サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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おまけ

 ハワード財閥のロゴが入った宇宙船が、静かにドックに接続されている。

 その内部、クルー用デッキでは、出発前の最終ブリーフィングが行われていた。

 

「それでは、本日のブロック担当を伝えます」

 

 落ち着いた声でチーフパーサーが告げる。

 整然と並ぶクルーたちの列の中で、エリンは背筋を伸ばしたまま、その言葉を待っていた。

 

「エリン、ククル、カイエ、エマ――あなたたちは、C2ブロックをお願いします」

 

「了解しました」

 

 ほぼ同時に四人の声が重なる。

 

 エリンの隣で、燃えるような赤髪をポニーテールに結んだククルが、ぐっと拳を握った。

 

「ついにですね、エリンさん!」

 

「ええ。気を引き締めていきましょう」

 

 長身で黒髪を耳にかけたカイエは、静かに頷き、資料パッドを確認する。

 銀髪ボブのエマは、少し緊張したような、でもどこか楽しそうな表情を浮かべていた。

 

(――ここからが、私の“新しい一歩”)

 

 エリンは胸の奥で、そっと息を整えた。

 ハワード財閥の旅行会社に移って、一年。長い療養を経て、ついに迎えた初フライト。

 制服の襟元を指で整えながら、ほんの小さく自分に言い聞かせる。

 

(大丈夫。私は何度も空を飛んできた。やることは同じ。

 ――ただ、今日は“ここ”で、それをやるだけ)

 

「それじゃあ、C2ブロック、行きましょうか」

 

 チーフパーサーの声を合図に、四人は歩き出した。

 

◇ ◇ ◇

 

 C2ブロックは、中央寄りに位置する乗客区画だった。

 広めのシートと大きな窓が続き、家族連れやツアー客が多く配置されるブロックだ。

 

「じゃあ、私は前方担当します。ククルは中ほど、カイエは後方を中心に。エマは全体のサポートを」

 

「了解です!」

 

「分かりました」

 

「はい、エリンさん」

 

 エリンは頷き、まずは機内設備のチェックから始めた。

 オーバーヘッドコンパートメントのロック、安全装置、非常用ライト、酸素マスクの収納位置――ひとつひとつ、指差し確認していく。

 

 しばらくして、出発ゲートからのアナウンスが入る。

 

『これより、C2ブロックのお客様の搭乗を開始いたします――』

 

「さあ、出迎えましょう」

 

 エリンは柔らかな笑みを浮かべ、ドア付近に立った。

 ククルがその隣に並び、カイエとエマも持ち場へ散っていく。

 

 ほどなくして、最初の乗客が現れた。

 

「いらっしゃいませ。本日はご搭乗ありがとうございます」

 

 エリンは一人ひとりに微笑みかけながら、座席番号を確認し、スムーズに案内していく。

 

「あれ、久しぶりじゃな?」

 

 ふと、低く懐かしそうな声が耳に届いた。

 振り向くと、初老の男性がエリンを見つめている。

 

「先日のニュースで見ましたよ。怪我はもういいのかね?」

 

「あ……」

 

 エリンは一瞬だけ驚き、それからすぐにいつもの笑顔を浮かべた。

 

「ご無沙汰しております。おかげさまで、すっかり。ご心配ありがとうございます」

 

「今日、エリンさんがこの便に乗るって聞いてね。わざわざ日程を合わせて取ったんだよ」

 

「そんな……光栄です。ゆっくりおくつろぎくださいね」

 

 そう言って席へ案内すると、今度は若い女性が、少し恥ずかしそうに近づいてきた。

 

「あの……テレビで見ました。

 勇敢に乗客を守った客室乗務員さんって……」

 

「覚えていてくださったんですね」

 

 エリンは、心から嬉しそうに微笑んだ。

 

「今日は、ただの“フライトのエリン”として、皆さまをご案内します。どうぞよろしくお願いします」

 

 女性は緊張が解けたように笑い、「こちらこそ」と頭を下げた。

 

 そんなやり取りが何度か続く。

 エリンの両隣では、ククルとカイエがテキパキと乗客を席へ案内し、エマが荷物の収納を手伝っていた。

 

「荷物入れは、しっかりロックされているかご確認くださいね」

 

「ベルトは腰骨のあたりを通して、しっかり締めてください」

 

 声を掛け合いながら、C2ブロックの座席がひとつ、またひとつと埋まっていく。

 

 やがて、最後の乗客が席についた。

 

「エマ、全員着席したら、チーフパーサーに連絡を」

 

「はい、エリンさん」

 

 エマは端末を取り出し、確認用の入力を行う。

 

「C2ブロック、全乗客着席。特記事項なし、ですね」

 

「ええ。ありがとう」

 

 エリンは頷き、視線を前方から後方へと滑らせた。

 

 ククルもカイエも、それぞれの位置で乗客を見渡している。

 シートベルトの有無、荷物の収納状態、座席のリクライニング、そして――挙動のおかしい乗客がいないか。

 

(……異常なし。危険物の持ち込みも、少なくとも目に見える範囲では……)

 

 そう思ったときだった。

 

 ひとつのシートで、小さな動きが目に止まった。

 

◇ ◇ ◇

 

 窓側の席。

 膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、小さな肩を震わせている女の子がいた。

 顔は俯いていて見えない。隣の女性――母親だろう――が、背中をゆっくりさすっている。

 

「大丈夫よ、ソフィア。ママがついてるからね」

 

 かすかに聞こえた名前に、エリンは立ち止まった。

 

 女の子の指先は冷たそうに強張り、唇はきゅっと結ばれている。

 宇宙船の振動が怖いのか、それとも、過去の何かが彼女を怯えさせているのか。

 

(――放っておけないわね)

 

 エリンは短く息を吸い、ククルに目配せをした。

 

「ククル、ここ、少し見ていてくれる?」

 

「はい、エリンさん」

 

 ククルが代わりに通路側に立つのを見届けると、エリンは静かにスタッフルームへ向かった。

 

◇ ◇ ◇

 

 C2ブロック前方にある小さなスタッフルーム。

 エリンは棚を開け、小さなぬいぐるみの入ったボックスを探る。

 

「あった」

 

 手に取ったのは、丸っこいクマのぬいぐるみだった。

 茶色いふわふわの毛に、ちょこんと付いた黒い目。

 胸には小さな名札が縫い付けられている――“KUMAZO”。

 

(クマぞー。私を助けてちょうだい)

 

 エリンは内心でそう呟き、ぬいぐるみを片手に持ちながら通路へ戻った。

 

◇ ◇ ◇

 

 先ほどの席に戻ってみると、まだ女の子――ソフィアは、身体を小さく丸めるようにして震えていた。

 母親が優しく声をかけ続けているが、その表情は不安げだ。

 

 エリンは、二人のそばまで静かに近づくと、そっと膝を折った。

 ソフィアの目線の高さまで、自分を落とす。

 

 呼びかける代わりに、エリンは女の子の前に、ふわりとクマのぬいぐるみを差し出した。

 

 視界いっぱいに現れたクマの顔に、女の子の肩がぴくりと揺れる。

 

「……?」

 

 少しだけ顔を上げたソフィアの前で、クマの口がちょこちょこと動いた。

 

「僕の名前は、クマぞー。

 お嬢ちゃんのお名前は?」

 

 エリンの声とは少し違う、柔らかくてコミカルな声色。

 ソフィアは驚いたように目を瞬き――やがて、か細い声で答えた。

 

「そ、ソフィア……」

 

 ほんの少しだけ、興味の色が混じった声だった。

 

「ソフィア、か。いい名前だね」

 

 クマぞーは、ぴょこぴょことソフィアの前で首をかしげる。

 

「ソフィアは、宇宙船が怖いのか?」

 

 問いかけに、ソフィアはぎゅっと唇を結び、そして小さく頷いた。

 

「う、うん……」

 

「そっか。

 なら、僕と一緒に乗ろう!」

 

 クマぞーが元気よく言う。

 

 その瞬間、ソフィアの目がぱっと丸くなった。

 

「……い、一緒に?」

 

「うん! ソフィアが怖くないように、僕がずーっとここにいるから。

 だから、ソフィアは、僕のこと、ぎゅってしてていいよ」

 

 クマぞーの両腕を、エリンはくいっと前に出した。

 

 ソフィアは少しだけ躊躇ったあと――ぎゅっと、クマぞーを抱きしめた。

 

「……うん!」

 

 その声には、さっきまでの震えがほんの少し和らいでいた。

 

「じゃあ、ソフィアちゃん」

 

 エリンは、優しく声をかける。

 

「クマぞー、よろしくね」

 

「うん! ありがとう、お姉ちゃん!」

 

 ソフィアがようやく顔を上げ、エリンに笑顔を向けた。

 その笑顔を見て、母親も安堵したように小さく息を吐く。

 

「本当に……ありがとうございます」

 

 母親が頭を下げる。

 

「いえ、とんでもありません。

 困ったことがあったら、いつでも呼んでくださいね」

 

 エリンは軽く会釈をし、そっと立ち上がった。

 通路に出ると、ククルが嬉しそうにウインクを送ってくる。

 

「さすが、エリンさんですね」

 

「仕事だから」

 

 そう答えながらも、エリンの胸の内には、じんわりとしたあたたかさが広がっていた。

 

(――やっぱり、私はこの仕事が好き)

 

◇ ◇ ◇

 

 ブリッジからのアナウンスが流れる。

 

『全てのお客様、まもなくドックからの切り離しを行います。

 シートベルトを着用のうえ、お座席でお待ちください』

 

「さあ、最終確認を」

 

 エリンはククルとカイエに目配せをし、三人で手早くブロック内を見て回る。

 シートベルトの未装着はないか、シートは元の位置に戻っているか、荷物はしっかり収納されているか。

 

「前方、問題なし」

 

「中ほどもクリアです」

 

「後方も、異常ありません」

 

 三人がそれぞれ報告を終えると、エリンは満足げに頷いた。

 

「エマ、チーフパーサーに“C2ブロック、キャビンチェック完了”って連絡を」

 

「はい!」

 

 エマが端末を操作し、すぐに連絡を飛ばす。

 

 それを確認すると、エリンはスタッフシートに向かった。

 折り畳み式の座席を引き出し、腰を下ろす。

 

 隣には、同じくシートに座ったククルが、顔を輝かせている。

 

「いよいよですね、エリンさん」

 

「ええ」

 

 エリンはベルトのバックルを手に取り、カチャリと音を立てて締めた。

 自身の胸の高鳴りを、静かに押さえ込むように、深く息を吸う。

 

(ここから先は、空の上。

 ――そして、新しい私の“フライト”)

 

 宇宙船がわずかに振動し始める。

 C2ブロックの乗客たちが、それぞれの思いで窓の外を見つめる中、エリンはまっすぐ前を向いた。

 

 視線の先には、クマぞーを抱きしめているソフィアの小さな横顔。

 その頬には、もうさっきのような強い怯えは見えない。

 

(大丈夫。みんなで、無事に――行って、帰ってくる)

 

 エリンは、ほんの少しだけ微笑んだ。

 シートベルト着用のランプが点灯し、宇宙船は静かに、ドックから切り離されていった。

 

ーーーー

 

 シートベルト着用ランプが、ぽん、と音を立てて消える。

 直後、機内アナウンスが静かに流れた。

 

『シートベルト着用サインが消灯いたしました。機内を歩かれる際は、足元にお気をつけください』

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

 カチャリとバックルを外し、エリンは立ち上がる。隣でククルとカイエ、少し離れてエマも同じように立ち上がった。

 

 人工重力は安定しており、宇宙船の揺れもほとんどない。

 とはいえ、初フライトの乗客も多いのだろう。C2ブロックの乗客たちは、そのまま座席に座って外の景色を眺める者。さっそく立ち上がって、機内を散策しに行く者

 

 ほぼ半々に分かれていた。

 

 エリンたちは手際よく役割を分け、座席に留まる乗客へのサービスを始める。

 

「お飲み物はいかがなさいますか?

 ホットコーヒー、紅茶、オレンジジュース、ミネラルウォーターがございます」

 

 エリンは、いつもの落ち着いた声で笑顔を向ける。

 カップを受け取る乗客の表情はどれも穏やかで、彼女の所作はブランクをまったく感じさせない。

 

「ブランケットお持ちしましょうか? 少し冷えますので」

 

「あ、お願いします」

 

「かしこまりました。すぐお持ちしますね」

 

 丁寧で、無駄のない動き。

 かつて幾度も宇宙路線を飛び、緊急時の対応までも経験してきた“元チーフパーサー”とは思えないくらい自然に、しかし確かに洗練された動きだった。

 

 ――その一方で。

 

「エリンさーん! C列のお客さん、酔い止めのお薬欲しいって!」

 

 やや遠くから、ククルの明るい声が響く。

 だが、その声がやけに近づいてくるのは、彼女が「小走り」どころか、完全に走っているからだった。

 

 タタタタッ!

 

 通路を駆け抜ける赤いポニーテール。

 

「ククル!」

 

 エリンは、さっと後ろを振り返り、乗客に聞こえない絶妙な声量で呼び止めた。

 

「走らない!」

 

「へっ?」

 

 ククルがきゅっと急ブレーキをかけて振り向く。

 

「……あっ、ご、ごめんなさい!」

 

 エリンは笑顔を崩さないまま、そっと近づいて小声で続ける。

 

「ここは宇宙船の客室。通路は“通る”場所であって、“走る”場所じゃないわ。

 急いでいても、せめて“速歩き”で」

 

「は、はい……気をつけます……」

 

 ククルはシュンとしながらも、「了解しました!」と元気よく敬礼した。

 

(……この子は昔から変わらないわね)

 

 エリンは心の中でため息をつきながらも、口元は少しだけほころんでいた。

 

◇ ◇ ◇

 

 しばらくして、通路のさらに奥――後方席のあたりから、妙なざわつきが聞こえてきた。

 

「ちょっと貸してもらっていいですか?」

 

「えー、でもこれ、私のですけど……」

 

「そのデッキ構成なら、こっちの装備の方が強いですよ。見てください」

 

 乗客の少年と、どこか楽しげな声でやり取りをしているのは、カイエだ。

 静かなタイプのはずの彼女が、いつになく熱のこもった声で何かを語っている。

 

 エリンが通路を進んでいくと、

 少年の席の前で、カイエが携帯ゲーム機を両手で持ち、画面を真剣に見つめていた。

 

「ここでこの技能を使うとですね――」

 

「す、すごい……! そんな使い方あるんですか!?」

 

「ええ。前に友達とやり込んでいたので。ここのボスは――」

 

「――カイエ」

 

 エリンの声が、すっと背後から差し込んだ。

 

 カイエの肩がぴくりと跳ねる。

 

「げっ……」

 

「ゲームは後で。

 今は“仕事中”です」

 

 エリンは、あくまで微笑みは崩さず、しかし目だけは少し厳しめに細めた。

 

「……はい。申し訳ありません」

 

 カイエは素直にゲーム機を少年へ返し、姿勢を正した。

 

「すみません、お騒がせしました。続きをプレイするのは、到着後にしてくださいね」

 

「あ、はい!」

 

 少年は名残惜しそうに頷く。

 エリンはその様子を見て、柔らかく微笑んだ。

 

「でも、頼もしい相談役がいるみたいで良かったですね。

 ゲームの腕前は――保証しますから」

 

「ほんと?」

 

「ええ。責任を持って」

 

 少年は嬉しそうに笑い、カイエは少しだけ耳まで赤く染めた。

 

「……あの」

 

 ひそひそ声で、カイエがエリンにささやく。

 

「さっきのは、そんなに変な対応でしたか?」

 

「“変”じゃないわ」

「“適切なタイミングじゃない”だけ」

 

 言葉を選びながら、エリンはきっぱりと言った。

 

「お客様と打ち解けるのは大事。でも、それより先にやるべきことがあるでしょう?

 安全確認と、必要な人へのフォローが一通り済んでからなら、いくらでも相手をしてあげて」

 

「……はい。気をつけます」

 

 カイエは真面目な顔で頷いた。

 

◇ ◇ ◇

 

 通路を戻りながら、エリンは再びC2ブロックを見渡した。

 飲み物を受け取ってほっと一息ついている人、窓の外の星々を夢中で撮影している人、家族で静かに話し込んでいる人――それぞれの時間が流れている。

 

 ソフィアは、さっきの席でクマぞーをぎゅっと抱きしめていた。

 さすがにまだ不安そうではあるが、先ほどのように肩を震わせてはいない。

 

(よし……)

 

 ほっとしたところで、喉が少し渇いていることに気づく。

 

「カイエ、スタッフルームに戻るわ。少しだけ」

 

「分かりました。こちらは任せてください」

 

 エリンは頷き、スタッフルームへ向かった。

 

◇ ◇ ◇

 

 スタッフルームのドアを静かに開けると――

 そこには、小さなテーブルの前で、エマが椅子に座り、実に幸せそうな表情でケーキを食べていた。

 

 フォークで一口すくい、口に運び、目を細めている。

 

「……」

 

 エリンは、しばし言葉を失った。

 

「エマ?」

 

「……あ、エリンさん!」

 

 エマは慌てて立ち上がりかけるが、まだフォークを握ったままだ。

 皿の上には、きれいに飾られた苺ショートケーキが一切れ。

 

「何をしているのかしら」

 

「い、いえ、その……乗客用に余ったケーキを、チーフパーサーが“休憩のときに食べてもいい”って……」

 

 エマは申し訳なさそうに言いながらも、ケーキを見つめる目は、どうしても名残惜しそうだ。

 

「今は、休憩時間じゃないわ」

 

「……ですよね」

 

「少し落ち着いたからって、油断しないの。

 “何も起きていない時間”こそ、私たちが気を抜いちゃいけない時間なんだから」

 

「はい……すみません」

 

 エマは小さく肩をすぼめ、フォークを皿に置いた。

 

「ケーキは、あとでね。フライトが安定して、仕事が一段落してから」

 

「……分かりました。冷蔵庫に入れておきます」

 

 そう言いながらも、エマはケーキに最後にもう一度だけ名残惜しそうな視線を送る。

 

 エリンはその様子を見て、ふぅ、と小さくため息を漏らした。

 

「……あなた達が宇宙事業部に異動されなかった理由が、何となく分かる気がするわ」

 

 ぽつり、と呟いた言葉は、完全に本音だった。

 

 ククルは元気が良すぎて“走る”し、

 カイエは真面目なのに、すぐゲームで本気を出してしまうし、

 エマは優秀だけれど、甘い物への誘惑にとことん弱い。

 

 どれも致命的ではない。けれど、宇宙事業部――緊急対応や危険任務が多い部署に配属されるには、少しだけ“自由すぎる”個性でもある。

 

 しかし同時に、エリンは心のどこかで、そんな彼女たちの不器用な可愛らしさに救われてもいた。

 

(でも――)

 

 エリンは、ふっと表情を緩める。

 

(こういうメンバーと一緒だからこそ、私はここで笑って働けているのかもしれないわね)

 

「エリンさん?」

 

 エマが不安そうに見上げる。

 

「……何でもないわ。さ、戻りましょう。

 C2ブロックは私たちの担当よ。ちゃんと“守って”あげないと」

 

「はい!」

 

 エマは元気よく返事をし、ケーキの皿を素早く冷蔵庫に入れた。

 

 二人はスタッフルームを出て、再びC2ブロックの通路へ戻っていく。

 そこでは、ククルがきちんと“速歩き”で飲み物を配り、カイエが乗客の質問に丁寧に答えていた。

 

 まだまだ課題はある。

 でも、その全てを含めて――今日は、エリンにとって忘れられない“初フライト”になりつつあった。

 

ーーーー

 

 C2ブロックの通路を、エリンは一瞬も気を抜かずに歩いていた。

 

 座席に残っている乗客の表情、ブランケットのかけ方、子どもたちの様子、足元に投げ出された荷物の位置――。

 すべてに目を走らせながら、必要だと思えば迷わず声をかけていく。

 

「お膝の上の荷物は、頭上の棚にお入れしましょうか? 揺れたときに危ないので」

 

「少し寒くなってきましたね。ブランケット、もう一枚お持ちしますか?」

 

「お飲み物のおかわりはいかがですか? ホットのココアもご用意できますよ」

 

 どれも落ち着いた声で、柔らかい笑顔。

 だが、その視線だけは鋭く、通路の隅々まで見逃さない。

 一列進むごとに、座席ごとの“気配”を一瞬で読み取り、すぐに「必要なもの」を判断していた。

 

 通路の途中で、少し顔色の悪い乗客を見つければ――

 

「大丈夫ですか? 少し酔われましたか?」

 

 と、すぐに声を掛けて、空いている席に移動させたり、酔い止めと水を用意したり。

 反対側では、子どもが退屈そうに足をぶらぶらさせているのを見て、さりげなく塗り絵とクレヨンの入ったキットを手渡した。

 

「よかったら、これで遊んでいてくださいね。終わったら、ぜひ見せてください」

 

 その一つひとつが、あまりにも自然で、滑らかだった。

 

 少し離れたところで見ていたククルは、ぽかんと口を開けていた。

 

「……なんか、エリンさん、いつも以上にすごくないですか」

 

「“以上に”というより、“本気モード”なんじゃないか」

 

 カイエも、感心というより呆然に近い表情で呟く。

 

 エマはトレイを抱えたまま、ぽろっと本音を漏らした。

 

「もしかして、私たち……要らないのでは……?」

 

「いや、そんな……ことはないと、思いたいですけど……」

 

 3人揃ってエリンの背中を見つめる図になってしまい、気づけば誰も動いていないことに、ほぼ同時に我に返る。

 

「あ、私たちも仕事しないと」

 

「ですね」

 

「はいっ!」

 

 慌ててそれぞれの持ち場に散っていくが、それでも時折視線はエリンへ吸い寄せられてしまう。

 

 エリンは、笑顔で客席を回りながら、乗客一人ひとりの“わずかな違和感”を拾っていた。

 足を組んだときの不自然な仕草、腕をさする回数、窓の外を見ようとしない強張った瞳――。

 そんな小さなサインをつかんでは、言葉少なに、しかし的確な一言を差し込む。

 

「もし気分が悪くなったら、すぐお知らせくださいね。無理はしないで」

 

 その言葉に、乗客はほっとしたように頷いてくれる。

 

(ブランクなんて、ここには持ち込めない)

 

 仕事に戻っても、宇宙船に乗るたびに、あの日の記憶は胸の奥で疼く。

 だけど、それ以上に――目の前にいる乗客の命と時間を守ることの方が、ずっと重い。

 

 だからエリンは、今日もまた神経を張り巡らせていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「……あれ?」

 

 通路の端から、チーフパーサーがこちらに歩いてくる。

 いつもの冷静な表情のまま、しかしわずかに眉が寄っている。

 

「あなたたち、何をしているの?」

 

 その問いかけは、主にククルたちの方に向けられたものだった。

 3人が同時にビクッと肩を跳ねさせる。

 

「あ、あの、チーフ……!」

 

 最初に声を出したのはエマだった。

 エマはトレイを抱えたまま、思わずチーフパーサーの袖を引く。

 

「ちょっと、あれを見てください」

 

 エマが指さした先――

 そこには、通路の中央で、エリンがある一組の乗客に対応している姿があった。

 

 さっきのソフィアと、その母親だ。

 

「ご不安なときは、深呼吸をして、このクマぞーのお腹をぎゅっと押してみてください。

 そのあいだに、私たちがしっかり支えますからね」

 

 ソフィアはクマぞーを両腕で抱きしめ、こくんと頷く。

 母親も、少し涙ぐんだような笑顔を見せていた。

 

 それを見届けると、エリンは歩き出す。

 次の列では、ブランケットを直している年配の夫婦。

 その次では、資料を読み込んでいるビジネスマン。

 さらには、窓の外を怖がる子どもに視線を合わせ、“今見えている星の名前”を優しく教えている。

 

 動きに無駄がない。

 笑顔は崩れない。

 それでいて、ひとりひとりときちんと言葉を交わし、何かあればすぐに手を差し伸べられる距離で止まる。

 

 その様子を少し離れた場所から見て、チーフパーサーは思わず目を見張った。

 

 さきほどまでの“指導する立場”としての表情ではなく、

 純粋に「一人のプロ」として、見入ってしまうような眼差しで。

 

「……噂には聞いていたけど」

 

 小さく息を吐く。

 

「やっぱり、すごいわね、エリン」

 

 その声音には、驚きと、わずかな誇らしささえ混ざっていた。

 

「ね? 私たち、さっきからずっとあんな感じを見てて……」

 

 エマが困ったように笑う。

 

「自分たち、要らないんじゃないかって錯覚しますよね」

 

 ククルも苦笑しながら同意する。

 

「私は、こういうとき、どこまで入り込んでいいのか……と」

 

 カイエも真面目に続けた。

 

 チーフパーサーは小さく首を振る。

 

「要らないなんてこと、あるはずないでしょう。

 あの人一人じゃ、C2どころか、この船全体は守れないわ」

 

 そこで、何か言葉を続けようとした――そのときだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 ドン――と、船体が何かに押されたような重い感覚が走る。

 

 次の瞬間、低くうなるような振動がフロア全体を包み込み、

 宇宙船がぐらりと大きく揺れた。

 

「きゃっ!」

 

「わ、うわっ!」

 

「な、なに!?」

 

 C2ブロックのあちこちから、驚きと不安の声が上がる。

 

 座席に座っていた乗客が肘掛けを掴み、通路を歩いていた数人がよろめいた。

 子どもの泣き声が、一瞬、空気を切り裂く。

 

 その瞬間、誰よりも早く動いたのは、やはりエリンだった。

 

「大丈夫です!」

 

 通路の中央で、エリンの声が響く。

 声量は大きいが、決して怒鳴ってはいない。

 透き通るような、その声にはっきりと「安心していい」という力が乗っていた。

 

「突然の揺れで驚かせてしまって申し訳ありません。

 現在、機体は安定を保っています。念のため、皆さま、シートベルトをお締めください!」

 

 エリンは、走らないぎりぎりの速さで通路を移動しながら、一人ひとりの表情を確認していく。

 

「ゆっくりで大丈夫です。そのまま深呼吸してください」

 

「お手元の荷物は足元から離してください。危険ですので、前の座席の下か、頭上の棚に」

 

 言葉を選びながら、しかし迷いなく指示を出す。

 

 通路の途中で、ソフィアの席の前を通ると――

 ソフィアは再びクマぞーを抱きしめながら、不安そうにエリンを見上げた。

 

「だ、大丈夫……?」

 

「ええ、大丈夫よ、ソフィアちゃん。

 今のは少し強い揺れだけれど、私たちがちゃんと見ているからね」

 

 そう言って、エリンは優しく微笑んだ。

 

 その微笑みを見て、ソフィアはぎゅっとクマぞーを抱きしめ直す。その肩の震えは、少しずつおさまっていった。

 

 エリンの視線が、ふっと横に動く。

 

 視線の先には、通路の手前で固まっているククル、カイエ、エマの三人。

 きょとんとした表情のまま、一拍遅れてエリンと目が合った。

 

 その視線は――言葉を使わない指示だった。

 

 (動いて)

 (ここからは、あなたたちも“守る側”よ)

 

 ククルは、ハッとしたように姿勢を正す。

 

「え、えっと――皆さん、ゆっくり座席にお戻りください! 

 シートベルトをカチッと締めてくださいね! 怖かったら、手すりを持ってていいですよ!」

 

 明るく、しかしできるだけ落ち着いた声で、乗客に声をかけて回る。

 

 カイエは、立ち上がっていた乗客のところへすぐに駆け寄り、

 

「お怪我はありませんか? 足元、気をつけて。こちらをお持ちください」

 

 と、手すりや座席の背もたれを支えながら座席まで誘導する。

 

 エマはトレイを一旦カウンターに戻し、両手を空けると、手早く通路の安全確認を始めた。

 

「通路に荷物が出ているところ、私が預かりますね。揺れが落ち着くまで、こちらで保管しておきます」

 

 小さな声で泣き始めた子どもの傍らにしゃがみ、その視線を下から受け止める。

 

「大丈夫、大丈夫ですよ。今の揺れで、機体の安全はちゃんと確認されています。

 すぐに落ち着きますからね」

 

 三人が動き出したことで、C2ブロック全体に、少しずつ落ち着きが戻り始めた。

 

 揺れはまだ完全には収まらない。

 宇宙船は時折、ぐらりと軋むような振動を響かせる。

 

 それでも、エリンの声が飛ぶたび、

 ククルの明るい声が続くたび、

 カイエの落ち着いた案内が重なるたび、

 エマの柔らかなフォローが加わるたび――

 

 悲鳴は、小さなざわめきに変わっていく。

 

 少し離れたところでそれを見ていたチーフパーサーは、静かに息を吐いた。

 

(なるほど――やっぱり、この子たちは“要らない”どころか)

 

 視線の先で、エリンが最後尾の席まで確認を終え、

 乗客に深く一礼する。

 

(エリンという“軸”があるから、

 周りの三人も、ここまで動けるようになるのね)

 

 宇宙船は、まだわずかに揺れている。

 けれど、C2ブロックの空気は、いつもの“旅行気分”に戻りつつあった。

 

 エリンは、再び通路の中央に立ち、フロア全体を見渡した。

 

(――さあ、ここからが、本当の意味での“初フライト”よ)

 

 胸の内で小さく呟き、彼女はもう一度、静かに息を整えた。

 

ーーーー

 

 シートベルト着用サインが再び点灯したまま、揺れは次第に収まりつつあった。

 だが、さきほどの大きな一撃のような振動は、乗客たちの心にまだ生々しく残っている。

 

「……少し失礼します」

 

 ひと通りC2ブロックの様子を見て回り、乗客がシートベルトを締め直して落ち着きを取り戻したのを確認すると、エリンはククルとカイエ、エマに声をかけた。

 

「ここはしばらく三人で見ていて。何かあったら、すぐにインターホンで呼んで」

 

「分かりました」

 

「任せてください」

 

「はい、エリンさん」

 

 エリンは頷き、スタッフルームへ足早に向かった。

 

◇ ◇ ◇

 

 スタッフルームに入ると、壁面に設置されたクルー専用通信端末の前に立ち、素早くチャンネルを合わせる。

 

「こちらC2ブロック担当、エリンです。先ほどの激しい揺れについて、状況を確認させてください」

 

 数秒の間をおいて、チーフパーサーの落ち着いた声が返ってきた。

 

『ブリッジからの報告よ。エンジンの一基が故障して、トラブルを起こしたそうよ』

 

「エンジンの一つが……」

 

 エリンは一瞬だけ眉をひそめる。とはいえ、想定外の事態というほどではない。

 宇宙路線において、エンジンの冗長性は当然の前提だ。

 

『ただし、航行そのものに支障はないわ。残りのエンジンで出力を調整している。船体に損傷もなし。パイロットからも“安全な範囲内”と報告が出ているわ』

 

「……それでは、航行に異常はないのですね」

 

『ええ。少なくとも、現時点では問題ないと判断していい』

 

 その言葉を聞いた瞬間、エリンはふっと息を吐いた。

 胸の奥で張り詰めていた糸が、少しだけ緩む。

 

「了解しました。報告ありがとうございます」

 

『とりあえず、C2ブロックはあなたに任せるわ、エリン。あそこの乗客が一番多いし、さっきの揺れの中心に近かったはずだから、特に注意してちょうだい』

 

「承知しました。全力で対応します」

 

 通信が切れ、端末から小さな電子音が消える。

 

 エリンは一度だけ深く息を吸い、静かに吐き出した。

 

(……よかった。

 最悪の事態ではない)

 

 そう心の中で確認しながらも、その吐息には、わずかな違和感が混ざっていた。

 それは、自分でも気づかないほどの、ごく小さな“安堵の漏れ”だった。

 

 それを知らずに、チーフパーサーは別のブロックの様子を見て回ろうとしていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 メインデッキを回り始めたチーフパーサーの目に映ったのは――

 想像以上に“揺れ”の影響を受けた乗客たちの姿だった。

 

「さっきの音、何だったんだ?」

 

「船、大丈夫なんですか?」

 

「落ちないよね? ねぇ、本当に落ちないのよね?」

 

 不安と恐怖が入り混じった声が、各ブロックで渦を巻いている。

 

 クルーたちは必死に、「大丈夫です」「安全は確認されています」と声をかけてはいるものの――その顔にははっきりと“焦り”が滲んでいた。

 

「えっと、その……問題ないと報告は来ていますので……」

 

「ど、どうか落ち着いてください。えっと……」

 

 言葉が上滑りしている。

 声のトーンも、心なしか上ずっていて、かえって乗客の不安を煽っているようにさえ見える。

 

(これでは……)

 

 チーフパーサーは内心で焦りを覚えた。

 

(これでは、かえって不安を広げてしまうわ。

 誰かが“芯”にならなきゃいけないのに……)

 

 そのとき――

 

「チーフ!」

 

 少し離れた通路から、聞き慣れた明るい声が聞こえた。

 振り向くと、ククルとエマが、やや早足でこちらへ向かってくる。

 

「あなたたち、どうしてここに!?」

 

 思わず声が上ずる。

 

「エリンさんに言われて、各ブロックの手伝いに来ました!」

 

 ククルが胸を張って答えた。

 

「C2だけじゃなくて、他のブロックでも乗客の方が不安になっているだろうからって……。

 “自分たちが動いて、周りのクルーのフォローもしなさい”って」

 

 エマが真面目な顔で続ける。

 

「じゃあ、C2ブロックはどうしているの?」

 

 チーフパーサーは思わず詰め寄った。

 

「エリンさんと、カイエの二人で対応しています」

 

「二人だけで!? 大丈夫なの!?」

 

 それは、プロとしての本能的な心配だった。

 人数のバランスから言えば、もっと手厚くしておくべき区画だ。

 

 だが、ククルはきっぱりと言い切る。

 

「もし心配でしたら、確かめてください」

 

 エマも、同じように頷いた。

 

「私たちから見ても……あの二人なら、大丈夫だと思います」

 

 チーフパーサーは一瞬逡巡したが――すぐに決断した。

 

「……分かったわ。あなたたちはこのままここのサポートを続けて。

 私はC2ブロックを確認してくる」

 

「了解です!」

 

「任されました」

 

 二人の返事を背中で聞きながら、チーフパーサーは早足でC2ブロックへと向かった。

 

◇ ◇ ◇

 

 C2ブロックへ続くドアが開いた瞬間――

 チーフパーサーは、思わず足を止めた。

 

 先ほど見て回った他のブロックとは、空気がまるで違っていたからだ。

 

 そこには、悲鳴も、怒号もない。

 ざわめきはある。だが、それは恐怖に駆られたものではなく、どこか“落ち着きを取り戻しつつある”人々のざわめきだった。

 

 シートベルトは全員がきちんと締めている。

 通路を歩き回っている人は一人もいない。

 子どもたちも、クマのぬいぐるみや塗り絵、ゲームに集中していて、声を張り上げる者はいない。

 

 その中心に――エリンがいた。

 

「皆さま、先ほどの揺れにつきましては、エンジンの一つが故障したことによるものです」

 

 通路の中央で、少し通る声で、しかし柔らかくエリンは説明していた。

 

「ですが、ご安心ください。

 このクラスの宇宙船は、もともとエンジンの“冗長性”が確保されています。

 一基が停止しても、すぐに残りのエンジンで出力を調整できるように設計されているんです」

 

 前列の男性が、おそるおそる手を挙げた。

 

「で、ですが……エンジンが壊れたと聞くと、どうしても不安で……」

 

「お気持ちはよく分かります」

 

 エリンは、その男性の方を向き、少し表情を和らげた。

 

「ですから、少しだけ“宇宙船の仕組み”をお話ししますね。

 今、この船は、残りのエンジンで推力を再配分しています。

 速度は少し落ちるかもしれませんが、そのぶん安全性を優先して調整している状態です」

 

「落ちたりは……?」

 

「しませんよ」

 

 きっぱりと言い切る声に、空気が少しだけ緩む。

 

「宇宙船は、たとえ一部にトラブルが起きても、すぐに致命的な事態にならないように、いくつもの“防波堤”があるんです。

 その一つが、今お話したエンジンの冗長性。

 他にも、姿勢制御装置や予備電源系統など、船を支える仕組みがいくつも用意されています」

 

 別の席から、若い女性の声が上がる。

 

「でも、ニュースとかで、トラブルの話を聞いたりすると……」

 

「もちろん、“絶対に何も起きない”とは、誰にも言えません。

 けれど、その“万が一”を限りなく小さくするために、技術者やパイロット、そして私たちクルーがいるんです」

 

 エリンは、自分の胸元を軽く指で押さえた。

 

「自慢ではないですが……私はこれよりも危険な状況を、何度も経験してきました」

 

 その言葉に、いくつもの視線がエリンへ集まる。

 

「あの“悲劇のフライト”での対応は、ニュースで拝見しました」

 

「僕も……記事で読みました」

 

 小さな声が、あちこちから漏れる。

 

「ええ。そのときも、たくさんの方が不安で、怖くて、泣いていました。

 でも、今ここにいるように――私は無事にこうして立っています」

 

 エリンは、そこでふっと笑みを浮かべる。

 

「だから、私がいる限り――宇宙船が落ちることはありません」

 

 冗談めかして、少しだけ肩をすくめてみせる。

 

 通路に、一拍の静寂が落ちた。

 

 次の瞬間、その場のあちこちから、クスッ、と小さな笑い声がこぼれる。

 

「なんだか……安心しました」

 

「そんな風に言われたら、本当に大丈夫な気がしてくるわね」

 

「頼もしいなぁ」

 

 エリンは、その反応を確かめるようにゆっくりと周囲を見渡し、最後に小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます。

 もちろん、油断はしません。何かありましたら、すぐに気づけるよう、私たちも全力で見て回ります」

 

 そして、通路の左右に目を配りながら、続ける。

 

「必要な物がございましたら――飲み物、ブランケット、お薬、何でも構いません。

 どうか、遠慮なく私たちにお申し付けください。

 私たちクルーは、皆さまの旅を、安全に、そして少しでも心地よいものにするために、ここにいますから」

 

 その「何でもお申し付けください」という一言が、静かに、しかし確実に乗客たちの胸の中に染み込んでいった。

 

 先ほどまで固くこわばっていた空気が、少しずつほどけていく。

 深呼吸する人、隣の家族と小声で言葉を交わす人――

 C2ブロックは、確かに“安堵”の色に塗り替えられつつあった。

 

 その様子を、入口近くから見ていたチーフパーサーは、思わず息を呑んだ。

 

(本当に……大丈夫そうね)

 

 口には出さず、心の中でそう呟く。

 

(あれだけの揺れのあとで、これだけ落ち着いたブロックにできるなんて……。

 言葉の選び方といい、声のトーンといい、説明の仕方といい――やっぱり、“本物”だわ)

 

 ふと、視線を通路の奥――後方座席の方へ動かした。

 

 そこでは、カイエが子どもたちに囲まれていた。

 

「ここでこのスキルを使うとね、一気に敵の行動順が変わるんだ」

 

「えー、ほんと? やってみて!」

 

「ほら、見て。こうなる」

 

「わぁ! すごい!!」

 

 カイエは先ほどと違い、今は“仕事として”ゲームを使っていた。

 子どもたちを後方の空いている並びの席に集め、全員がシートベルトをしっかり締めた状態で、携帯ゲーム機の画面を通路側から見せている。

 

 子どもたちは画面に釘付けで、さっきまでの不安そうな表情はどこにもない。

 時折、カイエが「ここでポーズね」と言って、体勢を整えさせるあたりも抜け目ない。

 

(……これはこれで、立派な“武器”ね)

 

 チーフパーサーは、思わず口元を緩めた。

 

 通路の中央では、エリンが大人たちに論理と経験で“安心”を与え、

 後方では、カイエが子どもたちの不安を“楽しさ”で薄めている。

 

(なるほど……)

 

 チーフパーサーは、静かに頷いた。

 

(この布陣なら――あの揺れの後でも、C2は任せて大丈夫ね)

 

 もう一度全体を見渡し、問題がないことを確認すると、チーフパーサーは静かにその場を後にした。

 

(他のブロックにも、この空気を広げていかないと)

 

 宇宙船は、依然として慎重な航行を続けている。

 だが少なくとも――C2ブロックの空には、もう“パニック”の影は残っていなかった。

 

ーーーー

 

 宇宙船内に漂っていたざわめきも、時間と共にすっかり落ち着きを取り戻していた。

 さきほどまで緊張に満ちていたC2ブロックも、今はどこか、少しだけ名残惜しそうな空気が混じっている。

 

 やがて、機内アナウンスが静かに響いた。

 

『本船はまもなくエアポートゲートに到着いたします。本日はハワード・ツーリズムをご利用いただき、誠にありがとうございました』

 

 軽い衝撃と共に、宇宙船がドックに接続される。

 人工重力のゆらぎが落ち着くと同時に、前方ドアのロック解除音が聞こえた。

 

「それでは皆さま、順番にご案内してまいります。

 お手荷物のお忘れ物のないよう、今一度ご確認ください」

 

 エリンは、いつも通りの柔らかな笑顔で通路に立ち、降機を案内していく。

 

「ありがとうございました」「とても安心しました」「また利用します」

 

 乗客たちは口々にそう言いながら、頭を下げて宇宙船を後にした。

 中には、わざわざ立ち止まってエリンに深々と会釈をする者もいる。

 

「先ほどは、本当にありがとうございました。あの説明で、ずいぶん落ち着きました」

 

「こちらこそ、ありがとうございました。またお目にかかれる日を楽しみにしております」

 

 言葉を交わすたび、緊張の残りがほんの少しずつ、胸の中から抜けていく。

 

 そんな中――

 

「お姉ちゃん!」

 

 元気な声が、前方から弾んだ。

 

 振り向くと、さっきの少女――ソフィアが、クマぞーを抱きしめたまま駆け寄ってきていた。

 その手には、しっかりとシートベルトの跡が残っている。

 

「ありがとう!」

 

 ソフィアはそう言って、両手でクマぞーを差し出した。

 

「この子のおかげで、怖くなかったよ!」

 

「ソフィア」

 

 後ろから、母親が慌てて追いかけてくる。

 

「走らないって言ったでしょう?」

 

「ごめんなさい」

 

 ソフィアは小さく謝り、それでもクマぞーを差し出す手はまっすぐだった。

 

 エリンは、ふっと目を細める。

 

「……よく頑張ったわね、ソフィアちゃん」

 

 そう言って、そっとソフィアの頭を撫でた。

 少女の髪は、まだ少し汗ばんでいる。それだけ怖かったのだろう。

 

「クマぞー、ちゃんと守ってくれた?」

 

「うん! ぎゅってしてたら、揺れても大丈夫だった!」

 

「それは心強いお守りね」

 

 エリンはクマぞーを一度受け取り、ぬいぐるみの顔をソフィアに向けた。

 

「クマぞー、ソフィアを守ってくれてありがとう。また一緒に飛んであげてね」

 

 そして、今度はクマぞーをソフィアの腕の中に戻す。

 

「えっ……いいの?」

 

「ええ。次に宇宙船に乗るときまで、その子を預かっていてちょうだい。

 “また一緒にお空の旅をしよう”って、約束してあげて」

 

 ソフィアの目が、ぱぁっと大きく見開かれた。

 

「……うん! 約束する!」

 

「ありがとうございます」

 

 母親が深く頭を下げる。

 

「本当に助かりました。あのままだと、きっと……」

 

「いえ。こちらこそ、ご協力いただいてありがとうございました。

 どうかお二人とも、良いご旅行を」

 

 最後にもう一度微笑みを交わし、ソフィアはクマぞーを抱きしめたまま、母親と共にゲートの向こうへと消えていった。

 

◇ ◇ ◇

 

 全員の降機が終わると、客席は一気に静かになる。

 さっきまでぎっしり埋まっていたシートが、今は規則正しく並んだ空席へと戻っていた。

 

「よし、それじゃあ忘れ物とゴミのチェックに入るわよ」

 

 エリンの声に、ククル、カイエ、エマがそれぞれ頷く。

 

「了解です!」

 

「前方から順番に見ていきます」

 

「私は中央ブロックを担当しますね」

 

 四人は自然と役割を分け、手際よく機内を歩き出した。

 シートポケット、座席の下、頭上の棚――ひとつひとつ覗き込み、落とし物やゴミが残っていないか確認していく。

 

「ブランケットは全部、カゴに入れて……っと」

 

「ヘッドフォンはここにまとめて、と」

 

「おっと、紙コップがひっくり返ってる……中身が残ってなくてよかった」

 

 そんなやり取りをしているときだった。

 エリンの胸ポケットのあたりが、小さく震えた。

 

 ブルブル……と規則的な振動。

 

「……?」

 

 エリンは動きを止めずに、制服のポケットから携帯端末を取り出した。

 表示された名前を見て、小さく息を吐き、通話ボタンを押す。

 

「もしもし。どうしたの、ペルシア? 仕事中なんだけど」

 

 端末を肩と耳の間に挟み込み、両手はそのまま座席のチェックを続ける。

 

『“どうしたの”じゃないわよ』

 

 呆れたような声が、端末越しに響いた。

 

『あんたが乗ってる便が、エンジントラブル起こしたって聞いて、こっちは仕事中に血の気が引いたんだからね』

 

「その話ね」

 

 エリンは、座席ポケットに残されたパンフレットをまとめながら、さらりと答える。

 

「エンジンの一つが故障しただけよ。こっちは大したことはなかったわ」

 

 すぐ近くで、ククルが小声でつぶやいた。

 

「……あれを“大したことない”って言えるの、エリンさんぐらいよね」

 

「ほんと。完全に“慣れてる”感じだったたし」

 

 エマも苦笑混じりに同意する。

 

「さすがエリンさんだな」

 

 カイエも感心したように呟いた。

 

『……まあ、エリンなら大丈夫だとは思ったけど』

 

 ペルシアの声が、少しだけ和らぐ。

 

『でも一応ね。念のため、ってやつよ。あんた、妙なところで平気な顔してるから』

 

「心配かけたわね」

 

 エリンは、空になった紙コップを回収用の袋に入れながら答えた。

 

『ったく……まぁ、でも乗務員の中に、もう一人チーフパーサーが紛れてるもんだもんね。安全ちゃ安全よね』

 

 その言葉に、エリンは思わずクスッと笑う。

 

「元チーフパーサー、ね」

 

『はいはい。肩書きなんてどうでもいいけどさ。

 こうして聞いてると、やっぱり“現場”にいるときのあんた、好きだわ』

 

「光栄ね。それが褒め言葉だと信じておく」

 

『褒めてるつもりよ』

 

 ペルシアは、そこでふっと息を吐いた。

 

『それにしても、エリンもいろいろ宇宙船トラブルに巻き込まれるわね。

 案外、リュウジよりトラブルメーカーだったりして』

 

「ちょっと」

 

 エリンは、さすがに苦笑を隠せなかった。

 

「そういうこと言わないでよ。私だって気にしてるんだから」

 

 “また何かが起きるのではないか”という不安は、いつだって胸の片隅にある。

 それでも宇宙船に乗り続ける理由は――

 たぶん、自分でも分かっている。

 

『でも、ちゃんと戻ってきてるでしょ、毎回』

 

 ペルシアの声が、少しだけ優しくなる。

 

『私が知ってる限り、あんたは一度も“途中で折れたまま”帰ってきたことない。

 ……それなら、今日も大丈夫だと思ったわけ』

 

「……そう言われると、返す言葉に困るわね」

 

 エリンは、最後列の座席をチェックしながら、思わず口元を緩めた。

 

『まあ、とりあえず今日は無事でよかった。

 また今度、ゆっくり話聞かせて。ククルたちの初フライトの様子もね』

 

「ええ。また今度、ゆっくり」

 

 端末越しのペルシアの気配が、少しだけ遠のく。

 

『じゃ、邪魔したわね。そっちはまだ仕事でしょ』

 

「そうね。あと少しで片付きそうだし。ペルシアも、仕事サボりすぎないで」

 

『サボってないわよ。……多分ね』

 

 最後の言葉に、エリンは小さく笑い、通話を切った。

 

◇ ◇ ◇

 

「エリンさん、電話……ペルシアさんでした?」

 

 ククルが、ケーブル類をまとめながら近づいてくる。

 

「ええ。エンジントラブルの話、宇宙管理局で聞きつけたみたいで」

 

「ですよねぇ……。なんか、すぐ飛んできそうな勢いですもんね、ペルシアさん」

 

「分かる」

 

 カイエが頷く。

 

「現場にいたら、たぶんブリッジにまで意見しに行きますよね」

 

「その前に、機内で飲みだす可能性もあるけど」

 

 エマの呟きに、三人とも笑った。

 

「それで、忘れ物とゴミは――」

 

「こっちは大丈夫です!」

 

「後方も、落とし物はありません」

 

「前方もクリアです。シートポケットも全部確認しました」

 

 エリンはぐるりとC2ブロックを見渡した。

 整え直された座席は、出発前以上にきちんと揃っている。

 

「……よし」

 

 小さく頷き、三人に向き直る。

 

「忘れ物もゴミも片付いたわね。お疲れさま」

 

「いえいえ! こっちこそ、いろいろ勉強になりました!」

 

「次から、もう少し早く動けるようにします」

 

「私も……ケーキは、もう少し我慢するタイミングを考えます」

 

 最後の一言に、ククルとカイエが吹き出した。

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

 エリンはそう告げ、通路を前へと歩き出す。

 

 ククル、カイエ、エマ――三人は自然とその後に続いた。

 

 後ろを振り返ると、静まり返ったC2ブロックが、整然と並ぶシートと共にそこにある。

 さっきまでの緊張も、不安も、歓声も、すべてを飲み込んだ“空の旅”の名残りだ。

 

 エリンは一度だけ、心の中でその空間に礼を告げる。

 

(また、ここに戻ってくる。

 そのときも、ちゃんと“守れる”私でいないと)

 

 そう誓うように視線を前に向け、

 四人は宇宙船を後にした。

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