サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第7話

夕餉の時間がひと段落し、湖畔の焚き火も、ぱちりぱちりと時折小さな火の粉を弾く程度に落ち着いていた。仲間たちはスープを飲み終え、誰もがそれぞれの思いを胸に、静かな夜を過ごしている。そんな中、ルナはふと立ち上がった。

 

 「ちょっと……水を汲みに行ってくるね」

 

 そう言い残して場をアダムと離れると、夜の森の静けさがすぐに彼女を包み込む。大いなる木の影が湖面に映り、月光を反射してきらめいている。ルナは両手で頬を覆い、深呼吸した。

 

 ――だめだ、さっきのこと、頭から離れない。

 

 アダムがリュウジを指差し、自分の手を引っ張って、まるで当然のように二人で彼の元へ向かっていった。その時のリュウジの横顔。あの人がほんの少し口元を緩め、アダムを見下ろした瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 「ちゃんと見てたな」

 そう言ってアダムの頭を撫でた朝の光景を、みんなに話した時――驚きと同時に、私は心の中で誇らしかった。あの冷たく、どこか突き放すように見える彼にも、こんな優しい一面があるのだと。

 

 ――でも、それを見ていた自分の気持ちは?

 

 気がつけば、見惚れていたとまで口にしてしまった。仲間の前で、そんな言葉を。頬がまた熱を帯び、湖面に映る自分の顔がわずかに赤いことに気づき、ルナは慌てて目をそらした。

 

 (なんで私は……こんなに意識してるんだろう)

 

 もちろん、彼は頼りになる。冷静で、時には厳しくて、けれども確実にみんなを支えている。病み上がりの私のことを気遣ってくれた時も、さりげなく声をかけてくれた時も、心が温かくなった。

 

 それでも――「夫婦みたい」と茶化された時、胸の奥に走ったあの妙な痛みと熱。あれは一体なんだったのか。

 

 (私……リュウジのことを、特別に思ってる?)

 

 心の中で問いかけた瞬間、心臓がどくん、と強く鳴った。

 だめだ、認めたら戻れなくなる気がする。まだみんなと生きていくためにやることは山積みで、誰かを好きになるなんて余裕はないはずなのに。

 

 「……私、どうしたらいいんだろう」

 夜空を見上げながら、ルナは誰にも届かない声でそう呟いた。

 

 その頃、焚き火の周りでは、まだ仲間たちの会話が続いていた。

 

 

 湖畔の少し離れた場所で、リュウジは黙々と作業を続けていた。舟を漕ぐための櫂の点検をしながら、木片を削って調整している。湖面に月明かりが反射し、その光が刃物にきらりと映った。

 

 彼は耳を澄ますつもりなどなかった。だが、静かな夜気の中では、焚き火の周りから漏れる声は意外なほど鮮明に届く。

 

 「……本物の夫婦みたいやったなぁ」

 チャコの笑い声。

 

 「おいおい、腹痛いって!アダムが子どもで、リュウジとルナが親みたいだぞ!」

 ハワードのからかうような調子。

 

 リュウジは手を止めた。耳にした言葉が、心の奥に奇妙な引っかかりを残す。夫婦――そんな風に見られているのか。

 

 「でも、似てるっていうのはわかる」

 メノリの落ち着いた声が続く。「どこか似た者同士なんだろう、二人とも」

 

 リュウジは思わず眉を寄せた。似ている?自分と、ルナが?

 

 「リュウジはやっぱりモテるんか?」

 チャコの半ば冗談めいた問い。

 

 「初めて学園に来た時は大変だったよ」

 シンゴのため息混じりの声。「女の子たちが廊下に行列して、クラスに入れなかったくらいだ」

 

 「すぐに沈静化したけどな!」

 ハワードの大笑い。

 

 リュウジは知らず、刃物を握る手に力を込めていた。かつての学園での出来事――無関心を装い、距離を取ることでしか自分を保てなかった日々。軽々しく触れられたその過去に、ほんのわずか心がざらつく。

 

 だが、それ以上に胸を突いたのは、彼らがルナのことを「夫婦のようだ」と笑い、そして自然に受け入れていたことだ。

 

 ――自分とルナを、みんなはそう見ている。

 

 リュウジは胸の奥に妙な熱を覚えた。それは不快とも心地よいともつかない、形のない感情だった。彼自身、理解できないまま、ただ深く息をついて夜空を仰ぐ。

 

 その視線の先、少し離れた場所にルナの姿があった。湖面に映る月を見つめ、両手で胸を押さえるようにして佇んでいる。その横顔は、まるで何かに悩み、けれども小さな希望を抱いているように見えた。

 

 リュウジはふっと視線を逸らす。

 「……くだらない」

 そう口にしてみたが、心臓の鼓動が速くなっているのを誤魔化すことはできなかった。

 

 

 やがてルナとアダムが湖畔から戻ってくる。少し赤らんだ頬を隠すようにして、静かに焚き火の輪へ入ってきた。誰もが何も言わず、その場に流れる柔らかな空気を受け入れていた。

 

 遠くで、まだリュウジは作業を続けている。その背中はいつも通り無口で頑なに見えるのに、不思議と今夜は、誰もが彼の中にある優しさを感じ取っていた。

 

 ルナの胸の中では、先ほどの独白がまだ尾を引いていた。

 ――もしかしたら、私はもう彼のことを……。

 

 けれど、その思いを言葉にするにはまだ早い。仲間と共に生き抜く日々の中で、彼女はそっと心にしまい込んだ。

 

 その一方で、リュウジは仲間たちの声を聞いてしまったことで、否応なくルナの存在を意識し始めていた。

 ――自分と彼女を夫婦だと笑う声。

 その響きが耳から離れず、今夜の眠りをきっと浅いものにするだろう。

 

 焚き火の炎がぱちりと弾ける音の中で、二人の心はまだ言葉にできない距離を縮めつつあった。

 

⬜︎

 

リュウジは湖のほとりで手を止め、冷えた空気を吸い込んだ。焚き火の揺らめきと仲間の笑い声が遠くに響いてくる。ほんの少し前まで、自分に向けられる会話を耳にしながら、胸の奥でざわつくものを抑え込んでいた。

 

(……勘違いしているだけだ。協力しなければ死ぬ状況だから、表面上、俺に心を開いているにすぎない)

 

 仲間たちが自分を「少しずつ理解してきた」と思っているのかもしれない。しかしリュウジにとって、それはただの幻想だった。サバイバルの環境下で絆のようなものが錯覚として芽生えるのは当然だ。だが、その錯覚は本質を覆い隠す。自分は――罪人だ。その一点が変わることはない。

 

(俺に関わるな。……それが一番、あいつらのためでもある)

 

 湖に反射する月明かりを見てから、リュウジは焚き火のもとへ戻る決意をした。理由は単純だ。作業に必要な松明の灯りを分けてもらうためだった。

 

 焚き火に近づくと、仲間たちはまだ賑やかに話をしていた。自分の姿に気づくと、数人が一瞬表情を硬くする。リュウジはそんな反応に構うことなく、短く言い放った。

 

「灯りをもらう」

 

 焚き火の炎に松明をかざすと、火はじわじわと木の先端を舐め、ぱちりと音を立てて燃え広がった。その時だった。ポケットの奥で何かがするりと滑り落ち、地面に反射する光が走った。

 

「なんだ?」

 ハワードがいち早く気づき、かがんで拾い上げる。

 

 薄いカード状のそれを見た瞬間、彼の眉が動いた。

「どしたんや、ハワード?」

 チャコが首を伸ばして覗き込む。

 

 そしてカードを受け取った瞬間、驚愕の声を上げた。

「こ、これって……S級パイロットの宇宙飛行士証やないか!?」

 

 空気が凍った。焚き火の火の粉が宙を舞う中、ルナとカオルが同時に身を固くした。焦りの色が彼らの顔に滲む。しかし他の仲間たちは開いた口が塞がらない。

 

 S級パイロット――コロニーにわずか二人しか存在しない、特別な称号を持つ者。その第三の存在が、自分たちと共に生きているリュウジだったという事実。

 

「それって……すごいのか?」

 理解しきれないハワードの問いに、シンゴが説明口調で返した。

「すごいどころじゃないよ。S級は国家の象徴みたいな存在なんだ。普通の宇宙飛行士の百倍は選抜が厳しい。技術、精神力、体力……その全てが極限レベルじゃなきゃ選ばれない」

 

 ハワードはごくりと喉を鳴らし、チャコからカードを奪い返すように手に取った。

「でも……これって有効なのか?」

 

 言葉に迷いが滲む。だが、続く言葉はあまりにも無遠慮だった。

「だって、あいつ……悲劇のフライトで事故を起こしてるだろう」

 

 ピシリと空気がひび割れる。

「ハワード! いい加減にして!」

 突如としてルナの叱責が飛んだ。

 

 その声は鋭く、仲間たち全員が目を見開いた。ルナは真っ直ぐにハワードを睨みつける。彼女にとって、リュウジの過去を「事故」という一言で片づけることなど到底許せなかった。彼が背負う重みは、そんな軽い言葉で済むものではない。きっと、その裏に深い理由がある――そう信じていたから。

 

「な、何をそんなに怒ってるんだよ」

 ハワードは笑って誤魔化そうとするが、その横からカオルの鋭い声が飛んだ。

「あいつはそんな事故を起こす奴じゃない」

 

 本気の声だった。カオルの瞳には一点の迷いもなく、彼の憤りは焚き火の炎よりも熱を帯びていた。その迫力に、ハワードも思わず唾を飲み込む。

 

 さらにメノリが追い打ちをかけるように口を開いた。

「過去がどうであれ、私たちが知っているリュウジは……そんな人じゃない。それぐらい分かるだろう」

 

「なんで僕ばっかり責められるんだよ」

 ハワードが不満を漏らしたその瞬間――

 

 影が焚き火の輪に差し込んだ。

 そこに立っていたのは、松明を手にしたリュウジだった。

 

 一瞬にして、全員の心臓がドクッと跳ねた。

 

「や、やあリュウジ……これ、落としてたぜ」

 ハワードが慌てて証明書を差し出す。

 

「ああ」

 リュウジは短く応え、淡々とカードを受け取った。その仕草はいつもと変わらぬ無表情に見えたが、場を覆う緊張は解けない。

 

 そして――ハワードは、また余計な一言を口にした。

「そ、それって……まだ有効なのか?」

 

 瞬間、空気が張り詰めた。誰もが触れてはいけない領域を踏み込んだと直感する。

 

 リュウジの目が大きく見開かれ、鋭い視線がハワードを貫く。圧倒的な重圧に、場にいる全員が息を呑んだ。だが、その視線はふと横へ流れ――アダムの姿を捉える。

 

 次に放たれた声は、驚くほど静かだった。

「ただの紙切れだ。お前たちも知っているだろう?」

 

 淡々とした口調。しかし彼の体から滲み出る気迫は、誰もが息を詰めるほど鋭かった。

 

 それでもカオルが立ち上がり、震える声を抑えながら口を開いた。

「何か……理由があるんじゃないのか?」

 

 その問いに、リュウジの顔に影が落ちた。

 

「そんなものはない」

 冷たい声が返る。

「俺が……大勢の人間を殺したんだ」

 

 焚き火の音すら消えたかのように、場が静まり返る。

 

「俺は罪人だ。サバイバル生活も協力しているだけだ。……あまり俺に関わるな」

 

 突き放すように言い放ち、リュウジは背を向けた。松明の炎が彼の背中を赤く照らし、やがて闇に溶けていく。

 

 残された一同には、重苦しい沈黙が押し寄せた。やがて緊張が解けると同時に、どっと疲労感が広がる。その視線は自然とハワードに集まった。

 

「な、なんだよ……」

 居心地悪そうにハワードが目を泳がせる。

 

「ほんと、ハワードって余計なことしかしないよね」

 シンゴが冷ややかに告げる。

 

 ハワードは強がるように笑って返す。

「で、でも……そんなに怒ってなかっただろう?」

 

 確かにその言葉にも一理あった。怒りというより、違う感情がリュウジの中にあったように思えたからだ。だが、ルナは真剣な表情で首を振った。

 

「それは……アダムがいたからよ」

 

 全員の視線がルナに集まる。彼女は強い眼差しで言葉を続けた。

「本当は……怒っていたと思う。でも、アダムがいたから抑えたんだよ」

 

 リュウジが本気で怒ったら、その気配はきっと殺気となり、誰も近づけない冷気を放つだろう。けれど、何も知らないアダムにそれを浴びせることは、彼の中で許されなかった。ルナはそう確信していた。

 

 仲間たちが沈黙する中、ルナは立ち上がろうとした。リュウジの背を追いたい――そう思った。だが、不思議と足が重く動かない。

 

(リュウジ……どうして、そんなに自分を責めるの……)

 

 その問いは胸の中で繰り返され、夜の闇に溶けていく。

 

⬜︎

 

焚き火の輪を離れたリュウジは、松明の火が揺れる影の中を歩いていた。仲間たちのざわめきが背後に遠ざかり、やがて夜の森が彼を包み込む。木々の間を渡る風が冷たく頬を撫でるが、内側に渦巻く熱と痛みは、それをもってしても冷ますことはできなかった。

 

 胸の奥が、重い鉛のように沈み込んでいる。

 

(……やはり、こうなる)

 

 カードが落ちた瞬間、あの過去を思い出させられることは分かっていた。拾い上げられ、皆に見られた時点で、もう隠し通すことはできなかった。

 

 仲間たちの驚き、焦り、恐怖、好奇心――すべてが混ざった視線が突き刺さる。自分に向けられる憧憬にも似た色、そしてハワードの不用意な言葉。どれも彼にとっては、心の奥を乱す刃物でしかなかった。

 

(俺は……あの事故で、すべてを失ったんだ)

 

 あの夜のことは鮮明に覚えている。計器の警告音、仲間の叫び、船体を襲う衝撃。目の前で消えていく大勢の命――それを守れなかった己の無力。そしてその後、冷酷な視線と非難の嵐にさらされる自分。

 

 「英雄」と呼ばれた時間は一瞬で崩れ去り、気づけば「罪人」として扱われていた。

 

 彼にとってあの証明書は、栄誉ではなく呪いの象徴に過ぎなかった。

 

(ただの紙切れ……そうだ。あれはもう、意味を持たない)

 

 声に出した自分の言葉を思い返し、リュウジは口元を歪める。だがその言葉が、どれほど自分の心を抉ったかは、誰にも知られない。

 

 夜の森は静かだ。虫の羽音が耳に触れるたび、リュウジの心は過去の残響と重なり合い、苛烈な記憶を呼び覚ます。

 

 自分は人を殺した。大勢の人間の命を、自分の不始末で奪った。……その事実だけは、どれほど否定されても変わらない。

 

「……だから関わるな」

 

 仲間たちに投げつけた言葉を、再び呟く。突き放すことこそが彼らを守る唯一の方法だと信じていた。

 

 だが――

 

(あの子の前では……声を荒げることができなかった)

 

 アダム。まだ幼い少年。無垢な瞳でこちらを見つめ、恐怖も打算もなく、自分を追いかけてくる存在。彼の肩越しに見えたその純粋さが、リュウジの怒りを縛り付けた。

 

 本当は叫びたかった。過去を抉られた怒りを吐き出し、すべてを拒絶したかった。だがアダムがそこにいたから、できなかった。――それは弱さか、それとも人間らしさか。

 

(俺は……守ろうとしているのか? アダムを……)

 

 自嘲が漏れる。自分にそんな資格があるのか。自分の手は血で汚れているというのに。

 

 そして――

 

 脳裏に浮かぶのは、ルナの顔だった。

 

 焚き火の前で、彼女は誰よりも強くハワードを叱った。自分の過去を「事故」と呼ばれることに耐えられなかったのだろう。あの瞳は真剣で、まるで自分を必死に守ろうとしているかのようだった。

 

(なぜ……そこまで俺を信じようとする?)

 

 理解できなかった。普通ならば、自分のような過去を持つ人間を遠ざけるはずだ。それなのに、彼女は逆に歩み寄ろうとしてくる。

 

 刃物を研ぎ終えたあの朝、アダムを見守る彼女の横顔を思い出す。自分の仕草に、彼女はほんの一瞬見惚れたような表情を浮かべていた。あの時、胸の奥がざわついたのはなぜだろうか。

 

 そして今夜、彼女は「本当は怒っていたけど、アダムがいたから抑えた」と見抜いたに違いない。――ルナは、自分の内側をあまりにも見すぎている。

 

(やめろ……これ以上踏み込むな)

 

 心の奥底でそう願うのに、願いとは裏腹に彼女の存在が大きくなっていく。頬の熱、胸の高鳴り――それは生き延びるための緊張とも違う、もっと個人的で危うい感情だった。

 

 リュウジは額を押さえ、吐息を漏らす。

 

「俺は……罪人だ。ルナ、お前が思っているような人間じゃない」

 

 夜の闇に言葉が溶けていく。誰に届くこともない独白。

 

 足元に転がる石を蹴ると、乾いた音が響いた。彼はその音に救われるように、一歩を踏み出す。

 

 仲間たちはきっと、今も焚き火の周りで自分について話しているだろう。驚き、恐れ、あるいは失望――そのどれもが構わなかった。ただ一つ、彼が恐れるのは「信じられる」ことだった。

 

(俺を英雄だと思うな。俺を頼るな。……俺に関わるな)

 

 そう繰り返しながらも、リュウジの心の奥では矛盾が渦巻いていた。

 

 ――もし、ルナやアダムが自分から離れていったら。

 

 その想像をした瞬間、胸の奥が締め付けられた。孤独に慣れているはずなのに、今さら何を恐れているのか。

 

 彼は頭を振り、森の奥へ歩みを進めた。松明の火が影を伸ばし、闇の中で揺れ続ける。

 

 その姿は、過去に縛られた亡霊のようでもあり、同時に誰かを守ろうともがく人間のようでもあった

 

⬜︎

 

リュウジの背中が、闇に溶けるように消えていった。

 焚き火の光が届くのはほんのわずかで、彼の姿が完全に見えなくなったとき、ルナの胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚が広がった。

 

 追いかけたい――その衝動は確かにあった。

 焚き火のそばに座っていた膝が、無意識に前へと動こうとしたほどだ。立ち上がりさえすれば、まだ追いつける。呼べば、振り返るかもしれない。あの背中を見失う前に、声をかければ……。

 

 けれど。

 

 ルナの足は、焚き火のそばから一歩も動かなかった。

 重たく、地面に縫いとめられてしまったかのように。

 

(どうして……?)

 

 自分でもわからない。心は走り出そうとしているのに、体が拒む。焦燥が胸をかきむしり、息苦しさが押し寄せる。

 

 焚き火がぱちりと弾け、橙色の火花が宙を舞った。炎の揺らめきの向こうに残る残像が、まだリュウジの背を追いかけている気がして、ルナは唇を噛んだ。

 

 彼は、ただ遠ざかっただけじゃない。

 自分たちから、自分から――離れようとしている。

 

「……っ」

 

 喉の奥に熱が込み上げる。叫び出したいのに、声にならなかった。

 

 隣にいたアダムが、不安げにこちらを見上げていた。ルナは慌てて微笑んでみせたが、その笑みは自分でもわかるくらい不自然だった。心の奥の動揺を隠そうとしても、胸の鼓動が速すぎて落ち着けない。

 

 リュウジが「近づくな」と言ったときの声。

 カードを拾い上げられたときの硬直した表情。

 そして、アダムにだけ見せた、あの一瞬の優しさ。

 

 全部が胸の奥で絡まり合い、ルナを混乱させる。

 

(追いかけたい……でも、どうして足が動かないの?)

 

 思考は堂々巡りを繰り返す。

 焚き火の明かりに照らされながら、ルナは両膝を抱きしめ、肩を小さく震わせた。

 

 思えば、リュウジと出会ってから、自分は何度もこうして胸をざわつかせてきた。

 彼が時折見せる冷たさに傷つき、けれど、その裏側に隠された痛みに触れるたび、どうしようもなく惹かれていく。

 

 あの夜――彼を救ったときに見せた絶望の表情が、今も脳裏に焼き付いている。助けたいと思った。放っておけないと感じた。あの時から、ルナはもうリュウジのことを「ただの仲間」だと思えなくなっていた。

 

 そして今夜、仲間たちの前でさらけ出された彼の「過去」。

 それは彼にとって呪いのような重荷であり、触れてはいけない傷跡。わかっているのに、ルナはその奥を知りたいと願ってしまう。

 

(リュウジのこと……知りたい。もっと知りたい)

 

 でも、追いかけて、声をかけてしまえば――。

 彼はきっと、また拒絶するだろう。自分を守るために、あるいは仲間たちを遠ざけるために。

 

 拒絶される恐怖が、足を止めていた。

 

「……私、怖いんだ」

 

 小さく呟いた言葉は、炎にかき消されるように夜気に溶けていった。

 追いかけたいのに、怖い。知りたいのに、拒絶されるのが怖い。

 

 それでも、胸の奥に確かにある想いは、消えてくれない。

 彼の痛みを分かち合いたい、孤独を抱え込む彼の傍にいたい――そんな願いが、熱となってルナの胸を焦がす。

 

 頬が熱い。心臓が早鐘を打っている。

 さっき、チャコとハワードに茶化された言葉がよみがえる。

 

「まるで夫婦やな」

 

 その言葉を思い出した瞬間、胸の鼓動がさらに跳ね上がった。火照りは頬から首筋に広がり、呼吸まで浅くなる。――否定したい。けれど、完全に否定できない自分がいる。

 

(私……そんなふうに見られてもいいって、思っちゃったの……?)

 

 怖い。でも、嬉しい。拒絶されるのが怖いのに、同時に彼の傍にいる自分を誰かに認めてもらいたいと願っている。

 

 矛盾だらけの想いに、ルナは胸を押さえた。

 じんじんと熱を帯びる鼓動は、抑えようとしても抑えられない。

 

 夜の森に目を向ければ、そこにはもうリュウジの姿はない。

 だが彼が歩んだ闇の先へと、自分の視線だけは釘付けになったままだった。

 

(追いかけられなかった……でも、きっと私は、また彼を探す。何度でも)

 

 その決意を胸に抱きながら、ルナはゆっくりと膝を抱きしめた。

 炎のぬくもりに身を預けながら、彼女の胸の奥では、恐れと願いと憧れが絡まり合い、眠れぬ夜を約束していた

 

⬜︎

 

夜はひどく長かった。

 焚き火の赤い光がだんだんと弱まり、冷え込む風が木々の葉を揺らしても、ルナのまぶたは一度も完全に閉じられることはなかった。

 

 浅い眠りに落ちても、すぐに胸の高鳴りや重苦しい不安に引き戻される。夢と現実の境目で、彼の背中を何度も追いかける幻を見た。だがそのたびに伸ばした手は空を掴み、彼の姿は闇に溶けて消えてしまう。

 

 ――そして迎えた朝。

 

 森の木々の間から、薄い光が差し込み始める。鳥の声が早起きした仲間たちを起こしていたが、ルナはすでに夜明け前から目を覚ましていた。

 

 膝を抱えたまま、誰よりも早く立ち上がる。リュックの紐をきゅっと握り直すと、焚き火跡に残る灰を見つめた。昨夜、あの火の前で心が凍りつき、足が動かなくなったことを思い出す。

 

(もう……あんなふうに立ちすくんでいるのは嫌だ)

 

 決意が胸に芽生える。

 恐れもある。拒絶されるかもしれない。冷たい目を向けられるかもしれない。けれど、それでも。

 

(それでも私は……リュウジのことを知りたい)

 

 夜明けの光を浴びて、頬を軽く叩く。

 そうやって気持ちを奮い立たせると、ルナは拠点の中をそっと歩き出した。

 

 まだ皆が眠っている。メノリもベルも、シンゴでさえも小さな寝息を立てている。アダムは丸まった体で安らかに眠っていて、その姿を見てルナの表情が少し和らぐ。

 

(アダム……きっとあなたも、リュウジのことを気にしてるよね)

 

 昨夜、彼が自分の服を引っ張ってリュウジの元へ導いた光景が蘇る。あのときのアダムの瞳は、信頼そのものだった。無邪気にリュウジを慕う姿を思い出すたび、ルナは胸の奥に小さな勇気をもらえた。

 

 拠点の外に出ると、朝露の匂いが漂う。足元の草は冷たく濡れていて、踏みしめるたびにしっとりとした感触が靴を通して伝わってくる。

 

 遠くで、かすかに水音がした。

 湖のほとり。リュウジが朝の作業を始めているのだと、すぐに分かった。

 

 胸がぎゅっと締め付けられる。

 昨夜の光景がよみがえり、心臓の鼓動が強くなる。だが今回は足が止まらなかった。

 

 一歩ずつ――それでも確かに――彼のもとへ進んでいく。

 

 湖に近づくと、リュウジの背中が見えた。

 やはり彼は夜通し休んでいなかったのだろう。疲れを隠すようにして、黙々と木材を切り揃えていた。淡い光の中で、その姿はどこか孤独な影のように映る。

 

(リュウジ……)

 

 名前を呼びそうになって、ルナは唇を噛んだ。

 まだ心の準備が整っていない。声をかければ振り返ってくれるだろうか。振り返ったとき、彼はどんな顔をするのだろう。

 

 しばらく立ち尽くしていたが、やがてリュウジの手が止まった。ふと気配に気づいたのか、彼がゆっくりと顔を上げる。

 

 視線が合った。

 

 その瞬間、胸の鼓動が一気に早まった。

 けれど、昨夜と違いルナは逃げなかった。

 

「……おはよう、リュウジ」

 

 ようやく絞り出した声は少し掠れていたが、はっきりと彼に届いた。

 リュウジはわずかに目を細めた。驚きでも嘲笑でもない。ただ、無表情のまま頷いた。

 

「……ああ」

 

 それだけ。

 けれどルナにとって、その一言は充分だった。拒絶ではなく、確かに返ってきた言葉だったから。

 

 勇気を振り絞るように、ルナは彼の隣に歩み寄る。手伝うつもりで手を伸ばすと、リュウジは一瞬ためらうように彼女を見たが、何も言わずに木材を差し出した。

 

 それだけで胸が熱くなる。

 彼に必要とされたい。認めてもらいたい。そんな欲が、自分の中にあることをルナは痛いほど自覚していた。

 

 二人で黙々と作業を続ける。言葉は少ない。だが夜明けの静けさの中、二人の呼吸だけが不思議と調和していた。

 

(きっとまだ、全部を知ることはできない……でも、私は諦めない)

 

 昨夜、足が動かなかった後悔を胸に刻んだからこそ、ルナは今こうして隣に立てている。

 湖面に朝日が反射し、二人の影が水面に寄り添うように映った。

 

 それを見つめながら、ルナは小さく微笑んだ。

 

⬜︎

 

季節が確実に移ろい始めていた。

 朝の空気はこれまで以上に冷たく、湖面に漂う靄は昼近くになっても消えずに残り続けるようになった。森の奥から聞こえてくる鳥の声も数を減らし、食料として集められる果実や木の実は日に日に小さく、硬くなっていく。

 

 それでも仲間たちは、明日を生きるために動き続けなければならない。

 

 ある朝、ルナは拠点に積み上げられた収穫籠を覗き込み、無意識に小さく溜息を漏らした。

 籠の中には、細い根菜と半分しなびた果実がいくつか並んでいるだけ。以前なら一日で満たせていた量が、今は三日分をかけてもこれだけしか集まらない。

 

「……これじゃあ、また誰かが分を減らさないと」

 

 その呟きに、傍で作業していたメノリがすぐさま振り返った。

 

「ルナ、そんな顔をするな。きっと方法はある。畑の方だって、もう少ししたら根が太ってくるかもしれない」

 

 励ましの言葉にルナは笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉が重たかった。

 ――寒さ。食料不足。迫る冬。

 心の奥底に巣くう不安が、どうしても消えてくれない。

 

 そのとき、背後から軽やかな足音が駆けてきた。

 

「ルナ!」

 

 振り返ると、そこにはアダムがいた。幼い少年の顔には泥がついているが、目はきらきらと輝いている。

 

「どうしたの、アダム?」

 

 問いかけると、アダムは少し息を切らしながら、震える声で言葉を紡いだ。

 

「……とれた!」

 

 一瞬、時間が止まったように感じられた。

 仲間たちの視線が一斉にアダムへ向く。

 今まで声を発することのなかったアダムが――初めて、自分の意思で言葉を発したのだ。

 

「ア、アダム……今……」

 

 メノリの声が震える。シャアラは両手で口を覆い、シンゴは「すげえ……!」と目を丸くした。

 

 ルナは心臓が跳ねるのを感じながら、そっとアダムに近寄る。

 

「……今、『とれた』って言ったの?」

 

 アダムは大きく頷いた。小さな手の中には、森で拾ってきたらしい硬い木の実が握られている。ほんの一つ。それでも彼にとっては大きな戦果なのだろう。

 

 ルナの瞳に涙が滲んだ。

 ずっと言葉を閉ざしてきた少年が、自分の力で一歩を踏み出した。

 

「えらいわ、アダム!」

 

 思わず抱きしめると、アダムはくすぐったそうに笑った。

 その声に、仲間たちの胸も温かく満たされていく。

 

 ――しかし。

 その温もりは、吹き付ける風の冷たさによってすぐに現実へ引き戻される。

 

 日を追うごとに寒さは増し、焚き火の炎を囲んでいても体の芯まで温まらなくなってきた。夜になると湖の表面には薄い氷が張り始め、朝に汲む水はひやりとした刃のように冷たかった。

 

 アダムは特に冷えに弱く、小さな体を毛布に包んでいても、夜中に震えて目を覚ますことがあった。

 

 ある晩のこと。

 リュウジは拠点の外で木材を切り揃えていた。冬に備えて薪を増やす作業だ。手にしている斧の刃は月明かりに鈍く光り、振り下ろすたびに乾いた音が響く。

 

 その近くで、アダムが毛布を引きずるようにして歩いてきた。小さな鼻先が赤く、震える手で毛布を握りしめている。

 

「……アダム?」

 

 リュウジが声をかけると、アダムはこくりと頷いた。だが唇は小さく震え、言葉は続かなかった。

 

 リュウジはしばらく黙って彼を見ていたが、ため息を一つつくと、自分の上着を脱ぎ、無言でアダムの肩に掛けた。

 

 大きすぎるその上着は、アダムの体をすっぽりと包み込む。

 

「寒いなら、これ着とけ」

 

 低い声。ぶっきらぼうな口調。

 けれどその手つきは驚くほど優しかった。

 

 アダムは驚いたように目を丸くし、次第に顔をほころばせていく。

 

「……あったかい」

 

 かすかに漏れた声に、リュウジは眉を動かしたが、それ以上何も言わなかった。ただ再び斧を握り、作業を再開する。

 

 遠くからその様子を見ていたルナは、胸が締め付けられるのを感じていた。

 ――やっぱり、リュウジは優しい。

 口では突き放しても、行動では決して見捨てない。

 

 その背中に視線を向けながら、ルナの心は複雑に揺れていた。

 

(こんなに人を思いやれるのに……どうして、自分のことだけは許そうとしないの……?)

 

 仲間たちが少しずつ笑顔を取り戻していく一方で、リュウジの背中はますます孤独に見えた。

 

 夜が更けていく。

 アダムはリュウジの上着にくるまれたまま、安心したように眠りに落ちた。その寝顔を見ていたルナは、心の奥で小さく誓う。

 

(冬が来ても、どんなに苦しくても……私はリュウジの隣に立つ。彼をひとりにしない)

 

 冷たい風が木々を揺らし、焚き火の炎がぱちぱちと音を立てる。

 やがてその音に混じるように、誰かの寝息と、遠くで鳴く夜鳥の声が静かに響いた。

 

 冬は確実に近づいている。

 食料の不足も寒さの厳しさも、まだ序章にすぎない。

 だが仲間たちは、アダムの初めての言葉と、リュウジの小さな優しさに支えられ、かすかな希望を胸に前を向いていた。

 

⬜︎

 

冷え込みは日に日に厳しくなり、朝の空気は肺を突き刺すような冷たさを帯びていた。大いなる木を拠点にしてから幾度もの夜を過ごしてきた仲間たちは、焚き火の火が小さくなるたびに、凍える恐怖を味わうようになっていた。

 

 冬が来る。

 それは誰の胸にも、はっきりとした形で迫りつつあった。

 

 女性陣は寒さに備え、古いシャトルの残骸へと向かった。長らく風雨に晒され、機能を失った機体。その中からシートや布地を剥ぎ取り、針と糸の代わりに骨や木片を削った簡易の道具を使い、上着を仕立てていく。

 

 メノリは器用な手つきで布を折り合わせ、シャアラはその端を押さえて固定する。ルナも隣に座り、時折ほつれを引き締めたり、切れ端をまとめたりと手を動かしていた。

 

「これで少しは、寒さをしのげるかしら……」

 

 ルナが呟くと、シャアラが疲れた笑みを浮かべて頷いた。

 

「でも全員分作るには、シートが足りないね」

 

「そのときは、分厚い葉を重ねて縫い付ければいい。あの大きな葉なら、多少の防寒にはなるはずだ」

 

 メノリの提案に皆が同意する。彼女の冷静さは、こうした状況では大きな支えだった。

 

⬜︎

 

 ベルが拠点に戻ってきた。彼の顔は真剣そのもので、背中には小さな薪をいくつか抱えている。

 

「みんな、ちょっと聞いてほしい!」

 

 声を張り上げると、仲間たちの手が止まり、視線が集まる。ベルは胸いっぱいに息を吸い込み、言葉を続けた。

 

「このまま大いなる木の上で過ごすのは危険だ。冬が本格的になれば、ここじゃ絶対に耐えられない。……どこか、洞窟を探して引っ越すべきだ」

 

 その言葉に、拠点は一瞬ざわめいた。

 シンゴは「洞窟?」と首を傾げ、シャアラは不安げに顔を曇らせる。

 

「ベル、気持ちは分かるけど……」

 

 メノリがため息をつき、冷静に口を開いた。

 

「今は食料を集めることのほうが大事だ。冬に備えるには、何より食べ物を蓄えなくてはならない」

 

 すかさずハワードも同意する。

 

「その通りだ。洞窟を探す時間があるなら、少しでも狩りや採集に回した方がいい。燃料も食料も足りないんだ」

 

 ルナも腕を組み、思案顔でベルを見つめた。

 

「……それに、洞窟なんてそんな簡単に見つかるのかしら? 危険な獣が住んでる可能性だってあるわ」

 

 彼女の現実的な疑問に、多くの仲間が頷いた。

 

 しかし、そのときだった。

 これまで黙っていたリュウジが、焚き火の影からぼそりと口を開いた。

 

「……洞窟なら、知ってる」

 

 静かな声だったが、全員の耳にしっかり届いた。

 視線が一斉に彼へ注がれる。ルナの胸も小さく跳ねた。

 

「リュウジ……本当?」

 

 ルナが尋ねると、彼は小さく頷いた。

 

「前に食料を探して森を歩いたとき、岩場の奥に洞窟を見つけた。中を覗いたが、深さはそれほどでもない。……だが湿気がひどくて、苔や岩が多かった」

 

 その報告に、仲間たちは再びざわめく。

 

「洞窟……!」とベルは目を輝かせ、すぐに言葉を重ねた。

 

「だったら明日にでも見に行こう! 実際に確かめればいい!」

 

 あまりの勢いに、ルナは思わず苦笑いを浮かべた。

 

「ベル……。でも、行くだけなら悪くないかも」

 

 彼女の言葉に、皆も渋々同意した。

 

⬜︎

 

 翌日。仲間たちはリュウジの案内で森を抜け、岩場へと向かった。大いなる木からそう遠くはなく、途中には小さな小川が流れている。水場があるというのは大きな利点だった。

 

 やがて辿り着いた洞窟の入口は、木々に覆われてひっそりと口を開いていた。

 

「ここだ」

 

 リュウジが指し示す。ベルは真っ先に中へ入り、興奮した声を上げた。

 

「すごい……! 本当に洞窟だ! ここなら寒さをしのげる!」

 

 しかし中に足を踏み入れたルナは、すぐに眉をひそめた。

 壁や床には分厚い苔が広がり、じっとりと湿気を帯びた空気が肌にまとわりついてくる。冷気もこもっており、火を焚いたとしても煙が充満しそうだった。

 

「……これじゃあ、とても住めそうにないわ」

 

 ルナの声は厳しかった。

 

「湿気がひどすぎる。大いなる木で過ごした方がまだましだと思う」

 

 その意見にメノリも頷き、ハワードも同調する。

 

「ルナの言う通りだ。食料だって足りないのに、こんな場所の整備に時間をかける余裕はない」

 

 シンゴやシャアラも不安げに頷き、否定的な空気が洞窟の中に広がった。

 

 だがベルは、瞳を輝かせながら首を横に振った。

 

「違う! ここはうってつけの場所だ! 苔なんて剥ぎ取ればいい。岩だって運び出せば片付く。何より近くに水場があるのは大きいんだ!」

 

 力強く断言するベルに、仲間たちの反対の声が重なる。

 

「そんな時間はない!」

 

 ハワードが声を荒げると、ベルの顔が一瞬歪んだ。

 

「みんなで協力すれば、なんとかなるはずだ!」

 

「現実を見ろ、ベル!」

 

 議論は堂々巡りになった。ルナは黙って二人を見つめながら、胸の中でため息をついた。

 ――ベルの情熱は理解できる。けれど、それが今の現状にそぐわないのも事実。

 

 やがて皆から反対の声を浴びせられ続けたベルは、唇を噛み、そして小さく呟いた。

 

「だったら……俺ひとりでやるよ」

 

 その言葉に、場の空気が凍り付いた。

 

「ベル……」

 

 ルナの呼びかけに、ベルは振り返らなかった。ただ洞窟の奥を見据え、拳を強く握りしめていた。

 

⬜︎

 

その夜。

 焚き火の炎が小さくなり、仲間たちの寝息が大いなる木の上に静かに響く頃。ベルは一人、荷物をまとめて洞窟へと足を運んでいた。

 

 手には削った木の棒や、古びた布、拾い集めた石片。

 それらはどれも未熟な道具に過ぎなかったが、彼の胸の中には「ここを住める場所に変えてみせる」という強い決意が渦巻いていた。

 

(みんなが反対するのも分かる。でも、このままじゃ冬は越せない。俺がやらなきゃ……誰もやらないんだ)

 

 苔むした洞窟の入口に立つと、夜気の冷たさと湿った空気が同時に頬を撫でた。ベルは小さく身震いしながらも、中へと足を踏み入れる。

 

 床一面に広がる苔を棒で削り取ろうとする。だが、思うように剥がれない。力を込めすぎれば棒が折れ、苔を掴もうとすれば指先にぬめりがまとわりつく。

 

「……くそっ」

 

 ベルは歯を食いしばり、必死に苔を引き剥がした。手のひらはすぐに痛み、爪の間には泥と緑の塊が入り込む。それでも彼は手を止めなかった。

 

 やがて息が上がり、膝をついた。

 洞窟の中は静かで、自分の荒い呼吸だけが響いている。

 

 ――そのときだった。

 背後から、わずかな足音が響いた。

 

「……誰だ?」

 

 振り返ったベルの視線の先に、暗闇を切り裂くように松明の灯が浮かんだ。

 そこに立っていたのは、リュウジだった。

 

「リュ、リュウジ……」

 

 ベルの声は驚きと戸惑いに揺れていた。

 

 リュウジは答えず、松明を洞窟の壁に掛けるように立てかけた。そして無言のまま、腰に差していたナイフを抜き、床の苔を鋭く削ぎ落とし始める。

 

 刃先が苔を切り裂く音が、洞窟に乾いた響きを広げた。

 その動作は正確で、無駄がなく、まるでずっと以前から同じ作業をしてきたかのようだった。

 

「……なんで?」

 

 ベルが問うても、リュウジは何も言わなかった。ただひたすらに苔を削ぎ、岩を動かし、湿った空気を外に逃がすように作業を続けた。

 

 ベルは唇を噛み、やがて黙って彼の隣に並んだ。二人の手が交差するように動き、洞窟の床から少しずつ苔の色が消えていく。

 

 

 時間が経つにつれ、二人の息は白く濃くなっていった。

 作業の合間、ベルの喉からぽつりと声が漏れた。

 

「……みんな、反対してるのに。どうして手伝ってくるんだ?」

 

 リュウジは刃を動かす手を止めずに答えた。

 

「……余計なことを考えるな」

 

 短い言葉。

 しかしその声には、冷たさよりも、奇妙な温かさが滲んでいた。

 

 ベルは胸の奥がじんと熱くなるのを感じ、目を伏せた。

 

 

 数時間後。

 洞窟の床の半分ほどが苔から解放され、湿った岩肌が露わになっていた。湿気はまだ残っていたが、確かに「手を入れれば住めるかもしれない」という希望が形になりつつあった。

 

 ベルは疲れ切り、壁に背を預けて座り込んだ。肩で荒く息をしていると、リュウジが松明を手に取り、洞窟の奥を見渡す。

 

「……岩をどかすには、もっと道具が要るな」

 

 ぼそりと呟き、彼は洞窟の外へ視線を投げた。

 その言葉に、ベルは思わず笑ってしまった。

 

「やっぱり、やる気なんじゃないか……」

 

 リュウジは答えず、ただ冷たい瞳を細める。

 だがその横顔には、否応なく「本気で助けるつもり」が滲んでいた。

 

 

 夜が明ける頃。

 ベルが疲れて眠り込むと、リュウジは黙って上着を脱ぎ、彼の体に掛けた。

 

 冷たい洞窟の空気の中で、その布切れ一枚はささやかだが確かな温もりをもたらした。

 

 ベルは眠りながら、微かに笑みを浮かべた。

 リュウジは一瞥しただけで、再び外の闇へと歩み去っていった。

 

⬜︎

 

朝の冷気が、まだ眠たげな森の空気を覆っていた。霜が地面に白く張りつき、木々の枝先には氷の粒がちらちらと光を反射している。大いなる木の周囲では、仲間たちが今日の作業を始めようとしていた。

 

 ルナは慌ただしく食料の整理をしている仲間たちの中で、ふとリュウジの姿を探した。その目に映ったのは、肩に上着を着ていないリュウジの背中。薄手のシャツ一枚で、冷たい風を受けながら黙々と作業の準備をしている姿だった。

 

「リュウジ……大丈夫なの?」

 

 思わず小声で呼びかけるルナ。だが、リュウジは振り返ることもなく、荷物や道具の準備に集中している。ルナは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。

 

「寒くないのかしら……?」

 

 心の中で問いかけながら、ルナは自分でも息を呑む。風に吹かれて彼の肩がわずかに震えるのを見て、胸の奥で不安が膨らむ。霜に覆われた地面を踏み、冷たい風が頬を刺すたびに、ルナの心拍が速まる。

 

「……ほんとに、何も言わないんだから……」

 

 そう独り言のように呟く。言えばきっと「大丈夫だ」と答え、作業を続けるだろうことは分かっている。しかし、目の前の無防備な背中を見ていると、何もせずにはいられない気持ちになる。

 

 その時、チャコが遠くから声をかけた。

 

「おい、リュウジ!薄着で作業しとるけど、寒くないんか!?」

 

 ハワードもすぐに後に続く。

 

「マジで?そんな格好で行くつもりかよ!俺なら一発でガタガタ震えて倒れてるぞ!」

 

 ルナは胸の奥で小さく安堵する。仲間たちの声が、リュウジを守ろうとする自分だけの焦りを少しだけ和らげてくれる。

 

 リュウジは作業を止めず、淡々と荷物を整え、ナイフや袋の中身を確認する。その動きは無駄がなく、寒さで指先がかじかんでいるはずなのに、まるで問題ないかのように見えた。

 

 リュウジは肩をすくめ、言葉少なに

 

「動けば暖かくなる」

 

 とだけ答える。ルナはその声を聞き、胸の奥が少しだけ強張るのを感じた。彼がそう言うたびに、余計に心配が膨らむのだ。

 

「……いや、でも見てるだけじゃ心配だわ……」

 

 ルナは心の中で自分に呟き、どうにか気を紛らわせようと周囲に視線を巡らせる。アダムはまだ椅子に座り、枝や葉を集めて遊んでいる。小さな手でシャトルのシートを器用に扱い、上着の試作を楽しんでいる姿は微笑ましい。ルナはそちらに一瞬視線を移し、少し安心する。

 

 一方で、ハワードは興奮気味にリュウジの薄着をからかう。

 

「おいおい、寒そうだぞ!リュウジ、これで本当に行くのか?」

 

 それに対してシンゴが冷静に言う。

 

「大丈夫だと思うけど、リュウジは意外と我慢強いし……」

 

 カオルも横でうなずく。

「だが、あの背中を見ると心配になるのは仕方ないと思う」

 

 ルナは仲間たちの会話を聞きながらも、自分の心の中で葛藤していた。追いかけて止めるべきか、それとも見守るべきか。胸の奥がざわざわと高鳴り、冷たい風が頬を刺すたびに、さらに不安が膨らむ。

 

 リュウジは準備を整えると、すぐに食料集めに向かおうと動き出す。薄手のシャツが肌に貼りつくように揺れるたびに、ルナは息を詰めた。彼の動きが慎重で、冷たい風や霜をものともしていないように見えても、胸の奥では心配でいっぱいになる。

 

「……行っちゃうのね……」

 

 小さく独り言をつぶやきながら、ルナはその後ろ姿を追った。仲間たちもそれぞれ声をかけながら、冬の作業を始めている。

 

「リュウジ、大丈夫か?手、冷たないか?」チャコが遠くから声をかけると、リュウジは振り向きもせず、ただ手を動かして応じるだけ。

 

 ルナも小さく頷くが、胸の奥はざわついたままだ。

 

 リュウジが森の中に入っていく姿を見送るルナ。手を伸ばせば触れられる距離にいながら、冷たい風と不安の中で、どうしても声をかけることができない。彼の無言の強さと、薄着で活動する無防備さが、胸の奥の高鳴りをさらに押し上げる。

 

(……本当に大丈夫なのかな……)

 

 ルナは心の中で何度も問いかける。しかし、リュウジは「問題ない」と言った。その言葉が、彼女の不安を完全に消せるわけではない。胸の奥のざわつきは消えず、むしろその言葉でさらに膨らむ。

 

 仲間たちは笑い声を上げながら作業を進める。アダムは小さな手で枝や葉を扱い、シャトルのシートで作った上着を楽しげに試す。チャコやハワードはリュウジをからかいながらも、心配を隠せずに視線を送る。ルナはその会話の中に入りながらも、視線は常にリュウジの背中に固定される。

 

 霜で滑る地面を慎重に歩く彼の姿を見ながら、ルナは胸の奥の高鳴りを感じ、無意識に息を詰める。彼がどれだけ強くても、寒さや危険が彼の身体を蝕むのではないかと心配する。

 

 リュウジはそのまま森の奥へと進んでいく。ルナは足を止め、仲間たちの声を聞きながらも、自分の心の中で葛藤する。追いかけるべきか、それとも見守るべきか。胸の奥がざわつき、冷たい風が肌を刺すたびに、心配がさらに膨らむ。

 

 そのまま数分が過ぎ、リュウジは視界の奥へと消えていった。ルナは深く息をつき、胸の奥に残る高鳴りと不安を抱えながら、今日の作業に目を向けるしかなかった。

 

⬜︎

 

三日という時間は、決して長くはないはずだった。けれども、この惑星の季節の移ろいの前では、その三日が確かな重みを帯びて積み重なっていく。朝晩の冷え込みは日に日に鋭さを増し、仲間たちの吐く息は白く、会話の端々に寒さをこらえる声が混じるようになっていた。

 

 食料の収穫も、まるで彼らの心を試すように減り続けている。川の魚は網を仕掛けても数匹かかる程度で、かつて群れを成して泳いでいた姿は影を潜めていた。木々の実も、葉が冷たい風に吹かれて舞い落ちると同時に、枝に残る数は目に見えて減っていく。皆で工夫を凝らしても、得られる食料は一日の腹を満たすには足りず、少しずつ少しずつ、蓄えを削るしかなかった。

 

 そんな折の夕暮れ、ルナは焚き火のそばで冷えた両手をこすりながら、メノリに小さく告げた。

「明日、ベルの様子を見てくるわね」

 

 その声音には、心配と決意が入り混じっていた。メノリは火の揺らめきを見つめたまま、頷いた。

「ああ、頼む」

 

 ルナは視線を落とし、足元に置いた包みを見た。それはシャトルのシートを使って作った、まだ新しい上着。縫い目は不揃いで、針目も粗いが、仲間の誰かの体を少しでも守れるようにと、女性陣が夜遅くまで針を動かして仕上げたものだった。

「これも、届けなきゃ……。洞窟で一人きりじゃ、きっと寒さもこたえるでしょうから」

 

 翌朝、まだ太陽が木々の間から顔を出しきらぬうちに、ルナはその包みを抱えて立ち上がった。冷え切った空気は肌を刺すようで、吐く息がひときわ白く漂った。仲間たちはまだ眠りの中にあったが、彼女はそっと拠点を離れた。

 

 ベルが拠点を飛び出して以来、仲間たちの間には小さな亀裂が生まれていた。洞窟を住処に変えようとする彼の執念は、まだ誰もが理解できていなかったのだ。けれどもルナは、心のどこかで気にかかって仕方がなかった。――無茶をしてはいないだろうか。食べているのか。眠れているのか。

 

 足元の落ち葉を踏みしめながら、彼女はその思いを抱えて歩き続けた。

 

 やがて目的の洞窟が見えてきた。大いなる木からはそれほど離れていない。けれども、以前訪れたときはじめじめとした湿気と苔に包まれ、「ここでは暮らせない」と感じさせる場所だった。ルナは息を整え、そっと洞窟の口から中を覗いた。

 

 その瞬間、彼女の瞳は大きく見開かれた。

 ――まるで別の場所になっている。

 

 壁一面を覆っていた苔は、丁寧に剥がされていた。床にはまだ大小の石が転がってはいるが、大きなものはすでに運び出され、外に積まれている。さらに天井を見上げれば、岩に手を加えた跡があり、空気を循環させるための通気口まで作られていた。湿気を含んだ重苦しい空気は和らぎ、ひんやりとした清涼さすら漂っている。

 

「ここまで……」

 ルナは思わず声を漏らした。たった一人で、いや――。

 

「ルナ」

 

 背後から声をかけられ、彼女は振り返った。そこにいたのは、丸太を肩に担いだベルだった。髪は乱れ、頬はやつれている。目の下には濃い隈が刻まれ、寝不足であることは一目で分かった。

 

「ベル……!」

 

 ルナは駆け寄り、思わず声を張り上げた。

「一人でここまで……すごいじゃない! よく頑張ったね!」

 

 しかしベルは苦笑し、すぐに首を横に振った。

「一人じゃないよ。……リュウジが、手伝ってくれたんだ」

 

 そう言って、足元を指差す。そこには小さな魚の骨がいくつも転がっていた。

 

 ルナの胸に熱いものが広がった。ここ最近、リュウジが持ち帰る魚の数が少なかった理由が、ようやく繋がったのだ。自分たちの口を減らしてまで、ベルの孤独な作業を支えていた。

 

 ベルは奥へと歩き、そこから一枚の黒い上着を持ってきた。それをルナに差し出す。

「これ……夜は冷えるからって、リュウジが貸してくれたんだ。悪いけど、返してくれるかな?」

 

 ルナは息を呑んだ。誰のものか、聞くまでもない。見慣れた布地、縫い目。リュウジがいつも羽織っていた上着。

 

 胸の奥がきゅっと締め付けられる。どうしてあの人が薄いシャツだけで過ごしているのか、不思議に思っていた。でも、答えはここにあった。――自分の寒さを顧みず、ベルに渡していたのだ。

 

「……ええ」

 ルナは優しい笑みを浮かべ、黒い上着を胸に抱きしめた。布地からは、冷たい空気の奥に、確かにリュウジの気配を感じるような気がした。

 

 どうして、あんなに不器用なんだろう。どうして、何も言わずに無茶をするんだろう。けれど、その姿を思うと、胸の高鳴りは止まらなかった。

 

⬜︎

 

ルナは洞窟をあとにした。両腕に抱えた黒い上着の重みは、布の質量以上のものを確かに感じさせる。ひんやりとした風が吹き抜ける林の道を歩きながら、胸の奥にざわめきが広がっていった。

 

 ――返さなきゃいけない。

 けれど、返したくない。

 

 その二つの思いが心の中でぶつかり合い、彼女の足取りを重くさせた。布越しに伝わる体温はもう残っていないのに、上着を抱くたびに、リュウジの気配がすぐ傍にいるようで胸が苦しくなる。

 

 彼がどうして黙って自分を削るようなことをするのか、ルナには分かっていた。言葉よりも行動で示す人なのだ。仲間を思いやっても、決して「助けてやった」とは言わない。ただ黙って背負う。だからこそ気づいた時には、心が追いつかないほど強く惹かれてしまっていた。

 

 「……どうしたらいいんだろう」

 誰に聞かせるでもなく、小さな声が口から漏れた。

 

 返さなければ、彼は寒さの中で過ごすことになる。けれど返したとして、また彼は別の誰かにそれを差し出してしまうかもしれない。その優しさと無鉄砲さに、胸が締め付けられる。

 

 やがて木々の間から、大いなる木の拠点が見えてきた。焚き火の煙が細く立ちのぼり、仲間たちの声が微かに聞こえてくる。その安心感に、ようやくルナは足を速めた。

 

 焚き火のそばにいたのは、メノリとハワード、そしてチャコを抱えたシンゴだった。彼らはルナの姿に気づき、顔を上げた。

 

「おかえり、ルナ!」

 シンゴがぱっと笑顔を見せたが、すぐに彼女の腕に抱かれた黒い上着に目を止め、不思議そうに首をかしげた。

 

 ルナは慌てて上着を抱き直し、表情を整えた。

「ただいま。……ベルのところへ行ってきたの」

 

 仲間たちの視線が集まる。ルナは深呼吸し、見てきたことを語り始めた。

 

「洞窟、すごく変わっていたわ。壁の苔は剥がされていて、大きな石も運び出されていた。天井には通気口まで作られていたの。……本気で整えていたわ」

 

 メノリが目を見開き、思わず口元に手を当てた。

「ベルが……そこまで? 一人で……?」

 

 ルナは少し間を置き、言葉を続けた。

「ベルは、リュウジが手伝ってくれたって言ってた。魚の骨も落ちてたし……ここ最近、リュウジの獲ってくる魚が少なかったのは、そのせいだったんだと思う」

 

 その言葉に場が静まり返った。火の爆ぜる音だけが耳に残る。

 

 ハワードが低く唸るように言った。

「……ったく、あいつは。黙ってそんなことをしてたのか。食料が足りないのに」

 

 だがメノリは別の方向で考えていた。

「だが……洞窟がそこまで整えられているなら、私たちが冬を越すための選択肢にはなるかもしれないな」

 

 ハワードは眉をひそめた。

「いや、そんな時間はない。苔を剥がすだけでも相当かかったはずだ。今は食料を集めることが先決だ」

 

 シンゴは焚き火の炎を見つめながら、小さな声で呟いた。

「でも、ベルもリュウジも……僕たちのために動いてくれてたんだね」

 

 その一言が、皆の胸に静かに響いた。

 

 ルナは上着を抱きしめたまま、口を開いた。

「私も、洞窟を見て……本当に驚いたの。確かに、あれだけ整えられていたら、住めるかもしれない。……でも、ベルの顔はやつれていたわ。寝てないんだと思う。無理をしているのは間違いない」

 

 メノリが頷いた。

「だろうな。でも、それだけ本気なんだろう。私たちが安心して過ごせる場所を作ろうとして」

 

 ルナは俯いた。腕の中の黒い上着を、さらに強く抱きしめる。返さなくてはいけない。彼が寒さに耐えているのだから。けれど、この温もりを手放すのが惜しくてたまらなかった。

 

 仲間たちには、上着がリュウジのものであることをまだ言えなかった。心の奥に芽生えた熱を知られてしまうのが怖かったし、何よりもこれは自分だけの秘密のように思えたから。

 

 ――返したら、きっと彼は「問題ない」って言うんだろう。

 ――でも、そんな強がりを、私はもう見ていたくない。

 

 胸の中で言葉にならない叫びが渦を巻く。返すべきか、それとも、この手で彼にそっと羽織らせてやりたいのか。答えはまだ出せなかった。ただ一つだけ確かなのは、リュウジという存在が、以前よりずっと大きく彼女の心を占め始めているということだった。

 

 焚き火の炎が揺れ、ルナの瞳に映る。彼女は小さく息を吸い込み、仲間たちに向かって言った。

「……洞窟のこと、ちゃんと考えた方がいいと思う。食料集めも大事だけど、冬を越す場所も同じくらい大事だから」

 

 その声には、不思議と力がこもっていた。仲間たちは黙って彼女を見つめる。誰もすぐには反論しなかった。ルナの言葉が焚き火の熱と混ざり、静かにその場に溶け込んでいった。

 

 ルナはふと胸に抱く黒い上着を見下ろした。布地の感触は変わらないはずなのに、心臓の鼓動がそれを特別なものにしていた。彼に返すとき、自分はどんな顔をしてしまうのだろう。想像しただけで、胸が高鳴るのを止められなかった。

 

⬜︎

 

その夜、ルナは焚き火の傍に座っていた。仲間たちはそれぞれ思い思いの場所で休んでいる。シンゴはチャコを毛布で包み込み、メノリは残り少ない食材の整理をしていた。ハワードは不満げに文句を言いながらも火の番をカオルと交代し、アダムはリュウジの近くで小さな声を漏らしながら寝返りを打っている。

 

 そんな中でルナは、自分の膝の上に置いた黒い上着を何度も撫でていた。洞窟から抱えて帰ってきてから、もう何時間が経っただろう。返すべきなのに、どうしても手放せないでいた。

 

 ――これは彼のもの。彼が寒さに耐えてまでベルに渡したもの。

 

 分かっているのに、腕に力がこもる。布地を指先でたぐり寄せ、顔を寄せると、ほんのわずかに残る潮と煙の匂いがした。彼の匂いだと分かった瞬間、頬が熱くなった。胸の奥が高鳴り、呼吸が浅くなる。

 

 「……返さなきゃ」

 

 小さな声で自分に言い聞かせても、体は動かない。焚き火の赤い光が揺れ、まるで心の揺れを映すかのようだった。

 

 その時、不意に視線を感じて顔を上げると、メノリがこちらを見ていた。焚き火の向こうで、彼女は意味ありげに微笑んだ。何も言葉にはしなかったが、その眼差しだけで「分かっている」と伝えているように思えた。ルナは慌てて上着を抱え直し、俯いた。

 

 ――私の気持ち、隠せてるのかな……。

 

 心臓の鼓動が早まる。仲間たちに知られたらどう思われるだろう。そんな不安と同時に、どうしようもなく溢れ出す思いを抑えきれない自分がいる。

 

 やがて夜が更け、みんなが眠りについたころ、ルナはそっと立ち上がった。焚き火の火を確認し、毛布の上で眠る仲間たちを見渡す。リュウジは少し離れた場所で、背を丸めて座ったまま湖に釣り糸を垂らしている。

 

 ルナは深呼吸し、黒い上着を胸に抱えて彼のもとへ歩み寄った。近づくにつれ、心臓の音が大きくなる。手のひらが汗ばんで布地が少し湿るほどだ。

 

 ――どうしよう。今返したら、彼はどんな顔をするんだろう。

 

 ほんの数歩が、途方もなく長い距離に感じられた。

 

 「……リュウジ」

 

 呼びかけると、彼はゆっくりと振り返る。薄暗い焚き火の明かりに照らされた瞳が、静かにこちらを見つめる。

 

 「どうした?」

 

 その低く落ち着いた声に、ルナの胸がぎゅっと締めつけられる。言葉が喉に詰まって出てこない。彼の前に立つだけで、こんなにも自分が弱くなるなんて。

 

 震える手で、ルナは黒い上着を差し出した。

「……これ、ベルから預かったの。リュウジの、でしょ?」

 

 彼の瞳が一瞬だけ揺れたのを、ルナは見逃さなかった。だがリュウジはすぐに無表情を取り戻し、無言で上着を受け取ろうと手を伸ばした。

 

 その瞬間、ルナの手が動かなかった。差し出していたはずの上着を、無意識に胸へと抱き戻してしまったのだ。

 

 「……寒いのに、どうしてこんなことするの? どうして自分のことを後回しにして、誰かに譲っちゃうの?」

 

 声が震えていた。涙が出そうになるのを必死に堪える。

 

 リュウジは目を伏せ、少しの間沈黙した。焚き火の火がパチパチと弾ける音だけが夜に響く。

 

 やがて彼は静かに言った。

「別に、大したことじゃない」

 

 その淡々とした口調に、ルナの胸が痛んだ。いつもそうだ。自分を削ることを「大したことない」と言ってしまう。その強さが、時に残酷に思えるほどだった。

 

 「……私、嫌だよ」

 思わず口からこぼれた。

「リュウジが寒さに耐えてるのに、何も言わないで黙ってるなんて。……そんなの嫌」

 

 彼が顔を上げる。瞳が揺れ、炎に映る。ルナは上着を抱きしめたまま、真っ直ぐ彼を見つめた。

 

 「あなたは罪人なんかじゃない。……仲間を助けて、支えてくれる、優しい人だよ」

 

 言った瞬間、胸が熱くなり、頬が真っ赤になるのを感じた。これ以上言葉を続けたら、心の奥に隠してきた感情が溢れ出してしまう。

 

 リュウジは少しだけ息を呑んだように見えた。そして小さく呟いた。

「……変わってるな、お前は」

 

 その声は、ほんのわずかに優しさを帯びていた。

 

 ルナは上着をそっと彼に差し出した。今度こそ手を離すことができた。リュウジは黙って受け取り、肩に羽織る。布が彼の体を包み込むのを見届けると、ルナの胸に安堵が広がった。

 

 ――やっと返せた。けど、返すことがこんなに辛いなんて。

 

 彼の背に上着があることが嬉しいのに、自分の腕から離れてしまった寂しさが同時に押し寄せてくる。複雑な感情に心がかき乱され、ルナは小さく息を吐いた。

 

 そして彼の隣に腰を下ろした。焚き火の熱と、彼の存在が、冷えた夜の空気を少しだけ柔らかくしていく。

 

 上着を返したはずなのに、ルナの胸は逆に彼への想いでいっぱいになっていた

 

⬜︎

 

焚き火の炎が小さく揺れ、冷たい風が頬を撫でていく。

仲間たちは輪を作るように座り込み、今日見てきた洞窟についての話し合いが始まっていた。

それぞれの顔には、疲労と緊張、そして「冬を越せるのか」という切実な不安が刻まれている。

 

「今日、洞窟を見てきたの。前に見た時よりもずっと整理されていて……ちゃんと暮らせそうな形になってたわ」

少し笑みを浮かべながらも、ルナの声には迷いが混じっていた。

 

「えぇ? 本気であんなジメジメしたとこに住む気かよ? 僕はごめんだね。第一、食料集めの時間を削ってまでやることじゃないだろ」

腕を組んで大げさに首を振る。

 

メノリ

「確かにハワードの言い分も一理あるな。食料が不足している今、余計な労力を割く余裕はないだろう。冬の備えはまず口にするものからだ」

厳格な声が静かな空に響き、場の空気がピリリと引き締まる。

 

「で、でも……水場が近くにあるのはいいことなんじゃないかしら。火を使うにしても、水はすぐ必要になるし……」

声は小さいが、その場にいる皆に届いた。

 

「僕もそう思うよ。もし洞窟をうまく整えられたら、拠点の安全度はぐんと上がるはずだ。大いなる木の上は風通しがいいけど、逆に寒さに弱い。冬をしのぐには不安があると思うんだ」

早口で理屈を並べながら、シンゴの瞳は真剣に光っていた。

 

「ウチも正直、あの洞窟がええと思うで。湿気は問題やけど、工夫すればどうとでもなる。大いなる木の上やと、この先の寒さに耐えられへん可能性が高いんや」

尾をピンと立て、堂々と断言する。

 

「……俺は賛成だ。冬を木の上で過ごすのは危険すぎる。崩れたら一巻の終わりだ」

短く冷たい声。だが、その言葉には重みがあった。

 

「僕……洞窟のほうが、あったかいと思う。夜になると、ここは風がすごく冷たいから……」

幼い声だが、その一言がみんなの心に響いた。アダムの小さな身体が震えていたのを、誰もが見ていたからだ。

 

再び沈黙が落ちた。

炎がはぜる音と、風の唸りが耳に届く。

 

「……だが、洞窟を本格的に拠点にするとなれば、全員で取り組まなければならない。中途半端な整備では危険だぞ」

 

「えー……また大仕事かよ。僕はもう疲れたってのに」

 

「ハワード、文句ばっかり言ってないで協力してよ! 君だって冬を凍えながら過ごしたくはないだろ?」

 

「そうやそうや! 口ばっかり動かしても寒さは防げへんで」

 

ハワードが言い返そうとしたその時、ルナが両手を軽く叩いて声を上げた。

 

「みんな、落ち着いて! ――私たちは冬を越さなきゃいけないの。そのために一番いい方法を選ばなきゃ」

焚き火に照らされた瞳が仲間一人ひとりを見つめる。

「大いなる木で過ごすのか、洞窟を整えるのか……簡単に答えは出せないけど、どちらにせよ力を合わせるしかないのよ」

 

その言葉に、皆はゆっくりと頷いた。

まだ結論は出ていない。けれど、議論は確実に進んでいた。

それぞれの思いが交差し、仲間たちの未来を左右する選択が、いま形になろうとしていた。

 

⬜︎

 

翌朝、吐く息が白くなるほどの冷え込みのなか、一行は洞窟へと足を運んだ。

ルナはリュックの紐を握りしめ、仲間たちを見渡す。みんなの顔には疲労と不安が見えるが、同時に「決断しなければならない」という覚悟も宿っていた。

 

チャコ

「ほら見てみぃ、この前よりもまた片付いとるやんか。苔もほとんど剥がされとるし、岩もええ感じに外に出されてる」

洞窟の入口に立ちながら、チャコは尻尾を立てて感心している。

 

「わぁ……すごい! ここまで整理されてるなんて。湿気はあるけど、通気口も開けられてるし……空気が淀んでない」

目を輝かせながら奥へと進み、壁を叩いて強度を確かめる。

 

「……想像以上だな。確かに、ここなら冬をしのげるかもしれない。風は防げるし、水場も近い」

腕を組んだまま、冷静に分析しているが、その声色にはわずかに驚きが混じっていた。

 

「……なんだか落ち着く場所ね。暗いのは怖いけれど……木の上よりも、ずっと温かい気がする」

小さな声で呟きながらも、どこか安堵の表情を浮かべる。

 

「んー……僕は正直、まだ信用できないね。岩が崩れたらどうするんだよ? それに湿気があるってことは、体調も崩しやすいんじゃないか?」

懐疑的な言葉を投げかけるが、その表情はどこか弱気でもあった。

 

「崩落の危険はゼロじゃない。けど……木の上よりは生存率が高いな。俺はここに一票だ」

短く切り捨てるような言葉。だが、その判断には根拠があった。

 

「僕、ここがいい。夜になると寒くて眠れないけど……ここなら、あったかい」

小さな手を胸の前でぎゅっと握りしめながら言った。その純粋な声が、皆の胸に響く。

 

しばし沈黙が流れた。

誰もが焚き火のように小さく揺れる炎――「生き延びたい」という思いを胸に抱いていた。

 

「……異論はあるか?」

きっぱりとした声で問いかける。

 

「うー……僕はまだ反対したいけど……全員がそう言うなら、仕方ないな」

肩を落とし、観念したようにため息をついた。

 

「それじゃあ、決まりね。――これからは、この洞窟を私たちの拠点にしましょう」

焚き火の炎のように柔らかな笑みを浮かべ、仲間たちを見渡す。

 

その瞬間、全員の胸にわずかだが希望が差し込んだ。

不安は消えない。冬はこれから本番だ。だが――皆で乗り越えると決めた。

 

洞窟の天井から滴る雫の音が、未来への小さな拍手のように響いていた。

 

⬜︎

 

洞窟を拠点にすることが決まると、空気が一変した。これまでは不安と迷いが漂っていたのに、今は何かに向かって動き出そうとする力強さが仲間たちの中に生まれていた。

 

「じゃあ、まずは寝床を作らないとね。地面にそのまま寝たら体が冷えて危ないわ」

「苔や草を集めれば多少は柔らかくできるよ。木の葉を重ねれば断熱にもなる」

「湿気が気になるな……床を少しでも高くした方がいい」

 

意見が次々と飛び交い、誰もが動き始める。チャコは身軽に洞窟の奥へ入り、石の隙間を覗き込んで回った。シンゴは拾った木片を叩きながら、床を底上げできるかどうか考えている。ハワードは不満そうに口を尖らせていたが、それでも石を運び出す手は止まらなかった。

 

リュウジは無言のまま入口近くに立ち、洞窟全体を眺めていた。その瞳は常に冷静で、何が必要かを探しているようだった。

 

「よし、枯れ枝を集めて火を焚こう。煙が出すぎなければ、この天井の隙間から抜けるはずだ」

「薪は多めにいるな。冬に備えて一日でも早く集め始めないと」

「外の倒木を使おう。腐ってないやつを選べば燃料にも柱にもなる」

 

カオルが冷静に指示を出すと、すぐにメノリとシンゴが動き、木を探しに外へ飛び出していった。シャアラとベルは洞窟内の岩壁を撫でながら、使えそうな空間を測るように目を走らせている。

 

「ここを仕切って物置にしようよ。外で集めた食料や薪を入れておけば安全だよね」

「水が滴ってる場所は避けないと。腐りやすいし、滑って危ない」

 

アダムも小さな体で一生懸命石を運んでいた。その姿に、皆が自然と笑みを浮かべる。小さな努力が積み重なって、この洞窟は少しずつ“家”に変わっていく。

 

ルナは持ってきたリュックを下ろし、中から布を取り出して床に広げた。多少でも暖かさを増せればと考えてのことだった。チャコがそれを見て「器用やなぁ」と感心した声を上げ、ハワードも渋々布の端を押さえて手伝った。

 

「食料の置き場も考えないと。動物に狙われたら一瞬でなくなる」

「吊るすのはどうだ? 木の枝を組んで梁みたいにすれば、上に置ける」

「それなら俺がやる。手先は器用だからな」

 

ベルが張り切って名乗りを上げ、リュウジが黙って木片を削って渡す。その無言のやり取りに、ルナは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

 

やがて外で木を集めていたシンゴとメノリが戻り、両腕いっぱいに枝を抱えてきた。火を起こすと、洞窟の中はじんわりと明るく照らされ、壁に揺れる影が仲間たちを包み込んだ。

 

「やっぱり……落ち着くね。外の風に吹かれ続けるより、ずっと安心できる」

「せやけど、ここで暮らすんなら本気で整備せなあかんで。入口の防御、煙の抜け道、寝床……まだまだ仕事は山ほどや」

「でも、これなら……冬を迎えられるかもしれない」

 

炎に照らされた顔は皆、疲れと希望を同時に抱いていた。

洞窟はまだ荒削りな空間にすぎない。けれど、仲間たちが力を合わせることで、それは確かに“生きるための拠点”へと変わりつつあった。

 

ルナは火を見つめながら、心の中でそっと誓った。

――絶対に、この仲間たちを守る。

そして、隣で黙々と木片を削るリュウジの姿に、ほんの一瞬、視線を落とした。彼の肩が薄い布越しに震えているのを見て、胸の奥が強く締めつけられる。だが、言葉にはしなかった。まだ、自分だけの秘密のままでいい。

 

その夜、洞窟の奥に小さな火が灯り、外の冷たい風を遠ざけながら、仲間たちの初めての「冬を迎える準備」が静かに始まった。

 

⬜︎

 

洞窟の整備が始まってから、いくつもの夜と昼を重ねた。岩を削り、木を組み、草や苔を敷き詰め、仲間たちの汗と息づかいで荒れた空間は少しずつ形を変えていった。

 

入口には木の枝で組んだ簡易の柵が立ち、強い風や小さな獣が入り込むのを防いでいる。奥の一角には寝床が並び、草の上にはそれぞれが持ち寄った布や衣服が敷かれた。食料を吊るすための梁はベルとリュウジの手でしっかりと組み上げられ、湿った壁の滴り落ちる水はシンゴが工夫して溝を掘り、小さな水場へと流し込んでいる。

 

火を焚く場所も決まり、煙は天井の割れ目からゆるやかに抜けていった。夜になれば橙色の光が壁を照らし、岩肌に映る仲間たちの影はひとつの家族のように寄り添って揺れていた。

 

ルナは洞窟の中央に立ち、改めてその光景を見渡す。

胸の奥に、じんわりと温かさが広がった。

――ここが、私たちの家になる。

 

横で、肩に汗の跡をにじませたベルが大きく息をつき、手を腰に当てて満足げに洞窟を見回していた。その背中に向けて、ルナは小さく笑いかける。

 

「やったわね、ベル」

 

ベルはびくりと肩を揺らし、振り返る。頬が赤く染まり、言葉を探すように口を開け閉めした。

「……お、俺、なんか、ちょっとは役に立てたのかな」

「もちろんよ。あなたがいなかったら、ここまで仕上げられなかったわ」

ベルは俯き、耳まで真っ赤にして照れ笑いを浮かべた。その様子にルナも思わず頬が緩む。

 

その時、突然甲高い声が響いた。

「なあなあ! せっかくだからさ、この洞窟に名前をつけようよ!」

 

振り返ると、ハワードが腕を組みながら偉そうに立っていた。どこか誇らしげで、しかし期待に満ちた目を仲間たちに向けている。

「名前?」とルナが問い返すと、ハワードは胸を張った。

「そうだよ! 俺たちが苦労して作った拠点だぞ? ただ“洞窟”なんて呼ぶのは味気ないだろ。もっとこう、カッコいい名前をだな……」

 

そこまで言うと、ハワードはちらりと隣のシャアラを見やった。

「だからさ、シャアラ。お前がつけてくれよ。お前、本とかいっぱい読んでるだろ? きっとロマンチックで素敵な名前を考えられるはずだ」

 

唐突に振られたシャアラは目を瞬き、手に持っていた小枝をぎゅっと握った。

「わ、私が……?」

「そうそう! こういうのは女の子のセンスに任せるべきだ!」

 

周囲からくすくすと笑いが漏れる。メノリは呆れ顔で肩をすくめ、チャコは「また勝手なこと言うてぇ」と首を振った。だがハワードの目は本気で、どこか期待を込めた光が宿っていた。

 

シャアラは恥ずかしそうに俯き、少し考え込む。そして、火の明かりに照らされた岩壁を見上げながら、かすかな声で呟いた。

「……星空みたい」

 

「え?」とルナが問い返す。

「ほら、天井の割れ目から夜空が少しだけ見えるでしょ。ここに座っていると、暗い洞窟の奥から、小さな星がのぞいているみたいで……。だから……」

 

彼女は両手を胸に当て、勇気を振り絞るように声をはっきりとした。

「この場所を――“スターホール”って呼びたい」

 

その言葉が響いた瞬間、仲間たちの間に静かな感嘆が広がった。火の光に照らされた岩壁が、まるで星の輝きを宿したかのように見える。

 

ルナはにっこりと微笑み、力強く頷いた。

「いい名前ね。これからは“スターホール”が、私たちの家」

 

ハワードは満足げに腕を組み、「さすがシャアラだな!」と声を上げる。シャアラは恥ずかしそうに頬を染めたが、その目には確かな誇りが宿っていた。

 

こうして、彼らの新しい拠点は名を得た。

“スターホール”――星の光を宿す、仲間たちの未来を繋ぐ場所として。

 

⬜︎

 

スターホールが完成してから数日、空は灰色に覆われ、冷たい風が洞窟の入り口を揺らす。雪は容赦なく降り積もり、白銀の世界が拠点を包み込んでいった。気温は日に日に下がり、仲間たちは頬が赤くなるほどの寒さに震えた。食料の備えも日に日に減り、残りの分量に皆が無言で目を向けていた。

 

夕食を終え、皆が片付けを始める中、昼間に収穫してきた竹を手にカオルが黙々と削っていた。手際は早く、長さや太さを整えながら、竹の表面を丁寧に削り取っていく。横ではリュウジが削り終えた竹を受け取り、松明で炙ってU字型に曲げる作業を続けていた。火の熱で柔らかくなった竹を慎重に曲げ、形を整えながら蔓で縛りつけていく。18本の竹を同じ手順で曲げ終えると、リュウジは蔓でしっかり固定し、完成形を確認した。

 

その様子を興味津々で眺めていたアダムは、目をキラキラさせながら声をかけた。

「何を作ってるの?」

 

リュウジは目を上げずに短く答える。

「柔らかい雪の上を歩くための道具だ」

 

ルナが遠くから声をかける。

「アダム、二人の邪魔をしちゃダメよ」

 

アダムは満面の笑みを浮かべて小さく頷く。

「分かった」

 

その笑顔を見たルナは、少し首を傾げて苦笑した。

――本当に分かっているのかしら、この子。

 

リュウジは手早く作業を進めながら、アダムに向かって指示を出した。

「アダム、足を貸せ」

 

「はーい!」と声を弾ませ、アダムは両足を差し出した。

 

リュウジは曲がった竹を足の裏に当て、足首に蔓を巻きつけて固定していく。手際は見事で、わずか数分で両足の装着が完了した。リュウジが「もう、いいぞ」と短く告げると、アダムは嬉しそうに足を踏み鳴らし、乾いた音を立てながら洞窟内を歩き回った。

 

それを見ていたカオルは小さく呟く。

「問題なさそうだな」

 

リュウジは短く「ああ」と返した。

 

メノリはアダムの足元を見つめ、眉をひそめた。

「なんだそれは?」

 

シャアラは思わず笑みを浮かべる。

「アダム、かわいい〜」

 

アダムはルナの方へ駆け寄り、嬉しそうに抱きついた。

「リュウジに履かせてもらったの!」

 

ルナは優しい笑みを返し、頭を撫でながら言った。

「リュウジに、良かったわね、アダム」

 

そこにチャコもやってきて、アダムの足元を見下ろすと、感心した声を上げた。

「ほぉ〜、これはかんじきやな。よぉ作るな〜」

 

ハワードは首を傾げながら疑問を漏らす。

「かんじき? 何だよそれ?」

 

ベルが説明する。

「雪に足を取られないようにする道具だよ」

 

ハワードは顎に手を当てて疑いの目を向ける。

「こんなもので本当に雪が……?」

 

その時、カオルが素早くリュウジの作ったかんじきを投げつける。

「自分で試してみろ」

 

ハワードは受け取ると、笑顔を崩さず足に装着し、雪の積もったスターホールの外へ駆け出した。

「こりゃいいぜ! 歩きやすいぜ!」

 

洞窟の中まで響く嬉しそうな声に、皆は思わず笑みを浮かべる。

 

続いてシンゴもカオルからかんじきを受け取り、外に飛び出した。

「僕もやる!」

 

アダムも加わり、三人は雪の上で軽やかに歩き、楽しげに声を上げる。

 

ルナは洞窟の入り口で、吹雪の中に小さく見える三人の姿を見つめ、少し心配そうに声をかけた。

「三人とも、風邪ひくわよ!」

 

返ってくるのは楽しげな声だけで、ルナは思わずくすりと笑った。

 

視線を横に移すと、リュウジとカオルが互いに黙々と作業を続けている。

ルナの心に、静かな感謝の念が芽生える。

――このサバイバル生活を、私たちが無事に過ごせているのは、二人のおかげだわ。

 

冷たい風が洞窟に吹き込む中、ルナは胸の奥にじんわりと温かさを感じた。仲間たちの笑顔、互いを支える手、そしてリュウジとカオルの確かな力。すべてがこの雪に覆われた世界での、生きる糧になっていた。

 

ルナは小さく息を吐き、心の中で再び誓った。

――この場所、この仲間たちを、私たちは絶対に守る。

 

洞窟の奥で火が揺らめき、仲間たちの笑い声と雪を踏む音が混ざる。冷たく白い世界の中で、スターホールは静かに、しかし確かに、生きる力を宿していた。

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