冬休みが明けた。
ソリア学園の朝は、休みの間に鈍った身体を引き戻すような冷たさで、吐く息が白く伸びる。校門の前には、久しぶりの生徒たちが集まり、冬休みの話題で賑やかな声が弾んでいた。
ルナはその人混みの中を、いつもより少しだけ足早に歩いていた。
コートのポケットの中には、小さな紙袋がひとつ。
無病息災のお守り。
初詣の日に選んで、渡すつもりでずっと持っていたのに――結局、テーマパークの日も、その後も、渡すタイミングを逃したまま冬休みが終わってしまった。
帰宅してから「あっ」と思い出したのは、何度だっただろう。
(今日は絶対に渡す)
そう心に決めて、ルナは校舎に入った。
廊下は久しぶりの登校日らしく、少しざわついている。
上級生の早歩きの足音、下級生の笑い声、窓の外を掃除する用務員の姿――そんな日常の気配が戻ってくる。
教室に入ると、すでに何人かが席についていた。
ベルが窓際で外を眺め、シンゴが机にかじりつくようにして冬休みの課題を確認している。カオルは椅子を後ろに傾けて、眠そうな目で天井を見上げていた。ハワードは誰かに冬休みの自慢話をして、ケラケラと笑っている。シャアラとメノリはいつも通りの距離感で、落ち着いた様子だ。
そして――
リュウジの席は空いていた。
(……まだ来てないだけだよね)
ルナはそう思いながら自分の席に着き、コートを椅子の背に掛けた。
ポケットの中の紙袋が、少しだけ重く感じる。
リュウジは、朝が弱いわけではない。
むしろ、遅刻するタイプでもない。
それなのに、席が空いているのが不思議で、ルナはちらりと時計を見た。
HRのチャイムまで、あと数分。
「ルナ、おはよう」
シャアラが柔らかく微笑みながら声をかけてくる。
「おはよう、シャアラ」
ルナも笑顔で返した。
けれど視線が、つい空席へ戻ってしまう。
「リュウジ、まだ来てないの?」
シャアラが小声で言う。
「……うん。まだみたい」
ルナは平静を装いながら答えた。
メノリがその会話に気づいて、少しだけ眉を上げる。
「おかしいな。あいつが遅れるのは珍しい」
「寝坊じゃない?」
ハワードが楽しそうに割り込んでくる。
「冬休みでだらけたんだよ、きっと!」
ケラケラと笑う声が教室に響いた。
「お前が言うな」
カオルが前の席から面倒くさそうに返す。
「うるさいな、カオル! 僕はちゃんと起きた!」
「それで今眠そうなのは誰だ」
「それは……起きたけど眠いんだよ!」
ハワードとカオルの軽口に、ベルが小さく笑った。
シンゴも顔を上げて、いつもの元気な調子で言う。
「リュウジ、遅刻かな? でもリュウジなら大丈夫だよね!」
「うん」
ベルが頷く。
「リュウジ、しっかりしてるもんね」
その言葉にルナは少しだけほっとする。
でも、胸の奥のもやもやは消えない。
やがて、HRのチャイムが鳴った。
担任が教室に入ってきて、軽く出席を取る。
冬休み明けの注意事項が読み上げられ、課題提出の確認があり、教室は一気に“学校モード”になる。
そして、出席確認の途中――
「……リュウジ、欠席だな」
担任が名簿を見て言った。
その瞬間、ルナの心臓が小さく跳ねた。
「先生、リュウジは?」
メノリがすぐに尋ねる。
メノリの声は淡々としているが、目は真剣だった。
「連絡が入ってる。風邪で休みだそうだ」
担任は淡々と答える。
ルナは思わず、机の下で指を握りしめた。
(風邪……?)
リュウジが風邪。
想像がつかないわけではない。冬は冷えるし、引っ越しやら何やらで忙しかった。
それでも、どこか信じきれない感覚があった。
「……本当かな?」
シャアラがぽつりと呟いた。
声は小さいけれど、ルナにははっきり聞こえた。
「わかる」
ルナも心の中で同意してしまう。
「サボりじゃないか?」
ハワードがケラケラと笑いながら言う。
「ほら、冬休み明けの定番だよ! だるいから休むやつ!」
「お前じゃあるまいし」
メノリが呆れたように言う。
「えー、だってさ。リュウジって、わりと何でも一人で抱え込むじゃん? 『大丈夫だ』って言いながら、実は疲れてたとかさ」
ハワードの言葉に、ルナは一瞬、胸がちくりとした。
確かに、リュウジはそういうところがある。困っていても、平気な顔をする。自分のことは後回しにする。
カオルは腕を組んだまま、淡々と言う。
「風邪なら風邪だろ。無理して倒れるよりマシだ」
「まあね」
ベルが頷く。
「リュウジなら大丈夫だと思う。ちゃんと休んで、すぐ戻ってくるよ」
「うん!」
シンゴも元気に同意する。
「リュウジ、休んでるなら寝てるだろうし、僕らが心配しても仕方ないよね!」
その言葉に、教室の空気は少しだけ落ち着いた。
皆の中で、“リュウジなら大丈夫”という共通認識がある。
でも――
ルナだけは、どうしても落ち着かなかった。
机の中に入れてある小さな紙袋が、妙に存在感を増している。
今日渡すはずだったのに。
“無病息災”のお守りなのに。
(……渡したかった)
ルナは唇を噛み、窓の外を見た。
冬の空は澄んでいて、雲が少しだけ流れている。
誰もが新しい学期の始まりに気を引き締めているのに、ルナの心だけが空席の方へ引っ張られてしまう。
担任の話が終わり、HRが解散すると、教室はまたざわめき始めた。
机を動かす音、椅子を引く音、誰かが笑う声。
「ルナ」
メノリがルナの方へ振り向いた。
その目は、静かにルナの顔を見ている。
「気になるか?」
「……うん」
ルナは正直に頷いた。
「心配するほどじゃないと思うがな」
メノリはそう言いつつも、ルナの不安を否定はしなかった。
「でも、今日の放課後、様子見に行ってみる?」
シャアラが小さく提案する。
「えっ、いいの?」
ルナが顔を上げると、シャアラは微笑んだ。
「だって、心配なんでしょ?」
ルナは胸が温かくなるのを感じた。
ベルもそっと頷く。
「俺も行っていい? 差し入れとか持っていけるし」
「僕も! おかゆ作って持っていく!」
シンゴが張り切る。
「いや、シンゴ、それは逆に危ない気がする」
カオルが即座に突っ込み、ルナたちは思わず笑った。
その笑いが、少しだけ緊張をほどく。
ハワードは腕を組んで、にやりと笑う。
「じゃあ僕は、リュウジがサボりじゃないか確認しに行く!」
「お前は黙ってろ」
メノリが呆れたように言い、ルナたちはまた笑った。
けれど、ルナは笑いながらも、心の奥に小さな不安を抱えたままだった。
(リュウジ……大丈夫だよね)
机の中の紙袋を、そっと指先で押さえる。
無病息災。
その言葉が、今はやけに切実に感じられた。
ーーーー
放課後。
冬の夕方は、陽が落ちるのが早い。校舎を出た途端、冷たい風が頬を刺して、みんなの吐く息が白く揺れた。
「ほんとに行くのかよ」
ハワードが手をポケットに突っ込みながら言う。
「当たり前だろ」
メノリが淡々と返す。
「心配なんでしょ、みんな」
シャアラが柔らかく微笑むと、ベルも頷いた。
「うん。リュウジ、あんまり連絡しないタイプだし……」
「ね! 僕も気になる!」
シンゴが元気よく言い、少し前を歩き出す。
「差し入れも持ってきたしね」
ベルは小さな袋を掲げた。中にはスポーツドリンクとゼリー飲料。シャアラも熱さまシートを数枚持っている。メノリは薬局袋――たぶん解熱剤と栄養剤だ。
ルナはというと、手袋の中で指先を何度も握りしめていた。
ポケットの中には、小さな紙袋。無病息災のお守り。
本当は今日、教室で渡すつもりだった。けれど、リュウジが休みだった。
(まさか、こんな……)
心配が喉の奥に引っかかって、うまく息ができない。
ハワードだけが、妙に明るかった。
「いや~、もしサボりだったらさ、僕が玄関で説教してやるから!」
「お前が説教される側だろ」
カオルが即座に突っ込む。
「うるさいな! 僕は心配してるんだよ、心配!」
ハワードはケラケラ笑いながら歩く。
その笑いが、逆にルナの不安を煽るようで、ルナは黙ったまま歩いた。
やがて、リュウジのアパートに着いた。
高台にある物件で、夕暮れの空がよく見えるはずなのに、今日はその景色を楽しむ余裕がない。外階段を上がる足音が、妙に大きく響いた。
廊下は静かで、生活の匂いがする。
どこかの部屋から、テレビの音がかすかに漏れている。
それ以外は、しんとした空気。
リュウジの部屋の前で、みんなが足を止めた。
「よし、僕が鳴らす!」
ハワードが一番前に出て、インターホンを押した。
ピンポーン。
反応がない。
「……もう一回」
ピンポーン。
やっぱり返事はない。
ベルが心配そうに眉を寄せる。
「寝てるのかな」
「それならいいけど……」
シャアラが小さく言った。
メノリは腕を組み、扉をじっと見つめる。
「リュウジ、起きてるか?」
ドア越しに声をかける。
返事はない。
ハワードがにやにやしながら、わざと大きな声で言った。
「ほら! やっぱりサボりじゃないか? 冬休み明けのだるさで寝てるんだよ!」
「うるさい」
カオルが低い声で言う。
「……でも、開けないのは変だね」
シンゴがぽつりと呟く。
ルナは胸が締めつけられるようで、ドアノブを見つめた。
鍵がかかっている。
呼び鈴にも反応がない。
いつもなら、リュウジは――たとえ寝ていても、最低限の反応はするはずだ。
(……お願い、出てきて)
ルナがそう心の中で願った、その瞬間。
――カサッ。
ドアの向こうで、小さな音がした。
布が擦れるような、足音のような。
そして。
「……っ、待て……」
か細い声が聞こえた。
全員が息を止めたように静かになった。
ガチャ、と鍵が回る音がして、ドアが少しだけ開く。
その隙間から、ゆっくりと顔が覗いた。
リュウジだった。
――ただし、いつものリュウジじゃない。
厚着をしている。首元までしっかり閉じた上着。
マスクをしていて、声はくぐもる。
額にはうっすら汗が浮いていて、頬がほんのり赤い。
目は半分眠ったように重く、焦点が少しだけぼやけている。
「……お前ら、何で……」
言い終える前に、リュウジが小さく咳き込んだ。
ゴホ、ゴホ。
その咳は乾いていて、苦しそうだった。
「……うわ」
ハワードの笑いが止まる。
いつもならからかいを続けるはずのハワードが、目を見開いたまま固まっている。
ベルも、メノリも、シンゴも、シャアラも、カオルも――
全員が、言葉を失った。
サヴァイヴの時。
雨に打たれても、怪我をしても、極限の環境でも。
リュウジは風邪ひとつ引かなかった。
だからこそ――今、目の前にいるリュウジが、どこか弱々しく見えた。
肩を落として、壁に手をつきながら立っている。
いつもの鋭さがなく、ただ“気怠い”が滲み出ている。
「リュウジ……」
ルナの声が震えた。
ルナは一歩前に出た。
自然と、心配が足を動かした。
「熱は!?」
ルナが問いかけると、リュウジは少しだけ目を細めた。
「……三十九度」
その数字を聞いた瞬間、ルナの胸がぎゅっと締まった。
「は!?」
ハワードが素っ頓狂な声を上げる。
「三十九!? それ、やばいって!」
シンゴが慌てて言い、ベルがすぐにスポーツドリンクの袋を前に出した。
「これ、持ってきたよ。飲める?」
シャアラも心配そうに覗き込む。
「ちゃんと病院行ったのか!?」
メノリの声は冷静だが、目が鋭い。
それは怒りではなく、状況を把握しようとする真剣さだった。
リュウジはその質問に、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「……まだ」
「まだじゃない」
メノリが即座に言い切った。
「今すぐ行け。放置する温度じゃない」
「……動くのがだるい」
リュウジがぽつりと言う。
その弱音が、余計にみんなを驚かせた。
リュウジが“だるい”なんて、そんな言葉を口にするなんて。
「お前、ほんとにリュウジか?」
ハワードが冗談めかして言おうとして、途中で口をつぐんだ。
冗談にする空気じゃないと、やっと理解したのだろう。
カオルが一歩前に出る。
「入るぞ」
短く言うと、カオルはリュウジの返事を待たずに玄関を覗き込んだ。
メノリもそれに続く。
「靴、揃えて入るぞ」
「……そこは律儀だな」
リュウジがかすれた声で言い、また咳き込む。
ルナは胸の奥が痛くなるのを感じた。
こんなリュウジを見たくなかった。
でも、見なければ――放っておけなかった。
ルナはポケットの中の小さな紙袋に触れる。
無病息災のお守り。
今日渡すはずだったもの。
(こんな時に……)
ルナは紙袋を握りしめた。
今渡せば、“大丈夫じゃない”って認めるみたいで、リュウジが嫌がるかもしれない。
でも、渡したい。
願いを込めたものだから。
ルナは小さく息を吐いて、リュウジを見上げた。
「ねえ、ちゃんと休んで。無理しないで」
ルナの声は、いつもより少しだけ強かった。
でも、優しさもちゃんと込めた。
リュウジは目を細め、マスクの奥で小さく笑ったように見えた。
「……分かったよ」
その返事が、今のルナには救いみたいに聞こえた。
みんなが玄関先で動き出す。
ベルが飲み物を出し、シャアラが熱さまシートを準備し、メノリが薬の袋を確認する。
ハワードは「僕、何したらいい?」と珍しく真面目な顔で言い、シンゴは「おかゆ作る!?」と張り切りかけてカオルに「やめとけ」と止められる。
そしてルナは、胸の奥に決めた。
(今日は、絶対にリュウジを一人にしない)
サヴァイヴの時みたいに。
みんなで生き抜く。
それが、今の自分たちの“普通”なのだから。
ーーーー
メノリが一歩前に出た。視線はリュウジの顔――マスク越しの目に向けられている。
「とりあえず病院に行け」
言い切りの声。
反論を許さない、口調だった。
「……今から?」
リュウジが掠れた声で言うと、メノリは眉をひそめた。
「今からだ。迷う余地はない」
ルナは胸の奥がきゅっと痛んだ。
リュウジが“だるい”と言ったのを思い出すだけで、心配が膨らんでくる。
「ルナ」
メノリがルナを呼んだ。
ルナははっとして顔を上げる。
「連れて行け」
「え……?」
「リュウジは今、歩くのもきつそうだ。具合が悪い時に、あいつは変に意地を張る。……ルナが一緒に行った方がいい」
メノリの言葉は冷静だけど、そこにルナへの信頼があった。
ルナは強く頷く。
「分かった。私が行く」
ルナが即答すると、メノリはすぐに続けた。
「その間、家のことはこっちでやっておく」
「え、でも……」
ルナが言いかけると、メノリはさらりと言う。
「換気、洗濯、あと必要なら買い出し。病人がいる部屋は、まず環境を整える」
その手際の良さに、ハワードが口を開けた。
「メノリ、母親みたいだな……」
「黙れ」
メノリの一言で、ハワードはぴしっと背筋を伸ばして黙った。
シャアラが不安げにリュウジを見て、すぐに表情を切り替えた。
「私、お粥作るね。胃に負担が少ないように」
「頼む」
メノリが頷く。
ベルもすぐに動く。
「スポドリとゼリー、テーブルに出しておくね。あと、温かい飲み物も」
「僕、洗い物とか手伝うよ!」
シンゴが張り切ると、カオルが短く言った。
「ハワードは鍋を触るな。火事になる」
「ええ!? ひどい!」
「前科があるだろ」
「……あるけど!」
そんなやりとりがあるのに、空気はちゃんと真剣だった。
みんながそれぞれの役割を自然に決めて、動き出している。
リュウジは玄関の壁に手をついたまま、息を整えていた。
その姿が、ルナの胸をざわつかせる。
ルナは一歩近づき、そっとリュウジの袖に触れた。
「行ける? 歩ける?」
「……歩ける。たぶん」
「たぶんじゃだめ。ゆっくりでいいから。私、ついてるから」
ルナの言葉に、リュウジは一瞬だけ目を細めた。
マスクで口元は見えないのに、困ったような笑いをしているのが分かった。
「……悪いな」
「悪くない」
ルナは即座に返した。
それは怒りじゃない。心配が言葉を強くしただけ。
「じゃあ、メノリ。行ってくるね」
「頼む」
「シャアラ、みんな……ありがとう」
ルナが言うと、ベルが優しく頷き、シンゴが「任せて!」と胸を張る。
ハワードも珍しく真面目な顔で言った。
「ちゃんと診てもらえよ。……リュウジ、死ぬなよ?」
「縁起でもないこと言うな」
カオルが即座に突っ込む。
「いや、でもさ!」
「黙れ」
メノリがまた一言。
ハワードは「はい」と小さく返事をした。
◇ ◇ ◇
外に出ると、冬の空気がさらに冷たかった。
夕方の薄い光が高台の道を照らし、風がコートの隙間から入り込む。
ルナはリュウジの腕に手を添えた。
支えるというより、転ばないように“引っ掛ける”程度。
リュウジは最初は「大丈夫だ」と言いそうになったが、喉に咳が引っかかって、言葉にならなかった。
「咳、つらいね」
「……慣れてない」
リュウジの返事は掠れていた。
(慣れてないって……)
そんな言葉が出るほど、今のリュウジは弱っている。
ルナは胸の奥がぎゅっと締まる。
エアタクシーを呼ぶという選択肢もあったが、近くに医療施設があるのをルナは知っていた。
歩く距離は短い。だが今のリュウジには、その短さが長い。
途中でリュウジが足を止めた。
「……ちょっと、息」
「うん。休もう」
ルナはすぐに立ち止まり、リュウジの背中に手を置く。
背中が熱い。服越しでも分かるほど熱がこもっている。
ルナは思わず額に手を伸ばしそうになって、慌てて引っ込めた。
触れたら、もっと心配が溢れてしまいそうで。
「リュウジ、私、病院の受付で全部言うから。だから、変に強がらないでね」
「……強がってない」
「強がってるよ」
ルナが言うと、リュウジは小さく息を吐いた。
「……そうか」
素直に認めたわけじゃない。
でも否定しきれない声だった。
◇ ◇ ◇
病院は混んでいた。
冬は風邪やインフルエンザが増える時期で、待合室にはマスク姿の人が多い。子どもが咳をし、母親が背中をさすっている。
ルナは受付で事情を説明し、リュウジを椅子に座らせた。
座った途端、リュウジは少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
(やっぱり、限界だったんだ)
ルナは胸の奥が痛くなる。
病院に来るだけでこんなに消耗している。
呼び出しがかかり、診察室へ通される。
医師は年配の男性で、リュウジを見るなり眉をひそめた。
「……熱、何度?」
「三十九度」
「いつから?」
「……昨日の夜から」
「昨日“から”じゃないな。咳の出方と顔色が、もっと前からだ」
医師は淡々と言いながら、聴診器を当てる。
リュウジが息を吸うたび、咳が混じった。
医師の眉がさらに寄る。
「……ふうん。喉も赤い。胸の音もよくない」
医師はルナにも視線を向けた。
「付き添い?」
「はい。」
「よく連れてきた。――ただ、遅い」
医師はそこではっきり言った。
「風邪だね。だけど、肺炎になりかけてる」
ルナの心臓が、どくんと跳ねた。
「……え」
リュウジも一瞬だけ目を見開いた。
マスクの奥で、息が止まったように見える。
医師はリュウジに向かって、少し強い口調になる。
「今度からは早く来なさい。高熱が出て、咳が出て、呼吸が苦しいなら、我慢する理由がない。放っておいたら、入院になる」
「……すみません」
リュウジが掠れた声で言う。
その“すみません”が、弱々しくて、ルナは胸がぎゅっとなった。
「すみませんじゃない。治す気があるなら、早く来ること」
医師はきっぱり言った。
ルナは思わず頭を下げてしまった。
「すみません……!」
医師がルナを見る。
「君が謝ることじゃない。本人が来なかったんだろう」
「でも……私、もっと早く気づけば……」
ルナの声は震えた。
テーマパークの日、寒い中歩いた。
初詣も人混みだった。
その疲れが溜まっていたかもしれない。
(私、気づけなかった)
ルナの胸の奥に、後悔が刺さる。
医師はため息をつくように言った。
「気づくのは難しい。でも、こういうタイプは強がる。だから周りが連れてくるしかない。今日は正解だ」
ルナは小さく頷いた。涙が出そうだった。
診察は続き、薬の処方と注意事項が説明される。
解熱剤、咳止め、抗生剤。
水分、栄養、安静。
もし息苦しさが増したらすぐ来ること。
最後に医師がリュウジに言う。
「帰ったら、まず寝なさい。熱が下がるまで無理はしない。わかったね」
「……はい」
リュウジが頷く。
診察室を出ると、ルナは息を吐いた。
足が少し震えている。
それでも、来てよかった。――来なければ、もっと悪化していたかもしれない。
リュウジは待合室の椅子に座り、目を閉じた。
ルナはその横に座り、そっと声をかける。
「……怒られたね」
「……ああ」
「でも、肺炎になりかけって……ほんと、怖いよ」
ルナが言うと、リュウジは少しだけ首を傾けた。
「……怖がらせたか」
「うん。怖かった」
ルナは正直に言った。
ここで強がったら、今度は自分が同じことをしてしまう気がしたから。
リュウジはしばらく黙っていた。
そして、ぼそっと言う。
「……悪い」
「悪いって言わないで。治して」
ルナはまっすぐ言った。
「治して、また……皆で笑おう」
リュウジは少しだけ目を開けて、ルナを見た。
その目は熱で潤んでいるのに、どこか静かだった。
「……ああ」
短い返事。
でも、その一文字が、今のルナには十分だった。
ルナはポケットの中の小さな紙袋――無病息災のお守りを、そっと握りしめた。
渡すのは、もう少し先でもいい。
今はただ、リュウジがちゃんと治ることが一番だった。
ーーーー
病院から戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
高台の廊下を歩く足音が、昼間よりも少しだけ響く。冬の冷気が建物の隙間に溜まり、ドアの前に立つと指先がじんと痛んだ。
ルナが鍵を回し、ドアを開ける。
――その瞬間。
「おかえり」
小さな声とともに、部屋の中から何人もの視線が一斉に向けられた。
全員、マスク姿だった。
メノリ、シャアラ、ベル、シンゴ、ハワード、カオル。
さっきまでリュウジの家でそれぞれ動いていた面々が、きっちりと感染対策を整えて待っていたのだ。
おそらく換気もしていたのだろう、部屋の空気はこもっておらず、ほんのりと米の匂いが漂っていた。
「……みんな」
ルナが驚きと安心が混ざった声を漏らすと、メノリがすぐに一歩寄った。
「どうだった?」
その問いは短いが、全部を含んでいる。
心配、焦り、そして“ちゃんと結果を聞いて、次を決める”という強さ。
ルナは玄関でコートを脱ぎ、椅子の背に掛けた。
手袋を外し、息を整える。
その間にリュウジはふらりと奥へ向かい、まっすぐ寝室の方へ歩いていった。背中が重そうで、歩幅が小さい。
ルナはメノリたちに向き直った。
「風邪って言われた。でも……肺炎になりかけてるって」
それを聞いた瞬間、全員の表情が少しだけ硬くなる。
マスク越しでも分かる。目が一段と真剣になった。
「やっぱりか」
メノリが低く呟く。
「先生から、今度から早く来なさいって怒られた。薬は抗生剤も出た。咳と熱の薬も。水分と安静って……息苦しくなったらすぐ来いって」
ルナが一つ一つ、医師の言葉を思い出して伝える。
シャアラが胸元で手を組み、ほっとしたように息を吐いた。
「入院じゃなくてよかった……」
「でも、放ってたら危なかったってことだろ」
カオルが短く言う。
いつもならもっと軽く流すような言い方をするのに、今日はやけに真面目だった。
「うん……」
ルナが頷くと、ベルがそっと言った。
「連れて行ってくれてありがとう、ルナ」
「ううん……私も、もっと早く気づけばよかった」
ルナが小さく言うと、メノリが首を振った。
「今やったことが正解だ。後悔は後でいい。今は治す事が優先だ」
その言い方が、ルナの背中を支えてくれた。
ルナは頷き、奥の寝室の方へ視線をやる。
リュウジはベッドに伏せていた。
上着も脱ぐ余裕がなかったのか、布団の上から体を丸めるようにして、枕に顔を埋めている。
マスク越しに、時折小さな咳が漏れた。
シャアラがキッチンの方から顔を出す。
「お粥、作ったよ。食べられそう?」
湯気の匂いがふわりと漂い、ルナの胃も反応する。
でも今は、まずリュウジだ。
ルナは寝室に近づき、そっと声をかけた。
「リュウジ」
リュウジが少しだけ顔を上げる。
頬は赤く、目が潤んでいる。熱でぼんやりしているのに、ルナの声には反応するあたりが“リュウジらしい”とも思った。
「……みんな、すまないな」
掠れた声。
謝る余裕があるのが、逆に切ない。
「謝らなくていい」
ルナは即座に返した。
「……でも」
「とりあえず、何か食べないと薬飲めないでしょ。食べて」
ルナの言葉は少し強かった。
強く言わないと、この人は「いい」と言って眠ってしまう気がしたから。
リュウジは一瞬だけ目を細めた。
マスクの奥で、苦笑いしたように見える。
「……分かった」
その返事に、ルナは胸の奥が少しほどけた。
メノリが寝室の入り口で、皆に指示する。
「換気は続ける。咳が出るなら加湿も必要だ。ベル、飲み物を頼む。シンゴ、皿とスプーンの準備。ハワードは……」
「僕は!?」
「邪魔しない」
「ひどい!」
ハワードが抗議するが、メノリの視線ひとつで黙った。
緊張を少しだけ和らげるようなやりとりに、ルナは小さく息を吐く。
シャアラが温かいお粥を小さな器に盛り、ルナに渡した。
ベルが白湯を用意し、シンゴがスプーンを差し出す。
ルナは器を持って、ベッドの横に座った。
「ほら、少しずつでいいから」
リュウジは上体を起こそうとして、ふらりとした。
ルナがすぐに背中に手を当てる。
「無理しない。ゆっくり」
「……ああ」
リュウジはスプーンで一口、口に運んだ。
ほんの少しの量なのに、飲み込むのに時間がかかる。
「熱い?」
「……ちょうどいい」
リュウジの声はまだ弱い。
それでも、食べてくれるだけでありがたい。
数口食べたところで、メノリが薬袋を確認しながら言う。
「食べられたら、薬飲め。抗生剤は忘れるな」
「分かってる」
いつものリュウジなら、そう言って平気そうに見せたのだろう。
でも今の返事は、ただの“確認”みたいだった。
頼りなさが、逆にリアルだった。
ルナが白湯を差し出す。
「飲んで」
リュウジは白湯を受け取り、少しずつ飲む。
その手が、いつもより熱い。
そして薬を飲み、リュウジは再び枕に顔を沈めた。
薬が効き始めたのか、呼吸が少しだけ落ち着く。
咳の回数も減った。
ルナは布団を整え、肩が冷えないように掛け直した。
その動作が自然にできてしまうのが、自分でも不思議だった。
サヴァイヴの時、仲間の体調を気にしながら支え合った日々が、こういう場面で身体に染みついている。
しばらくして、リュウジの呼吸が一定になった。
眠ったのだ。
その瞬間、部屋の空気がふっと緩む。
「……よし」
メノリが小さく頷く。
「一安心だな」
カオルが言い、ベルが胸に手を当てて息を吐いた。
「眠れてよかった……」
「ほんとだよ!」
シンゴもようやく肩の力を抜く。
「さっきの弱々しいリュウジ、レアすぎて逆に怖かった」
ハワードが小声で言い、シャアラが「それ言わないの」と目で叱った。
メノリが時計を見て言う。
「今日はもう帰る。各自、帰ったらうがい手洗い」
「うん」
「分かった」
皆が頷き、荷物をまとめ始める。
ルナは立ち上がり、みんなに向き直った。
心からの感謝が溢れる。
「ありがとう、みんな。本当に……」
「礼はいい」
メノリが短く言って、でも目だけは柔らかかった。
「何かあったらすぐ連絡して」
シャアラが言う。
「僕も来れる!」
シンゴが張り切ると、カオルが「今日は帰れ」と背中を押した。
「じゃあ僕は、リュウジが復活したら説教してやるからな!」
ハワードが最後に言うと、ルナは思わず笑ってしまった。
「うん、お願いね」
ルナが笑うと、ハワードは満足げに頷いて出ていった。
玄関で靴音が遠ざかり、部屋が静かになる。
換気のために少し開けた窓から、冷たい夜気が入り、カーテンがわずかに揺れた。
ルナは寝室へ戻り、ベッドの横にそっと座った。
リュウジは眠っている。
額の汗は少し引いたように見えるが、頬の赤みはまだ残っている。
(……よかった)
ルナは胸の奥で呟いた。
そして、決めた。
今日は帰らない。
看病として、残る。
念のため、チャコにも連絡しなきゃいけない。
でも今は、リュウジの側を離れたくない。
「シンゴがチャコに伝えてくれるって言ってたし……大丈夫だよね」
ルナは小さく自分に言い聞かせ、椅子をベッドの近くに寄せた。
そこに座って、静かにリュウジの呼吸を見守る。
無病息災のお守りの小さな紙袋が、ルナのポケットの中でまだ残っている。
今日渡すつもりだった。
でも今は、ただ――
(早く治って)
そう願うだけで、十分だった。
ーーーー
夜中。
部屋の明かりは落ちていて、カーテンの隙間から街灯の薄い光だけが床に細い線を引いていた。暖房の風が小さく唸り、加湿器の水が時折、ちいさく鳴る。
静けさの中にあるのは、規則的な呼吸と、時計の針が刻む音だけ――。
その呼吸が、ほんの少し乱れた。
リュウジはゆっくりと目を開けた。
まぶたが重い。頭の奥がまだ熱を抱えているように鈍く痛む。けれど、さっきまでの“燃えるような熱さ”は薄れていた。
薬が効いているのだろう。身体は怠いが、少しだけ世界がはっきりして見える。
(……夜か)
喉が乾いている。
咳が喉の奥にひっかかって、唾を飲み込むだけでも少し痛む。
寝返りを打とうとして、肩に掛けられた毛布の重みを感じた。
その時、近くから小さな声がした。
「……起きた?」
ルナだった。
ベッド脇の椅子に座ったまま、ルナは毛布の上から顔を覗き込んでいた。
髪は少し乱れていて、薄いカーディガンの袖口から指先が覗く。
眠気で目がとろんとしているのに、その瞳はちゃんとリュウジを捉えている。
リュウジは一瞬、言葉が出なかった。
夜中に目を覚ましたのはいい。だが――ルナがまだここにいることが、意外だった。
「ああ……」
掠れた声で返事をしようとして、咳が出る。
「っ、ゴホ……」
ルナがすぐに身を乗り出し、テーブルの上の白湯を手に取った。
「無理して喋らないで。飲む?」
「……ああ」
ルナがコップを支え、リュウジは少しずつ口をつけた。
温かい水が喉を通り、乾きが少しだけ和らぐ。
リュウジは、ぼんやりした頭のまま、ルナの顔を見た。
寝起きの自分の視界の中心に、ルナがいる――その事実が、妙に現実感を持たない。
「……まだ居てくれたのか?」
声は小さかった。
責めるような言い方ではない。
ただ、驚きと、ほんの少しの照れが混ざっていた。
ルナはふわっと笑った。
眠そうなのに、優しい笑い方だ。
「うん。心配だったから」
その言葉が、胸の奥にゆっくり染み込んでいく。
風邪で弱っているせいか、普段なら流してしまうような言葉が、やけに重く感じた。
「……明日も学校だろ」
リュウジは天井を見上げるように言った。
自分のせいでルナが寝不足になるのは、嫌だった。
「家まで送ってやる」
言いながら、リュウジは上体を起こそうとした。
意地でもなく、責任感でもなく、ただ“そうするのが普通”だと思って。
だが、身体が思うように動かない。頭がふわりと揺れる。
「ちょっ……」
ルナが慌てて片手を伸ばした。
リュウジの肩を押し、布団の上に戻す。
「私は大丈夫だから」
ルナの声は、いつもより少しだけ強い。
「今は大人しく寝てて」
ルナは起き上がろうとするリュウジを、丁寧に“沈めた”。
布団を肩まで掛け直し、枕の位置も直す。
まるで子どもを寝かしつけるみたいな手つきだった。
「……お前」
リュウジは言いかけて、また咳が出そうになり、喉の奥で言葉を止めた。
代わりに、小さく息を吐く。
「……強いな」
それは、褒め言葉なのか、呆れなのか。
リュウジ自身にもよく分からなかった。
「強いんじゃないよ」
ルナは小さく首を振った。
「……怖かったの」
ルナの声は、今度は少しだけ震えていた。
「リュウジが、あんなに弱ってるの初めて見た。……熱、三十九度って言った時、胸がぎゅってなった」
ルナは言いながら、自分の胸元を押さえる。
その仕草が、妙にリアルで、リュウジは視線を逸らした。
「……大丈夫だ」
リュウジはいつもの癖で言いかけた。
だが、その言葉は途中で止まる。
今日、医者に怒られたのを思い出した。
そして、ルナが「怖かった」と言ったことを、ちゃんと受け止めなきゃいけない気がした。
「……大丈夫、にする」
リュウジは言い直した。
ルナは、その言い方の違いに気づいたのだろう。
ふっと目を細めて、安心したように笑った。
「うん。大丈夫にして」
ルナの声は柔らかい。
だけど、命令みたいにも聞こえた。
リュウジは苦笑いを浮かべた。
「……分かった」
沈黙が落ちる。
夜の静けさが戻ってきて、加湿器の小さな音だけが耳に残る。
ルナはベッドの横にある椅子に座り直し、毛布を膝に掛けた。
その毛布も、さっきリュウジの上に掛けられていたものと同じ柄だ。
リュウジはぼんやり思う。――この毛布、誰が用意したんだろう。メノリか、シャアラか。
いや、今はそれより――。
「……眠いだろ」
リュウジが小声で言う。
「眠い」
ルナは素直に言って、少し笑った。
「でも、目が覚めちゃったから」
「……帰れ」
リュウジは強く言えない。
言ったところで、ルナは帰らない気がした。
「帰らないよ」
案の定、ルナは即答した。
「だって、また咳がひどくなったら心配だもん」
「……俺、子ども扱いされてる?」
「されてるね」
ルナが悪戯っぽく笑う。
その笑顔が、夜の薄暗い部屋の中でやけに明るく見えた。
リュウジは、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
熱で弱っているはずなのに、ルナがいるだけで安心してしまう。
それが悔しいような、嬉しいような。
「……すまないな」
リュウジが小さく言うと、ルナは少しだけ顔をしかめる。
「またそれ。謝らないで」
「……じゃあ、ありがとう」
言い直すと、ルナの表情が柔らかくなる。
「うん」
短い返事。
それだけで、充分だった。
ルナは立ち上がり、テーブルの上の体温計と薬の袋を確認する。
時計を見る。夜中の時間帯。
ルナは眠気をこらえるように目をこすり、またベッドの横に戻った。
「水、もう少し飲む?」
「……大丈夫」
「じゃあ、また寝て。私、ここにいるから」
リュウジは小さく頷く。
目を閉じると、布団の温かさがじわりと身体に広がる。
眠りに落ちる直前、リュウジはふと思った。
サヴァイヴの時。
夜の見張りで交代しながら、誰かが眠っているのを確かめて、また目を閉じた。
あの頃は、生きるためだった。
今は――生きているからこそ、こうして誰かが側にいてくれる。
目を閉じたまま、リュウジはかすれた声で呟く。
「……ルナ」
「なに?」
すぐ返事が返ってくる。
その近さに、胸が少しだけ熱くなる。
「……助かった」
それだけ言って、リュウジは意識を手放した。
ルナは小さく「うん」と返し、静かにリュウジの寝息を聞きながら、自分もまぶたを重くしていく。
冬の夜は長い。
けれど、今日は不思議と怖くなかった。
静かな部屋の中で、二人の呼吸が同じリズムになっていった。
ーーーー
朝。
カーテンの隙間から差し込む冬の光が、部屋の床に細い帯を作っていた。暖房の空気はほんのり温かいのに、窓際だけはやっぱり冷える。
キッチンの方からは、昨夜シャアラが作ってくれたお粥の匂いがまだ微かに残っていた。
ルナは玄関で靴を履き直し、最後にもう一度、部屋の奥――寝室の方を気にするように振り返った。
そして、玄関のドアの前に立っているリュウジに向き直る。
「それじゃあ行ってくるから、大人しく寝ててよ!」
言い方は強い。
でも声の端に、はっきり心配が滲んでいる。
「ああ」
リュウジは短く頷いた。
マスクはしていないが、顔色はまだ悪く、頬にほんのり熱の赤みが残っている。昨夜よりは咳は落ち着いたものの、目の奥にだるさが残っていた。
「起きてこなくていいのに」
ルナが眉を寄せて言う。
玄関まで来ただけで、体力を使ってしまうのが分かるからだ。
「……一応」
リュウジは言いかけて、咳をこらえるように喉を鳴らした。
たぶん“見送り”という形だけでもしておきたかったのだろう。
ルナはその癖を知っているから、ため息をつきながらも、少しだけ頬を緩めた。
「後、お粥作ってあるからちゃんと食べて、薬飲むのよ」
ルナは念を押す。
まるで、言い聞かせる相手が小さな子どもみたいに。
「分かってる」
リュウジはぶっきらぼうに返すが、反抗の響きはない。
昨日の医師の言葉が効いているのか、あるいはルナの本気が伝わっているのか。
「それじゃあ、夕方に来るから、何かあったら連絡してね」
ルナは最後にそう言い、ドアノブに手をかけた。
「行ってらっしゃい」
リュウジの声はまだかすれている。
でも、その一言が妙に真面目で、ルナの胸の奥がふっと温かくなった。
「……うん。行ってきます」
ルナはそう返して、玄関の外に出た。
扉が閉まる音が静かに響き、足音が廊下の向こうに遠ざかっていく。
リュウジはしばらく、その閉まった扉を見つめていた。
そして小さく息を吐き、ゆっくり寝室へ戻る。
(……夕方に来る、か)
不思議だ。
それだけの言葉なのに、少しだけ安心した。
ベッドに戻り、布団に潜り込む。
身体はまだ重い。けれど昨夜よりは呼吸が楽だ。
薬が効いているのだろう。
眠気が押し寄せ、まぶたが落ちる。
――そして、もう一度眠った。
◇ ◇ ◇
次に目を開けた時、部屋の光は朝のそれとは違っていた。
窓から入る陽が高く、床の光の帯が短くなっている。時計を見ると、お昼近い時間。
(……寝すぎたな)
起き上がろうとすると、頭がふわりと揺れた。
熱が引ききっていない証拠だ。
その時。
キッチンの方から、かすかな音が聞こえた。
カチャ。
鍋の蓋が当たる音。
水の流れる音。
誰かが器を置く音。
(……ルナ? いや、学校だって言ってた)
リュウジは布団の中で少し考え、眉を寄せた。
泥棒――という線は薄い。鍵は閉めているし、このアパートのセキュリティも悪くない。
それに、音がやけに“生活の音”だった。
リュウジはゆっくり布団をはねのけ、冷えた床に足をつける。
軽く眩暈がしたが、壁に手をついて耐えた。
寝室のドアを少し開け、廊下を覗く。
キッチンの方から、声がした。
「起きたの? 今、雑炊を持って行ってあげるから待ってて」
その声は、聞き覚えがありすぎた。
リュウジの目が見開かれる。
「……エリンさん!? どうしてここに?」
驚きで声が少し大きくなり、すぐに咳が出そうになった。
リュウジは喉を押さえ、息を整える。
キッチンからエリンが姿を現した。
緑色の長い髪を後ろでまとめ、エプロン姿。いつもの“仕事のエリン”とは違い、柔らかい笑みを浮かべている。
両手にはトレイ。湯気の立つ雑炊が器に盛られ、隣には白湯と薬袋まで並んでいた。
「チャコから連絡もらったの。今日は非番だったしね」
エリンはさらりと言い、トレイを持ったまま寝室へ近づく。
「どうやって中に……?」
「合鍵はもらってないから、管理会社に連絡したわよ。緊急時の対応ってことで」
当然のように言う。
その行動力と段取りに、リュウジは返す言葉を失った。
「……相変わらず手際、良すぎません?」
「でしょ?」
エリンは悪戯っぽく笑い、トレイをベッドの横のテーブルに置いた。
雑炊の匂いが広がる。米の柔らかい香り、卵の甘い匂い、生姜のほんのりした刺激。
「ほら、食べなさい」
エリンは椅子に座り、スプーンを取った。
そして、にこっと笑う。
「はい、あーん」
「……」
リュウジは一瞬固まった。
その後、即座に顔を背ける。
「自分で食べます」
声は小さく、しかしはっきり断った。
エリンはフフッと笑った。
笑い方が、優しい。
「そう言うと思った」
エリンはスプーンを器の横に置き、今度はリュウジの額に手を当てた。
指先が冷たくて、逆に心地いい。
「……まだ高いわね」
エリンが小さく呟く。
その声のトーンが、仕事の時みたいに落ち着いているのに、どこか心配が混ざっている。
リュウジは苦笑いを浮かべた。
「ルナに言われて、寝てたんですけど」
「うん、偉い偉い」
エリンは子どもを褒めるみたいに言って、手を離した。
「でも、偉いだけじゃ足りない。ちゃんと食べて、ちゃんと飲んで、ちゃんと寝る。あと、無理に動かない。……分かる?」
「……分かります」
リュウジが頷くと、エリンは満足そうに微笑んだ。
「よし。じゃあ食べて」
リュウジは器を見つめ、スプーンを取った。
雑炊を一口。熱さはちょうどいい。喉に優しく落ちていく。
胃がじんわり温まる感覚が、身体の奥に広がる。
「……美味い」
思わず漏れた言葉に、エリンは目を細めた。
「でしょ。栄養と水分と塩分。風邪の基本よ」
エリンはトレイの白湯を指で示す。
「食べたら、それで薬。順番も守る」
「ルナと同じこと言いますね」
リュウジがぼそっと言うと、エリンは肩をすくめた。
「当然。ルナ、よく見てるもの」
その一言が、リュウジの胸に小さく刺さった。
ルナが心配してくれていたことを、改めて突きつけられる。
リュウジは雑炊をもう一口食べ、少しだけ眉を寄せた。
「……ルナ、学校行ったんですよね。あいつ、寝不足じゃないですか」
「さあ? でも、ルナは強いわよ」
エリンは穏やかに言う。
「それにね。心配だから側にいたい、って気持ちは、誰にも止められないの」
その言い方が、妙に意味深で。
リュウジはスプーンを止めて、エリンを見た。
「……何言ってるんですか」
「別に」
エリンはさらりと笑い、立ち上がった。
「食べ終わったら呼んで。薬、確認する」
「……はい」
リュウジはまた雑炊を口に運ぶ。
熱の残る身体に、ゆっくりと力が戻る感覚があった。
エリンはキッチンの方へ戻りながら、振り返って言った。
「起き上がったりとか、変なこと考えないでね」
リュウジは目を逸らし、ぼそっと答える。
「……考えてません」
「嘘」
エリンの即答に、リュウジは返す言葉がなかった。
部屋の中には、雑炊の湯気と、冬の日差し。
そして、誰かが側にいるという安心感が、静かに満ちていた。
ーーーー
雑炊を半分ほど食べたところで、リュウジの動きが少しだけ止まった。
胃が温まってきたせいか、まぶたが重そうに落ちてくる。熱のだるさがまだ残っているのだろう。
それでも、スプーンを握る手は離さず、最後までちゃんと食べきった。
「……ごちそうさま」
掠れた声。
いつものぶっきらぼうさは残っているが、どこか素直で、弱っている分だけ言葉が丸い。
エリンは満足そうに頷いた。
「はい、よくできました」
「子ども扱いしないでください」
「してない。看病は看病。じゃあ、次は薬」
エリンはトレイを受け取り、立ち上がる。
器の底に残った雑炊の湯気が、ほのかに白く立ち上った。
「先に言っておくけど、薬は“後で”じゃないからね」
「……分かってます」
「本当に?」
エリンが疑うように目を細めると、リュウジは視線を逸らした。
「……分かってます」
「よし」
エリンはトレイを持ってキッチンへ運び、手際よくシンクに器を置いた。
次に、白湯を新しく注ぎ直し、薬袋を確認する。
抗生剤、解熱剤、咳止め――飲み合わせとタイミングを、ルナやメノリと同じように頭の中で整理しているのが見える。
「リュウジ、ちゃんと飲みなよ」
キッチンから声が飛ぶ。
「……はい」
リュウジはベッドの上で上体を起こし、薬を受け取り、白湯でゆっくり飲み下した。
喉が痛むのか、一瞬だけ眉を寄せる。
それを見て、エリンはすぐに言った。
「痛い?」
「……少し」
「じゃあ、刺激物はなし。冷たいものもなし。喉が落ち着くまでね」
「……はいはい」
返事はぶっきらぼうなのに、反抗の響きはない。
むしろ、従うのが当たり前になっている。
エリンはそれを確認すると、すぐにシンクに向かい、洗い物を始めた。
水の音が静かな部屋に響き、スポンジが器を擦る音が規則的に続く。
まるで、ここが病人の部屋ではなく、普通の暮らしの一場面みたいに落ち着いた音だった。
リュウジはベッドに戻り、枕に頭を沈める。
薬のせいか、胃が温まったせいか、眠気がまた押し寄せてきた。
視界の端で、エリンの背中が動いている。
(……助かるな)
そう思ったところで、意識が少しずつ沈んでいった。
エリンが洗い物を終え、手を拭いてから寝室を覗いた時には、リュウジはもう眠っていた。
呼吸は浅いが、乱れてはいない。
額の汗も、さっきより引いている。
エリンはドア枠に軽く手を置き、唇の端を上げた。
「……ふふ」
クスッと笑みを浮かべ、声に出さないまま、そっと頷く。
「寝るのが一番」
それだけを心の中で言い、エリンは静かに部屋を出た。
玄関で靴を履き、鍵を閉め、最後にもう一度だけ振り返る。
「ルナが来たら、安心するでしょうね」
独り言のように呟いて、エリンは帰っていった。
◇ ◇ ◇
夕方。
外の空が茜色に染まり、窓のガラスが薄く冷えていく頃――玄関の鍵が回った。
「……リュウジ?」
ルナの声が、部屋に入ってくる。
手には果物の入った袋。リンゴとみかん、それに喉に優しいゼリー飲料も混ざっている。
ルナはコートを脱ぎ、すぐに寝室へ向かった。
ドアをそっと開けると、リュウジは起きていた。
枕にもたれるように上体を起こし、ぼんやりと天井を見ている。
顔色はまだ万全ではない。
けれど、頬の赤みは薄くなり、目の焦点も昨日よりはしっかりしている。
「……どう?」
ルナが近づき、手の甲でそっと額に触れる。
熱は――まだ少しあるが、昨日ほどではない。
ルナは胸の奥で固まっていたものが、ふっと溶けるのを感じた。
「下がってる……よかった」
ルナの声が、安堵で柔らかくなる。
「……少しな」
リュウジは掠れた声で答えた。
「ちゃんと食べた?」
「……食べた」
「薬は?」
「……飲んだ」
その二つの返事が揃っただけで、ルナは思わず笑ってしまった。
それは嬉しさと、安心と、少しの呆れが混ざった笑いだ。
「えらい」
「言うな」
リュウジが短く返す。
そのやりとりが、いつもの二人に少し戻った気がして、ルナはまたほっとした。
ルナは椅子に座り、果物の袋をテーブルに置いた。
「果物、持ってきたの。あとゼリーも。喉、まだ痛いでしょ」
「……助かる」
リュウジの返事は短いが、昨日よりはしっかりしている。
ルナは少し迷うようにポケットを探り、そして――小さな紙袋を取り出した。
無病息災のお守り。
ずっと持っていた。
渡すタイミングを逃して、今日になってしまった。
ルナは紙袋を両手で持ち、ベッドの上のリュウジに差し出す。
「……遅くなったけど」
リュウジが紙袋を見る。
目が少しだけ細くなる。
何か察したような顔だった。
「……これ」
「無病息災のお守り」
ルナは少し照れくさそうに笑う。
「初詣の時に買ったの。渡そうと思ってたのに、忘れちゃって」
リュウジは受け取り、紙袋を軽く持ち上げる。
「……今さら?」
からかうような口調。
でも、その奥に柔らかさがある。
「今さらじゃないよ。……ちゃんと渡したかったの」
ルナは素直に言ってしまい、言った瞬間に頬が熱くなる。
誤魔化すように、ルナはすぐに笑って続けた。
「初詣で貰ってれば、風邪も引かなかったのにな」
冗談めかした声。
ルナは肩をすくめるようにして、いたずらっぽく首を傾げた。
「……どうかしら?」
リュウジは一瞬だけ黙った。
紙袋の中のお守りを指先で確かめるように触れてから、マスクもしていない口元が、ほんのわずかに緩む。
「……それは、どうだろうな」
リュウジの声は小さい。
でも、いつもの“突き放す短さ”ではなく、ちゃんと受け取った短さだった。
ルナはその返事だけで、胸の奥がじんわり温かくなった。
「でも、効くかもしれないでしょ。これからは」
「……ああ」
リュウジはお守りを枕元にそっと置いた。
大切に扱うような仕草だった。
それを見たルナは、また少しだけ笑った。
(今日はここに来れて良かった)
ルナは果物の袋を開け、みかんを一つ手に取る。
「食べる? 剥いてあげようか?」
「……自分でできる」
「病人は黙って寝てる」
「命令するな」
「する」
ルナが即答すると、リュウジは小さくため息をついて、でも抵抗しなかった。
夕暮れの光が窓の端を赤く染め、部屋の中は穏やかな静けさに包まれる。
熱が引き始めた病人と、そばにいる看病役。
サヴァイヴの時みたいに、ただ生きるためじゃなく――今は、ちゃんと“日常”として一緒にいる。
ルナはみかんの皮を剥きながら、心の中でそっと願った。
(もう、無理しないで)
枕元のお守りが、夕方の光を受けて小さく揺れた。