
リュウジが首を傾げる。
「何を?」
「どこで生きるかと、どこで死ぬかを、もう混同しないってやつだ」
さっきの言葉を、そっくりそのまま突き返された形になり、リュウジは少しだけ言葉に詰まった。
「……それは」
「自分で言ったんだ。なら守れ。今度、勝手に『ここで終わりかな』なんて決めようとしたら――」
ブライアンは片手を伸ばし、リュウジの胸元を指で軽く突く。
「俺が殴りに行く」
「腰、折れてるのに?」
「治ったらの話だ」
その言い方があまりにも当たり前だったので、リュウジは思わず笑った。
「分かったよ」
静かに、しかしはっきりと頷く。
「だからお前も、ちゃんと戻って来い。S級の看板は、お前が受け取ってからじゃないと、俺も返上できない」
「随分と面倒な条件だな」
「人に押しつけるのは得意だからな」
「自覚があるならタチが悪い」
苦笑しながらも、ブライアンの声には、さっきまでとは違う強さが戻っていた。
「……腰がこんな状態じゃ、しばらくはベッドの上だが」
「ゆっくり治せ。その間は、俺がやってやる」
「やってやる、ね」
ブライアンはニヤリと笑う。
「まぁ、何かあるとは思えないんだがな」
「俺もだ」
「そのうち、操縦桿握りたくなるんじゃないのか」
「それは……ないだろうな」
そう言いつつも、その声にはどこか楽しげな響きが混じっていた。
ブライアンはその気配を逃さず、口の端を上げる。
「やりたいことってのは、コロニーで見つけたのか?」
「……秘密だ」
「ルナってやつか?」
「違う」
即答した。
「本当か?」
「ああ」
「まぁいい。聞かないと言っただろう」
ブライアンは肩を揺らして笑った。
「ただ――」
真面目な声に戻る。
「お前が『やりたいこと』をやってる間、宇宙が退屈しないようにはしておいてやる」
「それは頼もしいな」
「S級パイロットだからな、俺は」
その言葉には、もう「やめるつもりだ」という色はなかった。
リュウジは立ち上がり、椅子をそっと元の位置に戻す。
「じゃあ、また来るよ」
「あぁ。次は、そのガーゼが取れた顔を見せろ」
「傷跡がひどかったら、笑うくせに」
「当然だ。英雄は顔も商品だからな」
「そっちは心配してくれないんだな」
「生きてりゃ十分だ」
その一言に、リュウジはほんの一瞬、言葉を失った。
そして、笑う。
「あぁ。生きてれば十分だ」
そう答えて、ドアに手をかけた。
「おい、リュウジ」
背中に声が飛んでくる。
振り返ると、ブライアンが片手を軽く上げた。
「……ありがとう」
一拍置いて、リュウジも片手を上げる。
「どういたしまして」
今度こそ、本当に胸の奥が軽くなるような気がした。
甘ったるい花の匂いのする病室を後にし、ドアが静かに閉まる。
廊下に出たリュウジは、深く息を吸い込んだ。
(さて――)
左手首の、切れたミサンガがあった場所を、そっと指でなぞる。
(次の願いを、ちゃんと叶えられるようにしないとな)
そう心の中で呟きながら、彼はエレベーターのボタンを押した。
ーーーー
病院からの帰り道、エリンはホテルに戻り、ソファにぐったりと沈み込んでいた。肋骨の痛みはだいぶ引いてきたものの、まだ時々ズキズキする。
テーブルの上には、処方された薬と、水の入ったグラス。
(ふぅ……)
軽く目を閉じて深呼吸した、その瞬間――
♪ピロリン。
枕元に置いていた携帯端末が震えた。画面には「ペルシア」の文字。
エリンは即座に手を伸ばし、通話ボタンを押した。
「ペルシア? 大丈夫?」
『……二日酔いだけど、大丈夫』
受話口から聞こえてきた声は、どこか掠れていたが、ちゃんといつものペルシアだった。
「声ガラガラじゃない。全然大丈夫じゃないでしょ」
『あんたみたいに機械みたいな肝臓してないの。人間らしい二日酔いよ』
「はいはい、人間らしくて結構」
くすっと笑いながら、エリンはソファの背に身体を預ける。
「で? 頭痛い? 吐き気は?」
『ちょっと頭ガンガン。吐き気は落ち着いた。ポカリとブラックコーヒーでなんとか生き延びてるところ』
「解毒の王道ね。それで、昨日の飲み会のあと、本当に大丈夫だったの?」
『あー……そこ?』
ペルシアの声が、ほんの少しだけ曇る。
『正直に言うと、あんまり覚えてない』
「でしょ。途中から目が座ってたよ」
『覚えてるところまでは、楽しかったんだけどね。気づいたら――』
「気づいたら?」
『ルナちゃんの家のソファの上だった』
エリンは、一瞬想像して、思わず吹き出した。
「やっぱりね」
『笑いごとじゃないってば。目ぇ覚めたらさ、毛布かけられてて、枕元にお水と胃薬と、手書きのメモまで置いてあるのよ』
「メモ?」
『“おはようございます。気持ち悪かったらゆっくりしててください。朝ごはん、あとで持ってきます”って。』
「あー……ルナっぽい」
情景が簡単に思い浮かび、エリンの口元が自然と緩む。
『本気で「ここ天国かな」って思ったからね。二日酔いで死んで、優しい天使が世話してくれてるのかと』
「残念、現世です」
『それで、ボサボサの頭でキョロキョロしてたら、キッチンの方から良い匂いがしてくるわけよ』
「まさか……」
『そう。ルナちゃんがエプロン姿で、朝ごはん作ってた』
エリンの脳内で、エプロン姿のルナのイメージが出来あがり、「あー……」と納得と羨望が混じった声が漏れた。
「何作ってくれたの?」
『トーストとスクランブルエッグとサラダ。それに、あの子お得意のスープ。優しい味のやつ。二日酔いに最適』
「完全看護じゃない」
『でしょ? しかも、“ペルシアさん、お酒強いんですね”って、にこーって褒めてくれるのよ』
「あー、それ褒めてないやつね」
『うん。完全に苦笑だった。でも、優しいから許す』
ペルシアは、ふふっと照れくさそうに笑った。
『なんかね、あの子に「大変でしたね」って言われた瞬間に、力抜けちゃってさ』
「分かる気はする」
『ずっと張りつめてたのが、そこでやっとほどけた感じ。危うく泣きそうになったから、スープが熱いふりして誤魔化した』
「誤魔化せてないだろうけどね」
『やっぱり?』
「ルナ、けっこう勘がいいから」
二人で少し間を置いて笑い合う。その笑いは、昨夜まで続いた緊張の残り香を、少しだけ洗い流してくれた。
「で、ちゃんと帰れたの?」
『宇宙管理局まではタクシーで。運転手さんがやたら話しかけてきて頭に響いたけど』
「二日酔いに雑談は毒だからね」
『ほんとそれ。で、今は管制室の隅で、この通話してる』
「まだ仕事してるの?」
『一応、休み扱いなんだけどね。“ペルシアの耳”がないと、皆んな落ち着かないみたいで』
「人気者」
『やめて。褒められると調子に乗る』
「もう乗ってるよ」
冗談を言い合ったあと、エリンはふっと真顔になる。
「ペルシア」
『ん?』
「昨日の飲み会のあと……本当に、大丈夫だった?」
さっきと同じ質問。でも、今度は酒の量じゃなく、心の方だ。
ペルシアはしばし黙り、少し掠れた息を吐いた。
『……ギリギリ、かな』
「ギリギリ?」
『うん。正直、あの通信が途切れた時点で、何かが折れててもおかしくなかったと思う』
あの瞬間。ネフェリスの声がノイズに飲み込まれた瞬間。
『でも、ルナちゃんの家で目ぇ覚まして、あの子が普通に「おはようございます」って言ってくれて……なんか、それで線一本繋ぎ直された感じ』
「ルナ、いい仕事したわね」
『本当にね。あの子、危険よ』
「どう危険?」
『甘やかされる。あのまま居続けたら、一生そこに居座りたくなる』
「あー……ちょっと分かる」
二人で、また小さく笑った。
『ま、とりあえず私はこんな感じ。で、そっちは? 昨日、ちゃんとホテルに帰れた?』
「私は問題なし。マリとサツキとそのままホテル。ちゃんとお風呂も入って、薬飲んで寝た」
『さすが、優等生』
「肋骨折れてるのに飲んでる方がおかしいのよ」
『ヒビ。折れてない。そこ大事』
「はいはい、ヒビ」
ひとしきり笑ったあと、少しの沈黙。エリンはソファの肘掛けに頬を預け、穏やかな声で切り出した。
「それで――」
『うん』
「これからの、リュウジのことなんだけど」
ペルシアの息が、わずかに止まる。
「S級、返上するって話?」
『……うん』
短い返事の中に、いろんな感情が混ざっていた。
「止めなかったね」
『止めなかったわね、結局』
「止めるつもりはあった?」
『最初はね。あいつがそんなこと言い出した時は、“ふざけるな”って、マイク取り上げてでも止めようかと思った』
ペルシアは少し笑う。
『でもさ、あの顔見たでしょ?』
「見た」
『なんか……すごく、穏やかだった』
「うん。“やっと決められた”って顔してた」
『あの顔見たら、止められないわよ。止めたら、こっちが悪者になるやつ』
「それに、止めても聞かないしね。あの子」
『そう、それ。あいつ、黙って消えるタイプじゃないけど、意志を折るのも難しい』
二人の間に、しばし静寂が流れる。
「でもさ」
エリンがゆっくりと口を開いた。
「やりたいこと、見つけたって言ってたね」
『何か聞いてる? 』
「ううん、何も。聞かないって決めてる」
『あら、珍しい。エリンが“聞かない”なんて』
「聞いたら、きっと口出ししたくなるから」
自嘲まじりに笑いながら、エリンは続けた。
「私は乗務員だからさ。いつも“最適な判断”を乗客に勧めるのが癖になってる。でも、あの子に今それやると、きっと邪魔になる」
『……そうね』
「だから、今回は黙って見てる。困った時にだけ、口を出す」
『それ、乗務員じゃなくて、保護者のポジションじゃない?』
「ペルシアに言われたくない」
ペルシアも「それもそうか」と笑う。
『私は……そうね』
「うん」
『宇宙管理局の管制官としては、引き止める理由はいくらでもある。S級が一人減るって、本当は大ごとだから』
「ペルシアの耳としてもね」
『そう。あいつの操縦と、こっちの耳が組むと、正直、管制としてはやりやすかった』
「分かる。安心感が違う」
『でも――』
そこで一回、言葉を切る。その後の声は、ほんの少し柔らかかった。
『仲間として見ちゃうとさ。“やっと、自分のために何か選んだんだな”って思う』
「今まで、人のために選び続けてたからね」
『そう。宇宙管理局のため、コロニーのため、ブライアン達のため、ルナちゃん達のため……今度こそ、自分のためでいいじゃない』
「だから、止めなかった」
『うん。止めなかった』
エリンは、天井を見上げるように視線を上に向け、ゆっくり瞬きをする。
「でもさ」
『うん』
「どこで生きるかと、どこで死ぬか、混同していたって、自分で言ってたよ」
『聞いてた』
「あの子、やっとそれに気づいたんだと思う。サヴァイヴから戻ってきてからも、ずっと“死に場所”を探してたから」
『今回、ようやく“生きる場所”を探すって方向に舵切ったってわけね』
「そういう風に、私には見えた」
ペルシアは、受話器の向こうで小さく息を吐く。
『……じゃあ、私達、大人組がやることは、決まってるわね』
「大人組?」
『ペルシアも私も、二十一でしょ。クリスタルも二十四。マリとサツキは二十。あの中で十四歳はひとりだけ』
「なるほど。ラスぺランツァの保護者会議ってわけね」
『そう。あの子が変な方向に走りそうになったら、全力で止める』
「宇宙ハンターになるとか?」
『それは本気で止める。ウルフ達に預けたくない』
「喫茶店でバイトするくらいなら、ギリ許す?」
『そこは許す。絶対、接客上手いしね。エリンが教育すれば』
「いつの間に私が教育係に」
『適任だから』
少しだけ、くだらない話題で笑ってから、ペルシアはもう一度、真面目な声に戻った。
『エリン』
「なに?」
『あいつが、もし――また宇宙に出るって言ったら』
「うん」
『その時は、また一緒に乗ってあげて』
エリンは目を丸くした。
「それ、ペルシアが頼むんだ?」
『管制官としては、反対だけどね。仲間としては……あんたが横にいるなら、まだ安心できる』
「……それは、嬉しいけど」
少し照れくさくて、言い淀む。
「ペルシアも一緒でしょ?」
『当然。耳はどこにでも持ってくから』
「じゃあ決まりね。あの子が羽目を外しそうになったら、三人で止める」
『決まり』
二人の間に、静かな合意が生まれる。
『ま、しばらくは学生だろうけどね、あいつ』
「教室でじっとしてるリュウジ、想像つかないけど」
『授業サボって屋上とか行きそう』
「メノリに見つかって怒られるやつね」
『容易に想像できる』
また二人で笑い、ようやく緊張の糸が完全に解けていく。
「とりあえず、今日はゆっくり休みなよ。二日酔いひどいなら、スポーツドリンクと、塩分と、睡眠」
『分かってるって。エリンこそ、肋骨。無理しないでよ。あんた倒れたら、本気で困るんだから』
「大丈夫。私、意外と頑丈だから」
『意外とじゃなくて、だいぶ頑丈』
「褒め言葉として受け取っておく」
『もちろん褒めてる。……ありがとね、エリン』
「なにが?」
『色々。言葉にすると長くなるから、今度お酒抜きで話す』
「それは楽しみにしておく」
少しだけ間が空いて、ペルシアがいつもの調子を取り戻す。
『じゃ、仕事に戻るわ。レーダーくらいは見張っとかないと』
「無理しないように。具合悪くなったら、ちゃんと誰かに言うこと」
『はいはい、お母さん』
「そう言うところが子どもなんだよ」
最後にお互い小さく笑って――
『じゃあ、また』
「うん、また」
通話が切れた。
エリンはしばらく携帯を握ったまま、天井を見上げていた。
(リュウジ……)
昨日、会見で見せた、あの穏やかな横顔が頭に浮かぶ。
(ちゃんと、見てるからね)
心の中でそう呟き、彼女はゆっくりと目を閉じた。
S級パイロットとしての肩書きを下ろしても――
宇宙と、コロニーと、そしてあの少年の行く先を見守る役目は、まだ終わらない。
少なくとも、エリンとペルシアがいる限りは。