観客席のざわめきが、少しずつ落ち着きはじめた頃だった。
「――おーい」
ハワードが見覚えのある顔を見つけ、大きく手を振る。、みんなの視線が一斉にそちらへ向く。
タオルを首にかけ、まだ汗の光る額を手の甲でぬぐいながら、カオルがゆっくりと通路を上がってきていた。
頬にはうっすらと青あざが浮かび、腕や脇腹にもところどころテーピングが見える。それでも、その表情はどこかすっきりしていて、やり切った後の清々しさが滲んでいた。
「カオル!」
ルナが真っ先に立ち上がり、手を振る。
それにつられるように、メノリたちも次々と席から立ち上がった。
「優勝おめでとう!」
ルナが駆け寄ると同時に、そう言ってぱっと笑顔を向ける。
その背後から、ハワードが大げさに拍手を鳴らした。
「いや〜、さすがだな! 最後の蹴り、決まった瞬間、鳥肌立ったぜ!」
「カオル、見事だった」「ナイスファイトだったよ」
メノリとシンゴも、それぞれの言葉で称える。
カオルは少しだけ照れくさそうに目を逸らしながらも、口元だけで笑った。
「……ああ。ありがとな」
短い返事だけど、声には確かな手応えが乗っている。
その様子を見て、ルナも胸の奥がじんわりと温かくなった。
だが、すぐに別の不安が頭をもたげる。
「ねえ、リュウジは? 一緒じゃないの?」
ルナが心配そうに首を傾げると、カオルは一瞬だけ言葉を選ぶように視線を泳がせた。
「リュウジなら……保健室だ」
「保健室?」
「今、クリスタルに診てもらってる」
その説明を聞いた瞬間、ルナの胸がきゅっと強く締め付けられる。
「やっぱり、無理させちゃったのかな……」
ぽつりと漏れた言葉に、チャコがすぐさまフォローを入れた。
「大丈夫やって。あの二人の試合、ちゃんと止めも早かったしな。
それにな、リュウジも自分で歩いて行ったんやろ?」
「……そうね。でも、やっぱり心配だわ」
ルナは胸の前でぎゅっと手を握りしめながら、保健室の方向を見つめる。
その横で、ベルやシャアラも不安そうに顔を見合わせた。
「あとで様子、見に行こう」
メノリが落ち着いた声でそう提案し、その場の空気を少しだけ落ち着かせる。
カオルはみんなの心配そうな表情を受け止めるように、ゆっくりと息を吐いた。
「そんな深刻な感じじゃなかった。……はずだ」
最後の一言に、少しだけ逡巡が混じる。
さっきまで向き合っていた相手の、どこか虚ろな視線を思い出してしまったのだ。
(……アイツ、攻撃受けても、あんまり痛そうな顔しなかったよな)
その違和感をうまく言葉にできないまま、カオルは眉間に皺を寄せる。
だが、ルナたちをこれ以上不安にさせたくなくて、それ以上は口にしなかった。
「とりあえず、こっちは優勝報告を先に済ませてくる。
リュウジの様子、見に行くなら……落ち着いた頃を見計らったほうがいいかもしれない」
「……うん。分かったわ」
ルナは小さく頷き、胸の奥に渦巻く心配を飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
ソリア学園・保健室。
白いカーテンでいくつかのベッドが仕切られた静かな空間には、消毒液と薬草の混ざったような、独特の匂いが漂っていた。
窓から入る午後の光が、柔らかくベッドのシーツを照らしている。
クリスタルは聴診器を首から外し、リュウジの目元と肩を丁寧にチェックし終えると、そっと一歩下がった。
「……肩も、瞼も異常はなさそうね」
そう言いながら、冷凍庫から取り出しておいた氷嚢を手に取る。
中で氷がしゃらりと音を立てた。
「はい、これ」
すぐそばの丸椅子に腰掛けていたリュウジに、クリスタルは氷嚢を差し出した。
リュウジは少しだけ苦笑して、無言でそれを受け取る。
そして、カオルの蹴りがまともに入った頬に、そっと押し当てた。
「っ……」
冷たさと鈍い痛みが同時に襲ってきて、思わずわずかに眉をひそめる。
だが、大げさな声はあげない。ただ、呼吸を整えるように細く息を吐いた。
「そこ、青くなってきてるわよ。しばらくは冷やしておきなさい」
クリスタルの声は、口調こそ淡々としているが、その奥には心配が滲んでいた。
リュウジは、氷嚢を押し当てたまま、どこか他人事のように呟く。
「まぁ、この程度で済んだなら、上出来だろ」
「そういう問題?」
クリスタルは思わず眉を吊り上げた。
そのまま、ポケットに手を突っ込み、言葉を選ぶように一度だけ小さく息を吸う。
「念のために、もう一度、精密検査を受けたら?
目も肩も、とくに異常は見当たらないけど……あなたの場合、万が一ってこともあるし。私も一緒に行くわよ」
「精密検査って……またあの機械か?」
リュウジは氷嚢をずらしながら、少しだけ顔をしかめる。
前に受けた検査を思い出したのだろう。
脳波だの神経伝達だのと、やたらと細かく調べられたあの時間は、彼にとってあまり楽しい記憶ではない。
「……いや、いい」
短く首を振る。
「大丈夫だ。別に問題はない」
その答えに、クリスタルの目が細くなる。
「本当に?」
椅子からすっと立ち上がると、彼の目の前まで歩み寄った。
身長差がそれほどない分、クリスタルが身を乗り出すと、ほとんど視線がぶつかる距離になる。
リュウジは少しだけ目を泳がせたが、すぐに視線を合わせて、静かに頷いた。
「ああ」
短い返事。しかし、そこには妙な強情さと、どこか諦めにも似た色が混ざっている。
――本当に、そう思っているのか。
――それとも、検査を受けるのが嫌で、無理やりそう決めつけているだけなのか。
クリスタルは、その奥を読み取ろうとするように、しばらくじっと彼を見つめていた。
(さっき、通路でエリンにも言ったけど……やっぱり、どこか変なのよね)
攻撃を受けた時の反応。
ダメージを気にしていないというより、自分の身体の危険を分かっているような、あの動き。
「なら、いいけど」
やがて、クリスタルはわずかに肩の力を抜いて、そう告げた。
ただし、その声は“完全に納得しました”という響きではない。
「でも、少しでもおかしいと思ったら、すぐ言いなさいよ。」
リュウジは口元だけで薄く笑った。
「分かってる。……心配かけて悪いな」
「分かってるようには見えないから言ってるの」
クリスタルはぷいと顔をそらし、ベッドの脇に置いてあったカルテにさらさらと何かを書き込む。
その横で、リュウジは氷嚢を当てた頬を押さえたまま、ふと視線を天井に向けた。
(……精密検査、ね)
頭の奥に、あの暗い機械室の光景がちらりとよぎる。
モニター越しに映される自分の脳波、医師たちのひそひそ声。
“後遺症の可能性”だとか、“戦闘時の過覚醒”だとか、聞きたくない単語ばかりだった。
(これ以上、あいつらに余計な心配をさせるわけにはいかないよな)
リングの上で、ルナたちの顔が観客席に並んでいた光景を思い出す。
あの視線の中に、これ以上“危うさ”を見抜かれたくなかった。
「とりあえず、今日はここで少し休みなさい。
ルナたち、きっとそのうち様子見に来るわよ」
カルテを書き終えたクリスタルが、何気ないふうを装って言う。
「……それまでに、この顔、少しはマシになるといいんだが」
リュウジはそう呟き、氷嚢をきゅっと押しつけた。
冷たさがじわりと皮膚の奥に染み込んでいく。
クリスタルは、その横顔をしばらく黙って見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
(本当に大丈夫なら、それでいい。
――でも、やっぱり何かあったら、そのときは絶対、あたしの前で強がらせない)
心の中でそう決めながら、彼女はそっと保健室のカーテンを整えた。
外の廊下からは、まだ遠くで体育館のざわめきが聞こえている。
ルナたちがここへたどり着くまで、そう長くはかからないだろう――
クリスタルはそう予感しながら、もう一度だけ、リュウジの様子を確かめるように視線を落とした。
ーーーー
校門を抜けた先の通りは、夕方の柔らかい光に包まれていた。
体育館での熱気が嘘みたいに、風はひんやりしていて気持ちいい。
ルナは、胸の前で抱えるように一冊の雑誌を持ちながら、くすんだオレンジ色の空を見上げた。
(保健室に行ったけど、結局、リュウジには会えなかったな……)
クリスタルが「少し寝かせておいた方がいい」と言っていたから、無理に起こすのはやめた。
それは分かってる。けれど――試合のときに何度も被弾していた姿を思い出すと、どうしても胸がざわざわしてしまう。
「ちゃんと冷やしてるかな……」
そんなことを小さくつぶやきながら、正門を出ていつもの道へと足を向けた、そのときだった。
「――あれ?」
曲がり角の先から、見覚えのある黒髪が現れた。
ルナと同じように、肩にカバンをかけ、片手をポケットに突っ込んで歩いてくる少年。
頬にはうっすらと青あざ。目元には薄く貼られた肌色のテープ。
「リュウジ!」
思わず声が弾む。
リュウジは少し驚いたように目を丸くし、それからふっと表情を緩めた。
「……ああ、ルナか」
夕陽を後ろから受けて、彼の輪郭が少し眩しい。
「帰りか?」
「うん。リュウジも?」
「ああ。保健室で寝かされてたの、やっと解放されたところ」
苦笑まじりの声に、ルナの眉が心配そうに寄る。
「大丈夫なの? 顔、まだ痛そうなんだけど」
つい一歩、距離を詰めてしまう。
近くで見ると、あざの色がはっきり分かって、余計胸がぎゅっとなった。
「これくらい、平気だ。氷も当ててもらったし」
リュウジは手で頬を軽く触ってみせる。
その動きがどこかぎこちなくて、逆に痛そうに見える。
「“これくらい”って……。試合中だって、すごい蹴りもらってたんだからね?」
「まあ、カオルのは容赦なかったな」
どこか嬉しそうにさえ聞こえる声に、ルナは呆れ半分、心配半分のため息をついた。
「ほんと、男の子ってどうしてそうなのかしら……。
自分の身体、もうちょっと大事にしてよ」
「別に、無茶はしてないつもりなんだけどな」
「してたよ!」
ぴしっと指を突きつけて言い切ると、リュウジは少しだけ目を丸くして、それから吹き出した。
「……分かった分かった。気をつけるよ」
その笑顔が、不意打ちみたいにまぶしくて、ルナは少しだけ視線を逸らした。
「な、なに笑ってるのよ」
「いや。そうやって怒られるの、久しぶりだなって」
「え?」
さらっと言われて、心臓が一瞬止まったような気がした。
うまく言葉が出てこなくて、思わず雑誌を抱える腕に力が入る。
「一緒の方向なんだし、帰るか」
リュウジがごく自然な調子で言う。
ルナは、頬の熱を自分でごまかしながら、こくりと頷いた。
「う、うん。一緒に帰ろう」
二人は並んで歩き出した。
◇ ◇ ◇
通りには、生徒たちの姿がまばらに見える。
遠くからボールを蹴る音や、誰かの笑い声が聞こえてきて、それが少しずつ小さくなっていった。
舗装された道の端を、二人は一定の歩幅で進んでいく。
ほんの指先を伸ばせば触れそうな距離。でも、触れてはいけないような、微妙な隙間。
「そういえば……格闘技お疲れ様」
ルナが少し横目で見ながら言うと、リュウジは苦笑した。
「ありがとう。
まあ、いいところはカオルに持ってかれたけどな」
「そんなことないよ。ちゃんと最後まで立ってたでしょ。
途中、何回も倒れるんじゃないかってヒヤヒヤしたけど……」
そのたびに、声にならない悲鳴を飲み込んでいたことは、さすがに言えない。
「でもね、かっこよかったよ」
不意に、本音がこぼれた。
ルナ自身が驚いて、ハッとして口を押さえる。
「……へ?」
リュウジが素で間の抜けた声を出す。
「い、今のなし!」
「なんでだよ」
「だって、その……かっこいいとかって、なんか直接言うの、恥ずかしいじゃない!」
「言った後に訂正する方が恥ずかしくないか?」
そんなふうに軽口を返されて、ますます顔が熱くなる。
夕焼けのせいなのか、自分のせいなのか分からないけれど、とにかく視界が赤い。
リュウジは、少しだけ前を向いて歩きながら、ぽつりと静かな声を落とした。
「……ありがとな」
「え?」
「そうやって言ってもらえると、頑張った甲斐があったって思える。
痛かったけど……出てよかったよ、あの試合」
その横顔は、どこか柔らかくて、いつもより少しだけ年相応に見えた。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
(あ……今の、ちょっと、反則……)
ルナはわざと前を向き直り、気を紛らわせるように、手に持った雑誌を見下ろした。
「あっ、そうだ。これ!」
思い出したように声を上げる。
「エリンから預かってたんだ。渡さなきゃって思ってたのに……」
ルナは足を止め、抱えていた雑誌をリュウジに差し出した。
「ロカ居住区 不動産ガイド」と書かれた表紙に、リュウジの目がわずかに見開かれる。
「……これ」
「エリンさんがね、さっき来てたの。
リュウジに渡してって。引っ越し先のアパート、見つけたんだって」
側面から飛び出している黄色い付箋を指さす。
「このページ。“ここにしておきなさい”って」
「勝手に決めてるな、あの人……」
言葉とは裏腹に、声はどこか嬉しそうだった。
リュウジは雑誌を受け取り、付箋のページを開く。
写真に写っている、アパート。
高台から見下ろすロカの街。
「ソリア学園から徒歩十五分で、ソーラ・デッラ・ルーナにも近いんだって。
高台にあって、景色もいいって」
ルナが隣から覗き込みながら説明する。
肩と肩が、ほんの少し触れそうな距離まで近づく。
リュウジがページをめくるたび、紙の擦れる音が二人の間にやわらかく響いた。
「……いい場所だな」
小さくそう呟く声が、なぜかルナの胸の奥にまで染み込んでいく。
(ここに、リュウジが住むのかな)
ふとそんなイメージが浮かんだ。
夕暮れのベランダで風に当たる、Tシャツ姿のリュウジ。
部屋の明かり越しに見える影。
そこに、自分が立ち寄って、一緒にコーヒーを飲んでいる未来――。
「……っ!」
自分で勝手に想像して、勝手に心臓が暴れ出す。
「ど、どうかな、その……気に入った?」
「ん? ああ。
エリンさんらしいというか……俺にはもったいないくらいだな」
「そんなことないよ! リュウジ、頑張ってきたじゃない。
悲劇のフライトだって、今回の試合だって……その、色々、ちゃんと乗り越えようとしてて」
口にした途端、それがとても重いことのように思えてしまい、慌てて言葉を付け足す。
「だ、だから、いい部屋に住んでもいいんだよって言いたかっただけで!」
「あ、うん?」
リュウジは少し困ったように笑いながらも、その言葉をひとつひとつ噛みしめるように聞いていた。
「……そうだな。
ちゃんと、次の場所でやっていけるように頑張らないとな」
「あ……」
その言い方が、まるで“新しいスタートライン”の宣言みたいで、ルナは思わず彼の顔をまっすぐ見ていた。
目が合う。
夕陽の光を受けたリュウジの瞳は、どこか柔らかく揺れていた。
その瞬間、足元に小さな段差が現れたことに、ルナは気づかなかった。
「わっ――」
つまずいた足が前に出過ぎて、身体がぐらりと傾ぐ。
「ルナ!」
とっさに伸びてきた腕が、ルナの肩をしっかりと抱きとめた。
雑誌が少しだけ宙に浮き、ぱさりと閉じる。
気がつくと、リュウジの胸に軽く押しつけられるような格好で止まっていた。
すぐ耳元で、彼の鼓動が聞こえる気がした。
自分の心臓の音なのか、彼のなのか、もう分からない。
「大丈夫か?」
低くて落ち着いた声が、頭上から降ってくる。
顔を上げればすぐそこにリュウジの顔があって、距離の近さに息が止まりそうになる。
「だい、じょうぶ……」
かろうじて声を絞り出すと、リュウジは安心したようにふうっと息をついた。
「よかった。
ほんと、さっき俺に言ってたくせに……自分の身体も大事にしろよ」
さっきの台詞を、そっくりそのまま返される。
悔しいけれど、その優しい言い方に、また胸がきゅんと鳴った。
気づけば、リュウジの手はまだルナの肩に置かれたままだった。
そのことに気づいた瞬間、互いに「あ」と小さく声を漏らす。
「悪い」
「ううん……ありがとう」
名残惜しさと気恥ずかしさが混ざった空気の中で、ゆっくりと手が離れていく。
ずっとそこにあった温度だけが、肩に残った。
「その……リュウジこそ」
「ん?」
「頬、痛くない? さっきちょっと、ぶつかっちゃったかも」
心配になって、つい彼の顔に手を伸ばしてしまう。
指先が、傷のすぐ近くに触れた。
「っ……!」
リュウジの身体がわずかに強張った。
驚いて手を引こうとした瞬間、その手首をそっと掴まれる。
「大丈夫だ」
慌てて否定するように、リュウジが言った。
その声が、さっきまでのどんな言葉よりも少しだけ震えている。
「ご、ごめん! 痛かったよね……!」
「違う。そうじゃなくて……」
言いかけて、そこで言葉を飲み込む。
代わりに、握っていた手首から静かに手を離した。
ルナは自分の手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
(なに今の……。
なんで、あんなふうに、ドキドキしてるの?)
自分に問いかけても、答えはひとつしかない気がして、余計に口に出せない。
リュウジもまた、頬のあざとは別の赤みをほんのり浮かべていた。
しばらく二人の間に沈黙が流れたが、やがてルナが、無理やりいつもの調子を引っ張り出すように口を開いた。
「……そうだ。今度さ、そのアパート、内見するときは教えてよ」
「え?」
「一人で見に行くより、誰かいたほうが客観的に見られるじゃない。
ちゃんと、収納が足りるかとか……。
私、チェックするから!」
自分でもなんでこんなに熱心に言ってるのか分からない。
でも、何か“理由”を作っておかないと、このドキドキが誤魔化せない気がした。
リュウジは、ほんの少しだけ目を見開いて、それから柔らかい笑顔を浮かべた。
「……それ、助かる。
じゃあ、今度エリンさんにも相談してみる」
「うん!」
さっきまでの気恥ずかしさが、少しだけ和らぐ。
未来の約束がひとつ増えたような気がして、胸の中がじんわりと温かくなった。
気づけば、空はさらに赤みを増していて、街の明かりがぽつぽつと灯りはじめている。
「そろそろ、分かれ道だな」
角を曲がれば、ルナの家のある方向。
その先、リュウジは別の道へと向かう。
「今日は……一緒に帰ってくれてありがとう」
ルナが立ち止まり、雑誌を持っていない方の手を、ぎゅっと握ってから言う。
「こっちこそ。ちゃんと“かっこよかった”って言ってもらえたし」
「わー! それまだ覚えてたの!? 忘れてよ!」
「無理だな」
笑い合う声が、夕暮れの路地に溶けていく。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
それだけ言葉を交わして、互いに背を向ける。
見えなくなってしまったはずなのに、まだどこか、相手の気配を背中に感じていた。
胸の奥で鳴り続ける鼓動を抱えながら、
ルナはリュウジの新しい部屋のことと――そこに続く、まだ見えない未来のことを思い描きながら歩いていった。
ーーーー
次の日の朝、ソリア学園の教室には、いつも通りのざわめきが戻っていた。
昨日の格闘技大会の話題で盛り上がる声。
誰かが机を寄せてトランプをしている音。
窓の外からは、まだ夏の名残を感じさせる明るい光が差し込んでいる。
リュウジは自分の席に腰を下ろし、机の上に教科書を広げながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
頬のあざはまだ少し残っているが、氷で冷やしたおかげか、昨日ほど痛みは気にならない。
昨日、一緒に帰った帰り道のことを思い出すと、なぜだか自然と胸がむず痒くなる。
「かっこよかったよ」と言われたときの、どうしようもない照れくささ。
「……まったく」
小さく頭を振り、自分の頬を指で軽くつねる。
そのときだった。
「リュウジ」
名前を呼ばれて顔を上げると、すぐ目の前にハワードが立っていた。
いつもより少し姿勢が硬い。
どこか冗談を挟む余裕のない、真面目な表情。
「どうした、ハワード?」
その空気の違いを感じて、リュウジも自然と声を低くする。
ハワードは一度だけ周囲を見回し、それから短く言った。
「今日、放課後時間あるか?」
「……ああ」
唐突な質問に少し戸惑いながらも、リュウジは素直に頷いた。
予定といえば、ネフェリスの点検最終日をぼんやり見に行こうかな、という程度だ。
ハワードはその返事を聞くと、少しだけ表情を緩める。
「なら、空けといてくれ」
それだけ言い残すと、くるりと背を向けて自分の席の方へ歩いていった。
その背中は、いつもの軽薄さが薄くなっていて、妙に重たく見える。
リュウジは少しの間、その背中を心配そうに目で追っていた。
(……あいつ、何かあったか?)
「何かあったのか? あいつ?」
前の席から振り返ったカオルが、同じ方向を見ながら尋ねてくる。
肘を背もたれに引っかけ、顎を乗せるような格好で、じっとハワードの席を見ている。
「さあ?」
リュウジは小さく首を傾げた。
「ただの冗談って感じでもなかったしな。
……まあ、放課後になれば分かるか」
カオルは「そうか」と短く鼻を鳴らし、そのまま前を向いた。
◇ ◇ ◇
そして、放課後。
チャイムが鳴り終わると同時に、教室の中は一気に開放的な空気に包まれた。
椅子を引く音、雑談する声、廊下を走っていく足音。
リュウジもカバンを机から下ろし、帰り支度をしようとしたところで――
「リュウジ!」
勢いのある声が斜め前から飛んできた。
顔を向けると、シンゴが目を輝かせて立っていた。いつも以上にテンションが高い。
「ネフェリスのところに連れてってよ!
昨日まで点検だったでしょ? もう動かして大丈夫なんでしょ?」
近づいてきた勢いのまま、机に手をついて身を乗り出すシンゴ。
目は完全に「わくわく」でいっぱいだ。
「ああ、そういえば……」
その言葉に、カオルが後ろの席から思い出したように呟いた。
「ネフェリスの点検、昨日までだったな。
今日の夕方に最終のチェック結果が出るって、言ってたな」
シンゴにとっては、機械としても歴史としても、興味の塊だ。
「ネフェリスに行くのか?」
ベルが教科書を閉じながら、少し身を乗り出してくる。
「私も行きたい」
と、横からシャアラが顔を覗かせた。
制服の袖をきゅっと掴みながら、期待のこもった瞳を向ける。
「久々にネフェリスの内部にも入りたいな。
前に見学したときから、少し改修もしてるんだろ」
メノリも柔らかな笑みを浮かべながら言った。
指先でノートの端を揃えながら、さりげなく会話に加わる。
その流れに、ルナがぱっと立ち上がった。
「じゃあ、みんなで行きましょうよ。
せっかくなんだし、全員でネフェリスに顔見せに行こうよ!」
カバンを肩にかけながら、楽しそうに提案するルナ。
その顔は完全に「遠足前」のような輝きだ。
「いいね、それ!」
「賛成!」
シンゴとシャアラが同時に声を上げる。
ベルも小さく笑い、カオルも「まあ、悪くないな」とうなずいた。
リュウジも、その輪の中心で頷こうとした、その瞬間――
「ダメだ!」
教室の前の方から、鋭い声が飛び込んできた。
全員がそちらを向くと、教室の出入口近くに立っているハワードがいた。
いつもの余裕の笑みではなく、どこか焦りを含んだ真剣な顔。
「リュウジは僕が先約しているんだ!」
言い切るような強い口調。
その言葉に、教室の空気が一瞬止まる。
「えっ……?」
ルナが思わず声を漏らす。
メノリも目を丸くし、シンゴやシャアラ、ベルも驚いた表情でリュウジとハワードを見比べた。
リュウジ自身も、一瞬言葉を失う。
(あいつ……そこまで言うか)
「行こうぜ、リュウジ!」
ハワードはそれ以上説明しないまま、くるっと背を向けて廊下側へ歩き出した。
足取りは速いが、どこか迷いがあるようにも見える。
教室の外へ向かう彼の背中を見送りながら、ルナは心配そうに唇を噛んだ。
「何かあったの……?」
ルナが、そっとリュウジの方を見上げて尋ねる。
リュウジは肩をすくめ、軽く首を振った。
「さあな。
とりあえず……ネフェリスの件は、また今度だな」
そう言いながらも、その眼差しはどこか引っかかりを感じていた。
ハワードのあの顔は、単なる遊びでも冗談でもない。
(いつものノリなら、もっと軽く言うはずだ。
あんな言い方……あいつ、相当何か抱えてるな)
「……分かった。
後で、何だったか教えてよ?」
ルナが少し寂しそうに、それでも笑顔を作って言う。
「ああ。落ち着いたらな」
リュウジは短く答え、カバンの肩紐を握り直した。
「リュウジ!」
ちょうどそのとき、教室の出口からハワードの声がまた飛んできた。
扉のところで立ち止まり、振り返ったまま、じっとこちらを見ている。
先ほどより少しだけ、焦りが強く滲んだ声。
「今行く!」
リュウジはそう返事をすると、仲間たちに向き直る。
「悪いな。また日を改めて、みんなでネフェリス行こう」
「うん。約束だからね」
ルナがまっすぐに言う。
その声には、「行ってあげて」という気持ちもちゃんと込められていた。
シンゴも頷く。
「そうだよ、リュウジ。ハワード、なんか様子おかしいし……」
「しっかり話聞いてきてくれ」
メノリも穏やかな声で言う。
「……行ってくる」
リュウジはみんなに短くそう告げると、小走りで教室の出口へ向かった。
廊下で待っているハワードのところまで駆け寄る。
扉の枠を抜ける瞬間、もう一度だけ振り返ると、
そこには心配そうに、でも信じて待っている仲間たちの顔があった。
リュウジは軽く片手を上げ、それからハワードと並んで歩き出す。
どこかいつもとは違う静かな空気が、二人の間に流れ始めていた。
ーーーー
人気の少ない公園は、夕方の光が傾き始めていた。
遊具の影が長く伸び、ブランコは風に揺られてかすかにきいきいと鳴っている。
リュウジは、ハワードの少し前を歩きながら周囲を見回した。
「……ここか」
「人目につかない方がいいと思ってさ」
そう言って、ハワードは公園の端に並ぶ自動販売機の前で立ち止まった。
カバンから小銭を取り出し、機械の投入口に落とすチャリンという音がやけに響く。
「コーヒーでいい?」
「なんでもいい」
そう答えると、ガコン、と軽い音を立てて缶が落ちる。
ハワードは二本続けて甘いタイプのコーヒーを買い、そのうち一本をリュウジの方へ差し出した。
「ほら」
「悪い」
温かい缶を受け取りながら、リュウジは一緒に近くのベンチへ向かった。
木製のベンチは少しひんやりして、座ると背もたれが心地よく背中を支えてくれる。
二人は並んで腰を下ろした。
しばし沈黙。
リュウジは缶のプルタブを引き、ぷしゅ、と小さな音を立てると、そのまま一口含んだ。
(……甘いな)
思った以上にしっかり甘くて、心の中でそう苦笑する。
だが口には出さない。たぶんハワードなりに気を遣ったのだろう、ということが分かったからだ。
隣を見ると、ハワードも同じように缶を開け、一口飲んでから、膝に肘を置いて缶を弄んでいた。
視線は足元あたりをさまよっている。
いつもの、余裕たっぷりな笑みはそこになかった。
リュウジは缶を手の中で転がしながら、静かに口を開く。
「……で。何かあったのか? ハワード」
その問いかけに、ハワードの肩がわずかに揺れた。
しばらく押し黙っていたが、缶の飲み口に指を添えたまま、ぽつりと息を吐く。
「その一言、なるべく聞きたくなかったんだけどな」
乾いた冗談めいた言い方。
けれど、そこには本気の迷いが滲んでいた。
やがて、ハワードは観念したように顔を上げる。
「……今後の進路のことでさ。相談がある」
「進路?」
リュウジは少しだけ眉を動かした。
ハワードが真面目な顔で“相談”と言ってくる時点で、相当な一大事なのは分かる。
ハワードは缶を持つ手を膝の上に置き、遠くの遊具の方を見つめながら言葉をつないだ。
「ハワード財閥のこと、前にも少し話したろ」
「ああ。跡取りだってやつか」
「そう。それ」
ハワードは短く頷く。
「基本的にさ、僕の進路ってもう決まってるようなもんなんだよ。
家の人間にも、親族にも、周りの大人にも、“いずれ継ぐんだろう”って目で見られてきた」
その言い方は、淡々としているのに、どこか重い。
「財閥を継ぐのが使命なのは分かってる。
僕が継げば、多分、世間的には“丸く収まりました”って感じなんだろうし」
そこで一度言葉を切り、缶を少し傾けて中身をまた一口だけ飲む。
「……でもさ」
小さく、笑った。
「正直、自分がああいうのに向いてるとは思えないんだよな」
「向いてない?」
「うん。数字とか経営とか、嫌いってわけじゃない。
でもさ……僕が本当にやりたいことって、それなのかなって」
ハワードの脳裏に、別の光景がよぎる。
――サヴァイブのとき、オリオン号の上でやった即席の劇。
観客なんて仲間しかいない、小さな小さな舞台。
それでも、皆が笑ってくれた。驚いてくれた。泣きそうになってくれた。
「オリオン号でさ、劇やったろ」
ハワードがふいに言った。
「覚えてる?」
「ああ。忘れようがないだろ」
リュウジの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
あのときの、妙な衣装や大げさな台詞回しを思い出してしまったのだろう。
ハワードもつられて少しだけ笑い、そのまま言葉を続けた。
「あれ、すごく楽しかったんだよな。
みんなが笑って、驚いて、盛り上がってくれてさ。
俺が何かやることで、人がちょっとでも元気になったり、喜んでくれたりするの、悪くないなって」
缶の表面を指でなぞりながら、ハワードはぽつりぽつりと言葉を落とす。
「それからさ。なんとなくなんだけど……
財閥を継ぐより、人を喜ばせる“役者”になりたいって気持ちが、頭の片隅に残っちゃって」
リュウジは黙って耳を傾けていた。
「でも僕、そこまで真剣に考えたことなかったんだ。
“役者になりたいです”なんて言ったところで、家は絶対反対するだろうしさ。
だから、半分は冗談みたいに、自分の中で流してきたんだよ」
そこでふっと息を吐き、空になりかけた缶を覗き込む。
「でも、こっちに来て、サヴァイブの経験があってさ。
みんな、それぞれやりたいこと見つけて、少しずつ進もうとしてるだろ」
メノリは、自分の立場を活かして人を繋ぐ道を考えている。
シンゴは研究への道に目を輝かせている。
ルナは、人を支え守る仕事に関心を向けている。
カオルも、自分の戦い方を生かせるような将来を真剣に考えはじめている。
「リュウジも、言ったよな。
“やりたいことを見つけた”って」
その言葉に、リュウジの肩がかすかに動く。
以前、自分なりに覚悟を口にしたあのときのことが脳裏をよぎる。
守れなかったもののことも、これから守りたいもののことも、全部ひっくるめて決めた自分の道。
「どうすれば、僕も決められるのかなって」
ハワードは、真剣な眼差しでリュウジを見た。
「財閥を継ぐのが使命なのは分かってる。
だけど、あんまり自分に向いてない気もしてる。
役者になって人を喜ばせたいって気持ちも、本物なのかただの憧れなのか、自分でもよく分からない」
胸の内を吐き出すように、言葉がこぼれていく。
「みんなはさ、自分がやりたいことを見つけて、ちゃんと自分の足で立とうとしてる。
僕もそろそろ決めなきゃいけないんだと思うんだ」
自分で苦笑する。
「……“僕”なんて柄じゃないけど。
でも、そういうこと言いたくなるくらいには、追い込まれてるってことだな」
リュウジは缶を膝の上に置き、少しだけ空を見上げた。
木の枝の隙間から、薄くなってきた青空が覗いている。
「……進路なんて、俺が偉そうにどうこう言える話じゃないだろ」
そう前置きしたうえで、ゆっくりと口を開く。
「こればっかりは、自分で決めるしかない」
まっすぐで、ぶっきらぼうな言い方。
ハワードは「分かってる」とでも言いたげに、曖昧に笑った。
「そうなんだけどさ」
両肘を膝に乗せ、手を組んで前屈みになる。
視線は落ちたまま。
「それが簡単にできりゃ苦労しないっていうか。
どっちに進んでも後悔しそうでさ。
財閥を継がなきゃ、“逃げた”って言われる気がするし……
継いだら継いだで、“本当にやりたいこと”から目をそらしたってことになりそうだし」
「……」
リュウジは横目でハワードの表情をうかがう。
いつもなら大げさなジェスチャーで自分を誇張する彼が、
今は肩を小さくすぼめて、缶コーヒー一本に支えを求めるみたいにしている。
「分かってる。だけど――」
そこでハワードは、少しだけ視線を上げた。
「俺に相談するのは、間違ってる」
唐突にリュウジが言った。
「……は?」
ハワードが思わず間抜けた声を出す。
リュウジは静かな目で彼を見返した。
「進路のこと、将来のこと。
そういうの、俺より向いてるやつらが周りにいくらでもいるだろ」
「そんなことは――」
否定しかけたハワードの言葉を、リュウジは軽く手を上げて遮る。
「俺が全部聞いてやれないって意味じゃない。
ただ、“どっちの道を選ぶべきか”って話なら……俺はお前に答えを出せない」
その声音には、自分自身への自嘲も少し混ざっていた。
「俺の“やりたいこと”は、半分は過去への決着だ。
誰かの期待に応えるっていうより、“やらなきゃいけないこと”に近い。
だからこそ、俺の答えは、お前の役にはあまり立たないと思う」
ハワードは黙り込む。
リュウジは視線を前に戻し、ベンチの前に広がる砂場をぼんやりと眺めた。
「ただ――」
ふと口調を変える。
「話を聞いてて、一つだけ分かったことがある」
「……何?」
「お前、自分のことでこんなに真剣に悩めるくらいには、ちゃんと“自分のこと”考えてる」
リュウジは少しだけ口元を緩めた。
「だから、相談する相手を間違ってるって言ったんだ」
「だからって、誰に――」
「適任を紹介してやる」
リュウジはきっぱりと言った。
「進路のことも、家の事情も、“役者になりたい”って気持ちも、まとめて相談できるやつをな」
不意に告げられた言葉に、ハワードは目を見開く。
風が、二人の間をすり抜けていった。
遠くでブランコがまたきいきいと鳴る。
「……誰なんだよ、その“適任”って」
ようやく絞り出したハワードの問いに、リュウジは缶を軽くあおってから、意味ありげな笑みを浮かべる。
ハワードは半信半疑といった顔で隣に座っていた。
「ほんとにいるのかよ、そんな都合のいい相手」
「いる。俺がいちばん頭上がらないタイプのやつだ」
リュウジはそう言って、ポケットから携帯端末を取り出した。
画面を親指でなぞり、登録されている名前の中からひとつを選ぶ。
「……まさか、エリンさんとかじゃないよな?」
「エリンさんじゃない」
「じゃあ、タツヤ班長?」
「でもない」
「誰だよそれ以上って……」
ぶつぶつ言っているハワードの横で、発信音が鳴りはじめる。
数コールのあと、軽い、どこか陽気な声がスピーカーから響いた。
『久しぶりね、元気だった?』
その声音に、リュウジの口元が自然と緩む。
「そっちこそ。報告書は書けたのか?」
軽く皮肉を混ぜて返すと、電話の向こうでくすりと笑う気配がした。
『書けたわよ、なんとかね。
八回も出し直したわよ、こっちは』
「八回……?」
ハワードが隣で目をむいた。
『上司が細かいのなんのって。“ここ、語尾のニュアンスが違う”とか“この表現だと政治的に角が立つ”とか……。
私、あの人の赤ペンの夢にうなされかけたんだから』
「それは、ご愁傷さまというか……」
リュウジは苦笑をこぼす。
そのやり取りを聞いていたハワードが、ようやく何かに気づいたようにリュウジの袖をぐいっと引っ張った。
「おい、ちょっと待て。
相談相手って……ペルシアさんなのか!?」
「ああ。そうだけど?」
リュウジがきょとんと首を傾げる。
『何コソコソ話をしてるのよ、そっち』
電話口から、少し拗ねたようなペルシアの声が飛んできた。
「ああ、悪い」
リュウジは軽く謝り、姿勢を正す。
『で、それで? どうしたの?
リュウジがわざわざ私に電話してくるなんて、ただの世間話じゃないでしょ』
「ちょっと相談があってな」
『へぇ〜、珍しいわね。
リュウジが、エリンやタツヤ班長以外で私に相談してくるなんて』
ペルシアの声音に、あからさまな驚きが混じる。
「俺じゃない。ハワードだ」
『……ハワード?』
一瞬の沈黙。
そのあと、興味を持ったように声色が変わった。
『そこにいるの?』
「ああ」
リュウジは画面をタップし、通話をスピーカーに切り替える。
小さな端末をベンチの背もたれの上に置いた。
「ほら」
促されるように、ハワードが少し身を乗り出す。
「ど、どうも……」
声が少し裏返って、自分で情けなさそうに眉をひそめる。
『どーも。久しぶり、ハワード。
声、元気そうで何より。それで、相談って?』
ペルシアの軽い調子に、少しずつ緊張がほぐれていく。
ハワードは缶を握っていた手に力を込め、ゆっくりと言葉を選んだ。
自分がハワード財閥の跡取りとして育てられてきたこと。
周囲の期待。
それが“使命”なのは、頭では分かっていること。
それでも――サヴァイブのとき、オリオン号の上で劇をやったあの瞬間の感覚が忘れられないこと。
自分が何かを演じることで皆が笑い、喜んでくれたあの光景が、自分の中に強く残っていること。
「財閥を継ぐのが筋なのは分かってるんです。
でも、俺がほんとにやりたいのは……多分、役者なんです」
言いながら、自分でも「何言ってるんだろう」と思うような、くすぐったさと怖さが胸に湧き上がる。
「だけど、どっちを選んでも後悔しそうで。
継がなかったら、逃げたって思われるだろうし……
継いだら継いだで、“本当にやりたいこと”から目をそらしたってことになる気がして」
言葉が途切れ、缶の中身が小さく揺れる音がした。
「みんな、自分のやりたいことを見つけてるじゃないですか。
俺も、そろそろ決めなきゃいけないって思うけど……
怖いんです、多分」
そこまで言ったところで、電話の向こうから――
『……ぷっ』
と小さな笑い声が漏れた。
それがすぐに堰を切ったように大きくなっていく。
『あっはははははは!』
公園の静けさを揺らすほどの、遠慮のない笑い声。
ハワードは思わず顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。
「笑わなくてもいいじゃんかよ!」
『ご、ごめんごめん……!』
本当に笑い過ぎたのか、ペルシアは電話の向こうで呼吸を整えようとしている気配を見せる。
『別に、ハワードのことを笑ったんじゃないのよ』
「じゃあ何だよ」
むすっとした声で返すハワード。
『そんな大事なことを、リュウジに相談したことに笑ったのよ』
その瞬間、リュウジは「否定できない」という顔で無言になった。
「……何も言わないのかよ、そこは」
「否定材料がない」
あっさりと言われて、ハワードはさらに眉をひそめる。
『まあまあ。
でも、ちゃんと相談しようって思っただけ、ハワード、前よりずっと大人になったわね』
少し落ち着いたペルシアの声が、柔らかく響いた。
『さて、と』
そこで一度深呼吸するような間があり、声のトーンがほんの少し変わる。
先ほどまでの軽さは残しつつも、その奥に真剣さが混じった響き。
『ハワードがやりたいのは、役者なのよね?』
「……うん」
ハワードはゆっくりと頷くように答えた。
その声には、まだ迷いはあったが、それでも“そう言いたい”という本心がはっきり滲んでいた。
『なら、話は早いわ』
ペルシアがきっぱりと言う。
『やりたいことがあるなら、あとは自信と勇気だけよ』
「自信と……勇気」
『そう。
選択するってことは、何かを失うことでもあるからね』
その言葉に、ハワードはぎゅっと缶を握りしめた。
『どっちかを選べば、どっちかは捨てることになる。
財閥を継げば、“役者になりたかった自分”を一度殺すことになる。
役者になるなら、“生まれながらに与えられた役目”を背負い続ける自分を捨てることになる』
ペルシアの声は、淡々としていながらもどこか温かい。
『でもね、ハワード。
選ばないで曖昧なままでいるのは、一番大事な“今”を失ってるのと同じなのよ』
「……」
『選択するときって、自分で腹をくくる瞬間もあれば、何かきっかけが、偶然みたいな形で訪れることもある』
そこで、少しだけ懐かしむような笑いが混じった。
『エリンの話、知ってるでしょ?』
「エリンさん……?」
『あの子、ドルトムントの旅行会社を辞めても、ずっと恩義を感じてたのよ。
だから、客室乗務員になるっていう昔からの夢を、もう諦めるつもりだったみたい』
リュウジも横で静かに耳を傾けている。
『でも、リュウジが捜索任務に出ることになって――
“自分がリュウジを支えなくちゃ”って思った。
そのタイミングで、あなたのところの旅行会社に籍を置いた』
「……」
『彼女はそのとき、“ハワードの会社で働く”って選択をしたのよ。
夢を一旦横に置く代わりに、“今、できること”を選んだ』
ペルシアは続ける。
『私だってそう。
それなりの地位を捨てて、自分の力をちゃんと発揮できる場所を探した結果、宇宙管理局に仕事を変えた』
ハワードは意外そうに目を瞬いた。
「ペルシアさんでも……迷ったりしたんですか」
『当たり前でしょ?
肩書きって、守ってくれる代わりに、縛ってもくるものなのよ』
少しだけ自嘲気味な笑い。
『それでも私は、“自分で動ける方が性に合ってる”って思ったから、地位を手放した。
多少給料が減っても、責任の場所が変わってもね』
ペルシアはそこで言葉を一度区切り、そのあとの声を少しだけ柔らかくした。
『でもね。何を選択しても――エリンやタツヤ班長、リュウジは、ずっと仲間でいてくれた』
その言葉に、リュウジは小さく息を飲む。
『ハワードもそうでしょ?
何を選択しても、ルナちゃんたち、大事な仲間がいるじゃない』
ルナ、メノリ、シンゴ、ベル、シャアラ、カオル――そしてリュウジ。
お互いに何度も命を預け合ってきた顔ぶれが、次々に頭に浮かぶ。
「……それは、まあ」
認めざるを得なくて、ハワードは顔を少し逸らしながら呟いた。
『選択って、“自分一人”で切り離されることじゃないのよ。
ちゃんと繋がってくれる人たちは、何を選んでも繋がったままいてくれる』
ペルシアの声には、確かな実感があった。
『それにさ』
少し調子を変えて、彼女は笑う。
『ハワードは、サヴァイブで“何もないところ”で生き延びてきたんでしょ?』
「……まあ、そうですね」
『何も恐れる必要なんてないじゃない。
あの星で、拠り所もなかったくせに、ちゃんと食べて寝て笑って泣いて、ここまで来たんだから』
ハワードは無意識に、ルナたちと過ごした日々を思い出す。
熱い太陽。冷たい雨。
大いなる木の上で見た星空。
オリオン号の甲板での劇。
最初はただのお調子者だった自分が、少しずつ仲間として必要とされていく感覚。
『やりたいことがあるなら、やり尽くしてみればいいのよ。
やり尽くして、それでもダメだったら――』
ペルシアの声が、そこで柔らかく微笑むようなトーンになった。
『そのときは、サヴァイブのときみたいに“戻ればいい”のよ』
「戻る……?」
『何もないところから、また積み上げればいいってこと。
あのときできたんだから、今できない理由はないでしょ?』
言葉が、すとん、と胸の奥に落ちる感覚があった。
選択することは、確かに何かを失うことかもしれない。
でも、完全に何もかも失うわけじゃない。
戻れる場所――いや、“戻ってまた歩きだせるだけの力”を、自分たちは既に持っている。
「あんたは、強い子よ、ハワード」
ペルシアが静かに言う。
『自分でネタにして、笑い飛ばすくらいには、しぶといでしょ?』
「……買いかぶりですよ」
『そうかしら?』
少し意地悪そうな笑い声。
『やりたいことが“ある”って胸張って言える時点で、
本当はもう、答えは決まってるのかもしれないけどね』
ハワードは、返す言葉を失って黙り込んだ。
缶を見下ろすと、いつの間にかそれはほとんど空になっていて、ほんの少しだけ残ったコーヒーが、夕方の光を受けて揺れていた。
隣でリュウジが、何も言わずに彼の横顔を見ている。
「……ちょっと、考えてみます」
ようやく、ハワードは小さく息を吸って言った。
「すぐ答えは出せないかもしれないけど。
でも……逃げないで、ちゃんと考えてみます」
『それで十分。
結論を急ぎすぎると、ろくなことにならないからね』
ペルシアの声に、少し安堵が混じる。
『悩んだ分だけ、決めたときに強くなれるわよ。
何かあったら、また相談しなさい。リュウジ経由ででも、直接でも』
「……ありがとうございます」
自然と、頭が下がった。
たった音声だけの距離なのに、なぜだか、隣にいて背中を押してくれているような感覚があった。
『じゃあ、そろそろ私は仕事に戻るわね。
リュウジ、あんたも無茶しないように』
「ん。そっちもな」
『ハワード』
「はい」
『悩んでる時点で、もう半分は前に進めてるから。
自分をあんまり安く見積もらないこと。いいわね?』
「……はい」
さっきより少しだけ力のこもった声で、ハワードは返事をした。
通話が切れ、携帯の画面が暗くなる。
公園には再び、風と遊具の軋む音だけが戻ってきた。
「……ほんとに、反則だよな」
ハワードがぽつりと呟く。
「何がだ」
「こういうときに、あんな人のツテ持ってるお前がさ」
横目でリュウジを見る。
リュウジは肩をすくめた。
「俺もあの人には散々振り回されてるから、チャラだ」
「……まあ、そうかもな」
ハワードはふっと笑い、缶をゴミ箱に向かって軽く放る。
カラン、と小気味いい音を立てて中に収まった。
胸の中のモヤモヤは、まだ完全には晴れていない。
それでも、さっきまでよりずっと“前に進める”気がしていた。
ーーーー
次の日の朝。
ソリア学園の教室の扉が勢いよく開き、ハワードが堂々と入ってきた。
いつものように肩で風を切っているが、今日はそれに輪をかけて機嫌が良さそうだ。足取りも軽く、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だった。
「ハワード、上機嫌ね」
先に教室に来ていたルナが、席から顔を上げて優しく微笑んだ。
「まぁな」
ハワードはにやりと口元を上げる。
その顔は、昨日までのどこか曇ったものではなく、すっきりと晴れ渡っていた。
ルナはその表情を見て、胸の奥の心配が少し溶けていくのを感じる。
しばらくして、教室の外から聞き慣れた足音が二つ。
リュウジとカオルが並んで教室に入ってきた。
「おは――」
挨拶を言い終えるより早く、ハワードが椅子から飛び出す。
「リュウジーー!! 心の友よ!!」
「うおっ!?」
勢いよく抱きつかれ、リュウジは思い切り体をのけぞらせた。
片腕でカバン、もう片方でハワードの肩を押し返そうとする。
「離せ! 顔、触るな!」
「いいじゃないか、固いこと言うなって!」
「頬にまだ痕残ってるんだよ、やめろって!」
必死にハワードを引き剥がすリュウジ。
その光景に、カオルは呆れたようにため息をついた。
「……朝っぱらから元気だな、お前ら」
「カオルも抱きしめてやろうか?」
「要らない」
きっぱり断られ、ハワードは肩をすくめて自分の席に戻っていく。
リュウジは、ようやく解放された肩をぐるりと回しながら、ハワードの背中を眺めた。
(……もう大丈夫だな)
昨日、公園で缶コーヒーを握りしめて迷っていたときとは、まるで別人だ。
悩みが消えたわけではないだろう。けれど、ちゃんと自分の足で立とうとしている背中だった。
(さすが、ペルシアだ)
心の中で、彼女の名前を思い浮かべる。
声色やトーンのわずかな揺れから、人の感情を拾うのが、彼女はとても上手い。
まるで心の奥の震えを指でなぞるみたいに、必要な言葉だけを選んで投げてくる。
だから、相手は――
「自分で進んだ」って実感を持てる。
引っ張られた、でも押しつけられた、ではなく、
「自分で選んだ」と胸を張れるように背中を押す。
(人を支えるのは、エリンさんの方が向いてる。
でも、背中を押すのは……ペルシアの方が向いてるな)
そんなことを考えながら、自分の席にカバンを置き、椅子に腰を下ろした。
その瞬間、トン、と机に両手がつかれる。
顔を上げると、そこにはルナがいた。
少しだけ身を乗り出すようにして、心配そうに覗き込んでくる。
「ハワード、大丈夫だったの?」
リュウジは自然と視線をハワードの方に向けてから、口角を上げた。
「今のハワードを見れば分かるだろ」
教室の一角では、ハワードがシンゴやシャアラ相手に身振り手振りで何かを話している。
シンゴは目を輝かせて相槌を打ち、シャアラは口元に手を当てて笑っている。
「あー……うん。確かに」
ルナもその様子を見て、クスッと笑みを浮かべた。
「何か吹っ切れたって感じね。
昨日まで、どこか難しい顔してたのに」
「まぁな」
リュウジは曖昧に笑う。
ルナはそこで少しだけ目を細めて、リュウジの方へ視線を戻した。
「で、何の話だったの?」
「何って?」
「昨日、ハワードと二人でどこか行ってたでしょ。
相談があるって言ってたけど……」
真正面から問われ、リュウジは少しだけ視線を外す。
「それは、ハワードに聞いてくれ」
簡潔にそう答えた。
「え〜?」
ルナは不満そうに眉を寄せる。
「もう、大事なことは何にも話してくれないんだから」
頬をぷくっと膨らませるその表情が、子どもみたいで、どこか可笑しい。
リュウジは思わず苦笑した。
「そんなことはないだろ」
「ふーん? 本当に?」
ルナはさらに身を乗り出し、リュウジの顔をじっと覗き込む。
距離が近くなりすぎて、リュウジの方が思わずわずかにのけぞった。
「自分の胸に聞いても、同じことが言える?」
悪戯っぽくそう言われ、言葉が喉で固まる。
(自分の胸、ね)
一昨日の帰り道のこと。
危うく転びかけたルナを抱きとめた感触。
近すぎる距離。
肩に残ったぬくもり。
それを思い出してしまい、胸の奥が妙にざわつく。
「………言える」
リュウジは、わざと視線を逸らしながら答えた。
ほんのわずか、間が空いてしまう。
「……今、変な間があったよね!?」
すかさずルナが突っ込んでくる。
「ない」
「あった!」
ルナが身を乗り出したまま抗議し、リュウジは反論できずに無言のまま横を向いた。
「……」
「……」
微妙な沈黙。
だが、そこには険悪さというより、むしろくすぐったい空気が漂っている。
その空気を破ったのは、背後から飛んできた軽い声だった。
「おいおい、朝から夫婦喧嘩か?」
ハワードが、ケラケラと笑いながら近づいてくる。
「してないわよ!」
ルナは瞬間的に顔を真っ赤にして、机から身を起こし、ハワードの方を振り向いた。
その勢いに、ハワードはビクッと肩を震わせる。
「ご、ごめんなさい!」
反射的に両手を上げて謝る姿がなんとも情けなくて、教室の空気がふっと和んだ。
少し離れたところで見ていたシャアラとベルは、思わず顔を見合わせてクスッと笑う。
「相変わらずだね、あの二人」
「ほんと。……でも、いい雰囲気」
小さく囁き合う声は、ルナとリュウジには届いていない。
ルナはまだ頬を赤くしたまま、ぷいっとそっぽを向く。
その横で、リュウジは苦笑をこらえきれず、肩を少し揺らした。
(……まあ、こうやって騒がしいくらいが、こいつらにはちょうどいいのかもな)
昨日の公園で、重たい選択を前に悩んでいたハワード。
その背中を押す言葉をくれたペルシア。
そして、何も知らないふりをしながらも、こうして笑っていられる仲間たち。
その全部が、今のこの「日常」を作っている。
何気ない朝の教室の風景の中で――
リュウジは、頬のあざにそっと触れながら、小さく息を吐いた。
(もうしばらくは、こうやって騒がしく暮らせるといいな)
そんなささやかな願いを胸の奥で転がしながら、
彼はいつものように、授業の準備を始めた。