翌朝。ソリア学園の冬は柔らかな光が差し込み、教室前の廊下は白く明るくなっていた。
チャイムが鳴る三分前になって、ようやく教室の扉がガラリと開いた。
「……おはよう」
「悪い」
リュウジとカオルである。
リュウジは左瞼にまだ白いガーゼを貼り、肩には使い込んだリュック。片手にはホットコーヒーの紙カップ、もう片手には――アルバイト求人誌と不動産情報誌。完全に“学生”とは思えない組み合わせであった。
「お前達!!もっと早く来いと言っているだろ!!」
教室全体がビクッと震えるような怒声。
言ったのはメノリだ。 眉を吊り上げ、教卓の前に仁王立ちしている。
「授業が始まる直前にドタドタ入ってきてどうするんだ!」
カオルは「また始まった……」と言わんばかりに視線を逸らし、リュウジは無表情のままコーヒーを一口すすって、
「……間に合ったんだからいいだろ」
その小さな呟きが、メノリの逆鱗をピシャリと弾いた。
「よくない!!いいわけがない!!」
「あー……もう、まあまあ、メノリ」
ルナが苦笑いしながら袖をそっと引っ張る。
「ルナ、甘やかすな。これは“仲間だからこそ”言ってるんだぞ」
「うん、それは分かってるけど……ほら、今、怒鳴ったら皆んながビクッてしてるし」
「……うっ」
メノリはゴホンと咳払いしてから、
「……とにかく、次は気をつけろ。いいな!」
「了解」
二人が椅子に腰を下ろすや否や、リュウジは求人誌を開き、真剣にページをめくり始めた。
その姿を見て、周囲の仲間達は思わず覗き込む。
「アルバイト探してるの?冬休みどうするの?」とシャアラ。
「というか不動産の雑誌まで……何を探してるんだ、リュウジ」ベルが眉をひそめる。
「……引越し先を探してるんだ」
カオルは隣の席で腕を組み、小声で囁いた。
「(引越しするのか?……)」
「仕方ないだろ。俺は無職だからな」
リュウジは軽く肩をすくめた。その横顔はどこか達観していて、以前より柔らかくもあった。
そこへ、教室の扉が再び開く。
「皆さんおはようございます。席に着いてください」
スペンサー教諭が教壇に立った。冬服のネクタイを少し直しながら、手元の端末を操作する。
「さて、もう12月に入りました。今年も恒例の『ソリア冬季スポーツ大会』を行います」
「おおっ!」
「やっぱり来たか!」
教室が一気にざわつく。
「今回は例年通り
エアバスケ、柔道、格闘技
の三種目です。好きなのを一つ選んで、放課後までに申請してください」
端末に競技一覧が映し出される。
「私はエアバスケがいい!」シャアラが手を挙げる。
「ぼ、僕は……柔道かな……」シンゴが小さく呟く。
そんな中、リュウジは迷うことなく手を挙げた。
「格闘技でいいかな」
「……リュウジ、お前、怪我は?」
「無理はしない」
淡々とした返事。しかし、その表情にはどこか静かな闘志があった。
「じゃあ俺も――格闘技だ」
カオルが続いた。
「お前が出るなら、俺も出る。お前と闘いたいしな」
「ああ、そうだな」
二人が拳を軽く合わせる。
その光景に、ルナはふと胸が温かくなるのを感じた。
(……リュウジが、また“前”を見てる)
捜索任務の後、彼は少しだけ変わった。以前のように張り詰めた危うさが抜け、どこか“生きる場所”を掴んだような落ち着きがある。
メノリはその二人を見て、腕を組んだ。
「危険なことをしないなら、まぁいい。
今は無理が利く体じゃないんだぞ?特にリュウジ、お前はまだ瞼が……」
「分かってる。大会前にはガーゼも剥がれてる」
「そういう事じゃない!!」
再びメノリの怒声が教室に響き、クラス全体が爆笑した。
スペンサーが苦笑いしながら言う。
「……とにかく、競技は自由選択ですが、初心者は安全第一で考えてください。
では授業を始めます」
端末のホログラムが点灯し、教室が静かに落ち着く。
しかし――
ルナは授業開始の合図にノートを開きながら、前の席のリュウジの背中を見つめていた。
(何を目指しているの、リュウジ……?
……だけど、今はいい。生きていて、笑っていて、ここにいる。それだけで十分)
胸の奥に小さく灯る安心。その感覚を、ルナはそっと抱きしめた。
ーーーー
放課後のソリア学園。
夕焼けが斜めに差し込み、教室の机の列に長い影をつくっていた。
授業が終わっても、リュウジはすぐには帰ろうとしなかった。
窓際の自分の席に座ったまま、昼間と同じようにアルバイト求人誌と不動産の情報誌を机に広げている。
「……時給、八.五ダール、シフト制。高等部以上可……」
小さく呟きながら、条件の欄を指でなぞっていく。
中等部可、という文字はなかなか見つからない。見つかったと思えば、
『土日フルタイム歓迎』
『夜間シフト優遇』
『体力に自信のある方』
など、妙にハードな文言が並んでいる。
「リュウジ、帰らないのか?」
教科書をカバンに詰め込みながら、カオルが声をかけてきた。
「ああ、もう少し見てく」
「バイト誌か。……そんな身体でアルバイト探して、ペルシアさんに怒られても知らないぞ」
「怒られるのは慣れてる」
あっさりと言って、ページをめくる。
カオルはため息をひとつ吐き、窓の外に視線をやった。
「……倒れるなよ。お前、どうせやるとなったら無茶するんだから」
「しないさ。今回は」
今度の返事は、嘘ではなかった。
セーシング領域外の航行で嫌というほど思い知った。無茶をすれば、本当に戻れなくなることを。
そのとき、机の横から別の影が伸びてきた。
「ねえ、それ、さっきから見てるけど……全部アルバイト?」
ルナだ。
リュックを肩にかけたまま、身を乗り出して求人誌を覗き込む。
「そうだけど」
「ふーん……。え、これ“土日早朝シフト大歓迎”って書いてあるけど?」
「書いてあるな」
「リュウジ、実は朝弱いでしょ」
「慣れれば起きられる」
「絶対起きないと思うけど……」
じとっとした視線を向けられたが、リュウジは気にせずページをめくり続ける。
ルナは隣の不動産情報誌にも目を留めた。
「こっちは……引っ越し先? “ワンルーム、オートロック付き、駅から徒歩五分”……」
「そう」
「なんで当たり前みたいに答えるのよ。え、引っ越すの?」
「まぁな」
さらりと言われて、ルナは一瞬、言葉を失った。
「……あの家、、出るってこと?」
「ああ、いくら蓄えがあっても、あの家じゃ、底をつく」
ルナの胸に、きゅっと小さな痛みが走る。
けれど、リュウジの横顔は穏やかで、どこか“覚悟”のようなものが滲んでいた。
(……前みたいに、ただ消えようとしてる顔じゃない)
だから、無理に止める言葉は飲み込んだ。代わりに、少しだけ意地悪な口調になる。
「一人で決めて、一人で出ていく気?」
「いや」
あっさり否定されて、逆にルナの方が戸惑う。
「……じゃあ?」
「ちゃんと相談はする。タイミングも含めてな」
そう言って、求人誌の端をぱたんと閉じた。
「誰に、相談するの?」
自分の名前が出てきてほしい――そんな期待が胸の奥で、わずかに疼く。
しかし、リュウジは少し考えてから、ごく真面目な顔で答えた。
「……アルバイトは、最終的にはクリスタルにでも相談する」
「クリスタルさん?」
「そうだろう。宇宙船乗りながらバイトしてたこともあるって言ってたし、勤務時間の感覚も、体力の管理も分かってる。何より――」
リュウジは、自分の左肩に視線を落とした。
「怪我した状態で、どの程度働いていいか、医者の立場でも見てくれる」
「あ……そっか」
言われてみれば、その通りだった。
ルナは、少しだけ安心したように頷く。
「適当に選んで、また無茶するんじゃないかと思ってた」
「だから、相談って話になる」
ページの角で、指先が止まる。
リュウジは求人誌の端に小さく折り目をつけた。
「……飲食店は、やめておいた方がいいな」
「どうして?」
「並ぶお客さん見ると、どうしても“避難導線”を考え始める。仕事にならない」
「うわ……想像つく……」
火災や停電、急病。そういった“最悪のパターン”が一瞬で頭に浮かび、勝手に動線を組み立ててしまう――それが彼の悪癖であり、強みでもある。
「じゃあ、コンビニとか?」
「夜勤が多いからな。学園に遅刻したらメノリに怒られそうだし」
「それはダメね」
ルナも即答した。
「……倉庫整理、機材チェック、簡単な整備補助、みたいなのがあればいいんだが」
「なんか、それもう“バイト”っていうか、宇宙管理局の仕事みたい……」
「それは勘弁だ」
苦々しそうに言ってから、自分でも少し笑ってしまう。
その笑顔に、ルナは安心と寂しさが入り混じった気持ちを覚えた。
「で、家の方は?」とカオルが口を挟む。「不動産の方は、誰に相談するんだ?」
リュウジは、不動産情報誌を指先でトントンと叩く。
「引越し先は……エリンさんに聞くのが一番いいかと思う」
「エリンさん?」
「そうだろう」
リュウジの声色が、ほんのわずか柔らかくなる。
「エリンさん、旅客機クルーの頃から、あちこちのコロニーの“住みやすい場所”“治安のいいエリア”“交通の便”“医療施設へのアクセス”を全部まとめて頭に入れてる。
あの人に聞けば――」
そこで一度言葉を切り、具体例を挙げるように続ける。
「だから全部ひっくるめて、“ここなら安全ですよ”って場所を選んでくれる。俺にはない視点だ」
「確かに……」
ルナはうっすらと、ネフェリスの中でのエリンの姿を思い出す。
飲み物や食べ物を配り、皆の手を止めさせず、緊急時にはすぐ動けるよう導線を考えていた姿。
「それに、生活のしやすさも考えてくれそうだね」とルナ。
「ああ。俺が一人で選ぶと、家賃の安さで、てきとうに決める。
そうじゃなくて、“ちゃんと生きる場所”としての家を選べる人間に相談するべきだと思った」
その言い方が、あまりにも真っ直ぐで、ルナは胸が少し熱くなった。
(……どこで生きるか、どこで死ぬかじゃなくて――
今度は、“どう生きるか”を考えてるんだ)
「でも、いいの?」とルナは聞く。「そんなに色々、人に頼って」
「今までが頼らなすぎただけだろ」
それは淡々とした言葉だったが、自分自身への苦笑も含んでいた。
「チームを組んで、生きて帰った。
あの時みたいに、これからも“必要な時は誰かを頼る”って決めたんだ」
ルナはゆっくりと笑った。
「……じゃあ、私にも、いつか相談してよね」
「何を?」
「ふふん、例えばね――」
ルナは腕を組んで、わざと難しい顔を作る。
「新しい部屋に置く観葉植物の種類とか、カーテンの色とか、お皿の数とか。生活の相談」
「それは――」
「それは?」
「……多分、一番最後だな」
「な、なんでよ!」
「一番長く時間がかかりそうだからな」
リュウジが悪戯っぽく笑うと、ルナも苦笑した。
「そりゃあ、ね。」
ルナがウインクしながら答える。
その様子を見て、カオルが咳払いして立ち上がる。
「お前ら、その話の続きは、帰り道にでもやれ。そろそろ教室閉める時間だ」
「あ、うん!」
「分かった」
リュウジは求人誌と不動産誌を丁寧にカバンへしまいながら、心の中で短く整理する。
(バイトの相談は――クリスタルに。
住む場所の相談は――エリンさんに。
……それから、“どう生きるか”の話は、きっといつか)
立ち上がったとき、左手首のミサンガが小さく揺れた。
切れたあと、結び直してもらった“新しい願い”の証。
その存在を、確かめるように指先でそっと撫で、
「……よし」
誰に聞かせるでもなく、小さな声で呟いた。
コロニーの夕焼けは、ゆっくりと窓の外で赤から群青へと色を変えていく。
その下で、リュウジは、“普通の十四歳”としての一歩を、静かに踏み出そうとしていた。
ーーーー
それから――一週間が過ぎた。
あれほど大騒ぎだったコロニーも、表向きはいつもの日常を取り戻していた。
だが、その“日常”の中で、それぞれの時間は、確かに少しだけ前に進んでいた。
◆ ◆ ◆
「サツキ、そっちは終わったかー?」
恒星間輸送船〈アルデバラン〉の機関室。
低く唸るエンジン音と、油のにおい。振動が床からじわじわと伝わってくる。
「今やってるってば!」
サツキは両手でスパナを握り、額の汗を腕でぬぐった。
作業服の袖は肘までまくり上げられ、小柄な身体のどこにそんな力があるのかという勢いで、冷却ユニット横のボルトを締め直していく。
「姿勢制御ユニット側の配線、焼けた痕なかったか?」
「ないよ。あったら、ちゃんと報告してるってば」
返事しながら、サツキの脳裏には、真っ白になったネフェリスの警告表示が、一瞬だけ重なった。
重力制御ユニットの配線が焦げ上がり、火花を散らしたあの瞬間――。
(……大丈夫。今は“平時”の点検。ちゃんとやれば、あんな風にはならない)
自分に言い聞かせるように、最後の一本をきゅっと締める。
「オッケー。冷却ライン、こっちは完了。ログも残しとくね」
「助かるわ。最近お前、仕事早くなったな」
ベテラン整備士の男が、工具を受け取りながらニッと笑った。
「ポルトの弟子って聞いてた時は、正直“どうなんだ?”って思ったが……」
「な、なにそれ」
「褒めてんだよ。あの人は“現場で覚えろ”ってタイプだったからな。
お前も、現場一発で鍛えられて帰ってきたって感じだ」
サツキは、苦笑いを浮かべる。
(現場一発、なんてもんじゃなかったけど……)
それでも、胸の奥には少しだけ誇らしさがあった。
ネフェリスでの一週間は、怖くて、苦しくて、それでも――確かに自分を変えてくれた時間だった。
「今度のドック入りの時、お前に任せたいラインもある。空いた時に図面見ておけよ」
「……うん、ありがと」
返事をして顔を上げると、整備ハンガーの天井に、コロニーの人工光が柔らかく反射していた。
あの眩しい宇宙の白とは違う、けれど“帰ってきた場所”の光。
(まだ、やれる。ここからだよ)
◆ ◆ ◆
「こちら第三区域通信管制。入港スケジュール、再送お願いします」
「了解しました、第三区域。データ、補正して転送します」
宇宙管理局・通信センター。
無数のモニターが並び、スピーカーから各コロニーとのやり取りが途切れなく流れている。
その一角で、マリは背筋を伸ばしてコンソールに向かっていた。
ヘッドセット越しに聞こえる各船の声を、一つひとつ丁寧に振り分けていく。
「――はい、ネフェリス・ドック管理棟。定期メンテナンス、予定通り八日後で承りました。書類の方も確認済みです」
ふと、口から出た船名に、自分で驚いて小さく瞬きをした。
(……そうだ。今、あの子は“ネフェリス”じゃなくて、“修理中の1隻”なんだ)
モニターの端には、“封鎖中/立入制限”と表示されたハンガー番号が、小さく点灯している。
その奥に、ボロボロになった機体が静かに眠っている光景を想像し、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「マリさん? 先ほどの回線、ログ保存まで終わってますか?」
「は、はい。保存してあります。……こちらです」
後輩オペレーターに引き継ぎながら、マリは深呼吸をひとつ。
(泣いてる場合じゃないよね。ここはここで、あたしの“コックピット”だし)
モニターに表示される波形や、呼び出しコードを目で追う。
セーシング領域の縁に近づく船があれば、自然と耳がそちらを拾うようになっていた。
「……マリ。少し休憩入れたら?」
後ろから、柔らかな声がかかる。
振り返ると、そこに立っていたのはクリスタル……ではなく、別の管制官だった。
「あ、まだ大丈夫です。あと一件、処理しちゃいます」
微笑みながら答えたその表情には、一週間前までの“自信なさげなマリ”はもういなかった。
あの時、ネフェリスで必死に電波を探し続けた手応えが、今も自分の中に残っている。
(あたしにしか拾えない声も、きっとある。だから、ここでちゃんと耳を澄ませておく)
その決意が、肩に乗っていた不安の重さを少しだけ軽くしてくれていた。
◆ ◆ ◆
宇宙管理局 本部・会議室。
「……宇宙ハンターを私的に要請した件についての反省と、今後の再発防止策……ねぇ」
長テーブルいっぱいに書類を広げて、ペルシアは頬杖をついていた。
その前には、真っ白な反省文のテンプレートが、やたらと神妙なフォントで並んでいる。
「“大変反省しております”……大変、ねぇ……。どの辺りが“大変”なのか、監察に口頭で説明してほしいわ。素直に“反省してます”って書けばいいわよね」
コンコン、とノックもそこそこに扉を開けて入ってきたクリスタルが、湯気の立つ紙コップを二つ持っていた。
「はい、コーヒー。さっきから同じ行を三回書き直してる」
「……見てたの?」
「ガラス張りだもの、会議室」
クリスタルは、ペルシアの斜め向かいの椅子に腰を下ろすと、自分のコーヒーを一口含んだ。
「本当に面倒くさいのよ。監察って。
“宇宙ハンターの利用は原則禁止”だの、“前例を作るな”だの。
こっちは“前例を作ってでも助けたかった”ってだけなのに」
「減給三ヶ月で済んだんでしょ?」
「そこがまたムカつくのよね。“情状酌量の余地あり”とか言われて。
じゃあ最初から禁止って言わなきゃ良かったじゃないのって思わない?」
「思うけど」
クリスタルは肩をすくめた。
「でも、あんたが頼んでくれたおかげで、あたし達は帰ってこれた。
ウルフ達だって、“ペルシアに頼まれたから”って顔してたし」
「……あいつら、余計なこと言ってないでしょうね?」
「“ペルシアは相変わらず無茶を言う”って」
「ほら!」
バンッと机を叩いたペルシアのコーヒーが、少しだけ揺れた。
クリスタルはふっと笑い、コーヒーのカップをペルシアの方に押しやる。
「ほら、飲んで。冷めると余計、仕事が進まない」
「ありがと」
ペルシアは渋々コーヒーを受け取り、ひと口、ふた口。
苦味が舌を刺し、少しだけ頭が冴える。
「……でもまあ、悪くないわよね」
「なにが?」
「“こうでもしないと、あんた達が自由に動けない”っていうなら、安いもんだと思ってる。
減給三ヶ月ぐらいで、あの子達が帰ってくるなら、いくらでも書いてやるわ。反省文ぐらい」
その言葉には、酔っ払っていない素のペルシアの本音が滲んでいた。
クリスタルは少しだけ目を細める。
「じゃあ、“面倒くさい”なんて言わないで、さっさと書けば?」
「書くわよ。……もうちょっと、“かっこいい言い訳”にまとめてからね」
「言い訳じゃなくて、報告」
「細かい」
ぶつぶつ言いながらも、ペルシアはペンを取り直し、一行目を書き始める。
その横顔はどこかすっきりしていて、“自分の選んだ責任”をちゃんと背負う覚悟が読み取れた。
「……そういえば」とクリスタルが思い出したように口を開く。「エリン、今日からだっけ?」
「そう、初出勤。ハワード財閥の旅行会社」
「うまくやるわよね、あの子」
「当たり前でしょ。あの子は、そういう星のもとに生まれてるんだから」
ペルシアは、そう言って口の端を上げた。
◆ ◆ ◆
ハワード財閥 本社ビル。
ガラス張りのロビーには、白と紺を基調としたロゴマークが掲げられている。
“宙と安全と安心”を象徴する、あのマークだ。
「――本日付けで入社しました、エリンです。
まだまだ至らないところばかりですが、皆さんと一緒に、素敵な旅を届けられるよう、全力を尽くします。よろしくお願いします」
小さなホールに並んだ社員達を前に、エリンは落ち着いた声で挨拶を終えた。
着ているのは、ハワード財閥の旅行会社の制服――紺色のジャケットに、胸元のロゴバッジがよく映えている。
「いやぁ、本当に来てくれたねぇ」
前列に立っていた旅行事業本部長が、肩をすくめながら笑う。
「正直、“一般乗務員からやり直したい”って言われたときは、耳を疑ったよ」
「約束ですから」
エリンは柔らかく笑う。
「今回の捜索任務で、自分がどれだけ“現場から離れていたか”を痛感しました。
チーフ・パーサーとしてではなく、一人の乗務員として、もう一度“基本”から積み上げた方がいいと判断したんです」
「ドルトムント財閥でチーフだった子が、そんなこと言うとはね」
宇宙事業部の責任者が、感心したように頷く。
「でもまあ、こういう人材だからこそ、任せられる。……ねえ、会長」
「ああ」
少し離れた場所で腕を組んでいたハワードの父・クルーズが、一歩前に出た。
「ここにいる乗務員達は、君の経歴に驚いているだろう。
だが、私はそれ以上に、“君が一度立ち止まって、もう一度歩き出そうとしている”ことに興味がある」
「光栄です」
「うちの会社は、“一度傷ついた人間”がもう一度宙を飛ぶ場所であっていいと思っている。
君も、うちのロゴの意味を気に入ってくれたんだろう?」
クルーズが顎で示した先、壁には大きくロゴが掲げられていた。
「はい。“宙と、安全と、安心”。
――あの捜索任務の中で、何度もこの言葉を思い出しました」
エリンは一瞬だけ、ネフェリスの狭い通路を思い出す。
震える手にコーヒーやお茶を渡し、皆の動線を邪魔しないよう、何度も足運びしたあの時間を。
「私にとって、このロゴは“机上の安全”ではなく、“泥臭くても、身体を張って守る安全”の象徴です。
だから、ここで働きたいと思いました」
ホールの空気が、わずかに引き締まる。
「……やっぱり、とんでもない拾い物だな」
宇宙事業部長が小声でぼやくのを、クルーズは聞こえないふりをした。
「ともかく、今日から君は“新人乗務員”だ。肩書きは過去のものとして扱う。構わないか?」
「もちろんです」
エリンはすっと頭を下げる。
「ただ――」
「ん?」
「“宙と、安全と、安心”の看板を背負うという点では、今までと何も変わりません。
チーフであろうが、一乗務員であろうが。そこは、譲るつもりはありませんので」
その言い方は、穏やかでありながら、どこまでも芯が通っていた。
クルーズは、満足げに頷く。
「よし。……じゃあ、午前中は社内オリエンテーション、午後からはシミュレーターだ。
うちの“宙”の流儀を、しっかり叩き込まれてくれ」
「楽しみにしています」
エリンは、ジャケットの胸元をそっと押さえた。
その指先の感触と共に、ネフェリスで交わした仲間達の声が、静かに胸の奥で響いている。
(ラスぺランツァは、解散した。
でも、あの船で学んだことは、絶対に消えない)
(ここでまた、一から始める。
今度は、“旅”の中で――誰かの、行き先を照らすために)
コロニーの昼の光が、本社ビルの大きな窓から差し込み、
新しい制服に袖を通したエリンの横顔を、柔らかく照らしていた。
◆ ◆ ◆
社内オリエンテーションが終わると、乗務員用ロッカー室は一気にざわつき始めた。
制服の擦れる音と、ハンガーが当たる小さな金属音、あちこちから聞こえる笑い声。
エリンはその喧噪から少し離れた端の鏡の前に立ち、制服の襟を軽く整えた。
午後からはシミュレーション。
ハワード財閥旅行会社・宇宙路線部の新人・異動組を集めた、機内サービスと緊急対応訓練だ。
(まずは、現場感覚を取り戻さないとね)
そう心の中でつぶやき、胸元でまとめていた髪を一度ほどく。
肩に流れ落ちる髪を指で梳きながら、目線だけで鏡の中の自分を確認する。
「……よし」
小さく呟き、エリンは手首のゴムを外して口に咥え、髪を後ろで束ね始めた。
その時だった。
「――チーフ!」
ロッカー室の入口側から、少し高めの、弾む女の子の声が響いた。
(チーフ? ここのチーフパーサーは別にいるはずだけど)
エリンは振り返らない。
ここでは自分は“一般乗務員”。
“チーフパーサー”という肩書きは、ドルトムント財閥に置いてきたつもりだった。
鏡越しに入口側をちらりと見るが、視線はすぐに戻した。
ゴムを絡めた指先を止めず、そのまま髪をまとめていく。
「エリン・チーフ!!」
二度目の呼びかけ。今度ははっきりと、自分の名前がついていた。
手が、ぴたりと止まった。
(……今、“エリン”って言った?)
ゆっくりと顔を上げ、鏡から振り返る。
ロッカー室の扉のところに、三人の女性が並んで立っていた。
エリンの記憶が、わずか一秒もかからずに名前を引き出す。
燃えるような赤髪をポニーテールに結んだ、快活そうな女の子。
長い黒髪をすっきりと耳に掛け、きりっとした目元の長身の女性。
柔らかな銀髪をボブにまとめ、上品な微笑を浮かべた女性。
「……ククル? カイエ? ……エマ?」
思わず名前がこぼれた。
三人は、同時に顔をほころばせる。
「やっぱりエリン・チーフご本人ですよね!」
一番に駆け寄ってきたのは、赤髪のククルだった。
彼女は昔と同じように、大きく手を振りながら、目を輝かせている。
「チーフ、お久しぶりです!」
黒髪のカイエが、きちんと背筋を伸ばして頭を下げる。
「お久しぶりです、エリン・チーフ。……いえ、エリンさん?」
銀髪のエマは、少しだけ言葉を選ぶように微笑んだ。
「ちょっと待って」
エリンは、口元に手を当てて小さく笑った。
「ここでは“チーフ”じゃないのよ。
今はただの一般乗務員。階級も給料も、一緒かそれ以下よ」
「それでも、私達にとってはチーフなんです」
ククルが、即座に言い返す。
「相変わらずね、あなたは」
エリンは肩をすくめ、改めて三人を見渡した。
ドルトムント財閥時代――
自分がチーフパーサーをしていた頃、同じクルーとして乗務していたメンバー。
会社の方針に耐えきれず、順番に退職していった顔ぶれ。
「三人とも……どうしてここに? って聞くのも変ね」
エリンが言うと、黒髪のカイエが少しだけ照れくさそうに笑った。
「ええと……ご報告が遅くなりました。
私達、ドルトムントを辞めたあと、ずっとハワード財閥の旅行会社でお世話になっていたんです」
「……そうだったの?」
エリンは目を瞬いた。
「はい。最初はシャトル便や、コロニー間の短距離路線が中心でしたけど……」
カイエが説明を続ける。
「エマは本社側のインストラクター見習いで、私は地上オペレーション寄り。
ククルは、客室乗務員としてずっと現場に出てました」
「そうなんです!」
ククルが嬉しそうに割り込む。
「ドルトムントを辞めたあと、三人で相談して、“次はちゃんと乗客を見てくれる会社がいい”って話になって……。
その時に選んだのが、ハワード財閥の旅行会社で」
「でも、その頃には、エリンさんはもう療養に入られていて……」
エマが穏やかに言葉を継いだ。
「“いつかどこかで、また同じ空を飛べたらいいね”って、三人でよく話していたんです」
エリンの胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(……そうだったんだ)
彼女達がドルトムントを辞めていった後、
エリンは自分の選択が本当に正しかったのか、何度も何度も考えた。
“守れなかったのではないか”
“自分がもっと上手く立ち回れていれば、続けられたんじゃないか”
そんな後悔を抱え続けてきた。
「じゃあ、ここで再会したのは――」
「偶然ではありません」
きっぱりと断言したのは、カイエだった。
「私達、ずっとハワード財閥の旅行会社で働いていましたけど、部署が違って、なかなか宇宙路線部には来られなくて。
今回、ラスぺランツァの一件もあって、宇宙路線の増便と人員強化が決まって……」
「それで今回、私達も宇宙路線部に異動になったんです」
エマが柔らかく微笑む。
「朝のオリエンテーションの名簿に、“エリン”って名前を見つけて、三人で顔を見合わせました」
「“これ、絶対チーフだよね!?”って」
ククルが楽しそうに身振りをつける。
「だから、午後のシミュレーション前のロッカー室で絶対捕まえようって決めてたんです!」
「ストーカーみたいな言い方しないの」
エリンは吹き出しそうになるのを堪え、口元を押さえた。
「でも……嬉しいわ。三人がちゃんとここで働いてたって聞けて」
「エリンさんこそ」
エマがふわりと表情を緩めた。
「記者会見、拝見しましたよ。
あの場で、ハワード旅行のロゴを指して“ここで働いています”と仰っていたでしょう?」
「ああ……あれ、見てたのね」
「あれを見て、“ああ、やっぱり私達の選択は間違ってなかったんだな”って思えたんです」
エマの言葉に、カイエとククルも黙って頷いた。
「ドルトムントでは、“数字”と“格付け”ばかりで、
乗客もクルーも、どこか“駒”みたいに扱われていましたから」
カイエが少しだけ苦笑する。
「それに比べて、ここでは――まだ完璧とは言えなくても、
“人”を見ようとしてくれている。
それが分かったから、私達も頑張れたんです」
「で、最後の一押しが、ネフェリスとラスぺランツァのニュースです!」
ククルが勢いよく手を挙げる。
「“チーフがまた前線に戻ってきた。しかも、ハワード旅行の制服着てる”って聞いて、
こっちの部署に異動願い出さない理由、ないじゃないですか!」
「そういう理屈だったのね」
エリンは肩を落としつつも、口元にはどうしても笑みが浮かんでしまう。
「でも、一つだけ確認させて」
三人の視線が、真剣な色に変わる。
「ここでは、私は“新人と同じラインからやり直す”って決めてる。
チーフの肩書きもないし、権限もない。
私に敬語なんか使う必要もないのよ?」
「いえ、それは……」
エマが少しだけ困ったように笑う。
「ドルトムントを辞めたあとも、私達、ずっとエリンさんのこと“チーフ”って呼んでたぐらいですから。
癖みたいなものです。すぐには直せないと思います」
「そうです! チーフはチーフです!」
ククルが力強く言う。
「エリンさんは、“肩書きのチーフ”じゃなくて、“心のチーフ”なので」
「……何その、ちょっと恥ずかしい言い方」
思わず顔を覆いたくなる言葉だったが、
胸の奥にあった小さな棘みたいなものが、少しだけ溶けていくのを感じた。
(ドルトムントを辞めたあの日から、ずっと心に引っかかっていたもの。
“あの子たちを置いてきてしまった”っていう後悔。
……ちゃんと、自分の足で次の場所を選んで、ここまで来てくれてたんだ)
「――ありがとう」
エリンは、素直にそう言った。
「え?」
三人が同時に瞬きをする。
「三人とも、ちゃんと“ここで働こう”って思って、
自分で選んで、ここに立ってる。
それが聞けただけで、十分」
「私達こそ、ありがとうございます」
エマが静かに頭を下げる。
「……では、これからも、よろしくお願いします。エリンさん」
「よろしくお願いします、チーフ……じゃなくて、エリンさん!」
ククルが慌てて言い直す。
「よろしくお願いします」
カイエも短く、けれどはっきりとした声で言った。
ちょうどその時、ロッカー室のスピーカーからアナウンスが流れた。
〈宇宙路線・機内サービスシミュレーション訓練を開始します。参加メンバーは、五分前集合をお願いします〉
「……そろそろ行かなきゃね」
エリンは鏡の前に戻り、途中になっていた髪をきゅっと結びきる。
結び目を軽く引き締め、ポニーテールがほどけないか指で確かめた。
(ドルトムントでも、ラスぺランツァでも、今日からのハワードでも――
やることはきっと変わらない)
“人を見て、場を整える”
それが自分の仕事であり、
それを信じてついてきてくれる人達が、こうして目の前にいる。
「行きましょうか」
エリンが振り返ると、三人もそれぞれ制服の裾を整え、真剣な顔に戻っていた。
「はい、エリンさん!」
「了解です、エリンさん」
「がんばります!」
四人は並んでロッカー室を出ていく。
廊下の先には、シミュレーション用のモジュール――
新しい「宙」に立つための準備の場が待っている。
胸元のハワード旅行のロゴバッジにそっと指先を触れながら、
エリンは小さく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
(ラスぺランツァでの経験も、ドルトムントでの失敗も、全部抱えたまま、
私はまた、“乗務員のエリン”として立てばいい)
軽く背筋を伸ばし、エリンは三人とともに、シミュレーションルームへ歩みを進めた。
ーーーー
冬の冷たい光が、ソリア学園の窓ガラス越しに差し込んでいた。
教室の前方には大型モニター。そこに本部体育館からの中継映像が映し出されている。
〈これより、ソリア学園 冬季スポーツ大会を開始します――〉
司会の声が教室のスピーカーから響き、ざわついていた空気が少しだけ引き締まった。
エアバスケ、柔道、格闘技。例年通りの種目に、今年は一般公開も行われている。
保護者や一般客、コロニー内外からの見学者が出入りする一大イベントだ。
「……相変わらず、気合い入ってるな」
メノリが腕を組み、モニターを見ながらぽつりと言う。
その横で、ハワードは早くもパンフレットを開き、軽食ブースの場所を確認していた。
「格闘技は――と。お、柔道場か。
リュウジ、俺らは柔道場行きだな」
「分かってるよ」
リュウジは、机の上に置いていたスポーツバッグを肩にかけた。
左瞼の上には、まだ薄くガーゼが貼られている。
右肩も完全ではないが、医者からは「無茶をしなければ問題ない」と言われている。
(無茶はしない。……つもりだ)
そう心の中で自分に釘を刺しながら、椅子から立ち上がる。
カオルも無言で立ち上がり、道着の入ったバッグを持ち上げた。
リュウジはルナに視線を向ける。
「ルナは?」
「私はエアバスケ。女子チームの応援もしないとだし」
ルナは明るく笑って見せたが、その視線が一瞬だけリュウジの左目のガーゼに向く。
「……怪我、無理しないでよ」
「分かってる」
短く返し、リュウジは背中のリュックを少し持ち上げ直した。
開会式中継が終わると同時に、各クラスの生徒達はぞろぞろと廊下に溢れ出した。
いつもの休み時間以上の賑やかさだ。
ジャージ姿の生徒、道着を片手に抱えた生徒、マフラーを巻いたまま友達を応援しに行く生徒――。
(一般公開だから、か)
廊下の窓からは、外の中庭が見える。
そこにはテントがいくつも並び、温かい飲み物や軽食のブースが準備されていた。
すでに何人かの一般客の姿も見える。
「行くぞ、カオル」
「ああ」
二人は人混みを縫うようにして階段を降りていく。
道中、何人かの男子生徒が声をかけてきた。
「リュウジ、マジで出るのかよ!」
「左目、大丈夫なのか?」
「優勝候補がハンデ背負ってるとか、演出か?」
軽口半分、心配半分。
リュウジは淡々と「平気だ」と返しながら、特に立ち止まることもなく進んだ。
やがて玄関を抜け、柔道場へと続く渡り廊下に出る。
外気は冷たいが、吐く息が白くなるほどではない。
細い冬の日差しが渡り廊下のガラスを通して差し込み、床に長い影を落としていた。
渡り廊下を進むと、見学用の案内板が立てられている。
「柔道場・格闘技会場 →」
その矢印の先には、明らかに学生以外の人影も混ざっていた。
スーツ姿のビジネスマン、
コートを羽織った中年の夫婦、
そして、どこか場違いなほど落ち着いた雰囲気の大人達。
(一般公開ってこういう感じか)
ちらりと横を見ると、カオルも周囲を警戒するように視線を走らせている。
「なんか、妙に多いな。一般人」
「まあ、今年はいろいろあったしな」
ネフェリスの一件。ニュースになった名前。
“ラスぺランツァ”というチーム名も、“S級パイロット”という肩書きも、
本人の意志とは別に、勝手に一人歩きしていく。
(こういうのは、あんまり好きじゃないけど)
ふと、人混みの中に見慣れたシルエットが見えた。
その瞬間、リュウジの足がわずかに止まる。
「……あ?」
渡り廊下を抜け、柔道場へと続く通路の手前。
見学者の列から、少しだけ離れた位置に立つ二つの影。
チャコとクリスタルだ。
「……まだロカに居たのか?」
リュウジが思わずそう口にすると、すぐにクリスタルが眉をひそめた。
「まさか。
私、そんなに暇じゃないんだけど?」
「元気そうで何よりや!」
チャコがぱっと手を挙げ、大きく振った。
「ウチが呼んだんやで、リュウジ」
「チャコが?」
「そ。ちょうど近くまで仕事で来てたし、
リュウジの怪我もちゃんと見ときたかったしね」
クリスタルが、さらりと言う。
「仕事?」
「ここの近くで、探索機の講習会。
そのついでに、ね。……ついでって言うと怒る?」
「いや」
リュウジは首を横に振り、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「わざわざありがとう」
「素直でよろしい」
クリスタルは小さく笑みを浮かべ、リュウジの顔をじっと覗き込む。
左瞼の上、ガーゼの下に隠れた傷跡を確かめるように。
「で、その様子だと――」
「傷なら治った」
リュウジは短く答え、左瞼のあたりを指さした。
「抜糸も済んだし、視界も問題ない。
ただ、ちょっと跡は残るかもってさ」
「……まぁ、そのくらいで済んだなら、いいほうよ」
クリスタルは安心したように息を吐いた。
「右肩は?」
「もう上げても痛くない」
そう言って、リュウジは肩を軽く回して見せる。
「激しい運動はほどほどに、って言われてるけどな」
「格闘技に出るくせに、よく言うわ」
クリスタルが呆れたように目を細める。
その横で、チャコがケラケラと笑った。
「まあまあ、クリスタル。
ここで止めても、どうせリュウジ、は出るやろ?」
「……否定はしない」
リュウジは軽く肩をすくめた。
「で?」
カオルが一歩前に出る。
「わざわざ、それだけのために?」
「“それだけ”って何よ」
クリスタルが少しだけ口を尖らせる。
「応援に決まってるでしょ?
ラスぺランツァの“末っ子”がどれくらいやれるのか、見届けないと」
「末っ子言うなや」
チャコが笑いながら突っ込む。
「ウチも応援しとるで、リュウジ。
せっかくやし、ええとこ見せてや」
「プレッシャーかけるなよ」
「プレッシャーくらい、かけたるわ」
チャコはどこか嬉しそうだ。
「せやけど……」
チャコはリュウジの左目を一瞬だけ見て、ニッと笑った。
「ちゃんと“帰ってきた顔”やな。
この前、ソーラ・デッラ・ルーナで倒れとった時よりは、百倍マシや」
「比べる対象がひどい」
「それだけ元気そうで安心したってこと」
クリスタルが言葉を添える。
「まぁ、頑張って。
無茶はしない範囲でね」
「ウチも全力で声援送ったる。
相手にビビられるくらいな」
「それはやめてくれ」
リュウジは苦笑いを浮かべた。
「でも――」
ふっと、その表情が落ち着いたものに変わる。
「来てくれて、ありがとな。
本当に」
その一言に、チャコもクリスタルも、少しだけ目を丸くした。
「……なんや、らしくないこと言いよる」
「成長したってことかしらね」
クリスタルが柔らかく笑う。
「じゃ、私達は観客席に回るわ。
試合前に、もう一回肩の様子だけ見てあげる」
「好きにしろ」
「それと――」
クリスタルはくるりと背を向ける前に、振り返って一言付け足した。
「勝っても負けてもいいけど、
“自分がどこまでやれるか”くらいは、ちゃんと見てきなさい」
「……ああ」
リュウジは短く返事をした。
チャコとクリスタルが観客導線の方へ歩いていく。
背中を見送りながら、カオルがぼそりと言った。
「賑やかなのが増えたな」
「お前、人のこと言えないだろ」
「どういう意味だよ」
軽く言い合いながら、二人は柔道場への通路を再び歩き出した。
扉の向こうからは、既に歓声が聞こえてくる。
畳のきしむ音、ミットに当たる乾いた音。
冬のソリア学園の空気が、一気に熱を帯び始めていた。