サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第71話

 十二月に入り、ソリア学園の中庭には、冬らしい冷たい風が吹き抜けていた。

 木々の葉はすっかり落ち、枝だけになったシルエットが、薄曇りの空に細い線を描いている。吐く息は白く、手袋をしていない指先はすぐにかじかんだ。

 

「さっむ……」

 

 ルナはマフラーをぎゅっと首に巻き直しながら、校門の前で空を見上げた。

 昨日まで秋だったのに、いきなり季節が一段階進んだみたいだ。

 

 そこへ、後ろから足音が近づいてくる。

 

「ルナ」

 

 名前を呼ばれて振り返ると、黒いコートのポケットに両手を突っ込んだリュウジが立っていた。

 ふだんとあまり変わらない表情だけど、頬に残っていたあざは、もうだいぶ薄くなっている。

 

「あ、リュウジ。今日、寒いね」

 

「ああ。さすがに、もう冬だな」

 

 そう言いながら、リュウジはふっと息を吐いてみせる。白い煙がふわりと浮かんだ。

 ルナも真似して息を吐くと、自分の吐息とリュウジの吐息が空中で重なって、ちょっと不思議な気持ちになった。

 

「……あのさ」

 

 リュウジが少し真面目な声で切り出す。

 

「明日、新しいアパートの内覧に行くんだけどさ。

 一緒に来るか?」

 

「えっ」

 

 ルナの胸が、ぽんっと音を立てたような気がした。

 

「い、いいの? 私がついて行っても」

 

「前に、一緒に行くって言ってただろ?」

 

 リュウジは、当たり前だと言わんばかりに言う。

 

「収納とか動線とか、そういうのチェックするって。

 ああいうの、俺一人だと見落としそうだし」

 

「あ……」

 

 そういえばそんなことを言ったな、とルナは頬を赤くした。

 あのときは勢いで言っただけのつもりだったのに、ちゃんと覚えていてくれたことが、嬉しくて、くすぐったい。

 

「い、行く! もちろん行くよ!」

 

 思わず食い気味に答えてしまい、自分で恥ずかしくなる。

 けれど、リュウジは特にからかうこともなく、ふっと口元を緩めるだけだった。

 

「じゃあ、明日の午前。駅前に十時でいいか?」

 

「うん、分かった!」

 

 心の中で、何度も何度も「明日」という言葉を反芻しながら、ルナはその場で小さくガッツポーズをした。

 

◇ ◇ ◇

 

 次の休みの日。

 

 ルナはいつもより少し早く目を覚ました。

 窓の外はまだ白っぽく、冷たい空気がガラス越しに伝わってくる。

 

(リュウジの新しいアパート……)

 

 布団の中でごろりと寝返りを打ちながら、昨日からずっと頭の中を回っている言葉をまた思い出す。

 

 クローゼットの前に立つと、何を着て行こうか真剣に悩んだ。

 別にデートじゃない。内覧に付き合うだけ。分かってはいるけれど――

 

(でも、変なのはイヤだし……寒そうだし……動きやすい方がいいし……)

 

 さんざん迷った末、落ち着いた色のニットに、膝丈のスカートと厚手のタイツ、そして少し長めのコートを選んだ。

 マフラーを一度巻き直し、鏡の前で軽く回ってみる。

 

「……よし」

 

 自分に小さく気合を入れて、家を飛び出した。

 

◇ ◇ ◇

 

 駅前のロータリーには、まだ人はまばらだった。

 冬らしい冷たい風がビルとビルの間を抜けてくる。

 

 約束の十分前に着いたルナは、マフラーの端を指でつまみながらあたりを見回した。

 

(まだかな……)

 

 そんなことを思っていた矢先、背後から声がする。

 

「早いな」

 

「わっ!」

 

 振り返ると、リュウジが少し息を白くしながら立っていた。

 黒のコートに、シンプルなマフラー。いつもとさほど変わらない服装なのに、冬の景色の中だと、どこか大人っぽく見える。

 

「びっくりさせないでよ」

 

「こっちも驚いた。もういるとは思わなかったから」

 

「約束してたから、早めに来ただけだよ」

 

 そう言いながらも、ルナは自分の頬がまた少し熱くなるのを感じていた。

 

「じゃあ、行くか」

 

「うん!」

 

 二人は駅前の通りを抜けて、住宅街へと続く緩やかな坂道を歩き始めた。

 

◇ ◇ ◇

 

 ソリア学園のあるエリアから、少し離れた高台の住宅街。

 坂道を上るにつれて、見える景色が少しずつ開けてくる。

 

「ここ、けっこう坂きついね」

 

「まぁな。でも、いい運動になる」

 

 リュウジは平然とした顔で歩いている。

 対してルナは、少し息を弾ませながらも、景色に目を奪われていた。

 

「でも、眺めがいいね。」

 

「ここ、夜になったらもっときれいらしいぞ。

 街の明かりが全部見えるって、エリンさんが言ってた」

 

「いいなぁ……。そんなところに住めるなんて、ちょっと羨ましいかも」

 

「家賃払うの、俺だぞ」

 

「それはそうなんだけど!」

 

 二人でそんな他愛もない話をしながら、坂道を上っていく。

 やがて、目的のアパートが見えてきた。

 

 クリーム色の外壁に、白い手すりのついたバルコニー。

 三階建てで、こじんまりとしているが、手入れは行き届いているようだった。

 

「ここだ」

 

 リュウジが玄関脇の表札を確認する。

 

 アパートの前には、既に一人の女性が立っていた。

 きちんとしたスーツにコートを羽織り、書類のファイルを抱えている。

 

「こんにちは。リュウジさんですよね?」

 

「はい。お世話になります」

 

 リュウジが軽く会釈する。

 ルナも慌てて隣で頭を下げた。

 

「あの、友達も一緒に来ていいですか?」

 

「もちろんですよ。どうぞどうぞ。

 今日はゆっくり見ていってくださいね」

 

 不動産会社の担当らしい女性は、にこやかに微笑み、アパートの中へ案内してくれた。

 

◇ ◇ ◇

 

 二階の角部屋。

 ドアを開けると、ほんのりと冷たい空気とともに、まだ誰も住んでいない部屋独特の匂いがふわりと漂ってくる。

 

「わぁ……」

 

 ルナは思わず声を漏らした。

 

 玄関からまっすぐ伸びる廊下の先には、陽の光が差し込むリビングが広がっている。

 床は明るい木目調で、窓も大きい。

 

「日当たり、いいね」

 

「ですね。ここは南向きで、冬でも比較的暖かいんですよ」

 

 担当の女性がそう説明する。

 

 リュウジは靴を脱ぎ、スリッパを履いて部屋の中へ入る。

 ルナもあとに続きながら、きょろきょろと周囲を見回した。

 

「ここがリビングで、奥が寝室になります。

 キッチンは……こちらですね」

 

 システムキッチンはコンパクトだが、使いやすそうに見えた。

 シンクもコンロもそこそこ広く、収納も十分。

 

「料理、する?」とルナが尋ねると、リュウジは少し考えてから答えた。

 

「それなりにな。外食ばかりってわけにもいかないし」

 

「じゃあ、今度、みんなで鍋とかできるね」

 

「いきなり過ぎなか?」

 

 苦笑しながらも、リュウジの声はどこか楽しそうだった。

 

 ルナはキッチンの脇に立ち、収納の扉を開けてみたり、コンセントの位置を確認したりしている。

 

「ここ、ゴミ箱置くスペースもあるし……。

 調味料とか置く棚、あとから追加しても良さそうだね。

 冷蔵庫、ここに置いて……」

 

 呟きながら動線をイメージしていると、ふと我に返る。

 

(あ、私が使うんじゃないんだった)

 

 胸の奥が少しきゅっとなって、そっと視線をリュウジに向ける。

 彼はリビングの窓辺に立ち、外の景色をじっと眺めていた。

 

 窓を開けると、ひんやりとした風が入り込む。

 外には、坂道の向こうに広がる街並みと、その先の海が見えた。

 

「……どう?」

 

 ルナはそっと隣に並び、同じ景色を見ながら尋ねる。

 

「悪くない」

 

 リュウジは短く答えた。

 

「学校にも、ソーラ・デッラ・ルーナにも近いし。

 眺めもいい。部屋の広さも、俺一人なら十分だ」

 

「そっか」

 

 そう言いながら、ルナは少しだけほっとする。

 

「でもな」

 

 リュウジがふいに続けた。

 

「こうやって、ここからの景色を見るのは……一人より、誰かと一緒の方がいいかもしれないな」

 

「え?」

 

 聞き返すと、リュウジは少しだけ目線を逸らした。

 

「さっき、鍋の話してただろ。

 そういうの、たまにできたらいいなって思っただけだ」

 

「あ……」

 

 胸の奥が、じん、と温かくなる。

 自分もその“誰か”の中に入っているのだと、勝手に思ってしまう。

 

「じゃあ、ここ、いいと思う」

 

 ルナは笑顔を作って言った。

 

「日当たりもいいし、風通しもいいし、眺めも最高。

 キッチンもちゃんとしてるし、収納もあるし……。

 それに――」

 

 言いかけて、ふと口ごもる。

 

「それに?」

 

「えっと……」

 

 言葉を探して、窓の外に視線を投げる。

 

「なんか、“リュウジらしい”って思ったから」

 

「俺らしい?」

 

「うん。落ち着いてるけど、ちゃんと先が見える感じ。

 すごく派手じゃないけど、ちゃんと必要なものが揃ってて、

 ここからまた、新しく何か始められそうな感じ」

 

 自分でも何を言っているのか分からなくなってきて、徐々に声が小さくなる。

 

「……変なこと言っちゃったかも」

 

「いや」

 

 リュウジは首を横に振った。

 

「そんなふうに見えるなら、いいかもしれないな」

 

 夕陽の代わりに冬の柔らかな光を受けた横顔が、どこか照れているように見えて、ルナの胸がまたきゅっと鳴った。

 

 担当の女性が、タイミングを見計らったようにリビングに戻ってくる。

 

「どうでしょう? もし気に入っていただけたなら、仮契約のご説明をしますけど」

 

「お願いします」

 

 リュウジが即答した。

 その声には、迷いよりも、決意の色が強く出ている。

 

(ああ、ここが――リュウジの新しい“家”になるんだ)

 

 そう思うと、嬉しさと、少しの寂しさが同時に胸の中を回り始める。

 

◇ ◇ ◇

 

 ひと通り説明を受け、簡単な書類に目を通し終える頃には、外は少しずつ夕方の気配を帯び始めていた。

 

 アパートを出ると、冷たい風が頬を撫でる。

 さっきまでいた部屋の温度との差に、思わず肩をすくめた。

 

「寒いな」

 

「ね。冬って感じ」

 

 階段を降りながら、ルナはもう一度だけ振り返る。

 二階の角の窓が、淡く光を反射している。

 

「ここに、リュウジの荷物が入って、家具が入って……」

 

「急に具体的だな」

 

「だって、なんか想像しちゃうでしょ?

 あの窓辺に、椅子置いたら似合いそうとか。

 ここに本棚置いたら、きっとカッコいいとか」

 

「本棚、そんなに本持ってないぞ」

 

「増やせばいいんだよ。

 リュウジ、勉強もするんでしょ?」

 

「耳が痛いな」

 

 冗談を交わしながら、二人は坂道を下りていく。

 夕方の空は少しずつ薄いオレンジ色に染まり始めていた。

 

「付き合ってくれて、助かった」

 

 ふいにリュウジが言う。

 

「一人で見に来るより、いろいろ見えた気がする」

 

「本当?」

 

「ああ。収納とか、生活動線とか……正直、俺一人じゃ気づかなかった」

 

 そう言われて、ルナは胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

「よかった。

 少しは役に立てたみたいで」

 

「十分だ」

 

 短い一言。でも、その“十分”に、ちゃんと気持ちが乗っているのが伝わってきた。

 

 しばらく歩いたところで、ふとルナが立ち止まる。

 

「ねえ、引っ越したらさ」

 

「ん?」

 

「また、みんなで集まってもいい?」

 

 恐る恐る尋ねるように言う。

 

「ネフェリスだけじゃなくてさ。

 リュウジの部屋でも、そういう場所がひとつあったら、いいなって」

 

 リュウジは少しだけ目を見開き、それからゆっくりと頷いた。

 

「……そうだな。

 そういう場所に、できたらいいな」

 

 ルナは、その言葉だけで、今日ここまで来たことのすべてが報われたような気がした。

 

 冷たい風が二人の間を通り抜ける。

 けれど、その風の中に、どこか新しい季節の匂いが混じっているような気がして――

 

 ルナは、マフラーをぎゅっと握りしめながら、少しだけ早足で並んで歩き出した。

 

ーーーー

 

十二月の空は、相変わらず薄く白く曇っていた。

風は鋭く冷たいけれど、早くも新しい生活の準備を始めているこの部屋の中には、どこか落ち着かない温度が漂っている。

 

リュウジとルナは、先日内覧したばかりのアパートの一室にいた。

契約はすでに済んでいて、今日は「これからここで暮らす」ための、最初の実務的な作業の日だった。

 

「よし、冷蔵庫はここ……っと」

 

ルナは玄関から続く小さなキッチンスペースで、メジャーを伸ばしながら独り言をつぶやく。

冷蔵庫置場の幅と奥行き、高さもしっかりチェックしていく。

 

「横が六十センチくらい……奥行きは、うーん、配線とかも考えると、このくらい余裕見た方がいいかな」

 

メジャーの数値を小さなメモ帳に書き込みながら、角度を変えてもう一度確認する。

その手つきは慣れていて、迷いがない。

 

「洗濯機置場はこっちだな」

 

洗面スペースの方で、ルナはしゃがみ込んで排水口の位置と蛇口の高さを見ていた。

メジャーを伸ばして、ホースの長さをイメージしている。

 

「……さすがだな」

 

リビング側からそれを眺めていたリュウジが、思わず感心したように言った。

 

「何が?」

 

「寸法の測り方とか、配置のイメージとか。

 完全に“一人暮らしのプロ”って感じだ」

 

「プロってほどじゃないよ!」

 

ルナは頬をふくらませながらも、少し照れくさそうに笑った。

 

「でも、今使ってる冷蔵庫も洗濯機も、全部管理会社の備え付けなんでしょ?引っ越すなら、新しく揃えなきゃって思うでしょ。

 サイズ合わなかったら悲惨だし」

 

「確かに」

 

今の寮の部屋の家電は、ほとんどが“最初からそこにあったもの”で、

自分で選ぶという感覚はあまりなかった。

 

(こうやって、一個一個選んで揃えていくのか……)

 

新しい生活の輪郭が、少しずつ具体的な形になっていく。

 

「ねえ、洗濯機はさ、縦型がいい? ドラム式がいい?」

 

洗濯機置場の前にしゃがみ込んだまま、ルナが顔を上げた。

 

「どっちがいいんだ?」

 

「え〜、そこで返してくる?」

 

「どっちにもメリットあるって聞くしな。

 正直、洗えればいいってレベルなんだが」

 

「それがいちばん危ないんだってば。

 乾燥まで考えるならドラム式もいいけど、置場のサイズ的には縦型の方が無難かな……」

 

またひとつ、メモに書き込む。

 

「こういうの、全部任せて悪いな」

 

「いいよ。楽しいし。

 それに、後から“扉が開かない”とか“ホースが届かない”とか言われたら、私の方が気になっちゃうもん」

 

「そうならないように、頼む」

 

リュウジは肩を竦めて笑い、窓際へと視線を向けた。

 

冬の薄い光が、まだ何も置かれていない床を斜めに切り取っている。

家具も、カーテンも、生活感の匂いもないこの部屋は、

いまのところ“誰のものでもない空間”という感じがまだ少し強い。

 

だがそこに、ルナが腰を下ろしてメモ帳を広げたり、

メジャーを巻き取る音を響かせていると、不思議とこの部屋が少しずつ“自分の場所”に近づいている気がした。

 

「……とりあえず、寸法は全部取り終わったかな」

 

ルナが立ち上がって伸びをする。

 

「じゃあ、このあと家電量販店行って――」

 

と言いかけたそのとき。

 

コンコン、と控えめなノックの音が響いた。

まだカーテンもないドアの窓から、人影がちらりと動く。

 

「誰か来た?」

 

「管理会社か? 時間、早いけど――」

 

リュウジが玄関に向かって歩いていき、ドアを開けた。

 

「お邪魔しまーす」

 

明るい声とともに、見慣れた緑髪がひょっこり顔を覗かせた。

 

「エリン」

 

「やっほ。ちゃんと引っ越し準備、進めてる?」

 

その後ろには、見覚えのある制服姿――ではなく、

私服姿の三人の女性が少し緊張した面持ちで立っていた。

 

「チャコから連絡もらってね」

 

エリンが軽く片手を上げる。

 

「“リュウジの新居準備が本格的に動き出したから、冷やかしに行ったってや〜”って」

 

「アイツ……」

 

ルナが頭を抱えそうになった一方で、リュウジは小さく肩を落とした。

 

「で、せっかくだから“あの子たち”も連れてきたの」

 

そして自分の後ろに立つ三人の女性を手で示す。

 

「それで、この三人も連れてきたの。覚えてる?」

 

 ルナは反射的に背筋を伸ばした。

 三人は緊張気味に並んでいたが、それぞれ強い個性が目を引いた。

 

 ひとりは――燃えるような赤髪をポニーテールに結んだ、快活そうな女の子。

 腰に手を当て、落ち着かない様子で視線をあちこちに飛ばしている。

 

 もうひとりは、長い黒髪を耳にかけ、すっと背筋を伸ばした女性。

 長身で気品があり、キリッとした目元が知的な印象を与える。

 

 三人目は、柔らかな銀髪を整えたボブの女性。

 控えめに微笑む仕草が、上品な雰囲気を漂わせていた。

 

 視線を合わせるたびに、小さく肩が跳ねる。

 

「……ああ」

 

 リュウジが口を開くと、三人が揃って息を飲んだ。

 

「ククルに、カイエ、エマだったな」

 

「え……えええっ!? お、覚えててくださったんですか!?」

 

 勢いよく飛び出したのはククル。赤髪が元気よく揺れる。

 

「当たり前だろ」

 

 リュウジは肩をすくめて続ける。

 

一歩前に出たのは、ポニーテールの少女――ククルだった。

目を丸くして、信じられないといった顔でリュウジを見る。

 

「当たり前だろ」

 

リュウジは少し肩をすくめる。

 

「ククルは、宇宙船の中をドタバタ走り回って、

 よくペルシアに怒られてたな」

 

「わぁ、それ言われると思わなかった……!」

 

ククルは顔を真っ赤にして両頬を押さえる。

 

「『船内で走るな!』って、何回も怒鳴られたもんね」と、カイエが苦笑した。

 

リュウジは彼女の方へ視線を向ける。

 

「カイエは、お客とリバーシに熱中して、

 エリンさんが苦笑い浮かべてたな」

 

「うっ……」

 

カイエは目を伏せる。

 

「だって、あのお客さん、すごく強かったんだもん。

 あと一手で逆転できそうだったから……」

 

「それでドリンクサーブ遅れて、エリンさんが困ってたんだろ」

 

「そうそう」

 

エリンが隣で肩を揺らして笑った。

 

「“カイエ、ゲームは後! 仕事が先!”って、何回言ったか分からないわ」

 

そして三人目―ーエマに目を向ける。

 

「エマは、よくタツヤ班長のところにお菓子食べに来てたな」

 

「ひゃっ」

 

エマはびくっと肩を震わせて、両手を胸元で握りしめた。

 

「そ、それは……! たまたま、休憩が重なっただけで……!」

 

「“たまたま”が妙に多かったけどな」

 

そう言って、リュウジはほんの少しだけ目を細めた。

からかうというより、懐かしさの混じった視線だった。

 

「話したことはあんまりなかったが、同じ船に乗ってた顔くらい、忘れないさ」

 

淡々と告げるその一言に、三人は胸の奥からじんとくるものを覚えていた。

 

(あのとき、自分たちはただの“乗務員の一人”で、

 リュウジとはほとんど直接話したこともなかったのに)

 

(それでも、ちゃんと見ていてくれたんだ)

 

 その静かで確かな言葉に、三人は胸を押さえながら息を飲んだ。

 

「はい、じゃあルナを紹介するわね」

 

 エリンが軽やかに場をつなぐと、ルナは慌てて一礼した。

 

「は、初めまして。ルナです。今日はよろしくお願いします」

 

「ルナちゃん! 実物可愛い!」

 

 ククルが一歩前に出る。

 

「サヴァイブでみんなをまとめてたんだよね!? すごい!」

 

「いえっ、わ、私なんて……みんなが一緒だったからで……!」

 

 ルナは真っ赤になって手を振る。

 

「特集読んで、本当に驚いたわ」

 カイエは落ち着いた声音で言う。

「普通の人間にはできないことよ」

 

「……ほんと、すごいです」

 エマも、上品に両手を胸元で重ねながら頷いた。

 

「そんなことないですよ……!」

 

 ルナが縮こまると、エリンが微笑む。

 

「遠慮しなくていいのよ。あなたのこと、タツヤやペルシアも高く評価してたわ」

 

「えぇっ!? そ、そうなんですか……?」

 

 リュウジは横で軽く目を伏せる。

 

(まあ……ルナの働きは誰だって認めるだろ)

 

「というわけで――」

 

 エリンが手を叩く。

 

「寸法測りは終わった?」

 

「は、はい、ちゃんとメモしました!」

 

 ルナがメモ帳を掲げると、ククルが食いついた。

 

「ルナちゃん、偉い! なら家電選びも完璧だね!」

 

「え、いえ、そんな……!」

 

「大丈夫よ。三人も家電にはうるさいから」

 

 エリンがニヤリとする。

 

「ククルは使い勝手重視。

 カイエは機能とコスパ重視。

 エマは静音性と省エネ性重視」

 

「エリンさん!? ばらさないでください!」

 

 三人が一斉に抗議した。

 

「でも、心強いでしょ?」

 

「まあ……な」

 

 リュウジは少し照れたように視線を逸らした。

 

 ――頼れる味方が増えた。

 

「それじゃ、行きましょう!」

 エリンが玄関へ向かう。

 

「今日、セールやってる家電量販店があるの。

 冷蔵庫も洗濯機も、今ならちょうどいいタイミングよ」

 

「お願いします!」

 

 ルナは元気よく返事をし、メモ帳を抱えたまま三人の客室乗務員に囲まれた。

 

「ルナちゃん、どんなのがいいと思う?」

「容量は? 一人暮らしならそこまでいらないかも」

「静かなほうがいいですよね……夜に回すなら」

 

 三人に一気に質問され、ルナは「え、ええと……!」と慌てふためく。

 

 その様子を見て、リュウジは小さく笑った。

 

(……なんか、にぎやかになりそうだな。

 でも、これくらいが俺にはちょうどいいのかもしれない)

 

 冬の冷たい風の先に、

 これからの新しい生活――そして新しい縁が、

 静かに根を下ろしはじめていた。

 

ーーーー

 

量販店の自動ドアが、ひゅいんと軽い音を立てて開く。

 

「おー……広いな」

 

思わずリュウジが声を漏らした。

天井まで届きそうな棚と、ずらりと並ぶ最新家電たち。人も多く、店内はほどよい喧噪に包まれている。

 

「さ、行くわよ。冷蔵庫コーナーはあっち」

 

エリンが慣れた足取りで先頭に立ち、店内マップも見ずに歩き出す。

その背中を追うように、ルナ、ククル、カイエがぴったりついていった。

 

「じゃあ、冷蔵庫からですね」

「容量と冷凍室の広さ、ちゃんと見た方がいいですよ」

「自炊どれくらいするんですか? 週に何回ぐらいとか」

 

三人が口々に言いながら、早くも戦闘態勢に入っている。

すぐさま、冷蔵庫コーナーにたどり着くと、四人は迷いなく各メーカーブースへ散っていった。

 

「おお、早いな……」

 

リュウジは少し離れたところで、その様子を眺めることにした。

ガラスのドアを開けたり閉めたり、野菜室のスライドの滑らかさを確かめたり、電源も入っていない冷蔵庫の中を真剣な顔で覗き込んだりしている。

 

「この冷蔵庫、ドアポケット深いですね。飲み物たくさん入りますよ」

「でも、冷凍室がちょっと狭いわ。冷凍食品使うならこっちの機種の方が良さそう」

「年間消費電力量……ふむ。こっちの方が電気代安そうですよ」

 

――性能、サイズ、電気代、デザイン、価格。

彼女たちは容赦なくチェックを入れていく。

 

(なんでもいいんだけどな……)

 

リュウジは内心そう思いながら、少し離れた通路の端に寄りかかった。

冷蔵庫なんて、ちゃんと冷えればそれで十分だと、正直思っている。

 

隣に、静かな足音が近づいた。

 

「行かなくていいのか?」

 

そう声をかけると、彼の隣に並んだ銀髪の女性が、ほわりと微笑んだ。

 

「ふふ。あのメンバーがいれば、私が行かなくても大丈夫ですよ」

 

柔らかな銀髪ボブに、上品な微笑み。エマだ。

彼女は両手を前で軽く重ねながら、冷蔵庫に群がる四人を見守っている。

 

「あの四人、頼りになりますから。私が口を挟む余地がありません」

 

「そうか?」

 

「エリンさんは全体バランスと実務目線。

 ククルは使い勝手と“生活してるイメージ”。

 カイエは性能とコスパ。

 ルナさんは……持ち主目線と、リュウジさんの生活パターン、ですね」

 

「……ルナは、さっきからずっとメモしてるな」

 

冷蔵庫の前で、ルナが真剣な顔でメモ帳を開き、エリンたちの意見を書き込んでいるのが見える。

時々、冷蔵庫の前にしゃがんで、棚の位置を確認したりしている。

 

「“なんでもいい”って、顔に書いてありましたからね?」

 

エマがくすっと笑う。

 

「でも、こういうのって、“なんでもいい”って言う人のために、周りが頑張っちゃうんですよ」

 

「悪いな」

 

「いいじゃないですか。みんな楽しそうですよ」

 

言われてみれば、四人は真剣な顔をしながらも、どこか楽しげだった。

エリンが何か言うたびにククルが「なるほどー!」と声を上げ、カイエが冷静に別の機種を推薦し、ルナが「それも良さそうですね」と頷く。

 

「……完全に、俺の出番ないな」

 

「ですね」

 

エマはあっさり言った。

 

「じゃあ、その間に“私たちの出番”を作りに行きませんか?」

 

「出番?」

 

「フードコート、あっちにありましたよね。

 ケーキがとても美味しそうだったんです」

 

やっと本音が出た、というような笑顔だった。

 

◇ ◇ ◇

 

量販店の二階にあるフードコートは、週末にしてはそれほど混んでいなかった。

いくつかの店が並ぶ中、ひときわ目を引くスイーツショップの前で、エマの足がぴたりと止まる。

 

「見てください、これ」

 

ガラスケースの中には、色とりどりのケーキが並んでいる。

苺の赤、チョコの濃い茶色、クリームの白。照明に照らされて、どれもやたらとおいしそうに見えた。

 

「……多いな」

 

「選びきれませんね」

 

エマは真剣な顔でケースに顔を寄せる。

 

「でも、こういうときは――」

 

「こういうときは?」

 

「全部です」

 

「全部?」

 

「全部です」

 

エマはさらりと言い切った。

 

数分後、トレーの上には――

リュウジの前に、アップルパイとブラックコーヒー。

エマの前には、イチゴのミルフィーユ、みかんのタルト、チョコレートケーキ。合計三つのケーキが整然と並んでいた。

 

「……よく食うな」

 

リュウジは思わず苦笑した。

 

「まだ控えめにした方ですよ?」

 

エマは、まったく悪びれた様子もなく、フォークを手に取る。

 

「スイーツは無限に食べられますから」

 

「無限って……」

 

「甘いものは別腹、ってよく言うじゃないですか。

 あれ、比喩じゃなくて真実ですよ」

 

上品な笑顔で恐ろしいことを言いながら、まずはイチゴのミルフィーユにフォークを入れた。

層になったパイ生地が、さくりと気持ちいい音を立てる。

 

「ん……」

 

一口食べた瞬間、エマの表情がふわっと緩んだ。

 

「これは……正解ですね」

 

「そんなにうまいのか?」

 

「一口どうです?」

 

フォークに乗せた一片を、エマがリュウジの方へ差し出してきた。

 

「いや、俺はいい。甘いのはそこまで――」

 

「ブラックコーヒー頼んだ人に言われても説得力ないですね」

 

「それはそれ、これはこれだろ」

 

「ほら、口、開けてください」

 

「いや、だから俺は――」

 

そこまで言いかけて、周囲の視線が少しだけ気になってしまい、リュウジは咳払いをした。

 

「……自分で取るから」

 

「残念です」

 

エマはくすりと笑い、自分でそのフォークを口に運ぶ。

 

「でも、いつか“甘いのも悪くないかも”って思ったら、そのときはぜひ」

 

「そのときが来るかどうか、だな」

 

リュウジは、アップルパイを一口かじる。

温められたパイから、ほのかな甘さとりんごの酸味が広がる。ブラックコーヒーの苦味とよく合う。

 

「……悪くない」

 

「ふふ。それならよかったです」

 

エマは二つ目のみかんタルトにフォークを伸ばした。

瑞々しいみかんと、淡いカスタードクリーム。見ているだけで甘酸っぱい香りが想像できる。

 

「よくそんなに入るな」

 

「乗務員時代、甘いものは数少ない癒やしでしたから。

 タツヤさんのところにお菓子もらいに行ってたなんて、誰が言い出したんでしょうね?」

 

「お前以外に誰がいる」

 

「まあ、否定はしませんけど」

 

エマはあっさり認めた。

 

「でも、甘いものって、“生きててよかった”って思わせてくれる瞬間、ありませんか?」

 

リュウジは少しだけ考える。

 

「……分からなくはない」

 

「ですよね」

 

エマは満足そうに頷く。

 

「サヴァイブのときも、甘いものなんてほとんどなかったんですよね?」

 

「まあ、果物があったぐらいかな」

 

「なるほど、でも果物をたまに食べられたときの記憶って、強く残りますよね」

 

エマは遠くを見るような目をした。

 

「私は……宇宙船にいたときも、同じでした。

 あの状況で、甘いものを味わえる時間なんてほとんどなかったけど――

 だからこそ、たまに口にできたとき、“まだ大丈夫だ”って思えたんです」

 

「……」

 

リュウジはコーヒーを一口すすった。

苦味の奥に、ほんのわずかな甘さが残る気がする。

 

「リュウジさんにとっては、何ですか?」

 

「何がだ」

 

「“まだ大丈夫だ”って思えるもの」

 

エマは、三つ目のチョコケーキのフォークを持ったまま問いかけた。

 

「甘いものでも、景色でも、人でも。

 誰かの言葉でも」

 

「難しいこと聞くな」

 

リュウジは、アップルパイの残りをゆっくりと口に運びながら考えた。

 

昔なら、すぐに出てこなかったかもしれない。

けれど今は――

 

「……仲間の声、かな」

 

ぽつりと、それは自然に口から出た。

 

「アイツらの声が聞こえると、ああ、まだ大丈夫だなって思う。

 うるさくて落ち着かないときもあるけど」

 

「ふふ」

 

エマが微笑む。

 

「それ、いい答えですね」

 

「そうか?」

 

「ええ。とても、らしいと思いますよ」

 

チョコケーキを一口食べて、エマは続ける。

 

「多分、ルナさんにとってもそうですよ」

 

「ルナにとって?」

 

「ええ。

 きっと、リュウジさんの声や、リュウジさんの“何気ない態度”が、

 ルナさんにとっての“まだ大丈夫だ”に繋がってます」

 

「……大げさだろ」

 

「大げさなこと、しましたよね? あなた」

 

エマは意地悪く笑う。

 

「悲劇のフライトのときも、サヴァイブのときも、今だって」

 

「……」

 

「大げさなくらいで、ちょうどいいんですよ。命の話って」

 

そう言って、エマは最後の一口のチョコケーキをゆっくりと味わった。

 

「はぁ……幸せです」

 

「そんなにか?」

 

「ええ。

 甘いもの食べて、こうやって他愛もない話ができて。

 “冷蔵庫どれにするか”なんて悩めるくらい、平和で」

 

リュウジは、空になったカップを見つめる。

 

「……そうだな」

 

平凡で、どうでもよさそうな悩み。

だが、それを笑いながら話せる今が、どれだけ尊いものかも、彼は知っている。

 

 「さて、そろそろ戻――」

 

リュウジが腰を浮かしかけた、そのときだった。

 

「――あっ、見つけた!」

 

弾むような声が飛んでくる。

燃えるような赤髪のポニーテールが揺れて、ククルが全力で手を振りながら近づいてきた。

 

「やっぱりここでしたね」

 

その横には、長い黒髪を耳にかけたカイエ。

トレーを片手に、落ち着いた表情のまま、しかし足取りはやや早い。

 

「勝手にいなくなったと思ったら……」

 

カイエはため息をひとつつきながら、じとっとした目をリュウジに向けた。

 

「見事にフードコートに避難してるじゃないですか」

 

「避難って言い方やめてくれないか」

 

リュウジは苦笑して肩をすくめる。

 

「エリンさんとルナは?」

 

「冷蔵庫が決まったので、今は洗濯機を見に行ってます」

 

ククルが元気よく答える。

 

「“候補が二つに絞れたから、あとで最終確認してもらおう”ってことで、

 私たちが呼びに行く係になったんです」

 

「“二人を呼んできて”って、エリンさんに頼まれたので」

 

カイエも真面目な顔で言う。

 

「……なるほどな」

 

そこまで聞いて、リュウジはふと二人の手元に目をやった。

 

ククルのトレーの上には、可愛らしいベリータルトとプリン。

カイエのトレーには、シンプルなチーズケーキとホットコーヒー。

 

「呼んできてって言われて、なんでケーキ持ってるんだ?」

 

じっとトレーを見つめながら、リュウジが呆れたように言う。

 

「いやー、その……」

 

ククルはたじろいで視線を泳がせた。

 

「フードコート通ったら、つい……」

 

「甘いものの誘惑は、強いですから」

 

カイエも珍しく気まずそうに目をそらす。

 

「まあ、いいじゃないですか」

 

エマがすかさずフォローに入る。

 

「どうせ戻る前に少し時間ありますし。

 座ったら?」

 

「……だね」

 

カイエは観念したように頷き、ククルと一緒に同じテーブルに腰を下ろした。

 

「エマ、さすが!」

 

ククルが嬉しそうに言う。

 

「ちゃんと甘いものの味方でいてくれる〜」

 

「甘いものに関しては、私は常に中立だよ」

 

エマはおっとりと笑った。

 

◇ ◇ ◇

 

しばしの間、テーブルには、フォークと皿の軽い音だけが響いていた。

ククルはベリータルトを、カイエはチーズケーキを、それぞれ上品に――しかし嬉しそうに口に運ぶ。

 

「そういえば」

 

チーズケーキを一口食べたあと、カイエがカップを置いて口を開いた。

 

「ハワード財閥の旅行会社……いよいよですね」

 

「いよいよ?」

 

リュウジが首を傾げる。

 

「明後日が、エリンさんの初フライトなんですよ」

 

ククルが目を輝かせて言う。

 

「ハワード財閥の旅行会社としての、記念すべき一便目です」

 

「もうそこまでいってるのか」

 

「はい」

 

カイエが、少し誇らしげに頷いた。

 

「ここ数週間、ずっと訓練と準備でしたから。

 ルートの確認に、機材のチェック、サービスの導線づくり……。

 シミュレーションも、かなりの回数こなしました」

 

「へぇ……」

 

リュウジは、カップの縁を指でなぞりながら耳を傾けた。

 

「シミュレーションでもね、エリンさんの実力がズバ抜けてるんですよ」

 

ククルが嬉しそうに身を乗り出す。

 

「緊急時対応の訓練でも、サービスのロールプレイでも、ほぼ全部トップクラスです」

 

「一年も療養してたとは思えないくらい」

 

カイエの言葉は、少しだけしみじみとしていた。

 

「むしろ……今の方が前より洗練されている気がします」

 

「療養してた分だけ、余計に“やってやる”って気合が入ってるのかもしれませんね」

 

エマも静かに微笑む。

 

「動き方に迷いがないというか……判断が早いんです。

 “ここでこう動けば、あとが楽になる”っていう先の展開が、ちゃんと見えてる感じで」

 

リュウジの頭に、悲劇のフライトやブライアン捜索のときのエリンの姿がよぎる。

恐怖に飲まれそうになりながらも、それを押し殺して前に立っていた姿。

 

「……エリンさんは元々、そういう人だろ」

 

リュウジはぽつりと呟いた。

 

「ブライアン捜索の時もブランクはほとんど感じなかった。

 感覚が鈍ってもおかしくないのに、それを経験で補っていた……」

 

「そこが、エリンさんなんですよね」

 

カイエが、少し柔らかい笑みを浮かべた。

 

「あと、シュミレーターでの訓練もすごかったです」

 

ククルの目が、尊敬でさらにキラキラする。

 

「姿勢制御のトラブルとか、機器の誤作動とか、想定シナリオを全部冷静に処理してて。

 システムエラーと乗客の不安が同時に来るパターンでも、ちゃんと優先順位つけて、最後まで落ち着いてました」

 

「“大丈夫です。順番にやっていけばいいんですよ”って、

 私たちまで落ち着かせてくれるんです」

 

エマが小さくうなずいた。

 

リュウジはコーヒーの残りを口に含み、静かに息を吐いた。

 

「ハワードの旅行会社も、いよいよ本格的に動き出すわけか」

 

「まだ路線は限定的ですけどね」

 

カイエが説明する。

 

「まずは短距離の安全なルートから。

 でも、ラインとしては、かなり注目されてますよ。

 “悲劇のフライト”や"ラスぺランツァ“の一員が、宙の安全を再び守るって」

 

「エリンさん、インタビューも受けてましたよね」

 

ククルが思い出したように言う。

 

「“怖くなかったですか?”とかいろいろ聞かれて……」

 

「“怖いに決まってるじゃないですか”って言い切ってたな」

 

エマがくすっと笑う。

 

「“怖いけど、それでも乗る人がいる限り、“任された宙”はちゃんと守らなきゃいけないと思ったんです”って」

 

「エリンさん、らしいな」

 

リュウジの口元に、自然と微笑が浮かぶ。

 

「怖いって言いながら、一番前を歩いてくタイプだ」

 

「……リュウジさんも、そうですよ?」

 

エマがさりげなく差し込んでくる。

 

「いや、俺は――」

 

「同類ですよね」

 

カイエがさらっと乗っかった。

 

「自分では“向いてない”とか“俺はそんな立場じゃない”って言いながら、

 結局いちばん前に立っちゃう人たち」

 

「ちょ、ちょっとカイエ、それは言い過ぎじゃ……」

 

ククルが慌ててフォローしようとするが、エマも小さく頷いた。

 

「タツヤ班長も言ってましたよ。

 “あいつら、なんだかんだで似た者同士なんだよな”って」

 

「……あの人、余計なことばっかり言うな」

 

リュウジは額に手を当てた。

 

「でも、頼りにしてますから」

 

ククルが、ケーキの皿を両手で持ちながら笑う。

 

「ハワード財閥の旅行会社の初フライトだって、

 エリンさんだけじゃなくて、リュウジさんたちが後ろにいるって思えるから、私たちも頑張れるんです」

 

「後ろ?」

 

「はい。

 実際に船に乗るのは私たちクルーですけど、

 “あのとき生き延びた人たちがいる”って思うと、変な話だけど……怖くても、踏ん張れるんです」

 

エマがそっと言葉をつなぐ。

 

「“あの人たちが見ている”って思うと、ちょっとだけ背筋が伸びますからね」

 

「……プレッシャーだな」

 

言いつつも、その口調に嫌味はない。

むしろ、どこか誇らしさに近いものが混じっていた。

 

「ま、こっちはこっちでやることやるだけだ」

 

リュウジは椅子から少しだけ姿勢を正した。

 

「明後日のフライト、うまくいくといいな」

 

「絶対うまくいきますよ!」

 

ククルが即答する。

 

「だって、エリンさんですから!」

 

「根拠としては雑ですけど、あながち間違ってはいませんね」

 

カイエも微笑を浮かべた。

 

「……あ」

 

ふと、エマが顔を上げる。

 

「そろそろ戻らないと、エリンさんに“ケーキ食べすぎ”って言われますよ」

 

「やっば!」

 

ククルが慌てて皿を空にし、カイエもコーヒーを飲み干す。

 

「じゃあ、私たち、先に戻ってますね」

 

カイエが立ち上がりながらリュウジを見る。

 

「洗濯機の候補もいくつか出ていると思うので、

 最終的に“なんでもいい”と言わせないように、説得しておきます」

 

「頼んだ」

 

「リュウジさんものんびりしすぎないでくださいね〜!」

 

ククルが手を振りながら駆けていく。

エマもトレーを片手に席を立ち、リュウジに軽く会釈をした。

 

「私も片付けてきますね。

 ルナさんに、“エマさんまた甘いもの食べてたんですね”って言われる前に」

 

「もうバレてるだろ」

 

「そうかもしれませんね」

 

くすっと笑い、エマも二人のあとを追っていく。

 

 テーブルに残されたのは、空になったカップと、さっきまでの会話の気配だけ。

 

(明後日、か)

 

リュウジは立ち上がりながら、ふと天井を見上げた。

 

エリンたちの初フライト。

そして、自分たちがこれから歩んでいく、それぞれの道。

 

(……大丈夫だろ。エリンさんなら)

 

そう心の中で呟いて、

彼は再び歩き出した。

 

その先には、

冷蔵庫と洗濯機と――ルナたちの待つ売り場が広がっている。

 

ーーーー

 

洗濯機コーナーに戻ると、ちょうど大型の縦型洗濯機の前で、

ルナとエリンが店員と話し込んでいるところだった。

 

「――あ、リュウジ」

 

先にこちらに気づいたのはルナだった。

軽く手を振りながら、ほっとしたような笑みを浮かべる。

 

その横で、エリンがわざとらしく肩をすくめて見せた。

 

「やっと来たわね」

 

「悪い。捕まっててな」

 

「捕まってた、ねぇ。ケーキに?」

 

横からククルが小声で突っ込み、カイエが咳払いでごまかす。

エマは何食わぬ顔で後ろの方に立っていた。

 

ルナがくすっと笑う。

 

「候補が出たって聞きましたけど」

 

「あんまり遅いから、決めちゃたわ」

 

ちょっとだけ得意げな、でも申し訳なさそうな笑顔。

ルナは振り返って、洗濯機のパネルを軽く叩いた。

 

「この洗濯機にしたの。

 容量もあるし、静かで、省エネで……あと、お値段もギリ許せるライン」

 

「“ギリ”って言うなよ」

 

思わずツッコミを入れつつ、リュウジは洗濯機の仕様プレートに目を通す。

なるほど、音も静かそうだし、機能も必要十分。何より、ルナの“ちゃんと考えた跡”が見える。

 

「冷蔵庫も決めたわよ」

 

エリンが紙袋から一枚のファイルを取り出した。

 

「さっき、店員さんと話して見積もり出してもらったの。

 冷蔵庫と洗濯機、それから他にも――」

 

「他?」

 

「それは、紙見た方が早いわね」

 

エリンは注文書をリュウジに差し出した。

A4の用紙には、びっしりと品名と金額が並んでいる。

 

「他には何か買うの? 一通り注文しておいたけど」

 

「一通り?」

 

リュウジは少し目を細めながら、紙を受け取って読み始めた。

 

「冷蔵庫、洗濯機……電子レンジ、炊飯器、電気ケトル、掃除機……

 照明器具、カーテンレールと簡易カーテン、延長コード、コンセントタップ……」

 

ざっと読み上げていくと、ククルが胸を張った。

 

「生活に必要な最低限セットです!」

 

「ちゃんと色味も揃えましたからね」

 

カイエが付け加える。

 

「キッチン家電は白でまとめて、リビング側は少し落ち着いたグレー系。

 あまりごちゃごちゃしないように選んであります」

 

「掃除機はコードレスにしました」

 

エマが控えめに言う。

 

「階段移動があるわけじゃないですし、小回りが利く方が便利だと思います」

 

「タンスとかベッドとかは、一度暮らし方を決めてからの方がいいでしょ? ってことで、今回は外しました」

 

ルナが説明を引き継ぐ。

 

「だから今日は、主に“ないと困る物”かな」

 

「……ふーん」

 

リュウジは一通り目を通し終えると、紙を少し持ち上げて眺めた。

 

(冷蔵庫と洗濯機だけ見に来たつもりだったんだが……

 いつの間にか“新生活セット一式”になってるな)

 

そう思いながらも、妙な不安はなかった。

どれもこれも、「あった方がいい」と言われれば納得できるラインナップだ。

 

「こういうの、最初に揃えちゃった方が後が楽だから」

 

エリンが肩に手を当てて言う。

 

「どうせいつか買うことになるんだもの。だったら、時間と気力があるうちにね」

 

「今がいちばん、“みんなに頼れるタイミング”ですから」

 

エマが柔らかく笑う。

 

「一人になってから全部調べて選んで、設置の段取りまで考えるの、大変ですし」

 

「どう?」 

ルナが少し照れたようにこちらを見る。

 

リュウジは、紙から視線を外して、四人――いや、五人の顔を順に見た。

それぞれが少し誇らしげで、少し不安そうで、でも楽しそうにこちらを待っている。

 

「これだけあれば、充分だな」

 

素直にそう言った。

 

「本当にいいの?」

 

ルナが目を丸くする。

 

「ああ。

 冷蔵庫も洗濯機も、俺一人じゃここまで考えなかっただろうし」

 

リュウジは注文書をもう一度見下ろし、ペンを借りてサイン欄に名前を書き込む。

 

「後は暮らしてみて、足りない物を買い足す。

 足りないって気づけるくらいには、生きていけるだろ」

 

「そういう言い方する?」

 

エリンが呆れたように笑う。

 

「でも、まあ……それでいいと思うわ。

 最初から完璧を目指すと、変に動きにくくなることもあるから」

 

「ですね」

 

カイエがうなずく。

 

「暮らしてみないと分からない“自分のクセ”もありますし。

 “ここに棚があった方がいいな”とか、“思ったよりここは使わないな”とか」

 

「そういう時はまた、みんなで買い物に出かければいいんじゃないですか?」

 

ククルが嬉しそうに言う。

 

「今度は、カーテンとかラグとか、クッションとか!

 そういうの選ぶのも楽しそうですし!」

 

「スイーツ付きで」

 

エマが小さく付け足し、全員の視線が一瞬彼女に集まる。

 

「……ふふ。冗談ですよ?」

 

「冗談に聞こえないんだよな」

 

リュウジが苦笑して肩をすくめると、ルナがクスッと笑った。

 

「でもさ」

 

ルナがふと、リュウジの横に並んで注文書を覗き込む。

 

「こうやって、みんなで色々決めていくの、ちょっとワクワクするよね」

 

「そうか?」

 

「だって、“リュウジの新しい生活の形”を、一緒に作ってるみたいで」

 

そう言って、ルナは少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「もちろん、決めるのはリュウジだけどさ。

 その“土台”に関わらせてもらえてる感じがするっていうか」

 

「……そういうもんか」

 

リュウジは、注文書に押された店の印鑑を見つめる。

 

(新しい部屋、新しい冷蔵庫、新しい洗濯機。

 それが全部、“俺の生活”になる)

 

その全部に、こうしてあれこれ口を出してくれる連中がいる。

 

「ま、いいや」

 

リュウジは小さく息を吐き、顔を上げた。

 

「任せた分、ちゃんと使い倒すよ」

 

「その言い方もどうかと思うけど……」

 

エリンが苦笑しながら、それでもどこか安心したように頷く。

 

「じゃあ、あとは配送日と時間の最終確認ね」

 

「引っ越しの日、ハワードにも伝えといた方がいいな」

 

「“新生活お祝いパーティー”って言い出しそう」

 

ルナのその一言を想像して、全員が同時にため息と笑いを漏らした。

 

冷蔵庫と洗濯機の購入手続き。

ただそれだけの、ありふれた買い物。

 

なのに、それがやけに大きな一歩のように感じられて――

リュウジは、注文書をそっと折り畳みながら、これから始まる日々の輪郭を頭の中に描きはじめていた

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