柔道場の畳の上には、もう白い砂埃のような熱気が立ちのぼっていた。
観客用に引き伸ばされた簡易スタンドは、生徒と一般客と保護者でぎっしりだ。
「第一試合、男子柔道一回戦――ハワード!」
アナウンスが響いた瞬間、観客席のあちこちから「おおー!」と声が上がる。
ハワード本人はというと、青い柔道着姿で肩を回しながら、妙に余裕の笑みだ。
「任せとけって。こう見えてもフィジカルには自信あるからな」
「ハワード、一本負けだけはやめろ!」
メノリの檄が飛ぶ。
シャアラも両手を口の前に合わせ、心配そうに見つめていた。
ルナはというと、エアバスケのユニフォーム姿のまま、ベンチの端に座って応援している。
胸のあたりがきゅっとなる感覚を、柔道場の熱でごまかすように深呼吸した。
審判の「はじめ!」の声と同時に、ハワードと相手選手が組み合う――
――その、ほんの数秒後だった。
「一本!!!」
「……え?」
ルナが瞬きをした時には、もうハワードの背中が畳に叩きつけられていた。
見事な大外刈り。
会場に笑いが起こり、本人は呆然と天井を見上げている。
「は、早すぎ……」
「だから言っただろ、論外だって!」
メノリが頭を抱え、シャアラは「ど、どんまい!」と苦笑いを貼りつけた笑顔で手を振った。
ハワードは何とか起き上がり、頭をかきながら肩をすくめる。
「……相手、絶対柔道部だろ……」
「言い訳をするな!」
メノリの一喝が柔道場に響いた。
***
二試合目、シンゴの番がやってきた。
彼は緊張で顔をこわばらせながらも、きっちり礼をし、丁寧に構える。
「がんばれ、シンゴ!」
ベルがスタンドから両手を振る。
カオルも腕を組んだまま、じっと試合を見つめていた。
シンゴは踏み込みも悪くなかったし、受け身もちゃんと取れていた。
けれど、相手の体格差と経験の差は大きい。
「一本!」
途中までは粘っていたが、最後は巴投げで綺麗に決められてしまった。
それでも起き上がったシンゴは、きっちり礼をし、悔しそうに唇を噛みながらも、
仲間のところへ戻ると苦笑いを浮かべた。
「ごめん、負けちゃった」
「よく頑張ったわよ!」
ルナが真っ先に声をかける。
ベルも「いい試合だったよ!」と謎の褒め方をし、場の空気は少し和らいだ。
***
エアバスケ会場の体育館は、柔道場以上の熱気だった。
三次元のコート、浮遊するゴールリング、エアシューズの駆動音――
ソリアならではの競技に、一般客も目を輝かせる。
エアバスケ一回戦。
ルナ、シャアラ、ベルが所属するチームは、開始早々から走り続けていた。
「ルナ、右!」
「分かってる!」
エアシューズの推進で空中を滑るように移動しながら、
ルナはベルからのロングパスを片手でキャッチする。
(ここだ!)
リングの真下で一瞬だけ静止し、身体をひねってシュート。
ボールは綺麗な弧を描いて、空中リングに吸い込まれていった。
「ナイスシュート!」
「ルナ、かっこいい!」
スタンドからの歓声に、ルナは照れくさそうに片手を挙げる。
シャアラも正確なパス回しとディフェンスで走り続け、ベルは持ち前のバネでリバウンドを量産した。
結果、女子チームは見事に一回戦突破。
息を切らしながらも、三人とも笑顔でハイタッチを交わす。
「次も、この調子でいこ!」
「うん!」
ルナがそう言いながらも、心のどこかで柔道場の様子が気になっていた。
(リュウジは、どうしてるかな)
***
そして――男子格闘技の会場、柔道場。
畳の中央に設置された円形のマットが、格闘技用のエリアだ。
打撃あり、投げあり、関節ありの総合ルール。
ヘッドギアとグローブはつけるが、それでも十分危険な競技だ。
「次の試合、Aブロック三回戦――
カオル!」
アナウンスが響いた瞬間、観客席のあちこちから黄色い声援が飛ぶ。
「カオルくーん!」「頑張ってー!」
ハワードが「おいおい」と苦笑いしながら、その声援の多さに肩をすくめた。
「なんか、俺の時と声の質が違わない?」
「気のせいじゃないか」
メノリがそっけなく返す。
試合開始。
カオルは基本姿勢で相手と向かい合うと、開始のゴングと同時に、一歩踏み込んだ。
パンッ!
乾いた音が会場に響く。
カオルの右ローが、相手の前足を正確に打ち抜いた。
続けざまに左ジャブ。
相手が一瞬ひるんだところに、素早く距離を詰めて――
「ドンッ!」
投げ。
相手の体は大きく宙を舞い、そのままマットに叩きつけられた。
「一本!!」
審判の声と同時に、会場がどよめく。
「し、瞬殺……」
メノリが目を丸くし、シンゴは「はやっ!」と素直な声を上げた。
黄色い声援は一気にボリュームを増し、カオルは少しだけ居心地悪そうにヘッドギアを外す。
「……どうせなら、もうちょっと時間かけろよ」
ハワードがぼやくと、
「勝てなかったやつがそれ言うのか?」
メノリがズバッと斬り捨てた。
カオルはスタンドをちらりと見上げ、ルナ達の姿を見つけると、小さく手を挙げた。
ルナも笑顔で手を振り返す。
(さすがだな、カオル)
そして――場内アナウンスが、次の名前を告げた。
「続きまして、Bブロック二回戦――
リュウジ!」
途端に、会場の空気が変わる。
ざわっ、と小さなざわめきが波紋のように広がり、
一般客の方からも「あの子が……」「ニュースで見た……」というささやきが聞こえた。
スタンドの上段、一般席の一角。
チャコが身を乗り出す。
「きたきた……! リュウジや!」
「やっと出番ね」
隣でクリスタルも腕を組み、じっとマットを見つめた。
選手控えスペースから、リュウジが姿を現す。
青い道着ではなく、格闘技用の黒いショーツとTシャツ。
左瞼の上には、うっすらと新しい皮膚が見える細い傷跡。
以前よりも少しだけ鋭さを増したその横顔に、
しかし、どこか柔らかい影も宿っていた。
(学生としての俺。
ソリアの一員としての俺)
マットの縁に立ち、対戦相手と向かい合う。
相手は体格のいい上級生。
筋肉のつき方からして、道場でそれなりにやっているのが分かる。
「……よろしくお願いします」
リュウジは、礼をする前に相手へ一言だけ声をかけた。
「よ、よろしく……」
相手は少し驚いたようだったが、すぐに礼を返す。
ゴング直前、スタンドから声が飛ぶ。
「リュウジー! 怪我すんなよー!」
ハワードの遠慮ない野次に続き、
「ちゃんとガードを上げろ!
変な意地を張るな!」
メノリの現実的な指示が飛んだ。
ルナは手を胸の前で組み、
ただ、息を詰めるように見守っている。
(大丈夫。帰ってきたんだもん。
このくらい――って、思うけど)
心臓の鼓動は、どうしようもなく早くなる。
「はじめ!」
審判の声と同時に、リュウジは一歩、前へ踏み出した。
ゴングが鳴ると同時に、相手は勢いよく飛び込んできた。
正面からのワンツー、そのままタックル気味に腰へ潜ろうとする――
リュウジは一歩だけ後ろに下がり、上半身をわずかに右にひねる。
空を切る拳。
相手の肩がほんの少し沈んだ、その瞬間。
(ああ、だいたい分かった)
リュウジの瞳が、わずかに細くなる。
次に伸びてきた右ストレートを、左手で軽く外側に払う。
同時に半歩、相手の懐へ踏み込んだ。
視界の端で、客席のチャコが身を乗り出すのが見えた。
「おっ、いったで」
相手の足運び。
打ち終わりの位置。
体重の乗せ方。
全部、たった数十秒で頭の中に整理されていた。
リュウジは腰を落とし、相手の軸足の外側に自分の足を滑り込ませる。
「――っ!」
観客が息を飲んだ瞬間。
ドンッ。
重い音と共に、相手の体が宙を舞った。
大外刈りというよりは、柔道とレスリングを混ぜたような独特の崩し。
相手の背中がマットに叩きつけられ、そのまま押さえ込みに移行する。
「一本!!」
審判の手が高く上がる。
歓声とどよめきが一気に爆発した。
「うおぉ〜!」
「今の、なに!? はやっ!」
「さすがニュースになってたやつだ……」
一般客の方からもそんな声が聞こえ、
リュウジは軽く息を整えながら、静かに相手を離した。
「ありがとうございました」
きちんと頭を下げて、相手に手を差し伸べる。
相手はまだ息を荒げながらも、その手を掴み、苦笑いを浮かべた。
「……強ぇな、お前」
「いえ。まだまだです」
そう言って軽く笑い、リュウジはスタンドの方を一度だけ見上げる。
真正面の観客席で、ルナが胸に手を当てながら、涙目で笑っているのが見えた。
(……見られてたか)
少しだけ、頬が緩む。
***
それからの試合は、驚くほど“危なげない”の一言だった。
カオルはカオルで、相変わらずの瞬殺ぶりだ。
打撃のフェイントからスッと距離を詰めて、
相手が反応しきれないうちにテイクダウン、
そのまま一本、あるいはポイント差で完勝。
「カオルくーん!」「キャー!」
黄色い声援は、もはや別のアイドルショーのようだ。
「はは……あれはあれで大変そうだな」
上段の一般席で、ハワードが呆れたように笑った。
いつの間にか、チャコとクリスタルの隣に腰を下ろしている。
「お、ハワード。シンゴもおるやん」
「柔道組、見事に一回戦敗退コンビだね」
クリスタルがくすっと笑うと、シンゴは耳まで赤くして頭をかいた。
「いや、その……相手が強かったんだよ……」
「しゃーないしゃーない。柔道は柔道、格闘技は格闘技や。
ウチらは観客席から楽しませてもらおうやないか」
チャコはポップコーンをつまみながら、マットを見下ろす。
続くリュウジの二回戦、三回戦も、
彼は相手の出方を一度見てから、必ず“二度目”で決めていた。
最初の数十秒は、防御と軽いフェイント。
その間に、相手の癖を全部見る。
それから、一瞬の隙に入り込んでテイクダウン、あるいは投げ。
無駄な打撃の応酬も、派手な挑発もない。
「……なぁ、クリスタル」
「なに?」
「リュウジ、あんだけ怪我しとったのに、よう動くなぁ」
「ほんと。医者に見せたら怒られそうだけどね」
クリスタルは腕を組みながらも、口調はどこか誇らしげだった。
「でも、変に力んでないぶん、むしろ昔より動きが自然かも」
「昔?」
「ドルトムント財閥にいた頃。あの頃は溜まったストレスを訓練所で暴れ回ってた頃ね。
あの頃は“前に出る”しか知らなかった」
クリスタルの言葉に、ハワードが「あ〜」と納得したように頷く。
「今はさ、“前に出る”んじゃなくて、“前に出るべきところだけ前に出てる”って感じか?」
「そうそう。そういう言い方、好きよ」
クリスタルが笑う。
ゴングの音。
マットに倒れる対戦相手。
審判の「一本!」の声。
会場に拍手が響くたびに、リュウジは短く礼をして、
表情を崩さずにコーナーへ戻っていく。
(……でも、よく見ると、ちょっと楽しんでる顔してるのよね)
クリスタルは心の中でそう付け足した。
***
そんなこんなで、トーナメントはどんどん進んでいった。
掲示板に貼られた組み合わせ表には、
「カオル」と「リュウジ」の名前だけが、
じわじわと上の段へ上の段へと上がっていく。
「……結局、この二人が残るんだな」
ハワードがため息混じりに言う。
隣でシンゴも、どこか嬉しそうに笑った。
「でも、なんか安心するよ。
“あの二人がいてくれる”って感じで」
「それは分かるわね」
クリスタルも同意する。
そして準々決勝が終わり、
アナウンスが「ベスト4進出者」の名前を読み上げた。
「ベスト4進出――
カオル!
リュウジ!」
どよめきと歓声が一段と大きくなる。
その頃、柔道場入口側の扉が勢いよく開いた。
「負けちゃった〜〜〜!」
「残念だったけど、楽しかったな!」
「ルナ、三本も決めてたじゃない。十分よ!」
エアバスケ組が、汗まみれのユニフォーム姿でなだれ込んできた。
ルナ、メノリ、シャアラ、ベル。
それぞれがタオルで汗を拭いながら、
人だかりの柔道場を見上げる。
「お、来たな。どないやった?」
チャコが手を振ると、ルナは少し悔しそうに笑った。
「ベスト4決定戦で負けちゃった。
でも、ぎりぎりまで粘ったんだから!」
「最後のカウンターシュート、惜しかったよな」
ベルが親指を立てると、シャアラも頷く。
「あれ、入ってたら逆転だった。
でも、あのチーム相手にここまでやれたなら上出来だ」
メノリがまとめ、
ルナは「そうかな」と照れくさそうに笑った。
ふと、掲示板を見る。
「……あ」
ルナの目に、「リュウジ」「カオル」の文字が飛び込んだ。
「二人とも、ベスト4まで行ってる……!」
声に驚いて、ハワードが振り返る。
「お、ルナ! 見てたか?
あいつら、マジで凄いよ」
視線はしっかりとマットの中央に向けられている。
スタンドの上段で、全員が揃った。
チャコとクリスタルの両隣に、
ハワードとシンゴ。
そのあとに、ルナ、メノリ、シャアラ、ベル。
マットの中央では、ちょうどもう一つの準決勝が終わろうとしていた。
審判の旗が上がり、勝者の名前がコールされる。
「さて……」
チャコが身を乗り出す。
「次は、どっちが先かね?」
そう言った瞬間、場内アナウンスが響いた。
「これより、男子格闘技 準決勝を行います。
第一試合――カオル!」
わっと歓声が上がる。
スタンドの一角。
ルナはごくりと唾を飲み込む。
(……ふたりとも、ここまで来たんだ)
ネフェリスでも、ソーラ・デッラ・ルーナでもない。
戦場でもなく、生還報告でもない。
ただの学校のスポーツ大会――
それでも、彼らが進んできた軌跡の一つの形として、
この「ベスト4」という数字が、胸にじんわりと染み込んでいく。
「さぁ、面白くなってきたな」
ハワードの言葉に、誰もが無言で頷いた。
これから始まるのは、
“生きるための戦い”ではなく、
“今を楽しむための戦い”。
その違いを、誰よりもよく知っているのは――
マットの上に立とうとしている、
二人の少年自身なのかもしれなかった。
ーーーー
柔道場の空気が、さっきまでとは少し違っていた。
準決勝一試合目。
畳の中央に立ったカオルは、いつものように無駄な言葉ひとつ発さない。
対戦相手の名前が読み上げられても、視線は揺れず、ただ静かに礼をして構えを取る。
「はじめ!」
ゴング代わりの掛け声が響いた瞬間――
次の瞬間には、もう勝負が終わっていた。
カオルの右足が、音もなく半歩だけ前へ滑り出たかと思うと、
相手の懐に一瞬で潜り込み、体勢を崩し、そのまま綺麗に投げ飛ばす。
ドンッ!
背中が畳に落ちた重い音。
会場に、遅れてざわめきが広がる。
「い、一本!!」
審判の声に、観客席から悲鳴のような歓声が上がる。
「やっば……」「今の見えた?」「また一瞬なんだけど!」
黄色い声援が飛び交う中、カオルは淡々と礼をして、
何事もなかったかのように自分のコーナーへ戻っていった。
上段の観客席で、それを見ていたハワードが、苦笑しながら肩をすくめる。
「はい出たー、カオルの瞬殺芸……」
「でも、ほんとすごいな」
メノリが短く言い切ると、ルナも「うん」と素直に頷いた。
その横でシャアラとベルも、ぽかーんと口を開けたまま拍手を送っている。
「さ、次は――」
チャコが身を乗り出す。
「リュウジの番や」
***
「第二試合、準決勝!」
アナウンスが響き、柔道場全体の視線が一斉に畳の中央へ注がれる。
「リュウジ!」
名前を呼ばれたリュウジは、ゆっくりと立ち上がった。
左瞼には、まだ薄いガーゼが貼られている。
それでも足取りは、ネフェリスのコクピットでも見せたような、
ぶれのない静かな歩みだった。
「対するは――
ソリア柔道部 主将、タカギ!!」
どよめきが起きる。
道着姿の長身の上級生が、堂々とした歩幅で畳の上に上がってきた。
「うわ、あの人、柔道部の部長さんじゃない?」
「なんで格闘技の方に出てんだ?」
「柔道のトーナメント、あの人いなかったよね……」
観客のざわつきが大きくなる中、
上段のスタンドでルナが首をかしげる。
「柔道の方に出てなかったのか……」
メノリも眉をひそめた。
「編成表、確かに名前なかったな。
格闘技に回ったってことか」
ハワードが腕組みをしながら呟く。
二人が中央に進み出る。
礼を交わす……かと思った、その直前。
「――待て」
上級生の男が、低い声で口を開いた。
「……?」
リュウジが首を傾げる。
柔道部主将・タカギは、観客席の方へと顔を上げ、
真っすぐにある一点を見据えた。
「俺は、柔道を諦めて、こっちのトーナメントに出ることにした」
唐突な宣言。
会場が一瞬、静まり返る。
「え、いきなり何……?」
「宣言タイム?」
観客のざわめきの中、彼は続けた。
「理由は――」
タカギは息を吸い込み、腹の底から声を張り上げる。
「俺が勝ったら、ルナを、俺の女として迎え入れたい!!」
「――――は?」
柔道場の空気が、一度、本気で止まった。
「る、ルナ……?」
「今、ルナって言った?」
「おいおいマジかよ……」
視線が一斉に、観客席の一角へ集まる。
ルナは、完全に固まっていた。
「ちょ、ちょっと待って……」
両手をぶんぶんと振るが、誰も止まらない。
隣でシャアラは目を丸くし、ベルは半ば口を開けたまま。
メノリはと言えば、額に手を当てて小さくため息をついていた。
「お前、やることが極端だな……」
ハワードは若干引きながらも、興味津々で下を覗き込む。
タカギは、そんな視線など意に介さず、
正面のリュウジに向き直った。
「ルナは、皆んなに優しい。
こんな俺にも、同じように声をかけてくれた。
いい子だ。――だから、お前には渡さない」
その目は真剣で、まるで試合前の宣戦布告のように、
真正面からリュウジを射抜いていた。
「…………」
リュウジは、しばし黙ってその言葉を聞いていたが――
「……はぁ?」
心底面倒くさそうに、首を傾げた。
「なんで俺に言うんだ?」
会場に小さな笑いが起きる。
タカギは眉をひそめ、なおも食い下がった。
「ルナは、貴様を見る視線が妙に優しい。
鈍感なお前は気づいていないだろうがな!」
「~~~っ!!」
観客席のルナは、もう俯くしかなかった。
膝の上で握った拳が震える。
耳まで真っ赤どころか、首筋まで熱くなっている。
(な、なに言ってくれてんのよぉぉぉ!!)
顔を上げたら、絶対に変な顔をしている自信しかなかった。
畳の上で、リュウジはゆっくりと息を吐いた。
「……勝手にしろ」
ぽつりと、それだけ言う。
「それはアイツが決めることだ」
ほんの少しだけ低くなった声。
その言葉に、観客席の方から息を飲む音がした。
ルナは俯いたまま、目をぎゅっと閉じる。
(……そうだよ。
私自身が、ちゃんと決めなきゃいけないんだ)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
それは羞恥でもあり、同時に少しだけ誇らしい感情でもあった。
リュウジは、タカギから視線を外さないまま、一礼する。
「試合するなら、さっさと始めよう」
審判が、慌てて間に入った。
「あ、あー……え、えー、両者、中央へ。
礼!」
二人が向かい合って頭を下げる。
畳の上に、再び静寂が戻った。
「はじめ!」
***
開始直後から、タカギは全力で来た。
さすが柔道部主将だけあって、
組み手も足運びも、本物だ。
一つ一つの動きに迷いがない。
「はっ!」
鋭い掛け声とともに、右足が刈りにくる。
同時に上体を引き込み、豪快な投げにつなげようとする――
だが。
リュウジは、それを半歩でいなす。
足を払われる前に、軸足をわずかにずらし、
掴まれた袖のテンションを逆に利用して、
自分の体重を流してしまう。
「ちっ……!」
タカギが舌打ちをした瞬間、
リュウジは右足をすべり込ませていた。
腰を落とし、相手の重心の真下に自分の軸を通す。
一瞬だけ、二人の体が止まったように見え――
ドンッ!
今度はタカギの背中が、畳に叩きつけられた。
「くっ……!」
完全な一本には至らない。
彼は必死に体をねじって受け身を取り、
そのままリュウジの押さえ込みを振り払うように転がる。
「まだだ!」
力任せではない、きちんと鍛えられた動き。
観客席からも、「おお……!」と感嘆の声が上がる。
「さすが部長……簡単には終わらないか」
上段でハワードが呟く。
クリスタルも、腕を組んだまま真剣な表情で見つめていた。
「何してるのかしら」
畳の上では、再び間合いが開く。
互いに、息は上がっていない。
だが、その眼差しはさっきよりも鋭くなっていた。
「……さすがだな」
タカギが、低く笑う。
「言った通りだ。
お前に勝てなきゃ、あいつを奪う資格なんかない」
「だから、それは――」
リュウジは言いかけて、やめた。
代わりに、わずかに口角を上げる。
「……ま、いい。
だったら全力で来い。
中途半端な気持ちで来られる方が、失礼だからな」
その言葉に、タカギの両目がぎらりと光る。
「言われるまでもない!」
再び組み合う。
今度はタカギの方が先に動いた。
大外、内股、足払い。
攻め手を変えながら、少しでもバランスを崩そうと仕掛けてくる。
観客席からも、どよめきと応援の声が飛ぶ。
(やっぱり強いな……)
リュウジは、攻撃を受け止めながら冷静に分析していた。
体格差、経験値、純粋な投げ技のキレ。
それだけ見れば、タカギは間違いなくトップクラスだ。
――でも。
(俺は、もう“生きるための戦い”を味わってる)
サヴァイヴの島、ネフェリスのコクピット。
宇宙爆発、衝撃波、割れたキャノピー。
あの時と比べれば、この畳の上は、
なんと温かく、安全な場所だろう。
(ここで負けていい理由は、一つもない)
リュウジは、相手の袖を掴む手に、ほんの少しだけ力を込めた。
タカギが動く。
重心が前に出る――
左足が、半歩だけ深く踏み込む。
(そこだ)
リュウジの身体が、綺麗な弧を描いた。
相手の腰の位置に、自分の腰を差し込むように回り込む。
「っ……!?」
タカギの息が詰まる。
視界が一瞬、ひっくり返った。
ドォンッ!!
さっきよりも、さらに大きな音が畳に響いた。
今度は、完全に背中から落ちる形。
審判が迷うことなく手を上げる。
「一本!!」
その瞬間、柔道場が割れんばかりの歓声に包まれた。
「うおおおおーー!!」
「リュウジ勝った!!」
「決勝、リュウジとカオルかよ!!」
上段のスタンドでも、みんなが一斉に立ち上がる。
「やったぁ!」
ルナは、思わず両手を胸の前でぎゅっと組んだ。
さっきまでの羞恥も、驚きも、
今はただ、勝ち上がってくれたことへの嬉しさで胸がいっぱいだった。
メノリはため息をつきながらも、口元にはうっすら笑みを浮かべる。
「まったく……騒がしいことになったな」
「でも、いいじゃない」
シャアラが優しく笑った。
「“生きるための戦い”じゃなくて、
“勝ちたい相手との戦い”で、こんなに笑ってるんだもの」
ベルもこくこくと頷く。
「うん。すごく、いい顔してた」
***
畳の上で、リュウジはタカギに手を差し出した。
「……ありがとな」
「……何がだ」
悔しそうに顔をしかめながらも、タカギはその手を掴んで起き上がる。
「ルナのこと、大事に思ってくれてる奴がいるって分かった。
それだけで、ちょっと安心した」
「……っ、俺はまだ諦めてないからな」
「だから勝手にしろって。
何度でも言うけど、アイツが決めることだ」
そう言って、リュウジは肩をすくめる。
タカギはスタンドの方をちらりと見上げると、
ルナは慌てて目を逸らし、また耳まで真っ赤になっていた。
(……ほんと、分かりやすいな)
少しだけ頬が緩む。
それを見ていたチャコが、上段でにやりと笑った。
「さぁて――」
ハワードが手を叩く。
「決勝は、カオル対リュウジか。
こりゃ、見ものだな」
クリスタルも、腕を組み直しながら小さく頷いた。
「いい勝負になるといいけど。」
柔道場の空気は、
次に始まる“頂上決戦”へ向けて、
さらに熱を帯びていくのだった。
ーーーー
柔道場の片隅、観客席から少し死角になった通路で、
リュウジは上着を脱いで右肩を露わにしていた。
「クリスタル」
呼びかける声は落ち着いているが、わずかに緊張が混じっている。
「ん?」
ペットボトルの水を飲んでいたクリスタルが振り返る。
「悪い。もう一度、テーピング巻いてくれないか」
「さっきまで平気そうにしてたのに。まだ痛いの?」
リュウジは首を横に振った。
「いや……念には念を入れて、だな。
決勝だから」
「ふうん。そういうところ、真面目なんだから」
クリスタルは苦笑すると、器用な手つきでテーピングを取り出した。
リュウジの右腕を軽く持ち上げ、肩のラインに沿って白いテープを巻いていく。
「力、抜いて」
「ああ」
肩をぐるりと一周させ、固定するように数回巻き足す。
最後に端をぴたりと押さえつけると、手のひらでトントンと軽く叩いた。
「はい、巻き終わったよ」
ポン、と右肩を軽く叩かれる。
「ありがとな」
「どういたしまして。――で、もう一つ」
クリスタルはくるりと正面に回り込み、
リュウジの顔を覗き込んだ。
「……もう一度、瞼を見せて」
「まだ気になるか?」
「医者の言うことは守ってる?」
「一応な」
そう言いつつも、リュウジは素直に顔を近づける。
クリスタルはそっと指先で、左瞼の上に貼られた薄いガーゼの端をつまんだ。
「少しだけよ。動かないで」
やさしく、ゆっくりとガーゼを剥がす。
縫い跡はまだ赤く、だけど腫れはだいぶ引いている。
(綺麗な傷跡。消える傷じゃないけど……
ミスは見当たらないわね)
心の中でひとつ頷き、
手早く新しいガーゼを当ててテープで固定した。
「よし。問題なし。
痛んだらすぐ言うこと」
「了解。……助かる」
リュウジが上着を羽織り直したところで、
場内にアナウンスが響いた。
『これより、格闘技部門――決勝戦を行います!
選手は場内中央へ!』
柔道場全体が、一気に熱を帯びる。
観客席から、どっと歓声が沸き起こった。
「リュウジー!」「カオルー!!」
女子生徒たちの黄色い声援が、左右から飛び交う。
「……人気者同士ってわけね」
クリスタルがニヤリと笑う。
「勘弁してくれ……」
リュウジは苦い顔をしながらも、
背筋を伸ばし、畳へと向かって歩き出した。
***
畳の中央で向かい合う二人。
カオルは、さっきまでと変わらない無表情のまま、
静かに構えを取っていた。
しかし、その足元には微かな熱が宿っている。
(ここまで来たら、遠慮はしないぞ)
対するリュウジも、真正面から視線を合わせた。
(サヴァイヴじゃ、ずっと一緒に生き延びてきた仲間で――
今は、同じ場所で肩を並べてる“ライバル”だ)
お互い、何も言わない。
言葉より先に、拳と足で語るつもりだった。
審判が、二人の間に立つ。
「……両者、礼!」
二人が、同時に深く頭を下げる。
「構えて――」
呼吸を合わせるように、一歩前へ。
「はじめ!!」
***
開始の声と同時に、
空気の密度が変わった。
先に動いたのは――どちらとも言えない。
ほんの数センチ分、二人の足がほぼ同時に前へ出る。
「っ!」
カオルの右ストレート。
リュウジの視界を狙って、一気に距離を潰しにくる。
リュウジは身体をひねり、ギリギリで頭を外に逃がした。
頬のすぐ横を、風が切り裂いていく。
続けざまに、ローキック。
カオルの左足が、低い位置から鋭く振り上がる。
「チッ……!」
リュウジはわずかに遅れて、受けに回らざるを得なかった。
すね同士がぶつかり、鈍い衝撃が走る。
(重たいな……)
瞬間的に、足の感触で悟る。
(この一週間、ちゃんと準備してきたってわけか)
カオルは距離を取らない。
一歩離れては、すぐまた詰めてくる。
柔道仕込みの組み技でも、打撃でも、どちらに転んでも対応できる距離。
「どうした。さっきみたいに、軽々とはいかないぞ」
カオルの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
「……そっちこそ」
リュウジも、にやりと笑い返した。
「そんな簡単に倒れてくれたら、困るんだよ」
交錯する打撃と、組み手の争い。
カオルが袖を取りに来れば、リュウジはそれを嫌い、
逆にカオルの足を狙ったフェイントを入れる。
「二人とも、速っ……!」
観客席で、ハワードが思わず声を漏らす。
「目で追うだけで精一杯だ」
シンゴも真剣な目つきで試合を見つめていた。
上段の反対側、チャコとクリスタルは腕を組んで並んでいる。
「全力の殴り合いにならんだけ、マシやな……」
「そうね。でも、どっちも相当本気よ」
クリスタルの言葉通り、
畳の上の二人は“遊び”を一切入れていなかった。
サヴァイヴで育った、野生の感覚。
ソリアで身につけた、競技としての技術。
宇宙での生還が刻み込んだ、間合いの読み。
それらが全部、静かに、しかし確実にぶつかり合っている。
「リュウジー!」「カオルー!」
ルナたちの席からも、声援が飛ぶ。
ルナは両手を固く握りしめたまま、
一瞬も目を離せずにいた。
(どっちにも、頑張ってほしい――
でも……)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(最後に立っててほしいのは……)
その先を、考えるのが怖かった。
***
試合時間が半分を過ぎた頃。
二人の息は、まだ大きく乱れてはいない。
だが、互いの額には汗が浮かび、
肩で呼吸をする回数が増えてきた。
カオルが再び詰める。
今度は最初から、柔道の組み手を取りにきた。
「っ!」
リュウジの道着の胸元と袖を、素早く掴む。
そのまま体を引き込み、投げに持っていくつもりだ。
(これ以上、組ませたら――)
リュウジは一瞬で判断し、
あえてバランスを崩すように自分の体を落とした。
「――おっと」
カオルの重心が、わずかに前に流れる。
その瞬間、リュウジは右足を外へさばき、
カオルの膝裏へと、逆の軌道で足を絡めた。
「……!」
カオルの体勢が、わずかに崩れる。
リュウジは左手で袖を引き、右肩で相手の胸を押し上げ――
ドッ!
ふたりとも、そのまま床に転がる形で崩れ落ちた。
完全な投げではない。
だが、崩されたのはカオルの方だ。
「有効!」
審判の声が飛ぶ。
「やるな……」
カオルが、床に手をつきながら笑った。
「久しぶりに、ここまで崩された」
「そっちもな」
リュウジも笑い返す。
右肩に鈍い痛みが走るが、表情には出さない。
(二人とも、まだここからだ)
クリスタルは、微かに眉を寄せた。
(でも、リュウジ………)
***
闘いのペースが一気に上がった。
「はっ!」
カオルのジャブが、先ほどまでよりも一拍早く、鋭く飛ぶ。
リュウジはそれをギリギリで外しながら、左ローを返した。
足にはちゃんと重さが乗っている。
だが――
(……やっぱ、変だ)
カオルはローを受け流しながら、胸の奥で違和感を膨らませていく。
痛い。
痺れる。
けれど、あの時――サヴァイヴで、オリオン号の上で打ち合った時ほどの“芯”がない。
骨まで響くような、全力のぶつかり合い。
互いに本気で殴り合って、倒れたら死ぬかもしれない、あの極限の重さ。
今のリュウジの打撃には、それが欠けている気がした。
(本調子じゃない? それとも――)
カオルは、リュウジの視線を追う。
瞼には薄いガーゼで覆われ、右肩にはテーピング。
動きそのものはキレているのに、ときどきほんの一瞬だけ、タメが遅れる。
拳を出そうとして、肩がビクッと反射的に固まる。
間合いを詰めながら、どこかで「ここまで」とブレーキをかけているような。
(怪我が痛む……だけじゃないな)
リュウジの右ストレートが飛ぶ。
カオルは上体をひねってそれをかわし、すれ違いざまにボディにフックをねじ込んだ。
「ッ……!」
鈍い呼気が、リュウジの口から漏れる。
観客席から、どよめきが上がった。
「カオル、当たった!」「すごい、今の一発!」
「リュウジ、大丈夫……?」
ルナは思わず身を乗り出した。
胸の鼓動がうるさいくらいに跳ねる。
(リュウジ……!)
チャコは腕を組んだまま、目だけを鋭く細めていた。
「どう見てる?」
隣でハワードが小声で尋ねると、クリスタルは短く答えた。
「……右、怖がってる。無意識にかばってるわ」
「やっぱ怪我、まだ痛むんだな」
「それだけじゃないと思うけどね」
クリスタルは、眉根を寄せたまま、マットの上を見つめる。
***
「はっ!」
カオルは一気にギアを上げた。
ジャブ、ジャブ、からのミドル。
リュウジはそれをガードで受け、すぐに前に出て組み付こうとする。
だが、カオルはすっと腰を引いた。
リュウジの指先が、道着の袖に届くか届かないかの間合い。
(組ませない。近づかせない。
投げさせたら、一発で持ってかれる)
リュウジの投げの威力は、カオルが一番よく知っている。
サヴァイヴで、何度も地面に叩きつけられてきたからだ。
だからこそ、そこに入らせない。
「っらぁ!」
カオルのローが、リュウジの前足を鮮やかに払う。
リュウジはバランスを崩しかけ、すぐに踏みとどまりながら反撃の拳を伸ばした――
が、その軌道に、迷いが走る。
(今だ!)
カオルは一瞬で踏み込み、懐に潜り込む。
ボディへのストレート。
顎先へのアッパー。
それから、横へのステップと同時に、側頭部を狙ったハイキックに繋げる――
はず、だった。
だが、足が上がる寸前で、カオルはほんのわずかに躊躇した。
(――本当に、全力で蹴っていいのか?)
ガーゼで覆われた左瞼。
先日の会見で見た、縫い跡。
痛みをこらえながら笑っていた顔。
一瞬、足が止まりかける。
(何やってんだ俺……!)
自分に苛立ち、カオルは脚力を叩き込んだ。
「おおぉッ!!」
リュウジの右のガードが、ほんの一瞬だけ下がった。
注意が、別のところに飛んだ瞬間だった。
(……今、何を考えた?
さっきから、どこ見てるんだ、お前)
カオルの右の蹴りが、弧を描く。
バチンッ!
乾いた音を立てて、リュウジの顔面を捉えた。
「有効!」
審判の声が響く。
柔道場全体から、どよめきと悲鳴が混ざったような声が上がった。
「リュウジ!」「大丈夫か!?」
ルナは思わず口元に手を当てた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(やめて……もう、怪我しないで……!)
リュウジの身体が、わずかによろめく。
視界の端で、観客席が揺れた。
ルナの輪郭。
ソリアの仲間たちの顔。
そして、ネフェリスの仲間たちが脳裏に浮かぶ――
サツキ、マリ、クリスタル、チャコ。
管制室で声を張り上げていたペルシア。
記者会見場で笑っていたエリン。
(……やっぱ、俺はまだ、こっちに引きずられてる)
宇宙。
捜索任務。
S級パイロット。
ラスぺランツァ。
全部、まだ身体に残っている。
ここは学園の柔道場なのに、指先が、あの操縦桿と同じ感覚を探している。
(“どこで死ぬか”ばっか考えてて、“どこで生きるか”をちゃんと見てなかったって――
あの時、言ったくせに)
頭の片隅で、苦笑が浮かぶ。
そんな余計なことを考えた瞬間、
カオルの拳が、再び目の前に迫ってきた。
「……ッ!」
リュウジは本能的にガードを上げる。
が、右肩に重い痛みが走る。
宇宙爆発で外れた肩。
完全に治ったわけじゃない。
「ぐっ……!」
一瞬、腕が落ちる。
そこに、カオルのボディブローがめり込んだ。
「有効!」
またもや審判の声。
ポイントが、じわじわと開いていく。
チャコは奥歯を噛みしめた。
「……あかん。
集中しきれてへん」
「でも、まだ立ってる」
クリスタルがぽつりと呟く。
「……そうね。あの子は、簡単には倒れない」
***
時間は残りわずか。
場内アナウンスで「残り一分」が宣言される。
「来いよ、リュウジ!」
カオルが正面から叫んだ。
その声は、不思議なほどまっすぐだった。
「サヴァイヴんときみたいな顔、してみろ!」
リュウジは息を吐き、肩で荒く呼吸しながら笑う。
「……わるいな」
カオルが片眉を上げる。
「何がだよ」
「今の俺じゃ、もう――
あの時の殴り合いは、でき内みたいだ」
それは、諦めではなかった。
ただ、事実を受け入れたような、静かな声だった。
だったら――
「せめて、『今の俺』で、全部やる」
リュウジは最後の力で構えを取り直した。
片目だけで、真正面からカオルを捉える。
「行くぞ、カオル」
「……ああ、来い!」
二人は同時に踏み込んだ。
拳と足が交錯する。
ガードと打撃の音が、柔道場に連続して響く。
ドッ、ドッ、ドッ――と、
肉を叩く音。
どちらか一方が大技を狙えば、
もう一方がそれを潰しにいく。
時間が伸びて、縮んで、絡み合う。
(速い……!)
ハワードが思わず息を呑む。
「どっちも引かねぇな……」
メノリは拳を握りしめたまま、黙って見つめ続ける。
ルナは祈るように両手を胸の前で握りしめていた。
(リュウジ……怪我だけは、もう……!)
残り十秒。
場内アナウンスが、カウントを叫ぶ。
「10、9、8――」
カオルの中で、ひとつの決意が固まる。
(……だったら、全力で勝つ)
怪我してるから、とか。
本調子じゃないから、とか。
そういう言い訳で手を抜いたら、きっと一生引きずる。
サヴァイヴで、命を預けた相手に。
ここで「手加減」なんて、一番失礼だ。
「はああぁッ!!」
カオルは踏み込んだ。
一歩、さらに深く。
今度は迷いなく、全力で。
ボディへのワンツー。
ガードを下げさせる。
そこから、真っ直ぐに顎を狙ったストレート――
を、リュウジはギリギリのところで右腕を上げて受け止めた。
肩に、激痛が走る。
「ッ……!」
視界が一瞬白く弾ける。
それでも足は止めない。
リュウジは、カオルの軸足を狙ってローを打ち込んだ。
「ぐっ……!」
カオルの身体が揺れた。
(まだ、来るか――!)
互いにフラつきながらも、最後の一撃を狙う。
残り三秒。
「3、2――」
カオルは、最後の勝負に出た。
フェイントのジャブを、わざと大きく見せる。
リュウジの視線が、そこに吸い寄せられる。
ほんの一瞬――注意が、ズレる。
(……今も、どっか別のとこ見てんだろ)
ならば、
ちゃんと「今ここ」を思い知らせるしかない。
カオルの右足が、しなやかに振り上がる。
ビシィッ!!
先ほどよりも、さらに鋭く。
正確に。
額と頬の境目を、斜めに切り裂くようなハイキックが、リュウジの顔面を叩いた。
「有効!!」
審判の手が勢いよく上がる。
同時に――
「試合、終了!!」
ブザーの音が、柔道場に響いた。
***
「勝者――カオル!!」
アナウンスが響いた瞬間、観客席から大歓声が爆発した。
「キャーッ!!」「カオルー!!」「すごーい!!」
黄色い声援が一斉に飛ぶ。
カオルは肩で息をしながら、その場に手をついた。
(……マジで、やべぇ。
これ、本気でやりすぎたか……?)
横目でリュウジを見る。
リュウジは、ぐらつきながらも、どうにか踏ん張って立っていた。
片目は腫れ、テーピングした肩も重そうだ。
それでも、ふっと笑う。
「……参ったな」
審判が近づき、ルールに従って二人の手を取り、中央に立たせる。
カオルの腕が高々と掲げられた。
それを見上げながら、リュウジは素直に言った。
「完敗だ、カオル」
「……当たり前だ」
カオルは息を整えながら、短く返す。
だが、その目はどこか苦く、どこか誇らしげでもあった。
「お前、注意力散漫すぎだ。
技じゃなくて、そっちの方で負けてる」
「耳が痛いな」
リュウジは苦笑する。
「でも、ありがとな」
「は?」
「今ここにいる俺に、ちゃんと勝ってくれて。
……手、抜かなかったろ?」
カオルは一瞬だけ目を見開き、すぐにそっぽを向いた。
「当たり前だ。
あの時のリュウジでも、今のリュウジでも。
手加減して勝っても、面白くないからな」
チャコが観客席で、盛大に手を叩いた。
「二人とも、おつかれさん!!
ええ試合やったで!!」
「ほんと、すごかったね……!」
シャアラが胸に手を当て、安堵と興奮の入り混じった顔をしている。
ベルも大きく息を吐いた。
「どっちもボロボロじゃないか……
でも、なんか、いい顔してるな」
メノリは静かに頷いた。
「……そうだな。
どっちも、“生きる場所”で、ちゃんと殴り合ってる顔だ」
ルナは、まだ鼓動の速さが収まらない胸を押さえながら、そっと呟いた。
「リュウジ……負けちゃったけど……」
その口元には、不思議と微笑が浮かんでいる。
「……ううん。
なんか、少しだけ……
本当に戻ってきたみたい」
宇宙じゃなく、
死にかけの任務じゃなく、
ソリア学園の柔道場で、友達と全力で殴り合って、汗を流して。
痛い顔をしながら、それでも笑っているリュウジを見て――
ルナの胸の奥は、じんわりとあたたかくなっていた。
ーーーー
観客席のざわめきが、まだリングの方から押し寄せてくる。
歓声とため息が入り混じった空気の中で、ルナたちは通路の方を何度も振り返っていた。
「リュウジとカオル、そろそろ戻ってくるかな……」
ルナがぽつりとつぶやいたそのときだった。
「いい試合だったわね」
柔らかく澄んだ声が、すぐ背後から聞こえた。
振り向くと、くすんだ青色のジャケットを羽織ったエリンが、客席の列の間に立っていた。髪をいつものように後ろでまとめ、少しだけ息を弾ませている。
「エリン! 来てたんか!」
真っ先に声を上げたのはチャコだった。
チャコは背もたれの上に前足を乗せて、ロボットとは思えない身軽さで身を乗り出す。
「うわ、本当にエリンさんだ」「お久しぶりです」「こんにちは」
ルナ、メノリ、ハワード、シンゴ、ベル、シャアラも次々と立ち上がり、それぞれ挨拶をする。
エリンは少し照れくさそうに笑って、胸の前でひらひらと手を振った。
「みんな、久しぶり。元気そうで何よりね」
その笑顔に、ルナの胸のあたりがほっと温かくなる。
エリンが来てくれただけで、どこか心細さが和らぐ気がした。
「今日は最初から見てたんですか?」
ルナが尋ねると、エリンは小さく首を振る。
「ううん。少しだけね。用事のついでに寄っただけだから」
そう言って、彼女は肩から提げていたバッグをがさごそと探りはじめた。
そして、一冊の分厚い雑誌を取り出す。表紙には大きく「ロカA2居住区 不動産ガイド」と書かれていて、色とりどりの物件写真が並んでいる。
エリンはその雑誌を、すっとルナの方に差し出した。
「はい。ルナ、これ、リュウジに渡してくれる?」
「えっ? あ、はい!」
とっさのことで少し戸惑いながらも、ルナは両手で雑誌を受け取る。
手に伝わる重みと、紙のひんやりした感触。見ると、側面から黄色い付箋が一枚、ぴょこんと飛び出していた。
「そこに、付箋貼ってあるでしょ? そのページ」
エリンに促されて、ルナは雑誌をぱらぱらとめくる。
すると、付箋の挟まれた見開きのところで、ページがぴたりと止まった。
「どれどれ〜?」「お、なんや、部屋探しか?」「リュウジの新居か?」
メノリ、ハワード、シンゴ、ベル、シャアラ、チャコが、わらわらとルナの左右から覗き込んでくる。
肩と肩がぶつかり合い、雑誌が少し揺れた。
「ちょ、ちょっと、近いってば……!」
「ええやん、皆で見るもんやろ、こーゆーのは」
チャコがウチウチと笑いながら、目を光らせる。
ページには、柔らかなクリーム色の外壁をした三階建ての小さなアパートが載っていた。
ベランダには鉢植えが並び、その向こうにはロカの街並みの写真。
その横には、物件の情報欄が細かく並んでいる。
「リュウジに頼まれて、引っ越し先のアパートを見つけておいたわ」
エリンが、少し得意そうに言う。
「ソリア学園からは徒歩で十五分。ソーラ・デッラ・ルーナまでも近いわ。それに、このアパート、高台にあるから景色もいいの。
夜になると、街の灯りも、きれいに見えるわよ。家賃も、月六百ダールでいい物件よ」
「六百ダールでこの眺めと立地なら、かなりお得なんじゃないか?」
メノリが、管理者目線で冷静に値踏みをする。
「部屋もそこそこ広そうだな。ほら見ろよ、この間取り。ベッド置いても、まだスペースありそうだぜ」
ハワードが身を乗り出し、指で図面をなぞる。
「キッチンもきれい。窓が大きくて、光がたくさん入ってきそう」
シャアラが、どこか憧れを含んだ声を漏らす。
隣でシンゴも真剣な顔つきになっていた。
「設備も悪くないね。バスとトイレ別、ネット回線完備。住みやすそうだ」
「よくこんな場所知ってたわね、エリン」
クリスタルが感心したように目を細め、エリンを見やる。
彼女は少し離れた席から立ち上がり、手すりにもたれながら会話を聞いていた。
エリンは肩をすくめて、小さく笑った。
「まぁね。仕事柄、こういう物件情報にはちょっとだけ詳しくて。
とりあえずリュウジには『ここにしておきなさい』って伝えておいてくれる?」
「はい! ちゃんと渡しておきます。」
ルナは胸の中にふわりとした寂しさと、少しの期待が同居するのを感じた。けれど同時に、それが何か新しい一歩のようにも思えて、心がそわそわする。
「エリンさん、もう行っちゃうんですか?」
名残惜しそうな声で、シャアラが尋ねた。
エリンは腕時計にちらりと目を落とし、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんね。このあと、別の用事があって。
今度は時間を作って、ちゃんとゆっくりしに来るから」
エリンは軽く手を振りながら、通路の方へと向き直った。
通路の照明が、彼女の背中を縁取るように淡く光る。
「じゃあ、みんな。またね」
その一言を残して、エリンは出口の方へと歩き出した。
「……ちょっと待って」
ふいに、クリスタルが声を上げて席を離れた。
ルナたちが驚いて振り返るより早く、彼女は人の間を器用にすり抜けて、エリンの後を追う。
「クリスタルさん?」
ルナが小さくつぶやき、その様子を見守る。
◇ ◇ ◇
通路は、リング側の眩しさと比べると少し薄暗くて、足元灯だけが連なっている。
出口へと続くゆるやかなスロープを、エリンは一定のリズムで歩き続けていた。
「エリン!」
背後から名前を呼ばれても、エリンは歩みを止めなかった。
けれど、クリスタルが追いついて横に並ぶと、ちらりとだけ視線を寄こす。
「どうしたの?」
「ねぇ、リュウジの試合、見たんでしょ?」
クリスタルは歩幅を合わせながら、真正面を見据えたまま問いかけた。
「どう思った?」
「……どう、って?」
エリンは首を傾げ、少し考えるように視線を上に泳がせた。
足は止まらないまま、通路の空気だけがひんやりと二人を包む。
「開始から全部ってわけじゃないし……途中からだし」
「それでもいいの」
クリスタルは、唇をぎゅっと結ぶ。
「リュウジの闘い方、変だって思わなかった?」
その言葉には、どこか不安と苛立ちが混じっていた。
エリンは歩きながら顎に手を当てて、じっと前を見つめる。
「どうだろう……。リュウジの“格闘技の試合”って、実は見るの初めてなのよね、私」
「え?」
クリスタルが目を瞬くと、エリンは苦笑するように肩をすくめた。
「私が知ってるのは、あの“悲劇のフライト”の時の彼。
宇宙ジャックを撃退したときの、あの戦い方」
一瞬、空調の音だけが聞こえる。
エリンの目には、あの日の光景がよみがえっていた。
躊躇なく距離を詰め、相手の意識を奪い、急所を的確に叩き込んでいくリュウジ。
迷いなんて一切感じさせない、静かで冷たい動き。
「あのときの彼とは、確かに違うと思ったわ。
もっと……そうね、“殺すか殺されるか”っていう感じだったもの、あの時は」
エリンは目を伏せて、小さく息を吐く。
「でも、試合と殺し合いじゃ、変わるのは仕方ないと思う」
その言葉には、現実的な重さがあった。
クリスタルは、エリンの横顔を横目で見つめながら、黙って耳を傾ける。
「さっきのリュウジ、確かに本調子じゃない感じもした。
どこか気持ちが浮いてるっていうか……集中しきれてないっていうか」
「やっぱり、そう見えた?」
思わず、クリスタルの声が少し上ずる。
「でもね」
エリンはそこでふっと笑い、指を一本立てた。
「トレーニングもろくにしてなくて、あれだけ動けてれば、充分じゃない?」
「……充分、ね」
「身体のキレ自体は悪くない。足も止まってなかったし、目も死んでなかった。
ただ、意識ここに在らず、みたいな」
クリスタルは頭をかいた。
自分がさっきまで感じていた違和感を、言葉にしてもらったような気もして、しかしどこか釈然としない。
「まぁ、そうなんだけどさ……」
エリンの指摘はもっともだ。
だが、あのリングで見たリュウジの表情――一瞬だけ覗いた影のようなものが、クリスタルの脳裏から離れなかった。
(あいつ、何か隠しているような……
そんな、感じがしてたんだよな)
それは、勝ち負けのためというより――どこか、自分を誤魔化そうとしているようにも見えた。
「……私の考えすぎかな」
ぽつりと漏らすように言って、クリスタルは自分で自分の後頭部を軽く叩いた。
「変なこと聞いて、ごめん。エリンを引き止めてまでさ」
足を止めかけたクリスタルに対して、エリンは小さく首を振る。
「ううん。私も、気にはしておくから」
そう言って、真っ直ぐ出口の方を見据える。
扉の向こうからは、外の明るい光が細い線になって差し込んでいる。
「リュウジのことだから、何か背負い込んでるかもしれないけど……。
それでも、クリスタルがそばにいてくれるなら、少しは安心できるわ」
「……任されちゃったな」
クリスタルが苦笑すると、エリンも同じように口元だけで笑った。
「じゃあ、本当に行くわね。みんなによろしく」
「うん。ありがと、エリン」
エリンはそれ以上振り返らず、扉の向こうの光の中へと姿を消した。
◇ ◇ ◇
しばらく通路に一人で立ち尽くしたあと、クリスタルは小さく息をついた。
「……とりあえず、リュウジのとこ行くか」
自分にそう言い聞かせるように呟き、くるりと踵を返す。
再び観客席側へと足を向けながら、さっきの試合の光景を頭の中で繰り返し再生する。
リングに戻ってくるであろうリュウジの姿を想像しながら、
胸の奥のざらついた違和感を抱えたまま、クリスタルは彼の元へと歩き出した。